伊勢御師が天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部を見ています。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡の道者(檀那)氏名が一覧表で記されています。前回は、丸亀の中府→金倉→多度津→白方→山階と廻って、つぎのようにまとめました。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。
今回は、この続きを追いかけて行くことにします。テキストは前回に続いて、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。
「こんさうし(金倉寺)の内 おやこ三人家あり)」とあって、次に出てくるのは「小松の分」です。「小松の分」とは、小松郷(荘)のことで、現在の琴平町にあたります。つまり、善通寺エリアがすっぽりと抜け落ちています。これは、どうしてなのでしょうか? 善通寺エリアは熊野系の神社が多く、熊野行者の拠点であった気配があります。そのために伊勢御師が入り込めなかったということは考えられます。三豊でも秋山氏の菩提寺として建立された三野の本門寺周辺、あるいは中世に念仏聖たちの活動が活発だった弥谷寺には、道者たちはいませんでした。また阿波修験者の讃岐への進出拠点であった財田も空白地帯でした。ここには当時の宗教勢力の色分けが背景にあったとしておきます。
「小松の分」の道者は「長右衛門・太郎左衛門・同勘九郎」の3人のみで、彼らに姓はありません。
ここは九条家の荘園として、本庄・新荘が開かれた所です。 榎井の氏神とされる春日神社の社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿造営に関わった人達として次のような人々の名前が出てきます。
寛元2年(1244)新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、貞治元年(1362)新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建永禄12年(1569)石川将監が社殿を造営
ここからは、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者が、国人土豪層として戦国期に活動していたことが、残された感状などからも裏付けられます。しかし、彼らは伊勢御師とは、関わりをもっていなかったようで、リストに彼らの名前はありません。彼らは、三十番社を中心に、独自の祭礼と信仰を持っていたことは以前にお話ししました。
続いて「きし(岸)の上」には「かな(金)丸殿おや子三人いえ(家)あり」とあります。
岸の上の次には「てかこの分一えん(円)」とでてきます。
巡回順番から見ると「岸上 → てかこ → ほそ(帆の)山 → 福良見 → 春日 → 長尾」と続くので、「真野」かもしれません。道者人名には「次郎右衛門・次郎五郎殿・助兵衛殿 此外あまたあり」とあり、他の集落が家数が明記されていないのに、ここだけ「いえかず(家数)二十斗(ばかり)」とあります。この周辺の中心地域だったようです。しかし、真野が「てかこ」と呼ばれていたという見分はありません。お分かりになる方がいれば教えていただきたいと思います。
次に出てくるのが「ほそ山(帆山)」です。
ここからは、中世は帆山は「ほそ山」と呼ばれていたことがうかがえます。六郎左衛門に続いて、同じく六郎を冠する人名が並びます。そして彼らを「大きなる人也」(下の史料)と評します。これを、どう捉えればいいのでしょうか。帆山の「六郎集団」が経済的に大きな力を持っていた集団というのでしょうか。それなら、その経済基盤は何にあったのでしょうか。あるいは伊勢信仰心が強く、奉納額が多く、お札やお土産などを、多く渡した人達なのでしょうか。 以前に紹介した冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」には、伊勢御師が奉納額に従って、渡す札の大きさやお土産を選んでいたことが記されていました。渡すべき「伊勢お札」の大きさを示している可能性もあります。これも今の私にはよく分かりません
ここからは、中世は帆山は「ほそ山」と呼ばれていたことがうかがえます。六郎左衛門に続いて、同じく六郎を冠する人名が並びます。そして彼らを「大きなる人也」(下の史料)と評します。これを、どう捉えればいいのでしょうか。帆山の「六郎集団」が経済的に大きな力を持っていた集団というのでしょうか。それなら、その経済基盤は何にあったのでしょうか。あるいは伊勢信仰心が強く、奉納額が多く、お札やお土産などを、多く渡した人達なのでしょうか。 以前に紹介した冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」には、伊勢御師が奉納額に従って、渡す札の大きさやお土産を選んでいたことが記されていました。渡すべき「伊勢お札」の大きさを示している可能性もあります。これも今の私にはよく分かりません
続いて、帆山の東に隣接する「ふくあミ(福良見)」です。
ここには4人の道者が記されています。筆頭の「大谷川弥助」は、姓を持っています。そして、下段には福良見分の中に「かすか(春日)太郎五郎殿」の名が見えます。ここで気になるのが春日の奥の塩入や、財田川上流域の本目や新目は「かすみ(テリトリー)」には含まれていなかったようです。また、吉野も出てきません。
最後が「なこう(長尾)の内」のさう田(造田)殿おやこ(父子)です。
この表記を、どう理解すればいいのでしょうか
A 長尾エリア内に属する造田殿親子B 長尾エリアに転住してきている造田殿親子
16世紀初頭の細川政元暗殺に端を発する混乱は、細川氏内部の抗争を引き起こし、阿波の細川氏が讃岐に侵入して来る発端となります。その後、細川氏の配下の三好氏によって多くの讃岐武将は、その配下となります。丸亀平野南部の長尾氏もそうです。そのような中で天霧城の香川氏だけは、三好氏に帰属することを拒み続けます。そのため16世紀半ばには、丸亀平野では、天霧城の香川氏と西長尾城の長尾氏の間で軍事緊張が高まり、小競り合いが続きます。それは秋山文書などからもよみとれることを高瀬町史は指摘しています。この伊勢御師の檀那リストが作成されたのは、1551年のことです。まさに、このような軍事緊張の走る頃のものです。そこには、香川氏と長尾氏の対立関係が影を落としているように見えます。具体的には、三豊・那珂・多度郡に人名が挙がる檀那たちは、香川氏の勢力圏に多いような気がします。特に那珂・多度郡です。
どちらにしても、この時期には長尾から吉野にかけては、西長尾城主の長尾氏の勢力範囲にあったとされています。長尾氏自体も阿波の三好氏の配下に入って、天霧城の香川氏と対立抗争を繰り返していました。そのため長尾氏の配下の国人たちも山城を築いて、防備を固めていた時期です。そういうの中で、土器川の東岸にはこの伊勢御師は道者を確保することはできなかったことがうかがえます。
以上見てきた伊勢御師の檀那リストは、当時の実在した人々の名前と、その居住区が記されている一級資料です。今後の郷土の歴史を考える上で大きな意味があります。発見してくださった研究者に感謝します。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
どちらにしても、この時期には長尾から吉野にかけては、西長尾城主の長尾氏の勢力範囲にあったとされています。長尾氏自体も阿波の三好氏の配下に入って、天霧城の香川氏と対立抗争を繰り返していました。そのため長尾氏の配下の国人たちも山城を築いて、防備を固めていた時期です。そういうの中で、土器川の東岸にはこの伊勢御師は道者を確保することはできなかったことがうかがえます。
以上見てきた伊勢御師の檀那リストは、当時の実在した人々の名前と、その居住区が記されている一級資料です。今後の郷土の歴史を考える上で大きな意味があります。発見してくださった研究者に感謝します。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」
追記
横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきていたことが琴南町誌に記されています。
横畑は伊勢信仰が強く、訪れる伊勢太夫のために「伊勢家(おいせやはん)と呼ばれる宿舎がありました。その大きさは、二間+三間の平屋で、お伊勢さんが祀られていました。伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動をしました。そして伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになります。
伊勢太夫の中でも来田監物は、横畑との関係が深かったようで、農業用水や飲用水に困っている人々のために水源を開いています。「伊勢太夫が呼んだ泉」と言われるものが今も二か所残っているようです。
横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えられていました。文政以後は、来田監物の代理として佐伯佐十郎が村々を廻ったようで、宇足津の村松屋(都屋)伊兵衛が連絡所になっていました。集められた高松藩や丸亀藩の藩札は、ここで金に両替されて伊勢に持ち帰ったようです。
伊勢御師による檀家巡りについて琴南町誌363Pに、次のように記されています。
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしている。その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしている。その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。長谷坂 佐野甚平 (一宿)半坂 佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)下福家 古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)谷田 牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)所村 与平次 新谷村 牛田藤七
猪の鼻 磯平
渕野 次郎蔵
樫原 梅之助、藤八
明神 古川嘉太郎 中熊八百蔵
中熊 源次郎
川奥 西岡忠太郎 (一宿)美角 七兵衛
横畑 拾右衛門 (一宿)堀田 林兵衛
前の川 御世話人
横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えられていました。文政以後は、来田監物の代理として佐伯佐十郎が村々を廻ったようで、宇足津の村松屋(都屋)伊兵衛が連絡所になっていました。集められた高松藩や丸亀藩の藩札は、ここで金に両替されて伊勢に持ち帰ったようです。




















