瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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  前回に蓮如は、礼拝物を統一して次のような形で門末寺や道場へ下付したことを見ました。
①名号や絵像を「本尊」
②開山絵像(親鸞)を「御影」
③蓮如や門主の影像を「真影」
  このような礼拝物の下付を通じて、蓮如は末寺や道場の間に、次のような教えを広げていきます。
①仏前勤行に「正信偈」を読むことで、七高僧の教えを門末に教え
②御文によって親鸞と門末を結び
③礼拝物の規格を統一して作成・下付し、本山との結びつきを強め
④礼拝物の修繕を本山で行うことで、本末関係を永続化させる。
以上の一連の流れで、門末を統制することに成功したと研究者は考えているようです。
 慶長6年(1603)、本願寺の東西分裂を契機に木仏下付が始まります。
東西分裂を契機に、東と西の本願寺は激しい勢力拡張運動を展開して、しのぎを削るようになります。翌年になると西本願寺は、勢力維持のために地方の念仏道場に寺号を与えて寺に昇格させると同時に、木仏の下付を始めます。こうして、慶長7年から寛永19年までの約40年間に、183カ所の道場に木仏が下付されます。ここで注意しておきたいのは、寺号と木仏下付がセットになっていると云うことです。また、下付された木仏が損傷した時や、寺格が昇進した時には、再度下付しています。
それでは尊光寺にはどのようなものが下付されたのでしょうか。今回はそれを見ていくことにします。
尊光寺の安政3年(1856)の書上帳には、本尊阿弥陀仏について次のように記されています。


尊光寺記録(安政3年)
尊光寺の境内・表門・本堂に続いて本尊阿弥陀仏とあり、本山免許と記されている。
本尊阿弥陀仏
木仏御立像 春日作
 長一尺四寸(42、2㎝)
  本山免許
記録によると尊光寺には、本山から2回木仏が下付されています。
興正寺年表には、次の記録があります。

慶長19年(1614)8月17日(興正寺直末)興正寺下鵜足郡尊光寺賢正に木仏を授ける((木仏の留)

 ということは、尊光寺はこの時までは正式の寺号はなかった、認められていなかったということになります。
以前に尊光寺の開基者玄正について、次のようにお話ししました
①尊光寺開基は、実際には中興開基とされている玄正(長尾城主の息子・孫七郎)であること
②それは長尾氏滅亡後の1580年以後のことであること
③玄正が長炭周辺のいくつかの道場をまとめて総道場を建設して、尊光寺の創建に一歩近付けた人物だったこと。
それが1614年に木仏が興正寺より下付され、正式の寺号が認められたことになります。木仏は直接に京都の興正寺から運ばれてきたのではないはずです。興正寺と尊光寺の間には、中本山としての阿波郡里の安楽寺があります。礼拝物の下付は、中本山を経由するのがしきたりでした。当然、尊光寺の木仏も一旦は郡里の安楽寺に運び込まれ、そこから人が担いで阿讃の峠を超えてまんのう町に下りてきたと私は考えています。安楽寺との本末関係とは、そういうもふくまれるのです。
尊光寺への2回目の木仏下付は、宝暦7年(1757)6月15日です。
この時は第九代住職賢随が願い出て「木仏尊像」を下付されています。最初に下付されてから約150年の年月が経って、その間に本尊の痛みがひどくなったので、再下付を願い出たのでしょう。
現在の御本尊は、この二回目に下付されたものです。本山から与えられた御免書はなくなって、今は御免書を入れてあった封書だけが残っているようです。その封筒の表面に次のような文書が書かれています。
釈法如(花押)
賓暦七(1757)丁丑年六月十五日
興正寺門徒安楽寺下
木仏尊像 讃岐国鵜足郡
炭所東村 尊光寺仏
 願主 釈賢随

これは単なる表書でなく、中に入れられていた文書そのもので、掛け軸の御絵像の御裏書にあたるものだと研究者は指摘します。これによって、この本仏尊像が本山から尊光寺へ下付されたものであることを証明できます。本山興正寺は、中堅寺院に成長してきた尊光寺に、免許書を添えて木仏を再下付したと研究者は考えています。
   それでは免許状は、どこにいったのでしょうか?
興正寺の悲願であった西本願寺からの別派独立は、江戸時代には認められることはありませんでした。それは明治9年(1876)9月15日になってからでした。教務省は「教義上明確な差異のない限り独立を認めない」という方針でした。そのため興正寺としては、西本願寺と異なることを示す必要がありました。その一つが、各末寺へ西本願寺から下付されていた御本尊や御絵像を「回収」して、興正寺が新たに下付するという方法です。これは資金難の興正寺の財政救済という目的もあったようです。しかし、これをそのまま行えば、地方の末寺にとっては本尊を本寺興正寺に「回収」され、新しい本尊を迎え入れなければならないことになります。これをすんなりと受けいれることは出来なかったはずです。
 それではどんな手法がとられたのでしょうか。尊光寺の場合を見てみましょう。
①本尊阿弥陀如来立像の本願寺本山からの御免書を「回収(没収)」する。
②しかし尊光寺の財政事情を考慮して、本尊を今まで通り安置することを許可する。
つまり、本願寺から出されていた免許状は没収するが、本尊はそのまま残す。そして御免書の文面を、そのまま御免書の封筒に書き写して残すということです。そのためその封筒が尊光寺に残っていると研究者は推測します。木仏本尊の免許書は全国的にも珍しいもので、もし残っていれば貴重なものなのにと、専門家は残念がります。

尊光寺本尊 本寺からの下付
尊光寺の本尊(18世紀に下付された木仏:阿弥陀仏)
尊光寺の木仏本尊を、研究者は次のように評します。
御本尊は、檜を用いた寄木造りで、像高は42,4㎝。尊光寺の安政三年(1856)の書上帳の記録と一致する。小振りな御尊像は、 一木造りであるかのように頑丈に見受けられる。内陣中央の須弥壇の上の、宮殿の中の蓮の台座の上に安置されているお顔は、瑞々しく張りがある。慈悲の眼差しは、彫眼であるので伏せられているが、美しい目もとは軽く結ばれている。納衣は、両肩を覆う通肩で、その上に袈裟をつけ、上品下生の印を結ばれている。
尊光寺本尊2
尊光寺本尊 阿弥陀如来頭部
 全体に、「安阿弥陀様」と呼ばれる鎌倉時代の仏師快慶作の阿弥陀立像に似せて作られたように考えられる。春日作りとあるのは、鎌倉の仏師集団によって作られた意味であろう。
尊光寺本尊の最も明瞭な特徴は、その頭部の髪型である。
一般に如来の頭髪は、螺髪と呼ばれる小さくカールした巻毛の粒を、別に一個ずつ作って頭に植えつけたり、また頭部の材と共木に刻み出して、頭髪を現わす。尊光寺の御本尊の頭髪は、髪を束ねたものを縄状に巻きつけ、それに刻み目を入れて頭髪を現わしている。
このような頭髪スタイルは、京都の嵯峨の清涼寺の御本尊である釈迦如来像がモデルになっているようです。

釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま | 京都トリビア × Trivia in Kyoto
清涼寺の釈迦如来像

清涼寺の釈迦如来像を持ち帰ったのは、永観元年(983)に宋に渡った東大寺の僧套然です。彼は五台山で修行し、2年後に帰国するときに、宋の宮中で礼拝したインド伝来の釈迦如来像を模刻して日本へ持ち帰ります。一旦、大宰府の蓮台寺に安置されますが、彼の死後に弟子成算が、京都嵯峨に清涼寺を創建し、ここにまつることを朝廷に願い出て許可され、今に至っているようです。
尊光寺本尊のモデル 清涼寺釈迦如来
清涼寺式釈迦如来(奈良国立博物館 重文)
 清涼寺の釈迦像は、その後盛んにコピーされて、仏像の中で「最も多く模刻された釈迦像」ともいわれるようです。その中には、国の重要文化財に指定されているものもあります。
尊光寺本尊3
尊光寺本尊(阿弥陀如来)
尊光寺の釈迦像もこのような流れの中で、京都で作成された阿弥陀様が尊光寺に下付されたようです。 私が疑問に思うのは、それでは最初に下付された木仏はどこにいったのかということです。尊光寺にはないようです。考えられるのは二回目の下付の時に、入れ替わりに本山に返されたということでしょうか。よく分かりません。

尊光寺本尊4
尊光寺本尊
尊光寺の本尊のやって来た道が、江戸時代の真宗の本寺と末寺をたどることにもなるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 大林英雄 尊光寺史

刈敷山2

 以前に江戸時代の飯野山や大麻山などの里山は、芝木刈りのために裸山になっていたことをお話ししました。今回は、刈敷(かれしき)山として、里山がどのように管理されていたのかを見ていくことにします。

刈敷・草木灰

 1640(寛永17)年に、お家騒動で生駒藩が改易され、讃岐は東西二藩に分割されることになります。この時に幕府から派遣された伊丹播磨守は、讃岐全域を「東2:西1に分割せよ」という指示を受けていました。そのために再検地を行って、新しい村を作って、高松藩と丸亀藩に分けて境界を引きます。 その際に両藩の境界がまたがる那珂郡では、入会林(のさん)をめぐる紛争が起る可能性が出てきます。それを避けるために、関係村々の政所の意見を聞いた上で、まんのう町周辺の里山の入会(いりあい)権を次のように定めています。
1仲之郡∂柴草苅申山之事

刈敷山への入会権を定めた部分を書き抜いてみると次のようになります。
松尾山  苗田村・木徳村
西山 櫛無村・原田村
大麻山 与北村・郡家村・西高篠村
羽間山  垂水村・(東)高篠村
一、仲郡と多度郡の農民が東西七ヶ村の山や満濃池周辺へ入り、柴木苅りをおこなうことを認める。ただし、従来通り手形(鑑札札)を義務づけること。
一、三野郡の麻山については、子松庄(琴平)に鑑札付きで認める。ただし、佐文の者は、鑑札札なしで苅る権利を認める。
 ここからは、金毘羅さんの神領以外の松尾山・西山(琴平町)や大麻山・東西の七箇村や満濃池周辺の里山に、入会権が設定されていたことが分かります。誰でも山に入れたわけではないようです。「札にて刈り申す山」と記されているので、入山に際しては許可証(鑑札)が発行されていて、何匁かの支払いが義務づけられていたようです。

下草鑑札
刈敷山への入山鑑札
 それに対して佐文に対しては「同郡山仲之郡佐文者ハ先年から札無苅申候」とあります。佐文の住人は、札なしで自由に麻山の柴木を刈ることができるとされています。どうして佐文に、このような「特権」が与えられていたのかについては、史料からは分かりません。 


草を刈る図
他の文書には、次のように記されています。
「多度郡(多度津町・善通寺市)には山がないので、多度郡の者は那珂(仲)郡の山脇・新目・本目・塩入で柴木を刈ることを許す。」

ここからは柴木刈りが解禁になる日には、多度郡の農民たちが荷車を引いて、鑑札をもって山脇や塩入まで柴木刈りに入ってきていたことが分かります。丸亀平野の人々が霊山としていた大川山や尾野瀬山は、里から見上げる遠い山ではなく、実際に農民たちが柴木を刈るために通い慣れた馴染みの山でもあったようです。旱魃の時に、大川山や尾野瀬山から霊水を持ち帰って、雨乞祈願を行ったという伝承も、こんなことを知った上で聞くと、腑に落ちる話になります。ちなみに宮田の民芸館(旧仲南北小学校)には、里山への入会鑑札が展示されています。化学肥料が普及する戦後まで、里山での柴木草刈りは続けられていたようです。         
 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  参考文献   満濃町誌293P         山林資源
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中讃ケーブルテレビ「歴史の見方」でとりあげていただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=1fe1IJAwdoU
https://youtu.be/1fe1IJAwdoU

満濃池「讃岐国名勝図会」池の宮

 災害記録から色々なことを学び防災に役立てようという動きが広まっています。歴史に学ぶという視点で幕末の満濃池の決壊を見てみましょう。ペリー来航の翌年1854年7月に満濃池は決壊します。これについては「大地震の影響説」と「工法ミス説」があります。通説は「地震影響説」で各町史やパンフレットはこの立場です。しかし、近年見つかった史料は、工法上の問題があったことを示しています。

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満濃池の底樋と竪樋とゆる
長谷川喜平次の提案で木樋から石樋へ 
 満濃池の底樋は、かつては木製で提の下に埋められました。そのため数十年ごとに交換する必要がありました。この普請は大規模なもので、讃岐国全土から人々が駆り出されました。そのために「行こうか、まんしょうか、満濃池普請、百姓泣かせの池普請」というような里謡が残っています。
満濃池普請絵図 嘉永年間石材化(補足)

 このような樋管替えの負担を減らしたいと考えていた榎井村庄屋の長谷川喜平は、木製樋管から石材を組み合わせ瓦石製の樋管を採用することにしました。その時に決壊時に流された石材が金倉川から改修工事で見つかっています。
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満濃池の石造底樋官(まんのう町かりん会館)
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工事は嘉永二(1849)年の前半と、嘉永6(1853)年の後半の二期に分けて行われます。この画期的な普請事業の完成に喜平次は
「伏替御普請、奉願上書面之通、丈夫二皆出来候」
と誇らかに役所へ報告しています。これで樋管替の普請から解放されるという思いが伝わってきます。

 しかし、近年に榎井村の百姓総代が倉敷代官所へ提出した文書が直島の庄屋から見つかりました。そこには次のように書かれています。
「石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していた。(中略)そのため、上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置いたが、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい堰堤は崩れるであろう。」

 これ以外にも関係者からは、次のようなという風評があったようです。
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」

つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、関係者の間では「欠陥工事」という認識があったのです。
 三 嘉永7年7月9日 満濃池決壊
 嘉永六(1853)年11月普請がようやく終ります。翌年のゆる抜きも無事終え、田植えが行われました。その後、6月14日に強い地震が起こり、7月5日に池守りが底樋の周辺から濁り水が噴出しているのを発見します。そして4日後には、堤防は決壊するのです。
この後、満濃池は16年間、明治維新を迎えるまで決壊したまま放置されるのです。どうして修復されなかったのでしょうか?  それはまた次回に・・。

満濃池結果以後1869
決壊したまま放置された満濃池 池の中を金倉川が流れる
 
参考文献 芳渾直起 嘉永七年七月満濃池決壊 香川県立文書館紀要
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満濃池から南を望むと低阿讃の山々が低く連なります。
その東奥の方に、周りから少し高くなったピラミダカルな山が目に付きます。これが大川山です。讃岐では2番目に高く、丸亀平野から見える山としては一番高い山になります。そして、土器川の源流にもなります。
①ピラミダカルな山容
②丸亀平野で一番高い山
③土器川の源流 
という3点からしても、この山が古代から霊山として丸亀平野の人たちから崇められてきたことが頷けます。

大山山から金毘羅地図
大川山と阿讃山脈の山々

大川神社の社伝には、この山を最初に祀ったのは、修験者が祖とする
役小角とされています。
彼が諸国を巡歴してこの大川山頂に達した時に、 一人の老翁が忽然と現れて
「われこそは大山祗神なり、常にこの山を逍遥し、普く国内の諸山を視てこれを守る。子わがために祠を建てよ」

と言ったと伝えられます。この神の御告げを受けて、小角は祠を建ててこの神を祀ります。ついで木花咲耶姫命をあわせ祀り、大川大権現と称し奉ったとされているようです。
 ここからは次のようなことが分かります。
①開祖が修験者の役小角であること
②山頂に祀られてのが大山祗神と、その娘の木花咲耶姫命であること
③祀られた神社は、大川大権現と呼ばれたこと
開祖を役小角とするということは、修験者たちの聖地や行場とされていたということでしょう。③の「大川大権現」と呼び名についても、中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということです。その勧進の主役は、修験者達だったことは以前にお話ししました。


大川神社 秋葉神2社
大川神社の中の秋葉神社

大川山信仰にも、石鎚信仰と同じようなスタイルが見えるようです
共通点を見ると、「役小角と権現勧進」でです。
さらに②からは、芸予諸島・大三島の大山祗神神社周辺で活躍した修験者達の影が見えてきます。彼らは熊野系で吉備児島・五流修験の流れとされています。五流修験は、修験道開祖の役行者が国家からの弾圧を受けた際に、弟子達が熊野を亡命し、新コロニーを児島に打ち立ててたと称する修験集団です。「新熊野」を名乗り、本島を始め瀬戸内海周辺に影響力を伸ばしました。
南無金毘羅大権現(-人-) | 【天禄永昌】大美和彌榮・天敬会 今泉聖天<圓密宗量剛寺>

 中世は修験者たちが活躍した時代です。
 現在の金毘羅山(大麻山)も修験者の修行ゲレンデで、多くの修験者たちが集まる「天狗の山」でした。彼らの中には、高野山で修行を積んだエリートもいました。その中から流行神としての金比羅神も生み出され、大権現として勧進され、金毘羅大権現として祀られるようになります。そして、大麻山の南半分は金比羅神の住処として象頭山と呼ばれるようになります。当時の修験者(山伏・時には密教僧侶)たちにとっては、金毘羅さんも大川山も権現で、自分たちの修行場であり聖地であったのでしょう。
 ここからは大川山が霊山として崇められていたことがうかがえます。しかし、中世に活躍した山伏や修験者たちは、大川山に古代の山岳寺院があったことは知らなかったようです。彼らの作った社伝には、一切でてきません。

 大川信仰の拠点となっていた古代の山岳寺院が発掘されて、その姿を現しています。中寺廃寺跡です。
大川山 中寺廃寺
中寺廃寺

大川山から北に伸びる尾根上に周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっています。創建時期は山岳仏教の草創期である9世紀にまでさかのぼるとされています。だとすると若き日の空海が、この山に登ってきて修行を重ねた可能性もあります。
中寺廃寺跡地図1

 割拝殿跡とされる空間からは、5×3間(10.3×6.0m)の礎石建物跡が出てきました。面白いのは、その中央方1間にも礎石があるのです。このため仏堂ではなく、割拝殿と研究者は考えているようです。割拝殿とは何なのでしょうか???
大川山 中寺廃寺割拝殿

上のイラストのように建物の真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようです。この建物の東西には平場があります。一方の平場は本殿の跡で、一方の平場が大川山への遙拝場所と研究者は考えています。その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡だったようです。
中寺廃寺跡5jpg
中寺廃寺 遺跡配置

僧侶達は、ここに寝起きして周辺の行場で修行を重ねながら大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げていたようです。空海がもたらした密教は、祈祷や霊力を認めました。その霊力パワーのアップのためには、聖地での修行でポイントをため込む必要がありました。霊験・霊力の高い密教系僧侶(=修験者)は、天皇の近くで重用されることになります。この時代の密教系僧侶は、出世のためには聖地での修行が欠かせなかったのです。そのために国家や、国衙も官営の山岳寺院の建立を行うようになるのが10世紀後半です。この仲村廃寺は、規模や出てくる遺物などから地元の有力者などが建立したものではなく、讃岐国の官営山岳寺院として建立されたものと研究者は考えているようです。ここは多くの密教僧侶や修験者たちが修行を積んだ拠点でもあったのです。
大川山 割拝殿から
割拝殿から望む霊山 大川山

  なぜお寺は、大川山の山頂に建立されなかったのでしょうか?
 大川山は神が宿る霊山で、信仰の山でした。そして中寺廃寺は、遙拝所でした。霊山の山頂には、神社や奥院、祭祀遺跡や経塚が建てられますが、寺院が建立されることはありません。石鎚信仰の横峰寺や前神寺を見ても分かるように、頂上は聖域で、そこに登れる期間も限られた期間でした。人々は成就社や横峰寺から石鎚山を遙拝しました。つまり、頂上には神社、遙拝所には寺院が建てられたのです。

中寺廃寺跡 仏塔5jpg
中寺廃寺 仏塔

 また、生活レベルで考えると山頂は、水の確保や暴風・防寒などに生活に困難な所です。峰々は修行の舞台で、山林寺院はその拠点であって、あえて生活不能な山頂に建てる必要はなかったようです。

大川山 中寺廃寺

 B地区が大川山の遙拝所として利用され始めるのが8世紀
割拝(わりはい)殿や僧房などが建てられるのは10世紀頃になってからのようです。そして、律令体制が崩壊し、国衙の援助が受けられなくなった12世紀には衰退し、13世紀には活動痕跡がなくなるようです。ちなみに、中寺廃寺から讃岐山脈を、
東に向かえば、
大瀧寺 → 大窪寺 → 水主神社(東かがわ市)
西に向かえば、
尾野瀬寺(まんのう町春日 → 中蓮寺(三豊市財田町) → 雲辺寺(観音寺市大野原町)へ
と続き、さらに伊予の山岳寺院につながってました。このようなネットワークを利用して、熊野修験者や高野聖たちが「四国辺路」をめぐっていたようです。そのようなネットワークの一つが大川山であり、その拠点が中寺廃寺であったようです。
   中寺廃寺は中世には廃絶しています。しかし、寺院はなくなっても人々にとって聖地であり、霊山であり続けたようです。
それが分かるのがCゾーンに残された「石組遺構」です。調査報告書は、これを「石塔」としています。仏舎利やその教えを納めるという仏教の象徴としての「塔」です。「塔」を建てる行為は、功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。それは、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで含みます。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」で「作善行為」だったというのです。

大川山 中寺廃寺石組遺構
石組遺構は作善の「塔」

童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻に
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る

と見えます。平安時代中頃には、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していたようです。「三宝絵」下巻(僧宝)は、二月の行事として、次のように記します。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。(中略)
 仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為として、階層を越えた人々に広がっていたようです。この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族というよりも、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人が「石塔」を行なったのではないかと研究者は考えているようです。
 中寺廃寺のAゾーンの本堂や塔などは、僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する里人達の祈りの場であり交流の場であったのかもしれません。ここで、大川権現に対しての祈りの後には、宴会が行われていたとしておきましょう。
 こうして、中世に中寺廃寺が姿を消しても、大川山が霊山であることに変わりはなかったようです。そして、この山を修行ゲレンデする修験者たちの姿が消えることもなかったのです。 
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。是非、その頃に大川山詣でをして、この谷の河原で石積みを行いたいと思います。
大川山 中寺廃寺石組遺構2

 中世に霊山が開かれるという事(=開山)は、権現が勧進されるということでした。
その勧進の主役は修験者達でした。そして、権現を管理することになるのは里の別当寺でした。石鎚山を見てみると、役小角伝説が広がり、その門弟を祖とする「修行伝説」を生み出されます。その結果、どこの霊山も開祖は役小角となっていきます。そして、里には横峰寺や前神寺などの別当寺が姿を現すようになります。
 それでは、大川山信仰の別当寺はどこにあったのでしょうか?
残念ながらこれに答えられるような史料はありません。状況証拠を集め、候補のお寺を挙げてみましょう。
尾ノ背寺跡発掘調査概要 (I)
① 尾ノ背寺(まんのう町本目)
 大川山の西北の財田川を見下ろす尾根の上にある尾野瀬神社の境内にあった山岳寺院です。
尾瀬神社 - 仲多度郡まんのう町/香川県 | Omairi(おまいり)
尾野瀬神社(尾背廃寺跡)
この寺については、高野山の学僧道範が讃岐に追放されていた宝治二年(1248)11月に、ここを訪れ『南海流浪記』に次のように記しています
「此ノ寺ハ大師善通寺建立之時ノ杣山云々、本堂三間四面、本仏御作ノ薬師也、三間ノ御影堂・御影井二七祖又天台大師ノ影有之」
とに書いている。ここからは、尾ノ背寺が善通寺建立の際には、木材を提供するなど森林管理と同時に、奥の院的な役割を果たしていたことがうかがえます。
江戸時代に、金毘羅金光院に仕えた多聞院が編集した〔古老伝旧記〕に
「尾ノ背寺之事 讃州那珂郡七ケ村之内 本目村上之山 如意山金勝院尾野瀬寺右寺領
新目村 本目村  本堂 七間四面 諸堂数々、仁王門 鐘楼堂 寺跡数々、南之尾立に墓所数々有 呑水之由名水二ヶ所有(後略)」
とあります。
また大正七年(1918)の『仲多度郡史』には「廃寺 尾背寺」として
「今の尾瀬神社は、元尾ノ背蔵王大権現と称し、この寺の鎮守なりしを再興せるなり、今も大門、鐘突堂、金ノ音川、地蔵堂、墓野丸などの小地名の残れるを見れば大寺たりしを知るべし」
「古くは尾脊蔵王大権現と称えられ、雨部習合七堂伽藍にて甚だ荘厳なりしが、天正七年兵火に罹り悉く焼失。慶長十四年三月、その跡に小祠を建てて再興
(中略)
明治元年 尾ノ背に改め尾の瀬神社と奉称」
ここからは「尾脊蔵王大権現」と呼ばれ、山伏たちの活動拠点となっていたことがうかがえます。尾ノ背寺は、中寺廃寺が活動を停止した後も、中世を通じて活発な書写活動が行われていたことが萩原寺の経典などからも分かります。中寺廃寺に代わって、大山エリアまでテリトリーにおさめていたのではないかという仮説です。しかし、尾野瀬山からは、大川山を仰ぎ見ることはできません。遙拝所としては、弱いようです。
大川山 金剛院
炭所東の金剛院 裏山は全体が経塚

第二候補は、まんのう町炭所東の金剛院です。
  金剛寺は平安末期から鎌倉時代にかけて繁栄した寺院で、楼門前の石造十三重塔は、鎌倉時代中期に建立されたものです。寺の後ろの小山は金華山と呼ばれ、山全体が経塚だったことが発掘調査で分かっています。部落の仏縁地名や経塚の状態から見て、当寺は修験道に関係の深い聖地であったと研究者は考えているようです。
 想像を膨らませると、全国から阿弥陀越を通り、法師越を通ってこの地区に入った修験者の人々が、それぞれの所縁坊に杖をとどめます。そして、金剛寺や妙見社(現在の金山神社)に参籠し、看経や写経に努め、埋経を終わって後から訪れる修験者に言伝(伝言山)を残し、次の霊域を目指して旅立って行きます。それが「辺路修行」だったのです。これが、空海伝説と結びついていくと「四国遍路」になっていくと研究者は考えているようです。

大川山 金剛院2

 修験者たちは写経などのデスクワークだけをやっていたのではありません。霊山行場で修行も求められました。大川山は、最適の修行ゲレンデです。山での荒行と、写経がミックスされた修行を、この地で行い、写経が終わると、次の行場に向かって「辺路修行」に旅立って行ったのでしょう。 大川山の里の別当寺としては、こちらの方が可能性が高いようです。金剛院は、大川山信仰の別当寺だったという仮説を出しておきましょう。
中寺廃寺跡 塔跡jpg
中寺廃寺跡 仏塔跡
全国からやってきた修験者(山伏)たちの中には、里の寺院を拠点に周辺の村々に布教活動を行う者も現れます。
 高野聖の念仏聖たちは里の人々と交流を続けながら自分たちの聖地に、信者達を参拝に連れてくるという方法を採用します。それは熊野詣に始まり、立山詣や、富士詣につながっていく先達が信者達を聖地に誘引するというやり方です。これは、今の四国霊場巡りにもつながるスタイルです。
 死者の霊の集まるといわれた三野町の弥谷寺に住み着いた高野聖は、先祖詣りを勧め、そしてその延長に高野山への先祖納骨活動を展開します。それが三豊では弥谷寺でした。
 また、近世になると石鎚信仰や剣信仰のように先達が里の信者を誘引して、霊山への集団登山という活動を展開する別当寺も現れるようになります。
  それでは、大川山周辺の修験者や山伏たちは、大川山をどのように売り出そうとしたのでしょうか。
  それは、また次回に
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献  琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社
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満濃池をこわした国司の物語(『今昔物語集』巻三十一より)

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昔むかし、讃岐の国のいなかに、満濃の池という、それは大きな池がありました。土地には水が少なく、満足に米もとれずに、みんなつらい暮らしをしておったとか。
 そのころ、高野山に、弘法人師さまというえらいお坊さまがおってのう、みんなのなんぎを聞いて、たいそう心をいためられたそうな。「かわいそうになあ。これでは、みんな、ごはんを食べられなくなってしまう」
 そこで弘法人師さまは、何かしてやれることはないかと知恵をしばったそうな。
「おお、そうじゃ! ひとつ、この上地に人きな池をつくってやろうか!」 思いたつと、方々から人を集めなさったと!・
 弘法人師さまのおやさしい人柄をしたって、それはもう、たくさんの人が集まってきたそうじゃ。

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こうしてできた池の大きいこと。堤も、それはそれは高く作られました。
  とても池とは思えんのう
   こりゃあ、海ではないかい
  土地の人々はみんなうわさしあったそうな。
あまりに大きくて向こう岸がぼーっとかすんではっきり見えません。みんな大喜びで大事に使うことにしました。
 それまでは、日照りが多く、田柚えどきには水不足に泣かされていましたが、この池のおかけで、どこのたんぼも、水を引くことができ、ぶじにうるおうことができたとか。
 朝廷からも、たくさんの川をつなぐ力をいただき、絶えることがなかったそうな。

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池の中には、大きいのやら、小さいのやら、いろんな魚が住んでいて、みんなどんどん魚をとっていました。でも、魚はいくらでもおったので、どれだけとってもいなくなることはありません。
あるとき、領主様が、この国の人々やら、館の人々やらをおおぜい集めて、お話をなさったとか。
 そのおりにも、満濃の池の話でもちきりだったそうな。
「なんと! 満濃の池には、いろんな魚がいっぱいおるそうじゃと!三尺の鯉でもおるじやろう」
 だれがいうたか、そのことが領主様の耳にはいってしまいました。
 「それは、ぜひとも欲しいものよ」
 領主様は思いたって、おいいつけなさった。
 「この池の魚をとる! 用意いたせ!」
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ところが、池の深いこと、深いこと。       
 下りていって網をしかけることもできぬほど。
そんならどうしたらよかろうかと、みんなで頭をひねっていたら、
 「この池の堤に大きな穴をあけよ’・
 そこから出る水の落ちるところにしかけをせよ
流れでる魚をとるのじや」
 家来衆がいうとおりにするとぱーつと勢いよく水が吹き出し、出るわ、出るわ、次々とたくさんの魚が出てきました。
 「やったあ! 大漁じゃあ」
   ところがその後、穴をふさごうとしましたがものすごい勢いで水が吹き出し、どうしてもふさぐことができません。
 そこに堤をつくり、木の樋を打ちつけ、少しずつ水を流すようにしたところ、池はそのおかげでなんとかもたせることができました。
「しかしまあ、この穴は、堤をぶちぬいてできた穴だもんな。
しかもこんなに大きい穴、大丈夫かいな」
  みんな、ほんに考えこんだそうな。
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  はたして梅雨がきて、どしゃぶりの雨がつづき、たくさんの川に水があふれ、それが全部、この池に流れこみはじめました。
さあ、たいへんです。
ゆき場のない水が、出口をもとめていっきに穴をめがけて押し寄せたのでもうたまりません。あれよあれよというまに、堤はこわれてしまい、池の水は残らず流れ出てしまいました。    
  「助けてくれ! 流される」
   おらんとこの、家も田んぼも畑も、めちゃめちゃじゃあ
  泣いても、叫んでも、もうどうにもなりません。
  みんな、何もかもなくしてしまいました。

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国の人たちは、これにすっかりこりて、池は小さく造ろうと考えました。
 そんなわけで、小さな池をなんぼでもつくったものの、池はすぐにひからびてしまい水は残りません。池のあった跡さえ、判らないようになってしまいました。
 悪いのは、なにがなんでも三尺の鯉が欲しいというたご領主様じゃ。ご領主様のせいで、あの生き仏様が、弘法大師さまが、土地の衆をかわいそうに思うて、せっか く造ってくたさった池をなくしてしもうた。ばちあたりなことはかりしれんわ。この池の崩れたことでたくさんの人が家を壊され、たんぼや畑をなくしてしまいました。
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 それもこれも、みんな、ご領主様のせいじゃ」
 だれもがそういうたとか。
 「池のなかの魚を、ちょっととりたいばっかりに、池をこわしてしまうとは、なんたるこっちや」
 [大きなむだじゃ。しょうのないご領主様じゃ]
 そう言って、みんな怒り、嘆きました。

 まあそういうことで、人間は欲張ってはいけません。
 他国の人々までも、今にいたるまで、ご領主様の悪口を言っているとか。
 その池の跡は今もまだ残っているそうな。

 『今昔物語』の舞台となった満濃池

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まずは今昔物語を見ておきましょう。
今昔物語集[平安時代後期] 巻二十本朝附仏法第十一
「龍王、天狗のために取られたる語」 の冒頭部です
 今昔、讃岐国、□□郡ニ、万能ノ池ト云フ極テ大キナル池有リ。其池ハ、弘法大師ノ、其国ノ衆生ヲ哀ツレカ為ニ築給ヘル池也。池ノ廻リ遥ニ広シテ、堤ヲ高築キ廻シタリ。池ナドヽハ不見ズシテ、海トゾ見エケリ。池ノ内底ヰ無ク深ケレバ、大小ノ魚共量無シ。亦竜ノ栖トシテゾ有ケル。
意訳変換しておくと
今は昔、讃岐国□□郡に万能の池という非常に大きな池があった。その池は、弘法大師がこの国の民衆を哀れんでお造りになった池である。池の周囲ははるかに広々としており、堤を高く築き巡らしてある。とても池には見えず、海のように見えた。池は底知れぬほど深いので、大小の魚は数知れず、また竜の住処となっていた。
全文を意訳変換したものを載せておきます
昔むかし、いまから千百年あまり前の弘仁(八二〇年)の頃のお話です。
 讃岐の国のお役人、国司清原夏野は弘仁九年の大洪水とそれにつづく、翌年の大干ばつ、またその翌年も干ばつと、大雨や日照りで農民を苦しめる災いにどうしたものか”と強く心をいためておりました。
 大雨はともかく、夏の日照りの水不足を防ぐ手はないものかと、ずっとずっと考えこんでいました。そこではたと思いついたのが金倉川です。
 「そうだ、あの川をせき止めよう。そうすれば池にはたくさんの水がためられる」
 われながら名案だと思ったのですが、洪水で決壊して干上がった池の内にはすでに人々が大勢住そんなわけで清原夏野は考えたことを実行に移します。
 まず手始めは、ときの天皇、嵯峨上皇ににその計画を願い出ることです。幸いなことに天皇はそのお話をお聞きいれになり、池の修築工事のために築池使の路眞良人浜継(みちのまびとはまつぐ)を讃岐の地に遣わされました。
 やれやれこれでひとまず安心とばかり胸をなでおろした清原夏野でしたが、それもつかのま、今度は工事の人夫が思うように集まりません。
「満濃池 」の画像検索結果
募るいらいらが頂点に達したとき、またまた妙案が清原夏野の頭を掠めました。
 「そうだ、あのお方なら……」
 自分の新たな思いつきに飛び上がって喜びました。
 あのお方とは……。満濃池の歴史の一時代を飾る「空海の修築」の主役、空海こと弘法大師です。

 そこでいよいよ主役の登場です。
 人の心を掴んで離さない高僧の誉れ高い空海が讃岐に下ったのはそれからまもなくのことでした。 その後の工事はいうまでもなくとんとん拍子。清原夏野の思わくどおり、池普請の現場は空海を慕う人々であふれ、人手に困ることはありませんでした。

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 それから数か月後の弘仁十二年(821)、堤防の工事が無事終わり、広々とした池には澄んだ水があふれるほどにたたえられました。
 こうして甦った満濃池の堤では、あたたかくなると、昼寝ざんまいの小蛇を一匹見かけることがときおりあったそうです。
 のんべんだらりと、小さな身体のわりには態度の人きさがちょっと気になるこの小蛇、それもそのはず、身元をたどれば池に住む人きな人きな身体の龍神だったのです。 冬、ひなたはっこで池の堤に寝ころぶときは、くるりと身体をひとひねりして小さな蛇に変身。これなら誰にも邪魔されません。
 「なんとまあ、ここちいいことかい」
 龍神はお目さまに日を細めるといつものように草むらにごろん。あったかい陽ざしを布団がわりに、木々の梢を揺らして過ぎるそよ風を子守歌にうとうととまどろむ日もあったようです。
ところが今日はいつもとはちょっと様子が違っていました。
  ”ぴーひょろろ、ぴーひょろ‐”
広げた両の翼に上昇気流をいっぱいに受けて、高く高く大空を舞うとんびが一羽。その小さな目に、池の堤でひっくりかえっているまるで小指ほどの蛇が一匹飛び込んできました。
 なんだい、蛇のくせに昼寝かい
 いたずらとんびは昼寝の小蛇めがけて急降下。
さあー 土手の草がいっせいになびきます。
同時にとんびのくちばしが小蛇をがちっ。
目をさますまもなく小蛇の身体は宙に浮き、空へ空へ。
小蛇をくわえたとんびは、緑の田畑を越えて青い海へ。
海を過ぎるとふたたび陸へ。
とんびはどこまでもどこまでも飛びつづけます。
いったいどこへ行くのでしょう。
実はこのとんび、近江の国の比良山をねぐらにする天狗だったのです。
とんびは山のなかの洞穴に、小蛇をぽいと放り込むと
木々の間を縫うように舞い上がり、再び青空のかなたへ姿を消してしまいました。
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”まいったな。ほんにうかつじやった”
 龍神は悔やみましたが後のまつり。
水さえあれば大きな龍の身体にもどれるのですが、あいにく洞穴には一滴の水もありません。

 とんびに化けたいたずら天狗は琵琶湖の近くの比叡山までひとっ飛び。
今度は比叡山のお坊さんを狙います。
そんなこととはつゆ知らぬお坊さん、
 「ほんにすっきりしたわい」
 手洗いの水が入った瓶をかかえて厠からぬっと姿を見せました。
とんびの天狗はーい、一丁あがり!とばかり、
両足でお坊さんの襟首をつかむとすいすい、比良山の洞穴へ。
いきなり暗いところへ放り込まれたお坊さん、
「はて、わしやいったいどうなったんじやい」
首を傾げるばかり。
そんなことには頓着なしのいたずらとんび、
「もうひとっ飛び、行ってくるか」
と、またもや空高く舞いあがりました。  
どうしたものかと思案にくれていた小蛇の龍神は、お坊さんの水瓶に元気百倍。
「もしもーし、どなたか存じませんが、その瓶の水を
わたしの身体にふりかけてはくださいませぬか」
 小蛇の言葉に気のいいお坊さん、
 「あいよ、あいよ」
 ふたつ返事で、瓶の水を小蛇の身体にじゃばじゃば。
すると小さな蛇がむくむく、むくむく。伸びて伸びて、
天を突くような巨大な龍に変身しました。
「満濃池」の画像検索結果
おかけで助かった。さあ、はようわしの背中へ 寺までお送りしましょうぞ龍神はお坊さ
んを寺まで送り届けると比叡山から京の都を越えてふるさとの満濃池へ向かおうとしました。
ところがどっこい、今度は荒法師に姿を変えたいたずら とんびが、鴨川にかかる大橋を堂々と歩いているではありませんか。
 ”なにかまた、よからぬことを考えておるな” 龍神は、そうと荒法師の後ろに近づくと、 「こらー!・」
 大声とともに背中をどおーん。力いっぱい押しました。
いきなりの雷声と嵐のような力にさすがの天狗も、
 「まいったあー」                   
 目を白黒させながらその場にばたん。
 「もう二度といたずらなんぞするんじゃないぞ」
 龍神の言葉が聞こえたかどうか定かではないものの、よほどに懲りたものか、それからは天狗の悪さを耳にすることはありませんでした。
 そんなわけで、龍神は京の都から山や野を越え、海を渡り、満濃池に戻ることができました。
 ところで龍神、いたずらとんびの天狗に懲りてもう小蛇に化けるのはやめにしたとか、そんな噂もありますが、とんでもない。やっぱりひなたぼっこはやめられないと、ほら今日も鼻ちょうちん。それが証拠に堤の草むらで夢みごこちの小蛇を村人たちはときおり見かけるそうです。
 満濃池で昼寝の小蛇に出会ったら、それはきっと龍神ですから、決して水などかけぬよう。
小蛇がいきなり大きな龍になったらおおごとです。そっとそっと見て見ぬふりで……。

 昔むかしのお話です。
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今昔物語 満濃池と龍神の全文         

讃岐国那珂郡に万乃池と云、極て大きなる池あり。
其池は弘法大師の其國の衆生を哀しかり、為に築たまへる池なり。
池の廻り遙かに廣くして堤を高く築きまはしたり。
池なととは見えすして、海とそ見えける
池の内底ひなく深ければ大小の魚とも量なし。
龍の棲としてありける。
然る間其池に住ける龍 日に当らんとおもひけるにや。
池より出て人離たる堤の遷に小蛇の形にて蜻て居たりけり。
其時に近江国比良山に住ける天狗鎬の形として其池の上を飛まわるに堤に此小蛇の幡て有を見て掴反下て、俄に掻き探て逢に空に昇ぬ。
龍ちから強き者なりといへ共、思ひかけぬ程に俄に拝れぬれ八、更に術尽て只猟れて行に、天狗小蛇を扨砕て食せんといへとも龍の用力強に依て心にまかせて探み砕て散ん事あたはずして遥に本の栖の比良の山に持行ぬ。
 狭き洞の動へくもあらぬ所に打寵置つれ八、龍狭口口口破元くして居たり。
一滴の水も元八空を翔る事もなし。亦死ん事を待て四五日あり。然る間此天狗比叡山に行て俗を伺て貴き僧を取らんと思ひて夜、東塔の北谷にありける高き木に居て伺ふほとに其向に造り懸たる房あり。其房に有僧、外に出て小便をして手をあらはんふため水瓶を以て手を洗ふて居るを、此天狗本より飛来て僧を掻採て、逼に比良山の栖の洞に将き行て龍の有處に打置つ。
僧水瓶を持なから我にもあらて居り。いま八限とおもふほとに天狗八僧を置ままに去ぬ。
其時に暗き所に苔有て僧に向て云く、汝八此誰人そ。何より来そそと。
僧答て目、我比叡山の僧なり。手を洗はん為に坊の橡に出たりつるを天狗の俄に掴み取て将来れはなり。然八水瓶を持なから来れるなり。抑かくいふ八また誰そ。
龍答て云、我は讃岐国万能池に住龍なり。堤に這出たりしを、此天狗空より飛来て俄に猟て此洞に将来こり。狭く口口て為む方無といへとも、一滴水も元けれ八空をも翔らすと。
僧のいはく、此二持たる水滴に若一滴の水や残りたらんと。
龍是を聞て喜て云、我此所にして日来経て既に迦終なんと為るに幸に来り會ひ給ひて互に命を助る事得へし。一滴の水有ら八、必汝本の栖、二将至へしと。
僧又喜て水瓶を傾て龍に授るに一滴斗の水を受て、龍喜て僧に教て云、努々怖る事なくして、目塞て我に負れ給ふへし。此御更に世々にも忘かたしといふて、龍忽に小童の形と現し、僧負て洞を蹴破りて出る間、雷電屏震して陰り雨降事甚怪し。
僧身振肝迷て怖しと思ふといへとも、龍を睦ひ思ふかゆゑに念して負れて行し程に、須実に比叡山の本の坊に至る。僧を橡に置て龍八去。彼房の人常の屏震して房に落懸と思ふほとに俄に坊の澄暗夜の如く成ぬ。しはらく斗有たる時に見れは、一夜俄に失ひにし人の橡にあり。坊の人々奇異に思て問に、事有様を委しく語る。人々ミな聞て驚き奇異りける。
其後龍彼天狗の怨を報せ為に天狗を求るに天狗京に智識を催す荒法師の形と成て行けるを龍降て蹴殺てけり。
 然ば翼折れたる屎鵠にてなん。大路踏れける。彼比叡山の僧八彼龍の恩を報せんかため、常に経を誦し善を修しけり。実に此龍八僧の徳に依て命をなし。僧八龍の力依て山に返る。是もミな前世の機縁なるへし。此事は彼僧の語り傅へを聞継て語り傅へたるとかや。

   

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