瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町福良見

伊勢御師が天文20年(1551)2月から10月にかけての間に讃岐国の持ち分の道者を売買した際に添付された賦日記や證文の一部を見ています。ここには讃岐国の三豊・多度・那珂郡の道者(檀那)氏名が一覧表で記されています。前回は、丸亀の中府→金倉→多度津→白方→山階と廻って、つぎのようにまとめました。
①伊勢御師は、伊勢のお札やお土産を道者(檀那)に配布しながら、初穂料を集めた。
②そのために「かすみ(テリトリー)」の有力道者名を一覧表にして残している。
③ここでは「中府 → 多度津 → 白方 → 金倉寺」という金倉川から弘田川周辺のテリトリーが見えてくる
④その中には西讃守護代の多度津・香川氏の勢力範囲と重なり、香川氏配下の家臣団の名前が見える。
⑤また、道隆寺末寺の多聞院や金倉寺の子房の中にも伊勢お札の配布を行う僧侶(聖)がいた。
今回は、この続きを追いかけて行くことにします。テキストは前回に続いて、「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」です。

伊勢御師 四国日記讃岐分8 金倉寺・小松・岸上・帆山

      「伊勢御師檀那帳 四国之日記」 金倉寺・琴平・まんのう町岸の上・帆山

「こんさうし(金倉寺)の内 おやこ三人家あり)」とあって、次に出てくるのは「小松の分」です。「小松の分」とは、小松郷(荘)のことで、現在の琴平町にあたります。つまり、善通寺エリアがすっぽりと抜け落ちています。これは、どうしてなのでしょうか? 善通寺エリアは熊野系の神社が多く、熊野行者の拠点であった気配があります。そのために伊勢御師が入り込めなかったということは考えられます。三豊でも秋山氏の菩提寺として建立された三野の本門寺周辺、あるいは中世に念仏聖たちの活動が活発だった弥谷寺には、道者たちはいませんでした。また阿波修験者の讃岐への進出拠点であった財田も空白地帯でした。ここには当時の宗教勢力の色分けが背景にあったとしておきます。

「小松の分」の道者は「長右衛門・太郎左衛門・同勘九郎」の3人のみで、彼らに姓はありません。
ここは九条家の荘園として、本庄・新荘が開かれた所です。 榎井の氏神とされる春日神社の社伝には「榎井大明神」と記され、榎の大樹の下に泉があり、清水が湧出することから名付けられと記します。また、社殿造営に関わった人達として次のような人々の名前が出てきます。
寛元2年(1244)新庄右馬七郎・本庄右馬四郎が春日宮を再興、
貞治元年(1362)新庄資久が細川氏の命により本殿・拝殿を再建
永禄12年(1569)石川将監が社殿を造営
ここからは、小松荘の本庄・新庄に名田を持つ名主豪農クラスの者が、国人土豪層として戦国期に活動していたことが、残された感状などからも裏付けられます。しかし、彼らは伊勢御師とは、関わりをもっていなかったようで、リストに彼らの名前はありません。彼らは、三十番社を中心に、独自の祭礼と信仰を持っていたことは以前にお話ししました。
 続いて「きし(岸)の上」には「かな(金)丸殿おや子三人いえ(家)あり」とあります。

満濃池 讃岐国絵図
                金倉川の南(上)側に「岸上」と見える

岸の上は真野郷に属し、小松荘に隣接するエリアです。この地区の中世のことはほとんど分かりません。ただ光明寺というお寺があったことが、金毘羅大権現の多門院の『古老伝旧記』に記されています。また、高野山の明王院の住職を勤めた2人は、「岸上出身」と「歴代先師録」に紹介されています。明王院は高野山の不動明王信仰の中心的な存在です。そこには多くの真言密教の修験者たちが全国から集まってきていました。 岸上の光明寺も修験者の活動拠点のひとつであったと私は考えています。増吽が拠点として東さぬき市の与田寺のように、光明寺も、与田寺のような書写センターや学問寺として機能していた可能性があります。だからこそ、高野山で活躍できる優秀な人材を輩出し続けることが出来たのではないでしょうか。                          
岸の上の次には「てかこの分一えん(円)」とでてきます。
 巡回順番から見ると「岸上 → てかこ → ほそ(帆の)山 → 福良見 → 春日 → 長尾」と続くので、「真野」かもしれません。道者人名には「次郎右衛門・次郎五郎殿・助兵衛殿 此外あまたあり」とあり、他の集落が家数が明記されていないのに、ここだけ「いえかず(家数)二十斗(ばかり)」とあります。この周辺の中心地域だったようです。しかし、真野が「てかこ」と呼ばれていたという見分はありません。お分かりになる方がいれば教えていただきたいと思います。

  次に出てくるのが「ほそ山(帆山)」です。
ここからは、中世は帆山は「ほそ山」と呼ばれていたことがうかがえます。六郎左衛門に続いて、同じく六郎を冠する人名が並びます。そして彼らを「大きなる人也」(下の史料)と評します。これを、どう捉えればいいのでしょうか。帆山の「六郎集団」が経済的に大きな力を持っていた集団というのでしょうか。それなら、その経済基盤は何にあったのでしょうか。あるいは伊勢信仰心が強く、奉納額が多く、お札やお土産などを、多く渡した人達なのでしょうか。 以前に紹介した冠櫻神社(香南町)に残されている「さぬきの道者一円日記」には、伊勢御師が奉納額に従って、渡す札の大きさやお土産を選んでいたことが記されていました。渡すべき「伊勢お札」の大きさを示している可能性もあります。これも今の私にはよく分かりません
伊勢御師 四国日記讃岐分8 福良見・長尾
                   まんのう町福良見・長尾

続いて、帆山の東に隣接する「ふくあミ(福良見)」です。
ここには4人の道者が記されています。筆頭の「大谷川弥助」は、姓を持っています。そして、下段には福良見分の中に「かすか(春日)太郎五郎殿」の名が見えます。ここで気になるのが春日の奥の塩入や、財田川上流域の本目や新目は「かすみ(テリトリー)」には含まれていなかったようです。また、吉野も出てきません。
最後が「なこう(長尾)の内」のさう田(造田)殿おやこ(父子)です。
この表記を、どう理解すればいいのでしょうか
A 長尾エリア内に属する造田殿親子 
B 長尾エリアに転住してきている造田殿親子
16世紀初頭の細川政元暗殺に端を発する混乱は、細川氏内部の抗争を引き起こし、阿波の細川氏が讃岐に侵入して来る発端となります。その後、細川氏の配下の三好氏によって多くの讃岐武将は、その配下となります。丸亀平野南部の長尾氏もそうです。そのような中で天霧城の香川氏だけは、三好氏に帰属することを拒み続けます。そのため16世紀半ばには、丸亀平野では、天霧城の香川氏と西長尾城の長尾氏の間で軍事緊張が高まり、小競り合いが続きます。それは秋山文書などからもよみとれることを高瀬町史は指摘しています。この伊勢御師の檀那リストが作成されたのは、1551年のことです。まさに、このような軍事緊張の走る頃のものです。そこには、香川氏と長尾氏の対立関係が影を落としているように見えます。具体的には、三豊・那珂・多度郡に人名が挙がる檀那たちは、香川氏の勢力圏に多いような気がします。特に那珂・多度郡です。
 どちらにしても、この時期には長尾から吉野にかけては、西長尾城主の長尾氏の勢力範囲にあったとされています。長尾氏自体も阿波の三好氏の配下に入って、天霧城の香川氏と対立抗争を繰り返していました。そのため長尾氏の配下の国人たちも山城を築いて、防備を固めていた時期です。そういうの中で、土器川の東岸にはこの伊勢御師は道者を確保することはできなかったことがうかがえます。
  以上見てきた伊勢御師の檀那リストは、当時の実在した人々の名前と、その居住区が記されている一級資料です。今後の郷土の歴史を考える上で大きな意味があります。発見してくださった研究者に感謝します。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「田中健二 天文20年(1551) 相模国・讃岐国檀那帳(白米家文書」


追記   
横畑には、阿波から寒風峠を越えて伊勢太夫が正月にやってきていたことが琴南町誌に記されています。
横畑は伊勢信仰が強く、訪れる伊勢太夫のために「伊勢家(おいせやはん)と呼ばれる宿舎がありました。その大きさは、二間+三間の平屋で、お伊勢さんが祀られていました。伊勢太夫はここを拠点にして訪問、配札等の伝道活動をしました。そして伊勢信仰が盛んになるにつれ、多くの檀那衆や信者が横畑へ集まってくるようになります。
 伊勢太夫の中でも来田監物は、横畑との関係が深かったようで、農業用水や飲用水に困っている人々のために水源を開いています。「伊勢太夫が呼んだ泉」と言われるものが今も二か所残っているようです。
伊勢御師による檀家巡りについて琴南町誌363Pに、次のように記されています。
文久三(1863)年4月に、来田監物大夫が勝浦村と川東村の檀家回りをしている。その時の集落の講元は、稲毛文書によると次の通りです。(琴南町誌363P)
長谷坂 佐野甚平 (一宿)
半坂 佐野喜三郎。勝浦 佐野喜十郎 (一宿)
下福家 古川多兵衛 八峯 佐野徳兵衛 家六 岡坂甚四郎 (一宿)
谷田 牛田武之丞 本村 稲毛千賀助 (一宿)
所村 与平次 新谷村 牛田藤七 
猪の鼻 磯平 
渕野 次郎蔵 
樫原 梅之助、藤八 
明神 古川嘉太郎 中熊八百蔵 
中熊 源次郎 
川奥 西岡忠太郎 (一宿)
美角 七兵衛
 横畑  拾右衛門 (一宿)
堀田 林兵衛
前の川 御世話人
来田監物から宮本家へ宛てた書状からは、勝浦、川東、中通の三村で22軒の檀那(伊勢太夫に奉仕する家)があり、これを五泊六日で巡回していたことが分かります。

横畑の宮本家は伊勢太夫の世話をよくしたので、その功により「川崎屋」という屋号を与えられていました。文政以後は、来田監物の代理として佐伯佐十郎が村々を廻ったようで、宇足津の村松屋(都屋)伊兵衛が連絡所になっていました。集められた高松藩や丸亀藩の藩札は、ここで金に両替されて伊勢に持ち帰ったようです。

 生駒騒動によって、生駒藩が転封になったあとは、讃岐は次の東西2つの藩に分割されます
①寛永18年(1641)9月 山崎家治が西讃5万石余を与えられて丸亀藩主へ
② 翌19年(1642)2月、松平頼重が東讃12万石を与えられて高松藩主へ
そして、満濃池の管理のために天領・池御領が置かれることになります。池御領は、二つの藩の境目と金毘羅神領に接した那珂郡の五條・榎井・苗田の三村領(天領)と、満濃池周囲の幕府領七ケ村領を含みます。
池御両郷帳(榎井・五条・苗田)図
満濃池水掛村々之図(明治)
上図では、以下のように色分けされています
黄色 天領池御領(五条・榎井・苗田の三村)
赤  金毘羅大権現 金光院領
桃色 高松藩領
草色 丸亀藩領
白色 多度津藩領
この絵図からは次のような事が読み取れます
①土器川を越えて、高松藩領が丸亀平野に伸びていること
②高松藩と丸亀藩の藩境は、金倉川であったこと
③丸亀城の南側は高松藩領で、満濃池の最大の受益者は高松藩であったこと
④天領3村が、金毘羅寺領に接する形で配置されていること
⑤同時に、天領3村が高松藩と丸亀藩に挟まれる形になっていること

P1240826
天領池御領(黄色)と金毘羅寺領(赤)

どうして、この3つの村が池御料に指定されたのでしょうか。

それには、次の2つの説があるようです。
一つ目は「東西領検地等の打ち余り(余り領地)によって設けられた」という説です。しかし、これは俗説です。
以前にお話したように、幕府は讃岐を東西に分割する際に、現地に派遣した担当老中に「東西=2:1」で分割せよという指示を出しています。そして、指示を受けた老中は、生駒騒動の前に本国・伊賀の藤堂藩に帰国していた西嶋八兵衛を讃岐に呼び出して、旧知の庄屋たちと綿密な打合せさせた上で「線引き」をしたことは以前にお話ししました。  
「高松藩政要録」には、天領設置について次のように記します。

右池(満濃池)成就の後、歳も経るまま費木も朽懐て、同(寛永)十八年修造を加へんとせしかど、生駒家国除の後なれば、木徳村の里正四郎大夫といえるもの、幕府へ訴え出でけるに台命ありて、五条・榎井・苗田を池修補の料に当てられける故に、今、此の村を池御料といいしなり
  意訳変換しておくと
満濃池が完成してから、年月が経過して底樋やゆる木も痛み、生駒家の転封直後の(寛永)18年(1641)に修築願いを、木徳村の里正四郎大夫という者が幕府へ訴え出た。そこで幕府は、五条・榎井・苗田を池修理基金にあてるようにした。これを今では池御料と呼んでいる。

ここには「五条・榎井・苗田を池の修理基金」とするために天領にしたと記されています。それでは、なぜこの三村が選ばれたのでしょうか。江戸幕府は、大名の改易や領地替えで藩の境界を改める時には、藩境に楔を打ち込む形で、藩境の重要地帯を天領とするのが常套手段でした。満濃池は「戦略的な要地」で、この池からの水で丸亀平野では米作りが行われています。その運用権を幕府が握っている限り、丸亀藩や高松藩は幕府には逆らえません。天領・池御領は、丸亀藩と高松藩の間に打ち込まれた「楔」であり、満濃池管理という戦略的意味も持っていたと、研究者は考えています。

決壊中の満濃池
   讃岐国那珂郡満濃池近郷御領私領図(香川県立ミュージアム)
     (緑が高松藩・黄土色が丸亀藩・白が池御領)
高松藩と丸亀藩との藩境の決定には、細かい政策的配慮が払われていことは以前にお話ししました。
  例えば、丸亀平野の南部(まんのう町旧仲南地区)では、次のように細かい分割が行われています。
①七ケ東分の久保・春日・小池・照井・本目と福良見の東部を高松藩領七ケ村(上図緑色)
②七ケ西分の新目・山脇・追上・大口・後山・生間・宮田・買田を、丸亀藩領七ヶ村
③七ケ東分の帆山と福良見の西部を加えて丸亀藩領七ケ村として、七ケ東分を二分
④さらに福良見村を三分している
福良見と帆山
福良見と帆山(まんのう町)

この線引きを行ったのが、藤堂藩から呼び返されていた西嶋八兵衛であることは、以下でお話ししました。


彼は、満濃池築造と同時に用水路を建設して、その水配分にまで関わっていました。その際に旧知となった庄屋たちから意見を聞いて、今後に問題を残さないように、野山(刈敷)の入山権利に至るまで一札をとっています。このような綿密に計算されて上で藩境は決定されているのです。池の領が「東西領検地等の打ち余りによって設けられた」というは、それらの「遠望思慮」が見えない人達の風評と研究者は評します。

満濃池から塩入2
満濃池西部の高松藩と丸亀藩の藩境・七箇村周辺絵図

 池御料の設置は、灌漑上の重要ポイントある満濃池と、その水掛かりの重点である三村を天領として抑えて置く、という幕府の常套的政策であったことを押さえておきます。

新たに設置された天領・池御領を管理したのは、だれなのでしょうか?
寛永19年(1642)に池御料が置かれてから、元禄三年(1690)まで49年間、守屋家が代官として池御領を支配することになります。
  幕府は、この時期になると新しく天領にした所では、現地のやり方や支配関係を継承して、急速に改めることを避けるようになります。「継続・安定」を重視して、在地の土豪を代官に任命するやり方をとりました。池御領の代官についても、まずは地元の最大の有力者である金光院主に代官就任を請います。しかし、金光院主の答えは「大恩ある生駒家の不幸を考えると受諾することができない」というものでした。そこで那珂郡の大庄屋で、金毘羅大権現の庄官でもあった与三兵衛を代官に任命します。
 与三兵衛は、守屋与三兵衛と名を改め、苗田村に政所を置いて、幕臣として満濃池の管理と池御料の統治に当たることになります。

守屋家代官所跡


代官となった与三兵衛に課せられた職務は、次の通りです
①満濃池の維持管理と配水
②池御料三か村の治安の維持と勧農
③豊凶を確かめて年貢高を決定し、徴収した年貢を勘定奉行に納める
こうして幕臣となった守屋与三兵衛は、従来よりも遙かに多くの責務を担い込むことになります。このため周囲の金光院や他の庄屋たちからは、「代官になってから高慢な態度をとるようになった」と非難を受けるようになります。また、金毘羅大権現の金光院からも氏子としての勤めを十分に果たさないと批判されるようになります。

 正保2年(1645)9月に、高松藩江戸家老彦坂織部から、金光院宥睨(ゆうげん)に宛てた手紙には、次のように記されています。

会式(えしき)の時分、随分よき様に成さるべく候、江戸元へ池守子五右衛門参り候間、御手前へ少しも如在申さず会式の時分も様子もよく親子共に申し付くべき由、急度申し付け候間、其の御心得有るべく候、四条の政所も如在致さず候様にと申し遣わし候、御手前よりも五右衛門万事能く申し付けくれ候様にと仰せらるべく候、拙者方よりも御手前へ申越候と仰せらるべく候、池領弥無(いよいよ)左法仕り候はば、おや子共流罪に申し付くべき由重ねて申し渡し候間、様子もよく候はんと存じ候 
            琴陸家文書「御朱印之記」
 
意訳変換しておくと
(金毘羅大権現の)会式(えしき:法会の儀式の略称で10月12・13日)の頃で、盛大な儀式が行われたことであろう。江戸の私の所へ「池守子」の守屋五右衛門がやってきたので、御手前(金光院)のことについては、何も触れずに、会式についての協力・参加するなど金毘羅大権現の庄官としての勤めを果たすよう要望した。四条の政所についても、金光院に対して従順でない態度を改め指すように申し伝えた。御手前から五右衛門のことについて、「注意指導」を行って欲しいとのことであったので、以上のように申し伝えたことを、知らせておく。
 また池領のことについては、代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつけるまで云ってある。   琴陸家文書「御朱印之記」
ここからは、次のようなことがうかがえます。
①金毘羅大権現の荘官としての勤めを果たない池御料代官の守屋与三兵衛に対して、金光院主は日頃から不満を持っていたこと。
②その不満を高松藩江戸家老に、常々伝えて「指導改善」を求めていたこと。
③その意を受けて江戸家老は、訪ねてきた守屋与三兵衛に対して、「代官としての権威を振り回して、庄官としての勤めを果たさなければ、親子共流罪を申しつける」とまで、云ったこと
④江戸家老は「池守子」五右衛門と蔑称した表現を手紙の中で用いていること。
⑤金光院主と江戸家老が懇ろな関係にあり、両者の守屋与三兵衛に対する評価が低いこと
このような「指導」をうけたためでしょうか。

正式な起請文の例
正式な牛王起請文
守屋与三兵衛は、正保4年11月10日に、次の記請文を金毘羅大権現に奉納しています。
敬白起請文の事
一  満濃池修覆料として高二一二九石四斗九升弐合の所、外に酉(とり)の年より百姓共改め出しの高四四石五斗五升、共に私支配仰せ付けられ候条、万事油断なく精出し申すべく候
一 満濃池用水掛りの郡村中、先規の如く分散仕り、贔員偏頗(ひいきへんば)無く通し申すべき事
一  池御料御勘定の儀は、高松御役所、山崎甲斐守殿御奉行御両所へ御手短を以て、五味備前守殿へ毎年入用の勘定仕るべく候
一 右違背せしむるに於ては、梵天帝釈四天を始め奉り、惣じて日本六十余州大小神祗、殊には伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、別しては氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
  意訳変換しておくと
一  満濃池修繕費として、天領年貢収納石高2129石ばかりの収入がある外に、酉(とり)年よりの百姓共改出約44石を、私は万事油断なく精出していく立場にある。
一 満濃池の用水掛りの郡村は、ひろく分散しているが、贔員偏頗(ひいきへんば)なく、用水を分水する。
一  池御料の収支決算については、高松藩や山崎(丸亀)にも説明協議を行いながら、五味備前守(幕府の奉行職?)殿へ収支決算を行う。
一 これに違背した場合には、梵天帝釈四天を始め、日本六十余州大小神祗、加えて伊豆箱根両大権現三嶋大明神 天満大神、さらには氏神金毘羅大権現御部類春属の神罰を罷り蒙る可き者也
仍て記請文件の如し(以下牛王誓紙)
正保四年(1647)霜月十日 守屋五右衛門書判・印判、血判、
 この起請文は、日付と署名の箇所は牛王誓紙で、書判・印判血判が据えられています。
牛王法印
牛王法印
先ほど見た江戸家老の彦坂織部の書簡と、この起請文とは互に関連しているようです。つまり、幕府の代官となった守屋与三兵衛の態度が不遜になって来たので、高松藩と金毘羅当局で、それを抑える考えから、起請文を納めさせたようです。この起請文からは、代官守屋家は、金光院院主と高松藩から睨まれていて、基盤も脆弱であったことがうかがえます。
琴平町苗田天領代官所跡
天領代官所跡(守屋家 琴平町苗田)
苗田村の守屋家は、古くから金毘羅祭に奉仕する世話役である庄官の家筋でした。
守屋家一門の与三兵衛も、代官就任前の寛永八(1631)年や同十五年には子供の卯太郎・安太郎を頭人に立てるなど勤めを果しています。しかし池御料代官になってからは頭屋勤めから離れるようになったようです。そのため寛文八(1668)年十月には、榎井・五条・四条・苗田の各村の庄屋仲間から、来年は是非勤めをするようにとすすめられ、翌九年には子どもの権三郎を頭人に立てています。
 しかし、代官守屋家は結局は、次のように「失脚」してしまいます。
寛文11年(1661)与三兵衛義和が二代目を継職
貞享2年(1685)  助之進義紀が三代目を継職
元禄3年(1690)  助之進義紀が代官職を罷免
この「失脚」は、将軍綱吉の「代官に対する綱紀粛正政策」によるもののようです。代官は年貢の決定権を握っており、年貢米の一部を売却して幕府の勘定奉行に納める義務があります。その際に、百姓の年貢の未進分は代官の責任とされていたので、不正が多かったようです。綱吉は、この時に全国の代官の半数に近い三十数人の土豪的代官を罷免して、幕臣を新しい代官に任命しています。
  以後の池御領は、短期間の内に、京都町奉行所・松平讃岐守(高松藩)・大坂町奉行所・倉敷代官所などの「預り所」として移り替わっていきます。これについては、また別の機会に見ていくことにします。
私が気になるのは、生駒藩の下で満濃池池守となっていた矢原家がどうなったのです?

諏訪三島神社・矢原邸・神野神社
      讃岐国名勝図会に描かれた矢原邸(満濃池の下手)

 寛永八年(1631)に生駒藩時代に再築された満濃池の池守には、西島八兵衛に協力した矢原又右衛門が任命されました。 生駒家の下では、矢原家は満濃池管理の実質的な最高責任者でした。ところが天領が設置され、守屋与三兵衛が代官(幕臣)として、就任することになったのです。守屋家と矢原家の関係は、生駒藩の下では、次のような関係でした。
矢原家 満濃池池守 扶持(50石)
守屋家 造田村庄屋
つまり、矢原家の方が上にあったはずです。
それが、天領・池御領設置で、どう変化したのでしょうか?
その関係が垣間見える史料があります。延宝六年(1678)の春から夏にかけて、満濃池用水の管理について、池御料代官守屋与三兵衛が池守の矢原利右衛門に宛てた、指図書の写しです。
その中の六通には、次のように記されています。(満濃池旧記)
① 四条村の内ふけ・らく原水これ無く、苗代痛み申し候間、うてへの水少しはけ候て遣さる可く候、念を入れらる可く候
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
① 四条村の内ふけ(福家)・らく原には、水が不足し、苗代の苗が痛んでいるとという申し入れがあった。うめて(余水吐け)への水を少し落として、水を送るように、念を入れること
以上
四月廿六日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
② 手紙にて申し入れ候、昨日揺落し候様に申し遣わし候、又々抜き申す様に申し入れ候、下郡より右の通りにわけ三度申し入れ候、今朝下郡より最早水いらぎる由申し来り候間早々揺差し留め下さる可く候、少しも油断なされ間敷そのためかくの如く候以上
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
意訳変換しておくと
② 昨日、手紙にて、ユルを落とし、水を止めるように指示したが、又々、ユルを抜くように申し入れる。今朝になって、下流域の郡から水を送るように三度申し入れがあった。いずれ、下郡よりまた水は不用との連絡が来るであろうが、その時には、早々にユルを落として水を止めて欲しい。少しの油断もできない状態にある。
五月廿五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
③ 手紙にて申し入れ候、然れば上の郷(かみのごう)水これ無く、植田痛み申し候由、断りこれ有り候間ゆる四合斗り抜き落し下さる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
④ 吉野桶樋(おけどい)掛りの田、大貝・黒見水これ無く候由、断りこれ有り候間、其の元見合に遣わさる可く候、念を入れらる可く候以上
六月廿一日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑤ 上の郷、水これ無く田痛み申す由、断りこれ有り候間、ゆる見合にぬき落し下さる可く候、委細はこの者口上にて申し上ぐ可く候以上
七月十五日          守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
⑥ 公文高篠より水上り参り候間、早々ゆるさし留め下さる可く申し入れ候、そのためかくの如くに候以上
八月八日           守屋与三兵衛
矢原利右衛門殿
ここからは、満濃池の管理については、苗田の守屋家の代官が指示を出して、それに従って池守・矢原家が、ユルの扱いを行っていることが分かります。つまり、守屋家が上、矢原家はその下、という上下関係になります。天領設置で、両者の関係が逆転したのです。
これを矢原家の当主は、どう受け止めたのでしょうか。
守屋家と身分が逆転した矢原家は、貞享三寅年(1686)12月の利右衛門の病死後、池守職を離れています。池守給25石は利右衛門の子、又右衛門の持高となります。また山守給の一部として与えられていた満濃池周辺の山林も、一部が開墾されて元禄11年(1698)の検地で年貢地となり、天領七箇村の石高は50石1升8合となります。(『政要録写』)
 一方、守屋家の代官職は寛文11年(1671)に与三兵衛義和が二代目を継ぎ、貞享2年(1685)に助之進義紀が三代目を継ぎます。しかし、助之進義紀は元禄3年(1690)に代官職を罷免されています。
 以後、池御料は京都町奉行所、大阪町奉行所、高松藩の松平讃岐守などの御預かり地となり、元文4年(1739)から倉敷代官所の支配地となります。こうして満濃池の管理は、倉敷代官所の幕臣によって間接的に行われることになりますが、実質的管理・運営は池御料三か村の代表庄屋が握ります。そうなると御料三か村(天領)が、他の水掛かりの村々よりも優越した立場に立てます。満濃池揺替普請も宝永三年(1706)以後は、国役普請となり天領の庄屋たちが差配指示を行うようになります。その後の文政10年(1827)からは、自普請になりますが、管理運営権は天領3ケ村が握り、明治維新を迎えます。この池の御領という満濃池の維持・管理権をテコに、3ケ村は周辺の村々に対して、自己の力を示威したり、高圧的な姿勢をとるようになります。それが土器川周辺の出水からの水騒動を招くことになります。そして、七箇村念仏踊りの解体へととながることは以前にお話ししました。
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参考文献
町史ことひら(近世編)20P  池御料の成立と統治    












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