瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町岸上

稲毛家文書は阿野郡南川東村(まんのう町川東)の庄屋役をつとめた稲毛家に伝えられた文書です。
その中に髙松藩が各庄屋に廻した次のような文書に出会いました。
那珂郡岸上村、七ケ村、吉野上村辺(五毛か)人家少なにて、自然と田地作り方行届不申、追々痩地に相成、地主難渋に成行、 指出田地に相成、 長々上の御厄介に相成、稲作に肥代も被下、追々地性立直り、御免米無恙(つつがなく)相育候様、作人共えも申渡候得共、元来前段の通人少の村方に付、他村他郡より右三ケ村の内ぇ引越、農業相励申度望の者も在之候得ば、建家料并飯料麦等別紙の通被下候間、望の者共右村方え罷越、 篤と地性等見分の上、村役人え掛合願出候得ば、御聞届被下候間、引越候上銘々出精次第にて、田地作り肥候得ば、其田地は可被下候。又最初より田地望も有之候得は、当時村支配の田も在之候間、其段村々え可申渡候。
但、引越願出候共、人振能々相調、 作方不出精の者に候はば、御聞届無之候間、左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 建築料
一、家内人数壱人に付大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年二月               元〆
大庄屋宛
  意訳変換しておくと
もともと那珂郡の岸上村、七ケ村、吉野上村(五毛)は人家が少く、そのため田地の管理が行届ず、痩地になっている。これには地主も難渋し「指出田地」になって、お上の御厄介になっている所もある。肥料代があれば、やせ地も改善し御免米も無恙(つつがなく)育つようになる。
 そこで、他村他郡からこの三ケ村の(岸上村、七ケ村、吉野上村)へ移住して、農業に取り組もうとする者がいれば、建家や一時的な食料を別紙の通り下賜することになった。移住希望者がいれば、人物と土地等を見分して、村役人へ届け出て協議の上で定住を許可する。また、移住後にその意欲や耕作成績が良ければ、その田地を払い下げること。また最初から田地取得を望むものは、村支配となっている田があるはずなので、そのことを各村に伝えて協議すること。ただし、移住願が出されても、その人振や能力、出来・不向きなどをみて、耕作能力に問題があるようであれば、除外すること。左様相心得可申候。
別紙
一、銀三百目 (住居)建築費
一、家内の人数1人について、大麦五升ずつ。
右の通被下候。
天保十年(1839)2月               元締め
大庄屋宛
ここからは次のようなことが分かります。
①天保10(1839)年2月に髙松藩から各大庄屋に出された文書であること
②内容は金毘羅領や天領に隣接する岸上村・七ケ村・吉野村では、耕作放棄地が出て対応に困っていたこと
③そこで奨励金付で、この三村への移住者募集を大庄屋を通じて、庄屋たちに伝えたこと
 平たく言うと、奨励金付で天領に隣接村への移住者の募集を行っていたことになります。
最初にこれを見たときには、私は次のような疑問を持ちました。江戸時代は人口過剰状態で、慢性的な土地不足ではなかったのか、それがどうして藩が入植者を募集するのか? また、その地が「辺境地」でなくて、どうして天領周辺の地なのかということです。

満濃池 讃岐国絵図

移住奨励地となっている「岸上村、七ケ村、吉野上村」の位置を確認しておきます。岸の上村は、金倉川左岸で丘陵地帯です。七ケ村は旧仲南町の一部にあたるエリアです。吉野上村は土器川左岸ですが、ここでは満濃池の奥の五毛のことを云っているのかもしれません。

満濃池水掛かり図
満濃池用水分水表 朱が髙松藩・黄色が天領・赤が金毘羅領・草色が丸亀藩
この3ケ村には「特殊事情」があったと研究者は考えています。
ヒントは3ケ村が上図の黄色の池御料(天領の五条・榎井・苗田)や赤の金毘羅領に隣接していていたことです。そのため19世紀になると、周辺地から天領や金比羅町に逃散する小百姓が絶えなかったようです。その結果、耕す者がいなくなって末耕作地が多くなる状態が起きたというのです。その窮余の策として、高松藩は百姓移住奨励策を実施したようです。
 建家料銀三百目(21万円)と食料一人大麦五升を与える条件で、広く百姓を募集しています。現在の「○○町で家を建てれば○○万円の補助がもらえます」という人口流出を食い止める政策と似たものがあって微笑ましくなってきたりもします。 この結果、岸上村周辺には相当数の百姓が移住したきたようです。ここで押さえておきたいのは、周辺の村々から金毘羅領や天領への人口流出がおきていたということです。
 金毘羅領や天領は、丸亀藩や髙松藩の行政権や警察権が及ばないところです。
そして、代官所は海を越えた倉敷にあります。その結果、よく言えば幕府の目も届きにくく自由な空気がありました。悪く言えば、無法地帯化の傾向もありました。そんな風土の中から尊皇の志士を匿う日柳燕石なども現れます。尊皇の志士を匿ったのが無法者の博徒の親分というのが、いかにも金毘羅らしいと私には思えます。「中世西洋の都市は、農奴を自由にする」と云われましたが、金毘羅も自由都市として、様々な人々を受入続けていた気配を感じます。これを史料的にもう少し裏付けていこうと思います。
  近世の寺社参りは参拝と精進落としがセットでした。
伊勢も金毘羅もお参りの後には、盛大に精進落としをやっていることは以前にお話ししました。その舞台となったのが、金山寺町です。
金山寺夜景の図 客引き
「金山寺町夜景之図」(讃岐国名勝図会) 遊女による客引きが描かれている

この町の夜の賑わいは「讃岐国名勝図絵」に「金山寺町夜景之図」として描かれています。この絵からは、内町の南一帯につながる歓楽街として金山寺町が栄えたことがよく分かります。一方で、金山寺町には外から流入して借家くらしをしていた人達がいたようです。

幕末の金毘羅門前町略図
           19世紀の金毘羅門前町 金山寺町は芝居小屋周辺
内町・芝居小屋 讃岐国名勝図会
内町の裏通りが金山寺町 そこに芝居小屋が見える (讃岐国名勝図会)

「多聞院日記(正徳5(1715)五来年之部)」には、次のように記されています。
十月三日
金山寺町さつ、山下多兵衛殿借家二罷在候家ヲふさぎ借家かリヲも置不申、段々我儘之事
廿九日
一金山寺町山下太兵衛借家二さつと申女、当春火事己後も焼跡二小屋かけいたし居申候二付、太兵衛普請被致候二付、出中様二と申候得共、さつ小屋出不申由、依之町年寄より急度申付小屋くづし右家普請成就し今又さつ親子三人行宅へはいり借家かりをも置不申、我儘計申由、町年寄呼寄候へ共不来と申、権右衛門多聞院宅出右之入割先町家ヲ出候様二被成被下候と申、段々相談之上さつ呼寄しかり家ヲ出申候
意訳変換しておくと
十月三日
一金山寺町のさつは、山下多兵衛の借家に住んでいるが借家代も支払わず、段々と我儘なことをするようになっている
10月29日
金山寺町・山下太兵衛の借家のさつという女は、この春の大火後も焼跡に小屋がけして生活していた。太兵衛が新たに普請するので立ち退くように伝えたが、さつは小屋を出ようとしない。そこで町年寄たちは、急遽に小屋を取り壊し、普請を行った。さつ親子三人は新たに借家借りようともしないので、町年寄が呼んで言い聞かせた。そして、権右衛門多聞院宅の近くに町家を借りて出ていくことになった。いろいろと相談の上でさつを呼んで言い聞かせ家を出させた

ここでは、火事跡に小屋掛けして住んでいた借家人さつと家主のトラブルが記されています。さつは、「親子3人暮らし」のようです。若い頃に遊女か奉公人として務め、その後は金山寺町で借家暮らしをしていたと想像しておきます。もう少し詳しく金山寺町の住人達のことを知ることができる情報源があります。それはこの町の宗旨人別帳です。それを一覧表化したものが「町史ことひら 近世156P 金山寺町の人々」に載せられています。
金毘羅金山寺町借家人数と宗派別
金毘羅金山寺町の宗派別借家人数

上の表は明治2年(1869)の「金山寺町借家人別宗門御改下帳」より借家人の竃(かまど=世帯)数と人数を示したものです。ここからは、次のような情報が読み取れます。
①竃数(檀家数)59戸、154人が借家人として生活していたこと
②借家数59に対し、檀那寺が40寺多いこと
③男性よりも女性が多いこと
④3年後の史料には、金山寺町の全戸数は137軒、人口296人とあるので、竃数で43%、人数で約40%が借家暮らしだったこと
上の④の「金山寺町の住人の4割は借家暮らし」+②「借家数59に対し、檀那寺40」という情報からは、借家人の多くが他所から移り住んできた人達であったのではないかという推測ができます。つまり、金毘羅への人口流入性が高かったことがうかがえます。

  下表は、人別帳に記載された金山寺町全体の職業構成を示したものです。

金毘羅金山寺町職業構成

一番上に「商人 78人」と記されていますが、その具体的商売は分かりません。この中に茶屋(37軒)なども含まれていたはずです。上段の商人欄をみると、紺屋・按摩・米屋・麦屋・豆腐屋と食料品を中心に生活用品を扱う商人がいます。その中には、商人日雇い7人がいることを押さえておきます。
 職人欄を見ると、諸職人手伝11名を初め、大工8名の外、樽屋・髪結・佐宮・油氏などのさまざまな職人がいます。そして、ここにも「日雇16人」とあります。商人欄の「日雇7人」と合わせると23人(約17%)が「日雇生活者」であったことになります。ここからは、周囲の村々から流れ込んできた人々が、日雇いなどで日銭を稼ぎながら、借家人として金山寺町で生活している姿が見えてきます。この時期は、金毘羅大権現の金堂(旭社)の工事が進んでいて、好景気に沸く時期だったようです。「大工職人8・左官2人」なども、全国を渡り歩く職人だったかもしれません。
また、天保5(1835)年3月23日の「多聞院日記」には、次のように記します。

「筑後久留米之醤師上瀧完治と申者、昨三月当所へ参り、治療罷有候所、当所御醤師丿追立之義願出御無用無之候所、右家内妹等尋参り、然ル所完治好色者酌取女馴染、少々之薬札等・而取つづきかたく様子追立候事」
 
意訳変換しておくと
「筑後久留米の医師上瀧完治と申す者が、昨年の三月に金毘羅にやってきて、治療などをおこなっていた。これに対して当所の御醤師から追放の願出が出されたが放置してしておいた所、右家内の妹と懇意になったり、酌取女と馴染みになり、薬札などを与えたりするので追放した」

  ここからは筑後久留米の医師が金毘羅にやってきて長逗留して治療活動を始めて、遊女と馴染みになり、問題を起こしたので追放したことが記されています。職人や廻国の修験者以外にも、医師などもやってきています。流亡者となったものにとっては、「自由都市 金毘羅」は入り込みやすい所だったとしておきます。

次表は、宗旨人別帳に記載された金山寺町の一家の家族数を示したものです。

金毘羅金山寺町家族人数別軒数

ここからは次のような情報が読み取れます。
①独居住まいが約2割、2人住まいが約3割、4人までの小家族が約8割を占める。
②宗派割合は、一向宗(真宗) → 真言 → 法華 → 天台 → 禅宗 → 天台の順
③一向宗(真宗)と真言の比率は、讃岐全体とおなじ程度である。
①からは、家族数が少ない核家族的な構成で、町場の特徴が現れています。ここにも外部からの流入者が一人暮らしや、夫婦となって二人暮らしで生活していたことがうかがえます。
19世紀前半の天保期の金毘羅門前町の発展を促したものに、金山寺町の芝居定小屋建設があります。

金山寺町火災図 天保9年3
19世紀初めの金山寺町 芝居小屋や富くじ小屋周辺図 細長い長屋も見える ●は茶屋

この芝居小屋は富くじの開札場も兼ね備えていました。「茶屋 + 富くじ + 芝居」といった三大遊所が揃った金山寺町は、ますます賑わうようになります。かつて市が開かれたときに小屋掛けされていた野原には、家並みが建ち並び歓楽街へと成長して行ったのです。こうした中で、金光院当局は次のように「遊女への寛大化政策」へと舵をとります。
天保4年(1833)2月には、まだ仮小屋であった芝居小屋で、酌取女が舞の稽古することを許可
天保5年(1834)8月13日の「多聞院日記」に「平日共徘徊修芳・粧ひ候様申附候」とあり、平日でも酌取女が化粧して町場徘徊を許可
これが周辺の村々との葛藤を引き起こすことになります。
天保5(1834)8月14日の「多聞院日記」は次のように記します。
「今夕内町森や喜太郎方へ、榎井村吉田や万蔵乱入いたし、段々徒党も有之、諸道具打わり外去り申候、元来酌取女大和や小千代と申者一条也」

意訳変換しておくと

「今夕に内町の森屋喜太郎方へ、榎井村吉田屋万蔵が乱入してきた。徒党を組んで、諸道具を打壊し退去したという。酌取女の大和屋の小千代と申と懇意のものである」
 
このように近隣の村や延宝からやってきた者が、金毘羅の酌取女とのトラブルに巻き込まれるケースも少なくなかったようでです。

金毘羅遊女の変遷

天保13年(1842)には天領三ヶ村を中心とした騒動が、多聞院日記に次のように記されています。
御料所の若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多いので御料一統連印で倉敷代官所へ訴え出るという動きが出てきた。慌てた金光院側が榎井村の庄屋長谷川喜平次のもとへ相談に赴き、結局、長谷川の機転のよさで「もし御料の者が訴え出ても取り上げないよう倉敷代官所へ前もって願い出、代官所の協力も得る。」ということで合意した、

  その時に長谷川喜平次は金毘羅町方手代にむかって次のように云っています。

「御社領繁栄付御流ヲ汲、当料茂自然と賑ひ罷有候義付、一同彼是申とも心聊別心無之趣と。、御料所一統之所、精々被押可申心得」

意訳変換しておくと

「御社領(門前町)が(遊女)によって繁栄しているのが今の現状です。それが回り回って周辺の自分たちにも利益を及ぼしているのです。そのことを一同にも言い聞かせて、何とか騒ぐ連中をなだめてみましょう。

「御料所一統之所、精々被押可申心得」というところに長谷川喜平次など近隣村々の上層部の本音が見えてきます。この騒動の後、御料所と金毘羅双方で、不法不実がましいことをしない、仕掛けないという請書連判を交換して、騒動は決着をみています。
注目しておきたいのは、この騒動が周辺農民からの「若者共が金毘羅に出向いて遊女に迷い、身持ちをくずす者が多い」という村人の現状認識から起きていることです。「金毘羅の金堂新築 + 周辺の石造物設置 + 讃岐精糖の隆盛」は幕末のバブル経済につながっていく動きを加速させます。そのような中で、金毘羅は歓楽の町としても周辺からの人々を呼び寄せる引力を強めます。その結果、周辺部の村々だけでなく人口流入が加速化したことが考えられます。それが髙松藩の岸の上・七ヶ村への移住者募集につながっているとしておきます。

周辺の丸亀藩や高松藩から金毘羅寺領に、百姓たちが流れ込んでいたことを見てきました。それは「逃散」なのでしょうか、それとも正式な「移住」なのでしょうか。枝茂川家文書「天保三年枝茂川杢之助日記」(町史ことひら 近世237P)を見ておきましょう。

送り手形之事
一 三人             庄五郎  歳四拾
女房    歳三拾
男子卯之助歳七
右の者、今般金毘羅御社領御地方二而借宅住居仕り度き段、願出候二付、聞届け、此方宗門帳差除き候間、自今已後、其御領宗門御帳面へ御書加え、御支配成らるべく候、且又宗旨之儀は代々一向宗二而多度郡弘田村円通寺旦那二而紛れ御座なく候、尤当村に於いて、己来何の故障も御座なく候、送り手形依而如の件し
天保三年壬辰十一月
多度郡善通寺村
組頭 孫太夫
金毘羅御社領百姓組頭
治助殿
治兵衛殿
次郎助殿
意訳変換しておくと
送り手形之事
以下の三人  庄五郎(40歳)・女房(30歳)・男子卯之助(7歳)について、このほど金毘羅寺領地方(町場)に、借宅を借りて生活を始めたことについて願出があった。ついては、こちらの宗門改帳から除き、今後は、そちらの金毘羅寺領の宗門帳面へ書き加えて、支配していただきたい。なお宗旨は、代々一向宗で多度郡弘田村の円通寺の門徒である。また当村では、何の問題もなかったことは送り手形の通りである。
天保三(1832)年壬辰十一月
多度郡善通寺村
組頭 孫太夫
金毘羅御社領百姓組頭
治助殿
治兵衛殿
次郎助殿
ここからは天保三(1832)年に、丸亀藩領善通寺村の百姓庄五郎一家が金毘羅寺領に転入したことが分かります。その事務処理は、通常の宗旨送り手形で手続きが行われています。「其御領宗門御帳面へ御書加え」とあるので、善通寺村の宗門帳から金毘羅寺領の宗門帳へ変更記入を求めています。これは、その他の場合と変わりないようです。このように丸亀藩から金毘羅社領地方への転入は一般的な手続きで手続きが完了したことが分かります。
それでは百姓の町方への転入、百姓身分からの離脱は可能だったのでしょうか。
  送り手形一札之事
一 弐人         口嘉   歳三拾五
    女子そね 歳拾七
右之者今般勝手二付、御町方二而借宅仕り度き段、願出で候二付、聞届け、此の方宗門帳面差除き候間、自今已後、御帳面二御差加え、御支配成らるべく候、尚又宗旨之儀は、代々当所普門院旦那二而紛れ御座なく候、送り手形働て如の件し
             百姓組頭(治) 次助印
天保四(1833)年巳十二月
高藪組頭勘助殿
(枝茂川家文書「天保三~六年枝茂川杢之助日記」)
ここでも通常の移住手続きで処理されています。気になるのは金毘羅寺領(町方)への移住に伴い、百姓身分が変更されたかどうかです。これについて研究者は、文書中の「御支配成らるべく候」が手がかりになると考えています。これが地方(百姓)組頭の支配を離れ、町方支配になることを意味する文言だ云うのです。

金陵金山寺町宗門人別御改下帳

「金陵金山寺町宗門人別御改下帳」には、町場金山寺町内住人の中には、百姓身分であることをうかがわせる肩書きや注記の施されたものはありません。また、この書にの中の「町年寄系譜」には、次のように記します。
浪人与申す義、心得違いニ候、已前ハ少々浪人もこれ有り候而、其の節は宗門帳ニも浪人帳与申し候而これ有り。皆其の義ハ、町人二而、町方町人帳二以前より今に相認め候、勿論皆々屋号を付キ商売方第一仕り候間、外々二而も評判これ有る通、町人ニハ紛れこれ無く候

意訳変換しておくと

浪人とするのは、心得違です。以前は少々の浪人がいて、宗門帳にも浪人帳に浪人と書くこともありました。しかし、今は町人として町人帳に記すようになっています。もちろん皆々が屋号を持ち商売を第一としていて、外部からも評判もありますので、町人に間違うことはありません。

ここには町場の宗門帳には、町人用しかなく、そこに記載されれば町人として認められたことが記されています。金光院が認めた場合には、金毘羅寺領への転入者の場合、身分も百姓から離脱し、町人化した可能性があると研究者は考えています。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

新編 香川叢書 全六巻揃(香川県教育委員会編) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋
香川叢書(昭和14年発行 昭和47年復刻)

私が師匠からいただいた本の中に「香川叢書」があります。久しぶりにながめていると「真福寺由家記」が1巻に載せられていました。それを読んでの報告記を載せておきます。
 香川叢叢書1巻18Pには、真福寺由末記の解題が次のように記されています。
仲多度郡紳野村大学岸上の浄土宗真福寺は、法然上人の配流地那珂郡小松庄での止住遺蹟と伝ふる所謂小松三福寺(四条村清福寺・高篠村生福寺)の一で、もとは同郡四條村にあつたが、寛永二年高篠村に移轄再興され、更に寛文二年藩主松手頼重が復興を計らせた。この記はその復興の成りしを喜び、寛文三(1663)年正月、松平頼重自ら筆執つて書いた由来記である。(同寺蔵)

高松藩藩祖の松平頼重自身の筆による由来記のようです。読んでみましょう。

讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)之遺跡、念佛弘通之道場也。蓋上人念佛興降之御、承元丁卯仲春、南北之強訴により、月輪禅定之厚意にまかせて、暫営寺に棲遅し、源信自から作る本尊を安置して、六時に礼讃ス。直に専念を行すれは、群萌随て化し、唯名字を和すれは、往生日こに昌なり。道俗雲のとくに馳、英虜星のごとくに集まる。而后、皇恩勅許之旨を奉し、阪洛促装,の節に及て、弟子門人相謂曰く。上人吸洛したまわは、誰をか師とし、誰をか範とせん。洪嘆拠に銘し、哀馨骨に徹す。依之上人手つから、諸佛中之尊像を割ミ、併せて極難値遇の自影をけつり、古云く、掬水月在手、心は月のこく、像は水のとしし誰か迄真性那の像にありと云はさらんや。而華より両の像を当寺に残して、浄土の風化盆揚々たり。中葉に及て、遺雌殆頽破す。反宇爰にやふれ、毀垣倒にたつ。余当国の守として、彼地我禾邑に属す。爰に霊場の廃せんとすると欺て、必葛の廣誉、あまねく檀越の信をたヽき、再梵堂宇を営す。予も亦侍臣に命して、三尊の霊像を作りて以寄附す。空師の徳化、ふたヽひ煕々と然たり。教道風のとくにおこり。黎庶草のとくにす。滋に法流を無窮に伝ん事を好んして、由来の縁を記す。乃ち而親く毫を揮て、以て霊窟に蔵む。維時寛文三歳次癸卯初春下旬謹苦。
     
  意訳変換しておくと
讚州那珂郡高篠村の真福寺は、源空上人(法然)の旧蹟で、念佛道場である。承元丁(1207)年卯仲春、南北之強訴により流刑となり、月輪禅定(九条良経)の荘園・小松荘にある当寺で、生活することになった。法然は自から彫った本尊を安置して、一日六回の礼讃を、専念して行っていると、高名を慕って多くの人々が集まってきて、名号を和するようになった。みるみるうちにいろいろな階層の人々が雲がたなびくように集まってきた。
 その後に、勅許で畿内へ帰ることを許さたときには、弟子門人が云うには「上人が京に帰ってしまわれたら、誰を師とし、誰を範としたらよいのでしょうか。」と嘆き悲しんだ。そこで上人は、自らの手で尊像を彫り、併せて自影を削った。古くから「掬水月在手、心は月のごとく、像は水のごとし 誰か迄真性那の像にあり」と云われている。このふたつの像を残して、法然は去られた。
 しかし、その後に法然の旧蹟は荒廃・退転してしまった。私は、讃岐の国守となり、この旧蹟も私の領地に属することになった。法然の霊場が荒廃しているのを嘆き、信仰心を持って、檀家としての責任として堂宇を再興することにした。家臣に命して、三尊の霊像を作りて、寄附する。法然の徳化が、再び蘇り、教道が風のごとくふき、庶民が草のごとくなびき出す。ここに法然の法流を無窮に伝えるために、由来の縁を記す。毫を揮て、以て霊窟に収める。
 寛文三(1663)年 癸卯初春下旬 謹苦。
内容を整理しておくと次のようになります
①那珂(仲)郡高篠村の真福寺は法然の讃岐流刑の旧蹟で、念佛道場で聖地でもあった。
②法然は、この地を去るときに、阿弥陀仏と自像のふたつの像を残した。
③松平頼重は、退転していた真福寺を再興し、三尊を安置し、その由来文書を収めた。
真福寺1
真福寺(まんのう町岸上 法然上人御旧跡とある)
少し補足をしないと筋書きが見えて来ません。
①については、残された史料には、小松荘で法然は生福寺(しょうふくじ)(現在の西念寺)に居住し、仏像を造ったり、布教に努めたといいます。当時、周辺には、生福寺のほか真福寺と清福寺の三か寺あって、これらの寺を法然はサテライトとして使用した、そのため総称して三福寺と呼んだと伝えられます。真福寺が拠点ではなかったようです。
小松郷生福寺2
 生福寺本堂で説法する法然(法然上人絵伝)

法然が居住した生福寺は、現在の正念寺跡とすれば、真福寺は、どこにあったのでしょうか?
満濃町史には「空海開基で荒れていたのを、法然が念仏道場として再建」とあります。真福寺が最初にあったとされるのはまんのう町大字四條の天皇地区にある「真福寺森」です。ここについては以前にお話したので省略します。
真福寺森から見た象頭山
四条の真福寺森から眺めた象頭山

松平頼重による真福寺の復興は、仏生山法然寺創建とリンクしているようです。
 法然寺建造の経緯は、「仏生山法然寺条目」の中の知恩院宮尊光法親王筆に次のように記されています。
 元祖法然上人、建永之比、讃岐の国へ左遷の時、暫く(生福寺)に在住ありて、念仏三昧の道場たりといへども、乱国になりて、其の旧跡退転し、僅かの草庵に上人安置の本尊ならひに自作の仏像、真影等はかり相残れり。しかるを四位少将源頼重朝臣、寛永年中に当国の刺吏として入部ありて後、絶たるあとを興して、此の山霊地たるによって、其のしるしを移し、仏閣僧房を造営し、新開を以て寺領に寄附せらる。

意訳すると
①浄土宗の開祖法然が、建永元年に法難を受けて土佐国へ配流されることになった。
②途中の讃岐国で。九条家の保護を受けて小松庄の生福寺でしばらく滞在した。
④その後戦乱によって衰退し、草庵だけになって法然上人の安置した本尊と法然上人自作の仏像・真影だけが残っていた。
⑤それを源頼重(松平頼重)が高松藩主としてやってくると、法然上人の旧跡を興して仏生山へ移し、仏閣僧房を造営して新開の田地を寺領にして寄進した

 ここには頼重が、まんのう町にあった生福寺を仏生山へ移した経緯が記されています。これだけなら仏生山法然寺創建と真福寺は、なにも関わりがないように思えます。
ところが話がややこしくなるのですが、退転していた真福寺は、松平頼重以前の生駒時代に再建されているのです。
もう少し詳しく見ておくと、生駒家重臣の尾池玄蕃が、真福寺が絶えるのを憂えて、岸上・真野・七箇などの九か村に勧進して堂宇再興を発願しています。その真福寺の再建場所が生福寺跡だったのです。生駒家の時代に真福寺は現在の西念寺のある場所に再建されたことを押さえておきます。
 その後、生駒騒動で檀家となった生駒家家臣団がいなくなると、再建された真福寺は急速に退転します。このような真福寺に目を付けたのが、高松藩主の松平頼重ということになります。
頼重は、菩提寺である法然寺創建にとりかかていました。その創建のための条件は、次のようなものでした。
①高松藩で一番ランクの高い寺院を創建し、藩内の寺院の上に君臨する寺とすること
②水戸藩は浄土宗信仰なので、浄土宗の寺院で聖地となるような寺院であること
③場所は、仏生山で高松城の南方の出城的な性格とすること
④幕府は1644年に新しく寺院を建てることを制限するなどの布令を出していたので、旧寺院の復活という形をとる必要があったこと。

こうして、法然ゆかりの聖地にあった寺として、生福寺は仏生山に形だけ移されることになります。そして、実質的には藩主の菩提寺「仏生山法然寺」として「創建」されたのです。その由緒は法然流刑地にあった寺として、浄土宗門徒からは聖地としてあがめられることになります。江戸時代後半には、多くの信徒が全国から巡礼にやって来ていたことは以前にお話ししました。いまでも、西念寺(まんのう町羽間)には、全国からの信者がお参りにやって来る姿が見えます。

真福寺3

真福寺(讃岐国名勝図会)
 その後、松平頼重は真福寺をまんのう町内で再興します。
それが現在地の岸の上の岡の上になります。その姿については、以前にお話ししたのでここでは触れません。真福寺再建完了時に、松平頼重自らが揮毫した由来記がこの文章になるようです。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
真福寺由来記 香川叢書第1巻 446P

 まんのう町岸の上 寺山
岸上村(まんのう町 金倉川流域)
19世紀中頃の江戸時代後半に那珂郡岸上村(まんのう町)の庄屋だった奈良亮助は、几帳面な性格でいくつもの文書を残しています。 奈良亮助は、伯父の奈良松荘のもとで和漢の学を学んでします。伯父奈良松荘(1786ー1862)は、国学者で詩文を備後の菅茶山に学び、頼山陽と並び称せられと云います。郷里に帰り、金刀比羅の日柳燕石や三井雪航などに感化を与え、晩年は岸上村の奈良家に寄寓していました。その時に、奈良亮助はその教えを受けたようです。残された文書の中に「滝宮念仏踊行事取遺留」と題されたものがあります。
一番上には、「念仏踊の事」という記録が綴り込まれていて、次のような内容が記されています。
①滝宮念仏踊が法然上人によって、念仏布教の方法として採り上げられて発達したこと
②享保年中の滝宮での御神酒樽受取の前後争いに端を発して、念仏踊が中止になったこと
③元文四年六月晦日に雹が降って農作物が大被害を受けたこと
④この被害は滝宮への念仏踊りを行っていないことへの天罰との噂が拡がったこと
⑤そこで、寛保二壬戌年から七か村念仏踊が復活したこと
以上が、簡潔な筆致で記されています。
 この記録に続いて、文政九(1826)年から安政6(1859)年までの約30年間に、13回実施された七箇村組念仏踊のことが岸上村の庄屋記録に綴りこまれています。今回は、奈良亮助の残した文書を見ていくことにします。テキストは「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について ことひら1988年」です。
 
龍燈院・滝宮神社
滝宮牛頭権現(滝宮神社)と別当寺の龍燈院

前回にお話ししたように、初代高松藩主松平頼重が復活させた滝宮念仏踊りに、参加したのは4郡の4つの踊組でした。踊組の間には異常なほどの対抗心があって、いろいろな事件や騒動を起こしています。
 例えば、正保二(1645)年の時には、演じる場所・順番をめぐって、七箇村組の岸上村の久保の宮・神職が長刀で、北条組の小踊二人を切り殺すという事件があったことは前回お話ししました。このため北条組は、その後は48人の抜刀隊を編成して警固するようにしたとも伝えられます。また、七箇村組とは踊る年を変えて鉢合わせしないようにもしています。踊りはこのようなぴりぴりとした緊張感の中で奉納されていたようです。
滝宮念仏踊り
滝宮念仏踊り
 念仏踊りが復活した当初は、七箇村組は二組編成だったようです
1790年(寛政二)年の編成表を見ると、
①主役を勤める下知 真野村と佐文村からそれぞれ各一人、
②6人1組で子供が踊役を勤める小踊 西七箇村から一人、吉野上下村から三人、小松庄四ヶ村から二人の計六人、それと、佐文村単独で六人
③笛吹が岸上村と佐文村から一人宛、
④太鼓打が西七箇村と佐文村から一人宛、
⑤鼓打が小松庄四ヶ村と佐文村から二人宛、
⑥長刀振が真野村と佐文村から一人宛、
⑦棒振も吉野上下村と佐文村から一人宛、
⑧棒突は西七箇村四人、岸上村三人、小松庄四ヶ村三人の計10人に対して、佐文村は単独で10人
ここからは次のようなことが分かります。
A七箇村組には、次の東組と西組の二組があったこと。
東組 真野・吉野郷(高松藩領) 郷社 真野の諏訪大明神(諏訪神社)
西組 小松郷と西七箇村(池御領と丸亀藩)    郷社 五条村 大井八幡社
B 東組は高松藩の村々、西組は池御領(天領)と丸亀藩の村々から編成され、藩を超えた編成になっていたこと
C その中で、西組は佐文中心に編成されていたこと。ちなみに佐文は、ユネスコ登録になった綾子踊りの里でもあります。
七箇村組の編成からは、もともとはこの踊りが中世の郷社に奉納されていた風流踊りだったことがうかがえます。

まんのう町の郷
滝宮念仏踊り 那珂郡七箇村組(真野・吉野・小松郷)
那珂郡七箇村組をめぐる事件や問題を年表化しておきます。
享保年間(1716~36)龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番をめぐって、東西費が領組が騒動
1736(元文元)年 念仏踊は中止され、七箇村組は解体状態へ。
1739(元文四)年 6月の雹(ひょう)という異常気象で農作物被害甚大。念仏踊り中止のせいだとの声が拡がる
1742(寛保二)年 龍灯院の住職快巌の斡旋で、滝宮念仏踊への参加復活
1790(寛政二)年 東西二組の編成で、奉納が続く。
1808(文化五)年 「下知一人」となり東西2組編成から一組編成へ縮小
次に年表内容を、詳しく見ていくことにします。
享保年間(1716~36)の争いの原因は、滝宮牛頭天皇社(現滝宮神社)への踊奉納の時に、別当寺の龍灯院から七箇村組に贈られる御神酒樽の受取順番です。踊りが終わった後に、どちらが先に御神酒樽を受け取るかをめぐる争いです。当時は樽はひとつしか準備されていなかったようです。おやつをもらう順番をめぐる子供の喧嘩のようにも思えます。しかし、背後には、高松藩・丸亀藩・池御料(天領)の三者の対立感情があります。天領の踊り手や役員達はプライドが高く、何かと周辺の住人達を見下すことがあったようです。東組には、高松藩(親藩)の住人ということで、外様の丸亀藩の西組の踊り手たちを見下します。こういう意識構造が、このようなハレの舞台で吹き出します。この結果、元文元年(1736)年以後は、七箇村組の踊りは中止に追い込まれてしまいます。
 3年後の1739(元文四)年の6月晦日に、季節外れの雹(ひょう)が降って東西七箇村・真野村・岸上村は稲・棉などの農作物が大被害を蒙ります。
「これは滝宮念仏踊を中止したための神罰である」という声が起こって念仏踊復活の気運が高まります。そして、滝宮牛頭権現(滝宮神社)の別当寺龍灯院の住職快巌の斡旋で、1742(寛保二)年から滝宮念仏踊への参加が復活します。龍灯院は対応策として、踊奉納を終えた七箇村東西組に対して、御神酒樽を二個用意してそれぞれの組に贈り、紛争の再発を避けていています。事件事故に学んで、新たな対応策が出されています。しかし、二組の編成は対立感情による紛争の起こる危険を常に含んでいました。復活後は、東西二組編成で1790(寛政二)年まで続いたことが史料から確認できます。

まんのう・琴平町エリア 讃岐国絵図
念仏踊七箇村組の村々

 ところが1808(文化五)年には、1組で出演していることが史資料から分かります。この年の7月24日書かれた真野村・庄屋安藤伊左衛門の「滝宮念仏踊行事取扱留」滝宮大明神(神社)の別当寺龍燈院宛の報告には、この年の七箇村組の行列は、次のように記されています。
「下知一人、笛吹一人、太鼓打一人、小踊六人、長刀振一人、棒振一人」

「下知一人、笛吹一人」ということは、一編成になったことを示すものです。「取遣留」の1808年7月25日の記事にも、龍灯院からの御神酒樽については、龍灯院の使者が、「御神酒樽壱つを踊り場東西の役人(村役人)の真中へ東向きに出し……」、口上を述べ終わると、御神酒樽は踊り場である神社から龍灯院が預かって直ちに持ち帰っています。そして、牛頭天皇社での踊りが終わってから、踊組一同を龍燈院の書院に招待して御神酒を振る舞っています。ここでも酒樽は1つしか準備されていません。1808年の時点で、七箇村組は一編成の踊組として、龍灯院から待遇されるようになっています。
   ここからは1790(寛政二)年から1808(文化五)年までの間に、七箇村組のなかで大きな問題が起こったことがうかがえます。また、一番踊り手構成メンバーが削減されているのが佐文村です。佐文は西組の中心だったことは、先ほど見たとおりです。それが棒付10名に減らされているのです。七箇村組が二編成から一編成に縮小された背景には、佐文をめぐる問題があったことがうかがえます。19世紀初頭には、それまで東西2組で運営されていた七箇村組は一組となってしまったようです。
以上を整理しておきます。
①中世に小松・真野・吉野郷では、風流踊りが郷社に奉納されていた
②それは地域の村々の有力者による宮座で組織されていたが、戦国時代に中断していた
③それを初代高松藩主松平頼重が地域興しイヴェントとして復活した
④その時に参加したのは、4つの郡の郷社に奉納されいた風流踊りであった
⑤4つの踊組は対抗心が強く、いろいろな事件や騒動を引き起こした
⑥那珂郡七箇村組も、当初は東西2組編成であったが、18世紀初頭には、1組に「縮小」している。これも内部での騒動か事件があったことが考えられる。
こうして、19世紀になると軌道に乗り、3年毎に安定して踊り奉納は行われるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
        「大林英雄 滝宮念仏踊り七箇村組について  ことひら1988年」
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まんのう町 光明寺

中世のまんのう町岸上(きしのうえ)には、中世に光明寺というお寺があったようです。しかし、このお寺については、金毘羅大権現の多門院に伝わる『古老伝旧記』に次のように出てくるだけでした。
                          
一、岸上光明寺之事
右高松御領往古焼失堂寺も無之、龍雲院様御代当山へ御預け被成、当地より下川師と申山伏番に被遣、其跡二男清兵衛代々外今相勤居申也、本尊不動明王焼失損し有之也、年号不知、右取替り之御状共院内有之由
(貼紙)(朱)
「光明寺高
一、下畑九畝拾五歩、畑方免三つ六歩、高五斗七升
一、下畑三畝三歩、高壱斗八升六合
一、下畑壱畝九歩、高七升八合
畝〆壱反三畝弐拾七歩、高〆八斗三升四合、取米三斗
一、米九合 日米  一、米三升三合 四部米〆三斗四升弐合
一、米四合 運賃米  同八升三合 公事代米同 費用米
一、大麦弐斗九合 夏成年貢   一、小麦壱斗四合 同断麦〆三斗壱升三合也」
意訳変換しておくと
岸上の光明寺について、この寺院は高松御領の岸上にあったが、往古に焼失して本堂などは残っていない。所有権を持つ龍雲院様が、当山金光院に預けていた。そこで当院(多門院)は、下川師(そち)という山伏を番人に派遣していた。今は、その二男清兵衛がつとめているという。本尊の不動明王は焼失し、破損している。いつのことかは分からないが、この不動明王と預条が多門院の院内にある。

 さらに貼紙が付けられ、朱書で光明寺の石高が書かれていますが、水田ではなく「下畑」とあります。「岸上」は、その名の通り金倉川の左岸の「岸の上」の丘陵地帯に立地するエリアです。金倉川からの取水ができないために、灌漑水路の設備が遅れていたようです。
まんのう町 満濃池のない中世地図
金倉川の南側に「岸ノ上」と見える

 多門院が光明寺跡に番人として派遣していたという「下川師(そち)という山伏」を見ていきます。
 初代金光院院主宥盛が高野山での修行・修学が終わり、帰讃する際に,麓の下川村の山伏師坊を召連れて帰った。それが下川師(そち)だというのです。宥盛は、修験者としても名前が知られる存在だったようです。そして、後進の育成にも努めました。その修行を支えるスタッフの役割を果たしていた人物なのではないかと私は考えています。そうだとすると、宥盛と下川師は、精神的にも深いつながりで結ばれていたことになります。宥盛は、金毘羅山を修験道の山、天狗の山にしようとしていた形跡がうかがえます。そのために、土佐の有力修験者を呼び寄せて多門院を開かせています。その多門院の下で、手足となり活動していたのが下川師ではないでしょうか。
 下川家の二代杢左衛門も,はじめは大雲坊という修験者で,金毘羅に近い岸上村の不動堂の番をしていましたが、後に還俗して下川を姓とし,金光院に出仕する役人になります。杢左衛門の長男は我儘者であったので,二男喜右衛門が後を嗣ぎますが病弱で若死します。そこで、妹に婿養子をしたのが四代常右衛門になります。彼は、薪奉行,台所奉行など勤めています。五代杢左衛門は台所奉行から作事奉行にも出世します。六代常右衛門は山奉行,玄関詰,御側加役などを勤めます。そして、七代伴吾の時に、下川の姓から枝茂川と改め、御側加役から買込加役になっています。覚助は書院番などを勤めたが若死にした。養子保太郎が九代となった。十代直一,十一代文一まで金刀比羅宮に奉仕しますが,その後は名古屋へ移住したようです。

天狗面を背負う行者
天狗面を奉納にやってきた金毘羅行者
 ここからは、金毘羅大権現の草創期には各地から修験者たちが集まってきて、この地に定住していったことが分かります。下川家の場合は、金光院に使える高級役人として明治まで仕えています。また、金比羅行者と云われた修験者たちが先達となって、各地の信者達を金毘羅大権現参拝に誘引してきます。その際に、泊まらせたのが彼らの家で、それが旅籠に発展していった店も多いようです。旅籠の主人も、先祖を辿れば修験者だったという例です。
 天狗面を背負う行者 浮世絵2
話が脇道に逸れたようです。本道にもどしましょう。この史料からは光明寺が、かつて岸上にあったこと分かりますが、それ以上のことは分かりませんでした。
別格本山、地蔵院萩原寺(香川県観音寺市)

新しい発見は、観音寺市大野原町の萩原寺に保管されている文書類でした。
ここには、光明寺に関することが書かれていました。

[金剛峯寺諸院家析負輯] 三 本中院谷          
明王院本尊並歴代先師録草稿
(中略)        
  阿遮梨勝義
泉聖房取樹無量壽院長覺阿闇梨灌頂之資。
後花園院御宇永亨十一年戊午九月廿日婦寂○西院付法下云。
讚岐國岸上光明寺櫂大僧都高野山明王院文○秀義考云勝師婦寂之年月恐謬博乎。中院流亨徳記曰。亨徳二年四月十六日於紀伊國高野山金剛峯寺明王院道場。授中院流。心南院博法灌頂入寺重義大法師勝環雨受者。日記大阿閣梨法印櫂大僧都勝義泉聖房(年七十三、明王院)。讃岐國真野郷岸上大多輪息文 既後干永亨十戊午経十有六年。典師所記知謬博也○又大疏讀様高野所博血泳云。明算・良禅・兼賢・定賢・明任。道範・賢定・仁然・玄海・快成。信弘・頼園・長覺・勝義(泉聖房 高野山明王院。讃岐国岸上人也。享徳三年二月二十日入寂。)
重義文同伊豆方所侍血詠云。賞意・賞厳・賞園・全考・宥祥・宥範・宥重・宥恵・勢舜・勝義(泉聖房 讃岐岸上光明院。兼住高野山。享徳三年二月二十日入寂。七十四。)
  後略
  忠義法印
讚岐國岸上之人。字泉行房。勝義遮梨入室附法資也。人王百四代 後士御門御宇頃乎。自勝義賜忠義印信。文明七年文寂日七月十三日 ○覺證院主隆雄。五大尊田地寄附之書物文明十四年文
○法印入滅之歳、雖末分明。恐明應文亀之頃乎。何以知然。自筆玉印砂奥書云。文明十五年秋比。依聞此名。物名字以使者於高雄寺苦努八旬老眼開了忠義財計又三―山―三種秘法印信奥云。明應二年正月十一日博授大阿遮梨忠義上人授興朝盛文西院印信奥云。右明應三年職畝卯月廿八日。於高野山明王院灌頂道場雨部博法職位畢。博法大阿閣梨権大僧都忠義授興朝盛。文血詠年月同印信也。又開眼文一紙。其文日。泉州久米多寺開山行基大士之尊像一證奉開眼所也。高野山金剛峯寺明王院住権大僧都泉行房忠義判。明應七年端歓拾月八日。申剋右勘之自文明十五
(「続真言宗全書」第二十四 所収 町誌ことひら 史料編282P)

ここには、高野山の明王院の住持を勤めた2人の岸上出身の僧侶が「歴代先師録」として紹介されています。
勝義は「泉聖房と呼ばれ 高野山明王院と讃岐国岸上の光明寺を兼務し、享徳三年二月二十日入寂」と記されます。
忠義も「讚岐國岸上之人で泉行房と呼ばれたようで、勝義の弟子になるようです。彼も光明院と兼務したことが分かります。
また「析負輯」の「谷上多聞院代々先師過去帳写」の項には、次のように記されています。
「第十六重義泉慶房 讃岐国人也。香西浦産、文明五年二月廿八日書諸院家記、明王院勝義阿閣梨之資也」

 多門院の重義は、讃岐の香西浦の出身で、勝義の弟子であったようです。
  以上の史料からは、次のような事が分かります。
①南北朝から室町中期にかけて、高野山明王院の住持を「讃岐国岸上人」である勝義や忠義がつとめていたこと。
②彼らは出身地の岸上光明寺をも兼住していたこと
③彼らを輩出した岸上の光明寺が繁栄していたこと
④讃岐出身者が高野山で活躍していたことが

それでは、高野山明王院とは、どんな寺院なのでしょうか
 
高野山 明王院の赤不動
明王院 赤不動
明王院は日本三不動のひとつ「赤不動」として知られるお寺で、高野山のなかほど本中院谷にあるようです。寺伝では弘仁7年(816年)、空海が高野山を開いた際に、自ら刻んだ五大明王を安置し開創したと伝えます。
  不動明王を本尊としていることからも修験者の寺であったことが分かります。中世の真野郷の岸上からは、高野山の修験道の明王院の院主を輩出していたことになります。当然、岸上の光明寺も明王院に連なる法脈を持っていたはずです。ここから光明寺は、丸亀平野南部の修験者の活動拠点で、全国を遍歴する修験者たちがやってきていたのではないかと、私は考えています。

 高野山の明王院住持を岸上から輩出する背景は、何だったのでしょうか?
その答えも、萩原寺の聖教の中にあります。残された経典に記された奥書は、当時の光明寺ことを、さらに詳しく教えてくれます。
                                 
一、志求佛生三味耶戒云々
奥書貞和二、高野宝憧院細谷博士、勢義廿四、
永徳元年六月二日、於讃州岸上光明寺椀市書篤畢、
穴賢々々、可秘々々、                                                       
                    祐賢之
意訳変換しておくと
一、「志求佛生三味耶戒云々」について
奥書には次のように記されている。貞和二(1346)年に、高野宝憧院の細谷博士・勢義(24歳)がこれを書写した。永徳元年(1381)6月2日、讃岐岸上の光明寺椀市で、祐賢が書き写し終えた。
 ここからは、高野山宝憧院勢義が写した「志求仏生三昧耶戒云々」が、約40年後に讃岐にもたらされて、祐賢が光明寺で書写したことが記されます。また「光明寺椀市」を「光明寺には修行僧が集まって学校のような雰囲気であった」と研究者は指摘します。以前にお話ししたように、中世の、道隆寺や金蔵寺、そして前回見た尾背寺などは「学問寺」でした。修行の一環として、若い層が書写にとりくんでいたようです。それは、一人だけの孤立した作業でなく、何人もが机を並べて書写する姿が「光明寺椀市」という言葉から見えてきます。
 そして彼らは「不動明王」を守護神とする修験者でもあり、各地の行場を求めて「辺路」修行を行っていたようです。その讃岐のひとつの拠点が東さぬき市の与田寺を拠点とした増吽の活動だったことを以前にお話ししました。光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していたとしましょう。そのために優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。
光明寺 法統

上の史料は「良恩授慶祐印信」と呼ばれる真言密教の相伝系譜です。そのスタートは大日如来や金剛菩薩から始まります。そして①長安の惠果 ②弘法大師 ③真雅(弘法大師弟)と法脈が記されています。この法脈の実際の創始者は④の三品親王になるようです。それを引き継いでいくのが⑥勝義 ⑦忠義の讃岐岸上出身の師弟コンビです。さらに、この法脈は⑧良識 ⑨良昌に受け継がれていきます。⑨の良昌は、飯山にある島田寺の住職を兼ねながら高野山金剛三昧院住持を勤めた人物です。
   また、明王院勝義・忠義を経て金剛三昧院良恩から萩原寺五代慶祐に伝えられた法脈もあります。この時期の高野山で修行・勉学した讃岐人は、幾重もの人的ネットワークで結ばれていたことが分かります。この中に、善通寺の歴代院主や後の金毘羅大権現金光院の宥盛もいたのです。彼らは「高野山」という釜の飯を一緒に食べた「同胞意識」を強く持っていたようです。

金毘羅周辺絵地図

 同時に彼らは学僧という面だけではありませんでした。行者としても山岳修行に励むのがあるべき姿とされたのです。後の「文武両道」でいうなれば「右手に筆、左手に錫杖」という感じでしょうか。
 岸上の光明院の行場ゲレンデのひとつは、金毘羅山(大麻山)から、善通寺背後の五岳から七宝山を越えて観音寺までの「中辺路」ルートだったことは以前にお話ししました。また、まんのう町の金剛院には、多くの経塚が埋められています。
大川山 中寺廃寺割拝殿
中廃寺の割拝殿

そこから見上げる大川山の中腹には、中世山岳寺院の中廃寺の伽藍がありました。さらに、西には前回お話しした尾背寺があり、ここでも活発な書写活動が行われていました。大野原の萩原寺には、尾背寺で書写された聖教がいくつも残されています。ここからも尾背寺と萩原寺は人脈的にも法流的にも共通点が多く、中世は修験道の拠点として機能していた寺です。さらに四国霊場の雲辺寺は、萩原寺の末寺でもあり、やはり学問寺でした。
 こうしてみると中世讃岐の修験道のネットワークは金比羅・善通寺から三豊・伊予へと伸びていたことがうかがえます。これが修験者や聖など行者達の「四国辺路」で、これをベースに庶民の「四国遍路」が生まれてくると研究者は考えているようです。

DSC03290
金刀比羅宮の奥の院の行場跡に掲げられる天狗

 このような修験者ネットワークに変動が起きるのは、長宗我部元親の讃岐制圧です。
ここからは私の仮説と妄想が入ってきますので悪しからず
元親は、宥雅の残した松尾寺や金毘羅堂を四国総鎮守として、讃岐支配の宗教的な拠点にしようとします。その際に、呼び寄せられたのが土佐の有力修験者南光院のリーダーです。彼は宥厳と名前を改めて、讃岐の修験者組織を改編していこうとします。その下で働いたのが宥盛です。長宗我部元親撤退後も、宥厳は金毘羅にのこり金毘羅大権現を中心とする修験者ネットワークの形成を進めます。それを宥盛は受け継ぎます。

DSC03291
金刀比羅宮奥社の天狗

 新興勢力である金毘羅大権現が新たな修験道のメッカになるためには、周辺の類似施設は邪魔者になります。称名院や三十番社、尾背寺などは、旧ネットワークをになう宗教施設として攻撃・排斥されます。そのような動きの中に、光明院も置かれたのではないでしょうか。そして、廃墟化した後に、番人として宥盛は高野山から連れ帰った山伏を、ここに入れた・・・。そんなストーリーが私には浮かんできます。どちらにしても、金毘羅大権現とその別当金光院にとっては、邪魔な存在だったのではないかと思えます。

4 松尾寺弘法大師座像体内 宥盛記名4
松尾寺の弘法大師座像の中から出てきた宥盛の願文

 そのような金光院の強引なやり方に対して、善通寺誕生院は反撃のチャンスをうかがいます。しかし、生駒藩においては、金光院の山下家と生駒家は何重もの外戚関係を形成して、手厚い保護を受けていました。手の出しようがありません。そこで、生駒騒動で藩主が山崎家に変わると善通寺誕生院は「金光院はの本時の末寺だ」と訴え出ます。これは、善通寺の末寺であった称名寺や尾背寺などへの金光院の攻撃に対する反撃の意味合いもあったと、私は考えています。 

Cg-FlT6UkAAFZq0金毘羅大権現
金毘羅大権現と天狗達

  中世山岳寺院としての尾背寺や修験道の拠点としての光明寺の歴史を探っていると、近世になって登場してくる金毘羅大権現と金光院の関係を考えざる得なくなります。現在、考えられるストーリーを展開してみました。
 最後に、光明寺はどこにあったのでしょうか?
まんのう町岸の上 寺山
明治38年の岸の上村
明治38年の国土地理院の地図を見てみると、現在の真福寺の北辺りに「寺下」「寺山」という地名が見えます。ここが光明寺跡ではないかと私は考えています。現在の真福寺は、初代高松藩主松平頼重によって、法然ゆかりの寺として建立されたとされます。それ以前に、その北側の丘の上に光明寺はあったのだと思います。それが地名としてのこっているという推測です。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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