瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

カテゴリ: 坂出市の歴史


坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋渡辺家の屋敷(坂出市青梅)

前回は坂出の青海村の大庄屋渡辺家の概略を見ました。今回は、渡辺家の幕末から明治に行われた葬儀に関する史料を見ていくことにします。ペリーがやって来た頃に、渡辺家では次の①から③ような大きな葬儀が連続して行われています。
①「宝林院」(渡辺五百之助妻) 嘉永六年(1953)11月13日没  享年54オ
②「欣浄院」(渡辺槇之助妻) 安政2年(1855)11月 2日没(11月3日葬儀)」享年25才
③「松橋院」(渡辺五百之助) 安政3年(1856) 8月 2日没(8月3日葬儀) 享年62才
④「松雲院」(渡辺槇之助)  明治4年(1871) 5月17日没(5月16日葬儀)」享年44才

まず③の「松橋院」五百之助について、押さえておきます。
1795(寛政7年)生、1856年(安政3)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任
   ④の「松雲院」渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871(明治4)年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中に大庄屋代役就任
1856(安政3)年 父の死後大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
まず③の松橋院(渡辺五百之助)の葬儀を見ていくことにします。
この葬儀は、子の槙之助(28歳)によって行われています。五百之助は、以前から病気療養中で、槙之助が大庄屋代役や砂糖方をすでに勤める立場で、西渡辺家代表として葬儀万般を取りしきることになります。
人の死に際して最初に行われることは「告知儀礼」だと研究者は指摘します。
人の死は、告知されることにより個の家の儀礼を超えて村落共同体の関わる社会的儀礼となります。告知儀礼は、第一に寺方、役所などに対して行われます。具体的には「死亡届方左之通」として、次のような人達に届けています。

郡奉行(竹内興四郎)
郷会所(赤田健助・草薙又之丞)
砂糖方(安部半三郎・田中菊之助)
同役(本条勇七)
一類(青木嘉兵衛・山崎喜左衛門・小村龍三郎・松浦善有衛門・綾田七右衛円)

案内状の文面は、以下の通りです。
郡奉行中江忌引
一筆啓上仕候、然者親五百之助義久々相煩罷在候処養生二不叶相、昨夜九ツ時以前死去仕候、忌中二罷在候問此段御届申し上候、右申上度如斯二御座候以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
意訳変換しておくと
郡奉行への忌引連絡
一筆啓上仕ります。我父の五百之助について病気患い、久しく養生しておりましたが回復適わず、昨夜九ツ時前に死去しました。忌中にあることを連絡致します。以上
八月二月       渡辺槇之助
竹内典四郎様
また、同役、親族にも「尚々野辺送之義ハ 明後三日四ツ時仕候 間左様御承知可被下候以上」のように、葬儀時刻なども案内されています。
 これと同時に次のような寺方へも連絡が行われます
①旦那寺行 ②塩屋行 大ばい行 ③専念寺行〆   (下)藤吉  次作
④坂出 八百物いろいろ〆              忠兵術 龍蔵
高松行 久蔵 弥衛蔵 亀蔵
西拓寺行 清立寺 蓮光上寸 徳清寺〆       三代蔵 恭助
正蓮キ案内行〆                  卯三太
林田和平方行                  卯之助 佐太郎
高屋行                      熊蔵
横津行                      関蔵 乙古 伊太郎
この表の左が行き先ですで、右側が連絡係の人足名です。
渡辺家の宗派は、浄土真宗です。①その菩提寺(旦那寺)は、明治までは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。前回お話ししたように、渡辺家は那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやってくるまでの檀那寺が常福寺だったようです。②の「塩屋行」の塩屋は本願寺の塩屋別院のことです。役寺である教覚寺や③瓦町の専念寺などにも案内として派遣されたのが下組の藤吉と次作ということになります。④は葬儀のための買い物が坂出に3名出されたことを示します。その他、髙松や関連寺院へも連絡人足が出されています。
 葬儀の終わるまで葬儀は、喪家の手を離れ、互助組織(葬式組)が担当します。
これを讃岐では、「講中」や「同行(どうぎょう)」と呼びます。青海村では、免場(組)と呼ばれていたようです。免場とは、もともとは免(税)が同率の集合体、すなわち徴税上のつながりでした。それが転じて、地縁による空間的絆、葬儀などを助け合う互助組織として機能するようになります。
青海村の免場は、以下の8つの組からなります。

①向(下、東、西)組  ②上組  ③大藪南数賀(須賀)組  
④大藪中数賀組 ⑤大藪谷組  ⑥鉱 ⑦北山組  ⑧中村組

この中で、渡辺家が属する免場は①の向組でした。
明治4年(1871)5月17日の松雲院葬儀には、次のように記録されています。
五月二十四日之分
免場東西不残朝飯後より
外二折蔵義者早朝より
好兵衛倅与助 半之助 網次
同二十五日之分朝早天より
一 免場東西組不残    勘六 辰次郎 作蔵  (北山)虎蔵・清助・久馬蔵・権蔵 (大屋冨船頭)市助
(惣社)和三郎家内 好兵衛倅半之助  同晰・与助 
  (惣社)網次
二十六日
三拾壱軒 免場不残 おてつ おぬい おいと おしげ おとみ おげん 長太郎 
給仕子供
    兼三郎 (北山)三之丞以下省略(五十七名)
ここには、次のようなことが記録されています。
①24日から26日日までの3日間、向組の免場は東西の組が総出で「朝飯後、朝早天」から葬儀を手伝っていること
②それだけでは賄いきれないので、近隣の免場からも手伝いが出されること。
③なかでも、葬儀当日の26日には青海村の北山組、上組、中村組、大藪組、鎗組など全ての免場や林田村(惣社・惣社濱)などからも女、子供(給仕)までが参加していること
ここからは次のようなことが分かります。
A 渡辺家の属する①向組が中心となって運営する
B しかし、葬儀の規模が大きいので、他の組からの多数の応援を受けて行われている。
C これは葬儀が個の家の宗教的行事の側面だけでなく、社会的儀礼であることを裏付けている
渡辺家葬儀は地域をあげての行事であったことを押さえておきます。 
 ちなみに「村八分」という言葉がありますが、村から八部は排除されても、残りの二分は構成員としての資格を持っていたとされます。それが葬儀と火事対応だったとされます。

大名の葬儀1
大名の葬列
次に向組免場の葬送役割について、見ていくことにします。
葬儀当日には葬送、野辺送りが行われていますが、その関係史料が次のように残されています。
安政三年(1856)松橋院「御葬式之節役割人別帳」(表1ー10)
明治四年(1871)松雲院「野送御行列順次役付人別」(表1ー3)
野辺送り3
葬列

渡辺家 向組免場の葬送役割

①葬列の順序・役割・人数の総数は39人
②一番左が役割、次が衣装です
それぞれの役割に応じて、服装は次のように決められています。
上下(肩衣、袴の一対)、
袴・白かたぎぬ(袖なしの胴着)
かんばん(背に紋所な下を染め出した短い上着)
袴、純袴(がんこ、自練衣の袴)、
かつぎ(かずき。衣被・頭からかぶる帷子)
これらの装束に成儀を正して列に加わります。

野辺送りの道具 多摩市
野辺送りの道具

葬列には導師をはじめ数ヵ寺の僧侶が加わり、位牌は一類の者が持ちます。葬列の後尾の跡押、宝林院の時には当主の槙之助、松雲院では親族の藤本助一郎(後、久本亮平と改名)です。親族は女、男と分けて列の後部に続き、その後に一般の会葬者が続き、長い葬列になります。
 行列のメンバーは、青海村の向(上、西)組、大蔵(須賀)組、錠組、北山組、中村組、上組の各組と林田村の人々で構成されています。
 次に布施(葬儀費用)について見ていくことにします。
庄屋の葬儀について、研究者は次のように指摘します。

「庄摩、大庄屋など農村部の上層の家における冠婚非祭の儀礼は自家の権勢を地域社会に誇示する側面を有するが、他面、華美や浪費により家を傾けることを戒めており、この双方への配慮、平衡感覚の中で行われた」

庄屋たちが気を配ったのは「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスだったようです。それでは渡辺家では、どんな風にバランスが取られていたのでしょうか。
宝林院、欣浄院、松橋院、松雲院の時の布施内容を一覧化したのが次の表です。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

この表から見えてくるとを挙げておきます。
①渡辺家当主の松橋院、松雲院と、その妻女である宝林院、欣浄院では、大きな格差があること。
②参加寺院についても、布施は均等でなく格差があること
葬儀の格式については、明和年間の安芸国の史料では葬式を故人と当主との続柄によって次のように軽重が付けられています。
大葬式(祖父母、父母、本妻)
小葬式(兄弟、子供、伯父伯母)
渡辺家の格式でも、次のような格差があります。
大葬式では、2ヶ寺で、住職・伴僧・供を含めて15人、布施総額は33匁、小葬儀では、1ヶ寺で、住職その他は1人から4人
また、「天保集成』には次のように記します。

「衆僧十僧より厚執行致間敷、施物も分限に応、寄付致」

ここには参加する僧侶は10人を越えないこと、葬儀が華美にならないように規定されています。 渡辺家でも葬儀に参列する僧の人数は旧例を踏襲しながら、故人の生前の功績なども考慮して、増加する事もあったようです。
 例えば妻女は、一カ寺かニカ寺だけですが、当主であった松橋院、松欣院の時には八カ寺が参列しています。葬儀の際に檀那寺以外から僧侶を迎える慣習が、近世後半に全国的に拡がったっていたことがここからはうかがえます。
これら僧侶への布施を、松橋院(安政3年1856)の事例で見ていくことにします。(表1ー11)。
渡辺家 葬儀参列者と布施一覧

一人の僧侶に、各数名の弟子、若党、中間などがついて、伴僧などを含めると総勢97人にもおよびます。これらの僧侶に対して、布施が支払われます。布施の金額は檀那寺の「金壱一両 銀七拾三匁 五分九厘」が上限です。その他の伴僧はほぼ同格で僧侶、弟子その他を含めて各63匁八分~75匁の布施です。なお、中間は僧侶の駕籠廻4人の他、曲録、草履、笠、雨具、打物、箱、両掛などの諸道共を持つ係です。檀那寺以外の伴僧では弟子、若党、中間ともに人数は少なくなっていて、布施の額も減少します。これらの布施については「右品々家来二為持、 十七後八月十三槙之助篤礼提出候事」とあるので、槇之助自らが寺に敬意をはらい自ら持参したことが分かります。

野辺送り2

さらに、松橋院の葬儀では故渡辺五百之助の生前の功績によって、刀剣料(刀脇指料)として「銀六拾目」を新例として設けています。また寺方についてもこれまでの最高である六カ寺にさらにニカ寺追加して八ヶ寺として、布施も増額するなど特別の計らいをしています。
 それが明治4年の松雲院の葬儀では、特例とされた刀脇指料(一百八拾:金札礼三両)、参列寺数ともにほぼ同数で、前例が踏襲されています。さらに檀那寺へ贈与品に御馬代(一同百八拾:金札.三両)、鑓箱代(同三拾目)が追加されています。こうしてみると布施の「特例」が通例化し、「新例」となっていくプロセスが見えて来ます。
 ここで研究者が注目するのは、同格の松橋院と明治になっての松雲院の布施総額が僅か20年あまりで3倍に高騰していることです。これは幕末から明治にかけての貨幣価値の変動によるものと研究者は指摘します。

野辺送り
 
 野辺送りをイメージすると、檀那寺、伴僧の僧侶は中間のかつぐ駕籠に乗って、仏具を持つ多くの人々を従えて、美々しい行列を仕立て進んで行きます。それは死者を弔いその冥福を祈るとともに、家の格式また権勢を地域社会に誇小する行進(パレード)でもあったようです。
また、布施についても僧侶には銀10匁から15匁、家来には2匁の他に菓子一折、味琳酒一陶などが贈られています。これも幕末の松橋院の六五匁から、明治の松雲院は132匁と約2倍になっています。ここでも物価高騰の影響がみられます。
  以上をまとめておきます
①幕末の青海村の大庄屋渡辺家では、4つの葬儀が営まれていた。
②その葬儀運営のために、村の免場(同行)のほぼ全家庭が参加し、それでも手が足りない部分には周辺からも手助けが行われた。
③ここからは、葬儀が家の宗教的行事だけでなく、社会的儀礼であったことが分かる。
④江戸時代の庄屋の葬儀は、「自家の権勢保持」と「華美・浪費回避」のバランスの上に立っていた。そのためにいろいろな自己規制を加えて、華美浪費を避けようとした。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
関連記事

  以前に 坂出市史に掲載されている青海村の大庄屋・渡辺家のことを紹介しました。
御用日記 渡辺家文書
大庄屋渡辺家の御用日記

その時は、当主達の残した「御用日記」を中心に、当時の大庄屋の日常業務などが中心にお話ししました。今回は別の視点で、渡辺家と阿野北の青海村について見ていくことにします。テキストは「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)」です。

近世から近代における儀礼と供応食の構造 ━讃岐地域の庄屋文書の分析を通して━

渡辺家は、讃岐国阿野郡北青海付(坂出市青海町)の大庄屋でした。
まず、青海村の属していた阿野郡北を見ておきます。
阿野北は、青海村をはじめ木沢、乃生、高屋、神谷、鴨、氏部、林旧、西庄、江尻、福江、坂出、御供所の村々を構成員としました。

坂出 阿野郡北絵図
阿野北の各村々 下が瀬戸内海

阿野郡北の各村々の石高推移は、以下の通りです。
阿野郡(北條郡)村々石高
         阿野郡(北條郡)村々石高
この石高推移表からは、次のようなことが分かります。
①江戸末期の阿野那北13カ村の村高は、9500石前後であること
②石高の一番多いのは林田村の2157石、最低は御供所村の63石、青海村は563石で9番目になること。
③林田など綾川流域の村々は、17世紀中頃からの干拓工事の推進で、石高が増加していること。
④それに対して、青海・高屋・神谷などは、石高に変化がなく、減少している村もあること。
④については、米から甘藷・木綿などの換金作物への転換が進んだようです。
明治8年の戸数・人口・反別面積です。
坂出市 明治8年の戸数・人口・反別面積
阿野郡の戸数・人口・反別 明治8(1876)年

この表を見ていて、反別面積の大きい林田や坂出の戸数・人口が多いのは分かります。しかし、青海村は耕地面積が少ないのに、戸数・人口は多いのです。この背景には、このエリアが準農村地帯ではなく、塩や砂糖などの当時の重要産業の拠点地域であったことがあるようです。
青海村の産業を見ておきましょう。青海村の産業の第一は糖業でした。

坂出 阿野郡北甘藷植付畝数

上右表からは、阿野郡北の文政7年(1824)の甘藷の植付畝数は157町、その内、青海村は7、3町です。また同時期の阿野郡北の砂糖車株数(上左表)の推移を見ると、10年間で約20%も増加しています。同時期の高松藩の甘藷の作付面積は天保5年(1814)1814)が1120町で、以後も増加傾向を示します。この時期が糖業の発展期でバブル的な好景気にあったことがうかがえます。この時期の製糖業は高松藩の経済を支えていたのです。

塩の積み出し 坂出塩田
塩を積み出す船
砂糖の出荷先は、大阪・岡山、西大寺、兵庫、岸和田、笠岡、尾道、輌、広島、下関、太刀洗、三津浜(伊予)な下の瀬戸内海沿岸諸港の全域におよんでいます。砂糖や塩の積出港として、周辺の港には各地からの船が出入りしていたことがうかがえます。商業・運輸産業も育っていたようです。

 坂出は塩業生産の中心地でもありました。

坂出の塩田
坂出の塩田開発一覧
この地域の塩田の始まりは、延宝8年(1680)の高屋村の高屋塩田創築とされます。操業規模は亨保13年(1728)の「高屋浜検地帳」では「上浜 三町四反壱畝六歩、中浜 二町九反八畝五歩、下浜 壱町三反武畝六歩、畝合七町七反壱畝式拾歩」、それが30年後の宝暦8年(1758)の「高屋村塩浜順道帳」では「畝合拾町八反四畝式拾七歩、うち古浜七町七反壱畝式拾七歩、新浜三町壱反一畝歩」と倍増しています。
坂出塩田 釜屋
坂出塩田の釜屋・蔵蔵
 亨保の検地以降に新浜を増設し、操業釜数は安政2年(1855)には、少なくとも4軒以上の釜屋による塩作りが行われていたことが分かります。亨保13年の高屋浜は塩浜面積に対し浜数は100、これを49人の農民が経営し、経営面積は一戸当たり一反五畝歩の小規模で、農業との兼業が行われていたようです。青海村でも高屋浜で持ち浜四カ所を所持する浜主や、貧農層の者は、浜子などの塩百姓として過酷な塩田労働に従事していました。

製塩 坂出塩田完成図2
坂出塩田
 阿野北一帯は、藩主導の次のような塩田開発を進めます。
文政10年(1827)江尻・御供所に「塩ハマ 新開地 文政亥卜年築成」、
文政12年(1829)、東江尻村から西御供所まで131、7町の新開地
その内、塩田と付属地は115、6町、釜数75に達します。ここに多くの労働者の受け皿が生まれることになります。

入浜塩田 坂出1940年
坂出の入浜塩田 1940年
以上、阿野北の青海村の農村状況をまとめておきます
①水田面積は狭く、畑作の割合が多い。
②近世初頭にやって来た渡辺家によって青海村は開拓進んだため、渡辺家の占有面積が多く、小農民が多く小作率が高い。
③19世紀になって、砂糖や塩生産が急速に増加し、労働力の雇用先が生まれ、耕地は少ないが人口は増えた。

次の阿野郡北の村政組織を見ておきましょう。
農村支配構造 坂出市

郡奉行の下代官職がいて、代官の下の元〆手代が郷村の事務を握っていました。各村々には庄屋1名、各郡には大庄屋が2名ずついました。庄屋以下には組頭(数名)、五人組合頭(―数人)を配し、村政の調整役には長百姓(百姓代)が当たりました。その他、塩庄屋・塩組頭・山守な下の役職がありそれぞれの部門を担当します。庄屋の任命については、藩の許可が必要でしたが、実際には代々世襲されるのが通例だったようです。政所(庄屋)の役割については、「日用定法 政所年行司」に月毎の仕事内容が詳述されているとを以前にお話ししました。 
庄屋の仕事 記帳

渡辺家の残された文書の多くは、藩からの指示を受けて大庄屋の渡辺家で書写されたり、記帳されて各庄屋に出されたものがほとんどです。定式化されて、月別に庄屋の役割も列挙されています。二名の大庄屋が東西に分かれ隔月毎に月番、非番で交代で勤務にあったことが分かります。

青海村の大庄屋・渡辺家について、見ていくことにします。

渡辺家系図1
渡辺家系図
渡辺家は系図によれば大和中納吾秀俊に仕え、生駒藩時代の文禄3年(1593)に讃岐国にやってきたされます。那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、
①万治2年(1659)に初代の嘉兵衛の代に青海村に定住。
②二代善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)に就任
③三代繁八は父の跡を継いだが早世したため、善次郎が再度政所就任
④繁八の弟與平次の3男藤住郎義燭を養子として家を継がせた。
⑤その子五郎左衛門義彬が1788(天明8)年12月阿野北郡大政所(大庄屋)に就役
⑥七郎左衛門寛が1818(文化15)年から大政所役を勤め、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられた。
⑦寛の弟良左衛門孟は東渡辺家の同姓嘉左衛門義信の家を継ぎ、養父の職を継いで政所となった。
寛の子五百之助詔は1820(文政3)年、高松藩に召出されて与力(100石)となり、次のような業績を残しています。
寛政7年(1795)生、安政3年(1856)没 
1835(天保6)年、林田・大薮・乃生・木澤などの砂糖会所の責任者に就任し、砂糖の領外積み出しなどの業務担当。
1837年、大坂北堀江の砂糖会所定詰役
1845(弘化2)年 林田村上林田に文武の教習所・立本社を創設
1853(嘉永6)年、大政所渡辺一郎(本家)の跡役として、大政所就任
1854年 病気により子槇之助(敏)が大政所代役就任

渡辺家系図2

   渡辺槙之助(柳平)について
1827(文政10)年生、1871年没。
1854(嘉永7)年 父五百之助の病気中の大庄屋代役
1856(安政3)年 大庄屋役となり、砂糖方入れ更り役を仰せ付けられる。また、林田村総三の浜塩田の開拓、砂糖方の出府などに活躍。
  渡辺渡(作太郎)
1855(安政2)年生、山田郡六条村の大場古太郎の長男
1871(明治4)年 17才で渡辺家養子となる
讃岐国第43区副戸長(明治6年)
愛媛県阿野郡青海村戸長(明治12年)
愛媛県阿野郡県会議員(明治15年)
阿野都青海高屋村連合会議員(明治18・20年)
愛媛県議会議員(明治21年)・香川県議会議員(明治37年)などを歴任
明治23年(1890) 松山村の初代名誉村長就任 
渡は経常の才に優れ精業、塩業、製紙、船舶、鉄道、銀行、紡績など各会社の設立しています。また、神仏分離で廃寺となった白峰寺の復興、さらに金刀比羅宮の管轄となった「頓証寺」の返還運動にも力を尽くし、この功績により同境内には顕彰碑が建立されています。

渡辺家の宗派は、浄土真宗です。
常福寺 丸亀市田村町


菩提寺は、もともとは丸亀藩領の田村の常福寺(龍泉山、本願寺派、寛永15年木仏・寺号取得)でした。先述したように渡辺家は、那珂郡金倉郷、鵜足郡坂本郷を経て、青海村にやってきました。青海村にやって来るまでの檀那寺が常福寺だったようです。しかし、明治8年(1885)に加茂村の正蓮寺(常教院)に菩提寺を移しています。墓所は青海村向の水照寺(松山院、無檀家寺)に現存します。

 丸亀市田村町の常福寺には、次のような渡部家の寄進が記録されています。
一、御本前五具足・下陣中天丼・白地菊桐七条  施主 渡辺五郎左衛門
一、御前大卓   施主 渡辺嘉左衛門(五郎左術門女婿)
― 薬医門     文化2年(1805)施主 渡辺七郎左衛門(人目凡四貰目)
一、石灯籠一対   天保5年(1834)施主 渡辺七郎左衛門(代六八0目)
一、大石水盤    天保六年(1835)施主 渡辺五百之助   代十両
一 飾堂地形一式  施主 渡辺八郎右衛門(七郎左衛門改称)
   同 五百之助  地形石20両
   同 良左衛門  10両諸入目
ここからは渡辺家の常福寺に対する深い帰依がうかがえます。

渡辺家平面図
渡辺家平面図(昭和18年頃)
坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
渡辺家の屋敷
江戸時代の渡辺家の土地所有を見ておきましょう。

青海村渡辺家の石高
渡辺家の所有耕地面積とその分布
この表からは、渡辺家の土地所有が青海村以外にも、高屋村、神谷村、林田村な下他村におよび、総〆石数は 285石にのぼることが分かります。青海村の石高が550石ほどなので、その半分は渡辺家の土地であったことになります。
 渡辺家「小作人名」から免場(組)、村別に小作人数をまとめたのが次の表です。
渡辺家の小作人数

ここからは次のようなことが分かります。
①青海村々内の免場(組)小作人は158人(実数は173人)
②他村その他は17人(同21人)
明治4(1871)年の青海村戸数は319人です。青海村の半数以上が渡辺家小作人であったことになります。
 渡辺家では、明治以降になり渡辺渡の代になると、次のような近代産業を興したり、資本参加していきます。
糖業「讃岐糖業大会社」
塩業「大蕨製塩株式会社」
製紙「讃紙株式含社」
船舶「共同運輸会社」
鉄道「讃岐鉄道株式合社」
銀行「株式会社高松銀行」
紡績「讃岐紡績会社」
このような事業の設立・運営などによって資本蓄積を行います。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「秋山照子 近世から近代における儀礼と供応食の構造 讃岐地域の庄屋文書の分析を通じて 美巧社(2011年)
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 丸亀平野にはこんもりと茂った鎮守の森がいくつもあります。これらの神社の由緒書きを見ると、その源を古代にまで遡ることが書かれています。しかし、実際に村社が姿を現すのは近世になってからのようです。中世には、郷社として惣村ひとつしかなく、各村々が連合して宮座を組織して祭礼を行っていました。その代表例が滝宮牛頭天王社(滝宮神社)で、そこに奉納されていたのが各各組の念仏踊りです。これも幾つもの郷の連合体で、宮座で運営されていました。
 ここでは近世の村々が姿を現すのは、検地以後の「村切り」以後だったことを押さえておきます。。それでは、近世の村が、村社を建立し始めるのはいつ頃のことなのでしょうか。
また、それはどのようにして再築・修築・整備されたのでしょうか。このテーマについて、坂出の神社を例にして、見ておこうと思います。テキストは「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」です。
  坂出市史近世下には、神社の棟札から分かる建立や修築時期などについて一覧表が載せられいます。
坂出の神社建立再建一覧表1
坂出の神社建立再建一覧表2
ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀までに創建されているのは、鴨葛城大明神・川津春日神社・神谷神社・鴨神社で、それぞれ再建時期が棟札から分かること。その他は「伝」で、それを裏付ける史料はないようです。

坂出地区の各村の氏神などの修繕や建て替え普請を見ていくことにします
坂出村の氏神は八幡神社です。
天保12(1842)年2月、坂出村百姓の伴蔵以下15名が「八幡宮拝殿 壱宇 但、梁行弐間桁行五間半瓦葺」とで拝殿の建替を、庄屋阿河征右衛門を通じて、両大政所の渡辺八郎右衛門と本条和太右衛門に申し出ています。
西新開の塩竃神社は 文政11(1838)年8月1日に、
地神社は      文政12年8月6日に創祀
東浜の鳥洲神社は  文政12年6月26日
どれも藩主松平頼の命によつて久米栄左衛門が創建し、西新開・東浜墾円・港湾の安全繁栄の守護神とされます。
 西浜の事比維神社も塩田開かれ沖湛甫が開港すると、船舶の海上安全のため、天保8(1837)年に沖湛南西北隅に創建されます。しかし、安政元(1854)年11月5日夜半の安政大地震で社殿が倒壊したため、その後現在地に移されます。(旧版『坂出市史』)、旧境内には、同社の性格を示す石造物が境内に残っています。たとえば、安政五年銘の鳥居には多くの廻船の刻宇、文久三年銘の常夜燈には「尾州廻船中」の刻宇、天保十一年銘の狛犬には「当浦船頭中」の刻字が刻まれています。

福江村鎮守の池之宮大明神については、1836(天保7)年12月の火事について、庄屋が藩に次のように報告しています。
一 さや 壱軒
但、梁行壱間半桁行弐間、屋祢瓦葺、
右者、昨朔口幕六ツ時分ニテも御鎮守池之宮大明神さや之門ヨリ煙立居申候段、村内百姓孫八と申者野合ョリ帰り掛見付、私方へ申出候二付、私義早速人足召連罷越候処、本社者焼失仕、さやへ火移り居申候二付、色々取防仕候得共、風厳敷御座候故手及不申候、右の通本社さや共焼失仕候二付、跡取除ケ仕セ候処、御神体有之何の損シ無御座候間、当郡西庄村摩尼珠院参リ当村氏神横潮大明神江御神納仕候、然ル後山中之義二付、乙食之者ども罷越焼キ落等御庄候テ出火仕候義も御座候哉と奉存候、尤御制札并所蔵近辺ニテも無御座候、此段御註進中上度如此御座候、以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎
十二月二日
渡辺八郎右衛門 様
本条和太右衛門 様
猶々、右之趣御役処へも今朝御申出仕候間、年恐御承知被成可被下候、己上、
意訳変換しておくと
一 さや 壱軒 梁行2間半 桁行2間、瓦葺、
 (1836)12月午後6時頃、池之宮大明神さやの門から煙が出ているのを百姓孫八が見つけ、私方(庄屋田中幸郎)へ知らせがあったので、早々に人足とともに消火に当った。しかし、風が強く手が着けられず、本殿とさやの門を焼失した。焼け跡を取り除いてみると御神体に損害はなかった。そこへ西庄の摩尼院がやってきて、福江村氏神の横潮大明神に御神納することになった。
 出火原因については、山中のことでよく分からないが、乙食たちがやってきて薪などをしていたのが延焼したのではないかとも考えられる。なお制札や所蔵附近ではないので、格段の報告はしません。以上、
阿野都北福江村庄屋 田中幸郎


焼失しなかったご神体が、西庄の摩尼院住職の助言で横潮大明神に一時避難されています。先ほどの年表を見ると、10年後の1846年に「福江村横潮大明神本殿 再建許可」とありますが、池之宮大明神の再建については記録がありません。池之宮のご神体は、横潮大明神に収められたままだったようです。火災で消えたり、小さな祠だけになっていく「大明神」もあったようです。

西庄村には2つの氏神があったようです。

西庄 天皇社と金山権現2

一つは白峰宮で、崇徳上皇を祀り崇徳天皇社と呼ばれていました。これが、西庄・江尻・福江・坂出・御供所の総氏神でした。そしてもうひとつが國津大明神です。
国津大明神では、1820(文政三)年正月、西庄村百姓の庄兵衛以下八名が拝殿の建替を次のように申し出ています。

「国津大明神幣殿壱間梁の桁行壱問半、拝殿町弐間梁之桁行一間、何も屋根瓦葺ニテ御座候所、及大破申候ニ付、此度在来之通建更仕度奉存畔候」

意訳しておくと
「国津大明神の幣殿は、壱間梁の桁行壱間半、拝殿は弐間梁の桁行一間、いずれも屋根は瓦葺です。すでに大破しており、この度、従来の規模での再建許可をお願いします。

申し出を受けた和兵衛は現地視察を行い「見分仕等と吟味仕候処、申出之通大破相成」、許可して同役の渡辺七郎左衛門へ同文書を送付しています。「従来の規模での再建許可」というのが許可申請のポイントだったようです。
1860(万延元)年2月には、西庄村などから崇徳天皇本社などの修築が提出されています。
   春願上口上
崇徳天皇本社屋祢葺更
但、梁行弐間 桁行三間桧皮葺、
一 同 拝殿屋祢壁損所繕
一 同 宝蔵堂井伽藍土壁右同断
一 同 拝殿天井張替
右者、私共氏神
崇徳天阜七百御年忌二付申候所、右夫々及大破難捨置奉存候間、在来之通修覆仕度奉願上候、右願之通相済候様宜被仰可被
下候、
本願上候、己上、
万延元年申二月  阿野都北西庄村百姓
現三郎
次太郎
          音三郎
次之介
善左衛門
次郎右衛門
助三郎
良蔵
同郡江尻村同  新助
善左衛門
                  瀧蔵
                     同郡福江村同 五右衛門
善七
与平次
同郡坂出村同  与吉之助
権平
  浅七
三土鎌蔵 殿
川円廣助 殿
安井新四郎 殿
阿河加藤次 殿
右之通願申出候間、願之通相添候様宜被仰上可被下候、以上、
西庄村庄屋 三土鎌蔵
坂出村同   阿河加藤次
福江村同   安井新四郎
江尻村同   川田廣助
六月
本条勇七 殿
右ハ同役勇七方ヨリ村継二而申来候、

この史料からは、次のような事が分かります。
①崇徳院七百年忌を控えて、西庄村の崇徳天皇社の本殿屋根などの修繕の必要性が各村々で共有されていたこと。
②その結果、西庄村百姓8名の他に、江尻村・福江村・坂出村の各3名、合計17名が発起人となり、各村の庄屋を通じて、大庄屋に願い出されたこと
③これらの村々で崇徳天皇社を自分たちの氏寺とする意識が共有されていたこと
ここには、崇徳上皇を私たちの氏神とする意識と崇徳上皇伝説の信仰の広がりが見えて来ます。

高屋村の氏神ある崇徳天皇社でも1819年12月、氏子の伊兵衛以下九名から拝殿の建替申請が出されています。
「崇徳天皇拝殿弐間梁桁行五間茸ニテ御座候所、及大破申候二付、在来之通建更仕度本存候」
申請を受けた政所綾井吉太郎は
「尤、人目の義者、氏子共ヨリ少々宛指出、建更仕候二付、村入目等二相成候義者無御座候」
意訳しておくと
「崇徳天皇拝殿は弐間梁で、桁行五間で、屋根は茸吹ですが、大破しています。つきましては、従来の規模で立て直しを許可いただけるようお願いし申し上げます。
申請を受けた政所の綾井吉太郎は、次のように書き送っています。
「もっとも人目があるので、氏子たちから寄進を募り、建て替えを行う時には、村入目からの支出はないようにする。」

ここからは大政所渡辺七郎左衛門・和兵衛に対して、その経費は氏子よりの出資であり、村人目にはならないことを条件に願い出て、許可されています。しかし、その修復は進まなかつたようです。
文政七年二月、同村庄屋綾井吉太郎は両人庄屋に窮状を次のように訴えています。
「去ル辰年奉相願建更仕候所、困窮之村方殊二百姓共懐痛之時節二付」
一向に修復が進まず、加えて「去年之大早二而所詮造作も難相成」
「当村野山林枝打まき伐等仕拝殿修覆料多足仕度由」
として同村の村林の枝打ちによる収益を修復に充てたいと願い出ています。しかし、藩は不許可としています。藩は村社などの建て替え費用に、村会計からの支出を認めていませんでした。あくまで、村人の寄進・寄付で神社は建て替えられていたことを、ここでは押さえておきます。



    五色台の麓の村々に白峰寺の崇徳上皇信仰が拡がって行くのは、近世後半になってからのようです。
その要因のひとつが、地域の村々の白峯寺への雨乞い祈祷依頼だったことは以前にお話ししました。文化2(1805)年5月に、林田村の大政所(庄屋)からの「国家安全、御武運御兵久、五穀豊穣」の祈祷願いが白峰寺に出されています。そして、文化4(1807)年2月に、祈祷願いが出されたことが「白峯寺大留」に次のように記されています。(白峰寺調査報告書312P)
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 この庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、弥谷寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。その関係が、白峰寺や崇徳上皇関係の施設に対する近隣の村々の支持や支援を受けることにつながって行きます。
ここらは「雨乞祈祷寺院としての高松藩の保護 → 綾郡の大政所 → 青海村の政所」と、依頼者が変化し、「民衆化」していることが見えてきます。19世紀前半から白峰寺への雨乞い祈願を通じて、農民達の白峰寺への帰依が強まり、その返礼寄進として、白峯寺や崇徳上皇関係の村社や郷社の建て替えが進んだという面があるように私は見ています。
例えば、1863(文久3)年8月26日に、崇徳上皇七百年回忌の曼茶羅供執行が行われています。回忌の3年前の万延元年6月に、高屋村の「氏神」である崇徳天皇社(高家神社)が大破のままでした。そこで、阿野郡北の西庄村・江尻村・福江村・坂出村の百姓たち17名が、その修覆を各村庄屋へ願い出ています。それが庄屋から大庄屋へ提出されています。修覆内容は崇徳天皇本社屋根葺替(梁行2間、桁行3間、桧皮葺)、拝殿屋根壁損所繕、同宝蔵堂ならびに伽藍土壁繕、同拝殿天丼張替です。これは近隣の百姓たちの崇徳上皇信仰の高まりのあらわれを示すものと云えそうです。

以上をまとめておきます。
①近世になると各村の大明神は村社として、祠から木造の本殿や配電が整備されるようになった。
②整備された村社では、さまざまな祭礼行事が行われるようになり、村民のレクレーションの場としても機能し、村民の心のよりどころともなった。
③村民は、大破した村社を自らの手で修復・建て替え等を行おうとした。
④それに対して藩は、従来通りの規模と仕様でのみの建て替えを許し、費用は村人の寄付とし、村予算からの支出を認めなかった。
⑤19世紀後半になると、崇徳上皇信仰の高まりとともに、村社以外にも白峰寺や崇徳上皇を祀る各天皇社の建て替え・修復を積極的に行おうとする人々の動きが見えてくるようになる。
最後までありがとうございました。
参考文献 「坂出市域の神社 神社の建立と修復   坂出市史近世下142P」

 滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り(滝宮牛頭天王社)

 天保12(1841)年7月に、滝宮念仏踊りをめぐって北条組と那珂郡七カ村との間で争論が起きます。
当時の青海村庄屋渡辺駒之助から大庄屋を通じ高松藩に次のような訴願が提出されています。「天保十二年七月 念仏踊一件留 口上」(『綾・松山史』)です。
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
当村念仏踊当年順年二付、当月二十五日踊人数之者召連、同日早朝滝宮迄罷越居申テ、七ケ村念仏踊済、当村念仏踊候儀ニ付七ケ村村念仏踊済相待居申候所、同日9ツ時分過済ニ付当郡大庄屋中初私共郡中 同役共、人数引継イ入場仕掛候処に付、双方除合(排除)卜相見へ棒突二先フ払ハセ、二王門前へ帰掛候二付、双方除合入場仕候テ踊済候処、大庄屋中ヨリ被申聞候者、御出役所へ先例之通申出仕候哉卜尋御座候二付、踊人数夫々目録今朝組頭ニ持セ御出役所迄相納候段申出候処、尚又右御出役所へ、罷出候様被仰聞ニ付、私義茂七郎同道仕御出役人宿迄罷出申候所、右目録指出候ヘハ則御届相済候義ニテ、前々ヨリ前段御届ハ不仕段御答仕候義二御座候、前々ハ七ケ村踊人数者、前夜ヨリ人込居申候二付、早朝滝宮踊済来候処、当年ハ如何之次第二御座候哉、九ツ過迄も相踊不申二付、当郡踊り人数之者共私共極早朝ヨリ入込相待居申候得共、前願之次第二付大二迷惑仕候、当郡者同日鴨村迄罷帰り、同村ヨリ氏部西庄迄相踊申日割二御座候処、当年ハ右の次第二付一統加茂村迄罷帰候処及暮、其日滝ノ宮計ニテ相済申候、
一 七ケ村念仏踊滝ノ宮踊人数者不残引取、村役人計り右様跡へ相残り居申義二付、私共踊人数引纏罷出申途中ニテ行合候様相成申候、大庄屋中私共罷出候義ハ多人数他郡越踊二参候義二付、右人数召連警固之為罷出候義と相心得罷在候処、七ケ村連も右同様と存候処、右の通踊人数引払候跡へ相残、市立多人数之中ヲ棒突ヲ以片寄可申由、先ヲ払ハセ打通候義、不得其意存申候、当郡ハ多人数引纏入場二相掛候二付、片寄候義も難出来存候得共、当年ハ存不寄義二付、双方除合無難二相済候得共、以後者右様当郡之邪魔致不申様 被仰付置可被下候様 宜奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
⑦ 天保十二丑年七月 念仏踊一件留
口上
今年の滝宮への念仏踊奉納は、当村が順年でしたので、7月25日に踊人数を引き連れて、同日早朝に滝宮に参りました。七ケ村念仏踊が終わった後が当村の念仏踊の順番なので七ケ村念仏踊が終わるのを待っていました。同日9ツ時分過ぎ(13時)にやっと終了し、阿野郡大庄屋をはじめ郡中の役共が、踊衆を引き連れて入場しようとすると、那珂郡の付役人と双方で小競り合いが起きて、棒突に先払をさせて、二王門前へ退場しようとしました。この小競り合いについて踊り奉納終了後に、大庄屋から聞き取り調査があり、先例通り御出役所へ報告することになりました。
 踊り人数などについては、目録で前日に組頭に持参させて出役に届け出るのが決まりです。ところが私(義茂七郎)が役人宿に出向いて問い合わせたところ、目録は提出されていないとのことです。以前は七ケ村も踊人数者を、前夜の内に報告していました。しかし、今年はその報告がありませんでした。そればかりか、(予定時刻を大幅に超えて)九ツ過迄(昼過ぎ)までも踊り続ける始末です。
 当阿野郡の踊り組の者達は、早朝から滝宮にやってきて待機していたのに、大迷惑を蒙りました。
当方の北条踊りは、滝宮への奉納終了後に、その日のうちに鴨村まで帰って、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を例年予定しています。ところが七ケ村の遅延行為のために、加茂(鴨)村まで帰ることが出来ず、この日は滝宮だけになってしまいました。
一 七ケ村念仏踊は踊り終了後に、踊り手たちが残らず退場した後、七ケ村の村役だけが残ったのを確認した上で、私ども北条組は入場しようとしました。大人数の観客の間を入場するために、警固の人数を引き連れています。これは七ケ村組も同じと心得ています。
 私たち北条組が入場しようとすると(七ケ村役員は、市が立つほど多くの人数がひしめく中を棒突を先頭に、打ち払いながら退場しようとしました。そこで入場しようとする北条組と衝突し、小競り合いとなりました。入場中の当方に、除き合いを仕掛けてくるのは、はなはだ迷惑な行為です。以後は、このような当郡の邪魔をするようなことがないように、お上から仰付いただきたい。
宜奉願上候、以上

この「口上」は青海村庄屋から大庄屋を経て、藩に提出されたものです。いわゆる正式文書になります。北条組の言い分は、次の2点にあるようです。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
滝宮念仏踊り 那珂郡七ケ村の構成村と役割一覧

第一は、「七ケ村」が定めを守っていない点を指摘しています。
①例年なら前日に踊込人数目録が提出されるはずなのに、今年は届けられていないこと
②「七ケ村」組が、終了時刻を大幅にオーバーしても踊り続けたこと
③そのため北条組の踊りの開始が、午後からになり、当日の滝宮からの帰り掛けに奉納する予定であった鴨・氏部・西庄村の村社への奉納が出来なくなったこと。
つまり、七ケ村のルール違反に、北条組は大迷惑をこうむっていたとします。
第二は、「七ケ村」役人の横暴ぶりを指摘してます。
七ケ村の踊りが終わるのを、いらいらしながら待っていた北条組に対して、七ケ村は謝罪もせずに退場しようとします。しかも「七ケ村」村役人が棒引き(警護人)に先を払わせながら群衆を払い分けて出て行こうとします。それに対して入場しようとする北条組の先頭の棒引きは、応戦しないと責任問題になります。売られた喧嘩は買わなければならないのです。そこで両者のあいだに「除け合い」(小競り合い)が発生します。

この史料からは、次のようなことが分かります。
①七ケ村組と北条組がセットで同年に、滝宮に踊り奉納を行っていたこと
②北条組は七ケ村組の奉納中は別所で待機し、終了後に入場する手はずとなっていたこと
③北条組は、滝宮2社への奉納後に、鴨村から氏部・西庄と各村社への奉納を予定していたこと
④棒引き(警護)は、先払役で実際に群衆を払い分けていたこと。
 この北条組の訴えについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは史料が残っていないので分かりません。
 幕末に岸の上村(まんのう町)の庄屋を務めた奈良家には、多くの文書が残っています。
その中に「滝宮念仏踊行事取遺留」には、文政9(1826)年から安政6(1859)年までの、13回にわたる七箇村組念仏踊の記録が綴りこまれています。筆者は、岸上村の庄屋奈良亮助とその子彦助の二人です。この綴りの冒頭には、次のように記されています。

 正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、夜半からの豪雨で、綾川は水嵩の増した。橋のない時代のことで、七箇村組は対岸で水が引くのを待っていた。ところが、定刻が来て七箇村組の後庭で踊ることになっていた北条念仏踊組が、滝宮神社の境内に入場しようとした。これを川の向こう側から見ていた七箇村組の衆はいきり立った。世話人の真野久保神社の神職浅倉権之守は、長刀を杖にして急流を渡り、北条組の小踊二人を切り殺した。この事件後、北条組は48人の抜刀隊に警固されて、七箇村組とは順年を変えて踊奉納をすることになった。そして、両踊組の間には根深い対立感情が横たわるようになった。

 私は、これは事実を伝えるもので、警護役というのは、実際に起きた事件を教訓をもとに、各組でつけられていると思っていました。しかし、だんだんとこの記述については、次のような視点から疑念を持つようになりました。
①神前で神の子とされる子踊りの幼児を斬り殺しているにも関わらず、その後も朝倉家が久保宮の神職を続けていること。普通ならば厳罰に処せられるはずである。
②高松藩初代松平頼重が滝宮念仏踊りを復活させるのは、慶安三年(1650)年七月のことで、事件のあった正保二(1645)年には、中断期に当たること。
つまり、この年には高松藩では各念仏踊の滝宮へ奉納は中断していて、踊り込みはなかった時期になります。どうして200年後の七ケ村組の記録は、あえて北条村との関係を悪く記す必要があったのでしょうか。
  奈良家文書の「滝宮念仏踊行事取遺留」には、次のようにも記します。(意訳)
 文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂した。分裂した一つが七箇村組の後庭で踊らせてもらいたいと、阿野郡北の大庄屋を通じて、那珂郡の大庄屋岩崎平蔵(吉野上村)に申し入れがあった。岩崎平蔵は、「正保の刃傷事件から180年も経っているので、もう大丈夫だろう」と考えて、これを認めた。しかし、踊組の内には根強い反対意見もあって、岩崎平蔵の強引なやり方に反発する勢力が生まれた。
 
 しかし、前回見たように北条組は、寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われています。それは文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からもうかがえます。奈良家文書が記すように「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂」という事実は確認できません。

  天保12(1841)年7月に、北条組が那珂郡七カ村を訴えたことについて、高松藩がどのような裁定をしたのかは分からないとしました。しかし、次の天保15(1844)年の順年にはある変化が起きています。踊りの奉納日が次のようになっています
①北条組  7月24日
②七箇村組   25日
 ふたつの踊組の奉納日が別の日になっています。また、24日が雨天で、踊奉納ができなかった場合には、北条組は25日の七箇村組の後庭で踊ることとされています。これは、前回の北条組の訴えを受けての高松藩の対応策だったことがうかがえます。
 その次の順年である弘化4年(1847)年を見ておきましょう。
 この順年は、七ケ村念仏踊組は7月14日に大洪水があって、土器川が大破したので、各村社への巡回を中止し、滝宮両社と金毘羅山の奉納踊だけにしています。注目しておきたいのは、久保神社の宮司朝倉石見が、高松藩の命令で笛吹株を召し上げられていることです。代わって真野村から元次郎が担当しています。浅倉石見は、正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時に殺傷事件を起こしたとされる子孫になります。
   以上見てきたように、どうも奈良家文書の念仏踊りの北条組との関係について記した部分については、北条組に残る文書と整合性がとれないものがあるようです。

以上をまとめておきます
①正保二(1645)年の滝宮念仏踊の時、七箇村組と北条念仏踊組の間に殺傷事件があったと奈良家文書は伝えること。
②しかし、これについては高松藩による滝宮念仏踊り復活以前のことで、中断時期にあたり疑問が残ること
③北条組は、寛政6(1794)年に調停書で、三ケ村(青海村と神谷・高屋村)の争論を調停し、以後は大庄屋渡辺家の下で円滑に運営が行われるようになる。
④北条組については、文政元(1818)年7月の大庄屋渡辺家と三ケ村の書簡史料からも円滑に運営されていたことがうかがえる。
⑤岸の上の奈良家文書は、「文政九(1826)年に、その北条組に内証が起こって、踊組が二つに分裂し、ひとつが七ケ村の後で踊るようになった」と記すが、史料からは確認できない。
⑥天保12(1841)年7月に、那珂郡七カ村のルール違反を北条組が高松藩に訴える。
⑦その結果、次回からは両者の奉納日が24日と25日に分かれることになった。
⑧またその次の順年には、久保宮の神職の宮座株が没収されている。
 奈良文書の七ケ村組と北条組との諍いについては、綴りの表紙として後世に書かれたものです。19世紀になってからの北条組からの藩への控訴を、過去にまで遡らせて偽作した疑いがあると私は考えるようになりました。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

 江戸時代の高松藩では、次の四つの踊組が滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)に風流念仏踊を奉納していました。           奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「賞・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町)   「丑・辰・未・戊」の年
この中の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、全体では3グループで三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。。

前回は、19世紀初頭に起きた北条踊りを巡る争論の調停書を見ながら、北条念仏踊りについて、次のようにまとめておきました。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②これらの10ヶ村で担当役割や人数や各寺社への奉納順が決められていたこと。
③7月25日の滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社25ヶ所へ奉納が行われていたこと
④役割配分や奉納順をめぐって争論が起きたが、それを調停する中で運営ルールが形成されたこと
⑤北条組の主導権を握っていたのは、青海・高屋・神谷村の三ヶ村であったこと
⑥その傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
⑦以上からは、北条念仏踊りは神谷神社周辺の中世在郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったこと
⑧そのプロデュースに、滝宮(牛頭天王)社の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしていたこと

今回は、その後の史料でどんな点が問題になっているのかを見ていくことにします。

坂出 大藪・林田
阿野郡北条 高屋・青海村

調停書が出されて約10年後の文政元(1818)年7月の書簡史料には、次のように記されています。
一筆啓上仕候、然者、滝宮御神事念仏踊当年順番御座候、前倒之通来廿五日踊人数召連滝宮江人込御神事相勤候様仕度奉存候、御苦労二奉存候得共、各様も彼地者勿論郡内御出掛被成可被下候、右為可得其意如此御座候、以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
七月十二日
渡辺与兵衛 様
渡辺七郎左衛門 様
尚々、村々仲満共出勤の義并に出来之幡・笠鉾等、才領与頭相添、来二十四日朝正六ツ時神谷村神社へ相揃候様御触可被下候、又、道橋損の分亡被仰付可被下候、
  意訳変換しておくと
①一筆啓上仕候、滝宮の神事念仏踊の当年の当番に当たっています。つきましては従来通り、7月25日に踊り込み員数を引き連れて、滝宮神前での奉納を相務めるよう準備しております。ご多用な所ではありますが、みなみな様はもちろん、郡内から多くの人がご覧いただけるよう、御案内いたします。以上、
高屋 善太郎
          神谷 熊三郎
青海 良左衛門
なお、村々から参加者や幡・笠鉾など、道具類などについては組頭などが付き添うことになっています。24日早朝六ツ時に、神谷村神社に習合するように触書を廻しています。
又、滝宮に向かう街道や橋などの損傷があれば修繕するように仰せつけ下さい。

滝宮への踊り込みは7月25日です。その2週間前の7月12日に、高屋・神谷・青海の各村庄屋の連名で大庄屋の渡邉家へ送られた書簡です。準備状況と、当日の出発時刻が大庄屋に報告されています。また、滝宮への街道で道路や橋に破損がある場合には、修理するように依頼しています。まさに、村々を挙げて一大イヴェントで、参加者には晴れ姿であったことがうかがえます。

この報告に対しての大庄屋渡辺家からの指示書が次の書簡です。
②以廻申入候、然者、三ケ庄念仏踊当年者順年二付、踊候段申出候、依之先例の通滝宮始村々江各御出勤可有之候、且定例出来り之幟・傘鉾も才領与頭相添、来二十四日正六ツ時神谷氏宮迄御指出可有候并に念仏踊通行の道橋等損有之候ハバ取繕等の分前々の通御取計可有候、
一 先年ヨリ右踊者、三日ニ踊済来候所、近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも無益之失脚不少義二付、当年ヨリ滝宮江者之中入込、未明ヨり踊始候様致度候、兼テ三ケ村江者、右之趣申付御座候、各ニも朝七ツ時迄二御出揃可有之候、為其如此申入候
渡辺与兵衛
七月十四日
鴨   氏部   林田 西庄  江尻   福江 坂出  御供所
右村々政所中

  意訳変換しておくと
③各庄屋からの書簡報告で以下のことを確認した。当年の滝宮への踊り込みは三ケ庄(高屋・神谷・青海)が順年で、先例の通り、滝宮や各村々への村社への奉納準備が進められていること。これについては、従来通りの幟・傘鉾を準備し、これに組頭が従うこと、24日六ツ時(明け方4時)に神谷神社に集合すること、念仏踊が通行する道や橋の修繕整備などを行う事。

一 もともと北条組の念仏踊は、各村社への踊りも含めて3日間で終了していた。それが近年になって4日かかるようになってきた。巡回日数が一日延びると費用も増大する。その対応策として今年からは夜中に滝宮入りして、未明から踊り始めることとする。(そして、滝宮から帰った後で、予定神社の巡回を確実にこなすことにする。)このことについては、かねてより三ケ村へは伝えてある。他の八村の政所(庄屋)も朝七ツ時(午前3時頃)には集合いただきたい。

以上のように、この年は滝宮での念仏踊の日程の短縮が図られたこことを押さえておきます。
現代と江戸の時刻の対応表 | - Japaaan
 
3ケ村庄屋からの書簡を確認した上で、従来と異なる日程変更を申しつけています。
それは、従来からの踊り奉納は次のように決められていました。
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行い、その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社

ところが「近頃緩急相成、四日宛相掛り、一日相延候テも・・・」と、3日でおこなっていた巡回が4日かかるようになったようです。これは、各村で行われる風流念仏踊り奉納が、庶民の楽しみでもあり、なかなか「打ち止め」できずに伸びたことが考えられます。
 以前に見たように高松藩から大政所の心得として下された項目の中に、「村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮すること」とありました。渡邉家の大政所は、これを忠実に守ろうとしたようです。そのために、未明3時頃に集合して、滝宮に入って早朝から踊って、阿野郡に帰ってから、その日のうちに奉納先寺社を確実に巡回できるようにしようとしたようです。
 そのため未明から踊り始めること、そのため当日の神谷神社への集合が変更したことの確認を再度、責任村の三ヶ村の庄屋に通達しています。
 ここからは風流念仏踊りが庶民の楽しみで、できるだけ長く踊っていた、見ていたいという気持ちが強かったことがうかがえます。もともとは雨乞いのためではなく、各郷村で踊られていた風流踊りだったのです。人々にとって、楽しみな踊りで雨乞いに関係なく踊られていたからこそ起きることです。雨乞いのために踊られると言い始めるのは、史料では近代になってからです。
それでは、雨乞いはどこが行っていたのでしょうか?
 高松藩の公式な雨乞祈祷寺院は、白峯寺でした。最初に高松藩が白峰寺に雨乞いを命じた記事は、宝暦12年(1762)のものです。雨が降らず「郷中難儀」しているので、旧暦5月11日に髙松藩の年寄(家老)会議で白峯寺に雨乞祈祷が命じられ、米5俵が支給されています。この雨乞いの通知は、白峯寺から阿野郡北の代官と大政所へ伝えられています。28日に「能潤申候」と記されているので本格的な降雨があったようです。白峰寺の霊験の強さが実証されたことになります。こうして白峯寺には、雨乞い祈願の霊地として善如龍王社が祭られるようになります。
P1150747
白峯寺の善女龍王社

19世紀になると、阿野郡北条の村々も白峯寺に雨乞い祈祷を依頼するようになります。
文化第四卯二月御領分中大政所より風雨順行五穀成就御祈蒔修行願来往覆左之通、大政処より来状左之通
一筆啓上仕候、春冷二御座候得共、益御安泰二可被成御神務与珍重之御儀奉存候、然者去秋以来降雨少ク池々水溜無甲斐殊更先日以来風立申候而、場所二より麦栄種子生立悪敷日痛有之様相見江、其上先歳寅卯両年早損打続申次第を百姓共承伝一統不案気之様子二相聞申候、依之五穀成就雨乞御祈蒔御修行被下候様二御願申上度候段、奉伺候処、申出尤二候間、早々御願申上候と之儀二御座候、
近頃乍御苦労御修行被下候様二宜奉願上候、右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
二月             
和泉覚左衛門
奥光作左衛門
三木孫之丞
宮井伝左衛門
富家長二郎
渡部与兵衛
片山佐兵衛
水原半十郎
植松武兵衛
久本熊之進
喜田伝六
寺嶋弥《兵衛》平
漆原隆左衛門
植田与人郎
古木佐右衛門
山崎正蔵
蓮井太郎二郎
富岡小左衛門
口下辰蔵
竹内惣助
白峯寺様
   意訳変換しておくと                                                                 
一筆啓上仕候、春冷の侯ですが、ますます御安泰で神務や儀奉にお勤めのことと存じます。さて作秋以来、降雨が少なく、ため池の水もあまり貯まっていません。また。強い北風で場所によっては麦が痛み、生育がよくありません。このような状態は、10年ほど前の寅卯両年の旱魃のときと似ていると、百姓たちは話しています。百姓の不安を払拭するためにも、五穀成就・雨乞の祈祷をお願いしたいという意見が出され、協議した結果、それはもっともな話であるということになり、早々にお願いする次第です。修行中で苦労だとは思いますが、お聞きあげくださるようお願いします。
右御願中上度如斯御座候、恐慢謹言
 庄屋たちの連名での願出を受けて、藩の寺社方の許可を得て、2月16日から23日までの間の修行が行われています。雨が降らないから雨乞いを祈願するのではなく、春先に早めに今年の順調な降雨をお願いしているのです。この祈願中は、阿野郡北の村々をはじめ各郡からも参詣が行われています。
 こうして、白峰寺は雨乞いや五穀豊穣を祈願する寺として、村の有力者たちが足繁く通うようになります。白峯寺でも祈祷を通じて、地域の願いを受け止め、「五穀成就」を願う寺として、人々の信仰を集めるようになっていきます。そして周辺の村々からの奉納物や寄進物が集まるようになります。
 ここで確認しておきたいのは、北条念仏踊ももともとは雨乞い踊りではなかったということです。
雨乞いは、高松藩の決めた白峰寺の験のある僧侶の行う事です。験のない庶民が雨乞いが祈願しても、効き目はないというのが当時の人々の一般常識でした。だから、験のある修験者や聖に頼ったのです。当時の庶民は、雨乞いのために念仏踊りを踊っているとは思っていなかったのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
      坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊
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滝宮念仏踊 讃岐国名勝図会
滝宮念仏踊り 滝宮神社への踊り込み(讃岐国名勝図会)
近世はじめの生駒藩の時代には、滝宮神社の夏祭り(旧暦7月25日)には、5つの踊組が念仏踊を奉納していました。その内の多度郡の鴨念仏踊りは、讃岐が東西に分割され、丸亀藩に属するようになると、高松藩は奉納を許さなくなったようです。そのため高松藩下では、次の四つの踊組の奉納が明治になるまで続きました。 
                                                                  奉納順
①阿野郡北条組(坂出市) 「丑・辰・未・戊」の年
②阿野郡南条組(綾川町)   「子・卯・午・酉」の年
③鵜足郡坂本組(丸亀市飯山町)  「申・巳・中・亥」の年
④那珂郡七箇村組(まんのう町 + 琴平町)   「丑・辰・未・戊」
4組の内の①北条組と④七箇村組は同年奉納で、各組は三年一巡の奉納になります。これを「順年」と呼んでいました。②③④については、以前に何度か紹介しましたが、①の北条組については、何も触れられませんでした。新しい坂出市史を眺めていると、北条組のことが紹介されていました。読書メモ代わりにアップしておきます。テキストは、「坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り」です。

坂出市史1
坂出市史
北条組が、どんな村々から構成されていたのかを見ていくことにします。  
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳
那珂郡七箇村組の組織表

 坂本組や七箇村組・鴨組などは、中世のいくつかの郷からなる宮座で構成されていました。そのため近世では10ヶ村近くの村々から構成されていたことは以前にお話ししました。それでは、北条組はどうなのでしょうか。

阿野郡北条の郷
中世阿野北条の郷名

 寛政2(1791)年12月、北条組内の高屋・神谷村と青海村の間で各村社へ念仏踊り奉納順等をめぐって争論が起きます。その御裁許が寛政6(1794)年8月に関係各村に通達されています。これが「念仏一件留」(白峯寺所蔵)で『坂出市史』資料に収録されています。
この争論の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
踊順左之通                 
一 滝宮二社     七月二十五日
一 前日廿四日  神谷村笠揃仕、夫ヨり清立寺、高屋村氏神二社、白峯青海氏四社、高屋浜塩竃大明神并遍照院
一 廿五日 滝宮二社、鴨村一社、氏部村一社、西庄三社
一 二十六日 坂出一社、福江村弐社、江尻村壱社、林田村四社
右之通古来より御神事相勤来申候、尤、御法度絹布も御座候得共、持来并借用来申候、以上、
寛政三亥年十二月  
      高屋村       久次郎
           神谷村政所          恒蔵
                青海村政所兼務      渡辺五郎右衛門
右の通り御尋ニ付 御役所江指出申候
  意訳変換しておくと
①滝宮奉納前日の24日は、神谷村で笠揃を行う。
②その後に、清立寺 → 高屋村の二社 →白峯青海村四社 → 高屋浜の塩竃大明神と遍照院
②25日は、滝宮二社の踊り込みの後に、鴨村一社 → 氏部村一社 → 西庄三社
③26日は、坂出一社 → 福江村2社 → 江尻村一社 → 林田村四社
以上の通り、古来より御神事として奉納してきた。なお御法度の絹布も着用するので、持参・借用については黙認願いたい。以上、
ここからは、北条組は24日に神谷神社から村社などへの巡回奉納が始まり、中日の25日早朝に滝宮に踊り込み、その帰りに鴨・氏部・西庄の神社に奉納しています。そして、最終日26日に、坂出・福江・江尻・林田の各神社に奉納しています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図(江戸時代前期)

ここからは次のようなことが分かります。
①北条念仏踊を構成する村々は、阿野郡の10カ村(青海・高屋・神谷・鴨・氏部・西庄・林田・江尻・福江・坂出)であったこと。
②滝宮への奉納に前後して、10ヶ村の寺社への奉納が3日間で行われていたこと
③傘揃え(出発式)が神谷神社で行われていたこと。
④阿野郡の北の内、乃生・本沢は、入っていないこと
 以前に坂本念仏踊が、もともとは鵜足都内の、川津郷・坂本郷・小川郷・二相郷の計10ケ村からなる踊り組だったことはお話ししました。これは、那珂郡七箇村組や多度郡鴨組も同じです。

神谷神社 讃岐国名勝図会2
神谷神社(讃岐国名勝図会)
北条念仏踊りも、神谷神社の周辺の郷村が宮座を組織して、奉納していた風流踊りだったことが裏付けられます。そのプロデュースに、滝宮の龍燈寺の社僧(聖や修験者)が大きな役割を果たしたと私は考えています。
 滝宮念仏踊りは、もともとは、各郷社に奉納される風流念仏踊りでした。それが滝宮神社に踊り込むようになります。その際に、もめるのが村社の巡回順番です。順番や役割をめぐってどの組でも、争論が起きています。争論の末に、順番が明記されてルールになっていきます。
 それでは北条組は、各村々のどんな寺社を巡回して念仏踊りを奉納していたのでしょうか?

坂出 大藪・林田
阿野郡北図拡大(青海・高屋・林田周辺)
調停書の「念仏踊行列の定并に村々列左の通」は、次のように記します。   
右の通の行列ニテ、郡内宮々踊村々割之列
神谷村先備之分
神谷村  五社大明神     同 村  立寺
氏部村  鉾宮大明神     林田村  祇園宮
江尻村  広瀬大明神     鴨 村 加茂大明神
西庄村  別宮大明神
〆 八ケ所
高屋村先備之分
高屋村  春日大明神      同 村 崇徳天皇
同 村  塩釜大大明神  同 村 遍照院
林田村 惣社大明神 同 村 弁才天
坂出村 八幡宮 西庄村 国津大明神
〆 八ケ所
青海村先備之分
青海村  白峯寺        同 村  崇徳天皇
同 村  春日大明神      同 村  荒神
同 村  厳島大明神      林田村  牛頭天皇
福江村  魚御堂
〆 七ケ所
ここからは、3ヶ村の担当が次のように決めらたことが分かります。
①滝宮神社は、神谷・高屋村
②滝宮天満宮は、青海村
③各村々の寺社については、神谷・高屋・青海が上記のように分担して指揮をとる
④具体的な奉納寺社の名前が挙がっているが、多いのは3ケ村で、他の村は1ヶ所のみ。
坂出 鴨
阿野北絵図(神谷・鴨・氏部・西庄)

以上からは、10ヶ村がフラットな関係でなく、3ケ村(神谷・高屋・青海)の指導権で運営管理されていたことがうかがえます。ここでも争論を経て、ひとつのルールが定着していく過程が見えて来ます。
坂出 上鴨神社
鴨村の上賀茂神社(坂出市)
 こうして見ると北条念仏踊の一団は、坂出市内の合計23の寺社 + 滝宮の2社 =25社を、旧暦の7月25日前後の3日間で巡回し、踊り奉納していたことになります。真夏の炎天下の中を徒歩での移動は、なかなか大変だったことでしょう。それを多くの村人が鎮守の森で待ち受け、楽しみにしていました。地域の一大イベント行事でもあったのです。

滝宮念仏踊 那珂郡南組
那珂郡七箇村組の諏訪神社への奉納図 
以前にお話ししたように、七箇村組の諏訪神社(まんのう町真野)への奉納図には、周囲に有力者の桟敷小屋が建ち並んでいます。桟敷小屋は、宮座の名主などだけに許された権利で、財産として売買もされていたことは以前にお話ししました。ここからも念仏踊りが、もともとは中世の風流踊りに由来することがうかがえます。多くの村人が待つ各村々の鎮守の森に、踊りが奉納されていたことを押さえておきます。
 次に北条念仏踊りの準備品目・出演人数・衣装などを見ておきましょう。寛政6(1794)年の調停書「滝宮念仏踊次第書出覚」には、次のように記されています。
① 幟木綿拵 拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江
② 笠鉾      壱本    加茂村 但、上花色水引金揮、
一 ほら貝吹  拾弐人  此人数増減御座候、神封左に在り
一 日の丸  壱本  神谷村
念仏音替印立申候、并に本太鼓順年二両村替合申候、太鼓打出不申村ヨり指出申候、
一 半月    壱本    青海村
一 長刀振    弐人    神谷村 高屋村 但、其足并木綿立付着用仕候、
③大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、
一 入場太鼓打 壱人    神谷村  但、年齢拾弐、三歳素麻帷子紅たすき、嶋絹立付着用、
一 太鼓持   壱人     同村 但、木綿薫物着用、
一 同鼓打       神谷村 高屋村
 但、帷子麻上下着用、三ケ村ヨり勝手次第出来り増減御座候、
一 笛吹 弐人  但、右同断、
一 下知 壱人    高屋村
 但、帷子緞子、無袖羽織・袴着用、脇折・大団・念仏音替下知仕候、
一 本太鼓打 壱人  高屋村 神谷村
 但、年齢拾四、五歳帷了縮緬単物、太鼓掛縮緬、足元嶋絹立付着用、
一 同 供  壱人  後追役 但、持道具団、木綿単物仕着せ、
一 上ヶ場貝吹 壱人 神谷村 但、帷子絹、羽織小倉立付着用、
④ 小踊    廿人  高屋村 神谷村 青海村
 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用、
⑤ 警固    三拾人  高屋村 神谷村 青海村  
 但、帷子絹、羽織・袴着用、杖
⑥ 鉦打    五拾八人  高屋村 神谷村 青海村
 但、単物帷子、羽織立付着用、
⑦ 輪踊    百二十人  高屋村 神谷村 青海村
 但、帷子、木綿単物、笠二色紙切かけ、団壱木ツヽ持、
⑧ 固役         大政所 小政所
 但、帷子麻上下刀帯仕来申滝宮相済、郡中ハ絹羽織踏込着用、
①の「一 幟木綿拵  拾弐本 氏部  林田  西庄  江尻  坂出  福江」というのは、「南無阿弥陀仏」と書かれた木綿の幟を準備するのが「氏部村以下の6ヶ村 × 2本=12本」ということです。
滝宮念仏踊り 正徳の昔(一七一一年)から踊り場にたて続けられている北村組の幟

北村組の幟(正徳元年1711年以来使用されてきた幟)

②は「上が花色で水引・金揮の笠鉾1本」を準備するのが、加茂村担当ということになります。
滝宮の念仏踊り | レディスかわにし
坂本組の赤い笠鉾
以下、「備品関係」物品があげられ、準備する村名が記されます。
③「一 大打物役  二十四人  神谷村 高屋村 青海村 但、刀之柄二弐尺計之柄を付、持団扇壱本、」の「大打物(おおたちもの)」は「太刀、槍、薙刀(なぎなた)などの長大な武器の総称」です。
「神谷村・高屋村・青海村の三村 × 8人 =24人」で「但し、刀の柄に二尺(約60㎝)をつけ、団扇を1本持つ」とあります。このように全体数と、それを担当する村名、そして但書きが続きます。
④の「小踊 廿人 高屋村 神谷村 青海村 但、年齢七、八才花笠、帷子ちりめん単物、羽織緞子、儒子金揮無袖羽織着用」は、子踊りに三ヶ村から20人 年齢は7・8歳で、以下着用衣装が記されています。
人数が多いのが⑤ 警固30人 ⑥鉦打 58人 ⑦ 輪踊120人で、この3役だけで208人になります。総数は三百人を越える大部隊です。この中心は、高屋村 神谷村 青海村の「三ヶ村」です。ここからは、北条組はこの三ヶ村を中心に、風流念仏踊が踊られるようになったことがうかがえます。
⑥の固役には、阿野郡の大政所と小政所が並びます。そして衣装は、滝宮で踊る場合は、帷子(かたびら)麻の上下で帯刀します。郡内の村社巡回奉納の時は、絹の羽織踏込の着用です。以上が、役割と担当村名でした。
滝宮神社・龍燈院
滝宮の龍燈院(滝宮神社と天満宮の別当寺:讃岐国名勝図会)
 滝宮神社は、明治以前は天皇社(滝宮牛頭天王社)と呼ばれていました。
今でも地元の人達は滝宮神社とは呼ばずに「てんのうさん」と親しみを込めて呼ぶそうです。この神社を管理運営していたのが別当の龍燈院でした。滝宮神社と天満宮は、龍燈寺管理下にひとつの宗教施設として運営されていました。それが、明治の神仏分離で、龍燈院が廃寺となり姿を消し、ふたつの神社が残ったことになります。

龍燈院・滝宮神社
両者に挟まれるようにあった龍燈寺

  滝宮牛頭天王(権現)とよばれた滝宮神社は、その名の通り牛頭天王信仰の宗教施設で、牛や馬などの畜産などに関わり、馬借などの運輸関係者や農民達の強い信仰を集めました。同時に、滝宮牛頭天王はスサノオの権化ともされ「蘇民将来伝説」とも結びつけられて流布されます。
本山寺」の馬頭観音 – 三題噺:馬・カメラ・Python
四国霊場本山寺の本尊 馬頭観音
 中讃の牛頭天王信仰の拠点が滝宮神社で、三豊の拠点が四国霊場の本山寺でした。
本山寺の本尊は馬頭観音で、多くの修験者や聖達がこの札を周辺地域に配布していたようです。滝宮神社の別当寺は龍燈寺も、聖達の集まる寺でした。その名の「龍燈」とは熊野信仰で海からやってくる龍神の目印として掲げられた灯りのことです。この寺が、もともとは熊野信仰と深く結びついた寺院であることがうかがえます。熊野行者の拠点だった龍燈寺は、中世には修験者や聖達のあつまるお寺になっていきます。彼らは「牛頭天王=スサノオ」混淆説から「蘇民将来の子孫」のお札や「苗代や水口」札を配りながら農民達の信仰を集めるようになります。
蘇民将来子孫家門の木札マグネット
牛頭天王信仰の聖達が配布した「蘇民将来の子孫」のお札

滝宮の龍燈院の牛頭天皇信仰の拡大戦略は、次のようなものだった私は考えています。
①龍燈寺の社僧は(修験者や聖)たちは、丸亀平野の各村々をめぐり檀那にお札を配布し、奉納品を集め信者を増やした。
②その際に、彼らはいろいろな情報だけでなく、風流踊りや念仏踊りを各村々に伝える芸能プロデューサーの役割も果たした。
④聖達の指導で、風流踊りは盆踊りとして踊られるようになった
⑤盆踊りとして踊られるようになった風流念仏踊りは、滝宮(牛頭天皇)社の夏祭り(旧暦7月25日)に奉納されるようになった。
これを逆の視点から見ると、滝宮に念仏踊りを奉納していた鵜足郡坂本郷・那珂郡真野郷・多度郡賀茂郷などは、滝宮牛頭権現の信者が一円的にいたエリアだったことになります。牛頭天王の信者達が、自分たちの踊りを滝宮神社に奉納していたと私は考えています。

滝宮神社と龍燈院(明治になって)
滝宮神社と龍燈院(明治になっての在りし日の龍燈院絵図)
       最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
坂出市史近世(下)156P 北条念仏踊り
関連記事

          
  宝永の大地震については、以前に次のような事をお話ししました。
①牟礼町と庵治町の境にある五剣山の南端の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となってしまったこと。
②高松城下町に津波や倒壊家屋など大きな被害が出たこと
③海岸沿いの新田開発地帯で液状化現象が数多く発生したこと
今回は、それから約150年後の安政の大地震を、坂出の史料で見ていくことにします。テキストは「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」です。

安政東海地震・安政南海地震(安政元年11月5日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害

安政の大地震とは、次のような一連の地震の総称のようです。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)- 日米和親条約締結。
1854年7月9日(嘉永7年6月15日)- 伊賀上野地震。
1854年12月23日(嘉永7年11月4日)- 安政東海地震(巨大地震)。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)- 安政南海地震(巨大地震)。
1854年12月26日(嘉永7年11月7日)- 豊予海峡地震。
1855年1月15日(安政元年11月27日)- 安政に改元。
1855年2月7日(安政元年12月21日)- 日露和親条約締結。
1854年旧暦の11月4日午前10時頃、駿河湾から熊野灘までの海底を震源域とする巨大地震が発生します。それに続いて30時間後の5日午後4時頃、今度は紀伊水道から四国沖を震源域とする巨大地震が続いて起きます。駿河トラフと南海トラフで連動して起きたブレート境界地震で、いずれもマグニチュード8・4と推定されています。関東から九州までの広い範囲で大津波が押し寄せます。4日の地震では、東海道筋の城下町や宿場町が大きな被害を受けます。5日の地震では、瀬戸内海沿いの町々でも家屋の倒壊や城郭の損壊が相次ぎ、紀伊半島や四国では10mを超える大津波に襲われます。津波は瀬戸内海や豊後水道にも及んだとされます。

東海地震と南海地震の連携
 東海地震と南海地震のダイヤグラム
東海地震と南海地震は、引き続いて起きる傾向があるようです。
この時も、東海地震の翌日に南海地震が起きています。この地震が起きたときは、年号はまだ嘉永7年でした。それが地震直後に、年号が改められて「安政」となります。ペリー来航で世の中が揺れる中での天変地異に民心も揺らいだようです。
3坂出海岸線 1811年
塩田が出来る前の1811年頃の坂出村
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』には、坂出市域の状況が次のように記されています。

①十一月四日昼四ツ時地震、五日昼七ツ時二大地震イタシ家二居ル者無シ、夫ヨリハ度々ノ地震ユヘ坂出村ノ者ドモ大ヒニ恐怖シテ野宿イタシ、六日ニモ亦々以前ノ如ク西ノ方ヨリドロドロ卜鳴来ツテ、地震止ネバ村中家々二小屋ヲ掛ヶ人々ハ其中二居レリ
 
意訳変換しておくと
11月4日昼四ツ時(10時頃)地震発生、
翌5日昼七ツ時(16時頃)に、今度は大地震が起こり家の中には誰もいない。それから度々の余震が続き、坂出村の人々は恐怖で、家に帰らずに避難し野宿した。六日にも西の方からどろどろと大きな音が続いた。地震が止まないので、村人は小屋掛けして、その中に避難している。

   ここからは東海地震と南海地震が連動して発生したことが分かります。余震におびえる村人達は仮小屋を建てて「野宿」しています。

②  五日ノ大地震二付坂出村ノ破損ハ左ノ如シ 
新浜分ハ、大地裂ケ石垣崩レ、沖ノ金昆羅神ノ拝殿崩レ、橋モ二箇所落テ、塩釜神ノ石ニテ造リタル大鳥居折レタヲレタリ、其外ニ人家破損セサハ更二無シ、塩壺釜屋二損セフハ無ユヘ新地ハ村中ノ大破卜申スベシ、其次ノ破損ハ新開、東洲賀、中洲賀、其次ノ破損ハ西洲賀、内濱也、大破モアレバ小損モ有シガ、是ハ家々ノ幸不幸卜云ベシ、其次二新濱分ハ家二居憎キ程ノ大大地震タレドモ、瓦一枚モ損無ケレバ有難キトテ喜バヌ者ハ喜バヌ者ハ無ク、其内ニ谷本澤次郎居宅ハユガミ出来土塀等モ崩レシカバ先二大破卜中ス也、屋内横洲ノ在所ハ新濱同様ノ由ニテ格別損ジハ非ズシテ喜ビ居ケル也

   意訳変換しておくと
②  五日の大地震の坂出村の被害状況は次の通りである。
 新浜では、大地が裂け石垣が崩れ、沖の金昆羅社の拝殿が壊れた。橋も二箇所で落ち、塩釜神社の石の大鳥居も折れた。その他の人家には被害はない。塩田の塩壺・釜屋の被害もないようだが新地は村中が大破している。その次に被害が大きいのは新開、東洲賀、中洲賀、、次が西洲賀、内濱となる。大破した家もあれば、小破ですんだ家もある。これはその家々の幸不幸と云うべきだろう。新濱分は、大地震だったが瓦一枚の被害も出ていない。これを有難いことと喜ばない者はいない。その内の谷本澤次郎の居宅は、家が歪んで、土塀も崩れたので大破とした。屋内横洲の在所は、新濱と同じように格別の被害はなかったと喜んでいる。
ここでは坂出村の被害状況が述べられています。
地域のモニュメントでもある金毘羅神の拝殿が崩壊し、橋が落ち、塩寵神社の大鳥居が折れています。被害は、エリアで大小があるようです。
坂出村は、近世になって塩田開発が行われ、そこに立地した村です。埋め立て状況によって、地盤の強度に差があったことがうかがえます。これは後述する液状化現象とも関わってきます。

製塩 坂出塩田 久米栄左衛門以前
久米栄左衛門以前の坂出塩田
③ 大坂ハ夏六月十五日大地震ノ時二市中ノ者ドモハ老若男女トモ、船二乗ツテ地震ノ災ヒヲ遁レタレバ、此度モ夏ハ如ク皆々船二乗ツテ居タル所、其員数ハ知レ難ク、死骸ノ川辺ニ累々トシテ山岳ノ如ク、其時二坂出浦ノ船大坂ノ川二在ツテ破船シタルハ左ノ如ク
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
以上大破之分
右入福丸ノ居船頭ハ横洲ノ駒吉、灘吉丸ノ居船頭ハ新地ノ松三郎、弁天丸ノ居船頭ハ新地ノ和右衛門 其時ノ船頭ハ和右衛門ノ甥佐之吉也、灘吉丸弁天丸ノニ艘ハ大破ニテ作事二掛ラズ、入福丸ハ大坂ニテ作事イタシ国へ帰リタリ、三艘トモ木津川二居レリト云
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
以上小破之分
右ハ少々ノ損シユヘ作事シテ国へ帰ル、此四艘ハ安治川二居レル由坂出船都合七艘也、大小ノ破損二逢ヘドモ船頭ヲ始メ水主及ヒ梶取二至るマデ死亡ノ者一人モ無ク皆々帰リテ申しケルハ、本津川ニハ死人多ク安治川ハ少シ、大坂帳面着ノ死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
   意訳変換しておくと
③ 大坂では夏六月に発生した伊賀上野地震の時に、老若男女が船に避難して難を逃れた。そこで今回も前回の時のように、多くの人々が船に避難した。そこへ津波が襲いかかり、多くの死者を出した。その数は数え切れないほどで、死骸が川辺に累々として打ち寄せられ山の如く積み上がった。
この時に、坂出浦の船で大坂に入港していて、大破した船は次の通りである。
一 入福丸二百石積 庄五郎船
一 灘古丸二百石    七之助船
一 弁天丸 百石    市蔵船
この内、船頭は、入福丸は横洲の駒吉、灘吉は新地の松三郎、弁天丸は新地の和右衛であった。
灘吉丸と弁天丸の2艘は大破でも修理せず、入福丸は大坂で修理して坂出に帰ってきた、三艘ともに木津川に停泊中だったと云う。
以下の4艘は小破であった。
一 長水丸 百石    和吉船
一 末吉丸六十石   宮次郎船
一 宝水丸 百石    利吉船
一 長久丸六十石   元助船
この4艘は、損傷が小さかったので修理して、坂出に帰ってきた。この四艘は安治川にいたという。以上、坂出船は合計で七艘、震災時に大坂にいたことになる、それぞれ大小の破損を受けたが船頭を始め、水夫や梶取に死者はおらず、みな無事に帰ってきた。彼らが伝えるには、本津川の方に死者が多く、安治川は少ないとのこと。大坂からの帳面には、死人凡四千六百余人、其外帳二着ケザ几者数へ難之
大坂の木津川と安治川

④ここからは、大坂での大地震の時に、坂出村の廻船7艘が大坂の安治川と木津川に寄港中であったことが分かります。
坂出村からは「塩の専用船」が大坂と間を行き来していたようです。旧暦6月は真夏に当たるので、塩の生産量が増える時期だったのでしょう。それにしても、この日、坂出村の船だけで七艘が入港していたのは私にとっては驚きです。中世には、塩飽などの塩船団は、何隻かで同一行動を取っていたことは以前にお話ししました。ここでも二つのグループが船団を組んで、木津川と安治川に入港中だったとしておきます。
 また、6月の地震の時に船に逃げて難を避けた経験が、今回は大津波でアダとなったことが記されています。

坂出 阿野郡北絵図
阿野郡北絵図 ③が坂出村
④ 庄屋・阿河加藤次ヨリ来ル御触ノ写シ左之如ク
一筆申進候、然者此度地震ヨリ高波マイリ候様イ日イ日雑説申シ触候様者有之愚味ノ者ヲ惑ハシ候事二可有之候哉、イヨイヨ右様ノ次第二候ハバ御上ニモ御手充遊バシ一同江モ屹度御触レ在之候事二可有之候間、左様風説構ハズ銘々ノ仕業ヲ専二相働キ盗人ヤ火事ノ手当無油断心掛ケ、此節ハ幸卜人々ノ迷惑を不構諸色直段上ケ致候者ハ迫々御札シ御咎モ可相成候間、随分下直二商ヒ大工左官日雇賃モ御定ノ通リ可致、併シ此節すみかノ事二付働キ振二寄り少々之義ハ格別ノ事二候、夫々心得違ヒ無之様早々村々江御申渡可被成候、此段申進候 以上、
森田健助
鎌田多兵衛
本条和太右衛門サマ
渡辺五百之助サマ
右之通り御触在之候段、大庄屋中ヨリ申来候間、其組下ヘ早々御申渡シ可破成候、以上、
阿河加藤次
十一月十五日
内濱  新濱
屋内  洲賀
新地
       意訳変換しておくと
藩の手代 → 阿野郡大庄屋渡邊家 → 坂出村庄屋阿河加藤次のルートで廻されてきた触書きの写しを挙げておく。
 一筆申進候、今度の地震で高波(津波)が押し寄せるという雑説(流言)があるが、これは愚味者を惑わすフェイクニュースである。これについてはお上でも対応を考えて手当して、一堂へも通知済みである。よって、怪しい情報に迷わされずに各々の仕業に専念し、盗人や火事に対して油断なく心がけること。このような非常時には、これ幸と人々の迷惑を顧みずに、法令を犯す者も出てくる。それには追って高札で注意する。商いについても大工・左官・日雇の賃金も規定通り従来の価格を維持すること、ただし、住居については火急のことなので、その働きぶりで少々のことは大目にみる。以上、心得違いのないように、早々に村々に通知回覧すること。

④ ここからは坂出でも、多くの流言飛語がとびかっていたことがうかがえます。
これに対する高松藩の対応が、藩の手代→大庄屋→坂出村庄屋・阿河加藤次からの触れというルートで流されています。その中には、物価高騰への対策や大工・左官・日雇などの賃金の高騰防止策も含まれています。

讃岐阿野北郡郡図2 坂出
阿野北郡郡図

⑤先日ノ大地震二坂出村ニハ怪我人マタハ死人など一人モ無キ事ハ、是ヒトヘニ氏神八幡ノ守護二依テヤ、掛ル衆代未曾有ノ大地震二不思議卜村中ノ者ドモ危難ヲ遁レタル御祀卜申シテ、近村ノ神職ヲ頼ミ、十一月十五日ノ夜八幡神前二在テ薪火ヲ焼テ神へ御神楽ヲ奏シ承リタリ
一 同月十六日村中ノ者、小屋ヲ大半過モ取除申セシ所二、晩方二地震イタシ、夜二入ツテ大風吹出シ次第卜募り、雪交ヘ降り地震モ度々也、其夜之風ハ近年二覚ヘザル大風ナリ
一 村方庄屋ヨリ申越タル書付ノ写、左ノ如シ
一筆申し進候、然者今度地震二付御家中屋敷屋敷大小破損ノ義在之候哉、兼テ暑寒等モ勤相ハ無之筈二候エドモ、中ニハ近規格段懇意ノ向等ヘハ相互ヒ見舞ヒ等二罷り越シ候面々モ有之候エバ近親タリトモ一切見舞ヒニ不罷越様、右ノ趣キ御心得早々村々へ御申シ通可被成候、以上、
十一月十六日出
( 中略 )
  意訳変換しておくと
⑤先日の大地震で坂出村では怪我人や死人が一人も出なかった。これはひとえに氏神の八幡神の守護のおかげである。未曾有の大地震にも関わらず村中の人々が危難から救われたお礼にをせねばならぬとして、近村の神職に頼んで、10日後の15日の夜に八幡神前で松明を燃やして、神楽を奉納することになった。

一 その翌日16日になって、村中の者が、避難小屋の大半を取除いた所、晩方に再び地震があった。さらに、夜になって大風が吹出し、次第に強くなり、雪交ヘ降りとなった。その上、余震が何度もあった。この夜の風は、近年で最も強いものであった。
一 村方の庄屋の回覧状写には、次のようにしるされていた。
一筆申し進候、今回の地震について、家中屋敷でも大小の破損があった。中には格段に懇意にしている家に見舞いに行きたいと考える人達もいたが、近親といえども今回は見舞いを控えている。このような心得を早々に村々に伝えるように、以上、
十一月十六日出( 中略 )

ここからは次のようなことが分かります。
A 今回の大地震で坂出村では死人が一人も出なかったこと。
B それを神の御加護として、御礼のために八幡神社で神楽奉納が行われたこと。
C 家中屋敷も被害が出ているが、見舞いは控えるようにとの通達が出されていること
  雨乞いのお礼のために踊られたのが、滝宮(牛頭天王)社に奉納された念仏踊りでした。同じように、神の加護お礼に、神楽が奉納されています。天変地異と神の関係が近かったことがうかがえます。

坂出風景1
坂出
墾田図
⑥十一月二十二日地震ヲ鎮ンガ為ノ祈祷トテ坂出八幡宮ニテ村中ニテ村中安全五穀豊饒ノ大般若経フ転読ス
評曰く、当国高松大荒レ死人多ク有ル由、土佐大荒レ、阿波大波打死人多ク出火焼亡所モ有、伊豫大荒レ、紀伊モ大荒レ、播磨大荒レ、明石最モ大荒レ、家々皆潰レ人麿ノ社ノミ残ル、備前備中モ大荒レ、其中塩飽七島ハ地震少々ニテ島人ハ憂ヒ申サス、中国西国九州二島ノ地震ヲ云者アラ子バ其沙汰ヲ聞カズ、
     意訳変換しておくと
⑥11月22日、地震を鎮めるための祈祷として、坂出八幡宮で安全五穀豊饒のために大般若経の転読を行った。
評曰く、讃岐高松は地震で大きな被害を受けて死人も出ている。土佐大荒、阿波では大波(津波)で多くの死者が出た上に、出火で焼けた処もおおい。伊豫大荒れ、紀伊モ大荒れ、播磨大荒れ、明石は最も大荒レ、家々が皆潰れて人麿社だけが残った。備前・備中も大荒レ、塩飽七島は地震の被害が少なく、島人も困っていない。中国・四国・九州の島の地震については、情報が入ってこないので分からない。
  大般若経の転読は、大般若経六百巻を供えた寺社で行われていた悪霊や病気払いの祈祷です。
讃岐の中世 大内郡水主神社の大般若経と熊野信仰 : 瀬戸の島から
大般若経転読
別当寺の社僧達が経典を、開いて閉じで「転読」します。この時に起こる風が「般若の風」と云われて、効能があるものとされてきました。坂出八幡宮にも大般若経六百巻があったことが分かります。
一 江戸目黒御屋敷二居ケル近藤姓ノ書状左ノ如ク
筆啓上…(中略)…去ル四日ヨリ五日エ古今稀成ル大地震ニテ高松城内フ始メ御家中町内郷中二至ルマデ潰レ家転ビ家怪我人又ハ死人其数知レズ、誠二御国中ノ義ハ何トモ筆紙二難書候由、宿元ヨリ委ク申参シテ夥シキ御事二奉存候、此元ニテモ去四日ヨリ五日ヘハ大地震ニテ大混雑イタシタル義高松ノ宿元ヘ委ク申し遣ハシ置候間、御城下へ御出掛被成候エバ御間可被成候、御伯父サマノ居宅ハ地震ノ破損如何二御座候哉、格別成ル御イタミ所ハ無之義候力、且ハ御家内サマ方ニテ御怪我ハ無之力、年蔭大心配申し上候、誠二近年ハ色々ノ凶事バカリ蜂ノ如ク起こり候エバ、何トモ恐日敷事ニ奉候先ハ蒸気卜地曇トノ見舞ヒ芳申し上度如此御座候、尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
近藤本之進
十一月念三日
坂出村
宮崎善次郎サマ
人々御中
      意訳変換しておくと
江戸目黒屋敷の近藤姓からの書状には、次のように記されていた。
筆啓上…(中略)…去る4日から5日にかけて今までにない規模の大地震で、高松城内を始め家中や町内郷中に至るまでに、家屋が倒壊したり、負傷者や死者が数え切れないほど出ている。国元の惨状は筆舌に現しがたいことなどが書状で伝えられています。こちらも四日から五日には、大地震で大混雑になったことについては高松の宿元へ書状で書き送った。さて、高松城下へ御出かけの際には、伯父さまの居宅の地震被害の様子がどんな風なのかお聞きおきいただきたい。格別な被害がないかどうか、或いは家内の方々に御怪我はなかったのか、など大変心配しております。誠に近年は色々と凶事ばかり続き、何とも恐ろしい気がします。まずは蒸気(ペリー来航)と大地震の見舞い申し上げます。尚則重徳ノ時候、恐惇謹言、
遠く離れた江戸との連絡は、飛脚便で取れていること。しかし、情報が少なく親族の安否や被害状況の確認がなかなか取れずに、心配していることがうかがえます。
⑦ 同月二十五日昼四ツ時分ヨリ地鳴ヤラ海鳴ヤラ山鳴ヤラ何トモ知レ難ク坂出ノ人々大ヒニ心配セル所二昼九ツ時二雷一声鳴ツテ大風大雨地震セシカバ新地ノ者ドモ大ヒニ畏恐レテ背々岡へ逃上タル、是ハ大坂ノ如キ津波ヲ恐レテ船二乗シ者一人モ無シ
一 十二月朔日、新濱中トシテ村中祈祷ノ為二翁ガ住ケル門前二金毘羅神ノ常夜燈ノ有ツル所ニテ地震ヲ鎮メン連、岩戸ノ御神楽ヲ神へ奉ツル員時ノ祈人ハ川津村大宮ノ神職福家津嘉福、春日ノ神職福家斎、御神楽阻話人ノ名前ハ左ノ如ク 
藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平 勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅人権現ノ御鎮座ノ社地ハ申スニ及ハズ、室橋ノ内ハ柳モ地震ノ損ジ無キハ御神徳二依ルユヘトゾ云、尊卜候ベシ候ベシ、四条村榎井村ハ大荒レノ由ヲ聞ク、
  意訳変換しておくと
⑦ 11月25日昼四ツ時分から地鳴やら海鳴・山鳴などの何ともしれない音がして、坂出の人々を不安にさせた。昼九ツ時になって、雷鳴とともに、大風大雨に加えて地震も起きた。新地の人達は、これに畏れて岡へ逃げた。しかし、大坂のように津波を恐れて船に乗る者は一人もいなかった。
一 12月1日、新濱では祈祷のために翁が住んでいる門前に金毘羅神の常夜燈が建っている所で、地震退散のために、岩戸神楽を神へ奉納することになった。祈人は川津村大宮の神職福家津嘉福、春日の神職福家斎、神楽世話人の名前は次の通り。藤七藤吉 孫七郎 貞七 忠兵衛 好兵衛 典平太 権平勘兵衛 虎占 佐太郎 澤蔵
以上、
評曰く、象頭山金毘羅大権現の鎮座する社地を始め、その寺領には地震の被害がなかったのは、御神徳によるものだと皆が噂する。金毘羅さんの威徳は尊ぶべし。ところが寺領と隣接する四条村や榎井村は大きな被害が出ていると聞く。
地震から20日近くたっても余震が収まらないので、人々は不安な毎日を送っているのが伝わってきます。
そんな時に人々が頼るのは神仏しかありません。無事祝いと称して、八幡さんに神楽を奉納し、地震退散のために、「般若の風」を吹かせるために大般若経の転読を行います。そして、今度は金比羅常夜燈の前で、地震を鎮めるために岩戸神楽の奉納が行われています。
それでも余震は続きます。しかし、人々も経験に学んでいます。大坂のように、地震があっても船に逃げる人はいないようです。岡に逃げています。坂出村なので、聖通寺山に避難していたのでしょうか。
⑧ 十二月三日夜四ツ時、地震ヤル
一 同月七日ノ夜、村中横洲祗園宮へ横洲ノ者祈祷トシテ御神楽ヲ奉マツル
一 同十四日ノ境二、地震マタ、其夜ノ八ツ時二人ヒニ地震雨是ハ、先月五日以来ノ大地震卜沙汰スル也、
評曰く、十一月五日ノ大地震二先君源想様ノ御実母 善心様御義早速二御林ノ御別館へ御立除ノ由也、然ル所二、同月二十五日マタマタ高松大ヒニ地鳴セル、晩方二成ルト雖トモ止ス、請人恐レケル時二誰申ストモ寄り浪ノ此地へ打来ラントテ主膳様ヲ始メトシテ御中屋敷大膳様 御大老飛騨様等御方々サヘ津波ヲ恐レテ疾ニモ御屋敷ヲ御立給ヒテ南方フ指テ御出テ有リツルハ定メテ御林ノ御別館へ御入り有リテ 善心様卜御一行二成ラセラレタラン、弥、津波来ラバ内町ノ者ハ危シト俄カニ騒キ立テ、先ハ老人或ハ小供又ハ病者婦人杯ノ足弱キ者トモフバ所々縁ヲ求メ、外町へ出シ、男子ハ居宅ヲ守り、夜ヲ明シタル、
評曰く、先日大地震ノ時、当浦ニモ津波気色少シハ有シヤ、汐引マジキ時二引キヌ、満マジキ時二大ヒニ満レハ、矢張り津波ノ気色ヤラント新地ノ者ノ沙汰ナリ、
又評曰く、三木牟祀村ノ五剣山昔ノ地震二一剣ノ峯ノ崩レタリ、又当年ノ大地震ニモ峯ノ崩レタルト也、何レノ峯ヤラ知ラズ、( 後略 )

  意訳変換しておくと
⑧ 12月3日夜四ツ時、地震発生
一 同月7日ノ夜、横洲の祗園宮へ横洲人々は祈祷として神楽を奉納した
一 同14日ノ夜、8ツ時に地震が起きた。これは先月5日以来の大地震であった。
評曰、11月5日の大地震に高松藩先君の実母・善心様は早速に栗林の別館へ避難されたようだ。
25日に高松では地鳴がして、晩方になっても止まない。この時に、誰ともなく津波が高松にも押し寄せるのではないかという噂が拡がった。そのため主膳様を始めとして中屋敷の大膳様や大老飛騨様なども、津波を恐れて屋敷を立ち退き、かねてより指定されていた栗林の別館へ避難した。そして善心様と合流した。
 これを聞いて津波が襲来すれば内町の者危ないと、人々も騒ぎたて、まずは老人や小供、病者・婦人などの足の悪い者は縁者を頼って、外町へ出し、男子は居宅を守って、夜を明した。
評曰く、先日11月の大地震の時には、坂出浦にも津波の気配が少しはあったが、引き潮時分であったので被害はなかった。もし満潮時であれば、矢張り津波の被害もあったかもしれないと新地の者たちは沙汰している。
評曰く、三木と牟祀村の五剣山は、昔の地震の時に、一剣の峯が崩れた。今回の大地震でも峯が崩れたと云う。それがどの峰なのかは分からない。
   地震から1ヶ月近くたっても余震はおさまりません。余震におびえる人々の心は、フェイクニュースを受入やすくなります。山鳴り・海鳴りが止まず夜を迎えると、津波がやって来るという噂が高松城下町で拡がったようです。そのため城主達一族が栗林の別邸に避難します。それを見て、人々も不安に駆られて避難を始めたようです。
安政の大地震は、11月中旬になってもおさまる気配はなかったようです。
地震の被害状況を調べた「綾野義賢大検見日誌」(『香川県史』10)には、次のように記されています。
二十三日晴、暁のほと地小しく震ふことふたゝひ、卯の下下りにまた御米蔵に至て貢納を見、巳のはしめにうた津を出、坂出村に至れハ本条郡正か子出迎たり、この頃の大震に坂出・林田なと瀬海の所、地大にさけ人家やふれくつれしもの少からすと聞へしかは、それらを見んと、本条から案内にて坂出・江尻・林田・高屋・青海なと南海の地をめくり見る、坂出・林田地さけ堤水門なとくつれ橋落、またハ土地落入りし処もあり、地さけて初のほとハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まヽなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し、されと人家少けれハ家くつれしものは最少し、江尻・高屋・青海なとハ、坂出・林田にくらふれハやゝゆるやかなり、申之刻はかり青海村渡辺郡正
か家に入てやとる、戊の刻はかりに地また震ふ、家外にかけ出んと戸障子ひきあけしほとなり、夜半の頃、また少しふるふ、
十四日、晴、巳の下りに青海村を出、国分に昼食し、黄昏家に帰入る、夜半小震、
  意訳変換しておくと
23日晴、早朝暁にも小しく地面が揺れる。卯の刻に宇多津の米蔵に着いて納められた米俵などの貢納を検見する。巳の始めに宇多津を出発して、坂出村に着いた。本条郡正が出迎え、今回の大震で坂出・林田などの海際の村では、地面が裂け、人家が倒壊したものが少なからず出たことを聞く。その被害状況を見ようと、本条の案内で坂出・江尻・林田・高屋・青海なの地を巡る。坂出・林田の地割れ、堤水門などの決壊、橋の陥落、または土地が陥没した所がある。地が裂けた所は、水が吹出したのか、白砂を吹出したかのように見える所がおおい。これらの様子は、高松よりも多い。しかし、人家が少ないので倒壊家屋の数は高松よりも少ない。江尻・高屋・青海などは、坂出・林田に比べると、被害は少ない。申刻頃に、青海村の渡辺郡正の家に宿をとる。戊の刻頃に、また震れる。家外に駆け出ようと戸障子を引き開けようとしたほどだった。夜半の頃、また少し揺れる。
24日晴、巳の下りに青海村を出て、国分で昼食し、黄昏に家に帰入る、夜半小震、
この史料は、阿野郡北の代官綾野義賢が郡奉行として、大検見を実施したときのものです。
安政元年(1864)年11月23~24日の坂出市域の被害状況と余震の内容が詳細に記録されています。ここから分かることを整理しておくと
①宇多津の米蔵に被害はなく、年貢の米は従来通り収納されていること
②坂出周辺の地震の被害状況を、自分の目で確認していること
③それを「地大いにさけ、人家やぶれ・くづれしもの少からず」「地さけ、堤水門などくづれ、橋落、またハ土地落入りし処もあり」と記録していること
④「地さけて初のほどハ水吹出しか、後にハ白砂吹出しか其まゝなるもの多し、これらのさまハ高松ヨり甚し」と、地面が裂けて水が噴き出したり、白砂が吹き出す液状化現象をきちんと捉えていること
⑤余震におびえながらの生活が続いていること
以上の一つの史料で読み取れる内容から指摘できることをまとめると次の二点です。
以上の記録からは次のような事が見えて来ます
①藩当局の周知・連絡が「藩 → 大庄屋 → 各村の庄屋 → 民衆」というルートで伝えられていること。藩の触書などは書写して残している人もいたこと。
②大地震からの不安からのがれるように、仏や神頼みが地元から起こっていること
③大坂で船に避難したひとが大きな被害となったことは、すぐに坂出に伝わっていること。地震の教訓を坂出の人々が活かしていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史
参考文献
「坂出市史近世(上)295P 大地震と高潮・津波」
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坂出市史 村と島6 大庄屋渡部家
大庄屋 渡辺家
阿野郡の大庄屋を務めた渡辺家には、代々の当主が書き残した「御用日記」が残されています。
渡邊家は初代嘉兵衛が1659(万治2)年に青梅村に移住してきて、その子善次郎義祐が宝永年間(1704−1711年)に青梅村の政所(庄屋)になります。その後、1788(天明8)年に阿野北郡大政所(大庄屋)になり、1829(文政12)年には藩士の列に取り立てられています。渡部家には、1817(文化15)年から1864(文久4)年にかけて四代にわたる「大庄屋御用日記」43冊が残されています。ここには、大庄屋の職務内容が詳しく記されています。

御用日記 渡辺家文書
御用日記(渡辺家文書)
 この中に「庄屋の心構え」(1825(文政8年)があります。

「大小庄屋勤め向き心得方の義面々書き出し出し候様御代官より御申し聞かせ候二付き」

とあるので、高松藩の代官が庄屋に説いたもののを書写したもののようです。今回は高松藩が、庄屋たちにどのようなことを求めていたのか、庄屋たちの直面する「日常業務」とは、どんなものだったのかを見ていくことにします。テキストは「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」です
 高松藩の代官は、庄屋にその心構を次のように説いたようです。
・(乃生村)庄屋は、年貢収納はもちろん、その他の収納物についても日限を遵守し納付すること
・村方百姓による道路工事などについては、きちんと仕上げて、後々に指導を受けたりせぬように
・村方百姓の中で、行いや考えに問題がある者へは指導し、風儀を乱さないように心得よ
・御用向きや御触れ事などは、早速に村内端々まで申し触れること。
・利益になることは、独り占めするのではなく、村中の百姓全体が利益になるように取り計うこと。
・衣類や家普請などは、華美・贅沢にならないように心がけること
・用水管理については、村々全体で取り決めて行うこと
・普請工事については優先順位をつけて行うこと
ここからは法令遵守、灌漑用水管理、藩への迅速な報告、賞罰の大庄屋との相談、普請工事の誠実な遂行、藩からの通達などの早急な伝達・周知、などの心得が挙げられています。
これに他の庄屋に伝えられていた項目を追加しておきます。
⑩何事についても百姓たちが徒党を組んで集会寄合をすることがないようにする。(集会・結社の取り締まり)
⑪道や橋の普請などに、気を配り
⑫村入目(村の運営費)などは、できるだけ緊縮し
⑬小間者に至るまで、村の百姓達の戸数が減らないように精々気を付け
⑭村の風儀の害となる者や、無宿帳外の者については厳重に取りしまること
ここからは、年貢を納めることが第一ですが、それ以外にも村方のことはなんでも庄屋が処理することがもとめられていたことが分かります。
それでは、庄屋の年間取扱業務とはどんなものだったのでしょうか?
文政元(1818)の「御用日記」に出てくる「年間処理事項」を挙げて見ると次のようになります。
正月
  古船購入願いを処理、
  氏部村の百姓の不届きの処理、
  用水浚いの願いの処理
  白峯寺寺中の青海村真蔵院の再建処理
2月 郡々村々用水浚いの当番年の業務処理
  青海村の上代池浚い対応処理
3月 二歩米額の村々への通知、
  江戸上屋敷の焼失への籾の各村割当処理、
  林田村の百姓が養子をもらいたいとの願いの処理
  吹き銀、潰れ銀売買について公儀書付の周知と違反者への処理
  村人間の暴行事件の対応・処理
  政所(庄屋)役の退役処理
  捨て牛の処理
4月
藩の大検見役人の巡検への対応
他所米の入津許可の処理
新しい池の築造手配
5月
他所米入津の隣領への抜売禁上の通達処理
郷中での出火
神事、祭礼などでの三つ拍子の禁止申し渡し
村人のみだりに虚無僧になることの禁上の通達
普請人夫の賃金待遇処理
6月
高松松平家中の嫡子が農村へ引っ越すことについての対応、
出水浚・川中掘渫などの検分と修復のための予算処置
五人組合の者共の心得の再確認と不心得者の取締り
昨年冬の高松藩江戸屋敷焼失についての大庄屋の献金額の調整
7月
御口事方が林田裏で行う大砲稽古への手配
盆前の取り越し納入の手配
遍路坊主の白峰境内での自殺事件の処理
正麦納の銀納許可について対応
村人の金銭貸借への対処
殺人犯の人相書きの手配
三ヶ庄念仏踊りの当番年について、氏部など各村への連絡
照り続きにつき雨乞修法の依頼
北條池の用水不足対応
香川郡東東谷村の村人の失踪届対応
商売開業願への対応
盗殺生改人の支度料処理
8月 他所米の入津対応や御用銀の上納対応
9月 大検見の役人への村別対応手配
10月 高松と東西の蔵所へ11月収めの年貢米(人歩米)納入について藩からの指示の伝達
11月 年貢米未進者の所蔵入れの報告
   阿野郡北の牢人者の書き上げ報告
12月 村人の酒造株取得と古船の売買
以上を見ると、自殺・喧嘩・殺人から養子縁組の世話、池や用水管理・雨乞いに至るまで、庄屋は大忙しです。以前にお話したように、庄屋は「税務署 + 公安警察 + 簡易裁判所 + 土木出張所 + 社会福祉事務所」などを兼ねていて、村で起こることはなんでも抱え込んでいたのです。だから村方役人と呼ばれました。村に武士達は、普段はやって来ることはなかったのです。ただ、戸籍書類だけは、お寺が担当していたとも云えます。
讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録 <収蔵資料目録>(瀬戸内海歴史民俗資料館 編) / はなひ堂 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 /  日本の古本屋
瀬戸内海歴史民俗資料館編
『讃岐国阿野郡北青海村渡邊家文書目録』1976年)。

  このような業務を遂行する上で、欠かせないのが文書能力でした。
  江戸時代は、藩などの政策や法令は、文書によって庄屋に伝達されます。また、先ほど見たように庄屋は村支配のために、さまざまな種類の文書を作成し、提出を求められます。村支配のためや、訴訟・指示などの意思表明のためにも、文書作成は必要不可欠な能力となります。文書が読めない、書けないでは村役人は務まりません。年貢納税にも高い計算能力が求められます。
 地方行政の手引きである『地方凡例録』には、庄屋の資格要件を、次のように記します。
「持高身代も相応にして算筆も相成もの」

経済的な裏付けと、かなりの読み書き・そろばん(計算力)能力が必要だというのです。例えば、村の事案処理には、先例に照らして物事を判断することが求められます。円滑な村の運営のために、記録を作成し、保存管理することが有効なことに庄屋たちは気づきます。その結果、意欲・能力のある庄屋は、日常記録を日記として残すようになります。そこには、次のような記録が記されます。
村検地帳などの土地に関するもの
年貢など負担に関するもの
宗門改など戸口に関するもの
村の概況を示した村明細帳や村絵図など
境界や入会地をめぐる争論の裁許状や内済書、裁許絵図
これらは記録として残され、庄屋の家に相伝されます。こうして庄屋だけでなく種々の記録が作成・保存される「記録の時代」がやってきます。
辻本雅史氏は、次のように記します。

「17世紀日本は『文字社会』と大量出版時代を実現した。それは『17世紀のメデイア革命』と呼ぶこともできるだろう」

そして、18世紀後半から「教育爆発」の時代が始まったと指摘します。こうして階層を越えて、村にも文字学習への要求は高まります。これに拍車を掛けたのが、折からの出版文化の隆盛です。書籍文化の発達や俳諧などの教養を身に付けた地方文化人が数多く現れるようになります。彼らは、中央や近隣文化人とネットワークを結んで、地方文化圏を形成するまでになります。

村では、藩の支配を受けながら村役人たちが、年貢の納入を第一に百姓たちを指導しながら村政に取り組みます。百姓たちも村の寄合で評議を行いながら村を動かしていきます。

  大老―奉行―郡奉行―代官―(村)大庄屋・庄屋ー組頭―百姓

 というのが高松藩の農村支配構造です。
大庄屋の渡辺家の「御用日記」(1818)年の表紙裏には、次のように記されています。
御年寄 谷左馬之助殿(他二名の連名)
御奉行 鈴木善兵衛殿 
    小倉義兵衛殿中條伝人 入谷市郎兵衛殿
郡奉行 野原二兵衛 藤本佐十郎 
代官  三井恒一郎(他六名連名) 
当郡役所元〆 上野藤太夫 野嶋平蔵
当時の主人が、高松藩との組織連携のために書き留めたのでしょう。この表記は、各年の御用日記に記されているようです。このような組織の中で、庄屋たちは横の連携をとりながら、村々の運営を行っていたのです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「坂出市史 近世上14P 村役人の仕事」

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 神谷神社があるのは、阿野郡松山郷五ヵ村のひとつであった旧神谷村です。白峰山西麓の谷筋にあり、山裾の集落から小川沿いに東に延びる参道を登っていくと境内が現れます。社殿の後には、影向石と呼ばれている巨石が磐座として祀られて、古代の信仰対象だったことがうかがえます。この磐座に対する信仰が、この神社の起源なのでしょう。
  今回は、神谷神社について見ていくことにします。テキストは坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」です

神谷神社 由緒書

 神谷神社の祭神は伊弊諾尊・伊弊再尊の子で火の神とされる火結命(ほむすびのみこと)で、その孫でやはり火の神とされる奥津彦命・奥津姫命を併せ祀ります。相殿には、春日四神(経津主神、武甕槌神、天児屋根命、姫大神)が祀られています。磐座信仰+火結命(ほむすびのみこと)+春日四神と合祀されるようになって、五社神社と地元では呼ばれてきたようです。

 神谷神社の創始は分かりません。社伝によると
「神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け・・たのが神谷大明神の創始と謂われているという。
その後、弘仁3年(812)空海の叔父・阿刀大足が、春日四柱を相殿に勧請して再興したという。・・・・
なんだかよく分からない話です。
 阿刀大足は、以前にお話したように、摂津に基盤を持つ阿刀氏で、空海の母の兄弟になります。真魚(空海幼名)からすると叔父で、空海の「英才教育担当者」とされる学識豊かな知識人であり中央官人ですが、讃岐への来歴はありません。「阿刀大足勧進」という伝承自体が「弘法大師空海伝説」とも云えます。あくまで伝説で、すぐには信じられません。
神谷神社が正史で確認できるのは、三代実録の次の叙位記録になるようです。
①貞観七(865)年に従五位上、
②貞親十七(875)年に正五位下
また、延喜式にも讃岐式内社24社の中の1社として、阿野郡の3社のひとつとして、城山神社、鴨神社と並んで名前があります。ここからは、9世紀後半までは、有力豪族の保護を受けて国庁の管理下にも置かれた神社があったことがうかがえます。

実は「阿刀大足勧進」を証明する史料があるとされてきました。それを見てみましょう。
神谷神社棟札1460年

神谷神社に残る棟札の中で一番古い年紀を持つ棟札(写)を見てみましょう。表が寛正元(1460)年で、「奉再興神谷大明神御社一宇」とあります。これに問題はありません。問題なのは裏の「弘仁三(812)年 河埜氏勧請」という一行です。 阿刀ではなく「河埜氏」とあることは押さえておきます。阿刀氏も河野氏と同じく物部氏を祖先とする同族なので、このように記されたと近世の史書はしてきました。
 この棟札の裏書については「江戸時代になって作成されたもの」と研究者は考えているようです。つまり、「弘仁三年に阿刀大足による勧請」を伝えるために、江戸時代になって書かれた(写された)ものなのです。しかし、「写」であっても表の「奉再興神谷大明神御社一宇」や、寛正元(1460)年の修理棟札は、信じることができるようです。
天文九(1540)年の棟札は二枚あります。
神谷神社 修理棟札1540年
地域の氏子等の奉加によって本殿の屋根葺き替えを行ったときのものです。松元氏が神官の筆頭者になっています。松元氏は神官であると同時に、有力な国人勢力であったようで、幕末の讃岐国名勝図会にも神谷神社のすぐそばに大きな屋敷が描かれています。

神谷神社棟札2枚目

永禄11(1568)年の棟札も二枚あります。本殿屋根の葺き替えで、前回から28年経っているので、30年おきに葺き替えが行われていたようです。この時には鍛冶宗次の名が見え、屋根の構造的な部分に手が入れられたことがうかがえます。さらに脇之坊増有とあるので、本坊以外にも社僧が居たことが分かります。

その後の神谷神社の沿革を伝える史料はありません。しかし、鎌倉時代のものとされる遺品が隣接する宝物館に保管されていますので見ておきましょう。
神谷神社随身像
①阿吽一対の木造随身立像(重要文化財)

坂出市史は、この随身立像を次のように紹介しています
像高 阿形像125、2㎝  吽形像 125、6㎝
建保七(1219)年建立の国宝指定の本殿と同じ頃、鎌倉時代中期の13世紀に制作されたとされる。両手の肘を張つて手を前に出す姿勢はきわめてめずらしい。制作紀年銘のある随身立像では最古の、岡山県津山市高野神社の一対(応保一年銘)に次いで古い。
 後世の床几に坐る形式の随身像にくらべると古制を示している。両像とも、かたいケヤキ材を用い、頭部を頸のあたりで輪切りにし、襟にみられる棚状の矧ぎ面にのせて寄本造りの形をとっている。これが高家神社のものと同じ技法である。技巧的には阿形像の方が複雑に仕上げられている

「白峯寺古図」に見えるとおり、神谷神社は、神谷明神として多くの付属建造物が描かれています。 本殿とおもえる妻入り社殿の後には、立派な三重塔が見えます。その前方には、平入りの社僧の坊舎と随身門が描かれています。この随身立像は、ここに描かれている随身門に納められていたのかもしれません。
神谷神社の面

②舞楽面二面(市指定有形文化財)
③大般若波羅密多経(市指定有形文化財)
数多くあった宝物も、元禄十一(1698)年に著された「神谷五社縁起」(『綾・松山市』所載)には中世の兵乱により多くが散逸していた様子が記されています。

神谷神社の境内には、江戸時代後半の年号が刻まれた次のような石造物があります
①天保9(1838)年 手水石
②弘化三(1846)年  石階耳石上に立つ親柱に
③嘉永2(1849)年 二の鳥居
④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
⑤慶応4(1868)年  百度石
⑥明治28(1895)  玉垣設置
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①天保9(1838)年 手水石
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③嘉永2(1849)年 二の鳥居
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④元治元(1864)年 狛犬と燈籠
これらの石造物が設置されたのは19世紀のことです。江戸時代の後半になって境内は整備され、現在の原型ができたことが分かります。
このような整備が進む中で、明治37(1904)年8月に本殿が特別保護建造物に指定されます。

この時期に整備された神谷明神と別当寺の清瀧寺の様子を描いた絵図が讃岐国名勝図会に載せられています。
神谷神社 讃岐国名勝図会

神谷川沿の突き当たりの谷に鎮座する神谷神社の姿が右手に見えます。一番奥が国宝の本殿です。社人を務める松本氏の屋敷も描かれています。神谷神社と同時に、神宮寺である青竜寺も大きな構えを見せています。青竜寺の以前には、清瀧寺という大きな神宮寺があったようです。これは後で見ることにして、国宝に指定されている本殿を見ておくことにします。

神谷神社本殿3
神谷神社本殿
大正の大改修の際に発見された棟本の墨書銘に、次のように記されています。
正一位神谷大明神御費殿
建保七年歳次己如二月十日丁未月始之
惣官散位刑部宿祢正長
ここからは、承久元(1219・建保七)年に、本殿が建立されたことが分かります。
また先ほどの棟札からは、本殿の葺替えが以下のように行われたことが分かります。
①寛正元(1460)年の棟札(写)
②天文9(1540)年
③永禄11(1556)年
④万治3(1660)年
⑤宝暦9(1759)年
 棟札の年紀からは、約20年ごとに葺替が行われていたことがうかがえます。そして、日露戦争が始まった明治37(1904)年8月には、古社寺保存法に定める特別保護建造物に指定されています。その時の指定理由には、次のように記されています。
「再建年代明カナラサレトモ、其形式ヨリ判スレハ鎌倉初期二属スル者ノ如シ、即我国現存神社中最古キ者ノ一ナリ」
この指定を受けて約百年前の大正6(1917)年から翌年にかけて、総事業費491、5万円で解体修理が行われます。この大正修理の際に、今まで見てきた棟木銘と棟札が発見されて建立年代やその後の修理の沿革が明らかとなりました。
kamitani19

この大正の大修理では、できりだけ建築当初の姿にもどす方針が打ち出されて、次のような現状変更が行われています。
①向拝柱を旧位貰に戻すこと、
②向拝打越垂本を復原すること
③発見された断片から垂本は全て反り付きとすること
④縁回り諸材の寸法と位置を復原すること、
⑤箱棟鋼板被覆を取り去り渋墨塗りに復原すること
(大正八年二月「現状変更説明」による)
kamitani25

それ以後の沿革は以下の通りです。
昭和22(1947)戦後の文化財保護法(昭和22年制定)で重要文化財指定
昭和27(1952)屋根葺替
昭和30(1955)2月「現存の三間社流造の最古に属する例」として国宝指定
神谷神社本殿2

神谷神社本殿は、「流造神社本殿の最古に属する例」として早くから知られてきたようです。
流造は、伊勢神宮正殿に代表される桁行一間・梁間二間の身舎(もや)に切妻造の屋根を架けた平入の本殿から発展した古い形式と考えられるようです。機能的には正面の本階や拝所を覆うので、どこが正面か分からなくなるおそれがある建物です。そのために建物の正面性を主張するための工夫が凝らされることになります。その工夫が身舎の前に庇を設けて切妻屋根の前流れを前方に延長させる方法です。
 神谷神社 宇治上神社本殿(平安後期)
京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)
神谷神社の流造本殿は、京都府宇治市の宇治上神社本殿(平安後期)に次いで古いものだとされています。宇治上神社本殿は、一間社流造の内殿3棟を一連の覆屋に納め、左右の一棟は片側面と背面及び屋根を覆屋と共用しています。これは変則的な形式です。これに対して、流造の規範的な形式は正面の柱間を三間とする三間社で、神谷神社本殿は流造本殿の本流の姿を良く留めているようです。

神谷神社本殿1
神谷神社本殿
①縁を正側三面とし脇障子を備えた正面性の強い構えとして流造の規範的な形式ができあがってていること、
②全体として古代建築に比べて木柄が細いものとなっているものの装飾的要素はまだ少ないこと
③反りの強い破風や庇各部材の面の大きさなどに鎌倉時代初期の趣を伝えていること
④正面は中央間のみを扉口とし脇間を板壁とする閉鎖性の強い構えであること
⑤内部は一室で、頭貫を用いずに柱上に直接舟肘木と桁を載せる古いスタイルをとっている
⑥基壇に礎石建て、庇に組物を使って、妻梁に虹梁型を用いるという仏教的な影響を受けている
以上から「古いスタイルをとりながらも仏教の影響を受けた中世的な新たな展開」の建物と評しています。
 神谷神社本殿 讃岐国名勝図会
讃岐国名勝図会に描かれた神谷神社本殿

最後に、神谷神社の性格について考えておきましょう
神谷神社を考える際に避けては通れないのが、この谷の上にある白峯寺の存在です。白峯寺は、国分寺背後の山岳仏教の修験道(山伏)の行場として開かれ、五色山全体が修行の山でした。その行場に開かれたのが白峰寺や根来寺です。これらの行場は、小辺路ルートとして結ばれ、それが後の四国遍路の「へんろ道」として残ります。
白峯寺古図 周辺天皇社
白峯寺古図

 白峯寺古図を見ると、⑤神谷神社の谷から白峯寺への参拝道が見えます。これも修験者が開いた「小辺路」です。つまり、神谷神社は、白峰寺の行場のひとつとして開かれたと私は考えています。
中世の白峯寺は以前にお話したように「山岳信仰 + 熊野信仰 + 崇徳上皇信仰 + 天狗信仰 + 念仏行者 + 弘法大師信仰熊野」などの修験者や行者・高野聖・六十六部などの聖地で、多くの行者がやってきて住み着いていました。そのような白峰寺の中にひとつのサテライトが神谷神社であったと私は考えています。
 ちなみに神谷神社も明治の神仏分離までは、「神谷大明神」で、神仏混淆の宗教施設で管理は別当寺の清瀧寺の社僧がおこなっていました。
神谷神社 讃岐国名勝図会3
白峯寺古図拡大 神谷神社の背後の三重塔
『白峯山古図』には神谷神社の背後に三重塔が垣間見えます。これは清瀧寺のもので、この塔からも相当大きな寺院だったことがうかがえます。中世の神谷神社が神仏混淆で清瀧寺の社僧の管理下にあったことを押さえておきます。

白峯寺大門 青海天皇社 神谷神社
右下が神谷神社、左下が高屋神社 上が白峯寺大門

神谷集落には額(楽)屋敷という地名が残ります。 ここには、白峯寺の楽人が住居していたという伝承があります。
讃岐の古代の地方楽所としては、善通寺が「国楽所」を担ってきたようです。その後、観音寺などの有力寺社でも、舞楽はじめ舞曲芸能が盛行するに従い設置されます。白峯寺でも「楽所」が、寺領の松山荘内にある神谷周辺に置かれていた可能性があるようです。そうだとすればここからも、神谷明神と白峯寺との関係の深さがうかがえます。

神谷大明神石塔(石造多層塔残欠)
神谷神社の凝灰岩製層塔
 神谷神社の斎庭北東隅には鎌倉時代後期の一対の凝灰岩製層塔があります。
この塔は、もともとは神宮寺であった清瀧寺のものと伝えられます。清瀧寺がいつの頃に姿を消したのかは分かりません。さきほど見たように白峯寺古図には、神谷神社の奥に三重塔が描かれています。これが清瀧寺だったようです。清瀧寺の退転後に現在地に清龍(立)寺が創建されます。

神谷神社 青竜寺 讃岐国名勝図会
青竜(立)寺(讃岐国名勝図会)
青竜寺には阿弥陀如来立像(県指定有形文化財)が安置されています。この胸部内面に文永七(1270)年の墨書銘を記されています。『綾北問尋抄』(宝暦五(1755)年刊)に「五社(=神谷神社)の本地仏(中略)安阿弥(=快慶)の作とも云」と記します。ここからは、この仏がもとは神谷明神の本地仏で、清瀧寺の本尊であったと研究者は考えているようです。
神谷神社 清立寺本尊
青立寺の阿弥陀如来立像(県有形文化財)像高 101㎝
 
胸部内側に造像墨書銘「奉造立志者、為慈父悲母往生極楽也、文永七年巳九月七日僧長円敬白」とあるので、鎌倉時代中期文永七(1270))年の制作であることが分かります。
坂出市史は、この阿弥陀さまを、次のように紹介します。
ヒノキ材の寄木造りである。香川県下ではこの期の阿弥陀像は多数あるが、造像年の明確なのは数体である。なお、梶原景紹著『讃岐国名勝図会』に「阿弥陀堂、本尊(古仏、五社明神の本地なり)当庵は、往古五社明神の別当清滝寺といえる寺跡なり、退転の年月末詳、今清立寺はこの寺を再興せしならん」
とあり、本像が、神谷神社の本地仏であったという。先述の『白峯山古図』には、直接、阿弥陀堂は確認できないものの、神谷明神の鳥居の左側に神谷村の集落が描かれており、その中に清滝寺阿弥陀堂と思しき立派な堂合らしき建物が見える。

 かつての清瀧寺については、よく分からないようです。
しかし、清瀧寺の後に出来た清立(滝)寺については、天霧城の香川氏の家臣の亡命先だったという次のような話が伝えられます。天正年間(1573~)、天霧城主香川信景が豊臣秀吉の四国攻めにより敗れ、長宗我部元親の養子親和と共に土佐に亡命します。その落城時に、家臣何某(香川山城守?)が剃髪し、この地に逃げてきて、清瀧寺を再興し堂宇を建てたのが青立寺、後の清立(滝)寺だと云うのです。

尻切れトンボになりますが、以上をまとめておきます
①神谷神社は磐座信仰に始まり、国分寺ー白峰寺ー根来寺の山岳信仰の行場として、「小辺路」修行の行場ネットワークのひとつであった。
②中世の神谷神社は、神仏混淆下にあり清瀧寺の社僧が別当として管理運営に当たっていた。
③清瀧寺は、白峯寺とは「楽所」や「連歌」、人事交流などで密接な関係にあり、三重塔を有する規模の寺社でもあった。
④鎌倉時代の棟木から神谷神社本堂は鎌倉時代の流れ作りのもっとも古い形式を残す本堂であることが分かり国宝に指定されている。
⑤本堂は中止後半以後、氏子達によって屋根の葺き替えが行われ、管理されてきたことが残された棟札からは分かる。
⑥清瀧寺の退転後は、青竜寺が代わって別当寺となったが社人松元氏の力も台頭し、以前のような支配力を発揮することはなかった。
⑦幕末から明治に境内整備が進み、現在のレイアウトがほぼ完成した。
神谷神社における神仏分離については、文献や史料がなく今の私には分かりません。あしからず。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
 参考文献   坂出市史 中世編 神谷神社の立地と沿革  206P」
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坂出古代海岸線
 
讃岐の海岸線は、埋め立てや干拓によって北へ北へと移動していきました。現在の海岸線とは、大きく違っていたようです。今回は、坂出の海岸線の変遷を見ていこうと思います。テキストは 「森下友子    坂出市における海岸線の変遷  香川県埋蔵文化財センター 考古学講座 56 令和 2 年 11 月 8 日」です。

福江 西庄
ます旧市街周辺の海岸線から見ていきましょう。
江戸時代末に宮崎栄立が著した『民賊物語』(嘉永3年(1850)には、戦国時代の坂出市西部の海岸の様子が次のように記されています。
「元亀二辛未歳奈良氏宇多津聖通寺山に城を築き累代居城とす城東は入海にして角山の麓まで海潮恒に満干いたせり。角山の麓より三四丁計り沖に出て東西の寄洲三十七八丁ありて、其の東に南北の洲在つて横たわれり、海潮の満たる時、津郷、福江の大道を往来せり、潮の干たる時は海中の洲を諸人共往来せしとなり、遠近の違いあること弓と弦との如し」
 
意訳変換しておくと
元亀2年(1571)に奈良氏が城を築いた聖通寺山の東には海が入り込んでいて、満潮時は角山の麓まで潮が入っていた。角山の麓から3,4丁(300~400m)沖に出ると東西の寄洲が37、8丁(3,7㎞)ほどあって、その東に南北の砂州が横たわっていた。満潮の時は、津の郷(宇多津町津の郷)から福江(坂出市福江町)の大道を往来し、潮が引いた時は、海中の中州を往来していた。干満の差が大きく、まるで弓と弦のようである

  ここからは、次のようなことが分かります。
①戦国時代には聖通寺山の東には干満差の大きな干潟が広がっていたこと
②角山の麓から沖に出たところに東西の寄州があったこと
③満潮の時には、津之郷から福江の大道を利用し、干潮の時には中洲を通行利用したこと
寄州とは波や風によって移動した土砂が海岸線に平行して帯状に小高く堆積した浜堤(砂州)のこと。

坂出市街地には、下図のように東西方向の2列の浜堤(砂堆)があったようです。

坂出 海岸線復元

①北浜堤(砂堆B) 八幡町・白金町・寿町・本町・元町付近
②南浜堤(砂堆A) その南約600mの富士見町・文京町付近
『民賊物語』に出てくる「東西の寄洲」は「角山山麓より沖に出たところ」とあるので、①の北浜堤のことを指しているようです。この浜堤の間は「潟湖」で、海が大きく湾入していたことが分かってきました。
坂出 福江海岸線

 ここからは北の砂堆Bと砂堆Aの間にあたる本町・京町・室町付近には潟湖があったと推測できます。上のは文京町二丁目西遺跡調査報告書に示された図や成果を基に作成した図です。砂碓Aは縄文時代に形成された砂碓で、この北面が古代の海岸線となります。この砂碓Aの北側にもう1つの砂堆列B・Cがあったことが分かっています。砂堆Bは「玉藻集」に「中道」と出てくるもので、16世紀後半にはようやく渡れる状態だったことが分かります。一方、砂碓Aと砂碓Bとの間は足も立たない「深江(ふかえ)」であったと記されています。
坂出の復元海岸線2

これを満潮時の様子とすると砂碓A(①北浜堤)と砂碓B(②南浜堤)との間に潟湖が存在し、奥の部分では干潮時には製塩に利用されたと考えられます。福江からは荘園主に塩5石が納められていました。その塩が作られたのも、この潟湖の干潟を利用したのかも知れません。それが堆積作用で、室町時代後半には砂堆B(北浜堤)まで海岸線が後退します。その結果、福江の港湾機能は低下し、御供所に移ったと研究者は考えているようです。

旧地形は小字名にも残されています。下の図は坂出市の小字名です。

坂出 旧小字名
①富士見町線とJR予讃線が交差する付近に「浜」、
②JR坂出駅周辺には「浜田」という小字
「浜」・「浜田」の南端は、南浜堤付近になります。南浜堤の北側には中世以降になると浜が広がっていたことがうかがえます。

今から200年前の19世紀前半になると、高松藩普請奉行久米通賢によって北側の浜堤の沖の干拓が行われることになります。
塩田開発以前の、坂出の海岸線はどうなっていたのでしょうか
塩田が作られる前の坂出の様子を描いた絵図には、いろいろありますが、最も詳細な絵図は「坂出古図」のようです。これに描かれた海岸付近の様子を見てみよう。
坂出古図

この上地図に、坂出市都市計画図に重ねたのが下の地図になります。

坂出古図2

 東浜の海岸線が現在の旧国道11号線のラインになるようです。東浜の北に円弧状に突出するところが鳥洲(潮止)神社(久米町一丁目)のあたりになります。東浜から西は、内陸まで海が入り込んできて、弓状の海岸線には石垣が積まれていたことが分かります。海岸線を西から見ていくと、「御供所新田」から南に向かい、ほぼ直角に曲がって北東に向かい、東に延びていきます。
 地図上に「石垣」と書かれた所は、現在の白金町・寿町・元町の一部です。
坂出古図 干拓以前の石垣

これが北浜堤の北端に当たる場所で、通賢干拓以前の護岸と伝えられる東西方向の石垣になります。石垣の北と南では 0.5~1.0 メートルほどの高低差があります。古図に描かれた波線は、護岸の石垣のようです。この石垣が、いつ積まれたかについては、史料がなくてよく分からないようです。ただ、石垣の西端にある西須賀八軒屋港に享保 17 年(1732)に、船番所が移されています。この時に付近一帯の護岸が整備されたと研究者は考えているようです。とすると18世紀前半に、この石垣が築かれたことになります。その場所は、先ほど見た北側の砂堆の海際ということになります。

福江 中世
 それから約百年後の文政 9 年(1826)に、高松藩の普請奉行である久米通賢が干拓に着手します。
坂出風景1

 石垣の北側には広大な面積の塩田と畑が姿を現します。この様子は以前に紹介した「坂出墾田図」で、以前にお話ししました。
坂出 海岸線正保国絵図
日本文国図 讃岐国絵図 享保頃 坂出の海岸線
江尻から福江にかけて海が大きく湾入して潟湖を形成している


次に見ていくのは江尻町付近の海岸線の変遷です。
坂出 阿野郡北絵図
高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図
絵図資料としては、19世紀初頭に描かれた「高松藩軍用絵図 阿野郡北絵図」だけのようです。そこで、研究者は、小字と灌漑用水路の状況などから推測していきます。
坂出 江尻灌漑用水網
上図は江尻町付近の小字と灌漑水路を示す図です。江尻町の北部に「浜田」という小字が見えます。この付近は江尻町域の田畑を灌漑する江尻用水の末端にあたります。そのため「浜田」が江尻町の中でも最も遅く開発されたエリアであることがうかがえます。現在この付近の田畑の標高は 1~2mですから、開発前は浜が広がっていたと推定できます。
「浜田」の南西には「北新開」・「南新開」があります。
現在の坂出警察書付近にあたります。新開という地名から、新たに開発した土地であることがわかります。この付近も標高 1~2mと低く、何本かの排水路で西側の横津川に排水しています。また、坂出警察新築工事では、表土の下には厚い砂層が堆積していることが確認されています。以上から、坂出警察署付近は、かつて海岸部の低湿地であったのを、横津川や排水路を整備して、「北新開」・「南新開」を開発したと研究者は考えているようです。
文化元年(1804)には、江尻町の北東端で、綾川の河口沿いにある小字「末包(末兼」が開発されます。
坂出 江尻末兼石仏

末兼集落の石仏(図 9・10)には鵜足郡東分村(香川県綾歌郡宇多津町東分)の末包元左衛門と和享によって、同年に開発されたと刻まれています。この石仏からは、末兼は宇多津の有力者が19世紀初頭に開発したエリアであることが分かります。

林田町付近の旧海岸線を見ておきましょう。

坂出 大藪・林田

林田町には文化年間(1804~1818)に作成され、明治時代初期に加筆された検地帳と、地券発行のために明治時代初期に作成された地引絵図が保管されています。これらの資料から江戸時代末の田畑の呼び名が特定した研究を以前に紹介しました。
坂出 林田町 旧地名

これをみると、林田町の海岸沿いには「元禄六酉新興」・「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」など年号の入った地名が集中しています。「新興」は「新たに興す」ことで、田畑が開発された年号をを示しています。
①綾川沿いの北西部には、「安政二卯新興」・「明治四辛新興」や「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」・「宝永六巳新興」
②中央部から北東部には「元禄六酉新興」が広く広がります。
ここからは、林田町の北部は17 世紀末から18世紀前半に開発されたことがうかがえます。
今は、これらの「新開」の南に雌山の裾を取り巻くように神谷川が流れています。雌山西方には河川の痕跡とみられる地割が残るので、もともとは北に流れていた神谷川を雌山の裾に固定して、その西側に広大な田畑を開発したと研究者は考えているようです。ここでも河川のルート変更と治水工事と新田開発と灌漑用水の整備は、セットで行われています。
林田の開発以前の様子を示す資料としては、幕府の海辺巡検使高林又兵衛の視察記「海上湊記」があります。この記録は寛文7年(1667)のもので、この中に次のように記されています。
「林田 拾軒 遠干潟也 舟掛り無是ヨリ白峯へ上ル一り程有 此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜ト云」

意訳変換しておくと
「林田は十軒の集落で、遠干潟である。 舟掛り(湊)はないが、ここから白峯へ一里ほどである。この辺りの浜を綾ノ浜と云う」

ここからは、17世紀後半には「林田 拾軒 遠干潟也」で、林田は10軒しか家のない集落で、湊も無く綾ノ浜呼ばれる遠浅の海岸が続いていたことが分かります。そこが江戸時代中期以降、新たに開発されていったのです。
坂出エリアの一番東の高藪の松ヶ浦と網の浦が、讃岐国名勝図会に載せられています
坂出 高藪 松ケ浦

前山(五色台山系)から西方、瀬居島を正面に見た構図で、左下部分に①大藪湊が描かれています。そこから北へ延びる浜が②松ヶ浦のようです。しかし、大藪は「青海村内にあり、林田郷の項に惣社大明神があり、松ヶ浦に鎮座」とあります。そうすると、松ヶ浦は青海川の河口付近と神谷川河口近辺の2カ所を指す地名ということになります。あるいは、雄山・雌山の周縁部を総称して松ヶ浦と言つていた時代があったのかもしれません。どちらにしても青海川と神谷川の河口先端の青松が生え伸びる部分を松ヶ浦と称していたようです。

 坂出の海岸線沿いには、中世には次のような湊があったことがうかがえます。
①青海川の河口であり青海湾の江尻に当たる松山津
②神谷川の河口になる松ケ浦
③綾川の河口になる川尻(林田湊)
④国津の遺称が残る福江の江尻湊
⑤聖通寺山の麓の御供所
この5つの湊が、阿野北平野の海岸沿いに、東西に並んでいたことになります。当然、これらの港を相互に結ぶ海浜ルートが「寄洲(よりす)の道」だったことは先に述べた通りです。これらの湊を結ぶルートとして、次のような街道が考えられます
①各湊と国府を結ぶ陸上ルート
②与島・櫃石島、乃生や木沢など陸上運搬の困難な浦々の湊と、これら阿野郡北の諸湊とを小舟で結ぶルート
③集荷された荷物や人を、基幹港である宇多津や塩飽に運ぶ海上ルート
各港からの産物を小舟で集荷する役割を果たしていたのが、聖通寺山の平山湊の海民たちです。集められてきた産物は、宇多津や塩飽の大船に積み替えられて畿内に運ばれていきました。中世には、各港で次のような機能分担が行われていたと研究者は考えているようです。
①大拠点港 宇多津・塩飽
②中継港  平山
③松山津・松ケ浦・林田湊・江尻湊(福江)・御供所
ここからは古代の国津港であった林田湊の衰退が見られます。国府機能の衰退と守護所の宇多津設置という政治状況の変化で、讃岐の主要湊の地位を宇多津に奪われたことがうかがえます。

   以上をまとめておくと
①近世以前の阿野北の海岸線は、いまよりも南にあり東西に伸びる砂堆が街道の役割を果たしていた
②砂堆の北側には広大な遠浅の海が広がっていた。
③江戸時代後半になって、坂出西部は塩田のために、綾川河口域の東部は荒地開発のために大規模な干拓開発が行われ、海岸線は北へと移動した。
④昭和の高度経済成長の時代に、沖合の遠浅の海が埋め立てられ臨海工業地帯が形成され、海岸線はさらに北へと移動し、沙弥島や瀬居島と陸続きになった。
⑤その結果、自然海岸はほとんどなくなり、波消しブロックに囲まれた堤防で、坂出は「陸封」され、市街からは海は遠くなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献

  5讃岐国府と国分寺と条里制

綾川が府中でドッグレッグして北に流れを変えた右岸(東側)が鴨になります。この辺りには、山部には古墳時代末期の横穴式古墳が群集し、その後には鴨廃寺も建立されていて、古代綾氏の拠点とされています。そして、綾川の対岸に讃岐国府が姿を見せます。「国府誘致」の原動力になった勢力の基盤があったところとも考えられます。

坂出 条里制と古墳
賀茂古墳群と鴨廃寺の位置関係 綾氏の存在がうかがえる

 全国には、古代以来の鴨部を引き継ぐ地名がありますが、古代の讃岐にも、鴨部(坂出市)と鴨部(さぬき市)の2カ所の鴨部がありました。空海の叔父阿刀大足が、この地に京都の賀茂神社(上下二社を総称して賀茂社)を勧請したので、鴨部郷から鴨郷に変更されたと伝えられます。また、鴨を狩猟し、献上する部民が配置された鴨部の呼称が始まりとされます。しかし、それらを裏付ける史料はないようです。
  鴨村の位置を確認して、ズームアップしていきます。
坂出 鴨
江戸時代の阿野北絵図
黄色ラインは街道、赤は村境になります。 注目しておきたいのは、鴨村の東にある烏帽子山です。
坂出 賀茂烏帽子山
現在の烏帽子山 山頂付近が削りとられてしまった姿
この山は、今は採石作業で削り取られて見る影もありませんが、かつてはその名の通り烏帽子の形をした甘南備山で地域の信仰対象だったことがうかがえます。明治の地形図の麓の地名は「神の山」です。ちなみに、頂上からは弥生時代の高地性集落跡も見つかっているようです。この山が鴨村の「シンボルタワー」の役割を果たしていたことは容易に想像がつきます。その麓にあるのが鴨村です。
5讃岐国府と国分寺と条里制

府中から真っ直ぐに北に伸びていく道が「大道」と呼ばれた、国府とその外港の林田湊を結ぶ連絡道だったと研究者は考えているようです。大道の西が氏部村です。近代には「鴨村+氏部村」=加茂村となります。綾川の西側は、西庄村になります。
坂出 鴨

この地図には、城山の北麓に「賀茂村御林」「氏部村御林」とあります。ここがふたつの村の「御林」だったことが分かります。農民たちは、この御林から若芽や小枝を刈り取って来て、それを背負って帰って田んぼにすき込んでいたのでしょう。


近世の鴨村と氏部村には、それぞれ鴨(賀茂)神社が鎮座していました。
鴨部郷の鴨神社1
  両神社の位置を、明治の地図で確認しておきます。
綾川に面してあるのが上鴨神社で、川の向こうにはJR予讃線の賀茂駅があります。今は採石で美しい姿を失ってしまった烏帽子山の西北麓に鎮座するのが下鴨神社です。ここでふたつの神社の鎮座する地名を下の地図で押さえておきます。
①上鴨神社(西鴨)が鎮座するのが氏部の「本鴨
②下鴨神社(東鴨)が鎮座するのが「鴨の庄

これを幕末の讃岐国名勝図会に載せられた絵図で見てみましょう。
絵図は国会図書館のアーカイブからダウンロードしたもので、クリックすれば拡大します。詳細部までみることができます。
鴨部郷の鴨神社

手前から見ていきましょう。
①右から左へ綾川が流れています。
②綾川に沿って高松ー丸亀街道が伸びていて、綾川を渡る木橋が見えます
③丸亀街道にそって鎮座するのが上鴨社(西鴨社)で、鴨前院という別院があり神仏混淆です
④さらに北に行くと氏部村の集落があるようです。
⑤田んぼには、雀おどしらしきものが張られているので、季節は取り入れ前の秋なのでしょうか
⑥背後には、五色台が横たわり、その前に奇景の烏帽子山が見えます。
⑦烏帽子山の前に、下鴨神社が見えます。
⑧その左に正蓮寺が大きく描かれています。

 西鴨(上賀茂)神社は、今も「あおいさん」とよばれ信仰を集めています。

坂出 上鴨神社

かつては三所大明神と呼ばれ、社内に神宮寺の一つ鴨箭(おうせん)院や地蔵堂などの堂塔がある神仏混淆の神社で、社僧が奉仕していました。
 西鴨神社(上賀茂・葵さん)には県内最古の棟札が保存されています。
年号は己□(卯)と見えるので、長禄二(1459)年のものと研究者は考えているようです。県下の棟札で、年紀の入ったものとしては、一番古いものです。西鴨神社周辺には京都の上賀茂神社の荘官で、「南海通記」などに登場する入江民部(代々民部を名乗った)がいました。この人江氏であった景輝という人物が願主となり、白峯寺の大僧都俊玄を西鴨神社社殿落慶の法要に際し導師に招いて供養したときのものが、この棟札になるようです。ここからは、西鴨神社が京都の上賀茂神社の寺領となっていたことが分かります。

坂出 下鴨神社

 東鴨(下賀茂)神社は鴨居大明神や、葛城大明神とも称していました。どちらも延喜式内社とする議論もありますが、京都の上賀茂、下賀茂は、併せて一社です。西鴨、東鴨もそう考えるのが自然のようです。
福江 西庄


鴨ノ庄(下鴨神社領)賀茂御祖神社は、下鴨神社領で現在も鴨庄の地名が残ります。そして、下社である東鴨神社があります。上鴨神社があるのは本鴨で、ここも京都の下鴨神社領といわれています。ところが、なぜか上社の西鴨神社が鎮座します。下鴨領に上社が鎮座するのは変です。『名勝』には、上社は氏部・鴨二郷の総鎮守であるとされます。また、本鴨は、賀茂庄の本条で、中心地を意味します。そうすると、この地は本来は、上社の荘園に含まれていた可能性が高くなります。綾川の流路沿いにあり、氏部郷と接続する場所です。そのためかつては氏部郷に属していた可能性もあるのでしょう。西鴨社の位置が変わっていないとすれば、氏部ではなく上賀茂領であったということになると坂出市史は指摘します。
牛ノ子山と牛子天神 
 ここは、国府と松山津との間を往返する「大道」道筋の途中になります。讃岐国守を勤めた菅原道真もこの付近にあった客館に足繁く通った(『菅家文草』)ことがうかがえます。伝承では、この小山で道真は牛に乗って戯れたと云います。また、道真が国司として最も重要な臨時祭事である雨乞いを城山山上において祭文を奉じて行ったところ、たちまちに恵みの雨が降ったとされます。それを讃えてこの地の民衆が乱舞したといわれ、これが雨乞踊りの発祥であるとも伝えらます。その後、これに讃岐配流になった法然上人が振り付けをして、北条念仏踊となったと伝えられます。ここには、中世に都から始まって地方に伝播した風流踊りの讃岐への定着プロセスがうかがえます。
 こうした雨乞い念仏踊組が讃岐各所に形成されて、江戸時代になると早魃の時には郡内の各組からも牛頭天王(滝宮神)社へ奉納するようになります。ここからは、いまはほどんど姿を消してしまった牛頭天王信仰のネットワークが見えてきます。

讃岐国名勝図会に描かれた上下鴨神社の周辺をみてきました。この地が烏帽子山を甘南備山(霊山・聖山)として、古来から信仰対象となっていたことを痛感します。古墳時代の人々は、この山の奥に古墳群を築き、仏教が流行するとそれを取り入れ鴨廃寺を建立する。そして、国府をここに「誘致」したのも、ここを拠点とする勢力だったのかもしれません。その後、京都の秦氏の氏神である下上賀茂神社に寄進され、中世には賀茂神社の寺領となったようです。秦氏との関係を通じて、成長して行ったのが古代綾氏です。綾氏は在庁官人として国府の指導権を握り、勢力を拡大していきます。その基盤は、国府と近いこの鴨(加茂)の地にあったのではないかと、私は考えています。
しかし、烏帽子山の今の姿は残念です。
坂出 賀茂烏帽子山
頂上部がなくなった現在の烏帽子山の姿

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 中世編

  戦国末期に聖通寺山周辺をめぐって起きた変動は、大きなものでした。平山・御供所の住人や聖通寺の僧侶からすれば、山の上の主が短期間で次のように交替したことになります。
「奈良氏 → 長宗我部元親 → 仙石秀久 → 尾藤知宜 → 生駒親正」

  このような中で聖通寺城も変化していったようです。今回は聖通寺城の城郭が、どのように造られたのか、そのプロセスを追っていきたいと思います。テキストは「坂出市史 中世編 第七章 戦国動乱 第五節 中世城館」です。
聖通寺山

聖通寺城跡は、坂出市と綾歌郡宇多津町にまたがる聖通寺山にあります。
東西約六600m、南北約1080mのほぼ全域にわたる山城で、県下最大級の城域を持っています。この城館跡は、南北朝時代の築城伝承がありますが、今の遺構は永正元(1504)年から大永元(1521)年にかけての奈良元吉から、天正15(1587)年に在城した生駒親正までの83年間の間に築城された城跡とされています。
聖通寺城 曲輪2

この城は北峰と中峰に分かれていますが、両峰の遺構には大きな差異があると坂出市史は次のように指摘します。
北峰と中峰の頂上部から尾根沿いにいくつかの階段状の曲輪跡があります。その中でも北峰の西側斜面は、小さなブロックに分割された曲輪跡が相当な密度で並びます。ここは居住空間跡でもあったようです。山上の城郭施設を、日常の生活空間としても使用するスタイルを「戦国期拠点城郭」と呼ぶそうです。これは織田信長の安土城を始まりとします。北峯はこの「戦国期拠点城郭」スタイルが採用されています。つまり、居住空間と防御施設が一体化した最新型の城郭スタイルが北峯の城郭には持ち込まれています。このスタイルを、持ち込んだのは誰なのでしょうか? それは、後で考えるとして、次に中峰を見てみましょう。
聖通寺城 曲輪

 北峯と中峯では建設者が異なると研究者は考えているようです。
聖通寺城山は、中峰が一番高いのですが、そこにあるのは小規模で簡易な施設です。曲輪の連なりや配置を見ると、中峰の城郭は南方向への防御を考えた造りになっています。ところが新しくやって来た主は、北方向への防御性に備えた城郭を北峯に新しく築き、全体を改造改築します。ここまでで、中峰の主が奈良氏であったことは分かります。それでは、新しい主とは誰なのでしょうか。私は安土城に始まる「戦国期拠点城郭」の採用と聞いて、すぐに生駒親正を考えました。ところがそうではないようです。
それを「聖通寺山には石垣がない」をキーワードに解いていくことにします。織豊政権のお城に石垣はつきものです。ところが聖通寺城は、戦国時代の終末期まで存続しながら石垣跡がありません。

聖通寺山 仙石秀久

 天正13(1585)年6月 秀吉は四国平定を果たし、長宗我部元親を土佐一国に閉じ込めます。他の三国へは四国平定に功績のあった武将達が論功行賞と封じられます。讃岐には秀吉子飼いの仙石秀久が統治者としてやってきます。彼は、聖通寺城に本拠地を置きます。しかし、それもわずかのことで、九州平定への出陣を命じられ翌年の天正14(1586)12月の豊後・戸次川の戦いの敗戦の責任を取らされ、讃岐から追放されます。仙石秀久の統治は1年余でした。このため聖通寺城には、仙石氏による改修の痕跡は全く認められないようです。それは、石垣跡がないことからも裏付けられます。彼が讃岐に残した記録は、徴税に反対する農民たちを、聖通寺山城で処刑したというくらいです。
大失態を犯し追放されたが、再び秀吉の信頼を得て乱世を生き抜いた男|三英傑に仕え「全国転勤」した武将とゆかりの城【仙石秀久編】 |  サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
洲本城 東の丸 仙石秀久が築いたとされる
 織田信長の安土城築城以後は、石垣を持つ城郭が急増します。
仙石秀久のような織田・豊臣政権の中枢で活躍した武将は、競って石垣のある城造りを目指します。仙石秀久が讃岐に来る前に城主であった淡路の洲本城跡には高い石垣が築かれていて、今も東の丸にその痕跡を見ることができます。しかし、聖通寺城からは石垣跡は、見つかっていません。 
 仙石秀久の支配が短期間でも、聖通寺城の改修に取り組んだとすれば、石垣の導入を考えたはずです。聖通寺山の南峰周辺の山中を歩くと、巨石の中に切り出し途中の痕跡が残るものもあります。しかし、城郭跡からは石垣の痕跡はないようです。仙石氏には、城の改修や増築補強を行う時間はなく、石垣普請も行われなかったとしておきましょう。

DSC08630
仙石秀久の墓(聖通寺境内 昭和40年建立)
 仙石秀久が追放された後の聖通寺城には、天正十五年一月に尾藤知宜が入城します。彼も九州平定戦の失態(根白坂の戦い)で4月には追放されます。そのため尾藤氏が聖通寺館跡に居城した痕跡はありません。
生駒親正ってどんな人?何をした人?【簡単な言葉でわかりやすく解説】 | でも、日本が好きだ。

 讃岐国の統治は、生駒親正に委ねられることになります。
親正には、入部当初は引田や聖通寺山などに拠点を探しながら、最終的に高松(野原)に落ち着いたとされます。その過程で、聖通寺城を本拠地とする考えもあったと伝えられます。しかし、調査からは、実際に聖通寺城に入城した形跡はないようです。
  以上から北峯に最新式の城郭を築いた候補者から、仙石秀久・尾藤知宜・生駒親正は消えます。残るのは長宗我部元親です。
聖通寺 岡豊城の石垣 長宗我部元親
長宗我部元親の居城 土佐・岡豊城の石垣

讃岐には、土佐の長宗我部元親の侵攻を受けて、多くの城が落とされ寺社が焼かれたと記録に残ります。
聖通寺 長宗我部元親の侵攻
坂出市史より

県の「中世城郭詳細分布調査」で明らかになったことのひとつが、長宗我部元親の攻撃を受けた館跡の多くが、それまでの城館よりも「大型化」し「進歩的な形態」をしているということです。私はこれを、土佐軍の侵攻に備えて、讃岐の武士団が自分の城館や山城を整備したためと最初は思っていました。ところがこれは長宗我部氏の占領後に、改修・強化された結果であると報告書は指摘します。つまり、土佐軍は懐柔・攻略した讃岐の城郭を、その後の秀吉軍の四国侵攻に備えて、改修・拡大し防御力を高めたということです。そこには今までの讃岐にはなかった工夫と手法が持ち込まれています。それを土佐的手法と研究者は呼んでいるようです。
  長宗我部氏によて城館が大型化したという根拠を押さえておきます。文献史料で土佐軍との攻防戦が行われた代表的な城郭を、坂出市史は次のように挙げます
①天霧城跡
②藤目城跡(観音寺市)
③櫛梨山城跡(元吉城・琴平町)
④西長尾城跡(丸亀市)
⑤勝賀城跡(高松市)
⑥上佐山城跡(同)
⑦鳥屋城跡(同)
⑧内場城跡(同)
⑨雨滝城跡(さぬき市)
⑩虎丸城跡(東かがわ市)等
このうち①天霧城跡は、曲輸跡群の分布範囲の総延長がおよそ1,2㎞におよぶ県NO1の規模です。その背景としては、長宗我部元親の次男親和と香川氏と間に養子縁組が行われ、両者の間に同盟関係が結ばれたことが考えられます。そのため本拠地の岡豊城(高知県南国市)で培われた土木技術が天霧城に導入され、土佐流に城郭が改修された結果が、この大型化に至つたと研究者は考えているようです。
また、西讃の押さえの城とされた西長尾城跡は、長宗我部氏の重臣の国吉甚左衛門が入り、大規模な改修工事が行われます。その際には、土佐スタイルの防御施設が設けらたことが発掘調査から明らかになっています。そして天正十(1582)年からの東讃遠征の際には、1、2万の軍勢集結の地となっています。それだけの人員を収容できる規模であったことが調査からも裏付けられています。

他の城館跡についても、長宗我部氏による攻城戦の伝承があり、土佐軍の占領と、その後の秀吉軍に対する防衛施設の強化という中で、改修・増築が行われ大型化がすすんだと研究者は考えているようです。再度確認しておきますが、土佐軍の信仰に備えて讃岐の武士たちが大型化を行ったのではないという点を押さえておきます。
もうひとつの指標は、石垣跡をもつ城館跡が現れることです。
高松城跡と丸亀城跡の石垣跡については、以前から知られていました。現在、石垣が確認されているのは引田城跡、雨滝城跡、勝賀城跡、天霧城跡、九十九山城跡(観音寺市)、獅子ケ鼻城跡(同)です。
引田城 - お城散歩
引旧城跡の石垣(野面積方式による石積で讃岐では最初?)
引旧城跡の石垣は讃岐の城館跡の中では初期のもので、生駒親正によって築かれた野面積様式であることが定説化しています。同じような野面積方式の石垣跡が雨滝城跡など、東讃の城館跡においても確認されています。これらの石垣跡についても、生駒親正による城郭網整備の痕跡と研究者は考えているようです。
「長宗我部元親」「石組み」という視点で、もう一度聖通寺城を見てみましょう
奈良氏によって中峰に、小規模で簡易な防御施設が建てられていたのを、長宗我部元親は、北方向からの秀吉軍に備えて改造改築したと坂出市史は記します。これは、先ほど見たように西長尾城や鷺の山城にも見られることです。土佐勢によって落城した後、瀬戸内海の北側の秀吉に向けた前線基地としてに改修された城館跡の事例のひとつのようです。しかし、聖通寺に石垣はありません。
聖通寺城 坂出の城郭
坂出市史より

ところが聖通寺山から2㎞北にある陸続きになった沙弥島の山城には、石垣跡があることが分かってきました。これをどう考えればいいのでしょうか?
讃岐で石垣跡がある城館跡は、引田城も丸亀城も生駒氏によって始められています。そのため石垣のある沙弥島城館跡も生駒氏によって築かれたものと、坂出市史は指摘します。
沙名島 石垣
沙弥島の城山跡の石垣跡
沙弥島の城山跡の石垣跡は、二重の帯曲輪跡の境界部分に残っています。自然石を野面積みした形で、大人の膝高程度の高さです。聖通寺城跡に石垣跡がないということと照らし合わせると、仙石秀久治世時代のものではなく、生駒氏による石垣導入の痕跡のようです。その位置づけを坂出市史は「讃岐国内の国境防衛の施設に位置付けることが適当」とします。だとすると聖通寺城跡のすぐ沖合に位置するので、沙弥島の城郭跡は「聖通寺城の沖合前線基地」という性格が考えられます。
その後の生駒氏は、西讃地域の支配拠点として丸亀を選び、亀山に新たな城の築城を始めます。そこには高い石垣が積まれていきます。そのため聖通寺城はうち捨てられることになります。つまり、聖通寺山には本格的な石垣を導入した城館跡は造られなかった、ただ前線基地である沙弥城山城跡には一部石垣が使われている、ということになるようです。
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聖通寺山・南峰山中の磐座
聖通寺山を歩いていて考えたこと(妄想)を記します。
聖通寺山の南峰の山中には、巨石がごろごろと転がり、磐座として信仰対象となっていた気配がします。かつての岩屋があった所には、今は朽ち果てようとしていますがお堂も建ち、周辺にはミニ八八箇所参りのお地蔵さんが参道に並びます。
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聖通寺の磐座と地蔵
最近までは、信者たちによるお勤めも行われていたようです。ここが修験者たちによる行場で、霊地であったことがうかがえます。聖通寺の奥の院だったと私は推察しています。

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 聖通寺は、この奥の院が源で、その下に開かれた古刹です。その歴史は宇多津が開ける前からあり、聖宝の学問寺と称しています。聖宝は、空海の弟に随って修行し、醍醐寺を開いた修験者です。聖宝は、この沖の島で生まれたとされ、その生誕の地をめぐって沙弥島と本島が争っていました。
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聖通寺の奥の院のお堂?
つまり「聖通寺 ー 沙弥島 ー 本島」は聖宝で結ばれます。さらに、その背後をたどると、児島の五流修験につながっていきます。五流修験は、自らを「新熊野」と称し、熊野修験の亡命者集団であるとします。彼らは、熊野水軍の瀬戸内海や西国への進出の案内人として布教エリアを拡大します。そのひとつが讃岐です。讃岐の海岸線には四国霊場の札所として、道隆寺・白峰寺・志度寺、さらには引田の古刹・与田寺や多度津の海岸寺が並びますが、これらの寺院は熊野信仰の影響色濃く受けています。これは海を越えてやって来た五流修験によって、もたらされたと私は考えています。
DSC08637
聖通寺

 そういう色眼鏡で見ると坂出エリアでは「本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺」という小辺路ルートが五流修験によってひらかれていたという仮説が思い浮かんできます。

聖通寺 復元図
聖通寺を支えた信仰集団は、どこにいたのか?
 それが平山や御供所の「海民」たちだったのではないでしょうか。彼らは製塩や海上交易・漁業などで生計を立てる海民であったことは以前にお話ししました。その先祖は、沙弥島のナカンダ浜で塩を作り、船で交易を行っていたのかもしれません。それがいつしか北に突き出し聖通寺(半島)の先端部に住み着き、定着したとしておきます。御供所は以前にも触れたとおり、京都の崇徳院御影堂の寺領の一部となり、「海の荘園」として成長し、海産物加工や海上交易の拠点となります。平山も御供所と同じような道を進みます。ある意味、平山と御供所は一体化し、海の荘園で瀬戸内海交易の拠点でもあったと私は考えています。
 聖通寺山の麓にある平山も港町で交易湊がありました。
製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
6番目に平山の名が見える
『兵庫北関入船納帳』に、その名前が出てくるので、かなりの規模の港町が形成されていたことが分かります。宇多津よりも沖合いに近い立地を活かして、広域的な沖乗り航路(宇多津・塩飽発の交易船)とを繋ぐ結節点としての役割を果たしていたようです。そのため宇多津と平山は、「連携」関係にあったようです。ふたつの港は自立していましたが、機能面では連動し相互補完的関係にあったようです。平山の集落は聖通寺山の西側にある
①砂堆2の背後に広がる現平山集落と重なる付近
②聖通寺山北西麓の現北浦集落と重なる付近
が想定できるようです。そして、平山や御供所の海民たちの信仰を集めたのが聖通寺なのではないか。その管理に当たっていたのが五流修験系の社僧であったと私は考えています。
以上をまとめておきます
①現在の聖通寺山に残る城郭遺跡の内で、中峰の城郭跡は奈良氏によるもので南向きの防御施設を持つ
②この城を占領した土佐軍は、海を越えて来襲する秀吉軍に備えるために、北峯に中心を移し、北向きに防備ラインを再整備した。
③土佐軍撤退後にやってきた仙石秀久・尾藤知宜は短期間の統治のために、改修・増築は行えなかった。
④生駒親正も宇多津に拠点を構えようとしたという記録はあるが、実際に築城工事にかかった痕跡はない。従って、この時期の織豊政権下の大名の城郭につきものの石垣がない。
⑤生駒氏は、石垣を持つ高松・丸亀・引田の城の同時建設を始める。それは、関ヶ原の戦い後の瀬戸内海における軍事緊張への対応策であり、家康の求めでもあった。
⑥その附属施設として、沙弥島には前線施設が置かれ、そこには石垣が用いられた。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

   製塩と木簡
木簡 讃岐国阿野郡の調塩
塩の産地であった讃岐では、調として塩が貢納されていました。
 平城京から出てきた木簡の中に
「讃岐国阿野郡日下部犬万呂―□四年調塩

と記されたものがあります。
ここからは、阿野郡の日下部犬万呂が塩を調として納めていたことが分かります。また『延喜式』に「阿野郡放塩を輸ぶ」とあります。阿野郡から塩が納められていたことが分かります。放塩とは、粗塩を炒って湿気を飛ばした焼き塩のことのようです。炒るためには、鉄釜が使われました。ここに出てくる塩も、阿野郡のどこかで生産されたものなのでしょうか。今回は、坂出周辺の古代の製塩地捜しに出かけて見ることにします。テキストは「坂出市史 中世編  海を取り巻く様相  107P」です
製塩木簡 愛知
愛知県知多から平城京への塩の送り状
奈良や京都の有力寺社は、塩を手に入れるために、瀬戸内海に製塩地を持っていました。いわゆる「塩の荘園」と云われる荘園です。その中でも。伊予弓削島は「塩の島」と呼ばれるように東寺の重要な塩荘園でした。讃岐でも有力寺社の製塩地がありました。坂出市域の北山本新荘(後の西庄)や林田郷をはじめ、志度荘・三崎荘(庄内半島)・肥土荘(小豆島)などです。 
当時の塩は、どのようにして造られていたのでしょうか?
 瀬戸内の海浜や島々には、弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた土器製塩遺跡が200か所以上あります。中でも、吉備と讃岐に挟まれた備讃瀬戸地域は、最も分布密度の高く、このエリアでが製塩の発生地域であることが明らかにされています。
 弥生時代は、製塩土器が用いられていました。
備讃瀬戸で発生した製塩法が、古墳時代になると山口市沿岸,芸予諸島,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸へと拡大されていきます。
製塩土器
製塩土器
 6世紀後半~7世紀前半になると、丸底で今までにない大型品の製塩土器が使用されるようになります。その容量は2,000ccにもなり、これまでの製塩土器に比べると2~3倍になります。この土器を「師楽式土器」と呼んでいます。
製塩 喜兵衛島〈きへいじま〉

直島の北にある喜兵衛島〈きへいじま〉遺跡群で発見された炉は、それまでのものよりも大型化し、丸底の土器にあわせて底面に石が敷かれています。使用済の製塩土器廃棄量も大量になり、喜兵衛島遺跡群の土器捨て場には実に厚さ1mにもなる製塩土器層が出てきています。

製塩 製塩土器

 また瀬戸大橋工事にともなう大浦浜遺跡(櫃石島)の発掘調査からは、約20万点にもおよぶ製塩土器や塩水溜・製塩炉が見つかっています。これは、もはや弥生時代の塩作りとは、規模やレベルそのものが違う生産量です。専業化した専門集団がいて、備讃瀬戸地域の海岸部分や島嶼部分に製塩拠点を構えていたことがうかがえます。まさに備讃瀬戸の塩作りが最も栄えた時期とも云えます。そのような影響が塩飽や坂出の海岸部にも伝播してきます。

本島では早い時期から塩作りが行われていました。
7月14日の御盆供事として、「塩三石 塩飽荘年貢内」と藤原摂関家領であった塩飽荘の年貢として塩が上納されています。その内の塩三石は、法成寺の盆供にあてられています(執政所抄)。寺社の行事には、清めなどに塩が大量に必要とされました。塩飽の塩は宗教的な行事に使われています。なお近世以前には、「塩飽=本島」と認識されていたことは以前にお話ししました。

塩飽(本島)のどこで塩が生産されていたのでしょうか。
これもはっきりとした史料はありません。ただ、島の北部にある砂浜地帯に「屋釜」という地名があります。これは塩を煮た釜を推測できます。また南部の泊の入江付近は、かつては海岸部が内側に入り込んでいて、干潟が広がっていたようです。その干潟を利用して塩浜が開かれていたと研究者は推察しています。
製塩 大浦浜遺跡

 櫃石島の大浦浜では弥生時代から製塩が行われていました。
その後も塩飽では塩作りが盛んに行われていたことが推察できます。沙弥島でも弥生以来の製塩が引き継いで続けられていたのでしょう。これらを担っていたのは、製塩という特殊技術を持った「海民」の一族であったと研究者は考えているようです。

製塩 奈良時代の塩作り
奈良時代の塩作り 製塩土器を使用している

仁和二(886)年に、讃岐国司として菅原道真がやってきます。       
赴任した冬に詠んだ『寒早十首』(古代篇Ⅲl3‐田)の中に、「塩作人」について、次のように記されています。
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民     お役人訴えたくて、港で待っているんだ。
(塩焼きには給料をほんの少ししか渡さず、有力者たちが大もうけしていることを訴えたくて)
ここには塩を作る人の労苦が記されています。周囲を海に囲まれた島々では、生活の糧を得る手段としては海に携わるしかありません。特殊技術をもつ「海民」の活躍の舞台でもあったのです。製塩も古代以来、海民によって担われてきたようです。「塩焼きは手馴れているけれど」、しかし、流通面を塩シンジケート組織に押さえられていたことがうかがえます。中国の塩の密売ルートも同じです。流通組織がシンジケート化し、力を持つようになり生産者(海民)を圧迫します。そのため彼らの生活は、決して楽ではなかったことが、ここからはうかがえます。中世になっても、塩の生産は向上しますが、そこに従事する海民の生活は、あまり変わらなかったようです。
製塩 自然浜
中世の自然浜
中世になると、塩の需要が高まり、塩を多く生産するために塩浜が開発されていきます。
陸地部では、阿野郡林田郷に塩浜が開かれていました。暦応二(1340)年の顕増譲状には、次のように記されています。
潮入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪付等これあり」

と、記されています。ここからは、祗園社執行の一族である顕増が大別当顕賀に譲った所領に塩浜五段があったことが分かります。「潮入」とあるように、満潮の時には潮が入り込み、干潮時に潮が引いて干潟になる地形が利用されていたのでしょう。
3坂出湾4
オレンジが古代の坂出海岸線
  林田郷を上空から見ると、綾川の流域の平地に田地が広がっていて、少し小高くなった微髙地に集落があります。治水工事が行われない古代中世は、洪水のたびに平地は冠水しました。そこで人々は、一段と高くなった微髙地に住居を建てて集住するようになります。これは弥生人以来の「生活防衛手段」でした。中世になると、洪水から田地を防ぐために堤を築き、新たな土地を切り開いていくようになります。

3綾川河口条里制
阿野北平野の条里制 条里制施行されていない所は海
 綾川平野の南部は条里制跡がありますが、北部にはありません。つまり条里制施工時には、北部は耕地でなかったことを示しています。綾川北部は、その後に開発新田として成立したのです。その際に塩浜も開発された形跡があるようです。具体的には、綾川の河田部の干潟を利用して塩浜を開いていったと研究者は考えているようです。

弘安三(1279)年の京都の八坂祇園社の記録に、次のように記されています。
「讃岐国林田郷梶取名内潮入新開田」

林田郷内の梶取名にも潮人新開田が開発され、半分が祇園社領となっていたことが分かります。「潮入新開田」からは、塩浜が開かれ、生産された塩は八坂神社へと送られたことがうかがえます。
「梶取名」という地名が出てきます。

梶取は、荘園所属の「年貢輸送船」を運行する海運従事者(船頭)のことです。梶取名から「梶取」がいたことが推測できます。
3綾川河口図3
       綾川左岸に西梶・東梶の地名が残る、その下流は新開

 
この付近の綾川右岸(東岸)には、いろいろな建物が建っていたことを示す地名が残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、
「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」
「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」
「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、
「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」

このあたりが船の「舵取り」たちの居住区だったとされるエリアです。船頭・船乗りや蔵本たちが生活し、蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
  東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。
 このエリアの居住者が海運従事者であり、交易業者で、
京都の八坂神社に従属する者として、京都への塩輸送に従事していたとも考えられます。林田郷の綾川流域では、塩田が開発され、塩の生産と塩輸送の集団が集住したとしておきましょう。

坂出 中世の海岸線

京都崇徳院御影堂領であった北山本新荘福江(坂出市福江町)にも、塩浜があった次の記事が残されています。
「讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五斗五貫文内半分検校尊道親王御知行、半分別当法輪院御恩拝領塩浜塩五石、当永享十年よりこれを定、京着」

地形復元して、坂出の古代の海岸線を西からたどると、聖通寺山・角山束麓~文京町二丁目~笠山北麓~金山北麓~下氏部付近~加茂町牛の子山北麓付近と推定されるようです。

坂出の復元海岸線3
現在の坂出高校グランド南西角付近の文京2丁目遺跡からは、多数の製塩土器が出ています。ここからは、福江湊の砂州上では古代から中世にかけて塩浜が造られ、塩作りが行われていたことが分かります。島嶼部の沙弥島のナカンダ浜でも弥生時代の製塩土器が大量に見つかっていることと併せて考えると、坂出の旧海岸線では古代・中世にも、盛んに製塩が行われ、それが京都の荘園領主の寺社に年貢として届けられていたことが見えてきます。平城京本簡に記された阿野郡の塩は、これらの地域で生産されていた坂出市史は記します。
どれくらいの塩が、中世には生産されていたのでしょうか。
塩の生産量を統計したような史料は、もちろんありません。しかし、手がかりとなる史料はあります。以前に紹介した『兵庫北関人船納帳』です。兵庫沖を通過する船は、通行料を納めるために兵庫湊に入港し、通行税を納める義務がありました。その通行料は東大寺や興福寺の修繕費や運営費に充てられました。徴税のために一隻一隻の母港や船頭名(梶取)や積荷とその量まで記録されています。

製塩 兵庫北関 讃岐船一覧
 北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されています。讃岐船の特徴は、積荷の8割は「塩」であること、大型の塩専用輸送船が用いられていたことです。
以前に、屋島の潟元(方元:かたもと)の塩を積んだ輸送船のことについてお話ししました。ここでは坂出周辺の塩輸送船について見ておきましょう。船籍一覧表からは、坂出周辺の湊として、宇多津・塩飽・平山が挙げられます。
製塩 兵庫北関 讃岐船積荷一覧

塩飽船は讃岐NO2の通行回数で、最大の積荷は塩で、約5000石を輸送しています。この塩は、塩飽で全て生産されたのではないようです。周辺の阿野郡の塩浜で生産された塩が集められて塩飽塩として輸送されたと研究者は考えているようです。塩飽や沙弥島などの島々で開始された製塩は、次第に坂出の陸地部にも拡がりでも塩浜が開かれ、塩の生産が行われていたことは先ほど見たとおりです。それらの船が荘園主の元に、塩専用船で運ばれ、それ以外は一旦、塩飽に運ばれ、積み替えられて畿内に塩飽船で輸送されたことが考えられます。そのため塩飽塩として扱われたのでしょう。これは、宇多津や平山についても云えます。
 ここからは宇多津や塩飽は、塩のターミナル港としても機能していたことが分かります。そのため出入りの船が数多く行き交うことになったのでしょう。もうひとつ考えられるのは、塩飽船が生産地近くの港まで出向いて積み込んだこともあったかもしれません。近世になると、小豆島の廻船は、小豆島の塩だけでなく、引田や三本松に立ち寄り、そこで塩を買い入れて、九州方面に出発していることを以前に紹介しました。そのような動きが中世からあったことも考えられます。
 どちらにしても、讃岐の中世海上運送は塩の輸送から始まったと云えそうです。
先ほど見たように、生産者から安く買いたたき、畿内に運んで高く売るという商売が成り立ちます。塩を中心とするシンジケートが商業資本化していく気配がうかがえます。彼らは近畿にだけ、モノを運んでいたとは、私には思えません。九州方面やあるときには、朝鮮・中国との交易を行おうとし、それが倭寇まがいの行為に走ることもあったのではないでしょうか。中世の交易船はいつでも、海賊船に「変身」できました。
 新しい交易地を開く際に頼りになったのは、僧侶たちでした。
例えば高野山は、各地からやって来る僧侶や参拝者によって、最新の情報が集まる場所でした。そして、情報交換も場でもありました。そこからやってきた修験者や高野聖たちは、瀬戸内海の各港や生産物の情報を「遍歴・廻国」で実際に自分の目と耳で確認しています。地元の交易船の先達として、新たな交易ルートを開く水先案内人の役割を務めたのがこれらの僧侶たちではないかと私は考えています。そうだとすると、坂出地区でその役割が務められるのは、白峰寺になります。白峰寺は、讃岐綾氏の流れをくむ武士集団と連携し、林田郷の「梶取り」集団を傘下にいれ瀬戸内海交易にも進出していたという仮説は「勇足」でしょうか。

 もうひとつ白峰寺との関係で押さえておきたいのは、備讃瀬戸対岸の五流修験との関係です。
五流修験は以前にお話したように、「新熊野」と称し、熊野からの亡命者であるとします。そして、大三島や石鎚などでの修験活動を行います。同時に小豆島や塩飽本島へも進出してきます。讃岐の海岸沿いには、五流修験者の痕跡が残ります。多度津の海岸寺や道隆寺、聖通寺、白峰寺などです。白峰寺が五流修験を通じて、瀬戸内海の修験者たちとつながっていたことは押さえておきたいと思います。そして、林田湊や福江・御供所港は、その寺領であったのです。かつての四国辺路の霊場であった金山権現も、そういう五流や白峰に集まる修験者の行場であり、辺路ルートの上にあったと私は考えています。
そのルートは次の通りです。
五流修験 → 塩飽本島 → 沙弥島 → 聖通寺 → 金山権現 → 白峰寺 → 根来寺 → 国分寺
以上をまとめたおくと
①備讃瀬戸一帯は、弥生時代に始まる小型製塩土器を用いた製塩発祥の地であった。
②古代には大型の製塩土器である師楽式土器が使われるようになり、生産量は増大する。
③中世になると、入浜を用いた製塩業が行われるようになり、朝廷や大寺社は塩を安定的に手に入れるために、「海の荘園」を設けるようになった。そこからは本領の専用船で畿内に輸送された。
④当時の讃岐船の積荷の多くは、塩であった。
⑤塩飽・宇多津・平山などを母港にする輸送船は、周辺生産力からの塩を集荷して、大型船で畿内に輸送した。
⑥これらの輸送船を経営する海民たちは、シンジケートを形成し、商業資本化していくものも現れた。
⑦塩を生産した坂出周辺の塩浜は、本島・沙弥島・御供所・福江・林田が史料では確認できる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

        

崇徳上皇 | 日本の歴史 解説音声つき

崇徳と後白河の兄弟間の権力闘争は、江戸時代までは読み物や歌舞伎などでも赤裸々に語られていました。しかし、明治以後の皇国史観の下では、二人の間の確執を取り上げることは不敬罪に問われる可能性もあり、タブー化します。戦後も郷土史家間には、この流れに抗う動きがなく、両者の間のことをきちんと史料を裏付けて各町村史誌に記す動きがなかなか出てきませんでした。そんな中で、昨年末に出された坂出市史通史中世は、この点に問題意識を持って取り組んだ内容となっています。坂出市史をテキストにして、崇徳上皇没後の後白河上皇の対応と慰霊について見てみましょう。それは、ある意味で白峰寺の歴史に迫ることにもつながると思うからです。

崇徳上皇と保元の乱

崇徳上皇は、保元元( 1156)年、保元の乱の敗北で讃岐へ配流となります。このとき崇徳上皇は罪人として扱われたことは、後白河天皇が発した宣命(石清水八幡官蔵)からも明らかです。長寛二(1164)年に、崇徳上皇が亡くなったときにも「後白河太上皇無服暇之儀」とあり、後白河上皇は喪服にも服していません。兄崇徳に対する冷淡さや非情さを感じる対応です。私が小説家なら兄崇徳死亡を告げる讃岐からの報告に対して、後白河に語らせる台詞は「ああ、そうか」だけです。もう過去の人として、意識の外に追いやっていたと私は考えています。
 讃岐の郷土史関係の書籍は、この点を無視して没後の崇徳上皇が、朝廷の指示に基づいて丁重に白峰に葬られたとするものが多いようです。しかし、私はこれには疑問を持ちます。後白河天皇の兄追放後の措置や、没後直後の対応を見ると御陵造営を指示したとは思えないのです。

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崇徳上皇白峰陵

崇徳上皇の陵墓は、五色台山塊の白峰山(松山)に造営されます。
今は立派に整備されて想像もつきませんが、埋葬された当時は粗末なものであったようです。その埋葬経過についても確かな史料が残されていません。この辺りも通常の天皇陵墓とはちがうようです。国衛(留守所)役人の手で葬られたとされます。しかし、後白羽上皇や朝廷からの指示がない、というよりも中央から無視されたのです。そのために、やもおえず地元の国衙役人たちは自分たちの判断で、山岳宗教の拠点であった白峰寺に埋葬されたと坂出市史は記します。

白峯本堂、崇徳天皇御廟第五巻所収画像000008
白峯寺

 保元の乱後に崇徳上皇に従って、共に讃岐に下った兵衛佐は、上皇が亡くなり役目を終えて京都へ帰還することになります。その時に彼女が詠んだ歌が『玉葉和歌集』に、載せられています。
崇徳院につき奉りて讃岐国に侍りけるを、
かくれさせ給いにければ都に帰りのばりけるの後、
人のとむらいて侍りける返事に申しつかわしける

君なくて かえる波路に しをれこし 袖の雫を 思いやらなむ
と、その心情を歌つています。ここからせめて遺灰なりとも持ち帰りたかったようですが、それもかなわなかったことがうかがえます。ここでは崇徳上皇の白峰への埋葬は、後白河上皇の意向を受けて「薄葬」であったことを押さえておきます。
白峯寺法蔵 崇徳上皇 歌切図 
崇徳上皇 白峰寺蔵

郡衙の在庁官人は、どうして白峰に埋葬することにしたのでしょうか?
白峰山には、白峰寺が崇徳院陵墓が造られる前からありました。近年行われた文化財調査によると、白峰寺の十一面観音菩薩立像は平安時代中期、不動明王坐像は平安時代後期の作とされています。つまり、これだけを見ても白峯寺(あるいはその前身となる寺院)が、崇徳上皇が流されてくる平安時代末期には存在したことが分かります。
P1150818
白峰寺奥の院への道(奥の院の断崖の上の灯籠)
白峰寺の複数同木説と山岳寺院としての性格 
応永14(1406)年の年紀をもつ『白峯寺縁起』には、弘法大師空海が寺の建設をこの地を定め、智証大師円珍が山の守護神の老翁に会い、10体の仏像を造立し、49院を開いたと記します。空海は真言宗の開祖、また円珍は天台宗寺門派の祖で、どちらも讃岐出身です。これら10体の仏像のうち、四体の千手観音が白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺にそれぞれ安置されたと記します。ここには円珍が同木から複数の仏像をつくり、関連寺院に安置したとする複数同木説が掲げられています。現在の白峯寺は真言宗に属しますが、中世の白峯寺は真言一辺倒でなく天台の要素も濃厚であったようです。「白峯寺縁起」に「空海の開基、円珍の再興」の寺院と記されているのも中世の真言と天台の混淆・共存関係を示す物かも知れません。

P1150834
白峰寺奥の院毘沙門窟
五色台にある他の寺院を見ておきましょう 
 白峰寺と同じ木から彫られた仏像が安置されたという根香寺は、五色台の青峰の山頂東側にある山岳寺院です。吉水寺は近世に無住となり退転しましたが白峯寺と根香寺との間にあった山岳寺院です。残りの白牛寺は、「白牛山と号する国分寺」のことと研究者は考えているようです。この4つの寺院は山岳寺院のネットワークで結ばれていました。

P1150836
白峯寺奥の院に下りていく石段
 密教の隆盛と共に山岳修行が僧侶の必須項目になると、国家や国衙も僧侶の山林修行のゲレンデを整えていきます。それが那珂郡の霊山大川山をゲレンデとする中寺廃寺であり、五色台をゲレンデとする「白峯寺・根香寺・吉水寺・白牛寺(国分寺)」でした。4つの寺は、五色台の小辺路ルートの拠点として整えられたようです。そういう意味では、白峯寺をはじめとする五色台の山岳寺院は、国分寺や国府と創建当初から関係を持っていたのかもしれません。

白峰大権現

五色台には、熊野行者など修験者(山伏)の活動がうかがえます。
稚児の滝とその上の霊場、そして奥の院から岬の突端の行場などは、修験=山伏たちの修行ゲレンデだったようです。そして、根来寺との間では、何度も往復辺路する小辺路修行が行われていました。つまり、五色山そのものが霊山で、修験者にとっては聖地だったのでしょう。それが古代の山岳寺院としての白峰寺の姿だったと私は考えています。

白峯 解説文入り拡大図
白峰寺古図
崇徳上皇の陵墓管理のことを考えると、国分寺の奥の院的な存在である白峰寺に委託するのがいいと国府の在庁官人たちは判断したのかも知れません。こうして白峰山に崇徳上皇は葬られます。先ほども述べたように、当時の天皇陵墓としては規格外で粗末なものだったようです。

images

崇徳上皇の怨霊が怖れられるようになるのは、崇徳没後13年後の安元2(1176)年になってからのようです。
三条実房の口記『愚味記』(陽明叢書)の安元三(1177)年五月九日条には、次のように記されています。
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)こと、沙汰あるべきこと、相府(藤原経宗)示し給いていわく、讃岐院ならびに宇治左府こと、沙汰あるべしと云々、これ近日天下悪事、かの人等の所為の由疑いあり、よってかのことを鎮められんがためなり、無極人事なり、
  意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)ことについて、
相府(左大臣藤原経宗)は、最近の「天下悪事」は、崇徳上皇と藤原頼長の崇りによるもので、それを鎮めることが極めて重要なことであると実房に語った。
左大臣が保元の乱で敗れた崇徳上皇と藤原頼長のタタリを怖れ、その対策を最重要課題であると認識していたことが分かります。3日後の5月13日条には、上皇と頼長の怨霊対応について後白河院より蔵人頭藤原光能を通じての諮問が次のように記されています。
讃岐院・宇治左府間こと、
相府示し給いていわく、讃岐院ならびに左府間等こと、昨日、光能をもつて仰せ造わさるなり、頼業・師尚勘文下し給うなり、また去年用意のため、かの両人ならびに永範卿・師直等に仰せ、勘がえ儲けせしむるなり、
意訳変換しておくと
相府(左大臣藤原経宗)は、讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)について、昨日光能から報告があった。これについては昨年に清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じておいたものである。

 ここからは文中に前年の安元2(1176)年に太政官の事務官である外記の清原頼業・中原師直らに勘文(調査報告)の作成を命じていたことが分かります。讃岐での現地調査などを経て、報告書が提出されたようです。怨霊を後白河院が意識しはじめたのも、この報告書の提出を命じた前年のことであったようです。同時に、朝廷は讃岐において崇徳上皇がどのように葬られていたかについて、なにも知らなかったことが分かります。崇徳上皇没後の扱いについては、後白河上皇の無関心に対応して、朝廷はノータッチだったことが裏付けられます。

         和歌山県立博物館さん『大西行展~西行法師生誕900年記念』に行ってきました - 百休庵便り                    
西行
鳥羽院時代に北面の武士で、崇徳上皇とは近い関係にあったのが西行です。
彼は23歳で出家し、久安4(1148)年頃に高野山に入り聖となり、仁安3(1168)年に中四国へ辺路修行のための途上に、白峰のやってきます。旧主であり、共に歌会で興じた崇徳院の墓所松山(白峰陵)を訪れ、その霊を慰めるためです。『山家集』には、当時の白峰陵墓の粗末さや荒廃ぶりが描かれています
後白河法皇 (@kSucBeGdxqvRINP) | Twitter
後白河上皇

後白河上皇が兄の崇徳上皇の慰霊について、関心を持つようになったのはどうしてなのでしょうか
安元2(1176)年には、後白河院周辺の人物が相次いで亡くなります。
6月13日 鳥羽上皇の娘で、二条天皇の中官となった高松院妹子が30歳で没、
7月 8日 後白河院の女御で高倉天皇の生母建春門院平慈子が35歳で没
7月17日 後白河の孫六条院が13歳で没
8月19日 藤原忠通の養女で、近衛天皇の中宮となった九条院呈子が46歳で没
この状況について『帝王編年記』(『新訂増補国史大系』)は次のように記します。
「三ケ月の中、院号四人崩御、希代のことなり」

近親者の相次ぐ死は崇徳上皇と頼長の怨霊に対する恐怖を後白河院に生じさせます。それを決定付けたのが翌年治承元(1177)年の京都大火による大内裏の焼亡でした。これらを崇徳上皇と藤原頼長の怨霊のしわざと、後白河上皇は恐れるようになります。

 崇徳院怨霊の研究 | 山田 雄司 |本 | 通販 | Amazon

山田雄司氏は『崇徳院怨霊の研究』の中で、両人の怨霊が取りざたされることになった最大の要因は、大極殿が京都大火により焼失してしまったことにあるとします。そして、怨霊を最も意識するようになったのが後白河院であったと指摘します。

『愚味記』治承元(1177)年五月十三・十七両国条には、その対応策が次のように記されています。
(五月十三日)讃岐院(崇徳上皇)・宇治左府(藤原頼長)間こと、(前略) 昨日下し給うの勘文等、 一々見合いの由仰せ義あり、在知の旨は讃岐院においては、成勝寺国忌を置かれ、八講を行せらる。また讃岐御在所において同じく追善を修すべきか、また左府においては、贈官位あるべきか、しかれば太政大臣は、その子師長すでに任じ候、よって正一位・准三宮を贈る、(中略)惣じてかの両人のため、もつとも追善を修せらるべきか、
意訳変換しておくと
 (前略)昨日提出された調査報告にもとづいて対応策が次のように協議された。
讃岐院(崇徳上皇)については、成勝寺に国忌を置き、法華八講を行うことで、歴代天皇と同じように崇徳上皇の菩提を慰霊すること。また讃岐でも御在所(上皇墓所)においても同じように追善を行う事。また左府(藤原頼長)については、官位を改めて贈り、子師長には正一位・准三宮を贈る、(中略) 両人のための追善を行う事。
追善を行う事で怨霊を鎮める方針が確認されています。
具体的な対応策は4日後の5月17日に次のように示されました。
讃岐院ならびに宇治左府こと、明日奏せしむべしと云々、今日すでに書を請け候、院五ヶ事、左府四ケ事と云、(中略)
讃岐院事
一 かの御墓所をもつて勅し山陵と称し、その辺堀埋し汚穢せしめざれ。また民烟一両を割分し、御陵を守らしむること
一 陰陽師を遣わし、山陵を鎮めしめ、同じく僧侶を遣わし経を転ぜしむること
一 国忌を置かるること
一 讃岐国御墓所辺、一堂を建て三昧を修すること
  宇治左府事については略
漢家の法、あるいは社櫻を立て、祭祀をおこなうの例有り、もしくはその告有り、かの例に随うべきかと云々、戸主の腋ならびに評定の詞等、その状多くして忘却す、よってこれを記さず尋ね申すべきなり、多くは外記勘文に付け先例を注出せらるなり、院御事は崇道天王の例多くこれを載す、
意訳変換しておくと
讃岐院(崇徳上皇)と宇治左府(藤原頼長)について、明日発表する内容について、今日すでにその書を見たが内容は次の通りであった。
讃岐院(崇徳上皇)について
① 白峰の御墓所を詔勅で山陵として、その周辺の堀を整備して周辺からの穢れを防ぐ。御陵を守るための陵戸(専属墓守)を設ける。
②陰陽師と僧侶を現地(讃岐)に派遣して鎮魂させる。
③ 崇徳上皇の国忌を定めること。
④ 讃岐国白峰墓所に、一堂を建て法華三昧を行うこと
ここには、崇徳上皇と藤原頼長への具体的な朝廷の対応が挙げられています。4番目の国忌とは天皇や先帝、母等の命日を、政務を止めて仏事を行うこととした日のようです。朝廷では、この日に寺院において追善供養を行い、日程が重なる神事は延期されていました。 後鳥羽上皇から無視されていた崇徳上皇の霊を、以後は普通に扱おうとする内容です。

崇徳上皇白峰陵

ここで注目したいのが、崇徳院の墓所についての対応です。
1番目の項目に「讃岐国にある上皇の墓所を山陵と称させ、まわりに堀をめぐらしてけがれないようにし、御陵を守るための陵戸を設ける」とあります。ここからは、それまでは山陵には堀もなく、管理のための陵戸もなく、「一堂」もなかったことが分かります。崇徳上皇没後に造られた山陵は、現地の国司や在庁官人によって設計・築造されたもので、上皇の墓としての基準を満たすものではなかったことが裏付けられます。

崇徳上皇白峰陵3

治承元(1177)年に決定された山陵・廟所の建立計画は、朝延内で論議されたままで立ち消えになってしまします。それは、平清盛による後白河法皇の幽閉というクーデターのためです。これによって後白河院政は停止され、崇徳院怨霊対策も頓挫してしまいます。崇徳上皇怨霊対策が再度動き出し始めるのは、養和元(1181)年2月に、清盛が亡くなり源平合戦で平氏が都落ちした後のことになります。

先に決まっていた白峰山陵に附属の「一堂」を建設する計画は、14年後の建久三(1191)年になって再び動き始めます。
このころから後白河上皇は原因不明の病気に苦しめられるようになります。これも崇徳上皇の怨霊のしわざと考えたのでしょうか、停止されていた堂の建設計画が実現に向けて進み始めます。『玉葉』建久3年12月28の記事には「崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給うべし」とあるので完成した仏堂は、「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたことが分かります。
白峯寺古図 本堂への参道周辺
白峯山古図
 白峰寺蔵『白峯山古図』にも崇徳院陵の脇に「御影堂」が記されています。この御影堂には官符が給され維持経営されることになります。そして、京都春日河原に建立された崇徳院廟は、後に粟田官と名付けられると共に、白峰と同じ名前の崇徳院御影堂が付随して建てられます。後白河法皇は、建久3年3月13日に亡くなっています。
白峰寺に朝廷の手によって初めて建立されたお堂は、決して大きなものではありませんでした。
ところが「崇徳院讃岐国御影堂」と名付けられたお堂の威光は、年を経るに従って輝きを増していくのです。そらが崇徳院の御陵を供養・管理しているのは白峯寺であるという存在証明になります。また、歴代天皇の亡骸を埋納した墓所の内、畿内以外では唯一の地方にある御陵を守護する寺でもありました。「白峰寺=特別な寺=権威ある寺」という意識を、人々に広げていくことになります。これが白峰寺の中世における発展の基礎になったと研究者は考えているようです。
相模坊
白峰寺の天狗 相模坊
 しかし、それだけではありません。白峰は天狗の山として、天狗信仰の中心地でもあったのです。もし、崇徳上皇の怨霊が現れなければ、白峰の中世の繁栄があったかどうかは分かりません。崇徳上皇の怨霊が天狗化することで、天狗=山伏(修験者)となり、白峰寺は隆盛を向かえることになったのかもしれません。そうだとすると、それを企画したプランナーがいたことになります。

以上をまとめておくと
①白峰寺は、古代の山岳寺院として出発した。
②それは五色台を行場とする国分寺や根来寺などの山岳寺院のネットワークの拠点の一つとして整備された。
③古代の山岳寺院を担ったのは、密教系の修験者以外にも、熊野行者・高野聖・六十六などの廻国行者であった。白峰山は、彼らの活動拠点であった。
④崇徳上皇没後に、讃岐国府の在庁官人たちは山陵を白峰山に造ることにした。
⑤この山陵は、歴代天皇のものに比べると規格外に粗末な物で、これには後白河上皇や朝廷は関与しなかった。
⑥しかし、都で崇徳上皇の怨霊さわぎがおこると、対応策として追善慰霊が決定された。
⑦それが陵墓の整備・墓守設置・一堂建設などであった。
⑧こうして白峰寺は「崇徳院讃岐国御影堂」を持つ追善の寺として認識されるようになる。
⑨寄進された周辺荘園を寺領化し、経済的な基盤を整えた白峰寺は大寺院へと成長して行く。
⑩その担い手は、修験者たちであった。
白峯寺 讃岐国名勝図会(1853)
白峰寺 讃岐国名勝図会(1853年)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

坂出市史1
坂出市史

昨年末に発行された坂出市史を眺めていると、大束川の旧河道について、鎌田池から福江を経て、現在の坂出駅付近で海に流れ出していたことが書かれていました。これを今回は紹介します。
 以前に「神櫛王伝説 坂出の福江は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」では、つぎのようにまとめました。
①悪魚伝説の中に出てくる福江は、古代には湊として機能していた
②その背後の下川津遺跡は鵜足郡の郡衙跡の可能性がある
③福江湊と下川津遺跡は、郡衙と外港という関係にあった。
④このふたつを拠点に、綾氏は大束川沿いに勢力を鵜足郡にも拡大した
⑤そして飯野山の南側を拠点して、古代寺院法勲寺を建立した。
⑥法勲寺は島田寺として中世も存続し、「綾氏系図」を作成し、悪魚伝説普及の核となった。
大束川河口の開発を進めた勢力が力を失った後に、綾氏がとなりの綾郡から入り込んできた。綾氏は福江湊を拠点に、大束川流域の経営を進めたという仮説でした。しかし、資料不足と勉強不足で旧大束川の具体的な河道跡を提示することはできませんでした。今回出されて坂出市史には2つの資料から河道跡を提示しています。それを見ていくことにします。
坂出市史が「証拠資料」として、まず提示するのが国土地理院の土地利用図です。
坂出の復元海岸線4
国土地理院 土地利用図

これは以前に紹介したようにグーグル「今昔マップ」で検索すれば無料で見ることができます。
福江町付近の土地利用図からは、次のようなことが分かります。
①鎌田池の北東隅から北に旧大束川の河道跡が残ること。
②鎌田池から南は、貯水池を経て川津町にいたるルートが旧大束川の河道であったこと
③坂出商業高校付近は東西に伸びる砂堆上で、ここより北は潟であったこと。
砂堆の北側にある坂出高校のグラウンドの南西隅付近の文京町2丁目遺跡からは、製塩土器が多数出土しています。奈良時代の海岸線は、この付近を東西に伸びる砂堆の北側近くにあったと研究者は考えているようです。

DSC04434
川津の貯水池と讃岐富士 
旧大束川の流れを確認しておくと
川津 → 貯水池 → 坂出中学校 → 鎌田池 → 福江 
となります。
鎌田池2
ブルーのラインが旧大束川河道跡(明治末の地図)

鎌田池の付近を拡大して見ます。
鎌田池
明治末の鎌田池(鎌田池と貯水池はつながっていた)
鎌田池は、旧河道に堤防を築いて作られたため池と伝えられます。
そのため南北に長い瓢箪池の形をしています。現在はこの間に坂出中学校が、池を埋め立てて造成されています。坂出中学校は、旧大束川河道の上に建っているようです。
下の写真は笠山と角山、鎌田池で区切られる平野部の空中写真(1961年)です。
坂出の復元海岸線5 航空写真

上の航空写真からは、次のような事が見えてきます。
①鎌田池北側には整然とした条里制が坂出高校の南側まで広がる。
②鎌田池の北東部からは、乱流する大束川旧河道が北に伸びている
丸亀平野でも金倉川や土器川の流路跡の氾濫原には条里制の跡は残りません。ここからは、条里制が施行された7世紀末には大束川は福江を通過して、海に流れ出していたことが分かります。
坂出の復元海岸線5 航空写真拡大
福江周辺の大束川河道跡
 福江は瀬戸内海と川で結ばれており、その河口付近にある港で、瀬戸内海水運に従事する船の拠点となっていたようです。神櫛王の悪魚退治伝説でも福江は、悪魚を退治した神櫛王の上陸地点ですし、悪魚が打ち上げられる所でもあります。福江は重要なステージとして登場することは以前にお話ししました。
 福江は川船で、鵜足郡の郡衙があったとされる川津ともつながっていたようです。つまり、川津の外港が福江ということになります。古代においては、鵜足郡の港は宇多津でなく福江で、大束川流域への入口であったことを押さえておきます。
坂出の復元海岸線2
中世には大束川は現ルートに変更されているので描かれていない
DSC04505
金山方面から見た福江 背後は角山
福江のことをもう少し見ておきましょう
金山・笠山・常山に囲まれた福江を、私は常山の麓の塩田背後の集落くらいに思っていました。しかし、古代には海がここまで入り込んでいたようです。福江という地名は、海が深く良湊を意味する深江が転化したと伝えられています。綾氏系図に、日本武尊の神櫛王が景行天皇の命により悪魚を退治し、福江湊に上陸した記されていること何度か紹介しました。
 そして、先ほど見てきたように条里制施行時には大束川は、福江の前を流れて海に出ていました。福江と郡衙があったと考えられる川津までは川船で結ばれていました。古代においては、大束川流域の物資の積み出し港が福江だったことになります。
坂出の復元海岸線3

福江の背後あるのが常山ですが、これは元々は「津の山」でしょう。
福江周辺を歩いてみて感じるのは、瀬戸内海の島の港町を歩いているような印象を受けることです。坂の多い路地と、あちらこちらにいらっしゃる石仏や標識、そしてお堂や庵。古い歴史を背後にもつ集落であることが、歩いていると分かります。そして、かつては富の蓄積もあったことがうかがえます。それが何からきているのかが分からなかったのですが、中世までは交易港であったことが分かると全てが納得できました。 古代の福江と川津の関係については、以前にお話ししたので省略して、中世の福江を今回は見ておきます。

DSC04512
福江
『華頂要略』に引かれた「門葉記」の崇徳院御影関する記事には、次のように記されています。
讃岐国北山本ノ新庄福江村年貢五十五貫文内、半分検校尊道親工御知行、半分別当法輪院御恩拝領、塩浜塩五石、当永享十(1438)年よりこれを定、京着、鯛四十喉、

ここからは、中世には福江は北山本新荘に属していたことが分かります。また年貢に塩5石や鯛40とあるので、半農半漁的な立地を示しているようです。しかし、福江はそれだけではありませんでした。中世交易湊の姿も見せてくれます。

 北山本新荘の年貢を運送していた国料船に福江丸という船がいたようです。
5中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(

宝徳元(1449)年の史料に阿野郡北山本新荘の年貢輸送の国料船である福江丸に、管領細川勝几から次のような下知状が発給されています。
「崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料舟之事」
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船福江丸・枝丸等事、毎季拾艘運上すべし云々、海河上諸関その煩い無くこれを勘過すべし、もし違乱の儀あれは厳科に処すべきの由仰せ下さる也、例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
意訳変換しておくと
「崇徳院御影堂領の讃岐国北山本新庄の国料舟について
崇徳院御影堂領讃岐国北山本新庄国料船の福江丸・枝丸(関連船)について、毎年10回のフリー運用を認めるので、海上や河川の諸関において、この権利を妨げることなく通過させよ。もし違乱することがあれば厳罰に処すことを申し下せ。例て下知件の如し
宝徳元年八月十二日
右京人夫源朝臣(細川勝元)
ここには、京都の崇徳院御影堂へ北山本新庄より年貢を運ぶ福江丸が登場します。福江丸船団も「国料船」で、港や川に設けいれた関所に支払う関料免除の特権を室町幕府より認められていました。摂津国兵庫津と坂出福江を行き来していた福江丸は、福江村を含む北山本新庄の年貢を運んでいた船で、「福江」という母港名がつけられているので、福江には港があり、そこに所属する船を福江丸と呼んでいたのでしょう。ここからは福江には、瀬戸内海交易に携わる輸送船を操る集団もいたことが分かります。

福江丸は、管領細川勝元から崇徳院御影堂用の国料船として、関連船も含めて毎年10艘の運行が認められています。北山本新庄では、塩浜が拓かれ塩の生産が行われていました。荘内の海で水揚げされた鯛とともに福江丸に積載して、京都の崇徳院御影堂へ輸送されたようです。
 ところが寛正元(1480)年四月、この春に限つて兵庫南北関で、突然に関料を徴収されます。これに対して崇徳院御影堂衆が幕府へ訴えた文書が残っています。
崇徳院御影堂禅衆等謹んで言上
右当院領讃岐国北山本新庄年貢輸送国料船福江丸と号すこと、海河上の諸関その煩い無く勧過の所、今春に限り兵庫両関新国料と号し、過分の関役を申し懸け、剰え以前無為の役銭共に責執の条、言語道断の次第也、所詮応永八年以来の御教書等の旨に任せ、彼の役銭など糾返され、国料船においてはその煩い無く勧過有るべく旨、厳密に御成敗を成し下さるは、御祈祷の専一たるべく者也、傷て粗言上件の如し
長禄四年卯月 日
  意訳変換しておくと
京都の崇徳院御影堂の禅衆等が謹んで言上致します
当院領の讃岐国北山本新庄の年貢輸送を担う国料船福江丸について、海上や河川の諸関を自由に通行できる権利を得ていましたが、今春になって兵庫両関新国料と称し、過分の関銭を徴収されました。従来から支払いを免除されている役銭も徴収されるなど、言語道断の措置です。応永八年以来の御教書の「関銭不用・フリー通行」の原則にもとづいて、徴収した金銭を返還し、国料船に対して今まで通りの権利を保障するように、厳密に御成敗を下さるよう祈祷致しております。粗言上件の如し
長禄四年卯月 日

ここからは、次のようなことが分かります。
①北山本新庄の年貢輸送船福江丸に対して、過書が応永8(1401)年に発行され、長期間にわたって関銭免除の特権を行使してきたこと。
②それが長禄四(1458)年卯月になって、突然に、通行税を徴収されたこと、
③それに対して崇徳院御影堂の禅衆が幕府に訴え出ていること。
どうして突然に、通行税を国料船の福江丸に対しても徴収を始めたのでしょうか?
この前年に、興福寺は国料船・過書船の免除停止を発しています。これを受けて北山本新庄国料船に対しても関料免除停止の措置を取ったようです。この背景には、国料船に名を借りて物資を積み込む状況が多発していたからです。兵庫関の関銭は東大寺と興福寺の財源でした。それが減収していたようです。その対応策として、国料船の関料免除を廃止して関料徴収と入関船の管理統制を強化しようとしたのです。

瀬戸内海を物資を積載して航行する船は、東大寺の設置した兵庫北関と、興福寺が設置した兵庫南関で関料を納入しなければなりませんでした。これに習って中世では全国中に関所が出来て、関銭が徴収されるようになります。それが寺社の財源となっていたのです。それを取り払おうとするのが織田信長の楽市楽座になります
 兵庫関でも過書船が多くなれば収益が減少するため、過書船への対応には留意していたようです。過書船は年貢物に限定され、商売物を混入して輸送することは禁止でした。しかし、梶取りたちは関料を免れるため、いろいろな抜け道を見つけ、事件を起こしたことが資料からもうかがえます。そこで興福寺や東大寺は、幕府へ過書停止の訴えを起こし、幕府もこれを認めたようです。 

  以上をまとめておきます
①古代の大束川は「河津 → 鎌田池 → 福江」というルートで現在の坂出方面に流れていた。
②東西に大束川が形成した砂州が発展し、その南側に潟が形成されていた。
③福江は、笠山まで湾入した潟と、旧大束川の河口に位置し、海運と川船が交錯するジャンクションの機能を果たした。
④大束川を遡った河津は弥生時代以来の集落が発展し、鵜足郡の郡衙跡と考えられる。
⑤その河津と福江は川船で結ばれ、鵜足郡の湊の機能も果たしていた。
⑥このような福江の役割が、中世に作られた神櫛王の悪魚退治伝説にも反映され、福江は重要なステージとして登場する。
⑦中世には、大束川の流れは変更され、宇多津に流れ出るようになり、宇多津に守護所が置かれ繁栄するようになる。
⑧しかし、福江もこの湊を母港に活動する国料船福江丸の存在が史料からは分かり、御供所などとともに瀬戸内海交易に活躍する梶取りたちの存在がうかがえる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 坂出市史 通史上 中世編 
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坂出 綾川河口地形図

以前に古地名から綾川河口の歴史を探ろうとするアプローチを紹介しました。今回は用水路を探ることで、讃岐国府に通じる綾川河口エリアの歴史を紐解こうとする試みを紹介します。これは、香川県の埋蔵文化センターのが平成22・23年度にボランティア調査員と現地調査を行った研究成果として報告書にまとめられたものです。水田ごとの取排水口の確認、基幹用水路からの導水経路の確認を現地で行い、水利慣行についての聞き取り調査を行ってまとめられています。膨大な手間と時間を掛けて作られたものです。

  まずは対象エリアと前回の地名調査から分かったことを確認しておきましょう。
綾川が府中に流れ落ちてきて不自然なドックレックを繰り返すあたりが讃岐国府の推定地で、いまも発掘が続けられています。そこから綾川は西に傾きながら北流していきます。

3坂出湾4

古代は高屋町と林田町の境になる雄山・雌山あたりが海岸線で、高屋町に国府の外港・松山港、林田町の総社神社辺りに交易港が置かれていたと研究者は考えているようです。そして、雄山・雌山の南辺りまでは条里制地割が残っていますが、それより北には見えません。また、雌山より北は近世になって干拓されたようです。

3綾川河口条里制
   前回の地名調査で分かったことを確認しておきましょう
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで
②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された
③大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。
④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で
⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた

坂出 綾川河口灌漑水路図2

調査報告書は、まずこの地区の灌漑用水路網の現状を確認します。
①加茂町南東部(字杉尾付近)では五色台山塊麓にある溜池から灌漑する
②加茂町の大部分は鴨用水、氏部井口用水から灌漑する
③林田町では氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、新開。与北用水、大番・横井用水、鞍敷用水から灌漑し、溜池灌漑はない。
④神谷町・高屋町の一部の地域は神谷川と新池から灌漑するが、大部分は三ケ庄用水から灌漑する。
現在は、鴨用水、氏部井口用水、今井用水、総社用水、濱用水、西梶用水、郷佐古用水、三ケ庄甲水は府中ダムを水源とする北條幹線用水路から取水しています。この北條幹線用水路は府中ダムからトンネルで坂出市立府中小学校の東まで導水して、地上に水路として現れます。水路は綾川右岸沿いを走り、林田町字東梶乙の西梶用水と濱用水の分岐点で終点となります。この区間の長さは4,097mです。この用水路は、府中ダム完成7年後の昭和48年(1973)に使用を開始しています。それ以前は、綾川町にある北條池を水源とし、綾川を経由して取水していたようです。
坂出 綾川河口灌漑水路図1

かつての綾川の取水口の位置をしめしたものが上図になるようです。ここで分かるとおり、現在、綾川から取水するのは新開・与北用水だけのようです。
これらの用水路は、いつ頃み開かれたのでしょうか?
手がかりは『阿野郡北絵図」(図3)です。

坂出 江戸時代絵図

上図は鎌田共済会郷土博物館が所蔵する模写図で、江戸時代の絵図を昭和12年(1937)に鎌田共済会が模写したものです。現在の坂出市林田町・加茂町・王越町をはじめとする坂出市北部が描かれています。作成年は記されていませんが、ある程度推測ができるようです。

 研究者が、どのように年代推定を行うのか見てみましょう
A手がかりにするのは塩田です。
①木沢浜の塩田(現在の坂出市王越町)
②末包新開(現在の坂出市江尻町)
が描かれています。木沢浜は宝暦8年(1763)、末包新開は文化元年(1804)に出来上がっています。そこから絵図は、文化元年(1804)以降に作成されたことが分かります。
B 文政9年(1826)に干拓工事を開始し、天保4年(1833)に完成した③坂出墾田は描かれていません。以上から『阿野郡北絵図』に描かれた姿は、文化元年(1804)以降天保4年(1833)以前のものと研究者は考えているようです。
絵図を拡大して見ましょう。
坂出 阿野郡北絵図拡大

 この絵図には山・川・池、村名・村境のほかに、道や用水路が描かれています。山裾の池の名まえはすべて記されていますが、用水名は一部のみです。絵図に描かれている用水路は鴨用水、三ケ庄用水、氏部井口用水、今井用水、郷佐古用水、新開・与北用水、濱用水のようです。山裾沿いに鴨用水が北流し、雄山の南の条里制区割り地区に導水されていたことがよく分かります。この絵図が書かれた天保4年(1833)以前には、これらの用水路は機能していたようです。
 また、神谷川から出る用水路は描かれていません。絵図の成立時期には大番・横井用水はまだなかったようです。明治維新後の名東県時代(明治6~8年)に成立した壬申地券地引絵図には、大番・横井用水が描かれています。そこから大番・横井用水が出来たのは、明治維新前後だったと研究者は考えているようです。
一方、雄山ラインから北部には用水路は、あまり伸びていないようです。幕末期になっても、綾川河口の北部エリアの水田化は遅れていたことがうかがえます。
 しかし、地名調査からは林田町北部には、新たに開発された田畑が広がっていることがわかってきました。
水田ができても、水の確保なしでは稲は実りません。水田と灌漑水路はセットで作られたはずです。水田開発が行われていれば水路も作られているはずです。水田開発の時期を明らかにすることで、用水路の開削時期を知ることができると研究者は考えているようです。
そこで次に研究者は、水田化の状況から見きます。
その際の手がかりは、以前に紹介した検地帳に記された古地名を調査の成果です。

坂出 検地帳古地名

検地帳には、年貢の課税単位である免ごとに田畑の情報が記されています。図4をみると、雌山より北の林田町北部には「新開」「新興」の付く古地名が多いのが分かります。これは、新たに開発された田畑であるということです。「新開」・「新興」の付く地名が多いのは濱(浜)免・古川免になります。
坂出 綾川河口灌漑水路図2

上図の各用水路の灌漑域をみると、濱免は大香・横井用水と濱用水の灌漑域、古川免は西梶用水と新開・与北用水の灌漑域に当たります。
濱免の田畑の古地名には「元禄六酉新興」というように、「新興」の前に「元禄六酉」という年紀が付けられたものが多いようです。この年紀は、田畑として開発した後で、初めて検地をした時に付けられたもののようです。そのため濱免の田畑は、元禄6年酉年(1693)の少し前に開発されたことが分かります。
 古川免では年紀の付くもの少ないのですが「延宝二寅新興」・「宝永六巳新興」。「安政二卯新興」がありますので、延宝2年寅年(1674)・宝永6年巳年(1709)・安政2年卯年(1855)頃に開発された田畑があることが分かります。
西梶用水の灌漑域の北部は、古川免の東部に当たります。
この付近の古地名には「新開」が付いています。ここから新しい開発であることが分かります。しかし、年紀がないので開発時期は分かりません。
新開・与北用水の灌漑域は古川免の西部になり、灌漑域は延宝2年(1674)、中部は宝永6年(1709)、南部は安政2年(1855)頃と数回に分けて開発されたようです。延宝2年(1674)に開発された田畑は新開・与北用水の幹線に西接しますので、新開・与北用水は延宝2年(1674)頃に開削された可能性が高いようです。
 大番・横井用水と濱用水の灌漑域は濱免に当たります。
濱免は古地名から元禄6年(1693)頃に大規模に開発したことが分かります。先述のように絵図から大番・横井用水は濱用水よりも後に作られたと考えられるので、濱用水が先に開かれ、その時期は元禄6年(1693)頃になると推測できます。
また、「阿野郡北絵図』をよくみると濱用水は途中で2本に分岐します。
坂出 阿野郡北絵図拡大4

 1本は海岸近く、もう1本は弁財天の北を走り、大番・横井用水の灌漑エリアのほうまで延びています。現在、弁財天は林田町にある惣社神社に合祀されていますが、元は惣社神社の200m北西の県道太屋富・築港・宇多津線の路線内にあったと伝えられます。現在、濱用水は元弁財天のあった場所の北方に北東方向に走る2本の幹線用水路があります。これらの2本の用水路が絵図に描かれた用水路の可能性が高いようです。以上から推定すると、このあたりは元禄6年(1693)頃に開発され、賓用水だけで灌漑していたのが、水量が不足したので、江戸時代末頃神谷川を水源とする大番・横井用水が開削されたのではないかと研究者は考えているようです。
三ケ庄用水が開かれたのはいつのなのでしょうか。
 それは平成23年度の竹北遺跡の発掘調査が手がかりを与えてくれるようです。ここからは南東から北西に走る河川跡が出てきて、埋没時期は平安時代から鎌倉時代とされています。この河川と三ケ庄用水が重なるとすると、三ケ庄用水は河川が埋没後の鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
また、鴨用水と三ケ庄用水、今井用水と総社用水が開かれた順番を考える材料に「用水管理の既得権」へ配慮があります。古い用水路が優先され、後発用水路はすでにある用水路に影響を与えないように設計されます。先発組優先なのです。
そのような視点で鴨用水と三ケ庄用水を見ると、
①鴨用水のほうが上流で取水する。
②加茂町南部で両用水路が交差する際には、三ケ庄用水は鴨用水の下をくぐり、鴨用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。
③今井用水と総社用水の関係をみてみると、今井用水のほうが総社用よりも上流で取水する。
④総社用水は林田町南部の坂出市立林田小学校の北東部で今井用水の下をくぐり、今井用水の灌漑域の中を通って灌漑域に達する。

先発する用水路の上から水を導水することは、水利用の既得権に反することで騒動のもとになります。用水が交差する際には、後発組が下を通過するように設計されます。ここからは 
鴨用水 → 三ケ庄用水    
今井用水 → 総社用水
という前後関係がうかがえます。
以上のことから、現在みられる加茂町・林田町・高屋町付近の用水路は江戸時代末までには作られていたことになります。
 この中でも、
①新開・与北用水は延宝2年(1674)頃、
②濱用水は元禄6(1693)頃、
③大番・横井用水が最も新しく江戸時代末頃
に開かれた用水になるようです。その他の用水路の開かれた時期は不明ですが、鴨用水よりも三ケ庄用水、今井用水よりも総社用水の方が新しいようです。このなかで、三ケ庄用水は一番古いのですが、それでも古代に遡ることはないようです。鎌倉時代以降に開削された可能性が高いと研究者は考えているようです。
 加茂町、神谷町西部、高屋町南部、林田町南部には条里地割が広がります。
3綾川河口復元地図2

条里地割は西に24度傾き、N-24°Wを示します。
綾川河口の灌漑システムを大きく見ると、南北方向に基幹用水路を作り、条里地割と組み合わせて、全体に水が行き渡るように工夫しているようです。鴨用水は山麓沿いに幹線用水路を設置し、この用水路から樹形状に数本の用水路を分岐し、北方向に流します。東西の水路へは堰板等を利用して分水します。大部分の水田の細長く、水田の取水口はどこも水田の短辺に設けられています。

坂出 阿野郡北絵図拡大

 三ケ庄用水は綾川から取水して、鴨用水の灌漑域の中を北方向に直線的に走ります。鴨用水の灌漑域の中でも三ケ三用水が走る場所は最も低い場所であり、用水路は深く、鴨用水の排水を集めながら北方に走ります。
 三ケ庄用水は灌漑域に達すると数本に分岐し、条里地割の間を基本的に北方向に流れます。やはり頁西の水路へは、堰板を利用して分水します。ここでも大部分の水田の平面形は細長く、取水吉は短辺に設置されています。氏部井口用水は、綾川の右岸沿いに走る基幹水路から東西に樹形状に再水路を分岐させ、条里地割に沿って北方向に走り、神谷川に至ります。
三ケ庄用水の灌漑域には整然とした条里地割が広がりますが、用水が開かれたのは鎌倉時代以降である可能性があります。そうだとすると三ケ庄用水の灌漑エリアは。鎌倉時代以降に開発したものになります。
5讃岐国府と国分寺と条里制

 かつては、現在に残る条里制区割りを古代にまで遡らせて考えていました。例えば次のような主張でした。
「綾川河口エリアの条里制ラインが引かれたのは白鳳時代で、それと同時一斉に、造成工事が始まった。それを行ったのが新宮古墳に代表される地域の有力豪族だ」

 しかし、その後の丸亀平野や高松平野の考古学的な発掘調査で分かってきたことは、南海道が直線的に設置され、それに直角に条里制ラインは引かれた。しかし、それと土木工事の時期は一致しないということです。ラインが引かれたままで、その後は長らく放置され、中世になってから水田化が進められたような実例が数多く出てきたのです。この綾川河口においても、用水路を見る限り、水田化は中世に始まるエリアもあると研究者は考えているようです。

3綾川河口復元地図
条里制中央部を南北に貫通していた「馬さし大貫」道があった?
  出石一雄氏は、綾川河口エリアの中央を、南北に通る農道(馬さし大貫)を南北の基準線として条里地割が施行されたのではないかと推定しています。
この道は、雄山の南から綾川の南の府中まで延びていたと伝えられます。これを「馬さし大貫」と、呼んでいたと云います。道幅が広いので馬を走らせる練習をしたり、加茂から林田へ行くのに使われていたようです。この農道に隣接して用水路が走りますが、この農道は加茂町と林田町との町境であり、坂出市立白峰中学校の北側では氏部井口用水と三ケ庄用水の灌漑域の境界にもなっています。中学校の南側の三ケ庄用水の灌漑エリアが、馬さし大貫の西側にあたると研究者は考えているようです。ここは元来、氏部井口用水の灌漑エリアですが、末端であるため水が不足し、江戸時代後半の寛政年間(1789~1801)に水争いが起こり、その後三ケ庄用水の灌漑エリアになった経緯がある地域です。このように、馬さし大貫は灌漑エリアの境界にもなっています。南海道などの大道が古代の行政区画の境界になっていたことを思い出させます。
 三ケ庄用水の灌漑エリア全体が開発されたのは鎌倉時代以降で、鴨用水の灌漑エリアよりは開発が遅れた可能性もあるようです。その場合は、雄山から綾川まで走る馬さし大貫は少しずつ作られたことになります。条里地割ともに馬さし大貫ができた時期についても、今後の検討課題のようです。
4林田町1

以上、用水路の分析からは古代に遡るモノは見当たらないということでしょうか。しかし、雌山より北側や綾川流域の開発は、近世になってから断続的に進んだことがうかがえます。また、雄山の南部も古代から水田地帯ではなく、早くとも中世、遅ければ幕末に掛けて用水路は整備されたことが分かります。 
 古墳時代末期から古代にかけて、綾川河口の開発が進み、その経済的な発展を背景に在地有力豪族の綾氏が台頭したという物語を描くのには無理があるようです。

参考文献 讃岐国府跡探索事業調査報告 平成23・24年度 地形・地名調査

  

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


   
坂出風景1
「坂出墾田図」
今から約190年前の文政12年(1829年)坂出塩田が3年余の月日と久米通賢の辛苦によって完成します。これを記念して藩主松平頼恕は「坂出墾田碑」を建立します。建てられた場所は新たに開かれた塩田の境で、墾田地の東西中央にあたる天神社境内です。絵図の中央に白く輝く石碑がそれです。同時に広がる塩田光景も記念に描かれました。それがこの絵図になります。

坂出墾田図.2jpg
 この絵を見ると遠くに瀬戸内海と沖の島々、そして手前に広がる塩田、そして塩田の間には塩を運び出すための運河と船が描かれています。運河の入口には灯台の役割を果たす常夜灯も描かれています。ここが後の坂出港の入口になっていくのでしょうか。
 そして、一番手前に東西に伸びる当時としては広い街道と、そこを行き交う人々や大八車を押す人まで描かれています。高松ー宇多津街道なのでしょう。
 視点を少し変えると塩田を消した地点までは、この時までは海だったということになります。改めて、現在の坂出がかつての海を埋め立てた場所に立地していることが分かります。
坂出墾田図
もう少し絵をアップで見てみましょう(クッリクで拡大します)
 左下部分には家が密集し集落が形成されています。その家の並びは、左下から石碑のある右上中央の方向へと伸びています。そして、家並みは運河を越えてさらに北東へと「斜め」に伸びています。この家の並び方向は、運河や塩田の堤防の方位軸は違う方向になります。これを便宜上「斜め道」とよぶことにします。

坂出墾田碑23

天神社境内にある坂出墾田碑
この絵図に描かれているのは、坂出のどのあたりなのでしょうか?
『阪出墾田図』の中心部には、白く輝くように大きな「坂出墾田碑」が描かれています。この石碑は、坂出商工会議所の東の天満宮に今も建っています。そのために、この位置が特定でき次のような事が分かります。
①石碑の前の東西に伸びる運河が埋め立てられ現在の旧国道11号になる。
②石碑の下の方(南)に描かれている広い道は、現在の京町商店街から元町のアーケードに続く東西の道の二百年前の姿である。
 
坂出斜め道1

「斜め道」は現在の地図では、どのあたりになるのでしょうか?
絵図で集落が並ぶかまぼこ形の微髙地「斜め道」は、現在の地図では、
八幡神社→ 白金町→ 寿町 → 本町 → 元町
と続き、坂出駅前から北への通り、つまり「坂出停車場線」のところでいったん途切れます。京町には微髙地はありません。しかし、延長線上には「潮止神社」があり、その神社裏へと続く細い道と、つながります。ここからは、今の「潮止神社」の裏へへと元町からの「斜め道」は続いていたようです。

坂出潮止神社

微髙地上にある潮止神社
「斜め道」沿いに民家が建ち並んでいたのはどうしてでしょうか?
それは「斜め道」が海岸線背後の微髙地であったからだと研究者は考えているようです。塩田完成後も、海水が引き込まれる周辺の塩田よりも「少しだけ高い」場所なのです。そのカマボコ型の地形の上に家が並んで建てられたようです。そのため「斜め道」は、周辺に対して少し凸型になっていることが今でも視認できます。
  戦後になって瀬戸内海から塩田は姿を消しました。海辺にあった塩田は工業用地になったり、宇多津のように宅地化し、道路がタテヨコに真っ直ぐと「スッキリ」した姿に変身しました。坂出も同じような歩みを見せました。しかし、坂出の「斜め道」の痕跡は残り、周りとの違いが際立つことになりました。隠れていた歴史があぶり出されたのかもしれません。
坂出近世海岸線復元図

 この「カマボコ型の微髙地=斜め道」の果たした役割は?
 かつての坂出の海岸線は、坂出駅よりさらに南まで入り込んでいたと云われます。現在では山の麓になっている場所に、「福江」とか「新浜」というかつての湊を示す地名が残っていることからもうかがえます。また地元では、坂出高校の北側の道筋が昔の海岸線で、附属小学校の前を通りさらに北西方向に伸びている道が、その昔の海岸線の延長だと言い伝えられているようです。今の地図で見ると、その道(上の地図の青線)は途中から北上して、問題の「斜め地帯」の根元につながっていきます。
 昔の入江(湊)と「斜め地帯」との関係は?
「斜め地帯」は、坂出に塩田が開かれる以前の突堤ではないかと考える研究者もいます。聖通寺山方面から伸びてきた「微髙地=斜め道」は、天神社の南まで続き、そこで途切れて潮止神社からまた姿を現します。この突堤に守られたのが福江湊ということになります。
 それでは、この突堤はいつ頃出来たのでしょうか? 
これは人工的なものではなく潮の流れで自然にでき上がった「中州」の微髙地で、古代に遡ると考古学者たちは考えているようです。この微髙地の背後に潟湖的な入江があった可能性があります。
3坂出湾2
福江湊とされる文京町の遺跡と当時の海岸線
  以前、坂出の福江湊のことを「坂出の福江湊は、綾氏の鵜足郡進出の拠点だった?」で次のように紹介しました。
  福江湊について、発掘調査報告書は「福江の景観復元」を次のように述べます
「角山北東麓から西に伸びる浜堤げ前縁を縄文海進時の海岸線とし、以後の陸地化も遅く、古代にも浅海が広がる景観
であったこと
 海岸線沿いの微髙地である浜堤には文京町二丁目遺跡と文京町二丁目西遺跡があります。文京町二丁目遺跡からは7世紀前葉以降の製塩土器と製塩炉や8世紀の須恵器も出土しているようです。文京町二丁目西遺跡では、8世紀中~後葉を中心とする土器や、畿内産の9世紀の緑粕陶器や中世後半までの土器、さらに多量の飯蛸壷が出土しています。飯蛸壷漁が行われていたのでしょう。ここからは東西を山に挟まれて北向きに湾入する復元景観も含めて考えれば、8世紀中葉以降には港湾機能をもった集落があったと研究者は考えているようです。それは、『綾氏系図』にも[福江湊浦]と記されているので、これを書いた作者は福江を港として認識していたことと符合します。
史料としては時代が下りますが『玉藻集』(延宝5年、1677)に天正7年(1579)、
香川民部少輔が宇多津に着いて、そこから居城の西庄城に帰るくだりがあり、「中道」と呼ばれる海側の浜堤を、潮がひいていたのでなんとか渡ることができたこと、「中道」と陸地側の浜堤Aとの間が足も立たない「深江」である
ことが記されています。
この「深江」が「微髙地=突堤」が途切れる所で、入江への入口となっていたのではないでしょうか。
坂出墾田

   以上をまとめると次のようなことが類推できます。
①古代において文京町2丁目あたりが海岸線で、7世紀後半には「浜堤A」の微髙地に集落が形成されていたこと
②浜堤A上には漁労営む集落が形成され、後には交易活動も展開していたこと
③これの港湾施設(福江湊)が讃留霊王(さるれお)の悪魚退治説話の重要なステージであること
④福江湊を拠点に綾氏は、川津方面に進出し大束川流域に勢力圏を拡大したこと
⑤戦国時代末期には、浜堤に「中道」が通っていたが、浜堤が途切れていて干潮時でないと通行不可だったこと。
⑥浜堤が途切れたところがあり、入江の入口のようなところがあったこと。
坂出墾田図.233jpg
  こんなことを頭に入れてもう一度「坂出墾田図」を見てみると、坂出も町は坂出湾の奥深くの港町からスタートし、海を埋め立て海に向かって発展していったことが改めて分かります。

     参考文献 井上正夫 坂出の斜め地帯 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか


 考古学の発掘調査報告書は、私のような素人には読んでも面白みがないことが多いのですが、積み重ねられた発掘から明らかになった材料を組立って、今までになかった世界をひらく論文が出てくることがあります。戦後の考古学は、文献史料ではなしえなかった日本の古代史の書き換えをせまる「証拠」を突きつけてきました。古墳などの編年調査が進むにつれて、古墳をして讃岐の古代史を語らせる研究が発表されるようになっています。今回は、古代の阿野郡の古墳から古代豪族綾氏にせまる研究を紹介します。
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上の地図を見ると、綾川下流域の平野部周辺に約100の古墳が分布します。
坂出古墳3

その中でも特に密集度が高いのは,
①城山東麓の西庄町醍醐~府中町西福寺(平野南西部)
②蓮光寺山西麓の加茂町山ノ神(平野東南端部)
③雄山の東・南麓を中心とした高屋町から大屋富町・青海町にかけて(平野東北部)
のエリアで規模の大きな古墳群があるのが分かります。
  古墳の密集地に有力な古代豪族がいたことは推察できますが、この分布図だけでは歴史的な流れは分かりません。これらの古墳相互のいつ頃作られたのか、そして築造順番はどうなのか歴史的な「縦」のつながりを見ていく必要があります。それがこの坂出市周辺の編年表です。
坂出古墳編年
  この表は横軸がエリア、縦軸が築城年代順に区分けされたものです。例えば坂出エリアでⅠに属する最も古い古墳は、北東部(林田周辺)の雌山2号墳・南西部の白砂古墳、そして鵜足郡との境(金山トンネル東)にある爺ケ松古墳となります。坂出エリアに最初に古墳を作り上げた勢力は、この3つのエリアを拠点にしていたことがうかがえます。
これらの古墳の築造年代はいつ頃になるのでしょうか。
(1)香川県の古墳編年の基準は?
I期
出現期の古墳で、前方後円墳は前方部がバチ状に広がり,持送りの顕著な長大な竪穴式石室,舶載鏡のみをもつことをなどが特徴。3世紀末前後の古墳。
Ⅱ期
彷製鏡,碧玉製腕飾類,刳抜式石棺の出現期の古墳。時期は4世紀前半頃。
Ⅲ期
円筒埴輪回,彷製鏡,碧玉製腕飾類,刳抜式石棺などを特徴とする古墳。時期は4世紀中頃
Ⅳ期
Ⅲ式の円筒埴輪,滑石製模造品,長方板皮綴式短甲などをもつ古墳。時期は5世紀前半頃。
Ⅴ期
須恵器,眉庇付冑,三角板鋲留式短甲,三環鈴などをもつ古墳。時期は5世紀後半頃。
Ⅵ期
K10型式の須恵器をもつ古墳。香川県では横穴式石室の出現期にあたる。時期は6世紀前半Ⅶ期: 横穴式石室を内部主体とする群集墳,時期は6世紀後半~7世紀初頭頃。
Ⅷ期
TK217 ・ TK46型式の須恵器をもつ古墳。時期は7世紀前半~中頃。
以上のように埋葬品の土器や装飾品、武器、埋葬施設などによって8期に分類されています。
坂出古墳1
それでは、この「古墳編年表」で一番最初に姿を現した前方後円墳はどれになるのでしょうか。
Ⅰ期の前方後円墳は3つあります。
「ハカリゴーロ古墳」の画像検索結果

先ずやって来たのは国道11号バイパスの金山トンネル東側の奥池です。この上に坂出地区で最も古い前方後円墳・爺ゲ松古墳があります。この古墳は、古代の阿野郡と鵜足郡の境界であった城山と金山の間の低い鞍部に位置します。そのため拠点が阿野郡にあったのか、鵜足郡にあったのかよく分かりません。しかし、現地に立ってみると視界が広がるのは東方面の阿野郡です。そして瀬戸内海も見通せます。瀬戸内海の交易・防衛に関わった勢力が最初に作り上げた前方後円墳なのかもしれません。
爺が松古墳.2jpg
爺が松古墳の縦穴式石室
 この古墳は積石塚で、全長は49.2mで、盛り土で築造した前方部はバチ状に広がるとともに,大きな持送りが顕著な竪穴式石室で、古式の形態を示していて前期古墳の特徴を表しています。
 この古墳と同時進行で作られていたのが、善通寺の大麻山の頂上近くの野田院古墳です。
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善通寺勢力は爺ゲ松古墳と同じように前方部は盛土、後円部は積石塚というスタイルで前方後円墳を登場させています。ここからは、坂出や善通寺の勢力が大和や吉備を中心に作られた「前方後円墳」同盟に参加していたと同時に、讃岐の独自性を主張していると研究者は捉えているようです。
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 平野北東部林田町の雌山山頂部にある雌山2号墳も
後円部を積石で,前方部を盛土で造した積石塚の前方後円墳です。これも前方部がバチ状に広がることから爺ケ松古墳とほぽ同時代のものとされます。
 平野南西端部の城山東麓に立地する白砂古墳は,
大きな後円部に短くバチ状にひらく前方部をもつ前方後円墳で、奈良県の石塚古墳に似ていることからI期のものとされています。
  坂出地区の1期に属するこれらの3つの前方後円墳は、重要な意味を持ちます。考古学者達が考えている背景を簡略化して示すと次のようになります。
①卑弥呼死後の3世紀後半以後、初期前方後円墳が西日本で一斉に姿を現す
②これは「前方後円墳」祭儀を通じて、各地の首長等が同盟関係に入ったことを意味する
③その本部はヤマト(纏向遺跡?)に置かれた。
④ヤマトは吉備等の瀬戸内海の諸勢力と連合し、瀬戸内海通航を支配下に置く
⑤ヤマトは朝鮮半島に進出し、鉄の交易権をにぎり勢力をる
⑥ヤマトは同盟国であった吉備を弱体化させ、自己の勢力をさらに伸ばしていく。
つまりⅠ期の前方後円墳に眠る首長達は、①②③④に関わった可能性があると言うことになります。「前方後円墳」という舞台の上で、首長霊の交替儀礼が行われたのでしょう。爺ケ松古墳の首長も吉備勢力やヤマト勢力と結び、人と物の交流を行うと同時に、目の前の備讃瀬戸の「安全保障」を担当していたのかもしれません。
 そういう中で、この同盟関係にはどちらかというと積極的には関わらない勢力がいました。
石船積石塚石清尾山古墳群 前方後円墳
それが高松の峰山の勢力です。ここには周囲が「前方後円墳祭り」を取り入れた同盟に参加するのに、頑なに独自の墳墓スタイルを守ろうとします。これに対して、ヤマト勢力は周辺部に自己勢力を「培養・育成」して包囲網を形成して、追い落としにかかっていきます。また津田湾には配下の船団・軍団を送り込み「ヤマト直属海軍」勢力の拠点を築きます。それらの子孫は、後には内陸部に入り開発を進め富田茶臼山古墳を築くことになります。
 話がそれてしまったようです。もう一度、坂出の古墳編年表を見てみましょう。
坂出古墳編年
1期に前方後円墳が出現したエリアはⅡ期(4世紀前半)にも、引き続いて前方後円墳を築造しているのが分かります。

 爺ケ松古墳の上のみかん畑の丘の上には、積石塚のハカリゴーロ古墳が築かれます。
竪穴式石室から邦製内行花文鏡,定角式鉄鏃を出土しています。この古墳は国道11号バイパスの奥池から集落の間を抜けて北へ登った鞍部から右のみかん畑の中の道に入り、そのまま稜線を辿っていくと山頂部にあります。いまはほとんど人が近づかず、全面をイバラやツタがおおって、説明を受けなければ古墳と分かる人はいないでしょう。
ハカリゴーロ(積石塚)古墳saginokuchi
 この古墳は前方部、後円部ともに積石で構築された全長約42㍍の前方後円墳で、標高約125㍍の尾根上あり、前方部は西を向いているようです。築造時は海の方も見えたのかもしれませんが、今は視界は開けません。

ハカリゴーロ(積石塚)古墳100224-053
後円部に東西主軸の竪穴式石室があります。石室は半壊の状態ですが安山岩の板石、割石を積みあげて築かれていて、床面には粘土が敷かれていました。墳丘は採石の被害によって後円部の一部が変形しています。石室西側の小口付近から一内行花文鏡と鉄鏃が出土しており、坂出市郷土資料館に保管されています。

 また,平野北東部の雌山山頂部では方墳(雌山1号墳),円墳(雌山3号墳)の2基の積石塚が築造されます。しかし、前方後円墳はここにはなく、雌山の東北にあたるスベリ山に経の田尾1号墳が築造されています。

坂出古墳2
             
 一方,城山の南に連なり,鵜足郡との境をなす横山の尾根上には積石塚の前方後円墳である横山経塚1号・2号墳が築造されるようになります。
前方後円墳は先ほども言いましたが首長交代の最高儀式の舞台でしたので、首長だけに築造が許可された地位シンボルの役割も果たしました。4世紀前後の坂出には3つの勢力があり、それぞれが前方後円墳を築き始めたことになります。
ところが編年表を見るとⅢ期(4世紀中頃)には爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳の後に続く古墳がありません。
古墳の築造は北に移動し常山の西丘陵上に、盛土の前方後円墳である川津茶臼山(蓮尺茶臼山)古墳に移ります。この古墳は墳丘は、積石塚からヤマト風の盛土様式に変化し、彷製三角縁三神三獣鏡などの出土したと伝えられますが今は破壊されてしまいました。また,聖通寺山の北端の積石塚の円墳(聖通寺山古墳)は,5世紀に下る積石塚がみられないことからⅢ期のものとされます。
 初期の前方後円墳である爺ヶ松古墳・ハカリゴーロ古墳,横山経塚1号~3号墳,横峰1号・2号墳には、後続の古墳がないのです。これをどう考えればいいのでしょうか? 以上をまとめると次のようなります
①坂出の前期前方後円墳は、積石塚で4世紀を中心に築造され,遅くとも5世紀前半には姿を消している
②積石塚のもつ地域色は、被葬者の地域的主体性の反映と考えられる
③坂出北西部では積石塚の聖通寺山古墳・土盛の前方後円墳である川津茶臼山(蓮尺茶臼山)古墳・田尾茶臼山古墳からなる有力な古墳群が5世紀初頭頃に終了している
以上から「その頃に首長層の地域的主体性が大きく制限されるような政治的変化」があったと研究者は考えているようです。もう少し分かりやすく説明すると「積石塚」という様式は「ヤマト」の盛土様式に対して「独自的・在地性」を主張するものであり、政治的にはヤマトに対しての「一定の独自性をもった同盟者」を自認していた讃岐の首長達のこだわりを表すものだと考えているようです。ヤマト政権にとっての課題は、これらの同盟者を「臣下」にしていくことでした。
 先述したように高松の峰山勢力を駆逐した後は、坂出の新興勢力を支援し、独立性を保とうととする金山勢力や雌山勢力に圧迫を加える外交政策をおこなったのかもしれません。これを「首長層の地域的主体性が大きく制限されるような政治的変化」と研究者は考えているようです。
 これはかつての同盟者である吉備への政策とおなじです。そのようなヤマト政権の外交政策の転換を見抜き、柔軟(従順)に対応したのが善通寺勢力だったのではないかと私は考えています。善通寺勢力は、最初の野田院古墳は積石塚で造りますが、その後の平地部に作られた磨臼山古墳以後の首長墓は盛土山で造営します。この辺りに、善通寺勢力のヤマト政権へ「従順性」が見えるようにも思えます。
 坂出平野西部に積石塚の爺ケ松古墳・ハカリゴーロ古墳を築造した集団や,横山の尾根上に積石塚を築造した集団は,こうした変化の中で衰退し,古墳築造はできなくなります。また,綾川平野北東部の集団は,前方後円墳を築造するだけの勢力を保つことができず,これ以後は小規模古墳が見られるだけになります。つまり、初期に積石塚の前方後円墳を築造した集団は、衰退に追い込まれているのです。
 それでは、綾川周辺に横穴式の巨石墳を築き、国府を府中に「勧誘」したのはどのような勢力なのでしょうか。
旧首長に変わり、ヤマト政権の臣下として保護と支援を受けて成長していったの勢力とは?
それが綾氏だと研究者は考えているようです。そのことについては、また次回に・・
参考文献
渡部 明夫
      考古学からみた古代の綾氏(1)
    綾氏の出自と性格及び支配領域をめぐって-
    埋蔵文化センター研究紀要Ⅵ 平成10年

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

     
3綾川河口ezu JPG
     
讃岐国府の外港として「林田港」の存在が注目されるようになっていることを以前に伝えました。それなら今まで国府の都とされてきた「松山津」との関係は、どうなのかという点が疑問に残ります。今回は松山津について見ていきます
 松山津は讃岐国府から綾川沿いに南約五㎞の地点にあり「国府の外港」として古代以来の重要な港とみなされてきました。讃岐国十一郡のうち阿野郡に所在する九郷の一つである松山郷のにあったとされるのでこの名前で呼ばれてきました。現地に石碑は建てられていますが、具体的な位置など分からないことが多いようです。
6松山津

史料に出てくる松山津をまずはチェックしましょう。
 菅原道真の「菅家文草」には、讃岐国の迎賓用施設である松山館が津(松山津)のほとりにあったと記し、海や津の情景が詠われています。そこには
「予れ近会、津の客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」

との自註があり、別の詩で「小松を分かち種ゑて」と詠んでいますので「官舎」=「松山館」で、その近くに「松山津」があったと考えられてきました。
 保元の乱に敗れ、讃岐国に配流された崇徳上皇の上陸地は?
 上皇の滞在地については諸説ありますが、讃岐国への上陸は松山津からであったことがいずれの史料も記されています。ここからは公人を迎え入れる国府の港としての松山津の役割がうかえます。
6白峰古図
 この「白峯山古図」(資料13)は、永徳二年(1382)以前の白峯寺とその周辺の景観を江戸時代になって描いたものです。
ここには断崖絶壁の上から流れ落ちる稚児の滝と、その上に立ち並ぶ白峰寺の伽藍群や崇徳上皇陵が描かれています。目を下に移してみると、画面右下に綾川が右から左に流れ、中央下に男山・女山に湾入した入海があり、そこに館が描かれています。ここが松山津の有力な候補地となります。
  もう少し詳しくこの絵を見ていくことにしましょう。
①湾入地形に続く緩斜面地からは、上屋敷西遺跡と高屋遺跡が発掘され、塩作りに関連した集落がここにあったことが分かっています。
②雄山東麓にある雄山古墳群は、県下でも導入時期となる横穴式石室墳です。近畿と九州地方の横穴式石室の特徴を融合した石室形態で、この地が古くから瀬戸内海を往来する船が出入りし、人と物が行き来した場所であったことを示しているようです。


 文献史料+考古学的データ+現地踏査=「松山津は、雄山・雌山の東麓一帯に比定」することができると研究者は考えているようです。そして「菅家文草」に記された松山館は、津の最奥部付近に面した緩斜面地にあった可能性が高いとします。そして、国府とのアクセスは、津の最奥部から国府に延びる直線的な陸路があったのかもしれません。それは国宝の神谷神社の前を通ることになります。
以上からは「松山津=国府の外港」という従来の説は揺らがないようにおもえるのですが・・・
ところが、松山津の機能は「松山館」に象徴されるような公的人物往来に限定されるのではないかと考古学者たちは考えるようになっています。その根拠を見ていきましょう。

3綾川河口復元地図
  物資の移動港は綾川河口の林田津
 国府の港として、物資の移動を担った港は林田郷に所在する綾川河口にあったことが分かってきました。図4のように古代~中世前半の綾川河口はいくつもの河道がまるで龍の頭のようにうねり、その間に中洲があったことが分かります。その中でも安定した中洲には居住可能な微高地があり、ここを中継地として川運で国府と繋がっていたと研究者は考えているようです。
 以前にも紹介しましたが川筋には西梶・東梶という地名が残り、そこからは当時としては入手が困難な青磁碗などもが出土しています。「梶」地名は船の輸送に携わる梶取からきていると云われ、青磁碗出土地が旧河道に面していることもこれを裏付けます。

3綾川河口図3
 また、江戸時代の検地帳には綾川右岸の「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」などの古地名が残っています。東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の一になります。このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、総社神社・総倉神社・八坂神社といった複数の神社も旧河道に面し、物資流通への拠点的な役割を果たしていたことがうかがわれます。特に總倉神社の鎮座する所は、讃岐国の国府と綾川で結ばれ海陸の利便性が良かったために、税として徴収された雑穀等を貯蔵する官営倉庫が建てられたので總倉と号し、この神社をその鎮守神としたと伝えられます。「香川県神社誌より(要旨)」
5讃岐国府と国分寺と条里制
 このように、綾川河口の林田郷の微髙地には、蔵が建ち並び、瀬戸内海を交易する船の船頭達が住むエリアが想定できます。ここから綾川を通じて舟運で国府と繋がり、大量の人や物資の流通を担う国府の港としての機能が、この周辺にはあったと研究者は考えているようです。そして、この一帯にあった港湾機能を郷名にちなんで、林田津と呼んでいます。
古代の最新鋭工場の十瓶山窯跡群と林田港
 瀬戸内海の海底から引き揚げられた陶磁器の中に、十瓶山周辺で作られた須恵器があります。
 十瓶山は綾川の上流で、古代には須恵器窯と瓦窯跡からなる県内最大の窯跡群で、いまでいうなら最新鋭の工場群があった所です。ここで作られた製品(須恵器)はどのようにして、都に運ばれたのでしょうか? それは綾川水運によって林田津まで運ばれ、そこから瀬戸内海航路にのせて搬出されたようです。いまでは綾川を川船が行き来することなど想像も出来ませんが、上流のダムなや堰がなかった時代は川船は驚くほど奥地まで入ってきています。丸亀平野では白方から弘田川をさかのぼって善通寺までは、入ってきたことが分かっています。大束川でも川津から法勲寺辺りまでは行けたようです。
 こうして、須恵器をはじめとした調・庸などの多くは綾川の水運によって、国府からその河口部の林田津を経て、運び出されたと考えられます。
讃岐国府の外港   松山津は人 林田津は物 
 讃岐国府の港は、次のように機能分化していたというのです。
政府の要人などの人的移動は松山津・松山館
物資移動は林田津
そして、二つの港が複合した港が讃岐国府の外港ということになるようです。 
国府の港は、中世後半以降の史料ではみられなくなります。
それは、国府の機能が衰退するにつれて港湾機能が低下したということもあるでしょう。藤原純友の讃岐国府焼き討ちの際に、略奪放火にあったかもしれません。しかし、近年の環境考古学岳は、古代末の地球規模の寒冷化現象の影響が大きかったことを教えてくれます。寒冷化は、海面低下をもたらし河川の水位を低下させ、度重なる洪水を誘発し、その結果綾川河口は急速に陸地化していったようです。この二つの要因により、13世紀以降は国府の外港としての綾川河口の港湾機能は、急速に衰退していくことになります。
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3綾川河口図2
                           
   この地図は、約90年前の昭和7年(1932)に作られた綾歌郡林田村の行政地図です。現在の坂出市林田町ですが、この地は古代讃岐国府の外港があったところです。まず地図を見ながら旧林田村のアウトラインを掴んでおきましょう。
 西側を綾川が南から北の瀬戸内海へ流れ出しています。北側の海岸線は一直線で、埋め立てられて塩田化しているようです。そして、埋め立てられる前の旧海岸線沿いに人家が集中しています。
東側は雌山・雄山が並んで、その麓の微髙地に集落が形成されています。ここには、総社神社が鎮座していて、古代はここから先が海でした。南は条里制跡が残り、整然とした土地区画が続きます。つまり、南側は古代から陸地で水田化が進んだことが窺えます。
 この地図の中央から北に掛けては条里制の跡はみられません。今は西を流れる綾川が、古代には幾重にも別れ、湿地・水郷地帯を形成し、耕地化を拒んできたきたようです。その中に浮かぶ島のような微髙地に人々は集住し、周辺の開拓・開発を進めたようです。その歴史を、この地図から読み取って行きましょう。
3綾川河口復元地図
現在の林田出張所には、江戸時代の検地帳が残されています。そこには、地目・地位等級・面積・耕作者のほか、田畑の呼び名(古地名)などが記されているものもあります。また、明治時代に作成された数種類の絵図も保管されていて、田畑1筆ごとに赤字で地番、黒字で地目・地位等級・二号・人名(所有者)が記されています。絵図の赤字の地番と所有者、文化年間に作成された『阿野郡北林田|||巨道帳』に添付された貼り紙に記された赤字の地番と所有者を見比べると、ほぼ一致していことから、文化年間の検地帳の貼り紙に記された赤字の地番と、地引絵図を対照させることで、検地帳に記された古地名の場所が現在のどこに当たるのかを比定することができます。口で言うのはたやすいのですが、この比定作業は気の遠くなるような手間と時間がかかることは、私にもおぼろげながら分かります。
 この作業の結果、どの田畑にどんな古地名が付いていたのかが分かります。研究者が復元した地図を見ながら江戸時代以前の林田町の地形・開発・構造物などについて追いかけて見ましょう。
 古地名からは大きく分けて、次のような4つの情報を読み取ることができます。
①構造物または付近の構造物、
②地形
③土地利用
④田畑開発の時期に由来するものが多い
①には「寺ノ西」・「祇園前」・「宮ノ脇」・「宮武新開堤」などで、ここからは寺や神社に近隣することが分かります。また、「宮武新開堤」は宮武氏が開発した堤であることを示します。
②は「須が端り(すがべり)」・「さこ」などで、前者は砂州の端、後者は低地を表します。
③は「新開畑」「茶園」などで、「新開畑」は新たに開発した畑、「茶薗」は茶畑です。
④は「元禄六酉新興」「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」などで、年紀が入ります。「興」は開発を表すので、「新興」は新開発した田畑を表しています。
4林田町1
古地名からみた林田町
 第7図は、林田町の小字名と微高地に当たると思われる箇所を黒く示した図です。これを見ると、林田町の南東部(標高2.5~5.0mの平地)には条里制地割が広がっていることが分かります。つまり、条里制が実施されているエリアは安定した陸地で会ったということです。それに比べてまた、林田町の北部、標高2.0m以下の平地には江戸時代に開発された田畑が多いことも分かります。つまり、それまでは湿地・荒地として放置されてきたようです。
 黒くメッシュ掛けされた部分が微髙地です。
この部分に古くからの神社が鎮座し、その周辺に人家が集中しているのが分かります。台風時の洪水を避けることが出来た微髙地に人々は、家を建てて周辺の湿地を開発していったのでしょう。
この地図を各地区を4つのエリアに分けて見ていきます。まず、東南部のエリアから見ていきましょう。
4林田町 東南部
A林田町南東部(下所・上・東下所・角戸・東梶甲付近)
 このエリアは現在の雄山の南から綾川にかけての地域で、現標高は2.5~5.0mです。黒い部分は微髙地ですので「上」の中央部から「角戸」にかけて、南北に細長い微高地があり、その上に集落があります。その東は、下所にかけて条里型地割りの田畑が広がり、新興住宅が点在します。
微髙地の上には、次のような建物を示す古地名が残ります。
「蔵尻」・「地蔵ノ元」・「道西」・「今井井手西ノ上」・「三時今井井手東」

「蔵尻」は「上」の南端にあたります。「蔵尻」の北西方200mに「地蔵ノ元」が見えます。この付近に地蔵さんがいたことを暗示しますが、今はなにもありません。
  「地蔵ノ元」の南100mに「道西」があります。
これは道の西にある土地からついた地名のようです。この田の東を南北に走る道に[地蔵ノ元]は隣接していたようです。「道西」や付近に地蔵があることから、この南北の道は当時の幹線道路と研究者は考えているようです。ひょとしたら国府から林田湊への幹線道だったのかもしれません。
  「上」の南西の角に「今井井手西ノ上」があります。
現在でも「今井井手」と呼ばれる用水路がこの田畑の東を走っています。今井井手は、林田町の南方の府中町で綾川から取水し、林田町に水を供給しています。
 地形との関りが深い地名には「流田」があります。
  「角戸」の南東に「流田」があります。位置的には、坂出市立白峰中学校の西方150mになります。「流田」は、かつて洪水により田が潰された土地によく付けられる地名です。この付近は南北の細長い微高地の東側の低位部になり、地形的にもぴったりと合います。古代において綾川は、この辺りを台風の洪水のたびに奔放に流れを変えながら海に流れ出していたようです。しかし、ここから東側は条里制が残りますので、古代からの耕作地ということになるのでしょう。

3綾川河口図3
B 祓川西岸(川向・長明寺・野末)
 綾川の左岸(西岸)の「野末・川向」の境には
「寺ノ西」・「寺裏」・「寺東」・「寺前新開」・「長命寺新開」

の古地名が残ります。『阿野郡北絵図』には、この付近に高照院という寺が記されています。現在の高照院は坂出市西庄町にある四国霊場79番札所です。現在の高照院のある場所は、江戸時代には妙成就寺があったようです。この寺は讃岐へ配流された崇徳上皇を祀る御廟の別当でしたが、明治初年(1868)の神仏分離令によって廃寺となりました。その後、末寺の高照院が現在地に移転し、79番札所を引き継いだようです。今はここに高照院があったことを示す遺構や碑はありません。しかし、これらの古地名から移転する前の高照院の場所がよくわかります。
  寺院の名称をもつ地名としては「長命寺新開」があります。
「長命寺新開」は、綾川に架かる長命寺橋と三井橋間に挟まれた綾川西岸の堤防のすぐ西にあたります。長命寺は、讃岐に流された崇徳上皇が3年間過ごした場所とされます。この寺は戦国時代に長曽我部氏の兵火により消失し、崇徳上皇御親筆の柱だけが1本残りますが、万治年間(1658~1660)の洪水で綾川の堤防が崩壊し、この柱も流失してしまったという伝承が伝えられます。「長命寺新開」の北方100mには、「崇徳天皇駐暉長命寺奮趾」と刻まれた石碑が大正時代に建立されています。
   この地域には「新開」という開発を表す次のような地名が数多く残ります。
「長命寺新開」以外にも「二天新開」・「新開」・「道新開」て「人名口新開」・「道西新開」・「寺前新開」・「裏道之端新開」・「帰佐古新開」

ここからは、この一帯が湿地や荒れ地を開発し、田畑にしていったことが分かります。
 年紀の入る地名は「野末」に「正徳五未新興」があります。ここは今は堤防となっていますが、地名から正徳5年(1715)に新たに検地された田畑として登録されたことが分かります。
『綾北問尋紗』には正徳5年(1715)の50年ほど前に大洪水がおこり、この付近は荒廃し「流田」になっていたと記されています。それを後再開発したことから、新開という地名が数多く残っているようです。ここからは、綾川河口の開発が江戸時代の元禄年間に本格化したことがうかがわれます。

3綾川河口図3
C)雄山の麓から祓川東岸の林田町中部から南西部(字中川・東梶乙・城ノ角・三十六・川原・西梶・前場・惣社・馬場北・馬場南付近)
 この付近の綾川右岸(東岸)には、構造物があったことを示す地名が数多く残っています。
「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、
「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」
「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」・「宮添」・「宮添井手東」・「井手東」・「井手西」・「道北井手内西」、
「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、
「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」などが残ります。
この地域は船の「舵取り」たちの居住区だったといわれるます。瀬戸内海を交易する船頭や船乗りが生活し、周辺には蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
  東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。しかし、かつて城があったという記録や伝承はないようです。
 崇徳上皇がの仮住いとなった綾高遠の屋敷がどこにあったかは昔から議論されてきました。彼は林田郷を管轄する責任者の職務に就いていたとされるので、その屋敷も林田郷内にあったと考えられます。「城屋敷」の古地名が残るこの丘もひとつの候補かもしれません。
  「西梶」の「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」は綾川の右岸堤防沿いに残る地名です。
「宮」は隣接する總倉神社を指しているようです。總倉神社は「綾北問尋鈴」に「西梶の牛頭天王」、「神功皇后の右舵を守らせ玉ふ神」、「威神天王とも、又は惣蔵天王とも云す」と記されています。
  「宮ノ脇」の北方100mにある「寺裏」は薬師院総倉寺の北にあたります。
薬師院総倉寺は總倉神社の北にあり、總倉神社の別当であったエ薬師院総倉寺の所蔵する鰐口には「明徳元年」(1390)、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵天皇御社」の銘があります。
  八坂神社の旧名は祇園社
 「西梶」の「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」は県道大屋富築港宇多津線(通称さぬき浜街道)の南方100mにあたり、「寺裏」の100m北西になります。この付近には八坂神社があります。八坂神社の旧名は祇園社ですから、これらの地名は祇園社に由来するものでしょう。祇園社は寛文年間(1661~1672)に備後鞆の祇園宮を勧請したので、これらの地名はそれ以後に生まれたと研究者は考えているようです。
4林田町総社
  惣社神社に隣接する弁財天を祀る厳島神社
  「馬場北」から「惣社」にかけては「弁財天西」・「弁財天裏」・「宮添」・「宮添井手東」が残ります。
昭和7年作成の『綾歌郡林田村全図』(第2図)には「弁財天西」・「弁財天裏」付近には弁財天を祀る厳島神社が記されています。今は、厳島神社の社域は県道大屋富・築港宇多津線の道路になり、厳島神社は隣の惣社神社に合祀されたようです。「宮添」・「宮添井手東」は惣社神社に隣接することを表すものなのでしょう。

3綾川河口条里制
 惣(総)社神社は海に突き出す北端の微高地の上に鎮座していることになります。
境内には古代のものと考えられる土器片が散布しており、古来より安定した地盤で、林田湊の最有力地であることは、前回お話ししました。
  「前場」にある「鞍敷之内」は、林田町東端の雄山・雌山に挟まれた谷部で、神谷川の右岸になります。
雄山・雌山を横からみると、その間の凹み部分が鞍壷にみえることから、この付近を鞍敷と呼ぶようになったようです。
   佐古(さこ)は一般的に低地・湿地を表します。
「馬場南」の「さこノ上」・「さこ」は県道大屋富築港宇多津線(通称さぬき浜街道)のすぐ北で、林田町交差点の西にあたります。「さこノ上」・「さこ」付近の地割は、細長く蛇行していることから、この付近は河川跡であったようです。
5林田 総社2
「前佐古」は綾川東岸から林田小学校付近までのびる微高地と、惣社神社付近の微高地の間の低地にあたります。「川原」の「道西佐古ノ上」は綾川東岸から林田小学校付近まで南北にのびる微高地の西側に立地していることが分かります。
 また、開発を示す地名として神谷川東岸と雌山・雄山の間には
「堤下延宝二寅新興」・「水口東延宝二寅新興」・「水口西延宝二寅新興」・「橋之元延宝二寅新興」・「卯ノ興」・「興八王神下川中瀬」、神谷川西岸には「宝永元申新興」
などの地名が続きます。年代からこの周辺は、江戸時代になってから開発されたことが分かります。
 神谷川は流れの方向が不自然であることから付け替えを行なったことが推測できますが、今のところでは記録や伝承は見つかってないようです。
5
(D)林田町北部(字大番南・大番北・番屋前・浜・北須賀・与北・新開・古川付近)
 林田町の北端で瀬戸内海に面する「大番南・大番北・州鼻前・番屋前」には開発を表す地名が続きます。
「雀二き新興」「元禄八亥新興」・「道東角地元禄六酉新興」・「立道東・元禄六酉新興」・「中井手ノ肥直こ元禄六酉新興」・「屋敷元禄六酉新興」・「元禄八亥新興」・「裏ノ堂元禄六酉新興」・「墓ノ堂元禄六酉新興」・「屋敷、之三禄六酉新興」・「道下元禄六酉新興」
これらの年紀から、この付近が元禄年間に開発されたことがわかります。この付近の現地表の標高はO~1mを測り、高潮の際には被害を受ける可能性がある地域です。
  大番南・大番北・番屋前の海岸部には、細長い微髙地が南西から北東に長く向かってのびています
この高まりの上には[明治四辛新興]・「文政十一子新開水門裏源八屋敷」の地名があることから、幕末から明治初期にかけて開発したことがわかります。
 「浜・字北須賀・字古川・新開・与北」には
「宝永元申新興」・「延宝二寅新興」・「新開」「新開畑」・「中檻が新開」・「須が前新開」・「安政二卯新興」・「宝永六巳新興」「明治四辛興」
があり、小規模な開発が、延宝2年(1674)頃・宝永年間(1704~1710)・安政年間(1854~1859)頃・明治初期と何回かに分けて断続的に行われたようです。
 綾川にかかる雲井橋の北東付近から北西方向の「川原・古川・北須賀」に向かっては、新田が長く、蛇行しながら連続します。ここは周囲に比べると標高も低く、細長い窪みとなっていることから、綾川の支流の河川跡のようです。
5
江戸時代の林田湊は米の積み出し港
  大番北にある現在の林田港は、江戸時代にも港として機能していたようで、明治初期に作成された地引絵図にもL字状の突堤が描かれています。
突堤の南側には「米下道須が端」・「米下通寅添」・「米須端り西」「米下道東」があります。幕末に作成された『讃岐国松平領海岸絵図』には林田港付近が描かれていますが、この絵図には、「女山」の北側に四角に飛び出した部分があり、この部分に「打場」、その先端に「米出場」と記されています。ここから江戸時代から林田の港から米を積み出していたころが分かります。「米下道」というのは米を港へ運ぶ運搬道路だったのでしょう。
 この付近の様子を記した資料に[海上湊之記]があります。
これは寛文7年(1667) 幕府乃毎辺唆使高林又兵衛の視察記で、この中には
「林田 拾軒、遠干潟也、舟掛り無、是ヨリ白奎ヘ程有、此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜卜云。」
とあります。この資料をみると、林田付近には遠干潟が広がっており「舟掛かり」(湊)はなかったとされています。「大番北」にある港は、寛文7年(1667)には築造されていなかったようです。「遠干潟」は字大番北・大番南・洲鼻前・番屋前の平坦地を指しているようですが、この「遠干潟」の干拓と同時に、港も築造したのではないかと研究者は考えているようです。したがって、港の築造は元禄年間(1688~1703)頃で、米下道・米下道と呼ばれたのは港築造後ということになります

5讃岐国府と国分寺と条里制
   以上をまとめると、次のようになるようです。
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで
②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された
③しかし、大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。
④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で
⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた
参考文献 森下友子 検地帳の古地名からみた坂出市林田町 香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
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3古代坂出湾地図

古代の遺跡を見る場合に、その当時の地理環境を復元することが大切なようです。例えば古代と現在の海岸線では大きく変わっています。川も流れを変えられている場合もあります。まず巨視的に古代の坂出湾を見ておきましょう。
 この地図は標高3m以下にグラデーションを付け「海の下に沈めて」古代の海岸線をよみがえらせたものです。五色台の先端を境に備讃海峡の東西両側の平野部に、大きく湾入する低地が浮かんできます。東側では、高松市街地と屋島の間に大きく湾入する低地で、近世の干拓の範囲と重なります。屋島は陸と離れた島で、この地域の中心は現在の古高松とその外港である方本(かたもと)湊です。そして現在の高松市街地は郷東川の河口で、野原村がありました。これが中世以前に存在した海域「古・高松湾」です。このエリアについては以前紹介しました。

3坂出湾1
 目を西側に転じると、坂出市街地にも深く湾入する低地があります。
大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所
と集落が連なる旧海岸線と、その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川が浮かび上がってきます。西には宇多津、東には木沢・王越があります。これらの海域世界を研究者は「古・坂出湾」と呼んでいるようです。古・坂出湾には、港がいくつかありました。

この中で中世史料に登場するのが松山津と福江です。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子が山家集に次のように記されています。
「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]
これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。これら以外は「津」がなく「松山」とのみ記す史料ばかりで、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などがあるようです。
  ここから中世に「松山津」があったことは確かなようです。
しかし、菅原道真の「菅家文草」には「津」と記されただけですので、これを「松山津」と同一視するのには研究者は慎重なようです

3坂出湾2
  古・坂出湾拡大図 島は津山と聖通寺山
もう一方の福江は、私は初めて聞く名前でどこにあるのか分かりませんでした。
  福江は現在の坂出市街の南側にそびえる金山の麓にあった湊で、
坂出商業や坂出高校は海の中にあったようです。神櫛王の悪魚伝説を伝える「綾氏系図」(南北朝期)に「福江湊浦」と記されています。また、兵庫関に入った船に「福江丸」があったことが記録されています。(1460年、長禄4、「六波羅蜜寺文書」)ここからは崇徳院御影堂領北山本新庄の年貢積み出し港としての役割をもった湊がここにあったことがうかがえるようです。
 また、『玉藻集』(1677年、延宝5)には、天正7年の香川民部少輔(西庄城主)の讃岐復帰の際のこととして、次のような記述があります。
 讃州宇足津の浦にわたる。香川、潮を計て遠干潟の坂出の浜魚の御堂より八町計沖の方を一文字に渡し、西ノ庄へ押着ける。(中略)
 彼中道と云は、聖通寺山より西ノ庄の間一里なり。外は道なく、陸路の方より八町計は歩の者足も立たざる深江なり。沖は満汐にてなけれ共、猶足入なり。
 ここには戦国時代末期に香川民部が西ノ庄の城に帰る際に、宇多津から角山(津の山)の北から西の庄に向けて「潮を計り」って干潟になった「海の中道」を押し渡ったと記されます。海の中道は、現在の坂出市寿町2丁目、本町2丁目、元町2・4丁目の砂堆のことです。これが戦国末期には形成途上で、福江の浜との間はまだ水深があり、福江の港湾機能は維持されていたことがうかがわれます。確かに福江の街並みを歩いてみると、石組みの古い井戸が残されたりしていて瀬戸の島の港町の雰囲気が感じられます。この地域が中世までは、古・坂出湾の西部の湊町だったようです。
古・坂出湾の東側=「松山津」と、西側=福江浦(のち御供所・平山・宇多津)の対抗関係は?
砂堆形成、潟湖埋積、河道変化などの地形環境の変化を背景に、各時代ごとの湊の盛衰の推移を簡単に見ておきましょう。 図式としては、
  両者の並立(7世紀)→「松山津」の優勢(8~12世紀)
→宇多津・平山・御供所の優勢(13~17世紀)→坂出浦の興隆(18~19世紀)

という流れを研究者は考えているようです。
2 レベル2:備讃海峡》
 海峡の西側(古・坂出湾)と東側(古・高松湾)は、讃岐国内での港湾機能をめぐる対抗関係がありました。それは政治拠点がどこにあったかということと結びついています。
 図式としては、
両者の並立(7世紀)→古・坂出湾の優勢(8~14世紀)→
両者の並立(14~16世紀)→古・坂出湾の優勢(16世紀末葉)→古・高松湾の優勢(16世紀末葉~17世紀中葉)→古・坂出湾外周地域の拡張・丸亀城下町建設)と、両者の並立(17世紀中葉~19世紀)
という流れを研究者は考えているようです。
 大まかな全体像は、これくらいにして具体的に見ていくことにしましょう。
3綾川河口復元地図
綾川河口の総社神社遺跡は林田津?
 まず総社神社の由来です。古代、国司にとって「国祭り」重要な任務の一つでした。そのためは各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたといいます。しかし、これは手間暇が掛かるので国府近くに国内の神を集めて合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになったようです。この総社神社は、もともとの讃岐国の総社だと、この神社の由来は伝えます。確かに、府中に近く松山湊にも近い地理的にはふさわしい場所に鎮座する神社です。
 社殿では、旧林田村の郷社であり、926年に国府近くにあったものが現在地に移ってきたといいます。戦国末期の1597年(慶長2)に新社殿が建てられ、江戸時代には現在のような状況になったようです。どちらにしても讃岐一国の総社として存在したのは10世紀以降のことと研究者は考えているようです。
5讃岐国府と国分寺と条里制
 境内には総社神社遺跡があり、弥生時代中期中葉の壷形土器がほぼ完形で出土していることから、これまで弥生時代の遺跡とされてきました。しかし、改めて遺跡の立地を見ると、総社神社境内と東側・北側にまとまる総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地です。最初に見た国土地理院「5mメッシュ標高データ」でも、このエリアが小高い場所であることが確認できます。つまり、総社神社周辺の微高地は、自然堤防もしくは砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所で、8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡といえるようです。
 この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出てきます。ここからは、外部との交易活動を行う港湾機能をもった湊ではなかったのかと推測できます
 古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります
ここも古代は漁労活動(飯蛸漁)を行っていたのが8世紀後半頃から交易機能へ転じていったことが分かっています。これは総社神社遺跡の活動と、同じ時期のようです。

3綾川河口条里制

3.菅原道真が「寒早十首」を詠ったのは林田湊?
 讃岐に国司としてやって来た菅原道真は、庶民の生活に視線を注いでいます。『菅家文草』巻第三の「寒早十首」には「賃船の人」(206)・「魚を釣る人」(207)・「塩を売る人」・「商(塩商人)」(208)が、津頭(港のたもと)に集い売買や廻漕の請け負いをする姿が詠われています。

3菅原道真が「寒早十首」
何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早釣魚人    寒さは釣魚人に早く来る
陸地無生産    陸地じゃ何にもできないから
孤舟独老身    じいさん一人で舟の上
撓絲常恐絶    釣り糸切れそうで心配し
投餌不支貧    魚とれても貧乏のまんま
売欲充租税    税金ばっかり取られっぱなし
風天用意頻    風空まかせのその日暮らし

何人寒気早    誰に寒さは早く来る
寒早売塩人    寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る
煮海雖随手    塩焼きは手馴れているけれど
衝煙不顧身    煙にむせて身を擦りへらしている
旱天平價賤    お天気続きは塩の値段を下げちゃうから
風土未商貧    この地で塩商人は大もうけ
欲訴豪民攉    お役人に訴えたくて、港で待っているんだ。
886年(仁和2)に作られたと見られるこの漢詩を通して、たくましい庶民の暮らしが見えてきます。  讃岐人にとって、先祖に当たるこの人達を道真が見かけた湊はどこなのか?というのは古くから興味の的でした。まず最初に思い浮かぶのは、
「予れ近会、津の11る客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」
との自註(234)があり、別の詩(222)で「小松を分かち種ゑて」と詠んだ「官舎」=「松山館」に程近い「松山津」です。しかし、松山津は現地に立ってみると分かるとおり雄山・雌山の東側に広がる入江に面した閉鎖的な港湾です。そのため
「松山館の主要機能は要人の接待・逗留であることから、限られた人的な移動(交通)を前提にするものであり、一般的な流通とは一応切り離される
と考える研究者が今では多いようです。
 これに対して林田郷周辺は、綾川の河川交通と海運が結びつく結節点です。「石清水八幡宮文書目論」(石清水文書)の1023年(治安3)の文書で讃岐国の石清水領として見える「林津」が、林田巷湾(林田津)とも考えられます。
 したがって「寒早十首」のいう「津頭」とは、林田(林津)の一角と捉え、総社神社遺跡周辺が最もふさわしい場所と多くの研究者は考えているようです。
 また、この漢詩には「津頭」には、「塩を売る人」が塩商人を訴えることを考えた「吏」がいたことが詠われています。ここからは、港湾の管理を行う役人と役所が存在したことがうかがえます。このような機能を持っていたのが総社神社遺跡のようです。
3綾川河口ezu JPG
 
次は林田町の綾川右岸に鎮座する総倉神社を見てみましょう。
先ほどの総社神社とよく似ていますから混同しないでください。
この神社の近くには西梶と東梶という地名が残っています。梶は「舵」で中世の船舵たちの拠点であったと考えられている地域です。
 ここには地元で「碇石」と呼称される石造物が2基あります。西碇石は総倉神社の西約150mの水田の中に、東碇石は同神社の東約100mの宅地にあります。
これらは『綾北問尋紗』(1755年、宝暦5年)には次のように記されています。
  攬(ともづな)石 〔神功〕皇后御船の梶取し石とて東西にあり。其間十町計り。
 神功皇后がここに着岸したのは、「三韓征伐」の際に強風が吹き航行が危険になったためと、同書の「東梶・西梶」の項で記されています。同じような説話は、幕末の『讃岐国名勝図会』にもあります。また、総倉神社境内の石製注連柱(1888年、明治21)の片側には「霊区碇石表神威」と刻されていて、総倉神社との関わりをうかがわせます。しかし。これは明治の神仏分離以前には牛頭天王(惣蔵天王)と呼ばれていたこの神社が神功皇后の船の右揖を守護したとする伝承(『綾北問尋炒』「東梶・西梶」「牛頭天王」の項)に由来するもののようです。
 「綾北問尋炒」では、両碇石(徴石)の間隔は10町(約1,100m)とされていますが、現在は約250mです。この違いはどこから来るのでしょうか。
同書が書かれた時には、東の碇石が東梶神社周辺にあったのではないかと研究者は考えているようです。ちなみに西碇石から東梶神社旧境内地までは800m程度であり、字「城ノ角」の東限までは約1,100mであることから、この推測は距離の点では整合します。
 東碇石が現在の石造物になったのは、神社郷士運動が進められる明治末期頃に東梶神社が総社神社に合併され、拠るべき伝承地がなくなってしまったためのようです。その時に、東碇石が東梶から移されたのか、新たに西梶の石造物が東碇石とされたのかは分かりません。
 東西の碇石を考古学者は次のように分析しています
西碇石は五夜ケ嶽産の凝灰角傑岩で作られた六角石憧であり、東碇石は五夜ヶ嶽産凝灰角傑岩の五輪塔水輪と考えられる。両者ともに15~16世紀の所産と思われ、伝承で語られるような係船石柱ではないことは明確である。
 つまり、碇石(緻石)というのは事実無根な伝承ということになります。しかし、この地域の石造物の多くが総社神社や薬師院(総倉神社)に集められたのに、西碇石だけは、ぽつんと水田の中に斜めに埋まって残されたのでしょうか。その不思議さは消えません。

3綾川河口条里制
2.中世の梶取名と「潮入新開」
 先ほど述べたように中世の東梶・西梶は、八坂神社文書や「昭慶門院領目録案」、薬師院所蔵の鰐口銘(1390年、明徳元)には「梶取名」と呼ばれていたことが記されています。
 京都の祇園社は、文永年間(1264~74年)に林田郷内の「湖(潮力)人新開」を寄進され、開発を進めていました。この「新開」はどこなのでしょうか?
 祇園社関係の史料を見ると、 1340年(暦応3)の「顕増譲状」に次のような記載があります。
 讃岐国・(潮力)入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪附等在之
 「塩浜5反のうち、3反分に条里の坪付がある」というのです。ここから塩浜(塩田)の一部は条里制の中にあったことが分かり、条里型地割の広がるエリアに近接して塩田があったうかがわれます。ここで祇園社領の新開田が、「湖入新開」あるいは「潮入新開」と記されていることを再確認すると「湖入」というのは、綾川旧河道と砂堆の間のラグーン状の水域と推測できます。以上から八坂神社領として新田・塩浜の開発が行われたのは、東梶・西梶・川向(以上、林田町)、東条・南条(以上、江尻町)付近のエリアの範囲内であったと研究者は考えているようです。
 条里型地割を伸ばしての開発と、地形に応じた不定形な開発単位。この二者が、綾川河ロエリアの中世開発パターンであったようです。京都の祇園社は、そうした土地や飛び地を少しずつ開発したことが見えてきます。
以上をまとめると
①古代讃岐には五色台を挟んで「東の古・高松湾と西の古・坂出湾」のふたつの大きな湾入があった。
②古代の古・坂出湾では、林田津と福江津が並び立っていた
③総社神社遺跡が古代林田津であると考えられる
④菅原道真が「寒早十首」を詠ったのも林田湊ではないか?
⑤総倉神社周辺は、京都の祇園矢坂神社の荘園があり周辺の開発を行っていた。
参考文献
西村尋文・佐藤竜馬  綾川河口域における開発史一古代から中世の林田郷周辺-
                    香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
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