瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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   今では、太鼓台と聞くと蒲団型や屋根型のものだけを思い浮かべがちです。でも、太鼓台が現れた時には、櫓型・四本柱型・平天井型などの多様な太鼓台があったようです。そのような中で、大坂の難波神社の祭礼に布団太鼓台が現れ、19世紀初頭には大型化して行きました。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
         19世紀初頭 難波神社の布団太鼓
それが瀬戸内海の交易を通じて津々浦々の港町の祭礼記録に布団太鼓台が登場するのは、早くて18世紀前半、讃岐から東伊予では、18世紀後半になるようです。そこでは「神輿太鼓」と書かれていることが多く、担ぐ祭礼奉納物として神輿に御供していたようです。
 瀬戸内海で、初めて「太鼓台」と表記した一番も古い記録は天保5年(1834)のもので、これは姫路市の屋台(神輿屋根型太鼓台)の大工図面に書かれています。
 三豊の近隣地方での太鼓台関連の記録で古い物を並べて見ると、次のようになります
「神輿太鼓」寛政元年  (1789)伊予三島、
「ちょうさ太鼓」寛政元年(1789)大野原、
「神輿太鼓」文化3年   (1806)川之江、
「太鼓」文化5年     (1808)伊吹島、
「ちょうさ太鼓」文化6年 (1809)観音寺、
「輿太鼓」文化10年   (1813)琴平、
  これらは「太鼓」とは記されていますが「太鼓台」とは書かれていません
香川県下に太鼓台は、どれくらいあるの?
 いま、讃岐の太鼓台は、約350台ほどだと云われています。
地域別では西讃(観音寺・三豊)が最も多く155台、
中讃(坂出・丸亀・善通寺・宇多津・多度津・琴平・まんのう)の101台、
東讃(高松・さぬき・東かがわ)の42台、
小豆島と直島地区で52台で、
讃岐の西部が太鼓台密度が高いようです。
中・西讃及び小豆島では、大型で豪華な形態が多く、
東讃や島嶼部では、比較的簡素な太鼓台
があるというのも特徴のようです。香川県は人口や面積の上では規模は小さいが、こと太鼓台に関しては、大変盛んな土地柄のようです。
太鼓台はどのようにして讃岐にやってきたのでしょうか?
 太鼓は当初は大坂などに、直接注文したようで、その記録が伊吹島(観音寺市)に残っています。その太鼓台新調の記録を見てみましょう。燧灘に浮かぶ伊吹島は、財力のある網元や廻船の船主が多くいる豊かな島でした。そこには多くの水主や網子たちが集まり賑わいを見せていたのです。そして、これも大坂との海のルートの結びつきを通じて、大坂難波神社の太鼓台が「勧進」されたようです。
 伊吹島には上・中・下の3つの組がありますが、それぞれの組にのこる「太鼓寄(記)録帳からは、新たな太鼓台の発注についての記事が残っています。
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たとえば、 文化5年(1808)の上若(上ノ町)の「太鼓寄録帳」には文化6年(1809)に
「太鼓新に拵る者也」
とります。ここからは初めて作ったのか、以前からあったものを作り替えたのかは分かりません。この時は、伊予の大嶋(新居大島)の大工に製作させたことが記されています。
 また、約50年後の安政4年(1857)にも
「太鼓新二拵替二付諸入用」
とあります。この時には、大坂や京に本体から布団、太鼓、金具、幕まで一揃えを発注し、地元の船で取りに行っているのです。伊吹島が漁業のみならず廻船などの交易においても、大坂と海でストレートに結びついていたことをうかがわせるエピソードです。
 また、中組(中之町)は天保4年(1833)から記録が始まっています。その年に大坂で太鼓台を新調しています。そして12年後の弘化2年(1845)には、太鼓台を入れる蔵を新築しています。太鼓蔵には文政6年(1823)銘の「太鼓水引箱」があるので、この時は作り替えの記録のようです。
そして伊吹島の下組の記録です。
ここには安政3年(1856)の太鼓台の新造に関する見取図と見積書が残っています。
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見積先は大坂の呉服太物商平井小橋屋(おばしや)です。
  幕末の伊吹島の八幡神社の祭礼には3つの組から布団太鼓台が担ぎ出されて賑わいを見せていたようです。そして、ある組が大坂に新調すると他の組も競い合うように、新たな太鼓台を発注しています。そして、その発注先は大坂なのです。難波神社に奉納されていた太鼓台と同じスタイルの物が見取図が、制作元から送られています。そして、制作元は以前に発注した組のものよりもより、大きく豪華な太鼓台を提案し、依頼側の要望に応えようとしたはずです。
荘内半島の箱浦の惣社宮に、奉納されていた太鼓台です。
 
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この太鼓台は本体・装飾の刺繍幕・保管箱などの全ての制作年代が分かっている貴重なものです。
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太鼓台本体と初代蒲団は明治8年(1875)、
掛蒲団が明治14年(1881)、
水引幕が明治29年(1896)、
二代目蒲団が明治41年(1908)です。
これらを見ると、明治時代を通じて箱浦の人たちが太鼓台の懸装品を整えらていったことがわかります。
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また、この太鼓台がつくられた時代は、西讃や東予の太鼓台が巨大・豪華へ発展した時代にあたります。その過程をうかがえる貴重な存在と研究者は指摘しています。そいう意味ではこの太鼓は「明治期の基準太鼓台」と言うべき遺産のようです。
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この地区では三豊では珍しく「ちょうさ」と呼ばずに屋台とよんできました。この太鼓台が箱浦に姿を見せたのは、明治維新後で、もう150年ほど前のことになります。
 明治中期になると、三豊の太鼓台は、競うように巨大化し華美に突き進んでいきました。その流れの到達点に現在の太鼓台はあるのかも知れません。そのような中で明治初めの太鼓台がこうして残っていると云うことはありがたいことです。百年前の古い太鼓台の装飾品などが残っているというのは希有なことです。
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この太鼓台は、制作年代が判明している装飾品がたくさんあります。
特に「刺繍太鼓台」が特徴である北四国で、時代確証のある古い刺繍作品をまとう箱浦屋台は資料的価値が高いと研究者は云います。
 幕末から明治初期に架けて、備讃瀬戸の沖を行く大型廻船の望める荘内半島の先端近くで登場した箱浦の太鼓台。この太鼓台がまとう太鼓台・古刺繍は、今は見えなくなってしまった瀬戸内海をめぐる各地域の太鼓台のつながりやの関連性を無言で語りかけているのかも知れません。
 特に掛蒲団4枚「泗呑歌子・源頼光一渡辺綱・坂川金時」は印象的な図柄で、大江山の鬼退治で構成されている。箱地区ではちょうさてはなく、屋台と呼んでいた また、屋台の太鼓をたたく子どもたちは獅子舞の太鼓打ちも兼ねていて、唐子風の衣装を着ていたそうです。

箱浦の太鼓台から20年後の明治中期から後期につくられた太鼓も保存されています
 三豊市山本町の河内神社に奉納された太鼓台です。
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用具を入れた長持ちや箱には「明治26年|】久保上組」「明治35年東雲」などの銘があります。これは、愛媛県四国中央市(旧伊予三島市)の東雲の地名です。他に「明治四十四 新細工」「昭和4稔 大喜多本家寄贈」などの銘を持つ長持ちなどもあります。明治44年(1911)に、香川県一の大地主と言われた地元の大喜多本家が伊予三島の久保上組より購入し、河内上組に寄付されたと伝えられています。

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本体には豪華な彫刻が彫られていて、水引幕は志度の海女の玉取図、掛蒲団は虎図です。
太鼓台の大型化が一歩進んで展開した東伊予で、新たな太鼓台の新調の際に、古い物を売却したのでしょう。 そして、河内に迎えられて新たな地で奉納されることになった例です。

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 このように、太鼓台の新調と中古品の売買等が各区で行われるようになったのも近代の特徴です。それが太鼓台文化圏の広がりにつながったとも言えます。
       太鼓台(ちょうさ)年表
宝暦8(1758)  姫路市松原八幡神社 神輿太鼓3台の記録。太鼓台最古の記録
寛政元(1789) 「神輿太皷」として1台が奉納。旧・伊予三島市(四国中央市)
寛政元(1789) ちょうさ太鼓/旧・大野原町(観音寺市) ★大野原八幡神社(1802)の記録の中にあり。
寛政6(1794) 神輿太鼓/呉市豊浜町斎島 ★島で初めての神幸を記録した板碑の裏面に記録あり。
寛政10(1798) ふとん太鼓/大坂・難波神社  『摂津名所図会』(秋里籬島・竹原春朝斎)★太鼓台は「先進地・大坂」の蒲団型。この時代の最も豪華な部類の太鼓台
文化2(1805) 太鼓/観音寺市伊吹島下組  ★蒲団枠保管箱が蒲団枠と共に現存
文化3(1806) 神輿太鼓/旧・川之江市(四国中央市) 「祭礼行烈次第」に、神輿太鼓が5台記録
文化5(1808) 「太皷寄録帳」太鼓/伊吹島上組  ★文化6年(1809)に太鼓台を新調
文化6(1809)  ちょうさ太鼓/観音寺市 庄屋関連古文書  
文化9(1812) 小豆島町・亀山八幡宮奉納絵馬 ★薄く平らな三畳蒲団の太鼓台が5台
文化10(1813) 輿太鼓(ちょうさ)/琴平町 ★大井祭礼に奉納
文政3(1820) 櫓/旧・豊町沖友(呉市) ★水引箱箱に「三井納」(大坂・三井呉服店)の記載
文政5(1822)  太鼓/新居浜市  ★「船大工仲間永代迄の諸覚帳」新居浜太鼓台の初見
文政6(1823)  太鼓/伊吹島中組 太皷水引箱  ★水引幕を保管する道具箱
文政6(1823)  ちょうさ/観音寺市  ★雲板箱タテ・ヨコ107×40㌢、深さ3~40㎝
文政8(1825)  四つ太鼓/旧・保内町雨井  ★明石から積み下ってきた鉢巻蒲団型の太鼓台
文政8(1825) 千載楽/倉敷市下津井松島 太鼓の胴内記録 ★小型の千載楽が現存
文政8(1825) みこし太鼓/西条市  一宮神社文書 ★素人大工の拵えたみこし太鼓が登場
文政10(1827)  神輿太鼓/新居浜市  ★一宮神社文書祭礼行列の華美を諌めている。
文政10(1827)  ★シーボルト編纂『日本』全1㌻に、太鼓台(コッコデショ)のイラストあり。
文政年間(1818-30) 屋台/たつの市 阿宗神社奉納絵 ★馬播州では珍しい五畳蒲団の太鼓台
天保元頃(1830頃) 松原八幡宮絵巻 屋台/姫路市 
天保4(1833)   「太皷入用帳」 /新居浜市 ★新居大島・中之町太鼓台記録
天保4(1833) 太鼓台/伊吹島・南部 ★「太皷帳」新調時の記録
天保5(1834)  大工資料  ★「太皷台」表記の初見粕谷宗関氏著『故郷に神の華あり』(2005刊)
天保6(1835)  ちょうさ/三好市池田町馬路 ★衣裳水引・天蒲団 入箱讃岐(大野原)と阿波の太鼓台交流がうかがえる。
天保6頃(1835頃) みこし/西条市・伊曾乃神社 ★祭礼絵巻(2巻)に詳細画像…
天保9(1839)  どんでん/岡山市牛窓本町  
天保13(1842)  櫓/旧・豊町沖友(呉市) 奉納絵馬  ★平天井型の太鼓台
天保期(1830-44) ふとん太鼓/堺市・開口神社  ★豪華な祭礼行列の最後尾に、小さな蒲団型の太鼓台が2台
弘化元(1844)  ちょうさ/旧・山本町(三豊市) 「割帳」  ★西側太鼓台新調時の記録文書
嘉永5(1853)  櫓太鼓/今治市・大浜八幡 奉納絵馬 ★平天井型太鼓台
安政元(1854)~明治12(1879)頃 高価な装飾刺繍の貸し借りが、祭礼日の異なる地区間で盛んに行なわれていた。★大野原・下木屋太鼓台の古記録に、「損料」として毎年のように記載されている。(かきふとん・蒲団・金縄等)
安政3(1856)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「覚」  ★太鼓台新調の見積書と粗(あら)図面
安政4(1857)  太鼓台/伊吹島・下組 古文書「積り書覚」  ★前年に続く追加購入
安政5(1858) ちょうさ/三好市山城町大月 古刺繍 ★蒲団押さえ四隅の瑞雲形刺繍の裏に、墨書
安政5(1858)  ちょうさ/旧・大野原町田野々 道具箱 ★「関谷」と書いた道具箱が数点伝承
慶応3(1867)  櫓太鼓/今治市波止浜 龍神社祭礼絵馬  ★舁棒のない三畳蒲団の太鼓台
明治4(1871)  太鼓/まんのう町木ノ崎 掛蒲団保管箱 ★刺繍図柄は曾我物語「和田酒盛」
明治8(1875)  箱浦屋台/旧・詫間町箱(三豊市) 平桁保管箱

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参考文献 香川県立ミュージアム   祭礼百態

        讃岐のちょうさ(布団太鼓台)は、いつどこからやってきたのでしょうか。
f6b9a9a9ふとん太鼓か?/摂津名所図会
それに応えてくれるのが摂津名所図会の中にあるこの絵です。この「図会」が刊行されたのは寛政10年(1798)ですから、今から二百年余り前の太鼓台が描かれています。太鼓台が現れているのは御堂筋に面する現在の難波神社の祭礼です。大坂のど真ん中に当たります。多くの男達に担がれた太鼓が左から右へと移動して行きます。確かに布団をのせた私たちが見慣れた太鼓台です。
左下隅は階段になっています。階段の先では担手の男達が顔洗いにやってきています。つまり、これは雁木(がんぎ)のようです。先ほど云いましたように難波神社さんの近くですから、西横堀川か、長堀川か、そのあたりの浜(川岸)を移動しているようです。手前の欄干は、川に架かる橋でしょうか。ここからも太鼓台を眺める人たちがいます。しかし、天秤棒を背負って足早に橋を渡っていく姿も書き込まれています
 前を行く大きなふたつの提灯には「太鼓]の文字がみえます。その左手隣には赤い大きな笠の下に女性と子どもがいます。これはどんなシーンなのでしょうか?
 今まで太鼓を叩いていた子ども達に、お母さんやおばさんが笠を差し掛け「ようやった、ようやった」という感じで、子供を褒めたり世話しているのではないでしょうか。 
太鼓打ちの乗子の所作
 
太鼓台の中を拡大してみると、子供が4人で四方から太鼓をたたいています。向こう側の2人は鉢を振り下ろし、手前の2人は鉢を掲げています。これは早打ちではなくどーんどーんとゆっくりと刻むように太鼓を打っているように見えます。背中を向けた子供は投げ頭巾をかぶっています。この投げ頭巾は白色のようです。
 積み上げられて布団を見て見ると模様があるようにも思えます。「雨龍の刺繍」が入っていると指摘する研究者もいます。
 蒲団太鼓を舁いている人たちは、ふんどしに足袋姿で、ほぼ半裸です。よくみると刺青の入った人が何人かいるようです。 絵図史料からは、大坂の布団太鼓台についてのいろいろなことが読み取れます。
ところが、このの祭礼行事を見ていた同時代人が書き残した日記があるのです。
その人物とは大田蜀山人、あの狂歌で有名な人です。
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彼は江戸のお役人で、享和元年(1801)3月から翌年の3月までの1年間を大坂銅座御用で勤めます。53歳ぐらいの時のことだったようです。南本町5丁目の宿舎から今橋の銅座へ出勤しますが、お勤めは朝8時から午後2時まです。その後はフリーなので、大阪中を見物して歩きまわっています。そして『蘆の若葉』という日記を残します。これは当時の大坂の様子がよくわかって研究者には有り難い史料のようです。その中に船場の三神社である御霊神社、坐摩神社、難波神社の夏祭りの見物記があります。
大田蜀山人が残したの難波神社の祭礼見物記の見てみましょう。
6月21日 晴 晩雨又晴 仁徳天皇稲荷明神(難波神社)の祭なりとて、
人家の軒に菊桐の紋つけたる桃灯をかかぐ。祭わたるべき大路は、埒をゆひてみだりに人を通さず。家々の前にも手すりをまうく。博労町のほとり見にまかりしに、所謂だんじりのごときものに似て、檜皮ぶきなる上に、錦の茵五ツばかり重ねしきて、下には童部ども筒長き頭巾きて、中に大きなる太鼓をすへ、めぐりよりこれをうつ音かしがまし。きほひ、いさめる若きものども二三十人ばかり、此車をひかんとて、先にたちて、てうさや、ようさやと口々によぶ。そのあとより、れいの俄といふものあまた来たりしかど、ここの心をわかたねばかひなし。ややありて太鼓の音聞こゆるに、かの猿田彦の神馬に乗りてわたる。(後略)
意訳すると
  6月21日に 難波神社の祭り見物に出かけた。人家の軒に菊桐の紋が入った提灯が下がっている。神が渡る大路は、人は入ることはできない。家々にも手すりが置かれている。神社周辺の博労町の運河のほとりを見に行ったが、だんじりに似ているが、檜皮ぶきの上に錦の座布団が5つほど重ねられて、その下では童が筒の長い帽子をかぶって、中に大きな太鼓をすへ、周りからこれを打つ音が大きく響く。
気負い立ち、勇み立つ若者が2,30人ほどこの車を曳こうと、先に立って「ちょうさ ようさ」と口々に叫ぶ。その後から「俄」と呼ばれる者達がやってきた・・・・ 
以上から分かったり、疑問におもえることを箇条書きすると
① だんじりとはちがう、布団太鼓台が出ていたこと
②筒の長い帽子をかぶった童子がと大きな太鼓を周りから叩いていたこと
③若者達のかけ声が「てうさや ようさ」であったこと
④「車をひかんとて・・」は、太鼓台を担いでいたのではなく、曳いていたのか?
この中で③のかけ声は、私には「ちょうさや よらさ」に聞こえます。讃岐の西部では布団太鼓のことを「ちょうさ」とよびますが、これに通じるのではないかと思っています。
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さてもういちど絵図に返りましょう。
向こう側の商家では、幕を張り、提灯を吊し、屏風を立てています。そしていろいろなものが担手に振舞われています。なにが、振舞われているのでしょか
①奥の緑内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、お茶を飲みながら談笑しています。
②店の前や中から「どうぞこちらで休んでくだされ」と言わんばかりに手招きをしている人が何人もいます。
③ 店の前に出された縁側では、スイカを食べている担ぎ手がいます。
④その奥から、旦那さんとその仲間たちが豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面が、この時代から祭にはあったのかも知れません。
「川で顔を洗う人、太鼓打ちの少年の交代、スイカが準備されたお店」などから考えると、ここは太鼓台の休息場所のようです。そしてそれは、運河に面した大店の家と云うことになりそうです。
d0508b5f大坂にも車楽(だんじり)があった/摂津名所図会
最後に絵図の右上からの文字史料を見ておくことにしましょう。
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
と記されています。
 まず、太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが記されます。続いて、中国の周礼には太鼓が雷声の発するを表していると云います。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るというのです。当時の人に布団太鼓が迫力ある夏の催し物として好まれた様子が伺えます。
18世紀末の大坂で布団太鼓台が登場しているのは分かりました。
そして、それがどのように運営されていたのかもかすかに見えてきました。
次は、どのようにして瀬戸内海の港に伝播拡大していったかを探りたいと思います。
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参考文献  近江晴子 大坂三郷の氏神さんと夏祭り

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