綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 棒振と薙刀振り(まんのう町佐文 賀茂神社)

綾子踊りは、踊りが始まるまでは、次のような流れで進められて行きます。
①踊り役が入場する前に、龍王宮を祭り、左右に榊をもって露払をする
②台傘持が入り、幟持四名が続き、その後唐櫃、龍王の御霊、柱突、棒振、薙刀振、山伏姿の法螺貝吹、小踊、芸司、太鼓、鼓、笛、地唄、側踊の順に入場して、それぞれの位置につく。
③初めの位置取りは、棒と薙刀が問答を行うため、地唄、警固などが神前定位置に進み、その他は神社の随身門を入ったところに、社前に広場を作る。
④棒振と薙刀振の所作(棒振が進み出て四方を払い、中央で拝して退くと、薙刀振が出て中央で拝し、薙刀を携えて西東北南と四方を払い、再び中央を払い、また四方を払う。薙刀の使い方には、切りこむ形、受けの形、振り回す形などがある。)
⑤棒振と薙刀振とが中央で向かい合い、掛け合いの問答をする
⑥台傘持が来て、棒振と薙刀振の頭上に差掛けると、二名は退場。

綾子踊り 薙刀
綾子踊り 薙刀振り
③④⑤の棒振と薙刀振によって行われる問答は次のようなものです。
棒 暫く暫く 先以て当年の雨乞い 諸願成就 天下泰平 国土安穏 氏子繁昌 耕作一粒万倍と振り出す棒 は 東に向かって降三世夜叉 
薙 抑某(ソモソレガシ)が振る薙刀は 南に向かって輦陀利(ぐんだり)夜叉 
棒 今打ち出す棒は 西に向かって大威徳(だいいとく)夜叉 
薙 又某が振る薙刀は 北に向かって金剛夜叉
棒 中央大日大聖不動明王と打ち払い 薙 切り払い 棒 二十五の作物 薙 根は深く
棒 葉は広く 薙 穂枯れ 棒 虫枯れ 薙 日損 水損 風損なきように 
棒 善女龍王の御前にて 悪魔降伏と切り払う薙刀 柄は八尺 身は三尺 
薙 神の前にて振り出すは 棒 礼拝切り 薙 衆の前は 棒 立趾切り 薙 木の葉の下は 
棒 埋め切り 薙 茶臼の上は 棒 廻し切り 薙 小づまとる手は 棒 違い切り 
薙 磯打つ波は 棒 まくり切り 薙 向かう敵は 棒 唐竹割り 薙 逃る敵は 
棒 腰のつがいを車切り 薙 打ち破り 棒 駈け通し 薙 西から東 棒 北南 薙 雲で書くのが 棒 十文字 薙 獅子奮迅 棒 虎乱入 薙 篠鳥の 棒 手を砕き 雨の八重雲 雲出雲の 池湧きに 利鎌を以って 打ち払い 薙 切り払い 棒 今神国の祭事 薙 東西 棒 南北と振る棒は 陰陽の二柱五尺二寸 薙 ヤッと某使うにあらねども 棒 戸田は 薙 三つ打ち 棒 自現は 薙 身抜き刀軍 古流五法の大事 命

問答の最初に登場するのは、東西南北の守護神と不道明王の五大明王たちです。これらは、修験者たちの崇拝する明王です。続く問答も、山伏たちの存在が色濃くします。
小仏】東寺形五大明王セット 柘植 金泥仕様

宇和島藩の旧一本松村増田集落の「はなとり踊」を見てみましょう。
「はなとり踊り」には、山伏問答の部分「さやはらい」があります。「さやはらい」は「祭りはらい」ともいわれ、踊りの最初に増田集落では修験者がやっていたと伝えられます。山伏と民俗芸能の関係を考える際の史料になるようです。
増田はなとりおどり】アクセス・イベント情報 - じゃらんnet
    はなとりおどり(愛南町増田)
「さやはらい」の問答部分は次の通りです。
善久坊  紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。
南光坊  同じいで立ちだが、鎌はさしていない。南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。
南光坊  おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。
善久坊  おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。
南光坊  おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。
善久坊  急ぐ道なら通り給え。
南光坊  急ぐ急ぐ。
 南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。
 ここからは「さやはらい」に登場するのは山伏で、はなとり踊が山伏の宗教行事であることが分かります。はなとり踊りの休憩中に希望者の求めに応じて、さいはらいに使った竹を打って、さいはらい祈祷が行なわれます。このさいはらい竹は上を割り花御幣をはさみこんで、はなとり踊に使用した注連縄を切り、竹の先をむすんで祈祷希望者に渡します。この竹を門に立てかけておくと災ばらいのほか、開運招福に力があるとされます。

  行事全体を眺めると、この踊りをプロデュースしたのは山伏だったことがうかがえます。
里人の不安に応えて、新たな宗教行事を創案し、里に根付かせていったのは山伏たちだったのです。この視点で、讃岐の佐文綾子踊りを見てみると、行列の先頭にはホラ貝を持った山伏が登場します。行列が進み始めるのも、踊りが踊られ始めるのもホラ貝が合図となります。また棒振と薙刀振が登場し、「さいはらい」を演じます。これらを考え合わせると、綾子踊の誕生には山伏が関与していたことがうかがえます。

山伏(修験者)武術と深く関わっていた例を見ておきましょう。
 幕末に、まんのう町の公文の富隈神社の下に護摩堂を建てて住持として生活していた修験者がいました。木食善住上人です。上人は、石室に籠もり断食し、即身成仏の道んだことでも有名です。
  また上人は修験者として武道にも熟練して、その教えを受けていた者もたくさんいたといいます。特に、丸亀藩・岡山藩等の家中に多く、死後には眼鏡灯(摩尼輪灯)2基が、岡山藩の藩士達が、入定塔周辺に寄進設置されています。このように山伏の中には、薙刀や棒術、鎖鎌などに熟練し、道場的な施設を持つ者もいたのです。そういう視点から見れば、山伏たちが雨乞い踊りや風流踊りをプロデュースする際に、踊りの前に武術的な要素をお披露目すすために取り入れたのかも知れません。
市指定 お伊勢踊り - 宇和島市ホームページ | 四国・愛媛 伊達十万石の城下町
伊勢踊り
もうひとつ綾子踊りと共通するものが宇和地方にはあります。
 伊勢踊りです。これは旧城辺町僧都の山王様の祭日(旧9月28日に)に行なわれる踊りです。男の子供6人が顔を女のようにつくり、女の長儒絆を着て兵児帯を右にたらし、巫子の姿をして踊ります。これも山王宮の別当加古那山当山寺の瑞照法印が入峯の時に、伊勢に参宮して習って来て村民に伝えたといわれています。
「男子6人の女装での風流踊り」という点が、綾子踊りとよく似ています。それを、村に導入したのが、山伏であると伝わります。綾子踊りも、このようなルートで導入された可能性もあります。

綾子踊|文化デジタルライブラリー
綾子踊り 6人の子踊り
  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

IMG_0009綾子踊り由来
佐文綾子踊 入庭(いりは)
参考文献
松岡 実  「山伏の活躍」 和歌森太郎編『宇和地帯の民俗』所収(吉川弘文館、昭和36年)
関連記事