瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町吉野

大堀居館と木ノ崎新池の流路
まんのう町吉野上 木ノ崎から大堀居館へのかつての土器川の流路跡(まんのう町HP
 以前にまんのう町の吉野の中世居館跡とされる大堀遺跡を紹介しました。この居館の外堀には出水があり、そこから下流に供給される灌漑用水が、この居館の主人の地域支配の根源だったのではないかという説をお話ししました。その際に、水源は出水だけでなく上流からの流れ込みもあるような感じがしました。そこで確認のためにいつものように原付バイクで、フィールドワークに行ってきました。
 丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地です。阿讃の山々の谷間を縫うように流れ下った土器川が、まんのう町吉野の木崎(きのさき)で丸亀平野に解き放たれます。そのため吉野は、洪水時には土器川と金倉川の遊水池化し葦(吉)野と呼ばれていたことは以前にお話ししました。それは吉野が古代の条里制施行エリア外になっていることからもうかがえます。
 中世になると吉野には大堀居館跡が現れます。

中世居館と井堰型水源

大堀の居館の主人が居館外堀に水を引き込む用水路を整備し、その下流域の灌漑権を握っていたという説を以前にお話ししました。湿地帯だった吉野開発は、この時期に始まったと私は考えています。さらに秀吉の命で近世領主としてやってきた生駒氏は、新田開発を推奨します。その結果、土器川や金倉川の湿地帶や氾濫原で今まで耕地化されていなかった荒地の新田開発が急速に進められます。それは水不足を招きます。そのため溜池の築造や灌漑用水路の整備も進められます。新田開発と溜池築造は、セットになっていることを押さえておきます。西嶋八兵衛の満濃池再築の際にも、灌漑用水網の整備が行われたはずです。

 まんのう町吉野
吉野は土器川扇状地で地下水脈が何本も流れている(国土地理院の土地利用図)
この地図からは次のような事が読み取れます。
①吉野は土器川と金倉川に挟まれたエリアであり、洪水時は遊水地であったこと。
②土器川は、吉野木ノ崎を扇頂にして、いくつもの流れに分流し扇状地を形成していたこと。
③その分流のひとつは、木ノ崎から南泉寺前→大堀居館→水戸で合流していたこと。
③の流路が最初に示した地図上の青斜線ルートになります。このあたりは大規模な農地改善事業(耕地整理)が行われていないので、ルート沿いは凹地がはっきりと見られかつて流路跡がたどれます。流路跡沿いに原付バイクを走らせていると、吉野のセレモニー会館当たりで一直線に続く石組み跡に出会いました。水田沿いに並ぶので、田んぼの石垣かと思いました。しかし、どうもその機能を果たしていません。これはいったいなんだろうかと、私の抱える謎のひとつになっていました。
  そんな中で図書館で出会ったのが「芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年」です。ここには、木ノ崎新池という溜池があったことが書かれています。江戸時代の溜池跡を絵図で見ていくことにします。
那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図
              「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」(奈良家文書)
この絵図は「那珂郡吉野上邑木之崎新池」と題されていて、吉岸上村(まんのう町岸上)の庄屋役を勤めた奈良家文書の中に含まれているようです。奈良家文書については、以前にお話ししましたが、当時の当主がいろいろな七箇念仏踊りなどの記録を丹念に記録しています。その中の絵図で、あたらしい池の建設予定図のようです。絵図内には新池建設予定の場所や、周辺の寺院・百姓家・山地の様子が特徴的に描かれています。大きさは縦93、5cm、横58、8cmで、細かい字で注釈が何カ所かに書き込まれています。まず絵図上部の木ノ崎から見ていくことにします。

木之崎新池絵図2
木ノ崎周辺拡大部分(那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図)
①上が土器川方面で、石垣の土器川西堤が真っ直ぐにのびている
②木ノ崎には金毘羅街道が通り、その沿線沿いに民家が建ち並んでいる
③鳥居と須佐神社が書き込まれ、このまえに関所があった。
④木之崎新池絵図が描かれた当時、岩崎平蔵は新池の北側付近の木ノ崎に居住していた。
⑤須佐神社の敷地内に、大正12年(1922)5月に、水利のために活躍した岩崎平蔵を顕彰する石碑が建てられている。
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新池跡付近から見た木ノ崎の須佐神社
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近づいて見た須佐神社(土器川扇状地の扇頂に鎮座する)
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南側から望むと鳥居のかなたに象頭山
木ノ崎は土器川扇状地の扇頂部にあり、谷間をくぐり抜けてきた土器川が平野に解き放たれる所でもありました。また、阿波・金毘羅街道が通過するとともに、土器川の渡川地点でもあり、ここには木戸も設けられ通行料が徴収されたいたようです。大庄屋の岩崎平蔵の屋敷もこの近くにあり、彼の顕彰碑が須佐神社の入口の岡の上にはあります。

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岩崎平蔵顕彰碑(吉野上木ノ崎須佐神社)
次に須佐神社から200mほど西に位置する新池の部分を見ていくことにします。

木ノ崎新池5

絵図からは次のような情報が読み取れます。
①水田6枚を積み重ねた縦長の形をした池
②それを南泉寺の上で堤を一文字に築造して水をせき止める。
③北側に石積みの堤築造、南側は山際で堤の必要はない。
ため池予定地の水田には「指上地(差しあげ地)」と書き込まれています。

木之崎新池絵図3

予定地の水田には「上田壱反六畝三歩」などと、水田の等級と広さが記されています。その中に「指上地(差しあげ地)」と記されているものがあります。これが私有の田畑を藩に差し出し、その地に池を築こうとしていたものだと研究者は指摘します。  この「築造予定図」からは池は、六枚の水田を立てに並べた細長い形だったことが分かります。それは先ほど見たように、土器川の分流のひとつが開発新田化されていたからでしょう。開発されていた水田がため池に転用されることになります。そのために、旧流路に沿った形で細長くなったとしておきます。
⑤の場所には、「朱引新池西本堤」とあるので、ここにえん堤があったとことが分かります。この北側に見ることができる上留め状の場所が、かつて西の堤の痕跡と伝えられているようです。
 堤の左側には、「揺」の文字が見えます。
「揺(ゆる)」は、ため池の樋管のことで、ここから下流へ水が落とされます。「揺」付近には「朱引新池西本堤」や「朱引新池揺尻井手」と書かれていので、池の水が下流域にある水掛りの田畑へ配水されたことがうかがえます。
 堤の右側(西側)「此所台目(うてめ)」とあります。「うてめ」は増水の際に、池を護るためにオーバーフローさせる「余水吐」のことです。

木ノ崎新池6
木ノ崎新池の堤とユル・うてめ

こうしてみると、私有の田畑を「指上地(差しあげ地)」として藩に上納し、新たに「木ノ崎新池」が築造されたと云えそうです。しかし、今はここには池はありません。

HPTIMAGE
          木ノ崎新池の位置(まんのう町HP 遺跡マップ)
今は、この池跡を横切る道ができて、そこにはセレモニー会館と広い駐車場があります。現在の姿を見ておきましょう。
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南泉寺から望む木ノ崎新池跡 青い屋根の倉庫が堤があった所

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堤とユルがあった所
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池の尻側からのながめ 左手遙かに象頭山

 いまは、池跡は再び水田に戻っています。田植えの準備をしていた老人は次のように話してくれました。
ここに池があったという話は聞いたことがない。しかし、この田んぼは少し掘ったら礫と砂ばかりで、水持ちが悪い。かつて耕地整理したときに2トンもある丸い大きな石が出てきた。土器川にながされ運ばれて角が取れた川原石や。

 このあたりが土器川の扇状地であることが改めて裏付けられます。
それでは、この池はいつまであったのでしょうか? こんな時に便利なのが戦前と現在の地形図が比較しながら見える「今昔マップ」です。これで日露戦争後の明治39年(1906)に作られた二万分之一測量図「琴平」を見てみます。

木之崎新池絵図4
吉野木ノ崎(明治39年 国土地理院地図)には、木ノ崎新池はない
この地図には、池はありません。山際まで水田が続いています。こうして見ると、幕末に新造された池は、明治末には姿を消したことになります。             
 研究者は、次のような現地での聞き取り調査の報告を行っています。
①年配の方々は、かつて池があったこの地を「シンケ(新池)」と呼んでいる。
②この地の田畑や墓の上留・囲いなどには、若干丸みを帯びた石が用いられているが、これは池の中や、周辺にあつた石を利用したものと伝えられている。
③今はなくなったが、かつては大きな目立つ石が、木之崎徊池であった場所にあり、そこがかつて池の揺があった場所と伝えられていた。
④木之崎新池は、山から流れてくる水を水源としていた
⑤池の水持ちが悪くて短期間で、田畑に戻した
丸亀平野は土器川と金倉川の扇状地で、その扇頂にあたるのが吉野木ノ崎です。そのためこのあたりは礫岩層で、水はけがよく地下に浸透してしたことは先ほど見たとおりです。ため池の立地条件としては相応しくなかったようです。水田化された後も、水不足が深刻で、背後の山にはいくつもの谷頭池が作られています。また、戦前には「線香水」がよく行われていたエリアでもあったようです。
最後に「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」が書かれた背景を見ておきましょう。
最初に述べた通り、この絵図は那珂郡岸上村の庄屋役を勤めた奈良家文書の中にあります。奈良家の歴代の当主たちは記録をよく残しています。しかし、残された記録の過半数は、一家の縁者であり江戸時代後半、吉野上村庄屋役や那珂郡大庄れた岩崎平蔵(1768~1840)によるものとされているようです。その中に寛政十年(1798)に、詳細測量を行った上で描いた「満濃池絵図」という絵図資料があります。ここには作成者として岩崎平蔵の名が自署があります。この絵図と「那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図」を比べて見ると、絵図内に描かれている百姓家や、周辺に描かれている円畑の描き方や、文字の筆跡が、両者はよく似ていると研究者は指摘します。つまり同一人物の手によるもので、それはは、岩崎平蔵により描かれたと研究者は判断します。

以上をまとめておきます。
①まんのう町吉野の木ノ崎は、丸亀扇状地の扇頂部に位置し、礫岩が多く水持ちが悪い
②ここに19世紀前半に木ノ崎新池が岩崎平蔵によって築造された
③しかし、水持ちが悪くてため池としての機能が果たせずに短期間で廃絶され姿を消した。
④その跡は、再び水田に戻され、近年はセレモニーホールが建てられている。
⑤地元の人達もここに池があったことを知る人は少ないが、絵図がそのことを伝えている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
芳澤 直起 那珂郡吉野上邑木之崎新池絵図追跡調査  香川県立ミュージアム調査研究報告13号 2022年
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前回はまんのう町吉野の大堀居館跡について、次のようにまとめました。

大堀居館と潅漑施設

大堀居館5
大堀居館跡の位置
丸亀平野の中世武士の居館跡について、何度か取り上げてきました。しかし、居館跡を広い視野から位置づける視力が私にはありませんので断片的なお話しで終わっていました。そんな中で出会ったのが「佐野静代 平野部における中世居館と灌漑水利 在地領主と中世村落  人文地理第51巻」です。歴史地理学の立場から中世の居館跡の水堀が灌漑機能をもち、そのことが居館の主人の地域支配力を高めたという話です。何回かに分けて、ここに書かれていることを読書メモ代わりにアップしておきます
①鎌倉期の『沙汰未練書』には次のように記されています。
「御家人トハ、往昔以来、開発領主トシテ、 武家ノ御下文ヲ賜ル人ノ事ナリ」
「開発領主トハ、根本私領ナリ」 
ここから開発行為こそが、御家人(在地領主)の土地所有権の最大の根拠だとしています。そして、領主による開発と勧農を重視しています。讃岐の場合には、絶えず水の確保が大きな課題となります。水の支配権こそが領主支配の根源になっていました。中世の場合は、武士の居館が灌漑用水支配の拠点になっていたと研究者は考えています。

Aまず「館」と「城」の違いを押さえておきます。
 居住機能と戦闘機能のどちらに比重を置くかがポイントにすると、次の3つに分類できます。
A 平時の居住に重きをおくものを「居館」
B 戦闘機能に重心をおくものを 「城」
C その双方の要素を含むものを総称して「城館」
中世は、平常時の居住地としての平野部の居館と、戦闘時の詰城としての山城とがセットになっていたとされています。ここで取り扱うのはAの平時の居住空間としての平野部居館です。

飯山国持居館1
武士の平野部の居館モデル 水堀で囲まれている

中世の平野部居館の特徴の一つは、水堀で囲まれていることです。
空壕や土塁という選択もあったはずですが、水を巡らせたことには、なんらかの意味があったはずです。その理由として考えられるのは
 ①防御機能の強化
 ②低湿地 にお ける排水機能
 ③農業用水への利用
 ④舟運利用 
①の機能は当たり前です。ここでは③の用水支配の関係を見ていくことにします。中世居館は、方形館とも呼ばれるように、水堀で囲まれたその敷地が方形です。 この方形が条里地割に規制されたものが多いことは、丸亀平野の中世居館で以前にお話ししました。方一町の館の場合は、条里地割の坪界線に沿っていて、居館の主人は条里地割型耕地の開発と深く関わっていたと研究者は推測します。

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制 吉野は条里制成功エリア外である。
 条里地割がいつ行われたかについては、丸亀平野の発掘調査からは7世紀末に南海道がひかれ、それに直行する形で条里線ラインが引かれました。しかし、古代に条里制の造成工事が行われたのはごく一部で、大部分が未開発地域として放置されたことも分かっています。開発が進むのは平安時代後期や中世になってからです。土器川や金倉川の氾濫原が開拓されるのは近世になってからだったことは以前にお話ししました。
荘園制内部の在地領主の勢力実態を知るために、居館の規模を見ておきましょう。
家には、そこに住む人の経済力が反映します。居館の規模は、階層差ともとれます。方形区画の規模については、次の2種類があります。
A 方一町のもの
B 半町四方のもの
Aは地頭クラスの居館、Bは村落の公文や土豪層の居館と研究者は考えています。
大山喬平は、荘園的土地所有をめぐる在地での支配階級として、次の二階層があるとします。
C  荘域を管掌する地頭・下司層=在地領主
D  村落を支配対象とする公文層=村落領主
これは、先に見たA・B]の居館規模の階層差と一致します。一括りに「在地領主」と呼ばれてきた領主にも「荘 園」と「村落」という二重構造 に対応した二種の領主階層があったことがうかがえます。 在地領主と村落領主を、居館規模から分類して、それぞれの役割を考える必要があるようです。

それでは「吉野大堀殿」の居館は、どうなのでしょうか?
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m
②堀跡は幅8~10mで、周辺田地との比高差は40~50cm。
ここからは吉野大堀殿の居館は、A・Cの1、5倍で、地頭・下司クラスよりも広いことが分かります。村落規模を超えて大きな力を持っていた「在地領主」であったことがうかがえます。
次に 水利開発の拠点としての中世居館の研究史を整理しておきます。 
A 小山靖憲は、在地領主の勧農機能を説き、「中世前期の居館の堀は農業用水の安定化のためにこそ存在した」と指摘
B 豊田武は「農村の族的支配者としての武士像」を次のように描いた
①用水統御機能を持つ居館を拠点に水田開発が進めらた。
②そこに「領主型村落」が形成され、
③その結果、郡郷内の村々に一族庶子を配置して開発を推進していく「堀ノ内体制」論が展開
東国をフィール ドとして作り上げられたこの2つの理論は、鎌倉期の西遷御家人の西国での開発に対しても適用され、一時は中世前期の在地領主と開発をめぐる「公式」になります。こうして文献史学の立場から「領主型村落」論が示されます。
 ところがその後に中世居館遺構の発掘調査が進むと、考古学の立場から次のような反論が出てくるようになります。
1987年以降の関東での発掘調査の成果から、橋口定志は次のように述べています。、
①12・13世紀の前期居館は周囲を溝で区画したにすぎず、 灌漑機能を持つ本格的な水堀を備えた方形館の出現は14世紀以降であること、
②史料に出てくる「堀ノ内」は領主居館を指すとは考えられないこと
この指摘により中世前期居館の水堀の灌漑機能は否定されます。それを根拠とする 「領主型村落」
論は、根底からの再検討を余儀なくされます。これを承けて「領主型村落」と「堀ノ内体制」論を問い直す試みが始まります。
そのような中で海津一朗は、領主的開発の原動力を次のように説明します。 
①東国領主の堀ノ内は交通路に面した村落と外界の結節点に位置する
②そこに市や宿が建てられ町場が形成され
③そこを基地として、都市と連結した経済活力が新田開拓につながる
④それが「領主型村落」の祖型となる。
 ここでは灌漑力ではなく、交通路の関係が重視されるようになります。 特に前期居館の灌漑機能が否定されて以降、 農業経営以外の要因で居館の立地を説明しようとする傾向が強くなります。これは初期武士団を農業経営よりも、むしろ都市的な富の再分配に大きく依存していた存在とみる見方と重なり会います。
 しかし、「水堀をめぐらす居館は14世紀以前には存在しなかった」という結論に対して、近畿を中心とする発掘調査が進むと反論が出るようになります。
近畿でも和気遺跡・長原遺跡などの中世前期にさかのぼる居館水堀の遺構が出てくるようになります。これらの分析から水堀をめぐらせた居館が12世紀後半には、出現していることが分かってきました。
しかし、12世紀の前期の水堀については、次のような意見の対立があります
A 長原遺跡の水堀は「初期館においては防御を主目的とするものではなく、田畠への水利を目的とするもの」
B 居館水堀の埋土分析から流水状況が認められないとして、水田をうるおす用水路の役割は果たしていなかった
12世紀の前期居館については、このような対立はありますが、中世後期の居館については、水堀が灌漑機能を持っていたことに異論はないようです。
以上をまとめておくと、領主が開発をリードできたのには、次の2つの根拠があると研究者は考えています。
①居館の用水支配に基づく勧農機能
②都市と直結した経済活力の投入
どちらを重視するかによって、居館領主の性格付けは、大きくちがってくることになります。
  居館と灌漑用水について、研究者は次のようなモデルを提示します。
中世居館と水堀の役割
 
 A. 「水堀=溜池」で、旱魃に備えた堀水が、水田へと給水される場合
 B.「 水堀=用水路」で、居館より下流の水田へ の灌漑用水が流れていた場合
 AもBも、用水を提供していたことには変わりありません。
中世居館と井堰型水源

そこでまず考えるべき点は、その水をどこから引いているのかだと研究者は指摘します。つまり、上流にさかのぼって堀水の水源を押さえるるべきだというのです。居館建設に先だって、堀に水を貯めるためには、水源確保がまず求められたはずです。居館建設に先立ってすでに、湧水や井堰などから導入してくる用水供給のためのシステムがあったはずです。さらに用水を 自らの居館に引き込んでいるので、領主が用水の使用権を握っていたことになります。そうだとすると、 水堀そのものに灌漑機能がなくても、用水路網の末端で水を受 けるだけの場合であっても、 居館の主人は用水の支配権を握っていたことになります。ここでは、水堀は防御機能だけで無く、地域の用水システムと深く関わっていたことを押さえておきます。これと最初に述べた勧農権の問題はリンクします。
これを「吉野大堀居館」の主人にあてはまて考えています。

まんのう町吉野

  まんのう町吉野土地利用図を見ると、大堀居館のまわりは土器川と金倉川の扇状地上部で、いくつもの流れが龍のように暴れ回っていたエリアであることがうかがえます。そのため遊水地化し、低湿地が拡がる開発が遅れた地域であったことは以前にお話ししました。そこに承久の乱以後に西遷御家人がやって来て、大堀居館を構えたという仮説を提示しておきます。

大堀遺跡 まんのう町
大堀居館絵図(江戸時代)
居館の掘には、そこから湧き出す出水が利用されます。それだけでなく土器川に井堰を築造し、導水が始められます。その水は居館の水掘を経由して、下流域に供給されていきます。
そして、灌漑用水の下流域の要所には一族が居館を構え、周辺の開発を行い勢力圏を拡げていくというイメージです。灌漑用水路沿いに一族の居館が設置されていたという事例が近江の姉川水系からは報告されています。そを大堀居館にも当てはめて考えて見ると、大堀居館は土器川からの井堰や吉野の湧き水など取水源を抑える勢力の居館だったことになります。だから先ほど見たように居館規模が大きかったのかもしれません。
灌漑用水網と居館群
灌漑用水路沿いに一族の居館が配置された模式図
大堀居館の下流の居館を見ていくことにします。
琴平 本庄・新庄2

        琴平町の「本庄城(居館)と石川城(居館)の推定地(山本祐三 琴平町の山城)
小松荘琴平町)には、中世の居館跡とされる本庄居館と新荘(石川居館)があります。
荘園の開発が進んで荘園エリアが広がったり、新しく寄進が行われたりした時に、もとからのエリアを本荘、新しく加わったエリアを新荘と呼ぶことが多いようです。「本庄」という地名が琴平五条の金倉川右岸に残っています。このエリアが九条家による小松荘の立荘の中核地だったようです。具体的には、上の地図の右下の部分で琴平高校の北側の「八反地」が、本荘の中心エリアと考えられています。

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新荘の氏神・春日神社の湧水 ここが石川居館の水源
 一方、新庄は春日神社の湧水を源とする用水の西北で、現在の榎井中之町から北の地域、つまり榎井から苗田にかけての地域とされます。春日神社の北側には、丸尾の醤油屋さんや凱陣の酒蔵が並んでいます。これも豊富な伏流水があればこそなのでしょう。さらに春日神社から湧き出した水の流れを追いかけると石川居館の水堀跡に至ります。こうして見ると、本庄と新荘は小松荘の出水からの水を用水路で取り入れ、早くから開けた地域だったことがうかがえます。同時に、水源地を氏神として信仰の場としています。「松尾寺奉物日記之事」(慶長二十年(1615)には「本荘殿」「新荘殿」と記されています。ここからは、中世には本荘と新荘の、それぞれに領主がいたことがうかがえます。

 現在では、旧小松荘(五条・榎井)の水源は出水だけに頼っているわけではありません。
満濃池水掛かり図

吉野の①水戸井堰で取水した②用水路の支線が西に伸びて五条や榎井の水田を潤しています。これは、生駒藩時代に西嶋八兵衛の満濃池築造と灌漑用水路の整備の賜と私は考えてきました。しかし、「居館ネットワークによる灌漑水路整備」の実態を見ていると、満濃池が姿を消していた中世に、吉野の大堀居館から小松荘の本庄や石川の居館に水路網が伸ばされてきていたのでないかという疑問が芽生えてきました。最初は、出水利用の小規模水路であったものを、土器川からの取水によって小松荘まで用水供給エリアを拡げる。そして、南北朝にやってきた長尾氏に、この地位は引き継がれていくことになります。こうして長尾氏は、四条や小松荘など丸亀平野南部の土豪たちを被官化して、勢力を拡大するというシナリオになります。

中世居館跡とされる飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)を見ておきましょう。

飯山国持居館2地図
飯野山北土井遺跡(丸亀市飯山町西坂元)
北側は飯野山の山裾で、麓の水田地帯には条里型地割が残っています。法勲寺方面から北流してきた旧河道が飯野山に当たって、東に向きを変える屈曲部がよく分かります。その流れを掘にするように居館跡があります。現在の飯山ダイキ店にほぼ合致します。その長さは長辺約170~175m、短辺約110mで、まんのう町の大堀居館とほぼ同じ規模になります。

大束川旧流路
飯野山北土井遺跡から法勲寺も土器川と大束川に囲まれた低湿地帯

土地利用図を見ると、この当たりもかつては洪水時には土器川が大束川に流れ込み遊水地化し、その中野微高地に早くから人々が定住農耕を始めたエリアです。そのため古代には、南海道が東西に走り、鵜足郡郡衙や古代寺院の法勲寺が建立されるなどの先進地帯だった所です。しかし、洪水によって幾度も押し流されたことが発掘調査からも分かっています。そこに現れたのが坂本郷国持に居館を構えた主人です。この国持の地に居館を選定したのも、西遷御家人であり、彼によって周辺開発が進められたと私は考えています。ここでは国持居館と呼んでおきます。
 国持居館と周辺の灌漑用水の関係を見ておきましょう。
坂本郷国持居館と用水路
ここで研究者が注目したいのが東坂元秋常遺跡の上井用水です。       
     上井用水の源流は、近世に大窪池が姿を見せる前は岡田台地の下の出水にありました。古代においては法勲寺周辺の灌漑用水路として開かれたと考えられます。それが中世になって湿原などの開発が進むにつれて、古代に開削された用水路が改修を重ねながら現在にまで維持されてきた大型幹線水路です。今も下流の西又用水に接続して、川津地区の灌漑に利用されています。東坂元秋常遺跡の調査では、古代期の水路に改修工事の手が入っていることが報告されています。中世になっても、下流の東坂元秋常遺跡の勢力が、上井用水の維持・管理を担っていたことが分かります。しかし、それは単独で行われていたのではなく、下流の川津一ノ又遺跡の集団とともに、共同で行っていたことがうかがえます。つまり、各遺跡の建物群を拠点とする集団は、互いに無関係だったのではなく、治水灌漑のために関係を結んで、共同で「地域開発」を行っていたと研究者は考えています。いわゆる郷村連合です。
 各集落が郷社に集まり、有力者が宮座を形成して、郷社連合で祭礼をおこなうという形にも表れます。滝宮念仏踊りに、踊り込んでいた坂本念仏踊りも、そのような集落(郷村)連合で編成されたことは以前にお話ししました。しかし、用水路の管理整備を下流の郷村のみで行っていたとするのは、私は疑問を感じます。なぜなら、用水路が国持居館を経由しているからです。この居館の主人は、用水路について大きな影響力を持っていたことは、今までの事例から分かります。部分的な用水路であったものを、水源から川津までひとつに結びつけ、用水路網を整備したのは国持居館の先祖とも考えられます。だとすれば、この用水路周辺には、一族の居館が配されていた可能性があります。」

飯山法勲寺古地名大窪池pg

以前に見た大窪池周辺の古地図に出てくる地名を確認します。
ここには東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、近くには「ぞう堂」という地名も見えます。土豪層の存在が見えて来ます。その背後の丘陵地帯の谷間に大窪池があります。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓したのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
  讃岐にやって来た関東の武士たちとは、どんな人たちだったのでしょうか。

飯山地頭一覧
上表は、飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。鵜足郡法勲寺を見ると壱岐時重が1250年に、法勲寺庄の地頭となっています。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたことが考えられます。そして、国持居館はその拠点であったと私は考えています。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

大堀居館 説明版
大堀居館の説明版(まんのう町吉野)
まんのう町吉野の「長田うどん」の約南200m近くの道路沿いに中世の武士居館跡があります。この居館跡については、江戸時代に書かれた「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」という長い名前がつけられた下の絵図が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されていいます。

大堀 
        大堀居館跡は長田うどんの南側 まんのう町吉野

大堀居館5

大堀居館跡5

大堀居館跡(まんのう町吉野) 廻りが水堀で囲まれている
この絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路・飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木などが見て取れます。さらに註として、次のようなことが書き込まれています。
①文字部分は、墨書で絵図名称と方位名
②朱書部分は、構造物と地形の名称と規模
③「大堀」の内側の水田については「此田地内畝六反四畝六歩」と面積が示される。
④堀の外周と内周の堀の「幅」の数値から100㍍×60㍍が館の面積
⑤絵図が書かれた江戸時代には、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰
大堀居館絵図 拡大図
 大堀居館跡 南側拡大図
調査報告書(2005)には、つぎのようなことが報告されています。(要約)
①堀・土塁の規模は、南北約170m、東西110m、堀跡は幅8~10m
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。③その後しばらくして、堀に石垣が張られた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まり、居館もその役割を終えた。⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
⑤江戸時代には水田となり、堀は灌漑用水路の中に組み込まれた。
私が気になるのは、大堀居館跡は吉野にあり、西長尾城主の長尾氏の勢力エリアにあることです。今回は、長尾氏と大堀居館の関係を見ていくことにします。テキストは「大堀城跡調査報告書」です。
まずは、立地する吉野の地理的環境を押さえておきます。 

まんのう町吉野

大堀居館(城)跡は、まんのう町吉野の緩やかな傾斜の扇状地上にあります。土器川は、それまでの山間部を抜けると、まんのう町木ノ崎付近を扇頂として扇状地を形成します。また、大堀居館跡の西300mには、金倉川が蛇行しながら北流します。地図を見ると分かりますが、このふたつの川が最も近接するのが吉野のこの遺跡付近になります。地質的には地下深くまで扇状地堆積による礫層が堆積しています。耕土直下には「瓦礫(がらく)」と呼ばれる砂礫層が見えているところもあります。しかし、遺跡周辺は後背湿地と呼ばれる旧河川の埋没凹地も多くあります。このような窪地は、古代から中世には安定した用水を確保できる田地でした。最先端のカマド住居を持った吉野下秀石遺跡は、吉(葦)野の開発のために入植した渡来系集団と私は考えています。しかし、発掘現場からは礫層が出てくるので、洪水による被害はたびたび被っていたこともうかがえます。
丸亀平野の条里制.2

まんのう町吉野は条里制施行エリアではない

条里制 丸亀平野南部 大堀居館跡
丸亀平野南部の条里制跡
古代の開発は部分的に過ぎなかったようで、中世になっても吉野は湿地帶が拡がるところが残っていたようです。そのため上図をみると四条や岸上は条里制施工エリアですが、吉野は施行外になっています。大堀居館の東側に一部痕跡が残るのみです。そこに西遷御家人としてやってきて、治水灌漑を進めて吉野の開発を進めていったのが大堀居館の主人たちではなかったと私は考えています。彼らのことを「吉野大堀殿」と呼ぶことにします。
この吉野大堀殿と長尾氏の関係は、どうだったのでしょうか?
まず長尾氏について根本史料で押さえておきます。「香川県史の年表」に長尾氏が登場するのは以下の4回です。
①応安元年(1368) 庄内半島から西長尾城に移って代々大隅守と称するようになった
②宝徳元年(1449) 長尾次郎左衛門尉景高が上金倉荘(錯齢)惣追捕使職を金蔵寺に寄進
③永正9年(1512)4月長尾大隅守衆が多度津の加茂神社に乱入して、社内を破却し神物略奪
④天文9年(1540)7月詫間町の浪打八幡宮に「御遷宮奉加帳」寄進」 
①については南北朝の動乱期に、白峰合戦で海崎氏は軍功をあげて西長尾(現まんのう町)を恩賞として得ます。こうして庄内半島からやってきた海崎氏は、長尾の地名から以後は長尾氏と名乗り、秀吉の四国平定まで約200年間、この地で勢力を伸ばしていきます。②からは、丸亀平野南部から金倉寺周辺の中部に向けて勢力を伸ばしていく長尾氏の姿がうかがえます。そして、南北朝期になると緊張関係の高まりの中で、西長尾城を盟主にしてまんのう町の各丘陵に山城が築かれるようになります。南海治乱記によれば、土豪武士層が長尾氏に統括された様子が記されています。西讃守護代の香川氏が天霧城を拠点に、善通寺寺領などを押領し傘下に収めていったように、西長尾城を拠点とする長尾氏も丸亀平野南部を勢力下に置こうとしていたことがうかがえます。
 そのような中で讃岐に戦国時代をもたらすのが香西氏による主君細川高国暗殺に端を発する「永世の錯乱」です。
この結果、讃岐と阿波の細川家は、同門ながら抗争を展開するようになります。そして、三好氏に率いられた阿波勢力が讃岐に侵入し、土豪たちを支配下に置くようになります。その先兵となったのが東讃では、三好長慶の末弟・十河一存で、安富氏や香西氏は三好氏に従うようになります。
 一方丸亀平野で阿波美馬との交易活動が真鈴峠や三頭峠越えに行われていたことは以前にお話ししました。このルート沿いに阿波三好氏が勢力を伸ばしてきます。こうして、長尾氏も三好氏の軍門に降ります。それは長尾氏が三好氏に従軍している次のような記録から分かります。
①備中への三好氏に従っての従軍記録
②香川氏の居城天霧城攻防戦へ。三好支配下として香西氏・羽床氏と共に従軍していること
③毛利軍が占領した元吉城(琴平町の櫛梨城)へも香西氏・羽床氏と三好氏配下として従軍
④天霧城の香川氏は、三好氏に抵抗を続けたこと。そのため三好配下の長尾氏と抗争が丸亀部屋で展開されたこと
ここでは16世紀初頭の永世の錯乱以後は、長尾氏は阿波三好氏の勢力下に置かれていたこと、そこに土佐の長宗我部元親が侵入してきたことをここでは押さえておきます。

最初に見た発掘調査には、吉野大堀殿の居館については次のように記されていました。
②鎌倉時代(13世紀前半)に、南北に区切る堀とその周囲に建物が築かれた。
④建物は何度か住替えがあり、堀は14世紀後半に埋まりその役割を終えた。
⑤外周の現存する堀は形状から16世紀ごろのものという指摘もある。
ここからは大堀居館跡の出現期と消滅期が次のように分かります。
A出現期が13世紀前半の鎌倉時代の承久の乱前後
B消滅期が14世紀後半の南北朝以後
ここから推論すると、Aからは承久の変以後にやってきた西遷御家人の舘と大堀居館が作られたこと。Bからは、南北朝の動乱期の白峯合戦で長尾氏がやって来ることによって、大堀居館の主人は姿を消したことがうかがえます。
以上を整理しておくと
①承久の乱以後に、東国からやってきた西遷御家人が吉野の湿地帶の開発に着手した。
②その拠点として、湿地帶の中に居館を条里制地割に沿う形で建設した。
③当初は掘水は湧水に頼ったが、その後は土器川からの横井(井堰)を建設した。
④この灌漑用水路は、居館を経由して下流の耕地に提供された。
⑤こうして吉野エリア全体の灌漑権を握ることによって吉野大堀殿は支配体制を固め成長した。
⑥しかし、南北朝時代に長尾氏がやってくることになり、吉野大堀氏は次第に勢力を奪われ衰退した。
⑦そして、14世紀後半には居館は姿を消した。
つまり、吉野大堀殿は、長尾氏以前に吉野の灌漑水利を整備し、吉野の開発を担った勢力ということになります。それが南北騒乱の中で姿を消したと私は考えています。その後は、吉野は長尾氏の勢力下に置かれていったとしておきます。

中世居館と井堰型水源

少し結論を急ぎすぎたようです。次回は中世の居館の堀水が、地域の灌漑システム全体の中でどんな役割をになっていたのか。それが居館主人の地域支配にどんな意味を持っていたのかをもう少し詳しく見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「大堀城跡調査報告書」2005年
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まんのう町吉野
   吉野は土器川と金倉川に挟まれた遊水地で、大湿原地であった。
まんのう町の条里制跡
大湿地帶だった吉野は古代条里制が施行されず開発が遅れた
まんのう町吉野と四条

前回はまんのう町の吉野が古代の条里制施行の範囲外におかれていたことと、その理由について見てきました。それでは四条や吉野の開発のパイオニアたちは、どんな人達だったのでしょうか。それに答えてくれる遺跡が見つかっています。その遺跡を今回は見ていくことにします。テキストは 「まんのう町吉野下秀石遺跡」です。
まんのう町吉野下秀石遺跡4

  吉野下秀石遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、まんのう町役場と土器川の間にありました。
まんのう町吉野・四条 弘安寺
           吉野下秀石遺跡(まんのう町役場と土器川の間)
吉野下秀石遺跡は、土器川の氾濫原で条里地割区域外に位置するので、遺跡がないエリアと考えられてきました。しかし、地図で見ると次のようなことが分かります。
「白鳳時代の寺院跡」である「弘安寺跡」から約500mしか離れていないこと
土器川対岸の中津山には安造田古墳群など中・後期古墳が群集すること
発掘の結果、弥生時代から平安時代に掛けての住居跡が出土しました。その中で研究者が注目するのは、古墳時代の14棟の竪穴住居です。時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。そして14棟全てに竃(カマド)がありました。「カマド=渡来系住居」の指標であることは、以前にお話ししました。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強いカマド付の住居群の住人たちは渡来系集団であった可能性が高くなります。彼らによって「遊水池化した葦野原」だった四条や吉野の開発がにわかに活発化した気配がします。時期的には「日本唯一のモザイク玉」が出てきた安造田東3号墳の造営と重なります。「吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の渡来系開発集団」が安造田東3号墳の被葬者の拠点集落というストーリーにつながります。だとすれば、吉野や四条の開発は渡来人によって始められたことになります。
想像はこのくらいにして調査報告書で、古墳時代の竪穴住居跡のひとつであるSH04を見ていくことにします。

まんのう町吉野下秀石遺跡 SH04カマド付縦穴式
左上がSH04で、竪穴住居跡の配列は、南北方向に縦長に並びます。これは最初に成立したグループに続いて、後から一定の距離を保って次のグループが住居を建てたためとします。そして各グループに挟まれた空白地域が、「広場」的な共有空間となっています。
吉野下秀石遺跡SB04 カマド付縦穴式
 吉野下秀石遺跡 カマド付縦穴住居 SH04
カマドは住居の壁に据え付けられ、住居外に煙突を延ばす構造です。
①床面部に柱穴跡がないので、柱材は床面に据え置かれていた
②竃(カマド)は、北壁面の北東隅部寄りの位置。
③煙道部の上部構造の一部は、原形を保っていたが、燃焼部、器設部各上部構造は完全損壊
④燃焼部と器設部は、高さ約15cmの下部構造が保存
⑤下部構造の基底部の規模は、原形は幅約50cm、 奥行き約80cm、 高さ約50cmの規模
⑥煙道部は、住居側が地下構造
 吉野下秀石遺跡の竪穴住居跡の竃で、保存状態が良好な竃は次の5基です。
吉野下秀石遺跡 カマド分類

残された下部構造の壁が、直立か傾斜しているかによって「半球型」と「箱型」に復元されました。
以上からは、古墳時代からこの2つタイプのカマドが使用されていたことが分かります。
吉野下秀石遺跡 カマド分類2


カマドは、韓半島から新しい厨房・暖房施設として列島にもたらされたものです。
竪穴式住居内にカマドが造りつけられ、一般化していくのは4世紀末から5世紀だとされます。この時期になると近畿では、カマドと一緒に「韓式系軟質土器」が姿を見せるようになります。そういう意味では「韓式系土器(かんしきけいどき)」とカマドは、渡来人の存在を知る上で欠かせない指標であることは以前にお話ししました。
このカマドの導入によって食事のスタイルが一変します。それまでは炉で煮炊きして、その場で直接食べ物を食べるスタイルでした。それが住居の隅のカマドで調理したものを器によそって住居中央で食べるスタイルに変化します。そのため個人個人の食器が必要になりました。
竈と共に、次のようなさまざまな食器や調理具(韓式系軟質土器)が登場することになります。
 
①カマドの前において調理された小型平底鉢
②食器の一種としての把手付鉢、平底鉢
③カマドにかけて湯沸かしに用いられた長胴甕
④カマドにかけられた羽釜(はがま)
⑤大人数のために煮込み調理などがなされた鍋
⑥厨房道具としての移動式カマド
⑦蒸し調理に用いられた甑(こしき)
⑧北方遊牧民族の調理具である直口鉢(?ふく)
⑨カマド全面を保護するためのU字形カマド枠

 八尾の古墳時代中期-後期の渡来文化(土器) : 河内今昔物語
⑥の移動式のカマドに、③の長胴甕と⑦の甑
かまど利用の蒸し調理
    韓式系軟質土器には、それまでの土師器になかった平底鉢、甑、長胴甕、把手付鍋、移動式竃などが含まれます。特に竃・長胴甕と蒸気孔を持つ甑をセットで使用することで米を「蒸す」調理法がもたらされます。これは食生活上の大きな変化です。
 全羅道出土須恵器の編年試案(中久保2017に一部加筆)
全羅道出土須恵器(左側)とその影響を受けた列島の須恵器編年試案(中久保2017に一部加筆)
この中心は、小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑です。土器は、羽子板上の木製道具を用いて外面をたたきしめてつくられるので、格子文、縄蓆(じょうせき)文、平行文、鳥足文などのタタキメがみられます。こうした土器は、形状がそれまでの日本列島の土師器とはちがいます。また、サイズや土器製作で用いられた技術なども根本的に異なります。さらに、調理の方法や内容も違うところがあるので、土器の分析によって、渡来人が生活した集落かどうかが分かります。

SB03とSB04から出てきた土器について、報告書は次のように記します。

吉野下秀石遺跡SB03 遺物
              
①50は、口縁部がラッパ形に開口する大型品である。
②51の外面には、 2本の斜線で構成された大小2種類のV字形の線刻文が施されている。
③53と54の原形は、長胴の形態が考えられる。
④58は、口縁部から把手の接合部までが均整のとれた円筒型の形態である。(→甑)
⑤60は、縁端部が外側の下方向に折り曲げられた後に、先端部が器壁に接着されないままで成形を終えている。
⑥61は全体の器壁が一定の厚さで精巧につくられた資料で、特に口縁部が明瞭な稜線が形成されるように丁寧に仕上げられている。
⑦63と64は65~72に比べて、口縁端部が内側へ折り曲げられるように成形されたために、同部が垂直気味の形態を示す。
58は形状からして、甑(こしき)でしょう。

吉野下秀石遺跡SB03・4 遺物

⑧73~87は、かえし部が短い器形で、同部の内側への傾斜角度が大きい特徴がある。
⑨88の口縁部外面には、矢羽状のタタキロが認められる。
⑩89の片面には金属のヘラ状工具で鋸歯文と斜格子文が線刻されている
調査報告書は、2007年に書かれているので「 韓式系軟質土器」という用語はでてきません。
しかし、「小型平底鉢、長胴甕、鍋、甑」などのオンパレードです。「カマド+韓式系軟質土器」とともに渡来人の姿が見えてきます。
古代の調理器具

以前に「韓式系軟質土器 + 初期群集墳 + 手工業拠点地」=渡来系の集落という説を紹介しました。
前方後円墳と居館 学び舎
古墳時代のムラと首長居館と前方後円墳(東国のイメージ:中学校歴史教科書 学び舎)
次に、渡来人定着をしめす指標として「初期群集墳」を見ていくことにします。
「初期群集墳」は、「当時の共同体秩序からはみだしている渡来人」の掌握のひとつの方法として群集墳が出現したと研究者は考えています。[和田 1992]。「韓式系軟質土器=手工業拠点地=初期群集墳出現地」に、ハイテク技術をもった渡来者集団はいたことになります。韓半島から渡来した技術者集団を管理下に置いたヤマト政権は「産業殖産」を次のように展開します。

①5世紀初頭 河内湖南岸の長原遺跡群で開発スタート
②5世紀中葉 生駒西麓(西ノ辻遺跡、神並遺跡、鬼虎川遺跡)、上町台地(難波宮下層遺跡)へと開発拡大
③5世紀後葉以降に、北河内(蔀屋北・讃良郡条里遺跡、高宮遺跡、森遺跡)へ進展

①→②→③と河内湖をめぐるように南から北へ展開します。これを参考に、四条や吉野で進められた湿地開拓を私は次のように考えています。
①河内湖開拓事業の小型版が丸亀平野南部の四条や吉野でも進められることになった。
②そのために送り込まれ、入植したのが先端技術をもつ渡来人であった。
③彼らは、土器川近くの微高地にカマド付の竪穴式住居を計画的に建てて集落を形成した。
④カマドや
韓式系土器などで米を蒸して食べる調理方法で彼らは用いた。
⑤首長は、土器川対岸の初期群集墳である安造田古墳群に埋葬された。
彼らは、四条方面の開発整備後に、その西側の吉野地区の開拓にとりかかった。
⑦吉野地区の開拓は、その途上で挫折し、吉野が条里制地割に加えられることはなかった。
⑧しかし、彼らの子孫は氏寺である弘安寺を四条に建立した。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
吉野下秀石調査報告書2007年
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丸亀平野の条里制.2
丸亀平野の条里制跡    

丸亀平野の条里制跡です。これを見ると整然と条里制跡が残っているのがよく分かります。

丸亀平野条里制4

よく見ると条里制跡のない白いスペースがあることに気がつきます。
A海岸線  当時は現在の標高5mの等高線が海岸線であった
B岡田台地 丘陵上で近世までは台地だった
C旧金倉川流路の琴平→善通寺生野→金倉寺の氾濫原
D土器川の氾濫原
Cの旧金倉川については、⑤の生野町の尽誠学園あたりで流れが不自然に屈曲しています。ここで人為的に流路を換えたという説もあります。そのため生野あたりの旧流路は、川原石が堆積して耕地に適さずに明治になるまで放置され大きな樹林帯が続いていたこと。讃岐新道や讃岐鉄道は、そこを買収したために短期間で工事が進んだとされることなどは以前にお話ししました。
今回、見ていくのは丸亀平野南部の①の東側部分です。ここは土器川と金倉川に挟まれた部分で、現在の行政地名は、まんのう町吉野です。ここも条里制が及んでおらず、真っ白いエリアになっています。
それはどうしてなのでしょうか?
   国土地理院の土地条件図を見ると、土器川の旧河道がいくつも描かれています。

まんのう町吉野
吉野付近の旧河道跡
木崎(きのさき)で、それまで狭い山間部を流れ下ってきた土器川が解放されて丸亀平野に解き放たれます。ここが丸亀扇状地(平野)の扇頂で、西方面に向かっていくつもの頭を持つ蛇のように流れを変えながら流れ下っていたことが分かります。
 また金倉川も現在は水戸で大きく流れを西に変えて、琴平方面に西流しています。しかし、もともとのながれは、水戸から北流して四条方面に流れて居たので「四条川」と呼ばれていたことは以前にお話ししました。現在のベーカリー「カレンズ」さんのある水戸で流路変更が行われています。そうすると、土器川と北流する旧金倉川(四条川)に挟まれたエリアは、洪水の時には大湿原となっていたことが予測されます。つまり、現在の満濃南小学校からまんのう中学校、まんのう町役場あたりは、広々とした葦の生える湿原だったのです。だから吉野(葦の野)と呼ばれるようになったと地名研究家は云います。そのために吉野エリアは、古代の条里制施工工事から外されたということになります。以上をまとめておきます。
①土器川は、木崎を扇頂に扇状地を形成している
②吉野には、旧金倉川も含めて網状河川が幾筋にも流れていた。
③吉野は、洪水時には遊水池で低湿地地帯(葦野)であった。
④そのため条里制適応外エリアとされた。
もう一度、条里制施行図を見ておきましょう。
  
まんのう町の条里制跡
まんのう町の条里制跡 吉野には条里制跡はない。四条にはある。
  旧金倉川と土器川に挟まれた吉野はほとんど条里制の痕跡がありません。ところが四条から南側と西側には条里制跡が残っています。その一番東側の微高地に建立されたのが古代寺院の弘安寺です。

イメージ 5

弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
               弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
弘安寺は、四条の微高地の上に立地します。そこから東は葦原の続く大湿原でした。そういう意味では弘安寺は、四条の開発拠点に建立された寺院という性格も持ちます。どんな勢力が、四条の開発を進め、弘安寺を建立したのかを次回は見ていくことにします。

まんのう町吉野・四条 弘安寺

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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 前回は、文献史料で弘安寺のことを知ることが難しいことを確認しました。弘安寺廃寺に迫るために残されたモノは、礎石と心礎跡と古代瓦の3つです。現在の考古学は、これらを材料にどのように迫っていくのかを追いかけて見たいと思います。テキストは「蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年」です。

発掘調査報告書で最初に示されるのは、「周辺遺跡」と「復元地形」です。弘安寺周辺の遺跡を見てみましょう。

弘安寺周辺地遺跡図

①土器川を越えた東側に安造田古墳群があります。
この古墳群は後期古墳(6世紀代)に作られたものです。その中で「日本唯一のモザイク玉」が出土した安造田東3号墳は、6世紀末の飛鳥時代にできた短い前方部を持つ帆立貝式古墳です。
安造田三号墳モザイク玉調査報告会(まんのう町) - 善通寺市ホームページ
安造田東3号墳のモザイク玉
 
古代寺院の近くには、終末期の大型横穴式石室を持つ古墳がある場合が多いようです。例えば、善通寺王国では、大墓山古墳や菊塚古墳のように古墳後期の大型石室をもつ古墳を造営していた有力豪族(佐伯直氏)が、7世紀半ば以後に古代寺院を建立し始めます。
安造田東3号墳の調査報告書は、次のように記します。

古代における人々の活躍の場は、古墳や古代寺院の分布が示すように、九亀平野では満濃町北部が最奥とみられる。当地域には大規模な古墳の築造は行われておらず、弘安寺が羽間から長炭周辺に小規模な群集墳を築いた集団によつて建立されたと考えれば、この寺院の成り立ちは、この地の古代史を知る上で非常に興味深い。

  安造田東3号墳を造営した氏族集団が、弘安寺を建立したと考えているようです。しかし、古代寺院を建立するにしては、安造田東3号墳をはじめとする首長墓は小型です。 この財力でほんまに氏寺を建てられるのか?という疑問が私には残ります。
善通寺、仲村廃寺の周辺には、王墓山や菊塚古墳のような横穴式石室を持つ後期の大型首長墓があります。しかし、ここでは 安造田古墳群の延長線上に白鳳寺院の建立や、郡領氏族の形成が行なわれたというエリアではないようです。

 研究者が注目するのが古墳時代後期の集落跡、吉野下秀石遺跡です。
員 嚇 ・0 委 け

この遺跡は、国道32号線の満濃バイパス工事の際に発掘された遺跡で、弘安寺の東500mに位置します。この遺跡からは、出土した14棟の竪穴住居の全てに竃があるという統一性が見られ、時期は「古墳時代後期後半の極めて限られた時期」とされます。つまり、6世紀後半の短期間に立ち並んだ規格性の強い住居群ということです。この時期、地域の開発がにわかに活発化したことがうかがえます。同時に、時期的には安造田東3号墳の造営と重なります。
 吉野下秀石集落遺跡=6世紀後半の土器川氾濫原の開発集団で、彼らのリーダーが日本唯一のモザイク玉」を持って眠っていた安造田東3号墳の首長というストーリーは描けそうです。急速な開発と変革がこの地で起こっていたとしておきましょう。

開発という視点から、 もう少し弘安寺の立地を考えてみよう
考古学的手法では「復元地形」を用います。つまり、当時の地形がどんなものであったのかを地質図などで復元するのです。そのセオリーに従って、地質図を見ると次のようなことが分かります。

弘安寺周辺地質図2
弘安寺廃寺周辺の旧河川跡
①土器川が、木崎を扇頂に扇状地を形成し、吉野には網状河川が幾筋にも流れている。
②吉野は土器川の氾濫原で、洪水時には遊水池で低湿地地帯であった。
③弘安寺は土器川の氾濫原の西側の扇状地上の微髙地に立地している。
土器川が吉野地区に湾入していた痕跡を現場で見てみましょう。
 丸亀市方面からほぼ真っ直ぐに南下してきた県道「善通寺ー満濃線」は、マルナカまんのう店付近で東へ大きく屈曲するようになります。これが旧土器川が西側へ湾入した流路のうちの、最もわかりやすい痕跡だと報告書は指摘します。それを裏付ける地名が「吉野」で「葦の野」 (湿地帯)だとします。また、この屈曲箇所付近に 「川滝」の地名があります。これも河川があったことをうかわせます。さらに、旧吉野小学校南側の県道の道路敷は蛇行しています。これも土器川の流路であったことを示すものだと研究者は考えているようです。
 以上をまとめておくと「吉野」は「葦の野」で、洪水時には土器川の流路のひとつが流れ込み遊水池状態で湿地であったとしておきます。
次に金倉川を見ておきましょう。
 「カレンズ」ベーカリーの南に「水戸」があり、現在はここが満濃池用水の取水口となっています。金倉川の本流は、ここで大きく南西方へ直角に曲げられて象頭山方向に向かいます。一方、満濃池用水(旧支流)は直進して、満濃中学校の西側を通過した後に、祓川橋付近で土器川に近接するか、あるいは満濃中学校の南約250mから西へ湾流する状態を示しています。ここからは、、金倉川も土器川の吉野の湾入地域に流れ込んでいたことがうかがえます。つまり、吉野エリアは土器川と金倉川の二つの川の遊水池のような状態だったことになります。 このように吉野は、ふたつの川の影響を強く受けた地域で「葦の野」であったことがうかがえます。

吉野下秀石遺跡周辺は、条里制にもとずく規格性のある土地区画が試みられた痕跡が見られます。
旧満濃町役場西側の県道満濃善通寺線を基軸として、東方へ約200m間隔で設けられた直線状の土地区画が読み取れます。ただし、南北方向の区画線が不整いです。ここからは、吉野の条里制工事は開始されたが完成に至らなかったと研究者は考えているようです。
吉野下秀石遺跡報告書は次のように記します。
「本遺跡周辺は土地条件に恵まれた地域とは言い難く、むしろ大規模な耕地開発にはより多大な労力を要する地域」そのため
条里地割分布域の縁辺部に位置する」


弘安寺周辺の条里制復元図を見てみましょう。
弘安寺周辺条里制

これを先ほどの地質図と重ね合わせて見てみると次のようなことが分かります。
①土器川の氾濫原・遊水池である吉野エリアは条里制施行は施行されていない。
②ただ吉野地区にも条里制施行の痕跡は認められる。
③条里制が施行されているのは、四条エリアでその周辺縁に弘安寺は立地している。
④弘安寺は、四条や吉野の開発拠点に建立された寺院である。
先ほど見た吉野下秀石遺跡は、6世紀後半に開発が始まっていますが、7世紀末になって行われた条里制施行エリアには入れられていません。土器川の氾濫原の開発は、なかなか難しかったようです。吉野下秀石遺跡の西方約500mある弘安寺も、これとよく似た立地条件が類推ができると研究者は考えています。

弘安寺周辺を現在の丸亀平野の灌漑システムの視点から見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
③が吉野の水戸 満濃池用水の金倉川からの取水口
弘安寺は④の周辺

江戸時代の満濃池用水路を見ると、先ほど見た吉野の水戸が金倉川からの丸亀平野への取水口として重要な役割を果たしていることが分かります。近世の西嶋八兵衛の満濃池再建工事は、「満濃池築造 + 土器川・金倉川の治水工事(ルート変更と固定化) + 用水路網整備」の3つがセットで行われています。古代に満濃池が作られたとしたら同じような課題が、立ちはだかったはずです。満濃池の築造と灌漑網整備はセットなのです。いわば「古代丸亀平野総合開発」なのです。それを古代において後押ししたのは、国の進める条里制施行でしょう。
満濃池 水戸大横井
近世の水戸の取水口 手前が金倉川本流 向こう側が満濃池分水

 古代において、開発が早くから進んだ弘田川、金倉川流域では、しばしば氾濫に見舞われていたことが発掘調査からも分かってきました。これを押さえるためには、金倉川の水量調節が不可欠です。そのためにも上流の満濃池築造は大きい意味を持つことになります。9世紀初頭に、多度郡郡司の佐伯直氏が一族出身の空海の讃岐への一時帰還を朝廷に願い出ているのは、国の事業として満濃池の完成を図ろうとしたこと、丸亀平野全般の開発事業に関わっていたという背景があったのでしょう。満濃池が最初に姿を見せたのは8世紀初頭とされます。つまり、それ以前から佐伯直氏は、継続的にこの事業に関わっていたことがうかがえます。幼い真魚(空海幼名)も、一族の「丸亀平野南部開発総合計画」に奮戦する一族の活動を、見聞きしていたのかも知れません。

丸亀平野条里制と古代の満濃池水路
丸亀平野の条里制と満濃池用水網 ①が吉野の水戸


 以上から四条・吉野地区と佐伯氏の関係を、次のように推測しておきます。
①吉野下秀石遺跡に6世紀後半に、開拓集団を送り込んだのは佐伯直一族
②7世紀末の条里制施行時に、「吉野地区総合開発」を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
③9世紀に空海による満濃池再築を進めたのも「佐伯一族+因首氏」連合
つまり、古墳時代後半以後、佐伯直氏は金倉上流域に対しても、その影響力を伸ばしていたのです。そして、吉野地区の水戸を押さえることで、金倉川の治水とその下流に新たな入植地を確保して、急速な開発を行ったと考えられます。
弘安寺廃寺遺物 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦
      弘安寺廃寺 十六葉細単弁蓮華文軒丸瓦(白鳳時代)

そういう視点で、弘安寺についてもう一度見てみましょう。
弘安寺の建立は7世紀後半の白鳳時代になります。それは、条里制施工工事が丸亀平野の一番奥の四条地区に及び満濃池が姿を現す直前です。これらの開発拠点地が、四条地区でした。四条地区は急速に耕地が拡大し人口も増えたことが予想されます。そのような中で成長した有力者が、本拠地の近くに建立したのが弘安寺廃寺だと私は考えています。
 その造営主体として考えられるのは、次のような氏族です。
①安造田東3号墳の首長系譜につながる一族
②善通寺の佐伯直氏が送り込んだ入植者集団(佐伯直氏の分家)
③佐伯直氏と姻戚関係にあった因首氏

①の場合にも、善通寺王国の緩やかな連合体の中にあったと思われるので佐伯直氏の支援があったことは考えられます。③の場合も、因首氏は那珂郡に多くの権益を持っていましたから、吉野・四条からの用水路整備には、佐伯氏と共通の利害関係があったはずです。佐伯直氏と因首氏の共同開発プロジェクトとして進められ、最後には空海を担ぎ出すことによって国営事業に発展させて完成させたとも考えられます。
 満濃池築造後は、用水路を含めて維持管理が大切なことは、残された近世の満濃池史料が伝えるところです。
古代も同様であったはずです。その満濃池管理の拠点の役割を果たしたのが弘安寺ではないのかと私は考えています。港の管理を僧侶が受け持ち、寺院が港の管理センターの役割を果たしたように、新たに作られた用水路を寺院に担当させるというのが当時のひとつのやり方でした。水戸の取水口管理や用水配分などは、弘安寺の僧侶が行っていたのではないかと思っています。
そういう意味では、弘安寺は遊水池であった吉野地区の開発センターであり、満濃池の管理センターでもあったと云えます。墾田私有令以後は、多くの開発田をもつ経済力のある寺院となり本寺の善通寺を支えたのかもしれません。

ちなみに、この開発計画のその後をうかがわせる遺跡も出てきています。
買 田 岡 下 遺 跡

 琴平の「西村ショイ」の南側のバイパス工事にともなう発掘調査が行われた買田岡下遺跡です。
買田岡下遺跡 地図

ここからは、平安時代の掘立柱建造物が同時期に20棟近くも並んでいました。
買田岡下遺 郡衙的配置
    買田岡下遺跡の準郡衙的建造物配置図 一番下

 出土遺品や建造物の並びからこれを「準郡衙」的な遺跡と研究者は考えています。丸亀平野の条里制の最南端地区で、どうしてこのような施設が出てきたのか不思議でした。しかし、弘安寺周辺で7~9世紀に行われていた開発プロジェクトからすれば、その延長線上に買田岡下遺跡の「準郡衙」が現れたということになります。

以上をまとめておくと
①丸亀平野の最奧部にあたる吉野地区は、扇状地の扇頂直下の網状河川部にあたり、洪水時には遊水池となる湿原地帯であった。
②そこに古墳時代の後期以後に、入植が進んだ。その首長たちが造営したのが安造田古墳群である。
③7世紀後半に、丸亀平野にも条里制施行が始まると四条地区の開発が本格化した。
④四条地区の有力者は、佐伯氏の支援を受けながら「四条・吉野総合開発計画」を進めた。
⑤それは治水・灌漑のための「満濃池築造・用水路網整備・土器川金倉川治水」であった。
⑥そのモニュメントして建立されたのが弘安寺であり、後には満濃池の管理センターの役割も担った。
⑦四条地区の条里制整備は進んだが、吉野地区は何度もの洪水の被害を受けて完成には至らなかった。
⑧弘安寺周辺の四条地区には、満濃池の用水路網を握り、丸亀平野南部を押さえる有力者の存在がうかがえる。

 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
   テキスト
  蓮本和博 白鳳時代における讃岐の造瓦工人の動向―讃岐、但馬、土佐を結んで 香川県埋蔵物文化センター研究紀要2001年です。

満濃池が丸亀平野に、どのように灌漑用水を送っていたのかを見てみましょう。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

明治3年(1870)の「満濃池水掛村々之図」です。この絵図は、幕末に決壊し放置されたままになっていた満濃池を再築するに当たって、水掛かりの村々とそこに至る水路を確認し、課役を取り決めるために作られたものです。これを見ると、灌漑受益の村単位の分布は、現在のものとほぼ同じのようです。そして、これは近世初頭に西嶋八兵衛が満濃池を築造して以来、大きくは変化していないようです。この地図を、じっくりと眺めることからはじめましょう。
 この絵図からは、満濃池からの水路がどのように伸びていたかが分かります。また、満濃池の水掛かり範囲、つまり給水エリアを知ることも出来ます。
まず幹線水路を見ておくことにします。
満濃池①は、金倉川をせき止めて作られたものなので、池から流れ出した水は、金倉川②を下ります。しかし、それもつかもまです。③の地点で、金倉川から分水されます。③は、水戸大横井堰(まんのう町吉野下)で、「水戸」と地元では呼ばれているところです。美味しいパン屋さんのカレンズの近くの橋のすぐ上流に、堰はいまもあり、民家の間を抜けて北流します。

満濃池 水戸大横井

 以前にお話したように、丸亀市史には次のように記されています。
「この北流する水路は、もとは旧四条川の流路であって、ここに堰を設けると同時に、本流を西に流して金倉川を新しく人工的に作った」(要約)

と記します。確かに金倉川は西へ西へと丸亀平野の西の奥まで追いやられ、象頭山の麓の「石淵」にぶつかって流れを北にとり、琴平の町中を通過して行きます。平野中央部に自由自在に流れていた暴れ川を、コントロールするために使われる土木技法の一つです。平野の角の山手に追いやり、中央には人工的な水路を通し、水害から水田を守るという狙いです。

DSC04908
現在の③水戸大横井関 金倉川に堰が設けられ水門方向に流される

 ③から以西の金倉川は「水路」とは、当時は認識されていなかったようで色分けも白色になります。また③からの以西の河床は、それまでと比べると非常に浅くなり、天井川になります。これも、近世になって新しく人工的に作られた川という説を補強します。金倉川は⑥の生野町の堰まで分水口はありません。金倉川は、「方流路」で水路ではなかったことがうかがえます。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大1
赤が金毘羅領 黄色が池の御領(天領) 桃色が高松藩領
それでは、今度は満濃池の真の水路を追いかけてみましょう。
それは、③の吉野下の「水戸」で分岐した用水路です。

 グーグル地図でも、丸亀幹線水路は追うことができます。水路は、満濃中学 → まんのう町役場を経て西高篠④で2つに分かれます。ローソン西高篠のすぐ西になります。
DSC04865
西高篠の分水地点 右が丸亀幹線 左が櫛梨を経て善通寺・多度津へと伸びる。ここには分水点には阿弥陀堂が建っている

ここから櫛梨に向けて西(左)に延びる水路は、天領の苗田村と高松藩の公文村の村境となっていることが色分けから分かります。この水路以前には、ここに旧四条川が流れていたことの裏付け資料にもなります。四条川は、近世初頭には「自然村境ライン」でもあったようです。
 地図で見ると④で西に分岐した水路は、⑤で金倉川に落水しています。
満濃池水掛村ノ図(1870年)拡大2

現在は、どうなっているのでしょうか。
DSC04823旧四条川合流点
右が金倉川、左が旧四条川 ふたつの川の合流点

そして、そのすぐ下流の生野の堰で善通寺多度津方面に取水されます。
これが善通寺・多度津幹線です。この水路は、現在の善通寺市役所を北流し、農事試験場(旧練兵場遺跡)をまわりこむようにして、子どもと大人の病院の北で大束川に落水し、西白方まで伸びていきます。その手間で東西方向に流れを変えますが、その区間でいくつかの分水地点を設け、丸亀平野北部への水路を派生させます。その最終地点の村名をを金倉川から西へ並べると 下金倉村・鴨村・多度津・青木村・東白方・西白方となります。これらの村が、善通寺・多度津幹線の末端の村々になるようです。ここで、今挙げた村々のエリアが、地図上で、どんな色で色分けされている注目すると茶色(白?)です。
①茶色   多度津藩
②草木色    丸亀藩
③桃色   高松藩
④赤色   金毘羅大権現寺領
⑤黄色   池の御領(陵満濃池管理のための天領)
こうしてみると多度津藩の満濃池水掛かりは、最末端にあることがよく分かります。旱魃時には、なかなかここまでは水がやってこなかったはずです。負担は同じなのに、日照りの時に水はもらえないという不満を多度津藩の農民達が抱いたのも分かるような気がします。彼らは自己防衛のために、独自でため池を増やし、幕末には池掛りからの離脱の道を歩んだことは以前にお話ししました。
 丸亀平野における各藩領地の割合を見ると圧倒的に多いのは桃色の高松藩です
⑥で分岐され用水が供給されるのは高松藩の領地になります。私はうかつにも、かつては土器川が高松藩と丸亀藩の国境と考えていたことがありました。また、那珂郡と鵜足郡の境が国境と思っていた時もありました。もう一度「満濃池水掛村々之図」の各藩領地の色分け図を見ると大間違いなことに気づきます。大ざっぱにいうと、高松藩と丸亀藩の国境は金倉川なのです。丸亀城は、丸亀平野の高松藩領土の上にちょこんと首だけ乗っているようにも見えます。丸亀城の天守閣から殿様が南を見たときに、そこに開ける水田は自分の領地ではなかったのです。丸亀の殿様は、どんなおもいだったのでしょうか。
 この絵図を見ると、高松藩が満濃池に一番強い利害関係を持っていたことが理解できます。土器川以西の灌漑用水供給という点で、②の「水戸」の堰の分水地点は、高松藩にとっても非常に重要な地点であったことを押さえておきます。ここに堰を構えることによって、満濃池の水は高松藩の水田にやってくるのです。これがなければ、そのまま金倉川方面に下っていってしまいます。
 もうひとつ、満濃池の用水路を見ていて感じるのは、直線的なことです。これは、条里制以来の水路が活用されたためと、私は思っていました。しかし、それだけでは説明できないようです。それは、これらの用水が整備される前には、このエリアには四条川という川が流れていたからと丸亀市史は云います。

 絵図に書かれた幹線水路の多くは、近代以降の改修工事を経ながらも現在まで大きくは変化していないようです。
そこで、現在の幹線水路と丸亀平野の条里地割に重ねてみましょう。それが次の地図になるようです。
満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り
A赤色が「讃州那珂郡分間画図」や「満濃池水掛村々之図」に描かれた近世の水路
B緑色が近・現代に新しく作られた水路
C水色が土器川と金倉川
①吉野下の大横井堰
②西高篠分水
③生野堰
こうしてみるとAの近世に作られた水路は、そのルートが今もあまり変化することなく踏襲されていることが分かります。また、基本的に条理地割の上を通っています。それが直線的になったことの一つの要因のようです。この地図上でも水路を辿っておくことにします
A先ず金倉川の大横井堰①で取水され、土器川に平行するように那珂郡を北流する(現丸亀幹線)。
B②西高篠分水で西流する「多度水路」は、金倉川に落水した後、善通寺市の生野堰で再び取水され、左岸側の多度郡域へ流下する。
つまり「金倉川の治水を前提として灌漑システムが構想された」と研究者は考えているようです。これらの路網の途中の微高地上に「皿池」と呼ばれる貯留用のため池の築造が進み、安定的な灌漑網が形成されていくことになるようです。
満濃池掛かり 那珂郡分間画図
以上を仮説も含めてまとめておくと、
①古代の満濃池決壊後には、那珂郡と多度郡には金倉川と四条川が網の目のように流れていた。
②満濃池再築にあたって、西嶋八兵衛は満濃池用水路の確保のために四条川の付け替え工事をおこなった。
③それを四条川を西流させ「金倉川」とし、象頭山の麓を北流させることであった。
④丸亀平野中央部に、水路を条里制ラインに沿って掘削し、北流させた。
⑤同時に、四条川跡の櫛梨方面へも水路整備を行った。
⑤金倉川から取水された善通寺・多度津幹線は、西は西白方、東は下金倉村までをカバーする役割を担ったが、旱魃の際には水路末端まで用水を提供することが出来ず多度津藩農民の不満は高まった。これが幕末の満濃池池掛かりからの離脱を生むことになった。
⑥満濃池水掛かりの最大の受益者は高松藩であった。そのため高松藩は、倉敷代官所へも必要な意見具申をおこなっている。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸亀市史 金倉川と旧四条川
まんのう町教育委員会 満濃池名勝調査報告書
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岸の上遺跡 那珂郡条里制

丸亀平野を南北に流れる金倉川については「近世に作られた人工河川」説が出されています。何を根拠として人工的に付け替えられたというのでしょうか。
また何を目的に、いつ、だれによって工事が行われたのでしょうか。いろいろな角度から検討してみましょう。

丸亀平野北部 条里制

金倉川=人工河川説の「状況証拠」として、丸亀市史1(383P~)は次のような点を挙げています。

①全体に河床が高く、天井川であるから、東西からほとんど支流が流れ込まない。
②竜川橋・五条橋付近では、川床から粘土が出ている。
発掘調査の時、金倉川左岸堤防の近くまで発掘したが上層は厚い粘土層であった。このことは少なくとも往古からの自然河川ではないという証明である。
③中津町の金倉川左岸堤防工事の時に、川底より砂岩の五輪塔二基と楠三本が出土した。川底がかつては平地であったということを物語っている
④金倉川沿いの各所で村が東西に分断されている。後から作られた金倉川が地域を別けた。自然河川では、境界となることが多い。
⑤河口に形成された州が、旧金倉川のそれに比べて極端に小さい。万象園付近一帯だけである。川の歴史の浅いことを示している。
⑥金倉川沿いには、遺跡らしいものが存在しない。近世になって新しく作られた河川であるため、周辺部に遺跡がない
⑦川床幅が小さい。
以上のような状況証拠の積み重ねで「人工河川」説を補強します。

それでは、金倉川はどの位置で付け替えられたのでしょうか?

満濃池水掛村ノ図(1870年)番号入り

  その位置を丸亀市史はまんのう町吉野の①吉井橋(パン屋さんのカレンズ周辺)とします。満濃池の谷から流れ出し、北上していた流れを、ここで西流させ現在の金倉川の流れに改変したとします。ここは現在でも「水戸(みと)」と呼ばれています。

DSC04906
まんのう町吉野の「水戸」の現在の姿
満濃池水戸(みと)

改変される前の流れは、どう流れていたのでしょうか?
「丸亀市史」は改変前の北上する流れは、満濃町役場前から四条・天皇を経て高篠大分木に至り、ここから左に向きを変えて西高篠と苗田の境界に沿って西北流し、象郷小学校から上櫛梨の木の井橋の南へと流れていたと記します。そして、この川を「四条川」と呼びます。
金倉川 国土地理院

   本当に四条川はあったのでしょうか?
『全讃史』に、四条川のことが次のように記されています。
四条川、那珂郡に在り、源を小沼峰に発し、帆山・岸上・四条を経て、元吉山及び与北山を巡り、西北流して、上金倉に至り東折し、横に金倉川を絶ちて土器川と会す、
金倉川、源を満濃池に発し、西北流して五条に至り、横に四条川を絶ち、金毘羅山下を過ぎ北流して、西山・櫛無・金蔵寺を経て、四条川を貫ぎ下金倉に至り海に入る」
と記述されています。四条川は確かに実在したようです。しかし、流路はなかなか想像しずらいものがあります。
さらに四条川実在の論拠として、以下のような点を挙げます。
①この付近の「四条川跡」には多くの湧井が存在すること。
②善通寺大麻町の香川西部ヤクルト販売株式会社の東北に、琴平町内を北流してきた川と合流して西北流する四条川の左岸の一部が残っていること。

金倉川1 分岐点

③四条川の水量は多く、治水が容易でなく常に氾濫を繰り返していた。伝承として「明治中期起工の四国新道や讃岐鉄道の軌道敷も、四条川の廃川跡地が利用された。両者とも、用地取得が短期日で終わって工事に着手できたことは、田畑でなかった、当時はまだほとんど荒廃地だったからだ」と伝わっている。
 以上から、四条川の中流域は現JR線路と国道319号になっているようです。

金倉川3 大麻郵便局 

⑤四国横断自動車道建設にともなう発掘調査でも、JR土讃線と国道三一九号線の間では表土直下に河川堆積物の礫混じりの砂層が出てきて、四条川が氾濫を繰り返していたようです。そのため、稲木遺跡以東の、現金倉川に至るまでは、条里制跡が認めらません。これは大麻町以北の四条川右岸から、現金倉川に至るすべての地域も同じです。坂出市の鎌田博物館蔵の近世の絵図でも、磨臼山の北東を「イカノ川原」と表記しています。つまり、四条川の氾濫原で条里制施行外だっと考えられます。

金倉川1 分岐点

四条川の下流域ルートは?

多度津には、金陵多度津工場があります。
ここはかつて、ここを流れていた四条川の豊富な伏流水を使った酒造りが行われています。四条川はここで、流れを大きく東へ向けます。丸亀市民体育館の西方の金倉町上下所の高丸や、新田町の高丸、津森町高丸は、四条川の氾濫による砂傑の堆積地のようです。
 さらに四条川は市民体育館の西で北に流れを変えて先代池を斜め縦断して市道中津・田村線に出ます。先代池や平池は四条川が廃棄された跡の流路を利用して、築造されます。

丸亀の海岸線 旧流域図3
「新田橋本遺跡周辺旧流域想定図(S=1/20,000)」

四条川は田村町番神に向かって流れ、ここから北に流れを変えます。丸亀城西高校の正門前に堀が残りますが、四条川の川跡とされます。そして、津森町内を北流して津森天神社の北東200mの津森町宮浦で海に注いでいました。ここが四条川の河口でした。ここが『万葉集巻二』の柿本人麻呂の詠んだ有名な「玉藻よし讃岐国は国柄か」の枕詞ではじまる長歌の中に出てくる中乃水門とされます。現在の津森町の地名も、ここに設けられた津守に由来します。

田村廃寺周辺地質津

金陵多度津工場から河口まで四条川は、多くの支流を生みだし、旧六郷村域では氾濫常習地帯だったようです。そのため氾濫地帯の大部分は荒廃地として開拓の鍬が入りませんでした。ここが開拓されるのは、四条川が金倉川に一本化された17世紀初冬以後です。

丸亀平野北部 条里制

ちなみに中世に満濃池は、姿を消していました。
大規模な労働力を組織化できた律令時代は、大規模土木工事が可能でした。しかし、権力の分立した中世は多くの労働力を集めることができません。そのため満濃池は、堤防が壊れ放置され、「池の内」村が「開拓」されていました。このため「満濃池の治水」能力がなくなり、下流域では洪水が常習化し、河口の堆積作用も大きかったようです。こうして四条川河口には潟湖が形成され、多度郡の湊として機能するようになります。その海運センターの役割をしたのが道隆寺だったようです。
道隆寺の果たした役割については、以前に紹介しました。https://blogs.yahoo.co.jp/jg5ugv/48396077.html

丸亀平野の扇状地

大麻町以北の四条川の廃川後の開拓地を列記すると、
 
右岸(東側)では、
善通寺市大麻町本村の東北部・中土居・砂古東・生野町南原・原・遊塚の東部・上吉田町上原・寝馬・稲木町川原・下川原・金蔵寺町下所・六条
左岸(西側)では、
丸亀市原田町三分一下川・金倉町上新田・池の下・下新田・朧朧新田・新田町橋本・長池・今津町皿池・中原・津森町上拾丁分・下拾丁分・位
などです。
 また、先ほど見た先代池のように四条川に水が流れなくなった跡に、その流路を利用して、ため池が数多く築造されていきます。
金倉町に辺池・新池・平池・先代池・瓢池・天満池などです。
多度津町では、千代池・買田池・上池が、これにあたります。

平池南遺跡調査報告書 周辺地形図

四条川の付け替え工事は、いつ、だれによって行われたのか
丸亀市史は「西島八兵衛由緒書控」中の次の記述に注目します。
精を出し国を被立候へと被仰付寛永二丑ノ春讃岐へ被遣候、(中略)中年三年罷有仕置仕候国も能成候とて、高虎様御機嫌二被為思召、寛永六年二江戸へ御呼かへし被成(以下略)
西島八兵衛の寛永二年の二度目の来讃は、干ばつで疲弊した讃岐国を立て直すためであったようす。領内を巡視して実情をつぶさに調査して、具体策を練っています。その上で翌年に8月に、まんのう町の有力者である矢原正直を訪ねます。

満濃池 決壊後の満濃池
西嶋八兵衛の築造前の満濃池堰堤周辺の状況図

 これは丸亀平野の治水事業を実行に移すため相談に訪れたものと思われます。そして、満濃池の再築に着手したのが寛永五年十月、二年半を費やして完成したとされます。
満濃池再築に着する前に、事前工事として四条川の流れを廃して、金倉川の流れ一本にする付け替え・改修を行ったと丸亀市史は推定します。
最後に、この工事は何のために行われたのでしょうか。

満濃池水掛村ノ図(1870年)

これについては丸亀市史は、何も語りません。
あえて推察するなら満濃池築造後の水路網の建設と関連するのではないでしょうか。現在の満濃池の水掛かりは、上の絵図のように人間の血管網のように細部まで整備されています。しかし、四条川の複雑な流路や支流があったのでは、満濃池からの水を送るための水路を張り巡らせることは困難だったと思われます。満濃池灌漑ネットワーク整備のために、四条川は金倉川に一本化・直線化され、最短ルートで海に抜けるようにされたのではないでしょうか。

丸亀平野 等高線地図
 地図で、多度津の千代池を見ているとその不思議な形から、川の流路に作られた池だろうなとは思っていました。しかし、それが、いつごろまで流れていた池かは分かりませんでした。丸亀市史を読み直していて改めて、気がついたのです。
丸亀市史に感謝

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まんのう町吉野の「大堀」とは?

イメージ 1

 まんのう町の吉野字大堀(長田うどんの交差点を満濃池方面に500㍍行ったところ)の県道の東に小さな堀が残っている。説明板には「王堀」と呼ばれ「中世の豪族の館跡」と書かれている。いったいどんな「王堀」なのか、資料に当たりながら実相を見てみよう。
イメージ 2
絵図上の野々井出水にあたる部分だけが残っている

 この堀については
「那珂郡吉野上村場所免内王堀大手佐古外内共田地絵図」
という長い名前がつけられた資料が「讃岐国女木島岸本家文書」の中に残されている。
 絵図からは、堀、土塁、用水井手、道路、道路の一部としての飛石、畦畔、石垣、橋、社祠、立木、輪郭の形状が見て取れる。文字部分は、墨書で絵図名称と方位名を、朱書で構造物と地形の名称と規模が書かれている。
 「大堀」の内側の水田については
「此田地内畝六反四畝六歩」
と面積が示される。そして、堀の外周と内周の「竪長」と、堀の「幅」について数値が記入される。以上から100㍍×60㍍が館の面積となる。また、絵図が書かれた当時は、用水管理池としても使用されていたようで、水量を調整する堰が描かれている。

イメージ 3
大堀絵図
周囲との位置関係を絵図に書かれた文字資料から見ておこう。
①「五毛往来」「五毛」は、満濃池の南東隅にある地名。
②「巳午ノ間満濃池当り」 南南東の方角には、満濃池がある。
③「南」角丸長方形の堀は、二つの対角線が南北方向の線上にのっている。これは、堀の長軸方向が那珂郡条理地割の方位であるN-301Wにのっているため。
④「未方真野村一向宗光教寺」 「光教寺」は、真野字吉井に現存 。同寺は、中世の「文明年中」の建立という由来をもつ。
⑥「西酉方金毘羅社当り」 西の方角には、金毘羅社がある。

イメージ 4

⑦「戌方八幡宮」「八幡宮」は、満濃町大字吉野字八幡にある「八幡神社」が相当。 方角は、およそ北西方向。
⑧北方面は「丑ノ方当新名氏屋敷当几三丁」「黒木玄碩屋敷几八丁」「新名氏屋敷」の2つの屋敷は、当時吉野に存在した屋敷。
「黒木玄碩屋敷」は、大宮神社付近。
以上からこの絵図が「大堀」のかつての姿を写したものであることが分かる。

イメージ 5

⑧「黒木玄碩屋敷」は、この人物の生没年がこの絵図の作成時期をきめる有力証拠になる。が、詳細は不明。しかし「新名」や「黒木」の苗字を有する人物が江戸時代に大庄屋、社人といた。ここから本絵図が江戸時代に作成されただろうことが推測できる。

イメージ 6

 航空写真で見てみると・・・・
 今は王堀の中央を県道が走り、倉庫が建てられて小さな掘だけが残る。ここに立っても当時の様子を偲ぶことは難しい。しかし、グーグルで見てみると長方形の大きな堀跡が読み取れる。堀跡の西・北・東の細長い田地や円弧を描く畦畔として残されている。南辺は幅が狭くなっており、南西隅は宅地のために本来の姿は失われている。土塁は、東辺・南辺の畑や、西辺の草地や畦道がそのなごりを示している。北辺はその痕跡はうかがえない。四周する土塁の内側の田地の畦畔の位置は、絵図のものと一致する。確かに、この地を描いたものだ。

イメージ 7


大掘の西側の堀跡らしき形状
 この堀については、「王堀」「大堀」と呼ばれ、次のような伝承も伝わっている。
 神櫛別命の裔で、那珂郡神野郷を本拠とする豪族の酒部黒麿は、「移りて良野の大堀と云処に居住」した。酒部黒麿の居宅の場所は、「王堀」または「王屋敷」と称していた。王屋敷の東南には「冠塚」「御衣塚」があり、東方には「御殿が岡」があった。

しかし、これは後世の附会で那珂郡に神野郷があったことは史料からは確認できないし、酒部黒麿は近世に書かれた金倉寺縁起に、円珍の因支首氏(和気氏)の祖先として登場する人物だ。近世になって、神櫛王(讃留霊王)伝説と共に流布された話が、この地にも伝わっていたことを示すにすぎない。

 もうひとつの視点としては、近年の中世城館跡の調査研究の成果から考えられる推察である。
中世の武士集団は、まず平地に立地し、方形か長方形の堀と土居をともなう居館を造営し防御性を高める。そして、麓の居館と最寄りの山城とでセットとなる根小屋式城郭の、居館に相当するものであったのではないか。
理文先生のお城がっこう】歴史編 御家人の館

 そういう視点でみるならここから3㎞北には、土器川を挟んで長尾山山上に西長尾城がある。県下有数の山城との関係なども想像してみるのも楽しい。
 H16年に県道拡幅の際に一部の調査が行われた結果、普通の農民の住居とは思えない太い柱をもつ建物が出てきている。そして14世紀前半の鎌倉時代で廃墟となっているようである。戦国時代の建物群は今のところ見つかっていない。
 つまり、戦国期を迎える前に周辺勢力との武力抗争で滅び去った武家の居館とも考えられる。滅ぼしたのは長尾氏なのか??? あくまで推理推測である。
 どちらにせよ、この絵図は「田地絵図」という農業的要素よりも、同地の軍事的な価値を記した「館跡絵図」の性格が強い。四国新聞2016年9月14日版「古からのメッセージ」では「大堀城跡」として紹介されたいた。

参考資料
 野中寛文  吉野上村の田地絵図は館跡絵図     香川県立文書館紀要3号

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