瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 高松市の歴史

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」

前々回に髙松平野周辺での伊勢御師の「布教活動」を冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」で見ました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それが約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の檀那(道者)の家に出向いて、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。前々回は、その檀那廻りの霞(テリトリー)やルートを見ましたが、今回は別の視点で追ってみようと思います。テキストは、「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

 伊勢の御師の来る季節 : 江戸・東京ときどきロンドン
檀那宅を訪ねる伊勢御師(江戸時代 戦国時代は山伏姿だった)

 旦那の中に、姓を持つ者や寺社がかなりあります。

ここからは、伊勢御師の布教活動が村落内の有力者から進められ、周辺の人間へと進められたことがうかがえます。伊勢御師の布教活動が、まずは戦国大名などを檀家にして、そこを梃子にして家臣団に広げ、さらにその領地の有力者に信者を獲得するというやり方がとられているようです。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂

表1に、御祓大麻(大麻祓おおはらいたいま)の欄があります。
伊勢御師 伊勢お札
伊勢神社の御祓大麻
御祓大麻は伊勢神宮が特別な檀那に配布した大きな御札です。その大麻の中で最大級なのが「一万度御祓大麻」です。 御祓大麻の欄に●印がついているのは30名で、全体の1割程度にしか過ぎません。彼らが特別に重要な人物であったことが分かります。 御祓大麻を配布されているのは、野原中黒里の談議所(無量寿院)を、別にすると姓を持つ者がほとんどで地域の小領主層のようです。このことからも、伊勢御師の布教活動が地域有力者から始まったという見方が裏付けられます。
伊勢御師 伊勢参宮名所図会
伊勢御師の邸宅 全国からの檀那を迎え入れた宿でもあった。

今までの伊勢御師・岡田太夫の活動をまとめておきます。
①岡田太夫の霞は、海岸線沿いの港湾集落に重要エリアが集中している
②岡田太夫の布教活動は、地域の小領主層を檀那化することから始められ、その周辺部の人々に及んでいた。
伊勢御師 と檀那

船で野原中黒里にやってきた岡田太夫は、檀那である「正藤助五郎殿」の家に宿泊しています。そして、ここを拠点に以下の野原郷の檀那62軒の家をめぐっているようです。

「野原中黒(12人) → 野原浜(14人)→ 西浜(1人) → 野原天満(6人) → 野原中ノ村(12人)」

その中には、石清尾八幡官の神官や野原庄の庄官、さらに香西氏配下の小領主たちもいます。これを一日で全て廻ることはできません。野原郷内の移動経路は中黒をスタートして、時計と反対回りに訪問し、夕方が来たら中黒の「正藤助五郎殿」の館に帰って来るという「拠点方式」で行われたと研究者は推測します。それを2~3日でおえたのでしょう。
伊勢御師 檀那廻りルート

 記録で次の宿となっているのは鮎滝の手前の井原里です。
ここでの宿は、冠櫻神社(香南町)の祭礼で番頭を務めた友則宅に入っています。記録には日時が記入されていないので、いつのことか分かりません。また、野原郷での檀那訪問が何日かかったのかも分かりません。
 中黒から井原里までは、14km(三里半)程度なので、歩き慣れた伊勢御師(修験者)であれば2時間半程度で到達できる距離かもしれません。しかし、それでは檀那廻りの「営業」にはなりません。途中の村落に立ち寄って、101名の旦那に土産を配り、それぞれ異なる量(額)と形態の初穂料を徴収しなければなりません。さらに三ケ所では、地元代行者に扇150本と10本を渡す、という営業マン顔負けの業務をこなすことが求められています。そして、用件だけを終わらせて、「はい それではさようなら」では済みません。一年ぶりの再開ですから心をつなぎ止めるための挨拶や情報交換なども欠かせません。一日に20軒としても5日はかかると思われます。
 岡田大夫自身は、馬に乗って行程をこなした可能性もあります。
しかし、多量の伊勢土産を持参し、またそれと引き換えた初穂を運ぶためには駄馬(荷駄)がいります。その馬子は、当然徒歩です。それほどのスピード・アップは望めたとは思えません。こんな調子で伊勢御師のお札配布と初穂料集金の旅は行われたとすれば、かなりの日数がかかったことになります。これに対して研究者は、全ての檀家をめぐっていたのではない可能性を次のように指摘します。
  ・旦那を一軒ずつ訪ね歩いたのか
  ・ある程度まとまった集団と、どこかで落ち合ったのか。
井原里を例で考えると、横井甚助・甚大夫(高松市香南町大字横井)や見藤太郎左衛門(同町大字由佐字見藤)の屋敷をそれぞれ訪れたのか、それとも「公共の場」である冠尾八幡宮(現・冠櫻神社)で、落ち合ったのか、ということです。
冠纓神社 御朱印 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
冠櫻神社(旧冠尾八幡宮)

井原里の檀那のうちの、有姓者(横井・見藤・友則)は、15~16世紀の放生会の番頭として名前が記された一族で、冠尾八幡との繋がりが深い上層住民だったことが分かります。また、「惣官殿」も、冠尾八幡宮との関係か想定されます。井原里にやってきた岡田太夫は冠尾八幡宮に入り、そこに集まってきた檀那衆に伊勢札を配り、初穂を集め、旦那の新規獲得のために八幡宮に扇70本を残して、その日のうちに、宿とした友則宅に入ったことも考えられます。そうだとすると、村の神社は地域の対外的な窓口としての機能を果たしていたことにもなります。
岡田大夫が余分に扇を託した相手は、14件全てが「地下」か「地下中」、「寺中」と記されています。
大熊里では松工、国分里では法橋の項に、次のように記されています。
「あふき(扇)計 此方より数あふき十本余候 御はつあつめ申候余候」

ここからは村落内の有力旦那が代行して扇を配り、初穂を集めることを行っていることが分かります。彼らは布教活動の協力者とも云える存在です。その協力者によっても、新しい檀那が獲得されていたことがうかがえます。

記録には、岡田太夫が次のような檀那の家を宿所にしたと記されています。
①六万寺(牟礼里)のような地域の有力寺院、
②正藤助五郎(野原中黒里)、岡野七郎衛門(上林里)、川渕二郎太郎(庵治里)、おく久兵衛門(原里)のような有姓の武士身分と見られる者の家
③地域の神社祭礼で番頭を務めた友則(井原里)
④門前の職人である研屋与三左衛門(志度里)
⑤海運や漁掛に関わると推測される九郎左衛門(乃生嶋里)
③④⑤は、地域の上層住民と見られる者です。ここからは伊勢御師が宿としたのは、檀家の中の有力寺院か、武士身分、上層住民の3つに分類できそうです。このうちでは7人が沿岸部の港町に住んでいます。残りの5人も阿波への峠越えの沿線(井原里・岩部里)、古・高松湾に注ぐ河川の河口近く(上林里・下林里・六条里)などに家があったようです。ここから研究者は、次のように推察します。

「宿所は、陸上・海上交通の要衝に位置する地域に宿が選択されている」

 各地の檀那から集められた初穂(銭・米・豆・綿など)は膨大な量に上ります。これを運びながら次の宿所まで移動することは避けたいところです。できれば旅の最終日に、旅先のホテルから宅急便でボストンバックを家に送るように。初穂料を送りたいものです。宿所提供者の家が何らかの形で運輸業(廻船・馬借など)に携わる稼業であったのではないかと研究者は推測します。
第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

記録の中には「あんない(案内)」が次の5名登場します。
野原中ノ村の彦衛門、
坂田土居里の二郎左衛門、
漆谷里の新兵衛、
牟礼里の六万寺式部、
志度ノ里寺中の華厳坊、
彼らは大麻配布の対象者ではありませんが、六万寺式部や華厳坊のように村落・寺中内のトップクラスの有力者が含まれています。
六萬寺<香川県高松市> | 源平史蹟の手引き
六萬寺(牟礼町)
「案内」については、研究者は次の二つが考えられます。
①現地の行程の案内者、
②伊勢参宮の案内者すなわち先達、
野原西浜の官内殿の項に、次のように記されています。
「ミの年にて候、年々米二十つゝ賜にて候」

ここからは、岡田大夫は少なくとも巳の年、すなわち丁巳=弘治三年(1557)以来、毎年讃岐の縄張りを廻っていることが推測されます。そのため、讃岐の行程についてはよく分かっていたと考えられ、ことさらに現地での道案内を必要としたとは思えません。とすれば、案内者とされる旦那は、伊勢への先達(②)の可能性が高いと研究者は考え、次のように指摘します。
「伊勢参宮には先達が原則として存在しない」とされている。しかし、慶長四年(1599)請取の熊野の「廓之坊諸国旦那帳」(熊野那智大社文書)には、先達の名が見え、伊勢よりも早く盛行を見た熊野参詣では、先達の引率で参詣を行う形が16世紀後半まで残っていたことが読み取れる。実質的な先達としての役割を果たした現地の旦那を伊勢参詣においても想定することは、十分あり得ることである。
 つまり「案内」は、伊勢詣での先達を勤める者達だったというのです。そうだとすれば、漆谷里の新兵衛には「案内者として地下中へ扇十五本入中候」と記されています。ここからは新たな檀那獲得のための布教活動が地元の「先達」によっても行われていたことが分かります。

伊勢御師 伊勢参りの先達
伊勢詣と先達(江戸時代)

以上から、檀那の中に次のような稼業にかかわる人たちもいたようです。
①新規の檀那獲得の地元代行者
②伊勢詣での先達
③初穂の輸送も担う宿の提供者
以上のような実務的な協力者が檀那の中にはいたようです。
まとめておくと次のようになります
①讃岐にやって来た伊勢御師は、有力な檀家たちの支援協力を受けて初穂料集金を行っていた
②宿としたのは運送業(廻船・馬借)にかかわる檀那たちで、お土産品や初穂料輸送などを支援した。
③伊勢御師は一軒一軒を訪問するのではなく、有力檀家たちの協力を受けて配布や集金を依頼することも行っていた。
④檀那の中には「あんない」と記されたものがいるが、これは伊勢詣での先達を務める者達で、伊勢御師の支援協力者でもあった。
⑤有力檀家の伊勢参りの際には、伊勢御師が手配や供応をおこない、両者の間には密接な人間関係が築かれていた。そのため初穂料集金に対しても檀那たちは協力的であった。

伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師
伊勢詣での檀那たちを向かえる伊勢御師

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   佐藤竜馬  伊勢御師が見た讃岐
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 伊勢御師1
檀那宅を土産を持って訪れる伊勢御師 (江戸時代)
 戦国時代の16世紀になると多くの伊勢御師が全国各地を訪れ、人々を伊勢参詣ヘと誘うようになります。讃岐にも伊勢御師がやってきて、勧誘活動を行っていたようです。

伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア

それが分かるのが、冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」です。
この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それから約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。これを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」
「さぬきの道者一円日記」は、次のような体裁になっています。
①一 さぬき 野原  なかくろ(中黒)里  一円
     数あふき  百五十本入申候
②正藤助五郎殿  やと(宿)③おひ(帯)あふき(扇)米二斗
是 藤 殿      おひ あふき のし(熨)斗本   代三百文
     小刀                同百文
六郎兵衛殿    おひ あふき        米二斗
助左衛門殿       同                    米二斗
ここには次のような項目が記されています。
①地域名         ここでは野原中黒里
②人物(寺社)名     旦那名
③御祓大麻配布の有無と伊勢土産の種類
④代価(初穂料)、
の順で整然と記されていて、日記というよりも帳簿に近い印象を受けます。土産の品目は、帯上崩・小刀などの衣類や器物、焚斗(焚斗飽)・鶏冠(鶏冠莱)などの海産物が中心です。土産は「御師が旦那に配布する、という行為自体が重要であり、それが初穂徴収という枠組みを保証している」と研究者は考えています。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂
「さぬきの道者一円日記」 野原周辺の檀那リスト

 上表からは野原中黒里に12名(坊)の旦那がいて、そこに伊勢土産の帯や扇を持って廻ったことが分かります。野原中黒里から記述が始まるので、岡田大夫が最初に上陸したのは、野原中黒里と研究者は考えています。
伊勢御師 野原目黒
華下天満宮(高松市片原町) 中黒里

 中黒里は、華下天満宮(高松市片原町)の古名「中黒天満官」にその名残りがあります。
中世の中黒里は、中世復元図によると旧香東川の河口の中洲で、「八輪島=八幡島(ヤワタジマ)」と呼ばれる聖地でもあったようです。その北側に中世の野原湊はあり、活発な海上交易活動が展開されていたことが発掘調査から分かっています。

野原・高松・屋島復元地形図jpg

旧香東川河口の中洲にあった野原中黒里

そういう意味では、中黒里は髙松平野で最も活発な活動を行っていた港の背後にあった集落になります。畿内と行き来する廻船も数多く出入りし、梶取りや海上交易業者なども数多く生活する「港湾都市」的な性格をもっていたようです。
野原の港 イラスト
中世野原湊の景観復元図

伊勢御師の岡田太夫は、畿内から船でやって来て、野原湊に上陸し、ここを起点に讃岐の旦那衆を巡ったのでしょう。「正藤助五郎殿  やと(宿) おひ(帯)あふき(扇)米二斗」とあるので、正藤助五郎の家を宿としたことが分かります。

伊勢御師 野原復元図2
中世野原周辺の復元図 無量寿院(談義所)があった

 中黒里の旦那の中には「談義所」と記されています。これは讃岐七談義所として有力寺院であった無量寿院のことです。周辺にもいくつもの坊があり、そこに住む僧侶(修験者?)たちは、伊勢信者でもあったようです。当時は神仏混淆で、僧侶というよりも修験者たちで神仏両刀使いだったのです。
   野原・高松復元図カラー
中世野原の景観復元図
岡田太夫は、次のようなルートで旦那の家を廻っています。
①野原郷内を巡り、坂出上居里・円座里・岡本里・井原里と高松平野を南下
②阿讃山脈に近い鮎滝・安原山・岩部里・塩江・杵野・内場といった山間部を巡回
③そこで反転して下谷・川内原・植田里などの丘陵地帯を抜け、
④高松平野中央部の下林里・山良里・由良池の内・下林里・大田里・松縄里を北上
⑤現在よりも内陸側へ大きく湾入していた古・高松湾沿いの今里・木太西村里に出る。
⑥内湾する海岸沿いに東行し、高松里周辺を巡回
⑦その後、狭い海峡を渡り屋島の方本里・西方本を訪れ
⑧再び高松里に戻り牟礼里・庵治里・馬治・鎌野里。原里と庵治半島を時計回りに巡り、志度ノ里に至る。
⑨さらに門前の志度ノ里寺中から南下して西沢里・造円里・宮西里・井戸里に至り
⑩そこから西行して池戸里・亀田里・十河里。前田里・山崎里。六条里・大熊里に出た後、港町香西里に至る。
⑪香西里から南下し、新居里・国分里・福家里を巡った後、備讃海峡に突き出した乃生嶋里に出て、讃岐を離れる。

伊勢御師 檀那廻りルート
伊勢御師岡田太夫の巡回ルート

 全行程は約190km(約47里半)、巡った郡は5郡、村落の数は61、旦那の数は304名(寺社含)になります。こうしてみると伊勢御師の活動は、一つの村だけではなく、広い範囲をカバーしたものだったことが分かります。当時の社会で荘郷や領主を超えて、これだけの村をめぐり歩いてたのは、彼らのような御師(修験者)をおいて他にはなかったと研究者は指摘します。熊野・伊勢御師の活動は、もともとは信者獲得のために必要な知識として貯えられたものです。しかし、それを村の側から見れば、修験者は、村内の家格や身分秩序について把握し、またそうした情報を行く先々で広く伝達して廻る者としての役割を呆たしていたとも云えます。
無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社選書) | 網野 善彦 |本 | 通販 | Amazon

  網野善彦氏は『無縁・公界・楽』の中で、修験者や聖の勧進行為が鎌倉末期から、幕府や朝廷の権威を背景に棟別銭の徴収という形をとるようになったことを指摘しています。例えば応永19年(1412)、幕府が備前や越中などに懸けた東寺修造料棟別銭が、備前では児島熊野山の五流山伏、越中では二上山の山伏が徴収担当者に指名されています。
なぜ修験者が棟別銭を徴収することができたのでしょうか。
「菅浦文書」は、中世村落に対する棟別銭賦課の事例として有名です。その中の棟別掟では、村内の家が「本家」「かせや」「つのや」に分けて格付けされています。ここからは、棟別銭を徴収するためには、家数の把握や、家の格付け、財産についての知識(戸籍や土地台帳)が必要だったことが分かります。熊野修験者などは、先ほど見たように讃岐でも御師として檀那の間を廻り、護符を配ったり、初穂料や祈疇料を得たりしていました。こうした活動を通して修験者は、家の大小、貧富、身分といった情報を集めていたと研究者は考えているようです。
伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師2
伊勢詣でにやってきた檀那を迎える御師(江戸時代)
  熊野・伊勢の修験者の場合を見ておきましょう。
修験者(山伏)が御師として、全国に散らばる先達として、信者との間に師檀契約を結んでいたことは以前にお話ししました。御師や先達は、檀那が本山に参詣する際には宿泊をはじめとする便宜を図ってやりました。また檀那の間を廻って巻数・護符・祓などを配り、代償として初穂料や祈疇料を得ています。伊勢御師の檀那衆は、室町時代になると在地領主層だけでなく、農村の中にも広く存在していたことは、先ほど見たとおりです。
伊勢御師 伊勢講
伊勢御師講社
大量の檀那売券には「一族・地下」「地下・一族」という語句が現れてくるようになります。有力百姓の間にも伊勢信仰は広がっていたのです。伊勢御師の修験者たちは、これらの檀那衆を毎年廻って初穂料を集めていたのです。これは村全体から徴収するものではありませんが、恒常的に棟別銭を徴収する体制を熊野・伊勢の御師たちは持っていたことになります。それは、熊野・伊勢のシステムを真似て初穂料を徴収していた地方の神社の修験者たちにについても云えることです。修験者(山伏)たちは、「廻檀」という旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通していたと研究者は考えています。

広峯神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~>
播磨広峯神社(姫路市)

地方の修験集団の例として、牛頭天王を祀る播磨広峯神社(姫路市)を見ておきましょう。
その社家の一つ肥塚氏は、鎌倉末期より御師として播磨・丹後・但馬・因幡・美作・備中などの諸国で檀那を獲得していました。肥塚氏が残した檀那村付帳には、諸国の諸荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといつた情報まで記されています。例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見てみると、現在の小字集落にはぼ相当する.村が丹念に調べられて記録に残されています。広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んでいたのです。

七五三初穂料読み方 ふたり一緒の時・中袋書き方や中袋がない時・新札? - Clear life クリアライフ
熊野・伊勢御師や修験者たちは、檀那からの初穂料徴収を行っていました。そのためには、旦那廻りのための情報を蓄積する必要があり、村々に家がどのくらいあるのかなども情報として得ていました。修験者たちが持っている情報を活かして、棟別銭を賦課しようとする支配者が現れても不思議ではありません。
五流 絵図
児島五流修験

応永十九年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭(家毎への課税)を命じています。備前での棟別銭徴収を請け負ったのが「児島山臥方」です。「児島山臥(伏)方」は、児島五流修験のことです。山伏集団が一国の棟別銭集金機構として機能しているのです。それについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」
榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造
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香東川の流域図
西嶋八兵衛による香東川一本化説の説明図

香東川については、次のようなことが通説とされてきました。
①西嶋八兵衛による高松城下の治水のために付け替え工事が行われたこと
②栗林公園は、香東川の旧河道上に築かれた公園であること
③付け替え工事地点に、西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てて工事の安全成就を願った

しかし、このような説に対して近世の讃岐国図などの絵図史料に基づいて批判反論が出されています。それは、絵図資料では江戸時代を通じて、香東川は分流して描かれており、河川の付け替えや一本化工事が行われたことがうかがえないというものです。今回は、西嶋八兵衛による香東川の改修工事が本当に行われたかどうかを見ていくことにします。テキストは「羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」です。

まず、西嶋八兵衛が改修工事を行ったという史料を見ておきましょう。実は正式な文書に、西嶋八兵衛が香東川改修工事を行ったという記録はないようです。
史料とされるのは、近世前期に地元の庄屋の書いた『大野録』で、次のように記されています。
香渡(東)川は寛永の頃まで、大野の郷の西より二股にわかれて、 一筋は一の宮・坂田の郷をへて室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜の西に入りけり。又一筋は弦打山の西にそふて今のごとし。営村の中洲といへるは、則ち両河の間也。寛永中、自然の河瀬深くなりて、東は浅くなりければ、国主生駒公より堤を築きて、東の河筋を畑にひらかせたまひ、古河新開と号す。

意訳変換しておくと
香渡(東)川は寛永の頃までは、大野郷の西で二股に分かれて、東の流れは一の宮・坂田の郷を経て室山の東をめぐり、石清尾山の下を流れて、いとが浜(浜の町)西で海に流れ出していた。西側の流れは、弦打山の西に沿って、今の流れと同じであった。大野の中洲と呼んでいるところは、この両河の間に挟まれた地帯のことを指す。寛永年間中に、自然に西側の河瀬が深くなって、東側は浅くなってしまった。そこで、国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた。そこで、古河新開と号す。

 ここには「国主生駒公はここに堤を築いて、東の河筋閉じて、その河道跡に畑にひらかせた」とあります。それが西嶋八兵衛によるものとは、どこにも書かれていないことを押さえておきます。
また記された内容について検討しておくと、香東川の東の流れ(現在の御坊川)が、一宮・坂田を経て室山の東をめぐっているというのは正しいようです。しかし、石清尾山の下を流れ、糸が浜(現在の高松市浜ノ町)の西で海に流れ込んでいたというのは誤りだと研究者は指摘します。香東川の東の一筋は、御坊川で新川と同じような所に流れ込んでいました。ここからは記述に正確性に欠け、二股の香東川の東の一筋を塞ぎ止めて二つに分けたというのも、間違っている可能性があると研究者は推測します。
 また  『大野録』は、次のように記しています。
村翁伝へ申されしは、大むかしの大河は、井原庄竜満山の麓に沿ひ、夫より大野、浅野の境を経、ももなみの郷に流れて、北方海に入りけり。是に依って、今その筋低うして石尚多し。又浅野分の河跡を今尚河原と号す。大野分の河跡を東原といへるは、いまだ畑にひらかぎる先、荒野なればなるべし。又揖取といえる地の名はそのかみの渡し場にて、舟引き居りし処ならん。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を田に開きし時、石をば所々に集めてものらしければ、此の筋今石塚多し.彼の墓土はその石塚をおし平げて則ち葬地になせしぞ。愚案ずるに、右大河ありしは貞観中より昔ならん。
  意訳変換しておくと
 村翁が伝へるところによると、大むかしの香東川は、井原庄竜満山の麓に沿って、大野、浅野の境を経て、ももなみの郷に流れて、北方の海に流れ込んでいた。このため今もそのエリアは、低地で石が多い。また浅野の河跡は、今も河原と呼ばれている。大野の河跡を東原と呼ぶのは、いまだ畑に開くことができず、荒野のままであるからであろう。また楫取という地名は、その上流に渡し場があって、舟引きがいたからではないだろうか。(中略)
寛永以来、河跡の荒野を水田に開いた時に、土の中から出てきた石を所々に集めた石塚がこの筋には多い。またこの地域の墓地は、その石塚を押し広げて葬地にしたものだろう。愚案ずるに、このような大河があったのは、貞観中より昔のことであろう。

『大野録』は、河原・東原・梶取りなど、かつての「大河」があったと示す地名があり、河原石で築造した石塚(積石塚)が見られることを挙げて、大昔の香東川は、現在よりも東を流れていたと推測します。しかし、これも間違っていると研究者は指摘します。また、推測に基づく記事内容が多いのも気になるところです。
『大野録』の記述内容については、近代になるまで余り触れられることもなく、史料として取り上げられることもなかったようです。西嶋八兵衛についても、生駒藩が取り潰され髙松松平藩になると、忘れ去られた存在で、近代の香川県でも、知る人はほとんどいないような状態だったようです。
そのような中で大正元(1912年に『大禹謨』碑が発見されてから風向きが変わります。
この年の大洪水によって、県道岡本香川線の川部橋の北方約400m地点で香東川の堤防が決潰し、その冬に行われた修理中に人夫が数尺下に埋もれていた『大禹謨』碑を掘り出します。発見当初は、誰かの墓でないかとされ、香東川の川東の英師如来のかたわらに置かれました。それに注目したのが、四番丁小学校の校長で郷土史家でもあった平田三郎氏です。平田氏は昭和20(1945)年の高松大空襲のあとで、大野に疎開していて、この『大禹謨』碑に注目します。そして、大野禄と西嶋八兵衛の治水工事と、この碑を相互に関連するものという説を出します。
香東川 分岐説1
『大禹謨』碑付近が分岐点だったとする説
 これを受けて藤田勝重氏は、碑が発見された地点からあまり遠くない上手の川部橋の南方約500m地点に分流点があったこと、碑は西島八兵衛が香東川の東の一筋をふさいで高松城下を洪水から守る治水事業の完成記念として設置されたものだとしました。
 さらに中原耕夫氏は、香東川の川幅は川東の「柳生」から大野にかけて急激に広くなり、御坊川の水源を「柳生」の大久保出水あたりに求めることができ、古老たちが「柳生」が分流点だと言い伝えていることから、川部橋の南方約2,6㎞の「柳生」が分流点であるとしました。
 こうして、香東川が一本化される前の分岐点論争が始まります。
それと同時に、香東川が一本化されたこと、それを行ったのは西嶋八兵衛であること、その成就記念碑が『大禹謨』碑であることが既成事実化されていきます。
 藤田勝重氏は、『大禹謨』碑の文字を三重県の郷土史家の家村治円郎氏に筆跡鑑定を依頼します。その結果は、「八兵衛の真筆」というものでした。それを受けて、昭和37(1962)年に栗林公園事務所長の藤田勝重氏は、栗林公園が西嶋八兵衛の香東川一本化改修工事の結果、東の河道跡につくられたして『大禹謨』碑を、栗林公国内の商工奨励館の中庭に設置し、元の地にはレプリカを作って設置しました。
栗林公園(大禹謨碑)|フォトダウンロード|香川県観光協会公式サイト - うどん県旅ネット
栗林公園内に移された『大禹謨』碑

その後、藤田氏は『治水利水の先覚者の西嶋八兵衛と栗林公園』を発行しています。こうして「香東川一本化=西嶋八兵衛の改修工事=『大禹謨』碑はモニュメント」という説は、より強固な説になっていきました。

昭和46(1971)年に出された『香川県の歴史』には、次のように記されています。
 長い戦乱で田地は荒廃し、そのうえ雨が少なく、長大な河川に恵まれない讃岐では、農業生産の増大をはかるためには、溜め池を築造して新田を開発することがきわめて重要な事業であった。この目的をもって寛永五年(1628)、生駒第四代藩主高俊は、伊勢より西島八兵衛を招いた。
八兵衛は土木普請のオ能にすぐれ、そのうえ政治・経済にも通じていたので、早速、領内をくまなく見分し、あらたに溜め池をきずき、修築や増築などにも力をそそいだ。450年もの長い間、荒廃したままであった満濃池を復旧し、三谷池(高松市三谷町)・神内池(高松市山田町)・立満池(香川郡香川町)。小田池(高松市川部町)など、今日、香川県下にある著名な池90余を築造あるいは増築して、讃岐のこうむりやすいひでりに備えたことは大きな功績である。そのほか香東川のつけ替えもおこなったのであった。
 ここには、藤堂高虎が目付として派遣した西島八兵衛が、生駒家に仕えて満濃池を初めとするため池を数多く築造し、香東川などのつけ工事も行ったとされています。
 これに対して「見直し」の動きが近年になって出てきています。
平成五年発行の『香川町誌』は、香東川の改修工事ついて、次のように記します。
「付替え説には、証拠となる確たる記録はない。」
「この説は『大禹謨』碑石の発見と、西嶋八兵衛の讃岐国におけるため池築造を中心とする治水・利水の事績をもとに、組み立てられた説である。
  もしかして、香東川は二つの流れではあっても、東の流れは香東川の氾濫原であって、西島八兵衛による香東川の治水工事は川の付替えではなく、氾濫を防ぐための、東岸堤防の構築を中心とした治水工事であった可能性が考えられる。
ここでは、「香東川の一本化付替説」が『大㝢護』碑石発見と西嶋八兵衛の治水・利水の事績をもとに「こうあって欲しい」という願いをもとに組み立てられた机上の空論であると指摘します。

東京教育大学地理学教室は、報告書の中で次のように記します。   
旧流路は自然堤防となって残り、自然堤防は香川町大野より下流の現香東川の流路に沿うものと、この流路に針交して南北に細長くのびる数列の徴高地で、これは御坊川の流路にあたっており、御坊川は香東川の中流で分流した東の筋である。新岩崎橋南方付近で香東川は近世にも現在も二つに分流して流れていて、『大野録』の記述を信用して、分流点論争をすることは無意味と思える。

ここには香東川は昔も今も分流しており、分流点を論争するのは無意味とまで言い切っています。

これに加えて、絵図資料の分析からも香東川の一本化はなかったという説が出されています。それを見ておきましょう。
江戸時代に幕府の命に応じて作られた、讃岐の国絵図には、以下のようなものがあります。
①丸亀市立資料館本 (1633年作成)
②金刀比羅宮本 (1640年作成)
③高松市歴史資料館本 (17世紀後半  元禄年間作成)
④内閣文庫本   (1838年作成 天保国絵図)

これらの国絵図は、幕府が、各藩に作成・提出を求めた国絵で、信頼性が高いとされます。まず④の天保国絵図を見てみます。前回も見たように、グーグルで「讃岐国絵図」で検索し、国立文書館デジタルライブラリーを開いて、天保国絵図を見てみます。

香東川 天保国絵図1 

天保国絵図 国立文書館デジタルライブラリー版

上の地図からは19世紀になっても、香東川は東西に分岐して流れていたことが分かります。そして、高松城を挟むようにして、海に流れ出しています。そして東の流路は、栗林公園を通過していないことを押さえておきます。次に香東川の分岐点周辺を拡大してみます。
香東川 天保国絵図2 分岐点周辺 
        天保国絵図 香東川分岐点拡大図

分岐点は、②の寺井村と③河(川)辺村の間です。小田池からの用水路の合流地点でもあるようです。ちなみに図中の、赤線は街道で、それを挟む形で描かれている2つの黒丸は一里塚の表示だそうです。

それでは、西嶋八兵衛が一本化工事を行ったといわれる後に、松平藩時代になって幕府に提出された「正保国絵図」に、香東川がどのように記されているのかを見てみましょう。

下図は、17世紀前半の「正保国絵図」の香東川の分岐周辺の写図です。
香東川 正保国絵図1 
この絵図でも東の寺井村と西の川部郷の間の②で香東川が東西に分岐しています。分流した川にはそれぞれ次のような注記があります。
①東側の流れについて、
「一ノ宮川 広八間 深六寸 洪水時一町三十間 渡リナシ」、
②西側の流れについて
「圓(円)座川」「川幅六間 深五寸 洪水ノ時広廿間 渡なし」
東側の河道には「香東川」との注記もあります。分かれた川は、それぞれの流域から一宮川と円座側と呼ばれていたようです。成合は、その二つの川に挟まれたエリアであったことが分かります。ここからは、西嶋八兵衛が灌漑工事を各地で行っていた後も、香東川の流れに変化はなかったことが分かります。ちなみに、一の宮村にある「明神」が、現在の田村神社のようです。
  現在の郷東川と御坊川の分岐点を、下の地図で確認しておきましょう。
香東川 現在の分岐点

現在の香東川は新岩崎橋付近で二股に分かれて、東の流れを御坊川と呼び、西の流れを香東川と呼んでいます。ここからは、近世から現在まで香東川は、中流で二股に分かれて流れていとことが分かります。幕府提出用に作成されたという各時代の讃岐国絵図には、香東川の二つの流れを一本化したという工事の痕跡をみつけることはできないようです。
以上から研究者は次のように指摘します。
①  西島八兵衛は香川町大野で二つに分かれて流れている香東川の東の一筋を塞ぎ止め一本化するという付け替えを行わなかった。
②西嶋八兵衛は「大禹謨」碑を建てることもしなかった。
『大禹謨』碑は香東川に堤防を築いた人物が、工事の完成を祝って建立したもので、発見場所から遠くない堤防の上に建てられていたのであった。西嶋八兵衛の利水・治水事業は高松城の安泰をはかるため、東の一筋を寒ぎ止めて西の一筋だけにするという改修工事事を行ったという誤った説を生み出し、更にこの改修工事に伴ってできた東の一筋の廃川敷に栗林公園がつくられたという誤った説を生み出した。
香東川 天保国絵図2河口付近 
天保の讃岐国絵図 現栗林公園付近を流れる川は書かれていない。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
羽床正明   近世国絵図より見た香東川の改修 香川県文化財協会会報  平成26年度」
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

 

野原・高松・屋島復元地形図

中世の高松周辺の海岸線です。屋島は島で、現在の高松城のある野原の地との間には、「古・高松湾」があったと研究者は考えているようです。イラストで見ると、こんな風になるようです。
野原・高松・屋島復元図

以前に高松城の西側の宮脇町のことは見ました。今回は高松城の東浜(東側のエリア)の変化を見ていきたいとおもいます。テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です
高松城 周辺地理図

この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」は、江戸初期の高松城の東の地形について、次のように記します。
東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟坂田中河原迄潮先来ル也。
意訳変換しておくと
東浜は④野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。

「野方口迄潮サシ込」は、上図④の「ノカタ(野方)ロ」の付近のことのようです。確かに絵図でも、野方口から東は海岸です。南海通記と絵図は一致します。「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の「高松ヨリハ嶋(屋島)ヘー里半、塩浜一里」の説明文とも合います。
「南海通記」の「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」と思われる道が、上図では④の「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。
高松野原 中世海岸線

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。
真言宗の念仏僧侶で梵語に造詣の深かった僧澄禅の四国巡礼記録です。ここには、一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が次のように記されています。
 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
 ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。
高松天正年間復元図1

野方口とは、干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。
この遠干潟の部分が近世になると、新田干拓されていきます。

古高松湾は、どのようにして現在の姿になったのでしょうか。
高松城周辺 正保絵図

上図は国立公文書館版「正保国絵図」の古・高松湾の沿岸部です。
木太村の海側に①富岡村 ②夷村 ③春日村が新たに姿を現しています。この夷・富岡村については、生駒期の史料に次のように記されています。
寛永一六年(1629)二月讃州御国中村切高惣帳。
新田
一、高三六拾七石壱斗            富岡蔵入惣所
一、高三百五拾九石弐斗式升七合  夷村蔵入惣所
寛永一七年二月一五日生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳、
一、高三百六拾七石壱斗          富岡新田
一、高三百五拾九石弐斗弐升七合  夷村新田

生駒騒動の結果、生駒家から讃岐一国を没収されたのは、寛永17(1630)年7月のことです。この記事は、その直前のものになります。寛永16年以前に、夷・富岡の地で、新田開発が行われ、その後に造られた「正保国絵図」に、村として記載されたようです。この新田開発については、高松藩校講道館教授の菊池武賢が著した地誌『翁姐夜話』(延享二年(1745)に完成)に、西島八兵衛の評伝として次のように記しています。
寛永五年脩シ満濃池ヲ、築三谷池ヲ、十二年為陣内池ヲ。十四年築テ堤ヲ障サヘ海水ヲ、為田卜。福岡・木太ノ滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名、是レ也。今並二為ル熟田卜。民大二頼(カウムル)其利ヲ。到マテ干今二称ス之,

意訳変換しておくと
寛永5(1628)年に満濃池を再築し、三谷池を築造する。寛永12(1635)年には陣内池、14年には堤防を築いて海水をせき止め、水田干拓を行った。福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村小地名がこれである。今は美田となっていて、民はその恩恵を受けており、今になるまで西嶋八兵衛を賞する。

同書の松浦正一所蔵本には、続けて次のように追加文章があります。
謂木太春日新開也。下往還大路、自此時始。
半以西属東浜、半以東属木太。其境有溝、架石小橋。
木太・春日新開は、この時に拓かれた。下往還大路も、この時につけられた。この西半分は東浜に属し、東半分は木太に属す。其境には溝があり、小さな石橋が架けられている。

ここからは、伊勢の藤堂藩から生駒家に家老級の扱いでレンタルされていた西鳩八兵衛が、寛永14年に、福岡村から木太村を経て春日村富岡にいたる間の新田開発を行ったことが分かります。これが後に木太・春日新開と呼ばれるようになります。
宝永地震における高松藩の被害状況

その範囲については、「英公外記」(明治15年完成)の寛文七年(1667))条に、次のように記されています。
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松鳩木太春日の潟新開成る。下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛か築し所なり。

ここには、西嶋八兵衛が拓いた木太・春日新開のさらに海側を、寛文七年に新田開発したと記します。
この「下往還」より南手の新開とは、どこにあたるのでしょうか?
「下往還」とは、下大道、東下道とも呼ばれた高松藩五街道の一つ志度街道のことだと研究者は指摘します。下大道については、慶応三年(1867)成立の石田忠恒著「政要録」に「讃岐大日記に慶安元子年山田郡下大道を作る」という記事が見えます。この道はもともと干拓に伴って築造された汐止堤防で、それを改修して慶安元年(1648)に街道として整備されたようです。それまでは、姿のなかった街道なので、絵図に登場することはありませんでした。

天保国図 高松東部
下往還について、上図の「天保国絵図 讃岐国」で見てみましょう。
先ほど見た【図6】のふたつの絵図では、福岡村・夷村・富岡村に海岸線がありました。それがこの天保絵図では、そのさらに海側に、高松城のそばの東濱村から古高松村向けてほぼ直線の道が赤く記されています。ここからは、西嶋八兵術が寛永一四年に新田を開発したのは、この赤く記された道よりも南側の地域であることが分かります。
また、【図6】の「正保国絵図」と天保国絵図を比べると、川の流れが大きく変化しています。

高松春日川付け替え工事 
絵図に描かれた河川は、西から順に、香東川の(後の御坊川)、詰田川、春日川、新川です。それが【図6】の「正保国絵図」では、春日川と新川が夷・富岡両村の間で合流し、河口部では一つになって描かれていました。ところが、天保国絵図では、二つの川は分離して、別の河川として描かれています。ここからは「正保国絵図」が造られた後に、大規模な河川改修が行われたことがうかがえます。

下の【図8】は、「高松平野地形分類図」に「正保国絵図」に見える村々を書き込んだものです。
   1
ここでは旧河道が黒く描かれています。それを見ると、新川・春日川は河口部の三角州帯では、のたうつ大蛇ののように幾筋にも分かれて、蛇行していたことが分かります。これらの旧河道の痕跡は、今でも残っているようです。
 これについて『讃岐のため池誌」は、次のように述べています。
新川は現在では高松市春日町の河日で、春日川から分岐しているが、新川のほぼ中流部で久米池の西側にあたる高松市東山崎町中免には、かつて新川がこの附近で真直ぐ、春日川に流れこんでいた痕跡跡が明瞭に残っている。おそらくこの地点で春日川と新川を合流させたのでは、そのあとの洪水量が大きくなりすぎて、その制御が難しいところから、新川を春日川から分離し真北へ新しく付け替えることによって洪水を三分し安全に海に導くことができると考え、新たに新川を開さくしたものと思われる。

ここには、次のようなことが指摘されています。
①新川と春日川が合流していたこと、
②洪水防止のために河道を三分離したこと
③そのために新たに付け加えられた放水路が「新川」であること
④その時期については、何も触れていない。

さらに「英公外記」には、寛文七年(1667)のこととして、次のように記されています。
「此年松嶋すべり之沖より 潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松嶋木太春日の潟新開成る」

ここからは松平頼重の治政下に、松嶋から滑(洲端)の沖を経て屋島の潟元までの潟の新開が行われたことが記されます。これは先ほど見た下往還より海側のエリアになります。この新田開発は木太・春日新開からさらに沖へ向かって突き出すかたちでなされました。
三十幸太郎著の「近讐要録」には、西嶋八兵衛の項に次の記事が記されています。
高松盛衰記二云フ英公ノ初年二矢野部平六卜謂フ入アリ是亦経済家ニテ開拓整溝ノ事ヲ掌ル 頻二海面ヲ埋メテ田畑ヲ増加セリ 西島氏津二在テ此事ヲ聞テ曰く 吾新田ノコトヲ気付カサルニ非サルモ海面ニ向ッテ広ク新地ヲ築出ストキハ河水ノ下流漸々洪塞シテ水患ヲ引起スコト多カラン 永遠ノ后ハ得失相償ハサルモノアラント味ヒアル言ナリ

意訳変換しておくと
高松盛衰記には、次のように伝える。英公(松平頼重)の初年の頃に、「経済家」の矢野部平六が開拓整備の実権を握り、海面を埋めたて田畑を増やした。これを津に引退していた西嶋八兵衛が聞いて次のように云ったという。
 私もこの新田開発のことは考えたこともあった。しかし、海面に向って広く新地を築いて突き出すと、河水は下流で滞留して、水害を引起すことが多くなる。長い目で見ると損得は、相半ばすると考えて実施しなかったと述べたという。

生駒騒動の前に、念願叶って伊勢国津の藤堂家へ帰っていた西嶋八兵衛の言葉です。頼重期に行われた矢野部(矢延)平六による新田開発の手法について危惧したことが記されています。それは、海面に向かって広く新地を築き出すと、川の下流は次第に「瀞塞」して、水害を引き起こすことが多いと指摘しています。
高松地質図

 この弊害を解消するために取られた手段が干拓地へ流入する河川の改修だったと研究者は考えているようです。【図8】から見てとれるように、新川・春日川・詰田川の河道は、三角州帯においてほとんど直線的です。この改修のねらいは、蛇行していた河道の直線化することで、川の流れを早め、河口付近における砂や泥の堆積を防ぐことを目的としたのでしょう。
 松平頼重の時代には、新田開発の画期でもありました。万治・寛文年間(1658―73)には、高松城下の西部で香東川と本津川の分離が行われ、二つの川は別の河口を持つことになります。高松の東西において、同じころ同じ手法で新田開発が行われていたと研究者は推測します。
高松地図明治14年
明治14年の高松城
 さらに、前回見たように丸亀平野でも、満濃池の築造と、その用水路整備のための金倉川の流路変更、さらに変更後の河口域での新田開発とがセットでおこなわれていました。治水のための流路変更や、灌漑のためのため池建設、用水路整備は、単独では成立しないものであったことが改めて分かります。
   以上をまとめておくと
①中世は海が屋島と野原の間に入り込んで、組んで「古高松湾」があった。
②そのため海岸線は、福岡村・夷村・富岡村にあり、街道もこの海岸線沿いを通っていた。
③寛永14(1637)年に、西嶋八兵衛が堤防を築いて、神田干拓を行った。
④それが福岡・木太の滑(スベリ)濱、富岡春日村である
⑤松平頼重の時代に矢延平六が、海面に向かって広く新地を築き出す形で新田開発を行った。
⑥そのため河川の水害が危惧されることになり、対策として川を分離した上で、新たに新川を開削した。
⑦その際に流速を早くするために直線的な川筋が引かれた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)
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高松城 周辺地理図
讃岐国髙松・丸亀両城図 讃州髙松
この絵図は高松城を描いたものとしては最も古いものの中のひとつとされています。簡単な線で描かれていて、景観はかなりデフォルメされていますが、高松城成立当初の周辺地形を知る上では貴重です。左側に海がありますので、この方向が北になります。高松城がある場所は、北・東・西を海に囲まれ、突き出たような形の地形となっています。中世野原の時代に、この地域が「八輪島」と呼ばれていたことが、納得できる光景です。
 「南海通記」(以下「通記」)は、江戸初期の高松城周辺の地形について、次のように記します。
 寛永ノ比今八十年ノ古迄ハ其要害ノ体モ残テ我見之也。先(A)江東ノハナ穴薬師卜云々観音ノロ迄満潮サシ込、山ノ側二上リテ往来ス。干潮ノ時ハ潮地ヲ渡ル也。西浜楯ノ木ノ辺ヨリ潮渡于ンテ満潮ノ時ハ山ノ根一円二広海卜成也。四月三日右馬頭臨時祭ノ時、(B)石清尾塔ノ下橋迄潮指込タルヲ我之ヲ見ル也。(C)東浜ハ野方口迄潮サシ込、屋島ノ干潟い坂田中河原迄潮先来ル也。
 
意訳しておくと
 寛永の今に比べて、八十年前まではその要害の地形も残っていたのを私も見た。(A)「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた。西浜楯ノ木の辺りから潮は入り込み、満潮時には山の麓付近まで一円の海となった。四月三日の右馬頭観音の祭の時には、(B)石清尾塔の下橋まで潮が満ちてきたのを私は見たことがある。
(C)東浜は野方口まで潮が差し込み、屋島の干潟の坂田中河原まで潮は入ってきた。
 享保期(「通記」の成立時期)よりも80年年ほど前の寛永時代には、海岸線が内陸に入り込んだ様子が記されています。(A)江東ノハナ穴薬師」は、「讃州高松図」の①「カウトノハナ(郷東ノ鼻)、城ヨリ一里」にあたるようです。
それでは(A)は、現在のどこにあたるのでしょうか?
   「穴薬師」については、『讃岐国名勝図会』の「松岩寺」の説明に次のような記述があります。
「岩窟に薬師を安置す、穴薬師といふ。往古は海岸なりしとぞ」

ここからは松岸寺に「穴薬師」があり、付近が海に面していたことが分かります。地形描写が「通記」の記述と一致するので、「穴薬師」は、松岩寺(高松氏西宝町)の位置にあったようです。
高松市松岩寺
 
松岩寺の位置を「グーグル」で確認すると、石清尾山麓の北端にあたります。かつては海に突き出す岬の先端だったことが分かります。

 「江東ノハナ(鼻)」の穴薬師のある観音口まで潮が満ちてきたときには海が差し込んできた。その時には、山側に上って往来したものだ。そして、干潮時には波打際を歩いた

 とありますから満潮時には、ここまで潮がやってきて、人々はここを往来するときには、山手の上の道を選んだようです。海への突出地形を示す「ハナ=鼻」の表現にふさわしい場所です。「穴薬師」があった「江東ノハナ」=「カウトノハナ」は、松岸寺付近の地点としておきましょう。
野原・高松・屋島復元地形図
中世の髙松湾と野原
 絵図には①「江東ノハナ」からさらに②「いわしお山=石清尾山」の麓まで海が入り込んでいる景観が描かれています。これも「通記」(B)の石清尾八幡宮付近まで潮が満ちたのをかつて目撃したこと云っていることと符合します。17世紀には、西宝町から昭和町を経て岩清尾神社付近までは入江が入り込み、干潟だったようです。そして、中世は現在のサンポート周辺が河口の一部でした。

「昭和町」の歴史を振り返って起きます。
①近世当初は昭和町は、河口に湿原だった
②松平氏の時代になり岩清尾八幡により開拓され寺領となる
③開拓地の水資源として姥ゲ池が築造される
④明治の上知令で岩清尾八幡の社領は国家に没収される
⑤以後、学校施設が配置され、住宅化がすすんだ。
高松市東部グーグル

 次にお城の東側を見てみましょう
  「通記」の(C)「野方口迄潮サシ込」と、図中右部分に見られる④「ノカタ(野方)ロ」の付近が海岸となっている様子が一致します。
「屋島東浜ヨリ一里ノ所ナレ共」の記述は、図の
「高松ヨリハ嶋ヘー里半、塩浜一里」の説明文と合います。
「南海通記」の
「木太ノ郷ノ新開ヨリ春日村マデー筋ノ道」

と思われる道が、図では「ノカタロ」から南進した後、海岸沿いに東へ伸びる朱線で示されています。このように、「讃州高松図」と「通記」は、一致するところがよくあることが分かります。

『四国辺路日記』(澄禅 承応二年:1653)を見てみましょう。真言宗のエリート僧の四国巡礼記録です。一宮(田村神社)寺から屋島へ向かう道筋が記されています。

 此高松ノ城ハ昔シハムレ高松トテ八島(屋島)ノ辰巳ノ方二在ヲ、先年生駒殿国主ノ時今ノ所二引テ、城ヲ構テ亦高松ノ城卜名付ラルト也。此城ハ平城ナレドモ三方ハ海ニテ南一方地続也。随分堅固成城也。
 是ヨリ屋島寺ハ東二当テ在り、千潮ニハ汀ヲ往テー里半也。潮満シ時ハ南ノ野へ廻ル程二三里二遠シ。其夜ハ高松ノ寺町実相坊ニー宿ス。十九日、寺ヲ立テ東ノ浜二出ヅ、辰巳ノ刻ニハ干潮ナレバ汀ヲ直二往テ屋島寺ノ麓二至.愛ヨリ寺迄十八町之石有、松原ノ坂ヲ上テ山上に至ル。

意訳しておくと
 高松城は、昔は牟礼高松と云い屋島の辰巳の方向あったのを、前領主の生駒殿の時に今の所に移動させて、新しく城を構えて高松城と名付けたという。この城は平城ではあるが三方を海に囲まれ、南方だけが陸に続く。そのため堅固な城である。
 屋島寺は高松城の東にあり、千潮の時には海岸線を歩くとー里半である。しかし、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる。その際には三里と倍の距離に遠くなる。その夜は高松の寺町実相坊に一泊した。
 十九日、寺を出発して東ノ浜に出ると、辰巳ノ刻には干潮で、潮の引いた波打ち際の海岸線を真っ直ぐに進み、屋島寺の麓に行くことができた。これより寺まで18町ほでである。松原の坂を上って山上に至る。
ここには「千潮の時には海岸線を歩くとー里半」だが、満潮時には潟は海に消え、南の陸地を廻らなければならなくなる」と書かれています。下の絵図は200年後の想像絵図ですが高松城から右上の屋島にかけて海が大きく湾入している様子が描かれています。④の野方口とは
干潮時の海岸線コースの入口だったのかもしれません。

高松天正年間復元図1

  高松絵図で城の部分を拡大してみましょう
高松絵図 15の拡大

この絵図には外堀、中堀、内堀の三重構造、西ノ丸を含むL字形の曲輪、三ノ丸・ニノ丸・本丸と渦郭状に連続しする構造が描かれています。ここからこの絵図が描かれた慶長後期の時点までには、高松城の基本的な構造は出来上がっていたことが分かります。

 絵図の⑨と⑭には、東西それぞれ「舟入」の書き込みがあります。
高松城の特徴のひとつは、堀を港としていることです。それが絵図からも確認できます。
 しかし、西側の舟入の位置については、後の絵図の一致しますが、東側については「舟入」の書き込みが外堀ではなく、中堀の所にあります。また、この段階では舟人の入口部分には、施設の設置などが見られないようです。
 城の海側の北面部分には、矢倉(櫓)が二つ描かれ、三ノ丸北部には門が設けられています。門は海側にあり、海に直接出るような構造に描かれています。城の外郭に接続してもおらず、具体的な機能は不明です。
高松城北側の海岸利用図
 城下の様子を見てみましょう
高松城 周辺地理図

外堀と中堀間に⑩「侍町」があり、東側に⑧「町屋東浜」⑩「町屋西之丸浜」と記されています。その他に城から南東の位置に③「町屋」と記されている場所が見えます。これは、中世の野原段階で形成された町かもしれません。
「町屋京浜」は、生駒時代後期には「東かこ(加古)町」となる地域、「町屋西之丸浜」は武家地となる地域です。つまり、この絵図に示されたものと後の城下町プランには、かなり違いがあることが分かります。この絵図では城下は、外堀を境界線として、
外堀内=城郭内に「侍町」=武家地、
外堀外=城郭外に「町屋」=町人
という明確な区分けがあったことが分かります。そうすると、東側の中堀にある「舟人」は誤まって記されたのではなく、この位置に舟入があった可能性があるようです。

外堀の南側を見てみましょう。
ここには丸亀町を中心に町人地が続くエリアの筈ですが、何も描かれていません。南東のやや離れた場所に「町屋」があるだけです。
 丸亀町の名の由来については、「綾北問尋抄」に次のように記されています。
「同(慶長)十五年(生駒)一正卒し給ふ。時に五十六歳。令嗣左近太夫正俊世を継ぎ、高松の城に居住す。此時丸亀の市店を高松の郭に移し、丸亀町といふ。」

ここからは、慶長15年(1610)、生駒正俊(三代目)が丸亀城下の商人をここへ「強制移住」させて街並みを整備したことが分かります。この絵の外堀南側には「町屋」がないのは、その「強制移住前」の前の状態が描かれているのかもしれません。
 生駒時代の当初の町屋形成は、東西の舟入の外側のエリアで優先的に町場形成が行われていたようです。そのあとに丸亀城からの商人を、外堀南側の街道沿いに配して丸亀町が形成されたとしておきましょう。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 御厨 義道     高松城における海辺利用の変遷について

 昔の港というと鞆や御手洗、室津などの北前船が出入りした港を私はイメージします。そこには石積みの突堤があり、灯台がわりの大きな灯籠が建ち、雁木に横付けされた船着場には何艘もの小舟が横付けされ、忙しげに人夫達が荷物の積み卸しを行う・・こんな姿が私の港イメージでした。しかし、このような港が姿を現すのは19世紀になってからのことのようです。
それでは中世の港とは、どんな姿だったのでしょうか。
それに応えてくれるのが、新高松駅やサンポート開発の際に発掘された野原(現高松)の調査報告書です。そこからは16世紀末期に高松城が生駒氏によって築城される前の中世の港の姿が現れました。それをイラスト化したのが下の景観図です。ここには次のような事が描き込まれています。
野原の港 イラスト
中世の高松港復元図(野原)
①元香東川河口の東西からのびる砂堆が発達して、自然の防波堤の役割を果たしていた。
②その背後には奥深く潟湖が入り込んできており、そこが積荷の積み下ろしが行われる港湾施設でであった

中世の高松港
中世高松港拡大図

③荷揚げの時の安定した足場を確保するために波打ち際には赤い板石が敷き詰められている。
④イラスト左側(西側)の船着場は杭と横木を組み合わせてある。
⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない
⑥潟湖の内側の水深は浅く、大型船は入ってこれないため沖合に停泊し、小型船に積荷を載せ替えて入港していた。沖合の女木島には大型船が停泊している。

①については、旧香東川は近世までは栗林公園を経て現在のホテル・クレメント辺りが河口であったようです。
野原の港 俯瞰図イラスト

②の船着場があったのは、新高松駅と中央通りの間のエリアになります。
野原・高松・屋島復元地形図jpg

そして、③④⑤を見ると、雁木も突堤も灯台もありません。近世の鞆港とはイメージが大きくちがいます。ある意味港湾施設が何もなく貧弱におもえてきます。中世の港とは、どこもこんな感じなのでしょうか?
  当時の日本で最も栄えていた港の一つ博多港の遺跡を見てみましょう。
ここも砂堆背後の潟湖跡から荷揚場が出てきました。それを研究者は次のように報告しています。
「志賀島や能古島に大船を留め、小舟もしくは中型船で博多津の港と自船とを行き来したものと推測できる。入港する船舶は、御笠川と那珂川が合流して博多湾にそそぐ河道を遡上して入海に入り、砂浜に直接乗り上げて着岸したものであろう。海岸線の白磁一括廃棄が出土した第十四次調査においても、港湾関係の施設は全く検出されておらず、荷揚げの足場としての桟橋を臨時に設ける程度で事足りたのではなかろうか」

ここからは、博多港も砂堆の背後に広がる潟湖の波打際に立地して、砂堆が波除けの役割を果たし、静かな水域の浜が荷揚場として使われていたようです。そして「砂浜に直接乗り上げて着岸」し、「港湾施設は何もなく、荷揚げ足場として桟橋を臨時に設けるだけ」だというのです。日本一の港の港湾施設がこのレベルだったようです。
「⑤船着場の周辺には倉庫や管理施設・住居などはない」についても、
12世紀の港と港町(集落)とは一体化していなかったようです。河口のぽつんと船着き場があり、そこには住宅や倉庫はないのです。ある歴史家は
「中世の港はすこぶる索漠としたものだった」
と云っています。
 ここに建物(浜之町遺跡)の形成が始まるのは13世紀末になってからのようです。それは、福山の草戸千軒遺跡や青森の十三湊遺跡と同時期です。この時期が中世港町の出現期になるようです。それまで、港は寂しい所であったようです。

野原 陸揚げ作業イラスト
中世高松港 陶器の荷揚げシーン
このイラストは近畿圏から運ばれきた陶器を荷揚げしているシーンです。
野原の港からは多量の和泉型瓦器椀のかけらが出てきましたが、そこには摩滅の痕跡なく使用された跡がないといいます。新品を廃棄していたのでしょうか? どうもこれは近畿から運び込まれた器を荷揚げして選別し、不良品をその場で廃棄していたようです。チェックに合格したものだけが後背地に向けて出荷されていたのでしょう。
 この絵には海岸線に赤い石が敷き詰められています。これが③の「礫敷き遺構」です。
野原 礫敷発掘現場
平成8年(1996)の高松城下層遺跡(高松城跡西の丸町B・C地区)からは、波打際から礫敷き遺構が出てきました。潟湖の緩斜面に拳大の安山岩角礫を貼り付けるように構築し、平坦部は敷き詰められていました。上の図11の右側が海で、海から緩やかに陸に上がっていく緩斜面に石が敷かれているのが分かります。礫敷きは、時代を経て同じ所に何回も敷き詰め直されたようです。継続的な維持・管理が行われていたことがうかがえます。
  この敷石は、どこから運ばれてきたのでしょうか?
礫敷きに使われているのは安山岩角礫です。一番近い採取場所として考えられるのが、南約2kmの石清尾山塊です。石清尾山北麓の亀尾山には、山城の石清水八幡宮を勧請したと伝えられる石清尾八幡宮旧境内があり、その付近で節理の進んだ安山岩の露頭があります。ここから運ばれたと考えるのが自然のようです。それは、この港の管理運営に石清尾八幡宮が関わっていたことがうかがう材料になるようです。
 同じ角礫を用いた礫敷き遺構は、直島・積浦遺跡(12世紀)からもでてきています。
この遺跡は、直島南東部に湾人する小規模な潟の出入口にあり、自然の海岸線に安山岩角礫を貼り付けています。直島では花崗岩はありますが安山岩はありません。高松(中世は野原)から舟で運ばれてきた可能性もあると研究者は考えているようです。もしそうであえば、直島群島を経て児島あるいは牛窓に至る備讃海峡横断ルートが、野原を起点にこの時期に整備されたということになります。
 正応二年〈1289)に、播磨・魚住泊の修築料を室津・尼崎・渡辺などが負担している例があるようです。魚住泊を航路上の中継地として必要とした主要港町が、修築費を出しているのです。ある意味、受益者負担での原則で港湾整備が行われていたことを示す事例です。これが慣例的に行われていたのなら直島に、野原港(高松城下層遺跡)と同じ礫敷きが作られたのは、野原勢力による寄港地確保のための造営とも考えられるようです。
野原の港 木碇
礫敷きにの近くからは、木碇も出土しています。これに石などをくくりつけて碇にしていたようです。
野原の港 係留施設

この出土品は④の船着場に使われていた杭と横木です。この杭を浅い潟湖に打ち込んで、横木で固定し、その上に板木を載せていたようです。この板木と礫石が「湾岸施設」と言えるようです。「貧弱」とおもいますが、これが当時のレベルだったようです。


石井謙治氏は、近世の港について次のように述べています。
今日の港しか知らない人々には信じ難いものだろうが、事実、江戸時代までは廻船が岸壁や桟橋に横づけになるなんていうことはなかった。天下の江戸ですら品川沖に沖懸りしていたにすぎないし、最大の港湾都市大坂でも安治川や本津川内に入って碇泊していたから、荷役はすべて小型の瀬取船(別名茶船)や上荷船で行うよりほかなかった。(中略)
 これが当時の河口港の現実の姿だったのである。ただし船の出入りの多い瀬戸内の多数の港では、大きな河川も少ないため港湾の地形に応じた石組の波止を設けるという、大がかりな築港工事を行っている。これは日本の土木史上特筆すべき事業だと思うのだが、全く評価されてないのは残念である」(石井謙治「ものと人間の文化史」
それでは、雁木や灯台・灯籠などが港に現れるのはいつ頃からなのでしょうか。
①礫敷き遺構は12世紀前半、
②石積み遺構とスロープ状雁木は13~16世紀、
③階段状雁木は18世紀
雁木が現れるのは、江戸時代の後半になってからのようです。
灯台・灯標は、いつ現れるのでしょうか?
香川県仁尾宿人の木造金毘羅灯籠(寛政12年(1800)
鞆の石造金昆羅灯籠(安政六年(1859)
丸亀新堀湛市の太助灯籠(天保九年(1838)
などは、灯籠としては大き過ぎます。港内に置かれた位置からも灯台の役割を果たしたと研究者は考えているようです。
 一方、普通の石灯籠の形を取るもののは、ほとんどが金毘羅灯籠です。
波止の先端(多度津湛甫)
砂堆の先端(坂出浦)
湛市の港口(宇多津)
岬の先端(香川県与島浦城)
などには19世紀前半~中葉の年紀が刻まれています。やや先行する事例として和田浜湛甫では、寛政四年の石灯籠があります。
また高松城下では、 17~18世紀の絵画史料には東浜・西浜舟入などに灯標が描かれていませんが、19世紀前半~中葉には描かれるようになります。そして明治15年(1883)の古写真では北浜の本造灯籠と東浜舟入波止の石灯籠が写されています。
 以上から灯台・灯標の普及は、19世紀前半のようです。これは「19世紀前半の長大な波上による船溜まりの出現」と期を同じくするようです。
高松城122スキャナー版sim

ドック(船蔵)が姿を見せるのは16世紀末葉~17世紀前半の城下町建設からのようです。
「高松城下図屏風」には、藩専用の西浜舟入に多数の船蔵が描かれ、その背後の建物に材木が多数積まれています。商人たちが使用していた東浜舟入の背後でも船が作られている様子が描かれています。ドックの機能は、それ以前からもあったはずですが、特定の場所が船蔵あるいは焚場として「施設化」するのは、海に面した城下町が姿を荒らさすのと同じ時期のようです。
DSC02527
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐藤竜馬 前近代の港湾施設 中世港町論の射程 岩田書店
関連記事

宝永地震の際の高松城下町での倒壊被害について、史料を見てみましょう。
「小神野夜話」
往来一足も引かれ不申候 侍中両側之土塀と土塀と大方打合候程に覚候由 
「宝永地震当日は、往来に一足も行くことができず、武家町の土塀と土塀が打ち合うように倒れた。」
とあります。土塀は現在の鉄筋の入っていないブロック塀と同じだったようです。
  「随観録」
一 天守櫓 屋根瓦落 壁損申候 
一 多門ニケ所転懸申候 其外之多門少々ひツミ屋根瓦落壁大破仕候           
一 城内石垣並惣塀所々崩れ申候
一 城内潰家十九軒 此外二三之丸惣塀大破仕候
一 城内櫓一ケ所崩れ申候
一 潰家九百弐拾九軒 内四十五軒家中 
  六百四拾九軒町弐百三十五軒郷中
一 家中町屋建家数百軒大破
一 土蔵十ハケ所 川口番所三ケ所崩れ申候
一 死人弐拾九人 内九人男 廿人女
一 怪我人三人 内二人男 一人女
   以上
 この史料は高松藩から幕府へ提出したもののようで、被害状況が詳しく記されています。まず最初に挙げられるのが天守閣や石垣、城門・櫓などお城の被害であることが「封建時代」ということを改めて感じさせてくれます。天守櫓の屋根瓦が落ち壁が傷いたり、櫓も崩れるなど高松城自体にも大きな被害を受けたようです。しかし、「潰家九百弐拾九軒」とあり
倒壊 929軒
大破  数百軒
死者  29人(男9、女20)
被害が最も多かった場所が、城下の町屋で、高松藩全体の倒壊家屋の約七割を占めています。これは町屋の半分以上の割合になるようです。
  「翁謳夜話」(35)
  北浜魚肆瓦屋咸崩壊圧死者甚衆
 北浜の魚店(魚屋町)の瓦葺きの家はみな崩れ、圧死者が多く出た
と具体的な倒壊被害の場所や様子が分かります。藩は防火対策のために瓦葺建造物の建設を政策的にすすめていたようですが震災には、屋根に重い瓦の乗った家屋の方が倒壊率は高かったようです。死者の多くは、家屋崩壊による圧死者だったようです。
高松城122スキャナー版sim

 『増補高松藩記』には5年後の正徳元年(1712)の地震の時にも、魚屋町だけ76人の死者が出たとあります。また「小神野夜話」によると、享保三年(1718)元旦の大火では火が魚屋町に移ると大勢が助からないと、高松藩の役人を慌てさせたことが記されています。魚屋町は、店棚などの建物が多く建てられ、人口が密集しいる上に、袋小路の多い町並みで避難が難しかったことがうかがえます。災害に対して構造的な弱さがあると認識されていたのでしょう。魚屋町の住人は、広い場所に逃れることができなかった事が、他の町より圧死者数が多くなった要因と研究者は考えているようです。

高松城下図屏風 北浜への道1

 地震発生は昼の2時です。人々が「経済活動」を行っているときです。これが深夜であったなら寝込みを襲われて圧死者はもっと増えていたかもしれません。地震による火事の発生については触れられていません。
高松城下図屏風 船揚場への道3

 高松城下の流言飛語(フェイクニュース)は?
 地震直後は情報が空白となり、心理的にも不安になります。そのためいろいろな流言飛語が自然発生すると云われます。関東大震災の時の「朝鮮人暴動」の流言などが有名ですが、この宝永地震の時の高松はどうだったのでしょうか
     「翁謳夜話」
 都下流言某日将復大震海水溢 漂殺人 於是衆人皆匈々不得安枕 仮設草舎而寝臥且備米嚢海水溢則将斉去遁于山上
意訳すると
 再度大地震が発生し、大揺れに揺れて津波を起こし死傷者を出すという流言が飛び交った。そのため多くの人は安心して眠ることも出来ない。仮設の草葺小屋で生活を行い、さらに再度の津波に備え、非常用の米袋を用意し、いざという時には山の上に避難する準備をしている。

 2㍍近い津波は人々に大きな恐怖を植え付けたようです。今度は津波で多くの人が流されるという噂におびえています。津波に備えて非常用持ち出し袋も準備しています。流言が広がることで、人々は不安になり、混乱が発生していることがうかがえます。

高松藩の対応は?
 宝永地震の時の藩主は、第三代松平頼豊です。この地震は、藩主となった三年後のことでした。松平頼豊の治政は、宝永地震だけではなく、火事や風雨害など数多くの自然災害に悩まされたようです。
 地震当日の宝永四(一七〇七)年十月四日、松平頼豊は、参勤交代で江戸にいました。そのため高松での地震には遭っていません。
高松藩では、被災者に対してどのような対応を取ったのでしょうか
  「恵公実録」
(十月)十一日賑賜損屋者有差
11日地震で家が倒壊した者に米や金などが与えられ救済措置が施された
  「翁謳夜話」
  命有司書壊屋鯛之以金若穀各有差示
 地震後、役人に倒壊家屋の被害状況を調べさせ、被害に応じて金や日米を支給した
  「小神野夜話」
家中町郷中破損之家多く御座候由過分之御救米も被下候由
家中や郷中には、破損した家が多いので、藩から被災家屋それぞれに過分の御救米が与えられた
以上から高松藩では、地震発生から一週間以内に被災者に対する救済体制を整えていたことがわかります。高松藩は、この地震の前から多くの自然災害に襲われ、その対応経験がありました。いわば危機対応のマニュアルが準備されていたのかもしれません。それが迅速な対応となって現れたとしておきましょう。
 後の安政南海地震の際には、寒川郡長尾西村の庄屋をつとめた山下家の文書等からわかるように、高松藩内の村々の庄屋が、それぞれ村内の被害状況を詳細に調べ、藩に報告をしています。しかし、この地震の時には、村々の庄屋がどのように動いたかが分かる史料はないようです。
 宝永地震は、余震が長く続きます。翌年の夏頃になり、ようやくおさまります。やっと人々は、通常の生活に戻る事ができたのは約1年後のようです

3回にわたって300年前の大地震の被害と影響を見てきました。
最後に、その被害をもう一度まとめておきます
①五剣山のひとつの剣であった峰を崩落させ、見なれた故郷の山を姿を変えた。
②干潟を埋めて干拓された新田では、液状化現象が起こった
③夜には1,8㍍ほどの津波がやってきて、防波堤が数多く壊された
④高松城の天守閣の瓦が落ちたり、壁や櫓が崩れるなどの大きな被害を受けた
⑤瓦葺きの家を中心に900軒以上の家屋が倒壊した。その内、城下町内では600軒に及ぶ。これは半数以上の家屋が倒壊したことになる。
⑥北浜の魚屋町は道が細い道が入り組み袋状になっており、逃げ場の無い人たちが倒壊で多くの死者を出した。
⑦しかし、死者は全体で29人と以外に少ない
⑧高松藩は藩主は参勤交替で不在だったが、1週間後には救援活動を始動させている

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。

 震度7の地震で発生した「液状化現象」とは - ウェザーニュース

巨大地震に液状化現象はつきものと、今では認知度は高いのですが、江戸時代には大地が割れ、水が湧き出すのはまさに「天変地異」で人々を驚かしたようです。残された記録には、液状化現象が次のように記録されています。
 「翁謳夜話」
  地裂水湧 漂所爆稲瀕 河海軟沙地特甚
 地面が裂け、水が地面から湧きだした所は、瀬のようなった。河や海付近の地盤が軟らかい地では特に被害が激しい
     「消暑漫筆」
 土地われて白キ水流れ出 後二鼠色成何共合点不行髭生候由(中略)其土地に生へたる髭のやうなる物にて小児輩とりて翫ひと遣しよし合点のゆかぬものなりとなり
土地が割れて白い水が流れ出て、その後にねずみ色の髭のようなものが生えてきた。その土地に生えた髭のもので、子ども達が玩具のように遊んでいるが、これが何か分からない。
  示神野夜話
  地割白水流レ 後地鼠色二成 毛なとはへ申候
 三つの史料には、地面が裂け、水が噴き出す液状化現象が記されています。しかし、「消暑漫筆」・「小神野夜話」には、「鼠色」のなんとも分からない「髭」・「毛」が生えていると記します。「消暑漫筆」には、「鼠色の髭」を子供達がとって遊んでいるともあります。「鼠色の髭」状のものとは何でしょうか?
「地震時に砂が地下水とともに噴出する噴砂現象」
と研究者は考えているようです。宝永地震の時には高松でも、液状化現象や噴砂現象が海岸・河川付近の軟らかい土地で発生したようです。


詰田川橋付近では地割れが起こり、液状化被害が発生した?
地割被害については、次のように具体的な地名も記録されています。
 「翁謳夜話」
 地裂水湧漂所爆稲瀕河海軟沙地特甚 故木田冷(詰田)川東大路柝六尺  余山下堅厚粘土雖柝不甚

 先ほどの液状化現象の続きには、具体的な地名が「木田冷(詰田川」と記されています。現在の高松市木太町の「詰田川」です。その次の「東ノ大路」は、江戸時代初期、高松藩初代藩主松平頼重の時に整備された「志度街道(下往還)」になるようです。
 意訳すると次のようになるのでしょうか。
詰田川の東側の志度街道が裂けて、液状化か起こり水が湧き溢れている。その地割れの広さは、六尺(約一八〇センチ)余にもなる。

 「翁嬉夜話」(松平家本)
 山田郡木太(木田)郷冷(詰田)川橋東半町許大道
 柝水溢広六尺余 余親見之 
 几海浜河辺沙上 多柝若山下粘土則否
 同じ「翁謳夜話」ですが写本の際に、加筆が行われたりして細部が異なるものがあります。この「翁謳夜話」(松平家本)では、地割れが発生した場所は「木太(木田)郷冷川(詰田)側橋東半町許の大道」とあり、詰田川橋の東側約55㍍付近の志度街道と、より詳しく記されています。そして、「余親見之」とあり、筆者自身が見に行って、その状態を観察したと記しています。
「翁謳夜話」の筆者である菊池武賢(黄山)は、讃岐の歴史を代々調査研究していた木太村の増田一族の出身です。「三代物語」を編纂した増田雅宅(休意)の弟になります。養子に出る前は、菊池武賢も本太村に在住し、生活をしていたのでしょう。菊池武賢は元禄十(1697)年生まれなので、10歳の時に宝永地震に出会ったことになります。家の近所で起こった地割れを実際に自分の目で見たのでしょう。それを後に記述したという事になります。
HPTIMAGE高松

  なぜ詰田川橋で液状化現象が発生したのでしょうか?
 高松市木太町内を通る志度街道(現在の県道155号牟礼中新線)は、現状からは考えにくいのですが、高松市内から屋島へ海岸沿いに伸びる街道でした。江戸時代以前の天正年間の復元図を見ると、現在の高松城と屋島の間は「玉藻浦」と呼ばれる入り江で、その奥には「遠干潟」が広がりっていました。入り江は高松市南部に食い込み、現在の本太町の内陸部付近まで海岸線が入り込んでいたようです。
高松天正年間復元図1

 「遠干潟」は、どのように「新田」開発されたのかを史料は、次のように語ります
 「翁謳夜話」(松平家本)
(寛永)十四年 築堤障海水為田 
 福岡木大(木田)滑浜冨岡春日村小地名是也
 今並為熟田民大頼其利到于今称之
  意訳すると
 (寛永)十四年に堤防を築き海を塞ぎ、新田にした。
 福岡・木大(木田)・滑浜・冨岡・春日村の地名となっているところがそうである。いまは美田となって民は大いに潤っているが、その利益はここに始まる。

野原・高松復元図カラー
入江の奥が屋島の潟元(方本)、その対岸が詰田・春日川河口 

 寛永年間には旱魃や自然災害で飢饉が多発して、生駒藩は危機的な状況に追い込まれます。その打開のために生駒藩の幼い藩主の祖父で「後見人」であった伊賀藩主藤堂高虎家は、西島八兵衛を讃岐に派遣します。そして、新田開発や数多くのため池を造らせて、藩内を一つにまとめ危機打開を図ります。その時に、それまで遠浅の海岸であった場所に防潮堤を築き、海水の流入を止め、新田を開く工事が行われます。それが現在の高松市上福岡町、木太町付近で、寛永十四(1637)年のことになるようです。
 史料の「木太滑浜」とは、現在の木太町洲端地区になります
「洲端」という言葉のとおり、ここは川が海へ流れ込む際に形成される「洲の端」であったようです。西島八兵衛の干拓事業により、遠浅の海岸付近が田地に変り、今では大いに稲作が行われていると、この史料には記されています。

宝永地震における高松藩の被害状況
初代高松藩主松平頼重の新田開発
「英公外記」
此年松嶋すべり之沖より潟元村之沖迄東西之堤を築き沖松島木太春日之潟新開成る 
下往還より南手之新開ハ先代之時西島八兵衛が築し所なり
 文頭の「此年」とあるのは、寛文七(1667)年で、高松藩初代藩主の松平頼重の治政になります。西は松島から東は潟元までという長い防潮堤を築き、大干拓を行ったことが分かります。これで沖松島・本太・春日の地に新たに田地が開かれます。
 2行目には、下往還(志度街道)より南に作られた「新開」は、松平頼重の時に作られたのではなく、それ以前の寛永年間に西島八兵衛が行った干拓事業の際に、作られた場所であると記されています。松平頼重は、生駒家が出羽国へ転封した後も防潮堤を築き続け、さらに大規模な干拓・新田開発の事業を行ったようです。

高松野原 中世海岸線
 「翁謳夜話」
修山田郡下大路 寛永十四年 西嶋之尤築堤 障海水為稲田 其隠曰下往還今又修之為大路
 松平頼重は西島八兵衛により作られた下往還(志度街道)を大規模改修し、藩内の街道整備も行います。志度街道は「翁謳夜話」の慶安元(1648)年の記事によると、干拓の為に造られた防潮堤上を通っていました。
 つまり、180㎝の地割れを起こした詰田川橋付近は、かつては遠浅の海岸付近であったのです。その地を人口的に埋め土地を形成し、その上に堤を作り街道を通しました。そのために軟弱な地盤が地震による激しい震動で、地割れや液状化被害が発生したようです。現在でも液状化現象が起きているのは、臨海部の埋め立て地帯です。埋め立てから何十年も経つと、そこが海であったことを忘れてしまいますが、地下水脈は脈々と生きています。現在の地形だけを見て、安全だと判断は出来ないようです。こんな所にもハザードマップ作成の必要性があるようです。
高松地質図

 讃岐でも津波被害はあった?
  「翁嬉夜話」
  来日夜小震数矣 潮汐高于恒五六尺堤防多潰
その日の夜に小さな揺れが何度も起きて、潮位がいつもより5・6尺(180㎝)ほど高くなり、上がり堤防が多く壊れた。
とあります。
  「消暑漫筆」
  高潮来り平地之上深事六尺
  通常の潮位より六尺程高い潮が来たと
記されているます。ここからは巨大な地震では、瀬戸内海にも高さが約180㎝の津波が押し寄せ、港の堤防の多くを破壊したことが分かります。ちなみに、この年の秋台風で大雨・洪水で高松では、堤防が壊れたり、人家の浸水被害が出ていました。そのダメージから回復しないところへ追い打ちをかけるように、津波が襲いかかってきて、堤防の多くを壊したようです。

高松 地震の被害
液状化現象が起きやすい場所
以上をまとめておきます。
①寛永地震では高松でも液状化現象や津波が発生している
②液状化現象が発生しているのは江戸時代に開かれた「新田」に集中している
③詰田川周辺の「新田」は、江戸時代以前は干潟であった
④夜になっても余震が続き、180㎝の津波も発生。多くの防波堤が壊された。

おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 芳渾直起 宝永地震における高松藩の被害状況 香川県文書館紀要18号 2014年

 1882年(M15)年12月30日の早朝に、大型ヨットが高松港にやって来ます。極東冒険旅行を行っていた英国の探検家ギルマールー行の船でした。彼が高松城で撮った4枚の写真を見てきました。今回は最後の1枚を見ていきます。
 
撮影場所の太鼓楼の位置と撮影方向を確認しておきましょう。

6 高松城 俯瞰図16

桜馬場の東南角に、当時あったのが太鼓櫓です。そこからカメラを南に向けて撮っているようです。そこには眼下の中堀は写っていません。中堀に面した侍屋敷が一番前面にあります。そして、侍屋敷の向こうに外堀があり外堀沿いに瓦町と常磐町が東西に伸びます。
写真は太鼓櫓から丸亀町方面(南側)を望んで撮影されています。
6 高松城 ケン写真2拡大4

研究者は、この写真を次のように分析しています。
①手前に写真には見えないが中堀に面した街路(御堀端)があり、その背後に武家屋敷が広がり、さらに外堀外側に町家と寺町が見える。
②背景中央には紫雲山がそびえ
③右手前に見える建物群は、江戸詰めの下級藩士の家族が住まう「江戸長屋」である。
④この屋敷地は旧大手門の前面にあたり、生駒家時代には重臣三野四郎左衛門や前野治太夫の屋敷があった。
⑤松平家に替わってからも藩主一族の松平大膳屋敷の東隣、重臣谷蔵人屋敷の西隣という重要な位置にあり、
⑥享保年間の「高松城下図」には「御用屋敷」と表記されている。
⑦絵図で「江戸長屋」と見えるのは、文化年間の「讃岐文化年間高松御城下絵図」が初見で、その後幕末を経て明治二十八年の市街地図を最終とする。
⑧おそらく元来は藩の重臣の屋敷であったものを、後に何らかの事情で藩が接収し、江戸長屋としたのであろう。
6 高松城 7

 つまり写真に写っているのは「江戸長屋」で、それはかつての重臣の広大な屋敷地であった敷地に街路を付けて分割して「長屋」化したものだというのです。
6 高松城 江戸長屋3拡大4

  研究者は、次に写真に写っている建物を平面図に起こします。
6 高松城 江戸長屋4

 写真の撮影内容と平面図を比較しながら次のように分析します。
①江戸長屋の北面(手前、図1-1・2)と南面(奥、図1-3)に長屋建物がある。北面の長屋建物は海鼠壁をもち、二棟が並んでいるが、西側建物(図1ー2)の妻壁に梁が露わになっており、柱に貫穴が見られる
②また東側建物(図1-1)の地形石が建物の外(西)側に飛び出すなどの不自然な点がある
 ここから前面の東西の長屋は、もともとは一棟の長屋建物であったと考えます。さらにこれらの建物は、かつてここが重臣の屋敷だった時に建てられたものを「転用」していると推察します。
 再度確認すると、生駒時代や松平時代初期のおおきな屋敷地が、後の時代に分割され、敷地内に街路通されます。この街路は幅三間程で、江戸長屋の中央部を屈折しながら南北に貫いています。また東西方向に細い路地が分岐します。その形状は明治28年の市街地図と一致するようです。
 平面図を見ると、街路の西側に土塀で区画された宅地が八単位(図1-a~h)あることが分かります。そこに主屋と付属屋が配されています。宅地の主屋には、草葺屋根が二棟(図1-4・5)見えます。そのうちの一棟(図1-4)は、瓦葺の庇を葺き下ろす「四方蓋造」です。草葺屋根は、南側の別の武家屋敷の主屋にも見えます。

6 高松城 江戸長屋2拡大4

 御堀端手前の街路には、五~六条ほどに盛り上げられた畝と作物が見え、畑として使用されているようです。畝の間には、石組みの井戸も見えます。
 おそらく敷地のまわりを囲む海鼠壁の長屋建物は、御用屋敷になった時に設置されたもので、その内側の建物のほとんどは江戸長屋の施設と研究者は考えているようです。確かに、建物の傷み具合から見ると、明治時代になって新築されたものではないようです。

武家屋敷の背後には、間口四間程度の町家が東西(左右)に続きます。
6 高松城 瓦町常磐町

外堀に面した町人地の片原町と兵庫町だ。写真には写っていないが、これらの町家の存在によって外堀の位置が想定できる。
と研究者は云います。規則的に東西に並ぶ町屋の存在から外堀の位置が確認できるようです。私には、もうひとつ分かりません。
また、次のようにも指摘します。
 これらに直交して、南北方向に連続する町家がある。周囲よりひときわ高く立派な町家が多いことから、城下の大手筋だった丸亀町と考えられる。第百十四国立銀行(現・百十四銀行高松支店の場所)はこの頃、既存建物を借りて営業しており、この写真のいずれかが該当するものと思われる。
 
同じように丸亀町通りの家並みも分かるといいます。 
丸亀町の北側(手前)のふたつ並ぶ二階建の洋館については、次のように云います

6 高松城 高松郵便局

 この2棟は丸亀町の北側延長上にあり、片原町・兵庫彫の町家よりもわずかに北側にあるため、外堀に架かる常盤橋よりも内側の旧武家地(内町)にあることが読み取れる。手前の建物は東(左)面に玄関庇があり、背後の建物も東(左)面にベランダがあることから、ともに東側をファサード(正面)としたことが分かる。つまり、常盤橋近くの街路西側に面して洋館が建っていたことになり、ほぼ現在の高松中央郵便局の場所に比定できる。(
 
 高松郵便局と考えられる洋館の細部については、次のように指摘します
①手前の洋館は漆喰塗りの外壁に寄棟屋根を乗せており、軒直下には分厚いコーニス(軒蛇腹)とデンティル(歯飾り)を巡らせている。
②外壁の四隅には付け柱か色漆喰による隅石がデザインされているようである。
③窓は床面から立ち上がる内開きのフランス窓で、その物外側に外開きの鎧戸(隙間が開いて通気性のある戸)が取り付けられている。
③背後の洋館は、正面側に深い軒を支える支柱が見え、ベランダを構成している。
目立つのが、その手前の白い大きな切妻屋根の建物です。
トタン葺きのようにも見えますが板葺だと研究者は云います。どちらにしても大きさの割には「簡易構造」のようにも見えます。よく見ると東(左)側の妻壁に四本の支柱に支えられた「櫓」が立ち上げられているようです。そうだとすると、この建物は芝居小屋と考えられます。内町には、明治14年に開業した芝居小屋・旭座があったといいます。その位置は
「常盤橋」「現在の高松郵便局のある場所」
とされていて、この建物の位置とほぼ一致するようです。自由民権思想家である中江兆民らがここで演説会を開き、明治を代表する俳優・川上音二郎が壮士芝居を演じたという旭座のようです。
 このように常盤橋周辺の内町や丸亀町には、郵便局や銀行、遊興施設(芝居小屋・料亭)などが姿を見せ、新たな市街地景観を作りだしていたことがうかがえます。
町家の遙か向こうに高い屋根の寺院建築が連なるエリアがあります。

6 高松城 法泉寺遠望


 城下町の南側の防衛ラインとして造られた寺町です。大きな本堂をもつ寺院に無量寿院・興正寺別院・法泉寺などがあります。写真にも寺らしい建物がいくつか見えます。寺町の一番西側の法泉寺の本堂が見えているようです。この寺は生駒家の菩提寺として作られ、広大な境内を持っていたことは以前お話ししました。
 また、旭座の遙か向こうに巨木が何本か立ち並んでいるのが分かります。これが現在の中央公園付近にあった浄願寺です。この写真が撮られた明治15年には、境内に香川郡役所と高松中学校が置かれていたようです。
「高松中学校の校舎本館は明治6年に建てられた二階建の擬洋風建築であるが、浄願寺の松林背後にかろうじて二階部分をのぞかせている」
と、研究者は教えてくれるのですが、私の写真ではそこまでは確認できません。しかし、逆に、そこまで映り込ませている写真家の技量は高かったということなのでしょう。

最後に、4枚の写真から見えてくる高松の街並みを見ておきましょう
6 高松城 ケン写真2拡大2

 町家は、本瓦葺・漆喰壁の塗屋造の中二階で、上の下横町に見られるような一階庇の高さを揃えた統一的な景観になっています。初代藩主松平頼重の時に高松城下町を描いた「高松城下図屏風」(慶安・承応頃)には板葺・土壁の平屋の町屋が続いていましたが、250年程の間に、瓦葺き、二階建てに変わってきたことが分かります。
6 高松城 江戸長屋5
「高松城下図屏風」の町屋は板葺き・平屋
この変化を後押ししたのは、享保三年(1718)の高松大火などの度重なる火災だったと考えられます。防火対策として塗屋造十瓦葺が当局から推奨ないし強制された可能性があるようです。
 城内の「東ノ丸」は、不思議な性格を持ちます。

6 高松城 ケン写真2
 東ノ丸は海側は、堅固に造られています。しかし、写真で見た通り町家と接する東面と南面は、低い石垣上に土塁があるだけです。多聞櫓は乗っていませんでした。これでは中堀を挟んだ北浜の町家からは、内部が丸見えだったはずです。北浜から東ノ丸北半部に入る枡形も形式的なもので、実戦性はありません。つまり、城下に対して「開放的な空間」のようにみえます。どうしてでしょうか?
 それは、ここにあった米蔵の運用上のためだったと研究者は考えているようです。
 年貢米の集積と上方への輸送のために港(内町港)が使われました。東の丸の作事舎は、資材や労働力の確保のため中堀を挟んだ町人地・北浜界隈との結び付きなくしては運用できなかったようです。そのために、隣接する港や町人地に対して開かれた構造を採らざるを得なかったのでしょう。そのために本来の軍事施設という性格が時代と共に薄れていったと研究者は考えているようです。

最後に4枚の写真から高松の「近代都市」への萌芽を探してみましょう
 明治期になって建てられた建造物が集中する地域は、次の3ヶ所でした。
①常盤橋周辺、
②内町港口から北浜恵美須神社にかけての地域
③東浜港口と八重垣新地、
それらの性格は
①は旧武家地の再開発であり、公共建築(高松郵便局)と商業施設の混在した街並みが形成されていました。武家地と町人地を繋ぐ常盤橋周辺が新たな市街地形成の求心力をもった地域であったことを窺わせてくれました。
②・③は港湾の開発で、
②では海運(汽船)・漁業(魚問屋・魚市場)の拠点、
③では新たな遊興地である遊郭が形成
されていました。汽船の寄航地である内町港は、江戸時代以来の港に「田中の波止」が加えられた程度で、ヒルー・ギルマールが乗ってきた大型ヨット(客船)は、沖合に停泊していました。
 ここからは、明治15年の段階では、汽船が安全に停泊できる泊地もなかったことがうかがえます。本格的な市街地と港湾の近代化は、第三次香川県が成立し、鉄道網と港湾がセットで整備されていく明治二十年代以降になるようです。

おわりに
 香川では、明治十年代の営業が確認できる写真師は1名しかいないようです。明治15年の高松では、写真自体が珍しいものだったのです。香川の写真師が野外で撮影した明治前半の写真は、ほとんど見つかっていないようです。これは、湿板で風景を撮影できる技術を持った写真師が香川にはいなかったためだと研究者は考えているようです。
6 高松城 天守閣1
 それに対して、幕末から明治前期にかけて、外国人向けに販売された写真は、数多く見つかっています。しかし、香川県内のものになると少なくなります。あってもほとんどは金刀比羅宮や寒霞渓など名所の写真です。
 今回発見された写真は、撮影年月日もはっきりしている上に、細かいところまではっきりと識別できます。これほど鮮明に高松城・城下をとらえたものは、今までにありませんでした。
 四枚の写真は、城郭を中心とする江戸時代の姿と、それを突き崩し始めた近代都市としての高松城下の姿が重なって写し込まれていました。

   参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

        ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真―マーケーザ号の日本旅行
 
 1882(M15)年の年の瀬も押し詰まった12月30日の早朝に、見なれぬ英国の大型ヨットが高松港にやって来ました。この船に乗っていたのがケンブリッジ大学医学部を卒業した後に、ヨットでの極東探検を行っていたギルマールー行です。船には、高松城の「撮影」許可のための外務省の係官や横浜で活躍する写真技師も乗せていました。
 ギルマールたちは高松城で写真を撮ると、その日の午後には出港していきます。まさに、高松城を撮るためにやってきたかのようです。それでは、いったい何枚の写真を撮ったでしょうか?

6 高松城 ケン写真2

 4枚です。
桜馬場からの天守閣
桜馬場の太鼓櫓から屋島方面
天守閣からの屋島方面
太鼓櫓から南方面
の4枚だけなのです。それほど湿板写真を撮るのは、手間と労力が必要とされたが分かります。今であれば、スマホで何百枚も撮影したかもしれません。前回は、この4枚の写真の内で①の天守閣を見ました。今回は、残りの3枚を見ていくことにします。

6 高松城 
②桜馬場の太鼓櫓から屋島方面(クリックで拡大します)
  桜の馬場南東の太鼓櫓(現在は同地に艮櫓が移築されている)から屋島の方向(東)を望んで撮影されています。目の前に東下馬、左側に東ノ丸(作事丸)が見え、その背後に下横町・北浜町などの内町、東浜界隈が見えます。
現在の地図で位置を確認しておきましょう。
6 高松城 6

①東下馬は、現在の高松城への東入口である桜門の外側になります。駐車場になっているあたりです。かつてここは登城の際に、その家臣の供が控える所で、「腰掛」がありました。写真にはありません。撤去された後のようです。

6 高松城 ケン写真2拡大1

 堀端に植えられた松の大木は、東下馬の目印として江戸時代の絵図にも描かれていますが、一部は伐採されて石垣石材とともに積み重ねられています。
 東下馬の左側(北)の②中堀には、土橋が架かっています。これが東の丸(作事丸)と繋がる橋ですが、よく見ると、真ん中どころが壊れているようです。作事丸の南東隅には巽櫓がありましたが、櫓台が残るだけです。
③東の丸の櫓台手前の低い石垣上には、土塁があります。もともとは土塁の上に土塀があったようですが、そこには松の大木が何本も茂っています。これは、明治になっての変化ではないように見えます。江戸時代のうちに土塀は、撤去されていたようです。
6 高松城 ケン写真2拡大2
中堀の向こうは下横町・北濱町
 目を転じて、中堀の向こう側の町屋を見てみましょう。
この中堀が現在のフェリー通りになります。中堀の向こう側に見える町屋は④下横町のようです。この町屋について、研究者は次のように、述べています。
①町家は中二階で、軒裏の垂木を塗り込める塗屋造である。
②間口・屋根高にはばらつきがあるが、通りに面した一階庇は高さが揃えられており、統一的な景観がある。
③町家の表構えは店名か屋号を書いた障子戸を伴う開放的な町家と出格子窓が連続する閉鎖的な仕舞屋風の町家がある。
④仕舞屋風町家には、同一棟が均等割りされた長屋形式のものと、間口六同程度の大型建物がある。
  私には詳しくは分かりませんが、写真からは瓦葺きの2階建ての町屋が奇麗に並んでいるのが分かります。
中堀の雁木のある風景
 町家の前の中堀には、緩やかな勾配の石積みが見えます。大型石材の平坦面を揃えて法面として並べて、階段状になっています。⑤「雁木」(荷揚げ場)のようです。ここまで船が入り、荷物の積み下ろしを行っていたようです。雁木の後ろには、⑥材木や薪などが積まれています。この辺りは材木町として発展してきたことを、思い出させてくれます。
 これらの町家の背後に、北浜恵美須神社が見えるといい
「入母屋屋根をもつ拝殿の前面には唐破風の車寄せが突き出し、拝殿背後には一段高く本殿が立ち上がる。拝殿・本殿は、昭和二十年七月の高松空襲で焼失した。」
と研究者は記すのですが私には分かりません。
 
 北浜恵美須神社門前の街路を京(右方向)に進んだところには、東西主軸の長大な建物が見えます。平屋ですが軒は高く、道向かいの町家の棟高ほどもあり、かなり大型の建物のようです。明治28年の市街地図では⑦北浜材木町の魚市場となっています。この辺りは、鮮魚店も多かった所です。
6 高松城6 天守閣の展望pg
写真③ 三ノ丸御殿・東ノ丸・港
 本丸天守から屋島を望んで撮影されています。
手前から三ノ丸、北ノ丸、京ノ丸(米蔵丸)、北浜港界隈、京浜湊界隈が見えます。太鼓楼からの写真②と重なる部分がありますが、海(北)側の高い位置から撮影されているので、城内と港の様子がよくわかります。
三の丸御殿
 天守閣からは、三ノ丸の①御殿(披雲閣)が直下に見えます。写真では、雁行する建物が入り組んで組み合わされているのがよく分かります。
 御殿の正面中央(右側手前)には、式台と広間からなる②「御玄関」と、その背後の「黒書院」があり、これらの儀礼空間が表御殿の中心舞台になります。いずれも屋根は檜皮葺ですが・・・よく見ると檜皮がなくなって垂木と野地板が露わになっていて痛々しい感じがしてきます。
 このほか正面東側には、やや簡素な檜皮葺で本瓦葺の庇がついた「表坊主部屋」「大納戸」や、本瓦葺の「奉行部屋」・「年寄部屋」「大老部屋」などの役所並びます。 まさに権力中枢を構成する建物群です。
 役所の横には、本瓦葺の入母屋屋根に煙出しが付いた建物が異彩を放っています。これが③「御台所」で、その後に檜皮葺の「御料理間」があります。これら表御殿の背後に、中・奥御殿の殿舎が並びます。いわゆる殿様のプライベート空間にを構成する建物群で、平屋建の数寄屋なども見えます。
 全体としては屋根の傷みが目立ちます。玄関や役所・台所の出入口付近には、草が繁茂しています。建物としては、陸軍管理下でも使われずに放置されたままであったような感じがします。
6 高松城 ケン写真2拡大3
北の丸・東の丸 
 三ノ丸御殿の左後方に④北ノ丸が見えます。城外方向の東面と北面には石垣上に漆喰塗りの多聞櫓が巡らされ、その北東隅に鹿櫓が建ちます。また東ノ丸に接したところには、櫓門があります。
 東ノ丸は、海に接した北面だけ漆喰塗りの多聞櫓があり、北東隅に建つ艮櫓と北ノ丸との間を繋ぐ役割を果たしています。幕末の絵図では、艮櫓から南(右)側には土塁上に土塀があり、これが写真②に写された巽櫓へと延びていたと云います。しかし写真③では、写真②と同じ様に、石垣上の土塁上には土塀はなく、松の大木が生い茂っています。
内町港周辺
 更に遠くの場外を見ていきます。艮櫓北(左)側の海域には、内町港から延びる二本の波止が見えます。手前側は江戸時代からある波止です。奥側の小船が繋がれた波止は、旧藩士の田中庄八が明治13年に作った「田中の波止」(一文字波止)だそうです。田中は、高松に汽船を寄航させるために、私費を投じて全長136mの波止を造ったようです。 
写真の一番右手奥が八重垣新地で、そこに長大な建物が見えます。いったい何なのでしょうか?
研究者は、この1枚の写真から、つぎのような情報を読み取ります。
①周囲の波止との間に、柵らしいものがあり、港との間を隔てている。
②二階の階高が高く、板戸ないし格子戸を伴う部屋が並んでいるように見える。
③入母屋屋根の軒が長く伸び、戸の前は廊下(濡れ縁)になっている
④廊下沿いに座敷が並ぶような間取りである。
以上から、八重垣新地に立地するということから考えて、明治7年以降に建てられた遊興施設の可能性を指摘します。さらに長大な建物の南(右)側には、二階の高い和風建築(間口五同程度)が東西に軒を連ねます。窓の配置から、同じ規模の部屋が並列しているように見えることを加えて、遊郭の可能性を指摘します。明治当初に、ここにはおおきな遊郭があったようです。
 港周辺の船は、櫓を漕ぐ小舟が圧倒的に多いようで、帆船は港の沖合に二隻見られるだけです。このうちの一隻が、ギルマールのヨットのようです。
以上、天守閣と太鼓楼から当方の屋島方面をみた写真を「読み」ました。年の瀬の12月30日に高松城内で4枚の写真は日本人の写真技師臼井によって撮られたようです。そこからは140年前の高松城周辺の様々な情報が読み取れるようです。
参考文献
野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号2006年

   

 

 
6 高松城 天守閣2
今まで一番古いとされてきた天守閣の写真

2005(H17)年3月に、ケンブリッジ大学図書館が、高松城の写真を所蔵しているということが分かりました。それは、写真集の出版準備を進めていた平凡社より県立ミュージアムへの問い合わせがきっかけだったようです。問い合わせの内容は、同大学所蔵の写真のうち「名古屋城」というタイトルがつけられた写真があるが、高松城の間違いではないかというもので、合わせて「讃岐高松」というタイトルがついた写真3枚が送付され、現在の場所等が分かれば教えてほしいというものだったようです。
 「名古屋城」というタイトルが付けられた写真は高松城天守閣の写真であり、残り3枚は高松城内から城下を撮影したものと分かりました。明治初期の高松城天守閣の写真は、それまで一枚しか見つかっていませんでした。
6 高松城 4

1882年の高松城の天守閣から見ていくことにしましょう。
テキストは「野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年」です
 
6 高松城 天守閣1
 三ノ丸外側の曲輪・桜の馬場の桜門のあたりから本丸天守を撮ったものです。今まで知られていた写真と同じ方向・角度で撮られています。三層四階地下一階の天守です。外壁の白い漆喰のはげ落ちている所も同じです。ここからは、ふたつの写真は、ほぼ同じ時期に撮影されたことが分かります。
 研究者は次のように指摘します。
「最上階(四階)の東面南隅外壁と、二階東面北側の連子窓周辺の漆喰損傷状況を見ると、従来の写真の方がケンブリッジ大学の写真よりもわずかに剥落が進行していることが分かり、先に撮影されたようである。」
ということで、高松城天守閣を写した一番古い写真となるようです。
この写真からは、次のような特徴や状態が見て取れるようです
①初層が石垣から大きくせり出していること、
②三層の四階が三階よりもはみ出す「南蛮造」であること
③初層・二層の軒裏には軒と壁を斜めに架け渡す方杖で、
④四階の飛び出した床は二段に重ねられた片持梁で支えられている
⑤外壁は漆喰が剥落し、初層には小舞が露出している箇所もある
⑥大棟がへたっている以外は軒の歪みも少なく、構造自体はさほど老朽化していない
天守の西側に重なって見えるのが本丸です。
ここには、地久櫓などと天守を連結する多聞櫓が巡っていたと云われます。しかし、写真の左端に見える本丸南東隅には多聞櫓はありません。天守曲輪手も見えません。そこには、草が生い茂っています。明治になって、破却されたようです。
 また天守台右奥に見えるニノ丸東面には、石垣上に漆喰塗りの白い土塀が見えます。しかし、それも奥(北)側の黒櫓に近い箇所では倒壊したまま放置されているようです。 研究者は
「このほか、ニノ丸北西隅に建つ二層の廉櫓がおぼろげながら見える。」
と云うのですが私には分かりません。

6 高松城 天守閣3
現在の天守閣跡の石垣 

この写真を撮影した英人旅行家ギルマールは、『旅行日誌』の中で、高松城の荒廃ぶりに強い興味を示しています。この写真からも天守閣の壁や披雲閣の屋根など老朽化が見て取れます。桜馬場も草や芝木が伸び放題です。ギルマールは
「草木があまりにも生い茂っているので、我々は道に迷ったほどである」
と記しいます。大がかりな撮影道具を持って歩くのは難しく、機材を設置して撮影が出来る場所も限られたようです。
 明治を迎えた時にすでに老朽化していましたが、陸軍が使用しなくなって以降、さらに荒廃が進んだようです。
 この写真が撮影されたのは明治15年ですが、その2年後の明治17年には取り壊されます。三ノ丸御殿が取り壊された時期については分からないようですが、この写真には写っていますから明治15年まではあったことが確認できます。天守閣と同時期に取り壊されたと考えられます。

6 高松城 天守閣1
 
この写真の右側の石垣上に見えるのが三の丸の多聞櫓のようです。
写真には入っていませんが、多聞櫓はさらに右側に伸びて三ノ丸正門である桜御門に繋がっていました。
「節子下見板の外壁と垂木を波形に塗り込んだ軒裏は、桜御門と同じ」

と研究者は指摘します。多聞櫓は、三の丸南東角の龍櫓を起点に北と西に延びていたようです。
6 高松城6 天守閣3

 私が興味があるのは実は、お城よりもこれを撮した人たちです。
どんな人たちが、どんな目的で高松までやってきて、この写真を撮ったのでしょうか。今ではスマートフォンの普及で写真撮影は日常化していますが140年前には、写真撮影は高度な最先端技術でした。この時期、日本ではまだ乾板が普及していなくて、湿板がつかわれていたようです。これには、撮影器具が数多く必要でしかも大型です。そのため野外撮影は事実上はできなかったようです。そのためギルマールが高松城で撮った写真も4枚だけです。
 4枚の写真がどのようにして撮られたのか見ていくことにします。
高松城天守閣を撮した写真は、ヒルー・ギルマール(1852~1933)が、ケンブリッジ大学地理学部に寄贈したものです。
 彼はケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得しますが、医師にはならず、旅行家、博物学者、地理学者として世界各地を旅行し、後半生は地理学関係の出版・編集などに携わったようです。
 彼を旅行家として有名にしたのが、30歳の時に自前のヨット・マーケーザ号での冒険旅行でした。その旅行記『マーケーザ号のカムチャッカおよびニューギニアへの巡航‥台湾、琉球およびマレー群島の記述を含めて』が高く評価されます。彼は『旅行日誌』をつけ、家族などに宛てた手紙も保管するように依頼しています。ここからは最初から旅行記として出版するつもりで、詳細な記録をしていたようすがうかがえます。このため日本旅行中に撮影された写真の撮影場所や撮影日が特定できます、このことが、写真の持つ史料的価値を非常に高いものにしていると研究者は考えているようです。

ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真 マーケーザ号の日本旅行の通販/臼井 ...

彼の記録からその足取りを追ってみると、次のようになります
1回目は、明治15年6月28日から琉球滞在を経て、7月4日から29日間マーケーザ号を横浜に碇泊させ関東近辺を旅行、その後函館を経てカムチャッカ半島に向かって出港するまでです。
その行程は横浜をスタートして、宮ノ下、箱根、吉田、河口湖、甲府、昇仙峡、甲府、鰍沢、身延山、富士川、蒲原、鎌倉、横浜と廻っています。
2回目は、カムチャッカから
9月27日 函館に戻り、
10月6日 横浜に至る。
そして東京から日光、下諏訪などを経て名古屋に至り、伊勢、和歌山を経て、神戸に碇泊し、その間京都・奈良・大阪を回り、瀬戸内海へと進みます。高松に立ち寄った後に宮島、松山を経由して九州に向かい、伊万里・長崎・熊本を回り、
翌明治16年1月31日に長崎から中国に向けて出発するという行程です。さすが英国の貴族の「冒険旅行」です。当時の日本人の残した、こんな旅行記や冒険記はありまでん。
2度目の日本滞在中に立ち寄った場所は次の通りです。
横浜、東京、宇都宮、日光、妙義山、碓氷峠、下諏訪、飯田、時又、天竜川、二俣、名古屋、瀬戸、横浜、伊勢、勝浦、那智、大島、神戸、京都、琵琶湖、奈良、神戸、高松、宮島、松山、伊万里、長崎、熊本、阿蘇山、栃木、長崎を訪れています。
   高松への寄港は2度目の滞在中に神戸から宮島へ向かう途上のことだったようです。
 全ての場所で撮影しているようではありません。写真として残っている被写体は、次の通りです。
第一国立銀行、増上寺、不忍池、浅草寺、吹上御苑、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、富士屋ホテル、東照宮、名古屋城、伊勢神宮、京都御所、西本願寺、三十三間堂、方広寺の梵鐘、清水寺、東大寺、興福寺、春日大社、大阪城、高松城、厳島神社、伊予松山城、熊本城
  これらは、ギルマールが撮影したものと私は思っていました。ところがそうではないようです。
日本人の写真技師を雇い入れて、同行させているのです。
 ギルマールの旅行に随行したのは、横浜の写真師臼井秀三郎です。
彼の正確な生没年は分かりませんが、伊豆下田の生まれで、同じ下田出身で、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖の弟子です。臼井は、師匠の下岡蓮杖より写真術を学び、遅くとも明治8年には横浜で開業していたことが分かっています。
 臼井がギルマールの旅行に随行することになったきっかけは、ギルマールが初めて横浜に上陸した際に、琉球で撮影した乾板の現像を写真館スティルフリート&アンダーセン(日本写真社)に依頼したことから始まります。この写真館の写真師ジョンー・ダグラスは、臼井に写真術を教授した人物です。臼井を雇用した経緯の詳しいことは分かりませんが、乾板の現像を依頼したことをきっかけに、ギルマールが日本人写真師を求めていることを知ったダグラスが臼井を紹介したというストーリーが考えられます。
 帰国後の出版を考えていたギルマールが、日本の写真を大量に持ち帰るためには、日本で写真師を雇う必要がありました。そうすればギルマールにとって、自分の仕事を軽減し、質の高い写真を手に入れることができます。一方、外国人向けに、日本の名所写真を販売していた臼井にとっては、販売できる写真の種類を増やすチャンスです。両者にとって悪い話ではありません。
 
ヨットで高松にやって来た

6 高松城6 天守閣の展望pg
高松城天守閣からの屋島方面の展望 ギルマールの大型ヨットが停泊中

こうして年の瀬も押し詰まった明治15年12月30日の早朝に、神戸からギルマールー行を載せたヨットが高松港に到着します。そして『旅行日誌』の中で、高松港出発時刻を2時30分と記していますので、高松滞在は数時間程度だったようです。その大部分は撮影にかけられたのでしょう。同行した写真技師の臼井は、湿板の技法で撮影したと研究者は考えているようです。
アウトプットの手段として写真を意識する - ミニ企画展「はい、チーズ ...
この撮影技法は、よく磨いた透明なガラス板にコロジオンを塗布し、それを硝酸銀に浸して感光性を持たせ原板とします。乾燥すると感光性がなくなるため、濡れているうちに撮影・現像を行わなければなりません。野外での撮影には、薬品や暗室を携帯する必要があり、かなりの労力と技術が求められます。そのため、野外の建物などを撮った写真は非常に少ないようです。
湿板 乾板 鶏卵紙 白金紙 ピーオーピー ブロマイド紙
 ギルマールたちのヨットには、神戸から外務省の野口と小林という人物が同行していたようです。イギリスから日本へ向かうギルマールー行が、シンガポールで、駐オランダ公使の勤務を終えて帰国途中の長岡護美と知り合い、日本旅行中に役立つ紹介状のようなものを書いてもらっていました。 高松城の写真撮影の際にも、仮に陸軍や県の管理が厳しくとも、外務省の役人が二人も同行してれば、城内への立ち入りや、天守閣や櫓からの撮影も現地の許可が下りたのでしょう。
 『旅行日誌』には、撮影が終わった後に、
「骨董品をいっぱい積み込んで高松を出発した」
「我々が出かけるところはどこでも群れをなした」
とあり、ギルマールたちが、城下を歩き、骨董品を買い集めた様子がうかがえる。しかし、城下で撮影された写真は残っていません。臼井らが同行しなかったのかもしれません。

6 高松城4 天守閣3

最後に、当時の高松城の置かれた状況を見ておくことにしましょう
 高松藩は、1870(M3)年9月に、早くも老朽化した城郭楼櫓の撤去を願い出ています。翌年の4月に再度願い出て許可を得て、壊す前に最後に城内を一般公開しています。
これで建物が壊され撤去されていれば、更地になっていたはずですが、そうはならなかったようです。城内の建物を取り壊す前に廃藩置県を迎え、1871年8月、高松城は兵部省に移管されます。そして、大阪鎮台第二分営が城内に設置されることになったのです。
 2年後の1873年には、鎮台配置が改められ、全国に六鎮台十四営所が設けられます。このときには、高松の大阪鎮台第二分営は廃止され、丸亀に営所が設置されることになります。営所指定されなかった高松城郭は廃城とされ、入札による払下げが行われることになります。
高松城は営所とされなかったのに、廃城にはならなかったようです。どうしてでしょうか?
 これは、丸亀への移転に時間がかかったためのようです。丸亀営所が完成し、高松から丸亀へ軍隊が移転したのは翌年の1874年12月になります。そして、1875年8月に、丸亀歩兵第十二連隊が編成されます。そのうち第三大隊は、1879年6月まで高松に分屯します。
 以上見てきたように、高松城の天守閣や櫓は、明治初頭に老朽化による取り壊しが決定していたのに実行されずに、その後1879(M11)年まで陸軍によって使用されていたようです。
 ギルマールが訪れたのは、その4年後のことになります。つまり、陸軍が去って無人の施設で管理もされずに放置されて4年経っていたのです。桜馬場に草木がぼうぼうと茂っているのも納得がいきます。

 日清戦争を前にした1889(M21)年5月、鎮台制度は師団制度に改編され、全国18ヶ所に連隊所在地を指定します。このとき、陸軍省の管轄とされた22の城郭以外は、払い下げられることになります。高松城は、旧藩主松平頼聡に払い下げられます。
 松平家へ払い下げ後も、しばらくは放置されたようです。
 1902(M35)五年に、初代藩主頼重を祭る玉藻廟が造営され、同年桜の馬場を中心に第八回関西府県連合共進会が開催されます。その翌年に松平家の家督を相続した頼寿は、高松城を整備し、積極的に活用することによって、旧領地における基盤を確立する方向を示します。こうして前時代の遺物となってしまった高松城は、旧藩主である松平家に払い下げられた後に、再び利用の道が開かれることになります。
 ギルマールたちが見た高松城は、陸軍による使用も終え、利用価値をすべて失い、打ち捨てられた、最も荒廃した時期の姿だったようです。
 参考文献
野村美紀・佐藤竜馬
明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について
香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年

高松 江戸時代の地図

上の1図は日清戦争が終わった年の明治28(1895)年出版の「高松市街明細全図」です。この地図の西側には水田が広がり、宮脇村とあります。ほとんどが田んぼで、家は見えません。江戸時代にも、高松南部への市街地の拡大は見られましたが、この地域には町屋が並ぶことはありませんでした。なぜでしょうか。
それは、宮脇村の大部分が岩清尾八幡神社の社領だったからのようです。
高松城絵図11
 上の天保15年の幕末の地図を見ても、宮脇村は「市街地調整区域」で、開発規制があったことがうかがえます。岩瀬尾神社は、生駒藩や松平藩の肝いりで作られ、厚い保護を受けてきました。そのため、神社の北側の部分は社領として、数々の特権を持っていたようです。例えば、地図上の黒く塗られた「婆が池」は、現在は埋め立てられて墓地になっていますが、もともとは石清水八幡の社領の水源として生駒時代に作られたようです。

4344097-32本門寿院 
本門寿院に続く田畑と瀬戸内海 ここが岩瀬尾八幡の社領

 明治の神仏分離の「上知令」で寺社の社領は国家が没収し、政府の管理する土地になります。さて、新政府はこの「旧社領」をどのように活用したのか、その結果宮脇村がどう変化したのかを地図で見ていきましょう。
2 高松明治28年地図
 宮脇町の北側の海岸近くには、兵庫町から伸びて来た道が西に真っ直ぐに続きます。これが江戸時代の五街道の一つ丸亀街道です。この古い街道沿いには民家が建ち並び,通行人にものを売る商家として成立していたようです。南に広がる田園風景とは対照的です。
2 高松明治29年地図
明治29(1896)年測量,同43年(1910)修正測量の国土地理院の地形図です。
  広大な社領が官有地となったのですから政府は自由に「都市計画」が行えることになります。そのお手並みを拝見しましょう。
先ほどの地図1と比べてみると、次のような点が見て取れます。
①宮脇村東部の市街地延長ゾーンに学校群が姿を現している
②鉄道線路が伸びて宮脇村の北部に旧高松駅が開業した。
③しかし、それもわずかな期間で高松港周辺に移動した
まず①の学校群について見ておきましょう。
 香川大学教育学部前身の香川県師範学校は、最初は現在地よりもかなり東の場所にあったことが分かります。天神前とあり、現在の高松市中央町になるようです。ここは今は,知事公舎など県関係の諸施設と個人有の建物とが混在している地区となっています。
②高松高校の前身の高松中学は,現在の県立工芸高校。
③工芸学校は、現在の香川大学教育学部の北半分の位置
④高松商業学校は旧中央病院の敷地
これら明治に設立された学校は、官有地となった宮脇町の東部に並べるように配置されたことが分かります。建設用地を心配する必要がないのですから、担当者にしては楽な用地取得作業だったでしょう。
 ただ日清戦争後は、政府は次の戦争に備えて軍備拡張を勧めている時期で新たな師団建設の場所を選定中だったはずです。この宮脇町一帯は、師団を置くには有力な候補地となったように思うのですが、なぜここに師団は設置されなかったのでしょうか? 今の私には答える資料はありません。今後の宿題です。
 このようにみると小学校や中学校は、ほとんど移転していないのに、県立学校はこの後も移転を繰り返しているのが分かります。当所からの場所を動いていないのは、特別教育施設斯道学園や,盲・聾学校などです。
鉄道と駅について 最初の高松駅が置かれたのは現在の盲学校の辺りのようです
 地図1には、鉄道予定線引かれています。この時点では丸亀から讃岐鉄道が建設中だったようです。これが開通するのが明治30(1897)年2月21日です。地図2は明治43年修正ですからそれが書き込まれています。ところで、開通した時の高松駅は現在のどの辺りになるのでしょうか?  これは現在の現在の県立盲学校の近くのようです。丸亀方面から讃岐鉄道でやって来た乗客たちは、ここで下りて高松市街地や高松港へと向かったようです。そのため駅前には数多くの人力車が客待ちのために停まっていたといいます。鉄道終着駅としての賑わいを見せていたようです。もし、高松駅がこの地にあったら宮脇町の姿は大きく変わっていたでしょう。
 しかし,そうはいきませんでした。地図2を見ると鉄道線が海岸を埋め立てて線路を設け,東に伸びて高松港まで延長されていることが分かります。この付け替えで、明治43(1910)年7月1日に高松駅は港近くに移っていきます。そして,この宮脇町の旧高松駅への線路は廃止されます。その年に、この地図は作られています。

2 高松 大正10年地図

3図は大正10(1921)年の高松市街全図で,新修高松市史に載せられているものです。
この地図から読み取れることを最初に挙げておきましょう。
①香川大学キャンパスの原型になる「工芸・師範・商業」が姿を現した
②高徳線が市街を迂回する形で予定線として入った
③婆が池の上側が埋め立てられた 
①の学校群の出現については、学校は運動場を初め広い面積が必要ですので,住宅地化の進んでいる地域の外側に設置するのがセオリーです。そしていったん出来ると、多くの人を集めるようになります。人の移動は,交通機関の充実や付近のお店などの商業施設を生みだしていきます。それが周辺の住宅地を、増やすことにつながっていきます。田んぼの中にぽつんと作られた学校が、いつのまにか住宅に取り囲まれているという姿はよく見かけます。現在の桜井高校などが典型例かもしれません。
 さらに、戦後の学校制度の改変で、新設や建替えが必要になります。当時の県の最優先課題は、国立大学の新設誘致だったのでしょう。工芸と商業高校は、追い出されて香川大学のキャンパスになります。旧制高松中学は、女学校の校舎で男女共学の高松高校となり、旧制中学が移動して空いた場所に、工芸高校が移ってきます。しかし、旧制中学の野球部は、野球グラントは手放しませんでした。いまでも高松高校の野球部のグランドが工芸高校の中にあるのは、そんな経緯のためのようです。さて、高松商業は、広い敷地を求めて、その時点での住宅地化の最前線へ移転します。それが現在地になるようです。

  もうひとつは②の高徳線の高松への乗り入れルートです。
  高徳線はこの時点では計画線で,昭和12年に開通しています。
このルートは東讃に向かう線路が、高松駅を西に向かって出発し、それから南進し市街をほぼ半周する形で東に向かうことになります。このルート計画については,計画当所から賛否があったようです。用地買収が難しかったのかもしれませんが、不可解なルート決定と後世の私たちからは見えます。当時は路線決定に政治力が絡んでくるのは至極当たり前のことだったようです。

③は婆が池の上半分が埋め立てられて病院ができ、その後に墓地化されています。
宮脇村には、岩瀬尾八幡の社領がありその水源がこの池であったことは先述しました。しかし、社領が官有化され水田が潰され、学校などの公共施設や住宅が増えると、稲作用水の需要も急減していきます。そのような中で、上側の池が埋め立てられ墓地化されたようです。

大正10年の地図では,田の畦道のような自然発生的な道路がいくつもあります。
それがどうなっていくのか、次の地図を見てみましょう。
2 高松昭和2年地図

上の昭和3年(1928)の地図4の道路を見ると、
東西方向の幹線道路に直行する形で南北方向の道路が通じています。都市計画に伴う道路の再整備が、この時期に行われたようです。そして、旧市街から次第に宮脇村の方へ市街地が広がっていきます。しかし、宮脇村西部はこの時点では、田園風景がまだ広がっていたようです。

2 高松昭和12年地図

上の地図5は、今から約80年ほど前の昭和12(1937)年のものです。
宮脇町の西部が碁盤の目状に区画され、住宅地となっています。そして、昭和町と名付けられます。これは大正8(1919)年に作られた都市計画法によって,区画整理組合が結成され都市再開発が行われた結果です。現在の土地所有制度と違って,当時は地主一小作制度の下で用地買収が行われたため,突然土地を取り上げられた小作人からの反発もあったようです。
 新しく生まれた昭和町は、昭和初期の都市計画によって郊外に生まれた新興住宅地ということになります。この辺りは、高松大空襲の際にも被害を受けなかったようです。そのためかつては、玄関脇に小さな庭をもち,前栽を植え,家は木造で板壁の2階建ての戦前の住宅が残っていました。今では、都心に近い高級な住宅地となり、新しいく建て替えられた住宅は、木造本格和風建築の住宅が多いように見えます。ここからは、江戸時代から宮脇田圃と呼ばれた水田が一気に宅地化されたのは、今から百年ほど前の昭和の初めからだったのが分かります。

2 高松昭和37年地図

上の地図6は、戦後の昭和37(1962)年のものです。
高松大空襲の跡の都市計画で大きく生まれ変わった後は、陸上部ではその後の変化はあまりないようです。変化が大きいのは海岸線です。
海岸には塩田がまだあり,戦後も高松市特産の塩が作られていました。西浜港の改修に伴う補償として,市営西浜塩田が昭和28年に新しく作られています。この時点では製塩生産の意欲は高かったようです。
2 高松 平成地図

上の平成元年(1989)年の地図8になると、
塩田は埋立てられ工場や市場が立地するようになります。さらに西浜港も埋立て地に囲い込まれるようになります。塩田跡地は,茜町などの新興住宅地へと変貌し、高度経済成長期の用地確保のための海岸埋め立てが行われました。
「昭和の高度経済成長は海を埋め立て、都市を陸封化させた。
海に開かれていた瀬戸内のかつての港湾都市が、海に背を向けた時代として、後世に記憶される」
という研究者もいます。たしかに、戦後の地形図の最も大きな変化点は海岸の埋め立て地のようです。

宮脇村の明治以後の変遷をまとめておきます
①宮脇村は岩瀬尾八幡神社の社領地として、町場化が進むことなく水田が広がっていていた。
②明治の神仏分離で社領は没収され、多くは官有地となった
③官有地には師範・女学校・商業・工芸・小学校などの学校群が建てられた
④学校の周辺に商業区が生まれ、宅地化が進んだ
⑤宮脇町西部の昭和町は、都市計画によって郊外型の新興住宅地が一気に形成された
⑥高松空襲の被害を受けなかった住宅地は、高級住宅地化した。
⑦戦後の学制改革で香川大学のキャンパス確保のために新設高校は大移動した
⑧それにくらべて小中学校の移動は殆どなかった。
⑨戦後の変化は海岸線の埋め立てにある。北側が埋め立てられ陸封化されてしまった。

陸封化された高松が、再び海に開かれた港町としての風景を取り戻すための試みがサンポートや高松城の「水城」復元なのかもしれません。
2 高松heisei年地図

おつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
稲田道彦 高松市街西方の香川大学付近 
              讃岐地図散歩76P

前回は、途中から金毘羅さんの方へ話が進んでしまって、仏生山のことが尻切れトンボになってしまいました。仏生山門前町の発展に素麺屋さんが大きく寄与していることに前回は触れました。これは、私には面白い話なので、今回はもう少し追いかけて見ます。
    仏生山の素麺業者の願いをうけて享保13年に、法然寺が郡奉行へ出した次のような要望書があります。
門前町人共五拾九年前素麺の座下し置かれ候、近年別而困窮に及び候得共、是れを以て渡世の基二仕り、只今迄取続き罷り在り、偏えに以て開祖君御源空(法然)の程愚寺に於ても在り難く存じ奉り候、然ルニ近年出作村下百相村二而素麺致す二付き、町人共難儀の筋(中略)
申し出候、右隣村の義、近年乍ら致し来たり杯と名付け捨て置き候而、畢竟、龍雲院様(松平頼重)成し置かされ候御義相衰え候段、千万気の毒二存じ奉り候、其の上町人共末々門前居住も仕り難き由の申し立て、尤も以て黙正し難き趣二候段、則ち町人共願書(下略)
意訳すると
①仏生山門前では、59年前に素麺座をつくり共存を図ってきたが近年困窮化している。
②素麺業は藩祖松平頼重のお陰で発展してきたもので、その素麺業が衰えてしまっては困る
③原因は出作村や下百相村での新たな素麺業者の競合
④仏生山素麺業の継承、発展のための保護をお願いしたい
 郡奉行の方では、法然寺や門前素麺業者の意向をくんで、近隣業者の水車のひとつを運転停止にするという措置で、紛争を収めています。この史料からは、いろいろなことがうかがえます。
①まずは、素麺業者の数の増加ぶりです。
59年以前から素麺座があったと云います。しかし、それは寛文十年に当たり、松平頼重によって法然寺が建立された年です。建立当初から素麺座があったとは考えられません。まあ、城下から四・五人の素麺屋を仏生山に移住させて座をつくらせたと考えておきましょう。それが、約60年後には、50人に増加しています。10倍強の増大ぶりで、頼重の「仏生山特区振興策」のたまものかもしれません。同時に座を作り、ギルド的な規制で新規参入者を入れないという動きも見えます。50軒という数字は、幕末まで変わらないことがそれをうかがわせます。
② 次に注目すべき点は、「近年出作村下百相村七川素麺致す」と書かれている所です。
出作村も下百相村も仏生山門前に隣接する村です。とくに下百相村からは平池の水掛りをうけています。隣接する村が仏生山門前の素麺業の活況を見て、新規に参加してきたのです。この動きに対して素麺座の方は、ギルド的閉鎖性から法然寺の力を借りて抑圧する方向に動いていたことが分かります。
 約120年後の天保十三年(1842)に、今度は平池水掛り村々の百姓と素麺業者との間で紛争が起きます。
その決着の際に、浅野村の水車持主三人(素麺業者)が出した詫び状の一札をみて見ましょう。
       一札の事
 平池用水ヲ以て私共渡世致し候義、本掛り衆中丿故障等者之れ無き義与相心得、種々身勝手二趣不束の義致し候所、用水御指支えの趣、卯七月願書の通り、夫々御願い出二付き、水車御指し留め御封印御附け置き成され候上、御役人中様御入り込み、達々御吟味仰せ付けられ、平池用水の義者御収納(水田)第一の義二付き、御普請等仰せ付けられ候義二而、水車の用水与申す義者毛頭之れ無き段、尚、達々仰せ聞かされ二付而者、前件の趣二言の御申し訳相立ち申さず、不調法至極恐れ入り奉り後悔致し罷り在り候、然ル所、本掛り衆中丿水車取り除ケ候様御願い出二付、甚心配仕り候趣、達々御願い申し上げ候所、此の度、岡村庄屋丸岡富三郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿、右始末、本掛り衆中江御掛合下され候所、取除ケ御願いの義者、御扱い人衆中様江御任せ下され候由、在肛難き仕合せ二存じ奉り候、左の条以来相守り申すべく候(下略)

これをみると、「御取調べの節御指し留めに相成」りとして、これ以前の文化年間にも紛争が起きていたようです。その時は、水車がひとつだけ運転停止になったと記します。
意訳すると、
「私どもは平池の水を使って渡世(稼業)いたしてきました。そのことが本掛りの方々に大層迷惑をかけていたとも知らずに水車を動かしていたわけですが、用水に支障がおこっているため水車の封印を願うという天保十四年七月の本掛りの方々の願書で、役人衆が見分に来ました。その際の吟味で平池用水は年貢収納第一のためのものであって水車の用水ではないことが十分にわかり、これまでのことについては誠に申しわけなく後悔いたしております。
 ですが、本掛り衆の願い出ている水車撤去については困ったことと心配しておりましたところ、岡村庄屋丸岡富一二郎殿・寺井村庄屋山崎又三郎殿・東谷村庄屋嘉右衛門殿が掛け合い、取り除いていただきました事について、まことにありがたき幸せと感じ入り、以後は取り決めを遵守していく所存であります。

素麺業者の「違法行為」を認めた上での詫び状的な内容です。
「平池水掛り衆が水車の取り除ヶを訴える程の一種々身勝手』とあり、百姓の中には水車の撤去を主張する者もいたようです。そこまで百姓を怒らせた背景には、素麺業者の中に
①水車の大きさを次第に大きくしていったり、
②新しい井手を勝手に作って水を流したり、
③水車を新しく建てる際に道を勝手に潰したり、
④ひどいものは、用水を水車小屋の中へ引き込む形にして水車を廻したりする者がいた
からのようです。
   素麺の需要増大と用水問題の発生
 これを逆に考えれば、水車稼働能力を高め小麦粉の増産を求められていたことになります。そこまでして、生産しなければ需要に追いつかないという実情があったのでしょう。その傾向は、文化年間ごろあたりから始まったようです。
 先ほど見た享保十三年の紛争の際には、水車の一つが運転を停止するといった形で妥協したわけですが、その後は素麺業者にとって有利な状況が続いていたようです。その背景には、前回に見たように、松平頼重が門前を繁栄させるために素麺業者を呼びよせたという「始祖物語」と、法然寺の素麺業者保護という背景があったからでしょう。そして素麺需要の増大に対し、素麺業者らは「種々身勝手」なやり方で、その生産量を増やしていきます。

4344098-05仏生山
仏生山
 どうして文化年間ごろから素麺需要が伸びたのでしょうか?
まず、考えられるのは法然寺への参拝者の増加です。文政五年の開帳では、「御触」の中に次のように記されています。
「此の度、仏生山開帳二付き、参詣人多く之れ在るべく候、就中、他国ぶも参詣人之れ在り、貴賤群衆致すべく候」
「先年御開帳の節なども右場所二而一向参詣ノ衆中休足も仕らず模寄々々二至り恰」
と、開帳のたびに以前にまして、参詣人が増えていったことがうかがえます。また、開帳時以外のふだん時でも、参詣者が多くなっていたことが次のように記されています。
 金比羅石燈篭建立願願い上げ奉る口上
 私共宅の近辺、仏生山より金毘羅への街道二而御座候処、毎度遠方旅人踏み迷い難渋仕り候、之れに依り申し合わせ、少々の講結び取り御座候而、何卒道印石燈篭建立仕り度存じ奉り候、則ち、場所・絵図相添え指し出し候間、願いの通り相済み候様、宜しく仰せ上げられ下さるべく候、願い上げ奉り候、已上
 文化七午年十月 香川郡東大野村百姓 半五郎
                   政七
    政所 文左衛門殿
これは仏生山から一つ村を隔てた大野村の百姓半五郎と金七が連名で提出した道印「石燈篭建立願い」です。その建立理由には、
家近くに仏生山から金毘羅への街道があるが、遠方の旅人がよく迷い込んで難渋している様子をよく見る。そこで、講をつくり、その基金で道標・石燈篭を建てて旅人が迷わないようにしたい
というものです。
 仏生山から金毘羅へむかう参詣者・旅人が増えていることを示す史料です。ちなみに、この石燈篭は今でも建っているそうです。
 金毘羅や法然寺などの寺社への参詣の増加という風潮
18世紀後半頃から湯治、伊勢参り、西国巡礼、四国八十八力所巡拝など、庶民が旅行に出るという風潮が広がります。法然寺も「聖地巡礼」のひとつになっていたようです。それは「法然上人遺跡二十五箇所巡拝」と関係します。この巡拝は、18世紀半ばの宝暦年間にはじまります。法然の五百五十回忌が宝暦11年(1762)にあたることから、それを記念する事業として始められたようです。「遺跡二十五箇所巡拝」の25という数字は、『仏教大辞典』によると
「源空(法然)示寂の忌日たる正月二十五日、或は念仏来迎の聖衆たる二十五菩薩などの数に因みたるものなるべし」
とあります。この25霊場は、
一番 作州誕生院 
二番 讃州仏生山法然寺 
三番 播州高砂十輪寺
と続いて、以下摂州→摂津国→大坂→紀州→大和→京都と各浄土宗の寺を巡拝し、第二十五番に大谷知恩院で完了するというルートです。法然寺は、この二番目の霊場に当たるようです。
 宝暦ごろからはじまった法然霊場巡りは、19世紀の文化年間ごろに、最も賑わいを見せるようになります。この頃は、四国八十八ヵ所の霊場巡拝や金毘羅参りも盛んになる時代です。これらの聖地を行楽を兼ねて巡拝することが、全国的に盛んになったのでしょう。そのような中で、法然寺門前も急速に繁栄していき、素麺業も発展します。その結果が
①素麺材料の小麦の増産
②水車の稼働率の向上と大型化
③用水の確保 
④平池の農業用水の権利侵犯と争論発生
という流れとなって現れたようです。
仏生山の繁栄は、周囲の出作村や百相村に波及していきます。
天保五年(1834)百相村の内の桜の馬場・出作村の下モ町(両町とも仏生山門前の続き)との氏子惣代が提出した口上書です。
  願い上げ奉る口上
私共氏神膝大明神定例九月十三日御祭日二而御座候、右祭礼の節者神勇のための檀尻二而花笠踊、仏生山町続き百相村の内桜ノ馬場、出作村の内下モ町二而都合二つつゝ古年仕成二御座候処、(中略)
右下モ町・桜ノ馬場与申す場所者 仏生山町同様二而店々商イ等の義茂御免遊ばされ、尚又桜ノ馬場二於て人形廻シ万歳芸等古年者御願済み二而土地賑いのため春秋仕来たり居り申し候、(中略)
且右場所町並二居り申し候者共商イ等仕り、当時相応の渡世も出来、一統御国恩の程在り難く存じ奉り候、尚又町内障り無く相暮らシ居り申し候義、全く氏神の御与刄奉り候聞、祭礼の節、神勇のため檀尻踊の義御免遊ばされた・・
「仏生山町続き」に注意しながら意訳してみましょう
①神膝大明神定例祭には、仏生山町続きの百相村の内桜ノ馬場出作村の内下モ町も参加してきた。
②このふたつの町は仏生山と同じように商いの特権を与えられてきた
③そのため「賑わい創出」のために人形回しや演芸なども春秋に行っている
④ふたつの村は仏生山と共に商いを行い、発展してきた
と「仏生山との一体性」を強調します。
この口上書には「付札」があり、それには本文に続いて次のように記します。
仏生山同様与申す義者、恐れ乍ら龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立の節、百相村の内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町の場所汪居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜ノ馬場同様二仰せ付けられ候哉の御模様二而兎角土地祭茂仕り候様二与御趣意二而、本文申し上げ候通り、桜ノ馬場二人形廻シ井万歳芸等土地賑いの為め、御免遊ばされ、庄屋御取り上げ下され候、土地の由申し伝え候間、何卒格別ヲ以て加文、願いの通り相済み候様宜しく願い上げ奉り候
この内容は、
①下モ町と桜ノ馬場は法然寺建立の際に頼重が寄進した新開地に含まれている
②仏生山門前同様に年貢諸役が免除された土地である
③だから人形廻し・万歳芸なども土地賑いのために許されていたのである
という主張展開になっています。そのままこれが事実であるとは云えないようですが、仏生山の影響を受けて享保十三年に「出作村下百相村」で素麺を始めたというのは、この付近なのかも知れません。寛文年間以降、仏生山の門前が次第に拡大し、祭礼を通して周辺の町並との一体化の風潮が進んでいったようです。

以上をまとめると
①松平頼重は仏生山の門前町作りについてもプランを持っていた。
②門前町形成のパイオニアとなったのは素麺業者である。
③彼らは松平頼重の保護を受け、急速にその数を増やし座を形成し特権擁護を図った
④急速な素麺業の発展の背後には、庶民の参拝熱の高揚があった
⑤周辺にも素麺業を始める者が現れ、門前町の拡大が始まる
⑥その際に周辺の商人も特権確保のために昔から仏生山の一員であったと主張するようになる
⑦こうして、周辺地域の仏生山化が進む
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
讃岐の門前町は、藩の保護の下で発展していった例が多いようです。特に、高松藩初代藩主松平頼重の貢献は大きかったことが仏生山からも分かります。
参考文献     
丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

 
1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重は、下館藩主を経て高松にやって来てきます。その際に、新たな国作りの構想を既に持っていたような気配がします。高松城の天守閣の造営、石清尾神社や法然寺の建立などは、基本構想として彼の頭の中には早い時期にあったのではないでしょうか。それは
「讃岐全体を安泰に統治していくためにはどんな仕掛けが必要なのか」
という政策課題に沿ったものだったのでしょう。例えば、
①天守閣造営は領民に対しての藩主としての権威を示す統治モニュメント
②石清尾神社や法然寺の建立は鎮護国家を目的にした神道・仏教の宗教モニュメント
とも見えます。また、金毘羅へも多大の寄進を行ったり、諸々の保護を与えたりしているのも政治的な意味が漂います。
高松 仏生山1
高松松平藩の菩提寺 仏生山法然寺
 松平家は法然寺・金毘羅・白鳥神社に厚い保護を加えます。
そのため、この三つは寺社として讃岐で屈指の門前町に発展します。門前町というのは、お寺や神社に奉仕する人々のためのモノや人が集まり、お参りする人々へいろいろな物やサービスを提供するために職人・商人などが集まってできあがった町です。金毘羅さんを見れば分かるように、その施設が広がり・参詣人が増えることで、町の規模は大きくなっていきます。これらの宗教政策と同時進行で、高松城下の整備も進められていきます。

仏生山13
法然寺は、松平頼重によって出来上がったお寺です。
頼重は、法然寺を松平家の菩提寺とし造営に取りかかり、寛文八年に着工し2年後に完成させています。この寺は頼重の宗教政策の大きな柱となるべくつくられたと研究者は考えているようです。
たとえば、この寺の寺格を上げるためにいろいろ工作しています。
その一つが「一本寺」という格です。
どこの寺にもつかず、法然寺そのものが本山であるということです。そのために、まんのう町の子松庄にあった生福寺というお寺を探し出します。この寺は、その昔、法然上人が京都で流罪になり、まず塩飽に流されて、そこでしばらく過ごした後、子松の庄に流されて住んだという寺です。ここで法然上人は教えを広めていたわけです。浄土宗の中では、ひとつの「聖地」です。
4344098-06仏生山法然寺
法然寺
法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然上人が建永元年に法難を受けて土佐国(現在の高知県)へ配流されることになった。
②途中の讃岐の国で九条家の保護を受けて塩飽庄から小松庄でしばらく滞在する。
③小松庄に寺が建てられ念仏三昧の道場となった。
④その後戦乱によって衰退し、わずかに草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影ばかりが残っていた。
⑤寛永年中に松平頼重が東讃岐に入部して高松藩が成立する。
⑥頼重は法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した
ということになるようです。移転前は生福寺と呼ばれていましたが移転後の跡地には後に寺が建てられ現在に至っています。
頼重公は、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移すプランを実行に移します。

仏生山11
 どうして浄土宗の寺が選ばれたのでしょうか?
それは徳川宗家の菩提寺増上寺が、浄土宗だからでしょう。本家の水戸家も浄土宗です。ですから高松松平家も浄土宗のお寺を菩提寺にしなければいけないのです。 その意味で、頼重公は浄土宗・法然の跡にこだわったようです。
 同時に、高松藩の菩提寺である以上、讃岐にそれまであった寺よりもはるかに寺格は高くなければならなかったのです。菩提寺をそれまでにない寺格の寺にすることで、松平家を頂点とする寺のヒエラルヒーが形作られることになります。これも封建社会においては重要な宗教政策だったのでしょう。
  「讃州城誌」には
国中之れ在る仏作ノ仏像御集め遊ばされ候間、寺御指し置き遊ばされ候」
とあり、讃岐中の優れた仏像を集めて法然寺に置くことも、頼重は行ったとあります。頼重の法然寺に対する思い入れの深さがうかがえます。
 享和二年(1802)の「寺格帳」には、浄土宗寺院のランク表が載せられています。
NO1 芝増上寺
NO2 京都の知恩院、京都黒谷の金戒光明寺、浄華院
NO3 仏生山法然寺
となっていて、全国でNO3というランクです。
仏生山4

もう一つ法然寺の格の高さをあらわすのに「常紫衣」があります。
お坊さんの着る衣は格で決められているそうですが、紫の衣が着られるのは一番格が高いようです。法然寺の僧はいつも紫衣を着てよいとされていました。さらに寺格を高めるものとして、「朱印状」が与えられています。そして将軍へのお目見えが許されていました。
 頼重は法然寺を、このいうな「格」でランクアップを図り、全国NO4のランクにまで高めていたようです。このように、法然寺は頼重の宗教政策の一環として建立され、育成されたのです。
 ちなみに、法然寺建立より前の1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令が幕府より出されます。その令が出されて二ヵ月後に造営に取りかかっています。

仏生山12
造営に当たって、頼重はじめ家臣達が造営地をめぐってもめています。
「御霊屋御建ナサレ候ニツキ 仏生山や船岡ヤ両所者可然卜御評議有之 仏生山お究只今ノ通御普請仰せ付け」
とあり、仏生山の地に建てるか、船岡山の所へ建てるかでもめたようです。結局、仏生山という名前から仏生山に決まったことになっています。本当でしょうか?別の理由があったんではないでしょうか。

4344098-05仏生山
仏生山 
考えられるのは交通の要地、地理的戦略価値です。
江戸時代には仏生山の近くに阿波へ抜ける、阿波本道があったのではないかといわれています。そうだとすると、船岡山より仏生山の方が交通の上からは重要な位置にあったといえます。寛政年間の「御用留」(別所家文書)の中には、讃岐に来た阿波の商人が仏生山の宿屋に泊まっている事例がかなりあります。文政年間に仏生山には宿屋が5軒にあったので、そこに泊まったのでしょう。このことも仏生山の交通上の重要な位置を示す一つといえるかもわかりません。
仏生山法然寺十王堂

   頼重公のころ、讃岐と阿波では「走り人」という現象が時々おこっていたようです。
「走り人」というのは、困窮し逃散や流人した農民をさしたようです。高松藩二代目頼常の時に、阿波との間で取り交わした「走り人」についての処置マニュアルが残っています。阿讃の間に緊張感のようなものがあったようです。そういった人々を監視するには、やはり街道沿いの交通の便がよい仏生山の方がいいという判断があったのではないでしょうか。阿波を意識した要地なのです。

仏生山法然寺2
法然寺から高松城の常磐橋まで御成街道が作られます。
法然寺は北側から見ると、お墓が並んでいて、お寺そのものです。しかし、阿波からやって来る人から見える南側は、石垣が積まれお城のように見えます。つまり阿波から見ればお城になり、防御の役割を担います。一方、高松城は水城ですので、海からの防御を果たします。海からの防御高松城の新たに出来上がった天守閣と阿波からの防御法然寺、そしてこの間を御成街道が結ぶという一本の戦略ラインが引かれたことになります。ほとんど同じ時期に完成した天守閣と法然寺の間には、頼重の中では強い政治的関連があったように思います。
「讃州城誌」には、「仏生山法然寺 御代々ノ御寿城、英公御築き遊ばされ候」とあり、頼重は、法然寺を高松藩の南方方面の出城と考えていたよいう説は、私には説得力があります。
仏生山10
 
 頼重は仏生山門前町の育成のために何をしたか? 
頼重は、法然寺に次のような寄進を行います。
①朱印地        300石
②法然寺師弟家来賄料  250石
③鎮守膝宮入目     200石
などで合計750石を寄進しています。さらに、「法然寺條目」の中にみられるように
「当山霊宝等諸人拝見所望之れ有らば之れを拝せしむべし、其の香花代は住持受納すべき事」
として他の収入、散銭などによる収入も認めています。こうして寺野家財政的な基礎を作った上で、門前町の整備を進めます。
 「法然寺條目」の中には次のように記されています。
「門前町屋敷は地子等之れを免許す、諸事方丈より支配の町年寄両人に申し付け、町の儀万事私曲無き様相計らうべき事」
とあるように、門前の住人は税を免除し、すべての事が不正がないよう取り計えと、門前への住居奨励を行っています。
 しかし、門前町への人々の移住は進まなかったようです。
頼重の時から約200年近く経った天保十四年(1843)に仏生山町の素麺業者が連名で提出した口上書の中に次のような記述があります。
 恐れ乍ら私共家業の義素麺仕り(中略)
右素麺職の義 御当山御建立の最初御門前町並家造り仰せ付けられ候得共、其の頃は今の町並の地 野原二而御座候ヲ新た二右の土地高下ヲ切りならし候迄二而今此の所ハ船着き候与申す二も之れ無く渡世仕るべき便り一向御座無く候二付き、当所江参る人一切之れ無く(下略)
  意訳すると
①法然寺造営が始まったころは今の町並はなくて野原であった
②土地の高低を切りくずして平らにした野原で、しかも船を着けるところもないため(荷物の運搬にも不自由で)商売をする方便もない
③法然寺へ参拝する人は、全くないといった状況だった。
 それを頼重がいろいろと考えて、次のような手を打ったと記します
御上様(頼重)二も御苦労二思召され 幸イ素麺所二遊ばされ度御目論見二而御山の鎮守ヲも三輪三嶋春日三社ヲ御勧請遊ばされ候与申すも是れ何れも素麺所の御門前繁昌の事ヲも思召され候由」
  然ル所当所素麺屋御座無く候二付き、御城下二罷り有り候素麺屋四五人引越し仰せ付けられ、右の者共ヲ頭取二成され、諸人江相勧メ難渋の者江ハ元手ヲも御貸し下され、其の上右素麺屋の義 御領分中御指し当り二相成り素麺ヲ家業二仕り候義 仏生山限り候旨仰せ付けられ候間、御城下ヲ始め近郷の諸人御門前二住居相望み候者共多く相成り、尚又、素麺粉の義 浅野村平池尻三冊水車御願い申し上げ候処、速々御免仰せ付けられ下され素麺粉右の車二而挽き立てさせ候二付き、至而弁利二相成り候間、益諸人思い付き宜しく、夫丿連年打ち続き土地繁昌仕り候(下略)
意訳すると。
①そこで頼重公が素麺業者を4,5軒寄せ集めた。
③さらに素麺所の神様、三輪三嶋春日の三社を勧請した
④さらには、資金不足の者には貸付援助もおこなった
素麺粉は浅野村の牛池尻で水車を利用する許可が下りて技術革新がすすんだ
⑥これを契機に
、素麺産業は繁盛するようになった
⑥その結果、次第に仏生山に住むことを望む者が増えた。
と、自分たち素麺業者が仏生山発展の原動力であったと主張しています。ここからは、仏生山の地域発展のために頼重が素麺産業の移住定着事業を行い、素麺にゆかりの深い三輪神社を勧進するなどの「地域振興策」や優遇策がとられたことがうかがえます。
 このような門前町への「移住奨励策」は金毘羅にも見られます。讃岐藩主となった仙石秀久は、門前に商人を集めるために税金をただにしたりして、町を賑わわせる政策をとっています。

この他にも、道路工事に関しても、頼重は次のような指示を出しています。
「町幅六間与仰せ付けられ候も、左右ノ弐間宛の目板ヲ出し、中弐間往来ヲ明け置き、人馬通し申すべきため」
ということで、門前町の大通りを作り時に、道幅六間の内左右から弐間ずつ目板を出して、残りの二間を人馬が通る往来としておくようにといった指示もなされています。これが、仏生山のその後の発展に大きく寄与することになります。
 法然寺を支える組織は?
 この寺の組織は、住職の方丈、その下に天台・真言・浄土宗などの各宗派から召し抱えた道心(ここまでが僧侶)が十二人いて、さらに用人・小姓・医師などで構成されております。これが「寺役人」です。しかし、寺だけでは経営が成り立たたないので、周りに商人などを置いて、経営が成り立つような仕組みを作っていくことになります。それが門前町が発達していく原動力になります。
 
仏生山6

 素麺業の成立は、17世紀後半の寛文・延宝年間のころのようです。その後、享保十二年(1728)ころに、今度は素麺業者が訴えられます。素麺業というのは、うどんと同じでかなりの水を必要します。そのため近くの平池から引いた水を使っていたようです。周囲の村々も、法然寺が朱印地ということや寺のもつ高い格式などからあまり抗議はしなかったようです。しかし、日照りの時にも遠慮せずに水を使うことに、周辺の百姓も我慢できなくなったようで、両者の問に争論が起こります。その争論に際して、素麺業者側から出されこの訴状が残っています。その中で素麺業者は
「我々は法然寺とともに発展した由緒正しいものであるから、水は勝手に使ってよい」
と主張しています。この時には、素麺業者の数は50軒と記されています。 半世紀ほどの間に、10倍に増えたことになります。この数は、幕末くらいまでほとんど変わっていません。門前町に賑わいをもたらす「重要産業」に育っていたようです。
高松 仏生山2
仏生山の「にぎわい創出事業」ひとつとして、松平頼重は涅槃会と彼岸会の時に芝居興業を許したようです。
その上演のために「芝居土地」と呼ばれる「除地(空地)」が設定されています この土地は、
①上町に南北四十八間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
②中町に南北百十六間、東側・西側とも奥行きが三十間ずつ
との二か所あったようです。どちらもかなり大きなものです。しかし、この敷地全体に芝居小屋が建っていたのではないようです。幕末の弘化二年(1845)の「御用留」(片岡家文書)の中に芝居小屋の平面図があります。そこには「十八間に二十間」と書かれていますから、小屋掛けした舞台のみの面積で、客席は野外という感じだったようです。金毘羅の金丸座が出来る以前の公演方法と同じやり方のようです。
  芝居以外にも見世物興行も行われていたようです。
文政四年(1807)の見世物興行興業の様子については法然寺の「御開帳記録」(『香川県史 近世史料』収載)にも載せられています。そこには、
西横町で薬売り人形廻し、物まね、軽業で、小屋の大きさは五間と六間から十間で七十二間
と記されています。
 芝居小屋が常設的に作られて賑わいを増すのは文化・文政期以後のことのようです。ただ、幕末ころからは、秋祭りなどで檀尻芝居の興業が盛んに行われるようになります。これは、太平洋戦争前まで続いていました。

仏生山8
 仏生山法然寺門前に商店は何軒くらいあったのでしょうか?
 片岡家文書の中から拾い出した史料には、文政十年ころの時点で、
①法然寺に関係した役人の家が28軒
②素麺業者が五〇軒以上、
③薬屋が一軒
④米屋11軒
⑤木綿屋4軒
⑥太物関係四軒
⑦宿屋五軒
⑧筆・墨屋一軒
⑨酒屋一軒
⑩油屋一軒
で合計106軒になるようです。100軒を越える商店が軒を並べる門前町だったのが分かります。そこに何人暮らすんでいたのかは猪熊家文書「御寺領人別改指出帳」の寛政三年(1792)のものには、法然寺領の人口が合計で434人と記されています。
 法然寺門前は、町ですので単婚家族が多いく一家族の平均がだいたい4人と考えると、
人口434人÷世帯人数4人=約百世帯
という数値になります。これは、先ほどの史料に現れた店数にほぼ一致します。ここから200年前の19世紀前後のころの法然寺門前は、人口が400人以上で家屋は百軒程度のまちであったと研究者は考えているようです。
 松平頼重が法然寺を建立したときには、高松に続く新道が作られ、その周囲は野原や田んぼが続いていた所が、四・五軒の素麺業者を誘致することから始まって、百数十年後には百軒を越える町へと発展していたことになります。これは。自然発生的に起きたことではなく、政策として作り出した成果と云えます。

仏生山14
拡大・延長する門前町仏生山
 19世紀前半の天保三年の別所文書には
「檀笠三万花笠吊リ 仏生山町続き百相村之内桜之馬場出作村之内下モ及ブ」
と書かれています。ここからは仏生山の町続きである百相村の桜之馬場と出作村二つ仁生山の門前と同じように、花笠を吊るようになっていると記されます。つまり仏生山と一体化して同じ様な行事を行うようになっているのです。門前町が街道沿いに「点」から「線」と伸びていく様子が分かります。
さらに「附札」の所には、次のように記されています。
龍雲院様(松平頼重)仏生山御建立之節、百相村之内新開地仏生山江御寄附遊ばされ、当時仏生山町之場所に居宅等仕り候者者御年貢諸役等御免二仰せ付けられ候由、下モ町桜之馬場同様二仰せ付けられ哉之御模様二而」
意訳すると
①松平頼重が仏生山を建立したときに、百相村の新開地を仏生山に寄付した
②仏生山に居宅を構える者には年貢諸役の免除を行った
③以前はそうではなかったが、いつのまにか仏生山の町続きとして、百相村と出作村が仏生山同様に免除扱いをうけるようになった
 ここには「仏生山=年貢諸役免除」と「免税特区」にされたために、時代と共に周辺地域もそのエリアに入り特権を手に入れていく過程がうかがえます。つまり「周辺エリアの仏生山化」が税制においても起きていたようです。
このプロセスを法然寺の開帳という視点から見てみましょう。
別所家文書「文政六年御用留」の中には、次のようにありますす。
「此の度仏生山御開帳二付き、参詣人多く之れ有るべく候、就中他国よりも参詣人之れ有り、貴賤群集致すべく…」
ここからは他国からの参拝者を含めて、非常に大勢の人が集まってきている事がわかります。研究者は、文政六年(1826)という年に注目します。この年は例年より大きな催し物が前年から年を跨いで進められたようです。そのため金毘羅の方まで案内の立札(高札)が立てられ、大規模に行われたようです。
 高松城下の京浜で町年寄を勤めた鳥屋の「触帳」(難波家文書)の中には
「二万人から三万人の人々が開帳参詣に来るので、火の用心や盗賊などの用心をするように」
といった触れがあったと記されています。
 19世紀前半には、金毘羅大権現や善通寺などでも定期的に「ご開帳」が行われるようになり、何万人もの人々が参拝に訪れるようになります。つまり、寺社は大イヴェントの場になり、そのプロモターの役割も果たすようになるのです。そして、この開帳で集まった寄進の金品が寺社運営の重要財源となっていくのです。そのため、門前町にはイヴェント時だけに使われる空間や建物が準備されるようになります。その代表が小屋掛けの芝居小屋です。これが「イヴェントの恒常化」と共に、金毘羅に金丸座が登場するように、常設小屋へと発展していきます。「讃岐名所図絵」に描かれている仏生山は、そんな賑わいを見せるようになった幕末の姿のようです。
人々は何を求めてご開帳にやってきたのでしょうか
それは「信仰」のためでしょう。しかし、それだけとは、私には思えないのです。確かに法然寺の宝物の公開を許可する条目もあるので、参詣の人々が宝物を拝観し、その霊験にあやかることで病気平癒などを願ったことは間違いありません。
DSC01329
しかし、元禄時代の「金毘羅祭礼図屏風」の高松街道から参詣に来た人々の流れを見ていると、別のものも見えてきます。
①まず新町の鳥居をくぐり、
②さらにその先の金倉川に架かる鞘橋のたもとで沫浴をして精進潔斎

DSC01154

③前夜は酒も飲まずに潔斎
④翌朝宿を出発して、仁王門のところからは裸足になって本殿まで登り参拝

そして参拝後は「精進落とし」なのです。宿で大宴会です。花街へ繰り出す人たちもいます。
DSC01354

内町の背後の金山寺町には歌舞伎や人形浄瑠璃・見世物小屋が小屋を広げています。まさにエンターテイメントのオンパレードです。日頃は、体験できないことが見聞きできるアミューズメント施設でいっぱいです。神聖で禁欲的な参拝だけなら庶民がこれほど金比羅詣でを熱望したとは思えません。参拝後の精進落としを楽しみにやってきた人たちも多かったと私は思います。その意味で、 近世の門前というものは「癒し」の場であったと研究者は考えているようです。
 寺社の神域そのものが浄化の作用の場であり、その中で門前町は宿泊はもちろん、精進潔斎し、さらに「精進落とし」をするという機能を持っていたのです。もっとオーバーな言い方が許されるなら門前町全体で、輪廻転生、再生という循環機能を果たすシステムが出来上がっていたのかもしれません。
 ある意味、現代人が
「四国霊場巡りの後は、道後温泉に入って・・・」
と願うのと同じような行動パターンが形作られていたような気がします。
 こうして「信仰+精進落とし」という願望をかなえることが門前町や寺社に求められるようになります。その充実度を高め参拝客を呼び込むための「産地間競争」が繰り広げられるようになります。その要求に最もうまく応え続けたのが金毘羅さんであったと私は考えています。
参考文献     丸尾 寛  近世仏生山門前町の形成について

                    
前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒家の重臣達の屋敷配置
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒騒動の残留藩士グラフ
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。
また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

 
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『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』です
この絵図の特徴は、その名の通り家臣団の屋敷がぎっしりと書き込まれた平面図であることです。外堀、内堀の内側はもちろん、外堀の南と西にも侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
 今回はこの絵図を見ながらどんな家臣が、どこに屋敷を構えていたのかを見ていくことにします。
 外堀の内側に並ぶ屋敷を、研究者が石高で色分けしたのが下の絵図です。
生駒藩屋敷割り図3拡大図
①1000石以上 オレンジ色
②500石以上   紫色
③300石以上  緑
④300石以下  黄土色
この絵図からは、次のような点が見て取れます
①中堀の外側には1000石以上の家臣団の屋敷がならび、敷地が広い。
②その姓を見ると「生駒」が多く、藩主につながる生駒一族の屋敷と思われる
③外堀の南側入口にも家禄の多い家臣の屋敷が5軒並ぶ
西嶋八兵衛の屋敷が外堀西側の入口角に見える。
もう少し詳しく生駒藩の重臣達の屋敷を見ていくことにしましょう
多くの写本がある生駒家侍帳(分限帳)には、全ての家臣団(生駒宗家の直臣)の氏名が、その役職、知行高と共に記されています。いくつかの写本中には、知行高を記した数値の横に、小さな文字で知行内に含まれる自分開の新田に関する注記もあります。これと、上の屋敷割図をリンクさせながら、重臣達の屋敷を見ていきましょう。
「生駒家侍帳」は、今で云うと家臣団名簿になります。
ここには、生駒家に仕えた百数十名の家臣団の名前があります。しかし、注意しなければならないのは、ここにある名前は「直臣」だけです。封建制度のセオリーである
「王の家臣の家臣は、王の家臣ではない」
を思い出さなければなりません。つまり、各重臣が抱える家臣は「直臣」でないので、ここには名前がでてきません。生駒時代になって讃岐の地侍達がリクルートされますが、生駒家の家臣に採用された場合が多かったようです。生駒家に直接採用されなければ、この分限帳には載っていません。大手企業と、下請け企業の社員の関係になるのかもしれません。
戦闘ユニット「大番組」にみえる生駒藩の重臣達は?
生駒藩では大番組と呼ばれる戦闘ユニットが、総知行高一万石平均で構成されていました。各ユニットの兵力は、三百人から五百人で、九つの正規ユニットがありました。予備ユニットとして三組、そして、槍隊、弓隊、鉄砲隊と、作事・普請といった工兵隊から、軍役衆が構成されていました。その大番組のユニットを見ていくことします。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
①生駒隼人組 
四代藩主壱岐守高俊の弟、生駒隼人(通称:西ノ丸殿)のユニットです。藩主の弟ということで、屋敷は城内の西の丸にあります。他の生駒姓の屋敷よりも広さもロケーションも群を抜いているようで「家格NO1」と云えそうです。しかし、藩の実権は、生駒將監(生駒帯刀の父)が握っていました。
与力は、安藤蔵人(1000石)で、侍数26人。彼らの平均知行高は、253石。この組内には安藤氏を名乗る侍が5名いましたが、生駒騒動の際には、その全てが生駒家を去っています。そういう意味では安藤家は、反生駒帯刀派に色分けされるようです。
 生駒隼人の知行4609石の内4588石が寒川郡に集中しているようです。これは生駒甚介(三代藩主正俊の弟、左門の異母兄弟)から引き継いだようです。勘介は引田城主として、東讃岐を支配していましたが、大坂の陣の際に豊臣方に加勢し破れて、引田に戻ります。しかし、追っ手が迫り切腹、所領は没収されました。その所領を生駒隼人が引き継いだようです。
②生駒將監(生駒帯刀の父)が預かる組。
この屋敷は、中堀の南門を守る形で立地します。北側と南側の通路の両方に屋敷は面し、入口も両方に持つ構造で、特別な役割を持たされていたことが想像できます。この家はもともとは、初代親正の兄弟の創始と云われ、当時は將監、帯刀父子が家老として藩政を掌握していたようです。家格意識が高く尊大であったため譜代の家老連との対立が絶えなかったと云われます。後世の史料には
「家臣としての分を忘れ、宗家(生駒本家)を倣い、子の帯刀に至っては、その妻に大名家の姫を望んだ。この幕法をも無視した非常識極まる要求に反対した江戸家老、前野助左衛門、石崎若狭の両名は、この後、將監、帯刀父子に深く恨まれる。これが後の生駒騒動の発端となる」
と批判的に記されています。生駒騒動の発火点は、この家にあるようです。
 この組の特徴としては、次の2点が挙げられるようです。
①尾池氏、河田氏、佐藤氏、吉田氏、加藤氏、大山氏、今瀧氏など、讃岐武士が数多くリクルートされている。
②生駒騒動の際に、職務放棄して讃岐を去った立退者がいない
                ③生駒左門組(三代藩主正俊の異母弟)
私が最も興味を持っているのがこの組です。屋敷は城内の東側で中堀に面するロケーションで、敷地面積はNO3くらいでしょうか。
この屋敷は二代目一正とその側室との間に生まれた左門に与えられたものです。
  左門の母・於夏は、三豊財田の山下家出身です。そして、彼女の甥が金毘羅大権現の別当を務めるようになります。於夏は、生駒家の中に外戚・山下家の太い血脈を作り出していきます。於夏の果たした役割は想像以上に大きいようです。左門の母於夏について見ていきましょう。
  2代藩主・一正の愛した於夏とその子左門
 一正は讃岐入国後に於夏(オナツ・三野郡財田西ノ村の土豪・山下盛勝の息女)を側室として迎えます。於夏は一正の愛を受けて、男の子を産みます。それは関ヶ原の戦い年でした。この子は熊丸と名付けられ、のち左門と称すようになります。彼は成人して、腹違いの兄の京極家第三代の高俊に仕えることになります。
 寛永十六年(1639)の分限帳には、左門は知行高5070石と記されています。これは藩内第二の高禄に当たり。「妾腹」ではありますが、藩主の子として非常に高い地位にあったことが分かります。
   同時に、金毘羅大権現への保護を進めたのも於夏です。
於夏と金毘羅を結ぶ糸は、どこにあったのでしょうか?  それはオナツの実家の山下家に求められます。この家は戦国の世を生き抜いた財田の土豪・山下盛郷が始祖です。その二代目が盛勝(於夏の父)で、生駒一正から2百石を給され、西ノ村で郷司になります。三代目が盛久で於夏の兄です。父と同様に、郷司となり西ノ村で知行200石を支給されます。彼は後に出家して宗運と号し、宋運寺(三豊市山本町)を建立し住職となる道を選びます。
 一方、於夏の弟の盛光は、財田西ノ村の西隣の河内村に分家します。この分家の息子が金毘羅の院主になっていたのです。 慶長十八年(1613~45年)まで32年間、金光院の院主を勤めた宥睨は、殿様の側室於夏と「甥と叔母」という関係だったことになります。  宥睨が金毘羅の院主となった慶長十八年(1613)の3年前に、一正は亡くなりますが、伯母於夏を中心とする血脈は脈々とつながっていきます。そのメンバーを確認しましょう。
①一正未亡人の於夏
②藩主一正と於夏の息子で藩内NO2の石高を持つ生駒左門
  左門には、異母兄弟として生駒甚介がいたことは先ほど紹介しました。しかし、勘介が大坂の陣に参加し、敗軍の責を被り自刃した後は、左門が生駒氏一門衆筆頭となったようです。
 この組には、讃岐出身の三野氏が四人いるほか、山下権内(150石)の名があります。この人は、三野郡の財田西村に自分開の知行所を持っているので、於夏の実家の山下家に連なる人物であったことがうかがえます。また、豊田郡中田井村の香川氏とも関係が深いなど、西讃・三豊地区との関わりが見えます。他に、この組の重要な特徴として、自分開の新田1144石があることを研究者は注目しています。
於夏と一正との間に生まれた於夏の娘山里(左門の妹)について
 山里は京都の猪熊大納言公忠卿に嫁しますが、故あって懐胎したままで讃岐に帰えってきます。離縁後に讃岐で産んだ子が生駒河内で、祖父一正の養子として3160石を支給されます。つまり、左門と生駒河内は「伯父と甥」関係になります。そして、生駒河内出産後に山里は、家老の生駒将監(5071石)と再婚し、生駒帯刀の継母となります。こうして
③於夏の娘山里が離婚後に産んだ生駒河内(一正の養子)
④於夏の娘山里の再婚相手である生駒将監と、その長男・帯刀
   こうして「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀」を於夏の血脈は結びつけ、生駒氏一門衆の中に、山下氏の人脈(閨閥)を形成していきました。この血脈が大きな政治的な力を発揮することになります。その結果、もたらされたひとつが生駒家の金毘羅大権現への飛び抜けた寄進です。この背後には、於夏の血脈があると研究者は考えているようです。
  もうひとつは、讃岐の土着土豪勢力との接近・融合を進めたのが生駒左門に連なる勢力ではなかったかということです。
於夏の実家である山下氏は、この時期に新田開発を活発に行い、分家を増やしています。山下家に代表されるように、土着勢力からリクルートされた家臣達は、新たな開発を行い自分の土地とすることが生駒家では許されていたようです。この「自分開の新田」は、加増の対象となります。 そのために積極的に新田開発を行います。知行に新田(自分開)が含まれる侍は、生駒騒動の際に、讃岐を去ることはなかったと研究者は指摘します。

生駒騒動の残留藩士グラフ
 地元勢力を活用し、新田開発を積極的に行うグループと、それができないグループとの間に政策対立が起きたことは推測できます。それが後の生駒騒動につながっていくひとつの要因と研究者は考えているようです。
 ここでは土豪勢力をとりこみ、新田開発を活発に行ったのが山下家の於夏の血脈でつながる
「生駒左門 ー 生駒河内 ー 生駒将監・帯刀
の生駒一門衆であったことを押さえておきます。これらの派閥からは、生駒騒動の時に藩を出て行く者は、ほとんどいなかったのがグラフからも読み取れます。
次に藩を飛び出して行った重臣達を視てみましょう。
生駒藩屋敷割り図3拡大図

④前野助左衛門組
 屋敷は「屋敷割図」では前野次太夫と記され、中堀南の重臣屋敷群の一角を占めています。前野助左衛門は石崎若狭と共に江戸家老を勤めた人物です。
 前野助左衛門と石崎若狭は、生駒家の譜代ではありません。もともとは豊臣家の家臣で「殺生関白」と呼ばれた秀次の老臣・前野但馬守長泰の一門でした。秀次が秀吉の怒りに触れて自殺した時、長泰も所領を奪われて両人ともにも浪人の身となります。かねてから前野家が生駒家と親しい関係だったので、生駒家を頼って讃岐にやってきたようです。初代親正は、秀長の下で一緒に仕えた前野長泰の子息の前野助左衛門と石崎若狭を息子一正の家臣としてとりたてます。両人とも相当才気があり、勤務ぶりも忠実であったため、一正の気に入られ千石の知行をあてがわれて、さらにその子の正俊付となります。
 両人は正俊の江戸参観には供をして、諸家への使者などを勤めます。豊臣秀次の老臣であった前野家どいえば、豊臣時代にはよく知られた存在で、親しくしていた因縁があるので、どこの藩でも大事にしてくれて、諸藩と関係もそつなく果たします。
ちなみに前野の母は、織田家中で勇猛を馳せた佐々成政の妹です。また、前野の男子の内、一人は、阿波蜂須賀家に仕えています。
生駒家家臣 前野助左衛門
 生駒記などでは、前野助左衛門、石崎・若狭は、悪役を振り当てられていますが、実際のところはそうともいえないようです。例えば、各部隊ユニットを預かる大番組の高禄者たちの中で「分散知行」に徹しているのは前野助左衛門だけです。そこには彼が地方知行制から切米知行制へ切り替えを目指していた姿をうかがうことができます。藩政改革を藩主から託された前野は、国元に石崎と上坂を置き、自分は江戸家老として連携を密にしていきます。また、年寄の森出羽の息子で江戸在府の森出雲を、自らの派閥に引き入れることに成功します。こうして、生駒一門衆への対決姿勢を強めていきます。
 助左衛門亡き後は、息子治太夫が江戸詰家老職を継ぎます。代が変わっても生駒衆門派と前野派の対立は収まらず激化します。そこで、生駒帯刀は、主君高俊を動かして、石崎、前野両人を罷免する動きに出ます。罷免された両者は激怒し、一類の者をはじめ家臣あげて脱藩、離散するという「職場放棄=讃岐脱出」という集団行動にでるのです。
 生駒家では幕閣のとりなしを依頼しますが「武士団の集団職場放棄」というショッキングな行動に対して、さすがに藤堂高次、土井利勝の力量でも幕府を抑えきれません。寛永17年7月、幕府は讃岐生駒藩十七萬千八百石を取りつぶします。関係者への措置は以下の通りです。
①藩主は出羽国(秋田県)由利郡矢島へ移され、堪忍料一万石
②前野治太夫、石崎若狭は切腹。
③上坂勘解由、森出雲守両者は脱藩した家臣と共に死刑
④石崎八郎右衛門、安藤蔵人、岡村又兵衛、小野木十左衛門ら、前野氏に使えた一類の人々も徒党を組んで国を走り出た罪で、いずれも死刑。
⑤生駒帯刀は忠義の心から事を起したとはいえ、家老としての処置を誤ったという理由で出雲国(島根県)松江藩に預けられ、五十人扶持。しかし、仇討ちに遭い万治2(1659)49歳で死去。

森出雲組 
生駒一族を除くと家臣筆頭の知行(3948石)を誇る組です。
この屋敷は西浜船入(港)に面し、西門守備の要の位置にあります。森氏は生駒家譜代筆頭の家老ですが、生駒氏一門衆の家老、生駒將監、帯刀父子と対立し、生駒騒動では讃岐を退く道を選びます。
 出雲の父は出羽、妻は前野助左衛門(伊豆)の娘です。そのため出雲は、前野次太夫とは義兄弟の関係に有り、ここも血縁関係で結ばれた一族を形成します。
この組には、戦国時代に西讃岐守護代の香川氏の筆頭家老を勤めた河田氏の嫡流である河田八郎左衛門がいます。八郎左衛門も、生駒騒動では土着侍でありながら、生駒家を去る道を選んでいます。。他にも、高屋、林田、福家氏など、東讃岐守護代香西氏の家臣たちも、この組に属していたようです。この組の特徴は、所属の家臣団が、生駒氏一門衆旗下の大番組のように同一氏族に集中していないことです。いろいろな侍衆の寄せ集め的な性格のようです。
   与力は、生駒氏の縁者、大塚采女(500石)で、侍数21人で、平均知行高は267石。
⑥上坂勘解由組 
 屋敷は森出雲の隣にあたり、西浜船入と外堀の間にある西門を守るコーナーストーン的な位置にあります。上坂勘解由は、西讃の豊田郡にて2170石の一括知行地を持っていました。このような知行形態は、他にはないものでこの家の特別な存在がうかがえます。
 勘解由は、寛永四年には、三野四郎左衛門と並んで5000石を給されています。上坂氏の母国は近江で、勘解由は、遠く古代豪族の息長(おきなが)氏の系譜を引く湖北の名門出身と名乗っていました。この一族の持城の一つが琵琶湖東岸の今浜城で、後に秀吉が長浜城と改名し居城にします。 生駒騒動の時には、盟友の石崎、前野の両家老をかばって、譜代筆頭の家老、森出雲と共に生駒家を立ち退きます。上坂氏の娘は、前野次太夫の妻で、両家は婚姻関係で結ばれていました。
 上坂氏一門は、西讃岐の観音寺では、太閤与力の侍です。
与力侍とは、生駒家を監察・管理するために秀吉が配置した役職です。上坂氏の居城は観音寺殿町の高丸城(観音寺古絵図)で 、現在の一心寺周辺とされます。もともとこの城は、戦国時代の天霧城主香川信景の弟景全が、築城した居館で観音寺殿といわれていたようです。それが天正7年(1579)の長宗我部元親の侵攻の際に香川氏は無血開城し、兄弟共に土佐勢に従いました。その後は、秀吉の四国侵攻を受けて、兄弟で元親を頼り土佐に落ち延びました。
 この城は、天正15年生駒氏が讃岐守に封ぜられた時、秀吉によって1万石を割いて大阪の御蔵入の料所にあて、観音寺城が代官所にあてられました。しかし、豊臣氏の滅亡により廃城となったようです。
 家臣団構成は、森出雲組と同じように、いろいろな一族の寄せ集め的な性格です。
生駒藩屋敷割り図拡大図4

石崎若狭組 
江戸家老を勤めた石崎若狭が預かる組です。
屋敷は外堀南側に面して、大手門の守備を念頭に置いた屋敷配置がされているようです。石崎若狭は寛永四年には2500石を給されていて、1000石の前野伊豆(助左衛門)とは、家中での立場が少し違っていたようです。石崎家は、元和六年に断絶した出石の田中吉政の家中から、生駒家に移った武士達のひとつのようです。
与力は下石権左衛門(500石)。侍数19人。
 旗下侍18人の平均知行高は278石で、大番組中、最も高い。
 
浅田図書組 
知行2500石を有する浅田図書が率いる組。
 この組は、先代の右京の時代に新参家臣として取り立てられますが、大坂の陣で勲功のあった萱生兵部と対立するようになります。家臣団のほとんどは兵部に与しますが、右京は藩政の後見役である藤堂高虎の支援を取り付けて反対派に打ち勝ちます。浅田右京は、讃岐武士である三野四郎左衛門や、高虎から讃岐に派遣された西嶋八兵衛・疋田右近とともに、惣奉行(国家老に相当)を務めるようになります。この党争の中で、讃岐の小領主の流れをひく有力家臣が数人没落しました。代わって藤堂高虎の讃岐支配に同調した家臣が取り立てられることになったようです。
 しかし、この屋敷割図が作成された頃は、奉行を勤めた浅田右京は失脚し、図書が後を継いでいますが、家中の重要ポストには就けてなかったようです。
宮部右馬之丞組 
知行1998石を有する宮部右馬之丞が率いる組で大番組中、最も小さな組です。与力は、佐橋四郎右衛門(400石)。侍数は14人である。
 屋敷の割当は、郭内屋敷三軒、西浜屋敷六軒。
 旗下侍13人の平均知行高は、232石。

生駒藩の屋敷割図から生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。
講談的な「勧善懲悪」的な生駒騒動物語には、その背景に
①土地問題をめぐる政策対立
②藩主への権力集中に反発する生駒衆一門の反発
③幕府・藤堂藩の介入
などがあったことがうかがえます

参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」

高松城1212スキャナー版sim

 高松城下図屏風を眺めていると新しい発見が、どこかに見つかります。そんな楽しみ方を紹介してきましたが、今日は「数量的な視点」で見ていきたいと思います。
高松屏風図2
研究者によるとこの屏風に描かれた侍屋敷数は170軒程度、
人物は1033人だそうです。それを分類すると
①刀を差した人物が388名、
②裃を着けたものが60名程度
描かれた人物の4割近くが武士で、ほとんどが南から北の縦方向に動いています。向かっているのはお城です。つまり、登城風景が描かれているようです。
女性と分かるのは84名。
そのうち48名は、頭に荷物を載せたこんな姿で描かれています。
高松城下図屏風 いただきさん
大きな屋敷の前を三人の女が頭に荷物を載せて北に向かって歩いて行きます。外堀の常磐橋を越えて連れ立って歩いて行きます。
場所は現在の三越前付近です。
さて、ここで質問です。
頭に載せて運んでいたものは何でしょうか?
頭に荷物を載せて運ぶというのは、かつては瀬戸内海の島々では普通に見られた姿でした。
彼女らが頭に載せているのは「水桶」だそうです。井戸で汲んだ水を桶に入れて、こぼさないようにそろりそろりとお得意さんまで運んでいるのです。城下町の井戸は南にありました。そのため彼女らの移動方向は南から、海に近い侍町や町屋へと北に動いているようです。男が担ぎ棒で背負っているのも水のようです。
1水桶
松平頼重の業績のひとつが城下に上水道を敷いたということです。
 当時は江戸に習って、どこの城下町にも上水道がひかれるようになっていました。しかし、高松の特長は、地下水(井戸)を飲料水として城下に引いたことです。これは日本で最初だったようです。
井戸として利用されたのは次の3つです。
「大井戸」
瓦町の近くに大井戸で、規模を小さくして復元されて残っています。
「亀井戸」
亀井の井戸と呼ばれていました。これは五番丁の交差点を少し東へ行くと、小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっています。
「今井戸」
鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥にあります。「水神社」の小さな祠があります。ビルの谷間の小さな祠です。
この3つの井戸から城下に飲料水を引きました。これが正保元年(1644年)のことです。
 高松城下図屏風は謎の多い絵図で、作成年月は記入されていませんので、いつ書かれたのかも分かりません。しかし、水桶を頭に水を運ぶ姿が書かれていることから上水道が出来る前に描かれたと考えることはできそうです。つまり、高松城下図屏風が書かれたのは1644年より以前であったという仮説は出せそうです。
高松城下の人の動きは南北が主
水桶を頭に置いて女達が南から北へ移動しているように、牛や馬を連れて農村からやってくる農民たちも、ほとんどが縦方向(南から北)の街路に沿って描かれています。 高松城下町は南北縦方向の軸が重要であったようです。
これをどう考えればよいのでしょうか。
 城下町が作られる以前の、中世に野原と呼ばれた頃から続く、港町の性質を受け継いでいるのではないかと研究者は考えているようです。その他の瀬戸内海の海に開けた城下町も南北方向の動きが主軸のようです。港町と後背地の関係が基本になっているのでしょう。それは中世・古代と変わりない構図のようにも思えます。

    
高松城下図屏風 東部(地名入り)
               高松城下図屏風 東部(クリックすると拡大します)
『高松城下図屏風』を眺めていると、海に向かってお城がむきだしのように見えます。海だけではありません。外堀の水は、兵庫町や片原町の方まで入り込んでいます。外堀と東浜船入の境には橋が架かっていますが、両者はつながっています。東舟入(港)には多くの船が入港して、大混雑しています。港を拡大して見てみましょう。
高松城下図屏風 東浜船入
この部分からは東浜船入りの次のようなことが分かります。
①港の入口は、石積みで補強されている
②東側岸壁に船番所が設置され、背後は町屋が続く
③西側岸壁には松が植えられ緑地帯となっている。
④緑地帯の背後には町屋がある。
⑤港の一番奥は橋で、橋の向こうは外堀に続いている。
⑥外堀には船の姿は見えない。外堀進入禁止?
⑦港入口の西側(右)にも船揚場がある
気になるところを見ていきましょう。まず船番所をのぞいてみましょう。
高松城下図屏風 船番所
拡大するとここまで細かく描き込まれていることが分かります。
それだけに実物を見ているといろいろなことが見えてきたり、想像・妄想したりして楽しくなります。この船番所では、入港してきた船の管理が行われていたようです。格子越に番人の姿も見えます。気になるのは、ぞの向こうの軒下に立っている女性です。やって来る船を待ているのか、常連さんを誘いに来たのか、それとも遊女なのか、・・・妄想が広がってきます。船番所の背後には、材木屋、東かこ(水夫)町の町屋が広がります。
 この船番所の下の岸壁につながれている船①も怪しいのです。
高松城下図屏風 東浜船入の船

拡大するとこんな感じです。石積みされた岸壁です。そこに浮かぶ船には、苫がけされた屋根があります。弥次喜多が金毘羅参拝道中に、大阪から乗ってきた金比羅船とよく似ています。船の後尾には「白旗」。なんの目印なんでしょうか、私には分かりません。そして、男が中央から顔出して「どうもどうも・・」という感じ。さらに舳先には横たわる女性。「私はもう寝ますよ」という風情。この船をどう理解すれば良いのでしょうか?
どう見ても漁船ではありません。金比羅船のように近隣の港を結ぶ乗合船なのでしょうか。それとも遊女船なのか。これも妄想が広がります。
次に見ておきたいのが西岸壁背後の町屋です。
高松城下図屏風 船揚場
この岸壁には松が植えられグリーンベルトのように描かれています。注目しておきたいのは、背後に町屋があることです。ここは外堀の内側に当たります。そこに町屋があるのです。ここ以外に外堀の内側に商人居住エリアは、高松城にはありません。この場所は、東が船入港、北が船揚場で回船業や問屋にとっては、絶好の立地条件です。このエリアの商人達が特権的な保護を受けていた気配があります。
最後に屏風に描かれた船揚場が、現在はどんな場所なのか行って見ることにしましょう
この図屏風には地名や道名は記されていません。そのため現在のどこに当たるのかは、すぐには分かりません。特定方法には、いろいろな方法がありますが、その一つは、他の絵地図と比べてみることです。
高松城下図屏風 北浜への道1
『高松城下図屏風』と明治の地図を、次のポイントに絞って比べてみます
緑のAの外堀の北側(下の方)のトライアングル区画
オレンジBのトライアングル区画
高松城下図屏風 船揚場への道2
二つの地図を比べると
緑のトライアングルAは西本願寺別院出張所が、。
オレンジのトライアングルBは金刀比羅神社が 
それぞれ高松城下図屏風と明治地図の両方にあるので、双方の「三区画」は、同じ場所だということになります。
そうすると矢印→①②を辿って行けば、船揚場に到着できるということになります。高松城下図屏風で、辿ってみると
高松城下図屏風 船揚場への道3
①の南から通じる道は現在のフェリー通りになります。東側の町屋の店先にはいろいろな物が並べられています。コーナー①の店は魚屋さんのようです。このあたりは、明治には魚屋町と呼ばれていたようです。ちなみに道の西側は県立ミュージアムの手前になります。①で右に曲がって、次の突き当たりを左(北)に進むと②に出ます。
高松城下図屏風 船揚場への道4
矢印②の木戸らしきものを抜けると、そこは海で「物揚場(ものあげば)」で船が係留され、木材のようなものが積まれています。

ところが、これを明治の地図で見てみると、景色が変わっています。海が埋立てられて、ピンクの船揚場だった所には、建物が建っています。その東側の通りは「北浜材木町」と記され、海際には、魚市場と神社が見えます。江戸時代には「物揚場(ものあげば)」だったところは「本町二番地」となっています。現在の地図で見てみましょう。

高松城下図屏風 船揚場への道5
ピンク部分が江戸時代の物揚場で、それが後に埋立てられ「本町二番地」という地番がつけられたようです。そして、北側に建立されたのが「えびす神社」だったということになります。現在の「北浜町」という町名も、「本町2番地」が江戸時代まではウオーターフロントだったのが、本町の「北」の「浜」を埋め立てでできた「町」なので「北浜町」と呼ばれるようになったのでしょう。
 本町の住人によると
高潮の時には、潮は北浜町を越えて上がってきていたが、「本町二番地」の手前で止まっていた
と言い伝えられているようです。「本町二番地」は、物揚場でその前は海はだったのです。そして海から運ばれてきた材木がここに下ろされていた場所だったようです。
 それでは、ここが埋め立てられたのはいつ頃のことなのでしょうか
高松城下図屏風 船揚場への道6

 元文5(1720)の「高松城下図」の東浜舟入付近の拡大図です。ここからは
①本町の北側が埋め立てられ「北濱町」「下横町」
②東浜もあらたに「地築」ができている
 高松城下図屏風から80年近く経った時点では、北側の海は埋め立てられたようです。私は明治になって埋め立てられたと思っていたので、江戸時代にもウオーターフロント開発が行われていたことは驚きでした。江戸時代から高松城下町の海への膨張は続いていたようです。
参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松屏風図3
 高松城下図屏風には「鍛冶屋町」「紺屋町」「磨屋町」「大工町」と職種のついた町名がいくつもあります。これを見て、同じ職業の人たちを集められ住まわせる「定住政策」がとられたのだろうと思っていました。角川の地名辞典にも「それぞれの職種の「職人町」の名称に由来する」と説明されてます。
高松城下図屏風 鍛冶屋町・紺屋町
しかし、「町名=職人町起源説」に異論を唱える研究者もいます。
その理由として「高松城下図屏風」の紺屋町や鍛冶屋町を見ても、雰囲気が伝わってこないというのです。兵庫町から南へ3本目の筋に当たる「紺屋町町」を見てみましょう。ここは、以前見たように通りの南側が寺町になります。境内の周りが緑の垣根で囲まれているのが寺院群です。 一番西側(右)が法泉寺です。そして、その南に鍛冶屋町が東に伸びます。
 この二つの通りを眺めると、特徴の無い板葺屋根の家が続きます。どの家も奥に庭(家庭菜園)を持っているのが分かります。しかし、紺屋や鍛冶屋らしきの姿は見えません。家の中で作業しているので、描けなかっただけなのでしょうか。鍛冶屋なら煙突が見えてもいいはずですが・・
「紺屋町」にも、染物を干しているような姿はありません。他の町を見てみましょう。
 「古馬場」あたりには、染めた布を干している様子が見えます
高松城下図屏風 古馬場2
上の絵は高松城下図屏風の現在の古馬場あたりです。寺町の南に馬場があり、武士が「乗馬訓練」を行っています。その南には松平頼重時代になって作られた掘割が見えます。その堀の南側には、干し場があり、色々な色に染められた反物が干されているように見えます。
 ちなみにその向こうは侍町(現古馬場)ですが、家並みを見ると藩士が住んでいる家には見えません。この絵の侍町は、西側は白壁で瓦屋根の立派な屋敷が続きますが東側は、板葺きやかやぶき屋根の家並みです。東西に「格差」が見られます。
 ひとつの仮説として、もともと紺屋町にいた染め職人たちが幌割完成後に作業に必要な水路を求めてここに移動してきたという説は考えられそうです。後で検討してみましょう。今は次へ進みます。
外堀の東側の部分の瓦町の拡大図です。
高松城下図屏風 大工町2
外堀は埋め立てられ現在の瓦町商店街になっています。外堀の内側には松が植えられています。そして、外堀の外側には、ここにも反物が干されています。拡大してみると・・
高松屏風図2
私は最初は洗濯しているように思いました。しかし、今までの「状況証拠」からすると、これは反物を洗っていると考えるのが正しいようです。この付近には紺屋があったのでしょう。紺屋の「立地条件」に洗い場は必要不可欠です。洗い場として外堀や掘割が利用されていたようです。ただ、反物を洗うのは真水でなければならいないのではという疑問は残ります。だとすれば、外堀の塩分含有率は低かったのでしょうか?
さて、最初に返ります。先述したように、次のような仮説が考えられます。
仮説① 高松城ができた頃に、紺屋町・鍛冶屋町に住まわされた「紺屋」や「鍛冶屋」といった職人の集団は、松平頼重時代には「転居」した。そして、職種を示す町名だけが残った。

これに対して城下町が出来る以前の先住職業者の住居に由来するという説が出されています。この説を見ていきましょう。
高松城築城以前に「野原」という港町があったことは以前に紹介しました。少し復習しておきます。
野原・高松復元図カラー
15世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』には、「野原」から兵庫北関に入ったに交易船がについて、例えば文安二年(1455)3月6日の日付で次のような記録があります。
  野原
   方本(潟元産の塩のこと)二百八十石  八百廿文
   三月十四日  藤三郎  孫太郎
これは、野原からの船が方本(高松市の潟元)の塩二百八十石を運び込み、船頭の藤三郎が北関に八百二十文を納めた記録です。ここからは「野原」から、畿内に向かって交易船が出航していたことと、野原に交易港があったことがわかります。
   近年の発掘調査で高松駅前付近からは、古代末から中世の護岸施設を伴う遺跡が発見され、野原が港町であったことが裏付けられています。また高松城西の丸の発掘調査からも井戸・溝・柱穴・土坑(大型の穴)等多数の遺構が確認されており、中世にはここに集落があったことが分かってきました。
高松城下図屏風 野原濱村无量壽院瓦
「野原濱村无量壽院」と銘のある瓦
特にその中でも注目すべきは「野原濱村无量壽院」(「无」は「無」の異体文字)と刻まれた瓦が出てきたことです。ここから、中世の高松駅付近の地名が「濱村」で、西の丸は「無量壽院」跡に建てられたことが分かります。もっと過激に書くと「生駒氏の高松城築城は中世の港町「野原濱村」を壊して築城」されていたと云うことになるようです。従来云われてきたように、何もない郷東川の河口に城が築かれたのではないようです。
高松野原復元図
永禄八年(1565)『さぬきの道者一円日記』(冠綴神社宮司友安盛敬氏所蔵)を見てみましょう。
この史料は、お伊勢さんからやってきた先達が残した史料です。野原とその周辺の人だちから伊勢神宮の初穂料として集めた米・銭の数量が記録されています。ある意味では集金台帳です。その中に、野原のなかくろ(中黒)という地名が出てきます。
 正藤助五郎殿 やと おひあふき 米二斗
檀家の名前と伊勢からの土産、そして集金した初穂料が記録されています。
 先ほど見た野原濱町(高松城西の丸)の集金記録もあります
高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
一  野原 はまの分 一円
 こんや(紺屋)太郎三郎殿 おひあふき(帯扇) 米二斗
     同   宗太郎殿   同  米二斗
       (中略)
 かちや(鍛冶屋)与三左衛門殿 同  米二斗
     同    五郎兵衛殿 同  代百文
伊勢神宮の先達が「集金」して回るのは、地元の有力者たちです。ここからは、野原のはま(濱)には、「紺屋」や「鍛冶屋」という人たちがいたことが分かります。
 この「こんや(紺屋)太郎三郎」と紺屋町を結びつけることが出来るのではないかと研究者は考えます。つまり「紺屋町」の地名は、染物の「職人集団」がいたからつけられたのではなく、中世から野原にいた有力商人の「こんや(紺屋)太郎三郎」が住んでいたところが「紺屋町」と呼ばれるようになったと考えるのです。
 そんな例は、よくあるようです。例えば東京の皇居の西の方にある「麹町」という地名は、そこで商売をしていた「麹屋」という商人の屋号に由来しています。そのあたりに麹屋ばかりがひしめいていたのではありません。
 「こんや(紺屋)太郎三郎」のかつての本業は染物業だったのかもしれません。しかし、多角経営で成長していくのが中世の有力者達です。彼は「野原濱村」の代表的地元有力商人で、交易業も営み船持ちだったのかもしれません。必ずしも「染物屋」だけではなかったと思います。
 以上から次のような結論が導き出せます。
①「紺屋町」は「染物屋」ばかりが建ち並ぶ染物業「専科」の職人町でなかった。
②色々な商工業者の集まる普通の町だった。
③その中に「こんや(紺屋)太郎三郎」という有力者ががいたので紺屋町と呼ばれるようになった。
「鍛冶屋町」も同じように考えられます。町の名前は、必ずしも専門職人の町を意味しないことは、他の城下町の研究からも分かってきています。

DSC02531
 しかし、城下町の東の方には、「いおのたな町(魚の棚町)」があります。ここは『高松城下図屏風』の中でも、「魚の棚」の名称どおり、ズラリと魚屋が並んでいます。ここは町名と描かれている内容が一致するようです。

参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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高松城下図屏風3
県立ミュージアムにある「高松城下図屏風」の精密コピーを眺めながら、今日も高松城下を探ってみます。 
寛永19(1642)年に松平頼重が高松に入り,生駒藩は高松藩となりました。この「高松城下図屏風」が、いつ、何のために、誰によって描かれたのかについては、はっきりしません。しかし、作られたのは入部から14年後の明暦2年(1656)前後と研究者は考えているようです。
『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』と比べると、どんな変化が城下町の南には見られるのでしょうか。
高松城侍屋敷図. 生駒藩jpg
「屋敷割図」は、讃岐のため池灌漑に尽力した西嶋八兵衛の屋敷も書き込まれているので、1638年頃のものだとされています。作成目的はその表題の通り「生駒藩藩士の住宅地図」で、これを見ると、だれの屋敷がどこにあって、どのくらいの広さかすぐに分かります。この「住宅地図」で城下町南端の寺町を見てみましょう。
生駒家時代讃岐高松城屋敷割図 寺町

   南部を拡大して「中央通り」を、縦軸の座標軸として書き入れてみます。そして寺町周辺を探すと、外堀南西コーナーから県庁方面へ南に伸びる道(現在は消滅)の一番南に「けいざん寺」と書かれた広い区画が見えます。これが前回紹介した法泉寺です。当時の二代住職が恵山であったことから「けいざん寺」と呼ばれていました。
 注目したいのは、その南の三番丁にの区画に記された文字です。「寺・寺・寺・寺・寺・寺」と寺が6つ記され、現在の中央通りを超えて、お寺が並んで配置されていたことが分かります。
個別の寺院名は記されません。まあ家臣団の「住宅地図」ですから作成依頼者にとって、寺は関係なかったのかもしれません。
 ここから分かることは、生駒時代は三番丁の南に配された寺院群が南の防備ラインであり、ここで城下町は終わっていたということです。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
  それから約20年近くを経て描かれた「高松城下図屏風」には、このあたりはどのように描かれているのでしょうか。
高松城下図屏風 寺町2
 高松の南部への発展は、どのように進んだのでしょうか?
高松城下図屏風を見ると、次のような事が分かります
①寺町の南に、新たに街並みが形成されている
②丸亀町の東側の「東寺町」の南には堀が出現している。
③その堀の南側にも白壁の屋敷群が立ち並んでいる。
ここから松平頼重がやった南方方面防衛構想は、
①防備ラインである寺町の南に新たに堀(水路)を通して
②堀の南に侍屋敷群を配置し
③西寺町の南に、広い境内を持つ大本寺(現四番丁小学校)や浄願寺(現市役所・中央公園)を配置。
④仏生山に法念寺造営
これらによって南方方面への防衛力を高めたと考えられます。
  高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には、この時期のことについて次のように記します。
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,
(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあります。ここからは、私は次のように推察しています。
①生駒藩時代は時代に逆行した知行制を温存したために、高松に屋敷を持つ者が少なかった。
②あるいは屋敷を持っていても、そこに住まずに知行地で生活する者が多く城下町の経済活動は停滞気味であった。
③結果として、城下町の拡張エネルギーは生まれなかった。
④また、知行制をめぐる政策対立が生駒騒動の要因のひとつと考えられる
⑤松平高松藩は検地を進め、家臣団のサラリー制を進めたので城下町に住む家臣は増え、町の膨張傾向が高まった。
そして南に向かって、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が整備されたようです。ちなみに三番「町」でなく、「丁」が使われているのは生駒氏のマチ割りの特色だそうです。生駒氏が関わった引田や丸亀も「丁」が使われているようです。ここから築城に独特の流儀を生駒氏は持っていたと考える研究者もいるようです。
 前回に触れた浄願寺が現在の市役所や中央公園を境内として整備されたのも、この時代のことになります。屏風図には寺町の南に大きな境内が見えます。

次に丸亀町の東の寺町(東寺町)を見てみましょう。
高松生駒氏屋敷割り 寺町2
この生駒時代の屋敷割図から見えてくることは
①瓦町から数えて南へ四本目の東西の通りの北側に寺が配置され寺町を形成。
②寺町の南側の通りは「馬場」と書かれています。
③その南の並びは「侍屋」とあります。
④しかし、馬場と侍町の間に堀割はありません。
この部分を『高松城下図屏風』と比較してみましょう。
高松城下図屏風 馬場
なんとここには本当に馬を走らせている武士の姿が描かれています。ここは「馬場」だったようです。勝法寺の南側にも数頭の馬が描かれています。その南側は堀割りで,堀割のさらに南は白壁の侍屋敷が東西に並んでいます。そして、馬場の南に堀が姿を見せています。この堀割は松平頼重時代になってから南方防衛ライン強化のために新たに作られたようです。
この馬場は、現在のどこにあったのでしょうか?
高松には「古馬場」という地名があります。古馬場といってすぐに連想するのは、私は「飲み屋街」の風景です。このあたりで武士達が乗馬訓練を行っていたのです。ならば馬場跡は、古馬場にどんな形で残っているのか探ってみましょう。
「北古馬場」と「南古馬場」の通りを見ていくことにします
高松古馬場 現在
 現在の「南古馬場」の通りは丸亀町をはさんで、その西側の道とは、まっすぐにはつながっていません。よく見ると、「丸亀町」のところで①のように「ズレ」ているのが地図から分かります。
高松古馬場 明治
明治四十二年の『高松市街全図』にもおなじようにな①の小さな「ズレ」は、見ることができます。そして①の町名は「古馬場町」と記されています。
高松城下図屏風 古馬場
丸亀町の「ズレ」に着目して『高松城下図屏風』を見ると、①の堀の南の東西の通りがやはり「ズレ」ています。ここから現在の南古馬場の通りが①の侍町南側の道であるようです。だとすれば、生駒時代は、ここが高松城下の最南端だったので、南古馬場は『高松城最南端通り」と呼ぶことも出来そうです。
同じような要領で北古馬場について探ってみましょう
②の堀に面した南側の道は、丸亀町のところで、突き当たりになっています。これは明治42年の『高松市街全図』の「北古馬場」と同じです。ここから②の道は、現在の「北古馬場」の通りだと分かります。
 現在の「北古馬場」の通りの北側の店の並びは「堀(水路)」、そして、水路を埋め立ててできたのが、今の「北古馬場」の飲食街の「北側」の店並びということでしょうか。
 馬を走らせていた馬場は、堀の北側でした。ということは現在の古馬場地区一帯というのは、「馬を走らせている場所」の南側の地帯で、「堀の南の侍町」になります。以上から「図屏風』の中の「馬を走らせている場所」は、現在のヨンデンプラザの東あたりと研究者は考えているようです。
さて、この馬場はいつ消えたのでしょうか?
享保年間の「高松城下図」には、勝法寺の南方に東西に並ぶ侍屋敷は見えますが,馬場はなくなっています。そして、馬場の北側にあった勝法寺が南部に寺域を広げ,御坊町も南部に拡大しています。そして「高松城下図」では,馬場は浄願寺の西に移動しています。有力寺院の拡大によって、馬場は境内に取り込まれていったようです。
高松城絵図9
 元文5年の「高松地図」には、それまで掘割の南側にあった侍町がなくなっています。代わって古馬場町と名付けられ町人町となっています。これについて「小神野夜話』は、この理由を次のように記します。
「今之古馬場勝法寺南片輪,安養寺より西の木戸迄侍屋敷本町両輪,北片輪之有候処、享保九辰,十巳・十一午年御家中御人減り之節,此三輪之侍屋敷皆々番町へ引け跡は御払地に相成,町屋と相成申候,享保十一,二之比と覚え申候,本町之南輪には,鈴木助右衛門・小倉勘右衛門・岡田藤左衛門・間宮武右衛門,外に家一二軒も有之候処覚候得共,幼年の節の義故,詳には覚不申候,北輪は笠井喜左衛門・三枝平太夫・鵜殿長左衛門・河合平兵衛。北之片輪には栗田佐左衛門・佐野理右衛門・飯野覚之丞・赤木安右衛門・青木嘉内等、凡右の通居申候,明和九辰年迄,右屋敷引五十年に相成候由,佐野宜休物語に御座候」
ここからは以下のようなことが分かります。
①享保11(1726)年頃に,御家人が減ったので,勝法寺に南側にあった侍屋敷は番町へ移した。
②その跡は払い下げて町屋となり古馬場町と呼ばれるようになった。
ちまり古馬場は、もとは侍屋敷街だったのが、享保年間に払い下げられ町人町となったようです。かつて武士達が馬を走らせていた馬場は乗馬訓練していた空間は、四国有数の夜の繁華街になっています。

参考文献 井上正夫 「
古地図で歩く香川の歴史」所収



高松屏風図3
    
  今回は「高松城下図屏風」の中の寺町を見ていきたいと思います。
外堀南側から真っ直ぐに南に伸びる丸亀町通りからは東西に、いくつかの町筋が伸びています。西側には、兵庫町,古新町,磨屋(ときや)町,紺屋(こうや)町が見えます。一方東側には、かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。城下町は南に向かって伸びていたことが屏風図から分かります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』には、南の端に三番丁が描かれています。その頃の高松城下町は、法泉寺の南の筋あたりが城下町の南端でした。今の市役所や県庁がある場所は、当時は城外の田んぼのド真ん中だったようです。
 高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
①生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
と記されています。三番丁あたりまでだった街並みが、六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場にも新たに侍町が開けたようです。
高松城下図屏風 寺町
 外堀の西南コーナーの「斜めの道」を南に進みます。この道は丸亀町通りと並行して南に伸びる「3本目」の道なので仮に「3本目」道と呼んでおきます。この道を南に行くと、その先に緑の垣根に囲まれた区画が見えてきます。ここが三番丁の寺町エリアのようです。拡大してみ見ましょう。
高松寺町3
寺町の一番西が法泉寺で、そこから東にお寺が東に向けて建ち並びます。その南が東福寺です。四番丁小学校は大本寺の跡に建っています。さらにその南の市役所は浄願寺跡だったところになるようです。
寺町の寺院群を江戸末期の絵図で見てみましょう。
1高松 寺町2
おきな本堂と伽藍、広い境内を持った寺院群が並んでいます。
高松城下図屏風では西から宝泉寺・行徳院、地蔵寺、正覚寺・
その南に東福寺・大本寺などが建ち並び南方の防備ラインを形成します。
1高松寺町1
さらに東には、徳成寺・善昌寺・本典寺・妙朝寺の4寺が並びます。この寺の並びの南側が寺町、その東側は加治屋町と記されています。この絵図では、方角や位置が分かりません。そんな時は明治の地図と比べてみると、見えてくるときがあります。
  「明治28年高松市街明細全圖」で寺町を見てみましょう
高松市街明細全圖明治28年
地図をクリックすると拡大します
日清戦争が終わった年に作られた市街図からは、次のようなことが分かります
①高松城の外堀は、まだ健在
②丸亀通り北の常盤橋を渡った突き当たりが県庁だった。隣は今と同じ裁判所。
紺屋町と三番丁の間に寺町は形成されていた。
④明治になっても街並みや道路に大きな変化はない。
⑤寺町の一番西の法泉寺の境内が飛び抜けて広い。ここに山田郡の郡役所が置かれ、マッチ製造所も見える。
大本寺の元境内に4番丁小学校ができている。
⑦地図上の南西角に高等女学校(現在の高松高校)
⑧現在の中央公園は浄願寺の境内であった
⑧丸亀町通りの東側にも寺町があった。その南が古馬場町である。
それから約30年後の大正12年の高松市街図です。
高松市街地図 大正
①法泉寺前を通る赤い実線は路面電車の線路。停留所「法泉寺前」が設置された
②寺町の各寺院境内の北側が一律に狭くなっている。(原因不明)
③四番丁小学校の南の浄願寺に市役所ができた
④市役所の南の浄願寺境内に高等小学校が出来た。現在の中央公園
⑤市役所の東の北亀井町の「尚武会」は意味不明
寺町のお寺の中でも最も広い境内を持つのが宝泉寺でした。
高松宝泉寺 お釈迦

このお寺は、弘憲寺と共に生駒家の菩提寺で、宇多津から高松城築城時にここに移されます。二代目一正と三代目正俊の墓所となり、寺名も三代目正俊の戒名である法泉に改められます。しかし当時は、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んでいたようです。
高松宝泉寺鐘
生駒氏の菩提寺であることを物語るもののひとつに鐘があります
文禄の役(西暦1592年)に朝鮮に出陣した時、陣鐘として持参し、帰国後、この寺に寄進したと伝えられるものです。
 高松市歴史民俗協会・高松市文化財保護協会1992年『高松の文化財』には、この鐘について次のように紹介されています。
この銅鐘は、総高87センチ、口径53センチ、厚さ5.5センチ、乳(ちち)は4段4列の小振りの銅鐘である。もと備前国金岡庄(岡山県岡山市西大寺)窪八幡にあったもので、次の銘が刻まれている。
「鎌倉時代の元徳(げんとく)2年(西暦1330年)の青陽すなわち正月に、神主藤井弘清と沙弥尼道証の子孫が願主となり、吉岡庄(金岡庄の北方)の庄園の管理人である政所が合力し、諸方十方の庶民が檀那(だんな)となって銅類物をそえ、大工(鋳物師)宗連(むねつら)以下がこれを鋳た」

 生駒氏は讃岐にやって来る前は、播磨赤穂領主で備前での戦いにも参加していました。その時の「戦利品」を陣鐘として使っていたのかもしれません。「天下泰平」の時代がやって来て、菩提寺に寄進したのでしょう。どちらにしてもこの寺は、生駒氏からさまざまな保護を受けていたようです。それは、明治には山田郡の郡役所も設置されるほどの広大な境内を持っていたことが地図からも分かります。
4343291-05宝泉寺
宝泉寺(大きな松で有名だった)
日露戦争後には香川県出身将兵の忠魂碑として釈迦像が建立され「法泉寺のおしゃかさん」として市民にも親しまれていました。
当時の地図には境内に「釈迦尊像」と記されています。また、第一次世界大戦中の1917年(大正6年)5月20日に開通した路面電車がこの寺の前を通り、停留所「法泉寺前」も設置されています。
 このお寺に大きな試練が訪れるのは第2次世界大戦末期です。1945年(昭和20年)7月4日未明の「高松空襲」で、ほとんどが焼失します。
高松宝泉寺釈迦像

南門は必死の消火活動で残ったようです。忠魂碑として建てられた大きな釈迦像も奇跡的に被弾せず無傷で残りました。海まで見える焼け野原となった高松市内で「法泉寺のおしゃかさん」は、どこからも見えて、その変わらぬ姿は市民の心のよりどころになったといいます。
高松宝泉寺 門
 戦後の都市整備計画の区画整理は、この寺に大きな犠牲が迫ります。広い境内は「県庁前通り」と「美術館通り」で四分割されました。そのため釈迦像や生駒廟と共に本堂は約70㍍東の現在地へ移転し、再建されました。現在の境内は、往時から比べると大幅に縮小しています。
 その他のお寺も従来の場所での再建を諦め、他所に移って行くもの、境内を縮小し再建費を工面するものなど、存続のためのための苦労があったようです。
 法泉寺の東側にあった道は、『高松城下図屏風』の中では、中央の丸亀町の通りから数えて西へ三本目の南北の通りです。そのまま北に進むとお城の外堀の西側の「斜め道」に出て、西浜船入(港)に通じていました。この通りは、今では宅地になって消えてしまいました。しかし、法泉寺より南側の部分、つまり東福寺と四番丁小学校の間だけは残りました。四番丁小学校の西側の道路は、四百年前のままの位置にあるようです。
 もうひとつ気になるお寺が 浄願寺(じょうがんじ)です。
高松浄願寺
中央公園の中にある浄願寺の記念碑
この寺も法泉寺と同じように生駒氏が宇多津から高松へ引き抜いてきたお寺です。高松を城下町にしていくためには、文化水準の高かった当時の宇多津からいくつかの寺院を移さなければ、城下町としての体裁が整わなかったようです。丸亀から町人を「連行」したのも「城下町育成」にとって必須の措置と当時の政策担当者は考えていたようです。
4343290-27浄願寺
浄願寺
 浄願寺はもともとは、室町時代中期に宇多津に創建された寺でしたが、生駒親正が高松城築城時に高松に移します。しかし、その後火災で全焼していまいます。それを救ったのが、高松藩初代藩主として水戸から入封した松平頼重です。頼重は、高松藩主の菩提寺として再興しますが、その際に五番丁に土地が与えられました。以後は隆盛を極め、広い境内に伽藍がひしめく状態だったようです。
 明治になると高等小学校が境内の南にできます。ここには菊池寛が通学していたようです。さらに日清戦争後の1899年(明治32年)には、高松市役所が北古馬場町(現・御坊町)の福善寺から境内の北側へ移ってきます。つまり、現在の高松市役所と中央公園が浄願寺の境内だったということになります。
 この寺にも高松空襲は襲いかかります。戦後は、番町二丁目に移動して再建されました。ちなみに、中央公園には、浄願寺跡地の石碑と浄願寺ゆかりの禿狸の像があります。
高松城下町イラスト

 寺町について見てきましたが「高松城下図屏風」には、寺町の南には堀が描かれています。これも寺町を城下町高松の南の防備ラインと考えていたことを補強するものです。いざというときには、藩士達には集合し、防備する寺院も割和えられていたのかもしれません。しかし、その堀も後には埋め立てられて「馬場」となったとも云われます。次回はその「古馬場」についてみていきます。
参考文献 井上正夫 むかしそのまま 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収




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『高松城下図屏風』
『高松城下図屏風』は高松藩初代藩主が作らせたと云われる屏風図です。江戸屋敷に置かれて、高松に馴染みのない江戸詰の藩士たちと政策協議する際の史料としても使われたと私は妄想しています。この屏風の精巧なコピーは県立ミュージアムにもありますが、まずその大きさに驚かされます。
高松屏風図2
次に、その精巧さです。道並み、街並みがしっかりと描きこまれ、屋敷の主である藩士名まで分かります。寺院の本堂の位置や塀の形まで描かれています。さらに目をこらすと道行く人たちや外堀で洗濯(?)している女(?)まで見えてきます。

この屏風図に描かれた高松の町が今はどうなっているのかを何回かに分けて探ってみたいと思います。その手始めに高松城下町の「座標軸」をつかんでおくためのトレーニング・クイズです。
設問1 屏風図上に、次のストリートを書き入れなさい。
①丸亀通り
②中央通り
③兵庫町通り
④瀬戸大橋通り
⑤フェリー通り
ちなみに、①以外の通りは江戸時代にはなく、後世に姿を見せた物ですから屏風図には書き込まれていません。そういう意味では難易度はかなり高いクイズです。
高松屏風図4

答えは屏風図を参考に、見ていきましょう。(クリックすると拡大します)
①の丸亀町通りは、外堀の架かっている常磐橋が起点になります。
1高松城 外堀と常盤橋

その橋を渡って真っ直ぐに南の方(屏風では上の方)に伸びているの赤く囲んだのが丸亀町です。この町は、その名の通り生駒氏が丸亀城を廃城にした際に、保護を与えて丸亀から連れてきて住まわせた商人が住んだ町と云われます。位置的には4百年前と変わっていないようです。
高松屏風図3
中央通りは、この位置になるようです。
  丸亀町通りから数えて南に延びる道の1本目と2本目の間を抜けていきます。兵庫町通りを真っ二つに分断して作られたことがよく分かります。中央通りは高松大空襲で焼け野原になった後、戦後の整備計画で、都市の基軸線として姿を現しました。
なぜ丸亀通りを中央通りにしなかったのでしょうか?
  それは高松城との関係があったからでしょう。もし丸亀通りを「中央通り」とすると、上の地図でも分かるとおり高松城の核心部を突き抜けていくルートになります。そうなれば高松城は大きなダメージを受けたでしょう。もう一つは、高松駅と港を起点した都市整備が考えられたためだと思います。中央通りは、内堀の西側を通って駅や港に通じるように設計されました。高松城にとって影響が一番少ない形でした。
1 高松城4pg
③の兵庫町通りには、以前お話ししたように外堀を埋めた後に作られたました。
外堀は現在の姿は次のようになっています。
南側は片原町商店街
北側が兵庫町商店街
1 高松城54pg
この地図の⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面に伸びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。

DSC03617
③の斜めに伸びる西側の外堀が気になります。
以前私は、外堀は「東西の船入(浜港)とつながっていた」と書きました。確かに、東側は直角に曲がって東浜船入を通じて海につながっています。西側は西北に向かって斜めに伸びています。しかし、よく見ると西側の外堀と西浜船入(港)とはつながっていないのが分かります。どうしてなのでしょうか。つながらせると潮の満ち引きの影響を受けて外堀に流れが生じ「運河」として、使いにくくなるからだと今は勝手に解釈しています。

高松城外堀西側
さて、外堀部分(斜め道)の「今」は、どうなっているのでしょうか
香川県警北署の西約百メートルにゼネラルのガソリンスタンドがあります。高松駅から県庁方面に向かう人たちは、この前の「県庁前通り」を南進していきます。グーグル地図で見ると、このガソリンスタンドを起点に、スタンドを挟むように両脇から「斜めの道」が2本南南東に伸びています。なんでこんなに隣接したところに2本の道が必要なの?と疑問に思う道です。
1 高松城 外堀と西浜

手前が西浜船入で向側は外堀跡の斜め道
 これが外堀跡の現在の姿なのです。
堀だった両側の一部が細い道となり、その中には住宅やビルが建ってしまったようです。ここが外堀の西の終点だったとすれば、ここから高松駅にかけては西浜船入りの港があり、多くの船が出入りしていた場所なのです。
DSC03618
そしてお城の西口でもあったのです。そこを今は瀬戸大橋通りが東西に走り抜けています。

1 高松城 外堀と西浜
西浜船入と外堀の最終地点

参考文献 井上正夫 高松の「ヘンな道」 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

   

 

高松城絵図11
幕末の天保年間の高松絵図です。「軍事機密」のためか高松城の中は空白です。東西南北の市街エリアを確認しておきましょう。
西に向かっては海沿いに扇町あたりまで街道が伸びています。
南は東西に走る石清水八幡神社の参道を越えて、家並みが続いているようです。石清水神社の北側には、この神社の社領が広がっていて市街地の形成を阻んでいるようにも見えます。
さて、江戸時代の高松が明治になってどう変わったのかを、次の3枚の絵図と比べながら見てみましょう。
Ⅰ 明治15(1882)年の『讃岐高松市街細見新図』
Ⅱ 明治28(1895)年の「高松市街明細全図」
Ⅲ 大正10(1921)年の『高松市街全図』
 

1高松市明治18年
江戸時代の地図が海川(北)が上に描かれているのに対して、明治のものは逆転して海側が下に描かれています。明治維新は、天地がひっくり返るほどの大変動だったのかもしれません。

天保の絵図18と比較すると、お城の東西の港もまだ健在でこの時点では埋め立てられてはいません。鉄道の線路も見えません。明治になっても、街並みに大きな変化はないようです。

明治のⅠ・Ⅱの絵図から読み取れることを挙げておくと
①中堀の西部は、現在の高松市西の丸町に続いていたこと
②外堀は西の丸町と錦町の境の道路から,片原町・兵庫町の北部を抜け,北浜港に続いていたこと。
③明治15年のⅠと藩政時代の絵図とあまり変化はない。
④明治28年のⅡ「高松市街明細全図』と現在を比較すると,城下町の東部,町屋があった片原町,百聞町,大工町,今新町,御坊町,古馬場町,通町,塩屋町,福田町,丸亀町、中新町、南新町、田町,兵庫町,古新町,磨屋町,紺屋町あたりは明治時代の大部分の道路が残っていて、江戸時代の地図を重ね合わせることができる
⑤侍屋敷があった番町2~5丁目付近は、変化が激しく現代と明治時代の道路は一致しない。

1高松市明治28年
 Ⅱの明治28(1895)年の『高松市街明細全図』は高松築港の工事が始まる直前の地図です。
①波止場が海に大きく伸びていますが、西浜舟入(堀川港),外堀,中堀の姿がまだ残っています。
②石清水八幡宮の奥(宮脇2丁目)には姥ゲ池という大きな池があったことが分かります。
③この池から流れ出す川は、石清水八幡宮の北に広がる社領を用水路としても機能していたことがうかがえます。この社領が現在の香川大学キャンパス等になったようです。
④大正の絵図Ⅲには、社領が宅地化した結果、この池が縮小されているのがうかがえます。そして、現在はこの池は姿を消しています。
1高松市大正
今から約百年前の大正10(1921)年のⅢの絵図になると大きく変化します。
①西側から丸亀からの鉄道と徳島線が南側を迂回して港周辺まで伸びています。
②路面電車が高松駅から栗林公園まで南北に延び、そこから長尾・志度方面に走っています。
③お城周辺を見ると西浜舟入(堀川港)は埋め立てられています。そこに高松駅が作られているようです。
④Ⅰには残っていた南側の外堀も埋め立てられたようです。
現在の街並みと比較すると、街路は曲がりくねっています。路面電車の線路も屈曲が何カ所もあります。この絵図に描かれた高松市街は、空襲によって焼け野原になり、その後に整備され生まれ変わったことが分かります。

1HPTIMAGE
Ⅱの明治28年の絵図と現在の地図を重ね合わせたものです。
①広角レンズで遠くからながめると、高松駅は西浜舟入を埋め立てた上に建てらたことがよく分かります。
②西部の石清水八幡宮社領が現在の香川大学のキャンバスになっていることがうかがえます。
1 高松城54pg
さて、今度はズームアップしてお城を見ていくことにします。
まず外堀はどこにあったのでしょうか?
外堀は南は片原町商店街・兵庫町商店街の北側の店舗が外堀の位置だったようです。⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。また、片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③の兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面へ延びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。ここからも外堀は東西の浜港とつながっていたことが分かります。 
1 高松城4pg

高松城絵図に現在の主要な道路を書き入れる上図になります。
①中央通りが西の丸の東側を南北に貫いています。この地図からは西の丸の北の海の中にホテルクレメントが建っていることになります。そして、先ほど見てきたように本丸西側の内堀が埋め立てられて、琴電の線路と駅舎があります。
②高松駅は外堀の東側の西浜舟入を埋め立てられた場所にあります。
③東西に走る瀬戸大橋通りは、中堀を埋め立てなかったために中堀の東側のフェリー通りの交差路で妙に屈曲することになりました。もし東からの道に併せれば南側の中堀も埋め立てられていたかもしれません。
④ 中堀の西側は埋め立てられ現在はパークホテルやエリヤワンホテルが建っています。内堀も西側は、琴電電車の建設の際に埋め立てられ、線路がひかれ駅舎が建てられています。この内側は内町と呼ばれ武家屋敷が並んでいたことになります。
1 高松城p51g

さて東の丸はどうなっているのでしょうか?
①東の丸の東側の中堀は、埋め立てられてフェリー通りになりました。
②東の丸の北側には、レグザムホールがあり、その南には県立ミュージアム、その南に城内中学校がかつてはありました

高松城の推定面積は約66万平方メートルで、現在の玉藻公園の約8倍、東京ドームに換算すると約14個分(グラウンド面積では約50個分)の広さになります。こうして見ると往時の高松城が、とても広かったことが分かります。
参考文献
森下友子
   高松城下の絵図と城下の変遷  
香川県埋蔵物研究センター紀要Ⅳ



  
HPTIMAGE高松

 
高松城下を描いた絵図資料は25点、19種類あるそうです。これらの絵図には高松城及び高松城下が描かれています。これらを製作年代順に並べて見比べてみると、どんなことが分かってくるのでしょうか。まずは生駒藩時代の二枚の絵図を見ていくことにしましょう。
 高松城は生駒親正によって天正16(1588)年,香東郡野原庄の海浜に着工されました。
高松城の地理的要害性ついて『南海通記』は
「此ノ山ナイテハ此ノ所二城取り成シ難ク候、此ノ山アリテ西ヲ塞キ、寄口南一方成ル故二要害ヨシ,殊二山険阻ニシテ人馬ノ足立ナク,北ハ海ニ入テ海深ク,山ノ根汐ノサシ引有リテ,敵ノ止り居ル事成ラズ,東八遠干潟 川人有リテ敵ノ止ミガタシ,南一ロノ禦計也,身方干騎ノ強ミトハ此ノ山ノ事也」

とあり、北は海岸で,東は遠浅の海岸が広がり,西は山が迫っており,山の麓は浜が広がる要害の地に築かれたことを指摘します。
 最も古い絵図は寛永4(1627)年に記された『讃岐探索書』の絵図(絵図1)のようです。
これは題名からうかがえるように幕府隠密が書き残した報告書で、絵図のほかに高松城の他にも町の広さなどが記録されています。当時は生駒藩時代で外様大名でなので監視の目がそそがれていたようです。隠密は次のように高松城を絵図入りで報告しています。

1讃岐探索書HPTIMAGE
天守閣は三層で,三重の堀をもつ。内堀の中に天守のある本丸があり,堀を挟んで北側に二の丸,東に三の丸がある。天守の西側の西の本丸は多聞で囲まれ,南西・北西・北東の角に二重の矢倉がある。二の丸は矢倉で囲まれていて,北角には矢倉が2つある。二の丸と内堀を挟んで西側にある西の丸の北側は塀で、北の角には屋敷があり,南の角に矢倉が2つある。しかし、中堀の石垣は6~7間が崩れて放置されている。海側にも海手門と矢倉があり,その東側には塀が続いているが、土が剥げ落ちている。
 また海側には海手門があった。中堀の東南付近には対面所がみられるが,この北側には堀を挟ん
で三の丸との間に門がある。三の丸は東南角に二重の矢倉があり,矢倉に続いて30間の多聞が続く。海の方にも矢倉があり,塀が巡っているが塀は崩れかかっていた。
 
1生駒藩時代
お城周辺の拡大図
これは高松城のことを記した一番古い史料になりますが,築造開始より年数が経過して,土塀や石垣は相当傷んでいて、それを放置したままになっていたことがうかがえます。藩内のお家騒動が激化してそれどころでなかったのかもしれません。
「讃岐探索書』は、城下の周辺ついては次のように記します
城下は城の西側,南側,東側に広がっていて、東10町(約1km),北南6町(約650 m)程度の広さで,800~900軒の家が並んでいる。城下町の東西には潮が入る干潟が広がり,南側は深田であった。 
 ここからは高松城の西と東はすぐ海浜で、東西の町は小規模で、南に向かって城下町は発展していく気配を見せています。町屋数は900軒前後であったといいます。公儀隠密の描いた「絵図1」は略図で、高松城下の町の名や,その広がりなどについては詳しくは分かりません。しかし、東西に干潟が広がる海岸の先端にお城が築かれていたことは分かります。
1HPTIMAGE
これに対して『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)は詳細に描かれています。
この絵図を見て気付くことを挙げておくと
①城と港(軍港)が一体化した水城であること
②中堀と外堀の東側には町人街があること
③外堀の南に掛けられた橋に続いて丸亀町がまっすぐに南に続いていること
外堀の南と西にはは侍屋敷が続きます。侍屋敷は外堀内が108軒、外堀西が162軒で、重臣屋敷は中堀の外側に沿って配置されているのが上図から分かります
町筋を見ていくと東西に5筋、南北に7筋の通りが配されています。注目しておきたいのは東側の外堀の内側には、町屋があることです。これらは特権的な保護を受けていた気配があります。町屋の総数は1364軒になるようです。公儀隠密の報告から10年あまりで1,5倍に増えていることになります。急速な町屋形成と人口の集中が起きていたことがうかがえます。
 東西南の町屋を見ておきましょう。
 東部は町屋が広がり,いほのたな町・ときや町・つるや町・本町・たたみみ町などの町名が見えます。外堀の東側は東浜舟入で,港ですが舟入の東側にも町屋が広がり、材木屋、東かこ(水夫)町があります。
 南側には丸亀町,兵庫かたはら町,古新町,ときや町,こうや(紺屋)町,かたはら町,百聞町,大工町,小人町が続きます。この数からも城下町は南に向かって伸びていった様子がうかがえます。
 城下の東には通町,塩焼町が、城下のはずれには「えさし町」が見えます。
絵図の西端は、現在の高松市錦町に所在する見性寺付近で、東端は塩焼町で,現在の高松市井口町付近にあたります。
 南端には三番丁の寺町が見えます。そこには西からけいざん(宝泉)寺・実相寺、脇士、浄願寺・禅正寺・法伝寺・通明寺・福泉寺・正覚寺・正法寺の寺院がならび南方の防備ラインを形成します。なお「けいざん寺」は宝泉寺のことで、二代住職が恵山であったことから人々は「けいざん寺」と呼んだようです。
 この南にはかつては堀もあったようで、それが埋め立てられて「馬場」となったとも伝えられます。それを裏付けるように厩,かじや町が描かれ,南東部には馬場があり,その南には侍屋敷があります。この辺りは、現在の高松市番町2丁目で、高松工芸高校の北側あたりから御坊町にかけてになります。
「生駒家時代高松城屋敷割図』(絵図2)には三番丁が描かれていますので、この時代に城下はこの辺りまで広がっていたようです。
しかし、高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」

とあり,松平頼重の頃に六番町・七番町・八番町・北一番町・古馬場が新たに侍町になっことが記されています。つまり、それまでに五番丁まであったと記します。生駒藩時代に、どこまで城下が広がっていたのかは、今の史料でははっきり分からないようです。
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 この「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」には製作年代が記されていません。
いつ作られたものなのでしょうか。研究者が注目したのは、中堀と外堀の間の西上角にあった西嶋八兵衛の屋敷が
描かれていることです。彼は藤堂家から派遣されて、讃岐のため池築造や治水灌漑に大活躍した讃岐にとっては「大恩人」です。西嶋八兵衛は寛永4(1637)年から寛永16(1639)年まで生駒藩に仕えますが、元々の屋敷は寺町にあって、その後に大本寺は建立されたと,大本寺の寺伝が記します。大本寺の建立は「讃岐名勝図会』では寛永15(1638)年,寺伝では寛永18(1641)年とあります。
 ここでもう一度「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2)をみると,寺町の西端の大本寺の所に「寺」と記されています。ここから大本寺は、この絵図が描かれたときには建立されていたことが分かります。また,西嶋八兵衛が生駒藩に仕えたのは寛永16(1639)年までですから大本寺は寛永16(1639)年以前に創建されたことになります。
 以上から大本寺の建立は『讃岐名勝図会』の説のとおり寛永15(1638)年で,それ以前に西嶋八兵衛屋敷は中堀と外堀の間に移ったようです。彼が生駒藩に仕えたのは寛永16年までなので,寛永15(1638)年から寛永16(1639)年の間に、この絵図は製作された研究者は考えています。まるで推理小説を読むような謎解きは、私にとっては面白いのですが、こんな作業を重ねながら高松城を描いた19種類の絵図を歴史順に並べらる作業は行われたようです。

 生駒騒動で生駒氏が改易された後,寛永19(1642)年,高松城に入部した松平頼重は寛文10(1670)年に高松城の天守閣の改築をし,翌年には新しく東の丸を築造しています。東の丸があるかどうかが絵図をみる際のポイントになるようです。東の丸があれば、松平藩になってからの絵図と言うことになります。
1高松城 屋島へ
それでは、この絵図はどうでしょうか?
「讃岐高松丸亀両城図 高松城図』(第6図 絵図3)も製作年代がありません。東の丸が描かれていないので寛文11(1671)年以前のものであることは間違いありません。この絵図は、高松城下町は略されていますが、周辺への街道が描かれています。周囲をみると屋島(八嶋)島の状態で陸と隔てられ、屋島と高松城は湾として描かれています。また,志度へ向かう道が2本描かれています。1本は東浜より湾を渡って屋島の南に抜け,牟礼・志度方面へ向かう道,もう1本は長尾街道と分岐し,海岸線を経由して屋島の南で前者の道と合流する道です。この道のすぐ北側は海で,湾状となって描かれていますが,この辺りは西嶋八兵衛によって寛永14(1637)年に干拓が行なわれた場所になります。ところがこの絵からは干拓の様子が見えません。ここからこの絵図は生駒藩時代のもので,西嶋八兵衛が干拓を行う寛永14(1637)年より前のものと研究者は推理します。
 
HPTIMAGE
第8図「讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)です。
 この絵図と先ほどの「生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)を比べると、2つの相違点に気がつきます。一つは(絵図2)では東浜舟入の東側は「東かこ町」でした。この東の海岸をみると,塩焼浜と記され,浜が広がっている様子が描かれています。一方この絵図4では、東かこ町側の海岸は直線的に描かれていて、絵図の着色から石垣の堤防が築かれたことがうかがえます。
 2つめは、この「絵図4」では西浜舟入の侍屋敷の西側には町人が見られますが『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図』(絵図2)では町人町は描かれていませんでした。ここから『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は『生駒家時代讃岐高松城屋敷割図」(絵図2』より新しいものと研究者は考えているようです。
 それでは『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は生駒藩時代,高松藩時代のどちらをを描いた絵図なのでしょうか?
 松平頼重が高松城に入城するのは寛永19(1642)年で,『生駒家高松城屋敷割図』(絵図2)の製作の3~4年後です。東浜の海岸の石垣工事や,西浜町人町の建設などの工事は大工事であり,これだけの工事を3~4年間で行なうのは難しいようです。『讃岐高松丸亀両城図 高松城下図』(絵図4)は、松平頼重入封以後の高松藩時代のものと考えるほうが無難のようです。
 なお,明暦元(1655)年松平頼重が五番丁に浄願寺を復興します。浄願寺は寺域も広く「高松城下図」(絵図7)など後世の絵図にも大きく描かれています。しかし、この「絵図4」には浄願寺は描かれていません。これも明暦元(1655)年以前のものとされる理由のひとつです。
DSC03602

  以前に生駒藩の高松城の建設は従来考えられていたような秀吉時代のことではなく、関ヶ原の戦い後になって本格化したと考えられるようになっていることをお話ししました。それは発掘調査から分かってきたお城の瓦編年図からも裏付けられます。
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 そして、新たにやってくる新領主・松平頼重のもとで高松城はリニューアルされ、城下は新たな発展の道を辿ることになるようです。

           
生駒氏による高松城築城の「通説」ストーリーは?
1587年(天正15)、豊臣秀吉の命により、播磨赤穂6万石の領主・生駒親正が讃岐国主に任じられます。親正は、まず引田城に入り、次いで宇多津の聖通寺山城(平山城)に移り、翌1588年(天正16)に香東郡野原の地に高松城と城下を築いた(『南海通記』)。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)が従来語られてきたストーリーのようです。
 それでは生駒氏の高松城は、いつ完成したのでしょうか?
南海通記は、着工2年後の1590年には完成したとしますが、お城が完成したことに触れている史料はありません。ここから高松城については
①誰が縄張り(計画)に関与したか、
②いつまで普請(建設工事)が続き、いつ完成したか、
の2点が不明なままのようです。
 また、生駒時代の高松城を描いた絵図は、1627年(寛永4)に幕府隠密が高松城を見分して記した「高松城図」(「讃岐伊予土佐阿波探索書」所収)以後のものしか知られていません。そのため完成当初の高松城・城下町がどのような景観だったかについても、よく分かっていないというのが実情のようです。
 文献史料がない中で、近年の発掘調査からいろいろなことが分かってきました。
例えば天守台の解体修理に伴う発掘調査からは大規模な積み直しの痕跡が見られず、生駒時代の建設当初のままであることが分かってきました。建設年代はについては
「天守台内部に盛られた盛土層、石垣の裏側に詰められた栗石層から出土した土器・陶磁器は、肥前系陶器を一定量含んでおり、全体として高松城編年の様相(1600 ~ 10年代)の特徴をもっている」

と指摘しています。つまり、入国した1588年(天正16)から10 ~20年ほど立ってから天守台は建設されたようです。
 織豊政権の城郭では、本丸や天守の建設が先に進められる例が(安土城・大坂城・肥前名護屋城・岡山城)が多いので、高松城全体の本格的な建設は関ヶ原の戦い以後の慶長期(1596 ~ 1615年)に行われた可能性が出てきたようです。
1) 上級家臣が屋敷を構える外曲輪では、
ここからは屋敷内や街路にゴミ穴(土坑)が掘られて土器・陶磁器・木器が廃棄されていました。ゴミ穴を年代毎に見てみると外曲輪での日常的なゴミ処理が、1588 ~ 1600年頃には極めて少なく、生活感の希薄な状況であると指摘されています。また屋敷地の区画施設(溝や塀)にも1588 ~ 1600年まで遡るものは、現在までの発掘ではありません。
しかも1630 ~ 40年代までは、それぞれの屋敷地に個別に区画溝が巡らされていて、中世的な屋敷の景観が読み取れるといいます。「高松城下図屏風」に描かれたような、塀(板塀・土塀)や長屋門をもつ区画施設は、1640 ~ 50年代になってようやく現れるようです。つまり、私たちが見なれた「高松城下図屏」と生駒時代のお城や街並みは大きく違うようです。特に家臣団屋敷の景観も相当大きく変化したことがうかがえます。
岡山城と高松城に瓦を供給した「瓦工場」
16世紀末葉~17世紀初頭における高松城跡出土瓦を、時代ごとに分類すると次のようになります。
Ⅰ期 1588 ~ 90年代前半(天正16 ~文禄期)頃。
在地系の瓦主体。まだ瓦の量自体が少なく、中世的で丁寧な製作技法が見られる。
Ⅱ-1期   1590年代後半(慶長1~5年)頃。
在地系の系譜(瓦工集団)で集中的な生産に伴う粗雑化が進む。姫路系の直接的な影響の可能性をもつ系譜も出現する。
Ⅱ-2期   1600年代前半(慶長5~ 10年)頃。
岡山城跡と同笵・同文関係にある軒平瓦の系譜(三葉文系)が普遍化し、瓦の量が急増する。胎土・焼成ともに、近世的な特徴をもつようになる。
Ⅲ期  1600年代後半~ 10年代(慶長11 ~元和6)頃。それ以降も含むか。岡山城跡との同笵・同文関係は継続。
ここでも城・城下の建設の進展を窺わせる瓦の大量供給は、Ⅱ-2期~Ⅲ期(慶長期)になってからのようです。そして大量に出てくるのは、岡山城との同笵・同文瓦の瓦なのです。
これをどう考えたらいいのでしょうか?
 同時進行で建設されていた高松城と岡山城に瓦を供給した「瓦工場」がどこかにあったようです。
「高松での大量供給段階でも岡山城の大規模な普請は継続していることから、現状では岡山からの搬入の可能性の方に妥当性がある。」
と研究者は考えているようです。
  岡山では1590年代(文禄・慶長初期)に瓦の大量生産・供給の最初のピークがあります。一方高松への大量供給はこれに遅れていますので、岡山城での普請が先行すると考えられます。
 岡山城主・宇喜多秀家は信長政権下での中国攻め以来、秀吉と深い関わりがあり、1585年(天正13)には秀吉の養子として元服しています。その後は豊臣政権の中で重用され、文禄の役では総大将を務め、五大老に名を連ねます。岡山城建設の最初のピークは、豊臣政権における秀家の台頭と軌を一にしているようです。
 阿波の蜂須賀氏に対して、どこに城を築くかについては秀吉からの指示があったといいます。天下を握ったばかりの秀吉は、西国の最前線は備讃瀬戸あたりで、この地域での政治的中心地の建設にあたり
「まず岡山城、次に高松城を造る」
という意向があったことは充分に考えられます。その岡山城建設に必要な瓦工場も宇喜多家の管理下に建設操業を始めます。そして、関ヶ原の戦い以後に遅れて高松城築城を開始した生駒家へも瓦を提供することになったという筋書きが描けそうです。
築城に当たっての寺院への対応は?
  西浜で真行寺に隣接して境内があった無量寿院は、戦国期には野原中黒(高松城中心部周辺)に存在したことが「さぬきの道者一円日記」(1565年、永禄8)から分かり、発掘調査により西ノ丸がその旧境内地と特定されました。出土瓦などから
「少なくとも17世紀以降に無量寿院が[西浜へ]移転したものと考えておきたい」
と報告書は記します。
   「高松城下図屏風」等には、外堀に面した片原町に愛行院の境内が描かれています。愛行院は、中世野原から継続する華下天満宮(中黒天満宮)の別当寺で、城下における山伏の統括を行う役割が与えられていました。中世の境内の位置は分かりませんが、絵図にある境内地の周辺にあったと考えられ、城下に組み込まれた形になったようです。
丸亀町の性格は?
大手筋の丸亀町は1610年(慶長15)に生駒藩3代当主正俊の時に、丸亀城下町の商人を移住させて成立したと伝えられます(『南海通記』巻廿下)。城下の中心市街地に立地する丸亀町は城内にあり「高松城下図屏風」での町家の描写からも最も格式の高い町人地であったことが分かります。つまり、丸亀町は城下の整備・拡大に伴い新たに新設された、いわば後発的な中心市街地という性格をもつようです。
城下町の発展
  「高松城下図屏風」は1640 ~ 50年代の景観を描いていると言われます。この屏風からは、南側の寺町を超えて城下が拡大している様子がうかがわれます。寺町の外側(南側)には水路が描かれていますが、その一部は馬場として埋め立てられています。本来は外堀に匹敵する幅をもっていたようです。この水路の内側(北側)に寺町が連続していて、町人地の南大手筋ではこの水路より内側が丸亀町、外側が南新町となっています。ここからも各町の成立年代が違うことが読み取れます。
  こうした水路の存在は何を示すのでしょうか?
  研究者は「城下全体を囲む堀=惣構が存在した」と考えているようようです。その完成は、丸亀町成立の1610年(慶長15)から「讃岐探索書」で「南ニ四筋アリ」(水路以北の範囲に相当)と記された1627年(寛永4)の間で、おそらくは元和の一国一城令(1615年)までに求められるようです。
生駒藩の知行地と自立した家臣団
 「生駒家廃乱記附録」には、4代高俊の治世(1630年代)のこととして
「壱岐守殿御家中大形[方]在郷、時々用事之有る節高松へ罷り出候に付、屋敷小分之由」
とあります。また「小神野夜話」には
「御家中も先代[生駒氏治世]は何も地方にて知行取居申候故屋敷は少ならでは無之」
ともあります。つまり、家臣に対して知行地を与える地方知行が行われていたため、家臣たちは知行地に留まり(在郷)、用事のある時だけ高松へ出仕していた、というのです。これは先ほどで述べた「家臣団屋敷で築城当初の生活の痕跡が希薄
と併せて考えると、いろいろなことが想像できます。知行地制は時代に逆行する制度でした。それが生駒氏では行われていたとようです。同時に、周辺の開発・開拓も知行主が主体となって行っていた様子が窺えます。それは新たに召し抱えられた在地制の強い家臣団であり、彼らが積極的な開発主体であった気配があります。彼らにすれば、知行制が行われる限り高松城下町に屋敷を置き生活する必要はないわけです。この辺りが旧来の家臣団との藩政上の対立を生みだし「生駒騒動」へとつながったのではないかと私は考えています。
 どちらにしても、生駒藩時代の城下町は家臣団が「常駐」していた痕跡はあまりないようです。
発掘調査からの高松城の建設過程を確認しておきましょう
①1588 ~ 1600年頃(第1段階)
小規模で散発的な建設が進められ、領主生駒氏の居館も「仮屋形」にとどまった
②1600年代頃(第2段階)
天守台の建設が始まり順次城郭中心部の建設・整備が進んだ
③1610年代前半(第3段階)、
③新たな中心市街地としての丸亀町の建設が惣構推定ライン外堀0 500m行われ、寺町の形成がほぼ完了し、城下全体を囲む惣構が建設された
④1620 ~ 30年代(第4段階)、
家臣団の屋敷地がほぼ完成形に近付く
 第1段階では、素掘りの区画溝を主体とした領主居館と家臣団・町人地の屋敷割が、部分的に行われていたと見られる。中世から続く寺社は、小さな位置変更程度で存続が認められたようです。(見性寺・愛行院等)。
 第2段階では、外堀より内側での城郭の建設や武家地の屋敷割が全面的に行われました。天守台を含む本丸や二ノ丸・三ノ丸・桜馬場・西ノ丸などが整備され、外堀とこれに沿った土塁も作られます。ただし家臣の屋敷割は、素掘り溝で作られています。この段階で、生駒氏居館は三ノ丸にあり、桜の馬場の対面所とともに領主権力の政庁としての役割を担っていたようです。
城下町の膨張が進んだ段階で高松城に入ったのが松平頼重でした(1642年:寛永19)。
頼重は入部直後から城下に多くの町触を出して都市法の整備にかかります。その背景には、初期高松城下町の成長に伴い、高松という都市を新たな形で把握するという政治的な意志が見られます。

 以上の状況を踏まえ、改めて『南海通記』の記事(2)に立ち戻ると、
『南海通記』が記す生駒氏入部後、直後の1588年から高松城の築城に取りかかったというのは否定的に考えざる得ません。それは、朝鮮出兵という大規模な軍事遠征下という背景や、考古学的な発掘調査の示すことでもあります。高松城の具体的な縄張りが実現するのは第2段階であり、生駒親正の最晩年(関ヶ原合戦時に出家し、3年後に死去)になります。高松築城に関与したのは2代目の一正であると見た方がいいようです。
 ところで生駒藩では、関ヶ原の戦い直前の時期に、高松城と丸亀城と引田城を同時に建設しています。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、最近の調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かってきました。出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われていたようです。このことからこの時期になって、生駒氏は讃岐に対する領国支配の覚悟が固まったと見えます。信長・秀吉の時代は手柄を挙げ出世すると、領国移封も頻繁に行われていましたから讃岐が「終の棲家」とも思えなかったのかもしれません。

 参考文献 佐藤 竜馬  高松城はいつ造られたか

1高松城寛永16年

生駒時代の高松城のようすを、上の図1から説明すると
城の中央に天守閣があり、その西側に本丸、本丸の北側にニノ丸があり、ニノ丸の東側には三ノ丸があります。ここからは中濠と内濠に囲まれて西ノ丸と三ノ丸があるということが分かります。西ノ丸の下の方の一帯は、現在の「桜の馬場」になります。
 外濠は西の方には「西浜舟入」、東の方には[京浜舟入]と記されています。ここが前回にもお話しした船場になります。軍港としての役割もあったのではないかと私は考えています。
 この船場から南の方に下がって東西に走っているのが外濠です。この中濠と外濠に囲まれたところが、侍屋敷になります。その侍屋敷の南の中央辺りに、今の「三越」は位置しているようです。
 城への門は、中濠の南にかかっている橋が城への出入口で、大手門になります。外濠のあったところは、今では片原町から兵庫町、そして西の突き当たりが広場として残っています。
 城下町は、外濠から南の方に広がっていて、この地図にも当時の地名が書き込まれていますが、今の高松の商店街に残っている町名と殆ど同じです。例えば、片原町・兵庫町・丸亀町・塩屋町・新町・百聞町・通町・大工町・鍛冶屋町などです。当時のメーンストリートは、丸亀町から南新町へと南に進み、後に田町が発展して藤塚へと延びていくことになるようです。
1高松城 生駒時代屋敷割り図
生駒時代屋敷割図
                   
生駒騒動と生駒氏の改易
 秀吉によって讃岐一国を与えられた生駒氏によって、讃岐の近世は始まります。生駒氏は引田 → 聖通寺山と拠点を移し、高松に本格的なお城が築かれ、その南に城下町が形成されていくことになります。生駒氏は約五〇年間にわたって領主として支配し、讃岐に落ち着きを取り戻す善政を行ったと評価されています。
 ところが寛永十四年七月に国家老生駒帯刀が、生駒藩江戸家老前野助左衛門らを幕府に訴えたことから、「生駒騒動」が始まります。そして、寛永十七年五月に、「生駒藩内の家中立ち退き」が幕府で問題になります。生駒藩の家来が、国家老派と江戸家老派の二つに分かれ、江戸家老派に与した藩士が、讃岐からも江戸藩邸からも集団脱走して、大坂に集結するという大事件が起こりました。なぜ、そのようなことになったのか、ということについてはよくわかっていないようです。当然、家臣たちが藩邸を脱走すれば、藩が潰れるということは分かっているはずなのに、なぜ家臣たちが立退いたのか?当然、職場放棄し「脱走」した彼らも後に処分されます、この事件の原因については、諸説あって今後の課題のようです。

Ikoma_Takatoshi
生駒高俊
 この事件は、幕府の老中たちによって裁かれて、藩主の責任だということで、讃岐を取り上げられてしまいます。そして生駒高俊は、温暖な讃岐から秋田県の雪深い矢島へ移されてしまいます。矢島は、冬は2メートルも雪の積もる鳥海山の麓で、冬はスキーで賑わう小じんまりした町です。

1Matsudaira_Yorishige
松平頼重
 松平頼重による高松藩の基礎作り
 生駒氏が去った後、寛永十九年二月に松平頼重が高松藩主となります。この時に、讃岐は西の丸亀藩五万石余と高松藩11万石の二つに分けられます。ほぼ土器川から東の方の高松藩の政治体制・領内支配体制を作り上げていくのが松平頼重です。
 ちなみに、この人は水戸黄門のお兄さんになります。本来ならこの人が、水戸藩主になるべき人でした。一説には、頼重が生まれたときには、父の水戸藩主徳川頼房は、お兄さんたちに子供がなかったということで、頼重を世継として幕府に届けるのをためらった。そして、頼重を家臣に育てさせたと伝えられます。
 その六年後に弟の光圀が生まれました。その時には、お兄さんたちにも子供が生まれていたということで、頼房は光圀を世継として幕府に届けたといいます。こんな不遇な回り合わせにあった頼重は、やがてそのことが幕府に知れ、将軍徳川家光の耳にも入り、寛永十五年に下館藩(しもだて栃木県)の五万石の大名となります。そして四年後に高松城に入ることになります。このように高松藩は水戸家の分家的な存在で、幕府に非常に近く家門(親藩)という立場にある藩だったようです。
 城下上水道と溜池
 頼重が高松藩に入ってからの業績は、最後につけた年表にあるように、先ず城下に上水道を敷きます。上水道としては、全国的にみてそう古いものではありません。ただ、地下水を飲料水として使用したのは、全国初ということで注目されています。井戸としては次の三つが使われました。
「大井戸」現在でも瓦町の近くに大井戸というのが、規模を小さくして復元されて残っています。物が投げ込まれたりしていますが高松市の史跡です。
「亀井戸」亀井の井戸と呼ばれていたものです。五番丁の交差点の少し東の小さな路地があり、それを左に入ると亀井の井戸の跡があります。現在埋まっていますが、発掘調査をすればきっとその跡が出てくると思います。
「今井戸」ビルの谷間にほんとうに小さな祠が残っていて、鍛冶屋町付近の中央寄りの所で、普通に歩いていると見過ごしてしまうような路地の奥に、「水神社」の祠があります。この3つの井戸から、高松城下に飲料水としての井戸水を引いています。
 翌年の正保二年は、大旱魅で新らしく溜池を406を築いたといいます。しかし、一度に築いたものではなく、恐らく頼重の時代に築いたものが406で、この時にそれをまとめて記したものと研究者は考えているようです。どちらにしても生駒氏時代に西島八兵衛が溜池を築いたと同じように、頼重の時代に入っても溜池の築造が続いていたことがうかがわれます。
 高松城石垣の修築と検地
 正保三年には、高松城石垣の修築に着手しています。
この時期の高松城の様子を幕府が派遣した隠密が記録した「讃岐探索書」が残っています。
その中に、石垣が崩れているとか、土塀が壊れたりしていると書かれていて、当時の高松城は相当いたんでいたようです。生駒藩は、「生駒騒動」のごたごたで城の手入れも充分できていなかったのかもしれません。年表の寛文五年に、城下周辺から検地を始め、寛文十一年に終わるとあります。
 領主にとって検地は領地経営の根本に関わる重要事業です。
頼重も六年間かかって領内の検地をやり終えています。高松藩では、これ以後検地は行われていません。この検地によって、高松藩における年貢取り立てのための農民支配体制が、ほぼ出来上がったと考えることができます。
1高松城 松平頼重普請HPTIMAGE
いよいよ寛文十一年九月に高松城普請が始まります。
この工事の結果、できた高松城が図2です。
 普請前の生駒時代の違いについて、見ておきましょう
 一つは、生駒時代は東側の中濠は侍屋敷に沿っているだけでした。ところが普請後は、中濠が途中で東に分かれ下横町にぶつかってから北に進んでいます。この結果、中堀まで船が入ってこられる構造になっています。
 二つ目は、普請前は海に面した北の方は「捨石」と記されているように、石を捨てただけの簡単な石垣だったようです。ところが、普請後には、しっかりとした石垣もでき、爪か彫とか対手御門が新しくできています。
 三つ目として、普請前の城内への入り口である大手門が、普請後には橋がとりはらわれていて、右の方のが鼓櫓の横の濠の上に橋がかかっています。現在も、ここにある旭橋から城内に入ります。そして四つ目は北の方の一部に海を取り込んで北ノ丸を新しく造成し、さらに、東の方では侍屋敷と町屋を二つに分割して、新しく濠を設けて東ノ丸をつくり、もともとは城外であったところを城内に取り込んでいます。
 高松城普請は単なる城の修理ではなく、城の拡大であったということです。これ以後の高松城の姿は明治維新まで変わらなかったようです。
 
DSC02528

この城下の屏風は、高松城だけでなく城下町の様子まで描かれています。そのため城の様子や城下町の様子がとてもよくわかります。人々がどんなものを運んでいるのか、どんなものを着ているのかなど、細かく描かれています。そういう意味で、この屏風は当時の人たちの風俗などが、よく分かる大変貴重な資料と評価が高いようです。

1 高松城p51g

その後の高松城はどうなったかのでしょうか
図2の東ノ丸の米蔵丸のところには、現在は県民ホール(レグザム)が建っています。それから米蔵丸の半分から下の作事丸にかけて、県立ミュージアムがあり、その南には城内中学校がありました。城の中にいろいろな建物が建つことは、高松城は国史跡であり、文化財保護の立場から考えると、問題だという意見もあるようです。
 また、本丸の石垣のすぐ横の内濠の部分が築港駅のホームになっています。さらに西ノ丸の一部が中央通りにかかり、生駒時代の大手門の跡の近くの西の中濠が埋め立てられて現在電車が走っています。東ノ丸の東側の濠は、フェリー通りになっています。
1 高松城54pg
 明治以後、高松は港町として発展してきましたが、この城の辺りが港町として発展していくさいにお城の敷地が切り取られていった歴史があります。21世紀になって、この国にも心の余裕ができたようで、文化的な面にも目を向けていこうという時代になってきました。昔のままの高松城を復元するのは無理でも、少しでも昔の姿に、戻そうとする動きが出てきています。
1 高松城p1g

 昔の高松城は、海に接して石垣のある海城で、瀬戸内海からは海辺に石垣の見えるすばらしい城だったと思います。今では、石垣の北を埋め立てて道路になって、石垣が海に洗われる姿を見ることはできません。しかし、行政は石垣と道路の間の建物を撤去して散歩道をつくり、石垣の北を少し掘って海水を入れて濠のようにして、昔の高松城の姿に少しでも近づけようとしているようです。岡山行きのフェリーが廃止になった跡の利用にも期待したいと思っています。
1 高松城 教科書.明治34年 - 新日本古地図学会
参考文献
  木原 高松城と松平頼重
(『高松市教育文化研究所研究紀要』四五号。1994年)
          「高松城と松平頼重」関係年表
天正12年(1582)6月 本能寺の変
天正12年(1584)6月頃長宗我部元親、讃岐十河城を攻略する
天正13年(1585)春 長宗我部元親、四国を平定する。
   4月 豊臣秀吉、長宗我部元親攻撃を決定する。
   7月 豊臣秀吉、四国攻撃軍と長宗我部軍との和議を命令
   8月 千石秀久、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正14年(1586)12月 豊臣秀吉、千石秀久より讃岐国を没収
天正15年(1587)8月生駒親正、豊臣秀吉より讃岐国を与えられる。
天正16年(1588) 春 生駒親正、高松城築城に着手
慶長2年(1597)春 生駒親正、丸亀城を築く。        
     生駒藩、この頃から同7年頃にかけて領内検地実施
慶長5年(1600)9月  関ヶ原の戦い。
慶長6年(160U 5月 生駒一正、徳川家康から讃岐国を安堵
慶長19年(1614)10月 大坂の陣始まる。
寛永4年(1627)8月  幕府隠密、讃岐を探索する。
寛永8年(1631)2月  西島八兵衛、満濃池を築造する。
寛永14年(1637)7月  生駒帯刀、幕府老中土井利勝らへ訴状衛出・生駒騒動の始まり)
寛永17年(1640)7月 生駒高悛、「生駒騒動」で讃岐国没収 
            羽国矢島1万石に移封。 
寛永18年(1641)9月山崎家治、西讃岐5万石余を与えられ丸亀城に拠る 
寛永19年(1642)2月  松平頼重、東讃岐12万石を与えられ高松城に拠る
正保 元年(1644) 高松城下に上水道を敷設する。
正保2年(1645) 讃岐大干ばつ
正保3年(1646)6月  高松城石垣の修築に着手する。
明暦3年(1657)3月  丸亀藩山崎家断絶する。       
万治元年(1658)2月  京極高和が山崎家領を継ぐ  i
万治3年(1660)この年丸亀藩、幕府より丸亀城普請を許される       
寛文5年(1665)この年 高松藩、城下周辺より検地を始め11年に完了する。これを「亥ノ内検地」という
寛文9年(1669)5月 高松城天守閣の上棟式が行われる。
翌年8年 造営が成る。
寛文10年(1670)丸亀藩、延宝にかけて検地を行う。
寛文11年(1671)9月  高松城普請が始まる。この年家臣知行米を「四つ成」渡しとする。
延宝元年(1673)2月高松藩主松平頼重、病により隠退する。
延宝2年(1674)9月 米蔵丸・作事丸(東ノ丸)が完成する。
延宝4年(1676)3月 月見櫓の棟上げが行われる。北ノ丸完成か
延宝5年(1677)5月 艮櫓が完成する。
元禄8年(1695)4月  松平頼重、死去

2勝賀城俯瞰図
 高松城は「日本の三大水城」といわれますが、高松平野にはそれ以前に海浜・河畔・湖畔などの水辺に立地する城郭(=水城)がありました。その高松周辺の「中世水城」を見てみましょう。
 藤尾城(高松市香西本町)は、国人領主・香西氏が天正年間に築いた水城です
 香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家で、備讃海峡の直島群島などにも勢力を伸ばした領主です。南北朝期以降は守護細川氏に仕えますが、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
2香西合戦図2b
  初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。
このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移します。
2藤尾城
 藤尾城は、中世港町・香西に隣接した藤尾山(標高二〇m)にあり、現在は宇佐神社が鎮座します。
比較的規模の大きな二つの郭を中心に構成され、北・東・南の三面は香西の集落が立地する砂埃背後の湿地(ラグーン)に囲まれていました。『香西記』(享保三年〈1718〉成立)には「東南及北入海」と記される。また『南海通記』によると、内陸部に面した大手(南側)に「西光寺縄手」と呼ばれる「土居一筋ノ道」があり、その東側は潮水が入る大溝、西側は深田となっていたといい、砂堆側(北側)に搦手・平賀口があったと伝えられます。
2藤尾城3.2jpg
 藤尾城の周辺では、
①大手側で内陸部の旧本拠・佐料城へと繋がるルートを遮断する作山城
②香西浦北側で船の出入りを監視できる芝山城
③香西浦東側で野原方面へのルート上に位置する本津城が配され、外郭の防御線を形成していました。天正七年(1579)には、佐料城下に屋敷をもっていた配下の小領主たちが藤尾城下に移されたとされ、香西浦の砂堆周辺の「中須賀・平賀・釣ノ浜」への屋敷割が行われたようです。
築城の動機は、土佐・長宗我部氏による讃岐侵攻の危機が迫ってきたことで、その緊張状態を背景に領主への権力集中を図り、港町の構成に手を加えて城下として取り込んでいこうとしたと考えられます。
 讃岐には次のような港町に近接した城郭があります。
仁保城(三豊市仁尾町)
九十九山城(観音寺市室本町)
志度城(さぬき市志度)
どれも中世港町に張り付くような後背地的な位置にあり、領主の本拠として「城下」への組み替えが行われた形跡はありません。これらの城主は香西氏のように郡規模の領域支配を行える権力はなく、単一の港町のみを基盤とした小領主でした。そのため港町への「寄生」という性格にとどまっていたと見られます。
 その中で、藤目城の沖の備讃瀬戸エリアに築かれた直島の高原城(高原氏、天正期前半)、塩飽本島の笠島城(高階氏、年代不明)は、麓の港町や港湾への直接的な管理権を行使できるような城郭構成になっています。これらの島嶼部は後背地がなく、海上交通に頼る水軍の本拠地だったと考えられます。そして、このふたつの城は、香西氏の水軍として機能していたようです。
「香西・藤尾城の建設は、中世末期の領主が水辺に「本拠の転出」を行った事例
と研究者は考えているようです。同じような例は
岡山城(浮田直家、天正元年〈1573〉頃)、
三原城(小早川隆景、永禄年間〈1558)、
板島丸串城(西園寺宣久、天正三年)
などの国や郡規模の領主の城郭でも見ることが出来ます。どれも城下集落があり、三原城のように家臣への屋敷割がされた場合もあります。後に岡山城・三原城は城主が豊臣系大名となり、板島丸串城は藤堂高虎により宇和島城として改修・拡張されていくことになります。
 以上のように、高松城下町に先行する形で、水城(海城)を核としたマチの建設が、香西浦の藤尾城で行われていたことを、ここでは確認しておきましょう。
1姫路の水軍基地
 姫路城の外港からは巨大な水軍基地があったことが報告されています。
池田氏が家康から求められて、瀬戸内海の制海権をにぎるための水軍整備に余念がなかったことが分かります。瀬戸内海を挟んで讃岐側の生駒氏にも秀吉・家康を通じて要求されたのは、水軍力の整備ではなかったのでしょうか。

DSC02528
高松城
 信長以来、瀬戸内海の制海権を握るために村上水軍を解体し、代わって塩飽衆に特権を与え保護します。しかし、塩飽衆に期待したのは「水夫」であって「水軍」ではありません。水軍増強を求められたのは瀬戸内海沿岸の信頼の置ける大名達だったようです。そのために大名達は、海に面した所に城(水城)を築き、そこから艦隊を出動させるという戦略を現実化したのではないのかと私は考えています。
 そして、そのお手本は香西氏のような中世領主の水城の中にあったのです。そが高松城の縄張りの中にも生かされているように思います。
 『高松城下図屏風』に描かれた城内・城下には5ケ所の港湾施設が描かれています。
1高松港1
①三ノ丸海手門(裏門)に面した藩主専用の船着場、
②西外堀に米蔵(藩蔵)や船溜まり・船蔵を備える藩御用施設としての西浜舟入、
③東外堀に船溜まりと広範囲な雁木、東水主町を備える商業的施設としての東浜舟入、
④魚棚町に面した浜に石波止を構築する船着場(北浜)、
⑤漁村的な景観の西浜の船着場(糸撚浜)
③④が石波止・雁木などの近世的な人工構造物が整備され、最も中核的施設で、⑤が最も外縁にあり自然地形に頼った中世港町の痕跡が残ります。
DSC02527
⑤のドッグ群を見ると姫路城外港の水軍施設と非常に似ています。軍港的な要素が見て取れるように私には思えます。
DSC02525
「城郭と水軍基地との一体化」「艦隊が出港できる水城整備」
これが瀬戸内海に隣接した大名に課せられた軍事的課題のひとつではなかったのか私は思っています。

参考文献  初期高松城下町に見る在地的要素

1生駒親正img_3
生駒親正
 秀吉が四国に進攻し、長宗我部元親を土佐に封印して後の讃岐は短期間で何人か領主が交代します。その後、天正一五年(1587)8月に秀吉から生駒親正が讃岐を拝領してやってきます。これが讃岐の戦国時代の終わりとなるようです。そういう意味では生駒親正は、讃岐に近世をもたらせた人物と言えるのかもしれません。
まず親正のことについて簡単に見ておきましょう
 親正は美濃国土田の出で、はじめ織田信長に仕えていましたが、後に秀吉の配下に入り、讃岐にやって来る3年前に播磨国に二〇〇〇石を領し、二年後には播磨の赤穂に六万石を有する近世大名へと成長します。そして翌年には、対岸の讃岐領主になるのです。この急速な出生ぶりからは秀吉の期待と信頼がうかがわれます。
 讃岐に入封した親正は領内支配体制を固めるために、讃岐国内の有力な武将を家臣に取り立て家臣団を充実させます。また寺社にも白峯寺50石、一宮(田村)神社50石、善通寺誕生院28石、松尾寺金光院(金毘羅大権現)25石などの寄進・保護を行っています。さらに、大規模な治水灌漑事業を行い水田開発を積極的に行うなど、長く続いた戦乱の世を終わらせ民心を落ち着ける善政を行ったとされています。まさに戦乱から太平への転換を進めた人物として、もう少し評価されてもいいのではないかと個人的には思っています。
 しかし、政治家ですから善政ばかりで世が治まるわけではありません。反抗するものには、徹底した取り締まりを行っています。天正十七年に秋の年貢納入時期になっても山田郡の農民が年貢を納めなかったために、その首謀者を捕えて香川郡西浜村の浜辺で首を刎ねたという記録も残っています(「生駒記」)。
 ところで生駒親正が支配した讃岐の石高は、朱印状が残っていないのではっきりしません。慶長五年に、親正の子である一正は、徳川家康より23000石を加封され173000石を安堵されたようですから、引き算すると15万石ということになります。讃岐にやって来た親正は、最初から高松を拠点にしたのではありません。
最初に引田城、次に宇多津の聖通寺山城を築いています。
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なぜ、引田城や聖通寺山城を捨てて、野原(高松)に新城を築いたのでしょうか? 
 生駒氏が最初に城を築いた引田について見ていましょう
引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵周辺が安定した地形を維持してきました。
HPTIMAGE.jpg引田
ここには『土佐物語』などの近世の軍記物から付近に船着場があったことが想定されているようです。その湊の港湾管理者としての役割を担っていたのが丘陵上にある誉田八幡神社のようです。砂埃の背後は塩田として開発されていたらしく、前面にははっきりした段差があり、その後は海側へと土地造成と町域の拡大が進められていきます。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などとして今に痕跡を残しています。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は、誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から根元方向に向けて進みますが大きな発展にはならなかったようです。

1引田城1
 引田城は、潟湖をはさんでこの誉田八幡神社に向かい合っています。つまり、引田城の築かれた現在の城山は、沖に浮かぶ島だったことを物語ります。つまり城とマチとは隔たった位置にあったのです。このように見ると、引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭い線状都市であり、大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかった地形のようです。それが秀吉に讃岐一国を与えられ入国した生駒氏が、ここを拠点としなかった理由のひとつだと研究者は考えているようです。
1引田城2
 また讃岐東端の引田は、秀吉側が四国侵攻の足掛かりとした場所ですが位置的にも東に偏りすぎています。讃岐の中央部に拠点を置こうとするのは、政治家としては当然のことでしょう。
  ところで私は生駒氏の築城順を
①引田城 → ② 聖通寺山城 → ③ 丸亀城 → ④ 高松城 
と単純に考えていました。引田では東に偏りすぎているうえに城下町建設には狭いので、聖通寺山に移った。その際に、引田城は放棄されたと思ったのです。ところがそうではないようです。近年の引田城の発掘調査の教えるところでは、高松城と丸亀城と引田城は同時に建設が進行していたことが分かってきました。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かりました。また出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われているのです。つまり、秀吉が亡くなり朝鮮出兵が終わると、この次期は次期政権をめぐっての駆け引きが風雲急を告げた時です。そのための臨戦態勢として、3つの城を同時に建設するということが行われていたことがうかがわれます。そういう意味では引田城は、この時点では軍事的には放棄された城ではなかったようです。ただ引田城は、城下町が作れないし、東に偏りすぎているということだったのでしょう。
  次に親正が築城を始めたのが聖通寺山です。
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ここは中世は細川氏の守護所が置かれた場所で、歴史的には、新参者である生駒氏が城を築くにはふさわしい場所と言えます。
それでは聖通寺山城と宇多津の関係はどうでしょうか?

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 宇多津の中世復元地形は、青ノ山・聖通寺山の麓まで大きく湾入する入江と、その奥部に注ぐ大束川河口部に形成された砂堆が広がります。青野山の山裾から集落が形成され始め、戦国期には砂堆上にも集落(マチ)が展開していたようです。砂堆の付け根に当たる伊勢町遺跡では、一三世紀後半~一六世紀の船着場(原初的な雁木)と思われる遺構が出ています。このような船着場がいくつか集まった集合体が「宇多津」の実態と研究者は考えているようです。その点では、一本の細い砂堆のみの引田と違っていて、どちらかというと香西や仁尾などの規模を持った港町であったようです。しかし、その領域は狭いうえに、宇多津と聖通寺山城は大束川で隔てられていて、引田と同じように城と城下町の一体性という点からは問題が残ります。
1聖通寺山城
また聖通寺山城は、現在は瀬戸大橋の橋脚の下となっていますが備讃海峡西側を押さえる要衝の地で、中世の守護所・宇多津に近い所です。前任者の仙石秀久は、年貢徴収に抵抗した領民を聖通寺城下で処刑しています。また、丸亀城下町の水主町・三浦(西平山町・北平山町・御供所町)は、聖通寺城下北側の平山や同東側の御供所の住民を移転させることによって成立したと伝えられます。もっと前まで遡れば、御供所に隣接する坂出・古浜の住民は、生駒氏とともに赤穂から移住してきた伝承をもつようです。ここからは生駒氏の城作りが瀬戸内の海上交通にアクセスする意図があったことがうかがわれます。
 しかし、聖通寺山城跡からは石垣が見つかりません。また城の縄張りから中世有数の港町・宇多津との一体性が感じられません。さらに宇多津は中世以来の寺社勢力が強い町でした。旧勢力の反発や協力が得られなかったのかもしれません。こうして聖通寺山城と周辺の近世城郭・城下町化は、不十分なままで終わったようです。
 しかも、引田から聖通寺にやって来て翌年1588年(天正16)には香東郡野原の地に高松城と城下を築いたと『南海通記』は記します。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)もあります。
 どちらにしろ、3番目に着手した城が高松城になるようです。しかし、高松城の着工や完成時期についてはよく分からないことが多いようです。
高松城が着工された時期背景を見ておくことにしましょう 
1590年に、秀吉は関東・東北を制圧し、国内では未征服地がなくなりました。織豊政権は「領土拡大」を自転車操業で続けることによって「高度経済成長路線」を維持してきました。秀吉は、日本国内が「飽和状態」となったにも関わらず「内需拡大による低成長路線」への政策転換を行わず、朝鮮半島とその先の中国(明)に領土を求め「高度経済政策」を再現しようとします。1591年(天正19)に九州の諸大名を動員して、対馬海峡を目前にした肥前・名護屋に壮大な城(名護屋城)を築かせ、1598年(慶長3)まで、休戦をはさみつつ、朝鮮半島全域で軍事行動を展開します。生駒氏を含む四国の諸大名も「四国衆」として、この戦いに加わります。

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名護屋城の生駒親正陣屋跡
生駒氏は、文禄の役で5,500人、慶長の役で2,700人の兵を送り、親正と息子の一正も海を渡ります。
 また親正は、1594年(文禄3)から翌年にかけて、伏見城にいた秀吉に代わり大坂の留守を預かり、1595年(文禄4)7月15日に秀吉から5,000石を加増されています。この日は、秀吉が自らの後継者として関白に任じていた甥の秀次が、謀反の疑いで切腹させられた日です。文禄の役の休戦交渉から秀次事件という重要な時期に、生駒親正は秀吉と名護屋・朝鮮派遣軍との間をつなぐ場所にいたことになります。豊臣政権下で宇喜多秀家・蜂須賀家政などとともに、西国支配の要の役割を果たしてきた親正の位置付けがよく表れています。と同時に、秀吉が讃岐に生駒氏を配した背景に、西国支配の要としての思惑があったこともうかがわれます。豊臣政権下での親正の存在は決して小さくなかったことがここからは分かります。
 相次ぐ国内戦争の延長としての文禄・慶長の役は、豊臣大名たちの領国経営にとって、重い負担だったようです。それは生駒氏にとっても同様で、高松城下町の建設がなかなか進まなかった理由の一つとも考えられます。  
  しかし、秀吉亡き後の豊臣・徳川家の激突に備えて各勢力は臨戦態勢に入ります。そのために生駒氏も引田・高松・丸亀の3つの城郭の整備を同時に行うことになったことは先ほど述べたとおりです。
『南海通記』(享保三年〈1718〉成立)には引田・聖通寺山両城を含めた讃岐の城郭は、
「皆乱世ノ要害」であり、「治平ノ時ノ居城ノ地」である「平陸ノ地」を求めて野原に新城高松城と城下町を建設するに至った
と記します。ここで研究者が注目しているのは、「新たな領国経営の拠点として平城を意識し、生駒氏自身が山城(聖通寺山城)を下りている点」で、秀吉の「山城停止令」との関連がうかがわれるようです。
 『南海通記』は、一次史料ではなく後世に讃岐綾氏の後継を自認する香西成資が香西氏顕彰のためにかいた歴史書という性格があり、内容については信憑性が疑われるところが多々あります。しかし同時に、この史料しかないという事情もありますので、注意しながら頼らざるえません。

 野原(現高松)は安定した二㎞四方の海浜部地形がありました。
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 そこに野原中黒里・浜村・西浜・天満里・中ノ村などの集落が分立していました。そして、それぞれが次のような3つのエリアに機能的に分かれていました。
①国人領主・香西氏配下の小領主と地域紐帯を強める伝統的な寺社が押さえたエリア(中ノ村)、
②讃岐国外に開かれた情報センターとしての寺院と流通管掌者が押さえたエリア(中黒里)、
③紺屋・鍛冶屋などの職人や漁労集団などが集住するエリア(浜村)、
 交易の前線としての海浜部(港湾)に近接していたのは②・③であり、①は現在の栗林町あたりで少し内陸部にありました。

DSC03821十三世紀の野原復元図
 また、高松地区で行われた40地点近い発掘では、1650年より前の遺構は、整地された痕跡がなく、盛土などの人工造成を行わずに中世野原の地面に、そのまま城下町の建設を行うことが出来たようです。これも有利な条件の一つだったでしょう。
 以上から、引田・宇多津は城下町建設地としては狭く、町も中世的な住民結合が強く残っていて、新しくやって来た生駒氏にとっては「邪魔になる存在=解体すべき対象」と見えたのかもしれません。生駒氏は、野原の広大な地形と「ニュートラル」な地域構造に、城下町建設の夢を託したとしておきましょう。
DSC03843高松をめぐる交通路
 一方、慶長二年に西讃岐統治と備讃瀬戸へのにらみをきかせるために親正は那珂郡津森庄亀山に丸亀城を築きます。そして、この丸亀城には子一正が居城することになります。
1丸亀城
 秀吉の没後、徳川家康が勢力を強めます。会津の上杉景勝を討つため家康は慶長五年六月に大坂を出発しますが、これには生駒一正が従軍していました。こうして、九月の関ヶ原の合戦では父の親正は豊臣秀吉恩顧の大名として石田方につき、子の一正は家康方について戦うことになります
一正は関ヶ原の合戦で徳川方の先鋒として活躍し、家臣三野四郎左衛門が活躍します。これにより生駒藩は所領没収を免がれ、一正に讃岐171800石余が安堵されました。こうして生駒家は豊臣系の外様大名でありながら、関ヶ原の合戦を乗り切り近世大名としで存続する道が開けたのです。
 慶長十三年九月に生駒一正は妻子を江戸屋敷へ住まわせたことにより、普請役を半分免除されています。これが参勤交代制の始まりになりますが、その際に率先して行うことで一正は家康への忠誠の証を示しています。
 大坂夏の陣の後に、一正は藩主となって丸亀城から高松城に入ります。丸亀城には重職の奉行・佐藤掃部を城代としておきます。一正死後に藩主となった正俊は、丸亀城下の一部の町人を高松城下へ移住させ、その地は丸亀町と呼ばれるようになります。そして丸亀城は元和元年の一国一城令により廃城となります。

以上をまとめると
①生駒親正が讃岐にやってきて最初に築城にとりかかったのは引田城であった
②ついで宇多津の聖通寺山に移り、
③1年後の1588年には高松城の築城にとりかかった。
④最終的に高松城が選ばれたのは、香川中央部の「古・高松湾」に面し、背後の後背地もひろく、城下町形成に適した空間が確保できたことが考えられる。
⑤しかし、当時は朝鮮出兵などの大規模軍事行動が続いていいたために高松城築城はあまり進まなかった。
⑥それが急速に進むのは秀吉死後の関ヶ原の戦いに向けての政治情勢にある。
⑦この時期の生駒藩は、高松城築城と平行して引田城・丸亀城の3つの城を同時に築城していた
⑧家康についた一正は、丸亀城から高松城に移り、高松城を拠点にする。以後、城下町建設も軌道に乗り始める
        参考文献    高松城下町の成立過程と構成
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        中世の高松は、「野原」とよばれる村でした。

HPTIMAGE高松

中世の「野原」が今と違うのは第1に香東川の流れです。今は香東川は岩瀬尾山の西を流れていますが、近世に西島ハ兵衛によって高松を洪水から守るために流路変更工事が行われるまでは、石清尾山塊を挟んで分流して、現在の高松市内には香東川の一方の流路が複数に分かれて瀬戸内海に注いでいました。二本の河川に囲まれた河口デルタの島が「八輪島」 と呼ばれた「野原」村でした。
野原にあったとされる集落を挙げてみると
①「八輪島」の北側の海に面した所に「野原なかくろ里」(野原中黒里)、
②その南西に「野原てんまの里」(野原天満里)、
③その南に「野原中ノ村」(野原中村)があり、
④川を隔てた西側の海岸部には、「野原はまの分」(野原)と「にしはま」(野原西浜)とがありました。
高松野原復元図
まずは、現在の高松城周辺にあった「野原なかくろ里」を見てみましょう。
 ここには、真言宗の古刹無量寿院があり、複数の末寺や塔頭を持っていたとされてきましたが、高松城発掘調査の歳に、この寺の刻印がある瓦が出てきました。その結果、無量寿院の存在が確認されると同時に、場所も二の丸跡付近に建っていたことが分かりました。このお寺は、中世野原のシンボル的な寺院だったようです。また、高松城跡東側からは中世の港湾施設(荷揚場)も出てきているので、「野原なかくろ」が港町でもあったことは間違いないようです。

高松市地形図 旧流域入り
 野原天満里は、 香川県庁南方の中野天満神社周辺と考えられています。
前回に続いて「一円日記」を見てみましょう。この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったときに、返礼品として「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには野原郷を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えばこの野原天満里には、その中に「さたのふ殿」「すゑのふ殿」の名前が見えます。このうち「さたのふ殿」は、初穂料として米五斗を御師に渡し、土産として帯・扇・斑斗一把・大麻祓が配られています。また、その一族「左衛門五郎殿」と「宗太郎殿」も標準以上の初穂料を出し、多くの土産を配られています。このお土産の多さは、一般の信者との「格差」を感じます。ただの信者ではなく、香西郡を本領とする有力国人香西氏(勝賀城が主城)の家臣と研究者は考えているようです。つまり、ここには香西氏の臣下団が住んでいたということになります。
DSC03863高松 旧郷東川
 野原中村は「八輪島」最大の集落で、現在の栗林町周辺にありました。
「一円日記」には「時久殿」「やす原殿」の二人の信者と、「宮ノほうせん坊」など五力坊の寺庵が記されています。「宮ノほうせん坊」=法泉坊は現在の玉泉寺の前身となる寺院であり、脇ノ坊とともに「宮ノ」を頭に付けていることから石清尾八幡宮の供僧のような存在と考えられるようです。
 他の信者を見ると、
時久・安原氏のほか、
「さいか宗左衛門殿」の雑賀氏、
「さとう五郎兵衛」ら佐藤氏一族五人、
香西氏の庶流で冠綴神社の神官の先祖「ともやす殿」、
「せうけ四郎衛門殿」ら「せうけ」氏二人、
「よしもち宗兵衛殿」ら「よしもち」氏二人、
「時里殿」、「有岡源介殿」、「なりゑた殿」、「くす川孫太夫殿」
ら姓持ちで武士と見られる者がほとんどです。このうち雑賀・佐藤氏は香西氏の城持ち家臣として「南海通記」にも登場します。その中でも雑賀宗左衛門・佐藤五郎兵衛・同左衛門尉は初穂料が多く、配られ伊勢土産も飛び抜けて多いようです。土産の量と初穂料と地位は相関関係にあるのです。ここに名前がある人たちは、おそらくは香西氏の家臣団の一角を占めていた人々で、野原中村はその居住区になっていたことがうかがえます。ここから野原中村が野原中黒里とともに「八輪島」の中核集落であったことはまず間違いないと、研究者は考えます。
野原・高松・屋島復元図
 
 また、野原中村は、その西南に香西氏の拠点勝賀城の支城室山城がありました。
そのことを考えるなら野原中村が室山城の城下集落として形成されたところかもしれません。室山の南にある「さかたのといの里」も、そうでしょう。おそらく香西氏は、この室山城とその城下に住む家臣団を通じて、河口にあるなかぐろ集落の港湾掌握を行っていたとも考えられます。中村集落が二筋の河川に囲まれて海に近いところから見て、川湊を通じて海と一体的な関係をにあった可能性があります。
 以上の二本の河川に囲まれた「八輪島」にある集落に対して、海岸部に並ぶ野原浜・野原西浜はかなり様相が違っていたようです。
 発掘調査で明らかになった浜ノ町遺跡が地区の一角にあり、13世紀末以降、町屋や複数の寺院を持つ特別の海浜集落として発展していたことが分かっています。野原浜の西の野原西浜にも、15世紀初頭には「野原西浜極楽寺」があったことが史料からも分かります。(大報恩寺蔵「北野経王堂一切経」)。
 また発掘調査によって大量の土錘が出土し、畿内産の良質の砥石や土器・瓦器・瓦質土器、吉備産の陶器・土器等が多く出土しています。ここから大規模な漁業を営む海浜集落であると同時に、「瀬戸内海を介して高松平野外と平野内陸部を結ぶ、物資の流通拠点」であり、中世港町と評価できる海浜集落であると研究者は考えています。

DSC03842兵庫入船の港

 中世の野原郷にあった集落について、まとめておきましょう
①無量寿院を核とした寺院群と商人宿・船宿を営む武装有力商人らからなる港町=野原中黒里、
②汝魚川(拙鉢谷川)河口を挟んでその西に広がる野原浜・野原西浜という二つの部分からなる港町、
③室山城の城下集落としての性格を持つ野原中村(川湊を伴っていた可能性が高い)
④それとの密接な関係が予想される野原天満里、という構成を取っていたことになる。
このように、性格の違う4つの集落が集まって出来ていたのが「幻の港町」=中世の野原集落の実態のようです。
   
DSC03601
生駒氏は高松城を、何もない海浜に築造したのか?
 かつて武蔵の江戸は一面の蘆の原であったが、徳川家康によって城下町建設が進められ、現在の東京の基礎が作られたと云われてきました。同じように、東北の仙台も伊達政宗以前は何もないところであったとされ、土佐の高知も山内一豊によって造られたとされてきたのです。そして、生駒氏以前の高松も似通ったイメージで捉えられてきました。
 しかし現在では、江戸は中世から東京湾岸屈指の都市であったことが明らかにされ、仙台も伊達氏以前の留守氏時代から東北中部の拠点の一つであったことが知られるようになり、高知にしても長宗我部氏時代に基礎が築かれたことが分かってきました。そして、高松も「野原」という讃岐有数の中世港湾の上に築かれてきたことがようやく明らかになってきたようです。
高松城江戸時代初期

参考文献  市村高男 中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
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古代、現在の高松市中心街の多くは海の中でした。
野原・高松・屋島復元図

そのためこのエリアの中心地域は、屋島周辺の古高松にあったようです。今の地形からは想像できませんがかつて屋烏は島であり、現木太町周辺も海だったようです。その景観は、近世の干拓や塩田造成で一変し現在のような形になりますす。
最初に屋島周辺の古高松・方本の歴史を考えて見ることにします。
高松・屋島地形図明治30年
その際に、私たちが持つ現在の高松の地形から離れるために、次のようなイメージトレーニング行いましょう。
①高松城跡がある地点と庵治岬の突端部と結ぶと、そこから大きく湾入した入江があります。これを「古・高松湾」と呼ぶことにします。
②高松湾の人口にあたる幅は約四㎞、奥行きは2㎞前後で、讃岐の湾では群を抜く規模になります
③「古・高松湾」の湾内に流れ込む新川・谷日川・御坊川などの河川は、舟運によって内陸部との物資の往来を可能にしていました。
④屋島はそこに浮かぶ島でした。
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海のハイウエー瀬戸内海 直島から女木島へ そして屋島へ
 古代以来、九州から畿内への瀬戸内海航路が拓かれます。 古・高松湾の沖の女木島・男木島・直烏といった島々は、四国北岸の古・高松湾へのターミナル・アイランドの役割を果たしてきました。それを、裏付けるのが、女木島の女木丸山古墳から出てきた朝鮮半島製の耳飾です。
女木島丸山古墳 垂飾付イヤリング 朝鮮製
ここからは、この島を拠点にした人物が、国外にまで活動範囲を広げた姿がうかがえます。また、これらのモノの動きの背景には、それを運んだ人の動きがあったことを思い起こさせます。
004m女木島

白村江敗北という危機的状況下の国防政策として古代山城が屋島に築かれます。さらに、瀬戸内海を支配した平氏は、この周辺に水軍拠点を置いていたようです。それが源平の戦に際して、平氏がここで「壇ノ浦の戦い」を戦う背景になのでしょう。どちらにしても、古高松は、古代以来重要な地域であったようです。          
 次に、中世の古高松を復元してみましょう
 高松里は古代は山田郡高松郷と呼ばれ、山田郡の中心的な集落でした。源平の屋島合戦のときに、源義経がこの地の民家を焼き払ったのも、平氏の拠点への先制攻撃の意味があったのかも知れません。
DSC03838高松周辺の古代郡名

中世古高松 高松氏と喜岡城
 JR屋島駅の南東の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここには高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人で、建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、その時点ではここが讃岐の守護所で県庁所在地であったと言えます。
 これに対して、足利尊氏の勝利に呼応して、讃岐で蜂起するのが細川定禅です。彼は香西・詫間・三木・寒川氏らの讃岐武士を率いて香西郡鷺田(現在の高松市鶴尾地区)で挙兵し、この城に攻め寄せます。高松頼重は屋島の麓に打ち出て兵を集めようとしますが、定禅らが機先を制して夜討ちをかけたため、高松氏一族の多くは討死し、落城しました。1336年(建武三年)のことです。ちなみに戦前の皇国史観の下では、高松氏は南軍に属したということで、忠臣の武将として郷土の英雄とされ、知らない人はいないほど有名だったいいます。
それから約250年後、この城は再び歴史の舞台に登場します。
豊臣秀吉は四国平定のために、弟の秀長を大将に阿波、讃岐、伊予の三方面から大軍を送り込みます。讃岐へは宇喜多秀家を総大将として、蜂須賀正勝、黒田孝高、仙石秀久らの軍が屋島に上陸します。最初に攻撃の目標となったのがこの喜岡城でした。
 このとき、城主の高松左馬助(頼邑)をはじめ、香西より援軍にきていた唐渡弾正、片山志摩以下200人余の兵は防戦に努めましたが、全員討死にします。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。その舞台が、この丘でした。
 つまり、中世・戦国時代を通じて古高松地区は喜岡城を拠点とする領主の支配するテリトリーだったと言えます。

HPTIMAGE高松

中世の港町・方本(かたもと)とは、どんな町だったのでしょうか。
文安二年(1445)の「兵庫入船納帳」に讃岐屈指の港町として「方本(潟元かたもと)」が登場ます。
兵庫北関2
「兵庫入船納帳」に出てくる讃岐の港と、通過船の大きさをその数を表にしたものです。通過船が多いのは宇多津・塩飽です。潟元は真ん中どころにあります。方本を母港とする舟で兵庫北関を通った11艘であったことが分かります。数としては多くないのですが船の大きさに注目すると、大型船が多いようです。
 なぜ小型船がなく大型船ばかりなのでしょうか?
それは、六艘の所属が五艘は十河氏、一艘が安富氏で「国料船」のようです。国料船とは、守護細川氏の御用船の名目で課税免除の特権をもっている船のことです。ここからは方本が、守護代安富氏や有力国人十河氏と、深い関係を持っていたことがうかがえます。
 次の表は、讃岐の船の積荷を港毎に表した表です。
方本の船が積んでいたのは何でしょうか。縦欄が積荷、横が港名で方本は真ん中付近にあります。

3 兵庫 
ここから分かるのは、方本船籍の大型船の積荷は90%以上が塩であったようです。古代以来の塩の荘園が、この周辺には有りそれが発展して塩田地帯を形成していたようです。その塩を都へ運ぶ専用の塩運搬船団がここにはいたようです。

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もうひとつ「一円日記」という史料が近年、明らかになりました。
この史料は、戦国時代の永禄8年(1565)に伊勢神宮の御師・岡田大夫が、自分の縄張りである東讃岐に来訪し、各町や村の旦那たちから初穂料を集め回ったとき、その代わりに「帯・のし・扇」などの伊勢土産を配った記録です。ここには方本を始め、周辺の集落と、そこに居住する多くの人々・寺庵の名が書き留められています。
 例えば方本では「かた本ノ里」に八島(屋島)寺や「源介殿」以下九人の住人が記され、「にしかたもと」には「すかの太郎大夫殿」ら八人の住人の名が記載されています。面白いのは、初穂料代を何で納めたかが記録されています。この時代の多くが米などの現物なのですが、方本・西方本のほとんどの住人は初穂料を銀銭で納めているのです。ここからは方本・西方本の住人が製塩・漁労・海運・流通等の多角的経営によって銭貨を蓄積し、積極的に使用していたことがうかがえます。これは庵治や志度寺の門前町兼港町である志度も、ほとんどが銀納なので流通・交通などに関わりを持った集落に共通する傾向のようです。

 さらに、注目されるのは「兵庫入船納帳」で文安2年3月9日に安富氏の「国料船」の船頭として記録されている「成葉(なりわ)」が、120年後の「一円日記」の「かた本ノ里」住人の「なりわ殿」て登場してくるのです。同じ方本の住人で、発音上共通の名字または屋号を持っているので、「なりわ殿」が「成葉」の末裔と考えられます。
 この方本・西方本が近世でも大きな港町の一つであったことも併せて考えると、中世・戦国時代を通じて海運に関わる船頭・廻船問屋が多く存在したことは、当然かもしれません。また、伊勢御師の岡田大夫は「かた本ノ里」の源介宅を、高松・方本地域の活動拠点である「やと」にしていたようです。そこからも、この地の経済的・流通的・情報面における重要性がうかがえます。
 次に庵治(阿治)を見ておきましょう。
DSC03858庵治
 庵治岬の先端に位置する庵治は、古代山田郡の郷名には存在しません。
しかし至徳二年(1385)の満願寺大艘若経奥書(願流寺蔵)に登場することや、満願寺の存在からみて、一四世紀以前に成立していたことは間違いないようです。
 「兵庫入船納帳」には、兵庫北関を通関した10隻の庵治船籍の船が記録されています。そのうちの四隻が十河氏の「国料船」であり、この港湾も方本と同じく十河氏の影響下に置かれていたようです。
 「一円日記」には、「川渕三郎太郎殿」以下21人の住人が書き留められ、彼らのほとんどが銭貨で初穂料を納めています。そのなかには岡田大夫が「やと」とした川渕氏のほか、「ぬか殿」「こも渕久助殿」「こも渕又八郎殿」「あち左近殿」「浦殿」ら、普通の人とは違う者がいたようです。このうち「浦殿」の先祖と思える「浦」が、「入船納帳」の中に十河氏の「国料船」の船頭として記されています。ここからも浦氏などの多くが海運・流通などに関わる有力者であったことがうかがえます。
 また、「国料船」の船頭として記されている「兵庫」は、庵治浜の奥に残る「兵庫畑」という地名との関係から、船頭あるいは問丸として営業する傍ら、土地の買得や開発に関わっていたことが推測できます。

 以上、中世の古高松・方本・庵治についてまとめておくと、
①古高松は高松氏の城館を中心とした集落と内陸部の商業・流通的性格を持つ集落の複合体
②方本と庵治は船頭・問丸などを中心に海運・流通・製塩・漁労等に関わる人々が居住した海浜集落(港町)
③方本・庵治が東讃岐屈指の国人領主である十河氏の影響下に置かれていた
④兵庫北関に向かった船船のほぼ半数が十河氏の「国料船」となっていた
方本・庵治が、十河氏によって強く支配されていたのでしょうか?
これに対しての研究者の答えはNOです。
その理由は、残り半数の船は、船頭や問丸の裁量で塩や穀類の輸送を行っているからです。
例えば、安富氏の「国料船」の船頭を務めた成葉が、その一方で方本塩460石、大麦・小麦各10石を積載した船の船頭として活動しています。「国料船」は、十河氏が自分の郡内の港町の船をチャーターし、畿内で販売する塩や年貢類を積載・輸送させていた可能性が高く、そこに船頭や船主たちの私的商品が合わせて積み込まれていたとも考えられるからです。畿内における当時の領主と港町の関係などからも、領主の一方的な支配の強制が貫徹できていたとは考えにくいようです。
 しかし方本・庵治は、十河氏や安富氏と結んで発展する道を選んだようです。
そして進んで彼らの「国料船」の担い手となった可能性が高いと研究者はいいます。方本・庵治船のほぼ半数が「国料船」であった事実は、ふたつの港側に十河・安富氏の要請を受けいれる動きがあったことをしめしています。そうでなければ半分が「国料船に指定」される状態にはならないでしょう。方本・庵治は、それによって瀬戸内海海運において有利な条件を獲得しようとしたのではないでしょうか。
隣接するライバルの野原船(現高松周辺)と比較してみましょう
野原船が方本の塩を大量に積載しつつも、その一方で大麦・小麦・米・大豆など高松平野で生産された農産物や、近場の瀬戸内海産と見られる赤イワシを大量に輸送していました。一方の庵治や方本もの地場産の塩を大量に積載しする「塩専用運搬船」のような性格でした。つまり、現在でも同じですが積荷がモノカルチャー的で、多様化ができていないので「危機」には弱いとことになります。
DSC03842兵庫入船の港
 これは方本・庵治の立地の問題に加えて、この両港が背後に抱え持つ生産地の狭小さと集荷力の弱さでもありました。つまり、港湾としての存在基盤が不安定だったのです。そこで、有力領主と連携し、有利な条件を獲得しようとする対応策がとられたのでしょう。
野原・高松復元図カラー
 これに対して野原(現高松)は、郷東川沿いに広がる高松平野を後背地にして、河川水運により200石を越える大麦・小麦・米・豆の集荷・積載が可能となる港でした。また、積載品のなかで方本の塩に次いで多い赤イワシ510石があります。これは秋に高松沖から塩飽付近で捕獲・加工されたもので、漁場や加工場も後背地として持っていたようです。その意味で、野原(現高松)は、積載品が多様化しており、方本よりも港湾として安定した基盤を持っていたと言えます。
DSC03834
 さらに港湾をめぐる自然環境が野原湊と方本湊の明暗を分けることになります。
高松と屋島との間は、すでに屋島の合戦当時から
「潮の干て候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候はず」(「平家物語」)
という状態で、干潮時には馬は歩いて渡れたようです。その後も海岸線は、河川による堆積など埋まっていきます。その結果、高松の港湾機能はかなり早くから低下し、方本も比較的早い段階で西方本に中心を移していたようです。
こうして、15世紀後半~16世紀になる野原(現高松)エリアの方本・古高松エリアに対する優位性が明らかになり、次のような変化が現れます。
①無量寿院や勝法寺を始め多くの寺院が野原へ移転してくる
②野原中ノ村の香西氏の家臣の雑賀氏や佐藤氏一族が紀州雑賀から移住してくる
③文安二年に庵治の船頭として見える「安原」一族の子孫「やす原殿」が野原中ノ村に移住
④他所から永禄八年当時の野原に他国・転入したと見られる人々が散見される。
こうして、一五世紀後半以降、古・高松湾にあった方本・古高松と野原の二つの中心港がが、しだいに野原へむかって収斂していくのです。
16世紀末、豊臣配下の生駒親正は野原に築城し「高松」へ地名変更します。
其の結果、それまでの高松が古高松となります。これは中世を通じて古・高松湾の中で展開された二つの中心地の歴史の帰結だったと研修者はいいます。その意味で、近世高松城とその城下町が、古高松でなく野原に姿を現すのは、このような二つの地域での綱引きの結果だとも言えるのかも知れません。
高松城江戸時代初期

参考文献
市村高男  中世讃岐の港町と瀬戸内海海運-近世都市高松を生み出した条件-
 


        
前々回に、金毘羅大権現に3000両の高灯龍を寄進した東讃の砂糖関係者のお話をしました。
今回は砂糖生産と藩の統制システムやそこで活躍した仲買人について見ていきます。
 江戸前期において長崎貿易に金貨の流出は深刻な問題でした。その打開策として徳川吉宗は、享保改革の一環として輸入品の国産化を奨励します。砂糖もその一つでした。近世初期から薩摩藩では西南諸島で黒砂糖が製造されていましたが、輸入砂糖の中心は白砂糖でした。白砂糖は自前では作れなかったのです。そのために製糖技術の研究が求められます。各藩の「研究開発」の結果、いくつかの藩で和製砂糖が製造されるようになり、輸入砂糖を凌駕していくことになります。
その一つが高松藩です。
高松藩中興の祖と言われる五代藩主松平頼恭は、足軽出身の平賀源内など「異能」な人材を登用し、次の時代を切り開く「研究開発」体制を作ります。藩医池田玄丈に研究を命じた砂糖生産は、弟子向山周慶により実現します。寛政元年(1789)に初めて製造された黒砂糖は、5年後には大坂に白砂糖が積送られます。そして文化元年(1804)頃には、江戸でも良質な白砂糖の産地として知られるようになります。生産量は和製砂糖産地のなかでも飛び抜けて多く、大坂市場での市場占有率は54%を占める年もありました。
 その後、さらに生産量は増え、ペリーが来航するころから明治維新の幕末が最盛期にあたります。そのため幕末の高松藩は経済的に豊かで「雄藩」としての存在感があったようです。
「サトウキビ畑」の画像検索結果
 
 これに先立つこと30年ほど前に高松藩は砂糖を財政難解決の糸口とするため、領内に砂糖会所を設置し、大坂への積出を目的とした流通統制に乗り出します。ここまでは先日述べた通りでで、くどいようですが「復習」でした。
 高松藩砂糖の領外積出の中心は白砂糖です。
砂糖生産は、
①甘藷(サトウキビ)生産・
②甘藷を砂糖車で絞る白下糖生産
③白下糖を押舟で圧搾し分蜜する白砂糖生産
の三工程に分けられます。
大坂市場への白砂糖と白下糖の出荷比率をみても、白砂糖の占める割合が97パーセントと極めて高いのです。
「砂糖車」の画像検索結果
砂糖車を牽く水牛(沖縄)
 私は、甘藷を栽培した村で、農家が白砂糖の製造を一貫して行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。近隣の村々や他郡と甘藷や半製品の白下糖を売買しているのです。つまり砂糖生産の最終段階「③白下糖を押舟で圧搾し分蜜する白砂糖生産」は、どの村でも行われていたわけでないようです。白下糖までしか生産していない村が四割もあるのです。
「白下糖」の画像検索結果
        白下糖 
文久二年(1862)に鵜足郡の村々で製造された白砂糖の99パーセントは、大坂や他領に船で積出されています。しかし、半製品である白下糖の85%は領内で売りさばかれています。白下糖は村内で白砂糖にされなかった場合は、領内に白砂糖の原料として流通していたことがわかります。
「押舟 砂糖」の画像検索結果
      押船(白下糖を圧搾し分蜜する)
領内で流通したのは、白下糖にだけではありません。
高松藩では、甘瀧苗・甘蕨・砂糖類(白砂糖・白下糖・蜜)・砂糖車・製法諸道具等の砂糖生産に関わるものが、領内全域で盛んに流通していました。藩も「製造技術」保守のために、砂糖車や製法諸道具の領外への売渡は禁じていましたが、領内での流通は認めていました。しかし、誰もが自由に売買できたわけではありません。封建社会に「経済の自由」はなく、統制の対象になります。 
砂糖に関わる製品・原料・機材の販売・流通の販売権を与えられたのが砂糖仲買人です
これは許可制で冥加金を納め砂糖仲買株を与えられた者たちです。慶応元年の阿野郡北一三か村の砂糖仲買人は114人いたようです。そのうち、林田村は26人、坂出村は18人、乃生村は14人と、特に多いようです。
 安政四年に乃生村庄屋が郡大庄屋に宛て、乃生村の新蔵への砂糖仲買人株の下付を願出た文書が残っています。この村は早くから甘藷苗の産地として知られ領内全域に売さばいました。砂糖生産が盛んになるにつれて、甘藷苗がの需要が高まり、販路の確保のために砂糖仲買人の増員を望んでいることが分かります。
「砂糖締車」の画像検索結果
           砂糖車
 林田村は、元治元年(1864)には67%もの甘藷作付率を誇り、170挺の砂糖車を持つ砂糖生産の盛んな村でした。砂糖車の所持は、これも許可制で冥加金を納め砂糖車株を下されたものに許可されました。藩の砂糖生産最盛期にあたる安政三・四年には、砂糖車の譲渡や新車株などの株所得が頻繁に行われています。株所得や譲渡は、その年の甘藷の収穫状況を見ながら行われていたようです。砂糖車株の譲渡とは、砂糖車の一式売渡しのことで、村内だけでなく他村や他郡に売られたり、買ってきたりしています。砂糖生産の器械は、売り買いが頻繁に行われています。
砂糖類だけでなく砂糖車株の譲渡にも砂糖仲買人が関わっていたようです。
また、坂出村は製塩業が盛んでした。甘藷の作付率は元治元年に27%とあまり高くありませんが、砂糖組船や砂糖仲買人が多数存在する砂糖積出地として栄えていようです。そのため村内での砂糖生産高よりも、領内から購入した砂糖を集約し、積出す港で取扱高が圧倒的に多く、砂糖仲買人が活躍する機会が多かったのです。
「砂糖車」の画像検索結果

  幕末の砂糖生産は、投機的要素が強かったようです。
盛んな領内流通を背景に各村々の農民は、高松藩が定めた統制ルールに従い積極的に砂糖生産に携わっていきます。そして、投機的な動きも見せるほどに成熟していたのです。  このような砂糖生産や流通に関わる人々によって作られた金比羅講が、集金マシンーンとして機能し多額の金額を集め、高灯龍という幕末のモニュメントを寄進したのでしょう。

しかし、甘藷栽培に関わる人たちの多くは、安定した経営基盤を持たない小規模な農民でした。彼らは、甘藷栽培だけにしか関わることはできませんでした。資金の必要な加工や販売過程には入り込むことはなかったのです。安政五年の開港により和製砂糖は衰退の途を歩みはじめます。そして砂糖生産に携わる農民も、その影響を受けることになるのです。明治期の讃岐の砂糖産業を待ち受けていたものは非情でした。

参考文献 宇佐美尚穂 高松藩の砂糖栽培 香川歴史学会編香川歴史紀行所収

秦氏について『岩波日本史辞典』には、次のように記します。

古代の渡来系氏族。姓は初め造(みやつこ)、683(天武12)連(むらじ)、685年忌寸(いみき)。秦始皇帝の後裔を称し、応神天皇の時に祖・弓月君(ゆづきのきみ)が120県の人夫を率いて渡来したというが、実際は新羅・加耶万面からの渡来人集団。山城国葛野・紀伊郡(京都市西部)を本拠に開拓・農耕、養蚕・機織を軸に栄え、周辺地域にも勢力を延ばした。また鋳造・木工の技術によっても王権へ奉仕した。広隆寺・松尾神社などを創建し、長岡・平安京の造営ではその経済基盤を支えたとみられる。秦氏の集団は大規模であるとともに多数の氏に分化したが、氏の名に秦を含み、同族としての意識が強い。太秦(うずまさ)氏が族長の地位にあった。

ここからは次のようなことが分かります。
①秦氏が朝鮮半島からの大規模な渡来集団であること
②さまざまな先進技術を持って日本各地に移住し
③大きな勢力として古代王権にも政治的な影響を与えたこと

 秦氏とその民 : 渡来氏族の実像 / 加藤謙吉 著 | 歴史・考古学専門書店 六一書房
加藤謙吉『秦氏とその民』は、秦氏の技術者集団の側面を次のように記します。

①秦氏とは、五世紀後半から断続的・波状的に渡来してきた集団を母体にして
②日本人の在地集団も組み入れながら成立した擬制的集団
③出自や来歴がちがうので、民族的な求心力はそれほど高くはなく各集団は自立的な性格が強かった。
④政治的な面よりも、経済的な面から大和政権の底辺を支えた氏族であった。
⑤秦氏の最大の特徴は、さまざまな最新技術を持った集団であったこと

そして、秦氏の技術力・生産力を、加藤謙吉は次の四点に整理します。
第1に、瀬戸内海沿岸に製塩技術をもたらしたのは秦氏であること。
西日本の製塩の中心である備讃瀬戸にも多数の秦氏集団がいたこと。播磨の赤穂一帯は、近世では塩田が盛んでしたが、その起源は奈良時代に秦氏が塩田開発していること。『平安遺文』の「播磨国府案」「東大寺牒案」「赤穂郡坂越神戸南郷解」には、次のように記します。

赤穂市の坂越に墾生山と呼ばれる塩山があって、天平勝宝5(753)年から7年まで、播磨守の大伴宿繭(すくね)がこの地を開発し、秦大炬(おおかがり)を目代にして「塩堤」を築造させたが失敗し、大矩は退去した。

第2に銅生産技術です。
秦氏の出身地は朝鮮半島東南部の産鉄地帯とされます。渡来してきた秦氏集団がまず勢力を伸ばしたのが、九州の鉱山地帯である筑豊界隈でした。そして九州から瀬戸内に沿いつつ、各地の鉱山開発を進めていきます。そして全国の鉱山に足跡を残します。採掘から精錬、さらには流通に至るまで、秦氏と鉱山資源は深く結ばれていました。東大寺の大仏開眼の銅は、秦氏によって集められたことは以前にお話ししました。

第3点が朱砂と水銀採集技術です。
朱砂という赤色顔料による色の呪力があり、弥生時代から古墳時代には、遺体の埋葬に使われていました。赤は魔力を持つ色とされ、その赤を操る種族ということで、マジカルな力を持つと思われていたようです。そのため金にも劣らないほど、この時代では貴重資源でした。
もうひとつは、仏像建造などにアマルガム鍍金法が導入されることによって、水銀の価値が高まったことです。奈良の大仏がそうであったように、水銀がなければ仏像を鍍金できなかったのです。そういういみで水銀は最重要資源でした。水銀採石地と丹生神社が重なっているおは、そのような水銀の重要性と関係あると研究者は考えています。
 第四点が土木・建築技術です。
京都・太秦は秦氏最大の根拠地ですが、そこを流れる桂川に堰堤をつくり、治水・潅漑を行っています。それ以外にも、茨木の茨田場などの土木工事や、長岡京や平安京など、首都の造営にあたっては秦氏が深く関わっていたと研究者は考えています。この4点だけでなく、農耕や養蚕など、秦氏の技術力はまだまだたくさんあります。

それでは讃岐にいた秦氏について見ていくことにします。まず讃岐秦氏の拠点はどこなのでしょうか?

2 讃岐秦氏1

讃岐における秦氏の分布を表にすると、東から大内郡・三木郡・山田郡・香河郡・多度郡と、讃岐十一郡のうちの半分にあたる五郡にわたっています。その中でも、集中しているのが香河郡です。ここから香河(川)郡が秦氏の拠点のようです。
 香河郡の秦氏の本拠を考える上で、大きな意味をもつのが「原」という地名だと云われます。
  『続日本紀』神護景雲三年(七六九)十月十日の条によると  
讃岐国香川郡人秦勝倉下等五十二人賜二姓秦
とあって、秦勝倉下ほか五十二人が、秦原公の姓を賜ったことがわかります。更に『平城宮発掘の木簡』にも、「原里」に秦公恋身という人物の名が記されたいます。 

では、幡羅(原)里とは、一体どこなのでしょうか。

平安時代の『和名抄』には香河郡の郷は、笠居・飯田・坂田・箆原・中間・成相・大田・多肥・百相・河辺・大野・井原の十二郷で、幡羅(原)郷はありません。
「原里」は、郷の再編成で新たに誕生した里と考えられています。そして、現在田村神社の東に「東原」という地名が残っていますが、この「東原」が、幡羅(原)郷のようです。

この原郷には、秦氏によってまつられた田村神社が鎮座します。

その祭神は、倭追々日百襲媛命・五十狭芹命(吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命の五柱ですが、中心となる祭神は倭追々日百襲媛命で、水と豊作をもたらす神として、女神がもつ再生産の機能に期待してまつられるようになったのでしょう。秦氏によって祀られた氏神的な神社が、秦氏の政治的な力によって讃岐一宮になっていったようです。

2 讃岐秦氏2
 秦氏にとって、一番重要な本拠地は「原里」で後には、百相郷も含みます。加えて中間郷も秦氏の重要な本拠でした。『平城宮木簡』によると、中間里に秦広嶋という人物がいたことがわかります。
 このように、百相郷を含む原里と中間郷が、讃岐秦氏の本居であったようです。
 古墳時代のこの辺りには、双方中円墳の船岡山古墳があり、石枕付石棺が出土しています。また直径二十メートルほどの円墳の横岡山古墳があり、玄室・羨道を有する片袖石槨をもち、頚飾玉2、銅環3、石斧1、鉄剣1、須恵器数十個が出土しています。 近くには「万塚」と呼ばれる地名が残っていて、かつては群集墳がありました。
これらから秦氏の墳墓は 
①船岡の双方中円墳(4世紀)→②横岡山円墳 →万塚古墳群の盟主古墳
(6~7世紀)へと推移したと考えられます。
奈良時代には神宮寺の前身となる寺院が、秦氏の氏寺として建立されます。
優婆塞として名の見える秦人部辛麻呂は、氏寺の僧侶であったと考えられます。後になってその寺院は神仏習合の結果、一宮である田村神社と結び付いて、神宮寺となります。ここは現在では船山神社になっています。しかし、地元では神宮寺の名で親しまれており、傍らのバス停の名前はいまも神宮寺のままです。ここが百相廃寺跡で、複弁八弁・単弁八弁の軒丸瓦と、偏行唐草文軒平瓦などが出土しています。秦氏の仏教活動は、奈良時代の優婆塞秦人部辛麻呂から、平安時代の道昌・観賢・仁政へと、引き継がれたようです。
2 讃岐秦氏4

秦氏には次のような氏族構成が、形成されていたと推察できます。 

香河郡内の秦氏は強い同族意識で結ばれ、大内・三木・山田・多度など他郡に分布する秦氏に対して、秦原公は何らかの形でゆるやかな支配力を持っていた。
② 秦氏の性格としては、その本拠が内陸部にあったところから、農耕民としての性格が強かった。
③ 香河郡の秦氏は香東川の水を引いて稲作を行ない、田の畦や空閑地に桑や麻を植え、絹や麻の布を織った。
④ 秦氏の本拠の近くには、讃岐特産の敷物である円座の生産を行なった村があり、少し離れて檀彫の生産を行なった村があり、この円座と檀紙は平安時代に讃岐の特産品とされ、都で暮らす人々にも重宝がられた
⑤ 円座・檀紙の生産については郡司である秦氏が、関与していたと思える。  
『続日本後紀』承和九年六月二十二日(乙酉)条によると。
 讃岐国香河郡人戸主従六位上秦人部永楸。戸主秦人部春世等十人。賜二姓酒部
とあって、秦氏の一族の中には酒部に改姓される者がいて、酒造りを行なった人々がいたようです。 
2 讃岐秦氏3

 一方、香川郡の海浜部は、帰化系氏族の綾氏に占められていたようです。 

『日本霊異記』によると、聖武天皇の頃、讃岐の香川郡坂田の里に、大層な物持ちがいて、その姓は綾君であった記されます。また、東寺の果宝が観応三年(一三五二)に編述した『東宝記』収載の天暦十一年(九五七)二月二十六日の太政官府に、香河郡笠居郷戸主綾公久法の名が見えます。海に近い香河郡笠居郷や坂田郷は、綾氏の一族が押さえる地域だったようです。
 綾氏は海の近くにすむ海岸の民であり、秦氏は同じ帰化系氏族のよしみで、海からとれる塩・魚貝類・海草などを、手に入れていたのではないでしょうか。秦氏・綾氏の本拠の近くには、大田郷・多肥郷があり、大田の語源が王の田を意味する王田であって、かってそこに屯倉がおかれ、多肥の語源が屯倉の耕作者の田部であったとすると、秦氏・綾氏には屯倉の管理者として活躍した時期があったとみられる。秦氏・綾氏は大和王権と結ぶことで、東讃の国造凡氏と西讃の国造佐伯氏の勢力が枯抗する地域で、勢力をえることに成功した氏族であったようです。

参考資料  羽床正明 讃岐秦氏について 

    

                                                                   

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