まんのう町立図書館が年に3回開く郷土史講座を、今年は担当することになりました。6月は借耕牛について、お話ししました。7月は佐文の綾子踊りについてです。興味と時間のある方の来場を歓迎します。
綾子踊り 由緒
鳥籠
絵の提供は石井輝夫氏です。
関連記事
「明治以来、世の中も進歩・変化も著しく、人の心も変化していく。その結果、綾子踊りを踊ることにも反対意見が出て、村内の者の心が一つなることが困難になってきた。旱魃の際にも雨乞い祈願を怠り、綾子踊も踊られなくなっていく。そして二十年三十年の月日はあっという間に過ぎていく。
右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也
綾子踊りが、どうして変わらずに残ったのか考えよう。発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた→ どうして文書を残していたのかな→ 何かで途絶えるかもしれないとおもったからじゃないかな→ 忘れないようにしたかったから 口だけだと忘れてしまいそうだから→ でも、どうしてここまでして残そうとしたんだろうか→ それを保存会の方に聞いてみよう!
綾子踊団扇指図書起さて当年は旱魃、甚だしく村内として一勺の替水なく農民之者は大いに困難せる。昔し弘法大師の教授されし雨乞い踊りあり。往昔旱魃の際はこの踊りを執行するを例として今日まで伝え来たり。しかしながら我思に今より五十年ないし百年余りも月日去ると如何なる成行に相成るかも計りがたく、また世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。また人間は老少を定めぬ身なれば団扇の使う役人、もしや如何なる都合にて踊ることでき難く相成るかもしれず。察する内にその時日に旱魃の折に差し当たり往昔より伝来する雨乞踊りを為そうと欲したれども団扇の扱い方不明では如何に顔(眼)前で地唄を歌うとも団扇の使い方を知らざれば惜しいかな古昔よりの伝わりし雨乞踊りは宝ありながら空しく消滅するよりほかなし。よりてこの度団扇のあつかい方を指図書を制作し、千代万々歳まで伝え置く。この指図書に依って末世まで踊りたまえ。又善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
昭和9(1934)年10月12日
右の此の書は、我れ永久に病気の所、末世の世に心掛リ、初めて之を企てる也
今年は雨がなく、ひでりが続いて、佐文の人たちは大変苦しみました。佐文には、弘法大師が伝えた雨乞い踊(おど)りがあります。昔からひでりの時には、この踊りを踊ってきました。しかし、世の中の進歩や変化につれて、人の心も変わっています。そんな踊りで雨が降るものか、そんなのは科学的でない、と反対する人達もでてきて、佐文の人たちの心もまとまりにくくなっています。そして、ひでりの時にも、雨乞踊りがおどられなくなります。そのまま何十年も月日が過ぎます。そんなときに、ひどい日照りがやってきて、ふたたび雨乞踊りを踊ろうとします。しかし、うちわの振(ふ)り方や踊り方が分からないことには、唄が歌われても踊ることはできません。こうして、惜(お)しいことに昔から佐文に伝えられてきた雨乞踊りという宝が、消えていくのです。そんなことが起きないように、私は団扇のあつかい方の指導書を書き残しておきます。これを、行く末(すえ)まで伝え、この書によって末世まで踊り伝えてください。善女龍王の御利生を請けて一粒万倍の豊作を得て農家繁盛光栄を祈願する。
字佐文戸数百戸余りなる故に、綾子踊について協議して実施することが困難になってきた。ついては「北山講中」として村雨乞いの行列で願立て1週間で御利生を願った。(しかし、雨が降らなかったので)、再願掛けをして旧盆の7月16日に踊ったが、利生は少なかった。そこで旧暦7月29日に大いなる利生があった。そこで、俄な申し立てで旧暦8月1日に雨乞成就のお礼踊りを執行した。
①大干魃になっても、佐文がひとつになって雨乞い踊りを踊ることが困難になっていること。②そこで「北山講中(国道377号の北側の小集落)」だけで綾子踊りを編成して踊ったこと③2回目の躍りで、雨が降ったこと④そのため8月1日に雨乞成就のお礼踊りを奉納したこと
「世の中も進歩も変度し、人心も変化に依り、又は色々なる協議反対発し、村内の者の心が同心に成りがたく、又かれこれと旱魃の際にも祈祷を怠り、されば雨乞踊もできずして月日を送ることは二十年三十年の月日を送ることは夢のごとし。」
発問 綾子踊りが長い間続いているのはなぜでしょうか?→ 戦争での中断 → 戦後の復活 → 文書があったので復活できた→ どうして文書を残していたのかな
12:20 記念館を出発12:40 佐文公民館帰着13:00 弁当配布後に解散
一 おれハ思へど実(ゲ)にそなたこそこそ 芋の葉の露ふりしやりと ヒヤ たま坂(邂逅)にきて寝てうちをひて 元の夜明の鐘が早なるとの かねが アラシャ
二 ここにねよか ここにねよか さてなの中二 しかも御寺の菜の中ニ ヒヤ たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとのかねが アラシャ
三 なにをおしゃる せわせわと 髪が白髪になりますに たま坂にきて寝てうちをいて 元の夜明のかねが 早なるとの かねが アラシャ
わたしは、いつもあなたを恋しく思っているけれど、肝心のあなたときたら、たまたまやってきて、わたしと寝て、また朝早く帰つてゆく人。相手の男は、芋の葉の上の水王のように、ふらりふらりと握みどころのない、真実のない人ですよ
○かづいた水が、ゆりゆりたぶつき(『松の葉』・巻一・裏組・賤)○許させませよう 汲んだる水は ゆうりたぶと、とき溢れる(広島市・安芸町・きりこ踊『芸備風流踊り歌集』)
○恋ひ恋ひて、邂逅に逢ひて寝たる夜の、夢は如何見る、ぎしぎしと抱くとこそ見れ(今様・『梁塵秘抄』・四六〇番、○思ひ草 葉末にむすぶ白露の たまたま来ては 手にもたまらず(『金葉和歌集』・巻七・恋・源俊頼)○恋すてふ 袖志の浦に拾ふ王の たまたまきては 手にだにたまらぬ つれなさは(『宴曲集』・巻第三・袖志浦恋)○枯れもはて なでや思草 葉末の露の、玉さかに 来てだに手にも たまらねば(同・巻第二・吹風恋)
○「たまさかの御くだり またもあるべき事ならねば わかみやに御こもりあつて」(室町時代物語『六代』)
古代○たまさかに我が見し人をいかならむ よしをもちてかまたひとめ見む(『万葉集』・巻十一・二三九六)
中古中世○恋ひ恋ひて 邂逅(たまさか)に逢ひて寝たる夜の 夢は如何見る ぎしぎしぎしと抱くとこそ見れ(『梁塵秘抄』・二句神歌・四六〇番
中世近世〇たまさかに逢ふとても、猶濡れまさる袂かな、明日の別れをかねてより、思ふ涙の先立ちて(『艶歌選』・3番)
○男 わごれうおもへば安濃の津より来たものを をれふり事は こりやなにごと(77)○女 なにをおしやるぞ せはせはと うはの空とよなう こなたも覚悟申した(78)
男「おまえのことを思って、安濃の津よりわざわざやってきたのに、その機嫌の悪さは何事か」女「何をおっしゃるのか せはせはと・・」と女が言い返しています。
○何とおしやるぞ せわせわと 髪に白髪の生ゆるまで (兵庫県・加東郡・百石踊・『兵庫県民俗芸能誌』)○うき人は なにとおしやるぞ せわせわと 申事がかなうならば からのかゝみ(で)、ななおもて (徳島県・板野郡・嘉永四年写『成礼御神踊』)
ぶんごみのさき からのかがみは のをさて たかけれど みたいものかよ のをさてぶんごみのさき ぶんご女郎たち 入江入江で 船のともづなに のをさて 針をさす船のともづなに のをさて 針をさすよりも あさぎばかまの のをさてひだをとれ なおもだいじな のをさて すじの小袴
豊後の岬 唐の鏡は美しく磨かれ 高価だけれども 見たいものよ、豊後の岬 豊後女郎たちは 入江入江で 船のともづなに 針をさす船のともづなに 針をさすよりも 浅黄袴ひだをとれ なおもだいじな すじの小袴
①薩摩小女郎と 一夜抱かれて朝寝し(て)起きていのやれ ボシャボシャと薩摩のおどりを一踊り②薩摩の沖に船漕げば 後から小女郎が出て招く 舟をもどしやれ わが宿へ 舟をもどしやれ わが宿ヘ
意訳変換しておくと一、花寵に 玉ふさ入れて もらさし人に しらせしんもつが辛苦の つんつむまえの ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ ソレ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かな たまらぬ ハア とに角に二、花寵に 我恋いれて もらさし人に 知らせしん もつがしんくの つむ前の ヒヤ 一花つむ前の ヒヤ ソレ つきや恋かな せうたいなしヤ うきや恋かな砲まらぬ ハア とに角に三、花寵に うきなを入れて もらさし人に しらせしん もつが辛苦の つむ前の ヒヤ 一 花つむ前の ヒヤ うきや恋かな せうたいなしや うきや恋かなたまらぬ ハア 兎二角に
花籠に恋文を入れて、人には知られないようにと、秘めておくのは、辛いことだよ。しかし、花籠では、すぐに漏れてしまいますよね.
①花籠に月を入て 漏らさじこれを 曇らさじと 持つが大事な(三一〇番)②籠かなかな 浮名漏らさぬ籠がななふ(311番)
縁側の花籠に 月の光が差し込む
この光を逃さないように 遮るものがないように この貴重な時間を出来るだけ長く保ちたい
(男との逢瀬をいつまでも秘密にしたい・・・)
愛する男性を我が身に受け入れても、その事は自分の胸の内しっかり秘めて、決して外には漏らさないようにしよう。男の心を煩わしさで曇らさないために、
1番に 玉ふさ(玉章)で「書状=恋文」2番に わが恋3番に 浮き名
①花籠に浮名を入れて 洩らさでのう人に知らせしん もつがしん (徳島県板野郡・神踊・花籠)『徳島県民俗芸能誌』
②花籠にたまずさ(恋文)入れて ひんや 花籠にたまずさ入れて む(も)らさじの人にしらせずや ア もとがしんく(辛苦)で つむわいの つむわいの
③花籠にうきなを入れて(以下同)④花籠に匂ひ入れて (以下同)
竹がな十七八本ほしやま、浮名や洩らさじのな籠に組も(『松の葉』・巻一・裏組・みす組)
①歌われている歌詞が16世紀までしか遡ることは出来ない。②弘法大師が、こんな艶っぽい歌を綾子に伝えたとは、考えられない。
1水踊。 2四国 3綾子 4小鼓。 5花籠 6鳥籠 7邂逅(たまさか)8六調子(「付歌」を含む)。 9京絹 10塩飽船 11しのび 12帰り踊り
二、池田の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ雨が降ろと ままいの ソレ しつぽとぬうれて ソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ三、八坂の町は 広いようで狭い 雨さえ降れば 蓑よ 笠よ ヒヤ 雨が降ろと ままいの ソレ しつぽと ぬうれてソレ 水か 水かサア こうちござれ こうちござれ
○あれに見えしはどこ浦ぞ 立目にきこえし堺が浦よ 堺が浦へおしよせて (香川県三豊郡・和田・雨乞踊歌)○さかへおとりわおもしろやヽ さかへさかへとおしやれども 一化の都にますわゑな (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)○堺の浜を通りて見れば あらうつくしのぬりつぼ竿や (徳島県阿南市・神踊・殿御踊歌)○堺ノ浦ノ千石船ハ ドナタヘマイルタカラブネ (徳島県名東郡・佐那河内村・神踊歌)○ここは堺か面白やア かたにおろしてあきないしよ あきなゐおどりはひとおどり(徳島県徳島市。川内町あきない踊り
池田の町=阿波池田?八坂の町=京都の八坂?
○堺の町は広いようで狭い 一夜の宿を借りかねて 森木の下で夜を明かす 夜を明かす (順礼踊『芸備風流踊歌集』)○遠州浜松広いようで狭い 横に車が二挺立たぬ(『山家鳥虫歌』・遠江)○遠州浜松広いよで狭い 横に車が横に卓がやんれ 一丁も二丁目三丁目も… (新潟県刈羽郡・越後綾子舞・堺踊嘉永本他)
艶っぽくエロチックな表現です。しかし、「濡れ肌」でなく「町がしっぼと濡れる」です。これは堺の町など三つの町が、めぐみの雨によって、十分にしっとりとうるおい、蘇ったありさまを表現していると研究者は評します。しかし、それだけではありません。「しつぽと濡れたる濡れ肌を今に限らうかなう まづ放せ」(一七五番)
「佐文村二旱(日照)ノ時、此踏舞ヲスレバ必験アリトテ、龍王卜氏神ノ社トニテスルナリ」
其初ナルヲ水踊、次ナルヲ四国、次ナルヲ綾子、次ナルヲ小鼓、次ナルヲ花籠、次ナルヲ鳥籠、次ナルヲ邂逅、次ナルヲ六調子、次ナルヲ京絹、次ナルヲ塩飽船、次ナルヲ馴日、次ナルヲ忍び 次ナルヲ帰り踊 ナドト、十二段ニワカテリ
繁昌する堺の町(池田の町、八坂の町)は、広いようで狭いよ。雨乞踊の祈願が叶って雨が降り、人々は蓑よ笠よと騒いでいるが、田も野もそして町も、しっぽりと濡て潤い、蘇りました。この「水が水が」とうたう水の歌が、佐文に水を呼ぶ。うれしいことだよ、めでたいことだよ。
①踊り役が入場する前に、龍王宮を祭り、左右に榊をもって露払をする②台傘持が入り、幟持四名が続き、その後唐櫃、龍王の御霊、柱突、棒振、薙刀振、山伏姿の法螺貝吹、小踊、芸司、太鼓、鼓、笛、地唄、側踊の順に入場して、それぞれの位置につく。③初めの位置取りは、棒と薙刀が問答を行うため、地唄、警固などが神前定位置に進み、その他は神社の随身門を入ったところに、社前に広場を作る。④棒振と薙刀振の所作(棒振が進み出て四方を払い、中央で拝して退くと、薙刀振が出て中央で拝し、薙刀を携えて西東北南と四方を払い、再び中央を払い、また四方を払う。薙刀の使い方には、切りこむ形、受けの形、振り回す形などがある。)⑤棒振と薙刀振とが中央で向かい合い、掛け合いの問答をする⑥台傘持が来て、棒振と薙刀振の頭上に差掛けると、二名は退場。
棒 暫く暫く 先以て当年の雨乞い 諸願成就 天下泰平 国土安穏 氏子繁昌 耕作一粒万倍と振り出す棒 は 東に向かって降三世夜叉薙 抑某(ソモソレガシ)が振る薙刀は 南に向かって輦陀利(ぐんだり)夜叉棒 今打ち出す棒は 西に向かって大威徳(だいいとく)夜叉薙 又某が振る薙刀は 北に向かって金剛夜叉棒 中央大日大聖不動明王と打ち払い 薙 切り払い 棒 二十五の作物 薙 根は深く棒 葉は広く 薙 穂枯れ 棒 虫枯れ 薙 日損 水損 風損なきように棒 善女龍王の御前にて 悪魔降伏と切り払う薙刀 柄は八尺 身は三尺薙 神の前にて振り出すは 棒 礼拝切り 薙 衆の前は 棒 立趾切り 薙 木の葉の下は棒 埋め切り 薙 茶臼の上は 棒 廻し切り 薙 小づまとる手は 棒 違い切り薙 磯打つ波は 棒 まくり切り 薙 向かう敵は 棒 唐竹割り 薙 逃る敵は棒 腰のつがいを車切り 薙 打ち破り 棒 駈け通し 薙 西から東 棒 北南 薙 雲で書くのが 棒 十文字 薙 獅子奮迅 棒 虎乱入 薙 篠鳥の 棒 手を砕き 雨の八重雲 雲出雲の 池湧きに 利鎌を以って 打ち払い 薙 切り払い 棒 今神国の祭事 薙 東西 棒 南北と振る棒は 陰陽の二柱五尺二寸 薙 ヤッと某使うにあらねども 棒 戸田は 薙 三つ打ち 棒 自現は 薙 身抜き刀軍 古流五法の大事 命
善久坊 紺の袷の着流し、白布の鉢巻、襟、草履ばき、腰に太刀と鎌をさし、六尺の青竹を手にしている。南光坊 同じいで立ちだが、鎌はさしていない。南光坊が突っ立ち、行きかける。善久坊をやっと睨んで声をかける。南光坊 おおいそもそもそこへ罷り出でたるは何者なるぞ。善久坊 おう罷り出でたるは大峰の善久坊に候、今日高山尊神の祭礼にかった者。南光坊 おう某は寺山南光院、’今日高山尊神の御祭礼の露払いにかった者、道あけ通らせ給え。善久坊 急ぐ道なら通り給え。南光坊 急ぐ急ぐ。南光坊行きかける。善久坊止める。両者青竹をもって渡り合う。鉦・太鼓の囃子、青竹くだける。これを捨て南光坊は太刀、善久坊は鎌で立ち廻る。善久坊も刀を抜いて斬りむすぶ。勝敗なく向かい合って太刀を合掌にした時、[さやはらい]一段の終りとなる。
佐文村に佐文七名という七軒の豪族、四十九名がいた。昔、千ばつがひどく、田畑はもちろん山野の草や木に至るまで枯死寸前の状況で、皆がとても苦しんでいた。その頃、村には綾という女性がいた。ある日、四国を遍歴する僧がやって来た。僧は、暑いので少し休ませてもらいたいと、綾の家に入った。綾は快く僧を迎え、涼しい所へ案内をしてお茶などをすすめた。僧は喜んでお茶を飲みながら、色々と話をした。その中で、旱魃がひどく、各地で苦しんでいるが、綾の家ではどううかと尋ねられた。そこで綾は、「自分の家ももちろん、村としても一杓の水も無い状況で、作物を見殺しにするしかない。本当に苦しい」と答えた。すると僧は、「今雨が降ったら、作物は大丈夫になるか」と尋ねたので、「今雨が降ったら、作物はもちろん人々は喜ぶでしょう」と綾は答えた。その答えに僧が「それでは私が今、雨を乞いましょう」と言う。綾は怪しみ、「いくら大きな徳がある僧でも、この炎天下に雨を降らせるのは無理と思います」と答えた。すると僧は、「今、私の言うようにすれほ、雨が降ること間違いなしです」と言う。そこで綾は「できる限りやってみます」と答えた。僧は「龍王に雨乞いの願をかけ、踊りをすれば、間違いない。この踊りをするには多くの人が必要なので、村中の人たちを集めなさい」という。
そこで綾はあちこちと村中とたずね歩いたものの日照りから作物を守ろうとするのに忙しく、だれも家にはいない。帰ってきた綾が、誰もいないことを僧に話すと、「では、この家には何人子どもがいるか」と尋ねる。「六人」と答えると、「ではその子六人と綾夫婦と私の九人で踊りましょう。その他親族を集めなさい」と言う。綾は、走って兄弟姉妹合わせて四・五人呼ぶと、僧が「まず私が踊るので、皆も一緒に踊りなさい」と踊り始めた。
二夜三日踊って、結願の日となっても雨は降りません。なのに僧侶は「今度は蓑笠を着て、団扇を携えて踊りなさい」と言う。綾は「この炎天下に雨が降るわけでもないのに、蓑笠は何のためですか」と怪しんで訊ねます。「疑わず、まず踊りなさい。そして踊っている最中に雨が降っても、踊りを止めないこと。踊りをやめると、雨は少なくなるので、蓑笠を着て踊り、雨が降っても踊りが終わるまで止めずに、大いに踊りなさい」と僧は云います。綾は「例えどんな大雨が降っても、決してやめません」と答えた。まず子ども六人を僧の列に並べ、僧自らが芸司となって左右に綾夫婦を配置しました。親類の者には大鼓、鉦を持たせてその後ろに配し、地唄を歌つて大いに踊った。すると、不思議なことに、踊りの半ばには一天にわかに掻き曇り、雨が降り出したのす。 みんなは歓喜の声を上げながら踊りに踊った。雨は次第に激しくなり、雨音が鉦の響きと調和して、滝のように響きます。ついには山谷も流れるのではないかと思う程の土砂降りとなり、踊るのも大変で、太鼓の音も次第に乱れていきました。終わりの一踊りは、急いでしまい前後を忘れ、早め早めの掛け声の中で大いに踊った。 降雨に四方の人々が馳せ参じ、誰もかれもが四方で囲うように踊った。こういった経緯から、昔も今も綾子踊りに側踊りの人数に制限はありません。善女龍王の御利生は何物にも代えがたい、ありがたく恐れ多いこととなった。
踊りが終わってから、歌や踊りの意味などを詳しく教えてもらいたいと僧に乞うと、詳しく教えてくれ、帰ろうとした。綾や子どもたちが、名残を惜しむようすを見て、僧は心動かされ、「今後どのような千ばつがあっても、 一心に誠を込めてこの踊りを行えば、必ず雨は降る。末世まで疑うことなく、千ばつの時には一心に願いを込め、この雨乞いをしなさい。末代まで伝えなさい」と言って、立ち去った。見送っていると、まるで霞のような姿だったので、この僧は、弘法大師だと言い伝えられるようになり、深く尊び崇まれるようになった。佐文の綾子踊りと言うのは、この時から始まり、皆の知るところとなった。千ばつの時には必ずこの踊りを行うこととなり、綾子踊りと言うのも、ここから名付けられた。
浄厳が善通寺で経典講義を行った延宝六年(1678)の夏は、炎天が続き月を越えても雨が降らなかった。浄厳は善如(女)龍王を勧請し、菩提場荘厳陀羅尼を誦すること一千遍、そしてこの陀羅尼を血書して龍王に捧げたところが、甘雨宵然と降り民庶は大いに悦んだ。今、金堂の傍の池中の小社は和尚の建立したもうたものである。
「干(照)続きに付き星越え龍王(社)において千力院え相頼み雨請修行を致す」
①まず最初に、山伏による祈祷②次に寺院による祈祷③最後に、鮎滝(香川町鮎滝)の童洞淵での雨乞いの修法
この年は、春から雨が降らず、五月は晴天続きで雨はわずか一日、半日の降雨が二回のみで、あとはすべて晴れであった。六月に入ってもまとまった雨は降らず、曇で少雨の日が五回であった。七月になっても梅雨の雨はなく、しかたなしに池の水を使って、田植えを始めた。田植えは終わったが雨降らず、溜池の水が十日には乏しくなってしまう。七月の記録では四日に少雨、十八日に夕立少しあり、新池の水も干上がる。二十四日に佐文の上地域のみで夕立の少雨、連日晴天続きであった。雷雲近づくも音だけで降雨なし。
28日に龍王山上の祠の前に雨乞い用の拝殿を建てる。この日より、京都から招いた行者が降雨祈願のお籠りに入る。30日には、水田が乾燥によってひび割れを生じ、稲の葉が巻く。21日は、青年団員が金刀比羅官に赴き、雨乞い用の聖火を貰い受けてくる。この日、地域住民が龍王山上にわら東を持って登り、大火を焚き総参りをする。8月も晴天続きで、多少の雨も降ったが焼け石に水。1日に、ため池からの水を一分割にする相談があり、二日には雨乞いの食事の当番が我が家にもあたり、龍王祠まで弁当を持っていく。三日には住民が総参りをして、善女龍王に降雨を願ったところ、朝のうちに少雨があったので、金刀比羅官へ聖火を戻しに行く。
6日は自分も早朝七時から夕方七時まで、龍王山上の拝殿でお籠りをして、行者の祈祷にあわせ雨を念じる。9日は、地区全体で綾子踊をする相談をした。出演者の役割が決まり、自分は地唄よみをすることになる。10日は、米が取れそうにないので、救荒作物のイモづるを挿すが乾燥がひどく、収穫は期待できない。11日から16日まで綾子踊の練習。地唄よみの衣装である袴を我が家で準備する。16日は、踊り手が全員神社に集まり、明日にそなえて練習の仕上げをする。17日は、午前8時に王尾村長宅に集合し、行列してここから出発。まず神社で一回踊る。行列を整えて、龍王山上に登り、祠の前で一回踊り、それから神社に引き返して、お旅所と神前でそれぞれ1回踊った。神社には大勢の見物人がやってきて、大変賑やかだった。18日、笛の木池の水をすべて放出して、池が空っばになった‥23日、地区で一番大きい空池(そらいけ)と井倉池が干上がった。底水に集まった小魚を皆で獲って持ち帰った。24日、琴平町から東方面では雷雨があったが、佐文地区にはまったく雨の気配すらない。25日、救荒作物のコキビの種を蒔いた。30、立ち枯れた田んぼの稲は、真白く変色した。
「財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。昨年4月には、別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒す始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の2月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。(中略)今後は佐文の者どもが三野郡中へ入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。」
「新法によって財田山への佐文の入山は停止されたと財田衆は主張し、箸蔵街道につながる竹の尾越で佐文村の人馬の往来を封鎖する行動に出ています。春がやって来て作付準備も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わずに迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万です。」
一、財田の上ノ村の昼丹波山の「不入来場所」とされる禁足地に佐文の百姓達が、無断で近年下草苅に入って来るようになりました。そこで、見つけ次第に拘束しました。ところが今度は昨年四月になると、西の別所山へ大勢でおしかけ、松の木を切荒し迷惑かえる始末です。佐文の庄屋伝兵衛方ヘ申し入れたので、その後はしばらくはやってこなくなりました。すると、今年の二月にまた大勢で押しかけてきたので、詰問し鎌などを取り上げました。
このままでは百姓どもの了簡が収まりませんので、口上書を差し出す次第です。村境設定以前に、上ノ村山の中に佐文の入会場所はありませんでした。30年以来、南は竹ノ尾山の一ノかけから上、西は別所野田ノ尾から東の分については入会で刈らせていました
一、神田山について前々から佐文村は、入会の山であると主張しますが、そんなことはございません。先年、神田庄屋の理左衛門の時に、佐文の庄屋平左衛門と心易き関係だったころに、入割にして、かしの木峠から東之分を入会にして刈り取りを許したといいます。これは近年のなってことでので、大違です。由□□迄参、迷惑仕候
以上のように入山禁止以外にも、今後は佐文の者どもが三野郡中へは入山した時には「勝手次第」に処置することを、御公儀様へもお断り申上ておきます。三ヶ村の百姓は、前々から佐文の入山を停止するように求めてきましたが、一向に改まることがありません。そのためここに至って、三ケ村の連判で訴え出た次第です。御表方様に対シ迷惑至極ではございましょうが、百姓たち一同の総意でありますので口上書を提出いたします。百御断被仰上可被下候、以上正徳五(1715)年六月
三野郡神田村庄屋 六左衛門同神田村分りはかた(羽方)村庄屋 武右衛門同上ノ村大庄屋字野与三兵衛庄野治郎右衛門様
一、この度、財田之衆が新法を企て、朝夕に佐文村からの入山に対して差し止めを行うようになって迷惑を受けていることについては、2月28日付けの書面で報告したとおりです。佐文村からの入山者は勾留すると宣言して、毎日多くの者が隠れて監視を行っています。こちらはお上の指図なしには、手出しができないと思っているので、作付用意も始まり、柴草の刈り取りなどが必要な時期になってきましたが、それも適わない状態で迷惑しています。新法になってからは財田方の柴草苅取が有利に取り計らわれるようになって、心外千万であると与頭は申しています。
一、新法によって財田山へ佐文の入山は停止されたと財田衆は云います。朝夕に佐文から侵入してくる証拠としてあげる場所(竹の尾越)は、箸蔵街道につながる佐文村の人馬が往来する道筋です。そこには、馬荷を積み下ろしする場所も確かにあります。2月14日に、この通行を突然に差し止めることを上ノ村側は通告してきました。が、竹の尾越は佐文の人馬が往来していた道なので、馬の踏跡や馬糞まで今でも残っています。佐文以外の人々も、何万の人たちがこの道筋を往来してきました。吟味・見分するとともにお知りおき下さい。(以下破損)
一、先に提出した文書でも申上げた通り、財田側は幾度も偽りを為して、出入り(紛争)を起こしてきました。財田方の言い分には、根拠もなく、証拠もありません。度々、新法を根拠にしての違法行為に迷惑しております。恐れながらこの度の詮儀については、申分のないように強く仰せつけていただけるよう申し上げます。右之通、宜被仰上可被下候、以上正徳五未四月十三日 佐文村庄屋 伝兵衛 印判同村与頭覚兵衛同同村五人頭弥兵衛同同村惣百性中山地六郎右衛門殿
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」
「林野(田畑以外の山や野原となっている土地)などに生えている木竹などは藩の許可もなく勝手に切ってはならない、屋敷の周囲の藪林も大切に育てよ
①藩の直轄する山林②百姓の所有する山林③村や郡単位での共有地となっている山林④寺社の所有する山林
①南は、竹の尾越を越えた財田上の村(財田町)方面②南西は、立石山を越えた神田村(山本町)方面③西は、伊予見峠を越えた羽方村(高瀬町)
古くは相見・左文とも書いた。地名の由来は麻績(あさぶみ)が転訛して「さぶみ」となったもので、古代に忌部氏によって開拓された土地であるという(西讃府志)金刀比羅官が鎮座する山として有名な象頭山の西側に位置し、古来から水利の便が悪く、千害に苦しんだ土地で、竜王信仰に発した雨乞念仏綾子踊りの里として知られている。金刀比羅宮の西の玄関口に当たり、牛屋口付近には鳥居や石灯籠が多く残っている。阿波国の箸蔵街道が合流して地内に入るので、牛屋口(御使者口)には旅館や飲食店が立ち並んで繁盛を続けた。「西讃府志」によると、村の広さは東西15町。南北25町、丸亀から3里15町、隣村は東に官田、南東に追上、南に上之、西に上麻・神田、北に松尾、耕地(反別)は37町余(うち畑4町余。屋敷1町余)、貢租は米159石余。大麦3石余。小麦1石余。大豆2石余、戸数100。人口350(男184・女166)、牛45。馬17、
仲之郡の柴木を苅る山についての従来の慣例は次の通り松尾山 苗田村 木徳村西山 櫛無村 原田村大麻山 与北村 郡家村 西高篠村
一、七ヶ村西東の山の柴草は、仲郡中の村々が刈ることができる一、三野郡の麻山の柴草は、鑑札札で子松庄が刈ることを認められている一、仲郡佐文の者は、先年から鑑札札なしで苅る権利を認められている一、羽左馬(羽間)山の柴草は、垂水村・高篠村が刈ることができる寛永拾八年巳ノ十月八日
一、那珂郡と鵜足郡の米は、前々から丸亀湊へ運んでいたが、百姓たちが要望するように従前通りにすること。一、丸亀藩領内の宇足郡の内、三浦と船入(土器川河口の港)については、前々より(移住前の宇多津の平山・御供所の浦)へ出作しているが、今後は三浦の宇多津への出作を認めないこと。一、仲郡の大麻山での草柴苅については、従前通りとする。ただ、(三野郡との)山境を築き境界をつくるなどの措置を行うこと。一、仲郡と多度郡の大麻山での草柴苅払に入る者と、東西七ヶ村山へ入り、草柴苅りをおこなうことについて双方ともに手形(鑑札札)を義務づけることは、前々通りに行うこと一、満濃池の林野入会について、仲郡と多度郡が前々から入山していたので認めること。また満濃池水たゝきゆり はちのこ採集に入ること、竹木人足については、三郡の百姓の姿が識別できるようにして、満濃池守に措置を任せること。これも従前通りである。一、多度郡大麻村と仲郡与北・櫛無の水替(配分)について、従来通りの仕来りで行うこと。右如書付相定者也
「先規より 財田山札三枚但し壱枚二付き三匁ツヽ 代銀九匁」
「麻村より山札出し、代米二て払い入れ申す村、金毘羅領、池領、多度郡内の内大麻・生野・善通寺・吉田両村・中村・弘田・三井、三野郡の内上高瀬・下高瀬」
「旧説には佐文は麻積で、麻を紡ぐことを生業とするものが多いので、そうよばれていた」
阿波忌部氏が吉野川沿いに勢力を伸ばし、阿讃山脈を越えて、谷筋に定着しながら粟井神社の周辺に本拠を置いた。そして、粟井を拠点に、その一派が笠田、麻に広がり、麻峠を越えて善通寺側に進出し大麻神社の周辺にも進出した。それを裏付けるように、粟井神社が名神大社なのに、大麻神社は小社という格差のある社格になっている。
「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」「大麻山(阿波)山麓部から平手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」
①粟井神社 (観音寺市大野原町粟井)②大麻神社 (善通寺市大麻町)③麻部神社 (三豊市高瀬町麻)④忌部神社 (三豊市豊中町)⑤高瀬町麻 (あさ)⑥高瀬町佐股(麻またの意味)
⑦まんのう町佐文(さぶみ、麻分(あさぶんの意味)
①佐文が「相見」と表記されたこと②「相見」は、かつては郡を跨いで存在したこと
「多度郡 田野平らにして山少し上に金ひら有り、
大麻山・五岳山等の能(よ)き牧有るに又三野郡麻山を加ふ」
興泉寺林に牛馬を入れない、下木も伐らない
大麻山は 三野郡・多度郡・仲郡の三郡の柴を刈る入会山
「山林・竹木、無断に伐り取り申す間敷く候、居屋鋪廻り藪林育て申すべく候」
「佐文の南部の尾郷という地にある。ここが小川布伯のいた所と伝えられている。その跡は、今は(オゴウ)と呼ばれている。」
「上麻村に原佐文という地名がある。布伯は、その娘を麻の近藤氏に嫁がせた。その時に、近藤氏がこの地(原佐文)を割いて小川布伯に与えた。」ともあります。
佐文では「領主小川布伯守は、天正(1583)の昔、土佐の長宗我部の兵火にかかり、そのため、佐文の城が落ちた」と今なお語りつがれている。古老の語るところによれば、「領主であり、百姓の神様である」と、いわれている。(佐文誌)
明治の初め頃、こはくさんの台地を尾郷部落の男衆が整地していた時のことです。昼近くになって、小牛程もある大きな石が出てきました。男衆たちは「この石は、こはくさんが黄金を埋めた蓋石ではないか」「いや、これは、墓のふた石だろう」「とにかく、空腹では動かせない。昼飯を食べて本腰でかかろう」と、家に帰りました。早々と食事を済ませて来てみると、さっきの石は影も形もなかったそうです
「昭和四年頃のことです。加茂神社の御旅所の神輿休の台石を新しく築くことになり、古い台石を尾郷の講中がゆずりうけて、こはく社の台石にした。」