まんのう町中寺廃寺跡を江畑道より歩く
教育委員会のTさんに「この季節の中寺廃寺は紅葉がいいですよ。江畑道からがお勧めです」と言われて、翌日、天候も良かったので原付バイクで江畑道の登山口を目指す。

春日と内田を結ぶ中讃南部大規模農道を走って行くと江畑に「中寺廃寺」の道標が上がっている。この道を金倉川源流に沿って登っていく。 すると塩入から伸びてきている林道と合流する。これを左に曲がり砂防ダムに架かる橋を越えて奥へ入って行く。

しばらくすると20台は駐車できそうな駐車場が左手に見えてくる。そこから尾根にとりついていく。

しばらくは急勾配が続くが、もともとは江畑からの大山参拝道であり、南斜面の大平集落を経て阿波との交易路であった道で、旧満濃町と仲南町の町境でもあったためしっかりとした道で歩きやすい。迷い込み易いところには標識がある。

高度が上がると大きな松の木が多くなるが、この辺りはかつては松茸の本場であった所。この時期にこの付近の山に入って、「誰何」されたことがある。苦い思い出だ。
しかし、今は下草が刈られない松林に松茸は生えない。松茸狩りの地元の人にも出会わない。出会う確率が高いのは猪かもしれない。

傾きが緩やかになると標高700㍍付近。
展望はきかないが気持ちのいい稜線を歩いて行くと鉄塔が現れる。私の使っている地形図は何十年も前のものだから高圧線が書き込まれていて、現在地確認の際のランドマークタワーの役割を果たしてくれる。しかし、最近の地形図には「安全保障」上のため政府からの要請で記入されなくなったと聞く。何か釈然としない。

そんなことを考えながら歩いていると柞野から道の合流点と出会う。
柞野にも立派な広い駐車場が作られ、ここまでの道も整備された。流石「国指定史跡」になっただけはある。
そして、すぐに分岐点。まずは、展望台を目指す。
最後の急登の階段を登ると・・

ここからの展望は素晴らしい。

燧灘の伊吹島から象頭山の向こうの荘内半島、
そして眼下に横たわる満濃池、讃岐平野の神なびく山である飯野山

さらに、東は屋島から高松空港。
「讃岐山脈随一の展望を誇る」と説明板に書かれていたが、そうかもしれない。展望台も新築されたばかりで気持ちいい。ここにシュラフとコッフェルを持ってきて「野宿」したら気持ちいいだろうなと思ってしまう。

展望を楽しんだ後は、中寺廃寺の遺構めぐり。
その前に準備してきたペーパーと説明板で復習。
この辺りは、「中寺」「信が原」「鐘が窪」「松地(=末寺)谷」という寺院関係の地名が残るなど、大川七坊といわれる寺院が山中にあったと地元では言い伝えられてきた。しかし、寺院のことが書かれた文書はなく、中寺廃寺跡は長らく幻の寺院であった。昭和56年以後の調査で、その存在が明らかとなってきた。中寺廃寺跡とは、展望台の周辺の東西400m、南北600mの範囲に、仏堂、僧坊、塔などの遺構が見つかっている平場群の総称で、東南東に開いた谷を囲む「仏」「祈り」「願」の3つのゾーンからなる。創建時期は山岳仏教草創期である9世紀にまでさかのぼるとされている。
まずは遺跡の中で一番最初に開かれたとされる「祈り」ゾーンへと向かう。
やって来たのは展望台から東に張り出した尾根の平坦部。土盛り部分が見えてきた。

ここから出てきた礎石建物跡は5×3間(10.3×6.0m)で、その中央方1間にも礎石がある点が珍しい。このため、仏堂ではなく、礎石配列から割拝殿と考えられる。ここから見上げる大川山の姿は美しい。
割拝殿とは???
割拝殿とは???

こんな風に真ん中に通路がある拝殿のことを割拝殿と呼ぶようだ。
この建物の東西には平場があるが、一方の平場は本殿の跡であり、一方の平場は参詣場所と考えられる。
その下にある掘立柱建物跡2棟は小規模で、僧の住居跡とされている。
僧侶達は、ここに寝起きして大川山を仰ぎ見て、朝な夕なに祈りを捧げられたのだろうか。昔訪れた四国霊場横峰寺の石鎚山への礼拝所の光景が、私の中には重なってきた。

僧の住居跡とされる掘立柱建物跡2棟部分だ。
遺構跡は、埋め戻されて保護されている。松林の間を抜けて、今度は「仏ゾーン」へ向かう。

ここには南面して、仏堂と塔があった。
標高高723m地点で、3間(5.4m)×3間(5.4m)の礎石建物跡で、強固に盛土された上に礎石が置かれていた。心礎の真下からは、長胴甕が置かれ、周囲が赤く焼かれた壺5個が出土している。この塔を建てる際に行われた地鎮・鎮檀具鎮のためのものであろうとされている。塔跡礎石は和泉砂岩製で、成形されていない不定形なままの自然石である。同じような石が付近の谷にごろごろしているため山中の自然石を礎石として用いられたようだ。遺構保護のため、遺構には盛土を行い礎石建物については元の礎石によく似た石で礎石の位置を表す方法で保存されているという。

礎石に腰掛けて、想像力を最大限に羽ばたかせてみるが、千年前のこの山中にこんな塔が立っていたとは、なかなか想像できない。
どんな勢力が背景にいたのか。僧侶はどんな生活を送っていたのか。地元勢力との関係は?金剛院や尾瀬寺との関係は?
分からないことが多く、????が頭の中を飛び交う。
ヒントは、この塔跡と仏堂跡の配置が讃岐国分寺と相似関係にあり、国分寺勢力との関係が考えられているようだ。西国の国分寺を再興した大和西大寺の律宗の影の影響下にあったのだろうか。出土品も西播磨産の須恵器多口瓶や中国の越州青磁椀などの高級品も出土しており、平安期においてはこの地域では有力な山岳寺院であったようだ。

そしてやって来たのがお手洗い。
なんとバイオトイレです。高い山の山小屋ではよく見るが、まんのう町で経験するのは初めて。一時的な避難所の役割も兼ねているようだ。

ここまでは稜線上の中寺駐車場からコンクリート道が続いており、非常時には車両も入って来れる。
しかし、落葉の今は、この通り。
落葉の絨毯だ。

手洗い場から中寺道を南へ少し歩くと「願いゾーン」への道標と看板がある。ここから急な斜面をジクザクに5分ほど下りていくと・・

石積遺構は、この猪柵の向こう側のようだが・・・

なんとか柵を乗り越えて入れた平坦地には、至る所に石積遺構が見える。古代山岳寺院では、寺域内に祭祀的な場所があったそうです。
当時は、ここから谷を隔てて、谷向かいの拝殿や塔を見渡せた。そのため寺院の一部である石塔でだとされる。
平安時代中期からは、石を積んで石塔として御参りすることが民衆の中にも広がっていた。民衆が大川山への参拝の折に訪れ、ここに石を積んで石塔を作り、祈った場所ということになるのだろうか。
どちらにしても、後の時代の人たちが立ち入ることなく時代を経た場所で、平安時代の人々の息づかいを感じることが出来る所なのかもしれない。霊力のない私には難しいが・・

近隣の尾瀬寺廃寺の遺構よりも、山岳寺院の姿がより鮮やかにイメージできる場所だった。
なお、中寺廃寺を起源とする寺院として『琴南町誌』198には、次の寺院が紹介されている。
浄楽寺:丸亀市垂水町
藤田山城守頼雄、天台宗に属し塩入に開く。その子西園が永禄年中(1559-)に浄土真宗に改宗。9代日正円の時に現位置に移転。塩入地区の伝承によると浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも塩入には浄楽寺の門徒が二十数件ある。
願誓寺:丸亀市垂水町
天文年間(1532-)沙門連海が江畑に浄土真宗の庵をむすぶ。江畑 地区の伝承によると願成寺は元々中寺にあったとのこと。現在でも江 畑には願成寺の門徒が十数件ある。
永覚寺:綾歌郡綾川町東分甲
「永覚寺縁起」によると永覚寺の開基空円(大和の法蔵寺)が天禄2年(971)に大川宮の別当職をしたと伝えている。まんのう町中通に 所在したが、天正年間に火災にあい現在の土地に移る。現在でも琴南地区には永覚寺の門徒が多い。
称名寺:まんのう町内田
大川中寺の一坊で杵野の松地にあったが造田に移ったとされる。長禄年間(1457-)に浄土真宗に改宗し 内田に移転する。琴南地区の伝 承によると 浄楽寺は元々中寺にあったとのこと。
教法寺:徳島県三好郡東みよし市足代
大平地区の伝承によると、もともと中寺にあったが、大平の庵に移り、その後現在の場所に移ったとされる。
紅葉のいい季節に登れたことに感謝しつつ山を下りた。