古代には城を「き」と呼んだので城が築かれて以来、この山は「きやま」と呼ばれてきました。
城山は西の聖通寺山、角山、常山、金山、東の五色台山塊と共に綾北平野を囲み、南に続く低い山並みは丸亀平野の東の境となります。備讃瀬戸を見下ろす位置にあり、標高462mの山頂は古代の山城としては一番高いところにあり、東の屋嶋城、西の西条市・今治市の永納山城対岸の鬼城山(鬼ノ城)等の古代山城と結ばれ、足下には讃岐国庁が構え、南に南海道が走ります。東の麓にある讃岐国府を西からの敵に対して守るには、戦略的な意味をもつ山です。

坂出古代海岸線

城山城の立地上の特徴は、「海際」という点にあるようです。
「海際立地」と云われても今の私たちにはぴんときません。海から城山の山裾までは、今では5㎞近くあります。しかし、以前にお話したように、古代坂出の海岸線を復元すると、海が深く湾入してきていたようです。復元地形図で見れば分かるように、西庄の山裾近くまで海だったようです。 海に近接するという特徴は、瀬戸内の四国側に築かれた他の二基の古代山城にも共通します。

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城山から阿野北平野
屋嶋城(高松市屋島東町他)が築かれている場所は、古代は南北に長い島で、瀬戸内海に突出した岬の先に築造されています。伊代の永納山城(東予市河原津)は高縄半島の付け根に辺り、海岸線までの距離は0,3㎞です。
 この特徴は、瀬戸内の山陽側の4つの山城とは対照的です。山陽側の山城を東から見ていくと、播磨城山城(兵庫県たつの市)は古代の推定海岸線から14㎞、大廻り小廻り山城(岡山県岡山市瀬戸町他)は8㎞、鬼ノ城(岡山県総社市奥坂)は11㎞、石城山城(山口県光市)は約4㎞です。
史跡城山 - 坂出市ホームページ

城山城のもうひとつの特徴は、城壁が二重に巡らされていることです
これを複郭構造というそうです。外側の城壁は全長5,3~7,6㎞ 内側の城壁は3,4㎞になりまます。二重の城壁の外側は土塁で、内側は石塁です。共に上面は幅が5mもあり、平坦面になっていて城山に伝わる長者伝説では、城壁を足の悪い我が子を運ぶ「車道」として登場します。

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外側の城壁

 外側の城壁は現在のゴルフ場を取り囲むようにあったようです。
しかしゴルフ場建設のために地形改変され、城壁の大部分は撤去されて、今は広大な起伏のゴルフコースとなっていて、一部がのこっているに過ぎません。 ゴルフ場が出来る前は「第二車道」と呼ばれる外壁が延長5,3㎞~7,6㎞ほどで巡っていました。 
 一方内側の城壁は城山山頂と浅い谷(池内盆地)を囲んだ尾根の高まりを囲んで巡っています。
内側の城壁ラインは標高400m前後の城山山頂の山腹を巡り「第1車道」と呼ばれ、延長は3,4㎞あります。山頂近くには大型建物跡に使われたと思える礎石がごろごろと転がっています。
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頂上広場の礎石群?
 
地図を見ると城山城は、北西側への防御を堅固にしています。
これは西からの海路に対して、讃岐国府を守る備えなのでしょう。古代山城は防衛を目的とした軍事的構造物ですが、当時の防衛組織、兵士、軍団、兵法、武器・武具などについては、なにも分かりません。
この築城を命じたのは大和政権なのでしょうが、実際に建設にあったたのは、百済からの亡命技術者集団がいて、そのもとで地元の有力者への動員命令が下ったはずです。しかし、そこれも詳しくは分かりません。どちらにしても、7世紀後半は、大土木工事が目白押しでした。それを挙げて見ると
①南海道の建築
②条里制工事
③屋嶋城・城山城
④有力者による氏寺建設ラッシュ
中央が求める土木工事を無難にこなしていった有力者が大和朝廷からの信頼を得て、後の国府で有力者として力を発揮していくことになります。それが綾氏や佐伯氏であったのでしょう。そうだとすれば、この城山城の造営に、綾氏や佐伯氏が関わっていたことになります。
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城山の調査は、大正13(1924)年に香川県によって初めて調査が行われます。
戦後の昭和26(1951)年になって国史跡に指定されました。その後、次のように調査が行われています
平成10(1998)年 内側の城壁である水口付近の測量、
平成16(2004) 水口の北に続く城壁の写真測量
平成17年 北延長部を測量。
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城山城の築城日的は、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるとされます。
白村江の敗北以後、唐・新羅の連合軍が侵攻してくるという恐怖に指導者は襲われていたようです。そのために九州や瀬戸内海沿いの国府周辺に、20を越える山城が一斉に築城されはじめます。まさに国家主導の一大プロジェクトです。これに地元の豪族たちも協力し、多くの讃岐の人々が動員されたのでしょう。時期的には白村江敗北直後ですから、7世紀後半のことになります。
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城山城は、西日本に築かれた約20カ所の山城のうち規模が2番目の大きさになるようです。
最大の規模をもつのは大宰府の背後にある大野城です。外郭線の全周は6,8㎞で総面積は181㌶です。これに対して城山城は外郭全周が6,3㎞、総面積は168㌶です。ちなみに平均的な規模は、外周は2,3㎞、面積は10~40㌶になります。規模の面からだけ推察すると、第一の防衛拠点が大野城で、第二の防衛拠点が城山城だったことになります。備讃瀬戸は海域が狭く、ここを抜けると東側は灘になるため海路の最後の防衛箇所という位置付けだったと坂出市史は指摘します。
具体的に城山の城壁を見てみましょう
石塁部分は安山岩の平石を積み上げ、その背後に小石混じりの土砂を詰めた後、上面に盛土がされていて、高さは1,8m程度です。

城山城門跡

ゴルフ場の中にある門を見ておきましょう。
①門は幅4,4m、高さ1,8m
②門の角は、加工した縦0,6m、横1m、厚さ0,3mの安山岩を高さ2mまで算木積状に積み上げている
③門道の側壁は垂直で、壁石の内側に盛り土した基底面幅約7m、上面幅約3,6mのかまぼこの石塁が9mほど続き、その後は次第に低くなり通常の高さにもどっていく
④門道からは瀬戸内海側へ30度の急傾斜で標高350mあたりまで敷石の舗装道が延びていた
 この門で不思議なのは、ここ1ヶ所しか門がないのです。これをどう考えればいいのでしょか?
城山水戸

門の南西の池内盆地の口に、排水施設の水口を設けた石塁があります。
浅い谷を渡る城壁は中央部では幅5mほどのかまぼこ型になります。谷部西端の城壁は土塁で、基礎に平たい石を敷いた上に土盛がされています。外側城壁の上塁構造は分かりません。
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まないた石
城山にはホロソ石、 マナイタ石、カガミ石と呼ばれる加工石が各所に残されています。
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ホロソ石は門柱の礎石、マナイタ石は門扉の敷居(蹴放し)と研究者は考えているようです。ホロソ石には扉の軸を受ける軸摺り穴、方立の刳り込みがないので未完成品のようです。門遺構が1ヵ所だけということと合わせて考えると、城山城、内側と外側の両城壁ともに未完成で終わったことがうかがえます。築城作業が途中で放棄され、完成に至っていないと云うことです。

池内盆地の東側斜面からは、須恵器や平瓶、土師器が出土しています。
山頂の西南方標高300m、外側城壁が巡る坂本バエの石積遺構からも小型の須恵器杯、土師器杯が多量に出土したと伝えられます。城山城は二重の城壁をもち、内郭と外郭の構成は戦国末期の織豊城郭の縄張りと同じ構造です。古代山城には、このような構造を持つ山城は他にありません。
 未完成のの門柱礎石は、光市の岩城山神籠石(石城山城)や、たつの市城山城跡にもあるようです。屋嶋城も城門の門柱痕跡がはっきりしないのは、同じ理由かもしれません。古代山城の築城背景を見てみると、白村江の敗戦後の唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えての国家プロジェクトとして、 一斉に始まり、短期間で終了したと研究者は考えているようです。そのため国際政治的な情勢が好転すると、一斉に築城中止となったのかもしれません。
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城山からのぞむ高松方面
 屋嶋城は、日本書紀、続日本紀にでてきますが、城山はでてきません。これは「戦略上の役割分担」と、次のように研究者は考えているようです。
①屋嶋城は日本水軍の城
②城山城は讃岐の「国城」
城山城をめぐる防衛組織、兵士、軍団、兵法、武器・武具などについては、分からないことだらけですが、手がかりはあるようです。
「日本書紀』天武天皇十四(685)年11月条は当時の軍事体制整備の一端が垣間見えます。
周防総領の所に鉄一万斤を送り、筑紫太宰にはあしぎぬなどの織物多数、鉄一万斤、矢に用いる竹二〇〇〇連を送っています。総領の役所を総領所というようですが、物資はこの総領所か、山城の倉庫に備蓄されたのでしょう。
伊予総領が讃岐の統治権を持っていたことをうかがわせる建物群が讃岐国符跡から出てきました。
  それは7世紀後葉から8世紀初めの掘立柱建物跡4棟や溝跡です。一番大きな建物跡は桁行七間(12m)、梁間2間(5m)の規模です。地方の国府に建物が並び出すのは8世紀前半代が多いようですが、それよりも大分古い建物になります。建物の特徴は、建物向きが真北を基準とする点です。それまでの建物は自然地形に沿つた北西方向で、後代は北24度西になっているので、この建物は変わっています。同じ方位の建物が複数営まれていて、初期の役所と研究者は考えているようです。とすると、府中に国府が置かれる前に、役所的施設が姿を見せていたことになります。それは、城山城の関連施設で、唐・新羅侵攻という非常事態に備えて、配備された伊予総領の管理下にあったものではないかという仮説です。
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外側の石塁への入口
『日本書紀・持統天皇3(689)8月21日の記事に、讃岐国御城(三木郡)で捕らえた白い雉は、放し飼いにせよと、伊予総領田中朝臣法麻呂に対して命令が下されたことが記されています。
ここからは7世紀後半に、伊予の「総領」という行政官が讃岐の一般行政を行っていたことが分かります。この総領が配置された地域は、吉備(岡山県)、伊予(愛媛県)、周防(山口県)、筑紫(福岡県)で、畿内と北部九州を結び、大陸への動脈をなす瀬戸内沿岸などの諸国に限られています。それは古代山城が築かれた地域とも重なっています。ここからは「総領」は軍事的性格が強い地方官であること、それが伊予・讃岐の統治権をもっていたことがうかがえます。これは、対外的な脅威に備えて、四国北部に置かれた行政長で、もしもの時には彼の命令で軍団が動かされたのかもしれません。大部隊が迅速に移動するためにも、南海道の建設は急ピッチで進められたことが考えられます。

ちなみに城山の長者伝説は、次のように始まります。
   むかしむかし,このあたりで一番高く見晴らしのよい城山の頂上に,立派な家を建てて住んでいた人がいました。その人は,瀬戸の海を荒らしていた悪魚を退治して,この地を治めた武殻王(神櫛王=讃留霊王)の子孫で,益川(やがわ)という人でした。この人は,大変な大金持ちで,人々から城山長者と呼ばれていました。 大金持ちの長者は,どんなことでも自分の思いのままにかなえられました。
  (中略) しかし,この長者にもどうにもならないことがありました。それは一人娘の乙姫様のことです。姫は,生まれた時から足が悪く,立つ事もできなかったのです。姫は成長するにしたがって,長者も目を見張るほど美しくなっていきました。村の人たちの間では,この美しいお姫様を一目でも見たいものだと噂されるようになりました。
 長者は,「姫も家の中ばかりでは心も晴れまい せめてこの山のまわりの素晴らしい景色を見せてやりたい」
「何かよい方法はないものか....」
「そうだ 姫を車に乗せて散歩をさせよう。」
 その日から,大勢の人夫を集めて,木を切り石垣を築き,土をならして車の通る道と,姫を乗せる立派な車を作り始めました。こうして,大金をつぎ込んで,城山を二重に取り巻く長く立派な車道(くるまみち)が出来上がりました。長者は大変喜んで,さっそく姫を車に乗せ,自分もそばに付き添って散歩に出かけました。
 北に出ると,むかし祖先が勇敢に悪魚と戦った瀬戸の海が開け,遙かにかすんで見える備前の山々を背景に,塩飽の島々は白砂と青松の美しい島影をうつし,船は青い海にいくすじも白い船のあとを残していました。
 毎日お姫様が車道(くるまみち)を散歩しているという噂を聞いた村人たちは,城山へ登って行きました。城山長者の車道は,美しい乙姫様を一目見ようと,毎日毎日大勢の人が集まってきたという事です。
  ここには、城山の車道が城山長者によって造られたこと。城山長者の祖先は、神櫛王につながることが語られています。「神櫛王の子孫=綾氏=讃岐国造」という「神櫛王の悪魚退治伝説」の変形バージョンとして流布していたようです。讃岐における「神櫛王伝説」の拡がりと深さを示す「城山長者伝説」です。同時に、悪魚伝説が作り出された中世には、城山の城壁が何のために造られたものかは分からなくなっていたことがうかがえます。

  まとめておくと
①城山城は白村江敗北後に、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築造された山城群のひとつである
②その特徴は、海際に立地することと、二重城郭に囲まれていることである
③城山城の規模は、大野城に続いて2番目の大きさであり、その重要性がうかがえる。
④山中に残された石材などから城山城は築城途中で廃棄されたことがうかがる。これは、軍事的緊張が緩和されたため不用となり放棄されたようである。
⑤城山城は、渡来人の技術が各所に見えるが、讃岐の有力豪族も動員された。
⑥城山城築城に大きな役割を果たした綾氏や佐伯氏は、府中の国府で大きな政治力を持つようになる。
⑦後世には城山長者伝説として、神櫛王の子孫(綾氏)の長者が造った車道と伝えられるようになった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献   坂出市史 古代史料編 城山城跡162P