瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 丸亀市の歴史

今回は、髙松平野と丸亀平野の「中世村落」の居館について見ていきます。テキストは、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」です。
まず、比較のために旧髙松空港(林田飛行場)跡の中世村落の変遷について、要約しておきます。
①古代集落は、11世紀前半で断絶して中世には継続しない。
②11世紀後半のことは不明で、12世紀になると、小規模な「無区画型建物群」が現れる。
③13世紀になると大型建物を中心とした「区画型建物群(居館)」が出現する
④これは「集落域の中央に突如、居館が出現した」とも言え、「12世紀代を通じて行われた中世的な再開発の一つの到達点である」
⑤ところが、中世前半の居館は長く続かず、13世紀後半になると、ほぼ全ての集落が廃絶・移転してしまう。
①と⑤に集落の断絶期があるようです。これをどう捉えればいいのでしょうか?。この時期に「大きな画期」があったことを押さえておきます。そして、14世紀から15世紀になると空港跡地遺跡では、次のような変化があったことを指摘します。
⑥「区画施設(小溝ないし柵列)により明瞭に区画された屋敷地が、居館の近くに東西1町半、南北1町の範囲内にブロック状に凝集する形態」へと変化する。
⑦「中心となる居館と、付随する居館との格差は明瞭に指摘でき、村落(集洛群)を構成する上位階層の居住域」である。
⑧居館に居住する「小地域の領主…を求心力とした地域開発や生産・流通の再編が、このような村落景観として現出した」=「集落凝集化」

ここで研究者が注目するのは、居館に区画(溝)があるかどうかで次のように分類します。
A 無区画型建物群 1棟~数棟の中・小規模建物群で構成され、1~2世代程度継続した後は短期に廃絶している。周囲に溝等による区画施設がない
B 区画型建物群 多数の柱穴が密集して複数棟の建物が同時並存し、1世紀程度の比較的長く継続して建て替えられ、周囲に溝などの区画施設を伴う。
居館の周囲を溝で区画されたことに、どんな意味があるのでしょうか?
Bの区画型建物群の出現と同じ時期に、区画内部に土葬墓(屋敷墓)が造られるようになるからです。死者の埋葬地を屋敷内に作ることを「屋敷墓」と言います。中世の屋敷墓について、勝田至氏(京都大学)は、次のように記します。
 死者の埋葬地をある家の屋敷内またはその近くの自家所有地に作る慣行を「屋敷墓」と定義する。この慣行の中心的起源は中世前期にある。そこでは屋敷墓に葬られる死者はその地を開発した先祖に限られることが多く、屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされた。この慣行の成立要因として、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが複合していたと考えられる。屋敷墓はその信仰表象のみが独立した屋敷神として、現代の民俗にも広い分布をみせている。


13世紀・鎌倉時代の大阪市の居館と屋敷墓を見ておきましょう。
鎌倉時代の野間遺跡からは、屋敷墓が井戸の跡とともに見つかりました。墓の大きさは長さ2.1m、幅80cm、深さ40cmで、北向きに掘られていました。木の棺もあったはずですが、遺体とともに残っていませんでした。しかし、頭から腰と思われるあたりでは、素焼きの大皿2枚、小皿9枚、中国産の磁器椀1個、中国産の磁器皿1枚、鞘に入った長さ30cmの小刀など、たくさんの品物が副葬されていました。副葬品からは、中国から輸入された茶碗や皿を使い、刀を身につけることのできた人物が浮き上がってきます。墓の主は、領主クラスの人物とも想像できます。
中世の居宅と屋敷墓 大阪の野間遺跡
野間遺跡(大阪市)の居館跡と屋敷墓 

屋敷跡からは、8棟の建物跡が見つかりました。そのうちの1棟には、建物に使われていた木の柱が何本も残っていて、中にはカヤの木でできた直径40cm、高さ1mもある柱もありました。それほど大きな屋敷跡ではありませんが、しかし柱は太く、掘立柱の下にも礎石を組んでいます。また、この屋敷跡からは、羽子板や漆塗りの椀、絵の描かれた箱が見つかり、京都の文化の影響を強く受けていた様子がうかがえます。大きな柱の建物、そしてたくさんの出土品は、この屋敷の主の力の大きさを物語っています。

 屋敷墓の起源は中世前期にあり、屋敷墓に葬られる死者は、その地を開発した先祖で、神として祀られることが多いようです。
屋敷墓は子孫の土地継承を守護するものとされ、塚に植えられた樹木などを象徴として信仰対象とされるようになります。そして、屋敷墓の継承者が「家」を継承していくことになります。これは、開発地を子孫が継承するイエ制度的理念と、死体に死者の霊が宿るという観念とが融合したものと研究者は考えています。こうして屋敷墓は、屋敷神として姿を変えながら現代にも受け継がれています。

屋敷墓の成立について橘田正徳氏は、次のように記します。

①前期屋敷墓の被葬者である「百姓層」が、「「屋敷」の中に墓を作り、祖先(「屋敷」創設者)祭祀を行うことによって、「屋敷」相続の正当性つまり「屋敷」所有の強化を」図ろうとしたこと

中世以降に血縁関係による墓地の形成が進む背景として、水藤真氏は次のように記します。

「子の持つ権利の淵源が親にあれば、子はその権利継承の正当性を主張するに際して、親からの保証・正当な権利相続がなければならない。そして、その親を祀っているという実態、これも親からの権利の継承を主張する根拠となった」
家の財産(家産)の確立こそが、「家の墓」を生む母体であった」

 無区画型建物群は短期間で廃絶しますが、区画型建物群は、複数世代にわたり継承されています。これは屋敷墓が屋敷相続を正当化する根拠となり、そこを長く拠点とするようになったようです。その地が替えの効かない意味のある場所になったことになります。別の言い方をすると、屋敷が家産として認識され始めたというのです。つまり、建物群の四隅を溝で区画することは、土地や建物が父子間に相続されるべき家産として認識され、それを具体的に外部に向けて主張し、その権利が及ぶ範囲を数値化して、目に見える形で示したのが溝であるとします。そうだとするとこの屋敷墓の被葬者は「名主層」や「名主百姓身分」ということになります。区画型建物群の成立は、名主層の出現とリンクするのです。彼らは周辺開発を進める原動力となります。それが、大規模用水道の出現にもつながって行くという話になります。そういう視点で改めて、飯野山周辺の中世居館を見ていくことにします。

飯野山周辺の中世居館
             飯野山周辺の区画型建物群の例

中世飯野・東二瓦礫遺跡の中世遺構変遷について整理しておきます。
①飯野・東二瓦礫遺跡に建物群が出現するのは、12世紀前半のこと
②それは3棟の掘立柱建物で、柱穴数が少ないので、多くの建物があったとは思えないこと
③短期間で廃絶したと考えられる建物群は、どれもが条里型地割に沿って建てられている。
④ここからは、遺跡周辺において地割の造成が新たに行われたこと。
⑤12世紀後半~13世紀初頭には、一度建物がなくなる。
⑥その断絶期間を経て、建物群D・Eが13世紀中頃に再度現れる。
⑦続いて建物群Bが、13世紀後半に成立。
⑧それは等質的な内容の建物群が、2世代程度の短期間で場所を移して相次いで建設。
こうした状況が大きく変わるのが、建物群Aの登場です。
建物群Aでは、20㎡強四方と小規模ですが、区画施設があり、4棟以上の建物が長期にわたって建て替えられ継続します。密集性と継続性という面から見ると、それまでの建物群Bの段階とは明らかに異なります。しかし、出土遺物についてみると、中国製磁器類のほか、備前や亀山、東播系といった瀬戸内海沿岸からの搬人品が少し出土しているだけです。そういう点では、無区画型建物群であるBと格差はないようです。ここでは、建物群が区画施設を伴って出現することと、同時期に大規模灌漑網が再整備が行われたことを押さえておきます。
研究者が注目するのは、川西北・原遺跡の2基の中世墳墓遺構の火葬塚です。
幅約1,1m~1、8m、深さ約0,1~0,5mの周溝で区画された辺5,2mと6、1mの陸橋を伴う2基の方形区画で、火葬塚とされます。ST01は12世紀前半、ST02は13世紀前葉の築造とされ、ST01は12世紀後半以降にも継続使用された可能性があるようです。つまり、12世紀前半から13世紀前葉まで、火葬された人々が遺跡周辺に生活していたことになります。そこからは、安定して地域経営に従事した有力階層がいたことをうかがわせます。長期に安定して火葬墓を営むことができた階層の拠点住居として、飯野・東二瓦礫遺跡の有力者を研究者は想定します。続いて大束川流域の居館を見ていくことにします。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                 大束川流域の中世集落と用水路
川津川西遺跡は鵜足郡川津郷の大束川西岸に位置します。
①建物の東辺が、大束川の完新世段丘崖によって画される区画型建物群。
②区画規模は、南北約100m、東両約50mとかなり広く、区画内部はさらに中・小の区画溝により数ブロックに細分されている。
③西約90mの所に、無区画型建物群が一時期並存。
④区画型建物群は、14世紀前葉から15世紀初頭にかけて使用され、内部には主屋とみられる床面積約50㎡の大型建物がある。
⑤出土遺物には、碗・皿などの輸入磁器類や、備前・東播・亀山の貯蔵・調理器類、瀬戸天目碗や畿内産の瓦器羽釜など、隣接地域や遠隔地からもたらされた搬入資料も少量ながら出土。
この居館の主人は、区画型建築物に住んでいます。名主から領主への成長過程にいたことが考えられます。 
川津六反地遺跡
①旧鵜足郡川津郷の大束川東岸の段丘面上に位置。
②西辺を条里溝、東辺を溝によって区画された東西長約と㎡の区画型建物群
③区画溝から、13世紀後半~13世紀前の遺物が出土
④各区画には、主屋とみられる建物があって、等質的で相対的に独立していた。
⑤区画溝を挟んで、東西に2つ区画型建物群が連接していた
⑥西側には、無区画型建物群が並存。
こうした複数の区画型建物群が連なって一つの建物群を構成するものを、「連接区画型建物群」と呼んでいるようです。これに対して、飯野・東二瓦礫遺跡や川津川西遺跡は、中・小の溝などによる区画はありますが、各区画間に等質性や独立性は認めらません。このように外周区画溝内部が一つの単位としてかんがえられるものと「単独区画型建物群」とします。
東坂元秋常遺跡も、飯野山南東麓の旧鵜足郡坂本郷の大束川両岸の段丘面上にあります。
①中世建物群は、飯野山より南東に張り出した低丘陵部に建設。
②南北長約100㎡の区画型建物群で
③区画内部は飯野山から下る小規模な谷地形により、3小区画に細分される「連接区画型建物群」④区画内部の構造は、13世紀後半~14世紀前半の使用。
④出土遺物は、備前や亀山、東播系の隣接地の搬入資料以外に、少量だが楠葉型瓦器碗や瀬戸・美濃の瓶子・天目碗、常滑焼、中国産磁器類が出土

下川津遺跡も、鵜足郡川津郷の大束川西岸の段丘面上に位置します。

.下川津遺跡
下川津遺跡の大型建物配置図

①四辺を区画溝で囲続し、南西隅が陸橋状を呈して区画内部への通路とする
②南辺区両溝は旧地形に大きく制約され矩形とならず、東西約50m、南北35~65mの単独区画型建物群
③建物群の時期は15世紀後半~16世紀前葉で、飯野山周辺では最も遅い区画型建物群。
15世紀後半と云えば、応仁の乱後に政権を握った細川氏が勢力を増し、その配下で讃岐四天王とよばれた讃岐武士団が京都で、羽振りをきかせていた時代です。その時期の領主層の舘が、ここにはあったことになります。
ここで研究者が注目するのは、東坂元秋常遺跡の上井用水です。  
上井用水は、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。それが各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏おとりに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会
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飯野町東二遺跡 赤山川jpg
飯野山西麓を流れる赤山川(場所はさぬき福祉専門学校の下)

  前回は飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡巡りをしました。今回は、この遺跡の条里制地割に沿って掘られた用水路(赤山川)について見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡4
              飯野・東二瓦礫遺跡周辺の10㎝等高線図

この地形図からは次のような事が読み取れます。
飯野・東二瓦礫遺跡は。飯野山西麓と土器川の間に挟まれたエリアに立地する
②土器川右岸に氾濫原と自然堤防が広がり、飯野山の西麓との間に狭い凹地が南北にある。
③そこを赤山川が南北方向に流れている。
④凹地は、遺跡周辺で最も狭くなっている。
⑤遺跡の東北方向が津之郷盆地で、赤山川から山崎池の下を通って分水用水が伸びている。
次に遺跡周辺の地質分類図(第3図)を見ておきましょう。
飯野・東二瓦礫遺跡地形分類図

ここからは、次のような事が見えて来ます。
①土器川の氾濫原と飯野山西麓の間に、条里制跡が見られる
②条里制以前の埋没河川痕跡が幾筋も網目状に見える。
③崖面以東の平地部と比較すると、この遺跡周辺は地表面高が約0,5mほど低い凹地となっている。
④この低地部分は、土器川が蛇行した痕跡で、古代末頃の「完新世段丘」により形成された「氾濫原面」である。
⑤崖面上位の平地面を「段丘1面」とする。
⑥段丘1面と氾濫原面の旧河道は不連続である

 1次調査区(昭和63年度調査、香川県埋蔵文化財調査センター1996)の調査報告書には、次のように記します。
A 段丘1面の旧河道は弥生時代~古墳時代のもので、古代には埋没過程にあったこと
B 氾濫原面の旧河道(SR01)は、14世紀頃に新しく掘られたものであること。
ここからも、段丘1面が形成されたのは古代末期であること、そして14世紀に新しい用水路が造られたことが裏付けられます。

飯野町東二遺跡赤山川
            現在の赤山川(さぬき医療専門学校の下)
飯野山の尾根が張り出して崖になっているところが、最も狭くなっているくびれ部分。その南側を真っ直ぐに流れる赤山川

この遺跡の主役である赤山川について、調査報告書は次のように記します。
①延長約3、5kmの土器川の小さな支流の一つ
②氾濫原面の出水が水源で、緩やかに蛇行しながら北に流れ、遺跡の南方で大きく東に屈曲
③その後は、微高地を横断して段丘1面上を北流し、遺跡北方で再び西へ屈曲して、土器川へ合流。
地図を見れば分かるように、赤山川は自然河川としては怪しい不自然な流れをしています。
南で氾濫原面を流れるときには、何度も屈曲していますが、段丘1面上では、条里型地割の方向に沿って直線的です。これは条里制施工の時に、流路が人工的に変えられたことが考えられます。どちらにしても、赤山川は自然の川ではないようです。
 赤山川に合流する小さな支流の水源は、すべてが出水です。土器川伏流水の出水からの水を、人為的に条里型地割に沿って掘られた用水路で水田に供給されていたことになります。つまり、これらの小さなな支流は、人為的に開削された用水路だったと云うのです。それらが赤山川として、凹地の中央を北にながれていたことを押さえておきます。

IMG_6638
               飯野山西麓から土器川に流れ込む赤山川

 もともとの赤山川は、氾濫原面を流れていた旧土器川の網状流路の一つだったようです。
それが段丘面上につくられた用水路に人為的に接続され、現在の流路となったのです。その目的は、赤山川の北方の津之郷盆地(飯野町西分地域の段丘面上の耕地)への農業用水の供給です。それを出水を源とする赤山川の水量で賄うことを目的としたことになります。ここで注意しておきたいのは、直接に土器川から導水はしていないということです。土器川に堰を造って導水する灌漑技術は、当時はありませんでした。
飯野・東二瓦礫遺跡周辺土地条件図
飯野・東二瓦礫遺跡周辺の土地条件図


それでは、赤山川の流路変更は、いつだったのでしょうか?
すぐにイメージするのが、条里制施行に用水路も掘られたという「条里制施工時の用水路説」です。しかし、どうもそうではないようです。発掘調査で明らかとなった古代の溝は、深さが0、5m以下で浅いのです。段丘1面上を流れる旧土器川の支流から直接取水し、用水路として利用していたことが考えられます。一方、中世以降になると、残存深0、7m以上と、一定の深さ深度を有する溝が出てきます。これは、古代末頃の河床面の下刻と重なります。
 また、段丘面上には遺跡南部に条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)があります。これは段丘面が形成されたことで放棄・埋没した古代基幹水路であった可能性があります。つまり、古代の用水路は流路bということになります。
 このような大型幹線水路は、飯野山東麓の大束川両岸の川津川西遺跡や東坂元秋常遺跡にもあったことは、以前にお話ししました。

飯山町 秋常遺跡灌漑用水1
                飯野山東麓の古代用水路

 その開削時期は8世紀代で、11世紀代には廃絶しています。開削された初期には、段丘面上を流れる旧大束川を水源としていましたが、大束川の河床面が低下することで、大束川からの導水ができなくなります。その対応策として、中世の人達は上流に大窪池を築き、現在の上井用水・西又用水を改修・延長したことは以前にお話ししました。同じように土器川左岸では、大型幹線水路として古子川が開かれます。研究者は、このような大規模な灌漑用水の開削時期を10世紀代以前とします。そして、その整備には「小地域の開発者相互の結託ないし、より上位の権力の介在」が必要であったと指摘します。
 以上をまとめておくと、
①土器川の氾濫原と飯野山に挟まれた飯山町東二にも、古代の条里制施行が行われた。
②その水源は土器川氾濫原の出水を水源地として、条里型地割に沿った埋没河川(第3図流路b)によって供給されていた。
③ところが古代末から中世にかけての地盤変化によって、段丘面が形成されてそれまでの用水路が使えなくなった
④そこで新たなに掘られた用水路が現在の赤谷川である。
⑤赤谷川(用水路)は、本遺跡周辺に分水機能を持ち、津之郷盆地と土器川へ用水を分水した。
⑥それは津之郷盆地への農業用水の供給と共に、洪水防止機能を持っていた

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赤山川の津之郷方面と土器川の分地点

ここでは、古代後期以後の完新世段丘の形成が、それまでの灌漑施設に大幅な改変を強制したこと、
その対応のために広域的な地域的統合や開発領主と呼ばれる新規指導者層の登場を招くことになったことを押さえておきます。それが新たな中世の主役として名主や武士団たちの登場背景となります。そこに東国からの進んだ灌漑・土木技術をもった西遷御家人たちの姿が見えてくるようです。これは、飯山町の法勲寺あたりの灌漑用水整備で以前にお話ししました。
最後に1970年代の「古代讃岐のため池灌漑説」で、津之郷盆地がどのように記されていたかを見ておきましょう。
讃岐のため池整備が古代にまで遡るという説の背景には、古代の条里制施行に伴って、耕地が拡大したと考えられたことがあります。その用水確保のために古代からため池が築造されたというものです。これが空海の満濃池改修などに繋がっていきます。例えば津之郷盆地の溜め池展開について、次のように記します。

津之郷盆地の溜め池展開
 津の郷における稲作発展の第1次は、津の郷池(前池ともいう)の設置から始められた。
大束川の周辺では流水はそのまま横井堰から引かれ、また、ため池程の大きさでなく少し掘れば伏流水が湧出する出水などが作られた。2メートルも掘れば清水の得られる井戸も沢山作られ、かめて水を汲みあげる方式などもとられたであろう。第2次展開は、飯の山山麓にある蓮地と長太夫池であろう。柳池というのも一連のものと考えても不合理ではないが、その大きさと構造から考えて第3次展開とした方がよいかも知れない。
 ため池発展の過程を1次、2次、3次という風に抽象的な言葉で表現したのは、稲作が拡大していく順序をいうもので、現在のそれらのため池が現状の規模や大きさで古代からあったという意味ではない。したがって、そこには当然そのため池の前身らしきものがあったか、あり得なければならないという必然性を指摘するものである。そういう意味である。
 
   この説を現在の考古学者の中で支持する人はいません。しかし、津之郷盆地西部の開発のための灌漑用水路は、赤山川から引かれていたことは今見てきた通りです。それは、上の地図上で示したため池展開のルートと一致します。水源をため池とするか、土器川の氾濫面の出水からの灌漑用水とするかの違いであったとしておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
蔵文化財発掘調査報告

参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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埋蔵物遺跡の調査報告書の冒頭部分を読むのが楽しみな私です。そこには、専門家が分かりやすく、さらりと周辺地域の歴史や遺跡を紹介していて、私にとっては教えられることが多いからです。テキスト「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」です。

まず、研究者は遺跡の立地する丸亀平野と土器川の関係を、次のように要約します。
丸亀平野の概要

岸の上遺跡 土器川扇状地

丸亀平野の扇状地部分

丸亀平野と土器川の関係
丸亀平野と土器川の関係
金倉川 土器川流路変遷図
弥生時代の丸亀平野は、暴れ龍のように幾筋もになって流れる土器川や金倉川の間の微高地に、ムラが造られていたこと、その水源は、川ではなく出水であったことは以前にお話ししました。それも台風などで濁流がやってくる押し流されてしまいます。その中で、継続的に成長したのは、旧練兵場遺跡群の善通寺王国だけでした。

旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
幾筋もにも分かれて流れ下る、金倉川や土器川と旧練兵場遺跡群

丸亀平野 地質図拡大版
土器川の旧流路跡と氾濫原
土器川の大束川への流れ込み
                   土器川の右岸氾濫痕跡図
まず、飯野・東二瓦礫遺跡の位置を確認しておきます。

飯野町東二の今昔地図比較
明治37年測量と現在の地図の遺跡周辺地図
飯野山西麓の式内社の飯神社の下を南北に流れるのが赤山川です。その川が髙松自動車道の高架の下をくぐるあたりに、この遺跡は位置します。よく見ると、この地点で赤山川から北東の津之郷盆地へ、用水路が分岐されています。これがあとあとに大きな意味を持ってくることになります。

飯野・東二瓦礫遺跡2
飯野・東二瓦礫遺跡
10㎝等高線で見ると、飯野山から北西に張り出した尾根がすとんと切れるあたりになります。
報告書には、遺跡周辺のことについてもポイントを押さえて簡便に記してくれます。これを読むのも私の楽しみです。時代ごとの周辺の遺跡変遷を見ていくことにします。

飯野・東二瓦礫遺跡周辺遺跡図
飯野・東二瓦礫遺跡の周辺遺跡図

まず当時の地形復元を行っておきましょう。
当時の海岸線復元以上からは、宇多津の大門から津の山、そして笠山を結ぶ附近までは海の湾入があり、鵜足の津、福江の浦と呼ばれていました。また阿野北平野も、金山の突端江尻から雌山を結ぶ線位までも海であり大屋富へかけて松山の津と呼ばれていたことは以前にお話ししました。

坂出 古代地形復元
宇多津・坂出周辺の古代海岸線(青い部分が海進面)

弥生時代
飯野・東二瓦礫遺跡から見上げる甘南備山の青ノ山や飯野山は、神の降臨する甘南備山だったことが考えられます。②の青野山山頂遺跡は、中期後葉の高地性集落がありますが、発掘調査は行われていないので「詳細不明」です。また、㉖の飯野山西麓遺跡からは、後期の竪穴建物9棟のほか、溝や段状遺構が確認されています。竪穴建物には、径10mの大型建物や焼失建物も確認されています。山住み集落のようですが、平地部の集落と、どんな関係があったかについては、よく分かりません。
 ここで注目しておきたいのは、大束川河口の津之郷盆地の西側に形成された川津遺跡です。ここは、坂出ICの工事のために広面積の発掘が行われ、時代を超えて多くの人々が生活したエリアであったことが分かってきました。津之郷盆地周辺の前方後円墳群も、このエリアの首長墓だと私は考えています。古代におけるひとつの中心地が津之郷盆地なのです。

古墳時代
初期の前方後円墳として、青の山の南に突き出た台地の上に吉岡神社古墳が登場します。前方部を山の頂上の方に向け、後円部を平野の方に向けた全長55,6mの前方後円墳で、次のような特徴を持ちます。

吉岡神社古墳2
A 土器川下流域唯一の前方後円墳で
B 南北主軸の竪穴式石室から、銅鏃16点、鉄鏃4点、刀子片、ヒスイ製勾玉1、碧玉製管玉1、土師器直口壺2などの副葬品が出土
C 江戸時代の乱掘時に筒形銅器の出土
D 被葬者は、土器川河口部の流通拠点を掌握した首長層
津之郷盆地丸亀平野
           津之郷盆地の遺跡
津之郷盆地をめぐる前方後円墳を見ておきましょう。

善通寺・丸亀の古墳編年表
善通寺・丸亀・坂出の古墳編年表
①聖通寺山頂には、川原石で築かれた積石塚の聖通寺古墳
②続いて蓮尺の小山丘陵上には、市の水源配水塔設置のため破壊されてしまいましたが、銅鏡2面を出した蓮尺茶臼山古墳
③連尺茶臼山古墳と同じ丘陵には、小山古墳があり、ふたつ並んで津の郷盆地を見下す。
④金山北峯の頂上に積石塚前方後円墳のハカリゴーロ古墳
⑤その稜線を300メートル下ったところにこれも積石塚の前方後円墳・爺ケ松古墳
⑥飯の山の薬師山にも同程度の前方後円墳
こうして見ると、津之郷を基盤とする勢力は、首長墓としての前方後円墳を作り続けています。それも初期は、讃岐独特の積み石塚です。それにとって替わるのが津之郷盆地の入口に築かれた吉岡神社古墳のようにも思えます。吉岡神社古墳の盟主が「ヤマト連合」の盟主として擁立されたのか、派遣されたのかは諸説あるようです。しかし、津之郷勢力はこれ以後は前方後円墳を築くことはありません。そして古墳時代後期になると、阿野北平野に大型横穴式石室をもつ巨石墳が造営され始めます。これが古代綾氏とされます。その勢力と、津之郷勢力はどんな関係にあったのでしょうか?。連続性で捉えるべきなのか、津之郷勢力に、阿野北平野勢力(綾氏)がとって替わったのか? そのあたりのことは、以前にお話ししましたので、ここではこれ以上は踏み込みません。 

そして後期になると、次のように多くの古墳が青野山と飯野山に築造されます。
E 飯野山北西麓の㉓の飯野東分山崎南遺跡で、V期1段階の円筒埴輪が出土
F 近接して中期末~後期前葉の㉕の飯野古墳群
G 後期後半には、青ノ山や飯野山を中心に多数の横穴式石室墳が築造
H 盟主墳は青ノ山古墳群の玄室長4mの④の竜塚古墳(青ノ山7号墳)と、宝塚支群4号墳
I 飯野山西麓1・2号墳は、いずれも玄室長3mの横穴式石室墳で、須恵器や玉類のほか、馬具等の副葬品が出土

飯野・東二瓦礫遺跡に関係する勢力のものは、I の飯野山西麓の古墳群のようです。
この古墳群は、飯野山への登山公園整備のために発掘され、駐車場の隅に移転復元されています。その説明版を見ておきます。
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説明版を要約していくと
①弥生時代の周壕を持つ竪穴住居群20数棟。同様な高地立地住居群が川津東山田遺跡でも出土
②弥生時代の竪穴住居を利用した3期の古墳

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飯野山西麓遺跡2号墳
飯野山西麓3号墳
飯野山西麓遺跡3号墳
これらの3つの古墳は、飯野・東二瓦礫遺跡の勢力が残したもののようです。しかし、阿野北平野の巨石墳(古代綾氏?)に比べると見劣りがします。政治的な中心地は阿野北地方に移っていった感じがします。なお、この他に生産遺跡には、TK209~TK217型式併行期の須恵器を焼いた⑨の青ノ山1号窯があります。
飯野・東二瓦礫遺跡俯瞰図 
飯野山西麓の「弥生の広場」からの丸亀平野
ここからは土器川を越えて拡がる丸亀平野が一望できます。正面に見える平らな山が大麻山(象頭山)です。その北面に善通寺勢力がいました。ある意味では、土器川を挟んで善通寺勢力と対峙していたといえます。
古代の飯野・東二瓦礫遺跡周辺は、鵜足郡二村郷に属していました。

讃岐郷名 丸亀平野
古代の二村郷周辺の郷名

 正方位に配された直線溝からは、8世紀後葉~9世紀前葉の須恵器が出土しています。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割(これがすべて古代に耕地化されたわけではないことに留意)
この地割図を見ても、飯野山の西麓や麓の平野部は空白地帯(条里制未実施)です。土器川の氾濫原や、海進した海によって耕地化できなかったことがうかがえます。一方、この遺跡の条里型地割に合致する坪界溝からは、11世紀代の黒色土器碗が出土しています。このエリアは、土器川の氾濫原なので、条里型地割の施行は、津之郷盆地よりも遅れたと研究者は考えています。

丸亀平野 条里制地図二村2
二村郷周辺の条里制地割(空白部は、工事未実施部分)

 鵜足郡は八条まであったとされます。そうすると、丸亀平野の条里復元案の鵜足・那珂郡境を八条西端として折り返すと、SD29の溝は、五条と六条の条界溝となるようです。それはSD29と近接した所に掘られた現在の水路が、東二字瓦礫と東分字神谷の字界となっていることからも裏付けられます。
 また、⑰の法楽寺跡は、出土瓦から古代寺院跡とされ、この周辺にも氏寺を建立するだけの経済力を持った勢力がいたこ、法楽寺跡周辺がその勢力拠点であったことが推測できます。


中世には、大束川河口部の宇多津に守護所が置かれたとされ、二村郷は讃岐の政治的な中枢地域・宇多津の後背地となります。
中世前半期の二村郷については、「泉涌寺不可棄法師伝」等の史料があります。この史料を使って田中健二氏(田中1987)や佐藤竜馬氏(佐藤2000)は、次のように、現地比定や政治的動向を推測しています。

川津・二村郷地図
                   中世の二村郷と二村荘

田中氏の二村荘成立経過説
①二村郷内に立荘された二村庄は、法相宗中興である貞慶が元久年間(1204~6)に興福寺の光明皇后御塔領として立荘したもので、二村郷の七・八両条内の荒野を地主から寄進させることにより成立
②その立荘には、当時の讃岐国の知行国主藤原良経が深く関与した
③嘉禄三年(1227)には、二村郷七・八両条内の耕地部分については、公領のまま泉涌寺へ寄付された
④その土地は、泉涌寺の「仏倉向燈油以下寺用」に充てられた「二村郷内外水田五十六町」である
⑤こうして成立した二村庄と二村郷は、「同一の地域を地種によって分割したもの」である
⑥そのため「両者が混在し」、管理上は「領有するうえで具合が悪い」状態であった
⑦そこで仁治二年(1241)に「見作(耕地)と荒野との種別を問わず」、七条は親康(姓不詳)領(公領)とし、
⑧八条は藤原氏女領(興福寺領)とする「和与」が締結されたこと

丸亀平野 二村(川西町)周辺

 また二村庄の荘域エリアについては、次のように推察します。
⑨「二村荘の荘域は地域的には二村郷七・八両条内の郷域と重複し…その中心地は、…「春日神宮の所在地」との前提から現丸亀市川西町宮西の所在する①春日神社(旧村社)周辺」を想定。
⑩「春日神社の氏子分布は旧西二村であり、「土器川の左岸に限られる」こと
⑪近世の字名「西庄」の分布等より、「興福寺領や泉涌寺領となった二村郷七・八両条とは、二村郷のうち土器川の左岸の地域、すなわち近世の西二村の地であった」と現地比定します。

これに対して、佐藤氏は二村庄と二村郷の現地比定を次のように試みます。
①「七条分以東の二村郷内も親康領(泉涌寺領)に含まれていたとして、土器川西岸域に限定されるとする田中氏説とは見解とは異なる説を提示。
②13世紀以降の興福寺領二村庄については、暦応四年(1341)最後に確認できなくなり、南北朝期に消滅した
③泉涌寺領は文和三年(1354)に同寺へ安堵された後、応仁の乱に際し同寺が焼亡すると、幕府により後花同院の仙洞御料所として、甘露寺親長に預け置かれた
④さらに文明二年(1470)に鞍馬寺へ寄進された
この時代の公領は、実際には国人や守護被官が代官職を請け負っていて、荘園の代官請負制と同じ支配関係に置かれていました。

中世の二村庄については、このあたりにしておいて、次に飯野・東二瓦礫遺跡の中世の建物群を見ていくことにします。
この遺跡には13世紀から複数の建物群が現れます。それが14世紀前葉には方形区画溝に囲まれた屋敷地へと集約されていきます。方形の屋敷地は20m四方と小規模で、完新世段丘崖の縁辺に立地します。これは防御的な意味を伴うのかもものかもしれません。研究者が注目するのは、これら敷地の存続期間が、先ほど見た二村が親康領(泉涌寺領)とされた時期と重なることです。
⑱の川津元結木(もっといき)遺跡でも、方形区画溝に囲まれた13世紀代の屋敷地が出ています。
ここでは南北長は約55mと半町の規模の大きさです。㉒の藤高池遺跡では、飯野・東二瓦礫遺跡に近く、同時代の遺物か採集されていて、その関係がうかがえます。

  ⑦の鍋谷道場跡は、宇多津の浄土真宗本願寺派の西光寺の前身寺院とされます。
西光寺は、信長の石山本願寺攻めに対して、青銅700貫などの戦略物資を石山に運び入れたことで有名です。この時期から宇多津周辺には真宗門徒が組織化され、道場が姿を見せていたことになります。西光寺縁起によれば、承元元年(1207)に法然の讃岐配流の際に草庵を建立したのが始まりで、その後守護細川氏によって伽藍の整備や寺地等が寄進されたこと、それらが戦国期に焼亡し、その後、天文十八年(1549)本願寺證如の弟子進藤長兵衛け宣政(向専)によって再興されたと伝えられます。しかし、実際には向専によって創建されたものと研究者は考えています。
 宇多津が天文十年(1541)頃までに、阿波の篠原盛家の支配下に置かれると、永禄十年(1567)や元亀11年(1571)に篠原氏によって、西光寺への禁制が出されています。西讃地区の実質的な支配権を握った篠原氏から禁制を得ていると云うことは。それを認めさせるだけの勢力・経済力があったことになります。この周辺が真宗本願寺派の丸亀平野での勢力拠点だったことになります。


近世には、東二村として高松藩領となります。
寛永十七年(1640)の生駒領高覚帳で高二千二一二石余、寛永十九年(1642)の小物也は綿199匁3分・銀30匁t茶代)であった(高松領小物成帳)
以上、飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書に書かれた丸亀平野と土器川の概要や、遺跡周辺の歴史についての部分を見てきました。次回は、この遺跡の条里制地割から何がうかがえるかを見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「飯野・東二瓦礫遺跡調査報告書  2018年 香川県教育委員会」の「立地と環境3P」
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塩飽諸島の本島については何回も取り上げてきましたが、その周辺の島々についてはあまり触れていません。坂出市市史(近世上29P)を見ていると、瀬戸大橋沿いの坂出市に含まれる塩飽の島々が載せられていました。これをテキストにして、見ていくことにします。

櫃石・与島の製塩遺跡

 まず、塩飽諸島の一番北にある櫃石島です。
この島の頂上附近には、島の名前の由来とされる櫃岩があります。古代から磐座(いわくら)として、沖ゆく船の航海の安全などを祈る信仰対象となった石のようです。

櫃石 
櫃石島の磐座 櫃岩 (瀬戸大橋の真下)

瀬戸内海の島々に最初に定住したのは、製塩技術を持った「海民」たちでした。彼らが櫃石島周辺の島々の海岸で、製塩を始めます。櫃石島の大浦浜は、弥生時代の代表的な製塩遺跡です。

大浦浜遺跡
大浦浜遺跡(櫃石島)

瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。

製塩土器
製塩土器
これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。櫃石島には専業化した専門集団がいて、製塩拠点を構えていたことがうかがえます。この時期が
備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期で、その影響が塩飽諸島の南部や坂出の海岸部にも伝播してきます。これについては、坂出市史古代編が詳しく述べていますので省略します。
製塩土器分布 古墳時代前期
古墳時代前期の製塩土器出土遺跡の分布

 これらの製塩技術が渡来系の秦氏によって担われていたと考える研究者がいます
技能集団としての秦氏

備讃瀬戸の製塩と秦氏について、加藤謙吉著『秦氏とその民』は、次のように記します。


西日本の土器製塩の中心地である備讃瀬戸(岡山・香川両県の瀬戸内海地域)周辺の秦系集団の存在が注目される。備讃瀬戸では弥生時代から9世紀前半まで盛んに土器製塩が行われ、備讃Ⅵ式製塩土器の段階に遺跡数と生産量(とくに遺跡一単位当たりの生産量)が増加する傾向がみられる。大量生産された塩は、畿内諸地域の塩生産の減少にともない、中央に貢納されるようになったと推測されているが、備前・備中・讃岐の三ケ国は、古代の秦氏・秦人・秦入部・秦部の分布の顕著な地域である。備讃Ⅵ式土器の出現期は、秦氏と支配下集団の編成期とほぼ一致するので、備讃瀬戸でも、秦系の集団が塩の貢納に関与したとみるべきかもしれない。
 
秦氏分布図
秦氏の分布図(瀬戸内海では吉備と讃岐に多い)

秦氏は製塩技術をもって島嶼部にまず定着して、その後に海岸部から内陸部に展開するという形をとることが多いようです。
2 讃岐秦氏1
讃岐の秦氏一覧表
古代讃岐にも秦氏の痕跡が多く見られます。そのなかでも高松の田村神社を氏神とした秦氏は、香川郡の開発に大きな痕跡を残しています。また、阿野北平野や坂出方面へ塩田を拡大しつつ、岡上がりしていく様子がうかがえます。

坂出市の製塩遺跡分布図
坂出の製塩遺跡
どちらにしても、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族が、弥生時代には島嶼部に定着したことを押さえておきます。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り

 「海民」は、造船と操船技術に優れた技術を持ち、瀬戸内海や朝鮮半島南部とも活発な交易を行っていたことは、女木島の丸山古墳に葬られた半島製の金のネックレスをつけた人物からも推測できます。海民たちは、漁業と廻船業で生計を立て、古代から備讃瀬戸周辺を支配下に置きました。そして、時には東シナ海を越えて大陸方面にまで遠征していたこともあるようです。

大宰府に配流される菅公の乗る13世紀前期の準構造船(『北野天神緑起絵巻(承久本)』より) ©東京大学駒場図書館
太宰府流罪の菅原道真を載せた船(北野天満宮絵巻)
 島の名前の由来とされる櫃岩には、この下に藤原純友が各地の国府を襲って奪った財宝が隠されているという伝説が残されています。
そうすると櫃石島の「海民」たちも純友の組織する海賊(海の武士団)の編成下に入り、讃岐国府を襲ったのかも知れません。どちらにしても海の武士団として組織されるようになった海民たちは、中世になると備讃瀬戸に入ってくる船舶から通行料(関銭)をとるようになります。そのため海賊とも呼ばれました。
 しかし、一方では航海術に優れ「塩飽衆」と呼ばれて海上輸送にその力を発揮、塩飽は備讃瀬戸ハイウエーのサービスエリア兼ジャンクションとして機能するようになります。瀬戸内海を行き来する人とモノが行き交い、乗り継ぎ地点としても機能します。塩飽を拠点とする廻船業に、活躍する船乗り達がいろいろな史料に登場します。

中世の船 一遍上人絵図
一遍上人絵伝に出てくる中世の船

 こうして戦国時代になると、瀬戸内海に進出してきた信長・秀吉・家康などの中央権力は、塩飽衆のすぐれた航海技術や運送技術を、その配下に入れようとします。それがうかがえるのが塩飽勤番所に残された信長・秀吉・家康の朱印状です。これについては以前にお話ししました。櫃石島に話をもどします。

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白峯寺の東西の十三重石塔(向こう側が櫃石島の花崗岩製)

中世の櫃石島の触れておきたいのは、この島が当時最先端の石造物製造センターであったことです。
最初に見たように櫃石島の磐座の櫃石は花崗岩露頭でした。その花崗岩で作られているのが、白峰寺の十三重石塔などの石造物と研究者は指摘します。それでは櫃石島で石造物を制作した石工たちは、どこからやってきたのでしょうか。

 DSC03848白峰寺十三重塔
白峰寺の十三重石塔 左が花崗岩製で櫃石島製

 讃岐の花崗岩製石造物は、白峯寺と宇多津の寺院周辺にしかありません。ここからは櫃石島の石工集団が、白峰寺などの特定の寺院に石造物を提供するために新たに編成された集団であったと研究者は考えています。その契機になったのが、京都の有力者による白峯寺への造塔・造寺事業です。白峰寺は崇徳上皇慰霊の寺として、京都でも知名度を高めていました。そして中央の有力者や寄進を数多く受けるようになります。

白峯寺 讃岐石造物分布図

★が櫃石島系の花崗岩石造物の分布(白峰寺と宇多津のみに分布)
 そのために花崗岩の露頭があった櫃石島に、関西地域からさまざまな系統の石工が呼び寄せられて石工集団が形成されたと云うのです。

櫃石島の石工集団と白峰寺

その結果、それまでの讃岐の独自色とは、まったく異なるスタイルの花崗岩製石造物が櫃石島で作られ、白峰寺周辺に設置されたと研究者は考えています。
白峯寺 頓證寺灯籠 大水上神社類似
頓證寺殿の燈籠(花崗岩製で櫃石島製作)
ここでは、関西から新たな技術を持つ石工集団が櫃石島に定住し、白峯寺に石造物を提供するようになったことを押さえておきます。櫃石島は、中世には最新技術をもった石工集団の島でもあったことを押さえておきます。

芸予諸島を拠点とした村上水軍が、その地盤を奪われ陸上がりしたり、周防大島の一部に封じ込まれたりして、海での活躍の場をなくしていったのは以前にお話ししました。それに比べると、塩飽衆は戦国時代以来の廻船業を続けていける環境と特権を得ました。それが「人名制」ということになるのでしょう。

江戸時代の櫃石島は、6人の人名(旧加子)がいて、庄屋の孫左衛門(高二石六斗、庄屋給分一石一斗)が治めていました。年末詳の「新開畑高之儀二付返答」(塩飽勤番所所蔵)には次のように記されています。
「櫃石嶋新開畠九反四畝は宮本伝右衛門代々所持仕り罷かり有り候、此儀櫃石嶋百姓得心の上二にて私先祖開作仕り則ち下作人の者共より定麦二石七斗年々私方へ納所仕り来り候処、紛れ御座なく候」

意訳変換しておくと
「櫃石嶋の新開畠九反四畝は、宮本伝右衛門が代々所有する土地で、このことは櫃石嶋の百姓も承知しており、私たち先祖開作の際に、下作人の者たちから麦二石七斗を毎年私方へめることになっていたことに間違い有りません。

ここからは櫃石島が、宮本伝右衛門によって開かれ、その影響下にあったことが分かります。
 櫃石島の島の規模は、次のように記されています。
島回り一里五町(約4,6㎞)・東西五町半(約600m)・南北五町(500m)、
在所(住居部分)長三六間(約65m) 横21間(約38m)
島はほとんどが山地で、集落(在所)は島の東南部分にありました。
近世の櫃石島の人口・戸数・船数などを史料でみておきましょう。
1676(延宝四)幕府巡見の記録には、次のように記します。

田畑高合四拾六石工升五合、家数合三十九軒、人数合百九十二人
、舟数五艘」 (竹橋余筆別集)

1713(正徳三)年の「塩飽島諸訳手鑑」には
家数五七件、水主役十人、人数三百人、船数十九艘)

これを見ると約40年の間に、戸数や人口が大幅に増えていることが分かります。その背景には船数の5艘から19艘の大幅増加がうかがえます。これを別の史料で見ておきましょう。

江戸時代前半には、櫃石島も廻船業務に携わっていたようです。
1685(貞享二)年「船二而他国参り申し候者願書ひかへ帳」「他国行願留帳」には、次のような記事があります。
一 塩飽ひついし九左衛門舟、出羽国へ参り申す二付き加子参り申し候願さし上、八、九月比罷的帰り判消し申すべく候
丑二月三口        吹上 仁左衛門
                                八月十一日ニ罷り帰り中し候、
意訳変換しておくと
一 塩飽の櫃石九左衛門の舟が出羽国へ航海予定のために、加子(水夫)として参加する旨の届け出があった。八、九月頃には帰国予定とのことである。
丑二月三口        吹上  仁左衛門
                 8月11日に帰国したとの報告があった。

この文書は内容は、櫃石島の廻船に吹上村の水夫が乗船し、出羽国酒田へ行く願書です。
同じような内容のものが、1689(元禄二)だけで6件あります。乗り組んだ船の内訳は、九左衛門の船が3件、三右衛門船が2件、七左衛門船が1件、孫七船が1件です。ここからは最低でも櫃石島から4隻の船が日本海に出港していたことが分かります。
どうして、櫃石島の船に備中吹上村の水夫が乗りこんでいたのでしょうか?
河村瑞賢~西廻り航路を開拓したプロジェクトリーダー~:酒田市公式ウェブサイト

1673(寛文十二)年の河村瑞賢による西廻り航路整備によって大阪・江戸と酒田が航路が開かれます。
この際に河村瑞賢は幕府に次のように進言しています。

「北連の海路は鴛遠、潮汐の険悪はまた東海一帯の比にあらず、船艘すべから北海の風潮に習慣せる者を雇い募るべし、讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜等の処の船艘のごときは皆充用すべし、塩飽の船艘は特に完堅にして精好、他州に視るべきにあらず、その駕使郷民主た淳朴にして偽らず、よろしく特に多くを取るべし」(新井白石「奥羽海運記」)

意訳変換しておくと
「北前航路は迂遠で、潮汐の厳しさは東海の海とは比べようもない。使用する船は、総て北海の風潮に熟練した者を雇い入れること。具体的には讃州塩飽、直島、備前州日比浦、摂州伝法、河辺、脇浜などの船艘を充てるべきである。特に塩飽の船は丈夫で精密な作りで、他州の追随をゆるさない。その上、郷民たちも淳朴で偽りをしなし。よって(塩飽の船や水夫を)を特に多く採用すること」(新井白石「奥羽海運記」)

この建議にもとづいて、年貢米輸送の役目を主に命じられたのが塩飽の船乗りたち(塩飽衆)でした。こうして塩飽衆は、幕府年貢米(城米)の独占的輸送権を得ます。幕府からの指名を受けて塩飽船の需要は急増します。そのため船数の需要が多すぎて、水夫(加子)不足という事態が起きます。そこで塩飽船の船頭達は、周辺の下津井・味野・吹上、田ノ浦などの村々の港に、「水夫募集」を行ったようです。こうして塩飽船には、多くの備中の水夫達が乗りこむことになります。
櫃石島船への吹上村などからの乗船記録は、次の通りです。
1690(元禄 三)年  9件
1694(元禄 七)年  4件
1699(元禄十二)年 2件
1700(元禄十三)年 3件
1701(元禄十四)年  1件
1702(元禄十五)年  なし
これらの船の行き先は出羽国酒田や、越中や能代でした。ただ、この期間の出航数をみると次第に減少しています。この背景には、元禄年間(1688~1704)から正徳年間(1711~16)にかけて、塩飽廻船の海難が増加と、幕府の政策転換があったようです。この時期に、塩飽側は幕府に次のように訴えています。

「西国北国筋より江戸江相廻候御城米船積之儀、残らず塩飽船仰せ付けさせられ船相続仕り候処に近年は御米石高の内少分仰せ下させられ候、之れに依り塩飽の船持共過半明船に罷かり成り困窮に及び船相続罷かり成らぎる次第に減り嶋中の者至極迷惑仕り候」(塩飽勤番所所蔵文書)

意訳変換しておくと
「西国や北国筋から江戸への城米船の運行について、かつては総て塩飽船を指名されていました。ところが近年は運送米石高の内の一部だけの指名となりました。そのため塩飽船の半分は荷物のないまま運行することになり、困窮に陥り、操業が続けられなくなって、塩飽の者たちは、大変迷惑しています」(塩飽勤番所所蔵文書)

 塩飽の年寄り達は「塩飽廻船の城米船独占復活」を幕府に訴えています。しかし、「規制緩和」で「競争入札」し塩飽の独占体制を許さないというのが当時の幕府の方針ですから、受けいれられることはありません。こうして、18世紀になると、独占的な立場が崩れた塩飽廻船の苦境が始まることになります。
そんな中で、櫃石島のひとたちは、どんな道をたどったのでしょうか?
 それが、それまでは人名達が手を出さなかった漁業のようです。高松城下町での魚の需要が増加すると、坂出沖の金手などの漁場へ出て行くようになります。また、廻船製造技術を活かした船大工としての活動も活発化しいきます。それはまた別の機会に。

以上、櫃石島についてまとめておきます。
①弥生時代後期には、「海民」が櫃石島の大浦遺跡などに定着し、大規模な製塩をおこなっていた。
②中世になると海民たちは造船と操船に優れた技術を持ち、備讃瀬戸の通航権をにぎり海賊(海の武士)として活動を始めるようになった。
③また盤石「櫃石」は花崗岩で、畿内から送り込まれた石工集団が白峯寺の層塔などの石造物製作をこの島で行った。
④櫃石島の廻船業は近世になっても続き、幕府の城米船として活動する船が元禄時代には数隻以上いたことが記録から分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献      江戸時代初期の櫃石島  坂出市市史(近世上29P)
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かつて「弥生期=ため池出現説」が出されたことがありました。讃岐において、これを積極的に展開したのが香川清美氏の「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)でした。香川氏は弥生式遺跡とため池の立地、さらに降雨時の洪水路線がどのように結びついているかの調査から、丸亀平野における初期稲作農耕がため池水利へと発展した過程を仮説として次のように提唱しました。まず第一段階として、昭和27年7月の3回の洪水を調査し、丸亀平野の洪水路線を明らかにします。この洪水路線と弥生式遺跡の立地、ため池の配置を示します。

丸亀平野の水系

 ここから次のようなことを指摘します
①弥生遺跡は、洪水路線に隣接する微高地に立地
②ため池も洪水路線に沿って連なっている
③ため池は「うら成りひょうたん」のように鈴成りになっており、洪水の氾濫が収束されて最後に残る水溜りの位置にある。
④これらのため池は、築造技術からみると最も原始的な型のもので、稲作農耕初期に取水のための「しがらみ堰」として構築されたもので、それが堤防へと成長し、ため池になったものと推測できる。
⑤水みちにあたる土地の窪みを巧みに利用した、初期ため池が弥生時代末期には現れていた。
この上で次のように述べます。
 日本での池溝かんがい農業の発生が、いつどのような形で存在したかは、まだ充分な研究がなされておらず不明の点が多い.いまここで断定的な表現をすることは危険であろうが、稲作がほぼ全域に伝播した①弥生の末期には、さきに述べたような初期池溝かんがい農業が存在し、その生産力を基盤にして古墳時代を迎え、その後の②条里制開拓による急激な耕地の拡張に対応して、③本格的な池溝かんがいの時代に入ったと考えられる.このことは、④中期古墳の築造技術とため池堤防の築造技術の類似性からも推察されることである。あの壮大な古墳築造に要した労働力の集中や、石室に施された精巧な治水技術からみて、中期古墳時代以降では、かなりの規模のため池が築造されていたと考えられる。

要点しておくと
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
讃岐のため池(四国新聞社編集局 等著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

以上を受けて『讃岐のため池』第一編は、丸亀平野の山麓ため池と古代遺跡の関係を次のように記します。

  丸亀平野の西端に連なる磨臼山・大麻山・我拝師山・天霧山の山麓丘陵地帯は、平形鋼剣・銅鐸の出土をはじめ、多くの弥生遺跡が確認されている。その分布と密度からこの一帯は、讃岐でも有数の弥生文化の隆盛地と考えられる。(中略)同時に磨臼山の遠藤塚を中心に、讃岐でも有数の古墳の集積地である。この一帯の山麓台地で耕地開発とため池水利の発生があった

 1970年代に『讃岐のため池』で説かれた「弥生期=ため池出現説」は、現在の考古学からは否定されているようです。
どんな材料をもとに、どんな立論で否定するのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
 最初に丸亀平野の稲作は、どのような地形で、どのような方法ではじまったかを見ておきましょう。
丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割 四角部分が対象エリア

 丸亀平野でも高速道路やバイパスなどの遺跡発掘が大規模に進む中で、いろいろなことが分かってくるようになりました。例えば初期稲作は、平地で自然の水がえやすいところではじめられています。それは土器川や金倉川・大束川・弘田川など作りだした扇状地地形の末端部です。そこには地下水が必ずといっていいほど湧き出す出水があります。この出水は、稲作には便利だったようで、初期の弥生集落が出現するのは、このような出水の近くです。灌漑用水は見当たりません。
旧練兵場遺跡群周辺の遺跡
善通寺旧練兵場遺跡

 また、善通寺の旧練兵場遺跡などは、微高地と微高地の上に集落が建ち並び、その背後の後背湿地が水田とされています。後背湿地は、人の力で水を引き込まなくても、水田化することができます。静岡の登呂遺跡も、このような後背湿地の水に恵まれたところに作られた水田跡だったようです。そのため田下駄などがないと底なし沼のように、泥の中に飲み込まれてしまいそうになったのでしょう。
登呂遺跡は当初は灌漑施設があったとされていましたが、それが今では見直されているようです。
登呂遺跡の場合、水田のまわりに木製の矢板がうちこまれ、水田と水田とのあいだは、あたかも水路のように見えます。そのため発掘当初は、人工的に水をひき、灌漑したものとされました。しかし、この矢板は、湿地帯につくられた水田に泥を帯りあげ、そのくずれるのを防ぐためのものだったというのが今では一般的です。矢板と水路状の遺物は、人工的な瀧漑が行なわれていたことを立証できるものではないというのです。そうすると、弥生期の稲作は、灌漑をともなわない湿地での水稲栽培という性格にとどまることになります。

『讃岐のため池』の次の主張を、現在の考古学者たちがどう考えているかを簡単に押さえておきます。
①弥生末期には初期灌漑農業が存在したこと
②条里制開拓期に急激な耕地面積の拡大があったこと
③律令時代の耕地面積の拡大に対応するために本格的な灌漑の時代に入ったこと
④中期古墳の築造技術はため池堤防に転用できることから、古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。

②については、かつては条里制は短期間に一気に工事が推し進められたと考えられていました。
そのために、急激な耕地面積の拡大や用水路の整備が行われたとされました。しかし、発掘調査から分かったことは、丸亀平野全体で一斉に条里制工事が行われたわけではないことです。丸亀平野の古代条里制の進捗率は40%程度で、土器川や金倉川の氾濫原に至っては近代になって開墾された所もあることは以前にお話ししました。つまり「条里制工事による急速な耕地面積の拡大」は、発掘調査から裏付けられません。 
 ③の「灌漑水路の整備・発展」についても見ておきましょう。
丸亀平野の高速・バイパス上のどの遺跡でも、条里制施行期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小川や出水などの小さな水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものばかりです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。 「大規模な溝(用水路)」が丸亀平野に登場するのは平安末期なのです。
   ここからは古代の満濃池についても、もう一度見直す必要がありそうです。
大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」とされますが「大きな溝」が出現しない限りは、満濃池の水を下流に送ることはできなかったはずです。存在したとしても古代の満濃池は近世のものと比べると遙かに小形で、現在の高速道路付近までは水を供給することはできなかったということになります。
   
④中期古墳の築造技術は、ため池堤防に転用できることから古墳時代後期にはかなりの規模のため池が築造されていたこと。
 これについてもあくまで推測で、古代に遡るため池は丸亀平野では発見されていません。また丸亀平野の皿池や谷頭池などもほどんどが近世になって築造されたものであることが分かっています。「古墳時代後期にかなり規模のため池が築造」というのは、非現実的なようです。
高速道路・バイパス上の遺跡からは、江戸時代になって新たに掘られて水路はほとんど見つかっていません。
その理由は条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になっています。つまり従来の地割に、付け加えられるような形で整備されたことになります。これが現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。
丸亀平野の灌漑・ため逝け

 以上をまとめておきます。
①丸亀平野の初期稲作集落は、扇状地上の出水周辺に成立しており、潅漑施設は見られない。
②善通寺王国の首都とされる旧練兵場遺跡には、上流の2つの出水からの水路跡が見られ、灌漑施設が見られる。しかし、ため池や大規模な用水路は見られない。
③古墳時代も用水路は弥生時代に引き続いて貧弱なもので、大量の用水を流せるものではなく、上流の出水からの用水程度のものである。
④律令国家の条里制も一度に行われたものではなく「飛躍的な耕地面積の拡大」は見られない。
⑤用水路も弥生時代と比べて、大規模化したした兆候は見えない。用水路の飛躍的な発展は平安末期になってからである。
⑤ため池からの導水が新たに行われたことをしめす溝跡は見当たらない。
⑥新たに大規模な用水路が現れるのは近世以後で、満濃池などのため池群の整備との関連が考えられる。
⑦この際に新たに掘られた用水路も、既にある用水路の大型化で対応し、条里制遺構を大きく変えるものではなかった。
以上からは「弥生期=ため池出現説」は、考古学的には考えられない仮説である。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    香川清美「讃岐における連合水系の展開」(四国農業試験場報告8)。
  『讃岐のため池』
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」

       幕末の農民4
幕末・明治の農民(横浜で売られていた外国人向け絵はがき)
江戸時代の讃岐の農民が、どんなものを着ていたのかを描いた絵図や文書は、あまり見たことがありません。
祭りや葬式など冠婚葬祭の時の服装は、記録として残されたりしていますが、日常に着ていたものは記録には残りにくいようです。そんな中で、大庄屋十河家文書の中には、農民が持っていた衣類が分かる記述があります。それは農民から出された「盗品被害一覧」です。ここには農民が盗まれたものが書き出されています。それを見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」に出てくる法勲寺十河家の文書です。(意訳)
一筆啓上仕り候
鵜足郡西坂元村 百姓嘉左衛門
先日十八日の朝、起きてみると居宅の裏口戸が壱尺(30㎝)四方焼け抜けていました。不審に思って、家の内を調べて見ると、次のものがなくなっていました。
一、脇指      壱腰 但し軸朱塗り、格など相覚え申さず候
一、木綿女袷(あわせ) 壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞、裏浅黄
一、男単物 (ひとえ) 壱ツ 但し紺と紅色との竪縞
一、女単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、男単物    壱ツ 但し紺と浅黄との竪縞
一、女帯      壱筋 但し黒と白との昼夜(黒と白が裏表になった丸帯の半分の幅の帯)
一、小倉男帯  壱筋 但し黒
一、縞木綿    弐端 但し浅黄と白との碁盤縞
一、木綿      壱端 但し浅黄と白との障子越
一、切木綿    八尺ばかり 但し右同断
一、木綿四布風呂敷 但し地紺、粂の紋付
合計十一品
以上の物品は、盗み取られたと思われますが、いろいろと調べても、何の手掛りもありません。つきましては、嘉左衛門から申し出がありましたので、この件について御注進(ご報告)する次第です。以上。
弘化四年(1847) 4月23日           
           西坂元村(庄屋) 真鍋喜三太
西坂本村の百姓嘉左衛門の盗難届けを受けて、同村庄屋の真鍋喜三太がしたためた文書です。盗難に遭う家ですから「盗まれるものがある中農以上の家」と推測できます。最初の盗品名が「脇指」とあるが、それを裏付けます。ただ盗難品を見ると、脇差以外は、衣類ばかりです。そして、ほとんどが木綿で、絹製品はありません。また「単衣」とは、胴裏(どううら)や八掛(はっかけ)といった裏地が付かない着物のことで、質素なものです。また、「切木綿」のように端材もあります。自分たちで、着物を仕立てていたようです。

幕末の農民
幕末の農民
 こうして見ると、素材は木綿ばかりで絹などの高価な着物はありません。このあたりに、農民の慎ましい生活がうかがえます。しかし、盗品のお上への届けですから、その中に農民が着てはならないとされていた絹が入っていたら、「お叱り」を受けることになります。あっても、ここには書かなかったということも考えられます。それほど幕末の讃岐の百姓達の経済力は高まっていたようです。

幕末の農民5
幕末・明治の農民

 江戸時代には新品の着物を「既製服」として売っているところはありませんでした。
「呉服屋」や木綿・麻の織物を扱う「太物(ふともの)屋」で新品の反物を買って、仕立屋で仕立てるということになります。着物は高価な物で、武士でも新しく仕立卸の着物を着ることは、生涯の中でも何度もなかったようです。つまり、新品の着物は庶民が買えるものではなかったのです。
江戸時代の古着屋
古着屋
 町屋の裕福な人達が飽きた着物を古着屋に売ります。
その古着を「古着屋」や「古着行商」から庶民は買っていたのです。ましてや、農民達は、新しい着物を買うことなど出来るはずがありません。古着しか手が出なかったのです。そのため江戸時代には古着の大きなマーケットが形成されていました。例えば、北前船の主な積荷の一つが「古着」でした。古着は大坂で積み込まれ、日本海の各地に大量に運ばれていました。

江戸時代の古着屋2
幕末の古着屋

江戸や大坂には「古着屋・仲買・古着仕立て屋」など2000軒を越える古着屋があったようで、古着屋の中でも、クラスがいくつにもわかれていました。だから盗品の古着にも流通ルートがあり、「商品」として流通できるので着物泥棒が現れるのです。

古着屋2
古着屋 
古着は何十年にもわたって、いろいろな用途に使い廻されます。
  古着を買ったら、大事に大事に使います。何度も洗い張りして、仕立て直し。さらには子ども用の着物にリメイクして、ボロボロになっても捨てずに、赤ちゃんのおしめにします。その後は、雑巾や下駄の鼻緒にして、「布」を最後まで使い切りました。農村では貧しさのために古着も手に入らない家がありました。農作業の合間に自分で麻や木綿の着物を仕立てたり、着れる者を集めて古いものを仕立て直したりしたようです。

 江戸時代後半になると高松藩でも、「倹約令」が次のように出されています。
1741(寛保元)年に「倹素令」
1759(宝暦9)年に「奢侈戒め令」
1818(文政元)年に「節倹令」
その中の文政の倹約令を見ておきましょう。
高松藩の倹約令

高松藩の文政の倹約令

ここにはひな人形・鯉のぼり・盆燈籠・八朔の飾馬・婚礼祝い・盆踊りにいたるまで、「ハレの場」での華美・贅沢に具体的な規制がかけれていたことが分かります。また家屋に関しては「修理にとどめ、新築はまかりならぬ」とあります。これは神社や寺社にも適応されていました。「禁止令が出されているということは、取り締まる実態があったこと」になります。華美・贅沢ができる人達が出てきていたことがうかがえます。。ここでは江戸時代には、新しく家を新築することは原則的には禁止されていたということをここでは押さえて、次に進みます。

細川家住宅
  『細川家住宅』(さぬき市多和)18世紀中頃の富農の主屋
農民の家については、建て替えの時に申請が必要だったので、記録が残っています。
願い上げ奉る口上
一、家壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行四間半、藁葺き
右は私ども先祖より持ち来たりおり申し候所、柱など朽ち損じ、取り繕いでき難く候間、有り来たりの通り建てかえ申したく存じ奉り候。もっとも御時節柄にていささかも華美なる普請仕らず候間、何卒願いの通り相済み候様によろしく仰せ上られくださるべく候。この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月         鵜足郡西川津村百姓   長   吉
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
一、家壱軒   石据え(礎石) 2間梁に桁行4間半、藁葺き
この家は、私どもの先祖より受け継いできたものですが、柱などが朽ち果てて、修繕ができなくなりました。そこで「有り来たり(従来通の寸法・工法)」で建て替えを申請します。もっとも倹約奨励の時節柄ですので、華美な普請は行いません。何卒、願い出の通り承認いただける取り計らっていただけるよう、この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四来年二月        鵜足郡西川津村百姓   長吉
庄屋 高木伴助殿
西川津町(坂出市)の百姓長吉が庄屋へ提出した家の改築願いです。
「有り来たり(従来通の寸法・工法)」とあるので、建て替えの際には、従前と同じ大きさ・方法で建てなければならなかったことが分かります。柱は、掘っ立て柱でなく、石の上に据えるやり方ですが、家の大きさは2間×4間半=9坪の小さなものです。その内の半分は土間で、農作業に使われたと研究者は指摘します。現在の丸亀平野の農家の「田型」の家とは違っていたことが分かります。 「田型」の農家の主屋が現れるのは、明治以後になってからです。藩の規制がなくなって、自由に好きなように家が建てられるようになると、富農たちは争って地主の家を真似た屋敷造りを行うようになります。その第一歩が「田型」の主屋で、その次が、それに並ぶ納屋だったようです。

幕末になると裕福な農家は、主屋以外に納屋を建て始めます。 
弘化4(1847)年2月に 栗熊東村庄屋の清左衛門から納屋の改築願いが次のように出されています。
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き
右は近年作方相増し候所、手狭にて物置きさしつかえ迷惑仕り候間、居宅囲いの内へ右の通り取り建て申したく存じ奉り候。(中略)この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋高木伴助殿
  意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、納屋壱軒   石据え 構造は弐間梁 × 桁行三間で瓦葺き
近年に作物生産が増えて、手狭になって物置きなどに差し障りが出てくるようになりました。つきましては、居宅敷地内に、上記のような納屋を新たに建てることを申請します。(中略) この段願い上げ奉り候。以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡西川津村百姓 弁蔵
庄屋
「近年作方相増し」た西川津村の弁蔵が、庄屋の高木伴助に納屋新築を申請したものです。弁蔵は、砂糖黍や綿花などの商品作物の栽培を手がけ成功したのかも知れません。そして、商品作物栽培の進む中で没落し、土地を手放すようになった農民の土地を集積したとしておきましょう。その経済力を背景に、納屋建設を願いでたのでしょう。それを見ると、庄屋級の納屋で二間×五間の大きさです。一般農民の中にも次第に耕作規模を拡大し、新たに納屋を建てる「成り上がり」ものが出てきていることを押さえておきます。逆に言うと、それまでの農家は9坪ほどの小さな主屋だけで、納屋もなかったということになります。
 今では、讃岐の農家は主屋の周りに、納屋や離れなどのいくつもの棟が集まっています。しかし、江戸時代の農家は、主屋だけだったようです。納屋が姿を見せるようになるのは幕末になってからで、しかも新築には申請・許可が必要だったこと押さえておきます。
最後に、当時の富農の家を見ておきましょう。

細川家住宅32
重要文化財『細川家住宅』(さぬき市多和)
18世紀中頃(江戸時代)の農家の主屋です。屋根は茅葺で、下までふきおろしたツクダレ形式。 母屋、納屋、便所などが並んでいます。
母屋は梁行3間半(6,1m)×桁行6間(12,8m)の大きな主屋です。先ほど見た「鵜足郡西川津村百姓 長吉の家が「2間梁×桁行4間半、藁葺き」でしたから1.5倍程度の大きさになります。

細川家4
細川家内部
周囲の壁は柱を塗りこんだ大壁造りで、戸は片壁引戸、内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使ったチョウナ仕上げです。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれています。土座は中央にいろりがあり、座敷は竹座で北中央に仏壇があります。四国では最古の民家のひとつになるようです。

DSC00179まんのう町生間の藁葺き
戦後の藁葺き屋根の葺替え(まんのう町生間) 

 江戸時代の庄屋の家などは、いくつか残っていますが普通の農家の家が残っているのは、非常に珍しいことです。この家のもう少し小形モデルが、江戸時代の讃岐の農民の家で、納屋などもなかったことを押さえておきます。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


高松藩分限帳
髙松藩分限帳
髙松藩分限帳の中には、当時の庄屋や大庄屋の名前が数多く記されています。
法勲寺大庄屋十河家
分限帳に見える上法勲寺村の十河武兵衛(左から4番目)

  その中に鵜足郡南部の大庄屋を務めた法勲寺の十河家の当主の名前が見えます。十河家文書には、いろいろな文書が残されています。その中から農民生活が見えてくる文書を前回に引き続いて見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。
江戸時代の農民は自分の居住する村から移転することは許されていませんでした。
今で云う「移動・職業選択・営業・住居選択」の自由はなかったのです。藩にとっての収入源は、農民の納める年貢がほとんどでした。そのため労働力の移動を禁止して、農民が勝手に村外へ出てしまうことを許しませんでした。中世農奴の「経済外強制」とおなじで、領主の封建支配維持のためには、欠かせないことでした。
 しかし、江戸時代後半になり、貨幣経済が進むと農民層にも両極分解が進み、貧農の中には借金がかさみ、払えきれなくなって夜逃け同然に村を出て行く者が出てきます。江戸時代には、夜逃げは「出奔(しゅっぽん)」といって、それ自体犯罪行為でした。

一筆申し上げ候
鵜足郡上法軍寺村間人(もうと)義兵衛倅(せがれ)次郎蔵
右の者去る二月二十二日夜ふと宿元まかり出で、居り申さず候につき、 一郡共ならびに村方よりも所々相尋ね候えども行方相知れ申さず、もっとも平日内借など負い重なり、右払い方に行き当り、全く出奔仕り候義と存じ奉り候。そのほか村方何の引きもつれも御座無く候。この段御注進申し上げたく、かくの如くに御座候。以上。
           同郡同村庄屋         弥右衛門
弘化四(1847)年三月八日
    意訳変換しておくと
鵜足郡上法軍寺村の間人(もうと)義兵衛の倅(せがれ)次郎蔵について。この者は先月の2月22日夜に、家を出奔にして行方不明となりましたので、村方などが各所を訪ね探しましたが行方が分かりません。日頃から、借金を重ね支払いに追われていましたので、出奔に至った模様です。この者以外には、関係者はいません。この件について、御注進を申し上げます。

間人(もうと)というのは水呑百姓のことで、宿元というのは戸籍地のことです。上法軍寺村の間人義兵衛の子次郎蔵が出奔し、行方不明になったという上法勲寺村の庄屋からの報告です。
  次郎蔵の出奔事件は犯罪ですから、これだけでは終わりになりません。その続きがあります。
願い上げ奉る口上
一、私件次郎蔵義、去る二月出奔仕り候につき、その段お申し出で仕り候。右様不所存者につき以後何国に於て如何様の義しだし候程も計り難く存じ奉り候間、私共連判の一類共一同義絶仕りたく願い奉り候。右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくだされ候。この段願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人     倉 蔵 判
意訳変換しておくと
願い上げ奉る口上
一、私共の倅である次郎蔵について、先月二月に出奔したことについて、申し出いたしました。このことについては、行き先や所在地については、まったく分かりません。つきましては、連判で、次郎蔵との家族関係を義絶したいと願い出ます。このことについて役所へのおとり継ぎいただけるよう願い上げ奉り候。以上。
    弘化四年未三月
出奔人親 鵜足郡上法軍寺村間人   義兵衛 判
出奔人兄 同郡同村間人      倉蔵 判
庄屋      弥右衛門殿
父と兄からの親子兄弟の縁を切ることの願出が庄屋に出されています。それが、大庄屋の十河家に送付されて、それを書き写した後に高松藩の役所に意見書と共に送ったことが考えられます。
出奔した次郎蔵は親から義絶され、戸籍も剥奪されます。宿元が無くなった人間を無宿人と云いました。無宿人となった出奔人は農民としての年貢その他の負担からは逃れられますが、公的存在としては認められないことになります。そのため、どこへ行っても日陰の生き方をしなければならなくなります。
 次郎蔵の出身である間人という身分は、「農」の中の下層身分で、経済的には非常に厳しい状況に置かれた人達です。
中世ヨーロッパの都市は「都市の空気は、農奴を自由にさせる」と云われたように、農奴達は自由を求めて周辺の「自由都市」に流れ込んでいきます。幕末の讃岐では、その一つが金毘羅大権現の寺領や天領でした。天領は幕府や高松藩の目が行き届かず、ある意味では「無法地帯」「自由都市」のような様相を見せるようになります。当時の金毘羅大権現は、3万両をかけた金堂(現旭社)が完成に近づき、周辺の石段や石畳も整備が行われ、リニューアルが進行中でした。そこには、多くの労働力が必要で周辺部農村からの「出奔」者が流れ込んだことが史料からもうかがえます。金毘羅という「都市」の中に入ってしまえば、生活できる仕事はあったようです。こうして出奔者の数は、次第に増えることになります。
      
出奔は非合法でしたが、出稼ぎは合法的なものでした。
しかし、これにも厳しい規制があったようです。
願い奉る口上
一、私儀病身につき作方働き罷りなり申さず候。大坂ざこば材木屋藤兵衛と申し材木の商売仕り候者私従弟にて御座候につき、当巳の年(安永二年)より西(安永六年)暮まで五年の間逗留仕り、相応のかせぎ奉公仕りたく存じ奉り候間、願いの通り相済み候様、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二年巳四月      鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿
   意訳変換しておくと
一、私は病身のために農作業が出来なくなりました。大坂ざこば材木屋の藤兵衛で材木商売を営んでいる者が私の従弟にあたります。つきましては、当年(安永二年)より五年間、大坂に逗留し、かせぎ奉公(出稼ぎ)に出たいと思います。願いの通り認めて下さるように、よろしく仰せ上られ下さるべく候。願い上げ奉り候。以上。
安永二(1773)年巳四月     鵜足郡岡田下村間人   庄 太 郎
政所 専兵衛殿

岡田下村の貧農から庄屋への出稼ぎ申請です。病身で農業ができないので、出稼ぎにでたいと申し出ています。健常者には、出稼ぎは許されなかったようです。

江戸時代には「移動の自由」はないので、旅に出るには「大義名分」が必要でした。
「大義名分」のひとつが、「伊勢参り」や「四国巡礼」などの参拝でした。また「湯治」という手もあったようです。それを見ておきましょう。
願い奉る口上
一、私儀近年病身御座候につき、同郡上法軍寺村医者秀伊へ相頼み養生仕り候所、しかと御座無く候。この節有馬入湯しかるべき由に指図仕り候につき、三回りばかり湯治仕りたく存じ奉り候。もっとも留守のうち御用向きの義は蔵組頭与右衛門へ申し付け、間違いなく相勤めさせ申すべく候間、右願いの通り相済み候様よろしく仰せ上られくださるべく候。願い奉り候。以上。
安永二年巳 四月      .鵜足郡東小川村 政所     利八郎
    意訳変換しておくと
近年、私は病身気味で、上法軍寺村の医者秀伊について養生してきましたが、一向に回復しません。そこでこの度、有馬温泉に入湯するようにとの医師の勧めを受けました。つきましては、「三回り(30日)」ほど湯治にまいりたいと思います。留守中の御用向きについては、蔵組頭の与右衛門に申し付けましたので、間違いなく処理するはずです。なにとぞ以上の願出について口添えいただけるようにお願いいたします。以上。
安永二(1773)年巳 4月      .鵜足郡東小川村政所     利八郎

東小川村政所(庄屋)の利八郎が、病気静養の湯治のために有馬温泉へ行くことの承認申請願いです。期間は三回り(30日)となっています。利八郎の願出には、次のような医者の診断書もつけられています。
一札の事
一、鵜足郡東小川村政所利八郎様病身につき、私療治仕り候処、この節有馬入湯相応仕るべき趣指図仕り候。以上。
安永二年巳四月        鵜足郡上法軍寺村医者     秀釧
ここからは、村役人である庄屋は、大政所(大庄屋)の十河家に申請し、高松藩の許可を得る必要があったことが分かります。もちろん、湯治や伊勢詣でにいけるのは、裕福な農民達に限られています。誰でもが行けたわけではなく、当時はみんなの憧れであったようです。それが明治になり「移動や旅行の自由」が認められると、一般の人々にも普及していきます。庄屋さん達がやっていた旅や巡礼を、豊かな農民たちが真似るようになります。
 有馬温泉以外にも、湯治に出かけた温泉としては城崎・道後・熊野など、次のような記録に残っています。(意訳)
  城崎温泉への湯治申請(意訳)
願い上げ奉り口上
一、私の倅(せがれ)の喜三太は近年、癌気(腹痛。腰痛)で苦しんでいます。西分村の医師養玄の下で治療していますが、(中略)この度、但州城崎(城崎温泉)で三回り(30日)ばかり入湯(湯治)させることになりました。……以上。
弘化四年 未二月         鵜足郡土器村咤景    近藤喜兵衛
    道後温泉への湯治申請

道後温泉からの帰着報告書 十河文書
 川原村組頭の磯八の道後温泉からの湯治帰還報告書(左側)
願い上げ奉る口上
一、私は近年になって病気に苦しんでいます。そこで、三回り(30日)ほど予州道後温泉での入湯(湯治)治療の許可をお願い申し上げました。これについて、二月二十八日に出発し、昨日の(3月)28日に帰国しまた。お聞き置きくだされたことと併せて報告しますので、仰せ上られくださるべく候。……以上。
弘化四未年二月          川原村組頭 磯八      
ここからは川原村の組頭が道後温泉に2月28日~3月28日まで湯治にいった帰国報告であることが分かります。行く前に、許可願を出して、帰国後にも帰着報告書と出しています。上の文書の一番左に日付と「磯八」の署名が見えます。また湯治期間は「三回り(1ヶ月)という基準があったことがうかがえます。

また、大政所の十河家当主は、各庄屋から送られてくる申請書や報告書を、写しとって保管していたことが分かります。庄屋の家に文書が残っているのは、このような「文書写し」が一般化していたことが背景にあるようです。

今度は熊野温泉への湯治申請です。
願い上げ奉る口上    (意訳)
私は近年病身となりましたので、紀州熊野本宮の温泉に三回り(30日)ほど、入湯(湯治)に行きたいと思います。行程については、5月25日に丸亀川口から便船がありますので、それに乗船して出船したいと思います。(後略)……以上。
弘化四(1848)年  五月     鵜足郡炭所東村百姓    助蔵 判
庄屋平田四郎右衛門殿
熊野本宮の温泉へ、丸亀から出船して行くという炭所東村百姓の願いです。乗船湊とされる「丸亀川口」というは、福島湛甫などが出来る以前の土器川河口の湊でした。
丸亀市東河口 元禄版
土器川河口の東河口(元禄10年城下絵図より)

新湛甫が出来るまでは、金毘羅への参拝船も「丸亀川口」に着船していたことは、以前にお話ししました。それが19世紀半ばになっても機能していたことがうかがえます。
 しかし、どうして熊野まで湯治に行くのでしょうか。熊野までは10日以上かかります。敢えて熊野温泉をめざすのは、「鵜足郡炭所東村百姓  助蔵」が熊野信者で、湯治を兼ねて「熊野詣」がしたかったのかもしれません。つまり、熊野詣と湯治を併せた旅行ということになります。
病気治療や湯治以外で、農民に許された旅行としては伊勢参りや四国遍路がありました。
願い上げ奉ろ口上
一、人数四人        鵜足郡炭所東村百姓 与五郎
       専丘衛
       舟丘衛
       安   蔵
右の者ども心願がありますので伊勢参宮に参拝することを願い出ます。行程は3月17日に丸亀川口からの便船で出港し、伊勢を目指し、来月13日頃には帰国予定です。この件についての許可をいただけるよう、よろしく仰せ上られるよう願い上げ奉り候。以上。
弘化四(1847)末年三月    同郡同村庄屋    平田四郎兵衛
炭所東村の百姓4人が伊勢参りをする申請書が庄屋の平田四郎兵衛から大庄屋に出されています。この承認を受けて、彼らも「丸亀川口」からの便船で出発しています。この時期には、福島湛甫や新堀港などの「新港」も姿を見せている時期です。そちらには、大型の金毘羅船が就航していたはずです。どうして新港を使用しないのでしょうか?
考えられるのは、地元の人間は大阪との行き来には、従来通りの「丸亀川口」港を利用していたのかもしれません。「金毘羅参拝客は、新港、地元民は丸亀川口」という棲み分け現象があったという説が考えられます。もう一点、気がつくのは、湯治や伊勢参りなども、旧暦2・3月が多いことです。これは農閑期で、冬の瀬戸内航路が実質的に閉鎖されていたことと関係があるようです。

大庄屋の十河家に残された文書からは、江戸時代末期の農民のさまざまな姿が見えてきます。今回はここまで。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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参考文献 「飯山町史330P 農民の生活」
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  江戸時代後期になると、賢い庄屋たちは記録を残すことの意味や重要性に気づいて、手元に届いた文書を書写して写しを残すようになります。その結果、庄屋だった家には、膨大な文書が近世史料として残ることになります。丸亀市飯山町法勲寺には、江戸時代に大政所(大庄屋)を務めた十河家があります。ここにも「十河家文書」が残され、飯山町史に紹介されています。今回は、その中から江戸時代の農民の生活が実感できる史料を見ていくことにします。テキストは「飯山町史330P 農民の生活」です。

もともとの鵜足郡(うたぐん)は、次のような構成でした。
 ①津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
 ②二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
 ③川津郷 – 川津
④坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
⑤小川郷 – 東小川・西小川
⑥井上郷 – 上法軍寺・下法軍寺・岡田
⑦栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
⑧長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦

これを見て分かるのは、江戸時代の⑧の長尾郷は鵜足郡に属していたことです。近代になって仲多度郡に属するようになり、現在ではまんのう町に属するようになっています。しかし、江戸時代には鵜足郡に属していました。そのため長尾郷の村々の庄屋は、鵜足郡の大庄屋の管轄下にあったことを押さえていきます。十河家文書の中に、長尾郷の村々が登場するのは、そんな背景があります。

讃岐古代郡郷地図 西讃
西讃の郷名
近世の村を考える場合に、庄屋を今の町村長に当てはめて考えがちです。しかし、庄屋と町長は大分ちがいます。今の町長は、町民のかわりに税金を払ってはくれませんが、江戸時代の庄屋は村民が年貢を納められない時はかわって納める義務がありました。また庄屋は、今の警察署長の役目も負っていました。例えば、村には所蔵(ところぐら:郷蔵)という蔵があったことは以前にお話ししました。
高松藩領では、村々の年貢は村の所蔵に納め、それから宇多津の藩の御蔵へ運ばれました。所蔵には、年貢の保管庫以外にも使用用途がありますた。それは警察署長としての庄屋が犯罪者や問題を起こした人間を入れておく留置場でもあったのです。どんなことをしたら、所蔵
に入れられたのでしょうか。十河文書の一つを見てみましょう。
一筆啓上仕り候。然らば去る十九日夜栗熊東村にて口論掛合いの由にて、当村百姓金蔵・八百蔵両人今朝所蔵へ入れ置き候様御役所より申し越しにつき、早速入れ置き申し候間、番人など付け置き御座候。
弘化四年 二月十二日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
     意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候。先日の2月19日夜、栗熊東村で口論の末に喧嘩を起こした当村の百姓・金蔵と八百蔵の両人について、今朝、所蔵(郷倉)へ入れるようにとの指示を役所より受けました。つきましては、指示通りに、両名を早速に収容し、番人を配置しました。
弘化四(1947)年2月22日      栗熊村庄屋 三井弥一郎
東栗熊村の庄屋からの報告書です。19日夜に百姓が喧嘩騒動を起こしたので、それを法勲寺の大庄屋十河家に報告したのでしょう。その指示が通りに所蔵へ入れたという報告書です。時系列で見ると
①19日夜 喧嘩騒動
②20日、 栗熊村庄屋から法勲寺の大庄屋への報告
③22日朝、大庄屋からの「所蔵へ入れ置き」指示
④22日、 栗熊村庄屋の実施報告
と、短期間に何度もの文書往来を経ながら「入れ置き(入牢)」が行われていることが分かります。村の庄屋は、大庄屋に報告して判断を仰がなければならない存在だったことが分かります。

次は村で起きた「密通・不義」事件への対応です。
 一筆申し上げ候
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
右の者共内縁ひきもつれの義につき、右庄次郎後家より申し出の次第もこれあり、双方共不届きの始末に相聞え候につき、まず所蔵へ禁足申しつけ、番人付け置き御座候。なお委細の義は組頭指し出し申し候間、お聞き取りくださるべく候。右申し上げたくかくの如くに御座候。
(弘化四年)七月三日      栗熊東村庄屋 清左衛門
意訳変換しておくと
当村百姓 藤 吉
同     庄次郎後家
上記の両者は、「内縁ひきもつ(不義密通)と、庄次郎後家より訴えがあり、調査の結果、不届きな行いがあったことが分かりました。そこで、両者に所蔵禁足に申しつけ、番人を配置しました。なお子細については、組頭に口頭で報告させますので、お聞き取りくだい。以上。
弘化四(1847)年7月3日      栗熊東村庄屋 清左衛門

今度は、栗熊東村からの「不義密通」事件の報告です。事実のようなので、両者を所蔵(郷倉)に入れて禁足状態にしているとあります。大庄屋の措置は分かりません。ここからは、所蔵が村の留置場として使われていたことが分かります。
それでは所蔵は、どんな建物だったのでしょうか?
所蔵の改築願いの記録も、十河家文書の中には次のように残されています。
一 所蔵一軒   石据え
  但し弐間梁に桁行三間、瓦葺き、前壱間下(げ)付き、
一、算用所壱軒    石据え
  但し壱丈四方、一真葺き
右は近年虫入に相成、朽木取繕い出来難く、もっとも所蔵はこれまで藁葺き。桁行三間半にて御座候ところ、半間取縮め、右の通りに建てかえ申したく存じ奉り候。御時節柄につき随分手軽に普請仕りたく存じ奉り候。別紙積り帳相添え、さし出し申し候間、この段相済み候様仰せ上られくださるべく候。願い上げ奉り候。以上。
弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿
  意訳変換しておくと
所蔵と算用所の建て替えの件について
この建物は近年、白蟻が入って朽木となって修繕ができない状態となっています。所蔵は、これまで藁葺きで、桁行三間半でしたが、半間ほど小さくして、右の規模で建て替え建てを計画しています。倹約の時節柄ですおで、できるだけ費用をかけずに普請したいと考えています。別紙の通り見積もり書を添えて、提出いたしますので、御覧いただき検討をお願いいたします。
   弘化四末年二月      鵜足郡岡田東村 百姓惣代 惣   吉判
(庄屋)土岐久馬三郎殿

岡田東村からの所蔵の改築申請書です。ここからは。いままでは藁ぶきの「二間×三間半」だったのが、弘化四(1847)年の建替時に、瓦葺きで二間×三間に減築されたことが分かります。「石据え」というのは、柱が石の上に立てられていたこと、「前壱間下付き」というのは、所蔵の建物の表に、 一間の下(ひさしのように出して柱で受け、時には壁までつけた附属構造)が出ていたことです。この下の一間四方分は「番小屋」については、次のように別記されています。

前壱間下(げ)付きにて、右下の内壱間四方の間番小屋に仕り候積り。

ここからは下(げ)の下は、一間四方の間番小屋として使っていたことが分かります。 

 所蔵(郷倉)は、一村に一か所ずつありました。
所蔵が年貢米の一時収納所でもあり、留置場でもあったことは今見てきたとおりです。そのため地蔵(じくら)とか郷牢(ごうろう)とも呼ばれていたようです。
吉野上村(現まんのう町)の郷倉については、吉野小学校沿革史に次のように記されています。(意訳)
吉野上村郷倉平面図
吉野上村の郷倉
 明治7年(吉野)本村字大坂1278番地の建物は、江戸時代の郷倉である。その敷地は八畝四歩、建物は北から西に規矩の形に並んでいる。西の一軒は東向きで、瓦葺で、桁行四間半、梁間二間半、前に半間の下(げ)付である。その北に壁を接して瓦葺の一室がある。桁行三間、梁間二間で、東北に縁がついている。その次は雪隠(便所)となっている。
北の一棟は草屋で、市に向って、桁行四間、梁間二間半、前に半間の下付である。西の二棟を修繕し、学校として使い、北の一棟を本村の政務を行う戸長役場としていた。
 世は明治を迎え文明開化の世となり、教育の進歩は早くなり、生徒数は増加するばかりで、従来の校舎では教室が狭くなった。そこで明治八年四月、西棟を三間継ぎ足して一時的な間に合わせの校舎とした。その際に併せて、庭内の東南隅に東向の二階一棟も新築した。これが本村交番所である。桁行四間、梁間二間半にして半間の下付の建物である。
   明治になって、所蔵(郷倉)の周囲に、学校や交番、そして役場が作られていったことがうかがえます。そういう意味では、江戸時代の所蔵が、明治の行政・文教センターとして引き継がれたとも云えそうです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史330P 農民の生活
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飯山国持居館2地図
    飯山町の飯山北土居遺跡 旧河道に囲まれた居館跡
以前に丸亀市の飯野山南麓の中世武士の居館跡を紹介しました。その時に、この辺りに戦時中に飛行場が建設されたことを知りました。しかし、その実態については分からないままでした。最近、飯山町史(485P)をながめていると、その飛行場のことが出ていましたので、読書ノート代わりに載せておきます。

 1945年春のアメリカ軍が沖縄への上陸作戦を開始する前後の4月末のことです。
坂本村役場の職員が坂出で開かれ た事務打合会に出席した際に、会が終わっても居残るようにと伝えられます。そして、軍関係者より次のような内司を受けます。

「近々貴村に軍の機密施設を造るから、取り急ぎ牛馬車用荷車を80台準備するように」

 追いかけるようにして五月中旬になると、航空総軍司令部から陸軍飯野山飛行場建設命令が下ります。こうして施設部隊帥500部隊長の命により、坂本村隣保館(元坂本村公民館)に帥500部隊丸亀工事隊本部が設置され、5月18日には工事に着工します。その際に、西坂元字国持・山の越・西沖・大字川原字上居の4地区に対して、次のような命令が下されます。

「この地域内にある水田は、麦(未熟)を刈り取り、指示された家屋は全部こわして立ち退くこと」

飛行場予定地の水田の麦を青田刈りして、家屋を壊して立ち退けというのです。以後、昼夜を問わない突貫工事が始まります。
飯野山飛行場は、どこに建設されたのでしょうか
 飯山町史には、次のように記されています。

現在の県道18号線(善通寺‐府中)沿いに、東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞、幅は約100m規模。西の山根東地区では、北側ににごり池があるので、これを避けてその南側にあった。その面積は、約21町6反歩余りにもなる。

この記述に基づいて研究者は次のような位置を考えているようです。

飯山飛行場2
飯野山飛行場の位置
(東は川原土居から、西は山根東までの全長約1,5㎞)
作業手順について、飯山町史は次のように記します。
①まず地域内の全水田の麦の刈り取り(穂は未熟)を行い、立ち退き家屋の解体作業ならびにその用材および瓦の取り片付け、移転先ヘの運搬
②地域内の小川や水路には、飯野山と土器川河岸から切り取った松の丸太を持ち帰り、これを小川や溝に渡してその上に上を敷きつめ、飛行場の原型づくり。
③平坦化した地面に飯野山の山土や、周辺の水田から掘り取った土を積み重ねて敷きつめる。当時の上運搬は「もっこ」をかつぎ、「じょうれん」で運ぶ。人力だけが頼りのたいへんな作業であった。
④土器川から砂や小石を運び、これを拡散して固め、地面を水平固定化。
⑤ 完成した所から敵機の来襲に備え、擬装工作作業として松・かし・くぬぎ等の雑木の小枝を等間隔に挿し木。
以上からは、飛行場建設のために水路が埋められ、田んぼに土器川から運ばれた石が敷き詰められたことが分かります。それは「もっこ」による人力作戦で行われています。ちなみに戦後に行われた水田復元の際には、これらの石が農民達によって取り除かなければなりませんでした。
飯野山飛行場建設のために動員されたのは、どんな人達だったのでしょうか。
①5月19日、陸軍施設部隊一個大隊約500人が到着。
②5月20日、学生勤労奉仕隊到着。
高松中学校291人
三豊中学校153人
坂出工業学校203人
尽誠中学校202人
丸亀中学169人
飯山農業学校300人 
合計1318人を動員。
ここからは、未だ動員されていなかった高松・中讃・三豊の旧制中学の学生達が動員されたことが分かります。高松や三豊の遠方の学生達は付近の学校・公民館・民家等に宿泊し作業に当たったようです。

③5月21日から稜歌・仲多度郡内の一般勤労奉仕隊員約100人を動員。
①②③の合計は「500人 + 1318人 + 100人=約2000人足らず」になります。

6月1日付けで坂本村長協正と役場吏員近藤政義に、次のような辞令が交付されます。

飯山飛行場
飯野山飛行場の工事隊事務嘱託状(飯山町史)
坂 本 村     近藤政義
航空総軍丸亀工事隊事務を嘱託す
昭和二十年六月一日
航空総軍丸亀工事隊本部隊長
陸軍嘱託 横山幹太
⑤6月中旬、三豊郡・仲多度部・綾歌郡内の牛馬車用奉仕隊約80台を動員して土砂運搬および飛行場の権地作業にあたる。
⑥7月中旬、航空隊幹部が現地視察に来て、工事遅延を見て、軍刀を抜かんばかりに激怒して帰る。
以上からは、7、8月の真夏の炎天下に、中学生達の学徒を動員して突貫工事で行われたことが分かります。しかし、完成前に終戦を迎えます。
 飯野山飛行場の施設内訳を見ておきましょう。
1、滑走路総面積 21町六反歩
2、附属施設
格納庫一棟 東坂元三の池、滝房吉所有田
格納庫一棟   西坂元高柳、松永博俊所有田
兵舎一棟    東坂元秋常、高木真一所有田
調理室浴場 東坂元秋常、新池所有山林内
3、家屋の立ち退きを命ぜられた者
(土居)鶴岡森次、平日常三郎、平田利八、平田金八、山口善平、平田平太郎、泉久大、抜井嘉平大、平田イトヱ、沢井一、本条直次、宮井宗義、平田トワ、抜井勝義
 (山の越)東原昌彦
(国持) 金丸弘、村山ワキ、       以上17戸
以上の17戸が家屋を解体され、立ち退かされたことが分かります。
その後、戦後の食糧生産増産運動の中で、滑走路や関連施設などの合計25町歩余は、農家が田畑に復旧します。また、取り壊された家屋は、家族や地区人達の手伝で再建され、1948(昭和23)年末ごろまでには復旧したようです。

飛行場建設部隊の宿舎となった法勲寺国民学校には、この時の記録が残されていますので、長くなりますが紹介しておきます。
陸軍飯野山飛行場の設置について、昭和20年5月航空総軍丸亀工事隊長から、当時の平尾安徳村長に次のように言い渡された。

「近く空第五百七十一部隊五百名を飛行場施設のため貴村へ派遣するので、国民学校等を宿舎として借りたいから五月末までに準備するように」

村長は、学校長・職員と打合せて、児童疎開計画をたて、疎開先の交渉にあたり六月一日、以下のように決定した。
一年生二組 島田寺
二年生二組 原川十三堂
高等科二組 長郷庵
三年生二組 校内での教室移動
六月一日 飛行場予定地で起工式を行い、村長が出席。
六月三日 夜緊急常会長会を開催し、「国民学校を宿舎にするので、蚊帳・釜等借りたいから協力をお願いする」と連絡。
六月四日 空第五百七十一部隊先発隊が来村し、学校内を見てまわり、下のように決定。
講堂と八教室を宿舎と医務室。
理科室を炊事場
倉庫を物資収納庫
授産場を本部と隊長室
駐在所を主計室と下士官集会場(当時巡査は単身赴任で役場二階へ移る)
裁縫室を将校集会場。
役場の倉庫の一部に仮営倉。
八坂神社の神事場を物干場。
六月五日 役場職員と兵隊が手分けして、釜・炊事用具・蚊帳の借入のため村内巡回。
郡町村長会で依頼した蚊帳が、周辺の八か村から次のように届いた。
美合村 4  造田村 12  長炭村 4  宇多津町 4  坂本村  4  羽床上村  4  川津村 4 法勲寺村 蚊帳 18  釜10 炊事用生屯 1 庖丁5 杓子1 その他の用具は学校のものを使用する。

風呂は村内の大工を雇って、ドラムカン五ケを大足川の土手(牛のつめきり場)にすえ、蓋や流しなどを作った。兵士達はこれを「列車風呂」と呼んでいた。上法岡の池へ水浴に行くことを交渉して決める。風呂が出来るまで、西の山・中の坪の家庭の風呂を利用した。ドラムカンの風呂沸しは、学校の上学年の児童が奉仕する日もあった。
水は逆川の水を利用した。飲料水は学校の井戸水では足らないので、西の山の新居久市(現恵)宅から、管を引いて補給した。
将校用宿舎は村内で、吉馴秀雄(現秀則)宅外四戸間借する。
午后になって、軍隊用物資がトラックで、運ばれて来た。
六月六日 松木場隊五百人が来村し、各々宿舎についた。
松木場隊長が学校内で挨拶の時、当時青年学校の教練教師をしていた川井の吉本晴一と逢い、吉本が初年兵の時の教官であった隊長と十年振りの出会となり、それが縁で村長と協議の上、隊の物資(炊事用)購入の交渉係として雇うこととなり、兵二人とその任にあたった。
下士官以下は、特別幹部候補生と志願兵が多く、九州出身者が大半であった。
翌日の六月七日から兵は飛行場へ作業に行く。朝食後に運動場に集り、軍歌を歌いながら持ち場に行進していった。戦時下とはいえ静かな農村が急に軍人の村と化していった。朝は起床ラッパに起こされ、軍靴の音高く軍歌の声を朝夕に聞き、村人達は遥か戦場の父を、夫を我が子を偲び、涙あらたなものがあったと思われる。
暑さの中一日の重労働に空腹を我慢して(飯盒八分目位入ったのが二人分の昼食)の毎日で、日を重ねるにつれて元気がなく足も重かったようであった。
六月十六日 隊と役場合同で、餅揚きをして二個づつ渡す。
  十七日 将校達幹部を招き、村会議員と役場職員で歓迎会を開き、日頃の労をねぎらった。
二十三日 一宮村青年団が慰間に見え、講堂で演劇・歌を発表し隊から飛入りもあって、賑かな夕であった。
七月十八日 松木場隊長司令部付となり、松山市へ転属、
 二十三日 宇佐見隊長着任したが、二十九日兵ともに屋島へ転属した。
  三十日 松原隊となり、高知部隊から召集兵と思われる年輩の者ばかりが来村した。
隊はかわっても、連日の作業は変りなく続き終戦の日を迎えた。飛行場の完成も見ず、行くべき道も見当らず、ただ果然としながら、校舎の整備を終えて故郷へ帰って行った。転属した兵達も、今一度学校へと立寄り、「一言も兵を責め給はぬに生きて帰る不甲斐なさよ」と語って、父母のいる九州へ帰っていった。

当時、坂本国民学校(現飯山北小学校)の3年生だった鶴岡俊彦氏(後の食糧庁長官)は、後に次のように回想しています。

学校の運動場はいも畑に変わり、狭くなった。岡の宮でも松の幹に傷をつけ、傷口の下に空き缶を縛り付け松根湯を採るような時代であった。
県内勤労奉仕の生徒に学校を明け渡すため、私たちは村内の神社やお寺に分散して授業を受ける事とされた。三年生の私は久米氏の八幡様が教室で、机や椅子を運んだ。山の谷から高柳に通じる道路の北側から飯野山の麓まで滑走路となり、私の家を含め、近所の家十三軒が壊される事となった。レールが敷かれ、トロッコで砂利が運び込まれ、整地が進んだ。資材にするために飯野山の松が切り取られたが、今もその跡が鉢巻き状に残っている。
夏になり、順番に家の取り壊しが行われた。私の家の取り壊しは最後で、八月十四日、十五日、正に終戦の日であった。近所の人や父が勤めていた栗熊学校(現栗熊小学校)の高等科の生徒が、大八車を引いて手伝いに来てくれた。終戦の玉音放送は、作業中で誰も聞くことができなかった。壊した木材を岡の宮の東側の引っ越し予定地へ運んだ帰り道、生徒たちから聞いて戦争が終わり負けたらしいことが判った。
 当時の私の目に大人びて見えた生徒達が口々に「放送はおかしい、負けるはずがない」「俺たちが居る。降参はしない」と声高に話すのが頼もしく見えた。午後二時頃、負けたことがはっきりした。取り壊し途中の我が家は一階部分の骨組みを残していたが、台風の心配もあり全部壊した。滑走路造りはその日で終わった。

ここからは飛行場内の最後の家屋取り壊しが終戦の8月15日であったことが分かります。そうしてみると空港は、まだ更地化が終了していない部分もあって、完成までにはほど遠かったことがうかがえます。

  軍は、この時期に各県毎いくつもの飛行場建設を命じています。
香川県で有名なのは林田飛行場(旧高松空港)や詫間海軍航空隊ですが、ほかにも端岡飛行場や屋島飛行場、観音寺柞田(くにた)飛行場が同時に建設されていました。

柞田飛行場
柞田飛行場(観音寺市)の絵本
「本土防衛・制空権奪還」というかけ声は勇ましいものがあります。しかし、飛行機も燃料も、飛行機を造る資材もないのに、軍部はどうして飛行場建設を命じたのでしょうか。軍部には「打ちてし止まぬ・一億総層玉砕」しかありません。そのためにも、空爆で都市が焼け野原になろうとも戦い抜く国民の戦意維持が必要でした。
 「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。軍部からすると一方的に空爆を受けたままで放置していたのでは、国民の戦意は消失する。米軍は、都市爆撃によって国民の戦意を失わせ、日本国内での戦争反対運動が起きるのを期待している。それを防ぐためには、戦意維持のために、なんらかの行動を起こさなければならない。今できることは何か? と考えた場合に、できるこては限られています。原材料が届かない戦略的工場はすでに操業停止状態です。また「戦略工場」には女子学徒たちが動員されていました。そんななかで考え出されたのが、未だ動員していない地方の中学生達を動員しての「本土防衛に備えての飛行場建設」だったようです。戦略的に考え出されたものではないのです。「戦意を失わせないために、モニュメント建設(飛行場)に動員しての戦意維持」という「いきあたりばったり戦略」が飛行場建設であり、そこへの旧制中学たちの動員だったと研究者は指摘します。以上をまとめておきます
①終戦直後に、飯野山南麓に軍部の命令で突如、飛行場建設が始まったこと
②そのために地元の人達の家が壊され、農地が接収されたこと
③そこに軍人達がやってきて小学校に寝泊まりし、多くの中学生が動員されたこと、
④それを地元の人達が支えたこと、
⑤しかし、飛行場建設は未完のままで、一機の飛行機も飛び立つことはなかったこと
⑥当時の日本には、飛行場が出来ても飛ばせる飛行機も、燃料も、パイロットもいなかったこと
⑦空港建設は戦意を維持するための、モニュメント建設でもあり、戦術的な意味はなかったこと
⑧戦後の食料増産運動の中で、飛行場は農地に戻され、撤去された農地も早期に復元したこと
⑨飛行場が現れたのは、昭和20年のわずかばかりの期間の「幻の飛行場」であったこと。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

法勲寺跡 讃岐国名勝図会
飯野山と讃留霊王神社・法勲寺跡(讃岐国名勝図会) 
神櫛王(讃留霊王)伝説の中には、讃岐の古代綾氏の大束川流域への勢力拡大の痕跡が隠されているのではないかという視点で何度か取り上げてきました。その文脈の中で、飯山町の法勲寺は「綾氏の氏寺」としてきました。果たして、そう言えるのかどうか、法勲寺について見ておくことにします。なお法勲寺の発掘調査は行われていません。今のところ「法勲寺村史(昭和31年)」よりも詳しい資料はないようです。テキストは「飯山町史 155P」です。

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ここには、法勲寺周辺の条里制について次のように記されています。
① 寺跡の規模は一町四方が想定するも、未発掘のため根拠は不明
② 寺域の主軸線は真北方向、その根拠は寺域内や周辺の田畑の方角が真北を向くものが多いため
③ 寺域東側には真北から西に30度振れた条里地割りがあるので、寺院建立後に、条里制が施行された
法勲寺条里制
法勲寺(丸亀市飯山町)周辺の条里制復元
②③については、30度傾いた条里制遺構の中に法勲寺跡周辺は、入っていないことが分かります。これは、7世紀末の丸亀平野の条里制開始よりも早い時期に、法勲寺建立が始まっていたとも考えられます。しかし、次のような異論もあります。

「西の讃留霊王神社が鎮座する低丘陵は真北方向に延びていて、条里制施行期には農地にはならなかった。そのため条里地割区に入らず、その後の後世に開墾された。そのため自然地形そのままの真北方向の地割りができた。

近年になって丸亀平野の条里制は、古代に一気に進められたものではなく、中世までの長い時間をかけて整備されていったものであると研究者は考えています。どちらにしても、城山の古代山城・南海道・条里制施行・郡衙・法勲寺は7世紀末の同時期に出現した物といえるようです。

法勲寺の伽藍配置は、どうなっていたのでしょうか? 

法勲寺跡の復元想像図(昭和32年発行「法勲寺村史」)
最初に押さえておきたいのは、これは「想像図」であることです。
法勲寺は発掘調査が行われていないので、詳しいことは分からないというのが研究者の立場です。
法勲寺の伽藍推定図を見ておきましょう。
法勲寺跡
古代法勲寺跡 伽藍推定図(飯山町史754P)
まず五重塔跡について見ていくことにします。
 寛政の順道帳に「塔本」と記されている所が明治20年(1887)に開墾されました。その時に、雑草に覆われた土の下に炭に埋もれて、礎石が方四間(一辺約750㎝)の正方形に築かれていたのが出てきました。この時に、礎石は割られて、多くは原川常楽寺西の川岸の築造に石材として使われたと伝えられます。また、この時に中心部から一坪(約3,3㎡)の桃を逆さにした巨大な石がでてきました。これが、五重塔の「心礎」とされています。
DSC00396法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎(復元)
上部中央には、直径三尺二寸(約96㎝)、深さ三寸(約9㎝)の皿形が掘られています。この「心礎」も、石材として使うために割られたようです。その四分の一の一部が法勲寺の庭に保存されていました。それを復元したのがこの「心礎」になるようです。
 金堂の跡
 五重塔跡の真東に、経堂・鐘堂とかの跡と呼ばれる2つの塚が大正十年(1921)ごろまではあったようです。これが金堂の跡とされています。しかし、ここには礎石は残っていません。しかし、この東側の逆川に大きな礎石が川床や岸から発見されています。どうやら近世に、逆川の護岸や修理に使われたようです。
講堂跡は、現在の法勲寺薬師堂がある所とされます。
薬師堂周辺には礎石がごろごろとしています。特に薬師堂裏には大きな楠が映えています。この木は、瓦などをうず高くつまれた中から生え出たものですが、その根に囲まれた礎石が一つあります。これは、「創建当時の位置に残された唯一の礎石」と飯山町史は記します。

現存する礎石について、飯山町史は次のように整理しています。
現法勲寺境内に保存されているもの
DSC00406法勲寺礎石
①・薬師堂裏の楠木の根に包まれた礎石1個

DSC00407法勲寺
②・法勲寺薬師堂の礎石4個 + 石之塔碑の台石 +
   ・供養塔の台石
DSC00408法勲寺礎石
③現法勲寺本堂南の沓脱石
  
④前庭 二個
⑤手水鉢に活用
⑥南庭 一個
⑦裏庭 一個
他に移動し活用されているもの
飯山南小学校「ふるさとの庭」 二個
讃留霊王神社 御旅所
讃留霊王神社 地神社の台石・前石
原川十王堂 手水鉢
原川墓地の輿置場
名地神社 手水鉢の台
DSC00397法勲寺心礎
法勲寺五重塔心礎と礎石群(讃留霊王神社 御旅所)
五重塔心礎の背後には、川から出てきた礎石が並べられています。
グーグル地図には、ここが「古代法勲寺跡」とされていますが、誤りです。ここにあるものは、運ばれてここに並べられているものです。
 
法勲寺瓦一覧
              
 飯山町史は、法勲寺の古瓦を次のように紹介しています。
①瓦は白鳳時代から室町時代のものまで各種ある。
②軒丸瓦は八種類、軒平瓦は五種類、珍しい棟端瓦もある。
③最古のものは、素縁八葉素弁蓮華文軒丸瓦と鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦で、白鳳時代のもので、県下では法勲寺以外からは出てこない特有のもの。
④ 白鳳期の瓦が出ているので、法勲寺の創建期は白鳳期
⑤特異な瓦としては、平安時代の素縁唐草文帯八葉複弁蓮華文軒丸瓦。この棟端瓦は、格子の各方形の中に圈円を配し、その中央に細い隆線で車軸風に八葉蓮華文を描いた珍しいもの。


①からは、室町時代まで瓦改修がおこなわれていたことが分かります。室町時代までは、法勲寺は保護者の支援を受けて存続していたようです。その保護者が綾氏の後継「讃岐藤原氏」であったとしておきます。 
 法勲寺蓮花文棟端飾瓦
法勲寺 蓮花文棟端飾瓦

私が古代法勲寺の瓦の中で気になるのは、「蓮花文棟端飾瓦」です。この現存部は縦8㎝、横15㎝の小さな破片でしかありません。しかし、これについて研究者は次のように指摘します。
その平坦な表面には、 一辺6㎝の正方形が設けられ、中に径五㎝の円を描き、細く先の尖った、 一見車軸のような八葉蓮花文が飾られている。もとはこのような均一文様が全体に表されていたもので全国的に珍しいものである。厚さは3㎝、右下方に丸瓦を填め込むための浅い割り込みが見える。胎土は細かく、一異面には、小さな砂粒がところどころに認められる。焼成は、やや軟質のようで、中心部に芯が残り、均質には焼けていない。色調は灰白色である.

この瓦について井上潔は、次のように紹介しています。
朝鮮の複数蓮華紋棟端飾瓦の諸例で気づくことだが統一新羅の盛期から末期へと時代が下がるにつれて、紋様面の蓮華紋は漸次小形化して簡略化される傾向をとっている。わが国の複数蓮華紋棟端瓦のうちでも香川県綾歌部、法勲寺出土例は正にこのような退化傾向を示す特殊なものである。
‥…このような特殊な棟端飾瓦が存した背景に、当地方における新羅系渡来者や、その後裔の活躍によってもたらされた統一新羅文化の彩響が考えられるのである。この小さな破片から復元をこころみたのが上の図である。総高25㎝、横幅32㎝を測り、八葉細弁蓮花文を17個配列し、上辺はゆるいカープを描いた横長形の棟端飾瓦になる。
古代法勲寺の瓦には、統一新羅の文化の影響が見られると研究者は指摘します。新羅系の瓦技術者たちがやってきていたことを押さえておきます。法勲寺建立については、古代文献に何も書かれていないんで、これ以上のことは分からないようです。
 
讃留霊王(神櫛王)の悪魚伝説の中には、退治後に悪魚の怨念がしきりに里人を苦しめたので、天平年間に行基が福江に魚の御堂を建て、後に法勲寺としたとあります。

悪魚退治伝説 坂出
坂出福江の魚の御堂(現坂出高校校内)
 その後、延暦13年(793)に、坂出の福江から空海が讃留霊王の墓地のある現在地に移し、法勲寺の再興に力を尽くしたとされます。ここには古代法勲寺のはじまりは、坂出福江に建立された魚の御堂が、空海によって現在地に移されたと伝えられています。しかし、先ほど見たように法勲寺跡からは白鳳時代(645頃~710頃)の古瓦が出てきています。ここからは法勲寺建立は、行基や空海よりも古く、白鳳時代には姿を見せていたことになります。また讃留霊王の悪魚退治伝説は、日本書紀などの古代書物には登場しません。

悪魚退治伝説 綾氏系図
綾氏系図(明治の模造品)
 讃留霊王伝説が登場するのは、中世の綾氏系図の巻頭に書かれた「綾氏顕彰」のための物語であることは以前にお話ししました。
悪魚退治伝説背景

つまり、綾氏が中世武士団の統領として一族の誇りと団結心を高まるために書かれたのが讃留霊王伝説だと研究者は考えています。そして、それを書いたのが法勲寺を継承する島田寺の僧侶なのです。南北朝時代の「綾氏系図」には法勲寺の名が見えることから、綾氏の氏寺と研究者は考えています。
 しかし、古代に鵜足郡に綾氏が居住した史料はありません。また綾氏系図も中世になって書かれたものなので、法勲寺が綾氏が建立したとは言い切れないようです。そんな中で、綾川流域の阿野郡を基盤とする綾氏が、坂出福江を拠点に大束川流域に勢力を伸ばしてきたという仮説を、研究者の中には考えている人達がいます。それらの仮説は以前にも紹介した通りです。

最後に白鳳時代の法勲寺周辺を見ておきましょう。
  飯山高校の西側のバイパス工事の際に発掘された丸亀市飯山町「岸の上遺跡」からは、次のようなものが出てきました。
①南海道の側溝跡が出てきた。岸の上遺跡を東西に走る市道が南海道だった。
②柵で囲まれたエリアに、古代の正倉(倉庫)が5つ並んで出てきた。鵜足郡郡衙跡と考えられる。

 8世紀初頭の法勲寺周辺(復元想像図)
つまり、南海道に隣接して柵のあるエリアに、倉庫が並んでいたのです。「正倉が並んでいたら郡衙と思え」というのが研究者の合い言葉のようです。鵜足郡の郡衙の可能性が高まります。

白鳳時代の法勲寺周辺を描いた想像復元図を見ておきましょう。
岸の上遺跡 イラスト

①額坂から伸びてきた南海道が飯野山の南から、那珂郡の郡家を経て、多度郡善通寺に向けて一直線に引かれている
②南海道を基準線にして条里制が整備
③南海道周辺に地元郡司(綾氏?)は、郡衙と居宅設営
④郡司(綾氏)は、氏寺である古代寺院である法勲寺建立
⑤当時の土器川は、現在の本流以外に大束川方面に流れ込む支流もあり、河川流域の条里制整備は中世まで持ち越される。
岸の上遺跡 四国学院遺跡と南海道2
南海道と多度郡郡衙・善通寺の位置関係
以上からは、8世紀初頭の丸亀平野には東西に一直線に南海道が整備され、鵜足・那珂・多度の各郡司が郡衙や居宅・氏寺を整備していたと研究者は考えています。このような光景は、律令制の整備とともに出現したものです。しかし、律令制は百年もしないうちに行き詰まってしまいます。郡司の役割は機能低下して、地方豪族にとって実入の少ない、魅力のないポストになります。郡司達は、多度郡の佐伯氏のように郡司の地位を捨て、改姓して平安京に出て行き中央貴族となる道を選ぶ一族も出てきます。そのため郡衙は衰退していきます。郡衙が活発に地方政治の拠点として機能していたのは、百年余りであったことは以前にお話ししました。

 一方、在庁官人として勢力を高め、それを背景に武士団に成長して行く一族も現れます。それが綾氏から中世武士団へ成長・脱皮していく讃岐藤原氏です。讃岐藤原氏の初期の統領は、大束川から綾川を遡った羽床を勢力とした羽床氏で、初期には大束川流域に一族が拡がっていました。その中世の讃岐藤原氏の一族の氏寺が古代法勲寺から成長した島田寺のようです。

讃岐藤原氏分布図

 こうして讃岐藤原氏の氏寺である島田寺は、讃留霊王(神櫛王)伝説の流布拠点となっていきます。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献       飯山町史 155P





    法然上人と増上寺|由来・歴史|大本山 増上寺
法然(増上寺) 
浄土宗を開いた法然は、延暦寺・興福寺など専修念仏に批判的な旧仏教教団の訴えで、建永二年(1207)3月16日、土佐国へ流されることになります。実際には土佐国まで行くことはなく、10か月ほど讃岐国にとどまって、その年の12月には赦免されて都へ帰っています。その間の様子を、「法然上人絵伝」で見ています。

瀬戸の港 日比と塩飽

今回は、都を出立して11日目の3月26日に到着した塩飽島(本島)を見ていきます。
塩飽地頭舘1
   讚岐国塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

  巻三十五〔第一段〕 三月十六日、讚岐国塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍が館に着き給ひにけり。
 西忍、去にし夜の夢に、満月輸の光赫尖たる、袂に宿ると見て怪しみ思ひけるに、上人人御ありければ、このことなりけりと思ひ合わせけり。薬湯を儲け、美膳を調え、様々に持て成し奉る。上人、念仏往生の道細かに授け給いけり。中にも不軽(ふきょう)大士の、杖木・瓦石を忍びて四衆の縁を結び給ひしが如く、「如何なる計り事を廻らしても、人を勧めて念仏せしめ給へ、敢へて人の為には侍らぬぞ」と返すがえす、附属し給ひければ、深く仰せの旨を守るべき由をぞ申しける。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外他事なかりけり。
意訳変換しておくと
  都を出立して11日目の3月26日に、塩飽の地頭、駿河権守高階保遠入道西忍の館に着いた。西忍は、出家入道の身であった。彼は、満月の光が自分の袂にすっぽりと入る夢を見ていたので、法然上人がお出でになるとという吉兆の知らせだったのだとすぐに思い当たった。そこで一行を舘に迎え、薬湯や美膳を調え、いろいろなところにまで気を配ってもてなした。
 法然は、念仏往生の道を細かいところまで西忍に指導した。中でも不軽(ふきょう)菩薩が、杖木・瓦・石で打ちたたかれた話をして、「どんな計り事を廻らしても、人に勧めて念仏させることが、その人のためになる」と返すがえす伝え、これを守るべしと申し渡した。その後は、自行化他(じぎょうけた)、念仏の外になにもないとも云った。
   
塩飽地頭舘2
     塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)

入道西念は、自分の舘に法然一行を招き、歓待します。
①の畳の上に座るのが法然
②の下手の板戸を背に座っているのが主人の西念。出家入道なので僧服姿です。扇の柄ををトントンと板間につきながら「実は、先日、満月の光が私の袂に入る夢をみましてなあ・・」と、語り始めます。
③都から高僧がやってきたという知らせを聞いて、③の武将がお供を連れてやってきています。しかし、地頭の舘なので、いろいろな階層の人達の姿はありません。武士と僧侶だけで、庶民や女性の姿は見えません。木戸の奥を、見てみましょう。

塩飽地頭舘3
    塩飽の地頭舘(法然上人絵伝 第35巻第1段)
①奥では接待のための膳の準備が整ったようです。「心込めて、気をつけて運べよ」と指示しているのでしょうか。奥は棟がいくつも続き広い空間が拡がっています。塩飽は、瀬戸内海の流通センターの役割を果たし、人とモノが集まってくる所でした。そこを押さえた地頭の羽振りの良さがうかがえます。
②縁側の上に首飾りをつけた犬がいます。猫ではないようです。ペットとして室内犬的に飼われていた犬もいたようです。

塩飽地頭舘4
     塩飽の地頭舘の奥(法然上人絵伝 第35巻第1段)

『拾遺古徳伝絵詞』七巻第七段『拾遺古徳伝』には、次のように記します。                                               貴重資料画像データベース | 龍谷大学図書館
聖人ノ配所ハ土佐国トサタメラレケレトモ、讃岐国塩飽庄ハ御領ナリケレハ、月輸ノ禅定殿下(九条兼実)ノ御沙汰ニテ、ヒソカニカノトコロヘウツシタテマツラレヶル、カノ庄ノ預所駿河守高階ノ時遠(たかしなときとう)入道西仁力館二寄宿シタマフ、御教書ノム子等閑ナラサレハナシカハ昧ニシタテマツルヘキキラメキモテナシタチマツル、温室結構シ、美膳調味シツツノアヒタノ、ソノアヒタノ経営、イカニカナトソフルイヒケル、近国遠郡ノ上下、傍庄隣郷ノ男女群集シテ、世尊ノコトクニ帰敬シタテマツリケリ、 一向専念ナルヘキヤウシヨミタイヒケル
意訳変換しておくと
法然聖人の配所は土佐国とされていたが、月輸ノ禅定殿下(九条兼実)の指示で、その領所である讃岐国塩飽庄に密に変更された。塩飽荘の預所は駿河守高階時遠(たかしなときとう)入道で、彼の西仁の館に寄宿することになった。そこで法然はたいへん厚いもてなしを受けて、温い部屋で、美味しい御前を振る舞われた。その間にも法然がやって来ていると聞きつけた近国遠郡の人々が上下の身分を問わず、その話を聞こうと男女群集ししやってきた。そして、多くの人々が帰依した。 


「塩飽」とありますが、塩飽諸島のどの島に上陸したのでしょうか
中世の塩飽の島々は、バラバラで一体感はなかったようです。例えば、各島の所属は次のようになっていました。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡

塩飽諸島絵図
塩飽嶋(本島)周辺の島々
ここからは中世の塩飽諸島は、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があって、それぞれ所属が異なってひとまとまりではなかったことが分かります。近世には「塩飽諸島」と呼ばれるようになる島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったのです。
 以上から「塩飽嶋=本島」で、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったようです。本島がこの地域の中核の島だったので、次第に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったと研究者は考えています。つまり、法然や後のキリスト教宣教師が立ち寄ったのも本島なのです。

「塩飽島=本島」が史料に最初に現れるのは、いつなのでしょうか。
「塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
①元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の支度料物に「塩飽荘からの塩二石の年貢納入」
②保元4年(1156) 藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
③元暦二年(1185) 三月に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退
④建長五年(1253) 十月の「近衛家所領目録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
⑤建永二年(1207) 3月26日に法然が流刑途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
⑥康永三年(1344) 11月11日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
⑦⑧永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
ここからは次のような事が分かります。
①②からは、12世紀に摂関家藤原氏の荘園として伝領するようになっていたこと
③からは、12世紀後半に平清盛が日宋貿易や海賊討伐で瀬戸内海の海上支配を支配し、塩飽もその拠点となっていたこと。そのため屋島の戦い後の平家撤退時に、戦略拠点であった塩飽を経由して宮島に「転戦」していること。
④からは鎌倉幕府の下で、九条家を経て近衛家に伝領するようになっていたこと
⑥からは、小笠原氏の領地となっているが現地支配をともなうものではなかったこと
⑦からは「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっているので、すでに荘園ではなくなっていること。つまり、14世紀後半には「塩飽荘」は荘園としては消滅していたことがうかがえます。

4 武士の成長とひろしま ~厳 島 神社 と 平 清 盛 ~
平清盛と日宋貿易における瀬戸内海ルートの重要性

  法然がやって来た13世紀初頭の塩飽を取り巻く状況を見ておきましょう。
平氏の支配下にあった讃岐は、源平合戦後は源氏の軍事占領下に置かれます。そして、1185年「文治の守護地頭補任の勅許」で、讃岐にも守護・地頭が設置されることになります。しかし、当初は、西日本の荘園には地頭は設置でず、それが現実化するのは、承久の変以後とされます。ちなみに、鎌倉時代の讃岐の地頭・御家人の補任地は次の22ヶ所です。
鵜足郡 法勲寺  二村
那珂郡 真野勅使(高井) 櫛梨保(島津) 木徳荘(色部) 金蔵寺(小笠原)
多度郡 善通寺 生野郷 良田郷 堀江荘(春日兼家) 吉原荘(随心院門跡) 仲村荘
三野郡 二宮荘(近藤) 本山荘(足立) 高瀬荘(秋山) ()は地頭名
地頭名は、ほとんどが東国出身の御家人で、讃岐出身の武士名はいません。地頭が配置されているのは、丸亀平野と三豊平野がほとんどです。東讃にはいません。これは、東讃の武将がいち早く源氏方についたのに対して、西讃の武士団が旧平家方に最後までいたので、領地没収の憂き目にあったようで、その後に西遷御家人が地頭として東国から乗りこんできたと説明されます。しかし、この一覧を見ると、塩飽に地頭は配置されていません。塩飽の地頭として登場してくる「駿河権守高階保遠入道西忍」の名前もありません。これをどう考えればいいのでしょうか?  その謎を解くために、20年ほど時代を遡って、平家が塩飽戦略拠点とした経過を見ておきます。

千葉市:千葉氏ポータルサイト 千葉氏ゆかりの史跡・文化財
平氏の撤退と源氏の追撃ルート

『玉葉』の元暦二年(1185)12月16日条に屋島合戦の後の平家の退路が次のように記されています。
伝え聞く、平家は讃岐国シハク庄(塩飽)に在り、しかるに九郎(義経)襲政するの間、合戦に及ばず引き退き、安芸厳島に着しおわんぬと云々、その時饉かに百艘ばかりと云々

ここには屋島を追われた平氏は、まず塩飽荘に逗留したこと、義経の追撃をうけて戦わずに安芸国の厳島に百艘余りで「転戦」したとされています。厳島神社は清盛をはじめとして平氏一門とかかわりの深い神社であり、戦略拠点でもあったとされます。どうやら平家は、塩飽も戦略拠点地としていたようです。
それでは、どうして平家が塩飽を支配下に入れていたのでしょうか?   丸亀市史1(606P)は、次のように推測します。
①塩飽荘は、藤原師実以来の摂関家領であった。
②本家の地位は師実より孫の忠実、さらにその子忠通へと伝領され、基実を経て近衛家の相伝となった。
③清盛は関白基実が没したときに、遺子基通に相統させ、未亡人の盛子の管理下に置き、実質的に 摂関家領の多くを平氏の支配下に入れた。
④こうして塩飽荘は平家支配下に組み込まれ、瀬戸内海の戦略的な要衝として整備された。
⑤源平合戦後に平家が落ち延びていくと、源氏は塩飽を直轄地として支配下に入れた。
⑥その際に「平家没官領」として、鎌倉から代官が派遣された。それが「得宗被官塩飽氏」である。
この北條得宗被官が「駿河権守高階保遠入道西忍」で、得宗家領の代官として塩飽にやってきていたと考えることはできます。得宗家領には平家没官領などの没収地が多くありました。塩飽という地名は塩飽諸島以外にはありません。この地を名字の地とする塩飽氏が得宗被官として、鎌倉時代の後半には登場してきます。以上から塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理していた、その代官が「駿河権守高階保遠入道西忍」だとしておきます。
  
それでは入道西忍の舘があったのは、どこなのでしょうか?
1 塩飽本島
本島に「塩飽嶋」と注記されている(上が南)
その候補は、「①笠島 ②泊 ③甲浦」が考えられます。しかし、決め手に欠けるようです。
笠島城 - お城散歩
本島笠島は、中世山城と一体化した湊

①の笠島は、塩飽島(本島)北側にあり、山陽道を進むことの多かった古代・中世の船が入港するには、都合のいい位置です。しかし。笠島は中世の山城と一体的に作られた湊の雰囲気がします。一般的に、中世の武士団の拠点が湊と一線を画した所にある点からすると異色の存在といえます。ここは、海賊衆の鎮圧などのために香西氏などが進出してきた後に作られた湊と私は考えています。

そうすると残りは、島の南側の②か③になります。古代から塩が作られていたのは、②の泊になるようです。ここに海民たちが定着し、塩などの海産物を京に運ぶために海運業が育ち、そこに荘園が置かれたことは考えられます。つまり、古代の本島の中心は②にあった、そして①笠島は中世以後に軍事拠点として現れたという説です。そう考えると、法然が立ち寄った際には①笠島は、まだ姿を見せていなかったことになります。
 「泊=荘園政所説」に、さきほどみた「塩飽荘は平家没官領であり、得宗家領の代官が管理」説を加えると、得宗家領の代官としてやってきた入道西忍はどこに舘を構えたのか?ということになります。
地頭の舘は、支配集落のすぐそばには作られません。意図的に孤立した場所が選ばれていることが発掘調査からは明らかになっています。そうすると②の泊ではなく、①か③ということになります。そして①の出現は、南北朝以後とすると③の可能性もあります。このように決定力に欠けるために、どこか分からないということになります。
 西行が崇徳上皇慰霊のために讃岐に渡る際に、備中真鍋島で塩飽のことを次のように記しています。
「真鍋と中島に京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申しけるをききて、真鍋よりしわく(塩飽)へ通ふ商人は、つみをかひにて渡る成けり」

意訳変換しておくと
(上方の船は)真鍋と中島で、京からの商人たちを下船させた。そこで様々な商品を商いして、また塩飽島に渡って、商いを行うと云う。真鍋から塩飽へ通う商人は、商品を売買したり、仕入れたりしながら塩飽を中心に活動しているようだ。

ここからは塩飽島が瀬戸内海を航行する船の中継地で、多くの商人が立ち寄っていたことがうかがえます。平安期には、西国から京への租税の輸送に瀬戸内海を利用することが多くなります。そのため風待ち・潮待ちや水の補給などに塩飽へ寄港する船が増え、そのためますます交通の要地として機能していくようになていたのです。人とモノと金が行き交う塩飽を治めた入道西忍の舘がその繁栄を物語っているように思えます。法然は、ここにしばらく留まったと伝えられます。
塩飽が備讃瀬戸の交易センターとして、さまざまな人とモノが行き交っていたことがうかがえます。

重要文化財の「絵巻物」2億円超で落札 文化庁は?(2021年11月22日) - YouTube

「拾遺古徳伝絵詞」には、法然の塩飽滞在について次のように記します。
「近国遠郡の上下、傍荘隣郷の男女群集して、世尊のごとくに帰敬したてまつりける」

塩飽本島は、瀬戸内海の交易センターで交通の便がよかったので、周辺の国々から多くの人達が法然を尋ね結縁を結んだというのです。

本島集落
塩飽嶋(本島)の集落
以上をまとめておきます
①讃岐に流刑となった法然一行は、京を出て11日目に塩飽島に到着した。
②塩飽島は、現在の本島(丸亀市)のことである。
③塩飽島の地頭は、出家して入道西忍と名のっていて、法然を歓待した。
④当時の塩飽荘は平家没官領で、得宗家領として代官が派遣され管理していた。それが入道西忍であった。
⑤入道西忍の舘がどこにあったかは分からないが、経済力を背景に豪壮な舘に住んでいた。
⑥ここに法然はしばらくとどまり、その後に讃岐に上陸していく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   屋島合戦と塩飽 丸亀市史1(606P)

女木島遠景
髙松沖に浮かぶ女木島
女木島は高松港の赤燈台のすぐ向こうに見える島です。
映画「釣り場バカ日記」の初回では、ハマちゃんはここに新築の家を持ち、早朝の釣りを終えてフェリーで髙松支店に通勤していました。  高松港から一番近い島です。今は「瀬戸芸」の島として名前が知られるようになりました。
女木島丸山古墳2
女木島の丸山古墳
この島の見晴らしのいい尾根筋に丸山古墳があります。

女木島丸山古墳1
女木島丸山古墳3
説明版には、次のような事が記されています。
①5世紀後半の円墳で、直系約15m
②埋葬施設は箱式石棺で、岩盤を浅く掘り込んで石棺を設置し、その後に墳丘を盛土し、墳丘表面を葺石で覆っている。
③副葬品としては曲刃鎌、大刀と垂飾付耳飾が被葬者に着装された状態で出土している。
女木島丸山古墳5

研究者が注目するのは、被葬者が身につけていた耳飾りです。
この垂飾付耳飾は「主環+遊環+金製玉の中間飾+小型の宝珠形垂下飾」という構成です。この耳飾りの特徴として、研究者は次の二点を指摘します。
①一番下の垂下飾の先端が細長く強調されていること
②中間飾が中空の空玉ではなく、中実の金製玉であること
この黄金のイヤリングは、どこで造られたものなのでしょうか?
 
 高田貫太氏(国立歴史民俗博物館)は、次のように述べています。

「ハート形垂飾付き金製耳飾りは日本では50例ほどが確認されているが、本墳の出土品は5世紀前中葉に百済で作られたもので、日本ではほかに1例しか確認されていない。被葬者は渡来人か、百済と密接な関係を持った海民であろう」

   5世紀半ばに、百済の工房で作られたもののようです。それを身につけていた被葬者は、百済系の渡来人か、百済との関係を持っていた「海民」と研究者は考えているようです。それは、どんな人物だったのでしょうか。
今回は、丸山古墳の被葬者が見た朝鮮半島の5世紀の様子を見ていくことにします。テキストは「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」です。

女木島

 丸山古墳からは髙松平野だけでなく、吉備地域の沿岸部がよく見えます。
女木島は高松港の入口にあり、備讃瀬戸航路がすぐ北を通過して行きます。この周辺は、塩飽諸島から小豆島にかけての多島海で、狭い海峽が連続しています。一方、女木島は平地も少なく、大きな政治勢力を養える場所ではありません。この地の財産と云えば「備讃瀬戸の航路」ということになるのでしょうか。それを握っていた人物が、自分の財産「備讃瀬戸航路」を見回せる女木島に古墳を造営したと研究者は考えているようです。
そしてその人物は「海民」で、次の2つが考えられると指摘しています。
①在地集団の首長
②朝鮮半島百済系の渡来人
 ①②のどちらにしても彼らが朝鮮半島南部に直接出かけて、百済と直接に交流・交易を行っていたということです。
倭人については、次のような見方もあります。
季刊「古代史ネット」第3号|奴国の時代 ② 朝鮮半島南部の倭人の痕跡
対馬海峡の両側を拠点に活動していた海民=倭人
古代国家成立以前には、「国境」という概念もありません。船で自由に海峡を行き来していた勢力がいたこと。その一部が瀬戸内海にも入り込み定着します。これを①の在地の海民集団とすると、②は朝鮮半島に留まった海民集団になります。どちらにしてもルーツは倭人(海民)ということになります。
 従来の学説では、ヤマト政権下に編成され、管理下に置かれた海民達が朝鮮半島との交易を担当していたことに重点が置かれてきました。しかし、女木島の丸山古墳に眠る被葬者は、海民(海の民)の首長として、ヤマト政権には関係なく直接に百済と関係を持っていたと云うのです。朝鮮半島との交渉に、倭の島嶼部や海岸部の地域集団が関わっていたことを示す事例が増えています。女木島の丸山古墳に眠る百済産の耳飾りをつけた人物もそのひとりということになります。
 瀬戸内沿岸の諸地域は5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を採用しています。
今は陸続きとなった沙弥島の千人塚も、その系譜上で捉えられます。沙弥島千人塚
沙弥島千人塚(方墳)
瀬戸内海には女木島や沙弥島などの海民の拠点間で、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていたと研究者は想定します。それは別の視点で云うと、朝鮮半島からの渡来集団の受入拠点でもありました。女木島の場合は、その背後に岩清尾山の古墳群を築いた勢力がいたとも考えられます。あるいは吉備勢力とも、関係をもっていたかもしれません。どちらにしても、丸山古墳の被葬者は朝鮮半島と直接的な関係を持っていたことを押さえておきます。
女木島丸山古墳4

朝鮮半島の西・南海岸地域からは「倭系古墳」と呼ばれる古墳が出てきています。
倭系古墳1
南西海岸の倭系古墳
倭系古墳の特徴は、海に臨んで立地し、北部九州地域の中小古墳の墓制を採用していことです。その例として「野幕古墳とベノルリ3号墳」の埋葬施設を見てみましょう。
倭系古墳 竪穴石室

何も知らずにこの写真を見せられれば、日本の竪穴式石室や組石型石室と思ってしまいます。ベノルリ3 号墳の竪穴式石室は両短壁に板石を立てている点、平面形が 2m × 0.45m と細長方形で直葬の可能性が高い点などが、北部九州地域の石棺系竪穴式石室のものとほぼおなじです。
 次に副葬品を見てみましょう。 
韓半島出土の倭系甲冑
 朝鮮半島出土の倭系甲冑
野幕古墳(三角板革綴短甲、三角板革綴衝角付冑)、
雁洞古墳(長方板革綴短甲、小札鋲留眉庇付冑 2点)
外島1号墳(三角板革綴短甲)
ベノルリ3 号墳(三角板革綴短甲、三角板鋲留衝角付冑)
いずれの古墳からも倭系の帯金式甲冑が出てきます。
野幕古墳やベノルリ3号墳の2古墳から出土した主要な武器・武具類については、一括で倭から移入された可能性が高いと研究者は考えています。このように、野幕、雁洞、外島 1・2 号、ベノルリ3 号の諸古墳は、外表施設、埋葬施設、副葬品など倭系の要素が強く、倭の墓制を取り入れたものです。そして築造時期は、5世紀前半頃です。つまり、これは先ほど見た女木島丸山古墳の被葬者が活躍した年代か、その父親世代の年代になります。
このような「倭系古墳」の存在は、かつては日本の任那(伽耶)支配や高句麗南下にからめて説明されてきました。
しかし、 西・南海岸地域には朝鮮在地系の古墳も併存しています。これはこの地域では「倭系古墳」の渡来系倭人と朝鮮在地系の海民首長が「共存」関係にあったことを示すものと研究者は考えています。
「倭系古墳」の性格は、どのようなものでしょうか。
これを明らかにするために「倭系古墳」の立地条件と経済的基盤を研究者は見ていき、次のように指摘しています。
①「倭系古墳」は西・南海岸地域の沿岸航路の要衝地に立地する。
② この地域はリアス式の海岸線が複雑に入り組んでおり、潮汐の干満差が非常に大きく、それによって発生する潮流は航海の上で障害となる。
③ 特に麗水半島から新安郡に至る地域は多島海地域であり、狭い海峽が連続し、非常に強い潮流が発生する。そのために、現在においても航海が難しい地域である。
 ここからは西・南海岸地域の沿岸航路を航海するためには、瀬戸内海と同じように、複雑な海上地理や潮流を正確に把握する必要がありました。それを熟知していたのは在地の「海民」集団であったはずです。 
 高興半島基部の墓制を整理した李暎澈は、M1、M 2 号墳を造営した集団について、次のように記します。
  埋葬施設がいずれも木槨構造であり、副葬品に加耶系のものが主流を占めている点から、その造営集団は「高興半島一帯においては多少なじみの薄い埋葬風習を有していた集団」であり、「小加耶や金官加耶をはじめとする加耶地域と活発な交流関係を展開していた集団」

この集団が西・南海岸沿いの沿岸航路や内陸部への陸路を活用した「交易」活動を生業としていた「海民」のようです。このような海上交通を基盤としていた海民集団が西・南海岸地域には点在していたことを押さえておきます。
彼らは、次のようなルートで倭と百済を行き来していました。
①漢城百済圏-西・南海岸地域の島嶼部-広義の対馬(大韓・朝鮮)海峡-倭
②栄山江流域-栄山江-南海岸の島嶼部-海峡-倭
 倭からやってきた海民たちも、このルートで百済や栄山江流域などの目的地を目指したのでしょう。朝鮮半島からの渡来人たちが単独で瀬戸内海を航海したことが考えにくいように、西・南海岸地域を倭系渡来人集団だけで航行することは難しかったはずです。円滑な航行には複雑な海上地理と潮流を熟知する現地の水先案内人が必要です。そこで倭系渡来人集団は、西・南海岸地域に形成されていたネットワークへの参画を計ったことでしょう。そのためには、在地の諸集団との交流を重ね、航路沿いの港口を「寄港地」として活用することや航行の案内を依頼していたことが推測できます。倭の対百済、栄山江流域の交渉は、西・南海岸の諸地域との関わりと支援があって初めて円滑に行えたことになります。
 その場合、倭系海民たちは航行上の要衝地に一定期間滞在し、朝鮮系海民と「雑居」することになります。そのような中で「倭系古墳」が築かるようになったと研究者は考えています。逆に、朝鮮半島の海民たちも倭人海民の手引きで、瀬戸内海に入るようになり、女木島や佐柳島などの陸上勢力の手の届かない島に拠点を構えるようになります。それが丸山古墳の黄金イヤリングの首長という話になるようです。
 朝鮮半島系資料の分布状況を讃岐坂出周辺で見てみると、沙弥島に千人塚が現れます。
そして、綾川河口の雌山雄山に讃岐で最初の横穴式石室を持った朝鮮式色彩の強い古墳が現れます。このように朝鮮半島系の古墳などは、河川の下流域や河口、入り江沿い、そして島嶼部などに分布しています。これは当時の海上往来が、陸岸の目標物を頼りに沿岸を航行する「地乗り方式」の航法であったことからきているのでしょう。このような状況証拠を積み重ねると、百済から倭への使節や、日本列島への定着を考えた渡来人集団も、瀬戸内の地域集団との交流を重ね、地域ネットワークに参加し、時には女木島や沙弥島を「寄港地」として利用しながら既得権を確保していったと、想定することはできそうです。古代の交渉は「双方向的」であったようです。

倭と百済の両国をめぐる5世紀前半頃の政治的状況は次の通りです。
①百済は高句麗の南征対応策として倭との提携模索
②倭の側には、鉄と朝鮮半島系文化の受容
このような互いの交渉意図が絡み合った倭と百済の交渉が、瀬戸内海や朝鮮半島西南部の経路沿いの要衝地を拠点とする海民集団によって積み重ねられていたと研究者は考えています。古代の海民たちにとって海に国境はなく、対馬海峡を自由に行き来していた姿が浮かび上がってきます。「ヤマト政権の朝鮮戦略」以外に、女木島の百済製のイヤリングをつけた海民リーダーの海を越えた交易・外交活動という外交チャンネルも古代の日朝関係には存在したようです。

以上をまとめておきます
①高松港沖の女木島には、百済製の黄金のネックレスを身につけて葬られた丸山古墳がある。
②この被葬者は、瀬戸内海航路を押さえた海民の首長であった。
③当時の瀬戸内海の海民たちは、5世紀代に「渡来系竪穴式石室」や木槨など朝鮮半島系の埋葬施設を一斉に採用していることから、物資や技術、情報、祭祀方式をやり取りするネットワークが形成されていた。
④その拠点のひとつが女木島の丸山古墳、沙弥島の千人塚である
⑤彼らは鉄や進んだ半島系文化を手に入れるために、独自に百済との通商ルートを開いた。
⑥そのため朝鮮半島西南部海域の海民との提携関係を結び、瀬戸内海との相互乗り入れを実現させた。
⑦その交易の成果が丸山古墳の被葬者のイヤリングとして残った。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「高田貫太 5、6世紀朝鮮半島西南部における「倭系古墳」の造営背景 国立歴史民俗博物館研究報告 第 211 集 2018 年」
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兵庫北関入船納帳 讃岐船の港分布図
兵庫北関入船納帳に出てくる讃岐の港

中世前半期ごろまでは荘園の年貢の海上輸送は、「梶取(かじとり)」と呼ばれる人々によって行われていました。

彼らは自前の船を持たない雇われ船長で、荘園領主に「従属」する立場でした。しかし、室町時代になると「梶取」は自分の船を所有する運輸業者(船頭)へ成長していきます。その中でも、階層分化が生れて、何隻もの船を持つ船持と、操船技術者として有力な船持に属する者に分かれていきます。

梶取りからプロの船頭へ


 また船頭の下で働く「水手」(水夫)も、もともとは荘園主が荘民の中から選んだ者に水手料を支給して、水手として使っていました。それが水手も専業化し、荘園から出て船持の下で働く「船員労働者」になっていきます。このような船頭・水手を使って物資を輸送させたのは、在地領主層の商業活動です。 
讃岐の梶取について触れた史料はありませんが、当然いたはずです。
弘安二年(1279)の記録に「讃岐国林田郷並梶取名内潮人新開田」とあります。
阿野北平野の林田郷と梶取名内の潮人新開田は八坂神社領でした。ここからは、潮入新開に塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことが分かります。「梶収名」の名から梶取が林田郷にいたことがうかがえます。林田地区には現在でも「梶取」の地名が残っているのは以前にお話ししました。
 ここでは梶取は、荘園内で給田が与えられ、梶取名と称し名田経営をするとともに、名田作人を使って塩の生産も行っていたと研究者は考えています。船長から名田主、そして塩浜経営と多角経営に乗り出す姿が見えてきます。
兵庫北関入船納帳 積載品目別積載量
兵庫北関入船納帳 入港した船の積載品

 兵庫北関入船納帳には、入港した船の積載品目が60品目を数えます。その品目を見ると、この時期の輸送船が年貢物輸送から商品輸送に移行していたことが分かります。それにつれて「梶取」は荘園に従属した「専属契約者」の立場から、船頭と呼ばれる立場に地位を向上させます。プロの水運業者の登場です。兵庫北関入船納帳には、讃岐船籍の船頭が100余人ほど登場します。今回は塩飽船の船頭について見ていくことにします。テキストは「橋詰茂   瀬戸内水運と内海産業 瀬戸内海地域社会と織田政権所収 」です。  

表11が船頭別の入関一覧表で、塩飽に22名の船頭がいたことが分かります。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
兵庫北関入船納帳 塩飽船籍の船頭一覧表
まず一番上の太郎兵衛船について見ていくことにします。
太郎兵衛船は1445年に兵庫北関に6回やって来ている以外に、次のようなことが分かります
①積載品は塩が主体であること
②塩だけの時には積載量は400石なので、400石以上の大型船の船頭であったこと
③2月~12月の間に6回、ほぼ定期的に兵庫北関に入関していること
④2・9月は、塩の単独輸送だが、その他は穀類を少量合わせ載せていること
次に、水沢船を見てみます
⑤積荷は塩が主であるが、穀物類・魚類・紙も混載していること
⑥3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていること
⑦5月19日の塩300石が最大積荷なので、350石程度の船であったこと
⑧太郎兵衛船の問丸は道裕で、水沢船は衛門九郎で両船の発注者が異なる。
①⑤からは太郎兵衛船と水沢船ともに、「讃岐船の積荷の8割は塩」と云われるように塩飽も塩輸送が中心の船団であったことが分かります。塩飽の塩生産については後で見ることにして、船の大きさを見ておきましょう。
讃岐船の規模を船籍毎に分類したのが下表です。
兵庫北関入船納帳 讃岐船の規模構成表

塩飽の欄を見ると、年間37隻が入港しています。その中で最も大きい船は400石以上で3回の入港です。②と併せて考えると、これが太郎兵衛船になるようです。350石が5回の入港で、⑦からこれが水沢船なのでしょう。ここからは一番多く入港している太郎兵衛船と水沢船が、塩飽船の中では一番大型船だったことが分かります。塩は最も利益があがる輸送品で、そこに島一番の腕利きの船頭と、新鋭大型船が担当していたようです。

兵庫北関入船納帳 港地図
兵庫北関入船納帳に出てくる港
③の太郎兵衛船の入港間隔を見ると、約2ヶ月毎に兵庫関に姿を見せています。
塩飽と兵庫北関(神戸)は、潮待ち・風待ちを入れても普通は、1週間以内には着きます。片道1ヶ月はかかりません。そうすると、2ヶ月の間隔が空くというのは、塩浜での生産に関係がありそうです。2ヶ月待たないと次に出荷するだけの塩が生産できなかった、別の言い方をすると、太郎兵衛船を一杯にするだけの塩を確保するためには約2ヶ月かかった。季節によって塩の生産量は上下するので、太郎兵衛船の塩積載量もその都度変化したという仮説は出せそうです。そう考えると、真夏後の9月8日の積載量が400石が一番多いのも頷けます。2月9日便も400石の塩が積まれているのは、12月以後3ヶ月分だから・・・としておきましょう。

兵庫北関入船納帳 月別入港回数
兵庫北関入船納帳 讃岐船月別入港数
表2は、讃岐17港の船籍地ごとの月別の入港回数の一覧表です。
この表からは、次のようなことがうかがえます。
A冬期(12~2月)は北西偏西風が強く、瀬戸内海航路は休止状態にあったこと。運航しているのは嶋(小豆島)船にほぼ限定される
B8・9月も台風シーズンで運航が少ないこと
C11月が45回と最も多いのは、年末年始の物資輸送のため。
D7月29回、3・5月26回と、比較的に海上の穏やかなで順風時期に輸送が集中していること

近世後期の金比羅船の運行状況を見ても冬場には欠航や風待ちのための遅延で、なかなか船が大坂を出港せずに、船頭と喧嘩になった記録がいくつか出てきます。また、引田船など東讃の船は、夏場は淡路島の西側航路を使っていますが、冬が近づくと北西風を避けて東側航路に変更して、航行していたことが史料からも分かります。中世の瀬戸内海では冬期に長距離を航行する船はいなかったようです。
  そのような中で塩飽船の中に2月に航行した記録があります。これを先ほど見た表11で確認すると、太郎兵衛船と次郎五郎船で、2隻が同日の2月9日に入港しています。季節風の強い時期に、他の船頭が出港を控える中で船を出しています。ここからも船頭・太郎兵衛の腕がしっかりとしていたことがうかがえます。
 同日に2隻が入港している例を、他で見ておきましょう。
表11をもう一度見てみましょう。
兵庫北関入船納帳 塩飽船頭一覧
水沢船が3月26日と12月19日の便は、一日に2回記されていました。水沢が2艘の船を同時に操船してやってきたのではないようです。これは水沢が船頭ではなく、船主としてもう一艘を引き連れて入港してきたと研究者は考えています。船頭として自ら操船する場合と、雇船頭としての輸送があったことが分かります。水沢は2隻の船を持って、塩飽と畿内を定期的に行き来していたようです。水沢以外にも太郎左衛門も2月26日に、山崎ゴマと塩を積んで小型船で2回入関しています。彼の名前は、兵庫北関入船納帳には「泊 太郎左衛円」「かうの 太郎左衛門」と記されています。泊とかうの(甲生)は、現在も本島にある港名です。ここからは、太郎左衛門が本島の泊港の船主で、泊・かうの両港の雇船頭を雇っていたことがうかがえます。
 7月16日の便船には「太郎左衛門枝船 浄空かうの」と記されています。
これも「浄空」が本島甲生(かのう)の港の太郎左衛門の雇われ船頭だったと研究者は考えています。水沢・太郎左衛門は、年間を通じて定期的に塩や穀類を運んできています。
 それに対して、年1回しかやって来ない船頭も多くあります。
その積載品は大部分が塩ですが、山崎胡麻だけを積載している次郎五郎の船があります。これが山崎胡麻船と呼ばれた塩飽船だと研究者は考えています。山崎胡麻だけを専門に輸送する船でした。1回しかやって来ない船は、ほとんどが積載量が少ない小型船です。
以上から塩飽船の船頭を、研究者は次のように階層分けします。
①太郎兵衛のような有力船頭
②水沢のような船主と船頭を兼ねた者
③太郎左衛門に雇われた雇船頭
④年に一回しかやって来ない小型船の船頭
荘園に従属していた「梶取り」身分から階層分化が進んでうたことがうかがえます。
兵庫北関入船納帳 問丸

次に塩飽船の問丸について見ておきましょう。
  荘園制の下の問丸の役割は、水上交通の労力奉仕・年貢米輸送・陸揚作業の監督・倉庫管理などでした。それが室町時代になると梶取と同じように問丸も荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者や輸送業者へと脱皮していきます。問丸は年貢輸送・管理・運送人夫の宿所提供までの役をはたすようになります。その一方で、倉庫業者を営み、輸送物を遠方まで直接運ぶよりも、近くの商業地で売却して現金を送るようになります。つまり、投機的な動きも含めて「金融資本的性格」を併せ持つようになり、年貢の徴収にまで加わる者も現れます。そして港湾や主要都市では、物資の管理や中継取引を行う業者が現れてくるようになります。

問丸から問屋へ 

『兵庫北関入船納帳』には、53人の問丸が出てきます。

問丸は階層区分すると4グループに区分されるようですが、塩飽船の問丸はどうだったのでしょうか? 讃岐船の問丸を船籍毎に一覧表化したのが表12です。
兵庫北関入船納帳 船籍地別の問丸
兵庫北関入船納帳 讃岐船の問丸一覧

讃岐の船籍地と問丸との関係について、表12からは次のようなことが分かります。
①讃岐船の問丸は、「ひとつの港に一人の問丸」体制が多く、一人の問丸によって独占されていることが多い。。
②複数の問丸が関係している場合も、折半という関係は見られず、独占的な問丸を核として、残りの問丸が少量の物資を取扱っている。
③宇多津は、法徳の独占
④嶋(小豆島)船は道念の独占
⑤引田・三本松船は衛門太郎   衛門太郎は東讃岐の船を中心に取扱いを行っていた問丸?
⑥平山は、二郎三郎
⑦豊後屋は観音寺・丹穂(仁尾)船を独占的に収扱っていて、西讃岐を拠点とした問丸
⑩道裕は塩飽諸島のすべての物資を取扱っており、問丸の間において集荷地域を再編成したものと研究者は考えています。

改めて塩飽船の問丸を見てみましょう。
塩飽船は、道裕が24回、衛門九郎が8回、三郎二郎が5回で、道裕が中核の問丸で、それに衛門九郎と三郎二郎が食い込んでいます。②のパターンになるようです。
このうち道裕は、兵庫北関に入る船のすべての物資を扱う大型の問丸で、瀬戸内海ほぼ全域を商圏としていた超大物の問丸のようです。讃岐では、多度津・さなき・手嶋船も取扱を独占しています。多度津は守護代の香川氏の「専用港」的な性格を持っていました。香川氏は守護代特権である「国料船・過書船」の関税フリー特権を活かして、問丸の道裕と結んで海上交易の利益を上げていたと考えられる事は以前にお話ししました。
 塩飽での道裕は先ほど見た太郎兵衛船だけでなく、大蔵船などその他の船を使っても塩飽産の塩を畿内に輸送しています。また11月7日には、船頭の太郎衛門を詫間に派遣して「タクマ塩100石」とマメやゴマを積み込ませて畿内に輸送させています。多くの塩飽船が道裕の問丸ネットワークの中で動いていたことがうかがえます。
 塩飽船では、問丸の衛門九郎の占める割合も大きく、船頭水沢の船の6/7を扱っています。
  道裕が太郎衛門専用の問丸であったように、衛門九郎は水沢専用の問丸だったようです。ここからは、塩飽産の塩も、エリア毎に所有者が異なり、それに伴い集荷される港も異なること。当然、そこに馴染みの問丸も異なり、輸送に使用される船も違っていたことが推測できます。これは、小豆島北部の塩浜で生産された塩を牛窓船がとりあつかい、南部の内海・池田の塩浜の塩を地元の小豆島船が輸送していたことを裏付けるものと私は考えています。
 最後の問丸・三郎二郎は、5件だけの取扱で、しかもで塩飽船だけに登場します。塩飽船だけを取扱う小規模な問丸だったことが分かります。
本島集落

最後に塩飽での塩作りについて見ておきましょう。
本島では早い時期から塩作りが行われていました。7月14日の御盆供事に、「三石 塩飽荘年貢内」とあって、藤原摂関家領であった塩飽荘から塩が年貢として上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事にも使われています。
 中世には塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。

以上をまとめておきます
①塩飽では古代以来、塩作りが盛んで中世にも小豆島と並んで大量の塩が生産されていた。
②塩飽産の塩を運んだのは、塩飽船籍の船頭たちであった。
③五郎兵衛船は、塩飽塩300~400石を積んで、2ヶ月毎に畿内を往復している。
④それ以外の船も何隻もが塩飽塩の輸送に関わっている。
⑤塩飽塩の多くは、大問丸の道裕にチャーターされた塩飽船で運ばれ、道裕の管理下に置かれた
以上からは、この時代の塩飽側の船頭や船主は、問丸の道裕に従属的であったことがうかがえます。
 この商取引に宗教が入り込んでくると、問丸が信仰していた宗教が、その配下にあった瀬戸の港町にも浸透してくることになります。その典型的な例が以前にお話ししました牛窓の本蓮寺や宇多津の本妙寺の建立になります。日蓮宗門徒となった兵庫・尼崎港の問丸と牛窓や宇多津の海運業者を結ぶネットワークを使って、布教活動が展開されていったのです。同様の動きは、禅宗や浄土真宗などにもみられるようになります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂    瀬戸内水運と内海産業  瀬戸内海地域社会と織田政権所収
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  高見島 新なぎさ2
高見島に入港する新なぎさ2    

塩飽諸島の中で、多度津から猫フェリーで行けるのが高見島と佐柳島です。高見島は古くから人が住んでいたという塩飽七島の一つです。その向こうの佐柳島は高見島からの入植者によって江戸時代になって開かれたとされます。高見島の「餅つき唄」の中にも、次のようなフレーズがあります。
高見・佐柳は 仲のよい島だよ― ソレ
あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ
ソレハ ヨイヨイヨイ
  「あいの小島(尾島)は子じゃ孫じゃよ」と高見島と佐柳島は、親子・兄弟島と謡われています。今回はこの内の高見島に伝わる民俗について、見ていくことにします。  テキストは「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」です。 
高見島の島名は、 どこからきているのでしょうか?
ひとつは、高見三郎宗治の名からきているという説があるようです。
浜部落の三谷家(屋号カミジョ)の土地からでた五輪の供養塔は、鎌倉~室町時代のもので、児島高徳の墓だと地元では伝えています。この墓には、浜の人々が夏祭りにおまいりしていたと云います。
また別の説では建久年間(12世紀末)に、備前国児島から移住してきた人たちが開いたのが始まりだという伝承もあるようです。
最後の説は、周辺の島の中で一番高く、周りが見渡せる島だから、高見島と呼ぶようになったのだとされています。これが一般的なようです。
 寿永四年(1185)屋島の源平合戦に破れた平家船団が西方に落ち延びていくときに、高見・佐柳島にも立ち寄って水・飲料、燃料のマキを積み込んだという伝承もあるようです。高見島の浜の庄屋・宮崎家は、平家方の宮崎将監の後裔だと自称していたようです。この島が海の民の拠点として、機能していたことはうかがえますが、それ以上は分かりません。
高見島(たかみじま)

 高見島は浦と浜の二つの港があります。
一般的には「○○浦・○○浜」というのが一般的です。ところが高見島の場合は、なぜか単に浦・浜という集落名です。字名では「大久保通・大谷通・古宮通・六社通・田ノ上通・浅谷通・下道通・高須通」というように、○○通に分けられています。
北側の浦集落は、江戸時代前期に大火にあい、現在のところに集落を移したようです。
それ以前は古宮、ナコチ・ハナタ・フロ・キトチ一帯に集落があったようです。大聖寺ももともとはハナタにあり、そこには腰を掛けたりすると腹が痛むという腹くわり石や五輪の塔が残っていたと云います。フロには、古い泉もあって、ここがかつての島の水源で、ここを中心に人々が集まり住み集落が海辺に出来たことがうかがえます。泉の先には「三郎ヨウジ」という地名も残っているようです。
高見島 浦集落3
高見島 浦集落
  瀬戸の島を歩くと、古い集落には共同井戸があります。
雨の少ない瀬戸内海の島々にとっては、井戸は生命の水の提供場所として神聖な場でもあったようです。水は天からのもらいもので「天水」です。後に弘法大師伝説が伝わってくると、泉・井戸も弘法大師に「接ぎ木」されていきます。そして、満濃池とつながっている井戸(宮の井戸)として雨乞いの話になったりしています。高見島の井戸伝説としては、次のような話が伝えられます。
①若水迎えにつかっていたミキャド(御神井戸)の湧き水の杓井戸
②死が近付くとほしがっていたという冷たくて美味しい水の話。
③むかしの浦の里にあったフロの泉
どちらにしても、古代から瀬戸内海を行き来する交易船は、風待ち・潮待ちのための寄航港が必要でした。そこには、美味しい水を提供してくれる井戸があることが必須条件だったようです。立ち寄った船に、これらの井戸も美味しい水を提供していたのでしょう。

高見島 浦集落4
高見島 浦集落
石垣の上に立ち並ぶ浦の家並は、江戸時代前期の風景(たたずまい)を今も残しています。

高見島 浦集落男はつらいよ
男はつらいよのロケ地となった高見島

 男はつらいよなどのロケ地として使われたわけが分かります。今は、空き家になった家が淋しそうに立ち並んでいます。

高見島 浦集落2
高見島 浦集落

制立場があり、北戸小路。南戸小路・下戸小路があり、集落の中央上に大聖寺がドンと構えています。ここから見える瀬戸内海は最高です。
高見島 大聖寺2
高見島の大聖寺
沖を行く備讃瀬戸行路の大型船、その向こうには丸亀平野の甘南備山である飯野山が望めます。
高見島 大聖寺からの瀬戸内海
大聖寺から望む備讃瀬戸と丸亀平野
高見島と佐柳島の戸数変化を見てみましょう。
江戸時代の塩飽人名衆650名のうち、高見島には77名の人名がいました。ここからも高見島は歴史が古く、廻船の拠点としても機能していたことがうかがえます。高見島の人たちが無住だった佐柳島に入植し、本浦を開いたと云います。さらに佐柳島の北側には福山・真鍋島から渡ってきた人たちが住みつき、また安芸の家船漁師も早くからやってきて、この島を根拠に漁業を続けていました。それが現在の佐柳島の長崎集落です。こうして、佐柳島は漁業の島として成長して行きます。それに対して高見島はどうなのでしょうか?

高見島 戸数・人口


正徳三年(1713)の記録には、高見島の戸数249戸(1449人)、佐柳島144戸とあります。しかし、この時期に塩飽の北前行路の独占体制が崩れて、塩飽廻船業は大きな打撃を受けます。その後は、船大工や宮大工として島外に活躍するする者が増えて、島を去る者が増えた、島の戸数や人口は減少傾向に転じたことは以前にお話ししました。
 高見島も明治には、249戸から195戸へ減少しています。そして、戸数の半数が大工だったことが分かります。漁師は1/6しかいません。瀬戸の島と聞くと、すぐに漁師港を思い浮かべますが、そのイメージでは高見島は捉えきれない島なのです。浦の集落の住人も漁業を生業としていた人たちではないようです。

高見島 ネズミ瓦
高見島の浦集落の漆喰壁の飾り瓦
 男はつらいよのロケ地「琴島」として、高見島と志々島は使われました。外国航路の船長だった父の家に、病気療養で帰ってきてる娘を松坂慶子が演じていました。その家は坂の上にある立派な家でした。この家は漁師達の家ではないのです。漁師の家は海沿いです。ここには、大工や農家などの家が坂沿いにあったようです。

高見島 うさぎ瓦
飾り瓦のうさぎ
 佐柳島と比較すると、高見島はその後は戸数・人口ともに減少していきます。それとは逆に、佐柳島は近世末から漁師の島として、戸数と人口が増えていきます。いったんは人口が急激に増えた佐柳島も高度経済成長がの中で、過疎化の波に飲み込まれていきます。

茶粥(チャガイ)を食べる島
高見島には水田がないので、米が作れませんでした。そんな島の人々が食べていたのが茶粥です。茶粥を作るときには、網目の布袋(茶袋)に茶を入れて炊き、そこへ麦・米や、薩摩芋・ササギ・炒った蚕豆・ユリネ・ハゼ(あられ)・団子等を入れていたそうです。熱いのをフウフウと吹きながら食べるのが、香ばしくあっさりしていて、美味しかったと云います。茶粥について、研究者は次のように記します。
朝飯は、暗がりで炊き、昼飯は11時頃、夕飯は、暗くなる前に食べていた。朝夕、茶粥のときもあったし、オチャヅケと言って間食を食べることもあった。畑仕事には、ヤマイキベントウと言って、麦飯の弁当を持って行ったりしていた。船での昼飯は白米のご飯だった。(御用船方の伝統か)
メシ(昼飯)、午後六時バンメシ(晩飯)・ョイメシという習慣だった。
茶粥を食べる風習は、瀬戸内にみられ、広島県から和歌山・奈良県へとつながっている。
畑作に頼っていた島の人々にとって、乏しい穀物等を入れて、出来る限り味よく、満腹感を味わおうとした、貧しいながら一つの生活の知恵であった。

 この茶粥に使われたのが以前にお話した「仁尾茶」です。
飲んでも食べてもおいしい。茶粥のために作られた土佐の「碁石茶」【四国に伝わる伝統、後発酵茶をめぐる旅 VOL.03】 - haccola  発酵ライフを楽しむ「ハッコラ」

土佐の碁石茶

仁尾茶は伊予新宮や四国山脈を越えた土佐の山間部で作られた碁石茶でした。仁尾商人が土佐で買い付けた碁石茶は、瀬戸内海の島々を商圏にしていたようです。
高見島や佐柳島では、畑仕事はすべて婦人の仕事で、肥料、収穫物を頭の上に乗せて山の上の畑まで運び上げていました。
「ソラのヤマ(はたけ)」は、ヒコシロ、マツネなどにありました。そこへ荷物を頭に載せて行き帰りしていたのです。頭上運搬のことを地元では「カベル」と云います。「ワ」を頭にすけたり、ワテヌグイをしてカベッテいました。これは女性だけの運搬方法です。男の場合は肩に担ぐか、「カルイ」で背負ったり、水の運搬はニナイ(担桶)を「オッコ」(天秤棒)で担いで運んでいました。
 女性の頭上運搬は、瀬戸内海の島々や沿岸部では近世まで見られた風俗でした。高松城下図屏風の中にも、頭に水甕を「カベッテ」って、お得意さんまで運ぶ姿が描かれていたのを思い出します。
高松城下図屏風 いただきさん
水桶を頭に乗せて運ぶ女達 高松城下図屏風

両墓制について
両墓制 
佐柳島の長崎集落の両墓制
佐柳島の北側の長崎集落では、かつては海沿いに死体を埋め、黒い小石を敷き詰め、その上に「桐の地蔵さん」という人形を立てました。それが「埋め墓」です。月日をおいて、骨を取り出し、家毎の石塔を立てた「拝み墓」に埋葬します。「埋め墓」と「拝み墓」を併せて、両墓制と呼びます。
1両墓制
佐柳島の長崎集落の埋め墓

 長崎集落の埋め墓の特徴は、広い墓地一面に海石が敷きつめられていていることです。この石は、全部海の中から人が運び上げた石だそうです。かつての埋葬にはほとんど穴を掘らず、棺を地上に置いてそのまわりに石で積んだようです。その石は親戚が海へ入って拾い上げて積みます。
 このような積石は、もともとは風葬死者の荒魂を封鎖するものでした。それが時代が下がり荒魂への恐怖感がうすれるとともに、死者を悪霊に取られないようにするという解釈に変わったと研究者は考えているようです。肉親のために石を積む気持が、死者を悼み、死後の成仏を祈る心となって、供養の積石(作善行為)に変わっていきます。
佐柳島の埋め墓で、海の石を拾ってきて積むというのも供養の一つの形なのでしょう。
 ここには寺はありません。古い地蔵石仏(室町時代?)を祭った小庵があるだけです。同じ佐柳島の本浦集落の両墓制は、海ぎわに埋め墓があり、その上の小高い岡の乗蓮寺周辺に拝み墓があります。
佐柳島への入植者を送り出した高見島の浦と浜の両集落にも、両墓制の墓地があります。

高見島 浦集落の両墓1
高見島・浦集落の両墓制

高見島にはそれぞれの墓地に大聖寺と善福寺がありました。拝み墓が成長して、近世に寺になったようです。島にやってきて最初に住持となったのは、どんな僧侶なのでしょうか?  
  この時期に、塩飽から庄内半島のエリアを教線エリアにしていたのが多度津の道隆寺明王院であったことはお話ししました。道隆寺の住職が導師を勤めた神社遷宮や堂供養など関与した活動を一覧にしたのが次の表です。

イメージ 2

 神仏混合のまっただ中の時代ですから神社も支配下に組み込まれています。これを見ると庄内半島方面までの海浜部、さらに塩飽の島嶼部へと広域に活動を展開していたことが分かります。たとえば
貞治6年(1368) 弘浜八幡宮や春日明神の遷宮、
文保2年(1318) 庄内半島・生里の神宮寺
永徳11年(1382)白方八幡宮の遷宮
至徳元年(1384) 詫間の波(浪)打八幡宮の遷宮
文明14四年(1482)粟島八幡宮導師務める。
享禄3年(1530) 高見島善福寺の堂供養導師
西は荘内半島から、北は塩飽諸島までの鎮守社を道隆寺が掌握していたことになります。その中には粟島や高見島も含まれていたようです。『多度津公御領分寺社縁起』には、道隆寺明王院について次のように記されています。

「古来より門末之寺院堂供養並びに門末支配之神社遷宮等之導師は皆当院(道隆寺)より執行仕来候」

 中世以来の本末関係が近世になっても続き、堂供養や神社遷宮が道隆寺住職の手で行われたことが分かります。道隆寺の影響力は多度津周辺に留まらず、瀬戸内海の島嶼部まで及んでいたようです。
 供養導師として道隆寺僧を招いた寺社は、道隆寺の法会にも参加しています。たとえば貞和二年(1346)に道隆寺では入院濯頂と結縁濯頂が実施されますが、『道隆寺温故記』には、次のように記されています。

「仲・多度・三野郡・至塩飽島末寺ノ衆僧集会ス」

 ここからは道隆寺が讃岐西部に多くの末寺を擁し、その中心寺院としての役割を果たしてきたことが分かります。道隆寺の法会は、地域の末寺僧の参加を得て、盛大に執り行われていたのです。
 堀江港を管理していた道隆寺は海運を通じて、紀伊の根来寺との人や物の交流・交易を展開します。
また、影響下に置いた塩飽諸島は古代以来、人と物が移動する海のハイウエー備讃瀬戸地域におけるサービスエリア的な存在でした。そこに幾つもの末寺を持つと言うことは、アンテナショップをサービスエリアの中にいくつも持っていたとも言えます。情報収集や僧侶の移動・交流にとっては非常に有利なロケーションであったのです。こうして、この寺は広域な信仰圈に支えられて、中讃地区における当地域の有力寺院へと成長していきます。その道隆寺ネットワークの中に、高見島や粟島の寺社も含まれていたことになります。
高見島 大聖寺山門
大聖寺(高見島浦集落)
 高見島では埋め墓のことをハカといい、参り墓のことをセキトウバと呼んでいます。
埋葬するとその上にむしろをおき、土をかぶせ、ハカジルシの石と六角塔婆をたて、花を供えます。四十九日の忌日には「四十九院」という1m角ほどの屋根つきの塔婆の家を埋め墓の上に建てます。四十九枚の板には経文が書かれています。
一般庶民が石碑・石塔を建てるようになったのは、江戸時代後期以後だといわれます。それまでは埋葬したところに、簡単に土を盛り、盛り石をして墓標を建てる程度だったようです。

高見島 石仏
高見島の石仏

高見島の浦のロクシには、棄老伝説が残っており、その近くには赤子薮もあったと伝えられます。古くは、死ぬと海へかえすという風習もあったようです。新仏(アラリョウ)ができると、灯ろう船(西方丸・極楽丸)に乗せて灯ろうを流す風習も残っています。

高見島には、浦に大聖寺、浜に善福寺(廃寺)がありました。
高見島 大聖寺3
大聖寺
大聖寺は、弘法大師開基の寺として伝えられています。島には次のような弘法大師伝説が伝わっています。
「片葉の葦」
「西浦のお大師さん」
「ガンの浦の弘法大師の泉」
「浜・板持の大師の井戸」
「釜お大師さん」
これを伝えた高野聖の存在がうかがえます。
  瀬戸内海の港にも、お墓のお堂や社に住み着き、南無阿弥陀仏をとなえ死者供養を行ったのは、諸国を廻る聖達だったことは以前にお話ししました。死者供養は聖を、庶民が受けいれていく糸口にもなります。そのような聖たちが拠点としたのが道隆寺や弥谷寺や宇多津の郷照寺でした。それらの寺院を拠点とする高野聖たちが、周辺の両墓制に建てられた庵やお堂に住み着き供養を行うようになります。高野の聖は「念仏阿弥陀信仰 + 弘法大師信仰 + 廻国 + 修験者」的な性格を併せ持つ存在でした。彼らが住み着いた庵の一つが、多度津の桜川河口の砂州上に広がる両墓制の墓の周辺です。それが現在の摩尼院や多門院に発展していくと多度津町史は記します。(多度津町史912P)。同じように周辺の島の港にも聖たちがやってきて、定着して念仏信仰を広げていったようです。そして近世後半になって最後に弘法大師伝説がもたらされます。

高見島 燈台2
高見島 北端の燈台 向こうが佐柳島
 高野聖たちによってもたらされた念仏阿弥陀信仰の上に、後に弘法大師信仰がもたらされて、島四国八十八ヵ所巡りが近世後半には姿を見せるようになります。瀬戸の島には、今でも島遍路廻りが春に行われている島があります。私も伊吹や粟島・本島などの島遍路廻にお参りしたことがあります。高見島にも島一周の島遍路コースがあり、石仏が祀られています。
高見島 西海岸の石仏

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献    「西山市朗   高見島・佐柳島の民俗十話」

        佐柳島(猫島)への行き方(香川県多度津町) | 旅女 Tabijo 〜義眼のバックパッカー〜            
佐柳島

佐柳島は、今は猫の島として有名になりました。
この島は、塩飽七島には数えられていません。佐柳島に人びとが住みはじめたのは江戸時代になってからのようです。高見島から七つの株をもった人名が移住して開拓をすすめ、その後に他の島からも漁民が移り住み、しだいに集落が形づくられていったようです。このため佐柳島には人名株が7つありますが、塩飽全体の650株からするとわずかな数です。そのため人名制が島の歴史に及ぼした影響は、他の島にくらべると大きなものではなかったと研究者は考えています。

 真鍋島 八幡神社3
佐柳島の八幡神社 
明治初期の統計によると、戸数275のうち、農業3、漁業267、大工3、船乗渡世2となっています。大工や船乗りになって稼ぐ人がほとんどいなかった点に、塩飽七島との違いが見れます。佐柳島は、専ら漁で暮らしをたてる島として、「渡世」してきた島のようです。
 

高見島・佐柳島(17.06.14)
佐柳島
佐柳島本浦の北はずれに八幡宮があります。
本殿は昭和28年の改修、拝殿は昭和48年の新築で、銅板葺の緑の屋根が島の緑と調和しています。住む人が少なくなった集落の中を歩いてきた私には、こんなに立派な拝殿が建っていることを不思議に思えました。

真鍋島 八幡神社4
佐柳島の八幡神社

 拝殿には新築を記念して船を操縦する舵取機が奉納されていました。漁船のものとは思われない立派なモノです。よく見ると「神戸市在住佐柳島有志」と奉納者の名があります。その上の鴨居には、本殿改修寄附者の名を連ねた額が掲げられている。地元の人に混じり、次のように神戸や大阪からの寄附者の名が多くあります。
①神戸市在住 89名
②大阪市在住 35名
③神戸市給水所 40名
④住友神戸支店 16名
⑤神戸市大正運輸 14名
⑥神戸市日本組  9名
⑦大阪市住友 43名
役所や企業ごとに人びとの名前が記されています。神戸・大阪と佐柳島が、どのように結びつくのか私には分からず「疑問のおみやげ」として持ち帰りそのままになっていました。最近、それに応えてくれる書物に出会いました。今回は、佐柳島と神戸の関係を、読書メモ代わりに記しておきます。
真鍋島 八幡神社6
八幡神社(佐柳島)の鳥居と瀬戸内海
拝殿新築したときの世話人が、次のように話されています。
新田清市氏(明治35年生)は、神戸市給水所に定年まで務め、退職後に真鍋島にもどってきた方です。本殿改修寄附者の名を連ねた③神戸市給水所40名の一人になります。
わしらの入った大正のじぶんは、船舶給水所というて、神戸港にやってくる船に給水するのが仕事です。神戸が港町として開かれたのは、 一つには水が良かったためで、神戸の水は赤道を越えてもくさることがない、といわれました。
 神戸港へ入港した船への給水には、突堤に設けられた給水孔をつかっての自家給水と、沖に碇泊したまま水船をたのんで給水するものの二とおりがありました。神戸の良い水を水船でとどけるのが私たちの仕事でした。務めていたのは、ほとんどが佐柳島の人でした。
 船が港に入り繋留すると、何番ブイの船、何トン給水をたのむ、と船舶会社から給水所に連絡がはいります。すると、水船が本船に出むきます。私が入った当時は、木造の水船を曳船がひいて本船に近づき、蒸気でポンプを動かす「ドンキ船」が付き添って給水していました。
水船の大きさは30、50、100トンの三段階で、慣れた者が大きな船に、初心者は小さな船に乗るといった具合でした。乗組員はいずれも一人で、真中に大きな水槽を備え、前後にオモテとトモの二つの部屋がつくられていました。
「給水所に勤めるといっても、戦後しばらくまでは私たちは船住いでした。水船には女をのせてはいけないというきまりがありましたから、女房や子どもたちは島において働いていました。船の中で男手で煮炊きをするという不自由な生活でした」
曳舟には船長・機関長・機関部員・甲板員二名のあわせて五名が乗り組んでいました。みんな給水所につとめる人で、船長と機関長が吏員の職に就き、機関部員と甲板員はやとわれでした。島を出て給水所につとめるときは、だれもが傭人として入りました。水船に乗りたいという人がいると、島出身の先輩が所長にたのみこむという形がほとんどでした。
 傭人として二年つとめると試験をうけて雇員にすすみ、さらに二年後の試験で正式な吏員になる道がひらかれていました。吏員になるとそれまでの日給が月給にかわり、盆・暮れの帰省も心おきなくできて、暮らしむきも安定します。

 八幡宮の拝殿を建替時に、新田さんは島に帰って年金暮らしを送っていたようです。そして、発起人として寄附の呼びかけをすると、神戸や大阪で活躍する多くの佐柳島出身者から巨額の金が集まったようです。水船で働く仲間のなかには、吏員にすすめぬまま年老いてしまった人もいました。彼らからも同じように島へ志が寄せられてきたといいます。ここからは、神戸港の水船は佐柳島出身者によって運営されていたことが分かります。

真鍋島 八幡神社5
八幡神社(佐柳島)の鳥居
佐柳島出身者には、ハシケ(艀)にのって暮らしをたてる人びとも多くいようです。
八幡宮の本殿改修寄附者の額には、住友神戸支店、神戸市大正運輸、神戸市田本組、そして大阪住友と阪神の企業の人びとの名が記されていました。彼らは輸送会社や倉庫会社で働き、ハシケのりとして港湾労働で汗を流した人だちだったようです。ハシケは水船とちがつて、ふつう夫婦でのりこみ、子どもも船の中で育てたようです。また、見習いとしてやとわれた「若い衆」も同乗していました。
 住友運輸のハシケに夫と一緒にのっていたという岩本クニさん(明治42年生)のインタビュー記事には、次のように記されています。
 いまは楽させてもろうてますが、憶えてこのかた働きずめでした。小学校から帰ると、母親が百姓しよる畑のわきで乳飲み児の子守です。母は乳がでなかったので、背中に負うた児がよく泣きよりました。ハラすかしてな。マメをペチャペチャかみくだいては、口元にもっていったものです。日暮れちかくになると母より一足先に家に帰り、ご飯をたいてその児と二人で畑の母を待つ毎日でした。学校をおえると、こんどは岡山の紡績工場づとめです。主人といっしょになったのは20歳のときです。主人は14歳で神戸に出て、ハシケにのっていましたので、私もいっしょに船の中で暮らすようになったのです」

 こわかったのは、何といっても台風のときです。下の娘が三つくらいやったろうか、三十数年前に大嵐にあいました。避難の途中で、曳船のロープがプツンと切れてね。いあわせた船にやっとの思いで肪わせてもろうたが、今度は、その船ともども流されたんよ。二隻とも嵐にやられてしまうと思って、泣き泣きロープをほどいたのですが、 一時はもうダメかと思いました。せめて子どもの命だけはと思うて、トモに寝ていた娘をおこしてだきかかえました。海の中へとびこんだらだれかが助けてくれるのではないかと思うてね。そうこうしよるうちに救助船が近づき、命からがらのりうつったんです。

海が平穏であっても、海上での暮らしはちょっとの油断でたいへんなめにあいます。とくに幼児のいる母親は、たいへんだったようです。
ある夏の晩、ハシケの上で家族そろって夕涼をしていました。スイカを切ろうと下の娘に包丁を取りに行かせたんですが、なかなかもどってこない。上の娘に見に行かすと、あわてて帰ってきよるん。どうしたと聞くと「妹が海に浮いとるん、といいよるの」
 大いそぎで引上げたところ、息があった。水もさほど飲んでいないようで、ほっと胸をなでおろした。
「子どもはえろう元気なもんです。ケロッとした顔しておきあがって「おかあちゃんスイカ」といいよるんです。海の水をのんでまだスイカをほしがるんよ」
戦後間もない頃、配給米をもらいに出かけた夫が夜になってももどってこない。どうもヤミ米を買いに行ったと間違えられて、警察の留置所に拘束されているらしいとのこと。夜中の12時には、荷役の仕事がはいっているので、船を出さないわけにはいけん。曳胎の船長さんに、やんわり曳いてや、いうて私がハシケの船頭になって舵をとりました。上の娘が五つか六つくらいのときやったろうか。眠い目をこすりながらロープの上げ下げを手伝うてくれてね……」
ハシケでは、あるときは女が男の代役をつとめ、子どもまでその仕事を手伝ったようです。
 しかし、働きさえすれば白い米を思うそんぶん口にできることは幸せでした。ハシケを所有する会社からは、男・女・子どもを問わず一日一人五合の白米の配給がありました。それがハシケのりの大きな魅力です。
「年に何度か島に帰ると、少しずつ残しておいた米でおむすびを山のようにこしらえて、隣近所に配ったものでした。ええ土産物だと喜ばれました。ハシケの人はええなあ、と島の人にうらやましがられたものです」
と、戦後間もないころの物質が不足していた時代を岩本さんは回想しています。

ハシケの暮らしは、電気・水道・ガスがありません。そのため石油ランプを灯して明かりとし、煮炊きには、流木をひろったり、造船所で木の切れ端をもらつてきて燃料としました。野菜や日用品は、港に碇泊する船をめあてに巡回してくる「ウロウ船」から買います。ときには船からあがって、ハシケの女たちが連れだって市場に買出しに出かけることもありました。それは、息抜きのひとときで、ささやかな楽しみでした。

 洗濯と給水は、神戸港の突堤で行なっていました。
「水はほんとうは買わにゃいけんけど、私ら佐柳島のもんは、おおかたタダで使わせてもろうていました。 給水所の人が佐柳島の出の人でしたから、給水所のお役人がいくら厳格いうても、そのあたりはおおめにみてもろうていました」
 ある日、突堤で洗濯をしていたら、いつもとちがう人がみまわりにやってきました。そして、なにしよんぞととがめられました。よくみると、里の隣の家の息子です。実家の井戸によくもらい水にきていた家の子なので、子どものころからよく知っていました。そこで、すかさずこう云いました。。
「何いうとるん、あんた、うちの井戸でうぶ湯をつかったやないの」
その人は驚き、私の顔をまじまじと見て、なつかしさのあまり声をあげた。
「クニさんかいなあ。ほうかいなあ。なんぼでもとれや、かまわん、かまわん」

ハシケの船住いも昭和30年代半ばで終わりをつげたようです。
 岩本さんが神戸のまちへ陸上りすると、ハシケにのっていた佐柳島の仲間たちもしだいにそれにならい、近所に寄り添うように住みはじめます。そして、陸の家から弁当をもってハシケに通う暮らしに変わっていきます。
 そのころから神戸港の浚渫がすすみ、本船が埠頭に横づけされるようになり、コンテナ船なども登場し、荷役作業のあり方が変わっていきます。そして、ハシケや水船は姿を消して行きます。

真鍋島1
八幡神社の前の浜
 佐柳島の二人の話からは、神戸の水船やハシケなどの港湾運営に佐柳島の人々が縁の下の力持ちとして活躍していたことが分かります。
 佐柳島は近世になって入植された島なので、塩飽の島々のように船乗りや大工などの職人として、島外に出る伝統がありませんでした。しかし、神戸が近代的な港町として発展していく中で、ハシケヤ水船に関わり、その発展に寄与していたようです。
佐柳島歩きについては、こちらにアップしました。
ttps://4travel.jp/travelogue/11285847

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一と歩いた昭和の日本 第五巻
中国・四国2 宮本常一とあるいた昭和の日本5』田村善次郎監修他 - 田舎の本屋さん


丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制地割
丸亀平野は古代の鵜足郡、那珂郡、多度郡にあたり、整然とした一辺約110mの方格地割がみられます。しかし、よく見ると土器川や金倉川沿いなどには乱れがあります。それでも、全体としてみると統一性のある方格地割になっているようです。この地割は、古代の条里制との関わりで説明されています。律令体制の「班田収受制」を行うための整備という位置づけです。しかし、条里制の格地割形成については、次のような説や見解が出されています。
①班田制と方形地割形成を別個に考えて、両者が備わった段階を「条里プランの成立」とする金田章裕氏の説
②発掘調査からみて灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできないという説
③当初の方格地割と現在の地割にはずれがあり、段階的に成立したとする説

丸亀平野の広がる「条里型地割」の施工がどこまで遡り、 またどのような変遷をたどるのかを考古学的に見ておきましょう。テキストは「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」です。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
       善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図

丸亀平野では、1983(昭和58)から高速道路の発掘調査が大規模に行われました。広範囲な発掘調査が行われたことで、土地条件・地質環境に情報も格段に増え次のような事が分かってきました。
①丸亀平野の形成時期は、3万年以前の更新世に遡ること
②完新世以後は高燥化が進んで、河川岸に段丘崖を形成し、平野面は剥削環境にあったこと
③そのため旧河道などの低地帯を除くと、用水路以外の地割痕跡は考古学上の遺構としては把握することはできない
これは、地割を考古学的に追究する上でのデメリットですが、あえて発掘調査で出てきた「溝」に研究者はこだわります。土器川西岸に接する川西北鍛冶屋遺跡を一番東側として、西は旧多度郡の乾遺跡まで、高速道路建設での発掘調査の行われたで延長約6kmの東西に長い15遺跡のデータを並べたのが第2表です。
丸亀平野の条里制3
高速道路建設ルート上の丸亀平野の各遺跡

すべての遺跡の調査範囲の中には合計57箇所の坪界線が机上では想定されます。それが、発掘では溝として、どのように出現しているのかを見ていきます。
第2図からは、Ⅰ期(7世紀以前)にかなり広範囲に溝の分布があったことが分かります。各遺跡毎に見ると、次のようになります。
①Ⅰ期の溝が少ないのが、川西地区、龍川地区、永井・中村地区
②Ⅰ期の溝が多いのが、郡家地区、金蔵寺地区、稲木地区
ここからは、①が条里制施行が遅れたエリア、②が先行したエリアであったことがうかがえます。②は郡衙や準郡衙的な遺構があった所で、前時代からの首長の拠点と目されるエリアです。条里制地割溝には、早く施工された地域と遅れて施工された地域に偏りがあるようです。押さえておきたいことは、丸亀平野全体が一斉に、条里制工事が行われたわけではないことです。中世になって開かれた所もありますし、土器川や金倉川に至っては近代になって開墾された所もあるの以前にお話ししました。それでは、地図の東側から順番に各エリアを見ていくことにします。各遺跡図はクリックで拡大します。

丸亀 川西遺跡
a.川西北鍛冶屋遺跡(13).川西北七条Ⅱ遺跡(14)(第3図)

土器川西岸にある上図2つの遺跡群では、はっきりとした地割が見えます。弥生時代前期以降の小規模な南北方向の溝が多くあり、6世紀後半から7世紀末まで使用された出水状遺構(SX-01)があります。出水状遺構は、伏流水を灌漑用に利用するために微高地上に掘られた土坑(井戸?)で、いくつもの用水路で水田に導かれています、
 調査区内には5本の縦方向坪界と、1本の横方向坪界が見えます。
縦方向は東SR01・SD11・ SD13と2町間隔で、比較的大型の灌漑水路が想定坪界線に沿って見えます。これらは10~11世紀頃に掘られたものです。その前段階の8~9世紀と考えられる溝が、SD-12やSD-10などの斜め方向に伸びる溝です。そして、各所で南北に派生する溝が付属しています。
 これらの溝は条里型地割の方向性に一致していて、田地区画は地割に沿った方向であったことがうかがえます。したがって、平安期に坪界溝が掘削される以前にすでに、出水状遺構(SX01)を水源とする地割施工があったと研究者は考えています。
出水状遺構(SX-01)から伸びる各溝が、あるときに南北方向から地割にそった方向へ変化していることに研究者は注目します。
 出水状遺構(SX-01)が埋没するのは7世紀末~8世紀初頭頃です。ちょうど南海道が伸びてきて、丸亀平野に条里制が施行される時期になります。SD70が現状地割を基準として、半町の位置にある点、また斜めに走行するSD40・41が南北半町の位置で坪界線に合致する点からみて条里型地割のようです。ここからは、7世紀末~8世紀初頭までには地割が行われた後も、引き続き出水状遺構(SX01)を水源とする灌漑水路を維持されたことがうかがえます。それが平安期になって、大型の灌漑水路が坪界に整備されることで、その使命を終えて埋められたと研究者は考えています。

b.郡家原遺跡(19)(第4図)

丸亀平野 宝幢寺池水系
郡家周辺の旧河川跡(清水川)

郡家原遺跡は、大規模な旧河道域(清水川)の周辺に広がる遺跡です。
旧河道を遡ると宮池・大池を経て旧河道を利用して築堤された宝幢寺池があります。この池の中には白鳳期の宝瞳寺跡があることは、以前にお話ししました。南海道も、この池のすぐ南を通過しているので、郡家という地名から、この旧河川の岸のどこかに、那珂郡の郡衙があったと研究者は考えています。
丸亀 郡家原遺跡
郡家原遺跡

 郡家原遺跡は、5坪分(A~E坪)にまたがって調査区が設定されています。弥生時代後期後半に集落が営まれ、地形に従って溝が緩やかにカーブしながら伸び、古墳時代の溝も微髙地を反映した方向をもっていたようです。
坪界にあたる溝は、縦軸がSD-140・148、SD-191・189で、横軸がSD-231になります。
溝出土の遺物は7世紀末~8世紀初頭以降のもので、これが掘削時期を示しています。このうちSD-140・148は、中世以後も使用された堆積状況を示します。その他の溝は10世紀前半頃までに一旦は埋没し、その後13世紀頃に再掘削されたり、隣接地へ水路変更されています。中世になって、新たな用水路が整備されたようです。
 8世紀の奈良時代の集落がA・C・D坪にあります。
 同じ規模の建物・倉庫など等質的な3グループだったようです。出水状遺構はA坪とC坪にあります。出水状遺構が集落にあるので、井戸として使われていた可能性がありますが、この場合は坪界の水路より出水状遺構の溝の方が深く掘られているので、坪界にある基幹的水路をリレー的に結ぶ灌漑用の水源として使われていたと研究者は考えているようです。
 研究者が注目するのは、出水状遺構から伸びる用水路です。
一坪を縦に5分割した場合の東から2本目のラインと一致します。特にSD77は、南北半町の位置まで斜めに走行し、そこから屈曲してラインに合わせています。C坪では出水状遺構は見られませんが、SD175がSD77と同じ位置で北流しています。このようにみてくると、各グループの建物の配置も、東西3区画と南北半町の範囲に限定されて計画的な村落景観が地割整備と共に現れたことが分かります。

郡家原遺跡の出水状遺構は、北方に広がる水田用のものとされます。
土地条件に応じて小規模水源を組み合わせ、微高地の水田に導水していたようです。用水路は遠くまで延ばす際には、深い水路と浅い水路を立体交差させる必要が生じてきます。そのためには、高松市太田下須川遺跡、同市浴・松ノ木遺跡で出土した長さ3mほどの木管が水路を立体交差させる場合に必要となります。 
 条里制施工後の状況については、A坪の出水状遺構は平安期まで続い利用されています。ただしSD77は、9世紀代遺構には埋没して、SD73に付け替えられています。SD77等に見られたきちんとして坪内区画は、9世紀以降には見えなくなります。また、この時期になると建物配置にも、方向性やその内容に規格性がなくなります。それでも、坪界の地割溝は残ります。坪内の区画は乱れても、坪界を中心とする条里型地割には影響を与えていないようです。ここに全体として、丸亀平野の条里制的な景観が残った秘密がありそうです。
丸亀平野遺跡分布図4
丸亀平野遺跡分布図 西部版

金倉寺下所遺跡(第5図) 
金倉川西岸は、条里型地割が広範に乱れた地域になっています。
善通寺 金倉下所
金倉川下所遺跡周辺の旧河道

金蔵寺下所遺跡は、遺跡の西側に蛇行する小さな旧河道と金倉川の間の狭い微高地上に立地します。
西側の旧河道は最大幅6、5mの自然河川です。遺構の北側には、微高地上を穿って流れていて、南側の自然河川から水を引くための用水路であった可能性が高いと研究者は考えています。同じ位置に古墳時代の溝もありますが、弥生時代のものより溝底が高いことから、自然河川の堆積による水位の上昇に対応して掘り直されたようです。小規模河川の蛇行部から取水し、微高地上に用水路を掘開して下流の水田に導水するというやり方です。どちらにしても、この遺跡が弥生から古墳・律令期と長い期間にわたって存続していたことが分かります。
善通寺 金倉下所
           金倉川下所遺跡

 この微髙地には、次の3つの建物群があります。
①7世紀末~8世紀初頭の溝(SD04)を挟んで東西両側に正方位をもつグループ。建物は合計9棟で、その内総柱倉庫が溝の東に2棟ある。
②同時期の遺物が出土する溝(SD-06)の両側に、現状地割と同一の方向性をもつグループ。合計8棟で、総柱倉庫は、やや大きさが小さくなり、溝の東に1棟。
建物方位によって区分できる①②群は、建物の規模や構成点で共通性があり、前後関係は柱穴の切り合いからみて、①から②へ変化したと考えられます。建て直された時期は、7世紀末~8世紀初頭で、従来の建物構成を維持したまま条里型地割の方向性に沿って建て直されたと報告書は記しています。これも、時期的に見て条里制施行に伴う集落の再編成事業の一環のようです。

  SD06の東には、建物を区画するような5~7条の溝が並行して掘削されています。
 ここからは9世紀までの遺物が出土しているので、建物群も9世紀頃までは存続したことが推測できます。建物群の東端には最大幅10mの溝がありますが、ここには鎌倉時代前半期頃までの遺物が包まれています。そのため次の時期の小規模柱穴で作られた建物群と研究者は考えています。これが三つ目の建物群になります。
 
以上から、7世紀末~8世紀初頭の集落の再編成時において、建物や溝は条里制地割の方向性に沿って建て直された。しかし、中世になると、人々の意識の中には、地割の意識はなくなり建物はバラバラの方向に建つようになった。それでも溝は、地割ラインが残ったと云えそうです。


d 稲木遺跡(第6・7図)    
善通寺 稻木遺跡
稲木遺跡
稻木遺跡は、遺跡の中央を斜めに旧河道が横切っていました。
これが6世紀末までに埋没して水田域となります。また東肩部の微髙地では竪穴住居群が廃絶した後に一帯が水田化しています。西岸は比較的高燥な微高地で弥生時代には、方形周溝墓や竪穴住居が営まれています。微髙地の南では、7世紀後半から8世紀前半の掘立柱建物群が出ています。 
善通寺 稻木遺跡3
稲木遺跡(東側)

 この遺跡でも7世紀末頃に、それまでの建物構成を維持ながら村落の再編が行われたようです。これも条里制施行に伴う再編事業の一環のようです。建物の一部には、区画溝があるのも金蔵寺下所遺跡と似ています。また、建物区画溝が坪界に一致しない点も共通します。灌漑水路をみると、周辺縦軸の水路については10m内外の誤差が認められますが、おおむね坪界と一致します。横軸については、溝はないようです。
善通寺 永井遺跡
永井遺跡                   
 永井遺跡は、縄文時代後晩期の自然河川が埋没して作られた微高地上に立地します。
弥生時代以降、遺跡中央の浅い凹地をカーブを描きながら走行する多数の溝があります。凹地にあった水田の導排水のための灌漑水路と考えられます。これらは7世紀前半頃に埋没しています。その後の水路は、遺跡東端の水路に移っていきます。遺跡の東側とされる段丘肩部を等高線に沿って2~3条の溝が走行します。埋土の中には8世紀後半から平安期の遺物が含まれています。この溝は段丘下にあった自然河川から取水し、微高地上に新たに拓かれた水田に導水する用水路と研究者は考えています。先の浅谷部も埋没して平坦化され、遺跡の東側一帯が耕地化したようです。
 ここで研究者は注目するのは、遺跡東端の溝群が坪界の交点で屈曲して、坪界線に沿って北流することです。同じような川西北鍛冶屋遺跡でもありましたが、地形・水利上の制約を受けながらも、可能な所は坪界に合致させています。溝の掘削段階には、すでに地割の企画があって、それに基づいて田地形状や溝の位置が決められたことがうかがえます。
遺跡中央部のSD42は、8世紀中頃以前に掘削された坪界の溝(SD45)が埋没した後に、逆に等高線に沿ってカーブをを描きながら伸びていきます。これは地形・水利上の問題が当初設計よりも深刻であったので、新しく削し直したと研究者は考えています。

遺跡西側には鎌倉~室町時代の区画溝をもつ宅地が広がっています
横軸は坪界線|こ、坪界線と一致する溝が2町以上にわたって続いています。しかし、縦軸は宅地区画溝とは、合致しません。平安期の溝が埋没した後に、周辺の田地形状がどのように編成されたかを示す材料乏しいのですが、縦方向にも多少ずれた地割があった可能性は残ります。

こうして研究者は、現在の条里型地割に一致する溝を拾い出して、宅地や潅漑水路の変遷を見ることによって、現在の地割の位置づけを行いました。その上で、改めて条里型地割の変遷を見ていきます。
 条里制地割が行われ時期が分かるものとして、研究者が挙げるのは次の資料です。
①川西北鍛冶屋遺跡の出水状遺構
②郡家原遺跡の地割に沿った溝と、それに先行する建物
③金蔵寺下所遺跡や稲木遺跡の宅地の再編成時期
  これら遺構は、7世紀末~8世紀初頭に施工された条里制遺構である可能性が最も高いと指摘します。
宅地から見ていきましょう。
 稲木遺跡、金蔵寺下所遺跡では、集落がそれまでと同じ構成・規模のままで、新しい条里制地割にあわせて再編成されています。郡家原遺跡では縦横軸ともきちんと坪界に一致して、3つの坪にきわめて整然とした宅地が配置されていました。坪内も半折型を基調とした区画を示す材料が揃っているので、計画的村落と云えそうです。それまでの建物群が「小規模散在的」なので、集落単位の再編成というよりも、「新計画集落」の建設と捉えた方がよさそうです。7世紀末~8世紀初頭頃に、条里制とともに集落の再編成も併せて行われたようです。この際に、1つの集落単位の再編成にとどまる遺跡は、地割との整合性にやや欠ける部分があります。それに対して、複数の集落を越える規模で再編成されたと考えられる郡家原遺跡には、厳密な計画性と整合性が見られます。

灌漑水路の整合を見ておきましょう。
どの遺跡でも、この時期に灌漑技術が飛躍的に発展したことを示すものはありません。小河川や出水状遺構などの小規模水源を利用した弥生期以来の潅漑技術を応用したものです。「灌漑施設の大規模で革新的な技術が必要な方格地割の広範な形成は、古代末頃にならないとできない」という説を改めて確認するものです。ここからは、古代の満濃池について、もう一度見直す必要がありそうです。大きな池が造られても灌漑用水路網を整備・管理する能力は古代にはなかったことを考古学的な資料は突き付けています。「奈良時代に作られ、空海が修復したという満濃池が丸亀平野全体を潤した」というのは「古代の溝」を見る限りは、現実とかけ離れた話になるようです。

 出水遺構については、川西北鍛冶屋遺跡で1基、郡家原遺跡で2基ありました。
どちらもそこから水路が伸びているので、灌漑に使用されたことは疑いありません。川西では6世紀後半以前に掘削された水路で、弥生期の溝と同一の方向から、8世紀初頭に地割に方向を合わせた水路へと掘り直され、その後は埋没しています。郡家原遺跡では、宅地割りの一角にあり、南北半町の地点まで斜めに導水した後、現在の地割方向に曲げられています。これらは坪界に合致するものではありませんが、すぐ横に坪界に位置するやや浅い水路が伸びています。坪界水路が田地へ用水を供給するポイントでは、再び屈曲させて坪界に一致して走行した可能性が高いと研究者は考えています。

地割の整合について郡家原遺跡と稲木・金蔵寺下所遺跡で違いがありました。
この差がどこから来るのかを研究者は次のように考えます。
郡家地区は、宝帷寺周辺にあったとされる那珂郡衙と同一の小河川(清水川)水系に位置します。善通寺地区においても、仲村廃寺や善通寺跡などの古代寺院が集中するエリアにある生野本町遺跡では、7世紀末~8世紀初頭の条里型地割の中に、規格的な建物群が建っていたことは以前にお話ししました。このように、郡衛周辺エリアでは、規格性の高い地割施行が行われたようです。

条里制地割施行後の変遷には、次の2点がポイントになると指摘します。
①平安末頃に大規模な灌漑水路が掘開される段階
②近世になって「皿池」が出現する段階

まず①について、平安末頃以降になると各所で大規模な溝が掘開されるようになります。
川西地区、郡家地区、龍川地区では地割に沿った位置に、大きな溝が見られます。大規模な溝が掘られるようになった背景には、それまでの小規模水源からの灌漑技術の革新がうかがえます。この時期の水路は坪界に位置しないものも多く、郡家原遺跡など前代の坪界の水路から横方向にずれて設置されたものもあります。この理由を研究者は次のように考えています。
 たとえば小河川の付替工事の場合を考えると、より広い潅漑エリアに配水するためには、それまでは、小規模な溝を小刻みに繋いでいく方法が取られていました。それが大規模用水路を作る場合には、横方向の微妙な位置調整が必要となります。田地割がすでに完成している地域では、それまでの地割との大きなずれは避け、地割に沿って横方向に導水する水路が必要が出てきます。これが平安期以後に横軸の溝が多く作られるようになった理由と研究者は考えています。

 地形的条件だけでなく、地割に関する規制が薄れたことも考えられます。
金倉寺下所、永井の各遺跡では、平安期以降になると宅地配置に地割と整合しないものが出てきます。軸のズレだけでなく、方向の異なる掘立柱建物も各所で現れます。これは、郡家原遺跡の出水を源とする水路が、平安前半段階になると、区画を無視して掘り直しされている時点からすでに現れています。この時点では、律令国家の土地政策の変容が始まっていたことがうかがえます。それが受領国司の登場であり、郡衙廃止という動きであることも以前にお話ししました。
受領国司

江戸時代になって新たに採掘された水路はほとんどありません。
その理由は、条里制施工時に作られた灌漑用水路が、姿を変えながら現在の幹線水路となり維持管理されているからと研究者は考えています。ということは、現在の灌漑用水路網は、条里制施工時にほぼ形成されていたことになります。
 近世になって造られた満濃池を頂点とする丸亀平野の灌漑網も基本的には、それまでの地割を引き継ぐ水路設定がされています。そのため古代以来未開発であった条里制の空白地帯や地割の乱れも、従来の条里制の方向性に従った地割になったようです。つまり従来の地割に付け加えられるような形で整備されたことになります。これが、現在も条里制遺構がよく残る丸亀平野の秘密のようです。しかし、繰り返しますが、この景観は長い時間を経てつくられたもので、7世紀末の条里制施工時に全てが出来上がったものではないのです。

 7世紀末~8世紀初頭段階で横軸の設定が厳密でなかった稻木遺跡や金蔵寺下所遺跡周辺では、今でも地割の乱れが見られます。
これが現在でも「乱れ」として分かるということは、条里制施行当時に統一的な地割規格があったことを示すと同時に、「乱れ」の形成要因が古代の施工時まで遡るものであったことを示すと研究者は指摘します。
以上をまとめておきます。
①丸亀平野の条里制地割の施工開始時期は、7世紀末~8世紀初頭
②この工事は、それまでの潅漑技術を応用する形で地形条件を克服し、宅地地割と水田地割を同時に行うものであった。
③そこには灌漑技術の革新があった痕跡はない。
④そのため施工されなずに放置された「空白地帯」も多くあった。
⑤条里制施行エリアは、現在の条里型地割とほとんど一致する。
⑥郡の範囲を超えて、一元的企画が地割施工開始以前にあった
⑦その意味では、条里制規格プランが7世紀後半まで遡る可能性がある。
⑧地割の基準や工法については、坪界縦軸の整合が高い

②については、一つの集落を単位とした宅地・水田の再編成と、ある一定の地域を広範に、規格化・再編成する2つのねらいがあったようです。この背景には、施行を行った政治勢力の本質的な差が現れていると研究者は指摘します。それは中央政府と首長層から転進した郡長ということになるのでしょうか。地域の「律令化」を考える上で、重要な視点になりそうです。
 ⑧の坪界縦軸について、歴史地理学は南海道のルートが先ず決められ、直線的に額坂と大日越を結び、それに直角に郡境が引かれ、それが縦軸になったとします。これが考古学的に発掘された各遺跡の溝の方向からも実証された結果となります。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 
  「森下英治 丸亀平野条里型地割の考古学的検討  埋蔵文化財調査センター研究紀要V 1997年」
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天正10年(1583)6月、本能寺で天下統一の事業半ばで信長は倒れます。代わって羽柴秀吉は、後継者の地位を固めると、翌年には、本願寺のあった石山の地に大坂城を築き、天下統一の拠点とします。そして1585年には、秀吉は土佐の長宗我部元親を討つための四国遠征軍を準備します。信長亡き後の混乱を予想していた長宗我部元親にとって、秀吉が意外なほどの早さで天下統一事業を立て直し、実行してくることに驚きと脅威をもって見ていたかもしれません。 
 このころ小豆島や塩飽は、秀吉の「若き海軍提督」と宣教師が名付けた小西行長によって統治され、瀬戸内海の海軍(輸送船)の軍事要衝的な性格を帯びていたことは以前にお話ししました。当然、塩飽にも行長の家臣が、船の準備をするために滞在していました。
小西行長と塩飽・小豆島の関係を年表で押さえておきます。
天正 8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)を所領
天正10年(1582) 小豆島の領主となる
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正15年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。このように東瀬戸内海エリアを秀吉の「若き海軍提督」の小西行長が高速船で行き交い、海賊たちを取り締まり「海の平和」が秀吉の手で実現していきます。
 ところが芸予諸島周辺では、小早川隆景配下の能島村上氏は海賊行為を続けていたようです。天正13~14頃の秀吉が小早川隆景に宛た朱印状には、次のように記されています。
能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事、無是非次第候間、成敗之儀、自此方雖可被仰付候、其方持分候間、急度可被中付候、但申分有之者、村上掃部早々大坂へ罷上可申候、為其方成敗不成候者、被遣御人数可被仰付候也、
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐とのヘ
意訳変換しておくと
能島(村上武吉)の事については、今でも海賊行為(関銭取り立て)を行っていると伝え聞くが、これは言語道断の事である。これが事実かどうかは分からないが、もし事実であれば、秀吉自らが成敗をくわえるべきものである。しかし、小早川隆景の家臣なので措置は、そちらに任せる。再度、関銭取り立てなどの行為禁止を申しつける。ただし、申し開きがあるなら村上掃部(武吉)を大坂へ参上させよ。そちらで成敗しないのであれば、(秀吉)が直接に軍を派遣して処置する。
九月八日                     (秀吉朱印)
小早川左衛門佐(小早川隆景)とのヘ
 ここからは「海賊禁止」を守らずに、芸予諸島海域で関銭取り立てを続ける村上武吉への秀吉の怒りが伝わってきます。これに対して、小早川隆景を秀吉に全面的に屈することなく、配下の村上武吉を守り通そうとします。小早川隆景と武吉をめぐる話は以前にお話したので省略します。

「海の平和」実現のために天正16年(1588)7月に出されたのが「海賊禁止令」です。
これは、刀狩令と同時に出されていますが、この刀狩令に比べるとあまり知られていないようです。海賊禁止令は、次のような三条です。
3 村上水軍 海賊禁止令
秀吉の海賊禁止令(1588年)
意訳変換しておくと
一 かねがね海賊を停止しているにもかかわらず、瀬戸内海の斎島(いつきしま 現広島県豊田郡豊浜町の能島村上氏の管轄エリア)で起きたのは曲事(不法)である。
一 船を使って海で生きてきた者を、調べ上げて管理し、海賊をしない旨の誓書を出させ、連判状を国主である大名が取り集めて秀吉に提出せよ。
一 今後海賊行為が明らかになった場合は、藩主の監督責任として、領地没収もありうる
第一条からは、再三の警告に対しても関銭取り立てを続けている村上武吉に対して出されたものという背景がうかがえます。
第二条は、経済的には海の「楽市楽座」のとも云える政策で、自由航行実現という「秀吉による海の平和」の到来宣言とも云えます。まさに天下統一の仕上げの一手です。
  しかし、これは村上武吉などの海賊衆から見れば「営業活動の自由」を奪われるものでした。「平和」の到来によって、水軍力を駆使した警固活動を行うことはできなくなります。「海の関所」の運営も海賊行為として取り締まりの対象となったのです。村上武吉は、これに我慢が出来ず最後まで、秀吉に与することはありませんでした。
 これに対して塩飽衆は、どうだったのでしょうか。
その後の歩みを見てみると、塩飽衆は「海賊禁止令」を受けいれ秀吉の船団としての役割を務め、その代償に特権的な地位を得るという生き方を選んだようです。それは家康になっても変わりません。それが人名や幕府の専属的海運業者などの「権利・特権」という「成果」につながったという言い方もできます。 
 どちらにしても、中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海をから離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆だったことは以前にお話ししました。今回は、秀吉政権下での塩飽の動きをもう少し追いかけて見ましょう。
秀吉の九州遠征と塩飽
 海賊禁止令が出される2年前の1586年に、秀吉は塩飽島年寄中に朱印状を発給し、島津攻めのため、塩飽へ軍用船を出すことを命じています。当時の背景を見ておくと、秀吉は九州で抗争を続けていた薩摩の島津義久と豊後の大友宗麟に対して和睦勧告をします。それに対して、島津氏が無視したため、島津氏討伐のために九州へ出陣準備を進めます。豊後へ侵入した島津勢に対する大友勢の救援として、まず毛利輝元・吉川元春・小早川隆景が主力として豊前へと向かいます。一方、四国征伐後に秀吉は、次の九州出陣に備えて四国への大名配置を行っていました。事前の計画通り、讃岐の仙石秀久が十河存保や長宗我部元親等の四国勢を従えて豊後へと出陣します。
 この時の九州遠征には、塩飽に対して輸送船徴発が行われています。それが秀吉朱印状に残されています。
豊臣秀吉朱印状(折紙)
 今度千石権兵衛尉俄豊後江被遣候、然者当島船之事、雖加用捨候五十人充乗候船十艘分可相越候、則扶持方被下候間、壱艘二水主五人充可能出候也、
八月廿三日                   (朱印)
塩飽年寄中
3塩飽 秀吉朱印状

意訳変換しておくと
 今度の仙石秀久の豊後出陣に際して、塩飽の輸送船を次の通り準備すること。50人乗の船十艘と1艘について水夫5人、合計50人を提供せよ。
八月廿三日                        (朱印)
塩飽年寄中
 これを見ると50人乗の船10艘と水夫50人を塩飽は負担することを命じられています。ここからは塩飽船は、秀吉直参の輸送船団にに組み込まれたことがうかがえます。
薩摩攻めの時には、次のように記されています。
御兵糧米並御馬竹木其外御用御道具、大坂より仙台(川内)江塩飽船二而積廻し候様二と、年寄中江被仰付、早速島中江船加子之下知有之

意訳変換しておくと
兵糧米や兵馬・竹木などの外の軍事物資について、大坂から薩摩川内へ塩飽船で輸送するようにとの、塩飽年寄中に申しつけられたので、早速に島中へ船水夫のことを伝達した

ここからは兵糧・武器の輸送を 塩飽船が行ったことが分かります。ここでも軍船は出していません。研究者は、この文書の宛先が「塩飽年寄中」となっていることに注目します。薩摩攻めの史料にも「年寄中江被仰付」と「年寄中」という言葉が見えます。ここからは年寄と称す何人かの年寄で、島を統治していたことがうかがえます。これが江戸時代の塩飽の四人の年寄につながっていくようです。ここでは、秀吉の九州攻略以降、塩飽は豊臣政権下に組み込まれていたと研究者は考えています。
  九州制圧が終わると朝鮮出兵への野望を膨らませながら秀吉は、小田原の北条氏攻めを行います。
秀吉にとっては「小田原攻め」は、戦略物資の輸送に関しては次に控える「朝鮮出兵」の事前演習的な所もあったようです。ここでも塩飽船が活動しています。兵糧米を大坂から小田原へと輸送していることが、次のように記されています。
「(塩飽)島中之船加子数艘罷出候処、御手船ハ勢州鳥羽浦二乗留メ、彼地二逗留致延引候、塩飽島ハ不残小田原へ乗届、御陣之御用立相勤中候」

意訳変換しておくと
塩飽島中の船や加子が数艘動員された。秀吉の御手船(直属輸送船)は鳥羽浦に留まりで逗留したが、塩飽船は全て小田原まで乗り入れ、兵粮や戦略物資を運び入れ、任務を果たした。

ここからは、秀古の手船は鳥羽浦までしか行かなかったのに対して、塩飽船は太平洋の荒波を越えて小田原まで航行したと、操船能力の巧みさを自画自賛しています。秀吉は四国・九州遠征を通じて水軍編成を計っていきます。小田原攻めの時には、秀吉の直属の九鬼嘉隆の率いる水軍をはじめ、毛利水軍・長宗我部水軍・加藤嘉明水軍も動員され、相模湾には、水軍が蟻のはい出る隙間もないほど結集したと云われます。この時にも塩飽船は、軍船ではなく兵糧輸送船として徴用され活躍していることを押さえておきます。

北条氏を減ぼして全国統一を果たした秀吉の次の野望は、朝鮮半島でした。古代ローマ帝国と同じく領土拡大を行う事で、秀吉政権は成長してきました。領土拡大がストップすることは、倍々ゲームで成長してきた企業が成長0になることにも似ています。政権の存続基盤が失われることを意味します。それを秀吉は朝鮮出兵、中国への侵入という大風呂敷を広げることで帳尻を合わせようとしたのかもしれません。すでに九州遠征の時から「唐入り」の野心を膨らませていたのです。誇大妄想的な野望かも知れませんが、そのために取られた準備は用意周到なものでした。各地の城の修理や増築を行い備えた上で、朝鮮出兵の拠点として肥前名護屋城の普請を行います。また朝鮮への渡海のための船の建造を進め、全国の大名にも船舶の建造命令を出しています。
これにともない塩飽でも船の建造が行われたことが、次の秀次朱印状から分かります。
③豊臣秀次朱印状(折紙)
大船作事為可被仰付、其国舟大工船頭就御用、為御改奉行画人被指遣候間、成共意蔵入井誰々雖為知行所、有職人之事、有次第申付可上候者也、
十月十二日                   (朱印)
塩飽
所々物主
代官中
意訳変換しておくと
大船の造船を命じることについて、舟大工や船頭の雇用が必要なることが考えられるので、奉行を派遣して職人の募集を行う事、また危急の際なので、給料や人物にこだわることなく使える職人は、すべて雇用すること、

この文書には、年次がありませんが文禄九年(1592)と研究者は考えているようです。船大工の雇用に当たっては「蔵入並並に誰々雖為知行所」とあるように、少々人件費高くとも人間的に問題があっても使える職人は全て雇へという命令です。
 また、この文書で研究者が注目するのは宛先が「塩飽 所々物主 代官中」となっていることです。ここからは、この時期の塩飽には代官がいて、秀吉の直轄統治が行われていたことが分かります。この文書を受けた塩飽代官は、どうしたでしょうか。塩飽には中世以来の海上輸送の物流基地で船大工もいたでしょうがその数も限られていたでしょう。塩飽以外の地からも多くの船大工を呼び入れたはずです。そこで、各地からやってきた船大工句の間で、造船技術の交流・改良が行われたことは以前にお話ししました。同じ事は、小豆島でも同時並行で行われていたようです。

船を建造するだけでなく、塩飽船は朝鮮出兵にも動員されていることが、次の文書から分かります。

「文禄九年高麗御陣之時、七ケ年之間、御手船御用之節、豊臣秀次様御朱印を以、御用被為仰付、塩飽船不残、水主五百七拾余人、高麗並肥前日名護屋両所二相詰、御帰陣迄御奉仕候、其節之御朱印二通」

意訳変換しておくと
文禄九年の朝鮮出兵の時は、7年間に渡って、御手船御用を言いつかっていた。そして、豊臣秀次様から御朱印をいただき、御用を仰せつかり、塩飽船は残らず、水主570余人とともに、高麗と肥前の名護屋城の両方に詰めて、出兵が終わり帰陣するまで御奉仕した。その時の御朱印が二通ある。

塩飽勤番所に残された2通の朱印状は、文禄二年(1593)に豊臣秀次から出されたもので、次のような内容です。
豊臣秀次朱印状
名護屋へ医師三十五人並に下々共外奉行之者被遣候、八端帆継舟式艘申付、無由断可送届者也、
文禄二年二月二十八日                (朱印)
志はく(塩飽)船奉行中
これは名護屋へ医師35人と奉行衆を八端帆継舟二艘で送り届けよという命令書で、宛先は塩飽船奉行です。もう1通は竹俣和泉の名護屋派遣について、兵と軍資を継舟で送るように指示しています。
⑤豊臣秀次朱印状
竹俣和泉事、至名護屋被指下候、然者、上下弐拾人並荷物「儀」(後筆)十荷之分、継舟二て可送届者也、
文禄弐年三月四日                 (朱印)
塩飽船奉行中
この継舟というのは八端帆船のことと研究者は考えています。これ以前の元亀二年(1571)来島・因島衆との海戦に、塩飽の八端帆船三艘が活動しています。ここから塩飽船は、八端帆船が主役であったと研究者は考えているようです。ここでも、動員されているのは軍船ではありません。
では八端帆船とは、どのくらいの大きさの船だったのでしょうか?
当時は帆一反につき櫓四挺の割合になるようです。すると8端×櫓4=32挺櫓で、長さ約20尺程の船になります。そこに乗り組む水夫は、漕ぎ手が32人+αで、武者も同じくらい乗船するので70名程度になるようです。
村上水軍 小早船
毛利水軍書の「小早」(村上海賊ミュージアム)

毛利水軍書の「小早」と称される船にあたるようです。③で「大船作事可被仰付」とありましたが、塩飽が大船を多数保有していたなら、それほど建造する必要もなかったでしょう。それまでの塩飽には、大船がなく八端帆船が多数を占めていたため「大船作事」命令となったと研究者は推測します。
3  塩飽 関船

ここからも、塩飽は八端帆継舟による海上輸送にあたっていたことがうかがえます。塩飽船は、大坂と名護屋を結ぶ継舟として文禄の役に徴発されます。④⑤の文書の宛名は「塩飽舟奉行」となっています。船奉行の支配下のもとに、瀬戸内海を通じて大坂・九州名護屋の間の物資・軍兵輸送を塩飽船が担ったと研究者は考えています。

 確かに塩飽は、文禄の役に多くの船と水夫を出しています。
そのために江戸時代には、朝鮮出兵で活躍の証が秀吉・秀次朱印状で、それが徳川の「塩飽船方衆(人名)」につながったとされてきました。これは、本当なのでしょうか? 
 西国大名の朝鮮出兵に関する研究が進むにつれて、塩飽だけが特別に負担が多かった訳ではないことが分かってきました。九州大名と舟手の水軍大名は、本役(百石につき5人の動員)、四国・中国大名は四人役(百石につき四人)と、石高に応じて軍役(人夫と水夫)が課せられていたようです。人夫や水夫の負担が多い大名の中には、軍役の2/3に達する藩もあります。これから考えると、塩飽に対しても検地に基づく石高で、軍役負担が課されたようです。天正18年(1590)に塩飽で行われた検地では、650人の舟方が軍役負担者として義務つけられます。これをもとにした軍役が、朝鮮出兵の時にも課せられているようです。それは決して特別重い軍役ではないと研究者は考えています。
 今までの通説では、次のように云われてきました。
塩飽は文禄の役の際には、他と比較にならぬほど多くの船と水夫を出した。それは、塩飽が豊臣の御用船方であり、船舶が堅牢で水夫が勇敢かつ航海技術が優れていたからである

しかし、これは塩飽を美化したものに他ならないと研究者は指摘します。九州などでは塩飽以上に多くの一般民衆が人夫や水夫として徴発されている事実からすれば、塩飽のみが重い負担であったとは云えないようです。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 橋詰茂 織豊政権の塩飽支配 瀬戸内海地域社会と織田権力所収  思文閣史学叢書2007年
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  前回までに、塩飽の信長への従属関係を示す「信長朱印状(塩飽勤番所)見てきました。今回は、もう少し広い視野で塩飽を巡る瀬戸内海の勢力関係を見ておきましょう。

最初に、塩飽と能島村上氏の関係を見ておきましょう。いつから塩飽は能島村上氏の傘下に入ったのでしょうか?
永正五年(1508)、能島村上氏は、周防の大内義興が前将軍足利義植を擁して上洛した時に海上警固役を勤めた恩賞として、次のように細川高国から塩飽島代官職を与えられています。
就今度忠節、讃岐国料所塩飽嶋代官職事宛行之上者、弥粉骨可為簡要候、猶石田四郎兵衛尉可申候、謹言
卯月十三日         高国(花押)
村上官内大夫殿
この文書からは、16世紀初頭から塩飽は能島村上氏の支配下に入っていたことが分かります。この支配が戦国後期にも続いていたことは、永禄十三年(1570)6月に、村上水軍の統率者であった村上武吉が塩飽島廻舟に宛てた次の文書から裏付けられます。

豊後の戦国大名大友宗麟の家臣本多鎮秀の上方への航行に対して「便舟之儀、不可有異乱候」と命じていること、

ほぼ同じ頃、大友宗麟が村上武吉に対して、堺港まで家臣を差し上すについて、塩飽津における公事銭徴収を免除してくれるよう依頼していること

 その後、能島村上氏は毛利氏に従うようになるので、塩飽も村上氏を通じて毛利氏の支配下にあったことになります。
「毛利氏 ― 能島村上氏 ― 塩飽衆」という関係が大きく変化するのは、元亀二年(1571)になってからです。
この年の五月に、阿波三好氏の重臣篠原長房は、阿讃の兵を率いてふたたび備中児島に侵攻します。前回と異なるのは村上武吉が、豊後の大友氏と通じて毛利氏に背いていたことです。 一方、備前の浦上氏も大友氏の支援を受けて毛利氏に対して挙兵します。次の書状は大友宗麟が、村上筑後守らに宛てたものです。
今度村上武吉被申候、至塩飽表有現形、各被顕心底之段感悦候、弥至武吉以入魂堅固之御覚悟肝要候、猶自杵越中守可申候、恐々謹言、
二月十二日           宗麟
村上筑後守殿
村上内蔵太夫殿
村上源左衛門尉殿
村上輔三郎殿
村上平右衛門尉殿
村上丹後守殿
この宗麟書状からは、村上筑後守ら村上水軍が塩飽島(本島)を拠点に、塩飽衆を率いて備前の浦賀氏を支援していたことが分かります。この時の塩飽は村上武吉の反毛利勢力の拠点の一つであったようです。
 一方、三好方の篠原長房は宇多津に在陣して、児島に侵入した阿讃軍の総指揮に当っています。長房の子長重は、元亀二年正月に、宇多津西光寺に禁制を発した文書が残っています。これは、阿讃勢の字多津集結を示すものと研究者は考えています。これをまとめておくと次のような構図になります。
 塩飽本島 大友氏方 村上水軍ー塩飽衆
 宇多津  毛利氏方 阿波三好・篠原長房 

  能島村上氏が毛利氏と争っているときに、塩飽衆は能島に水と兵糧を送り込もうとします。その時の記録が毛利藩に残されています。
態申遣候、(中略)、沖口之儀能嶋要害為合力、阿州衆岡田権左衛門塩飽者共相催、以船手水兵糧差籠候処、沼田警固井来嶋・因嶋衆懸合、敵船八端帆三艘切取、宗徒之者数十人討果之由候、相残舟之儀務司麓繋置之、(下略)
七月十七日           輝元御判
内藤彦四郎殿
其外番衆中
意訳変換しておくと
報告いたします。(中略)村上武吉の能島は要害で、なかなか攻略が出来ない。そんな中で阿州衆の岡田権左衛門と塩飽衆が、船で兵糧を運びこもうとしたのを、沼田警固や来嶋・因嶋村上水軍が見つけ、敵船・八端帆三艘を拿捕し、乗組員数十人を討果した。残舟も務司城の麓に係留した、

これは毛利方の史料だから、割り引いてみなければならないものでしょう。それにしても、一方的な敗北だったようです。ここにも前回お話ししたように、塩飽衆の性格が現れているようです。つまり塩飽船の任務は、能島に水・兵糧を搬入することで、毛利水軍と合戦するための軍事行動ではなかったのです。塩飽は水軍ではなく、輸送部隊であったことが裏付けられます。

また、この文書の「阿州衆岡田権左衛門、塩飽の者共相催し」に研究者は注目します。
塩飽船は、村上一族の者によってではなく、阿波三好氏の岡田権左衛門に率いられて、兵糧輸送に出発したと読めます。ここでは、塩飽衆が次第に阿波の篠原長房の支配下に置かれ、それが、阿波三好氏、香西氏らの強い影響下に留まることになっていったと研究者は推測します。そして、香西氏が信長に着くと、その影響下にあった塩飽も信長傘下に入っていくという道筋が見えてきます。

1565 5・19 三好義継・松永久秀ら,足利義輝を攻め殺す(言継卿記)
1567 6・- 篠原長房,鵜足郡宇多津鍋屋下之道場に禁制を下す(西光寺文書)
1568 11・- 香西氏,阿波衆とともに,備前の児島元太の城を攻める.
       香西又五郎配下のもの,児島元太勢によって討たれる(嶋文書)
   6・- 阿波の篠原長房,讃岐国人を率いて備前で毛利側の乃美氏と戦う
   9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する(言継卿記)
1569 6・- 篠原長房,鵜足郡聖通寺に禁制を下す(聖通寺文書)
1570 6・15 能島の村上武吉が塩飽衆に対して,大友義鎮配下本田鎮秀の堺津への無事通  行を命じる(野間文書)
   9・- 石山本願寺の顕如が,信長に対し蜂起する(石山戦争開始)
1571 1・- 篠原長重,鵜足郡宇多津西光寺道場に禁制を下す(西光寺文書)
   5・- 篠原長房,備前児島に乱入する.
 6・1 足利義昭,小早川隆景に,香川某と相談して讃岐へ攻め渡ることを請する     
   7・- 塩飽衆,阿波の岡田権左衛門に属し.伊予能島に兵粮を送るが,沼田警固衆   
       並びに来島・因島衆に襲われ船3艘・船方数十人討たれる
   8・1 足利義昭,三好氏によって追われた香川某の帰国援助を毛利氏に要請する.
   9・17 小早川隆景が岡就栄らに,讃岐へ渡海し,攻めることを命じる        
   10・3 足利義昭が吉川元春に,阿波・讃岐を攻めることを命じる(吉川家文書)
1573 5・13 三好長治が大内郡引田に船で襲撃し、篠原長房・長重父子を討つ
   8・- 宣教師がカブラルが塩飽島で8日間滞在。この間,宿の婦人がキリシタンとなる 7・4 足利義昭,山城槇島城で織田信長に対し再度挙兵する.ついで同月18日,信 長に降伏する〔室町幕府崩壊〕
1574 10・- 三好長治が三好越後守・篠原入道らに,勝賀城の香西氏を攻めさせるが,墜とせず退く
   10・- 三好越後守・大西覚養など寒川郡昼寝城を攻めるが落とせず退く
1575 4月、 河内高屋城に拠っていた三好康長(笑岩)が信長に服従
5・13 宇多津西光寺が石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する
   5・25 備前の浦上宗景が安富盛定に書を送り,宇喜多直家との合戦の状況を伝え,協力を求める
1576 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
 5月 淡路の安宅信康が、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じらる。
7・13  毛利軍が,第一次木津川の戦いに勝利し,石山本願寺に兵粮を搬入する   
  8・29 宇多津西光寺が,石山本願寺顕如より援助の催促をうける
   この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める
1577 2・1 奈良玄蕃助が三好越後守より,鵜足郡津郷内皮古村を与えられる
   2・ 宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃される。
   3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書)
    3・  三好長治が死亡
   7・- 元吉合戦 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う
   11・- 毛利氏が讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方および讃岐惣国衆と和す
1578 1        三好長治死亡後に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐ
   この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
   この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する
  11・16  第2次木津川の戦いで、織田信長の水軍が毛利水軍を破る

1575年4月に三好康長(笑岩)は信長側につきます。その後信長の意を受けて、康長(笑岩)は阿波・讃岐の諸将への懐柔工作を行い、信長に従うように勧めます。翌76年には、その誘いに応じた天霧城の香川之景や勝賀状の香西佳清は信長に服します。以後、香川之景は信長から一字を与えられて信景と名乗ります。東讃の安富氏も羽柴秀吉を通して信長に従うようになります。これらは『南海通記』に記されていることなので、そのまま信じることはできませんが、香川之景がこのごろから名乗りを信景に変えているのは事実ですから、『南海通記』のこの記事も認めておくことにします。そうすると1577年2月に、宇多津沖で毛利方の兵糧船が攻撃されていることと辻褄は合います。信長方についた多度津の香川氏が、配下の水軍山路氏などに毛利船攻撃を命じたことがかんがえられます。その反撃として、村上水軍による信長方の船舶への「無差別攻撃」も行われるようになった可能性はあります。そのような中で信長が堺代官に命じたのが、「3・26の堺に至る塩飽船の航行保証(塩飽勤番所文書)」ということになります。
また阿波では、強硬な反信長派であった篠原長房が、1573年5月に三好長治によって討たれます。そしてその4年後の1577)3月には、その長治も亡くなってしまいます。翌78年1月に、十河存保が堺から阿波に帰って来て、三好の家督を継ぐことになります。存保は、それ以前から信長支配下の堺にいて、その影響下にあったようです。さらに淡路の安宅信康も信長に属していたようで、天正4年5月に、信長から毛利水軍に対する迎撃を命じられています。このような情勢のなかで、塩飽も信長方に強く引き付けられていったと研究者は考えています。

塩飽が信長方に引き付けられていた過程を見てきました。
しかし、注意しておきたいのは、塩飽水軍が信長の水軍に組み込まれたことを意味するものではないことです。信長の松井友閑宛の朱印状にあるように、塩飽船は塩飽と堺とのあいだを往来し、通商活動行っていました。また、塩飽衆が信長方にがついた時期を年表で見る限りは、塩飽船の軍事的輸送力を必要とするような軍事的緊張は見当たりません。塩飽船が上方と讃岐を結んで軍兵や軍事物資を輸送した様子はないようです。
 では、何のために塩飽船が堺港に出入りしていたのでしょうか?
それは主に通商のためだったとであろうと研究者は考えています。
塩飽本島笠島の年番を務めた藤井家に伝わる「塩飽島諸訳手鑑」の中の「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」には、信長の朱印状について次のように記されています。
信長様御代之時塩飽嶋中な方々材木薪万事御用御使被成候御ほうひ廻船之御朱印塩飽嶋中堺之津にて被下候其刻御取次衆宮内卿法印以御取次頂戴仕候御事
意訳変換しておくと
信長様の時代には、塩飽嶋の方々は「材木薪万事御用御使」として、木材や薪を海洋輸送して、その褒美に廻船朱印状を堺湊でいただいた。その時の取次代官が衆宮内卿法印である。

 ここでは、塩飽船が材木・薪を廻船で運んだ、その恩賞に朱印状をもらったと記されています。塩飽船が運んでいた材木・薪は、 一部は軍事用に使われたかもしれませんが、多くは「方々より」の御用に使用された商品だったと研究者は考えています。
 『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)の一年間に兵庫北関を通った船は1900隻あまり記されています。その船舶は、塩、米や麦・胡麻などの雑穀、海産物、材木、そのほか膨大な量のさまざまな物資を西日本各地の港から上方へ運んでいます。そのうち材木の量は37000余石〆で、塩の10600余石につぐ量になります。これらの品々は上方の人々の生活にとって欠かせないものでした。阿波の三好氏の上方での成長も材木輸送と販売を経済的な基盤にしていたことが知られています。
 毛利水軍が、天正四年七月に木津川の戦いで信長水軍を破ったことによって、東瀬戸内海の制海権を掌握したと云われてきました。
 その制海権は、軍事物資を石山本願寺に搬入するルートを確保したという点では、その通りかも知れません。しかし、商品輸送をも含めた上方への流通路を手中に納めたとまではいえいようです。毛利氏は赤間関・尾道・鞆など主要な港町を直轄地や一門領として支配しました。しかし、領国内の港の船だけで瀬戸内海の商品流通をカバーするのはできません。また領国を超えて毛利氏の勢力下にない備前・播磨・讃岐などの東瀬戸内海沿岸諸国の港や船まで統制して、それらを毛利氏の流通支配下におくようなことはできるはずがありません。瀬戸内海沿岸諸国の船は、今まで通り内海を往来し、上方へ商品を運んでいたはずです。塩飽船もそのなかに交じって、材木その他の品々を積んで堺港に出入していたのでしょう。
 しかし、天正四年の木津川での信長水軍の敗北以後、東瀬戸内海エリアでの反信長派水軍(村上水軍)による海賊行為が活発になったことは想像できます。信長方とみなされた船への襲撃、掠奪は、頻繁に行われたでしょう。村上方を寝返って信長方に付いた塩飽船などは、眼をつけられて狙われたでしょう。こうした情況に対して、信長政権としては、塩飽船の航行の安全を保証することが必要となり、発したのが松井友閑宛の信長朱印状であったと研究者は考えています。
この時期は、木津川の戦いで信長水軍が一時崩壊した時期です。そんな時に海賊停止を命じた信長朱印状が、どれだけ実際の効力を持ち得たかは疑問です。これに対して、国島氏は次のように指摘します。

 封建権力は自己の支配下にあるもの、あるいは支配下に入れようとするものに対して、実効性の有る無しにかかわらず、その権利や安全を保証することを宣言しなければならない。眼前の情況にとらわれてそれをためらうなら、彼の権力は支持者を失って崩壊するだろう。またその保証がいつまでも空手形のままであっても、支持者が離反して権力は衰退する。信長政権は九鬼水軍を用いて、毛利水軍・紀州一揆水軍を壊滅させたことによって、保証を現実のものとし、権力の強大さを誇示した。

  塩飽は、その後も信長の配下に在り続けたように私は思っていました。
ところが、そうではないようです。その後の史料をみると、塩飽は再び毛利氏―能島村上氏の支配下に取り込まれています。どうして信長から村上武吉側に再び、立場を変えたのでしょうか
天正七年(1579)の2月から3月にかけて、毛利氏は、信長方とみられる備前児島や姫路の商船が九州へ下るのを阻止するため、備中鞆から周防柳井・大畠に到る領海で海上封鎖を行います。
  この時、鞆の河井源左衛門尉が鞆と塩飽の間の警備を命じられています。ここからは、塩飽がこの時期には毛利氏の海上警備の一翼を担っていることが分かります。
 また1581年3月(日本暦天正九年二月)、イエズス会巡察使バァリニャーノ一行を乗せて豊後を出発した船が、バァリニャーノとの約束に反して塩飽の泊に入港します。その時の塩飽には、能島村上氏の代官と毛利氏の警吏がいて、一行の荷物を陸に引き揚げて、綱を解きこれを開こうとして騒いだと宣教師の記録にはあります。ここからは塩飽が、村上武吉の支配下にあったことが裏付けられます。
 当時の東瀬戸内海をめぐる信長と毛利氏との争いを年表で見ておきましょう。
天正6年2月、播磨の別所長治が、10月には摂津の荒木村重が、本願寺に通じて信長に背く。
天正7年9月 荒木村重が伊丹城をすてて尼崎へ移って没落
   10月 毛利氏に属していた備前の宇喜多直家が信長に降伏、
  8年1月 別所長治が羽柴秀吉の攻撃をうけて播磨三木城で滅亡
    3月、石山本願寺が信長と講和し、法主顕如は大阪を去って紀州雑賀に退く。
天正9年10月 吉川経家の守る因幡国鳥取城が羽柴秀吉の包囲を受け、経家が開城。
このような背景の中で、塩飽の信長方から毛利方への転換したことになります。毛利氏は塩飽を、どのようにして取り込んだのでしょうか
研究者が指摘するのは、天正5年間7月の毛利氏の讃岐侵攻である元吉合戦です。元吉合戦については以前にお話ししましたが、簡単に振り返っておきます。
 多度郡元吉城にいた三好遠江守が、阿波三好氏に背いて毛利氏に寝返ります。これに対して阿波三好氏は配下の中讃の武将長尾・羽床氏らに元吉城攻撃を命じます。これに対して元吉城を護るために、毛利輝元は乃美宗勝らの警固衆を援軍として送り、毛利勢は多度津に上陸し、元吉城の西南摺臼山に着陣します。こうして天正五年間7月20日、毛利軍と長尾・羽床・安富・香西・田村・三好などの阿波・讃岐勢が激突し、後者が敗れ去ります。勝利した毛利軍は毛利一族の穂田元清を大将とする軍勢が派遣し、阿波・讃岐勢を威圧します。戦後の緊張関係が続く中で、鞆に亡命していたいた前将軍足利義昭が和平調停に乗りだし、毛利軍は11月には、長尾・羽床氏から人質をとって讃岐から引き揚げていきます。鞆の足利義昭の思惑は、毛利と三好を結ばせて信長に対抗させることでした。
  この合戦によって、毛利氏の勢力が讃岐におよぶことになったと研究者は考えています。
  『香川県史』はこの事情を次のように記します。
  「元吉合戦は、毛利氏の本願寺救援と瀬戸内海制海権奪回をめざす目的をもった戦いであった。讃岐を押えることにより、信長の制海権を破壊しようとしたのであった」

  讃岐を押さえると同時に、塩飽の支配を回復しようとするのは、毛利側にとっては当然の戦略です。だとすれば、塩飽は天正6年11月の第2次木津川の戦いでの毛利水軍の敗戦以前に、毛利側に取り込まれていたことになります。
 もし、そうだとすると塩飽の立場は強固に信長を支援するような立場ではなく、状況に応じての信長支援だったことが考えられます。信長からすれば「塩飽は信用ならぬもの」として猜疑心をもって塩飽の行動を見ていたことが考えられます。そのように見てくると、信長朱印状(塩飽勤番所)について、次のように解釈した橋詰茂説は妥当性をもつことになります。

塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したもの

 この解釈によれば「違乱之族」とは、密かに本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。

塩飽勤番所に保管されている信長朱印状をめぐる謎と疑問は、いろいろなことを私たちに考えさせてくれます。どちらにしても貴重な史料です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 
『香川県史2・中世』446P
山内譲著『海賊と海城・瀬戸内の戦国史』114P

   
前回は塩飽勤番所に保存されている信長朱印状は、塩飽に特権を認めたものでないという説を紹介しました。それを最初に「復習」しておきます。
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。
信長朱印状
 信長の朱印状(塩飽勤番所)
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
この文書の解釈について、通説では次のように解釈されてきました。

 堺湊に出入りする塩飽船については、これまで通り塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない特権を持っていた。つまり港に入っても、その周囲の船はよけろという「触れ掛り特権」を信長が再確認したものだ。これに違反する違乱の族がいれば成敗せよ、と堺代官・宮内部法印(松井友閃)に命じたものである

瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
橋詰茂 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 

これに対して、橋詰茂氏は、次のような異論を提示しました。
第1に、「触れ掛り」の特権を示すとするが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が「触れ掛り」を示す文言とはいえないこと。
第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、堺代官の松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権も持っていたように云うが、本来このような権限は、堺代官の持つ権限であること。
第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈にすぎない。
このような視点から信長の朱印状と云われる文書を、橋詰茂氏は次のように解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは本願寺に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行う可能性のある塩飽船です。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
この橋詰氏の「信長朱印状=塩飽特権付与説否定説」については、反論が出されています。
それを今回は見ておきましょう。テキストは「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」です。
まず他の信長発給文書との構成比較を行います。例として出されるのは、石山本願寺に味方する越前朝倉氏との対決姿勢を強めた信長が、越前と大阪のあいだの連絡を遮断するために出された文書です。
従当所大阪へ兵根を入事、可為曲事候、堅停止簡要候、若猥之族二をいては聞立、可令成敗之状如件、
四月五日           (信長朱印)
平野荘
 惣中
近江の姉川から朝倉のあいだの通行を商人も含めて、陸路・水路ともに一切禁上し、この禁令を破るものは成敗するように木下秀吉に命じています。
次の文書は、商人に紛れて本願寺に入ろうとするものがあるから、不審者は厳しく取り締るようにと細川藤孝に命じたものです。
従北国大阪へ通路之諸商人、其外往還之者之事、姉川より朝妻迄之間、海陸共以堅可相留候、若下々用捨候者有之ハ、聞立可成敗之状如件、
七月三日
細川兵部太輔殿
         (信長朱印)

 研究者が注目するのは、何に対して、どう取り締まれという具体的な名称が書かれていることです。これと天正五年の松井友閑宛の信長朱印状を比べて見ましょう。
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 塩飽船と石山本願寺との連絡を監視して取り締るように堺代官の友閑に命じたものであれば、秀吉や細川藤孝に命じたものとスタイルが同じになるとはずだと研究者は指摘します。文章表現や構造が違うと指摘します。つまり、秀吉や藤孝に出した命令書と松井友閑宛の書状とは性格が異なるとします。

 橋本氏は「違乱之族」を、裏切りの可能性のある塩飽衆としました。
しかし、国島氏は「塩飽船に保証された堺港出入を犯すもの」とします。つまり、反信長方を指すというのです。その理由として、前年七月に信長水軍を木津川口で破って勢いづいた毛利水軍・紀州の水軍は、堺港に出入りする塩飽船に対しても妨害行動をとりはじめます。それに対して、従来からの塩飽船の堺港出入を改めて保証し、それを妨げるものを成敗することを示す必要が生じたために出されてものとします。そして、松井友閑宛の信長未印状は、友閑によってただちに塩飽船の責任者に与えられたとします。
 この説では「違乱の族」とは、塩飽船を妨害する村上・紀伊水軍など反信長勢力を指すことになります。そしてそれを成敗するのは、堺代官ということになります。信長は、味方に付いた塩飽船の活動を保護するために、この朱印状を堺代官に出したという説です。

 この説には、次のような問題点が残ります。
 信長の松井友閑宛文書(信長朱印状)が塩飽にもたらされたのは、前回述べたように元禄13年以後のことです。元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。その時には、この朱印状があれば必ず取り上げているはずです。とすると元禄の時点では、塩飽にはなかったということになります。信長朱印状が登場してくるのは、享保になってからなのです。松井友閑宛の信長未印状は、すぐには塩飽にはもたらされていないようです。

 国島氏が反論点としてあげるのは「塩飽水軍」は軍事的に頼りになる存在だったのかということです。
信長が松井友閑宛に朱印状を発した目的は、塩飽衆を信長方に取り込むためというのがほぼ通説です。塩飽を取り込むとは、その水軍としての軍事力を取り込むことだと考えられてきました。 

瀬戸内海に於ける塩飽海賊史(真木信夫) / 蝸牛 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

真木信夫氏は次のように述べています。

「織田信長は古来海上輸送に大きな活躍をし、海上の戦闘にも強勇の名を轟かせている塩飽船に着目し、これを利用して天下統一の具に供しようとした。

それでは塩飽水軍の実力とは、どんなものだったのだったのでしょうか。
塩飽水軍と称しながら、村上水軍のような強大な軍事力を所持していたのか。海賊衆として瀬戸内海で活動しているが、海上軍事力は弱小であった。香西氏の児島合戦に参陣していることは前に述べたが、兵船の派遣であり、海上軍事力としては村上氏におよぶものではない。むしろ操船技術・航海術にたけた集団とのとらえ方が重要であろう。軍事力というより加子としての存在が大きかったのではなかろうか。船は所有していたが、その船を用いて兵を輸送する集団であり、自ら海戦を行う多くの人員は存在しなかったと考えられいる。

 ここからは以前にお話したように「塩飽水軍はなかった、あったのは塩飽廻船だった」と、研究者は考えていることが分かります。塩飽の水軍力は期待できるものではなかったようです。そうだとすると、
信長は「塩飽船を用いて安芸門徒の流通路の壊滅をはかり、そして塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはか」ることが期待できたかと問われると、「?」が漂います。

第一次木津川口の戦い - Wikipedia
第一次木津川の戦い 村上水軍の勝利で本願寺に兵粮輸送成功

 塩飽が信長方に寝返ったとされる時期は、毛利・村上水軍が織田水軍を木津川口に破って意気盛んな時期です。

そんな時期に塩飽は、村上水軍を敵にまわし、信長についたことになります。しかも海上戦闘力では、塩飽は村上水軍の足下にも及ばない存在なのです。本気で信長の命じるとおり、本願寺支援ルートの遮断を考えていたのでしょうか。ちなみに、塩飽船が村上水軍と戦ったという記録はありません。
船の戦い
信長の鉄船が登場した第2次木津川の戦い

 天正6年(1578)6月、大阪湾に新兵器の鉄船が姿を現します。
船の長さ約20m余り、幅32m、大砲三門を備えた大鉄船7隻です。伊勢の九鬼水軍に操られて、阻止しようとした紀州の門徒水軍をけ散らし、11月には木津川口で六百余艘の毛利水軍を壊減させます。この鉄船は信長の命令によって建造されたもので、天正5年の春ごろには建造が進んでいたようです。信長は毛利水軍・紀州門徒の水軍の壊減は、伊勢の九鬼水軍に担わせていたのです。
 以上からは信長は、塩飽勢に軍事的な期待はしていなかったことがうかがえます。
 信長が塩飽船に期待したのは、あくまで海上輸送ではなかったのでしょうか。村上水軍の交易船に代わって、塩飽船を重用するというものではなかったかと私は考えています。これは、備讃瀬戸から大阪湾にかけてのエリアで独占的な交易権を認められたものだった可能性があります。だからこそ、その利権に惹かれて、塩飽衆は村上武吉を裏切り、信長側についたのではないでしょうか。
 そういう意味では、「信長による塩飽水軍の軍事力取り込みという説」というのは、確かに疑問です。「信長による塩飽船への広大な市場提供」が塩飽を信長側に付けたと言い換えた方がよさそうです。

 以上、信長朱印状が塩飽に対しての行路独占を認めたものではないという新説への反論を見てきました。塩飽衆の海軍力は期待できるレベルではなかったという点には、教えられるものがあります。

以上から次のような説を、私は考えて見ました。
①信長は石山本願寺との長期戦を終わらせるには、毛利の本願寺支援ルートを遮断する必要があると考えた。
②軍事的には、九鬼水軍に鉄船造船を命じて対応させた。
③一方瀬戸内海の経済活動については、毛利配下にある村上水軍などの交易船の上方の寄港停止などの経済封鎖を行った。
④その際に、信長が交易権を与えたのが塩飽衆であった。
⑤そのため塩飽船は、村上水軍など反信長側の船舶から攻撃を受けるようになった。
⑥これに対して、信長は松井友閑宛文書(信長朱印状)で、塩飽船保護と危害を加える反信長方の船舶への成敗命令を堺代官に命じた。

⑤については命じただけで、実質的な軍事行動が行われることはありません。ただ「天下布武」を掲げる信長としては、このような形で威厳を示す必要があったと私は考えています。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 
参考文献
「国島浩正  信長の塩飽への朱印状についての再検討 」

信長朱印状
  信長の朱印状(塩飽勤番所)
   
 天正五年(1577)三月二十六日付で織田信長が「天下布武」の朱印を押して宮内卿法印に宛てた文書が、塩飽本島の勤番所に保管されています。これが信長の朱印状とされています。 
 堺津に至る塩飽船上下のこと、先々のごとく異議有るべからず、万二違乱の族これ有らば、成敗すべきものなり。
   天正五年三月廿六日     (朱印)天下布武
     宮内部法印  (松井友閃)
 信長朱印状は、もともとは折紙であったのを上下半分に切り、上半分を表装しています。縦14、9㎝・横41、3㎝で、朱印は縦5,5㎝、横4,7㎝の馬蹄形です。 印判がすわっていますが、これが信長の有名な「天下布武」の朱印です。讃岐にかかわりのある信長の朱印状はこれだけだそうです。宛先の宮内卿法印とは、信長が直轄領としていた和泉国堺の代官松井友閑のことです。

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この文書の解釈について、真木信夫氏『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』は、次のように記します。

「先々の如く」とあるのは従来より塩飽船に与えられていた「触れ掛り」と称する海上の特権を指したもので、堺港への上り下りの塩飽船は航海中にても碇泊中にても船綱七十五尋の海面を占有することのできる権利である。信長は従来よりのこの特権を再確認し、万一この占有海面を侵犯する者は処罰するようにと、堺の代官である宮内卿松井友閑に令したものである。

 これが従来の定説で、「触れ掛り特権」とは「塩飽船から七五尋の範囲は、塩飽船以外はいっさい航行できない。港に入ってもその周囲の船はよけろ」という特権です。これを侵したものに対しては塩飽衆が「成敗」できることを信長が再確認したのだ、といわれていました。館内の説明書きもそう書かれています。

塩飽 信長朱印状説明
信長朱印状(塩飽院番所の説明書き)

 これに対して橋詰茂氏は「讃岐塩飽における朱印状の検討」の中で、次のような疑問を提出します。

第1に、「触れ掛り」の特権を示すと云うが、その基になる「触れ掛り」特権を示す史料がないこと。従来よりの言い伝えをもとに、「触れ掛り」特権としたにすぎない。ここからは「如先々」が、必ずしも「触れ掛り」を示す文言とはいえない。

第2に、塩飽船の「触れ掛り」特権を許容したものならば、松井友閑宛ではなく、塩飽中宛にするはずである。通説は「可成敗」を、塩飽船が成敗権を持っているように考えているが、本来このような権限は塩飽船のみに与えられるものではない。これは堺代官の持つ権限である。

第3に、天正5年という時代背景を考えず、ただ特定の文言だけをとりあげての解釈である。

第3の指摘にを受けて、文書が発給された天正5年(1577)3月前後の讃岐の年表を見ておきましょう。
1575 天正3 (乙亥)
① 5・13 宇多津西光寺.織田信長と戦う石山本願寺へ.青銅700貫・米50石・大麦小麦10石2斗を援助する(西光寺文書)
1576 天正4 (丙子)
②8・29 宇多津西光寺向専,石山本願寺顕如より援助の催促をうける(西光寺文書)
 この頃 香川之景と香西佳清,織田信長に臣従し,之景は名を信景に改める(南海通記)
 2・8 足利義昭,毛利を頼り,備後鞆津に着く(小早川家文書)
③7・13 毛利軍が木津川の戦いで信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮を搬入する(毛利家文書)
1577 天正5 (丁丑)
④3・26 織田信長,堺に至る塩飽船の航行を保証する(塩飽勤番所文書 信長朱印状?)
⑤7・- 毛利・小早川氏配下の児玉・乃美・井上・湯浅氏ら渡海し,讃岐元吉城に攻め寄せ,三好方の讃岐惣国衆と戦う(本吉合戦)
 11・- 毛利方,讃岐の羽床・長尾より人質を取り,三好方・讃岐惣国衆と和す(厳島野坂文書)
1578 天正6 
 この年 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
 この年 宣教師フロイス,京都から豊後に帰る途中,塩飽島に寄り布教する(耶蘇会士日本通信)
 11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る(萩藩閥閲録所収文書)
1582 天正10 4・- 塩飽・能島・来島,秀吉に人質を出し,城を明け渡す(上原苑氏旧蔵文書)
 5・7 羽柴秀吉,備中高松城の清水宗治を包囲する(浅野家文書)
 6・2 明智光秀,織田信長を本能寺に攻め自殺させる〔本能寺の変〕
1574(天正2)年4月、石山本願寺と信長との石山戦争が再発します。翌年には年表①にあるように宇多津の真宗寺院の西光寺は本願寺の求めに応じて「青銅七百貫、俵米五十石、大麦小麦拾石一斗」の軍事物資や兵糧を本願寺に送っています。
宇足津全圖(宇多津全圖 西光寺
     西光寺(江戸時代の宇多津絵図 大束川の船着場あたり)

宇多津には、真宗の「渡り」(一揆水軍)がいました。
石山籠城の時には、安芸門徒の「渡り」が、瀬戸内海を通じて本願寺へ兵糧搬入を行っています。この安芸門徒は、瀬戸内海を通じて讃岐門徒と連携関係にあったようです。その中心が宇多津の西光寺になると研究者は考えています。西光寺は丸亀平野の真宗寺院のからの石山本願寺への援助物資の集約センターでもあり、積み出し港でもあったことになります。そのため西光寺はその後、②のように蓮如からの支援督促も受けています。

 そのような中で起こるのが③の木津川の戦いになります。
 サーフK - 村上海賊の娘。 - Powered by LINE
ベストセラーになった「海賊の娘」を読むと、大坂湾の海上突破は、安芸門徒と紀伊門徒との連携策で行われていたことがうまく描かれています。淡路岩屋をめぐっての信長と毛利の攻防は、安芸一揆水軍の本願寺への搬入ルート確保のための戦いでもありました。そして、もう少し視野を広げて見ると、安芸・紀伊門徒による瀬戸内海の制海権確保は、本願寺に物資や秤量を運び込むための補給ルート確保の戦いでもあったのです。

マイナー・史跡巡り: 荒木村重② ~石山本願寺~

本願寺派は、海からの補給ルートがあったために長きにわたって戦えたのです。信長は、それを知っていたために、遮断するための方策を講じます。それは瀬戸内海における水軍確保です。そのために行われたのが塩飽衆の懐柔策です。
 そういう目で讃岐と周辺の備讃瀬戸を見てみましょう。
1576(天正4)には、信長は多度津の香川氏や・勝賀城の香西氏といった国人領主を懐柔し、支配下に組み込んでいます。塩飽に影響力のある香西を配下に置くことによって、塩飽懐柔を進めたのでしょう。塩飽を配下に置くことで、毛利の本願寺・紀伊門徒とのパイプを遮断するという戦略が信長の頭の中には生まれていたはずです。それが功を奏して、塩飽を村上武吉から離脱させた後に出されたのが④の文書ということになります。

 塩飽衆が信長方についたこの年に、宇多津沖で安芸門徒の兵糧船が撃沈されています。これは塩飽水軍など信長方に付いた讃岐の海賊衆(水軍)によって行われたと研究者は考えているようです。この事件は、本願寺援助ルートへの脅威で、毛利側にとっては放置することはできません。塩飽を信長に押さえられた毛利は、その打開策として対岸の讃岐を押さえて備讃瀬戸航路の通行の確保を図ろうとします。それが⑤の讃岐出兵で、善通寺の元吉城(櫛梨城)をめぐっての三好氏との攻防になります。

1 櫛梨城1
元吉城(櫛梨山城)
これに毛利は勝利しますが、毛利の関心は瀬戸内海の制海権なので、備讃瀬戸沿岸の通行権が確保できるとすぐに讃岐から兵を引いています。以上を整理しておくと
①塩飽衆は、1577(天正5)年に村上武吉側から織田信長側に寝返った。
②従来の通説は、その代償として「信長朱印状」が塩飽に発給されたとされてきた。
③以後、塩飽は毛利・村上方とは対立する立場にたったことになる。
 このような状況の中で塩飽衆は、毛利水軍・安芸門徒の本願寺支援ルートを、妨害することを信長から求められます。裏返すと塩飽衆は、村上水軍からは攻撃対象になったことを意味します。このような中で、「触れ掛り」特権が与えられたとしても実際の効力はありません。また、村上水軍が制海権を持つ中で、塩飽船が特権を主張して自由航行できる状態ではなかったと研究者は指摘します。

そんな状況を加味しながら、橋詰氏は次のようにこの文書を解釈します。
塩飽船は非本願寺勢力であることを知らしめ、堺への出入りに関しては問題なく対処せよ、もし(塩飽船が)勝手な行動(村上方や本願寺に味方する)をしたならば成敗せよ」と松井友閑に達したものである

 この解釈によれば「違乱之族」とは、寝返ったばかりで本願寺や村上水軍に味方するかもしれない塩飽衆のことになります。成敗の対象となるのは、そのような違乱を行った塩飽船なのです。そうすると、この文書は塩飽船の自由特権を認めたものではなく、塩飽船が非本願寺勢力(信長方についたこと)であることを確認した上で、塩飽船の監視強化を命じたものになります。
 塩飽船は石山戦争下で、信長の支配下に組み込まれたのです。
信長の戦略は、塩飽船を用いて村上水軍による本願寺支援ルートの封鎖をはかること、代わって塩飽船に流通路を担わせて瀬戸内海流通路の再編成をはかろうとすることでした。その責任者である堺代官・松井友閑に、この朱印状は宛てられています。塩飽に下された朱印状ではないという結論になります。塩飽は信長に服従したのであり、それを違えた場合には成敗すると、読むべしと云うのです。ここからは、堺代官である松井友閑を通じて、塩飽船を統括したことがうかがえます。
信長の朱印状のある松井友閑宛文書が、なぜ塩飽勤番所にあるのでしょうか?
この文書の初見は享保12年(1727)9月の宮本助之丞後室宛吉田有衛門等の覚書(宮本家文書「朱印状五通請取之党」)に登場するようです。ここからは、これ以前にすでに塩飽に伝わっていたことが分かりますが、どんな経路で伝わったかは分かりません。
 そして元禄13年4月の小野朝之丞宛宮本助之丞等の「朱印之覚」(岡崎家文書、瀬戸内海歴史民俗資料館現蔵)には、信長朱印状のことは何も触れられていません。ここからは信長朱印状が伝わったのはこれ以降で、享保12年までの間のことであったと研究者は考えているようです。そうだとすると、この時点まで塩飽衆はこの文書の存在を知らなかった可能性も出てきます。元禄まで塩飽になかった文書が、「触れ掛り特権」を保証する文書と云えるのかという問題も出てきます。

以上をまとめておきます
①  信長の朱印状と云われる文書は、塩飽に宛てられたものではなく、当時の堺代官宛てのものである
②この文書が塩飽に伝来したのは、元禄から享保の間のことで、もともと塩飽にあったものではない。
③この文書に対して後の塩飽人名衆は、信長が航行特権を塩飽に認めたもので、これに反する者は処罰する権限も与えたものと言い伝えてきた。
④それを批判することなく、そのまま戦後の研究書の中にも引き継がれ定説となってきた。
⑤しかし、「触れ掛り」特権をしめす文書はないし、これ自体が当時の法体系からしても超法規的で認めがいたものであるなどの疑問が出されるようになった。
⑥また、この文書を歴史的な背景というまな板の上に載せて、再検討する必要が求められた。
瀬戸内海地域社会と織田権力(橋詰茂 著) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    橋詰茂氏「讃岐塩飽における朱印状の検討」   
 瀬戸内海地域社会と織豊政権 思文閣史学叢書 2007年 
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讃岐郷名 丸亀平野
丸亀平野周辺の郷

以前に「讃岐の荘園1 丸亀市川西町にあった二村郷 いつ、どうしてふたつに分かれたの?」を書きました。これについて、次のような点について、もう少し分かりやすく丁寧に説明せよという「リクエスト(?)」をいただきました。
「二村荘ができたときの経過は、どうなのか?」
「どうして二村郷と二村荘に分かれたのか?」
これに応えて、今回は二村荘に立荘過程に焦点をあてて見ていきたいと思います。前回分と重なる部分がありますが悪しからず。また、期待に応えられ自信もありません、重ねて悪しからず。  テキストは「田中健二 讃岐国の郷名荘園について  香川大学教育学部研究報告89号 1994年」です。
川津・二村郷地図
丸亀平野の古代郷名 二村郷周辺
 
律令時代には鵜足郡には8つの郷がありました。
そのひとつが二村郷で「布多無良(ふたむら)」と正倉院へ納入された調の面袋に記されています。
讃岐の郷名
讃岐の郷名
二村郷は、江戸時代には土器川をはさんで東二村(飯山側)が西二村に分かれていました。現在の地名で言えば丸亀市飯野町から川西北一帯にあたります。古代の二村郷は、いつ、どんな理由で東西に分かれることになったのでしょうか?
二村荘が初めて史料に登場するのは暦応四年(1341)11月日の興福寺衆徒等申状案です。その中の仁治2年(1241)2月25日の僧戒如書状に、二村荘の立荘について、次のように記されています。
讃岐国二村郷文書相伝並解脱(貞慶)上人所存事、
副進
上人消息案文、
右、去元久之比、先師上人、為興福寺 光明皇后御塔領、為令庄号立券、相尋其地主之処、当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、令申之間、依有便宜、寄付藤原氏女(故小野法印定勝女也。)時当国在庁雖申子細、上人並親康令教訓之間、去進了、爰当国在庁宇治部光憲、荒野者都藤原氏領也。(今は尊遍領地也)見作者親康領也、雖然里坪交通、向後可有煩之間、両人和与、而不論見作荒野、七条者可為親康領、於八条者加入本田、偏可為藤原氏領之由、被仰下了、但春日新宮之後方九町之地者、雖為七条内、加入八条、可為西庄領也云々者、七条以東惣当郷内併親康領也、子細具見 宣旨・長者官丁請状案文等、彼七八両条内見作分事、当時為国領、被付泉涌寺欺、所詮、云往昔支度、云当時御定、随御計、可存知之状如件、
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
意訳変換しておくと
元久年間(1204~6)に、貞慶上人は興福寺の光明皇后が建立された五重塔の寺領とするために、二村郷に荘園を立荘されようとした。当時の二村郷の地主(開発領主)は藤原貞光であったので、協議の上で、七・八両条内の荒野部分を興福寺関係者である藤原氏女(故小野法印定勝の娘)に寄付させる形をとった。当時の讃岐国守にも子細を説明し、了承を得た上で、貞慶上人と親康は七・八条の立荘を行った。こうして、七・八条エリア内では、「荒野は藤原氏領(今は尊遍領)、見作は親康領」ということになった。しかし、これは里坪が混在して、非常に土地管理が困難であった。そこで両人が和与(協議)して、見作荒野に限らず、七条は親康領、八条は藤原氏女領(本田)とすることになった。ただし、「春日新宮」の後方の九町の地は七条内ではあるが八条に加え入れて「西庄」領とした。従って、七条以東の郷内はすべて親康領である
  宣旨・官丁請状案文等にも、二村郷のうち七・八両条内の見作分は、国領(公領)として京都泉湧寺へ寄付されていると記されている。以上が二村荘の当時の御定で、このような経緯を伝えるために書き残したものである。
仁治二年三月弐拾五日            僧戒如
道上 両人御中
この文書に出てくる貞慶(じょうけい)は、法相宗中興の祖と云われています。
解脱上人、貞慶特別展: 鹿鳴人のつぶやき
 
彼が13世紀初頭の二村荘の立荘を行ったことが、ここには記されています。貞慶(久寿2(1155)~ 建暦3(1233)年)の祖父は藤原南家の藤原通憲(信西)、父は藤原貞憲です。何もなければ彼も貴族としての一生を送ったのでしょう。祖父信西は、保元元年(1156年)の保元の乱の功で一時権勢を得ます。ところが平治元年(1160年)の平治の乱で自害させられ、父藤原貞憲も 土佐に配流されてしまいます。生家が没落したために、幼い貞慶は藤原家の氏寺である興福寺に入るしか道がなくなったようです。こうして11歳で出家し、叔父覚憲に師事して法相・律を学ぶことになります。彼は戒律の復興に努め、勧進僧と力を合わせて寺社復興にも大きく貢献しています。
 一方、法然らの提唱した専修念仏の弾圧側の当事者としても知られています。文治2年(1186年)に、大原勝林院で法然や重源によって行われた大原問答に出席していますし、元久2年(1205年)には『興福寺奏状』を起草し、法然の専修念仏を批判し、その停止を求めてもいます。
 貞慶は、興福寺を中心に活動を展開していました。そのような中で元久年間(1204~6)に、二村郷を聖武天皇皇后の藤原光明子が建立した興福寺五重塔の寺領として立荘しようとします。そこで先ず行ったのが二村郷の七・八条の荒野部分(礫河原)を、開発領主の藤原貞光から興福寺関係者の小野法印定勝女子へ寄付させることでした。領主の藤原貞光は、地元讃岐の古代豪族綾氏の武士化した綾藤原氏の一族です。彼については、後に触れます。

丸亀平野 条里制地図二村
鵜足郡と那珂郡の郡境と土器川

 その上で、二村郷の七・八条の荒野部分が立荘されて興福寺五重塔領となります。この文書の中で、戒如は次のように述べています。

「二村郷のうち七・八両条内の見作分は、現在は公領として京都泉湧寺へ寄付されている」

ここからは、七・八条はまだ国領があったことが分かります。整理しておくと、二村荘には二種類の土地があり、それぞれ所有者が異なっていたと云うことになります
①土器川の氾濫原で、荒地に分類されていた土地 興福寺五重塔寺領
②見作地(耕地)に分類された土地       国領地
 一方、『泉涌寺不可棄法師伝』には、二村荘の国領部分について、次のように記されています。

嘉禄3年(1227)春、泉涌寺の僧俊高が重体に陥った際に、彼に帰依していた入道前関白藤原道家が病床を見舞い、「讃岐国二村郷内外水田五十六町」を泉涌寺へ寄付し、寺用に充てた

 この「水田五十六町」が②の二村郷の見作部分(耕作地)で、国領管理下にあった領地のようです。当時、藤原道家は讃岐国の知行国主でしたから、国守権限にもとずく寄進だったようです。
 その後の文和3年(1354)12月9日の後光厳天皇綸旨には、「讃岐国七条村並二村付けたり四か名」が、泉涌寺へ安堵されています。ここから②は、泉涌寺の寺領となっていたことが裏付けられます。

丸亀平野 条里制地図二村2
土器川左岸の鵜足郡七・八条の荒地に成立した二村荘
空白部が荒地で条里制が未施行エリア

ここでは、二村郷の七・八両条は鎌倉初期にふたつに分けられたこと。その耕地部分は公領のまま泉涌寺領に、荒野部分は立荘されて興福寺領二村荘になったことを押さえておきます。この両者は、同一エリアを荒地と耕地の地種で分割したものですから、当然に所有地が混在することになります。その状況を戒如は次のように述べています。
「荒野は藤原氏領なり、今は尊遍領なり、見作は親康領なり、しかりと雖も里坪交通す」
「里坪」とは、条里の坪のことで、藤原氏女領に属する荒野と親康領に属する耕地がモザイク状に入り乱れていたようです。これでは管理上、都合が悪いので、両者の間で話し合いが行われ次のような分割案が成立します。
①耕作地と荒野の種別を問わず、七条は親康領とし、八条は藤原氏女領とする。
②但し、「春日新宮」の後方九町の地は七条内であるが八条に加え入れて「西庄」領とする。
③従って、七条以東の郷内はすべて親康領となる。
この和解案の結果、藤原氏女と親康とは、どちらも所領内の荒野部分について興福寺へ年貢を納めることになります。こうして、土器川の東側は二村郷、西側の八条は二村荘と呼ばれることになったと研究者は考えています。
香川県丸亀市|春日神社は1000年の歴史がある神社!月替わり御朱印も郵送OK
二村郷産土神と書かれた春日神社 しかし郷社ではない 

鵜足郡8条に成立した二村荘の中心地には、春日大社が勧進され、「春日新宮」と呼ばれるようになります。
藤原氏の氏神さまは春日大社で、菩提寺は興福寺です。藤原氏の荘園が成立すると奈良の春日大社から勧進された神が荘園の中心地に鎮座するのが恒例のことでした。二村荘の場合も、興福寺領の荘園ですから氏神として春日社を祀ったのでしょう。それが現在の丸亀市川西町宮西の地に鎮座する春日神社(旧村社)だとされます。
 江戸時代の西二村は、西庄、鍛冶屋、庄、宮西、七条、王子、竜王、原等の免からなっていました。これをみると春日神社の氏子の分布は土器川の左岸に限られていたことが分かります。これに対し、土器川右岸に位置する東二村(丸亀市飯野町)は、飯野山の西の麓に鎮座する飯神社の氏子でした。古代は同じ二村郷であった東西の二村が、土器川をはさんで信仰する神社が違っているのは、荘園の立荘と関係があったようです。

  さて、二村荘の立荘については次のような疑問が残ります。

①立荘当時の二村郷の状況は、どうだったのか。七・八条だけが荒野部分が多かったのか
②耕地でない荒野部分を荘園化して何のメリットがあるのか
①については、いつものように地図ソフトの「今昔マップ」を検索して、土器川周辺の国土地理院の土地条件図を見てみましょう。丸亀平野は扇状地で、古代にはその上を線状河川がいくつもあり大雨が降ったときには幾筋もの流れとなって流れ下っていたことが分かっています。
丸亀平野 二村(川西町)周辺
丸亀平野土器川周辺の旧河川跡
上図を見ても、現在の土器川周辺にいくつもの河道跡が見え、河道流域が今よりもはるかに広かったことがうかがえます。川西町の道池や八丈(条)池は、皿池でなくて、その河道跡に作られたため池であることが分かります。道池の北側には七条の地名が残ります。

丸亀道池
道池からの飯野山

また、春日神社は八条に鎮座します。確かに、この周辺の七条・八条は、氾濫原で礫河原で開発が遅れたことが予想できます。七・八条エリアは、古代条里制施行も行われていない空白部分が多いようです。それにくらべて土器川右岸は河道跡は見えますが台地上にあり、条里制施行が行われた形跡があります。また、想像力を膨らませると、かつては七・八条に土器川の本流があって、どこかの時点で現在のルートに変更されたことも考えられます。もう一度、条里制施行状況を見てみましょう。
丸亀平野 条里制地図二村2

 空白地帯は条里制が施行されていないところです。
土器川の氾濫原だった七・八条には空白部分が相当あるのが分かります。この部分が最初に立荘され、二村荘となった部分のようです。そして、13世紀初頭には、今まで放置されてきた荒れ地に関しても開発の手が入って行きます。興福寺の貞慶が、二村郷の荒地を荘園化したのも、すでに灌漑などの開発が進められ耕地化のめあすが立っていたのかも知れません。
丸亀市川西町にあった二村庄の開発領主は「悪党」?
いままでは、興福寺という中央の視点から二村荘を見てきました。
こんどは地元の視点から立荘過程を見ていきたいと思います。先ほどの史料をもう一度見てみると、当時の所有者について、次のように記されています。
当郷七八両条内荒野者藤原貞光為地主之由、

 13世紀初頭に鵜足郡二村郷のうち、荒野部分の「地主」は藤原貞光だったことが分かります。藤原を名乗るので、讃岐藤原の一族で綾氏につながる人部かもしれません。当時は荒野を開発した者に、その土地の所有権が認められました。そこで彼は土器川の氾濫原を開発し、その権利の保証を、藤原氏の氏寺で大和の大寺院でもある興福寺に求めます。いわゆる「開発領主系寄進荘園」だったようです。
 未開墾地は二村郷のあちこっちに散らばっていたので、管理がしにくかったようです。そこで寄進を受けた興福寺は、これを条里の坪付けによりまとめて管理しやすいように、国府留守所と協議して庄園の領域を整理しようとします。これは興福寺の論理です。
 しかし、寄進側の藤原貞光にしてみれば、自分の開発した土地が興福寺領と公領のふたつに分割支配され、自分の持ち分がなくなることになります。貞光にとっては、思わぬ展開になってしまいます。ある意味、興福寺という巨大組織の横暴です。
このピンチを、貞光は鎌倉の御家人となることで切り抜けようとします
しかし、当時の鎌倉幕府と公家・寺社方の力関係から興福寺を押しとどめることはできなかったようです。興福寺は着々と領域整理を進めます。万事に窮した貞光は、軍事行動に出ます。1230年(寛喜2)頃、一族・郎党と思われる手勢数十人を率いて庄家(庄園の管理事務所)に押し寄せ、乱暴狼藉を働きます。これに対して興福寺は、西国の裁判権をもつ鎌倉幕府の機関・六波羅探題に訴え出て、貞光の狼藉を止めさせます。貞光は「悪党」とされたようです。

この事件からは次のような事が分かります。
①鎌倉時代に入って、土器川氾濫原の開発に手を付ける開発領主が現れていたこと
②開発領主は、貴族や大寺社のお墨付き(その結果が庄園化)を得る必要があったこと
③その慣例に、鎌倉幕府も介入するのが難しかったこと
④貞光は手勢十数人を動員できる「武士団の棟梁」でもあったこと
⑤興福寺側も、藤原貞光の暴力的な反発を抑えることができず、幕府を頼っていること
⑥二村荘には庄家(庄園の管理事務所)が置かれていたこと。これが現在の春日神社周辺と推測されること
この騒動の中で興福寺も、配下の者を預所として現地に派遣して打開策を考えたのでしょう。どちらにしても、荘園開発者の協力なくしては、安定した経営は難しかったことが分かります。
 
   藤原貞光にとっては、踏んだり蹴ったりの始末です。
 せっかく開発した荘園を興福寺と国府の在庁役人に「押領」されたのも同じです。頼りにした興福寺に裏切られ、さらに頼った鎌倉幕府から見放されたことになります。「泣く子と地頭に勝てぬ」という諺が後にはうまれます。しかし、貞光にとっては、それよりも理不尽なのが興福寺だと云うかもしれません。それくらい旧勢力の力は、まだまだこの時期には温存されていたことがうかがえます。
貞光の得た教訓を最後に挙げておきます
①未開墾地の開発に当たっては慣例的な開発理由を守り
②よりメリットある信頼の置ける寄進先を選び
③派遣された預所と意志疎通を深め、共存共栄を図ること
これらのバランス感覚が働いて初めて、幕府御家人(地頭)としての立場や権利が主張できたのかもしれません。

貴族政権時代の地方在地領主

13世紀から14世紀前半にかけては、讃岐国内でこのような実力行使を伴った庄園内の争いが多発しています。それを記録は「狼藉」「悪党」と治者の立場から記しています。しかし、そこからは開発領主としての武士たちの土地経営の困難さが垣間見えてきます。その困難を乗り越えて、登場してくるのが名主たちなのでしょう。
以上をまとめておくと
①律令時代の二村郷は土器川を、またいで存在していた
②そのうちの鵜足郡七・八条は土器川左岸にあり土器川の氾濫原で条里制が施行されない部分が荒野として放置されていた。
③鎌倉時代初頭に鵜足郡七・八条の荒野開発をおこなった開発領主が藤原貞光であった。
④彼は開発領地を興福寺に寄進し、寄進系荘園として権益確保を図った。
⑤ところが興福寺は、荘園管理のために混在していた荒地を一括して、八条エリアを荘園領地とすることを国領側と協議しまとめた。
⑥この結果、開発領主の藤原貞光の権益は大きく侵害されることになった。
⑦そこで藤原貞光は、実力行使に出たが、興福寺から六波羅探題に提訴され敗れた。
こうして、丸亀川西町の中世のパイオニアであった藤原貞光は、「悪党」として記録に残ることになったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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瀬戸内海航路3 16世紀 守龍の航路

1550(天文19)年9月、一人の禅僧が和泉国堺の港を船で、瀬戸内海を西に向かいました。禅僧の名は守龍(しゅりゅう)。京都東福寺の僧です。守龍の旅の記録(『梅一林守龍周防下向日記』)を、手がかりにして、当時の瀬戸内海の港や海賊たちを見ていくことにします。  テキストは「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」です。
守龍の人物像についてはよく分からないようです。
ただ、1527(大永7)年の年末、1529(享禄2)年の立冬、翌30年の夏に、東福寺に参禅して修行したことが記録から確認できます。1550年の堺港からの出港も、寺領の年貢収取について、周防国に行って大内氏をはじめとする周防国の有力者と交渉するためだったようです。得地保は東福寺領の有力荘園で、その年貢収入は東福寺にとって欠かせないものでした。しかし、戦国時代になると以前にも増して、年貢収取が困難になっていたのでしょう。

守龍は1550年9月2日に京都を発ち、14日に堺津から出船しています。
乗船したのは、塩飽・源三の二端帆の船です。当時は舟の大きさは排水量や総重量でなく帆の大きさで表現したようです。そこに3百余人の乗客が乗り込み、「船中は寸土なき」状態であったと記されています。常客を満載した状態での航海です。

讃岐国絵図 正保国絵図.2jpg

塩飽本島 上が南

船頭である塩飽の源三について見ておきましょう。
 この船の船籍地である塩飽(丸亀市本島)は、備讃諸島海域の重要な港であり、同時に水運の基地でした。1445(文安2)年に兵庫北関に入関した上り船の記録である「兵庫北関入船納帳」には、塩・大麦・米・豆などを積み込んだ塩飽船が37回に入関していることが記録されています。これは宇多津に続いて、讃岐の湊では2番目に多い数です。ここからは塩飽を船籍地とする船が、備讃諸島から畿内方面に向けて活発な海上輸送活動を行っていたことが分かります。

兵庫北関1
 塩飽の水運力は、のちに豊臣秀吉・徳川家康らの目を付けられ、御用船方に指名され統一権力の成立にも貢献するようになります。それは、この時代からの活動実績があったことが背景にあるようです。後に、江戸幕府の保護を受けた塩飽の船方衆は、出羽・酒田地方の幕領の年貢米の海上輸送に携わり莫大な富をこの島にもたらします。その塩飽の船方衆の先祖の姿が、船頭の源三なのかもしれません。

DSC03651
兵庫沖をいく廻船 一遍上人図

 塩飽船は、瀬戸内の塩や米のような物資輸送に従事したことで知られています。
しかし、ここでの源三は、旅客を運ぶ人船=「客船」の船頭です。彼の船は、三百人を載せることができる二端帆の船でした。当時は、筵をつなぎ合わせた帆が一般的でした。幅三尺(約90㎝)、長さ六尺ほどの筵を何枚かつないで、それを一端(反)と呼びます。二端帆の船とは、幅10mほどの筵帆を備えていた船ということになります。『図説和船史話』には、九端帆が百石積、十三端帆が二百石積とあるので、源三船は百~二百石積の船だったことになります。

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇 : In the pontoon bridge
     中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。
(石井謙治「図説和船史話」)


 室町から戦国にかけての時期は、日本の造船史上の大きな画期で、遣明船などには千石石積前後の船も登場します。それらと比べると、源三船は従来型の中規模船ということになるようです。乗組員が何人かなのは記されていません。
和船とは - コトバンク
         遣明船 当時の最大客船

 堺津を出港した守龍の船に、話を戻しましょう。
9月14日の辰の刻(午前八時)に堺を出港した船は、順風を得て酉の刻(午後六時)には兵庫津に着きます。翌日には「迫坂浦」に舟はたどり着きます。「迫坂浦」には、守龍は「シャクシ」と読み仮名をつけているので現在の赤穂市坂越のことのようです。ここで風雨が激しくなって、天候の回復を待つために三日間逗留しています。18日に「迫坂」を発って、その日は牛窓に停泊です。ここまでは順調な船旅でした。

瀬戸の港 坂越

ところが翌19日の午の刻(正午)、「備前比々島」の沖にさしかかったころに、海賊船が一艘接近してきます。
守龍は、その時も様子を次のように記します。
此において賊船一般来り、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺て鏃を双べ鉄胞を放つ、賊船疵を蒙る者多く、須史にして去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず
意訳変換しておくと
接近してきた賊船は、本船と「問答」をした。「問答」の内容は分かりません。おそらく通行料の金額についての交渉だろうと研究者は考えているようです。海賊が接近したときに、交渉することは船頭の重要な役目だったようです。この時には、交渉不成立で賊船は矢を放って攻撃してきました。これに対して鉄砲で応戦しています。賊船は多くの負傷者を出して撤退していきました。船は、そのまま航行を続けて申の刻(午後4時頃)に塩飽に入港します。塩飽は船頭源三の本拠港です。海賊との遭遇記事は短いものですが、ここからは瀬戸内の船旅や海賊についての重要な情報が得られるようです。

瀬戸の港 日比1
日比港 明治の国土地理院地図

まず守龍が「比々島」と表現している日比(岡山県王野市)の港です。
日比は、備前国児島の南端東寄りにある港で、半島状に突出してた先端部の小さな入江です。東北西の三方を山に囲まれ、南だけが備讃瀬戸に向かって開けています。人江の北半分が近世に塩田化され、それが現在では埋め立てられて住宅地や工場敷地となっています。本来は瓢箪型の入江であったことが地形図や絵図からうかがえます。人江の西側にはかつては遊郭もあったという古い町並みが残り、東側の丘陵上には中世城郭の跡も見られます。城主の名をとって四宮城と呼ばれるこの山城は、標高八五メートルの通称城山を本丸とし、南に向かって細長く遺構を残している。もちろん日比の港を選んで立地した城であるが、同時に城跡からは、直島諸島や備讃瀬戸を一望のもとにおさめることができる。日比の港の景観は、中世の港の姿をよく伝えています。
同じような地形的条件を持った港としては、室の五郎大夫の本拠室津、守龍や、がこのあと立ち寄ることになる備後国鞆(広島県福山市)などがあります。
瀬戸の港 室津

室津は、播磨国東部の、播磨灘に向かって突き出した小さな半島の一角に開けた港でです。三方を山に囲まれ、西側だけが海に向かって開かれています。この港について、『播磨国風上記』は、次のように記します。
「室と号るゆえは、この海、風を防ぐこと室の如し、かれ、よりて名となす」

室というのは、穴ぐらのような部屋、あるいは山腹などを掘って作った岩屋などを指します。室津の港はまさに播磨灘に面したが穴ぐらのように小さな円弧状に湾入してできた港です。室津や日比のようなタイプの港は、他のどのタイプの港よりも波静かな海面を確保できます。周囲を山に囲まれているので、どの方向からの風も防ぐことができるし、狭い出口で外海と通じているだけなので、荒い波が港に入ってくることもありません。自然条件としては、最も優れた条件を持っています。
 室津や日比の港を見て不思議に思うのは、その規模の小ささです。
今の港を見慣れた目からすると、とても小さなスペースしか確保されていないように思えます。しかし、規模の小ささがポイントだった研究者は指摘します。小さい「室」であることと、小さな半島の先端に位置していることが重要な意味を持っているというのです。それは、すぐ港の外を通っている幹線航路へのアプローチの問題です。
中世の航海者たちは、風待ち、潮待ちのために日比や室津に入港しました。逆にいえば、風や潮の状況がよくなれば、すぐに港を出て幹線航路に乗ろうと待ち構えていたわけです。「月待てば潮もかないぬ 今は漕ぎいでな」の歌がぴったりときます。奥深い入江からゆっくりと出てきて幹線航路に向かうのでは間に合いません。すばやく幹線航路に出て、待っていた潮や風に乗る必要があります。そのためには、少々手狭でも、あまり奥の深くない入江のほうが都合がよかったと研究者は考えているようです。半島の先端で、すぐ目の前に航路がある方が、潮を利用して沖に出やすいということになります。
 それを裏付ける例を探してみましょう。
牛窓や室津の近くには大規模で、ゆったりと停泊できそうな入江や湾が他にあります。例えば山陽道沿いの相生です。

相生湾と室津

ここには奥深い入江があり、東寺領でのちに南禅寺領になった矢野荘那波浦のあったところで、矢野荘の倉敷地(年貢の積出港)の役割を果たしていました。ところが瀬戸内海の幹線航路を行き来する船が立ち寄った形跡はありません。また、鞆の港の東隣は、現在は埋め立てられていますが、かつては広大な入江がありました。そこには草戸千軒などの港町がありましたが、やはり幹線航路を行き来する船舶が停泊することはなかったようです。
 ここからは中世の瀬戸内海では、奥深い湾や入江よりも小さい″室″が船頭たちの求める港の条件だったことがうかがえます。そしてそのような港には、日比のように、港を見下ろす近くの丘陵上に港に、出入りする船を監視するための山城が築かれていました。波静かな小さな入江とそれを見下ろす山城はセットになって、中世の港は構成されていたようです。

 海賊との遭遇場面に戻ります
日比の沖で塩飽の船頭守龍の舟に接近してきた海賊は、日比の四宮城の城主で、この海域の領主であった四宮氏だったと研究者は推測します。四宮氏は、戦国期には児島南部の小領主、海賊として活動し、その姿は軍記物語などに登場します。
たとえば『南海通記』には、1571(元亀二)年に日比の住人四宮隠岐守が讃岐の香西駿河守宗心を誘って児島西岸の本太城(倉敷市児島塩生)を攻めて敗れたことが記されています。この記事は、記事に混同があり、そのまま事実とうけとるわけにはいかないようですが、このころの四宮氏の姿を知る一つの手がかりにはなります。
 また、 1568年には、伊予国能島の村上武吉が家臣にあてた書状のなかに、「日比表」での軍事行動について指示しています。この年、四宮氏は海賊能島村上氏の拠点本太城を攻めて失敗し、逆に能島村上氏に逆襲を受けたようです。

守龍の船に接近してきた海賊について、もう一つ重要な点はその勢力範囲です。
海賊船が船頭たちの反撃で引き上げていった後に、守龍たちの船は塩飽に入港しています。ここで不思議に思えるのは、塩飽と日比は、それほど離れていないのです。
瀬戸の港 日比と塩飽

本島が瀬戸大橋のすぐ西側にあり、日比は直島の西側で、直線距離だと20㎞足らずです。塩飽と日比とは同じ備讃瀬戸エリアの「お隣さん」的な存在の思えます。その日比の海賊が塩飽の舟に手を出しているのです。私は村上水軍のように、塩飽衆が備讃瀬戸エリアの制海権を持ち、敵対勢力もなく安全に航行をできる環境を作っていたものと思い込んでいましたが、この史料を見る限りではそうではなかったようです。また、日比の海賊のナワバリ(支配エリア)も狭い範囲だったことがうかがえます。四宮氏と思える日比海賊は、限られた範囲の中で活動する小規模な海賊だったようです。
 以上を整理しておくと瀬戸内海には、村上氏のように広範囲で活動する有力海賊がいる一方、日比の海賊のように限られたナワバリの中で活動する、浦々の海賊とでも呼ぶべき小規模な海賊が各地にいたとしておきましょう。
海賊撃退に塩飽客船は、「鉄胞」を使用しています。
鉄胞の伝来については、1543(天文12)年に種子島に漂着したポルトガル人によって伝えられたとするのが通説です。それから7年しか経っていません。高価な鉄砲を塩飽の船頭たちは所有し、それを自在に使いこなしていたことになります。本当なのでしょうか?
  宇田川武久の『鉄胞伝来』には、鉄砲伝来について次のように記されています。
①鉄胞を伝えたのはポルトガル人ではなく倭寇の首領王直である
②その鉄胞はヨーロッパ系のものではなく東南アジア系の火縄銃である
③伝来した鉄胞が戦国動乱の中でたちまち日本全国に普及したとする通説は疑問がある
として、鉄砲は次のように西国の戦国大名から次第に合戦に利用されるようになったとします。
①1549年 最初に使用したのは島津氏
②1557年頃に、毛利氏が使い始め
③1565年の合戦に大友氏が使用
1550年(天文19)年に、塩飽の源三の船が「鉄胞」を使ったとすると、これらの大名用と同時か、少し早いことになります。種子島に最も近い南九州の島津氏が、やっと合戦に鉄胞を使い始めたばかりの時に、備讃瀬戸の船頭が鉄胞を入手して船に装備していたというのは、小説としては面白い話ですが、私にはすぐには信じられません。
しかし、その「鉄胞」が火縄銃ではないとしても、海賊船の乗組員に打撃を与える強力な武器であったことは確かなようです。村上水軍のように海賊たちは「秘密兵器」を持っていたとしておきましょう。
 少し視点を変えれば、塩飽の源三は、ここでは船頭として300人を載せた客船を運行していますが、場合によっては、自ら用意した武器で海賊にもなりうる存在だったことがうかがえます。
 このような二面性というか多面性が海に生きる「海民」たちの特性だったようです。

源三の舟は、9月19日、その母港である塩飽本島に停泊しました。それが本島のどこの港だったのかは何も記していません。笠島が最有力ですがそれを確かめることはできません。
 9月14日に堺を出ていますから順調な船旅です。しかし、塩飽がゴールではありません。常客は乗り降りを繰り返しながら翌日には出港し、20日には鞆に入港しています。そして23日には安芸国厳島に着きました。源三の船は、停泊地に少しちがいはありますが、航路は、次の場合とほとんど同じことが分かります。
①平安末期に厳島参詣の旅をした高倉院の航路
②南北朝時代に西国大名への示威をかねて厳島へ出かけた足利義満の航路
③室町時代に京都に向かった朝鮮使節宋希環の一行
守龍は、このあと厳島で小船に乗り換えて安芸の「尾方」(小方、広島県大竹市)に渡り、そこからは陸路をとっています。そして周防国柱野(山口県岩国市)、同富田(周南市)をへて28日に山口に着いています。半月ばかりの旅路だったことになります。
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 守龍は山口では、彼に課せられた課題である東福寺領得地保の年貢確保のために精力的に活動します。要人である陶晴賢やその家臣毛利房継、伊香賀房明などのあいだを頻繁に行き来しています。時あたかも、陶晴賢が主君大内義隆に対してクーデターをおこす直前でした。そのようなきな臭い空気を感じ取っていたかも知れません。
 大内家の要人たち交渉を終えた守龍は、年があけて1551(天文20)年の3月14日、陶晴賢の本拠富田を出発して陸路を「尾方」に向かい、往路と同じように厳島に渡ってから、堺に向かう乗合船に乗船します。帰路の航海については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「山内 譲 内海論 ある禅僧の見た瀬戸内海  いくつもの日本 人とモノと道と」岩波書店2003年
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石切場 本島
細川氏が石切場を拓いていた本島の高無坊山
前回に大阪城再築の石垣のために小豆島だけでなく、塩飽諸島の島々にも石切場が置かれた話をしました。中でも細川家や黒田家は、小豆島と塩飽の石切場を同時進行で拓いて操業していました。多くの石を大阪城の現場に提供することが大藩の面目でもあったようです。ある意味、面子を賭けた石垣合戦を戦っていたとも思えてきます。今回は、各島に設置された石切場がどのように組織され、運営されていたのか、石がどうのように運ばれたのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島」です。

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塩飽本島高無坊山石切丁場跡

細川家と黒田家が割り当てられた石垣は?
第一期普請では、西・北・東の外堀と北外曲輪の石垣構築が行われました。普請場は、大名47名に割り振られ6組に編成されました。その中で、細川忠利は加藤忠広を組頭とする一組に所属しています。有力大名は、自分の力を誇示しようと「はれかましき所」である目立つ場所を希望します。
大阪城石垣 乾櫓 細川氏の石垣3pg
大阪城西の丸の乾櫓 その下の石垣が細川家によって積まれた

作事奉行の小堀政一(遠州)が細川氏に割り当てたのは「西の丸(二の丸)北の出角」です。この上に小堀遠州が乾櫓(いぬいやぐら)を建てることになります。乾櫓は、大手口から京橋口までおよそ230度の広い視野を持ちます。逆に言うと、どこからも見られる目立つ場所です。晴れがましい場所を指定されて、細川家の機運は高まったはずです。
大阪城石垣 乾櫓 細川氏の石垣
                乾櫓と細川家築造の石垣

 一方、黒田長政は田中忠政を組頭とする四組に所属し、大手北詰から南へかけての場所を担当しすることになります。ここもよく目立つところで、晴れがましい場所でした。
諸大名が築いた石垣をよく見ると、刻印が刻まれている石がいくつもあります。刻印が多くの人の人の目に触れるように石垣は築かれているようです。自分の刻印を見て、大名たちは晴れがましい気持ちになれたのでしょう。満足げに石垣を眺める殿様の姿を思い浮かべることができます。
 大阪城石垣 大名割当

 細川藩は「記録の細川藩」とも云われるほど、きちんと史料を残しています。それだけで私には尊敬に値する藩です。石切場関係の資料も保存してあります。例えば、塩飽での細川氏の採石責任者は、石丁場奉行として竹内音兵衛・沢形右衛門があたり、四組に分けられた組織が組まれていました。それぞれの組の頭は、長岡式部少輔・長岡右馬助・有吉平占・牧左馬允です。彼らは細川家の家老・重臣です。ここからは「天下普請」に対する細川家の並々ならぬ意気込みが感じられます。
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塩飽本島高無坊山石切丁場跡

石切場では、どのくらいの人が働いていたのでしょうか?
「塩飽石丁場にて御役人御着到前指引目録之事」は、本島の8ヶ月間の石切場の操業記録です。その延べ人夫数は149529人になります。一日あたりの稼働人夫数を計算してみましょう
総人夫数149529人 ÷ 8ケ月=一月約18750人  
人夫数18750人 ÷ 30日=一日の人夫数 625人
となります。本島の石切場の総人夫数は600人前後であったことが推測できます。これだけの数の人夫達が島にやって来て小屋掛けして、飯場生活を始めたことになります。これは本島にとっては、大変な出来事であったでしょう。
島にやって来た人たちには、いろいろな種類の人夫や技術者がいたようです。その内訳を坂出市史は、次のような表にしています。

大阪城石垣 本島石場の人夫種別構成の

私は最も多いのは、石の切り出し職人と思っていましたがそうではないようです。12の「山より石出し並に船に石つみ申夫数」です。これは石切場から船に積み込むまでの運搬作業員で、全体の約4割を占めています。以下を多い順に並べると
2 石場人夫  (石場の作業員)
3 波止築人夫    (石の積み出し湊工事の作業員)
1 石切人夫      (石切職人)
「四組」というのは、先に見たように4つの組に分かれて、それぞれの石切場で競い合って作業に当たっていたので、こんな名称で呼ばれたのでしょう。3の波止築人夫は、その名の通り輸送船の横付けされる波止場の建設・維持に当たっていた職人のことでしょう。重い石を船に安全に載せるためには、安定した波止場が必須でした。  
 面白いのは、4の「三間角二分すみ之石 山より出し船につみ申す」です。「4」と「12」にからは、石を船まで運ぶ人夫にランクがあったことが分かります。三間角石が貴重なために、熟練した人夫を使って、念入りに運んでいたことが推測できます。また、飯炊き人夫も20人に一人の割合で配置されています。「道具番」と呼ばれる石切道具や輸送に必要な修羅・滑車など修理職人も数多くいたことが分かります。

大阪城石垣 石切道具 小豆島
石切職人が使っていた道具(小豆島)
どんな生活を、彼らは送っていたのでしょうか。
石丁場での人夫たちは、小屋で共同生活を営んでいたようです。「塩飽御普請万覚」という史料には、石切場での細かな規定が書かれていて、厳しい管理体制がひかれていたことを、坂出市史は次のように紹介しています。
①「御普請衆町二てかい(買)物物法度(禁止)」とあります。本島の町に出て、買い物は禁止です。
②「御小屋ノ内へおんな(女)みだリニ人申候事かたく法度」と、小屋へ女性を連れ込むことも厳禁
違反者は、
「くわたい(過怠)栗石半坪申し付けられ」
「つな(綱)をかけ小倉へ下され」
といったように厳しい処罰が科せられています。厳しく取り締まらなければ、採石作業にあたる人夫の統制はとれなかったようです。これは管理する側も、大変な任務だったようです。

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       塩飽本島の石切丁場跡(高無坊山)

 石切場の操業は、いつまでも続くわけではありません。石垣が出来れば終了です。期間は2,3年です。そのため人夫は、日雇いで雇われていました。これは小豆島と同じ額で、日雇い一人当たり、八分の支払いです。これを御影(神戸市)の石切場の相場と比べると、かなり安かったようです。ここからは、少し遠くても安価な労働力で操業できる備讃瀬戸に石切場を設けた大名側の思惑がうかがえます。
石切場 本島2
本島の高無坊山切り出された石材
 1年に、どれくらいの石を切り出したのでしょうか。
 細川氏は、元和7(1621)年には塩飽で3252個、小豆島で881個を採石しています。私は小豆島が主で、本島は補完的な石切場だと思っていたのですが大違いです。塩飽が主で、小豆島の方が補完的ななのです。これにもびっくりしました。
 また、私は切り出された石は、すべて大坂へと運び出されたと思っていましたが、そうではないようです。
坂出市史は「塩飽より大坂ヘ積上せ申す御石数の覚」(中世篇193)を示して、次のように指摘します。
①元和7(1621)の本島で切り出した石の総数3252個
②本島から大阪に向けて搬送された1889個
生産数と出荷数の間には、大きな開きがあります。これはどういうことでしょうか?
 翌年の元和8(1622)年の記録からは、切り出された石232個が波止場や山丁場、道に置かれていたことが記されています。採石作業環境の整備に切り出された石が使われていたようです。

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塩飽本島・石切丁場跡(高無坊山)の案内図

翌年の元和8(1622)年の「塩飽より大坂着石之覚」には、次のように記されています。
①この年、塩飽で採石した石は3273個で、大坂に運ばれのは479個だった
②その中で実際に石垣に使われたのは118個で、残りの388個は大坂の波止場や山に置かれた
③島から搬出されなかった2225個は「沢村弥左衛門見申され、あしき(悪しき)石之由」であった。つまり、築城には不適な「悪しき石」であったというのです。
大坂輸送石数479 ÷ 島での採石数3273=約15%
石垣使用数 118 ÷ 島での採石数3273=3,6%
という数字になります。採石しても船に乗せられるのは、百個の内で15個、石垣使用に適合した石は百個の中に4個程度しかなかったことになります。これも、私にとっては驚きの数字でした。現在の工場でのこれだけの不良品生産は考えられません。
この数字をどう考えればいいのでしょうか?
 第一に考えられるのは、大坂の現場が築城用石材に求めた基準が厳しすぎたのかもしれません。大阪城の再建自体が「裏の目的」は、西国の外様大名の経済的弱体化にあったと云われます。そのため基準を厳しくしたのかもしれません。その基準の策定には、作事奉行を務めた小堀政一(遠州)ももちろん関わっていたのでしょう。
 厳しすぎる基準が石切場の監督者たちには伝わらず、当初は「質よりも量」がもとめられた結果かもしれません。よく分かりません。

大阪城石垣 石材運搬

 島から積み出されなかった石は、どうなったのでしょうか?

「当年はと(波止)に築き申し候、西川与介申し付け候ハ、悪敷石にて築き候へと申し付け候山」

意訳変換しておくと
「今年、波止を築いた時に、西川与介に申し付けて、悪しき石(不良品)で、築港させた」

ここからは、採石しながらも不適な石は、波上場を築くために使用されたことが分かります。大量に採石されて港に下ろされても、それらの石が必ずしも全て大坂へ輸送されたのではなかったことを押さえておきます。

大阪城石垣 残念石 小豆島
小豆島の残念石
 小豆島の石切場を訪ねると、湊付近に積み出されなかった石が「残念石」名付けられて並べられています。私は、石垣工事が終了した連絡が遅れて、採石作業が継続していたものがそのまま放置されたものと思っていました。しかし、それだけではなかったようです。残された石は、「基準外」「不良品」だった可能性が高いようです。しかし、私が見ただけでは、どこが不良品かは分かりません。それだけ基準が厳しかったとしておきましょう。

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塩飽本島の石切丁場跡(高無坊山)

しかし、それだけではないようです。大阪城の石垣作業現場の状況に合わせて、その時点で求められる石を島からは優先的に運び出していたようです。次第に切り出した石を、なんでもかんでも送るのではなく、現場に必要な石を送るという体制がとられていたというのです。
 大坂の現場で最初に必要になったのは石垣の一番下の根石です。その他の石が搬送されてきても使い物にならないのです。そのため、石切場を拓いて、採石はおこないますが、まず大坂に送ったのは根石だったはずです。その他の種類の石は、ストックされたことが考えられます。

大阪城石垣 石垣構造図

 石垣で特に重要な石は、隅角部に築かれる角石です。
三間角・二間角・角脇石などの大型の石で、これを切り出すのはなかなか難しかったようです。角石に接して築かれる石が築石ですが、これが大量に必要となります。石の大きさは次のように指定されていました。
「小口三尺・四尺の内に仕り、長さ九尺・六尺の間に申し付けらるべく候、御本丸の石垣、高さのはからひこれ有るべく侯間、右の石にて半分過もつき、そのたは申すに及ばず、次第々々にちいさくこれ有るべく候条、その用意申し付けるベく候事」(松井家文書)

ここには築石の寸法が指定されています。石の大きさは決まっていて、それに従って切り出さなければなりません。どんな大きさでもよかったのではないようです。

切り出された石材は、どのようにして海を渡ったのでしょうか?
これは詳しくは分かっていないようです。ただ史料には、次のように記されています。
段平塩飽に着く、石積みはじめ申し候」

ここからは、石の輸送には、段平船と呼ばれる専用船が塩飽にはあったことが分かります。段平船とは、船幅が広く船底が平で喫水が浅い船のことです。船体上面は板張りで、その上に石を積んだようです。石の輸送については、細川氏が独自の船を持っているわけではなかったようです。塩飽の船に輸送をまかせていたのです
 石船の確保や手配に、細川氏が塩飽の年寄に協力依頼をした次のような記録があります。
尚々、舟以下義万事御きもいり頼み入り候、以上、
明年大坂御普請二付て、仕置もの共少々差しのほせ中し候、万事御肝煎頼み入り存じ候、本行として西川与助・友田左郎兵衛・杉山藤兵衛罷り上り候、然るべく様頼み入り候、去年は竹内吉兵へ沢形右衛門罷り上がり候処によろず御馳走の通り承り届け畏れ存じ候、次に存分に候へ共、小袖二つこれを進めせしめ候間、追って承り中すべく候、恐々謹言、
                長岡式部少輔   興長(花押)
二月廿日                     小笠原民部少輔
                      長貞(花押)
吉田彦右衛門殿
御宿所

細川家の両家老から塩飽年寄である吉田彦右衛門に、大坂への船の手配を肝煎へ依頼してほしい旨が記されています。その手数として小袖2つを与えています。銀子や樽酒などを遣わす場合もあったようです。島の石切場の管理は、肝煎が担っており、それを年寄が掌握して、その状況を見据えながら小堀政一が支配していたという構図が見えてきます。
 石船は年寄を通じて、肝煎が差配する権限があったことがうかがえます。そのためには、肝いりに対しては丁寧な対応がとられています。 中世以来の塩飽の船と水主の存在が、大坂城築城石の輸送にも活かされていたことがうかがえます。同時に、石を運ぶための輸送船需要は急増し、「特需景気」が塩飽をつつんだことは容易に推察できます。これが新規船の築造につながったのかもしれません。

石の輸送は必ずしもスムーズに行われたのではなかったようです。
「十一は塩飽より積み上せ候へ共、船中にて船かやりすたり申し候」

「船かやり」とあるので、船が転覆して、塩飽で積み込んだ11個の石が海中に沈んだことが分かります。船1艘に、11ヶほどの石が積まれていたようです。
その船は、どの程度の大きさだったのでしょうか?
小豆島から大坂への石輸送を担つた中川氏が用いた船は、
「手加子三拾人、手船」

と記されています。30人の水夫達が手こぎで操船しての輸送だったようです。寛永6(1629)年からの江戸城普請の時は、伊豆からの石船は45人乗り三艘編成で当たっています。瀬戸内海は穏やかで輸送距離が短いため、江戸城普請より小型の船が使われたようです。
 石船で大坂へ運ばれた石は、どこへ陸揚げされたのでしょうか。
石は、石切場から集石地(積み出し地)へ集められ、そこから石船で海上輸送されました。そして石上場(陸揚げ地)まで、船で運んで陸揚げします。その石は、石置場へと陸送されて集められます。その後、用途に応じて普請丁場へと運ばていきました。
大阪城石垣 江の子島 石材集積地
細川家の石材集積地があった江の子島

塩飽からの石は、どこへ陸揚げされたのでしょうか。
大坂城代青山下野守忠裕家臣で、石役の鈴木浅右衛門が作成した『御石員数寄帳』という記録が残っています。これは19世紀初頭になって作られたもので、同時代史料ではありませんが参考にはなります。これを見ると石の種類と数・保管地が所有大名ごとに5つに区分して記されています。この中には、次のように記されています。
「細川越中守殿抱石として、岡山町栗石六十三坪二合五勺、木津川町に築石百二十九本、尻無川に角脇石一本」

 石材は、角脇石などは「本」で数えられ、栗石などは「坪・合・勺・才」などの体積で表されたようです。細川越中守の石は、大坂城と大坂湾の中間の木津川と三軒屋川の流域地域にある岡山町や木津川町、尻無川などにストックされていたようです。
さらに次のように記されます。
 「千手新左衛門はゑのこ島にて志わくより参候舟の石つみうつしの御奉行仕り候、私は京橋かぎ丁場に相い詰め申し候間、しかと存じ申さずしわくより石舟参らず候時は毎日御丁場に相い詰めきもをいり中し候事」

意訳変換しておくと
「千手新左衛門は、江の子島で塩飽から船で運ばれてくる石の積移しの奉行を務めていた。私は京橋の鍵丁場に詰めていて、よくは分からないが塩飽からの石舟がやってこない時には、毎日御丁場に詰めて仕事を行っていた。

 ここからは塩飽からの石船が「江の子島」に到着して、積み替えられていたと記されています。

えのこ島は、難波の八十島の一つ江の子島のことで、淀川河口に発達した三角州の一つで、西を木津川、南を阿波堀川、東を百間堀川に囲まれた島で、現在の中の島の南西になります。ここに陸揚げをし、その後、大坂城の近くまで輸送したのでしょう。

大阪城石垣 道頓堀の石揚場

黒田家の石揚場については、黒田家伝来の文書群(福岡県春日市奴国の丘歴史資料館所蔵の佐藤家文書)の中に、大坂城第二期普請にかかわる大坂市中の絵図が残されているようです。そこには、
黒田家が大坂城へ運び込んだ際の石の荷揚場の図と、関係者の滞在や資料保管のため借り上げた場所が示されています。それを見ると、石材輸送は木津川から道頓堀川か長堀川を経由して、東横堀川に入るルートが使われています。その途中の上図のような「御石上ケ場」(集石所)が設けられています。
①長堀川との合流地点に近い木津川の右岸沿いの寺島
②道頓堀川沿いの開発が遅れていた西半分両岸
塩飽諸島で切り出された石が、塩飽の石運搬専用船で瀬戸内海を通って運ばれ、本津川から市内の河川へと移動して陸揚げされ、これらの集積場所にストックされたことが分かります。

小豆島から輸送された石は、八軒屋と伝法で陸揚げされていたようです。八軒屋は大坂城すぐ近くで、桃山からの高瀬舟の到着湊があった所です。伝法は淀川河口で遠く離れています。伝法で陸揚げして、再度河川を利用して普請場近くへ運ばれたことが考えられます。少しでも大坂城の普請場に近い場所へと陸揚げしたいところですが、大量の石を保管する場所が必要になります。そのため遠い場所に陸揚げされ、求めに応じて川船に積み替えて「出荷」されていたようです。
 以上からは大坂に輸送された石も、直接に普請現場に送られたのではなく石置き場にストックされて、その後必要に応じて現場に運び込まれたことを押さえておきます。とすると、現場から石垣職人が石を見に来て、目に適った石だけを指定して運び出されたことも考えられます。職人が選ばなかった石は、いつまでも置いておかれることになります。これらが「不適合品(石)」となったのでしょう。
 不適合品となった石は、どうなったのでしょうか。よく分かりませんが、大坂の運河工事や雁木として使われたのでしょうか。寺社などの石垣として転用されたのかも知れません。

以上をまとめたおくと
①大阪城再建に使われる石材については、厳しい品質と基準検査があった。
②そのため切り出されても大半は大坂に運び出されずに、石材積み出し湊の築港工事などに使われた
③大坂に運ばれた石材は集石場にストックされ、必要に応じて石垣工事現場に搬入された。
④実際に石垣に使用された石は、採石数の4%に満たないものであった。
⑤そのため石切場から積みだし湊に至るルートには、数多くの不良品(残念石)が残っていた。
⑥本島の石切場の作業員は600人程度で、日雇い労働者で飯場暮らしであった。
⑦その中の4割が石の輸送に携わる労働者であった。
⑧労働者の賃金は、畿内の石切場の相場よりも安く、これが備讃瀬戸に石切場を求めた大名のねらいのひとつとも考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島
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江戸時代初期の塩飽と小豆島は、ともに幕府の支配下にありました。その管理に深く関わっていたのが小堀政一です。しかし、この名前を知っている人はあまりいません。が小堀遠州と聞くと知名度はぐっと上がります。高梁市のHPには、次のように記されています。
  江戸時代前期の大名、備中国奉行、茶人。幼名は作介。名は政一。遠州は通称。備中国奉行・小堀正次の子。1604(慶長9)年父を継ぐ。備中松山城普請をはじめ、頼久寺庭園の作庭などを行った。また、駿府城、禁裏、二条城などの作事に関わり、建築、造園に優れた才能を示した。また、将軍家茶湯指南として大名茶の中心となり、「綺麗さび」を特徴とする遠州流茶道の祖となった。

  高梁市のHPには小堀遠州として「駿府城、禁裏、二条城などの作事、建築、造園」「将軍家茶湯指南として大名茶人」に焦点が向けられています。しかし、彼は伏見奉行を長く務めた政治家であり、大阪城再建の作事奉行でもあったという点には触れられていません。つまり、業績としては、茶道や華道の元祖であり、庭園造作の名手としての文人の面が高く評価されています。しかし、先ほど触れたように小堀遠州は塩飽や小豆島の管轄者として、深くこれらの島に関わっていたようです。
小堀遠州展 : 生誕四百年記念(小堀遠州顕彰会, 日本経済新聞社 編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
 小堀遠州

   大坂城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で燃え落ちます。
その後、大坂は幕府直轄地となり、元和6年(1620)徳川2代将軍秀忠が大坂城の再建を始めます。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じます。これまでにない巨石も多く使用させ、巨額の建設資金を大名たちにつぎ込ませて約10年の歳月をかけて大坂城は再建されます。築城は、次のように3期に分けて進められました。
第1期が元和6年~9年(1620~23)
第2期が寛永元年~3年(1624~26)
第3期が寛永5、6年  (1628~29)
大阪城の石垣「徳川の権力を誇示」
大阪城に運ばれた一番大きい石

大坂城再建の土木工事の総奉行は、秀吉の下で築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎のもとで、実際の建築工事に当たったのが幕府旗本の小堀政一(遠州)でした。彼は慶長6(1601)年、家康が伏見城を再築するときに作事奉行を務めて以来、駿府城、名古屋城、二条城など、家康に関係するほとんどの城の作事奉行を務めています。そして大阪城再建の際にも、作事奉行として城の周縁部の櫓や門の修繕を担当し、そして第二期工事では、天守本丸作事奉行を務めています。研究者の中には「大阪城再建の実質的総責任者は、小堀政一」と指摘する人もいます。この仕事ぶりを藤堂高虎は高く評価し、後には自分の養女を小堀政一に嫁がせています。高虎と遠州は義理の父子関係で結ばれていました。
伏見奉行所跡 - 京都市, 京都府

 一方、小堀遠州は、伏見奉行も務めていました。
伏見奉行は、西日本の天領などの管理もおこなっています。小豆島は天領で、塩飽も「人名領」ですが幕府直轄地です。つまり、このエリアの最高責任者は小堀であったことになります。
 そうした中で、大阪城の築城が始まります。
大坂城の築城は、西国大名に「天下普請」として義務付けられ、64の大名が参加します。諸大名は築城にあたり、石垣に必要な石を確保することが求められました。そのため各地の石切場が物色されます。 まず伏見城の石垣石が、淀川を下って大坂ヘ運ばれてきます。次いで南山城の加茂・笠置に石丁場が拓かれます。大坂周辺では、生駒山系西麓や東六甲山系にも多くの石切場が拓かれます。しかし、それでも足りません。そこで目が付けられたのが瀬戸内海の島の石切場です。石は船で運ばれます。島の石を運ぶのが便利と考えたのでしょう。しかし、大名所有の島は簡単には、掘らしてはもらえません。そこで目を付けられるのが、幕府支配下の島です。小豆島は天領で、塩飽は「人名領」で、どちらも幕府支配下です。各大名たちは、幕府との交渉し、これらの島からの石の切り出しを進めます。この交渉相手が小堀政一だったのです。
  大坂城に運ばれた石は、小豆島から運ばれたものが有名で、その他の島の石切場については、あまり知られていません。小豆島以外の塩飽の島々の石切場について、見ていくことにします。
  テキストは、坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島です。

小豆島に4年ほど単身赴任で暮らしていたことがあります。
原付バイクで島中を走り回っている間に、いろいろなところに石切場跡があることに気付きました。いくつもの大名達が、石垣用の石を求めて、小豆島に「石切場キャンプ」を設置して、監督の武士団と職人たちを送り込んでいます。
石切場 牛窓前島
牛窓の前島の石切場跡
小豆島の周辺の島々をめぐる中で岡山の牛島の前に横たわる前島を訪れた時のことです。島の夕陽を見るために展望台に上がっていくと、そこがかつての「大坂城御用達の石切場島」であったことを示す案内板に出会いました。小豆島以外にも、石切場が開かれたことに気付きました。そしてこの時に改めて、徳川幕府による大阪城再建が「天下普請」であったこと、大名にとっては、まさに「石垣合戦」だったことを実感しながら沈む夕陽を眺めたのを覚えています。
岡山県 牛窓港からフェリーで前島に渡り、瀬戸内海の夕陽・朝日を望む! / Maejima Island Cruise ( Okayama, Japan  )【おうちで旅気分!】 - YouTube
 
それからながーい、ながーい月日を経て、小豆島以外の石切場について向かい合おうとしています。前置きは、このくらいにして・・・

塩飽諸島の状況を記した「塩飽島諸事覚』に、次のように記されています。
御用石丁場五ケ所 笠島・与島・青木浦・江之浦・櫃石島、右島之浦分二一ヶ所宛、右ハ大坂城御普請之時、塩飽島より石御取被成候」

意訳変換しておくと
塩飽諸島には御用石丁場が五ケ所ある。 笠島・与島・青木浦(広島)・江之浦(広島)・櫃石島の浦にあり、これらは大坂城再築城の際に、塩飽島より採石した所である

ここからは、笠島・与島・広島の青木浦と江之浦・櫃石島の島々の五ヵ所に石切場があったことが分かります。それがどこにあったのかは、分かりませでした。それが当時の様子を示す文献史料が近年出てきて、現地調査も行われたようで、坂出市史に紹介されています。これを見ていこうと思います。

石切場 本島
本島の高無坊山の西麓に切石が残る
まず本島の石切場です。
本島の石丁場については今までは、豊前小倉藩細川氏が塩飽本島に石丁場を拓いていたことは知られていました。しかし、具体的場所や規模は、ほとんど分からなかったようです。それが現地調査の結果、本島の高無坊山西麓一帯であることが分かってきました。高無坊山は本島のほぼ中央に位置する標高約200mの山で、山頂の西山麓を流れる西谷川の谷頭付近を中心に、多数の矢穴のある種石や刻印のある切石が散在しています。
石切場 本島2

残された石には、細川氏を示す刻印が刻まれ、細川氏が拓いた石切場だったことが分かります。発見されている刻印石は49ヶで、大阪城にも同じ刻印の石があるようです。切り出された石は、島の北部にある屋釜海岸へと運ばれたようです。 屋釜には積み出し跡があり、ここから大坂へ海上輸送されたのでしょう。

P1180897
        塩飽本島の高無坊山石切丁場跡

与島の石丁場について、 塩飽年寄の一人である吉田家には次のような文書が残されています。
尚々、石場の儀につきて、ご返事の通り島年寄中内証申し聞候につきて、おおかた石場相済み候、いよいよ其元においてしかるべき様仰せ付けられ下され候、共の意のため頼み候、
以上
わざと一筆啓上致し候、然らば塩飽島において右衛門佐請け取り候石場の儀、先日申し入れ候処ご返事並びに使い口上の通り御座候、別してお心添え恭く存じ本り候、すなわち右衛門佐ヘ申し聞かすべく候、それに就いて塩飽島年寄中申す談、塩飽島の内むかいかさ(笠)島・吉島の内、浦方両所請け取り申す分に大形相究め候、並びに島年寄中の内、一人罷り上られ候条、貴様まてご内意を得、その上にていよいよ相済み申すすべく由候、明所の儀候間、相違なく相い渡し候様に仰せ付けられ下さるべく候、拙者儀爰元仕り廻り候はば、自体大坂へ罷り上るべく候、左候はば以て成とも、御意を得るべき候、異彩はこのもの口上に申し含め候、
                                                              黒田市兵衛
二月二十四日
小堀権左様
意訳変換しておくと
石場(石切場)のことについて、ご返事の通りに島年寄中(塩飽の指導者)に申し聞かせて、確保ができました。小堀様の方から事前に指示していただいたのでスムーズにすすめることができました。感謝いたします。
以上
一筆啓上致し候、塩飽島(本島)において右衛門佐が受け取った石切場について、先日の申し入れに対して、配慮いただいたことに対して、返事並びに使い口上の通りお礼申し上げます。お心添えの結果を、右衛門佐ヘ申し聞かせ、塩飽島年寄中に伝えたということです。
 塩飽島(本島)の北向かいにある笠島・吉島(与島)に石切場を拓くことについて、両島の浦方の同意を取りつける所までは進みました。しかし、島年寄中の中には異論もあるようです。つきましえは小堀様の内意を得て、働きかけていただけないでしょうか。そして、笠島・吉島(与島)に石切場を拓くことことを仰せ付けられいただければ幸いです。拙者は今は国元ですが、昨今に大坂へ参りますので、御意を得るべきようお願いいたします。詳細については、使者が口上で申し上げます。
この史料は、筑前福岡藩黒田家の家臣である黒田市兵衛が小堀権在に宛てた書状です。宛名の  小堀権左は、大坂城作事奉行である小堀政一(遠州)の家臣小堀宗政です。
文中に「向かさ島(むかいかさ島)」「吉島」とあります。これは塩飽本島の笠島北方にある向島と与島を示します。ここからは本島以外の島にも黒田家の石切場があったことが分かります。

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        塩飽本島の高無坊山石切丁場跡
塩飽島は幕府直轄地で、小堀の支配下にありました。黒田家は小堀宗政に塩飽での石丁場を開くに際しての申し入れに対しての心添えの件に感謝しています。同時に、向島と与島で空所があれば渡すように島年寄に仰せ付けるよう依頼しています。本島にも細川氏の石丁場がありましたが、それだけでは足りなかたのでしょうか、それ以外の島で石丁場を求めていたのです。
同日付の年寄吉田彦右衛門宛の黒田市兵衛の文書があります。
これによると肝煎から石丁場を確保でき、手形を取り交わしたことに対して、彦右衛門へ銀子2枚を遣わしています。石切場の斡旋を小堀に申請すると同時に、島内にある石丁場を管理している肝煎に、年寄から話しをつけてもらっていたようです。石切場には肝煎が深く関わっているので、これをうまく利用しなければ確保が難しかったことがうかがえます。このような石切場確保交渉も、藩の重役が小堀政一に直接行っています。
小堀政一書状には「瀬屋」「ひつ島」「せいの島」が出てきます。
「ひつ石」は櫃石島、「瀬屋」「せいの島」は瀬居島を指すようです。ここからも本島だけでなく周辺の島々でも細川家は、石切場を開いていたことが分かります。
石切場 櫃石島

調査報告書が出されている櫃石島を見てみましょう。
櫃石島にもいくつかの刻印石が残されているようです。島の北西部の花見山の南に下った標高65~75mの地点に刻印石が散在していることが報告されています。調査報告書によると
①12個の刻印石・矢穴石があり、主として串団子形の記号が刻まれている
②最も大きい石は、長さ3m、幅2m、高さ1,2mの巨石で、串団子に「越前」の銘が添えられている
③刻印の「越前」は福井藩松平氏で、藩主松平忠直は第1期工事の北外堀・東外堀石垣を担当した
④そこに串団子形刻印石があり、櫃石島刻印石と同じである
ここからは櫃石島の石切場は、越前松平氏が拓いたことが分かります。福井藩は第1期のみの参画なので、石丁場は元和六(1620)年頃に開かれて、その後は閉鎖されたようです。
瀬居山頂磐座
瀬居島の磐座

 瀬居島にも石丁場が開かれていたことを示す史料を見てみましょう 
塩飽の年寄宮本・吉田宛の小堀政一の文書ですが、そこに瀬居島に石切り場を求めようとした武士たちの名前が出てきます。
以上
急度申し越し候、せいの島(瀬居)の内にて明所これ有るにつきて、岡島備中殿・前田美作殿お望みのよし候、右の所これ以前いつ方へも相渡さず構えこれなき候、明所において共にお渡しこれを
進むべく候、もし加藤左馬殿へ相渡し候石場へ相構え申す所においては、以来出入りこれ有るべき候は返し候間、渡し候事無用候、その為このごとき候、以上、
遠江
九月二十八日               □(花押)
宮本道意
吉田彦右衛門
  意訳変換しておくと
以下のことを急ぎ申し伝える。瀬居島の石切場予定地については、岡島備中殿・前田美作殿が入手希望しているが、ここはまだ誰に渡すかは決まっていない。 明所(空所・まだ石切場が拓かれていない所)を前田家に渡すように進めてもらいたい。また、加藤左馬殿へ渡していた石切場が不用で返還されるようになった時には、他者に渡すことのないように。以上、

瀬居島の明所(空所・まだ石切場が拓かれていない所)を岡島備中と前田美作が所望しているが、以前より誰にも渡していないとあります。ここに出てくる二人は加賀藩前田家の重臣です。ここからは前田家も瀬居島に石丁場を拓こうとしていたことが分かります。時期は第二期工事の始まる元和8年頃のことのようです。その後、前田家が瀬居島に石丁場を拓いたかどうかは分かりません。しかし、各藩が幕府管轄である塩飽の島々に石切場を拓こうと、塩飽支配のトップの幕臣小堀政一や、現地の本島の年寄りたちに接近し、「取得交渉」を行っていたことは分かります。各藩にとって、まずは石切場の確保が大阪城築城の最初の課題だったようです。
文中にもう一人出てくる加藤左馬は、伊予松山藩主加藤嘉明のようです。
この文意からは第一期工事には加藤氏は関わっていて瀬居島に石丁場を拓いていたようです。それが2期工事の石垣担当からは外れたのでしょうか、石切場の返還があることを、小堀は想定しています。与島の鍋島燈台が立っている湊付近には、加藤の刻印石らしき残石があるようです。加藤氏も塩飽諸島の与島に石切場を拓いていたことが裏付けられます。
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         塩飽本島の高無坊山石切丁場跡
以上をまとめておくと、塩飽には次のような石切場拓かれていたことが史料から分かります。
①本島の高無坊山西麓一帯に細川氏の石丁場
②向島・与島・櫃石島・瀬居島に黒田家の石切場
③櫃石島に、越前松平氏の石切場
④瀬居に加賀前田家と伊予松山加藤家の石切場
⑥与島に伊予松山藩の石切場
細川氏や黒田氏は、小豆島にも石切場を拓いていました。しかし、それだけでは需要に応じきれなかったようです。黒田氏も細川氏も、塩飽にも石切場を拓いていたのです。細川・黒田氏は、小豆島と塩飽の石切場を同時進行で拓いて操業していたようです。細川家の担当者の中では、瀬戸の石切場、小豆島作業所、本島作業所、向島作業所、与島作業所、櫃石作業所、瀬居作業所という組織図があって、責任者やスタッフ、一日の切り出し石数までインプットされ、塩飽と小豆島を一体として捉えられていた感じがします。その運営ぶりはまた次回に
以上をまとめておくと
①大阪城再建がスタートすると、各大名は石垣用の石の工面に奔走するようになる
②石切場として目を付けられたのが小豆島や塩飽の周辺の島々である。
③このエリアの島々は幕府直轄地であり交渉がやりやすく、海上輸送が可能であった
④当時、小堀政一(遠州)は伏見奉行であり、大阪城の作事奉行を兼務していた。
⑤そのため多くの大名が石切場の割当を求めて、小堀に相談や陳情を行っている。
⑥大阪城築城期の塩飽周辺は、各大名の石切場が姿を見せ、周囲からの注目を浴びる存在でもあった。
⑦小堀政一は、石切場斡旋調整だけでなく、塩飽廻船の便宜も図っている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 坂出市史 中世編 大阪城築城と塩飽諸島
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廻船式目の研究(住田正一) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

坂出市史に「廻船式目」のことが紹介されています。
廻船式目とは、「海の憲法」ともいえる海事法規で、海上運送における慣習法をまとめたものです。全国には60冊ほどが伝わっているようですが、奥書の年紀は貞応二(1123)で共通しているので、鎌倉時代前期には成立していたとされます。
  廻船式目には、海難・盗難・積荷損害などの事故への対応法が書かれています。
それが時の権力者から承認を得ながら、何度かの改変・追加などを経て室町時代後半期には、全国的に一定の共通理解と法的拘束力がもたれるようになっていきます。つまり中世以来「廻船式目」に定められた条項が遵守され、海事紛争の根拠法とされていたのです。「海の憲法」とも云われる由縁です。

 塩飽には、2つの廻船式目が伝来していたようです。そして、それらを書き写したものが各浦々の人名の家には残っています。その背景を坂出市史は、次のように指摘します。
①海路を遠国まで航海する大型廻船を所有していたこと
②諸国の廻船が海上交易のために寄港したこと
③その際に塩飽海域で海難事故・事件に巻き込まれた場合の対応法を知っておく必要があったこと。
そして、与島に伝わる船法度(廻船式目)を紹介しています。
これは塩飽寛政改革で新年寄に選任された与島岡崎家の当主次郎左衛門が、塩飽に伝わる「廻船式目」を種本にして、新たに書き写したものと研究者は考えているようです。これを見ていくことにしましょう。

タデ場 廻船式目 
 廻船式目
第1条は、難破船に関する事項です。
① 「一  寄船・流舟(難破船)は、その在所の神社・仏寺修理をなすべきこと、もしその船に乗る者おいては、舟主進退なすべきこと」

沖で難破した船が流れ着いたときの処置方が記されています。難破船は、誰の物か分からないので、近隣集落で船を解体して、寺社修理に充てることができたようです。乗組員がいれば、船主の進退を仰ぐとあります。通例では、当該乗組員の判断によると記すものが多いようです。
 第二条は「港に係留中の船が破損したり、積荷が濡れた時」のことです。
②湊(港)において繋ぎ船損ないしたる時は。その所より濡れたる物を干し、船頭に渡すべきなり。そのため帆別・碇役し湊を買たる(人港に際し支払う諸税)は、国主たりとも違乱あるべからざる事」

船を湊に係留中に、船が損傷したり、荷を濡らした場合は、現場で乾して船頭に渡せとあります。そのため、全ての権限は、船頭にあり、帆別・碇役などの津料(関税等)を支払った場合、荷物の取引に関して、その所の国主といえども勝手はできないとあります。港に係留された船の保全は、港管理者に責任があったことが分かります。
  第三条は、「(係留中の)大風時の係船の事」についてです。
③ 「一  繋ぎ船あまたこれありて大風ならば、その村よりも加勢をつかまつるは、まず風上なる船に加勢する事もつともなり。いかに風上の舟、綱碇ありといえども、風上の船流れかからば諸々の船繋ぎ止むるべからず、もし風上の舟おのれと綱を切り、風下の船に流れかかり二艘ともに損いならば、風下の船より最も風上の舟に存分これあるべき事」

 多くの船が係留されているときに強風が吹いたときには、まず風上の船に加勢せよとあります。どんなに風下の船が綱碇をしているといっても風上の船が流れてくれば全ての船をつなぎ止める事はできません。もし、風上の船の綱が切れて風下の船に流れかかり、両方とも破損したなら風下の船から風上の船に賠償させる権利(存分)があるというのです。
 「その村よりも加勢」とあるので、湊のある村では海難救助や災害防止のための出動が相互扶助として確立していたことがうかがえます。それを指揮する庄屋たちは、この慣習法を知っていないと、対応を誤ることになります。勤番所に置かれていた廻船式目を、真剣に書き写すリーダーたちの姿が浮かんできます。
   第6条は、船の盗難に関する事です。
⑥舟を盗まれ、本は賊船に取られ、北国の舟は西国にこれあり、西国の舟は北国にこれありといえども、この船を買取り廻船をすべからざる事、もし、荷物を積廻す船はこれあるにおいては、船主見合いにこの舟を取返し、船頭も迷惑たるべき事、かわりに付たる沙汰はたとい親子の間にて深々たるべき事

船が盗まれることもあったようです。盗まれた船と分かった時には、日本中のどこにあっても持ち主に返却すること、その船が何回も転売されていて所有権は無効となる。また、盗船の雇われ船頭も盗船であることを知らなくても免責にならない。

このように海難事故や船をめぐる事件についての対応のために、中世にはこんな慣習法ができていたこと自体が驚きです。しかも、瀬戸内海というエリアだけでなく日本列島全体で遵守されていたというのですから。逆に考えると、海上交易(廻船)活動が広範囲に鎌倉時代には行われていたことにもなります。

千石船

さて、今回私が一番気になったのが、次の第7・8条です。 第7条は、「借船」に関する規定です。
⑦ 「借舟をし、もし、その舟損したるといえども、借りて弁えざるべき事、但し、舟床をすめす舟主の分別無き所を押さえて出船し、その舟損したる時は借り手の弁えにたるベき事」
船のレンタルとその運用について、荷主などが契約して借船を運航する場合、船の損害は、船主が責任を負います。また、荷主が、船主に対して契約料を未払いや無断出港した場合などは、借り手の責任となったようです。
 塩飽廻船は、古来より前払いの運賃積みで運行されてきました。その根拠となったのがこの項目だと研究者は考えているようです。
第8条は、船虫喰についてです。
 私は「船虫喰」とは、海岸でゴキブリのように這い回るフナムシと思っていました。フナムシとフナムシクイはまったく別種のようです。
タデ場 フナクイムシ3
フナムシクイの着床
フナクイムシは水中の船木に穴を開けてそこに住みつき、船材を穴だらけにしてしまいます。世界中の木造船が苦しめられてきた船の天敵です。ウキで検索すると、次のように記されています。
「フナクイムシ(船喰虫)は、フナクイムシ科 (Teredinidae) に属する二枚貝類の総称。ムシとついているが、実際は貝の仲間である。英語ではshipworm、ドイツ語ではSchiffsbohrmuschelnあるいはPfahlwurmer、フランス語ではtaret commun、台湾では船蛆蛤と呼ばれる」

  これを放置しておくと船底は穴だらけになって浸水してきます。船の耐久年数も縮めます。
タデ場 フナクイムシ1

この対応策としてとられたのが船タデです。ウキは、次のように記します。
 
船をタデ場に揚げ、藁・苫などを燃やして船底を熱し、船板中の船食虫を殺すとともにしみ込んだ水分を取り去ること。船の保ちをよくし、船足を軽くするために行なう。「牛島諸事覚」

火を燃やす作業所を「焚場」(たで場)と呼んだと云います
タデ場 フナクイムシ2
木材に巣くったフナクイムシの一種
それでは廻船式目に船虫食いが登場する第8条を見てみましょう

⑧ 「一  借船をし、その船虫喰いたる時は、借り手損たるべき事、但し、舟付きこれあるにおいては借り手気遣及ばざる事、借り手油断においては弁えあるべき事」

意訳変換しておくと

船をレンタルして運航していた際に、メンテナンス不備で虫食いの被害で損害を与えたときには、借手の責任となる。ただし、専門のメンテナンス水夫が同乗の場合は、この限りではない。レンタル側のお雇い船頭が油断して虫食いが発生した場合も、同様に責任がある。

 先ほど見たように廻船の虫食いは、深刻な場合は廃船になることもあります。そのためには普段からの注意と、定期的な整備が必要でした。「舟付きこれあるにおいては」とあるのので、メンテナンス専用の水夫が同乗する場合もあったようです。

条文に明記されているのですから、船タデを定期的に行い廻船を良好な状態で維持管理し、長持ちさせることは、廻船関係者にとっては常識であったことが分かります。また、船底に付着する海藻や貝類も船足を遅くする元凶なので、これを取り除く作業も同時に行われました。
 それでは船タデ作業は、どこで行われたのでしょうか?
   備讃瀬戸を挟んだ備後の鞆の浦からはタデ場遺構が確認されています。調査報告書は次のように述べています。
タデ場 鞆の浦2
石畳を敷いたようにみえるタデ場跡(鞆の浦)

①石敷され,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
②その範囲は約23×13m。石材の一部には,石を割ったときの跡(矢穴痕)が残る。
③岩盤は,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦であり人工的に削平したもの
④平坦に削平された岩盤と,石敷や石列の設置で,全体として平坦な「場」ができあがっている。
タデ場 鞆の浦1

また文書にも、タデ場を裏付ける次のような文書があるようです。
・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたこと

この記述は、先ほど見た遺構の「石敷・石列・加工の可能性のある岩盤」と一致します。
・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があること。

このタデ場(焚場)は大正時代の始めまでは、多くの船に利用されていたようです。当時は、千石船が50杯/月、300~500石の船が130杯/月も利用する瀬戸内では、最大級の焚場のひとつだったようです。江戸時代の港町に、タデ場が残っている所は今ではほとんどありません。潮が引くと石畳造りのタデ場が現れます。

kaisenn廻船5

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にしておきたかったはずです。
 船頭に人気があった船タデ場のひとつが、鞆にあったことはみてきました。ところが、鞆の船タデ場の管理者たちがライバルししていたのが塩飽与島のタデ場です。わざわざ与島のタデ場を取り上げて、自分たちのタデ場の方が古くからあり、処理能力や腕もよく、経費も安いと記します(鞆浦河内屋文書)。ここからは、鞆と与島は、どちらもタデ場発祥の地として競い合っていたことがうかがえます。同時に、近世瀬戸内の同業者の間では、船タデの由来・由緒が共有されていたことも分かります。ちなみに与島の小地名に「たてば」というところがあるようです。これは、もともとは「タデ場」のあったところなのでしょう。

1 塩飽諸島

瀬戸内海の干満差は、船タデ場に適していたようです。
瀬戸内海の平均干満差は約3~4mで、一日に2回干満があります。ちなみに東北から日本海方面では、千満差は、30㎝しかないそうです。また九州の有明海などは、干満差が6mを超えます。このため日本海岸では、船の下に入ることも出来ません。一方有明浜などでは磯や浜に船台を設けても、高すぎて船底に届きません。干満差3mというのは、作業にはちょうどいいようです。

坂出市史を参考に、船タデの作業開始を時間順に並べて見ましょう。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④船底のフジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を燃やして船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む。
⑦同時に、漏水(アカの道)対策や補修なども行う。

タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町は「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
タデ場 鞆の浦3
近世の造船所
  「塩飽水軍」は存在しなかった、あったのは「塩飽廻船」と前回に記しました。
塩飽衆は、武力装置としての水軍力よりも、航海術を駆使し、人やモノを各地に海上輸送することを得意にしていたのです。加えて塩飽の廻船の強みは、船舶を維持管理する能力の高さではないかと坂出市史は指摘します。そのひとつが塩飽のタデ場であったのではないでしょうか。塩飽のタデ場は鞆の浦と同じように諸国の廻船関係者から高い評価を得て、大型廻船の出入りが絶えなかったのです。それは、塩飽に安定した収入源と、船大工たちの雇用の場を作り出していました。塩飽繁栄のささえのひとつでした。

最後に現役のタデ場を見ておきましょう。
タデ場 鞆の浦4

鞆の浦の港の中の光景です。漁船には今も木造船が残っています。雁木を利用して、船を揚げて「タデ場」として利用しています。
タデ場 鞆の浦5

木造船時代は、どの漁村でも船タデが行われていました。
丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉やススキをタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼きます。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく儀式をします。タデ草を動かす棒の事をタデ棒と呼びます。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩きます。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図だったと伝わります。ちなみに鞆の浦では、タデ草の代わりにバーナーで燻っていました。現代版の「タデ草」です。形を変えて、漁村ではタデ場が残っているようです。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   坂出市史 中世編  塩飽廻船と廻船式目 123P



  2015年5月号 村上水軍と塩飽水軍 ひととき(ウェッジ社)

塩飽水軍といったことばをよく聞きますが、その実態はどうだったのでしょうか?
村上水軍と海賊

芸予の「村上水軍」と同じような海賊衆が塩飽にもいたのでしょうか?芸予諸島を中心に活動した村上衆は、村上武吉の活躍で小説などにも取り上げられ有名です。これと同じように、備讃瀬戸で活動した集団を「塩飽水軍」と称してきました。しかし、研究が進むにつれて分かってきたことは、塩飽衆は村上水軍ほど活発な活動を行っていないということです。
『南海通記』に塩飽と海賊衆について、次のように記されています。
讃州諸島ヲ命ジ給フ、家資即諸島二兵士ヲ遣シテ守シメ、直島塩飽島二我ガ子男ヲ居置テ諸島
ヲ保守シ、海表ノ非常ヲ警衛ス、足宮本氏高原氏ノ祖也
意訳変換しておくと
(香西)家資は讃州諸島の支配を命じられ、備讃諸島に兵士を進駐させて警備させた。直島と塩飽島には息子を置いて守らせ、海上交通の警固を行った。これが、宮本氏や高原氏の祖先である」

ここには、香西家資の息子が塩飽の宮本氏や高原氏の祖と伝えています。確かに、香西氏は備讃瀬戸を中心に海賊衆を統括し、それぞれの島に拠点を構えています。その拠点が塩飽(本島)でした。

1 塩飽本島
方位は北が下

なぜ塩飽が海賊衆の拠点となったのでしょうか?
     
塩飽は備讃瀬戸の中央にあり、古代から畿内と九州を結ぶ海のハイウエーのジャンクションで、同時にサービスエリアのような役割を果たしてきました。それだけでなく「塩の島・荘園」として、年貢塩を輸送するために船と乗組員(海民)がいました。中世の海民は、輸送船団員であり、同時に海賊衆でした。その海民の統率リーダーが、宮本氏や高原氏であたったということになります。
 南北朝期の瀬戸内海の海賊衆の動きを見ておきましょう。
この時期には海賊衆も南北に分かれて対立します。南朝方についたのは海賊衆も多くいました。これは南朝方の熊野水軍と熊野行者のオルグ活動があったからだと考えられます。熊野行者は児島の「新熊野=五流修験」を拠点に、瀬戸内海エリア全体への布教活動を展開したことは以前にお話ししました。そして芸予諸島では、大山祇神社の鎮座する大三島に拠点を築き、そこから伊予の忽那衆や越知氏への浸透を図ります。そのため芸予の海賊衆は南朝方として登場する勢力が多いようです。
  また、備前国児島郡の佐々木信胤も五流修験と連携する熊野海賊衆と行動を共にして、小豆島を占領し、備讃瀬戸を中心とする東瀬戸内海の制海権掌握をねらいます。

南朝勢力に包囲された塩飽
南朝の熊野水軍陣に包囲された塩飽
 このような情勢の中で、塩飽は北朝勢力の拠点でした。
そのため貞和四/正平三(1348)年4月、南朝方の忽那衆の攻撃を受けることになります。戦いの情況はよく分かりません。この時の攻撃対象は塩飽海賊衆の高原氏で、その拠点は本島北東端の笠島にあったと研究者は考えているようです。街並み保全地区に指定された笠島集落の東にある尾根上に山城跡が残されています。
笠島城 - お城散歩
笠島集落の東の尾根にある笠島城址

この城は、本島の水軍(海賊)の拠点山城とされます。
麓の笠島の港町と湾への直接的な支配・管理の意図がはっきりと見える城郭配置がされています。また、この城に籠もる勢力は、陸上交通で他地域とつながる後背地がありません。海上交通だけに頼った集落と山城の立地です。ある意味、村上水軍の能島との共通性を感じることもできます。『南海通記』を信じるとすれば、これが香西氏の子孫になる高階氏の居城で、高松の香西氏と何らかの従属関係にあったと云うことになります。室町期になると、海賊衆は警固衆として守護のもとへ抱え込まれていきます。 
塩飽本島の笠島と山城の関係
塩飽本島の笠島と城郭の関係

室町時代後半になると、守護大名は海上での武装集団として水軍を組織するようになります。

その先駆けが毛利氏と村上氏の関係に見られます。毛利元就は天文二十二(1553)の厳島合戦で陶晴賢を打ち破りますが、この時に毛利側に与して勝利をもたらしたのが、因島・能島・来島の三島村上衆の組織する水軍でした。これは毛利元就の家臣団に属したものではなく、一時的な「援軍」艦隊と考えた方がよさそうです。これを後世の軍記者は「村上水軍」と記すようになります。その実態は、3つの村上氏の「連合艦隊」で、もともとは「寄せ集めの海賊衆」でした。それが永禄年間(1558~70)後半になると、毛利氏の水軍としてまとまりをもって動くようになり、西瀬戸内海一帯で大きな影響力を誇示するようになります。その時のカリスマ的な指導者が能島の村上武吉です。

村上武吉

それでは塩飽水軍の場合はどうなのでしょうか?      
  南北朝期の海賊衆が、どのように水軍に組織化されたかを示す史料はありません。ただ、後に武吉の子孫たちが萩や岩国の毛利藩の家臣となり、船奉行を務めるようになります。彼らは己の家の存在意義のために、「海戦兵法書」や「村上氏の系図類」を残します。この史料が「村上水軍」を天下に知らしめる役割を果たしてきました。

「村上水軍」という用語は、いつ誰がつくりだしたのか
「村上水軍」という用語は、近世に作りされた。

 塩飽衆には、これに類するモノがありません。それは、大名の家臣となるものが居なかったこともあります。彼らは「人名」になりました。塩飽勤番所に大事に保管されているのは、信長・秀吉・家康の朱印状です。ここには、大名の家臣化として生きる道を選んだ村上氏と、幕府の「人名」として、特権的な船乗り集団となった塩飽衆の生き方(渡世)の仕方にも原因があるような気がします。

村上衆と塩飽衆の相違点
村上衆と塩飽衆の相違点
16世紀初頭の備讃瀬戸をめぐる状況をみておきましょう。
永正五(1508)年頃の細川高国の文書には、次のように記されています。
今度忠節に就て、讃岐国料所塩飽島代官職のこと、宛て行うの上は、いささかも粉骨簡要たるべく候、なお石田四郎兵衛尉中すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿
意訳変換しておくと
この度の(永正の錯乱)における忠節に対して、讃岐国料所の塩飽島代官職に任ずる。粉骨砕身して励むように、なお石田四郎兵衛尉申すべき候 謹言
卯月十三日          高国(花押)
村上宮内太夫殿

村上宮内太夫は能島の村上隆勝のことです。これは永正の錯乱に関わる書状のようです。細川高国が周防の大内義興と連携して、細川澄元と争います。その際の義興上洛の時に、警固衆として協力した恩賞として、塩飽代官職を能島の村上隆勝に与えたものです。塩飽は高国政権下では細川家の守護料所でしたが、政権交代で塩飽代官職は安富氏から村上氏へと移ったことが分かります。この代官職がどのようなものであったかは分かりませんが、村上氏へ代官職が移ったのは、瀬戸内海制海権をめぐる細川氏と大内氏の抗争が、大内氏の勝利に終わったことを示します。同時に、それまで備讃瀬戸に権益を持っていた讃岐安富氏の瀬戸内海からの撤退を意味すると坂出市史は指摘します。

個別「藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』」の写真、画像 - 書籍 - k-holy's fotolife

 永生10(1513)年には、周防の大内義興は足利義植を将軍につけ、管領代として権力を得ます。彼は上洛に際して瀬戸内海の制海権掌握のために、村上氏を警固衆に抱え込みます。さらに義興は、能島の村上槍之助を塩飽へ派遣して、味方するよう呼びかけています。これに応じて、香西氏は大内氏に属し、香西氏に従っていた塩飽衆も大内氏のもとへ組み込まれていきます。義興の上洛に協力した村上氏は、恩賞として塩飽代官職を今度は、大内氏から保証されています。これ以降、塩飽は能島村上氏の支配下に入ります。
「周防大内義興 ー 能島 村上槍之助 ー 讃岐 香西氏 ー 塩飽衆」

という支配体制ができたことになります。

大内氏の瀬戸内海覇権

 細川政元の死去によって、大内氏の勢力は大きく伸張します。
細川氏の支配地域が次々と大内氏に奪われていきます。16世紀になると細川氏に代わって大内氏が瀬戸内海での海上勢力を伸張させていき、備讃瀬戸の塩飽も抱え込んだのです。大内氏は能島村上氏を使って、瀬戸内海を掌握しようとします。その際に、村上氏にとっても塩飽は、東瀬戸内海進出の足がかりとなる重要な島です。ここに代官職を得た能島村上氏がこれを足がかりにして塩飽を支配するようになります。

大内義興はの経済基盤は、日明貿易にありました。そのために明国との貿易を活発に進めようとします。
その際に、明からの貿易船の警固を村上衆だけでなく、塩飽衆へも求めてきます。また永正17(1520)年大内氏が朝鮮出兵の際には、塩飽から宮本体渡守・同助左衛門・吉田彦左衛門・渡辺氏が兵船3艘で参陣したと『南海通記』は記します。これが本当なら塩飽衆は、瀬戸内海を越え、対馬海峡を渡るだけの船と操船技術をもっていたことになります。 大内氏の塩飽衆抱え込みは、日明貿易の貿易船警固だけでなく、朝鮮への渡海役も視野に入れていたようです。

大内氏の塩飽抱え込みのねらいは

天文十八(1549)年、三好好長慶が管領細川晴元と対立した時のことです。
香西元成は晴元に味方して摂津中島に出陣します。この時に塩飽の吉田・宮本氏は、元成の命で兵船を率いて出陣しています。このように、畿内への讃岐兵の輸送には、船が用いられています。西讃岐守護代の香川氏も山路(地)氏という海賊衆を傘下に持ち、山路氏の船で、畿内に渡っていたことは以前にお話ししました。塩飽衆も香西衆の輸送を担当していたようです。

元亀二(1571)年2月、備前児島での毛利氏との戦いにも、塩飽衆は輸送船団を提供しています。
また、毛利氏と敵対した能島村上氏が、拠点の能島城を包囲された時には、阿波の岡田権左衛門とともに兵糧を運び込んでいます。

村上隆勝が塩飽代官職を得て以降、武吉の代になっても村上氏による塩飽支配が続いていたことは次の文書から分かります。
本田治部少輔方罷り上られるにおいては、便舟の儀、異乱有るべからず候、そのため折紙を以て申し候、恐々謹言
永禄十三年六月十五日                                武吉(花押)
塩飽島廻船
意訳変換しておくと
(大友宗麟の命を受けて)本田治部少輔様が上京する際の船に対して違乱を働くな、折紙をつけて申しつける。
永禄十三(1570)年六月十五日                 武吉(花押)
塩飽島廻船

本田治部少輔は、豊後国海部郡臼杵荘を本貫地とする大友宗麟の家臣です。彼は大友家の使者として各地を往来していました。花押のある武吉は能島の村上武吉です。船の準備と警固を命じられているのは塩飽衆です。
ここからは次のようなことが分かります。
①塩飽衆が、能島村上武吉の管理下にあったこと
②塩飽衆が平常は、備讃瀬戸を航行する船に「違乱」を働いていたこと
③それを知っている村上武吉が、本田治部少輔の船には「違乱」をせず、無事に通過させよと指示していること
この指示に対して、宗麟は村上衆に「塩飽表に至る現形あり、おのおの心底顕されるの段感悦候」と書状を送っています。また、堺津への使節派遣にあたり、堺津への無事通行の保障と塩飽津公事の免除を求めています。その際のお礼として甲冑・太刀を贈って礼儀を尽くしています。
 瀬戸内海を航行する船にとって、備讃瀬戸は脅威の海域であり、芸予と塩飽を支配している村上氏に対しての礼儀を尽くすのが慣例になっていたようです。
西国大名たちには、瀬戸内海を航行する時に西瀬戸内海と東瀬戸内海の接点になる塩飽諸島は重要な島でした。そこを支配している村上氏の承認なくして、安全な航行はできなかったようです。
 村上掃部頭に宛てられた毛利元就・隆元連署状には次のように記されています。

一筆啓せしめ候、櫛橋備後守罷り越し候、塩飽まで上乗りに雇い候、案内申し候」
意訳変換しておくと
一筆啓せしめ候、櫛橋備後守の瀬戸内海通行について、塩飽まで「上乗り(水先案内人)」を雇って、案内して欲しい

ここには、塩飽までの航海について、水先案内人をつけて航路の安全通行確保と警固依頼をしています。命じているのではなく依頼しているのです。ここにも能島村上衆が毛利の直接の家臣ではなく、独立した海賊衆として存在していたことがうかがえます。塩飽をめぐって大名たちは、自分たちに有利な形で取り込みを図ろうとします。それだけ塩飽の存在が重要であったことの裏返しになります。

  永禄から元亀年間(1558~73)にかけて、瀬戸内海をめぐる情勢が大きく変化します。
安芸の毛利氏は、永禄九(1566)年に、山陰の尼子氏を滅ばし、その勢力は九州北部から備中まで及ぶようになります。毛利氏に対抗するように備前・播磨に浦上・宇喜多氏が勢力を伸ばします。このような中、元亀二(1571)年になると、毛利氏は浦上・宇喜多を討つために備前侵入を開始します。すでに備前・備中の国境近くの備前国児島の元太城は毛利方の支配下に落ちていました。
元太城は海中に突き出た天神鼻の半島部に位置し、三方が海に面した要害の地です。
この年五月、阿波三好氏の家臣で讃岐を支配していた篠原長房は、阿波・讃岐の兵を率いて備前児島の日比・渋川・下津丼の三ヵ所ヘ上陸します。下津丼に上陸した香西元載は、日比城主・四宮行清と合流し島吉利が守る元太城を攻撃します。東の堀切まで攻め寄せた時、急に激しい雨と濃霧に包まれた中で、城兵の逆襲にあい、香西元載は打ちとられ、四宮氏も敗走したと『南海通記』は記します。そして阿讃勢は児島から撤退します。
 これに対して、足利義昭は小早川隆景に対して6月12日付けの文書で、毛利に亡命中の「香川某」を支援して讃岐に攻め込むことを要請しています。
児島での合戦に塩飽は、どのように関わっていたのでしょうか。
塩飽衆は早くから香西氏の支配下にあったことは述べてきました。そのため児島攻めには直島の高原氏とともに、阿讃勢を児島へと輸送しています。しかし、この時期の塩飽は村上氏の支配下にありました。そのため毛利氏は村上氏を通じて、塩飽を味方につけるために動きます。ところが能島の村上武吉は、裏では周防の大内氏や阿波の三好氏とつながっていたようです。複雑怪奇です。

 それに気づいていた毛利氏は、能島村上氏の支配下にある塩飽の動向には十分注意しています。塩飽衆の中には、三好氏配下の香西氏に従う者もいたからです。そのために毛利氏がとったのが塩飽衆の抱え込み工作です。小早川隆景は、乃美宗勝にこの任務を命じます。宗勝は、後の石山本願寺戦争の際の木津川の戦いで大活躍する人物で、小説「海賊の娘」にも印象的に描かれています。また、その翌年に讃岐の元吉城(琴平町櫛梨城)の攻防戦に、毛利方の大将として多度津に上陸し、三好軍を撃破しています。

 塩飽衆の抱き込み工作の際に、小早川隆景から宗勝に宛てられた書状には次のように記されています。
「塩飽において約束の一人、未だ罷り下るの由候、兎角表裏なすべし段は、申すに及ばず候」

ここには寝返りを約束した塩飽衆が、まだ味方していないことが記されています。さらに六月十三日付の宗勝の書状には「篠右宇見津逗留」とあります。「篠」とは、篠原長房のことで「宇見津」は宇多津のことで、篠原長房は児島から宇多津へ撤退しており、長房が再度備前へ渡海することはないと判断する報告をしています。

以上、だらだらと村上水軍と「塩飽水軍」を対比しながら見てきました。両者には決定的な違いがあると坂出市史は、次のように記します。
①塩飽衆は軍事力を持つ集団ではなく、輸送船団である
②塩飽衆は村上水軍のような強大な軍事力は持つていない。
③むしろ操船技術・航海術に長けた集団で、水主として輸送力の存在が大きかった
④船舶は持っているが、軍船というより輸送船が中心で、海戦を行うだけの人員はいなかった。
⑤戦時に船と水主が動員されるのであり、戦闘集団いわゆる水軍としての組織は十分ではなかった。
塩飽海賊は水軍ではなく輸送船団だった
塩飽水軍と呼べない理由
 整理しておくと、塩飽衆は時の権力者に海上輸送力を利用され、その存在が注目され、誇示されるようになります。それが江戸時代の人名制という特権の上に誇張され、「塩飽水軍」という幻が作り出されたとしておきましょう。
このように塩飽は、信長や秀吉がその勢力を瀬戸内海に伸ばしてくる以前から、瀬戸内海制海権の覇権上最重要ポイントでした。そのため毛利と対抗するようになった信長は、塩飽の抱き込み工作を計ります。また、四国・九州平定から朝鮮出兵を考える秀吉も、塩飽を直轄地として支配し、「若き海の司令官」と宣教師から呼ばれた小西行長の管理下に置くことになります。その際に、東からやって来た信長・秀吉・家康は、塩飽(本島)だけを単独で考えるのではなく、小豆島と一体のものとして認識し、支配体制を作り上げていったと坂出市史はしてきます。

       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。


昔、高松街道でこんぴらさんにお参りする人が、土器川の清流で、身や心を清めていた付近を祓川(はらいがわ)と呼んでいたようです。その名残が旧R32号「祓川橋」として残ります。余り知られていませんが、この下流には「霞堤」がいくつもあったようです。土器川に残る霞堤を見に行くことにします。テキストは 「出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23」です

霞堤の構造

霞堤を言葉で説明すると次のようになるようです。
「連続堤に対する不連続堤のことで、上流から下流を見たとき、「ハ」の字を順番に重ねたような形状」

上流域に大雨などがあって、平野部を流れる河川の水位が上がると、堤が途切れている霞堤の開口部から水が逆流して、そこに留まり、やがで水位が下がると、逆流していた水は本流へと戻って川下へと流れていきます。開口部周辺は、遊水池としての機能を果たすことになります。

霞堤防 信玄堤
甲府盆地の信玄堤
 この「霞堤」は、武田信玄が、甲斐の国で富士川上流の釜無川で築堤したのが最初だと云われ「信玄堤」とも呼ばれます。

伝統的手法で洪水対策 24年度完成目指す  那須烏山・下境地区の那珂川|県内主要,社会,地域の話題,政治行政|下野新聞「SOON」ニュース|台風19号|下野新聞 SOON(スーン)
 香川県の川は、いつもは水無川ですが、大雨が降ると急流で濁流化して手が付けられなかったようです。そのため古代の条里制なども金倉川や土器川の氾濫原は、施行外であったようで条里制の空白地帯となっていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 地質図拡大版

土器川は洪水時には暴れ狂う龍のように、幾筋もの流れとなって龍がのたうつように流れ下っていました。そして、あるときには善通寺の弘田川へ流れ込み、あるときには金倉川(旧四条川)と交わり、あるときには大束川に流れ込んでいたことを発掘調査報告書は教えてくれます。

土器川 旧河道(大束川)

 このような暴れ龍=土器川をコントロールして広大な氾濫原を耕地化していく試みが始まったのは中世になってからです。そこには西遷御家人としてやってきた東国武士達のもたらした治水技術があったようです。それを学んだ名主たちも氾濫原開発に着手していきます。
 それが爆発的に広がるのが生駒藩時代だと私は考えています。生駒藩では、新規開発を行った者がその土地を所有できる土地政策をとります。そのため周辺国々から有力者達がやってきて開発・治水を始めます。その一例が、安芸の因島村上水軍の木谷氏の多度津への亡命・入植です。これ以外にも、丸亀市史には、この時代に多くの有力者が土器川沿いに入植し、富農となっていたことが記されています。これは土器川の治水と氾濫原開発と関わりがあると私は考えています。

土器川旧流路
郡家周辺の土地利用図 旧流路の痕跡が残り土器川が暴れ川だったことが分かる

 その中でも西嶋八兵衛による満濃池再築は、エポックメイキングな事件でした。これは大きな池を築くという以外にも、その水を丸亀平野全体に供給するという使命がふくまれていました。そのための用水路を整備するためには、土器川を制御する必要があります。それができて満濃池から直線的な用水路が丸亀平野に引けるのです。つまり「満濃池再築 + 土器川制御 + 用水路整備」は、丸亀平野総合開発の一環として西嶋八兵衛の頭の中にはあったと思うのです。これは高松平野の郷東川の流路変更などをみても分かるとおりです。
信玄堤(霞提)

 信玄堤は各地で築かれるようになってきます。

江戸前期の治水技術の特色は、流路に向かって亀甲出しをつくって水勢を弱め、ある程度以上の水量は、あふれ越えさせることでした。これを信玄堤と呼んだようです。
 の『地方の聞書』(1668(寛文八)年)には、溜池の水門・堰普請などの用水関係のほか、堤防の検分修復・水はね出し堤の築造などのことが特筆されている。
  『百姓伝記』には、治水について次のように記されています。
 河川の大量の水をその流路内に閉じ込めず、川幅を広くして、堤外の耕地を流戯作(ながれさくば)として残し、これを護るために本堤の他に小堤をつくり二重堤とする。屈曲点などの水当りの強いところでは、猿尾(出堤)・石枠・袖枠などを設け、堤の上には柳竹芝などを植えるがよい。
また『地方竹馬集』には、『百姓伝記』にいう二重堤に対して、洗堤のことを次のように強調しています。
 通常の増水は本堤で抑えるが、特別の増水時には洗堤を越えさせて水勢を弱め、ゆるやかに田畑へあふれさせて湛水させ、耕地の流失を防ぐ。洗堤は川裏を傾斜地にして保護する。

 以上のように、江戸時代になると二重堤防や洗堤等の治水技術の進歩につれて、河川敷の固定、耕地の開発や干拓が藩の土木政策として推し進められるようになります。
扇状地状三角州の河川制御には、信玄堤が有効であることが分かるようになってきます。この方式は、洪水と全面的に対峙し、洪水を抑え込んでしまう「人間と自然の対決」という自然観ではありません。自然には勝てないが、その被害を少なくすることはできるという「減災」の考え方です。ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式だと研究者は考えているようです。
 これは直線的な連続した堤を上流から下流まで築いて、大洪水を一挙に河口に押し流そうと考える治水方法とは違います。

それでは、土器川のどこに霞堤が残っているのでしょうか。

 土器川には、かつては多くの霞堤があったようです。しかし、年とともに連続堤に改められ、その数は少なくなっています。今は、痕跡をとどめるものを含めても、約20箇所程度になっているようです。その中で。垂水橋から「生き物公園」にかけてが一番観察しやすいエリになるようです。

こんな時に便利なのが「今昔マップ」です。このソフトは、現在の地形図と明治の地形図を並べて提示してくれます。それだけでなく連動して動いてくれるので、その地点の現在と過去を比較する際には非常に便利で、私は愛用しています。今昔マップで垂水橋周辺を見てみましょう。
土器川 霞堤防垂水橋

左が明治39(1906)年、右が現在の垂水橋周辺です。このふたつの地図から読み取れることを挙げておきます
①M39年には現在地点には垂水橋はなかった。
②その代わりに左岸の垂水村仲村と岡田村の東原を結ぶ旧垂水橋があった。川の部分に架かるだけの小さい橋だったが、これが宇多津ー金毘羅街道であった
③現在の生き物公園には、中村方面からの支流の合流点だった。
④垂水橋の右岸の向王子は大束川の支流の源流になる。かつて土器川が大束川に流れ込んでいたときの痕跡が残る。

 明治39年の地図を拡大し、 右岸南から見ていきましょう。
土器川霞堤 垂水1 

垂水橋右岸たもとのの堤防を下流方向(北)に辿っていくと約300mで一旦途切れます。これが霞堤のの開口部①です。確認しておきたいのは、上流からの堤端が途切れるのに対して、下流からの堤防はその外側を重複してを上流方向に伸びていることです。
 もちろん今は開口部は埋め立てられて、下流からの堤防と同じ高さで接続しています。さらに約300m北へ進むと開口部②があります。ここでも、上流からの堤端は途切れて、下流からの堤端は南へ延びています。開口部②は今でも開いたままです。
②の東側の田んぼの中に鎮座するのが椋神社です。
ここは宇多津の港を出発し、土器川の右岸沿いに歩いてきたた金毘羅参詣の人々が、土器川を渡る場所でした。その渡河地点には「金毘羅大権現」と刻まれた常夜燈が建っていました。その常夜燈は、今は椋神社に移されています。金毘羅参詣の人々が川原へ降り、対岸の垂水の地蔵堂を目指して、左斜め前の方向に土器川を渡っていたのを、この常夜灯は見守っていたのです。開口部②は、土器川の霞堤の特色を最もよく残しているところで、お勧めの場所です。
②から③の堤防は、雑木林(水害防備林?)が繁っていて、土器川の現存する堤防の中では最も古い感じがします。
土器川の堤防は見晴らしが良くきく所が多いのですが、この区間は雑木林に覆われています。対岸は現在は、生き物公園になっています。ここを訪れると気がつくのは堤防がいくつもあることと、支流が流れ込んでいることです。それがこの公園の地形を複雑にしています。地図からはかつての郡境が走っていたことが分かります。
土器川 霞堤防中方橋

③から100mほどで④の開口部です。今は、ここもは締め切られていて、開口部から堤防に沿っては雑木林が繁っていますが、その痕跡は残っています。 中方橋右岸の東小川には土器川沿いに新名出水という地名が残ります。地図で見ると霞堤の外側に3つの出水が見えます。
飯山法勲寺古地名新名出水jpg
 東小川の古図
 新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水で、いまもあります。これを利用して氾濫原の開発に乗り出した名主たちが中世には現れます。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると、「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。これらの開発地を守るためにも、開発領主達は霞堤の築造にとりくんだことが考えられます。

生き物公園周辺の霞堤は、どんな機能を果たしていたのでしょうか
大雨が降って洪水になった時に、本流の河床と開口部の関係がどうなっていたかを研究者は次のような断面図を示して説明します。下の図は地形図から2,5m間隔の等高線だけを抽出して「微地形と霞堤」で示したものです。
土器川 生き物公園霞

さらに土器川を、AーB、CーDの「模式的横断面図」です。
土器川 生き物公園霞断面図

AーBの横断面図について見てみましょう
川の中央を走る42,5m等高線が、左岸(垂水)側の霞堤開口部から堤内地を上流(南)方向に向かって、幅約60メートル、長さ約200m入り込んでいます。つまり左岸堤内地には、南北方向に延びる微凹地があることになります。それは本流と同じ高さの微凹地帯でもあります。このことは、川の中央で水位が1m上昇すると、左岸堤内の凹地帯でも同じ高さまで水位が上がってくることになります。本流中央の水位が上がったとき、開口部からは水が堤内に逆流して入ってくることを意味します。水位が下がってくると堤内地に留まっていた水は、しだいに開口部から本川へ排水されていきます。上流側のCーDの横断面のエリアでも、同じ現象が起きるはずです。もう少し詳しく見ると、上流のC=Dラインの方が貯水量は多いようです。奥まで流れ込めば流れ込むほど、より多くの水を貯水できるような構造になっています。
以上から霞堤の開口部の役割は、次の3点になります。
①洪水時には、土器川の水を開口部から堤内に逆流させ
②土器川の水位が下がってくると、それを戻す
③堤内の排水
以上のように、霞堤の開口部は、堤内の排水を行うだけでなく、洪水時には遊水池としての機能も果たしていたことが分かります。さらに、それでも捌ききれなければ、旧河道にオバーフローさせることによって、本流の堤防を守り被害を最小限に抑えようとしてきたのでしょう。
土器川 生き物公園治水図

  今昔マップで、明治39年の地形図と「治水分類地形図」を並べて見てみましょう。
先ほど見た右岸には、平行して旧河道の痕跡があります。これは大束川の源流になることは先ほどみました。一方、左岸の垂水側を見ると、生き物公園から北の中所の池にも河川跡があります。
 ここからは、ここに霞堤を築くことによって洪水時のフローをこれらの河川跡に流すことが意図されていたのではないでしょうか。
 もう一度、霞堤の目的を確認しましょう。
「ある程度の氾濫を受入れ、被害をできるだけ少なくする、いわば洪水との共存を図る治水方式」

そのためには、多少の犠牲は仕方ないと割り切っているようです。その犠牲になる部分が、生き物公園周辺だったとも考えられます。その課題と機能は次のように考えられます。
①支流の合流点で、屈折点でもあった生き物公園付近は洪水の際の決壊点となった。
②そこで、川幅を広くし、両岸に霞堤を配した。
③生き物公園周辺は、洪水時には遊水池として機能すると同時に、霞堤から溢れた水は、旧河道によって下流に流された。
④これによって下流の堤防決壊を防ぎ、被害をできるだけ少なくする「減災」をめざした。
  生き物公園を歩いて感じる、普通の堤防や河川敷とは異なる奥深さは、遊水池としての機能に源があるようです。その地が公園として、保存されていることに何かしら嬉しさと誇らしさを感じてきます。
参考文献 出石一雄  土器川と霞堤  ことひら66 H23



三浦 地図1
1928年国土地理院地図

今から約百年前の国土地理院の宇多津周辺の上の地図を眺めていると、青野山のまわりは水田が拡がり、北側には塩田が広がります。古代においては、海が入り込み丸亀城の亀山も青野山も角山・聖通寺山も海に浮かぶ島だったとされます。今回見ていくのは、聖通寺山周辺にあった平山と御供所です。このエリアの人たちは、近世初頭に丸亀の土器町に移住して、三浦を開きます。その過程を追ってみたいと思います。
  坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬で、旧石器時代から人が生活していた痕跡があります。頂上には積石塚古墳があり、室町時代には聖通寺城が築かれていました。「南海通記」によれば、管領細川氏の馬廻りをしていた奈良氏が貞治元年(1362)高屋合戦の武功で鵜足・那珂の二郡を賜り、応仁の頃(1467~68)には聖通寺山に城を築いたとあります。その後天正十年(1582)、讃岐攻略を目指す長宗我部元親の軍勢の前に、奈良氏は、城を捨て勝瑞城の十河存保を頼り敗走します。南海通記の記述が正しいとすると、奈良氏が城を築いていた頃に、その聖通寺山の海際で瀬戸内海交易活動を展開していたのが平山の住人達だったことになります。
 中世の平山について
 平山は聖通寺山の北西にあり、湾入する入江の北に平山、南に宇多津が位置します。湾を挟んで北と南という関係で、その間に大束川が流れ込みます。平山も中世には活発な瀬戸内海交易活動を行う港であったことが史料から分かります。兵庫北関を平山船籍の船が19艘も通過し、通行税を納めていることが記録されています。これは讃岐の17港のうちランキング6位になります。船の大きさや積荷は宇多津と似ています。例えば塩の表記を見ると、詫間や児島といった近隣海域から集めたものを運んでいて、宇多津船とは機能差・性格差があり「棲み分け」をおこなっていたことがうかがえます。
 「与四郎」、「与平四郎」、「新左衛門」という船頭名は宇多津にはみられません。平山の集落を本拠地として活動した人物と研究者は考えているようです。また宇多津との関係では、平山から出た船の大多数が宇多津から出た船とほぼ同じ日に兵庫津を通過しています。ここからは、平山と宇多津の船頭の間には密接な関係がうかがえます。宇多津と平山はそれぞれ自立した港ですが、機能面で連動し、相互補完的な関係で交易船を運航していたようです。
 ここで押さえておきたいのは、平山がただの漁村ではなかったということです。宇多津と共に、瀬戸内海交易をになう湊であったことを確認します。
丸亀三浦 平山
  平山と宇多津は湾を挟んで向かい合う形にあった実線が復元海岸線
中世の平山の位置は?
 上図で中世の平山の集落がどこにあったかを見ておきましょう。
聖通寺山から伸びる砂堆2が海に突き出し、天然の防波堤の役割をはたします。その背後に広がる「集落5」と、聖通寺山北西麓の「集落6」が中世の平山集落に想定できると研究者は考えているようです。「集落5」が現在の平山、「集落6」が北浦になります。これらの集落に本拠地を置く船主たちが、小規模ながらも港町が形成していたようです。集落5の山裾からは、多くの中世石造物が確認されているのがうらずけとなります。
 平山の交易活動は、宇多津よりも沖合いに近い立地等を活かして近距離交易を中心としたものでした。つまり、平山の船が周囲から集めてきた近隣商品を、宇多津船が畿内に運ぶという分担ができていたとします。平山の交易湊としての性格は、宇多津と他の港を繋ぐ結節点としての役割を担い、それをベースに宇多津と強く結びつけられていたと研究者は考えているようです。
 以上から聖通寺山の周辺には、中世以来の瀬戸内海交易活動を行っていた集団がいたことを押さえておきます。

秀吉が四国を平定し、長宗我部元親が去った後に讃岐領主としてやってくるのが生駒親正です。生駒藩では、平山や御供所の船乗り達を水夫として使役します。
その経緯を「三浦漁夫旧記」で見ておきましょう。
「文禄年中、太閤高麗御陣の節、塩飽廻船加子六百五十人、三浦加子二百八十人、西国船頭御案内のため、三浦加子共召し遣わされて」朝鮮まで出て行った。その功として、塩飽は、御朱印を賜ったにもかかわらず、三浦の方には何もなかった。そこで生駒様に申し出て、三浦加子共の大坂夏の陣での活躍にもとづき「鵜足郡土器村に於いて畑高百七十五石、御城下近辺二て百二十二石、諸役御免許の御墨付」を賜った。また、「追って御用相勤むべき旨、かつ御用先二於いては船下中共帯刀御免成さるべき旨」

ここには次のように記されています。
①朝鮮出兵の際に、秀吉の命にで三浦の加子が朝鮮にまで出掛けて行ったこと
②それに対して秀吉からは何の報償もなかった
③そこで領主の生駒氏に交渉し、畑高175石と(丸亀)域下近辺に132石の土地と諸役(税)免除の墨付が三浦に与えられた。
④その代わりに三浦衆は、加子役を引き受け帯刀が許された
 これを『西讃府志』は慶長六(1601)年のこととして記しています。
三浦側では、現在の土地は恩賞として生駒家から与えられたものとしています。どちらにしても、生駒親正が讃岐に入ってきたときに早急にやらねばならないことの一つは、水軍整備だったことは以前にお話ししました。四国兵隊後の秀吉の次の目標は、九州平定と朝鮮出兵でした。そのための水軍整備を秀吉は「四国勢」に申しつけていました。秀吉の直属として、その準備を進めたのは小西行長で、塩飽はその配下に入ります。つまり、塩飽は秀吉直属の輸送船団となります。
 一方、平山は生駒氏の水軍に編成されます。国立か県立かの違いのようなものでしょうか、「任命権者が違うので、秀吉から恩賞がでるはずはありません。三浦衆の主張では、朝鮮出兵の際の恩賞が、どこからももらえなかったというのです。
丸亀三浦 1928年

1928年の国土地理院地図  土器川から弓なりになった街道が東に伸びる。これは当時の海岸線沿いに御供所や平山の町がつくられたため。
 関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。
今後、もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐのことが幕府より求められます。そのため瀬戸内海沿いの各藩では水城の築城と水軍の組織化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を行ったのもこのようなことが背景にあるのではないでしょうか。
 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に「移住」させます。その狙いは、どこにあったのかを考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫、
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団の集中化
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
 こうして、新しく築造が始まった丸亀城の海際には、聖通寺山から平山・御供所の加古(船員)集団が移住してきます。彼らに割り当てられたエリアはどこだったのでしょうか。
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
丸亀城周辺 正保国絵図
③や④は砂州になります。①の土器川河口の③の砂州の先端に舟番所が置かれています。ここが福島湛甫や新堀が出来る以前の丸亀湊でした。その湊に隣接する砂州の上が、移住地になります。
同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 砂州1・2の間を西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州①②の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。砂州①の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。砂州の方向に沿って弓なりに高松街道が通されます。その道沿い平山や御供所からの移住者の家は建ち並んでいきました。
 丸亀城下には三浦以外にも、藩が進める移住計画に沿って、南条町や塩飽町を中心に家並みや寺院が立ち並んでいくようになり城下町整備が進みます。ところが大阪冬の陣が終わると、一国一城令が出され、丸亀城は廃城とされます。私は、この時に城下町も消えたと思っていましたが、そうではないようです。城下に集められた集団は、なんらかの特権を認められていたので城が廃城になっても動くことなく、そのまま丸亀で生活していたようです。例えば生駒時代の三浦は、舟御用の水夫役を果たす代償として、阿波から伊予までの漁業権が保障されていました。その特権で讃岐の領海一円での漁業活動が認められていたのです。これは、城がなくなっても動けません。城下町として人為的に作られた街並みが、城がなくなっても活動を続けていたのです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

 そのため生駒氏に代わって西讃に入ってきた山崎氏は、この地に城を復活することにしたのではないかと私は考えています。山崎時代に書かれた城下町絵図には、生駒時代の街並みが「古町」と記されます。三浦の街並みも「古町」と書かれています。
丸亀市東河口

 三浦衆は入国した山崎氏に、次のような嘆願書を提出しています。
生駒様御没落後、御入国二相成り、寛永十九年、山崎様御入国の砌、前件加子地、委細申し上げ奉り候処、御聞こし召し届かされ、御身上相応と御座候て、畑地八町六反四畝、一三浦庄内並二加子弐百八十、新た二御免許成し下され候義二御座候
意訳変換しておくと
生駒様が没落後の寛永十九(1642)年に、山崎様が入国の際に、今までの加子地のことについて経緯を説明した結果、お聞き届けいただいて、三浦庄内に畑地8町6反4畝頂き、加子280人を、新たに任命していただきました。

  ここからは山崎氏がやってきた時点で三浦は正式な加古浦として認められたことがうかがえます。
当時の各藩の加古浦をめぐる状況を見ておくことにします
 生駒藩時代に「先代慶長年中 生駒一正時代、魚棚野方へ引き、その時より水夫役勤め候」といった記事が「英公外記」(延宝五年(一六七七)にあります。高松城下の魚棚町の住人の一部を野方町へ移動させて水主役を務めさせたという内容です。この政策は岡山藩の水主浦役の設定と共通するものがあるようです。各藩では廻米輸送のために藩有船を動かすよりも水主浦を指定し、税金としての水夫役を納めさて船を動かせた方が得策と考えるようになっていたことがうかがえます。江戸時代の蔵米輸送船の国(藩)有化から民営化へという政策転換かもしれません。それを山崎藩も採用したとしておきましょう。

 この時に認められた加子地(畑地8町)は、13年後の明暦元年(1655)の検地でようやく承認されます。この間に、三浦衆は塩飽を訴えて漁場争論を起こしています。承応三年(1654)に大坂町奉行の判決は、三浦の一方的な敗訴でした。しかし、天下の塩飽衆と争うというのは、三浦衆が山崎氏に対して行っていた加子役要求のデモンストレーションの一環とも思えます。その後、京極氏に替わても三浦の地位は変わりませんでした。

三浦の水夫役数は「280所」で、内訳は御供所85、北平山76、西平山119です。この加子役は一年に5040と決められていました。以後、三浦は次のような役割を果たすようになります。
 「一軒二付き一ヶ月一人半、外夫召し遣われ候節は壱人一日町升にて一升、賃銀五分宛下され候、右五千四拾人の内召し遣われ候分、大船頭宛通の表にて差し引き、水夫未進分として壱人二付き五分宛御船手へ納める」

この役割を果たしながら、丸亀藩の加古浦として、次第に交易活動を復活させていきます。
 加子浦としての三浦が果たした役割は、なんだったのでしょうか
その役割を挙げておくと、次のようになります
①藩主の参勤交代の際などの人員輸送
②江戸藩邸への日用品輸送
③廻米輸送・城米輸送

次に三浦にあった東河口湊を見ておきましょう。
丸亀市東河口 元禄版

1645年の山崎藩の時に幕府に提出された正保城絵図には、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流して、真光寺の東北に番所が描かれています。この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」には、真光寺の東南と東北の二か所に番所があります。一か所は土器川を渡る人々を、 一か所は港に出入りする船の番所と研究者は考えているようです。

土器川河口 明治
明治末の土器川河口周辺(現在よりも西側を流れていた)

 近世前半の丸亀港は、東川口湊だったようです。
二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には「備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候」とあります。ここからは京極公は、初めてのお国入りの時には、船は土器川河口の東河口に着いたことが分かります。
丸亀三浦3

 土器川河口の湊(東河口湊)のことについて、もう少し見ておきましょう。17世紀中頃の「丸亀繁昌記」の書き出し部分には、この河口の港の賑わいぶりを次のように記します
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幟は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の棟造りは、のぞきみえし二軒茶屋のかかり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かかり船、ぶね引か おはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あり」

意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わわないが、神徳の高い象頭山(金毘羅大権現)へ参拝客が数多く集まってくる。数多(あまた)の船宿が建ち並び、市もたつ。諸国引合目印の幟は、旅籠の軒にひるがえり、中でも丸ひ印の棟造りは、二軒茶屋のあたりであろうか。川口(土器川河口の船着場)の繁雑、出船や入船、舫われた船、曳舟か 「おはやい」との正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客が絶えることはなく賑やかで、中村・淡路の屋台を初め、二階座敷からは長歌が聞こえてくる。

ここからは東河口湊に上陸した金毘羅詣客が、東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が記されています。三浦は漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、交易活動を行う者もいたようです。三浦は丸亀の海の玄関口で、繁華街でもあったようです。  
東河口湊は東汐入川と外堀で城下の米蔵(旧市民会館)にながっていました。

丸亀三浦2 東河口湊


山崎時代の「讃岐国丸亀絵図」では、御供所の真光寺東で東汐入川と土器川が合流し、真光寺の東北に番所が描かれています。これが港に出入りする船を見張る船番所とされています。荷物を積んだ小舟は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのばり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が運ばれていたようです。米などは、外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央(現県道三二号。市民会館北交差点の東方)付近にある米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(現市民会館付近)に納入していたと云います。
丸亀市米蔵

文化三年(1806)には、福島湛甫、天保初年には新堀湛甫ができると、東川口は旅客の港としては次第に寂れていきます。三浦に代わって福島が丸亀の玄関口となっていきます。
丸亀城絵図42
 
まとめておくと
①中世奈良氏が聖通寺山に城を構えていた頃に、そのふもとの平山には瀬戸内海交易を行う集団がいた
②平山に拠点を置く海民たちは、秀吉の朝鮮出兵の際に加古集団として生駒氏に組織された
③丸亀城築城の際には、加古や交易管理集団として丸亀の海際に移住させらた
④山崎藩では、正式に加古浦に指定され、特権を得るようになった
⑤京極藩では、東河口湊の管理・運営を任され、金毘羅船の運行や旅籠経営、海上交易などに進出する者も現れ、三浦は繁華街としても栄えた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史352P   近世漁業の成立と塩飽・三浦

弘前藩では西回り航路が開けるまでは、輸送方法がなく「商品価値」なく山林資源は温存されてきました。
 それに目を付けたのが塩飽の丸尾氏です。丸尾氏は弘前藩と木材の独占契約を結び、船で大坂や江戸に運ぶという新事業を興します。今回は、その過程を追ってみたいと思います。テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」です。
廻船

まず近世初頭の塩飽衆の置かれた状況を振り返っておきましょう。
16世紀後半に信長が航行特権を与えたのを契機に塩飽は特別な存在になっていきます。秀吉は650人の水夫達の動員の代償として1250石を与え、その租税免除や、自治を許す破格の待遇を与えます。

3塩飽 朱印状3人分

 これは徳川幕府にも引き継がれ、塩飽は御用船方として城米の輸送や城普請の資材運搬、役人の送迎を一手に引き受けることになります。河村瑞賢が西回り航路開設を行った際には、その手足と成って活動しました。新井白石は「塩飽の船は完堅精好。郷民は淳朴」と高く評価しています。巧みな操船術に加え、船造りの技術や温和な気風も塩飽の声価を高めたのでしょう。
 戦国時代に各地で活躍した海賊衆(海の武士)たちの中で、塩飽衆が得た条件は破格のものであったことは以前にお話ししました。それは、芸予諸島の村上水軍の末裔達が辿った道と比べるとよく分かります。
横町利郎の岡目八目

 川村瑞賢は、城米船の運行について、次のように幕府に提言しています
①城米船は幕府が直接雇って運賃を支払う官船とすること
②その船は北国・山陰方面の航行に慣れた讃岐の塩飽、備前の日比浦、摂津の伝法・河辺などの船を雇う
 この提案は採用され、塩飽廻船の多くが城米御用船として幕府に直接雇われ西廻り航路に従事することになりました。これは塩飽衆が、幕府お抱えの廻船集団になったことを意味します。全国に散らばる天領の年貢米(城米)の大坂・江戸への輸送権を得たのです。そして、諸藩もこれに「右へなれい」と従います。年貢米輸送のために塩飽の船は、全国の各地に姿を見せるようになります。
 こうして塩飽は採石には船472隻、船乗り3460人で、日本列島を縦横無尽に駆け巡り、塩飽は一大海運王国を築くことになります。このような活躍が塩飽の島々に大きな富をもたらし、大舟持ちを何軒も登場させることになります。塩飽廻船の中には、城米だけでなくその他の商品の独占権を得て、商圏を拡大しようとする者も現れます。
それが丸尾氏です。丸尾氏の弘前藩での木材産業への参入を見ていきます。 
寛文十二(1671)年以後、塩飽廻船は城米輸送を任務として運送業に従事し、成長していました。そのことが「江戸登御用材廻船日記」の記事からも裏付けられます。
元禄四年(1691)6月「大坂御雇い船の船頭塩飽作右衛門と中す者の船五月二十八日の大風にて渡鹿領塩戸村二て破損」といういった塩飽の船頭が米の輸送に従事していて大風で難破したこと
元禄五年4月25日に塩飽某という船頭の船が八艘難船したことを記したこと、
元禄14年5月5日には、「一同八百石積敦賀着 塩飽立石徳兵衛」と塩飽船が敦賀に着いたこと。
このように塩飽船の米輸送の記事がみられます。
ここからは塩飽廻船が敦賀や日本海側でも活躍していたことが分かります。弘前藩も塩飽廻船が城米を扱うお得意さんでした。そのために塩飽船は弘前藩の深浦にもやってきました。そこで見たのが周辺に残された豊かな森林資源です。ここには良質なツキ(ケヤキ)やカツラなどの樹種に恵まれた木々が豊富にありました。
塩飽と弘前藩2

 元禄二(1689)年に塩飽の船頭八左衛間が、翌年から材木を運送したい旨を前金を添えて、津軽藩材木役人に願い出ます。こうして、塩飽船による木材の積出し・輸送が始まります。元禄九(1686)年になると塩飽牛島の丸尾与四兵衛が登場してきます。彼は弘前の商人藪屋儀右衛門と連名で次のような願書を蟹田町奉行へ提出ます。
「私ども当地蟹田え十二ケ年以来御払い材木下され買い請け売り買い仕り候、 (中略) 蟹田御材木御入付銀壱ケ年二五拾貫目宛、当子ノ年より酉ノ年迄拾ケ年の間、年々山仕中え仰せ付けられ(中略) 御定め直段残らず拙者買い請け候様に成し下され度存じ奉り候」
意訳変換しておくと
「私どもは当地蟹田へ参りまして十二年に渡って、御払材木を買請けて参りました(中略)
蟹田御材木について銀壱ケ年25貫目を毎年お納めしますので、今年から10年間、材木の買付を独占的に行う事を仰せ付けいただけないでしょうか(中略) そうすれば材木はすべて拙者の方で買い請けいたします。
内容を確認しておくと
これまでの実績を踏まえて、入付銀を出すので材木の買請けを独占させてくれという内容です。そのために、材木の山出し費用はすべて負担し、50貫目を奉行に差し出すといった条件を提示しています。さらに、江戸の商人よりの御用金上納のこと、去年の不作時に3000俵の米を藩のために調達したことなどこれまでの業績を挙げ、材木の切り出し候補の山として四か所の留山とすることを求めています。
 この願書は受理されます。翌年の元禄十(1697)年4月には、塩飽の船頭丸尾善四郎が今別湊にやって来て材木を積み込んでいます。元禄十一(1698)年6月には
「江戸廻舟米材木積み登し候、舟頭筑前久左衛間、塩飽古兵衛二廻状二通相調え、勘定奉行笹森治左衛門方えこれを遣わす」

とありますので、その後も、丸尾家による木材積み出しが行われていたことが分かります。 
元禄十(1697)年6月13日には、
一六百五拾石積      船頭 塩飽伊左衛門
一六百五拾石積      同 同 嘉右衛門
一八百弐拾石積      同 同 孫左衛門
一五百八拾石積      同 筑前弥六
右四艘江戸御雇い今別江着き何も御材木積船二御座候旨中し立て候二付き、廻状例の通り相認めこれを遣わす
ここからは、江戸雇いの塩飽船が四艘やってきたことが分かります。
元禄十二(1699)年7月には、丸尾与四兵衛手船二艘・塩飽立石左兵衛手船一艘が、元禄十四年五月に、五日摂州二茶屋次兵衛船五艘の一つに塩飽立石徳兵衛の八〇〇石積船が、六日には塩飽市之丞の八〇〇石積船、塩飽立石松右衛門の七七〇石積、大坂備前屋甚兵衛の七八〇石積の三艘がそれぞれ鯵ケ沢湊へやって来ています。このように、塩飽廻船が江戸商人の雇い船として津軽の材木輸送に積極的にかかわっていることが分かります。

 材木輸送が順調に進むようになると、津軽藩側でもその利益の大きさが分かるようになります。
元禄13年には丸尾弥左衛門に御用金1700両を申しつけています。これに対して弥左衛門は、御用金としてではなく材木の前金として差し出すと主張します。翌14年に藩側は、九尾与四兵衛と結んだ約束に違約があるとして取引の中止を申し出ます。藩の挙げる理由は次の通りです
「然れ共、当年より亥ノ年迄七ヶ年の間三拾貫目宛、自分柾取り御礼金は御免下され度」

と指摘し、さらに、船への積み込みに際しても二割引いて、また礼金も六〇両引いての額を支払うように運用してきた。藩側の損が非常に多い。その上、与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する、
 という内容です。「与四兵衛一人に任せていたのでは蟹田町の者共も難儀する」というように、外部資本の塩飽丸尾氏が利益を吸い上げ、地元資本の利益になっていない木材政策のあり方への不満が高まってきたことがうかがえます。しかし、結果的には、約束の年数10年間は丸尾与四兵衛に材木輸送はやらせようということになったようです。
 しかし、契約期限がおわると弘前藩は「地元産業の育成」をめざすようになります。そして、藩領内のさまざまな人々が関わる体制を作り出していきます。例えば、山林から木を伐り出し、木材へ加工していたのは麓村の杣(そま)や百姓たちです。そして、塩飽廻船に代わって木材輸送のためには、大坂や十三(現五所川原市)で雇われた船主たちが乗りこみます。彼らと福沢屋の間を仲介していたのは、三国屋・播磨屋といった深浦の船問屋たちです。ここからは、塩飽商人への独占付与という丸投げから、藩内の地元産業の雇用と育成をはかる方向に向きを修正した様子がうかがえます。
 塩飽と深浦
 明治初期の松前藩 深浦港(蓑虫山人画)

塩飽廻船が松前の木材の独占的な取扱権を握っていた頃の江戸では、綱吉の宗教政策による寺院の建立ラッシュ、元禄八年、同十年、同十一年の連続大火が起こっています。このため木材の需要はうなぎ登りでした。商人が各地の材木確保に乗り出すのは当然のことです。その動きの中に塩飽廻船も参入していたようです。これは西廻航路が整備された際に幕府直雇いとして城米輸送で活躍することで、培った優秀な航海技術と経験があったからこそと云えます。
牛島(うしじま)
 丸尾氏の牛島

 元禄7年(1694)、二代目丸尾五左衛門の重次は69歳で亡くなりますが、その名は三代目重正、四代目正次へと引き継がれていきます。全盛期は最高は、元禄16年(1703)の11,200石で、320石から1,150石積みの廻船を13艘も持っていたといわれています。それはちょうど弘前藩の木材輸送と販売権を独占していた時期にあたります。城米以外にもあらたに木材も取り扱うようになって、船を増やしたのかも知れません。
 讃岐には、「沖を走るは丸屋の船か まるにやの字の帆が見える」という古謡が残っていますが、これはこの頃のものだといわれます。
塩飽本島絵図
塩飽諸島 牛島は本島の南にある小さな島(上が南になっている)

 享保元年(1716)、徳川吉宗が8代将軍に就任し、享保の改革を進めます。
その一環として享保5年(1720)城米を安く運ぶために、それまでの直雇方式から廻船問屋請負方式へ変更します。そして運用を江戸商人の筑前屋作右衛門に任せます。いわゆる「民営化」です。この結果、塩飽の船持衆は、今までのように直接幕府から荷受けすることができなくなります。そして、廻船問屋に従属する雇船として安く下請けされるようになります。荷受けに参入してきた業者は、それまでに技術力や経験をつんできた者達でした。きびしい競争に塩飽船は市場を奪われていき、塩飽の廻船数は減少していきます。ちなみに、牛島には、宝永(1704~11)から享保7年(1722)には45~49艘の廻船があったといわれていますが、享保13年(1728)には23艘とそれまでのほぼ半数に減っています。
塩飽廻船の隆盛と衰退

 特権を失い、競争力を弱めた塩飽廻船は、どのように生き残りを図ったのでしょうか
塩飽船籍の船は減ったが船員達は、困らなかったと考える説があります。なぜなら技術や経験を持った塩飽水夫達は、どこの船でも引っ張りだこだったからです。乗る船は、和泉や摂津の他国舟でも、それを動かしているのは塩飽水夫ということも数多く見られたようです。つまり、没落したのは丸尾家のような大船持ちで、船員達の仕事がなくなった訳ではないのです。そのために塩飽に帰って来ることは、少なくなったが塩飽への送金は続いたようです。塩飽が急激に衰退したとは云えない部分がここにはあるようです。
千石船

以上をまとめておきます
①塩飽廻船は、幕府直雇いの城米船として独占的な運行権を得て大きく発展した。
②元禄年間になると、丸尾家は米だけでなく津軽藩領の木材の江戸輸送をはじめさらに利益を上げた。
③享保の改革で、独占体制の上にあった城米輸送の特権を失い、丸尾家などの大船主は姿を消した。
④しかし、その後も瀬戸内海交易や他国の船の船員として、塩飽水夫の活躍は続いた。
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献     テキストは「丸亀市史896P 近世前期に見る塩飽廻船の動き」
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田村廃寺周辺図

丸亀市の百十四銀行城西支店の南側からは上図のように、古瓦が数多く採取されていて、寺院を連想させる「塔の本・塔の前・ゴンゴン堂(鐘楼)」などの地名も残るので古代寺院があったことは確実だとされていますが、伽藍の発掘調査は行われていません。そのような中で、20年ほど前に旧国道11号の拡張工事と、城西支店新築工事に伴う発掘調査が行われました。今回見ていくのは、黒いベルト地帯で城西支店の道路拡張部分に当たります。
田村廃寺 上空写真3

発掘現場は道路に沿った細長いエリアだったようです。それを北側と南側のふたつに区切って調査が行われました。発掘図面で、田村遺跡の変遷を見ておきましょう。記号区分は次の通りです。
SB:掘立柱住居・SA:柵列跡・SP:柱穴・SE:井戸・SK:土坑跡・SD:溝跡・SX:性格不明

田村廃寺 道路発掘エリア


このエリアから出て来たもので驚かされたのがSK03は梵鐘鋳造遺構です
 この土坑からは十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が一緒に出てきていますので、平安時代終わりごろにここで梵鐘が鋳造されたようです。SK03から読み取れることを挙げてみましょう。
①SK03は、田村廃寺の伽藍範囲内にあったこと
②鋳物技術者がやってきて「出吹」によって田村廃寺の梵鐘を鋳造したこと
③なんども梵鐘が作られた跡はなく、1回限りの操業であったこと
④土坑の大きさから、高さ60cm程度の小形の鐘であったこと
 田村廃寺から依頼を受けて、やってきてここで鐘を作った技術者集団とはどんな集団だったのでしょうか。この鐘が作られた古代末期は鋳物師集団の再編成が行われる「鋳造史における一大空白期」のようです。SK03はこの空白期の終わりごろにあたるようです。

田村廃寺 梵鐘鋳造図
  もう少し詳しく田村遺跡梵鐘鋳造遺構(SKO3)を見てみましょう。
①SK03は一辺約2mの方形で、深さ約70cmの土坑である。
②鋳造の終わった直後に埋められたこと
③埋土中から平安時代後期ごろの十二葉細弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この時期に梵鐘鋳造が行われ、廃棄された
④瓦類とともに梵鐘の鋳型が出土していて、ほとんどが外型の破片であること
以上から、ここで作られた梵鐘は高さ約60cmほどの小形のものと報告書は指摘します。
田村廃寺 梵鐘鋳造例3

構造についても見ておきましょう。
①鋳型を設置するための定盤と呼ばれる円形の粘土の基礎が良好に残っている
②定盤は高温の青銅に触れているため、黒色に変色している。
③定盤の中央には直径5cmの穴が開けられていて、鳥目と呼ばれる鋳型を固定するためのものであると、同時に鋳造の際に湯回りをよくするためのガス抜きの穴の役割もしていた
④定盤の東側の部分が崩壊しているのは、できあがった梵鐘を、鋳型を壊したあとに、一旦東側に傾け、そこから引っ張り上げたため
田村廃寺 梵鐘鋳造例5

各地の梵鐘鋳造遺構に目を向けてみましょう
①梵鐘鋳造遺構の最初の発見は、1963年に神戸市須磨区明神町で、梵鐘の撞座とみられる鋳型が採集されたのが最初
②1971年に福井県福井市の篠尾廃寺跡で竜頭の鋳型が出土していたが、最初は仏像の鋳型とされていた。それが梵鐘の鋳型と分かるのは1977年になってから。
③1980年代後半から各地で見つかるようになっているが、古代には畿内を中心とする地域に集中するのに対し、中世以降になると全国的に分布していく傾向がある
先ほども述べたように、古代から中世にかけての約2世紀間は、鋳造された梵鐘が極端に少なく、鋳造史における空白期間であるとされているようです。この期間に、河内鋳物師を代表とする鋳物師集団の編成と地方の職能民の活動が開始されたとされます。
田村廃寺 梵鐘4

梵鐘の鋳造のためには、鋳型を設置する土坑と、材料である銅を溶かす溶解炉が必要です。田村遺跡からは、鋳型を設置する鋳造土坑(SK03)は出てきましたが、溶解炉は出てきていません。しかし、南側の(SXOl・02)から大量の被熱した粘土塊および瓦類が出土しているので、これが溶解炉だったと研究者は考えているようです。
鋳造土坑の平面プランについては、古代においては一辺が約2mの方形OR隅丸方形で、中世以降になると不整形なものに変化していくとされているようです。この基準からすると田村遺跡のものは、鋳造土坑は古代の鐘に分類されることになります。
鋳造土坑の大きさや深さは、梵鐘の大きさに比例するので、いろいろです。一番大きいものは、奈良の東大寺境内から出てきた一辺が7m、深さ4m以上という巨大なものもあるようです。


梵鐘の鋳造には、10世紀後葉(977年鋳造の井上恒一氏蔵鐘)から12世紀中葉(1160年鋳造の世尊廃寺鐘)の約180年間が「空白の期間」とされます。それが終わりを迎えて新たな活動が始まる背景を挙げておくと
①現存する平安時代末~鎌倉時代にかけての梵鐘の大部分が河内系鋳物師の作品であること
②河内鋳物師を中核とした中世鋳物師組織の編成が12世紀後半に行われる
③このころから畿内および地方において、独自の鋳物師集団が新たに成立すること
これを「消費者」の面から見ると、次のような点が考えられます
①念仏や写経、経塚造営などに始まる勧進上人(いわゆる聖)の活躍
②末法思想の普及
③多くの階層の支持を得て、寺院や仏像の修造
④勧進聖によす橋梁・道路・港湾の改修や土地の開発
梵鐘の鋳造もこのような事業の一つとして組み込まれていたとされます。その時期が11世紀後半から12世紀ごろで、勧進上人の関与する事例が多いようです。
有限会社 渡辺梵鐘(渡辺梵鐘)・梵鐘製作・修理

以上を背景に、田村遺跡の梵鐘鋳造遺構を振り返ってみましょう。
田村廃寺で鐘が作られたのは平安時代後期です。まさにこの空白期間の終わりに近い時期にあたります。この時期には、まだ讃岐では独自に梵鐘を鋳造できるだけの技術・設備はなかったようです。そのため「出吹」が行われたのでしょう。この時期は河内系鋳物師が全国へ展開していった時期と重なります。こんなストーリーが考えられます。
①三野の宗吉瓦窯から藤原京へ宮殿用の瓦が船で運ばれていくの見える頃のこと(7世紀末)
②那珂郡の海岸線に近い微髙地に有力者の氏寺の建立が始まった。
③先行する佐伯の善通寺に学びながら三重塔をもつ田村廃寺が姿を現した。
④この地は那珂郡の湊である中津にも近く、港のシンボルタワーとしても機能するようになった
⑤田村廃寺の完成後まもなくして、古代のハイウエーである南海道が東から伸びてきた。
⑦南海道は鵜足郡の郡衙法勲寺(岸の上遺跡)と那珂郡の宝幢寺(郡家)と善通寺の郡衙(善通寺南遺跡)を一直線に結ぶ幅8mの「高速道路」であった。
⑧南海道に直交して郡境が引かれ、それに平行して条里制ラインが引かれた。
⑨各郡の郡司や有力者達は、これらの工事を割り当てられた。
⑩ところが田村廃寺や宝幢寺は、南海道が姿を現す前に出来上がっていた。
⑪そのため伽藍や参道方向が条里制の方向とはずれてしまうことになった。
⑫そこで財力のある善通寺の佐伯氏は、最初に建った仲村廃寺(伝道寺)に代わって、新たに条里制に沿った形で新しい寺院を建立した。これを善通寺と名付けた。
⑬財力のない宝幢寺や田村廃寺の檀那は、そのままの伽藍方位で放置した。
⑭田村廃寺を建立した一族は、中津を基盤として瀬戸内海交易でも利益を上げ、その後も何度も改修・瓦替え工事を行ってこの寺を維持した。そのため道隆寺や金倉寺とならぶ寺勢をたもつことができた。
⑮しかし、古代末になると次第に一族は力を失い、改修もあまりされなくなった。
⑯代わって寺を守ったのは勧進聖たちであった。塩飽を目の前にする田村廃寺は、瀬戸内海交易の拠点としても機能し、そこには多くの勧進(高野)聖達が寄宿するようになった。
⑰そして、かれらはこのてらのための勧進活動を行うようになる。
⑱その一環として、高野山からやってきたある高野聖の提案で新しく鐘楼を勧進で寄進することになった。
⑲高野聖のネットワークで呼ばれたのが河内の鋳物師達だった。
⑳当時、河内の鋳物師達は呼ばれれば積極的に地方に出て行って、現地で鐘を作ることを始めていた。そして、市場と需要と保護者さえいれば、そこにそのまま留まり、定住化することもあった。

以上、田村廃寺にも河内系鋳物師が出吹にやってきたという物語でした
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
   田村遺跡1 2004年3月 県道高松丸亀線改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 


讃岐の古代寺院 法隆寺は、讃岐にどんな影響を与えたのか : 瀬戸の島から

壬申の乱前後の7世紀後葉~末葉になると、讃岐でも仏教寺院が姿を見せ始める頃になります。この時期の寺院の建立者たちは、首長層や郡司に任命されるような有力者です。丸亀平野周辺でその氏族を挙げると
①坂出の下川津遺跡を拠点とする勢力
②善通寺の佐伯氏の氏寺である伝導寺(仲村廃寺)・善通寺
③宗吉瓦工場を創業した丸部氏の妙音寺
④南海道に沿った那珂郡郡家の宝幢寺
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式伽藍配置と法起寺式伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦の系統の瓦類が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦が出てきます。田村廃寺も、前回お話ししたように創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは伽藍配置として、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

古代寺院の寺域のほとんどは、条里型地割の一町(約109m)を単位とします。そして、伽藍方向も丸亀平野条里型地割(N30°W前後)に沿った形で建立されています。しかし、条里型地割が行われる前に建立された寺院は、この基準に合わないものも出てきています。例えば、善通寺に先立つ佐伯氏の氏寺とされる伝導寺(仲村廃寺)では、ほぼ真北を指す伽藍配置で、丸亀平野の条里制とは一致しません。その後、伝道寺は奈良時代に消失し、あらためて南西500mの所に現在の善通寺を佐伯氏は建立します。この善通寺の寺域は条里型地割に沿っている上に、面積は216m×216mで4倍の広さになります。
 丸亀市の宝幢寺池にあった宝幢寺も、那珂郡郡家に近く南海道のすぐ北に建立されています。これも伽藍方向は伝道寺と同じように条里制地割ラインと一致しません。そして、田村廃寺の周辺の遺構である区画溝や掘立柱建物跡も真北を向いて作られています。つまり、条里制ラインとは合わないということです。
ここからは、田村廃寺の創建は、条里型地割工事が行われるよりも早かったということが想定されます。
丸亀平野で条里型地割の工事が開始されるのは、 7世紀末葉~8世紀初頭の時期とされます。地割は、まず南海道がひかれて、南海道を基準に郡界がひかれ、条里制もひかれたことが明らかにされています。鵜足郡と那珂郡、多度郡などの郡界線も南海道を基準にして直交方向にひかれています。そして、以前にお話ししたように四国学院大学構内遺跡・池の上(丸亀市飯山町)からは南海道の側溝とされる溝跡がでてきています。
 この南海道を基準とした土地区画である条里制は、国家側からしてみれば、班田収授法に象徴される各種税徴収の前提としての土地管理政策です。実際、少なくとも8世紀後半以降は、条里プランにもとづいて土地管理がなされていることも明らかにされています。
 その一方で、条里型地割の施行は耕作地のみならず、宅地や建築物の再編成をも促していることが分かってきました。新たに家を建てたり、寺を建てたりする際には条里制の方向に沿って建築せよという「行政指導」が行われていたようです。それが国家意思でした。
 伝道寺建立からわずかの期間で、条里制に沿う形で新たに善通寺を建立した佐伯氏は、地方豪族として国家意思に忠実であることを示そうとしたのかも知れません。これを時系列に並べて見ると次のようになります。
   ①妙音寺 → ②伝道寺(仲村廃寺)→③田村廃寺→④南海道・条里制工事 → ⑤善通寺

①②③は南海道や条里制の前に、すでに建立されていたことになります。
 稲木北遺跡からは、条里型地割工事の直後に作られた計画的に配置された大型建物跡群が出てきました。
これは郡衙的なレベルの建物群です。それまで宅地としては利用されていなかった所に、条里型地割工事が行われ、そして建てられています。これも「国家意思」に沿った「建築群再編成」の一端かもしれません。そして、田村遺跡からも、条里型地割の工事が行われてすぐに建てられた集落が出てきました。ところが、田村廃寺周辺に条里制施行後に建てられた建物は、条里制ラインには沿っていないのです。どうしてなのでしょうか? 国家意思への反逆を現しているのでしょうか? まさか・・・

田村廃寺周辺の条里制を見ておきましょう

田村廃寺周辺条里制
           丸亀平野の条里制

現在の⑥丸亀城がある亀山が鵜足郡と那珂郡の境界となります。那珂郡はそこから西に1条から6条まで条が続きます。多度郡と那珂郡の境界は真っ白で、条里制が実施されていません。これが旧金倉川の氾濫原とされます。
田村廃寺は那珂郡二条二十三里七ノ坪に位置することになります。
田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れ、空白地帯となっています。これは、平池方面から流れ込んでくる旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。さらに東側をよく見ると、蓮池にかけても空白地帯があります。しかし、ここは旧河道ではなく微髙地で、田村廃寺が立地していた所になります。どうして、田村廃寺のまわりは条里制の空白地帯なのでしょうか。

条里制が作られた後も、それに沿って建物が建てられなかったのでしょうか?
田村遺跡の土地利用の転換点は7世紀末葉だと報告書は指摘します。
その背景には、古代寺院である田村廃寺の登場があるようです。この前と後では大きく異なってきます。寺域内にある建物跡Ⅱ・Ⅲ群は、田村廃寺の創建と共に建てられた関連施設とします。そのため、田村廃寺に主軸方位をそろえます。
田村廃寺周辺条里制と不整合
          田村廃寺周辺の地割ライン
上図は、丸亀平野条里型地割と建物跡Ⅱ群(N20°W前後)・建物跡Ⅲ群(ほぼ真北)と方位が同じ地割を描き出したものです。ここからはつぎのようなことが分かります。
① 田村廃寺推定地には、真北を向く地割(点線部)がある。これが田村廃寺の寺域である。
② 建物跡Ⅱ群と同じ地割は、田村廃寺の北側にもある。
③ 丸亀平野条里型地割は、田村廃寺の寺域の北側にはない。(条里制空白部)
ここからは田村廃寺の北側には、丸亀平野の条里型地割とはちがう地割があること、その地割に沿って建物跡Ⅱ群は建てられていたことが分かります。そうすると田村廃寺の北側の地割は、建物跡Ⅱ群が建てられる前の7世紀末葉頃には出来上がっていたことになります。
 この地割りエリアを「田村北型地割」と報告書は名付けます。

田村北型地割 ・・・田村廃寺伽藍の北側で認められる、N20°W前後の地割

それでは田村北型地割は、いつ頃、どのような経緯で成立したのでしょうか
まず押さえなければならないことは、7世紀末葉というのは丸亀平野に南海道がひかれ、それを基準に条里型地割の施行開始時期でもあることです。つまり、田村廃寺が早いか、南海道の出現が早いかを、もう一度確認しておく必要があります。
①田村北型地割の成立が7世紀後葉以前に遡ることが確認されれば、この地割は条里型地割に先行する地割という位置づけになる。
②丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降であるならば、下川津遺跡と同様(大久保1990)、何らかの制約を受けたために、周囲の条里型地割とは異なった、いわば、変則条里型地割が作られたことになる。
これを明らかにするために、「まな板」の上に載せるのが次のような7世紀後葉以前の状況です。
①田村遺跡でから出てきた建物跡は、ばらつきが多く、田村北型地割との関連は想定できないこと
②極めて散在的に分布し、地割の規制を受けて配置されているような斉一性はないこと
ここからは、この時期に地割はなかったことがうかがえます。報告書は「現状では、田村北型地割の成立は丸亀平野条里型地割の施行開始と同時期かそれ以降に求めるほかはない。」と記します。つまり、田村北型地割は条里制よりも早いとは云えないというのです。

一方、この調査からは、調査エリア内で7世紀末葉頃に建物跡配置上の再編成が行われていることが分かっています。そして、主軸方位等に向かって斉一性の高い建物跡群(建物跡Ⅱ群)が建てられています。これは、稲木遺跡・金蔵寺下所遺跡などで見られる「条里制工事を行った後の建築物の再編成」という現象と同じです。つまり、「7世紀末葉頃の土地利用上の画期」とは「地割施行に基づく集落の再編成」という点で、丸亀平野の各地で見られる現象なのです。それが条里制に沿ったものではなく、変則条里型地割(田村北型地割)に沿ったものだったのです。
  これを報告書は、次のように記します。
「田村北型地割とは、丸亀平野条里型地割が何らかの制約を受けることで生じた、変則条里型地割であると認識する。」

 以上から分かったことを整理しておきます
①丸亀平野条里型地割は、7世紀末葉頃には田村遺跡近辺で行われていた
②田村廃寺周辺では、「何らかの制約」を受けて丸亀平野条里型地割と異なる地割が作られたこと
「何らかの制約」とは一体何なのでしょうか。
それが田村廃寺の存在だと報告書は指摘します。
①主軸方位が真北である田村廃寺の伽藍配置
②N-30°W前後である丸亀平野条里型地割
これが同一平面上に置かれれば、どこかで不整合が生じます。不整合を解消するためには、地割の方位を変更させる必要がでてきます。もちろん、田村廃寺との不整合を無視し、新たな基準となる丸亀平野条里型地割を優先させることは出来たでしょう。しかし、条里制施行が行われたのは、田村廃寺が出来たばかりの時期でもありました。田村廃寺を建立した氏族にとって、田村廃寺へ続く参拝道は大きな意味を持っていたはずです。参道を重視するために条里制施行外エリアとして、田村廃止の伽藍に沿った地割を残した。その施行責任者は、この寺を建立した氏族にあったと私は思います。これが変則条里型地割(田村北型地割)の出現背景だと報告書は記します。

 7世紀に讃岐で行われた大規模公共事業を挙げて見ると次のようなものが浮かんできます。
①城山・屋島の朝鮮式山城
②南海道建設
③それに伴う条里制施工
④各氏族の氏寺建立
これらの工事に積極的に参加して、いくことがヤマト政権に認められる道でした。郡司たちは、ある意味で政権への忠誠心を試されていたのです。綾氏は、渡来人達をまとめながら城山城を築くことによって実力を示し、郡司としての職にあることで勢力を拡大していきます。三野郡の丸部氏は、当時最先端の宗吉瓦窯を操業させ、藤原京に大量の瓦を提供することで、地盤を強化します。善通寺の佐伯氏は、空海指導下で満濃池再興を行う事で存在力を示します。まさに、この時代の地方の土木工事は郡司や地方有力者が担ったのです。
 田村廃寺を建立したばかりの氏族に選べる選択肢は、次のどちらかでした
①佐伯氏のように新たな寺院を「国家意思」の条里制ラインに沿って建立する
②田村廃寺周辺は、条里制ラインとはちがう「変則条里型地割」にして、参道を維持する
そして、取られた選択は②だったと報告書は考えているようです。

     
丸亀平野の古代の建物跡群は、条里制ラインがひかれる7世紀後葉以前と7世紀末葉以後とでは建築者の意識が大きく異なることがうかがえます。条里制がひかれる前の建物跡は、その軸をそろえる意識があまりありません。しかし、南海道が走り、条里制が敷かれる 7世紀末葉頃からは、向きを揃えるようになります。これは、ある意味では「国家意思」が目に見える形で住民にまで及んできたと云えます。これもひとつの律令国家の出現の形なのかも知れません。
まとめておくと
①南海道・条里制の出現以前は丸亀平野では建築物の向きはバラバラであった
②それが南海道通り、条里制が施行されると、それに沿ったように建築物は建てられるようになる③そこには条里制工事が終わると、その更地に条里制に沿った公共建築物群が建てられるという「建築物の再編成」さえ行われている。
④このため郡司なども氏寺や居館は、この条里制ラインに沿って建てるようになる。
⑤しかし、南海道が現れる前にすでに建立されていた寺院は周囲の条里制と不整合ラインができていまった。

古代那珂郡には次の3つの古代寺院があったとされます。
①田村廃寺(丸亀市田村町)
②宝幢寺跡(丸亀市郡家町)
③弘安寺(まんのう町四条)
②③は塔の心礎や礎石が動かされずにそのまま残り、だいたいの伽藍範囲も想像することができます。しかし①の田村廃寺は、私にはなかなか見えてこない古代寺院です。
田村廃寺鴟尾

田村廃寺跡とされるエリアからは、白鳳時代の瓦、塔楚、鴟尾などがでてきていますので、古代寺院があったことはまちがいないようです。しかし、正式な発掘は行われてないようです。そのためきちんと書かれたものはみたことがありませんでした。
 図書館で発掘調査書の棚を眺めていると「田村遺跡」と題されたものが3冊ほど見つかりました。その中から今回は、丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築の際の発掘調査報告書を見ていきたいと思います。タイトルはなぜか「田村廃寺」ではなく「田村遺跡」です。廃寺跡が直接に発掘されたようではないようです。どんなものが出てきて、何が分かったのかを見てみましょう。

いつものように復元地形から見ていきます
田村廃寺周辺地質津

 田村廃寺のある辺りは、土器川と金倉川が暴れる龍のように流れを幾度も変えながら形成された沖積地です。土器川と金倉川は流路が定まらず、たびたび変化していたことが、グーグルや地図からもうかがえます。田村遺跡のすぐ東側にも旧河道の痕跡があり、蓮池はこの旧河道上に作られています。

田村廃寺周辺条里制

 また、田村遺跡の西側の先代池から丸亀城西学校にかけては、条里型地割が乱れています。これも、旧河道(旧金倉川)が条里制施行の障害となったことがうかがえます。この東西のふたつの旧河道に挟まれた田村遺跡は、中州状の微高地上に立地したことが推測できます。これを裏付けるかのように、田村遺跡周辺では、集落跡が緩やかな「く」の字状を描き、南北に細長く分布しています。これは蓮池の基であつた旧河道によって形成された自然堤防の上に、住居が築かれてきたことを示しているようです。

田村廃寺全景
右手空き地が城西支店 正面に丸亀城
田村廃寺の想定伽藍範囲を地図で見ておきましょう。
  報告書は廃寺に関係ある地名を挙げて、地図上に落として次のように示してくれます。

田村廃寺伽藍周辺地名
 田村町字道東一七四七番地に「塔の本」             
 田村町字道東一七五〇番地に「瓦塚」
 田村町字道東一七五五番地に「ゴンゴン堂」(鐘楼?)
 田村町字道東一六五三番地に「塔の前」
 田村町字道東一六五六番地に「舞台」
 田村町字道東一七一八番地に「塚タンボ」
  この地図からは田村廃寺は、城西支店の南側に、塔があり、伽藍が広がっていたことがうかがえます。
田村廃寺瓦1

この付近からは、白鳳時代から平安時代にかけての、八葉複弁蓮花文軒丸瓦や、十二葉・十五葉細弁蓮花文軒丸瓦、布目平瓦などが採集されています。発掘されていないので伽藍配置は分かりませんが、周辺の古代寺院と同じ規模の方一町(109m)の寺域をもっていたとされます。丸亀平野の条里復元図をみると、田村廃寺は那珂郡二条二〇里七ノ坪に位置することになります。

田村廃寺跡と道路を挟んであるのが 田村番神社です。
甲府からやって来た西遷御家人の秋山氏が法華信仰に基づいて、田村廃寺跡に日蓮宗の寺院を建立し、その番社(守護神)として三十番社をお寺の西北に勧進したと伝えられる神社です。この神社については以前にお話ししましたので、深入りしませんが、この境内には大きな手水石があります。これは、明治35(1902)年ころ、この南方の耕地から掘り出されたと伝えられます。塔の心礎のようです。

田村廃寺礎石

 この礎石は、楕円形の花降岩の自然石で、高さ約82㎝、上部は縦約135㎝、横約120m、下部は縦約220m、横約188mの大きさで、上面ほぼ中央に、直径45㎝、深さ約6㎝の柱座が彫られています。柱座の大きさから、塔は三重塔だったのではないかと説明案には書かれています。この塔心礎は、発見されたときには番神祠から南の当時の四国新道東側に移されて、石灯寵の台石に使用されていました。今は、田村番神祠境内に移されて、手水鉢として使用されています。

田村廃寺塔心礎説明版

 この礎石があったのが先ほどの地図で見た「塔の本」あたりになるようです。この心礎の上に三重塔が建っていたとしておきましょう。
田村廃寺 出土瓦一覧

城西支店の発掘調査からは、6つのタイプの軒丸瓦が出てきています
城西支店の敷地は、伽藍の北端にあたるようです。築地塀が出てきたことが寺の北限を示します。ここからは修築に伴って、それまで使用されてきた瓦の廃棄場所になっていたようで、多くの瓦が出てきています。出土した瓦を6つに分類した観察表です。
田村廃寺 軒丸瓦出土瓦一覧

報告書は、以下の表のように時代区分します

田村廃寺軒丸瓦古代
TM102 八葉複弁蓮華文軒丸瓦は中房が大く、彫りの深い複弁を巡らせ、周縁は三角縁で素文である。中房は1+8+4の蓮子をもつ。白鳳期

田村廃寺 軒丸瓦2
TM103八葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁が三角縁となり線鋸歯文をもっている。奈良時代初期
TM107十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦 胎土はやや粗く1~7mm程度の砂粒を含む。善通寺・仲村廃寺出土のものと同箔品である。白鳳期末から奈良時代初期
田村廃寺 軒丸瓦3
TM105一五葉細素弁蓮華文軒丸瓦。TM107を反転した文様であり、この退化型の文様で奈良時代と考える。
TM108六葉複弁蓮華文軒丸瓦は周縁素文で蓮弁は平坦化し花弁の仕切り線を持たない退化傾向
TM106十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦。田村廃寺の最終期の文様瓦と考えられ、遺物から10世紀頃までと推定される。
これらの軒丸瓦と軒平瓦、平瓦がどのようなセット関係で使われていたのかを次のように報告書は記します。
Ⅰ期は白鳳期で、 
I期aは重圏文軒丸瓦TM101
I期bは八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102と二重弧文軒平瓦1201、平瓦は斜格子(方形)の叩きTM401A、丸瓦は行基葺き瓦がセット関係
  Ⅱ期は白鳳期末から奈良初期で、 
Ⅱ期aは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103と平瓦はTM402A・BとTM403Al、丸瓦は玉縁のある丸瓦がセット関係にあたる。
Ⅱ期bは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文軒二瓦TM202、平瓦はTM401BとTM401Cがセット関係。
私が気になるのは十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107と扁行唐草文妻平瓦TM20です。

善通寺同笵瓦 傷の進行
善通寺Z101と同笵木型で作られた瓦に現れた傷の進行状況

 十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107は、善通寺出土(Z101)と同笵で白鳳期末とされます。よく見ると、善通寺の瓦と比べると傷が大きくなっています。木版の痛みが使用に耐えかねて傷みが進行しているのです。それにもかかわらず使い続けています。
使用順は、善通寺の瓦より後に、田村廃寺の瓦は作られたことになります。そして、田村廃寺で使われたのは奈良時代初期と研究者は考えているようです。ちなみに、この木型はこのあと土佐の秦泉寺に運ばれて、そこでの瓦造りに使用されています。
三野 宗吉遺2
宗吉瓦窯(三野町)
 瓦技術者集団が善通寺創建が終わった後に、田村廃寺にやって来たのでしょうか。それとも善通寺周辺の窯で焼かれたものが運ばれてきたのでしょうか。善通寺には三野の宗吉瓦「工場」から運ばれたものも使われていたようですが、ここでは三野から運ばれた瓦は出てこないようです。
宗吉瓦窯 宗吉瓦デザイン
宗吉瓦
 以前にお話したように、讃岐の古代寺院建設のパイオニアは三野郡丸部氏による妙音寺です。この瓦は三野町の宗吉瓦窯で焼かれています。同時に、宗吉瓦窯は鳥坂を越えた善通寺にも瓦を提供しています。そうしながら藤原京の宮殿の瓦を焼く最新鋭の瓦大工場へと成長して行きます。瓦を提供した丸部氏と提供された善通寺の佐伯氏は「友好関係」にあったことがうかがえます。それでは、田村廃寺を建立した氏族とは、どんな有力者だったのでしょうか? 一応、因首氏を第1候補としてしておきましょう。

1 讃岐古代瓦

 道草をしてしまいました。話を元に戻します。
Ⅲ期は奈良時代で、十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM105と平瓦TM403A2とTM403Bl・B2がセット関係にある。特に平瓦TM403BlとB2の出土量は多い。

Ⅳ期は奈良時代から平安時代で、六葉複弁蓮華文軒丸瓦TM108と平瓦TM403A3・A4が対応する。寺院の捕修瓦と思われる。

V期は平安時代で、十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106とTM403B3・B4・B5が対応する。セット関係にある軒丸瓦・丸瓦・平瓦はいずれも小型化する。平瓦の出土量が多い。10世紀代の瓦とみている。

以上を整理しておきましょう
①田村廃寺は、白鳳期に重圏文軒丸瓦TM101や川原寺式の八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM102、二重弧文軒平瓦TM201によって中心伽藍が整備された。
②白鳳期末から奈良時代初期にかけて、補修瓦として八葉複弁蓮華文軒丸瓦TM103や善通寺から十六葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM107や扁行唐草文軒平瓦TM202が搬入された。
③この瓦の文様に影響を受けた十五葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM104が田村廃寺独自の文様瓦として展開し寺域内が整備された。
④この間の補修瓦として六葉蓮華文軒丸瓦TM108等がある。
⑤衰退期を経て十二葉細素弁蓮華文軒丸瓦TM106を使って田村廃寺が再興される。
13世紀頃には廃絶した
宗吉瓦窯 川原寺創建時の軒瓦
川原寺式軒丸瓦
 この時期に創建される地方寺院の多くは法隆寺式か法起寺式の伽藍配置で、前者は山田寺式軒丸瓦、後者は川原寺式軒丸瓦が多いようです。丸亀平野の古代寺院は、川原寺式系統の軒丸瓦がよく出てきます。田村廃寺も創建時の白鳳瓦は川原寺式系統の軒丸瓦です。ここからは、法起寺式伽藍配置が第一候補として挙げられますが、発掘調査されていないので今は、判断のしようがありません。

白鳳時代の7世紀末に姿を見せた田村廃寺は何度もの修復を受けながらも10世紀には一時衰退しますが、その後に再興され13世紀に廃絶したようです。古代の寺院は氏寺として建立されます。パトロンである建立氏族が衰退すると、氏寺は廃絶する運命にありました。13世紀と云えば古代から中世への時代の転換期です。平家方の拠点であった讃岐には、源平合戦の後は「占領軍」として数多くの西遷御家人たちがやってきます。その中に、三野郡の日蓮宗本門寺を拠点とする秋山氏がいました。秋山氏は、三野に拠点を構える前は、那珂郡に一時拠点を置いたとされます。
『仲多度郡史』『讃岐国名勝図会』などには、
「田村廃寺の跡に、弘安年中に来讃した秋山泰忠が、久遠院法華寺を建立したが、正中二年(1325)、故ありて三野郡高瀬郷に移し、高永山久遠院と号し、法華寺また大坊と称して今も盛大なり」

とあります。古代寺院の遺構跡に日蓮宗のお寺を秋山氏が建立したというのですが、この伽藍跡からは鎌倉時代の古瓦は出てきません。

以上をまとめておくと
①田村廃寺は、東を蓮池を流れていた旧土器川と、西側を平池を流れていた旧金倉川に挟まれた微髙地の上に建立された。ここには弥生時代からの集落の痕跡が残されている。
②出土した瓦からは白鳳時代(7世紀末)に建立され、13世紀に廃絶したことが分かる。
③その間に何度も瓦の葺き替え作業が行われており、修復が繰り返されている
④瓦の一部は、善通寺との同版瓦があり佐伯氏との関係がうかがえる。
⑤伽藍配置は分からないが、百十四銀行城西支店の建物から北側の築地塀が出てきたので、ここを北限とする108m四方が伽藍と想定される。
⑥「塔の元」「塔の前」という地名が残るので、この辺りに塔が建っていたことが想定できる
⑦塔の礎石もこのあたりから明治に掘り出され、今は番社の手水石となっている。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   田村遺跡 丸亀市の百十四銀行の城西支店の改築にともなう発掘調査報告書
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丸亀城  山﨑時代の城郭絵図2
①が現在の裁判所付近
前回は大手町が明治以後は丸亀12連隊の兵舎や倉庫、病院になっていたことを見ました。今回は発掘地点の丸亀裁判所には、江戸時代には誰の屋敷があって、住人がどのように移り変わっていったのかを見ていくことにします。
丸亀連隊 西端
内堀の向こうに見えるのが丸亀十二連隊 

そのために、まずやらなければならないことは発掘地点が絵図のどの辺りにあたるかを確定しなければなりません。普通は道路などで簡単に現在位置との関係が分かるのですが、ここではそうは行かないようです。明治の連隊建設の際に、敷地が奇麗さっぱりと更地にされているからです。調査地周辺は、目印になるものがほとんど残っていません。街路も近世には鉤状に屈曲する部分がありましたが、近代の連隊建設の際に、街路は直線的な道路へと作り替えられました。そのため街路も基準になりません。そうなると、基準点は現在の道路にも引き継がれる外堀くらいになります。
   外堀を基準に、基準線を引くプロセスは以下の通りです。
①西隣の郵便局の西側から出土している①外堀遺構を基準点にする
②発掘エリアから出てきた2本の屋敷割の溝②までの距離の確認
③のマンション建設の発掘調査区から石組みの護岸を持つ溝の西側の肩の確認
以上のような基準点を地図上に落としたものが次の下図①②③になるようです。

丸亀城大手町屋敷割り

報告書は、これを嘉永8年の絵図と比較し、基準線を次のように決めていきます。
①西側の外堀(旧R11号)から外堀沿いの屋敷地・屋敷地東の街路を超え、今回調査地が位置する屋敷地の大区画の西端に至るには、街路②の距離を仮に数間程度と見積もると、10間以上(約18m)の距離が想定される。
②最も西端の岩間長屋の区画の東西幅は27間(48.6m)なので、全体では70m弱になります。
③外堀のラインから今回調査地までの距離を計測し、その条件に最も近いものは2区の区画施設である(約75m)。
以上から検出された溝②を、屋敷間の区画施設(ライン)と考えます。
次のような理由を挙げてこの溝②が区画であることを補足します。
①この溝の近辺から多く廃棄土坑がでてくること
②溝のすぐ東に丼戸があること
③溝を境として出土する陶磁器破片の組成が違うこと
こうして区画②が屋敷間の区画であるとします。
 以上からこの発掘地点は、嘉永7年絵図の「岩間長屋」「高宮」にあたると結論づけます。こうして、江戸時代の絵図から裁判所周辺の屋敷変遷を見ることが出来るようになります。
丸亀城 大手町居住者19jpg

上の絵図は享和2年(1802年)作成のもので、裁判所付近の屋敷を切り取ったものです。
①は「林求馬」と読めます。彼は以前にお話ししたように、多度津陣屋や湛甫の建設に尽力し、藩政改革を進めた多度津藩の家老です。そして、その屋敷と背向かいにあるのが②「御用所」です。これは多度津藩の政庁になります。多度津藩は、分家しても陣屋を構えずに丸亀城下内のここに政庁を置いていたのです。つまり本家への「間借り状態」にありました。それが、幕末がちかづくにつれて自立心が高まり、本家丸亀藩からの自立・独立路線を指向するようになります。その動きが新たな陣屋建設でした。この後多度津藩は、家老林求馬によって完成した陣屋に移って行くことになります。この周辺は家臣の氏名から、多度津藩に関係のある家臣の屋敷が多いと研究者は指摘します。
江戸時代の8つの絵図資料に記された屋敷図を模式化して示すと次のようになります。
丸亀城 大手町居住者変遷表

絵図を簡略化し、居住者が書かれています。例えば山崎藩時代の正保の「讃岐国丸亀城絵図」には、屋敷の主の名前はなく「侍屋敷」としか書かれていませんのでこうなります。
次の「元禄年間丸亀城下図」には、林求馬の屋敷の所が「壱岐守」となっています。これは、分家して成立したばかりの多度津藩藩主のことです。多度津藩藩主は、本家京極藩の家老の屋敷よりもはるかに小さい屋敷です。別の所に本宅はあったのかもしれません。そして、多度津藩の「御用所」は「御配所」とあります。これは当時丸亀藩に預けられていた、日蓮宗の僧日尭、日了の配流地だったことを示しています。

1832(天保3)年の絵図に記された住人達を視てみましょう。
多度津藩御用所のあった部分が空白になっています。それ以外の区画についても住人変更があったようです。これは、さきほと述べたように陣屋完成に伴って、多度津藩の藩士達が多度津に住居を移したためと考えられます。一方、一番西の「岩万長屋」の住人は、多度津藩士でなかったのでしょう。

次のような居住者の変更があったことが分かります。
①1692年(?⇒原田、実態不明)
②1692年~1802年(原田⇒伴)
③1802~1830年代(伴⇒高宮)
④1865年前後(高官⇒連隊建物)
この4つのタイミングで居住者の変更が起こっています。
大手町の丸亀地裁エリアの遺構がどんな変遷を経ているのか、またそれにはどんな事件が背景に考えられるのかを報告書は教えてくれます。その変更背景を、報告書は次のような図に整理して提示しています。表の左側が遺物や遺構の整理から導かれる年代、右側が、丸亀城下町や大手前の出来事です。
丸亀城大手町 裁判所付近時代区分表

第一の画期は、京極家による「城下の再整備」が考えられます。丸亀城Ⅰ期です。
 山崎藩時代には城の南側にあった大手門を付け替え、北側に移したことです。これに伴い城下の再整備計画が行われ、屋敷地や拝領地にも変更がうまれ、スクラップ&ビルドが行われたことが考えられます。この時期に、廃棄された瓦が大量に出てくることがそれを裏付けます。新しい主の京極氏によって、建物の建て替えなどが行われたとしておきましょう。
第2の画期は、18世紀後半代から始まり、19世紀の初めごろまで続きます。
この時期に、瓦などの廃棄物を埋めた土坑が屋敷の中にいくつも掘られています。これはこの時期に屋根の葺替えと、それに伴う瓦の廃棄があったことが考えられます。安永7年(1777年)に、二の守の修理が行われたことが、銘が刻まれた瓦から分かっています。その「大工事」に伴って瓦の大きな需要や生産体制の変化があったこと推測できます。それに伴い城下での瓦の消費拡大が起き、廃棄瓦の増加という形になったことが考えられます。
 それ以外には、先ほど述べたように多度津藩が自前の陣屋を築いて丸亀城下町から出ていったことです。ここでも住民異動によるリフォームなどで古い瓦の大量廃棄が起きたことが考えられます。これが第2の画期と報告書は指摘します。それは、この発掘エリアの一番西側の岩間長屋では、この時期の遺構は少なく、この変動が及ばなかったことが裏付けとなります。
第3の画期は、明治になっての陸軍歩兵12聯隊の建設です。
これは前回にお話ししたように、大手町全体の屋敷地引き払いを伴う大規模な接収でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に摂取されます。そして、そこに建っていた家臣団の屋敷は解体破棄されたのです。そのエリアをもう一度地図で確認しておきましょう。
丸亀連隊 エリア地図
ピンクの部分が連隊用地として買い上げれたエリア
 
 建物の解体ももちろんですが、道の形状もそれまでの城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されています。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があるようです。
 例えば発掘エリアの岩間長屋からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が同時に進み、それが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。

以上をまとめておくと
①山崎氏から京極氏に藩主が変わり、城の大門が南から北に移設されたに伴い城下町の再編成が行われ、建築群もスクラップ&ビルドが行われた。
②裁判所周辺には多度津藩の政庁が置かれ、周辺には多度津藩士の屋敷が集まっていた。それが多度津陣屋の建設で退去し、大幅な寿運変更が行われた。その際にも廃棄瓦の量が増えている。
③明治になって十二連隊が設置されることに成り、大手町全体が国により買収された。藩士は屋敷を売り、全員がここから退去した。
④その後に、丸亀十二連隊の施設が作られ敗戦まで設置されていた。⑤丸亀城下町は、そういう意味では「軍都」であった。
⑥戦後、その後に市庁舎などの公共的な建築物が立ち並ぶエリアとなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年

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丸亀連隊 裁判所

  丸亀城の北側の大手前地区は市役所や裁判所などの公的施設が多いエリアです。そこでは近年の建て替え工事に伴う発掘調査が行われ、その報告書も何冊か出ています。今回は丸亀裁判所の発掘調査報告書(2018年)を見てみたいと思います。
 このエリアは内堀と外堀に挟まれて大手町の西の端です。郵便局の西側を通る旧R11号がかつての外堀にあたります。郵便局の発掘の際に、その遺構も確認できているようです。大手前エリアでは中心部から離れているので、二百石前後の中級家臣団の屋敷が並んでいたようです。
このエリアを発掘して、まず顔を覗かせてくる遺構は何でしょうか? 
わたしはぼんやりと、京極時代の屋敷跡が出てくると思っていました。しかし、それは大間違い。年表を確認しておきましょう。
1597年(慶長2年)に、生駒親正が西讃岐支配の拠点として丸亀城築城開始
1615年(慶長20年)一国一城令により、丸亀城はいったん廃城
1643年(正保元年)山崎家治が幕府からの許可を得、丸亀城の再築開始。
1658年(万治元年)山崎家断絶により京極氏が入封。城の整備と城下町の開発を継続
1670年(寛文10年)大手門を南側から北側に移し、「再開発」事業展開。
1688年(元禄元年) 丸亀藩から多度津藩分封。
1827年 多度津藩の陣屋完成 多度津藩家臣団の丸亀城下寄りの退去
1875年 丸亀歩兵第12連隊設置 
16世紀末に、生駒氏によって丸亀城は開かれ、その後一国一城令で廃城。その後、西讃の領主として入ってきた山崎氏によって、再築。しかし、築城途中で山崎藩は廃絶。替わって、京極氏の下で大門の移動など「再編整備」が進んだことが分かります。また、このエリアは、多度津藩主の邸宅や御用所、家臣の屋敷があったようです。

丸亀連隊

年表の一番最後に注目。
明治になって大手町地区は、陸軍歩兵第12聯隊の兵舎が造営されているのです。これは大手町全体の接収と屋敷地の引払いを伴う大規模な工事でした。具体的には城の北側の内堀と外堀に挟まれた広大なエリアが国に接収されます。その経緯は次の通りです。
明治6(1873)年4月、旧武家屋敷地一番丁から四番丁(旧丸龜縣庁、旧藩刑法局、元家老・佐脇邸、他元藩士87家)に丸龜營所の設置を決定、名東縣(現、香川県)に通達します。
名東縣高松支所は区長・戸長に命じて、該当用地59,463坪を45,243円(土地16,908円、移転費用27,375円、輸送費960円)で買収(費用は大蔵省が負担)
12月20日、御用地は陸軍省に受領され、営所・練兵場の建設開始
明治7(1874)年夏、五番丁から十番丁を新たに御用地に指定。五番丁を作業場用地として買収。
明治7(1874)年9月、丸龜營所が竣工、
12月4日、第十六、第二十四大隊が高松營所から移駐、
明治8(1875)年5月10日、両大隊により歩兵第十二聯隊編成

大手前の家臣団屋敷は、解体破棄されたのです。そのエリアを明治38年の地図で確認しておきましょう
丸亀連隊 明治38年

 この地図からは次のようなことが分かります。
①大手町地区は、東側が病院、西側が連隊駐屯地となったこと
②お城の東側に練兵場があったこと
③城下町特有の折れ曲がったりしたところが直線化されていること。そのため街路に面していた区画も取り壊された所があること。
  京極さんの家臣団が住んでいた大手町は駐屯地になったのです。お城の上から見てみましょう。ちなみに戦前は「軍事機密」のために一般人は、本丸などには登れなかったようです。
丸亀連隊 合体版
ここには12連隊兵舎の西半分が写されています。その右側は兵舎が並びます。
丸亀連隊8

 左側(西)は、真ん中の空地を囲むように兵舎が立ち並びます。こちらは倉庫群だったようです。さらに西側を拡大して見ましょう。
丸亀連隊 西端

とまどうのは手前の内堀の内側にも建物が数多くあることです。現在の芝生公園も建物で埋まっています。内堀の外側に沿っては兵舎倉庫が並びます。その西の突き当たりは外堀でが、すでに半分は埋め立てられ道路になっています。そのコーナーが現在の郵便局付近になります。裁判所は、その東側の兵舎の始まりあたりになりそうです。これだけの予備知識を持って、発掘現場を見てみましょう。

丸亀連隊 裁判所発掘地点
丸亀裁判所発掘エリア(白い空白部)
上図が今回の裁判所の発掘地点になるようです。
 ここからは、聯隊兵舎3棟が出てきました。建物1は第一大隊の倉庫で、その西端の一部のようです。建物1については、多度津町資料館に聯隊建設の際の設計図が残されていて、建物の構造が分かります。それを参考にして建物1の下部構造を模式的に復元したのが下図です。
丸亀連隊 倉庫下部構造

報告書はこれについて次のように述べています。
溝を掘り基盤を補強したのちに、レンガ積みにて外壁基礎を構築している。上部は、漆喰の壁を用いていたようである。床支えの柱が存在しており、それらが桁行2間存在し、その内側に外壁と同様の構造をもつ基礎と、屋根支えの柱列を2列立て、柱と柱の間を廊下としている。

この模式図を建物1に当てはめてみると、出土したのは外壁の基礎と床支えの柱穴だったことが分かります。図面に残される寸法では、外壁と柱の間隔が1、5mであり、遺構の間の距離と合致します。
建物1は、明治8年に建設され敗戦まで使われた第一大隊の倉庫としておきましょう。
丸亀連隊 正面
 丸亀十二連隊正面玄関 
 建物1に先行する建物2、3については、明治26年以降火災で消失したものを、再建したという記録があるようです。そのため建物2、3は焼失した明治8年段階の建物である可能性が高いと指摘します。建物2と3は軸を一にして並んでいたことから、同時に建っていた可能性が高いようです。発掘からは、明治8年にこれらの兵舎群が一斉に立ち並び始めたことがうかがえます。
面白いのは埋甕が出てきています。これを便所遺構と報告書は考えています。
丸亀連隊 発掘図
十二連隊の倉庫跡

それでは、取り壊された屋敷群の残土などはどのように処理されたのでしょうか。
それをうかがわせる廃棄穴が、発掘されています。発掘エリアの岩間長屋から出てきた廃棄穴からは、土塀瓦のほかに、京極家の家紋が施された軒九瓦、軒平瓦が出てきます。この付近には京極家と関係のある屋敷はありません。これはかつての多度津御用所や、周辺の塀などの解体が連隊建設のために同時に進み、それらが併せてここに掘られた廃棄穴に投棄されたものと報告書は推測しています。こうして、ここからは大量の瓦が出てくることになります。これは発掘者にとっては「宝の山」です。高松城に比べて遅れていた丸亀城の瓦の編年編成資料の貴重なデーターとなるようです。

丸亀連隊 瓦変遷
 
こうして明治に建てられた十二連隊の兵舎跡層をはぐることによって、江戸時代の層が出てきたことになります。そして、それは明治の兵舎建設のために更地にされた破棄現場だったのです。
 その下に眠る江戸時代の屋敷跡については、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
高松家裁・地裁丸亀支部庁舎新営工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告 丸亀城(大手町地区)2018年



 丸亀港と云えば福島港を連想します。しかし、福島港が丸亀城下町の看板港になるのは19世紀になってからのようです。福島港がどのように発展してきたのかを絵図で追いかけて見ようと思います。
まずは、時代をぐーんと遡って、丸亀平野の地質から始めましょう。

丸亀平野の扇状地

丸亀平野は、①土器川と②金倉川の扇状地をベースにできています。この二つの川が、暴れ狂う龍のように流れを変えながら扇状地を形成します。それが黄色で現されています。④の丸亀競技状付近がその先端になることが発掘調査からも分かっています。そこから北は、その後の縄文海進や堆積作用で氾濫平野が形成されていきます。つまり、丸亀城のある亀山は、湿原の中にぽっかりと浮かぶ小島のような形であった可能性があります。山北八幡神社の由緒書きには、満潮時には亀山までの波が打ちよせていたと記されているのは前回見たとおりです。裏付け史料として丸亀平野の条里制遺構を見ておきましょう
丸亀平野北部 条里制

 ⑥が丸亀城です。この周囲は真っ白で、条里制遺構はありません。湿地帯で耕地には適さなかったようです。ついてに、亀山が鵜足郡と那珂郡の境界上にあること、③の金倉川流域にも条里制遺構がないことを押さえておきます。 

それでは、亀山の北はどうなっていたのでしょうか。拡大して見ましょう。
丸亀平野 地質図拡大版

  亀山(丸亀城)から北には、氾濫平野が広がりますが、古代には満潮時には海面下になりますので人が住むことは出来ません。人が住めるのは、亀山から西に伸びる微髙地です。現在の南条町あたりになります。
 ここで注目したいのは、海際には砂州①と砂州②が東西に伸びていることです。これは、流路を変えながら金倉川と土器川が運んできた砂が海岸線に沿って堆積したものです。古代には、土器川と金倉川の河口は、砂州で結ばれていたようです。よく見ると砂州①と②は、丸亀駅付近で途切れています。ここが西汐入川の海への出口となります。そうすると砂州①が現在の御供所、平山町になります。そして砂州②の東先端付近が福島町になるようです。
古代丸亀周辺の砂州と流路を見てみましょう。
丸亀の砂嘴・砂堆

砂州①②以外にも、砂州③④⑤があります。この砂州と川の流路の関係を考えて見ます。現在この流域を流れているのは、上金倉を源流とする西汐入川です。この川は、北に向かって流れず東に向かって流れて、丸亀駅の西北で海に流れ出しています。どうして真っ直ぐに北に流れないのか不思議に思っていました。この地質図を見て納得することができます。東西に伸びる砂州が幾重にも待ち構え、西汐入川は北上できないのです。そこで東に流れ砂州①と②の間まで行って、やっと海へ出れることになります。

 この砂州①②は、近世初頭の絵図には、どのように描かれているのでしょうか?

丸亀城周辺 正保国絵図
1644年に丸亀藩山崎家が幕府に提出した正保国絵図です。
通目したいのは、丸亀城の北にある③と④の半島のような地形です。その先端には「舟番所」とあります。実は、③と④が先ほどの地質で見た砂州①②にあたると研究者は指摘します。
これを、同時期に作られた正保城絵図と比べて見ましょう
讃岐国丸亀絵図 拡大

 地質図で見たように砂州①②の間を⑤西汐入川が海に流れ出しています。そして、砂州1・2の先端には、それぞれ舟番所が描かれています。この絵図からは、砂州1の上には、宇多津から移住してきた三浦(御供所・西平山・北平山)の家並みが海沿いに続きます。
 一方、砂州2には番所があるだけで民家の姿は見えません。この砂州2は、西汐入川によって隔てられ「中須賀」と呼ばれていました。この無人の砂州が福島町に発展していくようです。そのプロセスを追ってみましょう。
延宝元年(1673)になって、大工七左衛門ら16人が、藩に中須賀に家を建てたいと願い出ます。

丸亀城下町比較地図41

具体的には、南側の波打ち線際から八間下がったところに幅三間の道を東西に伸ばし、その道に沿い表口10間奥行25間を一屋敷とし、屋敷は船作事場と菜園にしたいという願い出でした。「船作事場」を行うのですから申し出た大工は、船大工だったことが分かります。当時は、塩飽が幕府の海上輸送を独占し、船の需要がうなぎ登りの時代です。その波及効果が海を越えて丸亀城下町にも及んでいたようです。船大工にとって海に近い方が何かと便利だったのでしょう。

 六年後の延宝七年になって、 一戸につき表口五間、裏へ二〇間の屋敷と、西の方では五間に二〇間の菜園場が認められることになりました。その代わりとして、 一屋敷12匁の納入を求められます。これを16戸が負担し、計192匁を町役銀として納入することになります。その際に、戸数が増えても、この金額は変わらないという約束を取り付けます。
丸亀城下町比較地図51

こうして貞享元年(1684)から砂州の上に家の建築が始まります。
3年後には、最初に申し出た16屋敷とほかに8屋敷増えて、計24屋敷がそれまで無人だった砂州に軒を並べることになります。同時に、新しい街の氏神様として天満官を勧進し、共同井戸も掘り、4年後の元禄元年(1688)には弁財天も祀るようになります。
  しかし、浜町から海を隔てた洲浜の地で生活することは何かと不便です。その上、いざというときの藩船の御用にも間に合わないこともあります。
そこで、元禄三(1690)年、濱町と結ぶ橋の架橋願いを出します。
丸亀城 福島町

藩はこれを認めて、銀一貫五〇〇匁を支給します。こうして、藩の普請奉行のもと人足600人が架橋工事に当たります。資金が不足したので、大坂の安古町さかいや惣兵衛から丁銀で一貫目を借りています。さらに町から上納する192匁をこの橋のため用立てることが許されたます。こうして元禄四(1691年2月に橋は完成します。当時の藩主高豊がこの橋を「福島橋」と命名します。この橋名にちなんで、中須賀の町は以後は福島町と呼ばれるようになります。橋の長さは15間5尺で、場所は現在のJR丸亀駅の東の重元果物店の西北の所にありました。
坂本龍馬が渡った福島橋の欄干と常夜燈(丸亀市) | 自然、戦跡、ときどき龍馬
福島橋の欄干と常夜灯
福島橋と町の変遷を、「古法便覧」は、次のように記します。
宝永四年(1707)、福島橋床石垣普請、人足千人ご用立をし、福島側より普請。
享保四年(1719)、福島橋新たに仕替えるため銀五貫目拝借し、無利子十年返済の達しあり
享保六年(1721)福島橋の石垣が崩れ落ちた。橋が長くなったためで、修理のために町と三浦から費用の半分負担を申せ付けられた。
享保十年(1725) 福島にて相撲を行う。
元文二年(1737)正玄寺・善龍寺にて芝居興行が許可、これまで芝居は停止されていたが、福島町は橋修復資金のために興行許可が下りた。
元文三年(1738)橋架け替えのため藩の舟子の道具を拝借したいと、藩の船頭に申し出た。
元文四年(1739)福島橋の銀については大年寄も承知しておくこと。
宝暦三年(1753)、橋修復のため芝居興行を願いでたが不許可。その代わり銀二貫目、無利子拝借し七年返済とした。
同年六月、福島橋開通記念の時に、大年寄・御用聴役らが行列の押えに出るよう求められ、祝儀に 樽一荷、生鯛一折をいただいた
天明元年(1781、橋架掛替と山北八幡官の御祭礼があり、お上より御祝儀として白銀10枚下
された。

これを見るとたびたび架け替え修復が必要だったことが分かります。改修費は福島町の住民負担でした。公共事業だから藩が面倒見ると云うわけではないようです。そのため間役銀・棒役は免除されています。また橋の維持費をひねり出すために芝居興行をひんぱんに催しています。

福島橋の掛け替えについては、次の文書もあります。
一福島橋の儀、先年は春秋両度芝居の徳用銀等を以て、掛替修覆等仕り来り候の処、去る天保午歳掛替の節は入用銀調達相成り難く、拠んどころ無く十八貫目拝借御願ひ中上候の処、 貧町の事故、 その後上納も三、四度にて柳の上納、その余の処は今以て上納に相成中さず候の処、その後弘化三午歳板替の節も過分の入箇に御座候えども、最早拝借の儀も中上げ難く、町内にて色々心配仕り漸く出来に相成り……(中略)
……最早近年の内には、板・欄干等取替中さずては相成り難く、貧町にて右様過分の入箇まで引受け罷りあり候儀も御座候につき何様にても、以来の通り定間割に仰せつけなされ下され度く候事
安政三丙辰十一月                     福島町
意訳変換しておくと
福島橋の件について、前回は春秋の度芝居の徳用銀収入で、掛替修覆費を賄いました。また天保の掛替の時にはは入用銀調達が困難で、仕方なく十八貫目を拝借しての掛け替えとなりました。貧しい町のことですので、 その後の上納も未だ完済できていません。その後、弘化三の橋の板替の時も過分の援助をいただいており。これ以上拝借することもできません。町内では、色々と心配しております。(中略)
……最早近年の内には、板・欄干などの取替を行わなければなりません。貧町の福島町には過分の出費を負担することもできませんので、これまで通りの定間割を仰せつけていただけるようにお願い申し上げます。
安政三(1856)年十一月                      福島町

 ここからは、福島橋の修復が町民のおおきな負担であると同時に、橋修理費を捻出するために芝居や相撲の勧進を町を挙げて行っていたことが分かります。それが町民の団結力となっていたのかもしれません。

 西讃府志には、戸数198、人口989(男490、女499),馬3。寺は白蓮社・大師堂・庵、神祠は天満宮2・弁財天、白蓮社が玄要寺院内より移されています。庵は西山寺へ、天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社)して、福島弁天として信仰を集めるようになります。町の東側に船着き場があったので、金毘羅参拝客の増加と共に繁栄するようになります。
福島町が表玄関になるのは、文化3年に福島湛甫が作られてからです。

丸亀城 福島町3

福島湛甫は東西61間・南北50間・入口18間・満潮時水深1丈余で、役夫延5万人余・此扶持米485石余・石工賃銀18貫の経費で完成します。丸亀繁昌記には、材木問屋が軒を並べて賑わう湛甫近辺の様子が記されています。福島湛甫の完成で、丸亀港の航行が容易となり安全性も高まります。さらに、金毘羅船で上陸した旅客は福島町内を通り浜町方面へと向かうため、町内の旅籠、土産物屋などが急増し福島町は、その目抜き通りとしてにぎわうことになります。それまでは、御供所の東汐入川の川口に入港していた客船は、この福島湛甫を目指すようになり、西汐入川川口に繋留されるようになります。金毘羅船の船着き場も移動したようです。

丸亀城 福島湛甫

 以後、金毘羅船の発着で幕末に向けて飛躍的な発展を遂げることになります。その利益をもとに、持舟をもち、海上商品輸送などに乗り出していく商人も増え、丸亀の商業的中心になっていきます。
丸亀城 今昔比較図

この橋がなくなるのは、浜町と福島町の間の西汐入川が埋め立てられてからのことになります。それは、明治43(1910)年の西汐入川付け替え工事が始まるまで待たなければなりませんでした。これについては以前にお話ししましたので、絵図だけ紹介しておきます。
丸亀市実測図明治 注記入り

明治34年 鉄道が通過し丸亀駅が完成。その裏を西汐入川が流れています。

11929年(昭和4年)

丸亀駅の裏を流れていた西汐入川のルートが変更されました。そして旧川跡は埋め立てられ新町となります。
以上をまとめておくと
①古代の丸亀城のある亀山は、湿地の中に浮かぶ島で、海岸線には東西に砂州が伸びていた。
②そのため古代は耕作地としては適さず、条里制遺構も残っていない。
③近世には砂州①の背後は畑地として耕作されるようになり、砂州①上には宇多津からの移住者の家並みが海沿いにならぶようになった。
④西側の砂州②は中須賀とよばれる無人の砂地であった
⑤そこに船大工たちが家と作業所を建てて暮らし始めると、人々が移り住むようになった
⑦不便なために藩に申し出て橋を建設し、その橋を藩主は福島橋と命名した。そのため町の名前も福島町と呼ばれるようになった。
⑧福島湛甫ができると金比羅船の発着として発展するようになり繁華街となった。
⑨資本蓄積を重ねた商人の中には、持ち舟を持ち商業資本として活躍する者も現れた。
⑩明治になって鉄道が通過するようになり駅裏開発のために西汐入川が埋めたてられ「新町」となった。
⑪こうして福島橋は、お役御免と成り撤去された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 丸亀市史4近世 

  国立公文書館には正保城絵図と呼ばれ、三代将軍徳川家光の命によって、全国の大名に提出を命じた城の絵図があります。その中に「讃岐国丸亀絵図山崎甲斐守」と題された一枚があります。これが山崎藩が丸亀へやってきた四年後の正保二年(1645)には提出させたものとされています。この絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブスで自由に見ることができ、拡大・縮小も思いのままです。以前には、丸亀城の城郭を見ました。今回はこの絵図で、山崎藩によって再興された当時の城下の様子を見てみましょう。
テキストは 丸亀市史です。 
丸亀城 正保国絵図注記版

①城の東側では内堀が東汐入川に続き、北へ浜まで伸びて、土器川河口と合流して海へ注いでいます。
②西側では外堀から分かれた堀が西へ延び(現玄要寺墓地南端)、 現在の北向地蔵堂から北へ曲がり、船頭町(現本町西端)のところで海に続いています。海との境はなぜかぼやかされています。
③内堀内にある城の北麓には、東西九〇間、南北五〇間の山下屋敷があります。ここが藩主の居館だったようで、現在の大手門の南側の観光案内所付近になるようです。生駒時代の山下屋敷は東西八〇間、 南北三〇間で、 山麓以外の三方は高さ八間の石垣で囲まれた高台となっていて、侍の出入りはできなかったようです。山崎氏時代には、この図のように高台ではなかったことは前回に見たとおりです。山崎藩は、東と西では山麓まで内堀を貫入させ、藩主の館である山下屋敷の東・北・西の三方はすべて堀になっています。山崎家治が城を築く際、生駒時代にあった山下屋敷の高台の土を、山頂に運び、また内堀を貫入させたときに出た土も築城に利用したようです。
④外堀内は士族屋敷で、侍屋敷・歩者屋敷・足軽量敷と記されています。一区画が一戸建てであったかどうかは分かりませんが、足軽は一区画に数戸で住んだと研究者は考えているようです。
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前に、生駒藩時代に作られた街並みを指します。古町で最初に街並みができたのは南条町だと云われます。南条町は地勢的には、亀山から西に伸びる微髙地の上にあり、中世以来の集落があった可能性があります。南条町が中心となり、その周辺に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していったようです。
丸亀市 西汐入川と外堀

南条町の発展の起点になったのが、上の地図の②金毘羅灯籠です。
グーグルマップで「丸亀市南条町石灯籠」と献策すると出てきます。
丸亀市南条町塩飽町

③にある灯籠です。現在は道路になっていて、④北向神社と①の外堀を結んでいますが、これはかつては西堀でした。

丸亀市南条町の金毘羅燈籠3
    旧西堀に立って北向地蔵方向を望む
かつての西堀の上に立って西方面と北方面を見てみるとこんな風に見えます。
丸亀市南条町石灯籠説明版

説明版によると、この常夜灯は明和元年(1764) 12月に、南条町と農人町 (現在の中府町五丁目)の人々によって建てられています。この燈籠南側の東西に延びる現在の道は、古地図の通り丸亀城の外堀につながる堀で、ここには橋がかけられていました。また、ここから西には、玄要寺 の広大な敷地が広がっていました。それも絵図で見ておきましょう。
丸亀市 玄要寺3
玄要寺 
この絵図を見ると琴平街道から⑥西堀(現城乾小学校前の道路)までが、玄要寺の山内だったことが分かります。それもそのはずで、この寺は京極さまの菩提寺として建立されたのです。城下では、もっとも広い敷地と規模を備えるようなるのは当然のことです。玄要寺の山門は、西堀に面して建っています。つまり、現在の北向地蔵の辺りが玄要寺の西南コーナーであったことになります。現在は、玄要寺の北側には多度津街道が敷地を抜けて通されています。また、敷地の中に幼稚園やコミュニティーセンターなどが割り込んできています。
丸亀市南条町塩飽町

グーグルで「丸亀市南条町」を献策すると、赤く囲まれた南条町のエリアが出てきます。
  この灯籠③が建つ所は、南条町の一番南で、西堀にかかる橋を渡る手前に建てられていたことが分かります。金比羅に向かう人たちにとっては、丸亀城下町からのスタート地点だったのかも知れません。
この地図からは、次のようなことも分かります。
①南条町の東側は住民居住区
②西側は寺が南北に4つ並ぶ寺町エリア
③寺の西側を西掘(運河)が通り、その向こうは「田地(水田)が広がっていた
金毘羅街道を境にして南条町の東と西では、性格が異なる街だったようです。 
丸亀城 正保国絵図古町と新町

⑦それに対して新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記され東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって新たに計画されたので「新町」なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。 

丸亀市東河口

海岸線から見ていきましょう
海との境はぼかされていて、そこに「遠浅」といくつも書き込まれています。このあたりが砂州であったことを物語ります。砂上の上に丸亀城下町は築かれているのです。
 海岸線に沿って古町と書かれた家並みが続きます。これが生駒氏時代に宇多津からやってきた三浦の人たちの家々です。その南の畑の中に寺の字が三つ並んで書かれています。これが三浦の水夫の檀那寺で鵜足津(宇多津)から一緒に移ってきた寺です。
 御供所の砂州の東の先端は、真光寺東で東汐入川と土器川が合流した河口になります。ここには番所が描かれています。さらに、東汐入川を少し遡った所に「舟入」の文字がみえます。ここに船着きが場あったようです。
この絵図から約50年後の京極時代の元禄十年(1697)の「城下絵図」の略図です。

丸亀市東河口 元禄版
 ここには真光寺の東南と東北の二か所に番所が増えています。どうして、二つの番所があるのでしょうか?  研究者は次のように考えているようです。
①東汐入川河口番所 土器川を渡る人たちからの通行税徴収
②土器河口番所  港に出入りする船からの通行税徴収
 近世初期の丸亀港は、現在の福島町ではなく、土器川河口の東川口だったようです。二代藩主京極高豊が初めて丸亀へ帰った延宝四年(1676)7月朔日には、次のように記されています。
備中様御入部、御船御供所へ御着、御行列にて御入城遊ばされ候

とあります。三浦の海上交易者が利用する湊がここにあり、公的な湊も御供所に置かれていたようです。
また「丸亀繁昌記」の書き出しは、次のように始まります。
 玉藻する亀府の湊の賑いは、昔も今も更らねど、なお神徳の著明き、象の頭の山へ、歩を運ぶ遠近の道俗群参亀す、数多(あまた)の船宿に市をなす、諸国引合目印の幡は軒にひるがえり、中にも丸ひ印の宗造りは、のぞきみえし。二軒茶屋のかゝり、川口(河口の船着場)の繁雑、出船入り船かゝり船、ふね引がおはやいとの正月言葉に、船子は安堵の帆をおろす網の三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば
意訳変換しておくと
 玉藻なる丸亀湊の賑いは、昔も今も変わらない。神霊ありがた象頭山金毘羅へ向かう道は丸亀に集まる。数多(あまた)の船宿が集まり、諸国の引合目印の幟が軒にひるがえり、○金印がのぞきみえる。二軒茶屋のあたりや、土器川河口の船着場の繁雑し、出船入り船や舫いを結ぶ船に、「お早いおつきで・・」と正月言葉が」かけられると、船子(水夫)は安堵の帆をおろす。三浦の貸座敷は、昼夜旅客の絶間なく、中村・淡路が屋台を初め、二階座敷に長歌あれば・・・

 ここからは、御供所の川口に上陸した金毘羅参拝客は東の二軒茶屋を眺め、御供所・北平山・西平山へと進み、その通りにある貸座敷や料亭で遊ぶ様子が描かれています。三浦は水夫街で漁師町と思っていると大間違いで、彼らは金毘羅船の船頭として大坂航路を行き来する船の船主でもあり、船長でもあり、大きな交易を行う者もいたようです。以前にお話ししたように、弥次喜多が乗った金毘羅船は、御供所の川口に着きます。そして、船頭が経営する旅籠で一泊を過ごします。道中記では、讃岐弁とのやりとりが面白おかしく展開していきます。三浦の水夫たちは、瀬戸内海を舞台に活躍する船主であったことを押さえておきます。
 話を元に戻します。土器川河口の東川口が公的な丸亀の港であったことです。物資を積んだ船は、東川口の番所を通り、東汐入川をさかのぼり、木材や藁などは風袋町の東南にある藩の材木置場や藁蔵へ運ばれました。
丸亀市米蔵

 昭和の初期ころまでは、東汐入川の両岸にある材木商に丸太などの木材が東河口から運ばれていたようです。米なども、満潮干潮を見ながら外堀の水位を考慮しつつ、外堀の北側中央の市民会館北交差点の東方付近にあった米揚場の雁木から荷揚げし、その南にある米蔵(旧市民会館付近)に納入していたと丸亀市史には書かれています。

 それが変化するのは、案外新しく文化三年(1806)に、福島湛甫ができて以後になるようです。天保初年には新堀湛甫も構築され、東川口は旅客の港としては寂れていきます。金毘羅船は福島方面に着くようになり、賑わいは移っていきます。
丸亀城 今昔比較図

  以上をまとめておくと
①丸亀城下町は南条町が起点となって発展した。
②「微髙地 + 西堀」という好条件に、「強制移住者」が南条町に居を構えた
③南条町は、金毘羅街道の東側が住民、西側は寺院が配置され寺町でもあった。
④金毘羅街道はお城を北から西に迂回し、南条町を通って中府町に南下していた
⑤お城の北側の舟入は、丸亀城の公的湊ではなく小規模なものであった。
⑥公的な湊は土器川河口の東川口にあった。
⑦ここからは東汐入川を通じて外堀にまで川船が入って行け、米などもこの運河で米蔵に運び込まれた。
⑧19世紀初頭に福島湛甫や新堀湛甫ができて、丸亀の玄関港は福島に移っていく。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  
 「寺社の由緒記・縁起等は一般には信じ難い」といいながら丸亀市史は、山北八幡神社の由緒記を参考にして、お城が出来る前の丸亀周辺のことを探ろうとします。史料がないので、使えるものは批判的に使わなければ書けません。
山北八幡官の由緒記には、古代の丸亀浦について、次のように記されています。
①神功皇后が三韓へ出兵した帰途、この地の波越山(亀山=丸亀城)に風波を避けた折、土地の人が清水を献じ、船も修理した。
②波越山(亀山)の山麓は近くまで潮の満干があり、船造りや修理などをし、舟山神も祀っていた。
③波越山の形は円く、朝日によって西の方に長く影ができ、亀の這うのに似ており、土地の人は円亀山・神山と書き、「かみやま、かめやま」と呼んだ。
④国司讃岐守藤原楓磨が宝亀二年(771)宇佐八幡官に準じて祠をつくり祀った。この祠を土地の人は石清水八幡と尊崇し氏神とした。
ここからは、古くは亀山まで潮の干満が押し寄せていたこと、そこに浪越神が祀られていたこと、さらに八幡神が勧進され八幡神社が鎮座していたことが記されます。この八幡神社が山北八幡神社のようです。つまり「神山=亀山」として霊山でもあったことがうかがえます。
『万葉集』には、柿本人麻呂が丸亀の西にある「中之水門」から舟出して佐美島へ渡りつくった歌「玉藻よし 讃岐の国は国柄か……」があります。「中之水門=那珂郡の湊=中津」と考える人も多いようです。
「道隆寺温故記」には、延久五年(1073)国司讃岐守藤原隆任が、円亀の山北八幡を旧領に造営したと記されています。堀江港の交易管理管理センターとして機能した道隆寺の傘下に置かれていたようです。山北八幡神社を氏子して信仰する集団が、周辺にはいたこともうかがえます。
 古代の条里制遺構を見てみましょう
丸亀平野北部 条里制

⑥の丸亀城は、鵜足郡と那珂郡の境に立地することが分かります。条里で呼ぶと那珂郡1条24里あたりになるようです。しかし、丸亀城のある亀山周辺には条里制遺構は残っていません。23里より北に条里制が残っているのは微高性の尾根上地域が北に続く2条や4条だけです。
 現在の標高5mラインを仮想海岸線だったすると亀山の麓は海浜で、確かに満潮時には波が打ち寄せていたことが想像できます。そこに浪越神が祀られ、後には八幡宮が勧進されたというストーリーが考えられます。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

以前に見たように地質図からも丸亀城周辺は、砂州であったことが分かります。

南海通記には 『南海通記』、 次のように記します。
①享徳元年(1452)、 細川勝元が室町幕府の管領職となった
②その後に、細川家四天王と称せられた香川・香西・安富・奈良の四氏に讃岐の地を与えた。
③鵜足・那珂の旗頭になった奈良元安は、畿内を本領としていたが、子弟を讃岐に派遣し鵜足津の聖通寺山に居城させた。
④その下に、長尾・新目・本目・法勲寺・金倉寺・三谷寺・円亀の城があった
 ここには、15世紀半の奈良氏統治下の那珂郡には、円亀山に支城があったと記されています。しかし、考古学的には確かめられていません。
その後、阿波三好勢力の侵入の中で、鵜足津エリアは篠原氏が支配することになますが、これもわずかのことで、長宗我部元親の制圧を経て、豊臣秀吉の四国統一の時代に入っていきます。

短期間の仙石・尾藤氏の讃岐支配に代わって、 生駒親正が讃岐の領主としてやってきます。彼の下で讃岐は中世から近世への時代の転換をとげていくことになります。
生駒親正がやってきた頃の丸亀の様子は、どうだったのでしょうか?
『西讃府志』の「市井」には次のように記されています。
此地 今ノ米屋町ヲ限り東側ハ鵜足郡津野郷二属キ、西側ヨリ那珂郡杵原郷二属開城以前ハ海浜ノ村ニテ、杵原郷ハ丸亀浦卜唱ヘテ高四百六石八斗九升三合ノ田畝アリ 津野郷ハ土居村トイヒケルフ、慶長六年(1601)其北辺二宇多津ナル平山ノ里人フ移シ 始テ三浦卜呼テ高百七十二石八斗八升ノ田畝アリヽ(以下略)
 意訳変換しておくと
この地は、今の米屋町から東は鵜足郡津野郷に属し、西側は那珂郡杵原郷に属する。丸亀城が開城される前は、海浜の村で杵原郷ハ丸亀浦と呼ばれていた。石高は468石8斗9升3合の田畝があった。一方津野郷は土居村と呼ばれ、慶長六(1601)年に、この北辺に宇多津の平山の里人を移住させて三浦と呼ぶようになった。その石高は172石8斗8升である。(以下略)

 ここからは、先ほど見たように丸亀は鵜足郡と那珂郡の境に位置して、米屋町より西は、那珂郡杵原郷に属する丸亀浦で、東は鵜足郡津郷の上居村だったことが分かります。生駒時代までに、海→海浜→農漁村へと「成長」していったようです。
 周辺の地形復元でも、那珂郡の海岸線には、いくつかの砂堆が南北に走っていたことが分かっています。扇状地としての丸亀平野が終わるとそこには、東西に砂堆が広がっていたことは、以前にもお話ししました。
丸亀城周辺 正保国絵図

元禄十年(1697)の「城下絵図」には、現在の通町の中ほどまでが入海となっています。③の砂州上に、三浦からやって来た人たちが人々が住み着きます。④の中洲は「中須賀」と呼ばれ、後に福島町に発展していきます。
 関ヶ原の戦いの後に、西国雄藩を押さえるために生駒親正・一正父子は高松城と丸亀城・引田城の同時築城を始めます。
それは瀬戸内海を北上してくる毛利軍や豊臣恩顧の大名達を仮想敵としての対応でした。このような緊張関係の中で、丸亀城や高松城は築かれたことは以前にお話ししました。生駒親正は西讃岐の鎮として亀山に築城し、この地を円亀と称すようになります。これが丸亀城の誕生になります。
 築城に先だって土器川と金倉川のルート変更を行ったことが指摘されています。
 亀山の東にある鵜足・那珂両郡の境界を流れていた土器川を約800mほど東へ移した。その川跡が外堀であるという説もあるようです。この外堀は、東汐入川によって海に連なります。
一方西側では、金倉川が北にある砂州によって流れを東へ東へと変えて、現在の西汐入川のルートでを流れていたようです。
金倉川流路変更 

これも上金倉で流路変更を行い、現在のルートにしたことが指摘されています。そして、外堀よりL字形の掘割をつくり海に連絡するようにします。こうして、土器川と金倉川の流路変更を行うことで、外堀の東西から海に続く東汐入川と西の掘割の間が城下となります。

丸亀城 生駒時代

尊経閣文庫の所蔵する生駒時代の丸亀城の絵図「讃州丸亀」を見てみましょう。
亀山の山頂には矢倉が設けられ、山下の北麓には山下屋敷があり、それらを囲んで内堀があります。内堀とその外にある外堀との間を侍屋敷とし、外堀の北方を城下町としています。築城以前は、こここは、海浜の砂堆で畑もあったかもしれません。
山下屋敷は、藩主一族かそれに次ぐ高級武土の居館だと研究者は考えているようです。この山下屋敷は、東・北・西の三方は高さ八間の石垣に囲まれた高台で、南は山腹に連なっています。広さは東西八〇間、南北三〇間の長方形の台地で、そこに屋敷があったようです。現在の紀念碑・観光案内所・うるし林の南の部分にあたるエリアです。この高台の北端は内堀より約20間南に当たります。
 丸亀城築城に伴い城下町形成も行われます。
そのために移住政策がとられます。記録に残る移住者達を視ておきましょう
①那珂郡の郡家に大池をつくり、南条郡国分村の関池を拡張し、香西郡笠井村の苔掛池などを掘ったと伝えられます。このとき、関池付近の住人が城下へ移されところが南条町であると云われます。南条町は地形的には亀山の西に続く高地にあたり、丸亀浦ではもっとも高く、もっとも早く人々が住み着き人家のできたところのようです。
丸亀市南条町塩飽町

また、南条町は西汐入川と外堀を結ぶ運河が城乾小学校の東側から北向地蔵堂を経て外堀にもつながっていました。いわゆる運輸交通網に面していたエリアです。ここに最初の人々が居を構えるのは納得できます。
② 豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に、生駒氏が朝鮮に出兵した時には、塩飽の水夫や鵜足津の三浦の水夫が従軍したと云われます。水軍整備の一環として、塩飽島民の一部が城下へ移されたと伝えられます。これらの人々は、南条町の東側に定住地が指定されたようです。これが塩飽町と呼ばれるようになります。

宇多津平山からの三浦漁夫の移住 
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの後も、これで天下の行方に決着が着いたと考える人の方が少なかったようです。もう一戦ある。それにどう備えるかが大名たちの課題になります。ある意味、軍事的な緊張中は高まったのです。瀬戸内海沿いの徳川方の大名達は、大阪に攻め上る豊臣方の大名達を押しとどめ、大阪への進軍を防ぐことが自らの存在意義になると考えます。徳川秀忠をとうせんぼした真田家の瀬戸内版と云えばいいのでしょうか。そのための水城築城と水軍の組織強化が進められたと私は考えています。生駒氏が、丸亀・高松・引田という同時築城を、関ヶ原以後に行ったのは、このようなことが背景にあるようです。

丸亀市平山

 丸亀城築城中の生駒一正は、城下町形成のため、鵜足郡聖通寺山の北麓にある三浦から漁夫280人を呼び寄せ、丸亀城の北方海辺に移住さています。この三浦とは現在の御供所・北平山・西平山の三町になります。彼らをただの漁民とか水夫と見ると、本質は見えなくなります。塩飽の人名とアナロジーでとらえた方がよさそうです。この3つの浦は、中世には活発に交易活動を営んでおり、多くの廻船があり、交易業者がいた地区です。彼らはこれより前の文禄元年(1592)、 豊臣秀吉の命により朝鮮へ出兵した生駒親正に、 塩飽水夫650人、三浦の水夫280人が従軍しています。塩飽水軍と共に、水夫としてだけでなく、後方物資の輸送などにも関わっていたようです。彼らを城下町の海沿いエリアに「移住」させるということは何を狙っていたのか考えて見ましょう。
①非常時にいつでも出動できる水軍の水夫
②瀬戸内海交易集団の拠点
③商業資本集団
これらは生駒氏にとっては、丸亀城に備えておくべき要素であったはずです。そのために、鵜足津から移住させたと研究者は考えているようです。
妙法寺(香川県丸亀市富屋町/仏閣(寺、観音、不動、薬師)(増強用)) - Yahoo!ロコ
妙法寺
 生駒氏以前には、丸亀にはお寺はほとんどなかったようです。
古いお寺としては文正元年(1466)に、鵜足津から中府へ移り東福寺と称し、さらに天正年間高松へ移り見性寺と改称された寺があるくらいです。多くの寺社は、生駒氏の城下町形成に伴って移って(移されて?)きたようです。その例として丸亀市史が挙げるのが、次の寺院です。
①豊田郡坂本村から日蓮宗不受不施派であった妙法寺
②鵜足津から丸亀へ、さらに高松へと移った日妙寺
③聖通寺山麓から280人の水夫の移住に伴い、真光寺・定福寺・大善院・吉祥院・威徳院・円光寺などが丸亀の三浦に移ってきます
これらの寺のうち定福寺・大善院・吉祥院・威徳院は、丸亀城の鎮護として鬼門に当たる北東に並んで建立され、俗に寺町四か寺と称されるようになります。
山北八幡宮と御野屋敷跡(丸亀市) | どこいっきょん?
山北八幡神社
亀山の南にあるのに、山北八幡と云うのはどうして?
 先ほど見たように山北八幡宮は、もともとは亀山の北麓に鎮座していました。そのため「山北」と呼ばれていました。ところが築城のために移転させられ、現在の杵原村の皇子官の社地に移りました。この結果、亀山の南に鎮座ずることになりました。しかし、社名は「山北八幡」のままです。
富屋町の稲荷大明神も田村から慶長四年(1599)に移ってきたと伝えられます。
移転してきた時は、社殿のすぐ北まで海水が満ちていたと云います。築城とともに人が集まり、上下の南条町を中心に、塩飽町、 さらにその東に兵庫町(現富屋町)、 北に横町(現本町)、浜町へと人家が広がり、その家々に飲み込まれていったようです。
「生駒記」には慶長七年、一正が丸亀城から高松城に移り、城代を置いたとあります。このときには、町人の中から高松へ殿様に付いていった人たちもいたと云われます。現在高松にある商店街丸亀町は、このときに丸亀からの移住者によって作られた町とされます。私には「希望移住」と云うよりも「指名移住」であったようにも思えます。
お城ウンチク(松江城・萩城)│inazou blog

 元和元(1615)年に大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると一国一城令が出され、丸亀城は廃城になります。
私は、これに伴い城下町も消滅したのかと思っていました。しかし、どうもそうではないようです。生駒時代の末期に当たる寛永十七年(1640)に記された「生駒高俊公御領分讃州郡村丼惣高覚帳」の丸亀城下に関係のある所を見てみましょう。
那珂郡の内
一高四〇六石八斗九升一合    円(丸)亀浦
内 一八石 古作              見性寺領
四七石三斗五升七合          新田悪所
鵜足郡の内
一高一七二石八斗八升            三浦
翌十八年の「讃岐国内五万石領之小物成」に、
仲郡之内
一 銀子二一五匁 但横町此銀二而諸役免許      円亀村
一 米三石 但南条町上ノ町此米二而諸役免許    同 村
一 米五石 但三町四反田畑共二請米          同 村
一 塩八五一俵二斗九升六合 但一か月二      同 村
宇足郡之内
一 千鯛一〇〇〇枚                三浦運上
一 鱗之子一五〇腸               同 所
このとき、田村の総高が803石余です。円亀浦は406石ですので、農地は、田村の約半分ぐらいはあり、相当広い農地がお城の北側に広がっていたことが想像できます。同じように、三浦は172石です。これは円亀浦の約四割強に当たります。ここにも、ある程度の広さの農地があったことがうかがえます。農地が広がるなかに街並みが続いていたようです。
ここで丸亀市史が指摘するのは、小物成(雑税)として円亀村では銀子や米を上納していることです。丸亀村からは「銀子二一五匁」が収められ、その内の「横町此銀二而諸役免許」と「諸役免許」の特権が与えられています。ここからは商人や海運者などが廃城後も住み着いていたことがうかがえます。
 また塩851俵とあります。これは塩屋村からの上納品と考えられますが、すでにこれだけの塩の生産力があったことを示します。また、三浦からは運上(雑税)として「干鯛・鱗之子」が納めています。これは東讃大内郡の「煎海鼠・海鼠腸」とともに讃岐の特産物で、江戸・京では珍重されていたようです。三浦に移住してきた水夫達は、漁民として活動し、特産品の加工なども行っていたことが分かります。
   私は、政治的に強制力を持って集められた集団なので、一国一城令による丸亀城の取り壊しと共に、人々は去り、町は消えたように思っていました。しかし、ここからうかがえるのは、生駒藩が形成した旧城下町には、集められた住民はそのまま丸亀に残って、経済活動を続けていた者の方が多かったことが分かります。それは、横町のようにここに住む限りは、様々な特権や免除が約束されていたからでしょう。城は消えたも、街は残ったとしておきましょう。
丸亀城 正保国絵図注記版

正保の城絵図です。これは山崎藩時代に幕府に提出されたものです。
地図では古町を黒く塗りつぶしています。
⑥「古町」と書かれているところは、上南条町・下南条町・塩飽町、横町(現本町)、船頭町(現西本町)と、三浦(西平山・北平山・御供所)になります。つまり山崎藩がやって来る前からあった街並みを指します。古町は微髙地の南条町を中心に、生駒時代に移住してきた人たちが順次、街並みを形成していった所といえるようです。
 お城がなくなっても、水夫や海運業者や商人たちは残って経済活動を続けていたことが裏付けられます。

丸亀城 正保国絵図古町と新町
⑦新町は、現在の富屋町から霞町辺りにあたります。
このエリアはお城の真北になります。その東は「畑」と記された広い場所が東汐入川まで続いています。畑は霞町東部・風袋町・瓦町・北平山・御供所の南部になります。これらの新町は、山崎家治によって、計画された町なのでしょう。東汐入川の東は田地が土器川まで広がっています。この辺りは水田地帯だったようです。こうしてみると丸亀城下町は南よりも海に面した北側、そして西汐入川から海に面した西側から東に向けて発展していったことが分かります。
20200619074737

  以上をまとめておくと
①丸亀城築城以前は、亀山まで海が迫り、遠浅の砂浜が土器川から金倉川まで続いていた。
②このエリアが、古代の条里制施行の範囲外となっていることも「低湿地」説を裏付ける
③そのため生駒氏は、土器川・金倉川のルート変更を行い、水害からの防止策を講じた
④その上で、亀山を中心とする縄張りと城下町造りが始まった
⑤最初に街並みが形成されたのは亀山から西の城乾小学校に続く微髙地で、ここに南条町が出来た。
⑥その後、この南条町を中心とする微髙地に、塩飽町などの街並みが形成される。これが「古町」であった。
⑦一国一城令で殿様が高松に去った後も、古町の住人達はこの地を去らずに、丸亀での生活を続けた。
⑧讃岐東西分割後に、西讃に入ってきた山崎藩は、旧城下町の経済活動が活発に行われていた丸亀にお城を「復興」することにした。
⑨そして、古町の東側に新町を計画した。しかし、その東は畑や水田が続いていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 



 満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治維新になって決壊していた満濃池を改修した後の水掛かり図と用水路を描いた絵図です。これは、丸亀平野のそれぞれの藩図や天領が色分けされていて、その領域がよく分かります。
草色 → 丸亀領
桃色 → 高松領
白色 → 多度津領
黄色 → 池御領(天領)
赤色 → 金毘羅大権現 金光院寺領(朱印地)
 これを見ていて、改めて思うのは丸亀城のすぐ南は、高松藩の領土だということです。高松藩と丸亀藩の「自然国境」は、土器川でなくて金倉川だということです。そして丸亀城は領土の一番東の隅にあります。どうして、領域の中央でなく東端が選ばれたのでしょうか。それを今回は見ていくことにします。テキストは「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」です。

まずは、生駒騒動後に讃岐は東西に分けられることになります
生駒家は生駒騒動で寛永17年(1640)秋田の矢島へ転封になります。幕府は讃岐の接収と次の領主への引渡準備のために、摂津国尼崎城主の青山幸成を讃岐国御使として派遣します。
 この時に幕府は青山に「讃岐を東二、西一の割合に分割」せよと指示しています。讃岐へやってきた青山幸成は各地を検分した後に、幕府の指示に従って、分割ラインを引きます。「東二、西一」の割合だと、だいたい鵜足郡と那珂郡の郡境が境になります。具体的には土器川を越えて那珂郡の半分は、東讃高松藩の領地になります。これだと土器村は鵜足郡なので、生駒氏が城を築いていた亀山の東三分の一くらいは東領になってしまいます。

讃岐国郡名 那珂郡

 次に西讃領主としてやってくる山崎氏には「城地は見立てて決定」と指示しています。お城をどこに置くかは入国後に調査して決定させるという方向だったようです。そのため青山は、亀山にお城を築く場合の事も考えて、土器村は鵜足郡に属していましたが西讃に入れます。さらに、土器川の西側とお城の北側までも、西讃に入れて線引きを行います。
 こうして、土居村(現土居町)や風袋町、霞町などは鵜足郡ですが西讃に入りました。その分の代償として、松亀城の南側では土器川を越えて金倉川まで高松藩領になります。丸亀の南部では、国境線が金倉川となったのです。こうして、東讃は12万石、西讃は5、3万石という石高で讃岐の分割ラインが決められました。西讃の領地は豊田郡、三野郡、多度郡、那珂郡のうち中府・塩屋・津森・今津・田村・山北・金倉・櫛梨・佐文・西七箇村、鵜足郡の土居村で計53000石になります。
青山幸成は、那珂郡で線引仕置を終えた後に、こんな感想を漏らしたと伝えられます。
「西讃の城地は、観音寺の琴弾山がよい。在所は穀物も豊かだし、もっともよいところだと思う。けれども箱のみさき(庄内藩半島)が突き出て、そのうえ隧灘を受けている。ここに決めるのは、後の領主の意見によるべきである。このほかでは、丸亀の亀山がよいと思うが、五万三〇〇〇石では維持するのがむずかしいであろう。しかし大志のある領主は、これを望むかもしれないから、東讃領に近接していて不適当ではあるが、亀山を西讃に入れておく。城地としては多分、三野郡下高瀬か、多度郡下吉田辺りが選ばれるだろう」
 
 丸亀城を維持するには、五万石ぐらいの大名では無理だという見方をしていたことが分かります。。

西讃の城主としてやって来ることになった山崎家を見ておきましょう
成羽愛宕大花火の起源

 山崎堅家は、もともとは彦根の出身です。彦根の西に荒神山という山と山崎山という山があります、この山崎山に本拠を構えていたようです。天正10(1582)年4月21日の本能寺の変直前に織田信長が、堅家の館へ来て茶を飲んだということが『信長公記』に記されています。堅家の子が家盛、家盛の長男に家勝、次男に家治と続きます。この次男・家治が、丸亀にやってくることになります。
 長男の家勝は、関ヶ原の戦いに大坂方の西軍につきました。そして今の三重県の津市にある安濃城を攻め落としますが、西軍は関ヶ原で負けてしまいます。それで、家勝は伊吹山へ逃れそこで隠れ住みます。
 一方、弟の家治の方は東軍の徳川方について、その後とんとん拍子に次のように出世していきます。
①彦根の山崎山
②兵庫県の三田
③三田から鳥取県の若桜
④岡山県の成羽へ、
⑤成羽から肥後天草郡富岡城4万石の城主として、島原の乱後の戦後処理・整理(富岡城の修築など)
 島原の乱で焼け落ちた富岡城を修復して、わずか3年で寛永十八年(1641)に西讃の城主に指名されます。丸亀にやって来たのは翌年寛永19年9月のことです。家治が丸亀へ来たときは、生駒さんの時の城は、一国一城令でこわされています。寛永四年(1627)の隠密の報告書にも、丸亀に城があったという記録はありません。幕府からは「城地は見立てて決定」と指示されているので、どこに城を構えても良かったのです。家治の築城術を評価していたようにも思えます。
成羽愛宕大花火の起源

それでは、どこに作るのか?
 
周囲のお城の立地条件を参考にしてみると、高松城、今治城・岡山城・福山城・三原城は、水城がほとんどです。近世に入って瀬戸内沿いに築かれたお城は、海に開かれた性格を持ちます。海上交通を監視・防衛すると同時に、交易拠点としての機能ももった水城が主流になっていたのです。さらに、山崎家治は、彦根出身で琵琶湖の水上交通の重要性は肌身で感じていたはずです。内陸にお城(城下町)を築こうという考えは、なかったでしょう。近世の城は、海に開けて、背後に経済的後背地を持つという条件で選ぶというのが流行になっています。
 家治は、初め三野郡勝間(高瀬町)の仮の館に住み、 城地を決めるため琴弾山(観音寺市)・下高瀬(三野町)・下吉田(善通寺市)を中心に領内を見てまわります。候補地としてあがったのは次の4ヶ所だったようです。
①観音寺の琴弾山
②高瀬の下高瀬
③多度津
④丸亀の亀山
4つの候補地のプラス面とマイナス面を検討しておきましょう。
①の観音寺については、琴弾八幡の門前町として活発な海上交易行う港があります。生駒時代には観音寺に枝城もありました。しかし、地理的に西に偏ります。また、瀬戸内海の海上交易路という海のハイウエーからは、庄内半島などがあり奥まった位置になります。
②の高瀬は、地理的には領土の真ん中です。しかし、当時は三野平野は大きな入り江でした。後背地が小さく将来性的には不安が残ります
③は、中世は香川氏が拠点としていた所で、居館(山城は天霧城)があった現在の桃陵公園が候補地となります。
④は領地の中で、最も東の端ですぐ東は高松藩です。地理的な偏りはありますがヒンターランドは広大な丸亀平野が金毘羅に向かって広がります。また、目の前の塩飽は海のハイウエーのサービスエリアとして、繁栄しています。家治の中では、③と④が最終候補として残り、最後に「亀山に城を築く」という決定がされたのではないかと私は考えています。 老臣たちは青山幸成の意見を参考にするよう進言しますが、家治は自説を守り亀山を選んだと伝えられます。

 家治は新城建設地を丸亀として幕府に報告します。
そして、幕府から下の「丸亀城取立に付いて老中連署状」ををもらっています。ここには次のように書かれています。
丸亀城取立に付いて老中連署状

丸亀城取立候について、銀三〇〇貫目これを下され候、すなわち大坂御金奉行衆え、添状相調え越候間受け取らるべく候、然れば差し当たり普請の外は、連々以て申しつくべきの旨仰せいだされ候、因って故当年参勤の儀は御赦し置きなされ候間、其意を得られ可く候、恐々謹言
二月六日                 阿部対馬守重次(花押)
阿部豊後守忠秋(花押)
松平伊豆守信綱(花押)
山崎甲斐守殿

「丸亀に城を築くについて銀三百貫をお前にやる。大坂の御金奉行からもらえ、そこへ添状は出してあるから」といった意味です。最後に当時の老中3人の花押があります。新城建設の補助金300貫が幕府から出されていることは驚きです。各藩のことは各自で取り仕切れという建前から、お城は全て自己負担で建てられるものと思っていたのですが、そうではないようです。
幕府からの「銀三百貫」というのは、どのくらいの価値なのでしょうか?
家治が富岡にいた頃の記録に「米一石=銀35匁」というのがあります。一石=一両で計算すると300貫÷35匁=8571石で約8570両ということになります。山崎藩の年間税収の1/3程度のようです。3人の老中の名前と花押が並び、最後にあて先の山崎甲斐守殿と記されています。これが家治のことのようです。

 家治が作った丸亀城がどんなものだったのか見ていきましょう
幕府は正保元年(1644)、二回目の国絵図・郷帳の提出を諸大名に命じて、同時に城絵図も出させています。
これが絵図が、正保の国絵図と城絵図です。山崎家治が丸亀城の再築城を開始するのは寛永19(1642)年9月のことでした。
1 讃岐国丸亀絵図
丸亀城(正保の城絵図) 
再建が進む丸亀城の様子が幕府に提出した城絵図には描かれているはずです。この絵図は、国立公文書館のデジタルアーカイブスでも見ることができて拡大・縮小が自由にできます。
1丸亀城 縄張図G
城郭部分を拡大すると上図のようになります

これで、丸亀城の当時の縄張りを見てみると次のようになります。
①亀山の周囲に、東西に28間、南北は東は216間・西190間、幅20間の堀をめぐらし
②山に石垣を積み立てて三ノ丸、その上にまた石垣を積み本丸とニノ丸がつくられ
③本丸・ニノ丸の隅には二層の櫓を建て、櫓の間は渡り廊下をもつ多聞塀で連絡されていた。
④本丸は山頂西寄りにあり、南北29間、東西は南方で23間、北方では南より約10間の長い鍵形で、
⑤北側中央には三層の櫓(矢倉、現在の天守閣)が設けられ、
⑥ニノ丸の南側中央には二層の櫓、東側には櫓門がつくられていた。
⑦当時の大手門は南東にあり、三ノ丸の南に続いていた。
⑧山の北側には藩主の居館と思われる山下屋敷の記載がある。
1 丸亀城 生駒時代

生駒時代の丸亀城


これを生駒時代と比べてみる比べて見て、研究者は次のように指摘します。
①天守台などのある位置が違っている。
②二の丸が生駒時代よりも狭くなっている。
③山崎城は、本丸と二の丸の周りに新しく三の丸が作られている
④「五の郭」が山下屋敷となっている
⑤生駒時代の城は「一の郭、二の郭、三の郭、四の郭、五の郭」とあったのが、山崎時代の城では、本丸、二の丸、そして三の丸が回りを取り囲んでいるようになっている。
ちなみに現在の丸亀城では、山下屋敷はありません。
 次に、丸亀城の断面図を見てみましょう。
1 丸亀城断面図

黒い部分が生駒時代のもので、白い部分が山崎時代のもので、東側から見ている図です。
①生駒時代の黒い部分は、天守台が一番上にあって、その下に一の郭があります。
②山崎さんの城は、この一の郭より5,6mぐらい上げて本丸を造っていることが分かります。
③二の丸は本丸の東側と北側にあって南側にはありません。
④三の丸は二の丸と本丸の周囲に造られています。
発掘調査で、現在の石垣側の端から3mぐらい入ったところを掘ってみると、生駒時代の城の石垣の跡が出てきました。ここからは山崎時代の本丸が5,6mかさ上げしたことがうかがえます。

出来上がった石垣の上に建ち上がった天守閣はどんな姿だったのでしょうか?
1 丸亀城天守閣 山崎時代

資料⑧「天守復元立面図」は、左の図が西側から見た天守閣で、右が南側から見たものです。左の図の一階の部分に白いところがありますが、これは多聞櫓のあったところで、幅二間半の廊下のような多聞櫓がこの天守閣に続いていたところです。
もう一度、山崎藩時代の城郭図を見てみましょう 
讃岐国丸亀絵図2

よく見ると斜面であった城の北側(海側)部分に、石垣が見えます。
 張り出して石垣を築いたので、そのために必要な土や石は、方々から集めています。たとえば内堀を東と西で山麓まで広げた際に掘り出した土や、山下屋敷の土をとって上へ運んだようです。こうして山麓直下まで堀を造れば、山下屋敷へ山伝いに入ってくることを防げます。張り出した石垣は上手な石工が見事な勾配を造りました。扇の勾配といって全国でも有名な石垣になっています。
   これは瀬戸内海をゆく船からは、良い目印となったでしょうし、モニュメントの役割も果たしたかもしれません。古墳時代に明石に築かれた五色塚古墳の石葺が、沖ゆく船への権威モニュメントとなったのと同じような効果があったのかもしれないと勝手に考えています。
丸亀城 正保国絵図拡大

丸亀城は、石垣の美が特色の一つとして挙げられます。    
先ほど見たように家治は、徳川家が復興した大阪城の天守閣石垣の入口周辺を担当しています。石垣作りには定評があったようです。丸亀城に石垣にも、それは活かされたのでしょう。この石垣を築くのに、家治が用いたのが羽坂重三郎だと伝えられています。
丸亀散歩~丸亀城を訪ねて(2015 11 21) - なかちゃんの断腸亭日常
伝重三郎の墓
彼の墓は、城の石垣の余材を用いたと云われる「伝重三郎の墓」が南条町の寿覚院にはあります。墓は全面に字が刻まれていたようですが、今は読み取れる字は少なく、「南無阿弥陀仏・為・第二回忌・正保三年八月三日」がかろうじて読みとれるようです。
  ここからは「南無阿弥陀仏」とあるので、真宗信者であったこと、正保3年が2回忌になることなどがうかがえます。お城の再建中に亡くなっていることになります。彼の生・没年、経歴等素性は、史料がないのではっきりとしないようです。石工ではなく、山崎時代の普請方で、城の縄張りをした人ではなかろうかという説もあることを丸亀市史は紹介しています。
   この石垣は、技術的に難しい急勾配の工事だったようです。そのためか石垣が何度も崩れます。家治に続いて俊家の時代には、石垣の修理工事や、堀を浚い、櫓を建てるなどの普請真性が幕府に出されています。幕府に修理を申し出て許されたのが資料⑩の史料です。
折りたたんだ文書なので、下側は逆向きになります。これが「修築についての老中の連署状」です。
1丸亀城 修築についての老中の連署状

丸亀の城の三の丸坤の角の石垣破損について、同所の櫓の壊れた石垣の築き直し、櫓立てること、並びに親甲斐守家治が上意を伺ってあった所々の普請の内、石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣等、同じく東南の堀浚えの事、絵図のとおり其意を得侯、もっとも前の奉書の趣を守られ、普請連々以て申し付けられ可く候、恐々謹言
慶安二丑正月二十三日                 阿部豊後守忠秋(花押)
  阿部対馬守重次(花押)
山崎志摩守殿                             松平伊豆守信綱(花押)
意訳変換しておくと
丸亀城の三の丸坤の角の石垣破損について、この箇所の櫓の壊れた石垣の築き直しと、櫓を建てること、について以前に家治から伺いがあった。これに対して石垣・櫓門・多門・山下の屋敷構えの石垣や東南の堀浚えの件についても、絵図のとおり普請を行う事を申しつける。

先ほど見た再建許可所である「丸亀城取立に付いて老中連署状」と差出人の3人の老中名は同じです。しかし、あて先は山崎志摩守となっています。初代の家治が亡くなって二代目俊家に代替えしています。この文書が出された前年の慶安1(1648)3月17日に、初代丸亀藩主山崎家治は55歳で亡くなっています。つまり家治によって築かれた石垣は、すぐに崩れたことになります。 お城の改修には幕府の許可が必要です。この文書は、丸亀藩からの許可申請に対する幕府からの許可状です。この達しに従って普請が行われ、堀浚えには八月初めから取り掛かり九月に終わり、橋も九月末には完成したようです。
山崎家三代の城主の統治年数を見ると、僅かな期間で交替したことが分かります。
丸亀藩山崎家領主一覧

山崎家治は慶安元年(1648)に55歳で没し、子の俊家が跡を継ぎますが、俊家も三年後の慶安4年に35歳で没します。このとき嗣子虎之助治頼は三歳です。そして、治頼も明暦三年(1557)3月6日に没し、山崎家は所領没収されます。これに先だって、俊家の弟の豊治が、6000石を分けられて仁保(仁尾)に居住してました。彼は備中成羽で五〇〇〇石を賜り、 以来その子孫は成羽領主として明治維新を迎えることになったようです。
  さて、山崎藩によって再建・改修された丸亀城はどうなっていくのでしょうか。それはまた、別の機会に・・・
丸亀城絵図3.33jpg

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
   「直井武久 丸亀城について  県立文書館紀要創刊号」

坂本龍馬 まとめ - 速魚の船中発策ブログ まとめ
龍馬亡き後に、海援隊を再組織する長岡謙吉(左端)
 前回までに鳥羽伏見の戦い後に、再結成された海援隊の動きを見てきました。それは、海援隊が塩飽と小豆島の天領を自己の占領下に置くという戦略でもありました。隊長の長岡謙吉の思惑は成功し、小豆島では、岡山藩の介入を排除しながら、塩飽では小坂騒動を平定しながらこれらの島々を占領下に置くことに成功します。こうして、次のような組織系統が形成されていきます。
①塩飽に八木(宮地)彦三郎
②小豆島に岡崎山三郎(波多彦太郎)
この二人を統治責任者として配置し、丸亀(海援隊本部)から長岡謙吉が管轄するという体制です。更にその上に、土佐藩の川之江陣屋が予讃の「土佐藩預り地」を統括するという指揮系統になります。
長岡謙吉 - Wikipedia
長岡謙吉
海援隊隊長の長岡謙吉は、丸亀で何をしていたのでしょうか?
彼が郷里の者に宛てた私信(2月13日付け:近江屋新助宛)には次のように記されています。
私は、高松征伐の先発として、高松城占領に向かったために小豆島や塩飽諸島のことには関わらなかった。讃岐の島嶼部を3分割して、小豆島は波多彦太郎、塩飽は八木彦三郎にまかせ、私は丸亀の福島にいて全体を統括した。公務の合間には、私塾を開いて京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授けた。時折管内の本島、草加部(小豆島)を巡視したようで、その際には塩飽の土民が上下座して敬ひ拝する

ここには長岡は、「丸亀の福島にいて全体を統括」と記されています。彼が拠点の宿としたのは、太助灯籠などの灯籠が立ち並ぶ丸亀港の東側にあった旅宿「中村楼」(平山町郵便局向かい)であったようです。ここは、金毘羅船頻繁に出入りする港に面した所で、多くの旅籠や店が軒を並べた繁華街でした。人とモノが集まり、情報と人の集積地でもあったところです。拠点とするのには適していたかも知れません。高松討伐の際に、土佐軍幹部が使った宿でもあるようで、何らかの協力関係があったのかも知れません。
丸亀新堀1
金毘羅船の出入りでにぎわう丸亀湊
また長岡は、次のように記しえいます。
 「私塾を開いて丸亀藩主の京極候の幼君を初め、同地の子弟に和漢洋の学問を授け」

最初にこれを読んだときには、「また大法螺を吹いているな、藩主の息子を教えるなどと・・」と思いました。ところが、これはどうやら事実のようです。
遍照寺 (香川県丸亀市新浜町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ
白蓮社があった遍照寺(丸亀市新浜町)
  海援隊本部は「白蓮社」に置かれとされてきました。
「白蓮社」は、現在の福島町隣りの新浜町にある遍照寺にあった御堂であることが、最近の丸亀市立資料館の調査で分かってきたようです。
丸亀新堀湛甫3

長岡の別の私信には1月27日、丸亀藩の要請により、「白蓮社」に私塾開塾し、長岡が「文事」を教え、「岡崎」が「武事」担当したとあります。門人約20人で、その運営には、丸亀藩の土肥大作や、金毘羅の日柳燕石、高松藩の藤川三渓が協力したようです。土肥や草薙燕石は、土佐軍の進駐によって、丸亀藩や高松藩の獄中にあったのを解き放たれた「元政治犯」でした。
  土肥大作は丸亀藩の勤王家で慶應2年以来幽閉されていたのを、1月18日に長岡謙吉が丸亀藩への使者として訪れた際に赦免されます。そして、陸路高松に進軍した丸亀藩兵(長岡謙吉も合流)を参謀として率いた人物で。御一新後の丸亀藩政改革の中で、重要な役割を担う立場にありました。土肥と長岡は、親密な関係にあったことがうかがえます。
DSC06658


長岡は、この時期に金毘羅さんから軍資金の提供を引き出しています。彼の1月下旬頃の書簡に、
「(1月)廿一日隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」

とあります。また、琴陵光重『金刀比羅宮』193 頁には、長岡謙吉の千両の借用証書が紹介されています。この返礼に、長岡は1月24日には、金毘羅大権現別当の松尾寺金光院の重役・山下市右衛門に「懐中銃」を進物として送り、親交を求める書状を送っています。これには千両に対するお礼の意味があったと研究者は考えているようです。
  また軍資金千両の使い道は、以下のように記されています。
「蒸気船壱艘 小銃五百挺 書物三十箱戦砲五挺」

 塩飽で組織した志願兵部隊の梅花隊の装備や海援隊の艦船購入に宛てられたようです。ちなみに鳥羽伏見の戦い以後に、再結成された海援隊のメンバーは操船も出来ませんでしたし、持ち舟もなかったことは以前にお話した通りです。
 なお、金光院は3月には神仏分離令により廃寺となり、金刀比羅宮は海援隊の統治下に置かれることになります。『町史ことひら 3 近世 近代・現代 通史編』400 頁には、明治3年(1870)9 月、長岡謙吉は融通された千両について個人による年賦返済を申し入れています。これにたいして金刀比羅宮は、借用証書を川之江の役所に返上し棄捐した記されています。

ここで海援隊の動きを年表を見てみましょう。(香川県史より抜粋)
1・20 塩飽諸島が土佐藩預り地となり,高松藩征討総督が八木彦三郎に事務を命じる
1・21 長岡謙吉が「隊士二人と象頭山ニ至り金千両ヲ隊中軍用ノ為メニ借ル」
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 金光院寺領(金毘羅大権現)が土佐藩預り地となる(丸亀県史)
1・27 丸亀藩の要請により、長岡謙吉が丸亀「白蓮社」に私塾開塾
1・25 直島・女木島・男木島3島が土佐藩預り地となる
2・ 9 朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出される
2・-  塩飽諸島で土佐藩が1小隊を編成し、梅花隊と名づける.
2・20 長岡謙吉が上京(長岡私信)
3・-  小豆島東部3か村(草加部・大部・福田)土佐藩預り地となる
4・12 海援隊が土佐藩から小豆島・塩飽鎮撫を正式に認められた
4・15 海援隊が占領管内に布令を出す(?)
4・29 土佐藩による海援隊の解散命令
5・17 小豆島や琴平は新設された倉敷県に編入
5・23 八木彦三郎が塩飽等を倉敷県参事島田泰夫に事務を引き継ぎ
・ 1 直島・女木島・男木島3島から土佐藩兵の撤退。 

ここからは1月末から2月中旬にかけて、土佐軍と海援隊の占領地の組織が形作られていったことが分かります。こうして、海援隊は海軍に必要な操船技術(塩飽水主)、兵力(梅花隊)、石炭の確保に成功したこと、さらに。金刀比羅宮から軍資金も調達していたのです。当初の狙い通りの成果を挙げたといえるでしょう。
長岡謙吉(海援隊第二代目隊長)の写真 | 幕末ガイド
長岡謙吉
長岡の私信には、切迫した情勢や戦闘的な描写は見られません。
四国にやって来て彼らは、一戦もしていません。長岡は、戊辰戦争のさなかも、丸亀に落ち着いて塾を開き、大漁を祈る塩飽島の臨時大祭の手配に腐心したり、小豆島の神懸山(寒霞渓)に登って景勝を楽しみ詩吟したりしています。また、土佐の近江屋新助には次のような私信も送っています
「どうぞどうそ御家内一同島めぐりニ御出可被下候、芝居入二御覧一度候一笑一笑」
「こんぴらさまへ御参りニ家内不残御出...」
「何も不自由ハナケレドモ女の字ニハ困り入申事ニテ 隊中の壮士時時勃起シテ京京ト申ニ困り入申候」
と、金毘羅大芝居見物に金毘羅参拝を誘ったり、と呑気な様子を書き送っています(慶應4(1868)年2 月13 日付け)。ここからは、長岡謙吉の立位置がうかがえます。
  
 また年月は分かりませんが、この頃に長岡謙吉が美馬君田(阿波出身で琴平で活動していた勤王家)に宛てた書簡(草薙金四郎「長岡謙吉と美馬君田」71 頁)には、次のように記されています。「當地」(丸亀?)で「書肆文具一切」を扱う店を開店したので、「鐵砲其他西洋もの一切」も販売するために「長崎之隊士へ申通し、上海より直買に為仕含に御座候」と、その営業計画が述べられています。
鉄砲を始め、西洋のあらゆるものを取り扱う貿易会社を開店した。長崎の旧海援隊に依頼して、上海から直接仕入れる予定である。

ここからは次のようなことがうかがえます。
①長岡謙吉は、塾以外に貿易会社を丸亀に開店していたこと。
②海援隊の長崎グループからの仕入れを考えており、彼らとの関係は持続していたこと
このような動きからは長岡謙吉の目指したのは、天領の無血開城であり、その後の平和的な戦後統治であったと研究者は考えているようです。
2丸亀地形図
当時の丸亀
私が分からなかったのは、2月20日に長岡が上京することです。
この辺りのことを、長岡は土佐の親友に次のように私信で伝えています。
2月20日に火急な御用があり、上京した。以後、京都に留ることになった。用件は正月以来、占領している塩飽・小豆島についてのことだった。この両島については、朝廷からの内命で占領・統治を行っていたが、各方面から異議が出るようになった。そこで、正式な任命状をいただけるように運動した結果、4月12日に土佐藩の京都屋敷御目附小南殿より別紙の通りの「讃州島御用四月十二日付辞令書」をいただけることになった。御覧いただくと共に、伯父や親類の人へも安心するように伝えていただきたい。以下略     四月十三日認             弟 殉 
廣陵老契侍史 
   
ここには次のようなことが書かれています。
①塩飽・小豆島の占領支配については、朝廷からの内命が海援隊に下りていた
②両島の占領について各方面から異議が出るようになったために2月20日、上京したこと
③その結果、4月12日に海援隊が小豆島・塩飽の占領軍として土佐藩から正式に認められたこと

しかし、以前にも指摘したとおり、2月9日には朝廷から土佐藩へ、讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書が出されて、岡山藩も撤退しています。天領をめぐる対立は解消済みと私は考えていました。どうして、上京し、朝廷に対して工作を行う必要があったのか、私には分かりませんでした。別の言い方をするのなら、2月20日から4月12日までは、京都にいて何をしていたのかという疑問です。まず、それをさぐるためにこの時に朝廷に提出した2つの建白書を見てみましょう。
  【建白A】石田英吉、長岡謙吉、勝間桂三郎、島田源八郎、佐々木多門の海援隊士 5 名の連名の建白書。
「元来貧地ニテ生活之為ニ而己終身日夜困苦罷在候上徳川之暴政苛酷ニ苦シミ難渋仕候儀見聞仕実ニ嘆敷奉ㇾ存候既ニ先達テ四国近海塩飽七島之居民私怨ニ依テ紛擾争闘及民家ヲ放火シ即死怪我人夥敷有ㇾ之打捨置候ハハ如何成行候モ難ㇾ計早速同所ヘ罷越悪徒ヲ捕窮民ヲ救人心鎮定致候段於二播州一四條殿下(遠矢注:中国四国追討総督・四条隆謌)ヘ御達申上候通ニ御座候塩飽スラ如ㇾ此ニ御座候得ハ況テ佐渡ヶ島新島三宅島八丈島ハ流人モ多ク罷在兼テ人気モ不穏此節柄別テ貧窮ニ迫リ擾亂仕候儀眼前ニ御座候間」、
  意訳変換しておくと
天領の島々はもともと貧困で、生活のために日夜困苦しています。その上、徳川の暴政苛酷に苦しみ難渋してきました。私たちが見聞したことも実に嘆かわしきありさまです。先達っては、四国塩飽七島の島民が私怨のために紛争を起こし、民家に放火し、使者や怪我人が数多く出ました。(小坂騒動のこと)。これを打捨てて置くことはできませんので、早速出向いて、悪徒を捕らえ窮民を救い、人心を鎮めたところです。このことについて播州一四條殿下(中国四国追討総督・四条隆謌)へ報告した通りです。塩飽でさえもこのような有様です。佐渡ヶ島・新島・三宅島・八丈島ハ流人も多く、不穏な時節柄なので貧窮も加わり騒乱が起きることが予想されます。
 そこで、御仁政の趣旨を布告すれば彼らは感涙することでしょう。私どもは先年、彼地に行って民俗や民情を調査いたしました。(真偽不明)。そこで、私たちはそれら島々へ渡り「布告」し「民心ヲ鎮定」を行いたいと考えます。島々には徳川の命を受け航海術を修練した者もいます。(長崎海軍伝習所における塩飽水夫などのこと?) さらに屈強な者を選抜し航海技術を伝授し、将来的には海軍ヘと発展させるように、仰せ付けいただければ兵備も充実することでしょう。

【建白B】長岡謙吉と石田英吉の 2 名連名の建白書
「先般、塩飽七島の島民の紛争について、私どもが鎮撫したことについて、播州で四條殿下ヘ報告いたしました。この島民達を朝廷の海軍ヘ採用するように献策いたします。讃岐の小豆島も塩飽と同じように、鎮撫中ですので、この両島ともに鎮撫命令を下し置きいただけるようにお願いいたします。以上」

 この2つの建白書(A・B)は2月中(日付不明)に、土佐藩ではなく新政府に対して出されています。ここがまずポイントです。交渉相手を土佐藩ではなく、直接に新政府を相手としていることを押さえておきます。
建白書Aでは、塩飽での騒動鎮圧と平定の実績を報告をした上で、その支配権の追認を求めています。つまり、新政府による海援隊の塩飽占領支配の保証です。いままでは、土佐藩から委託・下請けされた権限だったのを、新政府から直接認められることで、より強固なものにしようする思惑があったことがうかがえます。つまり、これは岡山藩などに対する対外的な意味合いよりも、土佐藩内部の海援隊による塩飽・小豆島東部占領支配に対する異論封じ込めを狙ったものだったとも思えてきます。
 そして、塩飽の水夫たちを、新政府の海軍に重用することを求めています。さらに、天領であった佐渡島や八丈島・三宅島を、海援隊が占領支配することも新たに求めています。
全体的に見ると、建白の意図は、島々の水夫の「海軍」への徴用とそれを理由とした海援隊による塩飽・小豆島鎮撫の正当化にあると研究者は考えているようです。
 平尾道雄氏は、「坂本龍馬 海援隊始末記』253 頁)で次のように指摘しています。
「諸島鎮撫の目的は、ただ「王化を布く」というだけではなく、すすんで土地の壮丁たちを訓練して、新政府のために海軍の素地をなさんとしたところに終局の目的があったようである」

建白書のAとBを比較してみると、Aは小豆島について何も触れていません。それに対して、Bは小豆島鎮撫の実績を取り急いで長岡と石田だけで、追加報告したものと研究者は考えているようです。そうすれば、A→Bの順に得移出されたことになります。
龍馬と安田の海援隊士 高松太郎・石田英吉展 | 高知県の観光情報ガイド「よさこいネット」

 また、一番最初に名前が出てくる石田英吉は、鳥羽伏見の戦い後に長岡や八木彦三郎らが丸亀に渡った時に乗船した土佐船「横笛」の船将です。ここからは、以後はそのまま備讃瀬戸グループに合流したことがうかがえます。しかし、この建白直後に、備讃瀬戸グループから離脱し長崎グループに鞍替えしています。意見が合わなかったようです。そして、戊辰戦争へと石田は参戦していきます。
 この建白書を出した後の4月12日、長岡謙吉に次のような正式な任命書が渡されます。渡された場所は、土佐藩の京都藩邸で、土佐藩大監察小南五郎衛門から渡されます
      長 岡 謙 吉
爾来之海援隊其儘を以て讃州島に御用取抜勤隊長被仰付之
辰四月十二日
八木彦三郎
波多彦太郎
勝間圭三郎
岡崎恭介
桂井隼太
橋詰啓太郎
島橋謙吾
武田保輔
得能猪熊
島田源八朗
島村 要
堀 兼司
長岡謙次郎
右面々讃州島に御用被仰付長岡謙吉に附属被仰付之
この文書からは、次のようなことが分かります。
①長岡謙吉の配下いた海援隊12名が「讃州島ニ御用被仰付 長岡謙吉ニ附屬被仰付候事」となったこと
②長岡謙吉が正式に海援隊隊長となり、讃州島(塩飽・小豆島)の占領統治者に任命されたこと
「海援隊其儘ヲ以テ」とあるので、「新海援隊」ではなく、旧来からの海援隊を引き継ぐのは長岡であることも認められたことになります。「讃州島」とありますが、実態は「塩飽」に限定されず備讃瀬戸全体にまたがるエリアであったことを研究者は指摘します。
 ここからは、2月20日に上京して以来、新政府に働きかけていた「塩飽・小豆島鎮撫」が、ある意味成就したことを意味します。しかし、長岡が望んだように新政府からの任命状ではなく、土佐藩からの任命状であったことは押さえておきます。

次なる疑問は、次の通りです
①なぜ海援隊本流の長崎グループ(古参メンバー)ではなく備讃瀬戸グループが、この時期にわざわざ「爾来之海援隊其儘」の海援隊であると、土佐藩は認定したのか?
②長岡の海援隊の動きを土佐藩は、どのように見ていたのか?

それを解く鍵は、海援隊に対して土佐藩から出された通告文にあるようです。
①占領地に於ける租税については、申告された人口、戸数等に基づき検討中であるから決定次第連絡する予定であること、
②宗門改(キリシタン摘発を目的とする住民調査)を「川の江出張所」(川之江陣屋のこと)に提出すること
③海援隊士の経費は島々の租税により支給する予定だが、指示があるまで待つこと、
④「土兵」(梅花隊)の経緯や経費についても③に同じこと、
⑤学校の経費について③に同じこと、
⑥⑦商船・船舶については「従前のままになしおくこと」(詳細不明)
⑧船の旗号は「紅白紅旗」(土佐藩の旗)を使用すること
⑨諸事につき「川の江出張所」に伺いをたてること。

①③④⑤については、現地徴収して占領経費に使用してよいかという問い合わせへの回答のようです。土佐藩の回答は「まだ、現地徴収してはならない」という答になります。⑧の船の旗については、土佐藩のものを使用せよと云うことです。専門家は、「紅白紅旗(にびき)は土佐藩の船印であり、海援隊のオリジナルシンボルマークなどではない」(『空蝉のことなど』148 頁)と指摘します。あくまで、海援隊は土佐藩の配下であり、下請的な存在なのです。
アート短歌・気まぐれ文学館 海援隊旗

⑨は海援隊が独自に判断し、勝手な施策を行うなということでしょう。ここでも、土佐藩の配下であることをわきまえよとも読み取れます。
①③④⑤の現地徴収と経済的なことについては、塩飽諸島・小豆島等統治の占領費に土佐藩の財政が耐えられなくなったことが背景にあるようです。4月9日に小崎左司馬、毛利恭助(土佐藩京都留守居役)が連名で新政府の弁事役所に、占領地からの租税を運営費に充てたいと伺い出ています。このことと①③④⑤は関連するようです。たしかに、小坂騒動後の復興資金は、土佐藩から出されていました。
 『山内家史料 幕末維新 第九編』110~111頁には、占領経費が膨らんだ要因を小坂騒動により「人家漁船等夥敷焼失致シ 出兵救民之入費」で、復興支援費がかさんだことを挙げています。
 またその後5月9日に、土佐藩から再度伺いを出した文面には、次のように記されています。
「去四月民政御役所ヘ申出候處 右地租税之員數届出候様御沙汰有之則牒面寫ヲ差出申候」
「島島取締之儀兎角於弊藩難二取續候間御免之上可然御評議被仰付度奉存候」
意訳変換しておくと
4月に新政府の民政御役所ヘ申出たように、塩飽・小豆島の地租税の員數調査については写しを提出済です。」
「塩飽諸島や小豆島の占領管理については、財政的にもとにかく困難な状態で藩は苦慮しております。できれば本藩による管理停止を仰せ付けいただけるようにお願いいたします。
土佐藩は塩飽・小豆島の統治任務から撤退したいと新政府に云っているのです。ちなみに新政府は、これを却下しています。
20111118_172040437下津井ノ浦ノ後山 扇峠より南海眺望之図

当時の占領実態をうかがえるものとして『小豆郡誌』143 頁には、占領経費600円を受け取るため年寄・長西英三郎らが京都まで行ったものの、70日滞在しても受領できず空しく帰島したというエピソードが紹介されています。
 また、宮地美彦「維新史に於ける長岡謙吉の活動(補遺)」10 頁には、塩飽本島から小豆島へ梅花隊が派遣された際、十数人の旅費として「一分銀百円」が支給されます。本島で現地採用された隊士らは「わずかにこれだけの人數が、本島から小豆島に行くのに、これほどの大金をくれるのは、土佐は富んでいるわ、と非常に驚いた」というエピソードがあります。こうした放漫な支出も政費を圧迫したのかもしれません。
5 小西行長 小豆島1

 土佐藩の台所を預かる財務担当者にしてみれば、駐留経費も出ず、現地徴収も許されずに、藩の持ち出しばかりがかさむ「塩飽・小豆島鎮撫」からは、早く手を引かせたいというのが本音だったようです。私は「現地徴収」によって占領にかかる経費は充分賄われ、そこからあがる経費が土佐藩の財政を潤していたのではないかという先入観をもっていましたが、そうではなかったようです。土佐軍の「討伐・占領」は経済的には見合うものではなかったのです。
3 塩飽 泊地区の来迎寺からの風景tizu

 土佐藩は、藩主山内容堂の意向を受けて「高松・松山でも長期駐屯による民心離反防止、民心獲得のために次のような処置を行っています。
①松山城下で商家を脅した兵士の斬罪処分
②川之江で土佐藩兵により火災となった石炭小屋への金三十両の補償など
海援隊による小坂騒動鎮定なども、その延長上にあると研究者は考えているようです。
その背後には次のような思惑が土佐藩にはあったと研究者は指摘します。
「元々中央政府の土佐藩に対する高松・松山征討命令は土佐藩からの内願により実現したもので、土佐藩による高松、松山両藩の接収は「占領」と言うより「保護・救済」を意図したものである。その背景には、この時期すでに中央における薩長勢力の拡大に対抗するという底意がある。」

 つまり、土佐藩には領土的な野心や経済的な思惑はなく、高松・丸亀藩への討伐遠征は、薩長勢力に対抗するための四国勢力の団結を図るためのものであったというのです。それが、四国会議の開催につながっていきます。四国における指導権を土佐藩が握ること、そのためにも親藩である高松・松山を押さえ込むこと、そして土佐寄りの立場に立たせるようにすること。そのためには、征服者としての横暴な統治政策は慎まなければなりません。反薩長の立場に四国をまとめ、土佐が盟主とた四国十三藩の統一体をどう作り上げていくかという課題を、土佐藩の政策担当者は共有していたことになります。
  そうだとすれば、高松・松山藩の謹慎処分が解ければ、土佐占領軍が撤退することになんら異議は、ないでしょう。同時に、塩飽・小豆島から撤退することが次の課題になることは、当然のことでしょう。
1 塩飽本島
塩飽本島(南が上)
このような土佐藩の対応ぶりと、海援隊を率いる長岡謙吉の思惑は大きく食い違っていきます。
先ほどから見たように、備讃瀬戸の要衝の島々を占領管理下に置くことで、海援隊の存在意義は高まるし、新政府の水夫供給地とすることで海援隊の未來も開けてくると長岡達は考えていたはずです。塩飽からの早期撤退という土佐藩の意向に従うことはできません。そうなれば、土佐藩から離れ、自立・独立路線を模索する以外にありません。それが2月20日以後の長岡の上京と、新政府に対する塩飽・小豆島の占領統治の承認を得るという献策活動ではなかったのでしょうか。

4月12日に土佐藩から正式の任命書をもらうと、4月15日付で海援隊は占領管内へ次のような布令を出します。
布  令
御一新の御時節につき、御上に対して何事によらす捨て置かずに、連絡や報告を行うこと
一、昨年までの年具未納分について、いちいち詮議はしないので、各村で調査し、明白に分かる分については申し出ること
一、このような時節なので、当地で小銃隊を組織することになった。ついては、年齢17歳から30歳までで志願する者は兵籍に編入することにする。期日までに生年名前記入し、申し出ること。
 これについては、道具給料など迷惑をかけぬように準備すること
一、小豆島三ケ村御林については、期日を決めて入札を行う
一、直島御林、閏月5日に入札を行う
  それぞれの民兵の備えのための施策を仰せつける。入札を希望する者は予定額を記入し、申し出ること
以上、各村役人へもらさず伝達すること。この触書は、最後には下村出張所へ返却すること。以上。
四月十五日
長岡謙吉
波多彦太郎
八木彦三郎
草加部村
大部村
福田村
男木島
女木島
塩飽島
村々役人中

ここからは、次のようなことが分かります。
①これらの島々からの徴税減額を行おうとしていたこと
②現地志願兵の編成を計画していたこと
③そのためにかかる経費を、御林(幕府御用林)の入札で賄おうとしていたこと。
つまり、海援隊の活動に関わる資金も人員も「現地調達」しようとしていたことが分かります。さらに、この時点では「半永続的な占領」政策を考えていたこともうかがえます。これは、土佐藩の意向を無視したものです。

②については、すでに本島で現地の人名師弟たちを採用した「梅花隊」を組織していました。それを、占領地の全エリアで行おうとするものです。「土民を募集して兵卒を訓練し、共才能ある者は抜燿して士格にも採用」するという「人材の現地登用」策です。

4月18日に、長岡謙吉は8 ヶ条の海軍創設の建白書を新政府に提出しています。
①総督一名 :「宮公卿任之」
②副総督三名:「公卿諸侯任之」
③参謀十名・副参謀二十名:「草莽間ヨリ特抜ス」
④海軍局:「瀬海ノ地ニ於テ 巨厦ヲ造築ス兵庫蓋其地ナリ」
⑤局 費:「徳川氏封地中ニ就テ八分ノ三ヲ採リ局中ノ緒費ニ抵」「或ハ暫ク關西諸國ニ散在セル徳(川)領及ヒ旗本領ヲ収用スルモ亦可ナリ」、
⑥船艦:「徳川氏ノ戦艦ヲ収用シ諸費局中ヨリ出ツ」
⑦局中規律:「洋人數十名ヲ招請シ天文地理測量器械運用等一切ノ諸課ヲ教導セシメ或ハ一艦毎ニ教導師一二名ヲ乗ラシム而シテ學則軍律悉ク洋式ニ従フ」、
⑧生徒:「海内ノ列藩ニ課シ有才ノ子弟ヲ貢セシム」
 さきほど見た2月の建白書A・Bを土台にして、海援隊長としての所見を明確にしたものと研究者は考えているようです。天領占領を前提に、水夫徴用、費用の割当、幕府海軍の接収を行い、その土台の上に外国人教員と各藩子弟を瀬戸内海(神戸)に集め施設を作るという構想のようです。建白は短文で、具体性と情報量に乏しいものです。内容的には「近代海軍の創設」というより、海援隊の理念(「海島ヲ拓キ」)を拡張した「水軍」に近いものをイメージしているようです。⑧の生徒を「列藩」の「有才ノ子弟」から集めるのに対して、⑨の幹部である参謀・副参謀をわざわざ「草莽間ヨリ」選ぶとしています。これは、海援隊の幹部就任を想定しているようにも読めます。この建白が採用されることはありませんでした。

木戸孝允日記の慶應4年(1868)4月29日の条に長岡謙吉が木戸を訪れたことが記載されています。ここからは、4月末になっても長岡はまだ京都にいたことがうかがえます。2月20日に上京して以後、2ヶ月以上にわたって長岡は、丸亀を留守にしていたのです。

土佐藩のコントロールから離れ自立性を強める海援隊に対して、4月29日土佐藩は次のような解散通告を出します
「昨年深き思召有之、海陸援隊御組立相成候より、各粉骨を盡し、出精有之候處、爾後時勢變革、今日に至り候ては、王政復古、更始御一新の御趣意に奉随、一先御解放之思召有之候間、各其心得、隊中不漏様可被申聞候」。

 この解散命令は、長崎で、土佐家老深尾鼎・参政真辺栄三郎が、長崎グループ宛(大山壮太郎・渡辺剛八)に出しています。なぜ、長岡謙吉の備讃瀬戸グループ宛てではなかったのでしょうか。どちらにしても、長岡謙吉の海援隊長任命からわずか一ヶ月での解散になります。その背景には何があったか、研究者は次のように考えているようです。
ひとつの仮説として、長岡謙吉の土佐藩によるコントロール不能化の進行。
①土佐藩の方針を無視した年貢半減令
②現地徴用による独立軍隊化(梅花隊)
③長岡が丸亀藩の政治顧問に就任するなど、丸亀藩との密接化
以上からは草莽集団化していく海援隊を、土佐藩要人からは危険視するようになっていたと研究者は考えているようです。また、土佐藩には財政負担から塩飽・小豆島から撤退の意向があったことは、前述した通りです。
長岡謙吉書簡には、次のような記述が見えます
慶應4年(1868)1月
「此挙(塩飽・小豆島鎮撫)ハ暗ニ 朝意ヲ請ヒシ事ナルカ故ニ本藩ノ指示ニヨルニアラス」
慶應4年(1868)4 月 13 日付
「両島(塩飽・小豆島)之變は勿論公然たる総督並に朝命を奉じて取締候へ共俗吏之論も有之様に相覚え申候間猶又分明之上命を拝せん」
と書くなど、塩飽・小豆島占領管理を土佐軍の指示によるものではなく、朝意(朝廷の意向)に基づくものだと記しています。これは、土佐藩からの自立性を主張することにつながります。そういう目で見ると、4月12日付けの土佐藩による長岡の海援隊長任命は、海援隊が藩の統制下にあることを、再確認させ認識させるための「儀式」であったのかもしれないと研究者は指摘します。それを、長岡は無視した行動を続けたことになります。それを受けての解散命令だったようです。
  塩飽・小豆島の占領統治にあたっていた海援隊員や土佐人はどうなったのか?
 その後、海援隊メンバーは倉敷県等へ任官します。5月16日に、倉敷代官所は「倉敷県」に生まれ変わります。そして、塩飽諸島は6月14日に倉敷県の管轄となり、7月には八木彦三郎から倉敷県大参事島田泰雄に事務引継ぎが行われています。小豆島、直島、女木島、男木島も 7月に八木彦三郎から倉敷県へ事務引継ぎが行われています。つまり、海援隊の支配はわずか4か月間で終わります。
倉敷陣屋・代官所
倉敷代官所は現在のアイビースクウェアにあった

 倉敷代官所の旧支配地であった塩飽諸島、小豆島・直島・女木島・男木島は、土佐藩預り地でした。そこで鎮撫していた海援隊士たちは、そのまま倉敷県に任官することになります。つまり、海援隊員から県職員にリクルート(or配置転換)されたことになります。倉敷県の職員を見ると知県事:小原與一、以下、権知事(No.2):波多彦太郎、会計局:島田源八郎、刑法局:岡崎恭助、軍務局:島本虎豹など、計35名中32名が土佐藩出身で占められています。
 塩飽の責任者であった八木彦三郎も倉敷県設置と同時に、同県大属(NO5)となり、すぐに「金毘羅出張所御預り所長」(軍務、庶務、刑法、会計を兼務)に任命され、琴平に転出します。
天領倉敷代官所跡 - 本町7-2

長岡謙吉は、どうなったのでしょうか?
海援隊長ですから倉敷県の知事に就任したのかと思っていると、どうもそうではないようです。6月9日に新たに設置された三河県の知県事(No.1)に任命されます。その判県事(No.2)は、なんと土肥大作が指名されました。『愛知県史 資料編 23 近世 9 維新』124~125 頁には、次のように記されています。
「慶應四年六月 三河県赴任に伴う事務執行方法につき知事長岡謙吉より伺書写」(6月14日)には、「私儀兼テ敞藩ヨリ小豆諸島引渡方被申付有之候間、不日ニ相仕舞次第彼地ヱ罷越申候、此条前以奉申上置候」

とあり、突然に、知らない土地へ転出させられとまどっていることがうかがえます。
 「土肥大作と勤皇の志士展」パンフレット(丸亀市立資料館)には、土肥大作が三河県の判県事に任命されたのは、6月15日で、23日に赴任していることが記されています。
先ほど見たように、長岡と土井は高松城占領以後は非常に親密な関係にありました。ある意味、「丸亀の長岡謙吉私塾」の塾長と副塾長が三河県の知事と副知事に任命されたようなものです。二人揃って大栄転のように思えます。ところが長岡は、なぜかその月の28 日に免官されています。
倉敷代官所井戸 クチコミ・アクセス・営業時間|倉敷【フォートラベル】
倉敷代官所の井戸
倉敷県には、その後のどんでん返しが用意されていました。
翌年の明治2年8月に、土佐藩士は、倉敷県のポストから一掃されることになります。その経過は次のように記されています。
「如此人員ハ多キモ土州人ナレハ、原、慷慨ヨリ出デ、或ハ脱走シテ未帰籍不ㇾ成者有、都テ疎暴、政事上甚激烈ニ渉リ、人民大ニ苦シム 于ㇾ時七月初旬自二東京一被ㇾ召、小原、(略)上京、於二彼地一免職、餘ハ御用状態、八月十三日不ㇾ残免職被二仰渡一、即十五、十六之此より、逐々
出立、九月初悉皆引取ニ相成タリ」
意訳変換しておくと
このように免職されたのは土佐人ばかりであった。中には慷慨して脱走し、帰庁しなかった者もいる。まさに粗暴な政治的仕打ちであり、人々は大いに苦しめられた。
 ある職員は七月初旬に東京へ出張ででかけ、(略)上京中に免職される始末。8月13日から免職が言い渡され、十五、十六人が首を切られ、九月初めには、ほとんどの土佐人職員が職を失った。

『倉敷市史(第十一冊)』25 頁には
「土州藩不残御引払之御沙汰有之、知事様東京へ御出張被遊、其儘本国エ御引取」

とあります。琴平で在職中の八木以外の全員の土佐出身の職員に免職を言い渡し、知事は東京に引き上げ、そのまま本国に引き取った、というのです。
 また、福島成行「新政府の廓清に犠牲となりたる郷土の先輩」『土佐史談』第 32 号(1930 年)には、倉敷県庁勤めの岡崎恭介が、東京出張中に「職務被免」とされ、京坂を彷徨っているうちに路銀を使い果たし宿泊にも困るようになり、各地の不平士族と親密に結びついていく過程が克明に語られています。
 ここからは、配置転換されて1年後には、土佐人はほとんど全員が解雇になったことが分かります。この思惑はなんなのでしょうか。
①長岡を除く主だったメンバーは倉敷県へいったん配置転換し
②長岡はメンバーから引き離され一人だけ三河県知事に任命され、直後に免官となり
③その後、時を置いて倉敷県に再雇用した全員を解雇する
という新政府の筋書きが見えてきます。
このような措置に対する怒りが、先ほど見たように土佐人を自由民権運動に駆り立てる一つのエネルギーになっていくようです。
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
    テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)


 
6塩飽地図


 前回は海援隊による小豆島東部の占領について、お話ししました。今回は、塩飽の占領支配について見ていこうと思います。その際に避けては通れないのが「小坂騒動」です。これは土佐軍が、高松城占領している間に、塩飽本島で起きていた騒乱です。この事件に対して、海援隊が、どんな事後処理をして塩飽を占領下に置いていくのかを今回は見ていくことにします。
テキストは遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)です。
本島集落

まず塩飽本島の小坂集落と人名との関係を見ておきましょう
 小坂集落は、安芸からやって来た能地(のうじ)系の家船(えぶね)の漁民達が陸上がりして作った「出村」と研究者は考えているようです。江戸初期に安芸の能地(現三原市)からやってきて、小坂浦に居着いたのが始まりのようです。家船の漁業風俗も残っていました。人名達は、もともとは「幕府のお抱え船団」として、変なプライドをもっていましたからもともとは漁業はしませんでした。しかし、周囲の海には広大な漁業権を持っていますから、それを貸し出すことで、多くの収入も得ていました。そこへ、家船漁民がやってきて「出村」と形成したのが小坂集落です。ですから日頃から差別を受けていたのです。
3 家船3

 一方、人名株を持っている上層階級は、土地からの上がりだけではなく、海からの運上金や漁業権も持っていました。だから株を持たぬ民衆は事あるごとにお金を払わなくては何もできません。「人名による自治」と云われますが、それは人名による人名のための統治であったとも云えます。
3塩飽 ieyasu 印状
 
 幕府からすれば、塩飽に650人分の水夫と船をいつでも提供することを義務づけていたことになります。それは、平和時には朝鮮通信使やオランダ総督の航海への水夫動員や、アメリカに赴く咸臨丸への水夫提供などがありました。ところが幕末の動乱期になると、長州遠征のような実戦への輸送部隊としての動員が命じられるようになります。
 これに対して、幕府も不安定で長州へ従軍することの危険もあるので、人名達はみな嫌がって尻込みします。それで、小坂の漁民に頼んで長州に派遣します。つまり、人名は自らが出向くのではなく、支配下にある漁民達に水夫として従軍させたわけです。アテネの古代民主制は、従軍すれば参政権が得られるシステムでした。小坂の漁民達も従軍を根拠に、人名枠の配布をもとめます。それも、たった2名分です。これに対して人名側は、これも認めようとしません。そういう中で、鳥羽伏見の幕府軍の敗北と「御一新」のニュースが伝わります。それを聞いて、日頃の憤懣が爆発した小坂漁民は、塩飽勤番所を襲撃します。その仕返しにその翌日、人名勢が小坂浦を焼き討ちします。これが小坂騒動です。
 この事件では18人の小坂浦の漁民が殺され、人名の人たちによって全村が焼き払われました。小坂浦の墓には、この時の犠牲者となった18人の名前が彫られた碑が残っています。その碑も人名の供養塔と比べると格段の差があります。本当に小さな碑です。ここにも、人名と小坂浦の漁民の関係がよく表われているのかもしれません。
本島 小坂騒動記念碑
小坂騒動の犠牲者一八人を弔う墓(本島 小坂)

研究者は、小坂騒動の経緯を、次の一次資料から時系列に並べます
①人名側の文書「塩飽勤番所仮日記」塩飽人名所有。現在閲覧不可)
②小坂側の文書「八島神社誌」(小坂所蔵)

「慶應4年1月17日」
:鳥羽伏見の戦況(徳川軍敗走)を知った小坂浦漁民が、身分制打破(差別撤廃要求)の好機到来と考えて、泊浦の人名有力者7家に代表を派遣して、人名株2人分の譲渡を要求。これを人名側は拒否。
「1月18日」
人名代表が小坂浦にて妥協案(「代り人名」の譲渡)を提示。これを小坂側は拒否。小坂浦漁民が徒党(約300人)を組み、泊浦の年寄等の邸宅に乱入・打壊を働き、勤番所へ強訴。年寄の依頼で、2人の住職(正覚院観音寺、宝性寺)が仲裁、解決を約束。これで、小坂浦漁民は撤収。
「1月19日」
人名側の拠点である塩飽勤番所は、臨戦体制を整える。一方、小坂浦漁民は勤番所の朱印状を奪うことを計画して、武装蜂起。この時に海岸線を通らず裏をかいて泊山を越えて奥所地区を襲撃し、背後から勤番所に迫るルートで進軍。これに対して、惣年寄・高島惣兵衛が招集した笠島浦若衆が勤番所の備付の火縄銃20挺で、八幡神社で迎撃し戦闘状態へ。人名側(大倉忠助)と小坂側(与之助)の双方に死者がでますが、銃のない小坂勢は、総崩れとなり退却。人名側の高島惣兵衛は、小坂勢の再度の襲来に備えて塩飽11島に召集命令(まわしぶみ)発令。それに応えて、夜までには各島々から人名衆が集まってきます。この時に動員された島人は千人程度だった。木烏神社に本営設置して、小坂集落襲撃を決定。
「1月19日夜~20日未明」
:人名勢が小坂浦を襲撃、浜辺の船200余りを奪い逃亡を阻止し、全集落を焼払う。小坂側犠牲者18名。生存者約480人全員が勤番所の牢・物置等に収用。
「1月21日」
2日にわたって小坂集落を燃やし尽くした火の手は、21日になってようやく鎮火。23日頃になって人名衆は来迎寺に集まり、今後の対応を協議中。
来迎寺 (香川県丸亀市本島町 仏教寺院 / 神社・寺) - グルコミ


 この模様を対岸の丸亀から眺めていたのが、高松城占領のために丸亀に集結した土佐軍でした。
丸亀からは牛島があるので、直接は小坂集落は見えません。しかし、燃え上がる炎は夜空を焦がし、異変は丸亀にも伝わったようです。小坂集落が襲撃された1月19日は、高松城占領のために土佐軍が丸亀に集結していた日にもなります。軍の参謀を務めていたのが後の板垣退助です。
 塩飽・小豆島東部は天領あつかいとされ、朝廷による没収地の対象となっていました。そのため高松城占領後に、土佐軍は海援隊のメンバーを小坂集落に派遣します。その時の責任者だったのが八木彦三郎になります。彼は、塩飽後には鎮撫として金毘羅に乗りこんでくることになります。私が、注目する人物です。彼について、詳しく見ておくことにします。
24 宮地彦三郎
海援隊隊員 八木彦三郎について 

坂本龍馬が中岡慎太郎と京都の近江屋の二階で襲われたのは、1867(慶応三)年11月15日5ツ半(午後9時)過ぎだったとされます。その日の昼頃に、龍馬や慎太郎に近江屋の前で会った一人の海援隊士がいました。それが八木彦二郎です。八木は11月11日頃、長岡謙吉と共に土佐藩主山内容堂の命を受けて、英国の公使に信書とみやげを贈るために大坂に下っていました。その使命を終えての帰途、近江屋にいた隊長の坂本に報告に来たようです。その時、坂本は無用心にも、近江屋の二階から顔を出していたと云われます。映画などで演じられるシーンを再現すると
  「おお、八木かっ無事帰ったか。ご苦労じゃった。まあ、上がれ。お前にも話したいことかある』龍馬は2階から八木の顔を見てそう言った。脇から中岡も顔を出し『上がれ、上がれ」と声をかけた。八木は『いや、まだ旅装のままですから、 ひとまず、帰宿して、そのうちうかがいます」と答えて、その場は別れた。帰宿して、しばらくして「今、近江屋に刺客が入り、坂本、中岡の両隊長がやられた」との報を受けて、あわてて馳せ参したが、坂本は一言二言ばかり話して問もなく忠が絶えた。

当時、八木は大橋慎二(橋本鉄猪)という土佐の佐川出身の同志と某ソバ屋に下宿していたようです。短銃を懐にして同志と共に、京都霊山に龍馬と慎太郎の葬儀を行ないます。その後、下手人と信じた紀州の三浦休太郎を、油小路花屋町天満屋に襲っています。八木彦二郎は龍馬の元気な姿を、最後に見知っていた海援隊士ということになります。
八木彦三郎の生い立ちから見てみましょう
八木の本姓は宮地です。諱は真雄、幼名は亀吉又は源占、のち庫吉と称し、後年梅庭、梅郎、如水などと号したようです。1839(天保十)年10月15日、高知城下の新町、団渕に生れます。田渕は、武市瑞山が道場を開いたところで、堀割に近い商業ゾーンの一角に当たります。父は宮地六崚真景という藩士で、兄常雄、妹きわの3人兄弟です。彼は、近くの徳永千規に国学を学び、また田内菜国にも国学、漢学の手ほどきを受けます。
 さらに佐藤一斎門の陽明学者南部静斎や、洋学者として名をなした細川潤次郎にも和漢の学を学んだと伝えられます。加えて砲術は、海部流の能見久米次、藩の砲術師範・田所左右次に人間してその技を学び、剣は当時本町「乗り出し」に道場をかまえる麻田勘七に師事します。その中でも砲術に熱心だったようです。病身の母を助け、学問にも精進したので、藩から褒詞や褒賞をもらったこともあるようです。これだけ見ると優秀な模範少年だったことがうかがえます。
   十五、六歳の頃、御普請方一雇、川普請、港普請に従事します。
この土木工事の経験が、後年の琴平での架橋工事や堤防工事に活かされるようになるのかも知れません。その後は、上方修行を経て、1861(文久元)年 新規御召出しにより、下横目(警察官兼裁判官)となって上京します。この京都勤務中に出会ったのが坂本龍馬です。龍馬は、勝海舟の口ききで山内容堂から脱藩の罪を許され、形式ばかりの七日間謹慎を命ぜられます。その時の警護役が、彦二郎だったようです。彦次郎は龍馬を大阪から京都へと護送しますが、その間、退屈であった龍馬は、当時の世情について八木と話し合う機会があったのかもしれません。 
 龍馬との出会いは、彼を脱藩へと駆り立てます。帰京した八木は、京の藩邸を脱走します。
彼は名を変え、五条坂の陶器商吉兵衛方へ通勤し、絵付けの仕事などをしながら、夜はひそかに土佐の北添倍摩などと連絡をとりながら、志士活動に挺身したようです。しかし、そのうち大病にかかり佐々木定七の養子となり、佐々木三樹進と名のったり、梅国家の用人となり神田淳次郎と名を変えて、辛酸の日々をおくることになります。
1867(慶応三)年6月、坂本龍馬と後藤象二郎は、長崎を立って上京中でした。
八木は、後藤を旅宿に訪ねて、その心中を述べ、海援隊に入ることを願い出ます。龍馬にもその願いは通し、許可されたようです。長岡謙吉は、八木の境遇を気の毒に思ったようで、支度料十両と絹の袴一着、オランダ製の時計を贈ったといわれます。以後、彼は長岡と行を共にする海援隊員として八木彦二郎を名のるようになります。
Fichier:Kaientai.jpg — Wikipédia
海援隊集合写真 一番左が長岡謙吉 真ん中が坂本竜馬

龍馬暗殺後の海援隊は、メンバーが分裂して消滅状態になっていたようです。
このような中で、鳥羽伏見の戦いの後に、長岡謙吉と八木彦三郎はチャンス到来と、土佐出身の志士たちに呼びかけて海援隊を再結成します。そして、高松討伐を命じられた土佐軍を助けながら勢力を拡充するという戦略を立て、四国川之江にやってきます。そして、土佐軍の偵察・斥候活動などをおこなっていたようです。高松城占領の際にも、事前に高松周辺の上陸地点の下見などを行っています。
 その活動のリーダーが八木彦三郎でした。彼に率いられた海援隊が、偵察のために鎮火したばかりの小坂に上陸したのは1月22日のことだったようです。ちなみに、私の最初のイメージとしては海援隊ですから自分たちの軍艦(輸送船)を持ち、それを自由に操船して備讃瀬戸を動き回っていたと勝手に思っていたのですが、どうもそうではないようです。まず、この時期の海援隊には持舟はありません。四国にやってきたのも土佐船に便乗してのようです。そして、彼は船も操船出来なかったようです。龍馬の下にいた海援隊のメンバーとは違うのです。海援隊の再結成の知らせを聞いて、新しく入隊してきた者がほとんどです。出来ないのが当たり前です。
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現在の小坂集落
それでは、本島の小坂浦に上陸した八木彦三郎は、どんな対応を取ったのでしょうか?
  多くの文献は、八木彦三郎の率いる海援隊が来島第一陣としています。しかし、「新編丸亀市史 2 近世編」は、1月23日に中村官兵衛・嶋田源八郎ほか7~8人がまずやってきて、翌日24日に八木彦三郎が来島したと記します。これは長岡謙吉書簡(慶應 4 年 1 月下旬頃か、林英夫(編)『土佐藩戊辰戦争資料集成』470 頁)に
「廿二日塩飽七島・小豆島民居争闘死人怪我人アリ人家ヲ放火シ騒擾甚シト聞ク、石田・中村等数輩渡海…」

の内容と一致します。

 やって来た海援隊に対して、人名衆の惣年寄・高島惣兵衛等はどんな反応を見せたのでしょうか?
「小坂ノ援軍ニアラズヤト疑ヒ騒グコト甚し」とあります。海援隊のメンバーを「小坂の援軍」と疑ったようです。ここからは、突然に現れた海援隊が何者か理解できなかったことが分かります。そこで
「島内の者に疑義挟む者の有るを以て、間民の鎮撫は引續き之を致すべきにつき、一應丸亀金輪御本陣の方へ使者を出すことを差し許されたし」

と、丸亀に使者を出して確認しています。この時に使者となったのが龍串節斎という医師です。彼は後に、琴平鎮撫の八木のスタッフとして参加する人物です。
 「節斎は(丸亀)御本陣で島民等の不心得を懇諭せられ、早々歸島して鎮撫使の命に従ふべき旨申聞かされ、恐惶して歸島復命した」( 宮地美彦「贈正五位長岡謙吉(下)」9 頁)

事実だったので、恐れながら島に帰り報告したとあります。
  こうして鎮撫使と認められた海援隊は、塩飽勤番所に本陣を移し、ここを土佐藩塩飽鎮撫所とします。
「玄關ニ三葉柏ノ幔幕ヲ張リ、仝ジ紋所ノ高張提灯ヲ吊シ、門前ニ土州支配所ノ高札ヲ建テ」とあるので、人名の勤番所を、海援隊が乗っ取った形になったようです。
本島 土佐藩紋所
土佐藩の紋所三葉柏


八木彦三郎の取った措置を見ていきましょう
①幽閉状態にあっ小坂浦住民全員を牢から解放します。
②加害者である人名指導者の惣年寄等に対しては、どんな措置が執られたのでしょうか
「治メ方ヨロシカラザルヲ以テ(略)厳科ニ處スベキ所、(略)特別ノ御仁政ニヨリ一週間ノ閉門謹慎

 他の史料も「一週間の謹慎」が多く、「十日間の譴責禁慎」「年寄に手鎖三〇日の刑」と記すものものもありますが、「徒党を組んでの殺人・放火」に対しての処罰としては、非常に軽微な内容のように思えます。
 さらに「其後ハ一切御構ヒナク、従前通リノ勤メ方仰付ケラレシ」と「形式的な処罰」にとどめたことが分かります。ここからは人名組織の統治機能をそのまま利用する形で、塩飽占領を行おうとする思惑があったことがうかがえます。この時点で、海援隊のメンバーは総勢13名で、塩飽にやって来ているのは、その内の数名なのです。「直接占領」などは望むべくもありません。既存の人名組織の協力・利用なしでは、占領政策は行えません。そうだとすれば騒動の張本人であろうとも、人名指導者達を厳罰に処することはできません。
「一週間後に高島は再び禮服着用で出頭し、前日の罪を許し以後は別儀なく、前役其の儘を以て忠勤を勵む様にとの申渡をうけて罷り退つた」( 福崎孫三郎「八島神社誌」59 頁)

という措置も納得がいきます。
 また、福崎孫三郎「八島神社誌」には、年寄(人名)が役人として引き続き鎮撫所(旧塩飽勤番所)で海援隊を補佐していたこと。また、小坂復興事業で人名が資材調達などで海援隊から多額の支払いを受けていたことが、角田直一『十八人の墓』236~237 頁には指摘されています。

 一方、家を焼かれた小坂浦漁民のために「土佐ゴヤ」(藁葺き大長屋の仮説住宅)を小坂浦の3か所に建築します。また『新編丸亀市史 2 近世編』807頁には、救恤米(助成米)が2月9日、金2百両の助成金が3月7日に配給されたと記されています。これは、土佐藩から出された「救援金」だったようです。
 季節は真冬のことですからこれによって救われた人たちも多かったようです。しかし、小坂に留まらずに「家船(えふね)」仲間の港に「亡命」した漁民達も数多くいたことを下津井川の史料は伝えます。

八木は、塩飽本島で新たな「組織」を作り出します。
先ほども見てきたとおり海援隊のメンバーでだけでは、塩飽と小豆島の占領政策は行えません。治安維持部隊も必要です。そこで八木は、・塩飽諸島の17~30歳の男子の志願者を集めて「梅花隊」(1個小隊)を創設します。応募してきた者達から人名衆の子弟を選び、隊の幹部に登用します。その顔ぶれを見ると、高島覺平(惣年寄・高島惣兵衛の子)・森嘉名壽・高島省三[高島惣兵衛の養子]、田中眞一、高倉善次郎、西尾侑太郎、横井松太郎などです。小坂からも松江甚太郎、山田丈吉、長本平四郎、溪口四郎造が梅花隊に入隊しているようです。
 「梅花隊」は小銃500挺を装備し、軍事訓練を始めます。これは、金毘羅大権現から借り入れた資金が使われました。梅花隊の訓練の様子が
「字七番新田ニ約五反歩ノ調練場ヲ構ヘ、毎日勇壮ナル調練ヲ行ヒシ」として、総勢「三十人ノ将卒」

と福崎孫三郎「八島神社誌」60頁には記されています。梅花隊は、明治3年7月に金毘羅で解隊されるまで、存続します。この隊に参加した人たちの中から次の本島や広島を担う戸長や村長達が現れるようです。
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 海援隊は、小坂浦漁民を救ったのか?と研究者は問い直します。
 海援隊を「島民之緒民ハ活キ佛さまトテ拝ミ申候」と記す土佐側の史書があります。例えば八木の業績について、宮地美彦「維新当時の土佐藩と予讃両国との関係79 頁)は次のように記します
塩飽に入って描虜を放ち張本人や、島役人等の罪を糾し、寛典を以て乱ル鎮め、人心を安堵し、救済を以て乱後の窮民を助け生業に励げました。是に於て島民は敵、身方の隔てなくその政治に悦服して八木の外出する時は、生佛様だ生佛様だと云つて土民は土下座して拝したと云うことである。 
 又八木が勤番所に居た頃、顔面に睡物が出て発熱甚だしく医師が大患である一命にかかわる様な事があるかも知れぬ」と診断した。その時本島の若者は毎日丸亀の福島で潮垢離して松尾村の金毘羅宮(金毘羅宮)参詣して治癒を祈願したと云ふ話も残つて居る。
   八木や海援隊のメンバーを神と讃え神聖視しているというのです。

小坂浦での八木の「神化」プロセスを見ておきましょう
明治3年(1870)、海援隊士を祭神とする「土州様」を大山神社に合祀88。
大正7年(1918)、海援隊13名の名前が分かり「十三とさ神社(重三神社)」に改称
大正8年(1919)、小坂山の山上にあった大山神社を現所在地に移転(地図・写真参照)。
昭和9年(1934)、実際に塩飽を担当したのが13人のうちの数名であることを知り、八木彦三郎・島村要の頭文字から「八島神社」と改称。
24 宮地彦三郎
重三神社の御神体には、長岡謙吉や八木彦三郎など十三名の氏名が記されています。

小坂騒動を後世の人たちは、どう位置づけ評価しているのでしょうか?
①福崎孫三郎『塩飽小坂小誌』
騒動を鎮撫した海援隊を「小坂ノ更生再建ニ援助を與ヘラレン為政者」と称賛し、隊士には「八木彦三郎殿」、「長岡謙吉様」と敬称をつけています。
②吉田幸男『塩飽史―江戸時代の公儀船方』
小坂騒動は海援隊(土佐藩)の扇動に小坂漁民が踊らされたもので「土佐の陰謀」と主張し、海援隊の行動を「悪行」とします。

③角田直一『十八人の墓―備讃瀬戸漁民史』には、「土佐をたって高松藩鎮撫にむかいつつあった六百名の土佐の武士たち」と海援隊が、「自由民権」と「平等」の思想から小坂の解放を行ったと「土佐軍・海援隊=解放軍」説を主張します。

書き手の立ち位置によって、小坂騒動の性格や評価が大きくことなることが分かります。

海援隊は、小坂の解放者だったという説には、次のような点から私には納得は出来ません。
①小坂浦漁民蜂起の最大の目的である人名株譲渡を実現させていない。
②島の統治実務は従来の政治機構(人名制)のままで、変革・改革もなし
③梅花隊にも人名衆を登用。
ここからは、小坂漁民の生命は救ったが「自由と平等」をもたらす解放者ではなかったことが分かります。

どうして海援隊は塩飽や小豆島などの備讃の島々を占領下に置こうとしたのでしょうか。
研究者は、次のような要因を挙げます。
①地政学:「長州征伐」の際の石炭貯蓄地=瀬戸内海上交通の要所であること
②海軍に必要な「塩飽水夫」の供給地であること、咸臨丸の水夫の多くが塩飽出身者
③いろは丸事件で長岡謙吉は海援隊文司として海難事故に対応し、備讃瀬戸を熟知
④海援隊規約「海島ヲ拓キ五州ノ与情ヲ察スル等ノ事ヲ為ス」の実践。⇒塩飽島・小豆島の鎮撫、及び佐渡島・伊豆七島の鎮撫構想(建白)へ

以上から長岡や八木のプランは次のようなものであったことが推察できます
①鳥羽伏見の戦い後、解体消滅していた海援隊を復活させ、「土佐軍の高松藩討伐」に参加する。
②その際に、備讃瀬戸の天領を占領し、統治することによって海援隊の組織を培養し強化していく。
その場所として、塩飽や小豆島はもってこいの島だと考えたのではないでしょうか。こうして、土佐藩が高松・松山藩の無血占領を行っている間に、土佐藩からの「下請け事業」的に塩飽と小豆島を占領し、支配下に置くことに成功します。

  以上をまとめておきます
①鳥羽伏見の戦い後、御一新のかけ声と共に塩飽本島では小坂騒動が起きた
②これは、人名側によって小坂漁民は制圧され、拘留された。
③そこにやってきたのが土佐軍のもとで偵察活動を行っていた海援隊である
④海援隊の八木彦三郎は、漁民を解放し救済した
⑤一方、人名側には厳罰を課せず従来通りの統治を許した
⑥さらに、人名の師弟を登用し梅花組を組織して、新たな軍事組織の形成を目指した。
⑦ここからは、海援隊は小坂の解放者とは云えず、従来の組織を温存しながら支配する占領者の性格が強い。
⑧海援隊は、丸亀の本部(長岡謙吉)・塩飽(八木彦三郎)・小豆島の草壁と備讃瀬戸に「海援隊」トライアングル」地帯を支配下に置いて、ここを拠点にして新たな海軍力の形成を新政府に献策していくことになる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
遠矢浩規「坂本龍馬暗殺後の海援隊―備讃瀬戸グループの活動を中心に」(明治維新史学会報告資料、2017年)
  谷 是「土佐海援隊士八木彦二郎と琴平」 ことひら45号
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Fotos en 天領倉敷代官所跡 - 本町7-2
天領倉敷代官所跡(倉敷アイビースクエア内)

讃岐の天領没収を行ったのは?
 
「是迄徳川支配いたし候地所を天領と称し居り候は言語道断の儀に候、此度往古の如く総て天朝の御料に復し、真の天領に相成り候間、右様相心得べく候」
意訳変換しておくと
「これまで徳川幕府が天領と称して広大な領地を支配してきたことは言語道断のことである。よって、この度、総て朝廷の御料にもどし、真の天領にすることにした。以上のこと、心得るように」

朝廷は1868(慶応四)年1月10日、鳥羽伏見の戦いの勝利を受けて、徳川慶喜の処分と幕府直轄の土地(天領)の没収を布告しす。これで讃岐にあった天領も没収されることになります。今まで倉敷代官所が管理していた讃岐に天領は以下の通りでした。
①池御領(那珂郡五條村(669石)。榎井村(726石)・苗田村(844石)
②小豆島の東部三か村(草加部村・福田村・大部村)
③直島・男木島・女木島 
④大坂町本行支配の塩飽諸島(高1250石)
⑤高松藩領にある四か所の朱印地(金毘羅大権現寺領等)
以上が没収対象となり、土佐藩の「預り地」となりました。これは土佐藩が朝廷から、朝敵となった高松・松山両藩の征討とその地の天領没収を命じられていたからです。土佐藩兵は高松城に向かう進軍の途中、1月19日には、丸亀に駐屯します。
この時に、丸亀沖の塩飽本島では大騒動が起きていたようです。
これを小坂騒動と呼びます。情勢を聴いて高松藩征討深尾総督は、海援隊の八木(本名宮地)彦二郎を本島に派遣して騒動を鎮圧させます。そして、塩飽勤番所に土佐藩塩飽鎮撫所を設置して塩飽諸島を管轄することになります。
IMG_4830

 土佐藩塩飽鎮撫所が置かれた塩飽勤番所

ここで当時の海援隊のことについて見ておきましょう。
坂本龍馬が亡くなって以後は、
①九州長崎表の方は菅野覺兵衛が
②上方々面は、長岡譲吉が
指揮するという体勢になって分裂していたようです。
 1868(慶応4=明治元年)正月に、鳥羽伏見の戦で幕府軍がやぶれ四国の高松、松山藩は朝敵とされます。これに対して朝廷は、土佐藩に対してこの2藩の追討命令を出し、錦旗を下賜します。
 長岡謙吉・八木彦二郎の思惑と行動を推測するのなら、土佐藩と行動を共にして、瀬戸内海での活動場所を得ようということではないでしょうか。大坂にいた尊皇派の藤沢南岳を訪ねて、高松藩の帰順工作を進めたのもその一環です。その後、二人は伊予の川之江に向かいます。そして土佐から川之江に到着したばかりの土佐藩の討伐軍に、次のような情勢報告を行います
①鳥羽伏見の戦況と、その後の上国の情勢
②高松・.松山藩追討の詔が下ったこと
③京都の土佐責任者・本山只一郎が錦旗を奉じてやってきていること。それが、まもなく川之江に到着すること
 この情報を得た土佐軍は、軍議を開いて次のような行動を決定します。これについては、以前にお話ししましたので要約します。
①松山藩御預地の幕領川の江を占領すること
②丸亀藩を加えて高松藩を討伐、占領すること
③その後に、松山征伐を行う事。
この決定に大きな影響をあたえたのが若き日の板垣退助だったようです。
こうして、長岡と八木は、土佐軍に従い、行動を共にすることになります。
土佐軍が朝廷から求められていた「討伐・占領」は、高松藩だけではありませんでした。エリア内の幕府の天領も含まれていました。これも没収しなければなりません。今まで倉敷代官所が讃岐で管理していた天領は先ほど見たとおりです。

高松を無血占領した後、土佐軍は、高松駐屯部隊と上京部隊・松山討伐支援隊の3隊に分かれます。瀬戸内海に浮かぶ島々を占領・管理する能力も員数も土佐軍にはありません。このためこの方面の占領管理のために土佐藩は「新」海援隊を組織します。ある意味、土佐藩の「下請け委託」です。
 長岡や八木の脳裏には、ここまでが事前に織り込み済みであったと私は考えています。つまり、土佐藩の高松討伐を聴いたときに、ふたりは土佐軍に協力し、参軍する。その代償として、海援隊の復活再興と備讃瀬戸の天領をその管理下に置くこと。そして、将来的には瀬戸内海の海上交易の要地である塩飽と小豆島を拠点にして、海援隊の存在価値を高めるという「行動指針」が、すぐさま浮かんだのではないでしょうか。そのために、川之江にむかったのでしょう。川之江の軍議で、高松占領後の方針もきまります。そこには、高松城占領後は備讃瀬戸の島々は「新海援隊」を組織し、彼らが島嶼部の管理を行うと云う密約もあったのかもしれません。ちなみに長岡は、朝廷から「讃岐島討伐の内命」が讃岐に行く前に下されていた、と郷里に送った私信には記しているようです。
 しかし、海援隊による小豆島・塩飽の占領支配はすんなりとは始まりません。
都市縁組【津山市と小豆島の土庄町】 - 津山瓦版
津山郷土博物館発行「津山藩と小豆島」より小豆島絵図  岡山から見た小豆島らしく南北が逆転している。
  津山藩が作成したものなので東側の天領は何もかかれていない

まず、小豆島の「討伐鎮撫=占領」の経緯を見ておきましょう。

 江戸時代の小豆島は東部3か村が幕領地として倉敷代官所の支配下にありました。それに対して西部六か村(土庄村・淵崎村・小海村・上庄村・肥土山村・池田村)は、天保九年(1838)から津山藩領となっていました。東部3ケ村が没収される際に、西部六か村も影響が及びます。
 高松城が無血占領された直後の1月23日に岡山藩の役人が草加部村に来て、村役人らに維新の趣旨を説明し、朝廷に二心なきの誓紙を差し出させます。同時に西部六か村の大庄屋たちにも、同じ誓紙を出させています。これは、岡山藩の越権行為のように思えますが、当時は津山藩が朝敵の嫌疑をうけて、詰問のため岡山藩から鎮撫役と兵が差し向けられていたという背景があります。そのため津山藩の飛び地領土である小豆島へも岡山藩の藩士が派遣されたようです。
 津山藩は1月21日に開城して恭順の意を示します。そこで25日の至急使で小豆島の村役人に宛て、「国元のところ少しも別条これなく、 決して相変り候わけござなく……」と記した書面を送り届けて、西部六か村は今までどおり、津山藩領として支配することを知らせています。
一方、天領の東部3か村へは2月5日に再び岡山藩の役人がやってきます。
草加部村の清見寺を出張所として、旧幕領地の管理を始めます。さらに盗賊取締りなどを名目に、藩士を派遣して「軍事占領下」に置きます。このような岡山藩の動きに対して、警戒心を抱いた土佐藩は強硬策に出ます。海援隊士の波多彦太郎らと塩飽・直島・男木島・女木島から徴兵した高島磯二郎・田中真一・西尾郁太郎ら数十人を草加部村に上陸させ、下村の揚場柳詰めに次のような立札を立てます。
「此度、朝命を以て予讃天領鎮撫仰付候事」

そして、極楽寺に土佐藩鎮撫所を設けて兵を駐屯させたのです。こうして、草壁村にはふたつの占領軍が駐屯するという事態になります。両藩はお互に「占領権」を主張します。

極楽寺
土佐軍が駐屯した極楽寺

 土佐側は、朝廷からの命を背景に岡山藩の撤退を迫ります。同時に、朝廷に働きかけて土佐藩へ、備前・讃岐諸島・小豆島等の鎮撫を命じる親書を出させます。これが2月9日のことでした。この辺りが当時の土佐藩と岡山藩の政治力の差なのかもしれません。これを受けて2月15日に、岡山藩は清見寺に置いていた番所を開じて引揚げていきます。
御朱印】清見寺(小豆島)〜小豆島八十八ヶ所巡り第21番〜|ナオッキィのチャリキャンブログ

こうして、土佐藩は鎮撫所を極楽寺から清見寺に移して、島民に対して次の触書きを出します。
当国諸島土州御領所、御公務・訴訟・諸願等一切向後下村出張所え申出可く候、尤も塩飽島えの儀は当時八木彦二郎出張に付、本島役所へ申可く候、右の趣組々の老若役人共えも洩さぬ様相伝へ触書は回達の終より下村役所え返さる可く候 以上
此度朝命を以て豫讃天領銀撫被仰付候事
戊辰二月            土佐藩
意訳変換しておくと
讃岐諸島の土州預かり所の公務・訴訟・請願などの一切は、今後は下村出張所へ申出ること。もっとも塩飽島については八木彦二郎がいる本島役所(勤番所)に申し出ること。以上のことを、組々の老若役人たちに洩さぬように伝へること。この触書は回覧終了後は下村役所へ返却すること。以上
この度、朝命を以て伊予・讃岐の天領鎮撫を仰せつかったことについて
戊辰二月            上 佐 藩

小豆島は、土佐藩鎮鎮撫下に置かれ、実質の占領支配は海援隊が行う事になったようです。
その後、この事情を岡山藩は、京都の辯事宛に次のように報告しています
  讃岐国塩飽島々の儀は備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近にこれ有り候処、上方変動後、人民動揺の模様に相見え候に付、取り敢ず卿の人数渡海致させ、鎮撫の義取計らい置き申候、同国直島の義は去る子年(元治元年)御警衛仰付られ居り申す場所故、鎮撫方の者差出し収調べ致し申候、同小豆島倉敷支配の分、盗賊徘徊致し候様に付、是れまた人数指出し鎮撫致し置き中候、然る処土州より掛合これ有り、右三島の儀は土佐守(土佐藩)収調所に付、同藩へ受取り申度き由に候間、夫ぞれ引波し仕り候、尤も非常の節は時宜に寄り、右島々へ備前守人数差し出し候儀もこれ有る可き旨申談じ候、此段御届け申上げ候様、国元より申付越候 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛
意訳変換しておくと
  讃岐の塩飽島々については備前守(岡山藩)領分児鳥郡と接近している。そのため上方変動(鳥羽伏見の戦い)後に、人民動揺の様子が見えたので、とりあえず藩士を派遣し、鎮撫を行ってきた。また直島については、元治元年に警衛を仰付けられた場所なので、鎮撫方の藩士を派遣し占領下に置いた。同じく小豆島東部の倉敷支配(天領)については、盗賊徘徊の気配もあったので、ここにも藩士を派遣し、鎮撫にあたった。しかし、これについては、土佐より次のような申し入れがあった。この三島のについては、朝廷より土佐守(土佐藩)に討伐・占領が命じられているので、同藩へが取り占領するべきものなりと。そのため土佐藩に引渡た。もっとも非常の折りであり、これらの島々へ備前藩主が藩士を派遣し鎮撫したのも、先を案じてのことであると申し入れた。このことについて以上のように報告します。と国元より連絡があった。 以上
二月九日    池田備前守家来沢井宇兵衛

こうして土佐藩は、幕府の天領であった「塩飽ー小豆島ー琴平」を管理下に置いたことになります。

土佐藩の小豆島・塩飽占領について、戦前に書かれた高知の史書は次のように記します。
此等島民は一般に文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野であったから、最初全島民に対して御維新の御趣意を誘論し、聖旨を奉外して各生業を励み、四民協力し鴻恩に酬い奉るべきことを誓はじめ、勤めて之が感化開発に尽力したと云ふことである。 
 而して豫讃天領鎮撫の内命を受けて出張した海援隊は、当時土佐藩の名において、その重任にあたり、其の海援隊として私に行動することはなかった。

   ここには占領地は、御一新を理解しない「文化の度が極めて低く祀儀風俗等も至つて粗野」な地で、それを「文明開化」する役割を担った土佐人、そしてそれに恭順し、発展する占領地という図式が見られます。これは、当時進められていた「大東亜共栄圏建設」のための日本の役割と、相通じるイデオロギーであるようです。「讃岐征伐」の時に、土佐で記された討伐記のイデオロギーが時間を越えて、戦前の「大東亜共和圏構想」を正当化する論理になっていたことが分かります。
海援隊のリーダー達は、塩飽や小豆島の地の利を活かして、瀬戸内海の海運交易の拠点としようと半永続的な支配を考えていた節があります。 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
       宮地美彦 維新当時の土佐藩と讃岐國の関係 讃岐史談第2巻第2号(1937年)


 
1 讃岐国丸亀絵図
山崎藩が提出した丸亀城絵図

正保城絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図です。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。他にも城下の町割・川筋などが載されています。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕府はこれを紅葉山文庫に保管・収蔵していたようです。幕末には131図が所蔵されていたようですが、現在は63の正保城絵図があります。この絵図は、山崎藩が提出した丸亀城絵図です。これを山崎藩が提出したのは、幕府の指示があった翌年、つまり1645年とされます。しかし、これについては、私は疑問を持っています。その疑問の背景を年表から見てみましょう
丸亀城を、年表で見ておきましょう。(香川県史の年表より作成)
1600年 生駒一正,徳川軍の先鋒として関ヶ原の合戦に参戦
1601年  生駒一正,徳川家康より讃岐17万1800石余を安堵       生駒親正・一正父子,鵜足郡聖通寺山北麓の浦人280 人を丸亀城下へ移住させる
1602年  生駒一正,丸亀城から高松城に移る.丸亀には城代をおく
1610年  生駒一正没する.56歳 生駒正俊,家督を継ぎ高松城に居住.この時に丸亀の町人を高松城下に移し丸亀町と称す
1615年  徳川家康,大坂再征令を発し,大坂夏の陣おこる.
     一国一城令公布.これにより丸亀城廃城となる.
1621年  生駒正俊,没する.36歳.生駒高俊,家督を継ぐ.外祖父藤堂高虎,生駒藩政の乱れを恐れて後見する
1626年  間旱魃となり,飢える者多数出る
1628年  西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
     西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
1640年  幕府は生駒藩騒動の処分として生駒高俊を,出羽国矢島1万石に移す.
1641年  肥後天草の領主山崎家治,西讃5万石を与えられる。城地は見立てて決定するよう命じられる
1642年  松平頼重,常陸下館から讃岐高松12万石へ移封を命じられる。山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府は諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年  初代丸亀藩主山崎家治,没する.55歳 山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
  生駒騒動後に、肥後天草からやって来たのが山崎藩で、1641年のことです。居城をどこにおくかについては、後ほど幕府に報告せよとの指示でした。引渡手続きに当たっていた要人達は、観音寺・多度津・丸亀を候補地としていましたが、丸亀に居城を置く可能性は低いと推察していたようです。
満濃池水掛村々の図

 その理由は、上の絵図を見ると分かります。これは明治初頭の「満濃池水掛かり村々図」で、丸亀平野の領地区分が次のように色分けされています。丸亀平野は、国割りの境界線が金倉川沿いに引かれ、領地区分けは次のようになりました。
①ピンク 高松藩
②草色  丸亀藩
③白色  多度津藩(京極家分家)
④黄色が天領 池御領
⑤赤色  金毘羅大権現金光院寺領
これを見ると分かるように、丸亀は高松藩の領地の中に取り込まれたような形になります。丸亀城から南に見える水田は、ほとんどが高松藩のものになります。丸亀は、西讃の東端になるだけでなく、戦略的にも問題があります。そのために、ここにお城を構えることはないだろうというのが、大方の見方でした。しかし、山崎家治は生駒時代の丸亀古城跡を改修し、新たな居城とすることを選択します。

年表でその後の流れを再確認すると、次のようになります
1642年 山崎家治,丸亀の古城を修築し居城にすることを許される
1644年 幕府が諸藩に城下町地図の作成提出を命じる
1648年 初代丸亀藩主山崎家治が没する.山崎俊家,丸亀藩第2代藩主となる。幕府,丸亀藩主山崎俊家に丸亀城修復・普請などの指示を出す
                   
最初に見た丸亀城の正保城絵図は、1645年に幕府に提出されたとされます。しかし、それに対する私の疑問点は以下の通りです。
①42年に「古城を修築」開始し、3年で完成していたのか。工期が短すぎる。
②48年に「丸亀城修復・普請などの指示を出す」とある。これが幕府からの正式の改修許可ではないのか。
③山崎氏の丸亀城は、48年以後に正式に大規模改修工事が始まり、それが完成したのは数年後のことではないのか
④丸亀城の正保城絵図は、1650年代半ばに完成した丸亀城を描いたものではないのか。
 当時は幕府の了承や指示なしで、お城に手を加えることは御法度です。それを破った安芸の福島正則がお取りつぶしになったことを、大名達は目の前で視ています。山崎家も廃城となっていた丸亀城を、居城とすることを幕府に伝えて、最低限の改修工事を行い、正式の許可が下りるのをじっと待っていたのではないでしょうか。その許可が下りたのが1648年ではないのかという仮説です。その指示を受けて、新城に向けた大規模工事工事が始まったのでしょう。そうだとすれば、工事終了はさらに後のことになります。
  「各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出」とありますので、各藩もすぐに提出したのではないようです。山崎藩の場合は、改修が完成した「晴れ姿」の丸亀城を描いて提出したかったはずです。そうだとすれば、提出が一番遅かった藩かも知れないと私は考えています。
そういう目でもう一度、生駒藩時代の丸亀城と、正保城絵図の丸亀城の拡大図を比べて見ましょう
       1 丸亀城 生駒時代
生駒藩時代の丸亀城
讃岐国丸亀絵図2
       山崎藩が提出した丸亀城絵図

この2枚の絵図から基本的な構図に変化はないようですが、建築物については、二の丸などの構造物も増えて大規模な改修が行われ、一新された姿になっていることが分かります。これは、肥後からやってきて2,3年で行えるものではないような気がします。仮説として、この絵図が作成されたのは1645年ではないこと、48年に幕府からの工事許可が出て、数年を経て完成した姿を描いたものである可能性があることを指摘しておきます。どちらにしても、復興した山崎藩の丸亀藩の姿を伝える貴重な絵図です。

この丸亀城の海側を見ながら読み取れる情報を挙げていきましょう。
讃岐国丸亀絵図 拡大

「讃岐国丸亀絵図」から海辺に近い部分を拡大したものです。
①東側(左)に土器川
②土器川から東側の外堀につながる東汐入川 河口の砂州の上に船番所
③北側の海岸線には、③砂州①が伸びて遠浅の浜辺を形成、
④西側にも砂州2があり、砂州1との間から⑤西汐入川が海に流れ出している
⑤の西汐入川は⑥舟入に船が入ることが出来る
⑥の外堀は⑧の寺町の水路を経て⑤西汐入川につながる
⑦古町と表記されたエリアが⑤西汐入川沿いにある
この絵図の④の砂嘴2が現在の福島町に発展していきます。福島町は、無人の砂嘴の上に作られた町場です。そして、③と④の砂嘴の尖端には、船番所が置かれています。

研究者が注目するのは、⑨の「古町」です。
丸亀城下町の海浜部
「古町」エリアを黒く塗りつぶしたのが上図になります。古町に当たる町名を、挙げると次のようになります。
上南条町  
下南条町  
塩飽町  
横町(現在の本町) 
船頭町 (現在の西本町)
西平山町 北平山町御供所町
これらの町は、山崎家入部以前の生駒時代にできた町です。だから「古町」なのでしょう。この絵図からは、丸亀城が廃城になっても、西汐入川の河口周辺には、漁師(水夫)や廻船関係者などが残り、浦や町場があったことが分かります。山崎氏が、ここを居城とした理由の一つかも知れません。
古町のルーツを見ておくと
①西平山・北平山・御供所の三町は、宇多津の聖通寺山麓の三浦から漁夫を、
②塩飽町は、沖合の塩飽諸島からの人たち
を生駒藩が丸亀城の築城の際に、この地に移住させて成立させたものです。
何のために、漁師達を城下に呼び寄せたのでしょうか? 
新鮮で美味しい魚が食べたかったという理由もあるかも知れません。しかし、当時の生駒藩を初めとする瀬戸内海の諸藩の課題は、九州平定や朝鮮出兵に向けた水軍の整備でした。そのため城下と一体になった湊の整備が求められていたようです。そのためには、水軍の主体となる水夫を城下に配置する必要があったと私は考えています。それは、高松城の場合にも見られる事です。
 「高松国絵図」に見えていた「町」は、このエリアのことでしょう。丸亀城廃城後も町場や浦(湊)が存続していたことが分かります。それは、東西の汐入川は、港(舟入)として用いられ、船番所も置かれています。また、この二つの川は、外堀につながっています。ここからは、城下町の整備と同時に建設された水路(運河)でもあったと研究者は考えているようです。これらが行われたのも山崎藩の時代になってからのようです。とくに西汐入川は、明治43年に河口に近い部分が付け替えが行われて、現在の流路となるまで、その役割を果たしていたことは以前にお話ししました。

丸亀城下町比較地図51

以後の丸亀城下町は、海に向かって発展していきます。先ほど見たように④の砂堆②に福間町が現れ、さらにその北に福島港が作られます。
1 文政11年(1828年)出典:丸亀市歴史資料館収蔵資料

そして、大坂からの金比羅船の受入港として発展していくことになります。
丸亀新堀1

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
関連記事

金倉川河口 土地利用図
金倉川河口付近(土地利用図) 旧流路が幾筋も見える 
丸亀平野を流れる金倉川について、丸亀市史は「人工河川」説を唱えています。満濃池築造時に金倉川は流路変更され、その跡に用水路が整備されたと以前にお話ししました。そんな中で
「金倉川の下流部も、生駒藩時代に流路変更されている。旧金倉現在の現在の西汐入川である。」

という説が出てきました。それは、香川大学の田中教授です。この説を今回は、見ていきます。  テキストは田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)です。
.西汐入川jpg
青が西汐入川の流路
 
廃城となった丸亀城  
慶長15年 (1610)に生駒藩では初代一正が亡くなると、嫡子正俊が家督を継ぎます。正俊は高松城を領国支配の拠点と定め、祖父親正の時代に築城された丸亀城を廃城とします。その後に作成された「高松国絵図」には城地に「圓亀古城」と注記され、「丸亀国絵図」 には、樹木の茂る小山として描かれいます。ここからは丸亀城は生駒時代に、城割は行われていたことがうかがえます。
廃城後の丸亀城址について
寛永17年(1640)2月15日「生駒高俊公御領分讃州郡村村並惣高帳」には、那珂郡の中で丸亀城跡の地名が次のように記されています。
一、高四百六石八斗九升壱合  圓亀(丸亀浦)
   内拾八石古作      見性寺領
    四拾七石三斗五升七合 新田悪所
また、翌18年10月20日の山崎家治宛ての讃岐国内五万石領之小物成帳には、次のように記されています。
一、銀子弐百拾五匁  円亀村
  但横町此銀ニ而諸役免許
一、米三石      円亀村
  但南条町・上ノ町此米ニ而諸役免許
この二つの史料からは、次のようなことが分かります。
① 廃城後の旧丸亀城下町は「」 や「村」になっていたこと
②しかし、築城後に作られた横町や南条町、上ノ町などの町場も残っていたこと。
生駒家の改易後、寛永18年(1641)9月、西讃岐五万石の領主としてやってきたのが山崎家治です。山崎家は翌年7月、丸亀の古城を修復し居城にすることを江戸幕府に認められ、丸亀城の再築と城下町作りに着手します。山崎家は三代で絶えますが、初代家治のとき、正保二年 (1645) に幕府の命を受けて、丸亀城の領分の絵図を提出しています。この時の絵図は、「讃岐国丸亀絵図」で検索すると、国立公文書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。
 研究者は、同時期に作られた「正保国絵図」の 「讃岐国丸亀絵図」と比較することで、丸亀城下町とその周辺地域での開発の様相を明らかにしていきます。それを見ていきたいと思います。

金倉川流路変更 

まず研究者が示すのは上図です。高松市歴史資料館の「讃岐国絵図」 には「圓亀古城」とあり、海側に「町」と記されています。これが、先ほど史料で見た廃城後も存続した城下町の一部のようです。海沿いのほんの一部にしか過ぎなかったようです。この地図で、注目したいのは西側(右側)から回り込むようにして「町」の北に流れ込んでいる川です。最初は西汐入川かと思っていました。しかし、地図に書き込まれた地名を見ると、上流の流域が細い部分には、「上金倉」や「今津」が見えます。どうやら金倉川のようです。金倉川が今津の北で流域を広げて、大きく東に向きを変えて、丸亀城の北側で瀬戸内海に流れ出していたようです。

丸亀城周辺 正保国絵図
 一方、上図の国立公文書館版の讃岐国絵図を見ると、丸亀城の西側を流れる川は、そのまま北に直流して、下金倉村で海に流れ出しています。ほぼ同時代に、作られた絵図なのに金倉川の流路が違うのです。これをどう考えればいいのでしょうか。
研究者は「この両図が作成される間に金倉川の河道は、付け替えられた」と指摘します。
 ここで、研究者が注目するのは砂州や砂堆です。丸亀城の北側 (海側) に二本の砂堆 (砂嘴) が描かれています。先ほどの絵図では、金倉川の河口は、二本の砂堆の間にあります。この砂堆は、現在のどの辺りになるのでしょうか。次に研究者が利用するのは、国土地理院の土地利用図です。
丸亀の砂嘴・砂堆
 「図13」 は、丸亀城周辺地域の砂堆と河道を示したものです。
黒い部分が砂堆や砂州です。これを見ると丸亀城の北側の海岸線には、東西方向に延びる①と②の二本の砂堆が発達していたことが分かります。さらに、西北部には③と④二本の砂堆があります。これらの砂堆が並んでいるために、旧金倉川は北流することが出来なくて、砂堆と平行に東流して丸亀城の北側で海に流れ出していたようです。
丸亀平野の扇状地
多度津から丸亀の旧海岸線には砂堆や砂州が形成されていた

旧金倉川の流れをもう少し詳しく見てみましょう。
①河口に三角州帯が形成されたため⑤の砂堆に沿って東へ流れる
② ④の砂堆との切れ目を抜けて海岸近くへ流れる
③しかし、③や②の砂堆に妨げられてまたも東へ方向を変える
④最終的には②と①の砂堆の間から海へ流れ込む。
このように旧金倉川は、いくつもの砂堆によって北に流れることを邪魔されて、東へ東へと導かれていたようです。この流路地と【図12の「高松国絵図」に見える金倉川の流路は、一致します。以上から、次のように研究者は結論づけます。
旧金倉川は中津と今津との間を流れ東流し、九亀城北方の二本の砂堆の間で海へ注いでいた。
ところが「正保国絵図」では、金倉川は砂堆の間を通らず今津・下金倉間から真直ぐ北に流れ海へ注いでいる。一方、北方の二本の砂堆間の入江は金倉川とはつながっていない。ここには西汐入川が流れ込んでいた。つまり、西汐入川は、かつての金倉川の流路を流れていたのである。この川は【図13】から知られるように、中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。

それでは、金倉川の付け替えが行われたのは,いつでしょうか。
金倉川の流路変更2

その、決め手史料として研究者が提出するのが【図15】です。
この絵図の中央下よりの海岸線近くには、小判型の中に「円亀」と記されています。その上には小山に木が茂っている様子が描かれています。これが丸亀城跡のようです。「丸亀」の左脇に「三浦」が同じ小判型の中に記されています。寛永一七・八年ごろ、「丸亀浦」や「九亀町」と呼ばれていた城下町跡です。この地域が「古町」になるようです。
 河川については、土器川と金倉川が次のように描かれています。
①津郷の上井・高津両村と、同じく津郷の土器村との間を流れる土器川、
②下金倉村と杵原今津村との間を流れる金倉川
土器川の流路は、【図12】の「正保国絵図」と変わりありません。研究者が注目するのは、金倉川の流路です。こちらも「正保国絵図」と流路は同じです。ということは、【図12】の「高松国絵図」が作られたのち、「正保国絵図」が描かれるまでの間、さらに時期を絞れば、【図15】が作られる寛永10年(1633)までの間に、金倉川の流路は付け替えられたことになります。この間は、九亀城は廃城になっていた時期に当たります。九亀城は、無くなっているのに金倉川の付け替えという工事が行われなければならなかったのか。何らかの理由があったはずです。
  それを、研究者は次のように説明します。
旧丸亀城下町には、港が置かれていた。九亀は「」であって、そこは「町」となっていた。言い換えれば、港町として機能していたのである。その機能は丸亀城の廃止後も、保たれていたから、安全に船が出入りできるよう港湾の保全を図る必要があった。金倉川を遠方へ付け替えることで、洪水時の水量を減らし、港が設けられている河ロヘ流入する土砂の減少をはかったのである。

 お城はなくても、港と古町は残った。それを守るために金倉川の付け替え工事は、行われたと研究者は考えているようです。
 満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2
整備された満濃池用水

最後に、私の仮説を出しておきます。
 丸亀城廃城後の寛永10年(1633)までの間に、生駒藩が金倉川の付け替えと、西汐入川の新設を行ったことについて、もう少し広い視点から見ておきたいと思います。注目したいのは、この時期の西嶋八兵衛の動きです。襲い来る旱魃に対して、生駒藩奉行に就任した西嶋八兵衛は治水・灌漑を各地で進め、危機に立ち向かう姿勢を藩全体で作り出す事によって難局を乗り越えようとします。その目玉が1628年に着工し、3年後に完成させた満濃池でした。しかし、満濃池の水を丸亀平野全体に供給するためには、整備された用水網が必要です。

まんのう町 満濃池のない中世地図
満濃池が描かれていない絵図。かつての池の中に池之内村があった。

 ここからは以前にもお話ししたので要点だけ記します。
 満濃池の工事に先駆けてか、平行して、丸亀平野の用水路整備が行われたと私は考えています。これは治水工事とセットで行う必要がありました。その治水工事の大きな柱が、暴れ川の金倉川の流路変更です。何カ所かで金倉川は付け替えられた痕跡があることは、丸亀市史が指摘するとおりです。その時期は、満濃池完成までに間に合わせる必要があります。池ができても、用水路がなければ水は来ません。用水路を整備するためには、何匹もの龍が暴れるような川筋を持つ金倉川や四条川を「退治」する必要があったはずです。高松平野の郷東川や新川・春日川で行われたことが丸亀平野の金倉川に対しても行われたということにしておきます。
金倉川旧流路 与北町付近
善通寺与北町付近の金倉川旧流路跡 
 そして、金倉川下流での流路変更は、丸亀の湊と町を守るためであった。さらに、流路変更後の河川跡地が新田開発されていったのではないでしょうか。研究者は次のように指摘します
西汐入川は「中津から今津、津森にかけての後背低地や旧河道からの排水路の役割を果たしている。」
西嶋八兵衛の動き
1627年寛永4年8・- この頃までに,西島八兵衛,生駒藩奉行に就任
1628年寛永5 10・19 西島八兵衛,満濃池の築造工事に着手する
           この年 西島八兵衛,山田郡三谷池を修築する
 1631年 寛永8 2・-満濃池の全工事,完成する.
1635年 寛永12 4・3 奉行西島八兵衛,生駒高俊の命により矢原又右衛門に50石を与え満濃 池の管理を命じる
    9・8 西島八兵衛,山田郡神内池を築造する
1637年 寛永14 春 西島八兵衛,松島から新川の間の堤防築造。
1639年 寛永16 12・- 生駒帯刀と石崎若狭らの対立が拡大し、家中立退きの状況となる。生駒騒動勃発
1640年 寛永17 7・26 幕府,生駒藩騒動の処分として生駒高俊の封地を収公し,出羽国矢島1万石に移す.

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
田中健二 「正保国絵図」に見る近世初期の引田・高松・丸亀」香川大学教育学研究報告147号(2017年)

concat

図書館で「新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 2015年」という報告書を見つけました。この報告書を見たときに、「新田橋」っていったいどこ?という印象でした。
家電量販店のエデイオンの建設工事にともなう発掘調査だったようです。
丸亀の海岸線 旧流域図3
新田橋本遺跡周辺旧流域想定図
報告書のページをめくると出てきたのが上の図です。「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」と題されています。私が探していた丸亀平野北部の流域復元図がありました。高速道路や11号バイパスの発掘で明らかになった流路をつなぎ合わせていくと、こんな流路復元図が描けるようです。かつて丸亀平野を流れていた河川の流路が黒く示されています。地図の西側を金倉川が流れています。その姿は現在の姿とは、かなり違います。堤防が整備される以前の金倉川は暴れ川で、一条の流れではなく幾筋もの流れとなって、網の目のような姿で瀬戸内海に下っていたことは以前にお話ししました。
丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺王国の旧練兵場遺跡の復元図
その痕跡がこの復元図からはうかがえます。この図からは見えませんが金倉付近から平池・先代池へと分流する流れもあったと言われます。その流路跡に、平池や先代池は近世になって作られたようです。
 以前に丸亀平野を流れていた四条川のお話をしました。
『全讃史』には、四条川と金倉川が次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
ここからは四条川と金倉川は蛇が絡み合うかのように丸亀平野を流れ下っていたことがうかがえます。四条川は櫛梨山と摺臼山の間を、金倉川とともに下り、そして上金倉で流れを東に変えて、土器川と合流していたというのです。最初、これを読んだときにはそのルートを頭の中に思い浮かべることが出来ませんでした。しかし、発掘調査報告書に載せられたいくつもの復元流路図を見ていく中でなんとかイメージを描けるようになりました。
平池南遺跡 5m等高線地図

しかし、丸亀平野北部の河口部がどうなっていたのかは分かりませんでした。今回、この復元図が初めてです。
丸亀平野の扇状地

 もう一度、復元図を見て分かることをまとめておきましょう。
丸亀の海岸線 旧流域図3

①近代以前の金倉川は一条の流れとはなっていないことです。堤防もない時代は、台風などの洪水の時には丸亀平野を網の目のようになって海に流れ下っていました。その中の微髙地に人々は集落を構えていたとされます。これは、近世になるまでかわらないようです。
②新田橋本遺跡の西側には、かつての金倉川支流の西汐入川・竜川の旧流路や低地帯が広がり、瀬戸内海に注ぎ込む直前のエリアになるようです。
③遺跡の西側には天満池の低地が、また、東にも地形が緩やかに下っていきます。つまりこの遺跡は東西の低地に挟まれた微高地上にあったことがわかります。
④この遺跡から北には、集落遺跡は見つかっていません。そういう意味では、この「遺跡は丸亀平野の北限の集落遺構」となるようです。
⑤津森天神社あたりが河口で、那珂郡の湊があったとする人もいますが、確かに津森は河口にあたるようです。

  
調査書が記す丸亀平野の「遺跡概観説明」を見ておきましょう。
報告書の概況説明というのは、研究者には当たり前のことがさりげなく書かれていますが、素人の私にとっては始めて知ることも多くて、見逃せない部分です。私にとって気になるところを拾い読みしていきます。
まず弥生時代の集落遺跡ついては、次のように記されています。
弥生時代前期では、新田橋本遺跡の西に隣接する道下遺跡とその南部に続く中の池遺跡、平池西遺跡、平池南遺跡、平池東遺跡でまとまった前期後半の集落跡が確認されている。特に中の池遺跡は、屈指の規模を誇ることに併せて多重環濠を有することで注目されている
弥生時代中期には、飯野山中腹や南部の山間部など高地性集落へと移行しており、平野部全域で遺跡密度が極端に薄くなる。唯一旧練兵場遺跡で集落が造営される。

弥生時代後期になると、前期集落の分布区域に対応するように、集落が再生されているが、若千生活区域の変動が見られ、金倉川に程近い中の池遺跡では直近地における集落の再生は見られない。生活区域の変動によつて、平野北部では新田橋本遺跡、平野中央部で郡家原遺跡、三条番ノ原遺跡などで新たに集落が営まれるようになる。

ここからわかることは丸亀平野には、環濠をもつ集落がいくつも現れるのですが、それが続かないことです。前期の遺跡は中期になると姿を消していきます。その中で善通寺王国の王都である旧練兵場遺跡だけが継続して発展していきます。これをどう考えていいのか、気候的な変動があったでしょうか? 今の私には分かりません。
 それが弥生後期になると「復興」したり、「新興」の集落が登場してきます。そして、古墳時代には弥生後期の集落を継承する形で存続します。それが古墳時代後期になると、より内陸部に移動した集落が増えていると研究者は考えているようです。
 金蔵寺条里地図

 古代に入ると白村江の戦い(663年)後には、唐や新羅による侵攻に備えて、古代山城である城山が作られます。ここには、渡来人の技術力があったことがうかがえます。また、宝幢寺や田村廃寺などの古代寺院も地元の豪族達によって建設され始めます。彼らは同時に中央政府の進める条里制工事を積極的に担います。こうしての丸亀平野の大部分に条里制の地割が引かれます。大規模土地改良が行われた所は、大きく姿を変えていきます。この条里制による地割りは、現在においても一町(109.09m)四方に区画された方形の地割が残っていて、グーグル地図で見ると碁盤の目状の条里地割がよく分かります。しかし、これは一気に行われたのではなく、その多くのエリアは放置されたままだったことが発掘調査からは分かってきています。照葉樹林帯の森の中にぽつんと開かれた農耕エリアがあったとイメージした方がよさそうです。丸亀平野の開墾・開拓は近代まで続きます。その成果が、現在の姿です。
平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

新田橋本遺跡の時代ごとの様子を見てみましょう
【弥生時代】            
弥生時代後期頃から、この地域では灌漑用水路の整備が始まります。東西両側が低地に挟まれた微高地にあたるために、集落が形成されるには適していますが、農業を行うためには農業用水に不足するエリアです。そのため上流域から大型の水路を整備しています。弥生時代に開削されたと考えられる大型の溝は3条見つかっています。これらの溝は、古代まで継続的に利用されていたようです。3本の用水路の中でもSD02は、他の溝と比べても合流等が多く、水量も多かったようで、特に重要なものだったと研究者は考えているようです。
 この時代の土器等は出てきたので集落機能はもっていたようですが、建物遺構は出てこなかったようで、詳しいことは分からないようです。
【古墳時代】
弥生時代に整備された大型の灌漑用水路が、古墳時代になっても使われています。しかし、中には埋没し、機能を終えた用水路もあったようです。溝は少し小規模化したようですが、その背景は分かりません。しかし、弥生以来の溝のほとんどは、条里制施行でほとんどが廃止され使用されなくなります。弥生時代と同じように、少量の土器の出土しましたが、建物遺構は出てきません。
【古代】
丸亀平野では、8世紀初頭から条里制施行の大規模土地区画事業が始まります。この遺跡の東にある津森位遺跡では、7世紀の終わり頃には条里地割に沿った溝跡等が確認されています。この遺跡の古代の遺構としての特徴は、条里地割に沿った溝が縦横に多く整備されていることです。更に、建物群が集中して建てられていたことです。出てきた建物跡は、全て掘立柱建物で、それ以前にも建物はあったようですが、条里制施行による土地改良で消失してしまったと研究者は考えているようです。
 発掘エリアの南部では、条里地割の坪界があり、ここには大型の東西溝があります。その南側には、少しランクの落ちる溝が併走しています。この間が道路と研究者は考えているようです。
特徴的なのは、海との関連が強く感じられるものが出てきたことです。
①製塩土器の出土があったこと、
②飯蛸壺が8か所から14点出土したこと。
津森位遺跡からは、やはり飯蛤壺保管用と考えられる土坑も見つかっているので、海岸線近くに立地した集落であったことがうかがえます。
【中世】
古代の景観が基本的には継承されているようです。15棟の建物遺構の内のいくつかは、柱穴の切り合い状況や形状から見ても中世に属するものと研究者は考えているようです。出土遺物も土師質土器片が多く出てきています。大型円形土坑が多く出てきましたが、これは中世につくられたもののようです。各圃地の隅部や縁辺部に配置されているので農業関連遺構のようですが、詳しくは分からないようです。
【近世】
古代以降の条里制地割が継承されています。柱穴列が確認されているので、近世までは継続して集落があったことがうかがえます。その後は、基本地割や景観を保ったまま今に至っていると研究者は考えているようです。

さて、注目したいのは「条里地割の坪界」とされる大型の東西溝がみつかっていることです。
丸亀平野北部 条里制

上図は丸亀平野の条里制復元図です。那珂郡は丸亀城を通る南北ラインを基軸手として、東から一条・二条と五条まで条があったことが分かります。里は南から打たれているので北側は24里まであったようです。
 空白部は条里制が未実施な所とされます。先ほど見た金倉川流域は空白地帯です。そして海岸線を見ると道隆寺より北側も空白地帯です。これは、当時はここが海岸線だったことを示します。
 ⑤の平池から北に流れているのが西汐入川です。その右岸(東側)は空白地帯です。つまり新田橋本遺跡付近は、条里制は施行されていなかったと研究者は考えいました。実際はどうだったのでしょうか。報告書を読み進めていきます。
土器川 扇状地


この遺跡は小字名に『新田』とあるように、周辺は近世の新田開発により形成された地域です。
史料には「町新田・丸亀新田・新興・丸亀新興」という名前で登場してきますが、正式な地名はなかったようです。明治になって丸亀新田となり、明治11年に新田村として那珂郡作原郷に属していましたた。

丸亀平野北部 条里制復元図

 この遺跡の場所は、新田町の北西端で、北は今津町、西は金倉町に接しています。そして、西の天満池水系と東の皿池水系に挟まれる微高地の上にあり、周囲には水田地帯が広がります。しかし、皿池水系エリアでは、条里地割とは軸がずれて水田が整備されています。ここからは、このエリアが古代の条里制施行の時に開発されたものではなく、近世の開発によることがうかがえます。そして、地元の研究者も、「新田」という地名から江戸期になって初めて開発された所と考えていたようです。
 しかし、今回の発掘では古墳時代の用水路が条里制施行によって埋められている跡が出てきました。つまり、この遺跡周辺も条里制実施エリアであったということになります。その復元図が上図になります。この復元図からは、新田橋本遺跡が那珂郡三条二十一里一ノ坪」に位置していたことが分かります。条里制施行による区画整理が行われた後は、大きな地割の変更は行われずに現代に至ったようです。現在の地割が、古代の状況を比較的留めていると研究者は考えているようです。
平池南遺跡 5m等高線地図

調査報告書には、発掘成果を次のようにまとめています
①弥生時代の灌漑用水路が、予想通りにでてきたこと
②古代の条里制施行により土地改良が行われ、現在の地割になったこと、そして、その後に新しい地割に沿った集落遺構が作られたことを裏付ける遺構が発見された
③新田橋本遺跡において初めての建物を検出したこと
④この地割に沿った集落造営は近世まで継続していたこと
①からは、微髙地に水を引いてくるために、上流の湧水などから用水路が整備されていたことが分かります。これは丸亀平野の弥生遺跡の一般的な姿のようです。
②③からは、この微髙地も条里制工事の対象で、8世紀の早い時期に工事が行われ、その後には集落が形成されるようになったことが分かります。
また、海岸線に近く丸亀平野で一番海に近い集落として、漁労活動も行っていたようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
新田橋本遺跡2 エデイオン店舗建設に伴う発掘調査報告書 丸亀市埋蔵文化財発掘調査報告書20号 2015年
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大般若経 正覚寺
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讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から

 大船若緑六百巻を全部読むことは無理です。
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大般若経 転読

折り本の先を扇形に開いて、片方からサラサラと広げては、その間に七行、五行、三行と読んでいきます。それが悪魔払いだということになり、般若声といわれる大きな声で机をたたいて読んでいくスタイルが定着します。庶民にとっては、こちらの方がショーアップ化されて「ありがたみ」があるように思えたのでしょう。これが各地の寺院や神社の祭礼にも取り込まれていきます。
 当時は、神仏混淆で、神社の祭礼も別当寺の社僧が取り仕切っていた時代です。僧侶達が主役となる大般若経転読の行事は、急速に郷村に広がります。このような動きが大般若経の写経活動の背景にあったことを押さえておきます。こうして大般若経の転読は、豊作析願、祈雨・止雨祈願、疾病抜除、その他災害を防ぎ、安寧維持のために盛んに行われるようになります。
大般若経 箱担ぎ
箱に入れられた大般若経を担いでの村まわり
 
四国霊場の本山寺では近世には、大般若経六百巻が村回りをしていたようです。
大般若経のお経の入った箱を担いで村を回ります。これも地域を回って読む一つのやり方ですから、「転読」といえるのかもしれません。住職が手にするのは「理趣分」という四百九十五巻のうち一冊だけです。それを各家々で七五三読みで読みます。大般若の箱を担いで歩くのは村の青年たちです。村を一軒一軒回って転読します。この際に、折り本からです風を「般若の風」と呼びました。この風に当たれば病気にならないというのです。有難いお経の起こす風が信仰対象になっていたようです。

 大般若経は全六百巻もあるお経です。
それを備えるための書写や版経の刊行は大事業でした。その実現のためには、大きな資力や人的な結集を必要とされました。作成後も、それを維持するためには多くの費用と努力が求められます。逆に、大般若経がどのように作られたか、それがどのように維持されてきたのか、あるいは退転したのかについての研究が進むにつれて、いろいろなことが少しずつ分かってきたようです。今回は、塩飽本島の正覚院に残された大般若経が、どのようにしてここにやってきたのかを追いかけて見ましょう。
テキストは「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です
香川県丸亀市本島町泊の寺院一覧 - NAVITIME
正覚院
本島泊の妙智山観音寺正覚院は真言宗醍醐派の寺院で、塩飽諸島きっての古利として知られています。
この寺は京都の醍醐寺を開いた理源大師聖宝の生誕地という伝承もあり、現在も広く信仰を集めています。そして今でも護摩法要が営まれるなど密教山岳寺院の性格を色濃く残しています。中世には修験者たちの活動の舞台となった気配がします。

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正覚院(丸亀市本島)
 「正徳三年六月改」とある『塩飽島諸訳手鑑』によれば塩飽諸島には真言宗寺院33ヶ寺、天台宗1ヶ寺、浄土宗2ヶ寺があったと伝えます。真言宗寺院が圧倒的に多かったことが分かります。正覚院は、その中でも真言宗寺院の本山として大きな位置を占めていました。この寺には国指定重要文化財や県指定、九亀市指定の文化財がいくつかあります。
その中でも国指定重文の本尊観音菩薩坐像は脇侍の不動明王像、毘沙門天像とともに鎌倉時代初期のすぐれた中央作とされます。その他にも鎌倉時代初期の線刻十一面観音鏡像等もあり、正覚院の由緒を物語るものになっています。
正覚院 夏まつり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
正覚院の夏祭り
 正覚院は寺伝では空海開基、聖宝中興としていますが、そこまで遡るのは文献史料の上では難しいようです。しかし、寺のある泊地区は古来からの本島の中心地区であったようです。
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正覚寺には、九亀市指定文化財の大般若経があります。
現在は「二〇六帖」が確認され、全て折本のようです。これらは次の2種類に分類できるようです
①南北朝時代の写経で、表紙が渋引きし刷毛目文様の193帖
②鎌倉時代建保五年(1217)の奥書のある写経で、藍色表紙の11帖
①の南北朝以前の193帖を書写の時代で分けると、次のようになるようです
平安時代院政期 一帖
鎌倉時代前期 五帖
南北朝時代 百八十三帖
室町時代 三帖
江戸時代 一帖
大般若経は、最初にお話ししたように「投げられるお経」でしたから、破損や散逸が起きます。その度に不足の巻を補写・購入・寄進等によって補充していくことになります。そのために異なる時代、異なる装填の経典が混じってくるようになるようです。

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正覚院

この寺の大般若経が揃えられたのは南北朝時代のことなのに、鎌倉時代のものと思われる巻が含まれているのは、どうしてでしょうか。
①勧進の際の収集経(新たに写経されたものでなく既存流通の巻を購入した)
②後に欠けた不足の巻を寄進等などで補完したときに、鎌倉時代前期に書写されたものが、やってきて600巻の中に加えられた
などが考えられます。奥書に、勧進が開始されたとみられる文和四年よりも前の巻もあるようです。そして、もとからこの寺にあったものではないようです。大般若経は移動する経典なのです。それでは、いつどこからこのてらにやってきたのでしょうか?

大般若経 正覚院第1巻奥書

上の巻第一には「文和四年十月十一日 始之」とあります。讃岐の守護細川繁氏治政下で、三野の秋山泰忠が本門寺を建立していた頃の文和四年(1355)十月に、この巻から書写が開始されたようです。巻第五百七十二・五百七十三には「願主」という文言があります。書写事業の願主がいて、さらにそれを進める勧進者がいたことが分かります。しかし「願主」の下は空白です。そのため、誰がどのような動機でこの事業を開始したか分かりません。奥書があるのは巻第四百代に入ってからで、それを列記すると、次のようになります
巻第四百七      延文二年十一月八日
巻第四百九      延文二年十一月十三日
巻第四百九十二   延文二年十一月二十三日
巻第五百十七  延文二年十一月十四目
巻第五百二十七 延文二年十一月十八日
巻第五百二十八 延文二年十一月二十一目
巻第五百三十二 延文一二年二月二十日
巻第五百五十二一 延文二年十二月十三日
巻第五百七十一 延文三年二月十九日
巻第五百七十二 延文三年二月十八日
巻第五百七十三 延文三年二月十日
巻第五百八十八 延文三年二月十六日
巻第五百八十九 延文三年二月一日
延文二年(1357)十一月から翌年二月にかけて、巻次を追って書写が進行していることがうかがえます。四ヶ月間で二百巻の書写ペースです。文和四年十月から延文二年十月まで約二年間で四百巻を書写したことになります。大般若経の書写には、十年くらいはかかることはよくありました。それからすれば、このペースは速い方です。書写スタッフが充実していたことがうかがえます。スタッフは僧侶だけで、俗人はいないようです。僧侶でその所属の分かるものを挙げて見ると、次のようになります。
①巻第四百七・四百九    讃州安国寺北僧坊 明俊
②巻第五百十七      如幻庵居 比丘慈日
③巻第五百二十七      讃岐州宇足長興寺方丈 恵鼎
④巻第五百二十八      讃州長興知蔵寮 沙門聖原
⑤巻第五百五十三    讃州綾南条羽床郷西迎寺坊中 
同郷大野村住 金剛佛子宥伎
⑥巻第五百七十二・五百七十三
讃岐國仲郡金倉庄金蔵寺南大門大賓坊 信勢
①の安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石の勧めにより、元弘以来の戦死者の供養をとむらい平和を析願するため、各国守護の菩提寺である五山派の禅院を指定した寺院です。讃岐では宇多津の長興寺が安国寺に宛てられたとされます。
③④の長興寺は細川氏の守護所の置かれた宇(鵜)足郡宇多津に細川顕氏が建立した神宗寺院のようです。真木信夫氏は『丸亀の文化財 増補改訂』の中で、①③④を挙げて安国寺は長興寺であることを示すものとしています。しかし、①③④は同じ延文二年十一月に書写されています。もし長興寺が安国寺に指定されたとすると、一寺の寺が二つの寺名を使っていたことになります。そんなことがあるのでしょうか。
②の如幻庵については、何も史料がありません。禅宗系寺院の庵室の可能性を研究者は指摘するのみです。
⑤羽床の西迎寺は今はありません。綾南条羽床郷とあるので宇多津から南方の阿野郡内にあった寺のようです。同じく⑤の大野村についても分かりません。書写をした宥伎は金剛佛子とあるので西迎寺は密教寺院であったようです。
愛媛県越智郡玉川町の龍岡寺蔵大般若経巻第五百九十八奥書には、西迎寺のことが次のように記されています。
迂時康暦第三辛酉二月参拾日 讃洲綾南條羽床郷西迎寺坊中令書写畢 金剛資有俊

ここからは羽床郷にあった西迎寺では、約30年後の康磨三年(1381)にも大般若経の書写が行われていたことが分かります。羽床は南の山を超えるとまんのう町種子の金剛院と近い位置にあります。金剛院からは多くの経塚が出土しています。金剛院は書経センターで、宗教荘園の役割を果たしていたことを報告書は記します。その周辺部の寺院でも大般若経の書写が行われていたことがうかがえます。

⑥の金蔵寺は智証大師円珍ゆかりの寺院で那珂部(善通寺市)にある天台宗寺院で、四国霊場でもあります。その大宝坊は応永十七年三月の金蔵寺文書に見える「大宝院」の前身のようです。
この寺は、多度津の道隆寺と共に、写経センターとして機能するようになります。経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していきます。大川郡の与田寺と同じような役割を果たしていたと私は考えています。
 この他にも、所属の分からない巻第四百九十三・五百八十八書写の金剛佛子宥海、巻第五百七十一書写の金剛仏子宥蜜も「金剛」がつくので密教僧であり、宥伎との関係が推測されます。

以上からは、僧侶等は真言や天台など宗派にかかわらず書写事業に参加していたことがうかがえます。
大般若経の書写には、「知識」を広く結縁するという願いがあるためか宗派の枠を越えて行われます。当時の讃岐では、増吽のいた大川郡の与田寺が書写センター的な役割を果たして、いくつもの大般若経の書写を行っていることは以前お話ししたとおりです。また奥書にみえる寺は、宇多津のヒンターランドの讃岐国中央部に当たります。おそらく奥書記載のない他巻の結縁者も、多くはその圏内の者であったと研究者は考えているようです。

 その中でも中心的な位置をしめた寺院は、どこでしょうか。
①~⑥までの中で云えば、「願主」の記載のある巻第五百七十一・五百七十三を書写した金蔵寺のようです。金蔵寺が書写事業の中心であったことは、この大投若経のその後の変遷からも分かるようです。
以上をまとめておくと次のようになります
残された奥書からからは、文和四年(1355)に写経事業が始まり、延文二年(1358)年頃には全巻が完成したことが分かります。これは異例の速いスピードでした
  その70年後に、一部が失われたか破損したようで永享八年(1426)に補写された巻もあります。そして、延徳三年(1491)に、多度郡道隆寺の僧が願主となって、那珂郡下金倉惣蔵社の所有となっていた大般若経一部六百巻を折り畳む事業が行われます。これが最初の改装で、巻物から旋風葉にスタイルが変更されたようです。

 延文三年(1358)に完成した大般若経が、どこに納められたかは分かりません。
しかし、その後に破損が生じたためか永享七年(1435)に那珂郡杵原宝光寺の慶宥により書写され補充されています。宝光寺という寺は今はありませんが、慶宥は三宝院末弟とあるので真言宗醍醐寺系の寺院に関係ある僧侶だったのでしょう。那珂郡杵原は、現在の九亀市柞原町で、宇多津と金蔵寺との中間にあたります。宝光寺僧が書写補配したことから、この周辺部に大般若経が置かれていたことはうかがえます。
大般若経 正覚院 下金倉
讃州仲郡金倉下村の惣蔵社の「御経」と読めます

 どこに保管されていたのかが分かるのは延徳三年(1491)になってからです。
下金倉村の惣蔵社(官)の常住経として保管されるようになったことが上の奥書から分かります。下金倉は金倉川河口の右岸で、金蔵寺の北方約3kmの地です。しかし、惣蔵社という神社は、今はありません。
延徳三年は、書写が完成した延文三年から130年以上も経っていますが、もしかしたら最初からこの惣蔵社に置かれていたのかもしれません。近年の各地の大般若経調査で明らかになったことのひとつに、明治の神仏分離以前は神社に大般若経があったことです。大般若経が村落での信仰の対象として、神社の祭礼で使用されていたのです。そういう視点からすれば、大般若経書写が最初から惣蔵社に奉納するために行われたとかんがえることもできます。宗派を越えた結縁者(書経参加者)のネットワークからは金蔵寺という一寺院へ納めるためというよりも、地域での信仰の対象であった神社に備えるために行われた可能性が高いと研究者は考えているようです。

大般若経 正覚院道隆寺願主 2
巻第六百の奥書
 延徳三年の奥書には他にも興味深い記載があるようです。
それは、上の巻第六百の奥書です。ここには
「讃州多度郡於道隆寺宝積院奉如件」

とあり、全六百巻が多度那道隆寺宝積院で「折られている」ことが分かります。「折る」とは、巻物を折本に改装することです。この時に巻子本から旋風葉に変わったようです。軸を取り外して、一定の行数で折り畳み、前後の表紙と包背布を付けることは、私が思うような簡単な作業ではないようです。これには専門の経師の技術が必要でした。大規模な修理や改装になるので「再興」とみなされ、発願者がいる場合もあります。この場合も「再興事業」の大願主として道隆寺の権大僧都祐乗と権少僧都祐信の二人の名が最後に記されています。

大般若経 正覚院道隆寺願主

 巻第四百七には、祐信は道隆寺別当と記されます。
道隆寺は以前にもお話ししたように「海に開かれた寺院」として、塩飽や白方、庄内半島などの寺社を末寺として、地域の中核寺院の機能を持つようになっていました。その道隆寺が惣蔵社の大般若経の折本化を行ったようです。
道隆寺 中世地形復元図
中世の堀江湊と道隆寺周辺の復元図
道隆寺は、金倉川を隔てて下金倉の西側に位置します。
道隆寺文書には永正八年(1511)頃には、下金倉に道隆寺の所領があったと伝えます。延徳三年頃には、下金倉にあった惣蔵社を末寺とするようになっていたのかもしれません。それが改装事業をおこなう契機になったのでしょう。

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木烏神社(塩飽本島 泊)

それでは、下金倉にあった大般若経がどうして塩飽に移されたのでしょうか? 
下の巻第四・三百八・三百二・三百二の奥書からは、惣蔵社の大般若経が天正十三年(1585)には海を渡って塩飽島(本島)泊浦の木鳥宮(神社)の経典となっていたことが分かります。木烏神社は本島泊の鎮守社です。
大般若経 本島木烏神社

 ここには、木鳥宮経典として社殿から出さずに護持されるべきものであったが、「衆分流通」であると記します。「流通」とは、もともとは仏の教えを広めるという意味ですが、ここでは鎮守神祭祀を担う泊浦住民共通の経典という意味のようです。ここからは、この大般若経が木烏神社で年中行事や臨時の転読等に用いられていたことが分かります。
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   木烏神社本殿から鳥居方面を眺める 直ぐ向こうが備讃瀬戸

 この年に西山宝性寺住持秀憲が破損していた六巻を修復し、不足の巻を補っています。西山とは泊の西山で、宝性寺はかつては正覚院の末寺であり、木烏神社とも関係があった寺院だったようです。
なぜ大投若経がこの島に移されたのか、それはいつのことかなど詳しいことは分かりません。ただ、道隆寺と正覚院は同じ醍醐寺系の寺院として密接な関係にあったようです。
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正覚寺
正覚院の『道隆寺温故記』を年代順に並べ、年表化してて見ましょう。

弘治二(1556)年九月二十日 道隆寺僧秀雄が正覚院尊師堂の供養。
天正三年(1575)二月十八日 道隆寺の良田が正覚寺本堂の入仏供養導師を勤めています。
天正十八年(1590)年   秀吉の塩飽朱印状発行 
文禄元(1592)年 道隆寺の良田が正覚寺に移り、道隆寺院主として正覚院を兼帯
慶長十年(1605)十月十六日 良田が塩飽で死亡。
以前にもお話しした通り、道隆寺の布教戦略は塩飽への教線ラインの参入拡大で、本島の正覚寺を通じて、塩飽の人とモノの流れの中に入り込んでいくものでした。そのために道隆寺院主の良田は、正覚院を兼帯し本島で生活していたようです。ここからは道隆寺にとって、塩飽本島は最重要の拠点だったことがうかがえます。それが下金倉にあった大般若経を、塩飽泊浦に移す背景になったと研究者は考えているようです。分かるのは、戦国時代に道降寺信仰圏内にあった下金倉の惣蔵社から、塩飽本島に移されたという事実だけです。  
 その大般若経が現在の正覚寺移ったのは、近代になってからのようです。その理由については、よく分かっていないようです。

以上をまとめておくと次のようになります。
①14世紀半ばに、金蔵寺が願主となり大般若経600巻が書写された。それがどこに納められたかは分からない。
②この大般若経は、15世紀末には那珂郡の下金倉惣蔵社の所有となっていたことが分かる。
③それを、多度郡道隆寺が願主となって、「折り本」化するスタイル変更が行われた
④戦国時代末に道隆寺の塩飽布教の一環として、下金倉の惣蔵社(官)の大般若経は、本島の木烏神社に移され、別当寺のもとで祭礼に使用された。
⑤明治の神仏分離などで、別当寺が退転する中で、仏具とともに正覚寺に移された。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「加藤優 本島正覚院と与島法輪寺の大般若経  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です

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塩飽本島の笠島集落
江戸時代の塩飽諸島は、朱印状を与えられた廻船の島として特別な位置を持つようになります。
天正十八(1590)年秀吉の朱印状によって、塩飽島1250石が、船方650人の領知するところとなります。船方(水主)650役の島として、秀吉の直轄領に指定され、小田原攻や朝鮮出兵に関わりました。この朱印状は、家康によって安堵され、江戸時代も幕府の直轄領として、650人の水主役を果し「船方御用相勤」を続けます。
 このような島は、他にはありません。芸予諸島の村上水軍と比べると、非常に有利な条件で中世の財産を、近世に持ち込むことができたと云えるかもしれません。このように塩飽島の水主役は、秀吉の天下統一・対外政策とかかわって設定されたものであることを前回はみてきました。
 江戸時代半ばになると、その性格を次第に変えていくようになります。戦時の後方支援という役割から朝鮮通信使や長崎奉行の送迎など幕府の政治・外交上に関係する海上輸送業務に従事することが任務になっていきます。
 塩飽島における政務は人名から選ばれた「年寄・庄屋・年番」などによって行われました。
近世初期に「年寄」を勤めたのは入江氏・真木氏・古田氏・宮本氏などです。寛永以後は、吉田氏と宮本氏を中心に自宅を塩飽政所と称し、浦(本島と広島)や島に置いた庄屋・年番を続轄して支配が行われました。そのため世襲化した年寄の支配がだんだん強大となり、人名内部からも反発が生まれ、寛政元年年四月には巡見使へ政所改革の訴願が行われます。これを契機に、行政改革が行われたことは以前にお話しした通りです。
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 この改革の一環として、政務センターとしての勤番所が建設され、ここで塩飽島の行政が行われるようになります。
塩飽島の行政は、この寛政改革によって塩飽政所行政(年寄の自宅)から塩飽勤番所行政へと変り、組織的にガラス張りで行われるようになったともいえます。そして年寄を中心とする勤番所行政は、明治五年まで続くことになります。
 近世初頭の年寄支配の強さの背景として、研究者は次のような要因を挙げます
①中世以来の在地土豪の出身であり、土地所持者であったこと
②船方の棟梁で廻船業者であり、社会的地位が高く、経済力が卓越していたこと
年寄たちが「土地所有 + 廻船業者」によって経済力をもっていたことが大きかったようです。宝永元年八月「塩飽嶋中納方配分帳」(塩飽勤番所保管文書)からは、当時の年寄四人の年寄役が、飛び抜けた配分高を得ていたことが分かります。その年寄の残したものを見てみましょう。
年寄役の一人である笠島浦の吉田彦右衛(彦右衛門は世襲名)は、笠島浦の奥まった所に約271坪の屋敷をもっていました。
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そして、菩提寺の浄土宗専称寺境内には「塩飽笠嶋之住人吉田彦右衛門家永」と刻まれた大きな「人名墓」と呼ばれる墓石を残しています。これは高さ2,3m、幅75㎝・厚さ44㎝の逆修墓石で、寛永四(1627)年八月四日に建立されたものです。
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この他にも家永(長)は、八幡宮(泊浦宮之浜)の大鳥居を、寛永五年六月に年寄宮本家とともに奉献しています。大鳥居には「塩飽嶋政所吉田彦右衛門家長」と刻まれています。寛永年間頃の政所(年寄)吉田彦右衛門家永が、豊かな財力を持っていたことがうかがえます。
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 泊浦の年寄宮本家も吉田彦右衛に並ぶ財力の持主だったようです。
年寄宮本半右衛門も、笠島の吉田家が「人名墓」を建てた同じ年の寛永四(1627)年に、初代宮本伝太夫の墓を作っています。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
木烏神社(泊浦)の大鳥居

同時に木烏神社(泊浦)の大鳥居を、薩摩の石大工紀加兵衛に製作させ奉献しています。寛永年間には、笠島浦の吉剛家と泊浦の宮本家は、豊かな財力をきそい合っていたようにも見えます。八幡宮の大鳥居建立には吉田彦右衛門家長をはじめとする吉田家が中心となり、それに宮本家も加わっています。また木烏神社の大鳥居建立には宮本半右衛門正信をはじめとする宮本家が中心となり吉田家も加わり建立しています。この時期、年寄の両家を中心として塩飽島は、廻船業などで繁栄し、黄金時代を迎えていた時代です。それが立派な墓石や大鳥居の建立となって、今に残っているのでしょう

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このような塩飽の繁栄は、いつまで続いたのでしょうか。
廻船業は競争時代に突入し、相対的に塩飽島の地位は低下していきます。明和二(1765)年八月「塩飽嶋明細帳」(塩飽勤番所保管文書)には、次のような記録が残っています
一、船数大小合三百弐拾壱艘
七艘    千百石積より千四百石積迄    廻船
五拾七艘 四百五十石積より三十石積迄  異船
拾壱艘    五十石積より入石積迄      生船
弐拾三艘  三拾五石債より弐十石積迄    柴船
八十八艘  弐拾五石積より八石積迄    通船
百三十三艘 十三石積より五石積迄      猟船
式艘    三十石積            網船
嶋々之者共浦稼之儀、先年者廻船多御座候而、船稼第一二付候得共、段々廻船減候二付、異船稼並猟働付候者茂御座候、且又他国江罷越、廻胎小舟之加子働仕、又ハ大工職付近国江年分為渡世罷出候、老人妻子共農業仕候
意訳変換しておくと
塩飽では、かつては廻船が多くあり船稼が第一だった。ところが、明和2(1765)年になると塩飽島の人々の職業は、廻船を中心とする船稼から、廻船・異船(貸船)・猟働・他国の廻船・小舟の加子働きや大工職などで出稼ぎする者が多くなり、老人子共は島に残り農業を行うようになってしまった。

これは、島の窮状を訴えるための文書なので、そのままには受け取れませんが、廻船中心に栄えた経済繁栄が失われ衰退しつつあることを危機感を持って訴えています。
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笠島集落

正式文書に「人名」と言う言葉は出てきません。「船方」が正式な呼び名です。
 年寄は別な表現をすれば、船方650人のメンバーの一人でもありました。近世初期の年寄は、一族で多くの船方を担当したはずです。この船方を何時の頃からか塩飽島においては、人名と呼ぶようになります。しかし、江戸時代には公式文書には、この呼称は使用されていません。使われているのは「船方」(水主)です。それも年寄と大坂船手奉行・大坂町奉行との間の文書のやりとりの中に限られ、年寄からの文言に対して具体的に指示する必要から便宜上使用しているだけだと研究者は指摘します。
 明治になっての維新後秩禄処分の金禄公債証書交付願のやりとりの中でも、政府は水主という言葉を使用し、人名という言葉は全く使用していません。つまり近世・近代において人名という呼称は、塩飽島で私的に使用されてはいますが、公的には使用されていなかったことは押さえておきたいと思います。
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笠島集落
それでは「人名」という言葉が広がったのは、いつからなのでしょうか。
塩飽島の人々の間で、人名に対する認識が深まるのは、版籍奉還・秩禄処分の問題を通してのことのようです。金禄公債証書交付願の運動(明治9年~34年頃まで)を通して、人名650人の結束は強められていきます。その動きを見てみましょう。笠島町並保存地区文書館展示史料には、明治になっての豊臣神社の勧進運動の記録が残っています。
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尾上神社(笠島浦)
笠島浦では、明治14年11月に、人名78人が、尾上神社境内へ豊臣神社(小祠)の新設を那珂多度部長三橋政之宛願い出て、許可されます。その願文には次のように記されます。(意訳)
 維新によって領知権は消滅したが、秀古の発拾した朱印状によって島民の生活は支えられた、その恩に報ゆるために笠島の人名同志78八人が相談して、「豊霊ヲ計請シ歌祥デ悠久二存仁セン」として、豊臣神社(小祠)の新設した。その経費は人名78人の献金で、維持費は人名の共有山林を宛てた。

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笠島の尾上神社
笠島の尾上神社の上り口にある豊臣神社の前には、二本の石柱が立っています。向って左の石柱には
「国威輝海外」(表)、
「当浦於七十八人 明治三十一年一月元旦建之」(裏)
右の石柱には
「忠勤致皇室」(表)
「天正年間征韓之役従軍塩飽六百五十中」(裏)
と刻まれています。この二本の石柱は、日清戦争の勝利と秀吉の朝鮮出兵を歴史意識としてダブらせて建てられたようです。日清戦争の勝利記念と自分たちの先祖の朝鮮出兵が結びつけることで、ナショナリズムの高揚運動と、人名の子孫としてのプライドを忘れまいというる意図が見えてきます。このように豊臣神社や石柱の新設建立に、笠島浦の人名は結束して行動しています。この豊臣神社のある尾上神社の境内には「一金四百円 当浦人名中」(年不記)刻まれた寄付金の石柱もあります。
塩飽島(香川県丸亀市本島町)泊浦木烏神社鳥居 八幡神社鳥居と 小烏 (こがらす) 神社鳥居は薩摩石工、 紀加兵衞 (きのかへい)  作である。寛永四年(一六二七)作である。 木烏神社 甲生浦、徳玉神社(安徳天皇は屋島敗戦後塩飽に移られた)
 今度は泊浦の木烏神社境内を見てみましょう。ここには、次のような刻字のある石碑が泊浦人名90人によって建てられています。
「豊公記念碑海軍大将子爵斉藤実書」(表)
「塩飽嶋中人名六百五拾名之内泊浦人名九拾人 昭和三年十一月建之」(裏)
以上のように本島の笠島浦・泊浦を歩いただけでも「人名」と刻した石柱・記念碑などがいくつも目に入ってきます。朱印状の船方650人は人名として昭和期まで結束して活躍していることが分かります。
3  塩飽  弁財船

 天正十八(1590)年の秀吉朱印状の「船方六百五十人」の船方は、戦時の水主役が勤まる650人であったはずです。しかし、江戸時代の天下泰平の時代になると、水主役の代銀納が行われるようになります。
広島の江の浦庄屋七郎兵衛の安永八年の記録「江ノ浦加子竃数並大小船数」には、次のように記されています。
加子(水主)一人役株を持つ八左衛門は、職業(渡世)は木挽、同喜十郎は農業、同太治郎は異船(貸船)商売、同新七は農業、同治郎左衛門は廻船加子働、同喜兵衛は加子
ここからは加子役株(人名株)を持っている人たちの職業(渡世)は色々であったことが分かります。つまり船方(水主)650人という実質的な夫役負担者から、水主役とは関係のない職業の者が、水主株所持者(船方・人名持者)になっていたようです。

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 人江幸一氏保管文書によると幕末、人名持(人名株、船方・水主・人名)という表現がよくみられるようになります。例えば次のような人たちです。
人名持百姓何某・人名持船方何某・人名持大工何某・人名持庄屋何某・人名持年番何某・人名持弥右衛門・人名持三郎後家たつ・入名持長左衛門後家とよ・人名持彦吉後家さゆ・人名持兼二右衛門後家さよ
ここからは「大工や後家」の人たちまで人名株を持っていたことがうかがえます。水主役とは、戦時召集には水夫として活躍するはずでしたが、そこに「後家」も名を連ねているのです。

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さらに、人江幸一氏保管文書の安政三年「辰麦年貢取立帳」(泊浦)に「人名株弐口五人二而割持」とあります。安政五年「午責年貢取立帳」(泊浦)には「小人名持分」として、人名一株未満の所持者を「小人名」と呼び、十二人の小人名の名前が記載されています。ここからは幕末には、人名一人役(一株)が複数人によって分割所持されていたことが分かります。
以上の例から、研究者は次のように指摘します。
①水主役に従事できない人々の水主役(株)の所持が進行していた
②水主一人役(株)が、複数人によって所持されるという水主役株の分化が進行していた
これは、近世初頭の人名設置からすると、水主役(船方役・人名役)の形骸化が進行していたと云えます。
この背景には、人名株を一人前でなくても所持したいという願望があったのでしょう。このように朱印状の船方六百五十人の仲間になりたいという願望が、塩飽島の人々には強くあったようです。塩飽島において船方(人名)株を持つことが、一つのステータスと考えられていたのです。
 慶応四年一月人名(株)のない小坂浦の者達が人名二人前を要求して小坂騒動が起こったことは、その象徴としてとらえることができよう。そのような意識は明治以後も強く、「人名社会」という言葉が使用され、「人名」と刻したさまざまな石柱や記念碑を造らせたともいえよう。
咸臨丸で太平洋を渡った塩飽の水夫|ビジネス香川

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優


3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所) 
 
現在塩飽動番所には、次の5点の朱印状が保管されています。
   発行年月      発行者    宛先
 ①天正五年三月二十六日 織田信長 官内部法印・松井有閑
 ②天正十四年八月二十二日 豊臣秀吉 塩飽年寄中
 ③文禄元年十月二十三日 豊臣秀次 塩飽所々胎生、代官中
 ④慶長慶長二十八日    徳川家康   塩飽路中
 ⑤寛永七年八月十六日   徳川     塩飽路中
  これらについては、以前にお話ししましたので、今回は触れません。今回お話しするのは、この中にはありません。写しだけが伝わる天正十八年二月晦日の秀吉朱印状についてです。 

3塩飽 秀吉朱印状

勤番所に残っている秀吉の朱印状は、天正14年もので、船方の動員についてのものです。その四年後のものが、1250石の領知を650人の船方(水主)に認めた認めたもので、所謂「人名」制度の起源となる文書になります。そういう意味では、もっとも重要な文書ですが勤番所には残されていません。文書がないのに、その内容が分かるのは「写し」が残っているからです。「塩飽嶋諸事覚」(『香川叢書二』所収)に「御朱印之写」として記されているようです。どうして、最も大切な朱印状が残されてないのでしょうか。また、どんな内容だったのでしょうか。それを今回は見ていきたいと思います。
塩飽勤番所

 「香川県仲多度郡旧塩飽島船方領知高処分請願書写」明治34年1月の「備考」には、次のように記されています。
「此朱印書は第二号徳川家康公ノ朱印書拝領ノ時 還却シタルモノニテ 今旧記二依リテ之ヲ記ス」(『新編丸亀市史2近世編』)

ここには「秀吉朱印状は、家康公の朱印状をいただいたときに返却したので伝わっていない。そのために「旧記」に書かれている秀吉朱印状の内容を写し補足した」と記されています。「旧記」とは『塩飽嶋諸事覚』のことでしょう。
 これについて真木信夫氏は、次のように指摘します
「享保十一年(1727)九月に年寄三人から宮本助之丞後室に宛てた朱印状引継書にも記載されていないので、慶長五年(1600)徳川家康から継目朱印状を下付された時、引き替えにしたものではなかろうかと思われる」(『瀬戸内海に於ける塩飽海賊史』143P)
 ここからは、秀吉の天正十八年二月晦日の朱印状は、享保の時代からなかったこと。家康からの朱印状をもらった時に、幕府に返納したと研究者も考えていることが分かります。そのために、塩飽には伝来していないようです。勤番所に、「人名」を認めた秀吉朱印状がないことについては納得です。
それでは秀吉朱印状写には、何が書かれていたのでしょうか。
  秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚の写し)
御朱印之写
塩飽検地
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千三拾石       山畠方
千弐百五拾石
右領知、営嶋中船方六百五拾人江被下候条、令配分、全可領知者也。
天正十八年二月        太閤(秀吉)様御朱印
            塩飽嶋中
3塩飽 家康朱印状
家康の朱印状
これを、後に出された家康の朱印状と比べて見ましょう
塩飽検地之事
一 式百式拾石     田方屋敷方
一 千参拾石        山 畠 方
合千弐百五拾石
右領知、常嶋中胎方六百五拾人如先判被下
候之条、令配分、全可領知者也
慶長五年      小笠原越中守奉之
九月廿八日
大権現御朱印(家康)
          塩飽嶋中
  秀吉の朱印状と比較して気付くのは、ほとんど同じ形式・内容であることです。秀吉の朱印状を安堵したものだから、家康のものは同文でもいいのかもしれません。しかし、発行する側の秀吉と家康の書紀団はまったく別物です。前例文章を見て参考にして作ったということは考えられません。違うときに、違う場所で作られた文書にしては、あまりにも似ていると研究者は考えます。発給主体が異なるのに、これほど似た文になるのだろうかという疑念です。
死闘 天正の陣
秀吉の四国平定図

 また秀吉朱印状は検地により高付けが行われています。その時の名寄帳が二冊残っています。そのうちの「与島畠方名よせの帳」には、天正十八年六月吉日の日付になっています。これは朱印状よりはるかに後の日付です。検地帳の方が先に作成されるとしても、名寄帳はそれからあまり日を経ずに作成されるのが普通です。どうしてなのでしょうか?
 朱印状の発行日の天正十八年二月晦日は、塩飽の船方衆が兵糧米輸送に活躍した小田原の北条氏攻めに秀吉が出発する前日にあたります。その功績に対しての発給とも思えますが・・・
以上のことから『塩飽嶋諸事党』所載の秀吉朱印状写には「作為」があると研究者は考えているようです。
家康朱印状に「如先判」とあるので、先行する秀吉の朱印状があったことは確かです。どうして作為あるものを作らなければならなかったのでしょうか。その背景を、研究者は次のように推理します。

『塩飽嶋諸事覚』所載の秀吉朱印状は、おそらく後世に「如先判」とあることに気づいた者が、先行する秀吉朱印状があって然るべきであると考えて、家康朱印状を例にして造作した。日付は小田原陣出陣前日に設定した。

そして、本物の写しは別の形で伝えられていると考えます。それが、「塩飽島諸訳手鑑』(『新編九亀市史4』所収)の末尾に近い個所にある「御朱印之写」とします。
塩飽検地之事
一 式百弐拾石ハ円方屋敷方
一 千三拾石ハ 山畠方
右千二百五拾石
右之畠地当嶋中六百五拾人之舟方被下候条令配分令可為領知者也
年号月日
御朱印
  これは、従来は慶長五年の家康朱印状とされてきました。しかし、家康朱印状は別に掲載されているので、研究者は内容からみて秀吉の発給したものと考えます。日付と宛所が空白なことも、掲載の時点ですでに知ることができなかったのであり、かえって真実に近いと研究者は考えているようです。続いて「塩飽嶋中御朱印頂戴仕次第」という項があり、その中に、次のように記されています。

太閤様御代之時、御陣なとニ御兵糧並御馬船竹木其外御用之道具、舟加子不残積廻り、相詰御奉公仕申付、御ほうひ二御朱印之節、塩飽嶋中米麦高合千弐百五拾石を六百五拾人之加子二被下候、其刻御取次衆京じゆ楽二頂戴仕候御事、
意訳変換しておくと
太閤様の時代に、戦場の御陣などに兵糧や兵馬・船竹木などの道具を舟加子が舟に積んで運ぶことを、申付られた。その褒美に朱印状をいただき、「塩飽嶋中」に米麦高1250石を650人の水夫に下された。その朱印状は京都の聚楽第で取次衆から頂戴したものである。

ここからは、この朱印状写しが秀吉からのもので、聚楽第で取次衆から受け取ったことが分かります。そして「人名」という文字はでてきません。
塩飽勤番所跡 信長・秀吉・家康の朱印状が残る史跡 丸亀市本島町 | あははライフ
朱印状の保管箱 左から順番に納められて保管されてきた

最後に秀吉朱印状写(「塩飽嶋諸事覚」の写し)を、もう一度見ておきましょう。秀吉朱印状の前半部分は検地状で、後半が領地状となっている珍しい形式です。検地実施後に明らかになったの土地面積を塩飽島高として、塩飽船方650人に領知させています。この朱印状の船方650人の領知を、どのように理解したらいいのでしょうか。
 検地による高付地(田方・屋敷方・山畠方)合計1250石を「配分」して領知せよといっています。ここで注意したいのは、塩飽島全体を「配分」して領知せよといっているのではないことです。

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朱印状箱を入れた石棺
 この朱印状が発給された天正18年2月前後の情勢を確認しておきましょう。
1月 秀吉は、伊達政宗に小田原参陣を命じ、
2月 秀吉は京都を出陣
4月 小田原城を包囲
7月 北条氏直を降伏させ、小田原入城
19年1月秀吉は沿海諸国に兵船をつくらせ、9月 朝鮮出兵を命じる。
つまり、四国・九州を平定後に最後に残った小田原攻めを行い、陣中で念願の朝鮮出兵の段取りを考えていた時期に当たります。
3  塩飽 関船

海を渡って朝鮮出兵を行うためには海上輸送のため、早急に船方(水主役)の動員体制を整えておく必要がありました。海上輸送の立案計画は、小西行長が担当したと私は考えています。行長は、四国・九州平定の際には鞆・牛窓・小豆島・直島を領有し、瀬戸内海を通じての後方支援物資の輸送にあたりました。それを当時の宣教使達は「海の若き司令官」と誇らしげにイエズス会に報告しています。行長は、操船技術に優れていた塩飽島の船方(水主)を、直接把握しておきたかったはずです。行長の進言を受けて、塩飽への朱印状は発行されたと私は考えています。

5 小西行長1
小西行長

 領知とは一般的に領有して知行することです。そのまま読むと屋敷を含む1250石の土地とその土地に住む百姓(農民・水主・職人・商人などをまとめの呼称)とを支配し知行することです。百姓を支配するとは、百姓に対して行政権・裁判権を行使することであり、知行するとは年貢を徴収することになります。しかし、塩飽島は秀吉の直轄地ですから、百姓の行政および裁判は代官らが行います。従って船方650人の中から出された年寄は、代官の補佐役に過ぎなかったようです。つまり船方650人には行政権と裁判権は基本的にはなかったといえます。
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朱印状石棺を保管した蔵(塩飽勤番所)
 同じように江戸時代には、幕府の直轄地でした。時代によって変化しますが大坂船奉行・河口奉行・町奉行の支配を受けています。ここからは、塩飽船方衆(人名)は、領知権のうちの年貢の徴収権が行使できたのに過ぎないと研究者は指摘します。限定された領知権だったようです。
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船方650人は、塩飽にすむ百姓(中世的)です。配分された田畑については、自作する場合と小作に出す場合とがありました。自作の場合には作り取りとなり、小作の場合には、小作人から小作料を徴収します。つまり船方650人は、農民と同じように1250石の配分地を所持(処分・用益)していたことになります。ただし、その土地には年貢負担がありません。
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以上、秀吉発給の朱印状の領知(権)の内容をまとめると、次のようになります
①1250石を領知した船方650人は、年貢徴収権と所持権を併せ持った存在であった。
②以後、明治三年まで両権を併有していた。
しかし、これについては、運営する塩飽人名方の年寄りと、管理する幕府支配所の役人との間には「見解の相違」があったようです。
人名(船方)側の理解では、塩飽島の領知として貢租を徴収(年貢・小物成・山役銀・網道上銀など)していました。それに対して幕府の役人達は、1250石の高付地の領知と理解していましたが、運用面において、曖昧部分を残していたようです。両者が船方650人の確保などのために妥協していたと云えます。
3 塩飽 軍船建造.2jpg

 享保六年勘定奉行の命をうけ、大坂川口御支配の松平孫太夫が、塩飽島の「田畑町歩井人数」等の報告を年寄にさせています。
その時に、朱印高1250石以外の新開地は別に報告するよう命じ
ています。正徳三年の「塩飽嶋諸訳手鑑」には、すでに269石7斗5升2合5勺の新田畑があったことは伏せています。そして、塩飽年寄は田畑反別は地引帳面を紛失したのでわからないし、また朱印高の外に開発地(見取場)はないと報告しています。それを受け取った松平孫太夫は、その通りを御勘定所へ報告しています。ここからは、幕府の役人が朱印状の領知を塩飽嶋全体でなく、1250石の田畑屋敷に限る領知と考えていることを年寄は知っていた節が見えてきます。年寄のうその報告を吟味もせずに、そのまま大坂川口御支配松平孫太夫が御勘定所へ報告したのは、両者の「阿吽の呼吸」とみることも出来ます。塩飽島の年寄と大坂の支配者との間には、いわゆる「いい関係」ができていて、まあまあで支配が行われていたと研究者は考えているようです。
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人名の墓
そういう目で、塩飽島の寛政改革を見てみると、大坂の役人が穏便な処置で対応しようとしたのも納得がいきます。それにたいして、江戸の幕府中枢部は厳しい改革をつきつけます。これも、当時の塩飽年寄りと大坂の役人との関係実態を反映しているのかも知れません。
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明治維新後の近代(請願書)になると、人名と政府との間に領知についての対立がおきます。
人名の領知の考えは、近世人名の領知の理解をうけつぎ、1250石の領知は、塩飽島全体の領知とします。これに対して明治政府は、幕府の理解を受け継ぎ、塩飽島の領知ではなく、1250石の高付地の領知と理解します。そして、明治3年領知権を貢租徴収権として人名から没収します。また人名(船方)650人は百姓でもあり、従って1250石の所持者であるとして、版籍奉還時に土地を没収することなく、地租改正では1250石を、人名所持地としてその土地所有権を認めます。
 この時の政府の年貢徴収権と所持権の理解が、人名が平民に位置づけられたにもかかわらず、貢租の1/10を支給する根拠になります。そして明治13年に一時金として貢租の三年分を支給する(差額)という、もう一つの秩禄処分を人名に対して行う論処となったようです。これに対して、人名たちは華族・士族と同じように金禄公債証書の交付を要求する運動を起します。しかし、これは実現しなかったようです。
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以上を次のようにまとめておきます
①水主(人名制)の塩飽領知権を認めた朱印状は残されていない
②それは、家康から同内容の朱印状を下賜されたときに幕府に「返還」されたためである。
③後世の智恵者が「秀吉朱印状」がないのはまずいと「写し」として偽作したものが伝来した
④それ以外に、実は本物の「写し」も伝わっていた
⑤塩飽領知権については、塩飽年寄りと幕府の大坂役人との間には「見解の相違」があったが、両者は「阿吽の呼吸」で運用していた。
⑥それが明治維新になって、新政府と人名の間の争論となり、これを通じて人名意識の高まりという副産物を生み出すことになる。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  「加藤優
   塩飽島の人名 もう一つの秩禄処分  徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

   

             

                         
  現在の塩飽諸島の範囲は本島・牛島・広島・手島・与島・岩黒島・情石島・瀬居島・沙弥島・佐柳島・高見島の11島で、これは江戸時代もほぼ同じです。江戸時代は、塩飽諸島全体を「塩飽島」と呼んでいたようです。それでは、それ以前の中世は、どうなのでしょうか。中世の史料には「塩飽嶋」は、出てきますが「本島」は、登場しません。そこから研究者は「塩飽島=本島」だったのではないかという説をだしています。今回は、この説を見ていくことにします。テキストは、「加藤優   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」です。

 1 塩飽本島
本島は「塩飽嶋」と表記されている

 「塩飽」が史料に最初に現れるのはいつなのでしょうか。まずは塩飽荘」として史料に現れる記事を年代順に並べて見ましょう。
元永元年(1118) 大政大臣藤原忠実家の年中行事の支度料物に塩飽荘からの塩二石の年貢納入
保元死年(1156)七月の藤原忠通書状案に、播磨局に安堵されたこと、以後は摂関家領として伝領。
元暦二年(1185)三月十六日に屋島の合戦で敗れた平氏が、塩飽荘に立ち寄り、安芸厳島に撤退したこと。
建長五年(1253)十月の「近衛家所領日録案」の中に「京極殿領内、讃岐国塩飽庄」
建永二年(1207)三月二十六日に法然が土佐にながされる途上で塩飽荘に立ち寄り、領主の館に入ったこと
康永三年(1344)十一月十一日に、信濃国守護小笠原氏の領する所となったこと
永徳三年(1383)二月十二日に、小笠原長基は「塩飽嶋」を子息長秀に譲与したこと。
この時には、すでに現地支配をともなう所領ではなかったようです。また「塩飽荘」でなく「塩飽嶋」となっていることに研究者は着目して、すでに荘園としての内実が失なわれていたと考えているようです。以後は「塩飽荘」は荘園としては消滅したようです。

それでは中世の「塩飽嶋」とは、どこを指していたのでしょうか?
 仁安二年(1167)、西行は修行のために四国にやって来る道筋で備中国真鍋島に立ち寄ったことを「山家集」に次のように記しています。
1 塩飽諸島

「真鍋と申島に、京より商人どもの下りて、様々の積載の物ども商ひて、又しわく(塩飽)の島に渡り、商はんずる由申けるをききて 真鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかひにて渡る成けり」
   意訳変換しておくと
「真鍋という島で、京からの商人達は下船し、運んできた商品の商いを行いった。その後は塩飽の島に渡って、商いを行うと云う。真鍋島から塩飽へ通う商人は、積荷を積み替えて渡って行く」

 西行の乗った船は、真鍋島に着いたようです。商人の中には、そこで舟を乗り換えて「しわくの嶋」に向かう者がいたようです。塩飽は真鍋島への途上にあるので、どうして寄港して下ろさなかったのかが私には分かりません。しかし、ここで問題にするのは、西行が「真鍋と申島」に対して「しわくの島」と表記していることです。「しわくの島々」ではありません。「しわくの島」とは個別の島名と認識していることがうかがえます。「塩飽嶋」をひとつの島の名称とした場合、塩飽諸島中に塩飽島という名の島はありません。ここからは、後世に地名化した「塩飽荘」は、本島を指していたことがうかがえます。つまり、塩飽島とは本島であったと研究者は考えているようです。

 その他の中世史料には、どのように表記されているのかを研究者は見ていきます
①正平三年(1348)四月二日の「大蔵大輔某感状」に、伊予国南朝方の忽那義範が「今月一日於讃岐国塩飽之嶋追落城瑯」とあります。これは「塩飽之嶋」の城を攻め落とした記録ですが、これは、古城跡の残る本島のことです。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
『兵庫北関入船納帳』
②『兵庫北関入船納帳』には、文安二年(1445)2月~12月に兵庫北関を通過した船の船籍地が記されています。それによると塩飽諸島地域では「塩飽」「手嶋」「さなき」(佐柳島)の三船籍地があります。そのうち「塩飽」が圧倒的に多く37船で、その他は「手嶋」が1船、「さなき(佐柳島)」が3船です。塩飽船の多くは塩輸送船に特化していて、塩飽が製塩の島であることは古代以来変わりないようです。「塩飽」船籍の船頭に関して「泊」「かう」という注記が見られます。「泊」は本島の泊港、「かう」は甲生で同じく本島の湊です。ここからも「塩飽」は、本島であることが裏付けられます。
 塩飽諸島に含まれる「塩飽」「手嶋」「さなき」の3地域が異なる船籍として表記されていることは、互いの廻船運用の独立性を示すものでしょう。
 比較のために小豆島を見てみましょう。
塩飽諸島の島々よりはるかに大きく、港も複数あった小豆島の船籍は「嶋(小豆島)」の一船籍のみです。これは島内の水運業務が一元的に管理されていたことを示すようです。このことから推せば、「塩飽」の船籍に手島・佐柳島は含まれないのだから、江戸時代の「塩飽島=塩飽諸島」のような領域観は中世にはなかったことになります。
 それでは広島・牛島・高見島等の島が『入船納帳』に見られないのはどうしてなのでしょうか。
①水運活動をしていなかったか、
②「塩飽」水運に包摂されていたか
のどちらかでしょうが、②の可能性の方が高いでしょう。そうだとすれば当時の「塩飽=本島」の統制範囲が見えてきます。

家久君上京日記」のブログ記事一覧-徒然草独歩の写日記
島津家久の上京日記のルート

天正三年(1575)四月の島津家久の上京日記には、次のように記されます。
「しはく二着、東次郎左衛門といへる者の所へ一宿」し、翌日は「しはく見めくり候」と見て歩き、翌々日は「しはくの内、かう(甲生)といへる浦を一見」し、福田又次郎の館で蹴鞠をしています。
「しはく二着」というのは、島津家久が「塩飽=本島」に着いたことを示しているようです。その島に「かう(甲生)」という浦があることになります。これも「本島=塩飽」説を補強します。
1 塩飽諸島

近世以前に塩飽諸島のそれぞれの島が、どこに所属していたかを史料で見ておきましょう。    
①備前国児島に一番近い櫃石島は「園太暦』康永三年(1244)間二月一日の記事(『新編丸亀市史4史料編』60頁)によれば備前国に属しています。13世紀には櫃石島は、塩飽地域ではなかったことになります。
②応永十九年(一四一二)二月、四月頃、塩飽荘観音寺僧覚秀が京都北野社経王堂で、 一切経書写供養のため大投若経巻第五百四を書写しています。その奥書の筆者名には「讃州宇足津郡塩飽御庄観音寺住侶 金剛仏子覚秀」と記しています(〔大報恩寺蔵・北野天満宮一切経奥書〕『人日本史料 第七編之十六)。この観音寺は本島泊の中核的寺院であった正覚院のこととされています。ここからは、本島は宇足津郡(鵜足郡)であったことが分かります。
③弘治二年(1556)九月二十日の「讃州宇足郡塩飽庄尊師堂供養願文」(『新編九亀市史4史料編』九)は、本島生誕説のある醍醐寺開基聖宝(理源大師)のための堂建立に関する願文です。その中に
「抑当伽藍者、当所無双之旧跡、観音大士之勝地、根本尊師霊舎也」

とあり、これも正覚院に建立されたものであることが分かります。ここでも本島の所属は「宇足郡」です
④正覚院所蔵大般若経巻第四(天正十二年(1585)六月中旬の修理奥書には、次のように記されています。
「讃州宇足郡塩飽泊浦衆分流通修幅之秀憲西山宝性寺住寺」

泊浦は本島の主要湊のひとつです。
②③④からの史料からは、中世後期の本島は鵜足郡に属していたことが分かります。
次に、塩飽諸島西南部の高見島について見ておきましょう。
⑤享禄三年(1530)八月ニー五日の「高見嶋善福寺堂供養願文」(香川叢書)の文頭には「讃州多度郡高見嶋善福寺堂供養願文首」と記されます。ここからは高見島は多度郡に属していたことが分かります。佐柳島は高見島のさらに西北に連なります。佐柳島も多度郡に属していたと見るのが自然です。
尾上邸と神光寺 | くめ ブログ
広島の立石浦神光寺
④延宝四年(1676)一月銘の広島の立石浦神光寺の梵鐘には「讃州那珂郡塩飽広島立石浦宝珠山神光寺」とあります。広島は那珂郡に属していたようです。

以上を整理すると、各島の所属は次のようになります。
①櫃石島は備前
②塩飽嶋(本島)は、讃岐鵜足郡
③高見島は、讃岐多度郡
④広島は、那珂郡
ここからは今は、中世には櫃石島と本島、高見島や広島の間には、備前国と讃岐国との国界、鵜足郡や那珂郡、そして多度郡との郡界があったことが分かります。近世には塩飽諸島と一括してくくられている島々も、中世は同一グループを形作る基盤がなかったようです。つまり「塩飽」という名前で一括してくくられる地域は、なかったということです。
 以上から、「塩飽嶋」は近世以前には本島一島のみの名であり、 その他の島々を「塩飽」と呼ぶことはなかったと研究者は指摘します。それが本島がこの地域の中核の島であるところから、中世以後に他の島も政治、経済的に塩飽島の中に包み込まれていったのではないかという「塩飽嶋=本島」説を提示します。
3塩飽 朱印状3人分
上から家康・信長・秀吉の朱印状(塩飽勤番所)
「塩飽島=塩飽諸島」と認識されるようになったのはいつからなのでしょう。
それは、豊臣秀吉の登場以後になるようです。秀吉が、塩飽の人々を御用船方衆として把握するようになったことがその契機とします。この結果、天正十八年に地域全体の検地が行われます。これによって「塩飽島」の範囲が確定されます。検地に基づき朱印状を給付して1250石の田・屋敷・山畑を船方650人で領知させます。この朱印状が「人名」制の起源になります。「塩飽島」と称するようになったのは、それ以後なのです。
 しかし、それでは本島を区別するのに困ります。そこで「塩飽島」を本島と呼ぶようになったと研究者は考えているようです。そうだとすれば、戦国時代に吉利支丹宣教師が立ち寄り、記録に残した「シワク(塩飽)」は、本島のことになります。
3塩飽 秀吉朱印状

以上をまとめておくと
①中世は現在の本島を「塩飽嶋」と呼んだ。「塩飽島=本島」であった
②本島周辺の備讃の島々は、国境や郡境で分断されていて「塩飽諸島」という一体性はなかった。
③秀吉の朱印状で水主(人名)に領知されて以後、「塩飽嶋」が周辺島々にも拡大されて使用されるようになった。
④そのため中世以来「塩飽嶋」と呼ばれてきた島は「本島」とよばれるようになった。
⑤キリスト教宣教師の記録に記される「しわく島」は本島のことである。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「加藤優
   塩飽諸島の歴史環境と地理的概観 徳鳥文理大学丈学部共同研究「塩飽諸島」平成13年」

前回に続いて丸亀扇状地が、どのようにして丸亀平野になったのかを見ておきたいと思います。最初に下図に丸亀扇状地を重ねながら大きなターニングポイントを確認しておきましょう。

丸亀平野 形成史1
(0)更新世(洪積世)末期までに、土器川は丸亀扇状地を形成。平池から聖池あたりが扇状地末端
(1)更新世末期 土器川は丸亀扇状地の北に三角州を形成
(2)完新世初期 温暖化による海面上昇で三角州は海面下へ
(3)完新世中期 高温多雨化で、土器川の浸食作用激化 + 段丘面形成 =流路の安定化と堆積作用による砂州や潟の形成
(4)近世  下流域の沖積平野の形成と河口の潟湖の干拓

上の順番で丸亀扇状地が丸亀平野になっていく過程を追って見ることにします。
まずは①の扇状地がいつ形成されたかについてです。
 丸亀平野 姶良カルデラ
29000~26000年前 鹿児島湾の姶良(あいら)カルデラ火山が噴火し,火山灰(AT)を大量に日本列島に振らせました。この時期は、地球は最終氷河期で海水面が現在より約100m下がったようです。
丸亀平野 旧石器時代の日本図

そのためこの時期は、間宮海峡,宗谷海峡が陸つづきとなり、朝鮮海峡,津軽海峡は冬期に結氷し,アイスブリッジが架かった状態となります。
丸亀平野 旧石器時代の瀬戸内

瀬戸内は草原が広がり,湖沼が発達し、そこにナウマン象などの大型ほ乳類が大陸からやってきます。私たちのご先祖さん達は、現在の瀬戸内海の島々の頂上からやってくる獲物達を見張っていたようです。瀬戸大橋の橋脚となった島々の頂上からは、国分台や坂出市の金山のサヌカイトの石器破片が数多く出てきます。これらは中国地方にも搬出されています。
 以前にお話ししましたように、発掘調査では、丸亀扇状地の礫状の上から姶良カルデラの火山灰は見つかっています。この時代の土器川は、現在の平池や聖池のラインまで礫を運んできて、すでに丸亀扇状地の形成を終えていたことになります。その後に、火山灰は降り積もりました。氷河期は雨が少ないので、土器川の浸食・堆積作用は弱まります。この時期の丸亀扇状地は、現在の土器川の瓦のように礫岩が重なり積もる姿を見せていたのでしょう。土器川は北流し、岡山の高梁川などと合流し西に流れ、現在の佐田岬を迂回して足摺岬の西方で太平洋に流れ込んでいたようです。
これが一変するのが13000年前です。温暖化進み最終氷期が終わり,完新世が始まります。
 亜寒帯針葉樹林は年々少なくなり,広葉樹林,照葉樹林が広がり、草原もなくなっていきます。こうして寒冷気侯に適応し,草原を食料源にしたナウマン象,オオツノジカ等は絶滅します。代わって森林の堅果類,芽等をえさにするた中小哺乳類のニホンシカ,イノシシ,ツキノワグマ,キツネ,タヌキ,ノウサギ,ニホンザルなど、私たちに馴染みのある動物たちが登場します。地球が暖かくなるに従って、海水面は上昇し、鳴門海峡から海水が瀬戸内草原に注ぎ込み内海としていきます。
 このころには,日本列島は黒潮の流れ込みを受けて、夏季多雨,冬期多雪の気侯が形成されていきます。この時期のご先祖さまの住居は、洞穴,岩陰を利用したものが多いようです。瀬戸内平原でのナウマン象狩りから山間部の林の中での鹿や野ウサギ狩りへと生活スタイルを変えなければならなくなったようです。

 しかし、ご先祖さまはこの環境変化に適応すべく、次のような新たな「技術」を生み出します。
これが縄文時代の幕開けとなっていきます。
   土器の発明(堅果類,肉の煮沸)
   弓矢の発明(狩猟)釣針の発明(漁撈)
   尖頭器の改良―有舌尖頭器の出現(狩猟)
   石皿,磨石の増加(堅果類の調理)
   磨製石斧の増加(木器の製作)
   磨製石斧の出現.
 この過程で,どのような地形変化があったのでしょうか。
丸亀平野 気温変化
 
更新世はかつて「洪積世(こうせきせい)」とも呼ばれていました。  更新世末期の最後の寒冷期(ヤンガー・ドリアス寒冷期)が終わると、長期的で大規模な温暖化が始まりました。これを完新世の始まりとします。完新世には急激な温暖化により、氷床や氷河が解け、世界的に5m前後の海水面上昇が起こりました。特に今から約7000年前には、現在よりも温暖化していたため、海水面の高さは今よりも約3メートル高かったと推定されています。
 その後、海水面がやや低下して現在の位置になりました。海水面が上昇したことによって、それまで陸上の低地にあった河川に海水が流れ込んできて、河川の堆積物の上に海の堆積物が重なるという事態も起こりました。 これが丸亀扇状地の末端部やその下の三角州で起こったことです。

次に弥生集落と地形の変遷を淀川流域の例で見ておきましょう。
丸亀平野 地形変化

  上の説明を図示化すると下のようになります。
丸亀平野 平野形成

これを参考にしながら以前お話しした善通寺市の旧練兵場遺跡の集落の変遷について簡単に「復習」しておきます。

丸亀平野 旧練兵場遺跡
善通寺市旧練兵場遺跡 弥生時代の復元図
①丸亀扇状地(平野)は,土器川の流路が東西に変遷を繰り返して氾濫し、網の目のように流れ自然堤防を形成したため,微髙地に富んでいた。
②西からやってきた弥生人たちは、この微髙地を利用して定着し稲作を始めた。
③自然堤防上に集落、その後背湿地に小さくて不規則な水田が開かれた
④定期的に低地部分には洪水が襲ってきた。その結果,地形の逆転がしばしば起こった。
⑤大規模な洪水の際には起伏が増し,反対に小規模な場合には起伏差がなくなっていった。
⑥弥生時代中期末~後期,古墳時代後期には後背湿地部分の埋積が徐々に進んだ。
⑦7世紀末には、それまでの微髙地を含む起伏が少なくなり、今のような平坦な状態になった。
その平坦になった時期に、条里型土地割の水田が拓かれていきます。
背景には、この時期に土器川の堆積作用が激減したことがあるようです。
丸亀扇状地帯の一部で段丘化が生じたと研究者は考えているようです。分かりやすく云うと、段丘崖が出来ることによって、土器川の流れが限定化され安定化します。それに応じて、人々は土地利用や土地開発の方法を変えていくようになります。平面化した扇状地は、洪水が発生しなくなり堆積が停止ます。
これは何をもたらしたのでしょうか?その影響や結果を列挙していきましょう。
  ①地下水位が低下し土地が高燥化した。
このため,土地条件が安定し水害を受け難くなった。一方で地表面の更新が行われなくなり,同じ地表面を長い期間にわたり利用し続けなければならなくなった。
  ②地下水位の低下は湿田を、乾田化させ生産力を向上させた。
湿田と比較した場合,乾田は水管理がうまくできれば、裏作に麦をつくる二毛作が可能になったり,畜力を利用した耕作や、長鋤の利用も可能になります。これは、土地生産性を飛躍的に高めることにつながります。実際に、大阪府の池島・福万寺遺跡の中世旧耕土からは、鋤の痕跡やヒトや牛と考えられる馬蹄類の足跡が見つかっています。

  ③河川灌漑の場合には,従来の灌漑システムが段丘化により破壊されてしまうこともあった。
そのために段丘崖上まで水を引くためには、もっと上流側に取水口を設けることが必要となります。これにチャレンジしたのが中世に東国から西遷御家人としてやって来た東国武士集団だったことは以前にお話しした通りです。土器川右岸の飯山町には、そのような痕跡がいくつも残されています。

④段丘上では土地は高燥化し,より多くの灌漑用水が必要になります。濯慨がうまく行かない場合には,赤米のような耐乾品種の導入,あるいは水の管理しやすい小さな区画への変更が図られたかもしれません。また,水田から畠へ土地利用を転換せざるを得なかったかもしれません。最悪の場合,土地が放棄され荒廃した可能性もあります。
このような「耕地廃棄」と農民の移動は、中世では日常的であったとうです。 
⑤さらに,同じ土地で二毛作が行われると,程度の差こそあれ土地を疲弊させます。
このため施肥が不可欠となります。新灌漑システムは,荒廃しかけた土地の再開発には不可欠の条件になったでしょう。上流側への井堰の移動や溜池の築造などの方法がとられるようになります。
 これは善通寺の一円保絵図の中に描かれた有岡大池の築造過程で以前にお話ししましたので、省略します。
⑥一方、段丘下の現氾濫原面では、洪水が頻繁に起きます。
このため,堆積が急増し大規模自然堤防が形成されたり,砂州が急速大きくなったりします。例えば多度郡の港が、白方から堀江に移ったのも中世のこの時期です。弘田川の堆積作用で白方港は利用不能になり、代わって金倉川の堆積作用で形成された砂州の内側に堀江津が登場します。
洪水が集中する河原は「無主の地」として市が立つなどイベント広場として利用されるようになります。
例えば『一遍上人絵伝』に描かれた福岡の市は,吉井川(岡山県)の現氾濫原にできた定期市です。また,広島県福山市の草戸千軒遺跡は,芦田川の現氾濫原面に立地した河港でした。さらに,河川が上流から運んでくる土砂は海を遠浅にし,塩堤による干拓を可能にします。
 12世紀後半頃から干拓が成功し始めるのは,人々の土地開発に対する欲求,技術の進展だけでなく干拓が可能な場所ができたことと深い関わりがあると研究者は考えているようです。鹿田川(現在の旭川)の河口付近に開かれた備前国上道郡荒野荘絵図(1300年)は,まさにこのような様子を示したもののようです。

  丸亀平野は、平野と呼べるものではなく扇状地であったことが改めて分かります。
丸亀平野は、もともと扇状地の礫状の石が積み重なっていて、非常に水はけのよい土壌なのです。それが、完新世以後の洪水などで土砂が堆積して平面化しましたが、水はけがいいことには変わりありません。これは、稲作栽培には適さない土壌です。そのため善通寺一円保の寺領の水田率は、3割程度でした。そのような環境が讃岐の中世農民を、赤米の耕作や麦を重視する二毛作へと向かわせたのです。
 丸亀平野の水田化が進むのは、近世以後にため池と用水網が整備されて以後のことです。

 古代の用水網は貧弱でした。丸亀平野で最も進んだ勢力と技術力を持っていたと考えられる善通寺勢力(後の佐伯氏?)も、その水源は二つの湧水からの導水のみです。有岡大池が作られるのも中世になってからです。このような状況を見ると「満濃池」が古代に作られていたのかも疑問に思えてきます。中世の善通寺一円保は、金倉川からの導水も行えていない状態なのです。
古代に満濃池からどのようにして善通寺にまで水を運んできたのか。
池ができても用水路がなければ水は来ません。金倉川を通じて善通寺方面まで水は供給されたと簡単に考えていました。しかし、古代の土器川や金倉川の姿が見えてくれば来るほど、その困難さに気付くようになりました。地形復元なしで、土地制度や水利制度を語ることの「無謀」さも感じるようになりました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

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