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諏訪大明神念仏踊之の図(まんのう町)

まずは絵図をご覧ください。神社の境内で団扇を持って、踊りが踊られているようです。手前(下部)では薙刀振りが、薙刀を振り上げて警護をしているようです。そして、それを取り巻く境内いっぱいの人たち。最初にこの絵図を香川県立ミュージアムの「祭礼百態」展で見た時には、「綾子踊り」だと思いました。綾子踊りは、国の無形文化財に指定されている風流踊りで佐文の賀茂神社で、2年に一度奉納されています。その雰囲気とよく似てるのです。

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桟敷席から念仏踊りを見る長百姓たち 
桟敷席にはそれぞれの家の名前が記されている

しかし、よく見ると少し違うことに気付いてきました。見物客の後側に並んで建つ小屋群です。これは各村の支援テントかなと現代風に考えたのですが、よく見ると人の名前が入れられています。小屋の所有者の名前のようです。さらによく見ると2階から踊りを見ている人たちが描かれています。これはどうやら見物小屋(桟敷小屋)のようです。この絵図に付けられた説明文には、次のように記されています。
諏訪大明神念仏踊之の図
本図はまんのう町真野の諏訪神社に奉納される念仏踊りの様子を描く。2基の笠鉾が拝殿前に据え付けられ、日月の大団扇を持ち、花をあしらった笠を被った下知、同じく花笠を被った3~4人の中踊りらしき人が描かれる。
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 また花笠を被り、太鼓を抱えた6人の子どもがいる。下部には頭にシャグマ(毛)をつけた男が棒を振っており、薙刀を持った男も描かれる。念仏踊りを描く絵図はほとんどなく、当時の奉納風景をうかがうことができる数少ない絵図である。
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これは綾子踊りではなく念仏踊りなのです。場所も、加茂神社ではなくまんのう町真野の諏訪神社だというのです。しかし、綾子踊りとの共通点が非常に多いのです。また、見物小屋については何も触れていません。この念仏踊りは諏訪神社以外の周辺の神社でも奉納されています。佐文の賀茂神社でも踊られていたようです。そして、最後に滝宮神社に奉納されていました。
images (6)綾子踊り

佐文の綾子踊り

滝宮念仏踊りについて確認しておきましょう。
讃岐の飯山町の旧東坂本村の喜田家には、高松藩からの由来の問い合わせに応じて答えた滝宮念仏踊りに関する資料が残っています。そこには起源を次のように記します。(意訳)
   喜田家文書の坂本村念仏踊  (飯山町東坂元)
 光孝天皇の代の仁和二年(886)正月十六日①菅原道真が讃岐守となって讃岐に赴任し、翌三年讃岐の国中が大干害となった。田畑の耕作は勿論草木も枯れ、人民牛馬がたくさん死んだ。この時、②道真公は城山に七日七夜断食して祈願したところ七月二十五日から二十七日まで三日雨が降った。③国中の百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った。是を瀧宮踊りと言っている。

要点を挙げておくと
①菅原道真が讃岐国司として赴任中に、大干ばつが起きた
②菅原道真は、城山で雨乞祈祷を行い雨を降らせた
③国中の百姓が喜びお礼のために「滝宮の牛頭天皇社」に、雨い成就のお礼踊りを奉納した。

  綾川中流の滝宮にある滝宮神社は、もともとは牛頭天皇社として中世から農耕作業で重要な働きをしていた牛の神様として、地域の農民から信仰を集めてきました。そして、中讃での牛頭信仰の拠点センターとして、周辺にいくつものサテライト(牛頭天皇社)を持つようになります。こうして滝宮牛頭天皇社は、毎年牛舎や苗代などに祭る護符を配布する一方、煙草・棉・砂糖などの御初穂を各村々から徴集します。滝宮牛頭神社は、農民の生活の中に根を下ろした神社として多くの信者を得ます。この神社の別当寺が龍燈院でした。龍燈院は現在の滝宮神社と天満宮の間に、広大な伽藍を持つ有力寺院で、この寺の社僧(真言系修験者)が滝宮神社を管理運営していました。
滝宮神社・龍燈院
滝宮神社(牛頭天皇社)とその別当寺龍燈院
 ここで注意しておきたいのは、滝宮念仏踊りは、菅原道真の雨乞いに成就に対して百姓はこれを喜んで滝宮の牛頭天王神前で悦び踊った」のです。感謝の踊りであって、もともとは雨乞い踊りではないのです。

滝宮念仏踊り
滝宮神社の念仏踊り
滝宮神社の神宮寺で、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった龍燈院の住職が代々書き記した『瀧宮念仏踊記録』の表紙裏には、次のように記されています。
「先代は当国十三郡より踊り来たり候処、近代は四郡而已に成り申し候」

かつては、念仏踊りは讃岐国内の13群すべての郡が踊りを滝宮に奉納に来ていたというのです。続けて

「就中 慶安三年寅七月二十三日御重キ御高札も御立て遊ばされ候様承知奉り候」

とあり、高松藩の松平頼重が初代藩主として水戸からやってきて「中断」していた念仏踊りを西四郡のみで再興させたといいます。念仏踊りは風流踊りで、雨乞いだけでなく当時の人にとってはレクレーションでもあったので大勢の人が集まります。そのため喧嘩などを禁ずる高札を掲げることで騒ぎを防止したようです。4つの組の踊りの順番が固定し、安定した状態で念仏踊りが毎年行われるようになったのは、享保三年(1718)からのようです。

滝宮に奉納することを許された4つの組の内、七箇村組は、満濃御料(天領)、丸亀藩領、高松藩領の、三つの領の13ヶ村にまたがる大編成の踊組でした。
その村名を挙げると、真野・東七箇・西七箇・岸の上・塩入・吉野上下・小松庄四ケ村・佐文の13の村です。そのため、踊組の内部でも、天領民の優越感や丸亀・高松両藩の対抗意識が底流となって、内紛の絶えることがなかったようです。そのため中断も何回もありました。これを舵取る当番の各村の庄屋は、大変だったようです。
 さて七箇村踊組は7月7日から盛夏の一ヶ月間に、各村の神社などを周り、60回近い踊興行を行い、最後が滝宮牛頭神社での踊りとなるわけです。先ほどの諏訪神社の絵図も、その途上の「巡業」の時の様子が描かれたもののようです。 
 さて、諏訪神社の見物桟敷小屋の謎にもどりましょう。
その謎を解く鍵は、隣の村の久保神社に残されていました。

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 岸上村の庄屋・奈良亮助が残したもので「天保9年再取極 滝宮念仏踊 久保宮(久保神社)桟敷図 
七箇村組記録 奈良亮介書」と真ん中に大きく記されています。これは久保神社で念仏踊りが行われる時の桟敷の配置図です。よく見ると、境内の周りに桟敷小屋を建てる位置が記入してあります。
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そして、次のように記されています。
 戌八月十日、於久保宮において念仏踊見物床場の之義について、去る七日に長百姓・社人・朝倉石見が出会い相談の上、床場所持の人は残らず相揃い、一同相談の上、昔のことなども確認した結果、以下のような配置に改めることになった。
 御殿占壱間後江引込東手二而
     真南向弐間  神余一統(神職 朝倉氏)
       同弐間  奈良氏(岸の上の庄屋)
 同所東占西江向壱間半 同性分
 右一間半之分へ先年権内権七と申者一統之床場二而御座候所、文政三辰年彼是故障申出候二付、其節朝倉加門・優益・庄次郎・太郎兵衛四人之衆中占、右権七占法外之申出候義ハ、困窮二相成居申候二付彼是申義二付、少々為飯料 指遣候様申出候二付、四人之取扱二而米五斗銀拾五匁指遣、
壱間半之場所買取、都合本殿前三間半ハ奈良家之床場二相究せ候事。(中略)
意訳変換しておくと
御殿(拝殿?)前の一間後へ引込んだ東手の二面については
  真南向の二間  神余一統(神職 朝倉氏)
  同弐間     奈良氏(岸の上の庄屋)
  同所東の西向壱間半 同性分
 この一間半之分は、もともとは権内権七の一族床場(桟敷席権利)であった。しかし、文政三(1813)辰年に、一族から、経済的な困窮で維持が困難となったたので、適当な飯料で売却したいという申し出があった。そこで相談役の四人衆で協議した上で、庄屋の奈良家が米五斗銀拾五匁で、権内権七から壱間半の床場を買取ることになった。こうして、本殿前の奈良家の床場は、従来のものと合わせて三間半の広さとなった。(下略)
この史料からは、桟敷床場の権利をもつ構成員が、経済的な困窮のためにその権利を手放したこと、それを庄屋奈良家が買い取ったことが分かります。つまり、久保神社の床場配置の「再取極」(再確認書)のようです。本殿真南の一番いい場所は、神職朝倉氏と庄屋の奈良氏が2間の広さで占めます。問題は、その隣の一間半の部分です。ここはかつては、権内権七一族のものでしたが、経済的な困窮からこれを庄屋の神職の朝倉家が買い取り、朝倉氏が持つ本殿前の床場(桟敷占有面)は、「本殿前三間半は奈良家之床場二相究せ候」と記します。ここからは久保神社では「床場」が売買されていたことが分かります。
南 面申内川問
御殿方西脇壱間後へ引込
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方束向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 右嘉十郎之ハ、明和年中二大坂表向稼ニ罷(まかり)越候ニ付き、床場ヲ舎人朝倉氏に預け置き之あり。同所へ太郎兵衛床場之由申出、口論ニ及び候ニ付き、奈良亮助方双方へ理解申聞せ、右弐間半之内壱間半朝倉氏二、残ル壱間ハ太郎兵衛床場二相究遣シ、万一嘉十郎子孫之者村方へ罷帰り相応相暮候様相成候得バ、両人之分を山下家江表口弐間半分指戻候様申聞せ、相談之上相済候事。
意訳変換しておくと
南 面申内川問
御殿(拝殿)西脇の壱間後へ引込んだ場所
       長弐間  藤左衛門一統分
       同弐間  丹左衛門分
 西方東向二而同壱間半 彦右衛門
       長壱間半 横関氏一同
       同弐間半山下嘉十郎
 この嘉十郎については、明和年中(1761~)に大坂に稼ぎに行って、床場を社人朝倉氏に預け置いていた。ところがここの権利は自分にあると太郎兵衛が申出で、朝倉氏と口論になった。そこで庄屋の奈良亮助が双方の仲裁に立って、次のように納めた。二間半の内の一間半は朝倉氏、残りの一間は太郎兵衛の床場とする。もし嘉十郎の子孫が村へもどってきて、相応の暮らしぶりであれば、両人分二間半を山下家に返却することに同意させた上で、相済とした。

 山下嘉十郎については、一家で大坂に出向く際に、床場の権利を朝倉氏に預けたようです。その分について、朝倉氏と太郎兵衛が分割して使用することになったようです。面白いのは、もし嘉十郎の子孫が村に帰ってきた場合は
「相応の暮らし」をするようになれば、床場を返還するという条件です。貧困状態で還ってきたのでは、床場権利は健脚出来ないというのです。ここからは、床場は長百姓階層や高持百姓などの、富裕な人々だけに与えられた権利であったことが分かります。
 諏訪神社の絵図には見物桟敷の前に、頭だけを目玉のように描かれた見物人がぎっしりと描かれていたことを思い出して下さい。あれが、一般の民衆の姿なのです。そして有力者がその背後の見物桟敷の高みから念仏踊りを風流踊りとして楽しんでいました。絵図には、見物桟敷の持ち主の名前が全て記入されていました。このことから考えると、この絵図の発注者は、諏訪神社の「宮座」を構成する有力者が絵師に書かせて奉納したものとも考えられます。

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以上から分かることは次の通りです
①祭礼の桟敷席が、村の有力者の権利として所有され、売買の対象だったこと
②桟敷席には、間口の広さに違いがあり、その位置とともに家の家格と関係していたこと。
③困窮し手放した場合は、その子孫が無条件で返還されるものではなく「相応の暮らしを維持できる」という条件がつけられていたこと。
「桟敷席」の権利が、村での社会的地位とリンクしていたこと押さえておきます。
この特権は、中世の「宮座」に由来すると研究者は考えています。このように桟敷席に囲まれた空間で踊られたのが風流踊り(=念仏踊り)なのです。そして、それが描かれているのが最初に見た諏訪神社の祭礼図ということになるようです。
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風流踊りが奉納された久保神社(久保の宮)の境内
どんなひとたちが、この踊りを踊っていたのでしょうか?
 岸上村の庄屋・奈良亮助が残した記録の中に「諸道具諸役人割」があります。これによって天保十五年の七箇村組の踊役の構成を知ることができます。
   踊子当村役割
 一、笛吹        朝倉石見(久保の宮神職)
 一、関鉦打        善四郎
 一、平鉦打       長左衛門
 一、同         徳左衛門
 一、同         与左衛門
 一、同          権 助
   同 古来?仁左衛門 助左衛門
  、同 古来?全左衛門 宇兵衛
       宇兵衛右譲受 五左衛門
 一、同 古来右九左衛門 十五郎
   当辰年廻り鐘当村へ相当り候事 是ハ公事人足二而指出候事
 一、地踊         彦三郎
 一、同 宇兵衛株同人譲渡 熊蔵出ル
 一、同 利左衛門    孫七出ル
            清左衛門出ル
 一、同 又左衛門   五左衛門
 一、同 善次郎    伴次郎出ル
 一、旗    弐木 内壱木 社面
            壱本 白籐
 一、長柄鑓  五本
 一、棒突   三本 内壱本新棒と申 分二而御座候。
 右之通相究在い之候事
 右の役割表を見ると一番最初の笛吹きは、久保の宮住職です。
そして「株」「譲渡」の文字が目立ちます。元々は、中世の宮座と同じように各村で踊子の役割はそれぞれの家の特権(株)として伝承されてきたようです。
 「同 古来?仁左衛門 助左衛門」とあるのは、元々は仁左衛門が持っていた株を、助左衛門が持っていて出演する権利を持つということでしょうか。「同 宇兵衛同人譲渡 熊蔵出ル」というのは宇兵衛株が譲渡した株で熊蔵が出演するということでしょう。先ほどの床場の権利と同じように、「出演権」も譲渡や売買の対象になっていたようです。株が固定していない廻り鐘は、公事人足が勤めていたようです。そのため旗持、長柄鑓、棒突は、人名が記されていません。
  ちなみに「公事人足」とは、村の共同の仕事に当たる人足のことです。高松藩では村から年貢米を徴収する時に、百姓の持高の一割を公事米として徴集しました。これを村の道普請などの公事役に出た人々の扶持米(サラリー)としました。念仏踊の食料なども、この公事米から支出されていたようです
 念仏踊の起源は中世末まで遡れれますが、その発生から名主や長百姓の特権的な結びつきで編成されたようです。祭祠的、仏教的な風流であったと同時に、その村の有力者がその地位と勢力を村の人々に誇示する芸能活動として伝承されてきたという面もあります。念仏踊りの踊り手の出演権や見物桟敷(床屋)にも、その痕跡が残されているのです。
ここからは、鎮守は村のメンバーの身分秩序の確認の場であったことが分かります。中世以来、鎮守の宮座は名主層によって独占されていて、百姓層はそこから排除されていました。新興の勢力が宮座に加入する場合には、右座・左座というように旧来からの座株所有者とは区別されていました。また寺社の棟札や梵鐘の銘文には、地頭・荘官以下、名主や百姓の名前がそれぞれの奉加額とともに記され、荘内の身分秩序が一目で分かるように示されています。家の格まで視覚的に表現されていました。荘郷鎮守で毎年、繰り返される祭礼行事では、荘官以下の百姓たちは荘郷内での身分秩序の形成や確認の場でもあったのです。それが、この念仏踊りにも、しっかりと現れています。

さて、それではなぜ幕末から明治にかけて念仏踊りは奉納されなくなるのでしょうか?
この疑問に答えるキーワードを並べて見ます。
①「氏神」から「産土社」への転換
②庄屋などの村の有力者層に対する百姓達の発言権の高まり
獅子舞と太鼓台(ちょうさ)の登場
この3つの要素を、まんのう町川東中熊の山熊神社の「祭礼変革」で見てみましょう。
中熊地区は「落人の里」と呼ばれるように山深い地にあります。その中にある造田家の文書によると、この神社は造田一族の氏神と伝えられています。それを裏付けるかのように社殿の棟札には造田氏一族の名前が大檀那として書き連ねられています。祭礼の時には、造田氏一族のみに桟敷が認められ、祭礼の儀式も造田氏の本家筋の当主が主祭者となっていました。まさに造田氏の氏神だったのです。

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まんのう町中熊の山熊神社
ところが江戸時代の中ごろから、高持百姓が山熊神社の造田氏の特権を縮少させる動きを見せ始め、たびたび軋轢が起きるようになります。これに対して天保二(1832)年に、阿野郡南の大庄屋が調停に乗り出し裁定を下します。
 結論からいえば、この裁定で造田氏の棟札特権は認められなくなります。棟札には「総氏子一同」と書かれるようになります。そして祭礼の時の桟敷も全廃されるのです。造田氏に認められたのは祭礼の儀式の上で一部分が認められるだけになります。「宗教施設や信仰を独占する有力貴族に対する平民の勝利」ということになるのでしょうか。結果的には、この裁定によって山熊神社は「造田氏の氏神」から中熊集落の「産土神」に「変身」を遂げたと言えるのかもしれません。
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どうして久保神社では、宮座的な特権が再確認されたのか?
 同じころ讃岐山脈の阿讃境に近い勝浦の落合神社でも、祭礼の時の桟敷が全廃されています。藩政時代の記録には、山間僻地の代名詞として、中熊集落の名がよく登場します。その中熊集落で、幕末の天保二年に祭礼の桟敷が全廃されているのに、岸上村久保神社では長百姓階層の間で、先例と古格を堅く守って伝えられてきた念仏踊の桟敷が同じ時期に、再協定されて維持されています。どうしてでしょうか?時代の流れに棹さす動きのようにも思えます。
 幕末天保年間になると、岸上村でも長百姓層の盛衰交替によって、踊役の株が譲渡されることが多くなります。引受手のない踊役の株は、公事役によって演じられる状態になっています。小間者層の間から念仏踊の桟敷撤廃の動きがあったことも考えられます。
  そこには岸上村の置かれた特殊事情があったのではないかと研究者は考えているようです。
   岸野上村・吉野村・七箇村は、池御料(天領)や金毘羅領に隣接しています。そのため条件のいい金比羅領や天領に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、末耕作地が多くなる傾向が続きました。そこで、高松藩としては他領や他郡村からこの地域へ百姓が移住することを歓迎した様子がうかがえます。建家料銀三百目(二一万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。
 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。
そういう意味では、ここは人口流動が他の地域に比べると大きかったようです。そのような中で、旧来からの有力者層と新しく入ってきた小間者層の間に秩序付けを行うための空間として神社の祭礼空間は最適なハレの場だったでしょう。移住者に権威を示し、長百姓層の優越した立場を目に見える形で住民に知らせるという、一つの宗教・社会政策の一環と考えられていたのかもしれません。それが、久保神社の桟敷床場の再協定だったのではないかと研究者は指摘します。
この祭礼時の桟敷席の変化バージョンが小豆島にあります。
sDSCN4999小豆島 池田の桟敷

初めてこれを見たときには「一体これはなあーに?」と考え込んでしまいました。
瀬戸内海の島に現れた野外劇場? ここで演劇が行われた? 
しかし「当たらずとも遠からず」。
芝居ではなくちょうさ(太鼓台)のかきくらべを見物する桟敷席なのです。
DSC_0486亀山八幡宮祭礼
小豆島池田のちょうさ桟敷
今でもここに薦掛け(現在はビニールシート)して、豪華なお弁当持参で一日中見物するのです。
youkame-semi (6-1)1811年に三木算柳によって描かれた亀山八幡宮祭礼
今から約200年前の小豆島池田の亀山八幡の祭礼 ちょうさが姿を見せています
ちょうさが大阪から瀬戸内海を通じてこの島に姿を現すのは18世紀後半です。そしてすぐに祭礼行列の主役になっていきます。ここには中世の宮座的な特権的な要素があまりありまっせん。氏子がみんなでお金を出し合い、みんなの力でちょうさを担ぐというスタイルは平等志向が強い祭礼行事です。これは当時の社会的な機運にマッチするものでした。新しい祭礼の主役であるちょうさの勇壮な姿を見るために氏子達は、その舞台を作りあげたのです。そして、それは建設資金を出した氏子達に平等に分割されました。その所有権は、後には売買の対象にもなります。
小豆島 池田の桟敷 3

もうひとつ、祭礼の主役として登場してくるのが獅子舞です。
獅子も近世の半ば以降に讃岐の祭礼に姿を現します。そして村の中の家格に関係なく参加することができました。念仏踊りの役割が宮座の系譜に連なる権利で、有力者の家柄でないと参加できなかったのとは対照的です。
  
時代の流れに棹さした組織・システムで運営された中世的な色合いが強かった念仏踊りは人々の支持を失い村々の神社で踊られることは少なくなっていきます。代わって讃岐の祭礼の主役となって現れるのがちょうさと獅子舞です。
現在時点での大まかな私の推論です。

参考文献
大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら 昭和63年