大庄屋渡辺家の屋敷(坂出市青梅)
前回は坂出の青海村の大庄屋渡辺家の概略を見ました。今回は、渡辺家の幕末から明治に行われた葬儀に関する史料を見ていくことにします。ペリーがやって来た頃に、渡辺家では次の①から③ような大きな葬儀が連続して行われています。
①「宝林院」(渡辺五百之助妻) 嘉永六年(1953)11月13日没 享年54オ②「欣浄院」(渡辺槇之助妻) 安政2年(1855)11月 2日没(11月3日葬儀)」享年25才③「松橋院」(渡辺五百之助) 安政3年(1856) 8月 2日没(8月3日葬儀) 享年62才④「松雲院」(渡辺槇之助) 明治4年(1871) 5月17日没(5月16日葬儀)」享年44才
まず③の「松橋院」五百之助について、押さえておきます。
1795(寛政7年)生、1856年(安政3)没1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
④の「松雲院」渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871(明治4)年没。1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中に大庄屋代役就任1856(安政3)年 父の死後大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
まず③の松橋院(渡辺五百之助)の葬儀を見ていくことにします。
この葬儀は、子の槙之助(28歳)によって行われています。五百之助は、以前から病気療養中で、槙之助が大庄屋代役や砂糖方をすでに勤める立場で、西渡辺家代表として葬儀万般を取りしきることになります。
人の死に際して最初に行われることは「告知儀礼」だと研究者は指摘します。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。
郡奉行(竹内興四郎)
郷会所(赤田健助・草薙又之丞)
砂糖方(安部半三郎・田中菊之助)
同役(本条勇七)
一類(青木嘉兵衛・山崎喜左衛門・小村龍三郎・松浦善有衛門・綾田七右衛円)
案内状の文面は、以下の通りです。
郡奉行中江忌引一筆啓上仕候、然者親五百之助義久々相煩罷在候処養生二不叶相、昨夜九ツ時以前死去仕候、忌中二罷在候問此段御届申し上候、右申上度如斯二御座候以上八月二月 渡辺槇之助竹内典四郎様
意訳変換しておくと
郡奉行への忌引連絡一筆啓上仕ります。我父の五百之助について病気患い、久しく養生しておりましたが回復適わず、昨夜九ツ時前に死去しました。忌中にあることを連絡致します。以上八月二月 渡辺槇之助竹内典四郎様
また、同役、親族にも「尚々野辺送之義ハ 明後三日四ツ時仕候 間左様御承知可被下候以上」のように、葬儀時刻なども案内されています。
これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
①旦那寺行 ②塩屋行 大ばい行 ③専念寺行〆 (下)藤吉 次作④坂出 八百物いろいろ〆 忠兵術 龍蔵高松行 久蔵 弥衛蔵 亀蔵西拓寺行 清立寺 蓮光上寸 徳清寺〆 三代蔵 恭助正蓮キ案内行〆 卯三太林田和平方行 卯之助 佐太郎高屋行 熊蔵横津行 関蔵 乙古 伊太郎
この表の左が行き先ですで、右側が連絡係の人足名です。
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
葬儀の終わるまで葬儀は、喪家の手を離れ、互助組織(葬式組)が担当します。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。
①向(下、東、西)組 ②上組 ③大藪南数賀(須賀)組
④大藪中数賀組 ⑤大藪谷組 ⑥鉱 ⑦北山組 ⑧中村組
この中で、渡辺家が属する免場は①の向組でした。
明治4年(1871)5月17日の松雲院葬儀には、次のように記録されています。
五月二十四日之分免場東西不残朝飯後より外二折蔵義者早朝より好兵衛倅与助 半之助 網次同二十五日之分朝早天より一 免場東西組不残 勘六 辰次郎 作蔵 (北山)虎蔵・清助・久馬蔵・権蔵 (大屋冨船頭)市助(惣社)和三郎家内 好兵衛倅半之助 同晰・与助
(惣社)網次二十六日三拾壱軒 免場不残 おてつ おぬい おいと おしげ おとみ おげん 長太郎給仕子供兼三郎 (北山)三之丞以下省略(五十七名)
ここには、次のようなことが記録されています。
①24日から26日日までの3日間、向組の免場は東西の組が総出で「朝飯後、朝早天」から葬儀を手伝っていること
②それだけでは賄いきれないので、近隣の免場からも手伝いが出されること。
③なかでも、葬儀当日の26日には青海村の北山組、上組、中村組、大藪組、鎗組など全ての免場や林田村(惣社・惣社濱)などからも女、子供(給仕)までが参加していること
ここからは次のようなことが分かります。
A 渡辺家の属する①向組が中心となって運営する
B しかし、葬儀の規模が大きいので、他の組からの多数の応援を受けて行われている。
C これは葬儀が個の家の宗教的行事の側面だけでなく、社会的儀礼であることを裏付けている
渡辺家葬儀は地域をあげての行事であったことを押さえておきます。
ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。
ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。
大名の葬列
次に向組免場の葬送役割について、見ていくことにします。葬儀当日には葬送、野辺送りが行われていますが、その関係史料が次のように残されています。
安政三年(1856)松橋院「御葬式之節役割人別帳」(表1ー10)
①葬列の順序・役割・人数の総数は39人
②一番左が役割、次が衣装です
それぞれの役割に応じて、服装は次のように決められています。
上下(肩衣、袴の一対)、
袴・白かたぎぬ(袖なしの胴着)
かんばん(背に紋所な下を染め出した短い上着)
袴、純袴(がんこ、自練衣の袴)、
かつぎ(かずき。衣被・頭からかぶる帷子)
これらの装束に成儀を正して列に加わります。
野辺送りの道具
葬列には導師をはじめ数ヵ寺の僧侶が加わり、位牌は一類の者が持ちます。葬列の後尾の跡押、宝林院の時には当主の槙之助、松雲院では親族の藤本助一郎(後、久本亮平と改名)です。親族は女、男と分けて列の後部に続き、その後に一般の会葬者が続き、長い葬列になります。
行列のメンバーは、青海村の向(上、西)組、大蔵(須賀)組、錠組、北山組、中村組、上組の各組と林田村の人々で構成されています。
次に布施(葬儀費用)について見ていくことにします。
庄屋の葬儀について、研究者は次のように指摘します。
「庄摩、大庄屋など農村部の上層の家における冠婚非祭の儀礼は自家の権勢を地域社会に誇示する側面を有するが、他面、華美や浪費により家を傾けることを戒めており、この双方への配慮、平衡感覚の中で行われた」
庄屋たちが気を配ったのは「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスだったようです。それでは渡辺家では、どんな風にバランスが取られていたのでしょうか。
宝林院、欣浄院、松橋院、松雲院の時の布施内容を一覧化したのが次の表です。
①渡辺家当主の松橋院、松雲院と、その妻女である宝林院、欣浄院では、大きな格差があること。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
大葬式(祖父母、父母、本妻)小葬式(兄弟、子供、伯父伯母)
渡辺家の格式でも、次のような格差があります。
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
また、「天保集成』には次のように記します。
「衆僧十僧より厚執行致間敷、施物も分限に応、寄付致」
ここには参加する僧侶は10人を越えないこと、葬儀が華美にならないように規定されています。 渡辺家でも葬儀に参列する僧の人数は旧例を踏襲しながら、故人の生前の功績なども考慮して、増加する事もあったようです。
例えば妻女は、一カ寺かニカ寺だけですが、当主であった松橋院、松欣院の時には八カ寺が参列しています。葬儀の際に檀那寺以外から僧侶を迎える慣習が、近世後半に全国的に拡がったっていたことがここからはうかがえます。
これら僧侶への布施を、松橋院(安政3年1856)の事例で見ていくことにします。(表1ー11)。
一人の僧侶に、各数名の弟子、若党、中間などがついて、伴僧などを含めると総勢97人にもおよびます。これらの僧侶に対して、布施が支払われます。布施の金額は檀那寺の「金壱一両 銀七拾三匁 五分九厘」が上限です。その他の伴僧はほぼ同格で僧侶、弟子その他を含めて各63匁八分~75匁の布施です。なお、中間は僧侶の駕籠廻4人の他、曲録、草履、笠、雨具、打物、箱、両掛などの諸道共を持つ係です。檀那寺以外の伴僧では弟子、若党、中間ともに人数は少なくなっていて、布施の額も減少します。これらの布施については「右品々家来二為持、 十七後八月十三槙之助篤礼提出候事」とあるので、槇之助自らが寺に敬意をはらい自ら持参したことが分かります。
さらに、松橋院の葬儀では故渡辺五百之助の生前の功績によって、刀剣料(刀脇指料)として「銀六拾目」を新例として設けています。また寺方についてもこれまでの最高である六カ寺にさらにニカ寺追加して八ヶ寺として、布施も増額するなど特別の計らいをしています。
それが明治4年の松雲院の葬儀では、特例とされた刀脇指料(一百八拾:金札礼三両)、参列寺数ともにほぼ同数で、前例が踏襲されています。さらに檀那寺へ贈与品に御馬代(一同百八拾:金札.三両)、鑓箱代(同三拾目)が追加されています。こうしてみると布施の「特例」が通例化し、「新例」となっていくプロセスが見えて来ます。
野辺送りをイメージすると、檀那寺、伴僧の僧侶は中間のかつぐ駕籠に乗って、仏具を持つ多くの人々を従えて、美々しい行列を仕立て進んで行きます。それは死者を弔いその冥福を祈るとともに、家の格式また権勢を地域社会に誇小する行進(パレード)でもあったようです。
また、布施についても僧侶には銀10匁から15匁、家来には2匁の他に菓子一折、味琳酒一陶などが贈られています。これも幕末の松橋院の六五匁から、明治の松雲院は132匁と約2倍になっています。ここでも物価高騰の影響がみられます。
以上をまとめておきます
①幕末の青海村の大庄屋渡辺家では、4つの葬儀が営まれていた。
②その葬儀運営のために、村の免場(同行)のほぼ全家庭が参加し、それでも手が足りない部分には周辺からも手助けが行われた。
③ここからは、葬儀が家の宗教的行事だけでなく、社会的儀礼であったことが分かる。
④江戸時代の庄屋の葬儀は、「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスの上に立っていた。そのためにいろいろな自己規制を加えて、華美浪費を避けようとした。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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