瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町福家神社

  
DSC00870長善寺遠景
勝浦の旧長善寺

勝浦村の御林守幸助は、文政十一(1828)年の春以来、阿州加茂宮村の百姓伝右衛門の娘いせを、阿野郡北加茂村の知り合いの娘であると偽って召し使っていました。いせは器量よしで気立ても良かったので、伝右衛門の長男豊吉とも親しくなります。そして、豊吉の友人で御林守幸八の次男利右衛門と、内縁関係を結ぶようになったようです。
 幸助は、いせが阿州者であることを知らずに、利右衛門が愛情を深めていくことが心配になってきます。ある夏の夜、幸助宅を訪れてきた利右衛門と、豊吉の間で、ちょっとしたことが原因になって、激しい口論が起きます。この機会を捉えて幸助は、息子の豊吉に味方して、利右衛門を叱責して利右衛門の出入りを禁止します。
 しかし、幸助が、いせをどこかへ連れ去って、自分との仲を引き裂くのではないかと心配した利右衛門は、翌日夜に、いせを幸助宅から連れ出し、出奔して身を隠してしまいます。当時、このような「掠奪婚」が「流行」していたようです。友人の助けを借りて女を掠奪し、同居して結婚の事実をつくり、周囲の人々に認めさせる結婚形式です。

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 二人は、阿野郡の陶村の知人の家に隠れ住んでいました。

これを見つけた利右衛門の兄・多次郎も、いせが阿波出身であることは知りません。二人の立場に同情して黙認します。
一方、いせがいなくなった幸助方では、利右衛門が友人を語らい、徒党を組んでいせを奪ったと村役人に訴え出ます。関係者が次々と村役人の取り調べを受け、利右衛門といせが陶村から連れ帰られたのは、その年の秋も深まる十月でした。
 利右衛門の兄の多治郎と一類の鹿蔵、五人組の文蔵・丈八・庄八が誤り状を書き、幸助と豊吉も、阿波の女を雇っていたことについて、誤り証文を村役人に差し出します。いせは、阿波の親元に送り返され、利右衛門もこの扱いに不足はなく、いせに未練のない旨を書いた一札を、村役人に差し出して、事件は一応内済になったようです。慶安の協定が、二人の愛情の結を断ち切ったことになります。
 このような経過を記録した文書が勝浦の庄屋だった家には残されています。ここから分かることは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人(逃散)防止協定」が二百年近く経過した幕末にも機能していたことです。江戸時代に、阿讃の両藩間での婚姻関係は認められていなかったことが分かります。
DSC00826勝浦

 ところが事件は、これでは収まりませんでした。
讃岐方の勝浦から親元の阿波へ連れ返されたいせは、弥三郎という男と結婚していました。それを聞いた元カレの利右衛門は、請めきれずに今度は国境を越えての掠奪結婚に出たのです。その事件を知らせる手紙が文政十二(1829)年2月17日の早朝、勝浦村の庄屋佐野佐蔵のもとに届けられます。差出人は、いせの嫁ぎ先である阿波の庄屋小笠七郎次からで、そこには次のように記されてありました。
一筆致二啓上一候。追々暖和に罷成候所、弥御堅勝に可被成御座、珍重目出度奉存候。然ば其御村OO免幸八倅利右衛門と申者、 今晩大勢の人数召連れ、当村〇〇名百姓多美蔵と申者宅へ罷越、倅弥三郎妻、有無の言不二申出横領し召連れ罷帰り申候に付、弥三郎儀留守の事故、親多美蔵義利右衛門に取付、申間せ候は、如何相心得右様横領の仕成仕侯哉と申聞せ候得共、何の言も無之、多美蔵を四ケ所迄打測に相及び、 其儘罷帰り候。其内名内の者共久付候得共、 大勢の者共夜中の事ゆへ行衛相知不申由、野士方へ申出候に付、右様横領成る義故難二捨置、其上多美蔵義四ケ所の大疵に付、命数の程
も難′計侯に付、右利右衛門儀御召集御行着可被下債。御行着の上有無御返事、此者へ御聞せ可被下候。委細の義は指越候者より型司取可
   意訳しておくと
一筆啓上致します。追々に暖かくなっていく季節ですが、堅勝であられましょうか。この度、次のような事件が起きましたのでお知らせします。そちらの勝浦村の幸八の倅・利右衛門と申す者が、 今晩、大勢の人間を引き連れて、当村の百姓・多美蔵宅へ押しかけ、倅の弥三郎妻を横領し召連れ帰りました。これは弥三郎の留守の間のことで、多美蔵は利右衛門に取付いて、このような「横領」をおこなうことの不法を申聞せたが、何の返答もなく、その上に多美蔵を四ケ所も打ち据える始末です。
  大勢の者がいたようですが夜中のことで、行方知れず、野士方へ申し出ることになりました。この横領については、放置することができません。その上、多美蔵の四ケ所の傷害に付いては、命に別状はありませんが放っておくことも出来ません。利右衛門を召喚して、詳細をお聞き取り頂き事の次第を返事でお知らせ頂きたい思います。委細については、使者より口頭でお聞きください。
DSC00870長善寺遠景

 手紙を受け取った佐野佐蔵は、造田村庄屋の西村市太夫に急報します。市大夫の指示を受けて3月18日に郷会所へ注進しています。郷会所の元〆の指示によって、利右衛門が行方不明であるので、取り押さえ次第取り調べて報告する旨の返事を、翌々日には佐野佐蔵から小笠七郎次に送ります。
1勝浦 佐野作蔵の手紙

こうして行方不明の利右衛門といせの二人の探索が始められます。
 高松藩の町奉行所から、同心衆、上下10人が勝浦村にやってきてます。郡奉行所からも二人の手代が入村して取り調べが始まります。利右衛門の父幸八は、御林守の職を停止されて所蔵に入れられます。高松藩領には、利右衛門の人相書と罪状を述べた御触れが出されます。
「稲毛文書」 の中の利右衛門の人相書には、次のように記されています。
月代: 乱志&流三の落語徘徊
O鵜足郡勝浦村御林守小八倅
利右衛門  年二十八
但年齢相応に相見え、中勢中肉丸面にて、冒毛厚き方、
色赤き方、言舌静か成る方、限・歯並常然、
月代(さかやき)厚き方。
その他、衣服や所持品、その犯行についても細かに書かれています。これは当時の大スキャンダルになったでしょう。二月末には、村内から11人の若者が捜索隊員に選ばれ、六班に分かれて、東は白鳥から西は豊浜までの各地を調べ上げます。しかし、利右衛門といせはもちろん、利右衛門に協力した者も発見することができません。一方、傷を受けた多美蔵は、すでに回復していることが探索者の間き込みにで明らかになり、一同は一安心しています。
四月桜の季節になって、利右衛門といせが、阿波の芝生村の知人の家に隠れているのが発見されます。
利右衛門といせは、徳島に送られ取り調べが行われます。その結果、利右衛門に協力したのは阿州の者で、後難を恐れて足抜きしていることが明らかになります。
 ここで、寛永21(1644)年の「走人防止協定」を再確認しておきましょう。この協定は、逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したもので、第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。

第16条では、
「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では
「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」

とされてきました。
 事件は思わぬ方向へ急転回することになります。
「走人防止協定」によって、利右衛門を処罰すれば、利右衛門といせを隠していた芝生村の人々も厳しく処罰しなければならなくなったのです。この対応に当たったのが、阿州・太刀野山村の庄屋山本新太夫と、芝生村の庄屋平尾平兵衛です。ふたりは協議し、芝生村の百姓喜八と清兵衛を使者として、平尾平兵衛と親しい関係であった中通村庄屋東三郎方に派遣し、今度の事件を内済とするように運動することを願い出ます。公になれば芝生村の人々にも火の粉が飛んできます。それを「内済」にすることで、村の人々を守ろうとしたのでしょう。

DSC00786長善寺道標

 同時に、山本新太夫は、勝浦村の長善寺の住職に手紙を送って協力を依頼しています。長善寺は美馬・郡里の安楽寺の末寺で、真宗興正寺派の讃岐への布教センターの役割を果たした寺で、この地域では政治力もある寺でした。また阿波にも檀家が多く、法要などを通じて住職とは面識があったようです。

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勝浦の旧長善寺

 しかし、高松藩側の態度は硬化して、なかなか内済に応じなかったようです。
利右衛門はこれが2度目の略奪婚です。前回に反省文も出しています。にもかかわらず同じ事を今度は国境を越えてやったのです。いわば「再犯者」です。すぐに内済扱いとは出来ないのも分かります。
ぞのため条件とされたのが、利右衛門の父幸八の所蔵入を免じ、利右衛門の処分が決定し、その決定に阿波側の庄屋小笠七郎次が同意したということが明らかにならなければ、内済に同意しないという態度を示します。

DSC00853福家神社鳥居
勝浦の福家神社
徳島藩では、利右衛門を徳島の獄につなぎ多美蔵と弥三郎を呼んで事情を聞き取り、いせを弥三郎の妻として復縁させています。このことは7月になって、讃岐側にも伝わってきます。
  「不埓の事あり」として、50日間の入牢を申し付けられていた利右衛間が、阿波と讃岐の境である引田の逢坂峠で追い払われたのは、八月末になってでした。このことを、勝浦村庄屋に通知した小笠七郎次は、その手紙の中で、暗に、この度の処置に満足していることを述べています。

DSC00855勝浦福家神社鳥居

 この事件の解決に奔走した造田村庄屋の西村市太夫は、事件の頭末を、美濃紙二枚綴りの一件記帳留にまとめ、その最後の一頁に、
「右の通大変にて有之候得共、色々取計い、利右衛門一人出奔、除帳人に相成、其外少しも御咎め無之結構御訳付に相成り申候」

と結んでいます。ここには庄屋として、勝浦の関係者を守り切ったという満足感と安堵感が現れているようです。

国の作法に反抗して、再び掠奪結婚を試みて失敗した利右衛門のその後はどうなったのでしょうか。彼の集落の墓地には、彼の墓はないようです。 郷里に立ち帰らなかったのかもしれません。
 
 この事件から分かることは、寛永21(1644)年の「走人防止協定」第18条の「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」が、幕末になっても阿讃国境では生きていたことです。峠を越えての恋が成就することは江戸時代には御法度とされ続けていたようです。
DSC00856福家神社道標

慶安の協定によって、阿波と讃岐の愛情が、無残に引き裂かれることは、その後もあったようです。  天保十四(1843)年7月に、造田村の弥作が村役人に提出した一札(「西村文書」)があります。
ここには出身地を偽って彼の家に奉公していた娘と彼が内縁関係になり、娘が阿波の出生であるために許されず、娘が父親に連れられて阿波に帰ることになった時、彼が娘に未練のないことを述べたものです。しかし、その行間に、断ち切ることのできない愛情が猛れているように思われます。
  天保14年6月、造田村で心中事件が起きます。
池に身を投じて自らの命を、ともに断ったのです。男は、阿州三好郡川崎村出身の加蔵で、彼もまた出身地を偽って、造田村で奉公していました。家の主人が多忙な人であり、その妻が病弱で、野良仕事はその家の娘と、加蔵の二人で切り盛りしていたようです。若い二人の間は、急速に近づき内縁関係になります。しかし、加蔵が阿波の出身であるとにらんでいた娘の父親は、二人の仲を裂こうとして、加蔵に暇を出します。二人の水死体が見つかったのは、それから間もなくのことであったようです。
 造田村の庄屋西村市大夫からの手紙を受け取った川崎村の庄屋友吉郎は、加蔵の兄久太に返書を持たせて造田村へ急がせます。造田村に着いた久太は、水死者の一人が弟の加蔵であることを確認し、たどたどしく筆を走らせて、迷惑をかけたことを詫び、弟加蔵の死体を引き取らせてもらいたいと、願い出ています(「西村文書一))

DSC00844勝浦福家神社

「走人防止協定」で、阿讃の国境を越えた恋は成就できない掟となってきましたが、次第に人々の「人権意識」が目覚めていくのがうかがえる記録も残っているようです。
「牛田文書」の中に、草案ではありますが、次のような手紙原稿が残されていました。
指上申一札の事
私儀、此度長谷坂亀三郎倅甚七、阿州三好郡東井の川村辻住居、きぬと申す婦人と、先達てより内縁仕り、右きぬ親立会の上にて、其方女房に相定候得共、甚七一類腹入不仕義に付、 日地書わけ別宅仕り、 其席に立会不申侯得共、只今迄夫婦に相暮居中候処、此度甚七神願に付、 内々神参り(出稼ぎ)可仕に付てハ、女房預り人も無之、無拠引連罷越趣に承り、併右きぬも妊娠に相成、追々臨月にも相及候由、旅立候ては難渋に相見へたる事に御座候。右きぬ女親呼寄掛合中候所、何分宜敷様取扱呉候様、達々願候に付、双方懸合中処納得仕候に付、万事私引請中候間、御内々御聞置可被下候。若し他所者の儀に付、以後如何様の引縫出来仕候共、 御村方御役人中様は不及申上甚七一類に至迄厄介の筋、少しも相懸申間敷、為後日指上申一札如件。
他所婦人引請
               かつら村 甚 八
               一類   八五郎
               組合     富 蔵
慶応三年年七月
御村方御役人衆中
意訳しておくと
一札の事さし上げ申し上げます
 この度長谷坂亀三郎倅・甚七が、阿州三好郡東井の川村辻の住居のきぬという婦人と、先達てから内縁関係になりました。そこできぬの親の立会の上に、女房に迎えることにしました。しかし、甚七の親族はこれに反対し、田地を分け別宅を建て、その席にも立会わないと申します。こうして、ふたりは夫婦として暮らしてきましたが、甚七が神参り(出稼?)に出ることになり、きぬも妊娠していることが分かりました。時が進み臨月になり里に帰ることも難渋に思えます。きぬの女親を讃岐に呼寄ることをお願いして欲しいと何度も依頼されました。そこで双方に懸合い交渉をすすめた所、内々にお聞き置くださることになりました。
 もし阿波出身の他所者であることで、今後どんなことが起きましょうとも、村方役人様には害が及ばぬように致します。甚七親族一類についても、少しも懸念なきように後日のために一札差し上げる次第です。
DSC00800長善寺鐘楼

ここからは次のような事が分かります。
①長谷坂の亀三郎の倅甚七が、阿波生まれのきぬと結婚しようとした時、親の亀三郎などはこれに反対したこと
②それに対して、親類の甚八と八五郎、五人組の冨蔵が甚七に味方して結婚させ、その後甚七が神参り(出稼か)に出ることになった
③その間、妊娠中のきぬを責任を持って預かるという証文を、村役人に差し出している
ここには、家の反対に関わらず親族や近所の中に、夫婦になった二人を「掟」を破っても守ってやろうという意識が周囲に形成されてきたことがうかがえます。
かつては、藩の定めた不合理な協定の前に屈伏していた人々が、この掟に抵抗し、自らの愛情に忠実であろうとする人々を応援し、たとえ近親が協定を恐れていても、これらの人々を守ってやろうという姿勢を示すようになっているのです。
 阿讃山脈の国境の村々には不合理な藩の掟に抵抗して、結婚の自由、住居の自由を獲得しようとする自覚が産まれていたと言えるのかもしれません。それが明治維新になって幕藩体制が崩壊し、「結婚・住居の自由」が保証されると、峠の道を花嫁行列が行き交うようになり、阿讃に跨がる通婚圏が成立していくようです。
 逆に言うと、江戸時代には両者の間には通婚圏(権?)は、存在しなかったことになります。これが、お隣の丸亀藩にも当てはまるのかどうかは、今の私には分かりません。
参考文献 国境の村々 琴南町史307P

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八峰方面からの勝浦
まずは「琴南町誌 958P」で予習
「下福家は、土器川の源流勝浦川と真鈴川にはさまれた標高350~550mぐらいの阿讃山脈の緩斜面に開けた集落である。その東側を「東ら」と言い、西側は「西ら」と呼ばれる。突出した丘陵の中段に扇状に人家が散在している。「東ら」は家の近くに比較的広い水田が聞かれている。「西ら」は伝説では神櫛王の家臣の子孫である福家長者がこの地を開き、天安元(857)年、ここに社を建て神櫛王を祀ったという。後に、この神社を福家神社、その地を下福家と呼ぶようになった。福家長者の子孫については、不詳であるがこの福家神社を中心に集落は拓けた。」
まんのう町下福家と四つ足茶堂
下福家集落
さて、これだけの情報を頭に入れて、土器川源流に近い勝浦地区の下福家へ原付ツーリング開始
琴平方面から国道438号を南下し、まんのう町明神にある「谷川うどん」の上にある信号を右折し、県道108号線の「滝の奥」方面へに入る。

DSC00879現在の長楽寺
現在の長善寺
勝浦から下りてきた現在の長善寺の伽藍を右手に見ながら更に進み、勝浦集落への入口も越えて行く。

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しばらくすると「下福家バス亭」が見えてくる。ここから下福家集落に入っていく。
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旧長善寺跡
かつての長善寺の伽藍跡を左手に見上げながらさらに坂を登る。この寺は、阿波郡里の安楽寺のサテライト寺院として、丸亀平野への浄土真宗興正寺派の布教センターの役割を果たした寺院で、阿波と讃岐に多くの門徒を抱えた大寺院だったようだ。

DSC00796長善寺破れ本堂
取り壊される前の旧長善寺本堂
かつての茅葺きの本堂は、その面影を残していた。

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旧長善寺の鐘楼
鐘楼には、大きな石がぶら下げられて重しとなって揺れていた。今は、更地となってそれもない。寺から更に道を詰めて、沢が滝のように落ちていくのを見ながら急勾配の細い坂道を登ると、深い木立の中に福家神社が鎮座する。
DSC00855勝浦福家神社鳥居
福家神社鳥居
拝殿には「福家神社のもうひとつの由来について」と題して、町史に書かれていない神社由来が貼り付けられていた。一部紹介すると
「前略 崇徳上皇が崩御されて帰る行き先が無くなったお供の公家達は、阿讃の山奥に住み生活の糧に木材を土器川に流して下流の地で商いをして富を得たので、村人達はその一団を福(富)の家長者と呼んでいた。その後も公家達は京都の縁者と連絡を取っていた模様で源平の戦いに敗れた安徳天皇を密かに招いた地は現琴南町の造田の横畑地区と思われる。(通称:平家の落人部落)
そこで公家達は相当の逃走資金を献上して阿波祖谷に逃げさせた。(以下略)」

 ここには、神櫛王に発し、崇徳上皇、安徳天皇に連なる誇り高き神社であることが、記されている。 満濃町誌には、下福家の人々がこの神社の宗教行事を通じて結束を保ってきたことを、次のように記している。 

下福家は、全戸で二九軒(東8軒、中6軒、下8軒、西7軒)であるが、福家神社を中心に生活してきたことが、福家神社の正月の行事をみると明らかである。正月の元日の宮まいりは、大晦日の十二時が過ぎると氏子の者は皆神社に参るが、どの家も「おごくさん」を炊いて、ヘギに盛って持って来て祀る。
DSC00853福家神社鳥居
福家神社参道 


福家神社の年間行事 勝浦
福家神社の年間行事(まんのう町勝浦)
一月七日に的射の行事があるが、各戸から持ち寄った紙を張り合わせ、五尺四方の的をつくる。もちろん、弓も矢も手造りである。まず宮司がお祀いをして三本射ると、続いて氏子の者全員が交替に二、三本の矢を射る。これが済むと、この的を境内中引きずり回して、めちゃくちゃにこわしてしまう。これで悪魔を射払い、一年の無病息災を祈念るのである。最後に、お神酒が出て、重箱の「おごくさん」をいただく。それは、「手のひら盆」といって、手の甲に受けていただくもので、古いしきたりがそのまま残っている。
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福家神社

  福家神社の横の道を登っていくと、家の周りに棚田が重なる風景が見えてくる。一番高い民家から勝浦・明神方向をながめる。幾重にも山々がひだのように重なる。(以下追加 2025/08/27)
福家神社から500mほど山に登ると見はらしのよい丘に龍王社が鎮座します。
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社といっても石積みがあるだけで、社殿はありません。お祭りの日(八月四日)には、朝早く頭屋の者がここに登り、付近にある萱や小木を切り取り、これで石積みの壇上に、高さ70㎝、幅60㎝ほどの小さな祠を造ります。新しい祠ができると大川宮(大川山)から龍王が天狗に乗ってここに降りて来るのだと信じられている。磐境に設けられた神聖な社に龍王が降臨されるという信仰形式が今に伝えられています。ここからは次のようなことが読み取れます。
①空海の「善女龍王」信仰から雨乞の龍王社が祀られている。
②大山権現から龍王が天狗に乗って下りてくるというのは、天狗信仰(修験者)の存在

準備が出来ると、集落の人々は思い思いにおごくさんや、お神酒を持って来て供え、長老が祝詞をあげます。神事が終わると参拝者はお供物をいただく。秋の祭りには、獅子が奉納される。人々はこれで今年も雨の心配がないと安心するのです。
千ばつの時は、この龍はん(ごりょうはん)に雨乞いをしたことが次のように記します。
金毘羅さんに参詣し神火を火縄に受け、約28㎞の道を歩き、四つ足にある「はこぶち」に着くと、その淵の水を汲み、そこで108の松明に神火を移し、この松明をかざして行列をつくる。各人が「なんまいだ、なんまいだ」と称えながら山を登る。
「龍はん」に神火と水を供え、三日二夜の間徹夜の祈願をする。雨乞い中は洗濯物や千物は一切しないで水を大切にして風呂さえも休んだ。神前に大火を燃やし、29戸の講中の者が、思い思いの日を紙片に書き箱に入れ、榊の葉でかきまわすと、紙片が一つだけついてくる、この紙に書かれた日には必ず雨が降ったという。 「大川さんから白い雲の帯が下りて来て龍王の祠を結ぶようになった時には、必ず雨が降る」
そして、使いの天狗がとまっていたという天狗松と呼ぶ老木もありました。今では日照りがしても、龍王さんに祈願をすることもなくなったが、毎年二回の龍王祭は欠かしたことはないといいます。。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 琴南町誌 950P 

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