瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町大川山


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櫛梨山(琴平町)からのぞむ大川山
丸亀平野から南を望むと、低くなだらかな讃岐山脈が東西に連なります。その山脈の中にピラミダカルな盛り上がりが見えるのが大川山です。この山頂に石垣を積んで、大川(だいせん)神社の神域はあります。今回は、大川山頂上の玉垣に囲まれた神域にある殿舎を見ていくことにします。
大川神社 神域図
大川神社
キャンプ場から遊歩道を登っていくと、この神域南側の改段下の広場に着きます。ここが大川念仏踊りが踊られる舞台ともなります。

大川神社 念仏踊り
神域下で舞われる念仏踊り

ここには、空海が祈祷で子蛇を呼び出して、雨を降らせたという「善女龍王」伝説が伝えられ、小さな池が社前にはあったとされます。 
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南面して建つ拝殿
鳥居をくぐって改段を上がって行きましょう。
正面に長い拝殿が東西に建ちます。ここで礼拝すると本殿はまったく見えないままです。本殿は、拝殿に接続してすぐ背後に並んで建ちます。拝殿の東に南北棟の参籠堂が拝殿にT字に接続しています。
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拝殿正面
かつて、大昔に雪道をご来光を見るために登って来たときには、ここに上げていただいて、餅や御神酒をいただいたことを思い出します。集団登山の時には、この板間にシュラフで寐たこともありました。
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頂上に建つので水場はありません。かつては屋根からの雨水を集めて使っていました。その貯水槽です。
 この拝殿の背後にある本殿は直接につながっていまが、拝殿の南側からは見えません。裏に回らないと見えないのです。裏に回って、本殿を直接礼拝させていただきます。
大川神社 本殿東側面
大川神社 本殿
  報告書に書かれた専門家の本殿の説明を聞いてみましょう
構造形式 
桁行正面一間 背面二間 流造 鋼板葺
身舎円柱 切日長押 内法長押 頭貫 木鼻 台輪 留め
出組 実肘木 拳鼻 側・背面中備雲紋彫刻板 妻飾二重虹
梁大瓶東 庇角柱 虹梁形頭貫 象鼻 三斗枠肘木組 実肘木
繋海老虹梁 中備不明 二軒繁垂木 身舎三方切目縁 勿高欄
脇障子 正面木階五級 浜縁
建立年代 19世紀前期
大川神社 本殿1
大川神社本殿
大川神社本殿は、その構造形式を簡略に記せば、一間社流造と表記できる。ただし背面の桁行は二間になっているので、二間社流造と呼ぶこともできる。
基壇 
本殿は高さ1,2mほどの高い切石積基壇の上に立つ。その上に本製土台を組んで柱を立てる。土台の上には大きな石を大量に載せて、山上の強い風にも飛ばされないように押さえられている。
大川神社 本殿西妻飾

身舎軸部・組物・軒・妻飾 身舎は円柱を切日長押・内法長押・頭貫・台輪で繋ぐ。頭貫に木鼻を付ける。その木鼻は九彫りの獅子頭を用い、すべての柱頂部に置かれている。台輪は木鼻を付けず、留めとしている。


円柱は見え掛かり部分では床下も円形断面に仕上げるが、見え隠れでは人角形に仕上げている。組物は出組で、実肘木・拳鼻を付ける。この組物の肘本は下端の繰り上げの曲線部分がなく、単純な角材で造られていて、意匠的には相当新しさを感じさせる。
大川神社 本殿絵様
大川神社本殿
さらに拳鼻も角材のままで繰形などを施さない。中備は雲紋を浮彫とした板を組物間に置く。この雲紋はこの建物では多用されていて、内法長押と頭貫の間の小壁の板にも浮彫の雲紋を施している。雨乞いの神様であるから、このような意匠を多用したのであろう。
妻飾は、出組で一手持ち出した位置に下段の虹梁を架け、その上に二組の平三斗を置いて、上段の虹梁を受け、その上に大瓶束を立てて棟木を受ける。平三斗は実肘本は用いないが、拳鼻は柱上の組物同様の角材を置く。下段虹梁上の中備も雲紋の浮彫彫刻である。
身舎の正面は蝶番で吊った板扉が設けられている。
他の三方は板壁で閉じられている。身舎内部は一室で、間仕切りはない。軒は一軒の繁垂木である。
この本殿は、いつ建てられたものなのでしょうか? 
今は実物はないようですが、かつての棟札が5枚残っています。
大川神社 棟札
大川神社棟札一覧
かつてあったとされる5枚の棟札には、元禄十五年(1702)・延享二年(1745)・宝暦三年(1753)・天明三年(1783)の年紀が記されています。これに対して、本殿の虹梁絵様は19世紀前期頃のデザインとされます。様式的には18世紀後期より遡ることはないと研究者は指摘します。つまり、5枚の棟札はどれもこの本殿の建立を示すものではないようです。
それでは、この本殿建立は、いつなのでしょうか? 
それは本殿背後に「文政十一成子年」(1828)と刻まれた燈籠があります。文化文政の「幕末バブル期」
の経済的な発展期の中で、善通寺の五重塔再興や金毘羅大権現の金堂(旭社)の建立が行われていた時期になるようです。
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大川山の1頭三角点

以上から専門家は大川神社の本殿を次のように評価します。
本殿は比較的実例の少ない二間社であることに第一の特徴がある。とはいえ庇と身舎正面の柱間は一間としているので、規模としては標準的な一間社と大差はない。小壁や中備に雲紋を施した板をはめているのは、先にも述べたように雨乞いの社としての信仰と関わるものであろう。縁束の間も竪連子を浮き彫りにした格狭間をはめており、珍しい意匠である。
 組物の肘木が角材であるのは個性的である。拳鼻まで同様に角材で造るから、かなり加工の手間を省いたか、建立年代が新しいか、いずれかと想定させる。しかし一方で、頭貫木鼻は全ての柱上に獅子頭を据えるから、さして省力化したとは言い難い。
 比較的華やかな装飾、肘本や縁廻りの独特の形式など、独自性が強い大川山山頂という特異な場にあって、社伝によれば奈良時代からの、確実なところでは近世以来の庶民の祈雨信仰と結びつき、本殿の意匠にまでそうした背景が意匠に反映した興味深い建物と言える。つまり神社の歴史的特質が近世末期の社殿の造形に結びついた建物と言えよう。
 今から200年前に建立された本堂も、大川山頂上で長年の風雨にされされて痛みがひどくなり建て替えられるこよになったようです。
これだけの者を修理復元するのには多額の費用がかかります。新しく建て直した方が経済的だったのでしょう。いまは、この本殿はありません。
本殿以外の施設について見ておきましょう
大川神社 龍王社
 本殿の背後の龍王堂
空海に結びつけられて真言僧侶達が説いた「善女龍王」伝説では、小さな蛇がまず現れて、龍となって雨を降らせるとされました。そのため雨乞いが行われる山には、龍王神が祀られるようになります。大川山も雨乞いの霊山とされていましたから、ここに龍王神が祀られているのは納得できます。
それでは本殿には何が祭られていたのでしょうか
「増補三代物語」には、「大山大権現社 在高山上、不知奉何神」とありました。「大山大権現社」と権現を祀る山は、修験者の山です。蔵王権現や役行者に類するものが祀られていたとしておきます。
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本殿の背後には、高い石垣を組んだ方形の区画があります。これがなんであるのかは、私は知りませんでした。今回はじめて松平家の御廟と伝えられていることを知りました。
これも先ほどの棟札にあるように18世紀の高松松平藩による社殿整備に伴って、作られたものでしょう。藩主の保護を得ているというモニュメントにもなり、宗教施設としてのランクを高める物になったでしょう。
この神域には、もうひとつ宗教施設が北西隅にあります。

大川神社 秋葉神2社

北西隅の秋葉神社
秋葉神社の祠です。しかし、この神社の性格は微妙です。神域を囲む玉垣の外にあるようにも見えます。守護神としての位置づけなのでしょうか、今の私にはよく分かりません。
以上、神域にある殿舎を登場順にあげると、次のようになると私は考えています。
①本殿    蔵王権現?  修験者の信仰本尊
②龍王社   善女龍王?  雨乞い伝説
③松平御廟  高松藩による関連堂舎の整備建立
そして、近代になっては②と安産伝説が残ったのではないでしょうか。これらの殿舎は、今は石垣上の石製の瑞垣で囲まれていて、聖域を構成しています。
それではこの聖域が作られてのはいつなのでしょうか。
玉垣内に置かれた燈籠の銘から、明治26年から30年頃の日清戦争前後に神域は整備された作られたものと研究者は考えているようです。つまり、現在のレイアウトは、約130年前の近代のものであるようです。その時に、小蛇の棲む小池も埋め立てられたのかも知れません。それ以前の社殿のレイアウトなどは分かりません。社殿の整備が進み、国境を越えて阿波の人たちなど、より多くの人たちの信仰を集めるようになったのは、この頃からなのではないでしょうか。
最後に、本殿棟札として一番古い元禄十五年(1702)棟札を見ておきましょう。
聖主天中天  迦陵頻伽声
哀慇衆生者  我等今敬礼
神官      宮川和泉橡重安
時郡司     渡部専右衛門尉重治
当部大政所  久米善右衛門貞明
      内海治左衛門政富
五箇村政所
中通村  新名助九郎高次
勝浦村  佐野忠左衛門守国
造田村  岡田勘左衛門元次
炭所西村 新名平八郎村重
川東村  高尾金十郎盛富
大工金比羅    藤原五兵衛金信

讃岐国鵜足郡中通村大仙権現神祠 合一宇 恭惟我昆慮遮那仏 取日寓名円照編索詞 界現徴塵刹日域 宗度社稜苗裔之神崇山峻嶺 海浜湖無所人権同塵不饒益有情実 邦君左近衛少将源頼常卿 抱極民硫徳懐国邑巡遊日親霊祠傾類 辱降賜興隆命因循経六曰 今ガ特郡司渡部氏篤志槙福故両郡黎蒸贔,造功成郎手輪奥共美下懐鎮祈邦淋福寿同而国家安穏万民豊饒 里人遇早魃必舞曇育摩弗霊験 長河有次帯之期泰山有如挙之月徳参天地洪然而犯独存神祠平維時 
元禄十五青龍集壬午四月上院高松城龍松小法泉寺住持嗣祖此丘畝宗格誌

社伝には奈良時代の天平年間には、神社が建立されていたとしますが、そこまでは遡れないでしょう。
 平安時代には、中寺廃寺が建立され山林修行を行う僧侶の拠点となっています。彼らは、この山を霊山として信仰していたようなので、ここに社殿が建てられたのでは?と思いたくなります。しかし、当時は山自体が神体とされていた時代です。山頂に神社が建てらる時代ではないのです。例えば、伊予の石鎚権現信仰でも、頂上には権現像があるだけでそれは、下の遙拝所から拝むものでした。土佐の霊山の山々も、祭礼の際に人々が山に登って来てて、いろいろな行事を行いますが建築物しての神殿や拝殿などが姿を現すのは、近世後半になってからです。大川山も古くから信仰の山として、丸亀平野の里人の信仰の山であったようですが、頂上に神社が建てられるのは近世も後半になってからのことだと私は考えています。
 
 大川神社に残された棟札5枚からは、18世紀になって歴代高松藩の藩主の支援を受けて堂舎が「再興」されたことが分かります。
 再興とありますが、これが創建ではないのか私は考えています。これよりも古い棟札はないのです。雨乞い用の鉦鼓などの寄進は、生駒藩の時代から行われていたかも知れませんが、山頂に堂舎を立てるというのは、もう少し後の時代になってのことのような気がします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  大山神社本殿・随身門調査報告書 京都大学工学部建築史学講座
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大山山から金毘羅地図

まんのう町の大川神社は雨乞いの神として、また安産の神として、広く信仰を集めてきました。特に、大山神社に奉納される念仏踊りは国の文化財にも指定されています。今回は、大川山がどのようにして雨乞いの霊山になっていたのかを見ていくことにします。

琴南町美合の美霞洞渕では、雨乞祈願のために流れの中の岩や石に小さい棚を設けて龍王(オリヨウハン)を祀り、そこで神主や村人が3日3晩祈願をしたことは、以前にお話ししました
同じような雨乞いがまんのう町塩入の釜ケ淵にも残されています。
 ここは財田川の源流になり、丸亀平野の丸亀藩の農民達の雨乞いの最後の祈祷場所だったようです。どんな雨乞いがおこなわれたか民話を読んでみましょう。
  里人がやって来た後から、山伏もやって来ました。
 山伏が雨降らせたまえと祈願をします。
すると、里人たちは持って来た堆肥を、釜が淵のなかへ振り込みはじめました。十二荷半の堆肥を、残らず淵へ放りこんだからたまりません。
おかしな臭いが、あたりへただよいます。
清らかな淵水は、茶色く濁って流れもよどみがち。
そして、この上から、ゴボウの種を蒔きます。
ゴボウの種は、ぎざぎざでとても気味の悪い形をしています。指でつまむと、ゴボウの種が指を刺すように感じます。
堆肥十三荷半、ゴボウ種を投げ込んで終わったのではありません。今度は、長い棒で淵のなかを、かきまぜます。
何度も、何度も、棒でかきまぜます。もう、無茶苦茶です。
釜が淵の水は、濁ってしまいました。
この、釜が淵の清らかな水のなかには、龍神さまがいらっしゃるというのに、水は濁ってしまいました。きっと龍神さまは、お腹立ちのことでしょう。
そうなのです、それが目的なのです。
龍神さまを、しっかり怒らすのです。
怒ると、雨が降るというのです。
お気に入りの釜が淵の清水が、べとべとに濁ってしまいました。これはたまらないと、龍神さま雨を降らせて不愉快なものを、すべて流します。でも、いいかげんな雨では流れないと、激しい大雨を降らせてさっぱりと洗い流します。
ああ、きれいになったと龍神さまも大よろこび。
里人も、念願の雨が降ったと大満足。
 ここからは、次のような事が分かります。
①川の流域の村々(同一灌漑網)の人々が、地域を流れる川の源に近い深い淵を雨乞場所としていた。
②そこで大騒ぎするとか、石を淵に投げ込むとか神聖な場所を汚すことによって、龍王の怒りを招き、雷雲を招き雨を降らせるという雨乞いが行われてたこと
③これは全国的にみられる話で、修験道者(山伏)のネットワークがひろめたこと
④雨乞行事の音頭をとっているのは山伏であること

 寺院で行われる雨乞いは善女龍王に対する祈祷でした。
これは丸亀藩主が直接に善通寺門主に命じて行わせていた公式なものであることは以前にお話ししました。それに対して、村々で農民達が行っていた雨乞祈願は、山伏たちが主導権を握っていたようです。そう言えば、この淵の上には尾ノ背寺がありました。ここは中世の山岳寺院の拠点で、善通寺の奥の院ともされ修験者の拠点として栄えた寺です。流域の人々を信者として組織し、尾ノ背寺参拝への手段としていたとも考えられます。丸亀平野南部の丸亀藩の櫛梨神社には、尾ノ背山信仰を伝える話が伝えられています。

それでは大川山周辺では、どんな雨乞いが行われていたのでしょうか。 大川山周辺に残る雨乞い伝説を見てみましょう。
2020年 美霞洞渓谷 - 行く前に!見どころをチェック - トリップアドバイザー

まず登場するのは三角(みかど)淵です。ここは、崖山がそそりたり、三つの角を持った岩石があることから三角(門)と呼ばれるようになったと伝えられます。三角の地名は、かって「御門」とも「御帝」とも呼ばれていました。そして、「三霞洞」となり、現在の道の駅や温泉は「美霞洞(みかど)」と呼ばれ親しまれています。
 道の駅の下流の渓谷を流れる冷たい清らかな流れは、龍神さまもお好きと見え、龍神社がお祀りされています。ここでも、大干魃の年は流域の人々がやって来て龍神様にお祈りをして、雨乞い神事が行われていました。

大川山 美霞洞龍神神社
美霞洞渓谷の龍王神社
「三角(みかど)の淵と大蛇」の民話は、大蛇を退治した後のことを次のように語ります。
  日照り続きの早魃の年には三角の淵の雄淵に筏を浮かべて雨乞いのお祈りをすると、必ず雨を降らせてくれます。また、遠くの人たちは三角の淵へ、水をもらいにやってきます。淵の水を汲んで帰り祈願をこめると、必ず雨が降りだします。三角の淵は、雨乞いの淵としても有名になりました。

 ここからは、雄淵に筏を浮かべて雨乞い祈祷が行われていたことが分かります。この筏の上で祈祷を行ったのは、大川山の山伏たちだったのでしょう。また、この地が下流の丸亀平野の人々にとっても雨乞聖地であり、ここの聖水を持ち帰り、地元で行う祈祷に用いられていたようです。持ち帰った聖水を用いて祈祷を行ったのは、地元の山伏であったはずです。大川山をめぐる山伏ネットワークがうかがえます。
大川山周辺の八峯龍神での事件を、民話は次のように伝えています。
 21日間、昼夜の別なく、神楽火をたき神に祈ったが一粒の雨も降らなかった。当時の神職(山伏)は悪気はなかったが
「これ程みながお願いしているのに、今だに雨の降る様子がない、龍神の正体はあるのか、あるなれば見せてみよ」
と言ったところ、言い終ると一匹の小蛇が池の廻りを泳いでいた。
「それが正体か、それでは神通力はないのか」と言った。
すると急にあたりがさわがしくなり、黒い雲が一面に空を覆い、東の空から「ピカピカゴロゴロ」という音がしたかと思うと、池の中程に白い泡が立ち、その中から大きな口を開き、赤い炎のような舌を出した大蛇が、今にも神職をひと飲みにしようと池の中から出て来た
これを見た神職は顔色は真青になり、一目散に逃げ帰った。
然し大蛇は彼の後を追いかけて来たものの疲れたのか、その場にあった一本の松の木の枝に首をかけてひと休みしたと伝えられる。
 今もその松を首架松といわれている。池からその松の所までは150mもあるが、大蛇の尾が池に残っていたというのだから大きさに驚かされる。

  ここからは次のような事が分かります。
①雨が降るまで雨乞いは続けられるといいますが、この時は21日間昼夜休むことなく祈祷が続けられていたこと
②小蛇が龍になるという「善女龍王」伝説が採用されていること
③祈祷を行ったのは神職とあるが、江戸時代は修験者(山伏)であったこと
④そして、雨乞い祈祷でも雨が降らないことがあったこと
⑤失敗した場合には、主催した山伏の信望は墜ちること
 雨乞いで雨が降ればいいのですが、雨が降らなかったときには主催者は責任を問われることになります。ある意味、山伏たちにとっても命懸けの祈祷であったようです。
 江戸時代には、ことのよう大川山周辺の源流や池は、雨乞いの聖地となっていたことが分かります。
これが明治になると、システムが変化していくようです。
何が起こるかというと、雨乞い場所を自分たちの住む地域の周辺に下ろしてきて、そこに拠点を構えるようになるのです。
 大川神社の勧進分社の動きを、琴南町誌で見ていきましょう。
飯山の大川神社(丸亀市飯山町東小川日の口)
  ここは現在は「水辺の楽校公園」として整備されています。その上の土手に大きな碑や灯籠がいくつか建っています。3つ並んだ一番左の石碑に「大川神社」と大きく記されています。その由来を琴南町誌は、明治25(1892)年6月の大早魃の時、松明をたいて雨乞いをした。この時大雨が降ったので、飯野山から大きな石を引いて来て大川神社を祀ったと云います。ここは昔から地神さんが祀られていて、地域の雨乞所だったようです。大旱魃の時には「第2段階」として、大川神社の神を祀り雨乞いを行ったようです。すると必ず雨が降ったと伝えられます。
 いつの時代かに大川講のようなものができて、大川神社に代参して大川の神を迎えてここに祀って、雨乞いも行うようになります。三角(みかど)の聖水をもらってきて祀ったりもしたようです。ここからはもともとあった地主神があった所に、雨乞いの神として大川神社が後から勧進されたようです。そこには、やはり里の山伏たちの活動があったようです。

高篠の大川神社(まんのう町東高篠中分)

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まんのう町高篠の土器川堤防上の大川神社石碑
 土器川の左岸の見晴らしのいい土手の上に大川神社という大きな石碑が建っています。横に常夜灯もあります。祠などはありません。ここからは、象頭山がよく見えます。この石碑には、戦後の大早魃の際に、大川神社を勧請して、雨乞い祈祷したところ大雨を降らたので、ここに大石をたてて大川神社をお祀りしたと記されています。この地点は、東高篠への土器川からの導水地点でもあるようです。

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 以後、祭りは旧6月14日に神官を呼んでお祓いをして、講中のものがお参りしていたようです。講中は東高篠中分で50軒くらいで、家まわりに当屋のもの何軒かが世話をしていたと云います。。祭りの日は土器川の川原で市がたち、川原市といって大勢の人々が集まったようです。三日間くらい農具市を中心に市が開かれ、芝居、浪花節などの興行もあったと云います。 高篠の人たちが講を組織して勧進した大川山の分社なのです。ここにも山伏の影が見えます。
長尾の大川神社(まんのう町長尾札辻)
 長尾の辻にも大川神社という大きな自然石が立っています。これも大川山の大川神社を勧請して祀ったようです。いつ頃から祀られるようになったのかは分かりませんが、大正7(1918)年の大水にそれまでの碑が流されたので、再建したものだと伝えられます。この地点は、土器川の水を旧長尾村、岡田村などに引く札辻堰のあるところで重要ポイントです。早魃の時には、ここに大川神社を祀って雨乞いの祈願が行われたようです。
 長尾地区も江戸時代には、大川山に代参して御幣を請けてきたと伝えられます。しかし、勧進分社後には、ここの大川神社で雨乞い祈願が行われるようになったようです。ここにも講組織があり、旧長尾村一円の約200戸余りが講員となっていました。田植え後の旧6月14日には毎年お祭りをし、夜市が催され、余興などがにぎやかに行われていたと云います。
岡田の大川神社(綾歌町岡田字打越)
旧岡田村は、その地名通りに丘陵地帯で水田化が遅れた地域でした。そのために土器川の水を打越池を通じて導水し、各所に分水するという灌漑システムを作り上げました。その導水池である打越池の堤に、大川神社が勧進されています。それは昭和初年の大干ばつの際に、池総代の尽力で、大川神社の分神がお祀りされたものです。ここにも水利組合と大山講が重なるようです。

 飯山の東小川、まんのう町の高篠東・長尾・打越とみてきましたが、次のような共通があることが分かります。
①土器川からの導水地点に、大山神社が勧進された
②勧進したのは導水地点から下流の水掛かりの農民達で講を組織していた。それは水利組合と重なる。
③勧進時期は、近代になってからである
④勧進後は、そこで雨乞神事や祭りも行われていた

以上見てきたことをまとめたおきます
①古代から霊山とされた大川山は、修験者が行場として開山し大川大権現と呼ばれるようになる
②そこには修験者の拠点として、寺院や神社が姿を見せるようになる
③修験者は里の人々と交流を行いながらさまざまな活動を行うようになる
④日照りの際に、大川山から流れ出す土器川上流の美霞洞に雨乞い聖地が設けられるようになる
⑤そこでの雨乞い祈願を主導したのは、修験者たちであった。
⑥彼らは、講を組織し、雨乞い祈祷を主導した
⑦こうして、大川大権現(神社)は雨乞いの聖地になっていく。
⑧近代になって、神仏分離で修験道組織が解体していくと里の村々は、地元に大山神社を勧進するようになる。
⑨それを主導したのは、水利組合のメンバーで大山講を組織し、大山信仰を守っていった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 
丸尾寛  日照りに対する村の対応
琴南町誌747P 宗教と文化財 大川神社 

中寺廃寺の石組遺構は、なんのために積まれたの  

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中寺廃寺遊歩道
中寺廃寺はA・B・Cの3つのゾーンに分けられています。
ここまで来たらCゾーンにも行かねばならぬと足を伸ばすことにします。Cゾーンは、塔のあるAゾーンから谷をはさんだ南の谷間にあります。
 お手洗いの付属した休憩所の上から谷間に下りていく急な散策路を下っていきます。人が通ることが少ないようで、これでいいのかなあと思う細い道を下っていくと・・・猪除けの柵が現れ、進むのを妨げます。「石組遺構」らしきものはその向こうの平場にあるようです。柵を越えて入っていきます。
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中寺廃寺Cゾーン

あちらこちらに石組跡らしきものはありますが、崩れ落ちていて石を積んだだけに見えます。その配列や大きさにも規則性はないようです。私が最初の推察は「墓地」説でした。この寺院の僧侶の墓域ではないかと思いました

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中寺廃寺石組遺構
後日に手に入れた報告書を読むとこう書かれていました。
「当初、「墓地」の可能性を考え下部に蔵骨器や火葬骨などの埋葬痕跡の有無に注意を払った。しかし、外面を揃えて大型の自然石を積み、内部に小振りの自然石を不規則に詰め込むという手法に、墓地との共通性はあっても、埋葬痕跡はまったくなく、墓の可能性はほぼ消滅した。」
 山林寺院に墓地を伴う例はありますが、墓地が形成されるのは中世(平安後期)以降のことのようです。この中寺廃寺は中世には廃絶しています。

それでは何のために作られたものなのだろう?

報告書にはそれも書かれていました。読んでいて面白かったので紹介します。
報告書の推論は「石塔」説です。、
仏舎利やその教えを納めるという仏教の=象徴としての「塔」、
あるいは象徴としての「塔」を建てる行為は功徳であり「作善行為」とという教えがあったようです。
  『法華経』巻2「方便品」には。
在家者が悟りを得る(小善成仏)のために、布施・持戒などの道徳的行為、舎利供養のための仏塔造営と荘厳、仏像仏画の作成、華・香・音楽などによる供養、礼拝念仏などを奨励する。
その仏塔造営には、万億種の塔を起し=て金・銀・ガラス・宝石で荘厳するものから、野に土を積んで仏廟としたり、童子が戯れに砂や石を集めて仏塔とする行為まで、ランクを付けて具体例を挙げる。つまり、「小石を積み上げただけでも塔」なのである。
 童子が戯れに小石を積んで仏塔とする説話は、『日本霊異記』下巻
村童、戯れに木の仏像を刻み、愚夫きり破りて、現に悪死の報を得る
にも見えます。 平安時代前期には民間布教に際に語られていたようです。また、平安時代中頃までに、石を積んで石塔とする行為が、年中行事化していた例もあります。
 「三宝絵」下巻(僧宝)は、「正月よりはじめて十二月まで月ごとにしける、所々のわざをしるせる」巻です。その二月の行事として記載されているのが「石塔」です。
  石塔はよろづの人の春のつつしみなり。
諸司・諸衛は官人・舎大とり行ふ。殿ばら・宮ばらは召次・雑色廻し催す。日をえらびて川原に出でて、石をかさねて塔のかたちになす。『心経』を書きあつめ、導師をよびすへて、年の中のまつりごとのかみをかざり、家の中の諸の人をいのる。道心はすすむるにおこりければ、おきな・わらはみななびく。功徳はつくるよりたのしかりけば、飯・酒多くあつまれり。その中に信ふかきものは息災とたのむ。心おろかなるものは逍邁とおもへり。年のあづかりを定めて、つくゑのうへをほめそしり、夕の酔ひにのぞみて、道のなかにたふれ丸ぶ。
 しかれどもなを功徳の庭に来りぬれば、おのづから善根をうへつ。『造塔延命功徳経』に云はく、「波斯匿王の仏に申さく、「相師我をみて、『七日ありてかならずをはりぬべし」といひつ。願はくは仏すくひたすけ賜へ』と。仏のの玉はく、『なげくことなかれ。慈悲の心をおし、物ころさぬいむ事をうけ、塔をつくるすぐれたる福を行はば、命をのべ、さいはひをましてむ。ことに勝れたる事は、塔をつくるにすぎたるはなし。
石を積むことは「塔」をつくることで「作善」行為のようです。
山に登って、ケルンを積むのも「作善」とも言えるようです。わたしも色々なところで石を積み無意識に「作善」してきたことになるのかもしれません。
さて、この『三宝絵詞』が描く年中行事としての「石塔」の記録から分かることがいろいろあります。 報告書は次のように続けます。
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中寺廃寺石組遺構
 まず、重要なのは、「石塔」を積む場が「川原」であることです。
 川原は葬送の地、無縁・無主の地で、彼岸と此岸の境界でもあります。そして「駆込寺」が示すように、寺院はアジールであり、時には無縁の地ともなります。中寺廃寺C地区は、仏堂・塔・僧房などの施設があるA地区やB地区とは、谷を隔てた別空間を構成しています。C地区は葬地でなくても「川原」だと考えられます。石組遺構が、谷地形に集まっているのも、それを裏づけるとします。これは後世の「餐の河原」に通じる空間とも言えます。
このC地区に37残る石組遺構は、年中行事である[石塔]として毎年春に作られて続けた累積結果と考えられるようです。   
次に報告書が注目するのは「石塔」が「よろずの人の春のつつしみ」であることです。
『三宝絵詞』は、石塔を積んだ人たちを「諸司・諸衛の官人・舎人」や「殿ばら・宮ばら」配下の「召次・雑色」が、「石を重ねに塔の形にする」した人々とします。しかし、この中寺廃寺について言えば、石塔を積み上げたのは、讃岐国衙の下級官人や檀越となった有力豪族だけでなく、大川山を霊山と仰ぐ村人・里人も、「石塔」を行なったはずです。Aゾーンの本堂や塔などの法会は僧侶主体で「公的空間」であるのに対して、このCゾーン「石塔」は、大川山や中寺廃寺に参詣する俗人達の祈りの場であり交流の場であったのではないでしょうか。
ここでは、祈りと宴会が行われていた? 

そう理解すると「春」という季節や、単に石を積むだけでなく「飯・酒多くあつまれ」という饗宴行為もぴったりと理解できます。
 春の予祝行事である、その年の豊饒を願う「春山入り仰山遊び仰国見」「花見」や「磯遊び仰川遊び」などの中に「石塔」もあったようです。讃岐山脈の雪が消え、春の芽吹きの頃、あるいは山桜の咲く頃に、豊作祈願や大川|山からの国見を兼ねて中寺廃寺に参詣し、C地区で石を積む姿が見えてくるようです。
 ちなみに、この中寺廃寺周辺の山々は春は山桜が見事です。
「讃岐の吉野山」とある人は私に教えてくれました。その頃に大川山詣でをする人たちがこの谷に立ち寄って、石を積み上げていったと考えたくなります。
 大川山を霊峰と仰ぐ里の住民は、官人・豪族・村人の階層を問わず、中寺廃寺に参詣したはずです。中寺廃寺C地区の石組遺構群は、そうした地元民衆と寺家との交流の場だったのかもしれません。
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 報告書は更にこう続けます。  
「石塔」行事の場である「川原」が、平安京に隣接する鴨川などの川なら、官人や雑色が積み上げた「石塔」が遺構として残る可能性は限りなくゼロに近い。平安代後期まで存続せず、炭焼が訪れる以外は、人跡まれな山中に放置された中寺廃寺の方形石組構であるからこそ残ったのである。もし、中寺廃寺が中世まで存続したら、付近で墓地が展開した可能性は高く、埋葬をともなわない「石塔」空間を認識することは困難になったかもしれない。
つまり「平安時代のまま凍結した山寺院関係の遺跡=中寺廃寺」だからこそ残った遺構なのです。そして「石塔」とすれば、はじめての「発掘=発見」となるようです。

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