インタレストは、四国学院の学生達が発行している雑誌です。その中に讃岐うどんの起源について調べたレポートが載せられていました。今回は、これを紹介します。参考文献は「日本全国うどんの起源説 インタレスト 2024年 通巻38号」です。
「讃岐うどん」の起源については、ネット上でいろいろな説が飛び交っています。その中から以下の3つのHPを取り上げて比較しています。
A 香川県ホームページB うどん発祥の地を名乗っている綾川町HPC 四国新聞HP
どのHPともに「空海が唐からうどんの原型を持ち帰り、それを教わった智泉大徳が両親に振る舞って広がり始めた」という話が紹介されています。
ここからは「空海 → 智泉大徳」というストーリーが現在の通説となっていることが分かります。
「うどん」の原型は、どのHPにも「うどんの原型が中国から入ってきた」と記されています。
空海と、その甥で弟子である智泉大徳
ここからは「空海 → 智泉大徳」というストーリーが現在の通説となっていることが分かります。
「うどん」の原型は、どのHPにも「うどんの原型が中国から入ってきた」と記されています。
2 それでは日本にうどんがもたらされたのは、いつ、だれによってと書いているのでしょうか?
A 香川県HPには、次のように記されています。
今から1300年前の奈良時代に「麺」は中国から伝わってきたようですが、今のような「うどん」の姿ではありませんでした。今のような「うどん」は、平安時代(約1200年前)に空海が、当時のいろいろな生活技術と一緒に中国から持ち帰ったのだろうと言われています。また、父が滝宮龍燈院(綾南町)の菅原氏、母が空海の姉(後、智縁)の間に生まれた智泉大徳が、空海からうどんの作り方を伝授され、故郷である滝宮で両親をもてなしたのが最初という説もあります。
B 綾川町HPには、次のように記されています。
綾川町は「うどん発祥の地」として名乗りを上げています。うどんの原型は唐菓子と言われていますが、その唐菓子は延暦2年(804年)に唐に留学した弘法大師・空海によって日本にもたらされたと言われています。そのなかでも「うどん」の源流となるのは「ほうとん」とか「こんとん」と呼ばれるもので、その製法は空海の弟子に当たる智泉に伝承されたと伝えられてきました。智泉は空海の甥にあたり、延暦8年(789年)滝宮で生まれました。父は讃岐滝宮の官吏である菅原氏、母は佐伯氏の出身で空海の姉にあたります。つまり、智泉は空海の弟子であり、甥でもありました。空海から「ほうとん」の作り方を教わった智泉は、帰郷した折に自ら小麦粉をこねて「ほうとん」を作り、父母にごちそうしたと伝えられてきたのです。この地では弥生時代から麦が栽培されていたと推測されているので、この「ほうとん」は瞬く間に広まったとされています。つまり、わが国でいち早くうどんらしきものが作られたのは滝宮周辺であると、この地の人々は信じてきました。
C 四国新聞HPには、次のように記されています。
うどんの歴史は実は不明なことがたくさんあります。弘法大師が唐から伝えた、との説もありますが、当時のうどんは団子状のもので、小麦粉をこねて薄くのばし、包丁で細長く切って仕上げる「切り麺」は、室町時代に日本で誕生したという説が有力です。それが江戸時代の初期からうどん屋の商品として発達したようです。香川県では智泉大徳が、師であり、叔父でもあ空海から「うどんの祖」を伝授され、故郷・綾南町滝宮の両親をうどんでもてなしたのが最初、と伝えられています。
いつ誰がうどんをもたらしたかについて確認するとは、以下の通りです
A 香川県HP 「奈良時代に中国から伝わってきた」「切り麺は空海がもたらした」B 綾川町HP 「空海によって日本にもたらされた」C 四国新聞HP 「切り麺(うどん)は、室町時代に日本で誕生」
ここからは四国新聞HPだけが「空海招来説」をとらずに「室町時代誕生説」をとっていることを押さえておきます。AとBは「うどんの原型を空海が中国から伝えた説」で、これは1960年代頃から言われ始めたようです。
綾川町HPは、空海が持ち帰ったのは唐菓子で、その中に「うどん」 の源流となる「ほうとん」とか「こんとん」と呼ばれるもがあった」という説、C四国新聞HPは「空海が伝えた当時のうどんは団子状のもの」で切り麺ではなかった、つまり現在の讃岐うどんとは別物だったという説をとります。以前にもお話ししましたが、現在のうどんの起源(切り麺+だし汁スタイル)は近世初頭にまでしか遡ることはできません。空海の時代に、うどんはなかったと研究者は考えています。



以上のようにうどんの原形が遡れるのは、中世までです。そして、うどんの有力なルーツは次の2つです。
①宋代に流行した切り麺を、禅宗僧侶が持ち帰えり、太いうどんに改良したった説
②鎌倉時代の禅宗僧侶の食べていた点心を改良した「ほうとん」説
どちらも時代的には鎌倉時代の禅宗僧侶によって生み出されたと研究者達は考えています。空海の時代にうどんの祖型があったとは史料的にはいえないようです。
次に空海からうどんの製法を学んだというの弟子「智泉大徳」について『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように記されています。(要約)
①延暦8年2月14日(789年3月15日)? - 天長2年2月14日(825年3月25日)
②讃岐の人。俗姓菅原氏(一説に阿刀氏)。母は空海(弘法大師)の姉と伝えられる。
③空海の甥で十大弟子の一人。空海が亡き智泉の供養のため書いた「亡弟子智泉が為の達嚫文」が『性霊集』巻八にある。
④延暦16年(797年)、9歳のとき空海に連れられて故郷を去り、大安寺の勤操に預けられた
⑤延暦21年(802年)、14歳のとき空海の近士(従者)となった
⑥入唐留学僧・空海の侍者として智泉も同行(?)
⑦大同4年(809年)7月、嵯峨天皇の勅命で空海が高雄山寺に入った時に智泉も随行(?)⑧弘仁3年12月、空海により高雄山寺の三綱の1人(ほかは杲隣、実恵)に選ばれる。
⑨弘仁年中、空海に随い高野山に来て東南院を造り滞在
⑩825年3月25日)、病により高野山東南院にて没す(享年37)。
以上からは智泉大徳は、空海の甥で早くから空海の信頼を得た人物であったとされています。それが享年37歳の若さで亡くなってしまいます。叔父で師匠だった空海より先に亡くなった智泉の死を、空海は深く惜しみ悲しんだと伝えられます。そして、後世になると智泉にもいろいろな伝説が附会されていきますが、その内容は、彼が「孝順の士」と呼ばれるように、父母にまつわるものが多いようです。その中に、父の死を予感して讃岐に帰ってくる次のようなストーリーがあります。
- 大同4年(809年)、河内の高貴寺に滞在中のある晩、胸騒ぎがして急に父母に会いたくなり讃岐に帰郷したところ、父は病に臥せっていた。父は死ぬ前に会えたことを喜び、智泉の手を握って、お前のおかげで浄土に往生できると言い、息を引き取る。智泉は百日の間泣きながら経を唱え冥福を祈ったと伝えられる。
この話に讃岐帰国の際に父母にうどんを振る舞ったことが、後世に接ぎ木されていきます。それが各HPが「智泉大徳が空海からうどんの作り方を伝授され、故郷・滝宮で両親にもてなしたのが最初」という話につながっていきます。
それでは智泉大徳は、どんな「うどん」を父母に振る舞ったと記されているのでしょうか。
それでは智泉大徳は、どんな「うどん」を父母に振る舞ったと記されているのでしょうか。
県HP 「うどんの作り方を伝授され」
その前に「空海が切り麺を伝えた」と読める記述があるので、智泉大徳が両親に振る舞ったのは「切り麺」だったと読みとれます。
綾川町のHP 「空海から教わったほうとんを作り、父母にごちそうした」
ここには切り麺かどうかについては触れていません。最後の方で「うどんらしきもの」という表現が使われているように、切り麺だったとは断定はしていません。
四国新聞HPには
「空海から「うどんの祖」を伝授され、綾南町滝宮の両親をうどんでもてなした」「切り麺は室町時代に日本で誕生したという説が有力」
四国新聞はHPは、「智泉が作ったのは切り麺(うどん)ではない」という立場になります。学界の研究成果に学んでいます。
ところで智泉については、ウキは「滝宮天満官の宮司家である菅原氏の出身で、その母を空海の姉」としますが、これは無理筋だと指摘する研究者もいます。
なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が讃岐にやってくるのは、その役百年後のことです。そして太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも根拠がありませんし、年齢的にも無理があります。研究者は、次のように批判します。
なぜなら智泉が生まれたのは延暦八年(789)で、菅原道真が讃岐にやってくるのは、その役百年後のことです。そして太宰府に左遷された菅原道真がなくなるのは延喜三年(903)です。つまり、智泉の時代には滝宮天満宮はまだありません。存在しない滝宮天満宮の官司家の出身することはできません。また、智泉の母を空海の姉とするのも根拠がありませんし、年齢的にも無理があります。研究者は、次のように批判します。
「智泉を滝宮天満宮の宮司家や竜燈院の出身とする説は根拠のない虚説」「智泉の母が空海の姉というのも、円珍の稲木氏(和気氏)と同じで創作
つまり智泉大徳は存在したが、その出身を滝宮とする根拠はなにもないのです。これは中世や近世に滝宮牛頭神社の別当寺であった龍燈寺の真言系僧侶達の創作話である可能性が高いと私は考えています。
滝宮(八坂)神社と別当寺龍燈寺と天満宮 讃岐国名勝図会(1853年)
現在の讃岐うどんの一般的な起源説をHPで見てきました。そこから分かることは、今世間で語られているのは綾川町のHPに記された「空海伝来 → 智泉大徳継承」説が一般的な説であるということです。しかし、この説が通説となるにはいくつかの過程があったことをインタレストは指摘します。次に、そのプロセスを見ていくことにします。
1960年代末までは「うどん=奈良時代渡来説」が主流だったようです。

現在の讃岐うどんの一般的な起源説をHPで見てきました。そこから分かることは、今世間で語られているのは綾川町のHPに記された「空海伝来 → 智泉大徳継承」説が一般的な説であるということです。しかし、この説が通説となるにはいくつかの過程があったことをインタレストは指摘します。次に、そのプロセスを見ていくことにします。
1960年代末までは「うどん=奈良時代渡来説」が主流だったようです。
1969(昭和44)年 東京の讃岐うどん店「うどん坊」の「讃岐饂飩由来記」の一節
「うどんの歴史は遠く奈良時代に中国から渡来した唐菓子だといわれ、最初はアンコ入りでした。名前も、?飩、温飩饂飩となり、江戸時代からうどんと呼ばれるようになったといわれます」
同年 郷土詩人・河西新太郎氏のコラム
文献によれば、うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である。小麦粉のだんごにアンを入れて煮たもので、最初は「こんどん」と呼ばれ、転じて「うんどん」となり、江戸時代になって「うどん」と名前が変わり、現在のような線状の麺類となったのである
同年 郷土史家・佐々木正夫氏のコラム
「うどんの歴史は古代に中国から渡来した唐団子だといわれ、最初はアンコ入りだった。名前も、飩(とんとん)、饂飩(うんどん)、饂飩(うどん)となり、江戸時代から「うどん」と呼ばれるようになった」
以上のように1969年に書かれたものには、奈良時代のあんこ入りの唐菓子の一種 → 江戸時代に切り麺のうどんに変化したと書かれています。これが当時の研究者達の通説で、それを讃岐の文化人も踏襲しています。つまり、空海の時代には、現在の切り麺のうどんはなかったことになります。そうすると空海がうどんをもたらしたということも云えません。空海と饂飩は、切り離されて結びつくことはなかったのです。それが1970年代になると地元で、空海と結びつけた説が次のように出されるようになります。
A「讃岐の手打ちうどんの始まり弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」
(金刀比宮で行われた式の記事)
B「うどんの歴史は古く奈良時代に遡り、唐から渡来した菓子の一種だった」(四国新聞記事)
C「さぬきうどんは、お大師さんが唐から製法を持って帰ったと言われてます」
屋島のうどん店店主のコメント)
屋島のうどん店店主のコメント)
D「奈良時代に渡来した唐菓子の饂飩は、さぬきの風土にはぐくまれ、名物さぬきうどんとなった」
(四国新聞記事)
こうしてみると1970年代になって、讃岐うどんブームの到来と供に、その源流を空海に求める動きが加速していったことがうかがえます。うどんの起源についての記述が四国新聞に初め載ったのは1969年のことのようです。それを根拠に郷土詩人の河西新太郎氏や郷土史家の佐々木正夫氏などが「奈良時代に中国から伝わったアンコ入りの唐菓子がうどんの起源だ」という説を紹介するようになります。それを前提にして、讃岐うどんの起源説に「空海」が登場してくるのは、1973年に金刀比羅宮で行われた献麺式の記事の中です。(四国新聞記事)
そして、1976(昭和51)年以降になると文化人達は「空海持ち帰り説」に傾斜していきます。
讃岐には、今でも空海伝説が強く「何かわからないことがあると空海のせいにすれば安心する」という風土があります。20世紀後半になっても、起源の分からない業績は空海のものとされて流布されていきます。それを望んでいる読者がいるから受けいれやすいのでしょう。香川県民にとって「奈良時代説 VS 空海説」となれば、勝敗は明らかです。こうして「空海持ち帰り説」があっという間に「奈良時代渡来説」を駆逐します。1981年以降になると、四国新聞には「空海説」しか出てこなくなりました。四国新聞も「空海持ち帰り説」の立場に立ったと云えます
A 昭和51年空海? (四国新聞記事)
「弘法大師が唐へ留学した帰りに持ち込んだものだという説をとれば、約1200年の歴史をもつ食べ物といえる」
B 昭和52年 (山田竹系著「随筆うどんそば」より)
「弘法大師がさぬきうどんの創始者だということは、もはや疑う人はいないくらい有名になったが、それとて確たる証拠はない。しかし、大師が郷里讃岐の農民に「うどん」の作り方を教えたであろうことは容易に想像でるし、大師とうどんを結びつけても決しておかしくはない。だから誰の反対もなく、何の抵抗もなく大師説が取り入れられ広まっているのである」
C 昭和53年空海説
「さぬきうどんは弘法大師が唐からその製法を伝えたといわれてます」(前川忠男香川県知事の対談記事)
D「弘法大師は31歳の時、留学僧として唐に渡った。そのころ唐では「うんとん」というものが盛んに作られ、それは今のような長いうどんではなく、早くいえばダンゴのような型であった。翌年、大師は長安の都に着3年間の仏教の勉強の後、帰国した。讃岐帰った大師は、当時すでに栽培されていた讃岐三白の一つである小麦を原料として農民たちに唐のうんとん製法を生かした今のうどん製法を伝授し、乏しい農家の食量事情を救ったという。
(香川県と県観光協会が出した「うどんの日」の新聞広告に書かれた文章)
以上のように、当時の全国的なうどんに関する研究成果を無視し、「讃岐うどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている」という説が繰り返し語られるようになります。その根拠史料も示されていません。どこからそういうストーリーが出てきたのか、私にはよく分かりません。(香川県と県観光協会が出した「うどんの日」の新聞広告に書かれた文章)
讃岐には、今でも空海伝説が強く「何かわからないことがあると空海のせいにすれば安心する」という風土があります。20世紀後半になっても、起源の分からない業績は空海のものとされて流布されていきます。それを望んでいる読者がいるから受けいれやすいのでしょう。香川県民にとって「奈良時代説 VS 空海説」となれば、勝敗は明らかです。こうして「空海持ち帰り説」があっという間に「奈良時代渡来説」を駆逐します。1981年以降になると、四国新聞には「空海説」しか出てこなくなりました。四国新聞も「空海持ち帰り説」の立場に立ったと云えます
20世紀末に綾南町が「智泉大徳説」を持ち出した
このような中で、1998年4月に綾南町(現綾川町)が「道の駅滝宮」と「綾南町うどん会館」をオープンさせます。その新聞広告には、次のように記されています。
「空海から麺作りを教わっ智泉大徳が、讃岐滝宮の宮使をしていた父にうどんを振る舞い、そこから滝宮が、うどん発祥の地となった」
これも先ほど見たように智泉大徳が父の死に目に帰ってきたという伝説に、うどんをご馳走したということが接ぎ木されています。文章中には具体的な出典等ははっきりと示されていません。この主張の裏付けとなる論文を探していますが未だに見つかりません。自らの望む歴史的な評価や業績を、史料の裏付けなく語る説は「俗説」です。ここでは、讃岐うどんの起源については「奈良時代説」→「空海説」→「智泉大徳説」と移行してきたことを押さえておきます。
最後に、以前にお話した讃岐のうどんの広がりについて、まとめておきます。

①中世までに、切り麺は存在しなかった。うどんは、古代にはなかった。
②現在のようなうどんの原形が登場するのは近世になってからで、その背景には切り麺と出汁としての醤油の登場があること。
③絵図からも、うどん屋や蕎麦屋の登場は、近世以降であることが裏付けられる。
④寺院で生まれたうどんが、近世初頭に都市のファーストフードとして屋台で食されるようになる。
⑤それが讃岐で最初に見られるのは、18世紀初頭の金毘羅大祭屏風図で、そこには三軒のうどん屋が描かれている。これが讃岐うどんの最も古い史料である。


①中世までに、切り麺は存在しなかった。うどんは、古代にはなかった。
②現在のようなうどんの原形が登場するのは近世になってからで、その背景には切り麺と出汁としての醤油の登場があること。
③絵図からも、うどん屋や蕎麦屋の登場は、近世以降であることが裏付けられる。
④寺院で生まれたうどんが、近世初頭に都市のファーストフードとして屋台で食されるようになる。
⑤それが讃岐で最初に見られるのは、18世紀初頭の金毘羅大祭屏風図で、そこには三軒のうどん屋が描かれている。これが讃岐うどんの最も古い史料である。

金毘羅大祭絵図に描かれた金毘羅門前町のうどん屋(18世紀初頭)
参考文献
参考文献は「日本全国うどんの起源説 四国学院大学インタレスト 2024年 通巻38号」
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