15世紀末に香西氏が神谷神社神前で、一族や幕下の羽床・滝宮氏などを集めて団結誇示のために法楽連歌会を開いていたことを前回お話しました。そこからは当時の阿野北平野が香西氏のテリトリーであったことがうかがえるとしました。その連歌会の30年ほど前に行われた本殿改修の棟札(写)が伝えられています。
②建築にあたった大工と小工の名前が並んで記されます。③真ん中の一行「奉再興神谷大明神御社一宇」からは、当時の神谷神社が神谷大明神と呼ばれていたことが分かります。④その下に来るのが改修総責任者の名前です。「遷宇行者神主松元式部三代孫松元惣左衛門正重」とあるので、総責任者を松本式部の3代後の孫が務めていたことになります。これは三代前から社司が松元氏によって「世襲化」されつつあったことを示しています。以後、神谷神社は近世を通じて松元(本)氏が社司を務めます。
「河埜氏」は阿刀氏と同族で、物部氏を祖先とするので、このように記されたと近世の史書は記します。阿刀氏は空海の母親の出身氏族です。つまり空海の母親の実家が勧進したということになります。しかし、これには無理があります。阿刀氏は畿内泉州を本貫とする中央貴族であることは以前にお話ししました。讃岐にいた記録はありません。この棟札の裏書については「江戸時代になって弘法大師伝説が広まる中で作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札の記載内容は、信じることができるようです。
①中世は、荘官や政所などの個人によって、檜皮葺の屋根の葺き替え工事が行われていた②それは社僧達(勧進聖)たちの勧進活動によっても賄われていたこと③それが近世になると村人達が氏子となって、改修修理を担うようになっていたこと④それをまとめ上げていたのが社司の松元氏であった。
讃岐国名勝図会(1854年 約170年前)に描かれた「神谷神社」周辺です。
①流れ落ちる神谷川 その川に沿って真っ直ぐに続く松並木の参道
②その上に神谷神社があります。(神社と表記されていることを押さえておきます。神社の背後の三重塔はありません。
③別当寺の青竜(立)寺は現在地に移っています。
④青竜寺の前には三好氏の大きな屋敷があります。
さて、右側の神谷神社周辺を拡大して見ておきましょう。
私が気になるのは、鳥居は2つ描かれていますが玉垣や狛犬はないことです。玉垣や狛犬などの石造物は、いつ頃奉納されたのでしょうか?
神谷神社の石造物を年代順に並べたものです。これを見ると、石造物が設置されるようになるのは19世紀になってからだということが分かります。約190年前頃から境内は整備され、現在の原型ができたようです。これは金毘羅さんの整備状況から見てもうなづけることです。金毘羅の参道は、石段と石畳に玉垣、そして燈籠と石造物で埋め尽くされ白く輝くようになり、その姿が一新するのは19世紀前半のことです。その姿を周辺の寺院も真似るようになります。この時期、村人達は隣の村の神社と競い合うように石造物を次々と奉納し、伽藍は整備されていきます。ちなみに本殿や拝殿などの建築物の新築・改修などには、髙松藩の許可が必要でした。髙松藩は新築や増築工事をなかなか認めません。従来通りの改修が認められるだけでした。そのため氏子達は石造物の寄進という方法に自然と進んでいきます。
天保10年4月5日にと神谷村の庄屋・久馬太から髙松藩に願い出た文書です。
①中世は、荘司や政所と脇坊の寄進と僧侶(山伏)による勧進活動で改修が行われていた
②それが近世になると、社司松元氏とと「本願主」や「組頭」の肩書きをもった「オトナ」衆によって改修が行われるようになった。
③19世紀になると、地域の人達が氏子となって積極的に境内整備を行うようになった
④その背景には、信仰の場としてだけでなく、市や芝居・見世物などのレクレーションの場としても神社が活用されてきたからである。
⑤それが明治以後、神仏分離と国家神道によって信仰の場だけに役割が純化・制限されていった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復 坂出市史近世下142P」