瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:さぬきの道者一円日記

 伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア
伊勢御師
 以前に冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」を紹介しました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成されたものが、約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。その内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。ここからは次のようなことが分かります。
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと
 その後、三重県史編纂過程で発見されたのが伊勢御師の白米家に伝わる三豊や多度・那珂郡の檀那名簿です。その文書が白米家に伝来するにいたった経緯を見ておきましょう。
 寛永十六年己卯五月讃岐国旦所(檀那名簿)、福井勘右衛門より代黄金九枚二買得、取置有之證文如左永代沽渡申御道者之事在所者、讃岐国我等持分一円、村数家数ハ賦日記相添進之候、右之御道者、我等雖数代持来候、依有急用、黄金九枚二永代沽渡申候処実正明白也、右賦日記之外二他国他所二御入候衆も不依上下、一人なり共御家付次第二其方御知行可有候、則本文書相添進之候、此御道者二借物少も無御座候、若以来六ヶ敷義出来候ハ我等罷出相済可申候、縦天下大法之政徳行候共、堅申合候間、至子々孫々不可違乱者也、仍為後日沽券證文如件
寬永十六己卯年五月吉日 福井勘右衛門書判
互すあい(仲介人) 加兵衛
       仁右衛門
白米弥兵衛尉殿
超意訳変換しておくと
寛永16年(1639)5月、福井勘右衛門が、数代持ち来った讃岐国の道者一覧を「本文書」を添えて黄金9枚で白米弥兵衛尉へ売り渡した。このときの売買の対象となったのは「讃岐国我等持分一円」で、その「村数家数」を記した「賦日記」が白米弥兵衛尉に渡さた。

「賦日記」とは、伊勢御師が諸国の道者(旦那)に伊勢の大麻やそのほかを配り、初穂銭等を受け取るときの記録です。いわば「道者台帳」になります。今回は、伊勢御師白米家から発見された「讃岐国檀那一覧」の三豊分を見ていきます。テキストは、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。
 この文書に、天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐・相模両国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部です。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡・鵜足郡の道「かすみ(テリトリー)」が次のように記されています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺冒頭部
伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)NO1
 
最初に「讃岐国山本郷一円」とでてきます。山本郷にお札配布の拠点があったのかもしれませんが、よく分かりません。範囲は、山本郷周辺だけでなく、ほぼ三豊全域に及んでいます。記されている里名を見ていくことにします。①山本郷一円の最初に記されるのは、上河内(山本町河内)、常本・中村・辻・原などです。

伊勢御師の讃岐檀那リスト3
讃岐国山本郷一円の伊勢道者(檀那)とその分布エリア

続いて、中田井・池の尻、小松尾・西光寺、仁尾、などが続きます。財田や三野など、空白地帯もあります。ここには讃岐国豊田郡山本郷とその周辺、一部は山本郷を出身地とする人々で旦那となっている人々の名前が記されています。彼らは御師と、毎年音信する国人たちであったこと、国人らが、周辺の里や村のとりまとめ役をしていたと研究者は考えています。研究者は注目するのは、その中に混じって「寺家 こまつを(小松尾)」が出てくることです。これは、四国霊場の小松尾山不動光院大興寺のことです。後にその子坊が出てきます。これは後に触れることにして、先を急ぎます

2 「いんた(隠田 → 一ノ谷)」は、「香西氏の紀伊・続木殿の知行」
3 あわい(粟井)の里は、四良兵衛殿子孫の知行。その在所は曽根越州殿
  ここから多度郡に飛びます。
4 あまぎり(天霧)城のふもとの中村は、九郎右衛門殿の子孫の知行で、在所は余所。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
      伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる奈良氏・高井氏・細川氏

奈良氏の部分を意訳変換しておくと

 讃岐のなら(奈良)殿は、檀那であるが近年は音信がない。奈良氏の先祖(本家)は、昔からの檀那で、田宅の奈良殿とは今も音信がとれて檀那であるが、京の奈良殿(摂津守護代系統の一族)とは音信不通になっている。

   この「なら殿(奈良殿)」の第一候補が、坂出の聖通寺山城の奈良氏です。奈良氏は武蔵国の鎌倉御家人で、南北朝期に細川氏の被官となり、讃岐にやって来ます。管領細川氏の摂津守護代を務めるなど有力家臣でした。讃岐では鵜足郡宇多津に所領を得て、応仁の乱の時期には、元安が細川勝元の元で、香川元明・香西元資・安富盛長とともに細川京兆家の四天王と称されます。「南海通記』では宇多津聖通寺山に居城を築き、那珂・鶏足二郡を領し、長尾・新目・本目・山脇氏などを配下に置いたと記されています。そうだとすれば、ここに出てくる奈良殿は元安の子元信かその子元政に当たると研究者は考えています。奈良氏は、守護代香川氏の勢力が戦国大名への道を歩むようになると、次第にその勢力を弱めていきます。この日記が書かれた1551年段階では、畿内の奈良氏とは音信不通になっていたようです。どちらにしても、奈良氏は長く伊勢御師の檀那であったことが分かります。

 続いて登場するのが高井入道殿です
讃岐国人で豊後入道と称する出家武人であったようです。「西讃府志」には、山本町辻に高井下総守信昌が高井城主としていたことが記されています。下総守信昌は天正年中長宗我部元親の讃岐攻めにより戦死し、高井城は落城します。墓は大辻にあったと記しますが、この下総守の一族のようです。下総守の父親の可能性もあると研究者は考えています。
以下続きますが、この檀那一覧表は別の機会に追いかけるとして、ここからは、この檀那名簿が

その下に「にほ(仁尾)の 進上細河(川)土佐守殿」とあります。
「全讃史』の仁保城の項目に次のように記されています。
「仁尾浦にあり。今の覚院の地これなり。細河(川)土佐守頼弘、これに居りき」

この仁尾城主の細川頼弘が第一候補ですが、彼はその後は文献には現れません。頼弘は天正六年(1578)長宗我部元親の讃岐侵攻の際、仁尾城に立て籠もって抗戦、ついに落城したとされます。時は3月3日、これ以後落城の日を忘れないように、仁尾では桃の節句をしない風習がありました。ここで見る土佐守が天正年間の頼弘であるかどうかは、はっきりとしません。現在、仁尾の金光寺に細川土佐守頼弘と称す人物の墓がありますが、「西讃府志」には次のように記します。

「金光寺に細川土佐守の墓あり、此のいかなる人か詳ならず、・・・武家平林に源頼義の一族に讃岐守賴弘言う人見ゆなれど永禄十年丁卯十月三日薨ずとあれば此の人にはあらず」

西讃府志は、死亡日時からこの墓が土佐守頼弘とするのはおかしいと判断しています。しかし、仁尾に細川土佐守がいたことは確かなようです。長宗我部元親侵攻時の仁尾城の主人は細川土佐守の可能性が高くなります。

伊勢御師の讃岐檀那リスト 大平氏
        伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる大平氏

最初に「大平三河守殿国人」の名前があります。
この人物は「西讃府志』の大平氏系図の国祐の三代前に国匡(参(三)河守)と記されています。

大水上神社 近藤氏系図
麻の近藤氏の系譜(近藤氏と大平氏は一族)

その後国敏・国雅・国祐と続きます。国祐は和田村の獅子ヶ鼻城(和田城)の城主で、香川氏の家臣として活躍しています。「大平氏系図」によれば、大平氏は藤原秀郷の五男千常の子孫と言われ、千常の子は近藤氏を名乗るようになります。七代目の国平は正治元年(1199)讃岐守護に任じられ、国平の子国から大平姓を名乗り、頼朝より土佐にて所領を給付されたとします。その後、国有の時に三野郡大野村を拝領し讃岐に土着したようです。その四代後がこの国匡になります。
 一方、別の史料では、永禄5年(1562)に国祐は、長宗我部元親に攻められ香川氏を頼って讃岐へ来て、多度郡中村に居住し、のち和田村を領したとも伝えます。しかしこの内容よりも前記のほうが妥当性があると研究者は考えています。ここでは「西讃府志」に見える国匡としておきます。しかし、一族の麻や神田の近藤氏は出てきません。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 詫間氏
     伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる詫間氏
たくま将監殿とあります
 監天文九年(1540)の「浪打八幡宮遷宮奉加」に「詫間将監三貫文」と出てきます。他に詫間姓の者が多数出てきますが、五百文から二貫文の奉納です。それに対して、詫間新次郎の五貫文に次いで多く奉納している人物です。詫間一族の中でも有力者であったことがうかがえます。
 詫間氏は、藤原氏三井家を祖とし、14世紀に讃岐へ配流されます。三井信行は詫間城主の海崎大隅守元高から三野郡に所領を賜って、海崎氏が西長尾城(まんのう町)に本拠を移すと、詫間城番となり、詫間氏を称するようになります。以後、詫間地域を領有していました。「西讃府志」では詫間城主は詫間弾正とあります。その後、山地氏が入り、荒神城へ移り城主となりますが、天正6年(1578)長宗我部元親の攻撃を受け、敗北して滅亡したとされます。「奉加帳」に弾正の名はないので、弾正の父がそれに準ずる人物と研究者は考えています。
伊勢御師の讃岐檀那リスト 山本郷周辺4
       伊勢御師の讃岐国檀那帳(白米家文書)に出てくる西光寺と大興寺

  上段には、中田井→宗安→池の尻に続いて、西光寺が出てきます。「西光寺」は、今は辻地区の字名となっていますが、もともとは三豊中学校運動場北の畑が「西光寺屋敷」と呼ばれていたと『新修山本町誌』は記します。財田川の左岸に建立された寺院だったようです。

下段後半には、國(柞)田、鋳物師原、原野、しうらく(十楽寺)と続いて、小松尾の坊名が並びます。「新坊」「せしやう(殺生?)坊」「同中ノ坊」「同さいりん(西林)坊」「同とうりん(東輪)坊」です。これらは先ほど見た大興寺(小松尾寺)の坊だったようです。
 大興寺蔵「寺格昇格進之序』には次のように記します。

「下坊三六坊ありし霊剰にして猶寺名伝え有り、東林坊・蓮花坊・三味坊・大円坊等之れなり」

この外、新坊、中之坊があり、これらは大興寺山内に近接してあったようです。太興寺の坊の数は、九坊が確認できることになります。 さらに「寺格昇格進之序」や大興寺蔵「小松尾山不動光院大興寺遺跡略記」(寛文11年以降成立)などには、大興寺には真言系24坊、天台系12計の計36坊があったと記されています。大興寺周辺に地名伝承として残るものと大野の須賀神社に伝来した「大埜村両社記』(貞享五(1688年成立)は、次のような宗教施設があったと記します。
大興寺付近に、 東連坊・普門院、辻東側の十輪寺
大野には 八幡下の円坊、天皇下の円結び知坊・廻向坊・安楽坊・地蔵坊と西之村の智蔵坊
これらが「三十六坊」とされていた宗教施設と研究者は考えています。

6大興寺周辺の字切地図 
四国霊場大興寺周辺の坊跡

 さらに、「いん田」が「隠田」で、それが訛って「一の谷」になったとすれば、大興寺に接続したエリアになります。そうすると、そこにあった行識坊も三十六坊のひとつに数えられます。以前に見た「太興寺調査報告書」にも触れていましたが、この周辺には坊が集中していたようです。ここからも、大興寺が修験者などの山林修行者の拠点であったことが裏付けられます。
 髙松周辺の御師のお札配布活動でも、無量寿寺の各坊の僧侶達が檀那として名前が挙がっていました。彼ら伊勢信仰のお札配布の拠点になっていました。三豊でも大興寺(小松尾寺)の各坊の修験者(聖)の中には、伊勢講の先達となっていた者達がいたのかもしれません。

   末尾に「此衆へ毎年御状を以て音信申し候」とあります。
毎年、ここに出てくる三豊の檀那と伊勢御師が連絡を取り合って、伊勢お札の配布を行っていたことが分かります。また冒頭に「四国の日記讃岐の分」とあります。ここからもこれらの文書が「賦日記」であることが裏付けられます。ません。なお、證文に見える「すあい」とは口入と同じ、仲介者のことだそうです。

以上をまとめておくと
①16世紀半ばに伊勢御師が三豊郡の有力者を檀那に得て、伊勢のお札を配布していたこと
②そのテリトリーは、財田や三野・詫間などには及ばないこと
③四国霊場の大興寺は多くの坊を抱え、院主たちが伊勢お札の配布に関わっていたこと。
④奈良氏や高井氏・大平氏など有力国人層含まれているが、近藤氏・三野氏・秋山氏などは出てこないこと
   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
     「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」

前々回に髙松平野周辺での伊勢御師の「布教活動」を冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」で見ました。この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それが約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の檀那(道者)の家に出向いて、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。前々回は、その檀那廻りの霞(テリトリー)やルートを見ましたが、今回は別の視点で追ってみようと思います。テキストは、「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

 伊勢の御師の来る季節 : 江戸・東京ときどきロンドン
檀那宅を訪ねる伊勢御師(江戸時代 戦国時代は山伏姿だった)

 旦那の中に、姓を持つ者や寺社がかなりあります。

ここからは、伊勢御師の布教活動が村落内の有力者から進められ、周辺の人間へと進められたことがうかがえます。伊勢御師の布教活動が、まずは戦国大名などを檀家にして、そこを梃子にして家臣団に広げ、さらにその領地の有力者に信者を獲得するというやり方がとられているようです。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂

表1に、御祓大麻(大麻祓おおはらいたいま)の欄があります。
伊勢御師 伊勢お札
伊勢神社の御祓大麻
御祓大麻は伊勢神宮が特別な檀那に配布した大きな御札です。その大麻の中で最大級なのが「一万度御祓大麻」です。 御祓大麻の欄に●印がついているのは30名で、全体の1割程度にしか過ぎません。彼らが特別に重要な人物であったことが分かります。 御祓大麻を配布されているのは、野原中黒里の談議所(無量寿院)を、別にすると姓を持つ者がほとんどで地域の小領主層のようです。このことからも、伊勢御師の布教活動が地域有力者から始まったという見方が裏付けられます。
伊勢御師 伊勢参宮名所図会
伊勢御師の邸宅 全国からの檀那を迎え入れた宿でもあった。

今までの伊勢御師・岡田太夫の活動をまとめておきます。
①岡田太夫の霞は、海岸線沿いの港湾集落に重要エリアが集中している
②岡田太夫の布教活動は、地域の小領主層を檀那化することから始められ、その周辺部の人々に及んでいた。
伊勢御師 と檀那

船で野原中黒里にやってきた岡田太夫は、檀那である「正藤助五郎殿」の家に宿泊しています。そして、ここを拠点に以下の野原郷の檀那62軒の家をめぐっているようです。

「野原中黒(12人) → 野原浜(14人)→ 西浜(1人) → 野原天満(6人) → 野原中ノ村(12人)」

その中には、石清尾八幡官の神官や野原庄の庄官、さらに香西氏配下の小領主たちもいます。これを一日で全て廻ることはできません。野原郷内の移動経路は中黒をスタートして、時計と反対回りに訪問し、夕方が来たら中黒の「正藤助五郎殿」の館に帰って来るという「拠点方式」で行われたと研究者は推測します。それを2~3日でおえたのでしょう。
伊勢御師 檀那廻りルート

 記録で次の宿となっているのは鮎滝の手前の井原里です。
ここでの宿は、冠櫻神社(香南町)の祭礼で番頭を務めた友則宅に入っています。記録には日時が記入されていないので、いつのことか分かりません。また、野原郷での檀那訪問が何日かかったのかも分かりません。
 中黒から井原里までは、14km(三里半)程度なので、歩き慣れた伊勢御師(修験者)であれば2時間半程度で到達できる距離かもしれません。しかし、それでは檀那廻りの「営業」にはなりません。途中の村落に立ち寄って、101名の旦那に土産を配り、それぞれ異なる量(額)と形態の初穂料を徴収しなければなりません。さらに三ケ所では、地元代行者に扇150本と10本を渡す、という営業マン顔負けの業務をこなすことが求められています。そして、用件だけを終わらせて、「はい それではさようなら」では済みません。一年ぶりの再開ですから心をつなぎ止めるための挨拶や情報交換なども欠かせません。一日に20軒としても5日はかかると思われます。
 岡田大夫自身は、馬に乗って行程をこなした可能性もあります。
しかし、多量の伊勢土産を持参し、またそれと引き換えた初穂を運ぶためには駄馬(荷駄)がいります。その馬子は、当然徒歩です。それほどのスピード・アップは望めたとは思えません。こんな調子で伊勢御師のお札配布と初穂料集金の旅は行われたとすれば、かなりの日数がかかったことになります。これに対して研究者は、全ての檀家をめぐっていたのではない可能性を次のように指摘します。
  ・旦那を一軒ずつ訪ね歩いたのか
  ・ある程度まとまった集団と、どこかで落ち合ったのか。
井原里を例で考えると、横井甚助・甚大夫(高松市香南町大字横井)や見藤太郎左衛門(同町大字由佐字見藤)の屋敷をそれぞれ訪れたのか、それとも「公共の場」である冠尾八幡宮(現・冠櫻神社)で、落ち合ったのか、ということです。
冠纓神社 御朱印 - 高松市/香川県 | Omairi(おまいり)
冠櫻神社(旧冠尾八幡宮)

井原里の檀那のうちの、有姓者(横井・見藤・友則)は、15~16世紀の放生会の番頭として名前が記された一族で、冠尾八幡との繋がりが深い上層住民だったことが分かります。また、「惣官殿」も、冠尾八幡宮との関係か想定されます。井原里にやってきた岡田太夫は冠尾八幡宮に入り、そこに集まってきた檀那衆に伊勢札を配り、初穂を集め、旦那の新規獲得のために八幡宮に扇70本を残して、その日のうちに、宿とした友則宅に入ったことも考えられます。そうだとすると、村の神社は地域の対外的な窓口としての機能を果たしていたことにもなります。
岡田大夫が余分に扇を託した相手は、14件全てが「地下」か「地下中」、「寺中」と記されています。
大熊里では松工、国分里では法橋の項に、次のように記されています。
「あふき(扇)計 此方より数あふき十本余候 御はつあつめ申候余候」

ここからは村落内の有力旦那が代行して扇を配り、初穂を集めることを行っていることが分かります。彼らは布教活動の協力者とも云える存在です。その協力者によっても、新しい檀那が獲得されていたことがうかがえます。

記録には、岡田太夫が次のような檀那の家を宿所にしたと記されています。
①六万寺(牟礼里)のような地域の有力寺院、
②正藤助五郎(野原中黒里)、岡野七郎衛門(上林里)、川渕二郎太郎(庵治里)、おく久兵衛門(原里)のような有姓の武士身分と見られる者の家
③地域の神社祭礼で番頭を務めた友則(井原里)
④門前の職人である研屋与三左衛門(志度里)
⑤海運や漁掛に関わると推測される九郎左衛門(乃生嶋里)
③④⑤は、地域の上層住民と見られる者です。ここからは伊勢御師が宿としたのは、檀家の中の有力寺院か、武士身分、上層住民の3つに分類できそうです。このうちでは7人が沿岸部の港町に住んでいます。残りの5人も阿波への峠越えの沿線(井原里・岩部里)、古・高松湾に注ぐ河川の河口近く(上林里・下林里・六条里)などに家があったようです。ここから研究者は、次のように推察します。

「宿所は、陸上・海上交通の要衝に位置する地域に宿が選択されている」

 各地の檀那から集められた初穂(銭・米・豆・綿など)は膨大な量に上ります。これを運びながら次の宿所まで移動することは避けたいところです。できれば旅の最終日に、旅先のホテルから宅急便でボストンバックを家に送るように。初穂料を送りたいものです。宿所提供者の家が何らかの形で運輸業(廻船・馬借など)に携わる稼業であったのではないかと研究者は推測します。
第26回日本史講座まとめ①(商工業の発達) : 山武の世界史

記録の中には「あんない(案内)」が次の5名登場します。
野原中ノ村の彦衛門、
坂田土居里の二郎左衛門、
漆谷里の新兵衛、
牟礼里の六万寺式部、
志度ノ里寺中の華厳坊、
彼らは大麻配布の対象者ではありませんが、六万寺式部や華厳坊のように村落・寺中内のトップクラスの有力者が含まれています。
六萬寺<香川県高松市> | 源平史蹟の手引き
六萬寺(牟礼町)
「案内」については、研究者は次の二つが考えられます。
①現地の行程の案内者、
②伊勢参宮の案内者すなわち先達、
野原西浜の官内殿の項に、次のように記されています。
「ミの年にて候、年々米二十つゝ賜にて候」

ここからは、岡田大夫は少なくとも巳の年、すなわち丁巳=弘治三年(1557)以来、毎年讃岐の縄張りを廻っていることが推測されます。そのため、讃岐の行程についてはよく分かっていたと考えられ、ことさらに現地での道案内を必要としたとは思えません。とすれば、案内者とされる旦那は、伊勢への先達(②)の可能性が高いと研究者は考え、次のように指摘します。
「伊勢参宮には先達が原則として存在しない」とされている。しかし、慶長四年(1599)請取の熊野の「廓之坊諸国旦那帳」(熊野那智大社文書)には、先達の名が見え、伊勢よりも早く盛行を見た熊野参詣では、先達の引率で参詣を行う形が16世紀後半まで残っていたことが読み取れる。実質的な先達としての役割を果たした現地の旦那を伊勢参詣においても想定することは、十分あり得ることである。
 つまり「案内」は、伊勢詣での先達を勤める者達だったというのです。そうだとすれば、漆谷里の新兵衛には「案内者として地下中へ扇十五本入中候」と記されています。ここからは新たな檀那獲得のための布教活動が地元の「先達」によっても行われていたことが分かります。

伊勢御師 伊勢参りの先達
伊勢詣と先達(江戸時代)

以上から、檀那の中に次のような稼業にかかわる人たちもいたようです。
①新規の檀那獲得の地元代行者
②伊勢詣での先達
③初穂の輸送も担う宿の提供者
以上のような実務的な協力者が檀那の中にはいたようです。
まとめておくと次のようになります
①讃岐にやって来た伊勢御師は、有力な檀家たちの支援協力を受けて初穂料集金を行っていた
②宿としたのは運送業(廻船・馬借)にかかわる檀那たちで、お土産品や初穂料輸送などを支援した。
③伊勢御師は一軒一軒を訪問するのではなく、有力檀家たちの協力を受けて配布や集金を依頼することも行っていた。
④檀那の中には「あんない」と記されたものがいるが、これは伊勢詣での先達を務める者達で、伊勢御師の支援協力者でもあった。
⑤有力檀家の伊勢参りの際には、伊勢御師が手配や供応をおこない、両者の間には密接な人間関係が築かれていた。そのため初穂料集金に対しても檀那たちは協力的であった。

伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師
伊勢詣での檀那たちを向かえる伊勢御師

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   佐藤竜馬  伊勢御師が見た讃岐
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 伊勢御師1
檀那宅を土産を持って訪れる伊勢御師 (江戸時代)
 戦国時代の16世紀になると多くの伊勢御師が全国各地を訪れ、人々を伊勢参詣ヘと誘うようになります。讃岐にも伊勢御師がやってきて、勧誘活動を行っていたようです。

伊勢神宮~人はなぜ伊勢を目指す?~(前編)@ブラタモリ - メランコリア

それが分かるのが、冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」です。
この史料は、永禄8年(1565)に伊勢外宮門前町の山田・岩淵の御師である岡田大夫によって作成され、それから約300年後の安政三年(1856)に書写されたものです。この内容は、伊勢御師・岡田大夫が讃岐の中・東部(県高松市・さぬき市・坂出市・三木町)の旦那(道者)の家々を巡って、伊勢神宮ゆかりの伊勢土産や祈疇札を配り、その代価として初穂料を徴収した記録です。これを今回は見ていくことにします。テキストは「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」です。

高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
「さぬきの道者一円日記」
「さぬきの道者一円日記」は、次のような体裁になっています。
①一 さぬき 野原  なかくろ(中黒)里  一円
     数あふき  百五十本入申候
②正藤助五郎殿  やと(宿)③おひ(帯)あふき(扇)米二斗
是 藤 殿      おひ あふき のし(熨)斗本   代三百文
     小刀                同百文
六郎兵衛殿    おひ あふき        米二斗
助左衛門殿       同                    米二斗
ここには次のような項目が記されています。
①地域名         ここでは野原中黒里
②人物(寺社)名     旦那名
③御祓大麻配布の有無と伊勢土産の種類
④代価(初穂料)、
の順で整然と記されていて、日記というよりも帳簿に近い印象を受けます。土産の品目は、帯上崩・小刀などの衣類や器物、焚斗(焚斗飽)・鶏冠(鶏冠莱)などの海産物が中心です。土産は「御師が旦那に配布する、という行為自体が重要であり、それが初穂徴収という枠組みを保証している」と研究者は考えています。

伊勢御師 さぬき檀那と初穂
「さぬきの道者一円日記」 野原周辺の檀那リスト

 上表からは野原中黒里に12名(坊)の旦那がいて、そこに伊勢土産の帯や扇を持って廻ったことが分かります。野原中黒里から記述が始まるので、岡田大夫が最初に上陸したのは、野原中黒里と研究者は考えています。
伊勢御師 野原目黒
華下天満宮(高松市片原町) 中黒里

 中黒里は、華下天満宮(高松市片原町)の古名「中黒天満官」にその名残りがあります。
中世の中黒里は、中世復元図によると旧香東川の河口の中洲で、「八輪島=八幡島(ヤワタジマ)」と呼ばれる聖地でもあったようです。その北側に中世の野原湊はあり、活発な海上交易活動が展開されていたことが発掘調査から分かっています。

野原・高松・屋島復元地形図jpg

旧香東川河口の中洲にあった野原中黒里

そういう意味では、中黒里は髙松平野で最も活発な活動を行っていた港の背後にあった集落になります。畿内と行き来する廻船も数多く出入りし、梶取りや海上交易業者なども数多く生活する「港湾都市」的な性格をもっていたようです。
野原の港 イラスト
中世野原湊の景観復元図

伊勢御師の岡田太夫は、畿内から船でやって来て、野原湊に上陸し、ここを起点に讃岐の旦那衆を巡ったのでしょう。「正藤助五郎殿  やと(宿) おひ(帯)あふき(扇)米二斗」とあるので、正藤助五郎の家を宿としたことが分かります。

伊勢御師 野原復元図2
中世野原周辺の復元図 無量寿院(談義所)があった

 中黒里の旦那の中には「談義所」と記されています。これは讃岐七談義所として有力寺院であった無量寿院のことです。周辺にもいくつもの坊があり、そこに住む僧侶(修験者?)たちは、伊勢信者でもあったようです。当時は神仏混淆で、僧侶というよりも修験者たちで神仏両刀使いだったのです。
   野原・高松復元図カラー
中世野原の景観復元図
岡田太夫は、次のようなルートで旦那の家を廻っています。
①野原郷内を巡り、坂出上居里・円座里・岡本里・井原里と高松平野を南下
②阿讃山脈に近い鮎滝・安原山・岩部里・塩江・杵野・内場といった山間部を巡回
③そこで反転して下谷・川内原・植田里などの丘陵地帯を抜け、
④高松平野中央部の下林里・山良里・由良池の内・下林里・大田里・松縄里を北上
⑤現在よりも内陸側へ大きく湾入していた古・高松湾沿いの今里・木太西村里に出る。
⑥内湾する海岸沿いに東行し、高松里周辺を巡回
⑦その後、狭い海峡を渡り屋島の方本里・西方本を訪れ
⑧再び高松里に戻り牟礼里・庵治里・馬治・鎌野里。原里と庵治半島を時計回りに巡り、志度ノ里に至る。
⑨さらに門前の志度ノ里寺中から南下して西沢里・造円里・宮西里・井戸里に至り
⑩そこから西行して池戸里・亀田里・十河里。前田里・山崎里。六条里・大熊里に出た後、港町香西里に至る。
⑪香西里から南下し、新居里・国分里・福家里を巡った後、備讃海峡に突き出した乃生嶋里に出て、讃岐を離れる。

伊勢御師 檀那廻りルート
伊勢御師岡田太夫の巡回ルート

 全行程は約190km(約47里半)、巡った郡は5郡、村落の数は61、旦那の数は304名(寺社含)になります。こうしてみると伊勢御師の活動は、一つの村だけではなく、広い範囲をカバーしたものだったことが分かります。当時の社会で荘郷や領主を超えて、これだけの村をめぐり歩いてたのは、彼らのような御師(修験者)をおいて他にはなかったと研究者は指摘します。熊野・伊勢御師の活動は、もともとは信者獲得のために必要な知識として貯えられたものです。しかし、それを村の側から見れば、修験者は、村内の家格や身分秩序について把握し、またそうした情報を行く先々で広く伝達して廻る者としての役割を呆たしていたとも云えます。
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  網野善彦氏は『無縁・公界・楽』の中で、修験者や聖の勧進行為が鎌倉末期から、幕府や朝廷の権威を背景に棟別銭の徴収という形をとるようになったことを指摘しています。例えば応永19年(1412)、幕府が備前や越中などに懸けた東寺修造料棟別銭が、備前では児島熊野山の五流山伏、越中では二上山の山伏が徴収担当者に指名されています。
なぜ修験者が棟別銭を徴収することができたのでしょうか。
「菅浦文書」は、中世村落に対する棟別銭賦課の事例として有名です。その中の棟別掟では、村内の家が「本家」「かせや」「つのや」に分けて格付けされています。ここからは、棟別銭を徴収するためには、家数の把握や、家の格付け、財産についての知識(戸籍や土地台帳)が必要だったことが分かります。熊野修験者などは、先ほど見たように讃岐でも御師として檀那の間を廻り、護符を配ったり、初穂料や祈疇料を得たりしていました。こうした活動を通して修験者は、家の大小、貧富、身分といった情報を集めていたと研究者は考えているようです。
伊勢御師 檀那を迎える伊勢御師2
伊勢詣でにやってきた檀那を迎える御師(江戸時代)
  熊野・伊勢の修験者の場合を見ておきましょう。
修験者(山伏)が御師として、全国に散らばる先達として、信者との間に師檀契約を結んでいたことは以前にお話ししました。御師や先達は、檀那が本山に参詣する際には宿泊をはじめとする便宜を図ってやりました。また檀那の間を廻って巻数・護符・祓などを配り、代償として初穂料や祈疇料を得ています。伊勢御師の檀那衆は、室町時代になると在地領主層だけでなく、農村の中にも広く存在していたことは、先ほど見たとおりです。
伊勢御師 伊勢講
伊勢御師講社
大量の檀那売券には「一族・地下」「地下・一族」という語句が現れてくるようになります。有力百姓の間にも伊勢信仰は広がっていたのです。伊勢御師の修験者たちは、これらの檀那衆を毎年廻って初穂料を集めていたのです。これは村全体から徴収するものではありませんが、恒常的に棟別銭を徴収する体制を熊野・伊勢の御師たちは持っていたことになります。それは、熊野・伊勢のシステムを真似て初穂料を徴収していた地方の神社の修験者たちにについても云えることです。修験者(山伏)たちは、「廻檀」という旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通していたと研究者は考えています。

広峯神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~>
播磨広峯神社(姫路市)

地方の修験集団の例として、牛頭天王を祀る播磨広峯神社(姫路市)を見ておきましょう。
その社家の一つ肥塚氏は、鎌倉末期より御師として播磨・丹後・但馬・因幡・美作・備中などの諸国で檀那を獲得していました。肥塚氏が残した檀那村付帳には、諸国の諸荘郷やその中の村々の名称だけでなく、住人の名前、居住地、さらに詳しい場合には彼らが殿原衆であるか中間衆であるかといつた情報まで記されています。例えば天文14年(1545)の美作・備中の檀那村付帳の美作西部の古呂々尾郷・井原郷の部分を見てみると、現在の小字集落にはぼ相当する.村が丹念に調べられて記録に残されています。広峯の御師たちは、村や村内の身分秩序をしっかりと掴んでいたのです。

七五三初穂料読み方 ふたり一緒の時・中袋書き方や中袋がない時・新札? - Clear life クリアライフ
熊野・伊勢御師や修験者たちは、檀那からの初穂料徴収を行っていました。そのためには、旦那廻りのための情報を蓄積する必要があり、村々に家がどのくらいあるのかなども情報として得ていました。修験者たちが持っている情報を活かして、棟別銭を賦課しようとする支配者が現れても不思議ではありません。
五流 絵図
児島五流修験

応永十九年(1413)9月11日、幕府は東寺修造料として、出雲に段銭、丹後・越中・備前・備後・尾張に棟別十文の棟別銭(家毎への課税)を命じています。備前での棟別銭徴収を請け負ったのが「児島山臥方」です。「児島山臥(伏)方」は、児島五流修験のことです。山伏集団が一国の棟別銭集金機構として機能しているのです。それについては、また別の機会に

以上をまとめておくと
①16世紀半ばの戦国時代に、伊勢御師が野原(髙松)にやってきて、周辺の伊勢信者の檀那衆へ伊勢土産を配り、初穂料を集めて廻っていこと。
②その際に残された記録からは、御師のたどったルートや村々・お土産の種類・初穂料の種類などが分かる。
③そのエリアは現在の高松市周辺にも及び、小領主層や海運関係者・商人・有力農民などが信者となっていたこと。彼らを結ぶのが御師であったこと
④御師は旦那廻りを通じて、村々の中に入り込み、村内部の情況に精通すると同時に、村々をつなぐ存在でもあった。
⑤村々の鎮守やお堂にいた在地の修験者たちも、このネットワークを支える存在であった。
⑥こうして修験者のネットワークを通じて村々の寺社もは結びつけられていったこと。
⑦備前では児島五流の修験者ネットワークを利用して棟別銭が徴収されたこと。
⑧修験者ネットワークをうまく利用し、政治に利用しようとする戦国大名がでてくること
⑨それが土佐の長宗我部元親であり、金毘羅神保護も修験者による流行神創出を支援するという意図があったこと

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  「佐藤竜馬   伊勢御師が見た讃岐」
榎原雅治 山伏が棟別銭を集めた話 日本中世社会の構造
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高松屏風図3
 高松城下図屏風には「鍛冶屋町」「紺屋町」「磨屋町」「大工町」と職種のついた町名がいくつもあります。これを見て、同じ職業の人たちを集められ住まわせる「定住政策」がとられたのだろうと思っていました。角川の地名辞典にも「それぞれの職種の「職人町」の名称に由来する」と説明されてます。
高松城下図屏風 鍛冶屋町・紺屋町
しかし、「町名=職人町起源説」に異論を唱える研究者もいます。
その理由として「高松城下図屏風」の紺屋町や鍛冶屋町を見ても、雰囲気が伝わってこないというのです。兵庫町から南へ3本目の筋に当たる「紺屋町町」を見てみましょう。ここは、以前見たように通りの南側が寺町になります。境内の周りが緑の垣根で囲まれているのが寺院群です。 一番西側(右)が法泉寺です。そして、その南に鍛冶屋町が東に伸びます。
 この二つの通りを眺めると、特徴の無い板葺屋根の家が続きます。どの家も奥に庭(家庭菜園)を持っているのが分かります。しかし、紺屋や鍛冶屋らしきの姿は見えません。家の中で作業しているので、描けなかっただけなのでしょうか。鍛冶屋なら煙突が見えてもいいはずですが・・
「紺屋町」にも、染物を干しているような姿はありません。他の町を見てみましょう。
 「古馬場」あたりには、染めた布を干している様子が見えます
高松城下図屏風 古馬場2
上の絵は高松城下図屏風の現在の古馬場あたりです。寺町の南に馬場があり、武士が「乗馬訓練」を行っています。その南には松平頼重時代になって作られた掘割が見えます。その堀の南側には、干し場があり、色々な色に染められた反物が干されているように見えます。
 ちなみにその向こうは侍町(現古馬場)ですが、家並みを見ると藩士が住んでいる家には見えません。この絵の侍町は、西側は白壁で瓦屋根の立派な屋敷が続きますが東側は、板葺きやかやぶき屋根の家並みです。東西に「格差」が見られます。
 ひとつの仮説として、もともと紺屋町にいた染め職人たちが幌割完成後に作業に必要な水路を求めてここに移動してきたという説は考えられそうです。後で検討してみましょう。今は次へ進みます。
外堀の東側の部分の瓦町の拡大図です。
高松城下図屏風 大工町2
外堀は埋め立てられ現在の瓦町商店街になっています。外堀の内側には松が植えられています。そして、外堀の外側には、ここにも反物が干されています。拡大してみると・・
高松屏風図2
私は最初は洗濯しているように思いました。しかし、今までの「状況証拠」からすると、これは反物を洗っていると考えるのが正しいようです。この付近には紺屋があったのでしょう。紺屋の「立地条件」に洗い場は必要不可欠です。洗い場として外堀や掘割が利用されていたようです。ただ、反物を洗うのは真水でなければならいないのではという疑問は残ります。だとすれば、外堀の塩分含有率は低かったのでしょうか?
さて、最初に返ります。先述したように、次のような仮説が考えられます。
仮説① 高松城ができた頃に、紺屋町・鍛冶屋町に住まわされた「紺屋」や「鍛冶屋」といった職人の集団は、松平頼重時代には「転居」した。そして、職種を示す町名だけが残った。

これに対して城下町が出来る以前の先住職業者の住居に由来するという説が出されています。この説を見ていきましょう。
高松城築城以前に「野原」という港町があったことは以前に紹介しました。少し復習しておきます。
野原・高松復元図カラー
15世紀半ばの『兵庫北関入船納帳』には、「野原」から兵庫北関に入ったに交易船がについて、例えば文安二年(1455)3月6日の日付で次のような記録があります。
  野原
   方本(潟元産の塩のこと)二百八十石  八百廿文
   三月十四日  藤三郎  孫太郎
これは、野原からの船が方本(高松市の潟元)の塩二百八十石を運び込み、船頭の藤三郎が北関に八百二十文を納めた記録です。ここからは「野原」から、畿内に向かって交易船が出航していたことと、野原に交易港があったことがわかります。
   近年の発掘調査で高松駅前付近からは、古代末から中世の護岸施設を伴う遺跡が発見され、野原が港町であったことが裏付けられています。また高松城西の丸の発掘調査からも井戸・溝・柱穴・土坑(大型の穴)等多数の遺構が確認されており、中世にはここに集落があったことが分かってきました。
高松城下図屏風 野原濱村无量壽院瓦
「野原濱村无量壽院」と銘のある瓦
特にその中でも注目すべきは「野原濱村无量壽院」(「无」は「無」の異体文字)と刻まれた瓦が出てきたことです。ここから、中世の高松駅付近の地名が「濱村」で、西の丸は「無量壽院」跡に建てられたことが分かります。もっと過激に書くと「生駒氏の高松城築城は中世の港町「野原濱村」を壊して築城」されていたと云うことになるようです。従来云われてきたように、何もない郷東川の河口に城が築かれたのではないようです。
高松野原復元図
永禄八年(1565)『さぬきの道者一円日記』(冠綴神社宮司友安盛敬氏所蔵)を見てみましょう。
この史料は、お伊勢さんからやってきた先達が残した史料です。野原とその周辺の人だちから伊勢神宮の初穂料として集めた米・銭の数量が記録されています。ある意味では集金台帳です。その中に、野原のなかくろ(中黒)という地名が出てきます。
 正藤助五郎殿 やと おひあふき 米二斗
檀家の名前と伊勢からの土産、そして集金した初穂料が記録されています。
 先ほど見た野原濱町(高松城西の丸)の集金記録もあります
高松城下図屏風さぬきの道者一円日記
一  野原 はまの分 一円
 こんや(紺屋)太郎三郎殿 おひあふき(帯扇) 米二斗
     同   宗太郎殿   同  米二斗
       (中略)
 かちや(鍛冶屋)与三左衛門殿 同  米二斗
     同    五郎兵衛殿 同  代百文
伊勢神宮の先達が「集金」して回るのは、地元の有力者たちです。ここからは、野原のはま(濱)には、「紺屋」や「鍛冶屋」という人たちがいたことが分かります。
 この「こんや(紺屋)太郎三郎」と紺屋町を結びつけることが出来るのではないかと研究者は考えます。つまり「紺屋町」の地名は、染物の「職人集団」がいたからつけられたのではなく、中世から野原にいた有力商人の「こんや(紺屋)太郎三郎」が住んでいたところが「紺屋町」と呼ばれるようになったと考えるのです。
 そんな例は、よくあるようです。例えば東京の皇居の西の方にある「麹町」という地名は、そこで商売をしていた「麹屋」という商人の屋号に由来しています。そのあたりに麹屋ばかりがひしめいていたのではありません。
 「こんや(紺屋)太郎三郎」のかつての本業は染物業だったのかもしれません。しかし、多角経営で成長していくのが中世の有力者達です。彼は「野原濱村」の代表的地元有力商人で、交易業も営み船持ちだったのかもしれません。必ずしも「染物屋」だけではなかったと思います。
 以上から次のような結論が導き出せます。
①「紺屋町」は「染物屋」ばかりが建ち並ぶ染物業「専科」の職人町でなかった。
②色々な商工業者の集まる普通の町だった。
③その中に「こんや(紺屋)太郎三郎」という有力者ががいたので紺屋町と呼ばれるようになった。
「鍛冶屋町」も同じように考えられます。町の名前は、必ずしも専門職人の町を意味しないことは、他の城下町の研究からも分かってきています。

DSC02531
 しかし、城下町の東の方には、「いおのたな町(魚の棚町)」があります。ここは『高松城下図屏風』の中でも、「魚の棚」の名称どおり、ズラリと魚屋が並んでいます。ここは町名と描かれている内容が一致するようです。

参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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