瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町塩入

借耕牛講演会ポスター

上記の郷土史講座で借耕牛について、お話しした内容を使った資料と一緒にアップしておきます。

借耕牛 落合橋

     今日お話しするのは、この牛についてです。この牛は美合の谷川うどんさんの上にある落合橋の欄干にいます。阿讃の峠を越えて行き来したことにちなんで私は勝手にこの牛を「阿讃くん」とよんでいます。私の中の設定では「黒毛で5歳の牡」となっています。どうして、そう思っているのかはおいおい話すことにします。阿讃君は美合の橋にレリーフとして、どのようにして登場したのでしょうか。その背景を探ってみることにします

5借耕牛 写真峠jpg

この写真は、徳島と讃岐を結ぶ峠道です。そこを牛が並んで歩いていきます。いったどこに向かっているのでしょうか。
借耕牛7

峠から里に下りてきました。ここでも牛が並んで歩いて行きます。どこへ行くのか、ヒントになる文章を見てみましょう。
 先のとがった管笠をかむって、ワラ沓をはいて、上手な牛追いさんは一人で10頭もの牛を追ってきた。第二陣 第三陣 朝も昼も夕方もあとからあとから阿波から牛はやってきた。
山田竹系「高松今昔こぼれ話」(S43年) 岩部(塩江) 
 今から約100年ほど前、昭和初期の岩部のことが書かれています。岩部は現在の塩江温泉のあたりです。ここに牛追いに追われて、相栗峠を越えて阿波から牛がやってきたことが分かります。やってきた牛の姿を見ておきます。

借耕牛 岩部

塩江の岩部の集落にやってきた旅姿の牛です。上の俳句を私流に意訳しておきます。
 阿讃のいくつもの青い峰を越えてやってきた牛たちよ おまえたちの瞳は深く澄んでいって吸いこまれそうになる。

 この牛が私には最初に見た「阿讃君」に思えてくるのです。

借耕牛9
「借耕牛探訪記」より
首には鈴、背中には牛と人の弁当。足には藁沓を履いています。蹄を傷つけないようにするためです。ぶら下げているのは、草鞋の替えのようです。こうして峠を越えた牛たちは、讃岐の里の集落に集まってきました。

5借耕牛 写真 syuugou jpg
借耕牛の集合地 左が美合、右が塩入
地元の仲介人の庭先に、牛が集められています。この写真の左が美合、右が塩入です。牛がやってきたのは、塩江だけではありません。まんのう町にもやってきたことを押さえておきます。
ところで最近、こんなシーンが映画撮影のために再現されました。 

借耕牛 黒い牛ロケシーン

借耕牛を引き渡すシーン 黒の牛 大喜多邸
 
借耕牛を描いた映画「黒の牛」のロケシーンです。ロケ地は三豊市山本町河内の大喜多邸です。大喜多邸は、三豊一の大地主でした。その蔵並みをバック幟が立てられて、その下で野菜などが売られていいます。小屋の下には、牛たちが集まっています。こんなシーンが美合や塩入や財田の戸川は、見られたのでしょう。それでは、集まった牛たちは、この後どうなるのでしょうか 

借耕牛のせり
借耕牛のせり
 牛がつながれて、その周りで人が相談しているように見えます。何をしているのでしょうか? 
到着した山麓の里は急に騒がしくなる。朝霧の中、牛たちが啼き交い、男たちのココ一番、勝負の掛け声や怒号がとびかう。大博労(ばくろう)とその一党、仲介人、牛追い、借り主の百姓たちが一頭の牛の良し悪しを巡り興奮に沸き立つ。袂(たもと)の中で値決めし、賃料が決まったら、円陣を組んで手打ちする。 「借耕牛探訪記」

 俳句の中には「歩かせ値決め」というフレーズがひっかかります。現在の肉牛の競りならば、歩かせる必要はありません。講牛として使うためには、実際に歩かしてみて、指示通りに動くかどうかも見定めていたことがうかがえます。

借耕牛 せり2

競りが終わったようです。笑顔で手打ちをしています。真ん中の人が「中追いさんやばくろ」と呼ばれる仲介人です。その前が競り落とした人物のようです。
どんな条件で競り落とされたのでしょうか。契約書を見ておきましょう。
借耕牛借用書2


表題は耕牛連帯借用書とあります。
①は牛の毛色や年齢です。 5歳の雄牛です。
 牛の評価額です。 2百円とあります。
②レンタル料 9斗とあります。10斗=米2俵(120㎏)=20円 地方公務員の初任給75円。1ヶ月のレンタル料は、新採公務員の給料1/4ほどで、現価格に換算すると4~5万円程度になります。牛の価格は200円ですから、初任給の3ヶ月分くらいで60万強になります。
③レンタル期間です 昭和3年は今から約100年前です。満濃池のユル抜きが時期から 代掻きはじまり田植えまでの約1ヶ月になります
④レンタル料の受渡日時と場所です。 夏の場合は、7月の牛の返却時ではなく、収穫の終わった年末に支払われていたことが分かります。秋にもやってきていたので、収穫後の年度末に支払われていたようです。
契約書の左側です。
借耕牛借用書3

意訳変換したものを並べておきます。
⑤借り主は木田郡三谷村犬の馬場の片山小次郎
⑥世話人(仲介人・ばくろ)が塩江安原村の小早川波路
⑦貸し主(牛の所有者)が安原村の藤原良平です。
以上からは、塩江安原村の藤原さんの牛が、木田郡三谷村の片山さんに、約1ヶ月、約米2表でレンタルされたことになります。この牛の場合、讃岐の牛です。
今度は、戦後の契約書を見ておきましょう。

借耕牛 契約書戦後
         昭和30年頃の借耕牛契約書
 耕作牛賃金契約書とあります。前側の一金がレンタル料金です。空白部分に金額を書き込んだのでしょう。後は「盗難補償金見積額」とあります。盗難や死んだときの補償金のようです。この契約書で注目したいのは、「金」とあることです。ここからはレンタル料がお金で支払われるようになっていたことが分かります。
それでは、いつ頃に米からお金に替わったのでしょうか? 
借耕牛 現金へ
借耕牛のレンタル料の米から現金への変化時期
横軸が年代、縦軸が各集落をあらわします。例えば、貞安では、大正初めに現金払いになったことが分かります。現金化が一番遅かったのが、滝久保集落で昭和10年頃です。昭和初年には、半数以上はレンタル料は米から貨幣になっていたようです。ここからは米俵を牛が背負って帰っていたという話は、昭和初年までのことだったことが分かります。
天川神社前1935年 

こうして牛たちは、土器川や金倉川・財田川沿いの街道を通って、各村々にやってきます。牛たちを待っていたのは、こんな現実でした。

借耕牛 荒起こし

荒起こしが終わり、田んぼに水が入ると代掻きです。
牛耕代掻き 詫間町

ある老人は、当時のことを次のように振り返っています。
  もう、時効やけん、云うけどの 一軒が借耕牛貸りたら、三軒が使い廻すのや。一ヶ月契約で一軒分の賃料やのにのお。牛は休む間も寝る間もなく働かされて、水飲む力も、食べる元気もなくなる。牛小屋がないから、畦の杭につながれて、夜露に濡れ、風雨に晒されたまま毎日田んぼへ出される。        「借耕牛探訪記57P」

休みなく三軒でこき使うのも、讃岐の百姓も貧しく、生きていくために必死だったのでしょう。何事も光と影はできます。中にはこんな話も伝わっています。
「来た時よりも太らせて帰すため、牛の好きな青草刈りに子どもたちが精出した」
「自分の所の牛と借耕牛を一日おきに使い、十分休ませる」
 こうして牛たちは、レンタル先で田んぼの代掻きなど、6月初旬から1ヶ月ほど働きます。代掻きがおわる7月になると、牛たちは集合場所まで追われていきます。そこで借り主に返されるのです。

DSC00661借り子牛
別れを告げ阿波に帰る借耕牛 (塩江町岩部)

牛の手綱を返された飼い主は、牛を追って、阿讃の峠を目指します。この写真は、借耕牛を見送る写真です。向こうの家並みが岩部の集落のようです。迎えにきた持ち主や追手に連れられて、阿波に帰っていきます。私が気になるのは、右端で見送る人です。蓑笠姿です。ここまで牛を連れてきた借り主のようにも見えます。1ヶ月、働いてくれた牛への感謝を込めて見送っているように見えます。

借耕牛に関わる人たちのつながりを整理しておきます。

借耕牛取引図3

一番上が牛を貸す方の農家です。口元行者というのが、讃岐ではばくろ、阿波ではといやと呼ばれる仲介者です。阿波にバクロが訪ねていって、「わしにまかせてくれ」と委任状をもらいます。そして、美合や塩入などに牛を連れていく期日を決めます。ここでは貸方と借り方の農家が直接に契約を結ぶのではなくて、その間に業者(ばくろ・といや)がいたことを押さえておきます。そこで、競りにかけられ、借り主が決まり契約書が交わされるというシステムです。
 この場合に、牛を連れて行くのを地元行者に任せることもあったようです。そのため何頭もの牛をつれて、峠を越えてくる「おいこ」の姿も見られました。しかし、多くは、牛の飼い主が美合や塩入まで牛を追ってきたのです。彼らは、飲み屋で散財するのでなく持参の麦弁当を食べて、お土産を買って帰路についたのです。牛を貸した後、無事に1ヶ月後には帰ってこいよと祈念しながら 麦弁当を木陰で食べる姿が思い浮かびます。 第一部終了 休憩
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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借耕牛探訪記

借耕牛の研究

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塩の道1
      
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。
 九州地方では、行商者が背負って内陸ヘ塩がもたらされたようです。やや深い内陸へは、牛馬の背を利用しての運ばれていきました。三陸海岸の塩は、牛馬の背によって北上山脈をこえて北上川流域にもたらされていました。日本海岸からは牛の背によって飛騨、信濃の内陸部へ送られました。そして、その量が多いところでは問屋が発達します。また川を利用した塩の輸送も盛んにおこなわれています。北上川、最上川、信濃川、利根川、富士川、筑後川などは、川口からかなり上流にまで川船が通っています。
それでは阿波の三好地方の人たちは、どのようにして塩を手に入れていたのでしょうか?
阿波西部の三好郡は、讃岐から運び込まれる塩への移存度が古代から高かったようです。塩の移入ルートの踏み跡が、阿讃山脈を越える峠道となっていったようです。そして、吉野川を渡り、落合峠を越えて祖谷へ続いていきます。まさに阿讃を結ぶ「塩の道」です。

4 阿波国絵図     5
 一番右側(東)が大刀野から樫の休場経由で塩入に至るルート

阿波に運び込まれる塩の集積地がまんのう町(旧仲南町)の「塩入(しおいり)」でした。
DSC02547
眼下に見えるのが塩入集落 その向こうが満濃池(樫の休場から)

塩入は、その名の通り讃岐の塩が阿波に運び込まれる入口の役割を果たしていました。江戸時代には、丸亀や坂出の塩田で作られた塩が、讃岐の人夫達によって、この地まで運ばれてきます。そして、塩入の中継ぎ業者の倉庫に保管されます。それを阿波からやって来た人夫が背負たり、牛や馬に載せて、昼間や芝生の塩問屋に運びます。ここからさらにらに吉野川を渡ります、そして、池田や辻や三賀茂などの塩屋にさばかれたようです。さらに、落合峠などの峠越えて祖谷に運び込まれたようです。
 里の塩屋からソラの集落までは、塩はどのようにして運ばれたのでしょうか? 

5塩の道 ぼっか姿
昭和50年代に東祖谷山村落合の老人は、幼いときのことを次のように話しています
「祖谷山に住む人々の味噌・醤油・漬物の材料としての塩は,殆んどすべて讃岐から運ばれた。
落合一落合峠一深淵一桟敷峠一鍛治屋敷一昼間一塩入」
のルートを使って、三好郡三加茂や昼間の仲継店(問屋で卸売を兼ねる)が間に入り,祖谷山の産物と交換した。山の生産物を朝暗いうちから背負うて山を下り,一夜泊って翌日,塩俵をかついで山に帰った。厳冬の折りには山道が凍って氷のためツルツル滑って危険だった。しかし、塩は必要品だから毎年、塩俵を担いで落合に帰った。それは、大正9年に祖谷街道が開通するまで続いた。」
 ソラの人々は塩を、里に買い出しに下りていき、背負って帰っていたようです。春の3月から5月にかけて、味噌や醤油を作るときや、秋から冬に漬物を漬け込むときには大量の塩が必要になります。その際には、ソラの人たちは里の塩屋へ買い出しにいきました。手ぶらで行くのではなく、何かを背負って里に下り、それを売って塩を買うか、または塩屋で物と交換することが多かったようです。そのためにこの時期には、自然と市が立つことになったようです。
塩作りは重労働 海水を運ぶ男たち | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
揚浜塩田に塩を汲み上げる

全国では、どんなものが塩と交換されていたのか見てみましょう。
岩手県北上地方では、塩は稗・栗・藁細工などと交換することが多く、秋田県や岩手県北上川流域では米との交換が多かったようです。関東以西では麦・大豆・小豆。木の実・雑穀などに変わっていきます。高知県大栃の農家では、煙草・紙・茶・干藷などと交換している例もあるようです。これらのものを、交換した塩屋が売って金にしたのでしょう。塩と薪・材木などと交換した例も千葉・京都・大分・五島などに見られます。ソラの住人が塩を手に入れるためには、いろいろなものと交換していたことが分かります。背景には、貨幣経済が浸透していなかったという事情があるようです。


 阿波の東部海岸にも製塩地がありましたが、三好地方は瀬戸内海の讃岐の塩の方が輸送に便利だったのと、古代からの「塩の道」が踏襲されてきたようです。「塩の道」は、阿讃の峠道を越えて祖谷地方まで続いていました。ちなみに、祖谷の向こう側の土佐の大栃には、太平洋から塩が運ばれてきていました。祖谷と大栃の間が、瀬戸内海の塩と太平洋の塩との分水嶺だったようです。
5塩の道 大栃


綿も、讃岐から西阿波に運び込まれました。
江戸時代になると西讃地方は綿作地帯になります。
服は畑からできている! −綿花栽培プロジェクトを知る− | 北はりま大学

丸亀藩や多度津藩は、綿花を「讃岐三白」のひとつに育て上げていきます。米の裏作として栽培された綿花の販売先が、塩と同じ阿波の三好地方だったようです。ソラの集落の女達が、讃岐産の綿花をつむぎ、機織機で木綿を織る音が冬になると聞こえるようになります。ほとんどが家庭で使われるもので、商品として流通する物ではなかったようです。寒さの厳しいソラの人たちにとって、木綿は従来の麻に比べると、耐久力にも強く,保温の点でもすぐれたものでした。そのため讃岐綿花の需要は高く、西讃地方から峠道を越えて入って行くようになります。
 阿波で紡績が出来ない頃は糸ではなく綿を、3・4人の人夫が肩に担いで峠道を越えて運びました。綿は 「しの巻」で一丸(ひとまる)は二貫目(7,5㎏)で、これを阿波から出向いた人夫が、一人で6丸(45㎏)ぐらいを背負って峠を越えたようです。これも、ソラの人たちが里に下りてきて買い求めたようです。
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綿の「しの巻」

琴南町史には、次のような農家の機織りの話が採集されています。
阿波から嫁入って来た女も、美合で生まれて美合へ嫁入った女も秋の取り入れがすむと必ずおはたの用意をした。お正月までには子ども達の晴れ着も織らなければならないし、年寄りの綿入れも用意しなければと気もそぞろ。
糸はガス糸や紡績糸を買ってきた。
内田の紺屋で染めてきた糸は、祖母ゆずりの縞わりのままに糸の計算をする。木綿糸の縞のはしにはスジ糸(絹糸)を入れると、縞がきわ立って美しい。布をのべる日は、風のない静かな日を選び、四間の戸障子をあけひろげ座敷いっぱいに糸を伸ばして経糸の用意。
四尺ごとにスミをつける、四尺が七ひろあると一反分の布となる。
糸はチキリに巻いてカザリに通すが、カザリロは上手にあけなければならない。
チキリに巻いた糸は機にまきあげて巻く。
オサイレは糸をひとすじずつ通してから固定させる。
アゼをつまむのがむつかしいと言うが、丁寧にやればこともない。
緯糸は、竹のクダに巻いておく。マキフダとも呼ばれる
クダは、おなご竹を十巧打くらいに切り揃え、かわらで絞って水分をぬいておく。このクダに、ただ糸を巻けばいいというのではないのだ。ツムノケで糸をまくのだが上手に巻かないとホゼてくるし、巻きすぎると糸がくずれてしまう。
5塩の道 機織り期jpg

明日は小学校1年生の長女に織らせてみるつもり。器用ものの長女は見ようみまねで上手に糸をあつかうので、きっといい織り手になることだろう。
夜、しまい風呂で長女といっしょに髪を洗う。はたを織り始める日は別に決まった日はないが、髪の汚れをとり、ひとすじの乱れもかいように髪を結いあげた。やや小柄の長女は、機にあがったものの踏み板に足がとどかない。冬でも素足で機は踏むものなので、長女の素足に木の枕を結びつける。母さんもこうやっておはたにあがったの、機を踏みきっていると足はほこほこしてきたものだと、長女をさとす。
 布は、織りはじめがすぼまないように藁を1本人れたが嫁入った家では、織りけじめにシンシをはる。竹の両端に針がついているのが伸子なのだが、一寸ばかり織ってばシンシを少しずつずらして打ちかえる。
 トンカラトンカラ、根気のよい長女は上手に布を織りすすめる。
モメンは一日一反、ジギヌは一日四尺しかのびない。オリコンは、ヒトハ夕で二反分の糸を機に巻き上げて二反続けて織っていた。織りしまいには、カザリの開ヘヒが入らなく々るまで織るのだが、ハタセが短かくなって手まりが出来なくなるのが心配で、早く織りじまいにしようとしても、なかなか織りじまいにはしてもらえかかった。
 師走女に手をさすな という諺のとおり、夜の目もねずにに女は機を織り家族の衣管理を一手に引き受けていた。それでも月のもののときは機にあがらず、糸を巻いたり繰ったりわきの仕事をするのがならいだった。
  お正月がすんでからもハルハタを織った。
縁側などの明るいところで機を織っていると、家のすぐ前の街道が気にとってしようがない。阿波から讃岐へ峠を越えてやってくるデコまわし、とりたててにぎにぎしく来るわけでもないのだけど、気もそぞろに機の糸をさってしまう。
細い糸がうまくつなげないと泣き出しそうになる。
そうこうするうちに、デコまわしの一行は通り過ぎてけってしまった。
徳島 1965-1966(昭和40-41年)]藍とデコ - YouTube
阿波のデコ(人形)まわし(つかい)
昼食になり、機をおりると隣の家の苗床でデコまわしが三番叟(さんばそう)を舞うというのだ。もうお機も昼食も放ったらかして隣家まで、走って行った。苗床や、苗代のまわり、田植えの早苗を束ねる藁などもご祈祷してもらうと、虫がつかず豊かな稔りが約束されていたのだ。こんなことより、年端のゆかない織り子さんにとって、デコ使いが珍らしくて仕方がなかった。
                                        北条令子 旧琴南町の峠の集落で採集

ここからは「正月の子ども達の晴れ着」や「年寄りの綿入」も、家で織っていたことが分かります。その糸は里の「内田の紺屋」染めてきた糸です。横糸と縦糸を用意し、丹念に思いを込めて織られていたことが伝わってきます。美しい物語だと思います。
 また、徳島からはデコまわしがやって来て三番叟(さんばそう)を門付けしていたことも分かります。阿讃国境の峠は、明治になると阿波の人形浄瑠璃の一段が讃岐の村々での公演のために、越えていくことが多くなります。始めて見る阿波の人形浄瑠璃に讃岐人は、心を奪われたようです。自分たちで素人歌舞伎団を結成して、村祭りなどで披露するようになったことは以前に、お話ししました。モノと人と文化が峠を越えていきました。そして牛も峠を越えるようになります。次回は借耕牛について・・
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福井好行 峠道利用の阿讃交渉関係序説
北条令子 琴南町の民話 琴南町史
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前回は一遍が「死出の旅」として、伊予大三島から讃岐を経て阿波へ抜けたことをお話ししました。その際に、使ったと考えられる讃岐山脈を越える峠道を挙げました。これについて、もう少し詳しく知りたいとのリクエストをいただきました。そこで、今回は大川山から猪ノ鼻峠まで間の峠道に焦点を絞って、紹介したいと思います。

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東山峠

1.明治になって開かれた東山峠
 このエリアの幹線道路は、丸亀=三好線(県道4号線)です。このルートは、まんのう町塩入から東山峠へ至る道です。明治に香川の七箇村と徳島の昼間村が協議し、双方から新道を建設し東山峠で結ぶことで完成しました。明治39年に全線が開通し、これにより塩入と撫養街道分岐の昼間村が新道で結ばれました。明治42年の国土地理院の地形図には、幅3m以上の車道として記載されています。
 このルートは先行する財田・阿波池田を結ぶ猪ノ鼻峠ルート(四国新道)への対抗策として計画された側面があります。そして、その期待に昭和初期に土讃線が開通するまでは十分に応えていたようです。

「祖谷や井内谷の人は辻の渡しを渡ってこの道を通り、塩入部落を経て琴平へ行きました。借耕牛も通り、讃岐の米や塩が馬やネコ車で運ばれてきていました。」

と内野集落の老人(明治36年生)が話した記録が残っています。
 ここから分かることは、東山峠を通過するルートは近代になって作られたルートなのです。

東山峠を通過する新道が作られる前は、どうだったのでしょうか?
幕藩体制が安政化する18世紀になると、幕府は各藩に領域地図の定期的な提出を求めるようになります。提出された地図に基づいて、幕府は各藩の境界を定めていきます。そのために各藩は、国境附近の情勢や街道についても地図に書き込むようになります。
4 阿波国図     5
     吉野川沿いの阿讃山脈の国境ラインと街道が見える

1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図で阿讃国境と峠道を見てみましょう。

4 阿波国絵図     1700年

大川山から現在の国道32号線が通過する猪ノ鼻峠までの間には3本の峠道が描かれています。拡大してみます。
4 阿波国絵図 拡大

①~③の峠と、その説明文を見てみます。
①樫休場  大刀野村ヨリ讃岐国塩入村  牛馬通
②差土越  昼間村ヨリ 讃岐国山脇村  牛馬
③石仏越  東山ヨリ  讃岐国財田上村 牛馬通
記載されているルートを推定してみます。
①は 現在の三好市三野町芝生→大刀野→樫休場→塩入(旧仲南町)
②は 現在の東三好町昼間→ 東山→差土越 → 山脇(旧仲南中)
③は 現在の東三好町東山→(箸蔵街道と合流)→石仏 →三豊市財田町上ノ村
ここには、東山峠越のルートはありません。18世紀初頭においては、東山峠ルートは主要街道ではなかったことが分かります。次に地図に描かれている①~③の峠道を見ていきます。

①の樫の休場への道
4 樫の休場 東山峠俯瞰図

大川山から東山峠まで
大川山から東山峠までの阿讃山脈ルートと各峠

 樫の休場(標高 850m)は、東三好町(旧三好町)、三好市三野町、まんのう町(旧仲南町)の3町にまたがる峠で交通の要所でした。讃岐側からは二本杉越と呼ばれています。讃岐側の里から見ると、稜線に大きな2本の杉が立っているように見えるからです。実際には、もっと本数はあるのですが・・。
 この峠は、明治中期に丸亀三好線が東山峠で結ばれるまでは、幹線ルートとして使用されていたようです。この峠に至るには、阿波側からは次のルートがあります。
①三好市三野町の芝生→ 山口―中屋―笠栂―寒風― 樫の休場― 塩入
②昼間 → 男山集落手前 → 葛籠方面へ分岐 → 寒風(樫の休場の南1km にある峠)
江戸時代は昼間からの人々も、このルートを利用者する人が多かったようです。三野町や三加茂町の人々が讃岐へ出る道として利用し、ここには茶屋も2軒あったと伝えられます。しかし、昭和4年に土讃線が開通してからは、峠の往来は少くなりました。

4 樫の休場
樫の休場から望む眼下の塩入集落と、その向こうの満濃池
ここからは、讃岐方面の展望が開け、満濃池の向こうにおむすび型で甘南備山の讃岐富士がぽつんと見えます。ここから讃岐方面へ下ると深い谷に囲まれた塩入集落です。
阿波への塩の集積地だった塩入
 塩入は、讃岐の塩が阿波に運ばれる際の重要な中継基地でした。江戸時代には、ここまでは讃岐の人夫が馬などでここまで運んできて中継商人の倉に入れます。それを、阿波の人夫が受け取り、次の中継拠点に運びました。「塩入」という地名は、阿波への塩の入口であったことからつけられたといわれています。東山新道が出来る以前には、塩入→樫の休場→打越峠→昼間や網代のルートで結ばれていたようです。例えば昼間に運ばれた塩は、その後は吉野川を渡り、対岸の辻に運ばれ、そこから男達の背に担がれて祖谷の奥まで、讃岐の塩が運ばれて行ったようです。塩は昔から生活に欠かすことのできない必需品でした。それは、江戸時代よりも古くからあった讃岐と阿波を結ぶ「塩の道」だったようです。
  樫の休場について地元の古老は、戦後の聞き取り調査の際に次のような話を残しています。

借耕牛の道として利用され、讃岐の米や塩がこの峠を越えて運ばれてきました。また琴平や丸亀へ嫁入りする人を見送ったり、善通寺へ入隊する兵士を見送った峠でもありました。三好町の人は、峠の北東4km にある大川神社へ参拝するときにも通りました。」

 
4 樫の休場 ru-tozu

  この街道をしのぶものとして、笠栂と樫の休場の間には次の2体の石仏が残っているようです。
○不動尊
 笠栂から寒風に向けての稜線上に標高 810m地点に建っています。舟形の浮し彫りで、像高は 108cm。台石に「文化元年足代邑 昼間村講中」とあるので、足代と昼間両村の人々が講を組織して建てたことが分かります。ここからも、ふもとの足代や昼間の集落の人々が、葛籠経由のこのルートを使っていたことがうかがえます。
○水谷の地蔵尊
 男山を経て葛籠からの街道で合流する地点の中蓮寺峯(標高 929.9m)の東斜面の道路沿いに座っています。樫の休場からは500m南西の杉林の中です。ここにも土讃線開通直後の昭和10年頃までは庵があって人が住んでいたといいます。今はブロック囲いの小さなお堂の中に、かなり風化した地蔵尊(像高 30cm)がポツンと祀られています。世話をする人はいるのでしょう、いつも奇麗な服を着せてもらっています。お堂の横の古い手洗い石には「明和四(1768)年寅十月廿四日」と刻まれてあったそうです。
③ 石仏越 
4 石仏越

 ③の石仏越は箸蔵街道とは別のルートになります。
現在のサーキットのある東三好町男山の柳沢、増川から馬除を経て池田町境の尾根を登るルートです。後にこのルートに、新たに箸蔵寺からの街道がドッキングされます。
 二軒茶屋という地名は、昔ここに大国屋や福島屋という二軒の宿屋があって旅人に宿泊や茶の接待をしていたことからついた名前だと云います。この峠の阿波側には金比羅宮の奥の院と称する箸蔵寺があり、街道はこのお寺の参道として整備されました。この周辺は修験者(山伏)の密集地で、江戸時代中期以後になって、彼らによって箸蔵寺は頭角を現すようになります。その広報戦略は
①金毘羅さんの奥の院
②金毘羅との両詣り
で、金比羅宮に参詣した人を「両詣り」で勧誘する方法です。先達達(山伏)も街道を整備したり、参拝客を箸蔵寺に勧誘しました。また、箸蔵寺にはこの街道を行き交う旅人に対して、無量で宿泊所を提供したので、ここに停まって翌日金比羅詣でを行う人も阿波の人たちの中には多かったようです。そのため阿波の人たちは、この街道を「箸蔵街道」とも呼ぶようになります。箸蔵寺を通過する「箸蔵街道」が整備されるのは、案外遅いようで江戸時代後半になってからです。

4 阿波国絵図     5
 
 先ほど見た1700年に阿波藩が作成した阿波国絵図にも、箸蔵街道はありません。あるのは③の男山から石仏越のルートです。
このルートに、箸蔵寺からの道が二軒茶屋付近で合流する形で、付け加えられます。そして、次第に③のルートよりも箸蔵街道を利用する人たちの方が多くなって③のルートは廃れ、「箸蔵街道」にとって代わられたのではないかと私は考えています。

 箸蔵街道も、明治27年に財田の大久保諶之丞が計画した四国新道が猪ノ鼻峠を通過するまでは、毎日多くの人々が行き交いました。特に阿波池田方面の人々の利用が多かったようですです。

箸蔵街道(香川県、四国の信仰古道を辿る) | 世界日本の景色

二軒茶屋から土讃線財田駅への下口にある石仏までの間には、箸蔵への距離を刻んだ次の3基の丁石が残っています。
1 五十七丁 阿州西井ノ内谷段地名氏子
2 六十一丁 阿州三好郡加茂村 萩原藤右ヱ門
3 六十五丁 東豫中之庄 大西彦三良

 箸蔵街道も明治の四国新道の建設と、昭和の初めの土讃線の開通で大きく姿を変えます。利用者は激減し、二軒あった茶屋も姿を消します。しかし、このルートは信仰の道として信者によってしっかりと整備された道なので、今も十分に利用可能です。財田駅に車を止めて、二軒茶屋を越えて、箸蔵寺に参拝し、ロープウエイで箸蔵駅の直ぐ上にまで下りて、土讃線で帰ってくるとというのが定番でした。ところが・・いまは土讃線の便数が減って、帰ってくる普通列車がなくなってしまいました。急行の南風は通過してしまいます。どうしたらいいものやら・・・

以上紹介した東山峠・樫の休場・二軒茶屋はよく知られたルートです。しかし、旧東山村の『東山の歴史』(大正5年編纂)にはもう一つのルートが示されています。
4 阿波国絵図 拡大

②の差出の地蔵越への道
「東山の歴史」には、「風光絶佳なること、我昼間村第一」として「差出山」(標高887.3m)が紹介されています。しかし、この山は私にとっては始めて耳にする山でした。もちろん手持ちの古い国土地理院の地図にも名前は入っていません。しかし、グーグルで検索してみると標高が同じ山があります。「登尾山(のぼりおやま)887.3m」です。尾野瀬山分岐点より西の県境尾根にあります。標高が同じなので「差出山」(標高887.3m)=「登尾山(のぼりおやま)887.3m」であることが分かります。グーグルは、運用開始時は山関係では役に立つことはなかったのですが、多くの人が山名や地名を補足して、役立つツールに成長してきたようです。
 「東山の歴史」には、次のように紹介されています。

「維新前までは香川県へ通ずる要路に当りしが、今は近路として通過するに過ぎざれば道路の甚だしく荒廃せんとするは惜しむべきなり。」

大正の時代に、すでに忘れ去られようとしていたルートのようです。
 この峠道は阿讃サーキットの貞安や滝久保、石木集落方面の人々が香川県の財田、琴平方面へ出るときに利用していたようです。琴平まで日帰りで用事や買物に出掛けたと云います。貞安からの尾根を詰めれば、この山の山頂に立てます。確かに「風光絶佳なること、我昼間村第一」かもしれません。特に讃岐方面の展望がいいのです。
 この頂から県境尾根を西に行けば、箸蔵街道と合流して財田方面にでることができます。東に辿れば、中世の山岳寺院があった尾の瀬神社への分岐点があり、尾野瀬神社を経てまんのう町(旧仲南町)春日に至ります。春日で東山峠からの三好=丸亀線と合流します。そこからは金毘羅さんへは一里半ほどになります。この街道については、貞安の老人は次のような話を残しています。

 「財田との縁組も多く、借耕牛も沢山通りました。財田の香川熊一さんや滝久保の木下常一さんが博労をしていて、牛の貸借の仲介をしていました。戦後耕運機が入るまで、借耕牛の行き来は続きました。」

 財田方面への借耕牛が数多く通った道のようです。
 貞安から差出越までの峠道には、4体の石仏が残っているようです。
○差出越の地蔵尊
 峠には2体の地蔵尊が祀られています。道路から向かって右は像高37cmで「文化十三年十月吉日」、左は像高 43cm で「明治十九年十二月吉日」の銘があります。2体ともに「棟木」の地名が刻まれています。棟木(現 東山字棟木)の人々が、この道を利用していたことが分かります。
○ヤマンソの地蔵尊
 峠の南東 1,5kmの展望の良い尾根上にいらしゃいます。像高 88cm「三界萬霊  安政三辰二月吉日 施主東山村中 世話人貞安大西高助 内野丹蔵」の銘があります。
○ハチベの不動尊
 峠の南東 500m の松の大木の下にあり、像高は 44.5cm。造立の年代は不明で、昔讃岐へ行くときここに刀を隠しておいたという話が残っているそうです。

 一遍時衆がどのルートで、善通寺から阿波へ抜けていったかという点に話を戻します
以上から私は次のように想像しています。
①善通寺から金倉川沿いに歩みを勧めた一行は、塩入に入ります。ここで一泊。
②翌日に、財田川の源流を遡って樫の休場に登っていきます。
③そして、葛籠・男山を経由して昼間に入ります。昼間に時宗の末寺が後世に作られたことは、なんらかの由縁が、この時にあったと無理矢理想像します。
④吉野川を祖谷への塩を渡す渡し船で右岸(南岸)の辻へ渡ります。
⑤吉野川右岸を東に向かって遊行中にメンバーの尼僧が亡くなります。
⑥この間、メンバーの追放や布教活動の乱れなどから、彼らを取り巻く状況は悪くなっていきます。
⑦9日後の6月1日に、鴨島で一遍発病
というストーリーです。
以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献
○東山の歴史(大正5年編)
○三好町誌

香川県|かがわの水 - 香川の水の伝説

釜が淵は、塩入からさらに財田川の源流を遡った清らかな谷水が流れている山あいの深淵です。
雨乞い祈願は、ここで行われます。
里人は、コマゴエを十三荷半と、ゴボウの種を用意します。
コマゴエは、堆肥のことです。
稲藁を、細かく切って積み上げて造ります。
田圃に入れると、とてもいい肥料になりました。
田圃の肥料である堆肥を、なぜ、釜が淵へ持って来るのでしょうか。
おまけに、ゴボウ種まで持って・・・?

里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。
十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。
指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。
今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。

この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってし
まいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。
これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。
でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。里人も、念願の雨が降ったと大満足。
しかし、まあ、讃岐の人たちはすごいですね。
龍神さまを強迫して、雨をいただくのですから。
龍神さまも、これを楽しんでいらっしゃるのかもしれません。
本当は、仲良しなのでしょうか。

 塩入街道 東山越開通まで七箇村(現まんのう町)を中心に

 前回は丸亀三好線(現県道4号)の建設過程を、徳島の昼間村を中心に見てきました。今回は、香川側の動きを見ていきます。
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 丸亀三好線の建設について、仲南町誌で確認してみます 
この道は七箇村経由金毘羅参詣阿波街道とも呼ばれている。阿波の三加茂・昼間・足代方面から阿讃国境の樫の休場越又は東山越をして塩入村で合流し、一本松を経て七箇村に入り堀切峠を越え岸上村・五条村を通り琴平村の阿波町に至る金毘羅参りの街道であった。
 藩政時代阿波藩は鎖国の国といわれたが生活必需品の塩だけは、この道を通って阿波に入っていた。明治時代に入って、交易の自由化にともないたばこなどの阿波の特産物が盛んに讃岐に入るようになり、また仮耕牛の行き来も盛んになった。そのため明治28年(1895)ごろから漸次道路改修が行われ、現在の県道丸亀三好線の基をなした。
 阿讃国境附近の道路改修は当時としては東山越の方が便利と考えてか、この道を県道として改良したので、樫の休場越はしだいに寂れてしまった。また、堀切峠は明治三三年(一九〇〇)に改修されるまでは現在の県道より五~六mも高い所を通っていた。  (以上 仲南町誌942P)

 丸亀三好線(香川県では塩入街道)の開通までを年表にしてみた。

1890(M23)年 猪ノ鼻越の四国新道の部分開通
         初代七箇村村長に田岡泰(33歳)就任。
9・25 香川県が里道改修補助費取扱規定を定め工費の三分の一を補助決定。町村道改修に県の公費補助が認められ、里道改修促進され、工事申請が増加。
1892 昼間村長田村熊蔵が香川県分の新道改修を七ケ村長田岡泰に依頼。両県から工事を進め東山峠で結びつけることに合意。
1894 四国新道開通式挙行 四県知事が出席して琴平町で行う。
1895 七箇村 東山越里道改修始まる(四国新道への対抗策?)
1899 4月26日 田岡泰が七箇村長退任、
    増田穣三が第二代村長に就任(41歳)増田穣三が「琴平・榎井・神野・七箇一町三村道路改修組合長と為る」
1900 堀切峠の改修終わる
1901 塩入越及び真野里道改修落成式を大井神社境内で挙行
1902 徳島県が4ヶ年継続事業として男山から東山峠への新道     建設への補助金交付決定
1906 東山峠で結合。(後の県道丸亀~三好線)開通
   香川県七箇村と徳島県昼間町を車馬による交通が可能に
   増田穣三 七箇村長退任 第3代 近石伝四郎村長就任

1890年に猪ノ鼻越の「四国新道」が部分開通しています

これが、財田村にもたらした経済効果は大きかったようです。
七箇村の初代村長に就任した田岡泰は、これをどう見たののでしょうか。新道を作り、人とモノが動くようになれば、その沿線にお金が落ちるようになり、経済的な発展をもたらす。ということを目にしたことでしょう。これを見て七箇村も「塩入街道」の新道化(=グレードアップ化)に取り組むことの必要性を痛感したのではないでしょうかか。
新道建設に向けて、2つの追風が吹きます。
①里道改修に県からの補助が受けれるようになったこと。
②徳島県の昼間村長から「新道建設」に向けて「共同戦線」を結ぶことの提案があったこと。
これを受けて田岡泰は1895年に、まずは塩入・琴平間の改修に取りかかります。しかし、予算確保が進まず工事着手に至りません。

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1899年、田岡泰が村長退任し、替わって助役の増田穣三が第2代村長に就任します。

新道建設は、幼なじみの増田穣三にバトンタッチされることになります。穣三は、七箇村だけでは荷が重すぎるのをで、沿線沿いの琴平・榎井・神野七箇の一町三村と道路改修組合を結成します。そして、その組合長に就任し、予算確保に奔走します。
ちなみに、当時は村長は村会議員の互選、そして県会議員も兼務可という「複選制」でした。もし、増田穣三が名刺を持っていたらそこには、香川県議会議員 七箇村長 七箇村議の3つの肩書きが並んでいたはずです。村長がその地域の利益代表として、県会議員として県議会等で道路建設等の補助金確保に奔走する姿が見られるようにななったのがこの時期からのことのようです。
 資金のめどがつき、堀切峠の切通工事が竣工するのが1901年秋のことでした。これを、当時の新聞は次のように伝えています。


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堀切峠から南方の阿讃の山脈を見上げる 
里道塩入線開通までわずか
  明治33年(1900)11月17日『香川新報』
 仲多度郡琴平、榎井両地を起点とし神野七箇両村を経て徳島県三好郡昼間村に至り撫養街道に接続の入里道延長約八里の改修は去る29年2月を以て起工せし。右延長里程中本県に属する里程は四里十六丁にして此の中山間工事と称すへき里程 約二里あり。加ふるに国境に於て四十尺余の切下けあり 神野七箇の村界にても数十尺の開繋ケ所ありて総工費は六万余円の予算にて着手せしものなるか。爾来工事継続し山間部の残工事は来る26日頃を以て終了すへく 又神野村五条より琴平阿波町と東の方榎井村宇旗岡に至り県道に接続すへき間の工事は、目下専ら施工中にて来月中旬頃迄には竣了の予定なり。右両所竣功せは開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏にて沿道村民の寄附又少からさりしなり。
総工費は香川側が6万円余り、徳島側22334円 合計で約8万円。大久保諶之丞発案の四国新道全体の額からすれば1/7程度です。しかし、工事区間から考えれば、決して見劣りがするものではありません。最後に「開通に至る事なるか此の里道改修に當りては専ら盡力させしは増田、田岡の諸氏」と田岡泰前村長と増田穣三町長に賛辞の声を送っています。
 さらに「沿道村民の寄附又少からさりしなり」と結んでいる。
「寄付」という形で地元負担金を負担したのは、どんな人たちだったのでしょうか。『香川新報』に、「木杯と賞状」と見出しのついた次のような記事があります。
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 塩入越里道改修費への寄付一覧 明治33年11月10日
仲多度郡塩入越里道改修費中へ左記名下の金額寄付せし兼により今回木杯1個又は賞状を下付さる。
仲多度郡七箇村 馬場和次郎(75円) 
十郷村 大西貞次郎(40円) 
七箇村 石川広次(40円) 
葛原宇三郎(30円) 
山本喜之次(30円) 
葛原倉蔵(25円)
増田伝次(25円) 
山崎岩次(21円50銭) 
大西三蔵(20円) 
近石歌次(12円) 
山内万藏(12円) 
東淵才次(11円10銭) 
近石藤太(11円)、川原岩次(同) 
近石米次(10円80銭)
増田慶次(12円40銭) 
以下10円 
近石直七 久保弥平、森藤和多次、原田時次、大東又八 横田綾次、垂水村浄楽寺(各10円)其他同郡榎井村 中条亀三(9円)、外69名へは賞状。
 こうして1901年(明治34年)6月9日に 「七箇村塩入越及び真野里道」(丸亀三好線)の落成式が神野村の大井神社境内で行われます。
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 この席に「道路改修組合長」を勤めていた増田穣三は、どんな思いで出席していたのだろうか。11年前に田岡泰村長が昼間村長が約束した「新道を東山峠で結合しよう」という約束を果たしたことになります。
 この香川県側の動きを受けて、徳島県も動き出します。
補助金交付を決定し、1902年から男山~東山峠への区間が「四カ年継続事業」として認定されます。そして4年後の1906年に昼間と東山峠区間が完成します。こうして車馬が通行できる新道が七箇村と昼間村を結ぶことになります。猪ノ鼻峠を越える四国新道の開通から16年後のことでした。沿線の人たちは、新たな時代の始まりと思ったのではないでしょうか。
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