瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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香川における松平家への歴史的な仕え方 - Genspark

第8代髙松藩主・頼儀の後継者に指名された水戸藩の頼恕は、文政元年(1818)年には、讃岐に入国し、参勤交代を務めていましす。しかし、正式に9代藩主となったのは文政4年5月からです。彼のことは、ウキには次のように記されています。

在職は22年。家老木村通明(亘、黙老)を通じて、藩財政の節制や改革を行った。東讃出身の久米通賢を登用し、悪化していた藩の財政を立て直すため坂出の東大浜・西大浜で国内最大級の塩田を開発した。また砂糖作りの奨励も行い、取引を円滑化するため砂糖為替法を定めた。学問面では、水戸学の影響を受けて、『一代要記』の後を継ぐものとして『歴朝要紀』を編纂させ、朝廷に献じている。

 治政開始16年後の天保5(1834)年2月9日、鵜足郡の宇足津村で百姓騒動が起こり、続いて2月15日には金昆羅領民が、那珂郡の四条村に乱入する騒動が起こります。この騒動は数日で鎮定しますが、このことを憂えた頼恕は、不穏な情勢があると伝えられていた髙松藩西郡の巡視を行う事にします。当時、高松藩は財政が窮乏し、諸事節約中でした。そこで、巡視経費を減額させようとした頼恕は、「鷹狩り」と同じ規模・スタイルで巡視を行うことにして、「お鷹野」と称したようです。この「お鷹野=阿讃国境巡視」について今回は見ていくことにします。テキストは「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」です。

19世紀なって造田村の庄屋を務めるようになったのが西村家です。
造田村庄屋西村家系図 琴南町誌240P
造田村庄屋西村家の系図


西村家は旧姓は森で、戦国末期に来村して帰農したようです。天正16年に、西村吉右衛門が村切りを願い出た文書(「そうだの米もり帳」)の中に、西村家系図に出てくる安左衛門が出てきます。幕末になって西村忠右衛門の代に、檜山植林経営の功労者として名字帯刀を許され、蔵組頭を務めるようになります。経営的には造田紙の元請として国産品の増産に功績を残し、御貸免経営にも成功します。彼が西村家勃興の基礎を築いた人物になるようです。忠右衛門の跡を継いだのが西村市太夫になります。藩の永引地の興し返し地調査などに従事し、傑出した庄屋として知られた人物だったようです。そのため造田村庄屋だけでなく勝浦村庄屋後見役、炭所東村庄屋後見役、中通村兼帯庄屋を務め大庄屋並の待遇を与えられるようになります。また、市太夫は、青年時代に炭所西村の桃陽宗匠に師事し、「桃郷」と号して俳句を学び、俳句集や神社の俳諾献額などにその名が残っています。市太夫の文才は庄屋文書の上にもあらわれ、目次欄を設けて整理された庄屋日帳や、郡の引纏方として担当した、天保9(1838)年の幕府巡見使の関係記録などの記録にも、その学識の豊かさがうかがえます。

造田村の庄屋西村市太夫が、郷会所の元〆から飛脚と同道して出頭するよう命ぜられるのが天保6(1835)年正月14日のことでした。
「殿様の大川宮(神社)御参詣、御鷹野を遊され、御境見(国境視察)をなさること」についての打合せでした。高松へ出頭して、詳細な命令を受けた市大夫は、翌15日、鵜足郡上法村の大庄屋十河亀太郎宅で開かれた郡寄合に出席し、大庄屋などと協議を行って帰宅します。この「鷹狩り巡視」の期日は2月末と知らされます。これから約二か月間、市太夫は準備のための多忙な日々を送ることになります。準備のスタートは予定順路の決定と距離確認から始められます。国境巡視について、絵図を添えて造田村分のコースは次の通りと報告しています。

「那珂郡境笹ヶ多尾から、犬の塚を通り、炭所西境三つ頭まで、長さ千弐百問」

西村家文書 柞野絵図2
西村市太夫が提出した造田村柞野谷周辺 (中寺が記入されている)

これが造田村の領域エリア分でした。
この年は雪の多い年で、大川寺周辺は三尺(約1m)超す雪に覆われていて、事前調査に手間取ります。阿讃の国境の道を、馬を牽き、数々の道具を持った多人数が通行できるかどうか、現地調査が繰り返されます。各村から集められた人足が、山方役所の手代の指図を受けて、大川神社から笹ケ多尾まで、御林の木を伐り枝を払い、長さ約700間の新道を開きます。笹ヶ多尾から三つ頭までの古道約1100間の修繕も行われています。
 一方で、塩入村からの通路についても調査が進められます。最初は、人足の引継場所になるのは、塩入村(那珂郡)と造田村(阿野郡)の郡境尾根にある「中寺」が予定されていました。しかし、尾根上は土地が狭く、殿様の近くで継ぎ立てを行って混雑することを恐れた市太夫は、笹ケ多尾に適地のあるのを見つけ、大庄屋を通じて塩入村に了解を求め了承を次のように得ています。

西村市太夫の大庄屋への返答(意訳)
一 ルートは塩入村の脇野馬場を出発点として、那珂郡の「社人の尾」を通過し、鵜足郡の中寺堂所で稜線に取り付きます。そこからは鵜足郡造田村を通行して、大川山に到着するという手はずになります。この間の距離は、50丁(5,5㎞)ほどです。なお、郡境の中寺附近は足場が悪く、継ぎ更えは難しいと思われます。
  昔からこのルートを年寄・郡奉行や山奉公が通る際には、塩人村の御林守伊平が案内しました。その際は笹ヶ多尾で継ぎ替えし、そこから大川までは造田村がお送りしています。昨日申し出た樹木が生い茂った古道でもあります。新道に出れば乗馬にて通行が可能であり、少々荷物を積んでも通行できます。以上をお伝えしますが、詳細は現地調査の上、お達しの通り絵図を添えて報告いたします。まずは簡略にお伝えします。
二月三日              西村市大夫
宮井清上様
十河亀五郎様

 大庄屋からは殿様にお話申し上げる資料として、巡回コース上の名所・古跡を調査して、地図を添えて差し出すように命ぜられています。市大夫は、犬の墓と中寺堂所について次のように報告しています。
一筆啓上仕り候、然らハ御通行筋二これ有り候犬の墓并寺地えの道法出来等も、申し出で候様二達々仰せ開かされの趣承知仕り候、左二申し上げ候
一末寺ノ岡犬の基
御通行筋より道法凡そ五丁位、尤も御立ち帰リニ相成り候得ハ、拾丁位二相成り申すべく候、且つ籠末の稟印往古よりこれ有り候所、子孫の者とこれ有り、天明年中内田免人道筋へ別紙碑銘の通リニて、引墓二仕り御座候、併しながら格別子細も伝承仕らざる義二御座候
一 中寺堂所
御通行筋より凡そ弐丁位、尤も立ち帰リニ相成り候時ハ四丁位、往古は石の□等相尋ね居り申し候、併しながら寺号等も相知れ申さず候義二御座候
右の通リニ御座候、以上
                   庄屋 西村市大夫
宮井清七様
十河亀五郎様
意訳変換しておくと
一筆啓上仕り候、鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋に別紙のような碑銘です。詳しいも伝承はないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
ここに出てくる中寺が中寺廃寺のあった所です。ということは、西村市太夫は中寺がどこにあったかも知っていたことになります。中寺廃寺Aゾーンの塔と仏堂までは、稜線分岐から約300mほどです。この記述と合致します。「石の□等」については、よく分かりません。
以下の文書のやりとりについては、前々回に見ましたので今回は省略します。
一方、里の村方でも、道普請が必要になります。
次の四つの端が掛け替えられます。
入尾川橋(長さ七間、道幅二間)、
西川井手橋(長さ二間半、道幅一間)
同所下谷橋(長さ六間、 道幅一間半)
佐次郎前橋(長さ三間半、道幅一間)
同時に、この四つの橋を結ぶ道もまた修繕されます。

御巡視の日が近づくにつれて、郷会所や山方役所の手代はもちろん、郡奉行・代官・郷普請奉行・寺社方の下見が続いて、庄屋や組頭は、その応接にも忙殺されます。
当日、笹ヶ多尾へ荷物などを運び上げる人足が、次のように村々へ割りあてられます。
人足数 263人
造田村 112人 (西村 69人 東村 46人)
長尾村  45人
炭所西村 38人
岡田上村 125人
岡田西村  25人
岡田東村   8人
人足には草軽と草履約300足が配布しています。

  頼恕の一行は、七か村で二班に分かれ、
本隊は木の崎から炭所西村、造田村、中通村を経て勝浦村へ
頼恕の班は、塩入村へ
そのため造田の天川が昼所とされます。一行約180人の昼所となったのは天川の大道筋で、菩左衛門、九郎右衛門、弥九次郎の三軒でした。
 行程の中で西村市太夫が最も気をつかったのは、笹ヶ多尾の御芦立所(休憩所)の設営でした。

西村家文書 殿様の鷹狩り案内図 大川から笹が田尾
大川山から笹ケ多尾の阿讃主稜線につけられた新道
塩入村の最後の休憩所である御林守の伊平の家から、笹ケ多尾までは中寺経由で雪中一里の行程です。
多葉粉盆、縁取り、筵、火鉢等の御道具立てはもちろん、湯茶わかし、仮雪隠の準備までしています。そして興炭10俵を運び上げて、釜三本を炭火でわかします。
 阿波からも、人足を出して道普請を手伝いたい、当日は村役人が百姓を引き連れて御挨拶申し上げたい旨の申し出がありました。しかし、代官の旨を受けた市太夫は、お鷹野であるからと、丁寧に書状で辞退しています。

頼恕の動きを見ていくことにします。
2月
26日 高松出駕、阿野郡北坂出町の宮崎次兵衛方で宿泊
27日 鵜足郡川原村宮井伝左衛門宅にて小休、岡田村木村甚三郎宅にて御昼所
    那珂郡吉野上付又蔵宅にて小休、七か村鈴木柳悦宅にて宿泊。

中寺廃寺 アクセス

こうして2月28日に、小隊編成で塩入からの「御境目見分」が行われています 
好天気に恵まれた頼恕は、一部の藩士を従えて柳悦宅を出発し塩入村に入ります。元庄屋小亀弥三郎宅にて小休、御林守の伊平宅にて足下を整えた後に、現在の鉄塔尾根沿いに残雪の残る東谷尾根をたどって「中寺」経由で笹ヶ多尾へ九ツ時分(正午)に到着します。笹ヶ多尾には、畳二枚が西村市太夫によって用意され、藩士が持参した毛所を広げられます。殿様は、弁当を食べ、遠鑑(とおかがみ:望遠鏡)で四方を遠望して時を過ごします。西村市太夫は「御機嫌よく御立にて、有り難き仕合にて御座候」と書き残しています。
 笹ヶ多尾から阿讃国境の峯伝いに進み、その途中で阿州の庄屋などの挨拶を受けます。これに対応しているのも西村市大夫です。

大川神社 1
大川宮(神社)に到着すると、神官の宮川美素登の案内で、入谷主水が代拝し、終わって頼恕も拝殿に上がって拝礼します。
大川神社 本殿東側面
大川神社本殿(改築以前)
「増補三代物語」には大川山のことが次のように記されています。
大山大権現社 在高山上、不知奉何神、蓋山神、若龍族也、昔阿讃土予四州人皆崇敬焉、歳六月朔祀之、大早民会鳴鐘鼓祈雨、必有霊応、祠前有小池、当祈雨之時、小蛇出渉水、須央雲起,市然大雨、旧在天台宗寺奉守、今廃、今社家主祭、或日、大川当作大山、音転訛也、所奉大山積神也(在予州、載延喜式所也)、
 寛永中生駒氏臣尾池玄蕃、蔵鉦鼓三十余枚歴年久、『申祠類敗、承応二年先君英公修之、其後焚山火、寛文十二年壬子英公更経営、元禄十二年節公巡封境見其傾類而修之、宝永六年辛丑又焚実、恵公給穀若千以興復、近年有祈雨曲、一名大川曲(州之医生片岡使有者作之、散楽者流之歌也
意訳変換しておくと
大山大権現社は、大川山の山頂に鎮座する。何神を祀るか分からないが、山神や龍族を祀るのであろう。昔は阿讃土予の四国の人々の崇敬を集めていたという。六月朔の祭礼や、大干ばつの際には人々は鐘や鼓を鳴らし、降雨を祈願すると、必ず雨が降った。 祠の前に小池があり、雨乞い祈願し雨が降る際には、小蛇が現れて水が吹き出す。するとにわかに雲が湧き、大雨となる。かつては天台宗寺奉守がいたが今は廃絶し、今は社家が祭礼を主催する。大川は大山の音転で、元々は伊予の大山積神である。
 寛永年間に、生駒家家臣の尾池玄蕃が鉦鼓三十余枚を寄進したが、年月が経ち多くが破損した。そこで承応二年に先君英公がこれを修繕した。その後、山火事で延焼したのを、寛文十二年に英公更が再建した。元禄十二年に節公が阿讃国境の検分の際に修理した。宝永六年には、また焼け落ちたが、恵公の寄進された穀類で興復することができた。近頃、雨乞いの時の曲を、一名大川曲ともいう。
参拝を終えた頼恕の一行は、大川宮から峯通りを進み、白ぇ峯(?)で軽い食事をとり、勝浦村本村の庄屋佐野佐平宅に向かいます。

2月28日の勝浦村庄屋佐野宅での宿泊については、記録が残っていないのでよく分かりません。ここでは、村役人などを含めると約200人の宿泊だったので、庄屋宅だけでなく、近くの長善寺や村役人宅なども宿舎とし使われたのでしょう。布団などの夜具は、造田や中通などから運び上げられたようです。「西村文書」に中に、次のような領収書と書付けが残っています。
領収書 「四布(よの)布団一枚五分、三布(みの)布団一枚三分」
2月25日付の書付け
「御人数増につき、 畳拾五枚、風呂一本を送った」
29日は勝浦の庄屋佐野家を出発した頼恕の一行は、川東村渕野の円勝寺を昼所としています。
勝浦村の佐野宅から円勝寺までは、難所であったので、中通村一疋、造田村四疋、炭所東村二疋、炭
所西村三疋、長尾村四疋、計十四疋の馬と馬方が加勢に出ています。

円勝寺 琴南淵野 殿様の昼食場
明治初年の円勝寺
円勝寺は、当時は浄土真宗興正寺派の寺院で、部屋割図を見ると、広い立派な客殿と庫裡があり、本堂も広く、設備がよく整っていたことが分かります。それでも藩主一行を迎えるには不十分だったようです。そのために境内に仮小屋を建て、近くの組頭庄左衛門宅など六軒を利用して、 一行の昼所に充てています。
 この準備を、取り仕切ったのが状継弥右衛門(稲毛家)で、彼もその記録を美濃紙44枚に及ぶ「殿様御鷹野合御小昼所円勝寺記録」として残しています(稲毛家文書)。そこには、一行のメンバーが次のように記されています。
一、御本亭(客殿)
御用達入谷主水。御用人古川市左衛門。同高崎清兵衛。御小姓斎藤尽左衛門外八名。御櫛番弐人。奥医師二人。奥横目二人。御庖丁人六人。賄人三人。末の者二人。小間使十四人。御肴量一人。八百屋一人。計四十五名。
一、円勝寺本堂
贅日山下新兵衛組十七人。御医師と足軽十一人。御茶道北村慶順組十三人。御内所方市原太郎組八人。御駕籠頭一人 .計五十人。
一、円勝寺仮小屋
御駕籠の者十人。小道具の者三人。御野合小使三人。助小使五人。御手回り御中間十一人。御荷物才領中間五人。計三十七名。
一、組頭庄左衛門宅
奥医師杉原養軒。同安達良長。外六名。計八名。
一、百姓伊四郎宅
惣領組中と御中間計十七人。
一、百姓伝次郎宅
御鷹方吉原男也外二十七人。計二十八名。
一、百姓次郎蔵宅
小歩行中間計十四人。
一、百姓佐十郎宅
御家来衆計二十人。
一、百姓伝次郎宅
郡奉行外七名。計八名。
(総計二百二十七名)
これを見ると一行の総数は227名であったことが分かります。当時は、高松藩の財政が最も窮乏していた時で、経費節約のために領内巡視を「御鷹野」と称して行う事になったと最初に記しました。しかし、参加メンバー数を見る限りでは、「少数による巡視」にはほど遠いものであったことがうかがえます。ある意味では「動く御殿」でもあったのです。
 円勝寺で軽い昼食をとった後の行動については、次のように記されています。
焼尾笠松 御芦立所で小休し、永覚寺にて御昼所、羽床上村逢坂庫大方にて御泊り。
翌日、畑田村富野佐右衛門宅にて小休し、香川郡円座村遠藤和左衛門宅にて御小休、御帰城遊され候

西村市太夫は、二月朔日に御鷹野記録の筆をおいています。
同年三月八日、川東村の状継弥右衛門は、兼帯庄屋川西勇蔵の名で、阿野郡南の大庄屋宛に、郷普請人足遣済の届書を次のように提出しています。
川東村
一人足五百二十一人 御小昼所一件遣済辻
一馬 四疋(此人足十二人)右同断
〆 五百三十三人
一人足百六人 指掛三ケ所川東村分遣済辻
一人足七百六十五人五分 御通行筋道作人足遣済辻三口
〆千四百四人五歩
右の通に御座候以上
未三月八日            兼帯庄屋 川西勇蔵
奥村宇右衛門様
水原先三郎様
これを見ると川東村もまた多くの人足を出動させて、大きい負担を蒙ったことが分かります。私は、この「御境目見分」は殿様の鷹狩りで、春になってから少人数で行われたと思っていました。しかし、それは違っていました。
厳寒2月の1mもの大雪の中、どうして「御境目見分」を行わなければならなかったのでしょうか?
考えられる説を挙げておきます
A 阿波藩に対する警戒・示威行動であった
B 遊惰に流れた藩士の士気を鼓舞するためであった
以上をまとめておくと
①第9代髙松藩主は、領内西部の不穏な空気を押さえるために「藩主巡回」を行う事にした。
②しかし、財政難のためにそれまでの正規なものではなく「鷹狩り」と称した簡略版で実施予定した
③巡視コースのハイライトは、大川山周辺の阿讃国境の巡視であった。
④そのための準備のために巡視コースの村々は、さまざまな準備と負担を担わされた。
⑤造田村庄屋であった西村家の文書から「鷹狩巡見」の様子を知ることが出来る。
⑥雪の残る2月末に、国境尾根の巡視活動を行った意図はなんであったのかよく分からない。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄 頼恕の巡視 琴南町誌221P」
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 かつて若い頃に、四国の山を歩いていて地図を読むと「佐古(さこ)」とか「葛籠」という集落をよく目にしたことを思い出します。これらの名前の付いた集落は稜線近くの空に近い集落が多かったように思います。「佐古」は、「水が湧くところ、谷田(さこ田)」で、山の高いところで水が湧き出すような所が、ソラの集落の開発拠点になり、そこに一族の主が最初に居館を構えたと、教えてもらいました。それ以後は、まんのう町美合の大佐古や吹佐古という集落を通る度に、その地形を観察し納得したことを思い出します。
 それでは「葛籠(つづろ)」は、どうなのでしょうか。

葛布 葛

葛(くず)は、秋の七草の一つで、秋に紫色の花をつけますが今では、やっかいものです。野放図にのびて、うち捨てられた畑を我が物顔に覆っていきます。その生命力には驚かされます。その根からはくず粉がとれることは、私も知っていました。しかし、葛から布がつくられたというのは、最近になって知ったことです。それはどんな布だったのでしょうか。今回は、葛から作られた繊維について見ていくことにします。
葛布 葛2

  まんのう町勝浦では葛布が作られていた

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布作り(讃岐国名勝図会)
 江戸末期に編纂された『讃岐国名所図会』には、挿絵入りでまんのう町(旧琴南町)勝浦の葛布が次のように記されています、
勝浦村農家、葛を製する図。天保年中より当村の樵夫、同所山中より葛を切り出し、農夫に商ふ。
農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て、諸国へ出だし、遂に国産の一とはなれり」
意訳すると
「勝浦村の農家が葛布を制作する図。天保年間のころから当村の樵夫たちは、山中から葛を切り出して、農夫に売るようになった。農夫は、これを蒸して、水に晒して葛布に織り立て、諸国へ販売するようになり、ついには讃岐の名産の一つとなった。」
 
ここからは樵が集めてきた山中の葛を材料に、農家が「葛布」を織っていたことが分かります。 
 考古学者の森浩一は、阿波の山間部では「太布」が野良着とし着用されていたと指摘します。
太布づくり① 楮〜甑蒸し〜樹皮を剥ぐ〜木槌で叩く / 2016年晩秋•阿波太布染織の旅 その6 | 朝香沙都子オフィシャルブログ「着物ブログ  きものカンタービレ♪」Powered by Ameba

 太布は、コウゾ、カジノキ、シナノキ、フジなどの草木の皮からつくられたようです。中でもよく使われたのはコウゾとカジノキで、コウゾを「ニカジ」、カジノキを「クサカジ」とか「マカジ」と呼んで区別していたと云います。コウゾが「煮(ニ)カジ」と呼ばれたのは、その皮をはぐために、大釜で蒸したためでした。

勝浦の葛布釜ゆで 讃岐国名勝図会
葛の釜ゆで(まんのう町勝浦)葛を蒸す工程

葛布 葛3

 勝浦の葛布も「農夫これを蒸して水に晒して葛布に織り立て」と、葛を蒸す工程があります。阿波の「ニカジ」製法と同じです。勝浦で葛布が織られ始めたのは、「天保年間」からだとありますので、この製法は阿波から勝浦に伝わったと研究者は考えているようです。

勝浦の葛布 洗い 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布工程 蒸して水に晒す(讃岐国名勝図会)

 太布について江戸時代の国学者、本居宣長はその著『玉勝間』の中で、次のように記しています
 いにしえ木綿といひし物は、穀の木の皮にて、そを布に織りたりし事、古へはあまねく常のことなりしを、中むかしよりこなたには、紙にのみ造りて、布におることは、絶えたりとおぼえたりしに、今の世にも阿波ノ国に、太布といひて、穀の木の皮を糸にして織りたる布あり。(後述)
意訳変換すると
  昔の「木綿」と呼んでいた織物は、木の皮で布を織ったもので、古へは全てそうであった。しかし、中世頃からは、木の皮から作るのは紙だけになって、、布を織ることは絶えたと思っていた。ところが、今も阿波ノ国には、太布と呼ばれる、穀の木の皮を糸にして織った布があるという

勝浦の葛布紡績・織布 讃岐国名勝図会
勝浦の葛布 紡績・織布工程(讃岐国名勝図会)

ここからは、次のようなことが分かります。
①古代の木綿とは、綿花から作られたものではなく、穀(カジ)の木の皮でつくった布のこと
②昔はどこにでもあって、めずらしいものでなかったが、現在(江戸時代)では阿波国にのみ残っていること
③古代には穀の木の布はどこにでもあったが、中世になると穀の木からは紙だけをつくるようになって布をつくることはなくなったこと
 「古事記伝」を著して古代のことを研究していた宣長の云うことですから真実味があるように思えてきます。本当なのでしょうか? 
古代文献を見ていくことにします。

葛布製法過程


 古代の木綿について「日本書紀」神代上、天石窟の段の第三の有名な部分を見ておきましょう。
スサノオノミコトの乱暴を怒ったアマアラスオオミカミが天石窟に隠れてしまったので、悪神がはびこる暗黒の世界となり困った。そこでアマテラスオオミカミを石窟から出すために神々が集まった。その際に、天香山の真榊を根っこから抜いて、その上枝には鏡をかけ、中枝には曲玉をかけ、下枝には「粟(阿波)国の忌部の遠祖天日鷲の作れる木綿を懸けた。」

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『古語拾遺』には、次のように記されます。
力令天富命率日鷲命之孫、求肥饒地、遣阿波国、殖穀麻種。其裔、今在彼国。当大嘗之年貢木綿、荒布及種々物、所以郡名為麻殖之縁也。

意訳すると
天富命が天日鷲命の孫を率いて肥沃な土地があるところを求めて、阿波国に至って穀と麻の種を植えた。其の子孫は今も阿波国にいて、大嘗祭がある年には本鄙と荒布のほか、種々の品物を献上し、その郡名も麻を植えたので「麻植郡」と呼ばれる。

それに続いて、天富命は阿波の忌部の一部を率いて東に行き、麻・穀を植えた。麻を植えたところを脂国(上総・下総)といい、穀を植えたところを結城郡といったと記します。
   先ほど見たように、古代には穀が木綿で、麻が荒布だったと云うのなら、木綿は穀からつくられた布、荒布は麻からつくられた布ということになります。また、荒布は和布に対する言葉で、目の荒い布ということになるようです。
『延喜式』には、
阿波の忌部は大嘗祭の時には、木綿・荒布のほか、鮎十五缶、ノビルの漬物十五缶、乾したギシギシ、サトイモ、橘(夏蜜柑か?)を各々十五篭、献上していた

と記します。

ふつけ鳥とは?

東方】かしこくてかわいいニワトリ様 : 2ch東方スレ観測所
平安末期の歌学書である『袖中抄』の「ゆふつけどり」の項には
「世の中さはがしき時、四境祭とて、おほやけのせさせ給に、鶏に木綿を付て四方の関にいたりて祭也」

とあって、疫病が起こって世の中が騒がしくなると、鶏に木綿を結び付けて、四関で放って祭ったとあります。

  また 『古今和歌集』(第十一の五三六)には
逢坂の ゆふつけ鳥も 我ことく 人や恋しき ねのみ鳴らむ

という歌を始めとして「ゆふつけ鳥」を歌った和歌が数多くあります。ここからは平安時代には、ゆふつけ鳥の風習が盛んだったことがわかります。この木綿は、穀の布を細く裂いたものと研究者は考えているようです。 古代には、穀の布を木綿と呼び、衣料用としてだけでなく四境祭のような祭礼にもゆふつけ鳥として使われていたのです。
葛布 太布

 以上をまとめておきます
 古代に阿波忌部は大嘗祭にあたって木綿・荒布などを献上していました。この木綿は、綿花から織られたものではなくカジノキ、コウソ、シナノキ、フジなどの皮からつくられたものでした。それが中・近世になると木綿は、阿波国以外ではすたれてしまいます。
 しかし、讃岐のまんのう町勝浦は、阿讃山脈のソラの集落で阿波との関係が強いところでした。以前に見たように、国境の行き来を制限する関所のようなものもなく、讃岐米や阿波からの借耕牛に見られるように、人やモノの交流・流通が盛んでした。そのため木綿(葛布)の製法が伝わり、江戸時代末期頃までは特産品として生産されていたようです。当時の葛布は、高級織物というより、農民の野良着として使用されたようです。これも阿讃交流史の一コマかもしれません。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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参考文献
  羽床明 阿波の太布と讃岐琴南勝浦の葛布   ことひら
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DSC00870長善寺遠景
勝浦の旧長善寺

勝浦村の御林守幸助は、文政十一(1828)年の春以来、阿州加茂宮村の百姓伝右衛門の娘いせを、阿野郡北加茂村の知り合いの娘であると偽って召し使っていました。いせは器量よしで気立ても良かったので、伝右衛門の長男豊吉とも親しくなります。そして、豊吉の友人で御林守幸八の次男利右衛門と、内縁関係を結ぶようになったようです。
 幸助は、いせが阿州者であることを知らずに、利右衛門が愛情を深めていくことが心配になってきます。ある夏の夜、幸助宅を訪れてきた利右衛門と、豊吉の間で、ちょっとしたことが原因になって、激しい口論が起きます。この機会を捉えて幸助は、息子の豊吉に味方して、利右衛門を叱責して利右衛門の出入りを禁止します。
 しかし、幸助が、いせをどこかへ連れ去って、自分との仲を引き裂くのではないかと心配した利右衛門は、翌日夜に、いせを幸助宅から連れ出し、出奔して身を隠してしまいます。当時、このような「掠奪婚」が「流行」していたようです。友人の助けを借りて女を掠奪し、同居して結婚の事実をつくり、周囲の人々に認めさせる結婚形式です。

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 二人は、阿野郡の陶村の知人の家に隠れ住んでいました。

これを見つけた利右衛門の兄・多次郎も、いせが阿波出身であることは知りません。二人の立場に同情して黙認します。
一方、いせがいなくなった幸助方では、利右衛門が友人を語らい、徒党を組んでいせを奪ったと村役人に訴え出ます。関係者が次々と村役人の取り調べを受け、利右衛門といせが陶村から連れ帰られたのは、その年の秋も深まる十月でした。
 利右衛門の兄の多治郎と一類の鹿蔵、五人組の文蔵・丈八・庄八が誤り状を書き、幸助と豊吉も、阿波の女を雇っていたことについて、誤り証文を村役人に差し出します。いせは、阿波の親元に送り返され、利右衛門もこの扱いに不足はなく、いせに未練のない旨を書いた一札を、村役人に差し出して、事件は一応内済になったようです。慶安の協定が、二人の愛情の結を断ち切ったことになります。
 このような経過を記録した文書が勝浦の庄屋だった家には残されています。ここから分かることは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人(逃散)防止協定」が二百年近く経過した幕末にも機能していたことです。江戸時代に、阿讃の両藩間での婚姻関係は認められていなかったことが分かります。
DSC00826勝浦

 ところが事件は、これでは収まりませんでした。
讃岐方の勝浦から親元の阿波へ連れ返されたいせは、弥三郎という男と結婚していました。それを聞いた元カレの利右衛門は、請めきれずに今度は国境を越えての掠奪結婚に出たのです。その事件を知らせる手紙が文政十二(1829)年2月17日の早朝、勝浦村の庄屋佐野佐蔵のもとに届けられます。差出人は、いせの嫁ぎ先である阿波の庄屋小笠七郎次からで、そこには次のように記されてありました。
一筆致二啓上一候。追々暖和に罷成候所、弥御堅勝に可被成御座、珍重目出度奉存候。然ば其御村OO免幸八倅利右衛門と申者、 今晩大勢の人数召連れ、当村〇〇名百姓多美蔵と申者宅へ罷越、倅弥三郎妻、有無の言不二申出横領し召連れ罷帰り申候に付、弥三郎儀留守の事故、親多美蔵義利右衛門に取付、申間せ候は、如何相心得右様横領の仕成仕侯哉と申聞せ候得共、何の言も無之、多美蔵を四ケ所迄打測に相及び、 其儘罷帰り候。其内名内の者共久付候得共、 大勢の者共夜中の事ゆへ行衛相知不申由、野士方へ申出候に付、右様横領成る義故難二捨置、其上多美蔵義四ケ所の大疵に付、命数の程
も難′計侯に付、右利右衛門儀御召集御行着可被下債。御行着の上有無御返事、此者へ御聞せ可被下候。委細の義は指越候者より型司取可
   意訳しておくと
一筆啓上致します。追々に暖かくなっていく季節ですが、堅勝であられましょうか。この度、次のような事件が起きましたのでお知らせします。そちらの勝浦村の幸八の倅・利右衛門と申す者が、 今晩、大勢の人間を引き連れて、当村の百姓・多美蔵宅へ押しかけ、倅の弥三郎妻を横領し召連れ帰りました。これは弥三郎の留守の間のことで、多美蔵は利右衛門に取付いて、このような「横領」をおこなうことの不法を申聞せたが、何の返答もなく、その上に多美蔵を四ケ所も打ち据える始末です。
  大勢の者がいたようですが夜中のことで、行方知れず、野士方へ申し出ることになりました。この横領については、放置することができません。その上、多美蔵の四ケ所の傷害に付いては、命に別状はありませんが放っておくことも出来ません。利右衛門を召喚して、詳細をお聞き取り頂き事の次第を返事でお知らせ頂きたい思います。委細については、使者より口頭でお聞きください。
DSC00870長善寺遠景

 手紙を受け取った佐野佐蔵は、造田村庄屋の西村市太夫に急報します。市大夫の指示を受けて3月18日に郷会所へ注進しています。郷会所の元〆の指示によって、利右衛門が行方不明であるので、取り押さえ次第取り調べて報告する旨の返事を、翌々日には佐野佐蔵から小笠七郎次に送ります。
1勝浦 佐野作蔵の手紙

こうして行方不明の利右衛門といせの二人の探索が始められます。
 高松藩の町奉行所から、同心衆、上下10人が勝浦村にやってきてます。郡奉行所からも二人の手代が入村して取り調べが始まります。利右衛門の父幸八は、御林守の職を停止されて所蔵に入れられます。高松藩領には、利右衛門の人相書と罪状を述べた御触れが出されます。
「稲毛文書」 の中の利右衛門の人相書には、次のように記されています。
月代: 乱志&流三の落語徘徊
O鵜足郡勝浦村御林守小八倅
利右衛門  年二十八
但年齢相応に相見え、中勢中肉丸面にて、冒毛厚き方、
色赤き方、言舌静か成る方、限・歯並常然、
月代(さかやき)厚き方。
その他、衣服や所持品、その犯行についても細かに書かれています。これは当時の大スキャンダルになったでしょう。二月末には、村内から11人の若者が捜索隊員に選ばれ、六班に分かれて、東は白鳥から西は豊浜までの各地を調べ上げます。しかし、利右衛門といせはもちろん、利右衛門に協力した者も発見することができません。一方、傷を受けた多美蔵は、すでに回復していることが探索者の間き込みにで明らかになり、一同は一安心しています。
四月桜の季節になって、利右衛門といせが、阿波の芝生村の知人の家に隠れているのが発見されます。
利右衛門といせは、徳島に送られ取り調べが行われます。その結果、利右衛門に協力したのは阿州の者で、後難を恐れて足抜きしていることが明らかになります。
 ここで、寛永21(1644)年の「走人防止協定」を再確認しておきましょう。この協定は、逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したもので、第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。

第16条では、
「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では
「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」

とされてきました。
 事件は思わぬ方向へ急転回することになります。
「走人防止協定」によって、利右衛門を処罰すれば、利右衛門といせを隠していた芝生村の人々も厳しく処罰しなければならなくなったのです。この対応に当たったのが、阿州・太刀野山村の庄屋山本新太夫と、芝生村の庄屋平尾平兵衛です。ふたりは協議し、芝生村の百姓喜八と清兵衛を使者として、平尾平兵衛と親しい関係であった中通村庄屋東三郎方に派遣し、今度の事件を内済とするように運動することを願い出ます。公になれば芝生村の人々にも火の粉が飛んできます。それを「内済」にすることで、村の人々を守ろうとしたのでしょう。

DSC00786長善寺道標

 同時に、山本新太夫は、勝浦村の長善寺の住職に手紙を送って協力を依頼しています。長善寺は美馬・郡里の安楽寺の末寺で、真宗興正寺派の讃岐への布教センターの役割を果たした寺で、この地域では政治力もある寺でした。また阿波にも檀家が多く、法要などを通じて住職とは面識があったようです。

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勝浦の旧長善寺

 しかし、高松藩側の態度は硬化して、なかなか内済に応じなかったようです。
利右衛門はこれが2度目の略奪婚です。前回に反省文も出しています。にもかかわらず同じ事を今度は国境を越えてやったのです。いわば「再犯者」です。すぐに内済扱いとは出来ないのも分かります。
ぞのため条件とされたのが、利右衛門の父幸八の所蔵入を免じ、利右衛門の処分が決定し、その決定に阿波側の庄屋小笠七郎次が同意したということが明らかにならなければ、内済に同意しないという態度を示します。

DSC00853福家神社鳥居
勝浦の福家神社
徳島藩では、利右衛門を徳島の獄につなぎ多美蔵と弥三郎を呼んで事情を聞き取り、いせを弥三郎の妻として復縁させています。このことは7月になって、讃岐側にも伝わってきます。
  「不埓の事あり」として、50日間の入牢を申し付けられていた利右衛間が、阿波と讃岐の境である引田の逢坂峠で追い払われたのは、八月末になってでした。このことを、勝浦村庄屋に通知した小笠七郎次は、その手紙の中で、暗に、この度の処置に満足していることを述べています。

DSC00855勝浦福家神社鳥居

 この事件の解決に奔走した造田村庄屋の西村市太夫は、事件の頭末を、美濃紙二枚綴りの一件記帳留にまとめ、その最後の一頁に、
「右の通大変にて有之候得共、色々取計い、利右衛門一人出奔、除帳人に相成、其外少しも御咎め無之結構御訳付に相成り申候」

と結んでいます。ここには庄屋として、勝浦の関係者を守り切ったという満足感と安堵感が現れているようです。

国の作法に反抗して、再び掠奪結婚を試みて失敗した利右衛門のその後はどうなったのでしょうか。彼の集落の墓地には、彼の墓はないようです。 郷里に立ち帰らなかったのかもしれません。
 
 この事件から分かることは、寛永21(1644)年の「走人防止協定」第18条の「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」が、幕末になっても阿讃国境では生きていたことです。峠を越えての恋が成就することは江戸時代には御法度とされ続けていたようです。
DSC00856福家神社道標

慶安の協定によって、阿波と讃岐の愛情が、無残に引き裂かれることは、その後もあったようです。  天保十四(1843)年7月に、造田村の弥作が村役人に提出した一札(「西村文書」)があります。
ここには出身地を偽って彼の家に奉公していた娘と彼が内縁関係になり、娘が阿波の出生であるために許されず、娘が父親に連れられて阿波に帰ることになった時、彼が娘に未練のないことを述べたものです。しかし、その行間に、断ち切ることのできない愛情が猛れているように思われます。
  天保14年6月、造田村で心中事件が起きます。
池に身を投じて自らの命を、ともに断ったのです。男は、阿州三好郡川崎村出身の加蔵で、彼もまた出身地を偽って、造田村で奉公していました。家の主人が多忙な人であり、その妻が病弱で、野良仕事はその家の娘と、加蔵の二人で切り盛りしていたようです。若い二人の間は、急速に近づき内縁関係になります。しかし、加蔵が阿波の出身であるとにらんでいた娘の父親は、二人の仲を裂こうとして、加蔵に暇を出します。二人の水死体が見つかったのは、それから間もなくのことであったようです。
 造田村の庄屋西村市大夫からの手紙を受け取った川崎村の庄屋友吉郎は、加蔵の兄久太に返書を持たせて造田村へ急がせます。造田村に着いた久太は、水死者の一人が弟の加蔵であることを確認し、たどたどしく筆を走らせて、迷惑をかけたことを詫び、弟加蔵の死体を引き取らせてもらいたいと、願い出ています(「西村文書一))

DSC00844勝浦福家神社

「走人防止協定」で、阿讃の国境を越えた恋は成就できない掟となってきましたが、次第に人々の「人権意識」が目覚めていくのがうかがえる記録も残っているようです。
「牛田文書」の中に、草案ではありますが、次のような手紙原稿が残されていました。
指上申一札の事
私儀、此度長谷坂亀三郎倅甚七、阿州三好郡東井の川村辻住居、きぬと申す婦人と、先達てより内縁仕り、右きぬ親立会の上にて、其方女房に相定候得共、甚七一類腹入不仕義に付、 日地書わけ別宅仕り、 其席に立会不申侯得共、只今迄夫婦に相暮居中候処、此度甚七神願に付、 内々神参り(出稼ぎ)可仕に付てハ、女房預り人も無之、無拠引連罷越趣に承り、併右きぬも妊娠に相成、追々臨月にも相及候由、旅立候ては難渋に相見へたる事に御座候。右きぬ女親呼寄掛合中候所、何分宜敷様取扱呉候様、達々願候に付、双方懸合中処納得仕候に付、万事私引請中候間、御内々御聞置可被下候。若し他所者の儀に付、以後如何様の引縫出来仕候共、 御村方御役人中様は不及申上甚七一類に至迄厄介の筋、少しも相懸申間敷、為後日指上申一札如件。
他所婦人引請
               かつら村 甚 八
               一類   八五郎
               組合     富 蔵
慶応三年年七月
御村方御役人衆中
意訳しておくと
一札の事さし上げ申し上げます
 この度長谷坂亀三郎倅・甚七が、阿州三好郡東井の川村辻の住居のきぬという婦人と、先達てから内縁関係になりました。そこできぬの親の立会の上に、女房に迎えることにしました。しかし、甚七の親族はこれに反対し、田地を分け別宅を建て、その席にも立会わないと申します。こうして、ふたりは夫婦として暮らしてきましたが、甚七が神参り(出稼?)に出ることになり、きぬも妊娠していることが分かりました。時が進み臨月になり里に帰ることも難渋に思えます。きぬの女親を讃岐に呼寄ることをお願いして欲しいと何度も依頼されました。そこで双方に懸合い交渉をすすめた所、内々にお聞き置くださることになりました。
 もし阿波出身の他所者であることで、今後どんなことが起きましょうとも、村方役人様には害が及ばぬように致します。甚七親族一類についても、少しも懸念なきように後日のために一札差し上げる次第です。
DSC00800長善寺鐘楼

ここからは次のような事が分かります。
①長谷坂の亀三郎の倅甚七が、阿波生まれのきぬと結婚しようとした時、親の亀三郎などはこれに反対したこと
②それに対して、親類の甚八と八五郎、五人組の冨蔵が甚七に味方して結婚させ、その後甚七が神参り(出稼か)に出ることになった
③その間、妊娠中のきぬを責任を持って預かるという証文を、村役人に差し出している
ここには、家の反対に関わらず親族や近所の中に、夫婦になった二人を「掟」を破っても守ってやろうという意識が周囲に形成されてきたことがうかがえます。
かつては、藩の定めた不合理な協定の前に屈伏していた人々が、この掟に抵抗し、自らの愛情に忠実であろうとする人々を応援し、たとえ近親が協定を恐れていても、これらの人々を守ってやろうという姿勢を示すようになっているのです。
 阿讃山脈の国境の村々には不合理な藩の掟に抵抗して、結婚の自由、住居の自由を獲得しようとする自覚が産まれていたと言えるのかもしれません。それが明治維新になって幕藩体制が崩壊し、「結婚・住居の自由」が保証されると、峠の道を花嫁行列が行き交うようになり、阿讃に跨がる通婚圏が成立していくようです。
 逆に言うと、江戸時代には両者の間には通婚圏(権?)は、存在しなかったことになります。これが、お隣の丸亀藩にも当てはまるのかどうかは、今の私には分かりません。
参考文献 国境の村々 琴南町史307P

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
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  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

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文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

まんのう町勝浦 四つ足

琴南町誌には、庄屋たちの家に残されていたいくつかの史料がふんだんに使われていて、地主達の日常業務が見えて来ます。その中からいろいろな出来事に対応を迫られていたことを日記風に記したものに出会いましたの紹介します。
 金毘羅さんの賑わいは、春と秋の大祭の日が一番でした。今年(文化8(1811)も秋の大祭が近づいてきた10月3日のことです。讃岐山脈の阿波との国境の近くの鵜足郡勝浦村の状継(じょうつぎ)福右衛門は、大庄屋の宮井伝左衛門と木村甚三郎の連名の飛脚便を受け取ります。その内容は、金毘羅大祭について参拝者に注意するようにという内容でした。それには髙松藩の郷会所の元締の中村甚三郎と柏原弥六の連名で、走り書きにした大庄屋宛の次のような手紙も添えられていました。

一筆申上候。然ば金毘羅会式につき、西郡の面々心得違無之様 可仕旨被仰出候間、其旨村々え洩れざる様御中渡置可被成候。

意訳変換しておくと
 一筆申上候。金毘羅大祭については、鵜足郡西の面々に心得違いのないように行動すること。その旨を村々へ洩れなく申しつたえるように

去年までは回状で、中通村の肝煎(きもいり)が届けてきた。それなのに、今年はわざわざ飛脚便で知らせてきた。これは昨年の大祭で、勝浦村の若者が間違いを起こしたからだろう。書状を見ながら昨年の苦い思い出がよみがえってきた。
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 勝浦奈良の木坂の孫兵衛は、24才の真面目な働き手です。
去年の大祭に、阿波から参詣する知人に誘われて、初めて金毘羅さんの大祭に行きました。あまりの賑わいに呆然としている所を、すりに狙われます。気がついて、そのすりを大力で投げとばしたところ、稼ぎに来ていたすり仲間と大喧嘩になり、危ない所を金毘羅領の年寄玄右衛門に助けられます。稼ぎを台無しにされたすり仲間の復讐を心配した玄右衛門の計らいで、五日間の入牢を申し付けられ、這々の体で村へ帰ってきた。
そのことを覚えていて藩の役人は、こんな達しをわざわざ回覧したのだろう。さて、昨年のようなことが起きないように、村衆に伝えなければなるまい。さて、どのように話したらよいものか。飛脚便を手にしながら考え込む福右衛門でした。

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勝浦神社の狛犬
 それから十日余りたった日の夕方、中通村の肝煎が一通の手紙を届けてきた。
村継ぎの手紙であるので急いで封を切って見ると、柏原弥六の達筆が、躍るように眼にとびこんできた。
一筆申達候
其御村 松五郎
  同 東吉事 秀吉
 右の者饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商い申義、金毘羅春秋両度の会式中相済み、已来平日は不相成候段御申渡可被下候以上
  文化八年十月十三日  柏原弥六
佐野直太郎殿(勝浦村の庄屋)
意訳変換しておくと
右の者はうどん・そばの商いを、春秋二回の金比羅大祭の時だけ許している。祭りが終われば、平日の商いは行ってはならない。
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まんのう町勝浦神社

 松五郎と秀吉は働き者で律義者だ。毎年大祭の時に、金比羅でのうどんと蕎麦の商いを許されて、その儲けを足しにして百姓を続けている。大祭が終わるとその翌日には、店をたたんで百姓仕事に精出している。どうして、わざわざこんな通知が届いたのだろうか。商いをすることが許されない村の者が、告げ口でもしたのであろうか。入念な達しに、不安を感じないではいられなかった。当事の村人に、移動・営業の自由はありませんでした。大祭の時にうどんや蕎麦を出すことができるのも許された人間だけでした。
 それにしても、お殿様は昔から商いがお嫌いだ。
百姓が商いをすれば儲けに眼がくらみ、野良仕事が嫌いになり、年貢を納めなくなる者がふえると思っておられるのか。毎年この村で十人以上の者が出店を願い出るのだが、許されるのは二名か三名だけだ。手紙を庄屋日帳に写し取りながら、福右衛門は、働き者で子沢山な東兵衛の腰が少しまがりかけたことや、鉄砲の名人の秀吉が、獲物に狙いをつけた時の精悍な顔つきを思い浮かべていた。
         まんのう町(旧琴南町)勝浦 牛田文書より
藩からの書状は、大庄屋のところへ届けられ、それを大庄屋がいくつか写し取って、決められたルートで各庄屋へ送付しました。受け取った庄屋も、保存用に一部写し取って、次に廻すことになります。これらを残しておくことが役に立つことを体験的に知った庄屋は、日記と共に書状を写し取って保存することが日常化します。そのため、代々庄屋を務めた家には、膨大な藩からの書状が残ることになります。それらが旧琴南町には、牛田・西村・稲毛などに残された庄屋文書になります。もう少し、話を続けます。

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まんのう町勝浦 今は亡き旧長善寺

○お殿様の金毘羅さん御参詣の動員
 天保二年(1831)3月23日の辰の刻、鵜足郡造田村の庄屋西村市太夫は、大庄屋木村甚三郎と宮井清七連署の、山分村々回文を庄屋日帳に書き写して本文と読みあわせてみた。
○以回文申入候。
殿様来る廿六日より同二十八日の内、金毘羅へ御往来共御遠馬にて御参詣被為遊候由、依之御当日御前日共、於栗熊東継更人馬別紙切符の通割紙相回候間、同所より触れ込次第毎々の通、宰領組頭相添御指出可有候。
大抵廿六日中御社参の御様子に相聞候間左様 御心得御取計置可有候。
 一 草履・草軽・馬沓(くつ)並拝駕龍共 明日中に栗熊東馬継所迄 御指越可有候。為其急中入候。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
意訳変換しておくと 

殿様が来る26日から28日に、金毘羅参拝のために髙松街道を馬で往来することになった。ついては当日・前日共に栗熊東に人馬を別紙の通り準備するように伝える。書状を受け取り次第、宰領組の頭は各組に指示をだすこと。
26日中に参拝予定と聞いているので、そのつもりで準備にあたること 御心得御取計置可有候。
 一 草履(ぞうり)・草軽・馬沓(くつ)や駕龍などは 明日中に栗熊東の馬継所まで運び込んでおくこととの御指図があった。急ぎ申し送る。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
高松の殿様が3日後の26日~28日に金毘羅さんに参拝することになったので前例通り準備をするようにとの内容です。造田村の割当をもう一度確認する。
 O殿様御遠馬の割当 造田村
  御前日、御当日共。
 一、人足三拾四人。
 一、馬弐疋。
 一、草履六足。
 一、草靫六足。
 一、馬沓弐足。
 書き誤がないことを確かめた市太夫は、末尾に連記された長尾村、炭所東村、炭所西村の次の造田村の肩の所に「(合点(がってん)」を入れます。そして辰の刻と書き込んで仮封をし、肝煎の助蔵を呼び寄せて、大急ぎで中通村の庄屋磯太夫の地下清(じげんじょ)の宅まで届けるよう命じた。

刀剣ワールド】馬具の種類と歴史|武具・書画・美術品の基礎知識
馬沓 馬にもわら草履を履かしていた

 三日前になって突然、殿様の金比羅参拝のための人足と馬・草履などを準備せよとの通達です。ここでも送られてきた書状を写し取り、内容確認の上で、次の庄屋宅へ送り届け指しています。

草履六足、草靫六足、馬沓弐足は明日中に栗熊まで持参せよとのことだ。急がなければならない。前日からは、人足34人と馬2頭を引き連れて行かねばならない。誰を連れて行くのか、どの馬を選ぶのか、頭の中で算段を始めていた。

髙松街道に面する鵜足郡南部の長尾村、炭所東村、炭所西村、造田村、中通村は、一つのグループで、
殿様などのVIPが髙松街道を往来するときには、人馬の提供義務がありました。その数も人足34人です。これを引き連れて栗熊まで出向くことになります。

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まんのう町福家神社
お殿様の金比羅詣でが終わったと思ったら、今度は御姫様の金毘羅参詣が通知されてきた。
 4月7日付の大庄屋からの回文によると4日後の11日のことだという。回文が届いた翌日には、金毘羅街道に近い村々の庄屋が、お姫様の御小休所に指定された栗熊西村の浪士平尾庄之進宅へ召し出されて、打ち合わせを行った。終わったのは未刻(午後2時頃)を少し回ったころであった。造田村の割当りは次の通りになた。
O御姫様御参詣に付掛りの物 造田村
 一、興炭 壱俵。
 一、薪  貳束。
 一、草履 四足。
 一、草桂 四足。
   右は九日中に指出候事。
 一、人足三拾人、御前日、御当日。
 一、馬 三疋、右同断。
    但しとゆ持参有之様申越候。
 一、外に壱人、掛り物送り人足。
炭や薪はすぐにでも集まるが、人足を三十人出すのは骨が折れる。殿様の金比羅詣での度に、呼び出されるのはなんとかならないものか。今年は、これで二回目だ。
 
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4月23日、大庄屋の宮井清七から3月の殿様御遠馬の入目割当(決算書)が届いた。
〇殿様御遠馬の入目割当 造田村
 一、御遠馬入目割当  銀九匁八分。
 一、御社参の入目割当 銀三十四匁五分。
            〆銀四拾四匁三分。
 殿様の参拝にかかる費用を、どうして村々が支払わなければならないのか。昔からの決まりだと云うが、どうも合点がいかない。浮かぬ顔で市太夫は算盤をとって、弾いて見た。高869石の造田村の割り当りが、44匁3分である。藩全体では、大高を21280石と見て、御遠馬の総入目は、十貫弐百六拾目余かかったことになる。四月のお姫様御参詣の造田村の割当は、六十目を超えるのでないかと案じられた。

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 市太夫は、造田村の割当りから、人足賃などを差し引いて、尚七匁九分の銀を、組頭の夫右衛門に持たせて。日限ぎりぎりの27日に川原村の宮井清七の宅へ届けさせた。
                   造田村西村文書より
こうしてみると、庄屋には文書・算用能力が欠かせないものであったことがよく分かります。ちなみに、ここに登場する造田村の庄屋西村市太夫はやり手で、義兄の金毘羅の油屋・釘屋太兵衛と組んで水車経営などのいろいろな事業を展開していたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 2025/02/11改訂版 
参考文献
 大林英雄 御神徳を仰ぐ人々 こんぴら 昭和60年
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旧長善寺(まんのう町勝浦)

石垣と白壁に囲まれた要塞のような印象。そして屋根が茅葺き?
早速行ってみることにします。

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旧長善寺
やってきました。勝浦の長善寺です。
帰ってきて調べると琴南町誌802Pには、次のように記されていました。

長善寺は十五世紀の開基といわれる由緒ある寺である。勝浦本村の中央の山辺に、城郭を想わせる高い石垣を築き、自亜の上壁に囲まれた境内に、総茅葺の本堂の偉容が見られる。石垣の下に近づくとその中央に数十段の石段があり、上を仰ぐと茅葺の鐘楼が頭上に立っている。

正面の階段を上ると・・茅葺きの鐘楼がありました。

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長善寺鐘楼 鐘がない!
しかし、つり下がっているのは大きな石材です。鐘はどこへ行ったのでしょうか?
この鐘楼は、簡素であるが四天柱は八角で珍しく、足元にふんばりがある。軒の出がやや浅いが、腰貫、飛貫、頭貫があり、台輪木鼻付、組物出三斗、中備平三斗、軒一軒角半繁垂木、妻飾り木連格子である。万延元(1860)年の棟札があるが、様式的には十八世紀末ころのものである(「香川県の近世社寺建築調査報告書」)
本堂は、痛みがひどくなっています。

DSC00796長善寺破れ本堂
旧長善寺本堂
本堂は桁行14mもある大型の仏堂で、茅葺の大屋根は独特の風格を持っている。正面中央間に大虹梁を架けて間口を五間とし、前面に一間の向拝がつく。内部は内陣、左右の余間及び外陣からなる。外陣は奥行四間と広く、内陣・余間境筋に計四本の角柱が建つのみで大虹梁を架けて内部柱を省略している。
 建立年代は、宝暦六子(1756)年という記録があり、絵様や蟇股などの形式からも、十八世紀中ころの建立と思われる。なお、来迎壁裏面に寛政五年の記のある法要定式、縁板裏面に安政六年の修理時の墨書がある。後世の修理も少なくほとんど当初のままを残し、保存のよい総茅葺本堂として極めて価値が高い(「香川県の近世社寺建築調査報告書」
長善寺は、勝浦地区の政治・文化・宗教センターとして機能してきたお寺のようです。
この寺の由緒には、勝浦を拓いた勝浦権右衛門の三男が出家して南都興福寺に台密を学び、帰って天台宗寺院を開いたとします。その後、永正3(1506)年に、了道が浄土真宗に改宗したとします。長善寺は、阿波美馬の安楽寺の末寺でした。本山の安楽寺は、三好氏の保護を受けて、阿讃山脈を越えた讃岐方面に教線を伸ばしていきます。それは三好氏の丸亀平野への進出と重なります。三好氏が長尾氏などの讃岐国衆を従えた所では、安楽寺に対して「布教の自由」が認められます。そこへ安楽寺で鍛えられた僧侶がやってきて、人々の心をつかんでいきます。村々に「道場」が開かれ、それが後には浄土宗興正寺派の寺院に成長して行きます。長善寺や尊光寺、寶光寺などの大きなお寺も安楽寺の末寺でした。そういう意味では16世紀初頭の永世の錯乱後の三好氏の讃岐進出は、阿波人の入植と、浄土真宗興正寺派の教線拡大ということをもたらしたことは以前にお話ししました。
 この寺は、中世からの開発によって多くの土地を所有していたようです。
勝浦地区の水田は、野田小屋や勝浦に横井を作って水をひくことから始まりました。
潅漑施設を作り、独占的に占有します。野田小星川の横井は、長楽寺が開設したので寺横井、勝浦川横井を酒屋(庄屋の佐野家)松井と呼んでいます。藩政時代には、長善寺と佐野家で村の田畑の三分の一を所有しています。
 長善寺の檀家は千戸を超え、その半分は阿波の門徒と言われました。茅葺き屋根の葺き替えの時には、多くの門徒が藁を担いでやってきたといいます。もともとは阿波にあった寺院が、勝浦に進出してきたことがうかがえます。
 昭和の初期までは「永代経」や、「報恩講」の法要には多勢の參拝者が阿波からもやってきて、植木市や露天の出店などでにぎわい、また「のそき芝居」などもあって門前市をなす盛況だったようです。確かに勝浦は、真鈴峠や二双越えによって人とモノが移動する阿讃交流の道の上にありました。峠を越えた交流の舞台が長楽寺だったようです。
 長善寺から50mぐらい下の道路上に観音堂があります。長善寺にあった阿弥陀像を、政所(庄屋)佐野家が譲り受けてお堂を建てて祀ったものとされます。それから地元民の信仰の場として受け継がれてきました。今も新たなお堂を建て地区の集会場として維持されています。

長善寺の下にあるのが庄屋佐野家です。                         
 勝浦五郎左衛門明久は、もともとは阿波三好家一族の者でした。それが故あって、この地に来て住みつき勝浦家の養子となります。。その曽孫次郎左衛門高甚は、曽祖父の里方の姓をとり佐野に改姓します。そして、寛永十九(1642)年、高松藩に召し出され祐筆役となり、禄百石を得ます。助右衛門の死後、その子は幼年で跡目相続ができず退官して勝浦村に帰ってきます。その子・次郎左衛門高家は、浪人身分でしたが、元禄15(1702)年に政所役を仰せ付けられます。そして明治になるまで、政所や庄屋を代々務めます。(佐野家系図)

天保六(1835)年2月26日の冬、藩主松平頼恕公は、阿讃国境視察と、大川山参拝のために高松を出発して七箇村を経て28日には大川権現に参詣しました。その日は勝浦村庄屋佐野佐蔵宅で宿泊し、翌二十九日には川東村円勝寺で御昼休みをして、焼尾で御芝立の後、羽床村を通り、二月一日帰城されている。焼尾付近では鷹狩が行われ、近在の猟師も召し出されて手伝っています。名目は鷹狩りですが、実際の目的は讃岐と阿波との境の警備などの視察であったようです。このための道の修理とか準備に召し出された村民は、川東村だけでも1404人にものぼったことが庄屋文書に記録されていることは、別の機会にお話ししました。

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門前にはこんな言葉が掲げられていました。
「生きることはすばらしい
しかし いつまでも生きられないことを知ったとき
それはさらにすばらしい」
この言葉を繰り返しながら境内で「哲学」(?)しました。
DSC00820長善寺全景

もうひとつ不思議だったのは、「廃墟」ではないのです。
境内は綺麗に手入れされています。
庫裡には人も住まわれている気配。
それと、あの鐘はどこに・・
その答えは帰路に分かりました。

長善寺
現在の長善寺

旧勝浦小学校前に突然現れた新寺。
これは本勝浦にあった長善寺が「移転」してきたものなのです。
そして、鐘もここへ移されているようです。
その後、本堂や鐘楼も撤去されていまは更地になっています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
改訂版 2025/09/01
参考文献 切畑の多かった村 勝浦 琴南町誌 949P 



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