瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町ふるさと探訪

  満濃池 西嶋八兵衛復興前1DSC00813
  
 幕末の「讃岐国名勝図会」には、源平の戦いの最中の元暦元年(1184)の大洪水で決壊してから、満濃池跡は
「五百石ばかりの山田となって人家なども建ち、池の内村と呼ばれた」
と記しています。それでは、満濃池はどのようにして再築されたのでしょうか。「満濃池営築図」を見ながら再築の様子を追ってみましょう。
まんのう町 満濃池営築図jpg
 この図絵に描かれているのは、崩壊から450年間放置された江戸時代初めの堤付近の姿です。
①の上から下に伸びる道路のように見えるのが金倉川で、川の中には石がゴロゴロと転がっています。
②の中央の島のように見えるのが池の宮があった丘で
③の右側の流れは「うてめ」(余水吐)の跡ですが、川のように描かれています。
③金倉川を挟んで、左右に丘があります。古代の満濃池は、この丘を堰堤で結んでいました。
④左(東)側が「護摩団岩」で、空海がこの岩の上に護摩団を築いて祈祷を行ったとされる所です。今は、この岩は満濃池に浮かぶ島となってほとんどが水面下です。
⑤右上の池の内側に当たる所に注目してください。ここに数軒の民家と道、農地を区切るあぜ道が描かれています。これが、池跡にあった「池内村」のようです。
満濃池DSC00881
「うてめ(余水吐け)」の奥には、家屋や田んぼが描かれている

 絵図の上部には、文字がぎっしりと書かれています。ここには寛永5年(1628)10月19日の鍬始め(着工)から、同8年(1631)2月の上棟式(完工)までの日付ごとの工程、奉行・普請奉行の氏名、那珂・宇多・多度3郡の水掛高、そして最後に、西嶋八兵衛による矢原正直との交渉が記されています。
満濃池の再築に向けて、二人の間で何が話し合われたかを推測してみましょう。
再築工事開始の二年前、寛永3年(1626)8月に、生駒藩奉行の西嶋八兵衛が池ノ内村の矢原正直方へやって来た。毎年の日照りについて相談がなされた。そこで、正直は池の内に所持している田地を池の復興のために残らず差し出すことを申し出た。
 つまり、この図に描かれている田畑や家屋が池の内村で、その領主が矢原家であったようです。満濃池を再築するにあたっては、土地の持ち主であり、有力者である矢原家の協力を欠くことができなかったのでしょう。  
 この功績に対して生駒藩は矢原家を満濃池を管理する池守に任じ、同時に池上下において五〇石を与えます。
 「讃岐国名勝図会」の「神野神社の釣燈篭銘文」からは、矢原家の歴代当主が氏神である神野神社の社殿の再建を願主として行っていたことが分かります。つまり、矢原家は池内村の領主であったようです。
 こうして、堰堤が出来上がり水がためられると池の内村は、池の中に姿を消すことになったのです。
満濃池史
大宝年間(701-704)、讃岐国守道守朝臣、万農池を築く。(高濃池後碑文)
820年讃岐国守清原夏野、朝廷に万農池修築を伺い、築池使路真人浜継が派遣され修築に着手。
821年5月、復旧難航により、築池別当として空海が派遣される。その後、7月からわずか2か月余りで再築。
852年秋、大水により万農池を始め讃岐国内の池がすべて決壊
852年8月、讃岐国守弘宗王が万農池の復旧を開始し、翌年3月竣工。
1022年 満濃池再築。
1184年5月、満濃池、堤防決壊。この後、約450年間、池は復旧されず放置され荒廃。池の内に集落が発生し、「池内村」と呼ばれる。
1628年 生駒藩西嶋八兵衛が満濃池再築に着手。
1531年 満濃池、再築
1649年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。
1653年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1654年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1869年 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。
    8月、満濃池、岩盤の掘削によって底樋とする工事に、軒原庄蔵を起用`満濃池の復旧工事に着手。
    9月、岩盤の掘削工事に着手。
1870年3月、石穴底樋貫通。6月、満濃池堤防復旧。7月、満濃池修築完了

  参考文献
 香川大学名誉教授 田中健二 歴史的史料からみた満濃池の景観変遷 満濃池名勝調査報告書

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 図書館で何気なく郷土史コーナーの本達を眺めていると「尊光寺史」という赤い立派な本に出会いました。手にとって見ると寺に伝わる資料を編纂・解説し出版されたもので読み応えがありました。この本からは、真宗興正寺派がまんのう町へどのように教線を拡大していったのかが垣間見えてきます。尊光寺が真宗を受けいれた戦国時代末期の情勢と、長尾城主の長尾氏の動きを見ておきましょう。

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まんのう町種子のバス停から見える尊光寺

  長尾一族は長宗我部に帰順し、その先兵として働きました。
そのためか讃岐の大名となった生駒氏や山崎氏から干されます。長尾一族が一名も登用されないのです。このような情勢の中、長尾高勝は仏門に入り、孫の孫一郎も尊光寺に入ります。宗教的な影響力を残しながら長尾氏は生きながらえようとする戦略を選んだのです。長尾城周辺の寺院である善性寺・慈泉寺・超勝寺・福成寺などは、それぞれ長尾氏と関係があることを示す系図を持っていることが、それを裏付けます。
 まんのう町での真宗伝播に大きな役割を果たしたのが徳島県美馬市郡里の安楽寺です。
この寺は興正寺の末寺で、真宗の四国布教センターの役割を担うことになります。カトリックの神学校がそうであったように、教学ばかりか教育・医学・農業・土木技術等の研修センターとして信仰的情熱に燃える若き僧侶達を育てます。そして、戦国時代になると彼らが阿讃の峠を越えて、まんのうの山里に布教活動に入ってきます。山沿いの集落から信者を増やし、次第に丸亀平野へと真宗興正寺派のお寺が増えます。

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尊光寺
 お寺といえば本堂や鐘楼があって、きちんと伽藍が整のっているものを想像しますが、この時代の真宗寺院は、今から見ればちっぽけな掘建て小屋のようなものです。そこに阿弥陀仏の画像や南無阿弥陀仏と記した六字名号と呼ばれる掛け軸を掛けただけです。
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六字名号

そこへ農民たちが集まってきて念佛を唱えます。農民ですから文字が書けない、読めない、そのような人たちにわかりやすく教えるには口で語っていくしかない。そのためには広いところではなく、狭いところに集まって一生懸命話して、それを聞いて行くわけです。そして道場といわれるものが作られます。それがだんだん発展していってお寺になっていきます。この点が他の宗派との大きな違いなのです。ですから、山の中であろうと道場はわずかな場所で充分でした。
 縁日には、村の門徒が集まり家の主人を先達に仏前勤行します。正信偈を唱え御文書をいただき、安楽寺からやってきた僧侶の法話を聞きます。そして、非時を食し、耕作談義に夜を更かすのが習いでした。
 やがて長尾氏のような名主層が門徒になると安楽寺から領布された大字名号を自分の家の床の間にかけ、香炉・燭台・花器を置いて仏間にしました。それがお寺になっていた場合もあります。
  尊光寺も長尾氏出身の僧侶で、この寺の中興の祖と言われる玄正の時に総道場建設が行われ、1636年には安楽寺の末寺になります。安楽寺の支配に属する寺は、江戸時代には、讃岐50、阿波21、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し四国最大の真宗寺院に発展します。讃岐の末寺の多くは中讃に集中しています。中讃に真宗(特に興正寺派)の寺院がたくさんあるのは、安楽寺の布教活動の成果なのです。

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尊光寺から見える種子集落と阿讃山脈
 本寺末寺関係にあった寺院は、江戸時代には阿讃の峠を越えて安楽寺との交流を頻繁に行ます。また、讃岐布教の最前線となった讃岐側の山懐には、勝浦の長善寺や財田の宝光寺などの大きな伽藍を誇る寺院が姿を見せます。
 さらに、お寺の由緒に
「かつては琴南や仲南の山間部にあったが、江戸時代のいつ頃かに現在地に移転してきた」
と伝わるのは、布教の流れが「山から里へ」であったことを物語っています。このため中西讃の真宗興正寺派の古いお寺は山に近い所に多いようです。
  最後に確認したいことは、この布教活動という文化活動は、瀬戸内海を通じて海からもたらされた物ではないということです。流行・文化は、海側の町からやって来るという現在の既成概念からは捉えられない動きです。 もう一度、阿讃の峠を通じたまんのう町と阿波の交流の実態を見直す必要があることを感じさせてくれました。

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