瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町勝浦長善寺

  
DSC00870長善寺遠景
勝浦の旧長善寺

勝浦村の御林守幸助は、文政十一(1828)年の春以来、阿州加茂宮村の百姓伝右衛門の娘いせを、阿野郡北加茂村の知り合いの娘であると偽って召し使っていました。いせは器量よしで気立ても良かったので、伝右衛門の長男豊吉とも親しくなります。そして、豊吉の友人で御林守幸八の次男利右衛門と、内縁関係を結ぶようになったようです。
 幸助は、いせが阿州者であることを知らずに、利右衛門が愛情を深めていくことが心配になってきます。ある夏の夜、幸助宅を訪れてきた利右衛門と、豊吉の間で、ちょっとしたことが原因になって、激しい口論が起きます。この機会を捉えて幸助は、息子の豊吉に味方して、利右衛門を叱責して利右衛門の出入りを禁止します。
 しかし、幸助が、いせをどこかへ連れ去って、自分との仲を引き裂くのではないかと心配した利右衛門は、翌日夜に、いせを幸助宅から連れ出し、出奔して身を隠してしまいます。当時、このような「掠奪婚」が「流行」していたようです。友人の助けを借りて女を掠奪し、同居して結婚の事実をつくり、周囲の人々に認めさせる結婚形式です。

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 二人は、阿野郡の陶村の知人の家に隠れ住んでいました。

これを見つけた利右衛門の兄・多次郎も、いせが阿波出身であることは知りません。二人の立場に同情して黙認します。
一方、いせがいなくなった幸助方では、利右衛門が友人を語らい、徒党を組んでいせを奪ったと村役人に訴え出ます。関係者が次々と村役人の取り調べを受け、利右衛門といせが陶村から連れ帰られたのは、その年の秋も深まる十月でした。
 利右衛門の兄の多治郎と一類の鹿蔵、五人組の文蔵・丈八・庄八が誤り状を書き、幸助と豊吉も、阿波の女を雇っていたことについて、誤り証文を村役人に差し出します。いせは、阿波の親元に送り返され、利右衛門もこの扱いに不足はなく、いせに未練のない旨を書いた一札を、村役人に差し出して、事件は一応内済になったようです。慶安の協定が、二人の愛情の結を断ち切ったことになります。
 このような経過を記録した文書が勝浦の庄屋だった家には残されています。ここから分かることは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人(逃散)防止協定」が二百年近く経過した幕末にも機能していたことです。江戸時代に、阿讃の両藩間での婚姻関係は認められていなかったことが分かります。
DSC00826勝浦

 ところが事件は、これでは収まりませんでした。
讃岐方の勝浦から親元の阿波へ連れ返されたいせは、弥三郎という男と結婚していました。それを聞いた元カレの利右衛門は、請めきれずに今度は国境を越えての掠奪結婚に出たのです。その事件を知らせる手紙が文政十二(1829)年2月17日の早朝、勝浦村の庄屋佐野佐蔵のもとに届けられます。差出人は、いせの嫁ぎ先である阿波の庄屋小笠七郎次からで、そこには次のように記されてありました。
一筆致二啓上一候。追々暖和に罷成候所、弥御堅勝に可被成御座、珍重目出度奉存候。然ば其御村OO免幸八倅利右衛門と申者、 今晩大勢の人数召連れ、当村〇〇名百姓多美蔵と申者宅へ罷越、倅弥三郎妻、有無の言不二申出横領し召連れ罷帰り申候に付、弥三郎儀留守の事故、親多美蔵義利右衛門に取付、申間せ候は、如何相心得右様横領の仕成仕侯哉と申聞せ候得共、何の言も無之、多美蔵を四ケ所迄打測に相及び、 其儘罷帰り候。其内名内の者共久付候得共、 大勢の者共夜中の事ゆへ行衛相知不申由、野士方へ申出候に付、右様横領成る義故難二捨置、其上多美蔵義四ケ所の大疵に付、命数の程
も難′計侯に付、右利右衛門儀御召集御行着可被下債。御行着の上有無御返事、此者へ御聞せ可被下候。委細の義は指越候者より型司取可
   意訳しておくと
一筆啓上致します。追々に暖かくなっていく季節ですが、堅勝であられましょうか。この度、次のような事件が起きましたのでお知らせします。そちらの勝浦村の幸八の倅・利右衛門と申す者が、 今晩、大勢の人間を引き連れて、当村の百姓・多美蔵宅へ押しかけ、倅の弥三郎妻を横領し召連れ帰りました。これは弥三郎の留守の間のことで、多美蔵は利右衛門に取付いて、このような「横領」をおこなうことの不法を申聞せたが、何の返答もなく、その上に多美蔵を四ケ所も打ち据える始末です。
  大勢の者がいたようですが夜中のことで、行方知れず、野士方へ申し出ることになりました。この横領については、放置することができません。その上、多美蔵の四ケ所の傷害に付いては、命に別状はありませんが放っておくことも出来ません。利右衛門を召喚して、詳細をお聞き取り頂き事の次第を返事でお知らせ頂きたい思います。委細については、使者より口頭でお聞きください。
DSC00870長善寺遠景

 手紙を受け取った佐野佐蔵は、造田村庄屋の西村市太夫に急報します。市大夫の指示を受けて3月18日に郷会所へ注進しています。郷会所の元〆の指示によって、利右衛門が行方不明であるので、取り押さえ次第取り調べて報告する旨の返事を、翌々日には佐野佐蔵から小笠七郎次に送ります。
1勝浦 佐野作蔵の手紙

こうして行方不明の利右衛門といせの二人の探索が始められます。
 高松藩の町奉行所から、同心衆、上下10人が勝浦村にやってきてます。郡奉行所からも二人の手代が入村して取り調べが始まります。利右衛門の父幸八は、御林守の職を停止されて所蔵に入れられます。高松藩領には、利右衛門の人相書と罪状を述べた御触れが出されます。
「稲毛文書」 の中の利右衛門の人相書には、次のように記されています。
月代: 乱志&流三の落語徘徊
O鵜足郡勝浦村御林守小八倅
利右衛門  年二十八
但年齢相応に相見え、中勢中肉丸面にて、冒毛厚き方、
色赤き方、言舌静か成る方、限・歯並常然、
月代(さかやき)厚き方。
その他、衣服や所持品、その犯行についても細かに書かれています。これは当時の大スキャンダルになったでしょう。二月末には、村内から11人の若者が捜索隊員に選ばれ、六班に分かれて、東は白鳥から西は豊浜までの各地を調べ上げます。しかし、利右衛門といせはもちろん、利右衛門に協力した者も発見することができません。一方、傷を受けた多美蔵は、すでに回復していることが探索者の間き込みにで明らかになり、一同は一安心しています。
四月桜の季節になって、利右衛門といせが、阿波の芝生村の知人の家に隠れているのが発見されます。
利右衛門といせは、徳島に送られ取り調べが行われます。その結果、利右衛門に協力したのは阿州の者で、後難を恐れて足抜きしていることが明らかになります。
 ここで、寛永21(1644)年の「走人防止協定」を再確認しておきましょう。この協定は、逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したもので、第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。

第16条では、
「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では
「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」

とされてきました。
 事件は思わぬ方向へ急転回することになります。
「走人防止協定」によって、利右衛門を処罰すれば、利右衛門といせを隠していた芝生村の人々も厳しく処罰しなければならなくなったのです。この対応に当たったのが、阿州・太刀野山村の庄屋山本新太夫と、芝生村の庄屋平尾平兵衛です。ふたりは協議し、芝生村の百姓喜八と清兵衛を使者として、平尾平兵衛と親しい関係であった中通村庄屋東三郎方に派遣し、今度の事件を内済とするように運動することを願い出ます。公になれば芝生村の人々にも火の粉が飛んできます。それを「内済」にすることで、村の人々を守ろうとしたのでしょう。

DSC00786長善寺道標

 同時に、山本新太夫は、勝浦村の長善寺の住職に手紙を送って協力を依頼しています。長善寺は美馬・郡里の安楽寺の末寺で、真宗興正寺派の讃岐への布教センターの役割を果たした寺で、この地域では政治力もある寺でした。また阿波にも檀家が多く、法要などを通じて住職とは面識があったようです。

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勝浦の旧長善寺

 しかし、高松藩側の態度は硬化して、なかなか内済に応じなかったようです。
利右衛門はこれが2度目の略奪婚です。前回に反省文も出しています。にもかかわらず同じ事を今度は国境を越えてやったのです。いわば「再犯者」です。すぐに内済扱いとは出来ないのも分かります。
ぞのため条件とされたのが、利右衛門の父幸八の所蔵入を免じ、利右衛門の処分が決定し、その決定に阿波側の庄屋小笠七郎次が同意したということが明らかにならなければ、内済に同意しないという態度を示します。

DSC00853福家神社鳥居
勝浦の福家神社
徳島藩では、利右衛門を徳島の獄につなぎ多美蔵と弥三郎を呼んで事情を聞き取り、いせを弥三郎の妻として復縁させています。このことは7月になって、讃岐側にも伝わってきます。
  「不埓の事あり」として、50日間の入牢を申し付けられていた利右衛間が、阿波と讃岐の境である引田の逢坂峠で追い払われたのは、八月末になってでした。このことを、勝浦村庄屋に通知した小笠七郎次は、その手紙の中で、暗に、この度の処置に満足していることを述べています。

DSC00855勝浦福家神社鳥居

 この事件の解決に奔走した造田村庄屋の西村市太夫は、事件の頭末を、美濃紙二枚綴りの一件記帳留にまとめ、その最後の一頁に、
「右の通大変にて有之候得共、色々取計い、利右衛門一人出奔、除帳人に相成、其外少しも御咎め無之結構御訳付に相成り申候」

と結んでいます。ここには庄屋として、勝浦の関係者を守り切ったという満足感と安堵感が現れているようです。

国の作法に反抗して、再び掠奪結婚を試みて失敗した利右衛門のその後はどうなったのでしょうか。彼の集落の墓地には、彼の墓はないようです。 郷里に立ち帰らなかったのかもしれません。
 
 この事件から分かることは、寛永21(1644)年の「走人防止協定」第18条の「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」が、幕末になっても阿讃国境では生きていたことです。峠を越えての恋が成就することは江戸時代には御法度とされ続けていたようです。
DSC00856福家神社道標

慶安の協定によって、阿波と讃岐の愛情が、無残に引き裂かれることは、その後もあったようです。  天保十四(1843)年7月に、造田村の弥作が村役人に提出した一札(「西村文書」)があります。
ここには出身地を偽って彼の家に奉公していた娘と彼が内縁関係になり、娘が阿波の出生であるために許されず、娘が父親に連れられて阿波に帰ることになった時、彼が娘に未練のないことを述べたものです。しかし、その行間に、断ち切ることのできない愛情が猛れているように思われます。
  天保14年6月、造田村で心中事件が起きます。
池に身を投じて自らの命を、ともに断ったのです。男は、阿州三好郡川崎村出身の加蔵で、彼もまた出身地を偽って、造田村で奉公していました。家の主人が多忙な人であり、その妻が病弱で、野良仕事はその家の娘と、加蔵の二人で切り盛りしていたようです。若い二人の間は、急速に近づき内縁関係になります。しかし、加蔵が阿波の出身であるとにらんでいた娘の父親は、二人の仲を裂こうとして、加蔵に暇を出します。二人の水死体が見つかったのは、それから間もなくのことであったようです。
 造田村の庄屋西村市大夫からの手紙を受け取った川崎村の庄屋友吉郎は、加蔵の兄久太に返書を持たせて造田村へ急がせます。造田村に着いた久太は、水死者の一人が弟の加蔵であることを確認し、たどたどしく筆を走らせて、迷惑をかけたことを詫び、弟加蔵の死体を引き取らせてもらいたいと、願い出ています(「西村文書一))

DSC00844勝浦福家神社

「走人防止協定」で、阿讃の国境を越えた恋は成就できない掟となってきましたが、次第に人々の「人権意識」が目覚めていくのがうかがえる記録も残っているようです。
「牛田文書」の中に、草案ではありますが、次のような手紙原稿が残されていました。
指上申一札の事
私儀、此度長谷坂亀三郎倅甚七、阿州三好郡東井の川村辻住居、きぬと申す婦人と、先達てより内縁仕り、右きぬ親立会の上にて、其方女房に相定候得共、甚七一類腹入不仕義に付、 日地書わけ別宅仕り、 其席に立会不申侯得共、只今迄夫婦に相暮居中候処、此度甚七神願に付、 内々神参り(出稼ぎ)可仕に付てハ、女房預り人も無之、無拠引連罷越趣に承り、併右きぬも妊娠に相成、追々臨月にも相及候由、旅立候ては難渋に相見へたる事に御座候。右きぬ女親呼寄掛合中候所、何分宜敷様取扱呉候様、達々願候に付、双方懸合中処納得仕候に付、万事私引請中候間、御内々御聞置可被下候。若し他所者の儀に付、以後如何様の引縫出来仕候共、 御村方御役人中様は不及申上甚七一類に至迄厄介の筋、少しも相懸申間敷、為後日指上申一札如件。
他所婦人引請
               かつら村 甚 八
               一類   八五郎
               組合     富 蔵
慶応三年年七月
御村方御役人衆中
意訳しておくと
一札の事さし上げ申し上げます
 この度長谷坂亀三郎倅・甚七が、阿州三好郡東井の川村辻の住居のきぬという婦人と、先達てから内縁関係になりました。そこできぬの親の立会の上に、女房に迎えることにしました。しかし、甚七の親族はこれに反対し、田地を分け別宅を建て、その席にも立会わないと申します。こうして、ふたりは夫婦として暮らしてきましたが、甚七が神参り(出稼?)に出ることになり、きぬも妊娠していることが分かりました。時が進み臨月になり里に帰ることも難渋に思えます。きぬの女親を讃岐に呼寄ることをお願いして欲しいと何度も依頼されました。そこで双方に懸合い交渉をすすめた所、内々にお聞き置くださることになりました。
 もし阿波出身の他所者であることで、今後どんなことが起きましょうとも、村方役人様には害が及ばぬように致します。甚七親族一類についても、少しも懸念なきように後日のために一札差し上げる次第です。
DSC00800長善寺鐘楼

ここからは次のような事が分かります。
①長谷坂の亀三郎の倅甚七が、阿波生まれのきぬと結婚しようとした時、親の亀三郎などはこれに反対したこと
②それに対して、親類の甚八と八五郎、五人組の冨蔵が甚七に味方して結婚させ、その後甚七が神参り(出稼か)に出ることになった
③その間、妊娠中のきぬを責任を持って預かるという証文を、村役人に差し出している
ここには、家の反対に関わらず親族や近所の中に、夫婦になった二人を「掟」を破っても守ってやろうという意識が周囲に形成されてきたことがうかがえます。
かつては、藩の定めた不合理な協定の前に屈伏していた人々が、この掟に抵抗し、自らの愛情に忠実であろうとする人々を応援し、たとえ近親が協定を恐れていても、これらの人々を守ってやろうという姿勢を示すようになっているのです。
 阿讃山脈の国境の村々には不合理な藩の掟に抵抗して、結婚の自由、住居の自由を獲得しようとする自覚が産まれていたと言えるのかもしれません。それが明治維新になって幕藩体制が崩壊し、「結婚・住居の自由」が保証されると、峠の道を花嫁行列が行き交うようになり、阿讃に跨がる通婚圏が成立していくようです。
 逆に言うと、江戸時代には両者の間には通婚圏(権?)は、存在しなかったことになります。これが、お隣の丸亀藩にも当てはまるのかどうかは、今の私には分かりません。
参考文献 国境の村々 琴南町史307P

4 阿波国絵図3     5

讃岐と阿波の境を東西に走っている阿讃山脈は、まんのう町(旧琴南町)域の県境付近が最も高く、東に竜王山、西に大川山がそびえる県境尾根です。江戸時代には、この山脈(やまなみ)が、人々の交通を阻害していました。しかし、自然の障壁よりも、人の自由な交流を強く規制したのは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人」についての協定だったと云われます。
 徳島藩では、寛永19(1642)年の大飢饉以後、ますます増加した農民の逃散に対をなんとか防ごうとして、いろいろな対策を出しますが、効果がなかったようです。そこで慶安2(1649)年5月14日に、阿波藩と高松藩との間で、百姓の走人(逃散)についての相互協定が結ばれます。「讃岐松平右京様被二仰合一条数之写」(阿波藩資料)によると、 協定は一八条からなります。内容は、寛永21(1644)年より以後に逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したものです。
第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。
第16条では、「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では、「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」
特に18条は結婚と養子を禁止した厳しいものです。この走人協定の目的は、百姓を村に縛りつけて労働力を確保しようとする江戸時代の藩政の常套手段です。「移動の自由」を認めていたら封建制は維持できません。
阿波国大地図 琴南の峠1

 讃岐の砂糖産業の発展して、阿波から砂糖車を絞るための大型の牛をつれた「かりこ」たちが阿讃の峠を越えてやって来て、砂糖小屋で働いていたと、いろいろな本には書いてあります。
しかし、阿波からの労働力の受入が禁止されていたとすれば、これをどう考えればいいのでしょうか。
 また阿讃国境の峠の往来は、管理されていたのでしょうか。番所などがあり、自由な往来が禁止されていたのなら、多くの阿波の人たちが商売や金毘羅詣でにやってきたというのも怪しくなってきます。
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  勝浦村奥には真鈴の集落があります。
ここから真鈴峠を越えて阿波に入ると瀧口には、徳島藩の番所があったことが絵図からも分かります。また、何か事件があると重清越番所が置かれました。しかし、領民の通行はほとんど規制されなかったようです。商人や馬方は自由に往来し、百姓も日帰りの旅は黙認されていたようである。両国境の往来の自由がうかがえる資料を見てみましょう

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文化四(1807)年6月20日、勝浦村の多賀次郎が、阿波の勢力村の内田池で、溺死しかかるという事件が起きています。
この事件について勢力村の取立役与惣次が、次のような手紙を、勝浦村の庄屋佐野直太郎に送っています(「牛田文書」)。
一筆致二啓上一候。大暑の潮に御座候得共、弥御健勝に可被成二御勤一旨、珍重に奉存候。然は其御村熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す仁、三人連にて用事に付、昨日当国へ罷越候趣、然る処当村内田池の縁を通り懸り、暑さに堪え兼ね水を浴び候迪、多賀次郎と申仁、落込申すに付、池水抜放し筏井桐を張り、大勢相並び相い入り申す内、右鹿蔵と申仁、知らせに被二罷帰一候由、
 其内追々相入り、尋ね当り引揚け、医師等相配り、彼是手当致候得共、何分大切に相見え申す折柄、 親類中数人被罷越・様々介抱被致候得共、 何分大切に付召連帰り養生仕度候間、指返呉候様被二申出候に付、 今少々養生被致候様申述候へ共、誠に怪我の義にて何の子細も無御座事故、片時も早く召連帰度、被指帰呉候様に、達て被申出候に付、無拠、乍大切中指帰し申候。
前段の通り何の子細も無御座親類中召連被帰候義にて、当方役所へも不申出、内分にて右様取計申候。然共大切の容然にて連れ被帰候事に候へば、兎角助命の程無覚東奉存候。依之内分の取計には候へ共、御他領の御事故、当地にての有し姿の運、為御承知内々得御意度、如斯御座候。恐怪謹言。
               阿州勢力村取立 与惣次
六月十一日
  讃州勝浦村政所 佐野直太郎様
意訳して見ると
一筆啓上します。大暑の時期ですが健勝でございましょうか。
早々ですが、そちらの村の熊次郎・鹿蔵・多賀次郎と申す者が三人連で、昨日当国へ参りました。そして当村の内田池を通りかかり、暑さに堪え兼ねて水を浴びをしていましたところ、多賀次郎と申す者が、池に落ちました。そこで、池の水を抜いて筏を浮かべ、大勢で並んで探しました。
それを鹿蔵と申す者が、そちらに知らせに帰ることになりました。捜索を続けていると、人らしき感触があったので引揚け、医師を呼び、手当を致しましたが危篤状態です。親類の数人に来ていただいて、何分大切に連帰り養生した方がよいと医者も申します。
中略
 親類が連れ帰ることについては、当方の役所へも届けずに、内分に取計うつもりです。しかし、容態は良くはないので動かせば、せっかく助かりかけた命も覚束なくなる恐れはあります。内分の取計ですので、他領の御事故ですので御承知していただければ幸いです。恐怪謹言。                      

このあと勢力村の取立(村役人)与惣次が心配したように、多賀次郎は亡くなります。佐野直太郎はこのことを伝えると共に、勢力村の与惣次に深謝する手紙を送っています。それの控えが残っているようです。
 百姓にとって池の水を、最も大切にしなければならない6月末に池の水を抜いて、多賀次郎を助け上げ、十分に養生するように申し出てくれた勢力村の人々の好意を、活かすことができなかったようです。勝浦村の人々の脳裏には、これ以上の迷惑を掛けることを恐れるとともに「御国の御作法」である「走人協定」が重くのしかかっていたのかもしれません。
 ここからは勝浦の百姓3人が自由に阿波に移動できている様子がうかがえます。しかし、正式な裁きになった場合には、厳しい取り調べを受け処罰されることになったようです。そこで、国境を越えた村役人同士は、お上には届け出ずに「内済」で済ませる道を選んだようです。つまり、法的には禁止されているが、国境の往来について取り締まりや規制は行っていない状態だったようです。手形を求められると云うこともなかったのでしょう。
以上を確認すると
  江戸初期の慶安二年(1649)に、阿波の蜂須賀藩と讃岐の高松藩の間で走人協定が結ばれた。それ以後、百姓の移住はもちろん、短期間の雇入れも、婚姻も表向きは認められなかった。しかし、商人の往米は自由であり、金毘羅詣りの往来も認められていた。
ということになるようです。
もうひとつ旧美合村には、阿波との特別の関係が認められていたようです。 
6 阿讃国境地図

阿波の三好郡と美馬郡は、上郡と呼ばれ、地形や地質上から水田ができにくい土地柄で、畑作地帯でした。藩政時代になって、帰農した武士で土着する者が多く、讃岐の国境近くにまで集落が開かれるようになります。しかし、穀類よりも煙草などの商品作物優先で食糧が少なく特に米が不足がちでした。
 徳島藩は、表高25、2万石、実高は45万石あったと云われます。その実高を生み出したのは、吉野川下流域の藍作りでした。徳島藩では商品作物としての藍作りを奨励し、米作りを抑える政策をとります。そのため阿波の上郡一帯の人々は、阿波国内から米を買い付けることが難しい状況になります。ちなみに藍や煙草栽培で、経済力を付けた百姓達上層部の米需要は高くなります。彼らは、国境を越えた讃岐の米に期待し、依存するようになります。
勝浦や中道村は、年貢は金納だった
一方、高松藩の宇多津の米蔵から遠く離れていて、交通も不便であった阿野郡南の川東村では約130石、鵜足郡の勝浦村では約20石、中通村では約10石の米が、金納(平手形納)されるようになります。

例えば鵜足郡の造田村は、水利や地性が悪く良質の米が取れなかったので、毎年200石の年貢米を現米買納の形で金納していました。これらの村々は、米や雑穀を売り払い、藩の定めた米価で金納しなければならなかったのです。しかし、それだけの米の販売先が周辺にはありません。これを買ってくれるのは、阿讃山脈の向こうの三好郡と美馬郡の米問屋たちです。そのために米と雑穀は、峠を越えて、阿波の上郡へ売られていきます。これを高松藩は容認していたようです。
高松藩の食料政策は?                                                 
 高松藩では、年貢米と領民の食糧を確保し、領内での米価の安定を図らなければなりません。それに失敗すれば一揆や打ち壊しが起きます。そのために通用米や雑穀の藩外への流出については、厳重な取り締りを行うとともに、他藩米の流入についても関心を払っていたようです。
文化四(1807)年9月、高松藩は、「御領分中他所米売買停止」の御触れを出し、これに対して、勝浦村庄屋佐野直太郎が、次の誓約書を差し出しています。
覚
他所米取扱候義御停止の趣、
兼て被二仰渡一も有レ之候に付、当村端々に至迄、厳敷申渡御座候。此度又々被レ入二御念一の被二仰渡一候につき、 尚又村中入念吟味仕候得共、右様の者決て無二御座一候。若隠置、外方より相知候へば、私共如何様の御咎にても可レ被二仰付一候。為二後日一例て如レ件。
文化四却年九月                  佐野直太郎
               市 郎
               甚 八
               加兵衛
中手恒左衛門様
岡田金五郎様
秋元加三郎様
意訳すると
他所との米取扱停止の件について
このことについて、当村でも村の端々にまで伝えて、申し渡しました。この度の件について、村中で入念に吟味いたしましたが、このような者が決して出ぬようにします。もし、そのようなことがあれば、私共はどんな御咎もお受けする覚悟でございます。何とぞ、今までのように特例認可をして頂けるようにお願いします
文書内容が抽象的で意味が掴みにくいのですが、当時の状況から補足して解釈すると、
①文化四年の作柄が豊作で、領内の米価下落傾向にあった
②そのため他所からの米の買付業者が横行した
③対応策として、他所との米取扱停止の通達を高松藩が出した。
ということでしょうか。しかし、これでは年貢米を金納している「まんのう町国境の村々」は、やっていけません。そのために、事情を説明し特別許可を認めてもらうのが従来からのパターンだったようです。この時も、申請者には阿波の業者への販売許可が下りたようです。
 特例が認められた村では「刻越問屋」の発行した証明書を添えて、年貢量と同じだけの米の売却が許されました。しかし、これに便乗して通用米を「他所売り」するものが、多数いたようです。実際に認められた以上の石高の米が、美合地区から阿波の上郡に運ばれていたようです。
馬方とは - コトバンク

讃岐で売られた米を阿波へ運ぶ峠道の主役は、阿波の馬方たちでした。
三頭・二双・真鈴の峠を越えて讃岐に入り、買い付けた米を引き取るために阿波の馬方は吉野上村の木ノ崎にあった高松藩の口銭番所の近くまで姿を見せていたようです。流石に、ここには高松藩の番所があったので、ここから北には足が伸ばせなかったようです。

 阿讃の峠道は決して安全なものでなかったので、絶えず道普請が行われていたようです。
文政10(1827)年秋、勝浦村の八峯に新しい掛道が造られます。触頭の加兵衛と、徳兵衛。仁左衛門・銀太が中心になり、阿波の馬方数人が手伝って完成させたようです。新道ができると、阿波からの米買いの馬方が、次々と通るようになります。
 これに対して八峯免の与市右衛門と弥平が、通行の峠馬や馬方に、畑を踏み荒らされると訴え出ています。勝浦には阿波美馬・郡里の真宗興正寺派安楽寺の末寺長善寺がありました。この寺が土器川沿いに興正寺派が教線を伸ばしていく拠点の寺院となったことは以前にお話ししました。大きな茅葺きの本堂があったのですが、最近更地になっていました。
 与市右衛門と弥平が、馬に畑を踏み荒らされるとが訴え出られた長善寺の院住や御林上守の岡坂甚四郎は、なんとか内済にするよう尽力しますが話はまとまりません。そこで、冬も迫った11月23日に大庄屋の西村市太夫がやってきて言い分を聞きます。「畑が踏み荒らされると御年貢が納められない」という主張に屈して、
「新掛道の入口であるあど坂という所へ、幅一間から一間半の水ぬきを掘り、両縁を石台にしてささら橋(小橋)を掛け、牛馬を通さない」

ようにすることで両者を和解させました。
 そして今後のことは、八峯免全員の協議で決めるよう説得します。
市大夫は最後に
「あど坂から少し入った所に百姓自分林がるわな、ここを下し山(木を切り降ろす)時に、木馬が通るには土橋があった方が便利なわな。その時はみんなで協議して土橋にしたらええがな」

と、一本釘を打つことも忘れなかったようです。ささら橋は、間もなく土橋に架け替えられて、馬方の鈴の音が絶えることのない馬方道になったと伝えられます。
馬子唄」と「馬方節」 - 江差追分フリークのブログ

文政12(1829)年から、川東村の馬廻り橋の架替え工事が始められ、天保2(1831)年12月に、普請が終わっています。
この際の橋の工事帳(馬廻橋村々奇進銀入目指引丼他村当村人足留帳:「稲毛文書」)には、
「総人夫 595人 総費用 608匁8分」

とあります。その中には阿波馬方分として 銀62匁が含まれています。総費用の1/10は、阿波の馬方が負担したことが分かります。
 ここからは次のような事が分かります。
①19世紀になると経済的な発展に伴い阿讃交易も活発化し、金毘羅詣の人々の増加と共に峠道を越える人や馬は急増した。
②しかし、峠道は以前のままで狭く悪路で危険な箇所が数多くあった
③それを地元の有力者が少しずつ改修・整備した。
④それには阿波の馬方からの寄進も寄せられていた。
二双越

   立石峠(二双越)には、いまはモトクロス場が出来て休みの日はバイクの爆音が空に響く峠になっています。かつて、馬を曳いて峠越えをしていた馬方が見たら腰を抜かすかもしれません。峠を阿波分に少し下りた、高さ二層を超す立派な庚申仏と、地蔵仏が建ています。

二双越の地蔵

地蔵尊は像高1.32mで、小さい地蔵尊を左の手に抱き、右の手に錫杖を持っています。高さ1,8mの三段の台石の正面から左右にかけて、阿讃両国の関係者の名前が刻まれています。
二双越の地蔵2

小さい地蔵を抱いた石像には嘉永六(1853)年十月吉日の文字が読み取れます。金毘羅大権現に金堂(現旭社)が姿を現し、周辺の石畳や灯籠などの整備が進み参道の景色が一変し、それまでにも増して参拝客が増えていく頃です。ここを通る馬方は、この二尊像に朝夕に祈りを捧げ、峠道を越えていったのかもしれません。

立石越

 この当時までは、三頭峠よりも二双越や勝浦経由の真鈴越えが阿波の馬方達にはよく利用されていたのではないかと、私は考えています。古い絵図を見ると三頭越えが描かれていないものもありますが、立石峠(二双越)は、必ず描かれています。三頭越えが活発に利用されるようになるのは、以前にお話しした幕末から明治維新にかかての智典の三頭越街道の整備以後なのではないかと思うようになってきました。
立石越(二双越)

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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