瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:まんのう町造田

 以前にお話しした西村市太夫が髙松藩に報告した殿様の「鷹狩りルート」の絵図中に、「中寺」と「犬頭」という地名がありました。

西村家文書 柞野絵図2
まんのう町造田の柞野周辺の絵地図(中寺・犬塚・三つ頭が見える)

中寺は中寺廃寺跡のことで、19世紀前半の地元の庄屋がここに寺院があったことを知っていた史料として意味があることをお話ししました。もうひとつの「犬頭(塚)」については、その由来を物語る伝説が琴南町誌の中にあります。今回は「大林英雄 高清左衛門の伝説と畑恒信の犬の塚 琴南町誌1068P」を見ていくことにします。髙松藩は殿様の鷹狩りの際に、造田村庄屋・西村市太夫へ「ルート上の名所旧跡を報告せよ」と命じています。それに対しての報告書が以下の文書です。(意訳変換)
一 鷹狩りコース上にある犬の墓と寺地(中寺)への距離や由緒について以下のように報告します。
一 末寺ノ岡犬の基
 鷹狩りコースから約五丁(550m)ほどで、往復1,1㎞になります。ここには古くから墓があり、その子孫の者もいます。天明年中に内田免の道筋には別紙のような墓も建てられました。格別子細も伝承していないようです。
一 中寺堂所
コース上から約2丁ほどで、往復四丁になります。昔から「石の□等」と伝わりますが、寺号等は分かりません。右の通リニ御座候、以上
「末寺の岡 犬の墓」が地図上の「犬頭」のようです。そうだとすると、位置的には中寺の手前のピークあたりになります。
犬塚については、堀川碧星の「美合村」に収録された「甲瀬(高清)左衛門の話」(琴南町誌1068P)を、少し長いですが全文を見ていくことにします。

甲瀬は甲瀬村にて此甲瀬の左衛門なるに付世人甲瀬左衛門と言ふ。初め大川山の怪物が居るとの事を聞き打ち取らんとて尋ね来りしが居らざりしかば造田村の柞木野(柞野)に来り松字ケ岡と言へる山の上にて一つの大松の根本に腰打ちかけ疲労の為居眠りなし居りたり。然るに連れ来りし一匹の大が突然大声にて吠へて止まず。左衛門目覚めいくら静止なしたれども其効なく左衛門の心持よき眠りを醒し尚且静上をきかぎれば大いに怒り持ちたる刀を抜きて犬の首を切りたり。首飛びて後の大松に飛び行けり。左衛門ふり返り眺むれば一匹の三つ頭ある大蛇其大松の枝に跨り目は違々と輝き大なる口をあけ火の如き赤き舌を出し今にも左衛門に飛びかヽらんとする気配なり。左衛門驚きよく眺むれば件の犬の首大蛇の喉に食ひ付きゐるなり。左衛門直に鉄砲のねらひ定めよく撃ちたり。然れども大蛇は死さずして傷き何処へか逃げ行きたり。
 
  若しこの時犬吠へざれば左衛門の命はなかりしなり。左衛門初めてその犬の吠へて止まざりし所以を知り深く憐み厚くその地に葬りたり。即ち犬は主人の危難を救ひて身代りとなりて死したるなり。これ三つ頭にある犬の塚俗称犬の墓にして大蛇の頭三つありたるに付この地を三つ頭と言ふ。又その近くに蛇のくぼ(窪)と言へる所あり。こゝに大蛇が棲み居しなり。これ中寺と言へる山の下にしてこの山最もこの辺にては高く山上に一つの寺ありたればこの山を中寺と言ひ又下の谷にかねのくばと言へる所あり、この寺の鐘を埋めたりければこの地をかねのくば(鐘の窪)と今も言ふなり。その大蛇は俗称猫また山猫の年古りて人を食ひ人をばかすものがばけたるものなりしなり。

意訳変換しておくと
阿波の甲瀬村に甲瀬左衛門という狩人がいた。大川山に怪物が現れると聞いて、探索したが見つけられず、造田村の柞野の松字ケ岡というる山の上の大松の根本に腰を下ろして、疲れ果てて眠り込んでしまった。ところが連れて来た2匹の犬が突然、吠へたてた。左衛門は目覚めて、静止させるが云うことを聞かない。左衛門は眠り覚まされた上に、云うことを聞かないことに激怒して、刀を抜きて犬の首を切った。首は後の大松に飛んだ。左衛門が、ふり返ると三つ頭がある大蛇がその大松の枝に跨り、目を輝かせ、大きな口をあけ、火のような赤き舌を出しで。今にも左衛門に飛びかかろうとしていた。左衛門は驚きながらよく見ると、切り落とした犬の首が大蛇の喉にくらいついている。そこで左衛門はすぐに、鉄砲のねらいを定め撃った。しかし、大蛇は傷つきながら果てず何処へか逃げ去った。

もし、犬が吠へなければ左衛門の命はなかったはずだ。左衛門は、犬の吠へ止まなかったことの理由を知って、深く憐んで厚くその地に葬った。犬は主人の危機を救って身代りとなりて死んだことになる。これが三つ頭にある犬の塚(俗称犬の墓)で、現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。その近くには「蛇のくぼ(窪)」と云うところもある。ここが大蛇が棲みついていたところである。これは中寺と呼ぶ山の下にあたる。中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。また、下の谷に「かねのくぼ」という所がある。ここは、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる。その大蛇は「猫また」と呼ばれ、山猫が年老いて怨霊となり、人を食ひ、人をばかすようになったものが化身したものだったという。

ここには地名の由来について、次のように記されています。
①現れた大蛇の頭が三つあったので、この地を三つ頭と呼ぶ。
②三つ頭には犬の塚(俗称犬の墓)がある
③犬塚の近くには大蛇が住み着いていた「蛇のくぼ(窪)」がある
④「蛇の窪」は、中寺と呼ぶ山の下にあたる。
⑤中寺の山上には、一つの寺があったので、この山を中寺と呼んだ。
⑥下の谷の「かねのくぼ」は、中寺の鐘を埋めたので「鐘の窪」と今でも呼んでいる
続いて見ていきますが、以下は意訳のみを挙げたおきます。

 左衛門は、討ち逃した大蛇の傷口から点々と落ちた血の跡を道々追いかけて造田村柞野の大家までやってきた。すると、大蛇はその家の老婆を食ひ老婆に化けていた。左衛門はこの老婆こそが魔物の化け物と見抜いて、一気に打ちとろうとした。しかし、当家の者たちは、我が家の老婆に何をする。老婆は魔物ではないと左衛門を留めた。そこで左衛門は、この老婆は夜中に便所へ行ったかどうかと訊ねた。すると家人は行ったと答えた。その時に魔物に食われ、魔物が老婆となりて化けているにちがいないと云って、直ちに老婆を打ち殺した。家人は大いに驚き怒り、集まってきた附近の者と、手に手に棒刃物等を持って左衛門をたたき殺そうとした。左衛門は、これ魔物の化けたるものだ。今は夜なれば二十四時間待てば、必ずその正体あらはすと説明したが、聞き入れられずに大勢にたたき殺されそうになった。左衛門は一目散に逃げて上内田まで逃れた。しかし。経緯を聞いた近隣の者達が大勢集まり、左衛門を大川(土器川)で石こづめにして殺した。

 石こづめとは、川へ追ひ込み四方より石を投げつけて埋め殺すことである。昔は鹿などをこのやり方で捕えたいたと云う。左衛門は死に際に、「我を殺せば必ず将来この上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し、怨み死んだ。「門倉たてさゝぬ」とは、資産家を輩出させないことで、俗に言ふ「はんじょうさヽぬ」である。そのため、左衛門の霊が祟っているためか上内田の地には今も資産家が現れない。今までにも財産家が現れ門倉が建ち始めると、その家に災難が起り、「門倉のたちたる家なし」と云う。

ここまでを要約しておくと
①大蛇は、三つ頭から里の造田村柞野に逃げ、老婆を喰らい老婆に化けた
②左衛門はそれを見抜いて老婆を撃ち殺した。
③しかし、家族や住民の怒りを受けて、上内田まで逃げてきた。
④上内田の住民たちは、 左衛門を土器川で「石こずめ」にして殺した。
⑤左衛門は、祟りとなって「上内田の土地には門倉たてさせぬ」と言い残し怨み死んだ。
続いて、もう一匹の犬のその後を追います。
 二匹いた犬の内で、一匹は松字岡にて大蛇の首に食らいついて死んだ。残りの一匹の犬は、主人の死を阿波国甲瀬村の留守宅へ知らせようとした。左衛門の足の指は一本曲っていたが、これを印にするために噛み切って口に咥えて一目散に走りだした。造田村上内田から美合村中通の下木戸、西桜、本村、本名、野口、皆野の地を過ぎ川東村淵野まで帰ろうとした。このルート上には皆野と淵野の界に土器川があり、ここには橋がなかった。加えて大雨の後で増水し、川幅が広くなっていてた。渡れそうな所を探して、犬は行きつ戻りつを繰り返した。ここが今は「犬の馬場」と呼ばれるようになった。そして、橋を犬の馬場橋と言ふ。犬はついに意を決し濁流の土器川に飛び込み水流に流されながらも、辛うじて向岸へたどり着いた。そして、堀田、尾井手、明神を経て勝浦村を越えて阿波国甲瀬村の留守宅へたどり着いた。
 留守を守りし左衛門の妻は、犬が咥えて持ち帰った曲がった指を見て、主人の身に起こったことを悟った。悲しみながらも主人の最期を確認しようと犬を連れて、造田村上内田の地へ向かった。土地の者に、事件の顛末を聞きいて、大いに悲しみ髪をそり尼となりて左衛門の石こづめにされたる土器川の支流天川に飛び込み主人の後を追った。そのためこの川を尼の川(尼川)と呼ぶようになった。されが転じて天の川(天川)となった。また、この時の犬の墓が、上内田の犬の塚(俗称上内田の犬の墓)である。つまり、犬の塚は三つ頭と上内田と二箇所にあることになる。


こうして見るとこの物語は、次のような地名の由来説きの役割を果たしていることに気がつきます。

中寺・犬塚・三つ頭の由来

この物語を聞くと、地元の地名の由縁がストンと心の中にしまい込まれていく気がします。これを語ったのはどんな人達だったのでしょうか?「地名説き説話」は、全国各地にある物語で、遍歴の聖や修験者がその土地に定着して語ったとされます。庚申講などでは、夜明けまで「日待ち」として、いろいろな話が語られました。その主役となったのは各地を遍歴して「民話収集」していた山伏たちです。荒唐無稽の驚く話も山伏が得意とする所です。そして、大川山周辺には、山伏たちが数多く定着していた痕跡があります。集められた旧琴南町の昔話に出てくる山伏たちの活動も、それを裏付けます。

以上をまとめておくと
①甲瀬(高清)左衛門の話として、大川山周辺に出没した大蛇退治の伝説が語られていた。
②この伝説には、「地名由来説話」としての側面があり、中寺や犬塚などの地名が大蛇退治とともに語られている。
③これを創作して語ったのは山伏たちと考えられる
④同時に、江戸時代後半になっても古代の山岳寺院中寺の記憶は、地元の人達に残っていたことが分かる。
実は、伝説と思われていたこの物語には実在の人物がいたことが、研究者の現地調査により分かります。次回は、史実としての「大蛇退治」を見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献



まんのう町で誕生のコウノトリのひなは2羽と判明 首伸ばし親鳥に餌をねだるなど元気な姿確認【香川】 | OHK 岡山放送

コウノトリが営巣して子育てをするようになったまんのう町造田と内田は、私の原付バイクの散歩コースの一つです。また、阿波へのフィルドワークに向かうときには、内田側の旧道を原付バイクで走ります。ここを走っていて気づくのは、河川跡らしきものが見えてくるのです。これは一体何だろうと思っていると、疑問に答えてくれる文章に出会いましたのでアップしておきます。テキストは「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」です。

造田 天川神社周辺2
天川神社から造田盆地に流れ込む土器川(まんのう町ハザードマップ)
造田とは、江戸時代から昭和31(1956)年までの村名です。
造田盆地の土器川を挟んで東が造田、西が内田になります。地名の由来は、次の2つの説があるようです
A 土器川の洪水によってできた氾濫原に田んぼを造ったので造田
B「サウダ」は遊水地を開拓して作った沢田(湿田)のことで、沢の田から起こった名だという説
文政9(1826)年の造田村については  西村文書には次のように記します。
石高、897石余り
戸数 219(石居 153、掘立66)
人数 922(男495、女424)
職業別人数は、本百姓198 半百姓64 お林守1、刀指1、僧侶2、社人1、山伏3、鍛冶1、猟師1、馬医1、神社7、寺2、庵2、牛57頭、馬4頭
神社は、天川神社と梶洲神社があり、『三代実録』に記載のある古い社です。
外に天神社・久真奴神社などがあるが、山の神社・水除社などの小祠も多い。
寺院は、浄土真宗長光寺・称名寺・真言宗吉田寺があります。
造田は、阿波街道が村を南北に貫通していて、鵜足郡南部の村村の中心的な位置を占めていたことが分かります。

 
造田盆地を貫流する土器川は、氾濫を繰り返してきました。
そのため造田盆地の中央の低地部は、十世紀ごろまでは川の左右に大きな氾濫原(遊水地)があって、ほとんど開拓されていなかったと研究者は考えています。

造田 天川神社周辺

造田地区の地形をみると、天川神社の南で山が両方から迫ってきます。下流では不動さんのところで山が川に迫り、川幅が一番狭くなっています。また、造田と内田は、土器川を挟んで、低地部(下所)と台地部(上所)に分かれている河岸段丘を形成します。この下所と上所の境に1~6mの高さの段丘崖があります。この段丘下を旧土器川が流れていた根拠を次のように挙げます。

造田の土器川氾濫原
造田と内田の土器川氾濫図(琴南町史1057P)

①新井手堰から上内田の石原を通り、段丘崖に沿って下に流れている用水が昔の大束川の河床に沿って流れていること。
②内田の西側の段丘崖は、中内田から下内田のあたりは一面の竹藪だったようで、それが「高藪」という地名として残っていること
③現在の清神原(せいじんばら)の下から小川堰あたりで氾濫水が流れ込み、川になり小川と名付けていること。
④旧県道沿いに堤防を築いてこの水を防いだことが、川原の石を積み重ねただけの幼稚な堤防からうかがえること。
⑤内田下所の田を調べてみると、かつての川の跡を示すかのように、高岸に沿って、一番低い田が、奥から下へ、段々に続いていること。
⑥この田に沿って用水が通っていること。
⑦清神原あたりから一段低い田がずっと字小川まで続いていること。

これらの河川の氾濫原の開拓は、徐々に進められてきたのでしょうが、度々の洪水でその都度水田は流されています。
 開拓の面影を残すものとして、内田下所の所々に今でも石塚が残っています。これは旧土器川の川原を開拓した時に出てきた川石を積み重ねたもので、新しく開かれた開墾地などにはよく見られます。この塚を線で結ぶラインが旧土器川の流路であった研究者は指摘します。
 いつごろから治水に成功して水田を開いたかはよく分かりません。

四国観光スポットblog - 2009年07月
天川神社
伝説によると酒部黒麿が、八世紀ごろ天川付近を開拓し、天川神社の宮田を開いたといわれています。しかし、これをそのまま信じるわけにはいきません。本格的な下所の開拓が始まったのは、江戸期の生駒藩の時代になってからと考えるのが妥当な所です。しかし、治水技術が未熟で、開墾しても洪水の度ごとに、堤防や井堰が決壊して、田畑が荒らされます。それを何年もかかって、元に戻すということが繰り返されたようです。
それは次のような記録から裏付けられます
寛保四年の巡道帳から、元禄・宝永・正徳ごろになると開発田が多くなること
文化二年の巡道帳には、延享・寛政・享和などの時代に「林ニナル」とか、「砂入ル」などの記入があること。
このような中で、卓越した治水技術を盛っていた吉野の大庄屋岩崎平蔵が高松藩の郷普請方小頭に取り立てられます。岩崎平蔵は、藩命によって寛政10(1798)年から11年と、文化9(1812)年から十年にかけての天川大岩切抜普請に取り組みます。一本杉の天川横井の水乗りを良くし、横井から下流300mまでの河床に突出していた大岩を切り開きます。これによって、うなぎ渕付近の岩床が高いために、洪水のたびに水が大岩に乗り上げ、両岸に川水が氾濫していたのを防ぐことに成功します。しかし、これも恒久的なものではありませんでした。時間を経て、岩石や土砂が堆積して川床が再び高くなり、川水が氾濫するようになります。

造田の土器川氾濫原.2JPG

嘉永六(1853)年の絵地図によると土器川は、うなぎ渕から造田免に大きく流れ込み、水は森本集落の高岸にぶち当たり、内田免の清神原から小川あたりに突き当たり、更に下造田の中川宅あたりの高岸に当たり、下内田の水除さんから為久に流れ込んでいます。川は「Sの字」形に、真中に中州をつくりながら流れていたことがこの絵図からは分かります。

江戸末期から明治初期にかけて、この復興のために内田の百姓たちは女子供まで動員しました。「難所普請」と呼んだそうです。これが旧県道治いに三本松から農協裏あたりにかけて、残っている石垣跡です。
造田側では明治20(1887)年ごろになって、やっと本格的な土木工事が行われて、川に突出したような水はねの石塁(直径10m)三か所と、川岸の堤防300mが完成します。この工事の落成を祝って三番雙が演じられたと伝えられます。この堤防を森本堤防といい、現在もその当時の一部が残っています。
 大正元(1912)年の大洪水を、この堤防は水を防ぎますが、下流300mの堤防のない所が決壊して木の下の高岸までおし流されます。その後、大正5(1917)年、県補助の災害防止事業により、土器川両岸の堤防工事が行われます。さらに昭和になってからも、補強工事が行われ、戦後も砂防堰などが建設され、造田住民の長い水との戦いの歴史は幕を閉じ、現在の姿となります。

以上みてきたように造田地区は、古くから土器川の氾濫により、長い間苦しめられてきました。
洪水で、開田した田畑が一夜にして河原になることが度々ありました。治水技術の進んでいなかった当時は人の力ではどうすることも出来なかったのかもしれません。そんな時には、人々は神仏に加護を求めます。人々は、堤防が切れないように祠を建てて水除の神を祀り、水難から除られるよう祈りmした。これが水除社(みずよけしゃ)です。

造田の水除神
水除社
天川の忍石神社(天川バス停の下)は、社伝によると延宝4(1676)年に、内田集落の水害を防ぐために水除さんとして祀ったとあります。祭神は、天忍雲根命(飲料水の神様)・水波女命(あまき水、清き水の神様)・佐太毘古命(猿田彦神)の三神です。これだけではありません。嘉永6(1853)年の大水の時に勧進した水除社が、門屋の稲毛宅の前(造田字大西561番地)にあります。もとは50mぐらい西の高岸の上にあったのをここに移したそうです。水害のあと、ここに高岸を築いて、ここからは水が入らないように神に祈って建てたものと伝えられます。石の小祠が祀ってあって、「嘉永六丑年三月吉日 世話人 平田了吉」外16人の名前がきざまれています。
 平田水車のすぐ東(造田字山下1224番地)にも水除社があります。大正元(1912)年の大水の時も、このすぐ下まで水がきて、平田水車も半分ぐらい流されます。この小祠の中に、古い棟札があり、「明治十五年四月二十七日 奉再造大神官祠」と書かれています。これも再造ですから、もっと古い時代から祀られていたはずです。
 下内田字為久の水除堤防の上にも石造の祠があり、古くから水除さんと呼ばれています。ここは昔からよく堤防が切れたところのようで、今は頑丈な堤防が築かれています。
 隅田宅の裏(造田字小川1547番地)にも石造の水除社があります。ここも土器川の水が増水するたびに、水びたしになっていたところです。
これらの水除社の祭神は天照大神です。天照大神は水の神として別名は、「あまざかるむかつひめ
の命」とも言われているところから水防の神として祀ったとされます。
 こうしてみると造田地区には、残っているものだけで水除社が五社もあります。この外に流水の分配をつかさどる神として、水分社(祭神天之水分神、国之水分神)が三社があります。ここからは造田地区の人々が洪水に悩まされ、加護を神々に祈る姿が見えてきます。昔の人々は、これらの神々に祈りを込め、土器川の氾濫を防ごうと考えたのでしょう。

以上をまとめておくと
①まんのう町(旧琴南町)造田地区は、盆地の中を土器川が貫通していく。
②そのため洪水時には、土器川は暴れ川となって盆地を何本もの水流となって駆け下った。
③生駒藩になって土器川沿いの氾濫原の開発が進められ、造田も開発田が増えた。
④しかし、襲い来る洪水が開発した水田を押し流し、再び川原や遊水地とすること繰り返された。
⑤人々は土器川沿いに水除社をいくつも建立し、水害からの加護を願った。
⑥土器川の治水コントロールが可能になるのは、近代になってからのことだった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「大林英雄  土器川の氾濫原に開けた集落 造田  琴南町誌1054p」

  前回は金毘羅商人の油屋・釘屋太兵衛が経営拡大のために、周辺の村々に進出して水車経営に参入しようとした動きを見ました。今回は、金融的な進出を見ていくことにします。江戸時代後半になると金毘羅商人たちは、周辺の田地を手に入れるようになります。金毘羅は寺領で、髙松藩からすれば他領に当たります。他領の者が土地を所有するというのは、近世の検地の原則に背くものです。どうして、金毘羅商人たちが髙松藩の土地を手に入れることができるようになったのでしょうか? これを髙松藩の土地政策へ変遷の中で見ていくことにします。  テキストは「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」です。
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 金毘羅商人が、金融面で郷村に進出するのは、凶作などで年貢が納められずに困っている農民達に、資金を貸し付けるというパターンです。
実際には、借りる側は蔵組頭や庄屋が借り手となって、質入れの形式をとります。その際に、抵当物件として田畑の畝高や石高、自分林の運上銀高を手形に書き入れ、米盛帳(有畝と徳米を記入したもの)を添付しました。これが返済できないと抵当は貸し手の金毘羅商人渡ることになります。そういう意味では「金融面での進出=入作進出」ということになります。しかし、このような百姓への貸し付けが本格化するのは19世紀になってからでした。
それまでは、幕府は寛永20(1643)年2月に田畑の永代売買を禁止していました。
その背景には次のようなねらいがありました。
①凶作などで自作農が田畑を売却して、貧農に転落するのを防止すること
②抵当地の勝手な売買で、領主の領知権と年貢の収納権が侵されることを防止すること
この時点では、質流れによる田畑所有権の移転は認められませんでした。そのため田畑を担保にして百姓に資金を貸すと云うことは大手を振っては行われなかったようです。
  幕府が田畑の永代売買禁止を転換するのは元禄7(1694)年でした。
幕府は質入れの年季を10年に限り、質入れ証文を取り交わしている土地については質流れを許します。つまり、質流れによる田畑の所持権移転を認めるようになったのです。続いて、寛保2(1742)年に制定された「公事方御定書」には、次のように規定されます。
①百姓所持の田畑を質入れし、質流れによって所持権が移転することが法的にも認める
②不在地主が小作地から小作料をとることも公認され保障される
こうして百姓の所持する田畑は、質入れ、質流れの場合は所有権が移転できることになります。その2年後には「田地永代売買禁止令」の違反罰則が、軽微なものに改正されて、実質的に撤回されます。こうなると生産性の高い耕地は有利な投資先と見られ、都市部の富裕層からの融資対象になります。
これを受けて高松藩も、田畑所有権の移転を認めるようになりますが、それには厳しい制限を設けていました。
具体的には、田畑や百姓自分林の質入れ手形に、村役人全員の連署を求めています。時には大政所の奥書きも要求して、田畑や自分林の質流れによる譲渡を押さえる政策をとってきました。
それが転換されるのが文化2(1805)年です。
  高松藩は、財政改革のために年貢の増収を優先させ、田畑が誰の所有であるかは後回しにするような政策をとります。それに伴って新しい順道帳を村々に交付しています。その中には、百姓の田畑所持権が移転した場合の順道帳の取り扱い方についても指示しています。その様式を見ると、売券のそれまでの常用文言であった「年貢上納不罷成」の言葉が、「我等勝手筋有之」に変わっています。これは「年貢が納められられないので土地を手放す」から「勝手都合」で田畑を売買することを容認していることがうかがえます。
文化9(1812)年の勝浦村庄屋日帳(「牛田文書」)に出てくる「永代田地譲渡手形の事」の様式を見ておきましょう。
「右は我等勝手筋有之候に付、此度右畝高の分銀何貫目請取、永代譲渡候間云々」
「田地売主何右衛門」
などと書くことことを指示しています。 ここから「高松藩の田畑譲渡が公認」されたことが分かります。以後、生産性の高い田畑は商人の有望な投資対象となって、田畑や山林の売買が盛んに行われるようになります。次表は、川東村の文化5年から天保10(1839)年までの30年間の「田畑山林永代譲渡手形留」(「稲毛家文書」)を研究者が整理したものです。

「西村文書」享保3年から文化8年までの、通の田畑山林の売買と質入れの証文

川東村の「田畑山林永代譲渡手形留」
この表からは、琴南町の最奥部の川東村でも、多くの田畑の売買が行われていたことが分かります。川東村は畑地が多く、零細な田畑を持つ小百姓が多い所です。この表からは、厳しい自然条件の下で、零細な田畑を耕作し、重税に堪えながら生き続けてきた百姓が、天災や、飢饉や、悪病の蔓延によって、次第に田畑を手放した苦しみが書き綴られていると研究者は評します。

このように田畑が金毘羅商人などに渡り、急速に入作が増加します。
文政4(1821)年の「鵜足郡山分村村調(西村家文書)よると、その比率は次の通りです。
A 炭所西村村高760石余りのうち、入作は86石2斗  (11%)
B 長尾村村高1029石余りのうち、入作は74石6斗6升(7%)
Bの長尾村の入作の内訳は、次の通りです。
①高松入作  5石4斗6升4合
②金毘羅入作  1石2斗8升2合
③他村入作 13石3斗5升2合
④他郡入作 40石4斗3升5合
⑤池御料榎井村入作 14石1斗3升
これをみると金毘羅・池御料・高松からの入作が見られます。①の高松からの入作については、鵜足郡の大庄屋を務めた長尾の久米家が、高松に移っていたので、その持高のようです。⑤の榎井村からの入作は、榎井東の長谷川佐太郎(二代目)のものです。

西村家の「炭所東村田地山林譲渡並質物証文留」(西村家文書)からは次のような事が分かります。
①金毘羅新町の絹屋善兵衛は二件の質受けと二件の貸銀を行い、その質流れで田畑譲渡を受けた。
②善兵衛は、造田村や川東村でも活発な金融活動を行って、多くの田地を手に入れている。
③池御料榎井村の長谷川佐太郎(二代目)和信も、田畑や山林を抵当物件として、5件の質受けを行っている
これらの質請け(借金)は、年貢を納める12月に借りて、翌年の10月に収穫米によって支払われることになっています。その利率は月一歩三厘~一歩五厘と割高で、数年間不作が続けば、田畑や山林を譲渡しなければならなくなります。
 年貢の納入は個人が行うものでなく村が請け負っていたことは以前にお話ししました。そのため百姓が用意できない未進分は蔵組頭が立て替えたり、藩の御金蔵からの拝借銀によって賄れました。それができない時は、町人から借銀して急場を凌ぐことになります。それが返せないとどうなるのかを見ておきましょう。
鵜足郡造田村造田免(現琴南町造田)の滝五郎は、天保9(1838)年に蔵組頭に選ばれます。
ところが彼は、3年後に病気のため急死してしまいます。この時期は大塩平八郎の乱が起きたように、百姓の生活が最も苦しかった時期で、年貢の未納が多かったようです。そこで滝五郎は、天保11(1840)年7月に、榎井村の長谷川佐太郎から金30両を借り入れます。ところが滝五郎が急死します。そこで長谷川佐太郎は、造田村の庄屋西村市太夫に借金の肩替わりを要求します。市太夫は、天保12年10月に新しく借用手形を入れ、元金30両、利息月1歩3三厘、天保13年5月に元金返済を約束して、今までの14ケ月分の利子を支払っています。そして、市太夫は約束通り、支払期日までに藩からの拝借銀で元金と利子を支払っています。ちなみに、ここに登場する西村市太夫は、金毘羅商人の釘屋太兵衛の義弟で、二人で水車経営などの商業活動を活発に行っていたことは前回にお話ししました。
ここに出てくる榎井村の長谷川佐太郎の持高を見ておきましょう。
天保8年(1837)8月29日付けで、造田村庄屋の西村市太夫から鵜足郡の大庄屋に報告された文書には、造田村への他領民の入作について次のように記します。
一 高拾九石七斗九升七合   造田免にて榎井村長谷川佐太郎持高
一 高壱石四斗弐升九合    内田免にて同人(長谷川佐太郎)持高
 〆弐拾壱石弐斗弐升六合
一 高壱石三斗七升四合    金毘羅領 利左衛門持高
造田村の村高は、891石3斗8升6合です。長谷川佐太郎(二代目)の入作高は、造田と内田で併せて10石あまりだったことが分かります。これは造田村では庄屋の西村市太夫、蔵組頭の久保太郎左衛門に次ぐ3番目の地主になります。このように金毘羅周辺の村々の田地は、担保として有力商人たちの手元に集まっていきます。
高松藩では、弘化2年(1845)7月に、この「緩和政策」を転換します。
次のような通達を出して、他領者の入作と他領者への入質を禁止します(稲毛文書)
郡々大庄屋
只今迄、御領分ぇ他領者入作為仕候義在之、 別て西郡にては数多有之様相間、 古来より何となく右様成行候義、 可有之候得共、元来他領者入作不苦と申義は、御国法に有之間敷道理に候条、弥向後不二相成候間、左様相心得、村役人共ぇ申渡、端々迄不洩様相触せ可レ申候。
(中略)
他領者ぇ、田地質物に指入候義、 向後無用に為仕可申候。尤是迄指入有之候分は、 追て至限月候へば詑度請返せ可申候。自然至限月候ても返済難相成、日地引渡せ可申、至期候はば、村役人共より世話仕り、如何様仕候ても、領分にて売捌無滞指引為致可申候。
意訳変換しておくと
各郡の大庄屋へ
これまで髙松藩領へ他領(金毘羅領)から入作することが、(金毘羅に近い)藩西郡では数多く見られた。 これは慣行となっているが、もともとは他領者が入作することは、国法に照らしてみればあってはならないことである。そこで今後は、これを認めないので心得置くように。これを村役人たちに申渡し、端々の者まで漏れることなく触れ廻ること。
(中略)
他領者へ、田地を質入れすことについても、 今後は認めない。すでに質入れしている田畑については、返済期限が来たときに担保解消をおこなうこと。期限が来ても返済ができない場合は、引き延ばし、村役人の世話を受けても返済すること。いかなる事があっても、領内における担保物権の所有権の移動は認めない。
各郡の大庄屋に対して、今後は他領民(金毘羅領・天領)の請作を禁止し、現在の他領民の耕作地を至急請け返すよう命じています。さらに8月23日付けで、入質している田地が質流れになる時は、村役人がどのようにしてでも、その土地を領内の者が所持するようにせよと命じています。その文中には「たとえ金光院への質物たりとも例外でない」という一文が見えます。これは金毘羅金光院の力を背景とした金毘羅商人の融資事業と、その結果として土地集積が急速に進んだことを物語っていると研究者は判断します。そのために先ほど見た長谷川佐太郎の造田や内田の入作地は、庄屋の西村市太夫が買い戻しています。その代銀3貫500目は、年利1割3歩、期間5ケ年の借用手形に改められています。
しかし、通達だけで実態を変えることはできません。
嘉永2(1849)年十月には、高松藩は、文化9(1812)年以来、田畑譲渡手形の中で使用していた、「田畑売主何右衛門」という字句を、「田畑譲渡主何右衛門」と改めるよう厳命しています。さらに大庄屋の裏判を押すこと入作請返しの借銀を励行させて、他領入作を抑えようとしますが、これも効果がありません。
 こうして一般の田畑売買もますます盛んになって、悪質な土地売買業者が横行するようになります。そこで元治元(1864)年、高松藩は回文を出して、土地仲人者の横行徘徊を取り締まるよう求めています。つまり、手の打ちようがなくなっていたのです。「高松藩の土地政策は、他領者入作によって、その一角が崩壊した」と研究者は評します。こうして幕末にかけて、金毘羅商人たちは、周辺への金融進出(高利貸し)を通じて、田畑の集積を重ね不在地主化していくことになるようです。
以上を、まとめておきます。
①幕府は寛永20(1643)年2月に、田畑の永代売買を禁止していた。
②しかし、凶作が連続すると土地を担保にして資金を借りることは日常的に行われていた。
③そこで、金は借りても担保の土地が質流れしないように、各藩はいろいろな制約を出していた。
④髙松藩では19世紀になると「規制緩和」して、田畑を担保物件とすることを認めるようになった。
⑤これを受けて、金毘羅商人たちは有利な投資先として、田畑を担保とする高利貸しを積極的におこなうようになった。
⑥その結果、周辺の村々の田畑が質流れして、金毘羅商人の手に渡るようになった。
⑦この現状の危うさを認識した髙松藩は、1845年に金毘羅商人への田畑の所有権移動を禁じる政策転換を行った。
⑧しかし、現実を帰ることは出来ず商人の土地集積は止まらなかった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「琴南町誌260P 田畑の売買と買入れ」
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阿波デコ廻し6

  仲南町史や琴南町史、山本町史などを眺めていると、「人形回し」や「箱デコ」が讃岐山脈を越えてやってきて各地を巡回し、公演活動を行っていたことが次のように記されています

やまもと風土記 1984年 でこまわし
 暖かい春になると、どこからともなく「でこ回し」のおじいさんが村へやって来て家々を回ります。てんびん棒で担った大きな箱には、古ぼけた人形がたくさん入っていて、好奇心でいっぱいの子どもたちがぞろぞろと後ろに続きました。家の門口で荷を下ろすとおじいさんがしゃがれた声で浄るりを語りながら木箱から人形をとり出して、しばらく演技をさせては止まり木にかけていきます。うなだれて、じっと動かない人形がおじいさんの手に掛かると、たちまち生命を吹き込まれたように表情を表し、手足を動かすのが魔術師のような魅力でした。
 ひととおり人形遣いがすむと、家の人が小さな盆に白米が小銭をのせておじいさんに出します。米を入れる袋も木箱の中にありました。子供がそれをのぞき込もうすると、にこにこしたおいべっさん(えべすさん)の顔がパクリと大口の恐ろしい表情に変わって、追っ払って来ます。人形はまたボロ布のように折り込んで箱に入れられ次の家に向います。
 「どこから来てどこへ行くのだろう」子供たちは、でこ回しのおじいさんが山向こうの阿波の山村から来るのだと教えられて、さらに空想を広げました。

『琴南町誌』(琴南町、1986年)、894
昔は、正月から春にかけて阿波からデコマワシが来ていたが、デコマワシには稲わらを踏んでもらう。そのわらで田植の折に苗束をくくると稲の出来がよいという。

『白鳥町史』(白鳥町、 1985年)、1181P
(大正時代)その他、阿讃山脈を越えてくるものに、箱まわし人形がある。白鳥では「箱デコ」と呼んで親しんだ。箱デコは人形を入れる櫃を間をあけて置き、棒を立てて天秤棒を渡す。金具で三体ぐらい吊しておき、 一人が人形を遣い、他の一人が三味線を弾き浄瑠璃を語るが、口三味線の人もある。人形は五体くらい持って回る。中尾峠を越えて黒川地区へ入ると、泊る家も決まっていて、そこで座敷を借り近所の人が集まって観る。年に二、三回、昭和二十四、五年まで来ていたという。

久米惣七 『阿波の人形師と人形芝居線覧』(創思社1988年)、100P
阿波の「箱廻し」が讃岐へ出稼ぎに行って泊まる宿は「デコ」の宿があるそうで、何十年もお得意の定宿になって、ドコではドコの宿と定つていた。デコの宿は無料であった。デコ廻しの方はそのお礼の意味で、座敷で大いに熱演し、近所からはデコの宿ヘワンサ、ワンサとつめかけて見物し、薄謝の意味で米を少々ずつもらい、これを「宿まわし」と呼んで年二回は阿波から長炭の種子部落を経て岡田方面へ行ったそうです。

ここからは次のようなことが分かります。
①讃岐山脈を越えてデコ廻したちが讃岐にやってきたこと
②デコマワシに稲わらを踏んでもらったわらで、田植の苗束をくくると稲の出来いいと伝えられ、宗教的な信仰や儀礼につながることがうかがえること
③デコ宿という定宿があり「宿まわし」には、人たちがあつまってきたこと
 阿波デコ箱廻し
デコ廻しの箱

しかし、この言い伝えは昭和初期や大正時代のもので、江戸時代のものではありません。
 阿波のデコ廻したちが讃岐にやって来るようになったのは、いつからなのでしょうか。
デコ廻しは、人形浄瑠璃と違って少人数で「戸別訪問」の「門付け」という形を取りました。そのため文字史料として残ることはほとんどありません。ある研究者は、文政三(1820)年に阿波から伊予大洲藩上野村へ三番叟巡業のために来ていたことを明らかにしていていますが、それは興行記録ではなく、病死記録から分かったものです。そんな中で高松藩のデコ廻しに関する史料を紹介した文章に出会ったので紹介します。テキストは「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
阿波デコ廻し14

琴南町誌に紹介されている阿波人形一座の造田村での公演について、見ていきましょう
   阿州芝生村(三好市三野町芝生)は、三好氏の居城があったところで三好長慶の生地でもあります。幕末に芝生村の庄屋を務めていたのが平尾猪平太でした。猪平太の父・平兵衛は、文政~天保頃の芝生村庄屋で、三村用水(芝生村・勢力村・加茂野宮村)の開削を、先代庄屋の平尾集兵衛から受け継ぎ、文政十(1827)年に完成させた人物です。

芝生 三村用水
三村用水トンネル部復元

この用水は当時は徳島藩で最初のトンネル式用水路(311m)部分があり困難を伴ったようです。しかし、そのおかげで通水は安定し、この地区は屈指の稲作地帯となりました。この用水は、今も現役で田畑に水を送り続け、平兵衛の業績は地元で語り継がれ、小学校の社会科教材ともなっているようです。

阿讃国境地図 琴南の峠2

 平兵衛は、天保12(1841)年正月に亡くなっていますが、生前から気にかけていたことがありました。それが阿讃山脈を越えた讃岐側の鵜足郡造田村内田(現まんのう町造田)の吉田寺大師堂の茶場再建です。
吉田寺
吉田寺 まんのう町造田
この大師堂は、阿波街道沿いにあり阿波の人たちにもよく知られていて、霊験あらたかで、阿波にも信者が大勢いたようです。平兵衛自身も「弘法大師信仰」の持ち主だったようですが、その完成を見ることなく亡くなります。その跡を継いだのが平尾猪平太でした。

猪平太は、造田村の庄屋に次のような書簡を送っています
  三 大師堂茶場再建一件

一筆啓上仕候、先以秋冷相催候得共、其御地御家内様御揃御安康に可被成御座候と、奉珍重候、当方無事に相暮居申候間、御安心可被下候、然ば兼て亡父平尾平兵衛より色々御内談申出候、御地大師御茶場再建御伐組、追々御片付に相成、此度地形に御取懸り被成候由、往来の者共より及承候、右に付ては御承知の通、当国人形回しの者数組、備前表へ渡海も仕申候間、右出掛の道筋故、日数三日計地堅めに三番申又踏せ候様被成候ては如何哉、左候得ば、右御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷に相成可申候間、近頃御世話増の御義とは奉恐入候得共、右の段一入御取計被成可被下候、尤右様人形回しの者共、罷越し御世話相成候ても、花代並支度向迄当方にて引請、乍失礼御地の御厄介には仕不申候間、何卒御寄進御聞届被下候様、御取計の程、 一入宜奉願上候、亡父心仰の大師様に付、下拙より此段根に入御願申上候間、返す返すも御世話の程、宜奉願上候、右得貴意申上度如斯に御座候以上、八月廿四日     阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
意訳変換しておくと                                                       
一筆啓上仕候、秋冷の候となりましたが御家族のみなさまご健康のようで安心しております。当方も無事に暮らしていますので御安心ください。さて、亡父平尾平兵衛がそちら方に色々と相談して着工した大師御茶場再建について、用材の切組も出来上がり、いよいよ地形(地堅め)に取り掛かる段取りになったと、阿波街道を行き来する者から聞きました。
 ご承知の通り、当国人形廻し数組が、備前表へ渡海するために丸亀に至る道筋にあたります。つきましては地堅めに三番叟を踏せてはいかがかと思います。茶場の地堅めや五穀成就・悪病災難除御祈祷になりますが、経費増しをご心配になるかと思います。これについては、人形廻しの御世話はお願いしても、花代(経費)や交通費は当方にて引請させていただきます。失礼ながら、そちらの御厄介にはならないようにしますので、なにとぞお聞き届いただけるようにお取計の程、お願いいたします。亡父の大師様への信心でもありますので、私よりお願いするものです。返す返すも御世話の程、奉り願上げます。右得貴意申上度如斯に御座候以上、
八月廿四日                
               阿州芝生村 平尾猪平太
讃州造田村西村市太夫様
ここからは、次のようなことが分かります。
①猪平太が父の意思を汲んで「御茶場の地堅め、且は五穀成就悪病災難除御祈祷」のため、阿州の 人形廻しに三番雙を奉納させたいと、造田村庄屋西村市太夫に申し出たこと
②阿波では地堅め(地鎮祭)や「五穀成就悪病災難除御祈祷」の祝い事に三番叟が奉納されていた
③「当国人形廻し数組が、備前表へ渡海」とあり、阿波から備前に人形使いたちが讃岐を通って巡業に出掛けていた
④「亡父心仰の大師様」とあり、民衆の大師信仰が広がっていたこと
阿波デコ廻し12

手紙を受け取った造田村庄屋市大夫は、早速元〆の中村長三郎、川村茂助に三番叟興行の許可を求める次のような書状を書き送ります。
一筆啓上候、然ハ当村方先達御願申上候大師茶場此節地築二取掛リ居申候所、右茶場再建出来候得ハ、阿州之者ヨリ相応手伝も致呉候筈二初発ヨリ申越二御座候所、此節右地築相初居申候義及見付申越候義ハ同国人形廻シ之者共此硼ヶ何連も備前表へ渡海仕候二付、右参掛之道筋故日数三日程之間地堅メ二三番叟申又踏セ候得ハ地堅メ者勿論五穀成就悪病災難除御祈祷二も相成可申候間致セ候而ハ如何哉、尤右様三日之間相勤セ候而も右花代井二支度向等迫阿州ヨリ引請相済呉、少シも土地之物入二者致セ不申義与申越二御座候、併難渋所右様之義ハ奢ヶ間敷相見へ奉恐入候次第ニハ御座候得共、前顕之趣申越候二付先此段御注進申上候間地堅メ並五穀成就悪病災難除御祈祷与申二付而ハ何卒申越之通相済候様二御聞置被為下候得共、却而土地之宜二も相成可申与一統難有かり相願有申候間、右申出之通相済候様二宜御取計被成可被下候、右之段申上度如斯二御座候以上
八月廿六日     造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  尚々本文之通御聞置二被仰付被為下候得共、廿九日頃相初申度奉存候間、此段共御聞置被成可被下候奉願上候、以上
  意訳変換しておくと
一筆啓上候、以前から当村の先達の願いで大師堂の茶場再築を進めて参りました。この茶場再建については、阿波の庄屋から相応の支援を受けていますが、この度次のような申し入れを受け取りました、地鎮行事の際に、阿波人形廻しの組が備前へ渡海するために当地通過するのと時期が重なる。ついては道筋がら三日程、三番叟を奉納し、地堅めや五穀成就悪病災難除御の祈祷としたいとのこと。また、三日間の奉納の花代や支度などの費用は、阿波方で負担し、当方に迷惑をかけることはないと申しています。難渋の所、このような件はおこがましきご相談で恐入る次第ですが、地鎮儀式と五穀成就悪病災難除の祈祷ですので、何卒お聞き届けいただき許可願えるようお願いいたします。
八月廿六日              造田村庄屋 西村市大夫
中村長三郎様
川村茂助様
  お聞き届けいただけるようでしたら、この8月29日頃から奉納行事を行いたいと考えています。このことと併せてお聞き置きいただけるように願い奉ります。
市太夫は、芝生村の猪平太からの申し出を受けて、デコ廻しの奉納をやる気だったことが文面からは分かります。村を預かる庄屋としては、新たな施設のための奉納行事が、阿波からの寄進で無償開催できるのですから乗らない手はないでしょう。そして、三日間の興行を、早ければ8月29日から行いたいと最後に記します。この願出を提出したのが26日のことで、開催開始29日というのは、早急です。デコ廻しの一座が、もうすぐにやって来ることになっていたのでしょうか。工事開始が間近に迫っていたのかもしれません。大庄屋の元〆から回答を得て、猪太夫に返書を出し人形廻しが手配されるまで最短の日数が見積もられているように感じもします。どちらにしても急いでいます。
阿波デコ廻し8
デコ廻しの三番叟
さてこの申し出は認められたのでしょうか。認められなかったと研究者は考えています。
地元負担はないので、飛びつきたい申し出です。しかし、高松藩としては、次のような理由で認めることはできないというのです。
①高松藩にも人形廻しを持ち芸とする「乞喰」がいて、各地の地神祭で三番叟を踏んでいる。市太夫の願い出を認めてしまうと、高松藩の「乞喰」の職分、勧進権を侵すことになる。
②地神祭では、一日切興行が基本と藩は規制している。3日興行の申し入れを受けるわけにはいかない。

阿波デコ廻し7
辻などの野外で行われてデコ廻し

  別の史料で、高松藩の他国人形廻しに関しての布令を見ておきましょう。寛文七(1667)年に出された「法然寺法会興行一件」です。
 法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日)
一、籠守市右衛門、作太夫江申渡候ハ、弥乞喰共二ヲ下さセ可申候、他国他領より乞喰参り候ハゝ早束注進可申候、勿論他国よりでく廻シ其外藝者寄セ申間敷候、相皆寄セ申候ハゝ、急度曲事ニ可申付候、惣而郷町江他国よりうさん成乞喰参候ハゝ、致吟味此方江早々注進可申候、品二より御褒美可被下候間、弥失念仕間敷旨申渡候事、
意訳変換しておくと
籠守(牢番)市右衛門、作太夫へ次のように申し渡した。今より乞喰たちに札を交付する。他国他領からの乞喰がやってきた場合には、早々に注進せよ。もちろん以後は、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能は参加させてはならない。
惣而郷町(郡部)への他国よりの乞喰がやって来た場合には、取り調べの後に早々に報告すれば、褒美を下す旨を通知した。失念することのないように以上を申し渡した。

ここからは寛文七(1667)年に、周辺を廻在(芸能などの門付け)する「乞喰」に対して、木札を交付された者だけに認めることとなったことが分かります。そして、札を持たない他国からの「でく廻シ(デコ廻し)」やその他の芸能者「乞喰」の高松領内での活動は禁止されています。阿波からのデコ廻しは、17世紀後半から認められてなかったのです。

阿波デコ廻し5
神社でのデコ廻し

 別の視点から見ると、高松藩の「乞喰」(芸能者)の活動(地域廻在)が保証され、札が交付する体制になっているということは、「乞食」としての身分が確立し、ひとりひとりを把握できるようになったことを意味します。これは「個別人身支配体制」の完成で、言い方を変えると近世「非人」制度確立と研究者は考えています。

 他国者、特に芸能者の排除は、「濃尾崩れ」以後の各藩の宗教政策だったようです。
これはキリシタン政策の一環でもあり、他所からの流入者をあぶりだす体制につながります。高松藩では初代の松平頼重以来、執拗なキリシタン詮索を続けていました。他領からのよそ者の入り込みには、親藩としてより敏感に対応したようです。それでも「でく廻シ其外藝者」排除の布令がこの時期に出ているということは、逆に、芸能者の流入が絶えなかったことがうかがえます。どうも具体的な排除対象者は、阿波・淡路からの「でく廻シ其外藝者」の入り込みを、第一に意識していたと研究者は指摘します。

阿波デコ廻し4

    ここからは高松藩においては阿波人形遣いの藩内での公演活動を認めていなかったことが分かります。
  山間部の公的な目が届かないところでの門付け(戸別訪問)は別にして、庄屋たち村役人のお膝元で人形浄瑠璃の一座が公演すると云うことはなかったとしておきましょう。それが、明治になって移動・経済活動・公演活動の自由が認められるようになって、阿波人形浄瑠璃は讃岐での公演活動を爆発的に増やしていったようです。それが香川叢書民俗編に載せられた史料からもうかがえます。これについては、また別の機会に紹介したいと思います。
阿波デコ廻し10

以上をまとめておきます。
①高松藩は「法然寺法会興行一件(寛文七(1667)年正月六日」で、他国の人形芝居の公演を禁止し、領内の「芸能者(乞食)」だけに認めた。
②幕末に、造田村(まんのう町)の太子堂の附属茶屋再建の地鎮儀式に、阿波芝生の庄屋から人形一座による三番叟奉納寄進の申し出があった。
③造田村の庄屋は、大庄屋に奉納許可願を提出したが認められることはなかった。
④ここには①の高松藩の他国芸能者の領内での活動禁止政策があったためと思われる。
 以前にお話したように高松藩と阿波藩は、国境に関する協定を結んでいました。両藩の間では、峠越えの日常的な往来や行き来はある程度、自由に行われていたようです。しかし、両藩間の結婚などは許されていませんでした。阿波の人形芝居の活動も江戸時代には、公的には認められていなかったようです。
阿波デコ廻し9

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山下隆章   讃岐高松藩における阿波人形廻し関係史料について   香川大学教育学部研究報告   134郷 2010年」です。
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DSC00870長善寺遠景
勝浦の旧長善寺

勝浦村の御林守幸助は、文政十一(1828)年の春以来、阿州加茂宮村の百姓伝右衛門の娘いせを、阿野郡北加茂村の知り合いの娘であると偽って召し使っていました。いせは器量よしで気立ても良かったので、伝右衛門の長男豊吉とも親しくなります。そして、豊吉の友人で御林守幸八の次男利右衛門と、内縁関係を結ぶようになったようです。
 幸助は、いせが阿州者であることを知らずに、利右衛門が愛情を深めていくことが心配になってきます。ある夏の夜、幸助宅を訪れてきた利右衛門と、豊吉の間で、ちょっとしたことが原因になって、激しい口論が起きます。この機会を捉えて幸助は、息子の豊吉に味方して、利右衛門を叱責して利右衛門の出入りを禁止します。
 しかし、幸助が、いせをどこかへ連れ去って、自分との仲を引き裂くのではないかと心配した利右衛門は、翌日夜に、いせを幸助宅から連れ出し、出奔して身を隠してしまいます。当時、このような「掠奪婚」が「流行」していたようです。友人の助けを借りて女を掠奪し、同居して結婚の事実をつくり、周囲の人々に認めさせる結婚形式です。

DSC00797

 二人は、阿野郡の陶村の知人の家に隠れ住んでいました。

これを見つけた利右衛門の兄・多次郎も、いせが阿波出身であることは知りません。二人の立場に同情して黙認します。
一方、いせがいなくなった幸助方では、利右衛門が友人を語らい、徒党を組んでいせを奪ったと村役人に訴え出ます。関係者が次々と村役人の取り調べを受け、利右衛門といせが陶村から連れ帰られたのは、その年の秋も深まる十月でした。
 利右衛門の兄の多治郎と一類の鹿蔵、五人組の文蔵・丈八・庄八が誤り状を書き、幸助と豊吉も、阿波の女を雇っていたことについて、誤り証文を村役人に差し出します。いせは、阿波の親元に送り返され、利右衛門もこの扱いに不足はなく、いせに未練のない旨を書いた一札を、村役人に差し出して、事件は一応内済になったようです。慶安の協定が、二人の愛情の結を断ち切ったことになります。
 このような経過を記録した文書が勝浦の庄屋だった家には残されています。ここから分かることは、高松藩と徳島藩の間で結ばれていた「走人(逃散)防止協定」が二百年近く経過した幕末にも機能していたことです。江戸時代に、阿讃の両藩間での婚姻関係は認められていなかったことが分かります。
DSC00826勝浦

 ところが事件は、これでは収まりませんでした。
讃岐方の勝浦から親元の阿波へ連れ返されたいせは、弥三郎という男と結婚していました。それを聞いた元カレの利右衛門は、請めきれずに今度は国境を越えての掠奪結婚に出たのです。その事件を知らせる手紙が文政十二(1829)年2月17日の早朝、勝浦村の庄屋佐野佐蔵のもとに届けられます。差出人は、いせの嫁ぎ先である阿波の庄屋小笠七郎次からで、そこには次のように記されてありました。
一筆致二啓上一候。追々暖和に罷成候所、弥御堅勝に可被成御座、珍重目出度奉存候。然ば其御村OO免幸八倅利右衛門と申者、 今晩大勢の人数召連れ、当村〇〇名百姓多美蔵と申者宅へ罷越、倅弥三郎妻、有無の言不二申出横領し召連れ罷帰り申候に付、弥三郎儀留守の事故、親多美蔵義利右衛門に取付、申間せ候は、如何相心得右様横領の仕成仕侯哉と申聞せ候得共、何の言も無之、多美蔵を四ケ所迄打測に相及び、 其儘罷帰り候。其内名内の者共久付候得共、 大勢の者共夜中の事ゆへ行衛相知不申由、野士方へ申出候に付、右様横領成る義故難二捨置、其上多美蔵義四ケ所の大疵に付、命数の程
も難′計侯に付、右利右衛門儀御召集御行着可被下債。御行着の上有無御返事、此者へ御聞せ可被下候。委細の義は指越候者より型司取可
   意訳しておくと
一筆啓上致します。追々に暖かくなっていく季節ですが、堅勝であられましょうか。この度、次のような事件が起きましたのでお知らせします。そちらの勝浦村の幸八の倅・利右衛門と申す者が、 今晩、大勢の人間を引き連れて、当村の百姓・多美蔵宅へ押しかけ、倅の弥三郎妻を横領し召連れ帰りました。これは弥三郎の留守の間のことで、多美蔵は利右衛門に取付いて、このような「横領」をおこなうことの不法を申聞せたが、何の返答もなく、その上に多美蔵を四ケ所も打ち据える始末です。
  大勢の者がいたようですが夜中のことで、行方知れず、野士方へ申し出ることになりました。この横領については、放置することができません。その上、多美蔵の四ケ所の傷害に付いては、命に別状はありませんが放っておくことも出来ません。利右衛門を召喚して、詳細をお聞き取り頂き事の次第を返事でお知らせ頂きたい思います。委細については、使者より口頭でお聞きください。
DSC00870長善寺遠景

 手紙を受け取った佐野佐蔵は、造田村庄屋の西村市太夫に急報します。市大夫の指示を受けて3月18日に郷会所へ注進しています。郷会所の元〆の指示によって、利右衛門が行方不明であるので、取り押さえ次第取り調べて報告する旨の返事を、翌々日には佐野佐蔵から小笠七郎次に送ります。
1勝浦 佐野作蔵の手紙

こうして行方不明の利右衛門といせの二人の探索が始められます。
 高松藩の町奉行所から、同心衆、上下10人が勝浦村にやってきてます。郡奉行所からも二人の手代が入村して取り調べが始まります。利右衛門の父幸八は、御林守の職を停止されて所蔵に入れられます。高松藩領には、利右衛門の人相書と罪状を述べた御触れが出されます。
「稲毛文書」 の中の利右衛門の人相書には、次のように記されています。
月代: 乱志&流三の落語徘徊
O鵜足郡勝浦村御林守小八倅
利右衛門  年二十八
但年齢相応に相見え、中勢中肉丸面にて、冒毛厚き方、
色赤き方、言舌静か成る方、限・歯並常然、
月代(さかやき)厚き方。
その他、衣服や所持品、その犯行についても細かに書かれています。これは当時の大スキャンダルになったでしょう。二月末には、村内から11人の若者が捜索隊員に選ばれ、六班に分かれて、東は白鳥から西は豊浜までの各地を調べ上げます。しかし、利右衛門といせはもちろん、利右衛門に協力した者も発見することができません。一方、傷を受けた多美蔵は、すでに回復していることが探索者の間き込みにで明らかになり、一同は一安心しています。
四月桜の季節になって、利右衛門といせが、阿波の芝生村の知人の家に隠れているのが発見されます。
利右衛門といせは、徳島に送られ取り調べが行われます。その結果、利右衛門に協力したのは阿州の者で、後難を恐れて足抜きしていることが明らかになります。
 ここで、寛永21(1644)年の「走人防止協定」を再確認しておきましょう。この協定は、逃散した百姓を、お互いに本国に送り返すことを約束したもので、第14条では、
「互いの領分より逃散・逃亡してきたものに対して、「宿借」などしたものは死罪か過怠で、その罪の軽重で決定する。

第16条では、
「内通して、領分の者を呼寄せたものは、死罪」
第18条では
「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」

とされてきました。
 事件は思わぬ方向へ急転回することになります。
「走人防止協定」によって、利右衛門を処罰すれば、利右衛門といせを隠していた芝生村の人々も厳しく処罰しなければならなくなったのです。この対応に当たったのが、阿州・太刀野山村の庄屋山本新太夫と、芝生村の庄屋平尾平兵衛です。ふたりは協議し、芝生村の百姓喜八と清兵衛を使者として、平尾平兵衛と親しい関係であった中通村庄屋東三郎方に派遣し、今度の事件を内済とするように運動することを願い出ます。公になれば芝生村の人々にも火の粉が飛んできます。それを「内済」にすることで、村の人々を守ろうとしたのでしょう。

DSC00786長善寺道標

 同時に、山本新太夫は、勝浦村の長善寺の住職に手紙を送って協力を依頼しています。長善寺は美馬・郡里の安楽寺の末寺で、真宗興正寺派の讃岐への布教センターの役割を果たした寺で、この地域では政治力もある寺でした。また阿波にも檀家が多く、法要などを通じて住職とは面識があったようです。

DSC00821
勝浦の旧長善寺

 しかし、高松藩側の態度は硬化して、なかなか内済に応じなかったようです。
利右衛門はこれが2度目の略奪婚です。前回に反省文も出しています。にもかかわらず同じ事を今度は国境を越えてやったのです。いわば「再犯者」です。すぐに内済扱いとは出来ないのも分かります。
ぞのため条件とされたのが、利右衛門の父幸八の所蔵入を免じ、利右衛門の処分が決定し、その決定に阿波側の庄屋小笠七郎次が同意したということが明らかにならなければ、内済に同意しないという態度を示します。

DSC00853福家神社鳥居
勝浦の福家神社
徳島藩では、利右衛門を徳島の獄につなぎ多美蔵と弥三郎を呼んで事情を聞き取り、いせを弥三郎の妻として復縁させています。このことは7月になって、讃岐側にも伝わってきます。
  「不埓の事あり」として、50日間の入牢を申し付けられていた利右衛間が、阿波と讃岐の境である引田の逢坂峠で追い払われたのは、八月末になってでした。このことを、勝浦村庄屋に通知した小笠七郎次は、その手紙の中で、暗に、この度の処置に満足していることを述べています。

DSC00855勝浦福家神社鳥居

 この事件の解決に奔走した造田村庄屋の西村市太夫は、事件の頭末を、美濃紙二枚綴りの一件記帳留にまとめ、その最後の一頁に、
「右の通大変にて有之候得共、色々取計い、利右衛門一人出奔、除帳人に相成、其外少しも御咎め無之結構御訳付に相成り申候」

と結んでいます。ここには庄屋として、勝浦の関係者を守り切ったという満足感と安堵感が現れているようです。

国の作法に反抗して、再び掠奪結婚を試みて失敗した利右衛門のその後はどうなったのでしょうか。彼の集落の墓地には、彼の墓はないようです。 郷里に立ち帰らなかったのかもしれません。
 
 この事件から分かることは、寛永21(1644)年の「走人防止協定」第18条の「互いの領分同士での、縁組みや養子などは停止を命ずる」が、幕末になっても阿讃国境では生きていたことです。峠を越えての恋が成就することは江戸時代には御法度とされ続けていたようです。
DSC00856福家神社道標

慶安の協定によって、阿波と讃岐の愛情が、無残に引き裂かれることは、その後もあったようです。  天保十四(1843)年7月に、造田村の弥作が村役人に提出した一札(「西村文書」)があります。
ここには出身地を偽って彼の家に奉公していた娘と彼が内縁関係になり、娘が阿波の出生であるために許されず、娘が父親に連れられて阿波に帰ることになった時、彼が娘に未練のないことを述べたものです。しかし、その行間に、断ち切ることのできない愛情が猛れているように思われます。
  天保14年6月、造田村で心中事件が起きます。
池に身を投じて自らの命を、ともに断ったのです。男は、阿州三好郡川崎村出身の加蔵で、彼もまた出身地を偽って、造田村で奉公していました。家の主人が多忙な人であり、その妻が病弱で、野良仕事はその家の娘と、加蔵の二人で切り盛りしていたようです。若い二人の間は、急速に近づき内縁関係になります。しかし、加蔵が阿波の出身であるとにらんでいた娘の父親は、二人の仲を裂こうとして、加蔵に暇を出します。二人の水死体が見つかったのは、それから間もなくのことであったようです。
 造田村の庄屋西村市大夫からの手紙を受け取った川崎村の庄屋友吉郎は、加蔵の兄久太に返書を持たせて造田村へ急がせます。造田村に着いた久太は、水死者の一人が弟の加蔵であることを確認し、たどたどしく筆を走らせて、迷惑をかけたことを詫び、弟加蔵の死体を引き取らせてもらいたいと、願い出ています(「西村文書一))

DSC00844勝浦福家神社

「走人防止協定」で、阿讃の国境を越えた恋は成就できない掟となってきましたが、次第に人々の「人権意識」が目覚めていくのがうかがえる記録も残っているようです。
「牛田文書」の中に、草案ではありますが、次のような手紙原稿が残されていました。
指上申一札の事
私儀、此度長谷坂亀三郎倅甚七、阿州三好郡東井の川村辻住居、きぬと申す婦人と、先達てより内縁仕り、右きぬ親立会の上にて、其方女房に相定候得共、甚七一類腹入不仕義に付、 日地書わけ別宅仕り、 其席に立会不申侯得共、只今迄夫婦に相暮居中候処、此度甚七神願に付、 内々神参り(出稼ぎ)可仕に付てハ、女房預り人も無之、無拠引連罷越趣に承り、併右きぬも妊娠に相成、追々臨月にも相及候由、旅立候ては難渋に相見へたる事に御座候。右きぬ女親呼寄掛合中候所、何分宜敷様取扱呉候様、達々願候に付、双方懸合中処納得仕候に付、万事私引請中候間、御内々御聞置可被下候。若し他所者の儀に付、以後如何様の引縫出来仕候共、 御村方御役人中様は不及申上甚七一類に至迄厄介の筋、少しも相懸申間敷、為後日指上申一札如件。
他所婦人引請
               かつら村 甚 八
               一類   八五郎
               組合     富 蔵
慶応三年年七月
御村方御役人衆中
意訳しておくと
一札の事さし上げ申し上げます
 この度長谷坂亀三郎倅・甚七が、阿州三好郡東井の川村辻の住居のきぬという婦人と、先達てから内縁関係になりました。そこできぬの親の立会の上に、女房に迎えることにしました。しかし、甚七の親族はこれに反対し、田地を分け別宅を建て、その席にも立会わないと申します。こうして、ふたりは夫婦として暮らしてきましたが、甚七が神参り(出稼?)に出ることになり、きぬも妊娠していることが分かりました。時が進み臨月になり里に帰ることも難渋に思えます。きぬの女親を讃岐に呼寄ることをお願いして欲しいと何度も依頼されました。そこで双方に懸合い交渉をすすめた所、内々にお聞き置くださることになりました。
 もし阿波出身の他所者であることで、今後どんなことが起きましょうとも、村方役人様には害が及ばぬように致します。甚七親族一類についても、少しも懸念なきように後日のために一札差し上げる次第です。
DSC00800長善寺鐘楼

ここからは次のような事が分かります。
①長谷坂の亀三郎の倅甚七が、阿波生まれのきぬと結婚しようとした時、親の亀三郎などはこれに反対したこと
②それに対して、親類の甚八と八五郎、五人組の冨蔵が甚七に味方して結婚させ、その後甚七が神参り(出稼か)に出ることになった
③その間、妊娠中のきぬを責任を持って預かるという証文を、村役人に差し出している
ここには、家の反対に関わらず親族や近所の中に、夫婦になった二人を「掟」を破っても守ってやろうという意識が周囲に形成されてきたことがうかがえます。
かつては、藩の定めた不合理な協定の前に屈伏していた人々が、この掟に抵抗し、自らの愛情に忠実であろうとする人々を応援し、たとえ近親が協定を恐れていても、これらの人々を守ってやろうという姿勢を示すようになっているのです。
 阿讃山脈の国境の村々には不合理な藩の掟に抵抗して、結婚の自由、住居の自由を獲得しようとする自覚が産まれていたと言えるのかもしれません。それが明治維新になって幕藩体制が崩壊し、「結婚・住居の自由」が保証されると、峠の道を花嫁行列が行き交うようになり、阿讃に跨がる通婚圏が成立していくようです。
 逆に言うと、江戸時代には両者の間には通婚圏(権?)は、存在しなかったことになります。これが、お隣の丸亀藩にも当てはまるのかどうかは、今の私には分かりません。
参考文献 国境の村々 琴南町史307P

まんのう町勝浦 四つ足

琴南町誌には、庄屋たちの家に残されていたいくつかの史料がふんだんに使われていて、地主達の日常業務が見えて来ます。その中からいろいろな出来事に対応を迫られていたことを日記風に記したものに出会いましたの紹介します。
 金毘羅さんの賑わいは、春と秋の大祭の日が一番でした。今年(文化8(1811)も秋の大祭が近づいてきた10月3日のことです。讃岐山脈の阿波との国境の近くの鵜足郡勝浦村の状継(じょうつぎ)福右衛門は、大庄屋の宮井伝左衛門と木村甚三郎の連名の飛脚便を受け取ります。その内容は、金毘羅大祭について参拝者に注意するようにという内容でした。それには髙松藩の郷会所の元締の中村甚三郎と柏原弥六の連名で、走り書きにした大庄屋宛の次のような手紙も添えられていました。

一筆申上候。然ば金毘羅会式につき、西郡の面々心得違無之様 可仕旨被仰出候間、其旨村々え洩れざる様御中渡置可被成候。

意訳変換しておくと
 一筆申上候。金毘羅大祭については、鵜足郡西の面々に心得違いのないように行動すること。その旨を村々へ洩れなく申しつたえるように

去年までは回状で、中通村の肝煎(きもいり)が届けてきた。それなのに、今年はわざわざ飛脚便で知らせてきた。これは昨年の大祭で、勝浦村の若者が間違いを起こしたからだろう。書状を見ながら昨年の苦い思い出がよみがえってきた。
DSC00839

 勝浦奈良の木坂の孫兵衛は、24才の真面目な働き手です。
去年の大祭に、阿波から参詣する知人に誘われて、初めて金毘羅さんの大祭に行きました。あまりの賑わいに呆然としている所を、すりに狙われます。気がついて、そのすりを大力で投げとばしたところ、稼ぎに来ていたすり仲間と大喧嘩になり、危ない所を金毘羅領の年寄玄右衛門に助けられます。稼ぎを台無しにされたすり仲間の復讐を心配した玄右衛門の計らいで、五日間の入牢を申し付けられ、這々の体で村へ帰ってきた。
そのことを覚えていて藩の役人は、こんな達しをわざわざ回覧したのだろう。さて、昨年のようなことが起きないように、村衆に伝えなければなるまい。さて、どのように話したらよいものか。飛脚便を手にしながら考え込む福右衛門でした。

DSC00830

勝浦神社の狛犬
 それから十日余りたった日の夕方、中通村の肝煎が一通の手紙を届けてきた。
村継ぎの手紙であるので急いで封を切って見ると、柏原弥六の達筆が、躍るように眼にとびこんできた。
一筆申達候
其御村 松五郎
  同 東吉事 秀吉
 右の者饂飩(うどん)・蕎麦(そば)商い申義、金毘羅春秋両度の会式中相済み、已来平日は不相成候段御申渡可被下候以上
  文化八年十月十三日  柏原弥六
佐野直太郎殿(勝浦村の庄屋)
意訳変換しておくと
右の者はうどん・そばの商いを、春秋二回の金比羅大祭の時だけ許している。祭りが終われば、平日の商いは行ってはならない。
DSC00841
まんのう町勝浦神社

 松五郎と秀吉は働き者で律義者だ。毎年大祭の時に、金比羅でのうどんと蕎麦の商いを許されて、その儲けを足しにして百姓を続けている。大祭が終わるとその翌日には、店をたたんで百姓仕事に精出している。どうして、わざわざこんな通知が届いたのだろうか。商いをすることが許されない村の者が、告げ口でもしたのであろうか。入念な達しに、不安を感じないではいられなかった。当事の村人に、移動・営業の自由はありませんでした。大祭の時にうどんや蕎麦を出すことができるのも許された人間だけでした。
 それにしても、お殿様は昔から商いがお嫌いだ。
百姓が商いをすれば儲けに眼がくらみ、野良仕事が嫌いになり、年貢を納めなくなる者がふえると思っておられるのか。毎年この村で十人以上の者が出店を願い出るのだが、許されるのは二名か三名だけだ。手紙を庄屋日帳に写し取りながら、福右衛門は、働き者で子沢山な東兵衛の腰が少しまがりかけたことや、鉄砲の名人の秀吉が、獲物に狙いをつけた時の精悍な顔つきを思い浮かべていた。
         まんのう町(旧琴南町)勝浦 牛田文書より
藩からの書状は、大庄屋のところへ届けられ、それを大庄屋がいくつか写し取って、決められたルートで各庄屋へ送付しました。受け取った庄屋も、保存用に一部写し取って、次に廻すことになります。これらを残しておくことが役に立つことを体験的に知った庄屋は、日記と共に書状を写し取って保存することが日常化します。そのため、代々庄屋を務めた家には、膨大な藩からの書状が残ることになります。それらが旧琴南町には、牛田・西村・稲毛などに残された庄屋文書になります。もう少し、話を続けます。

DSC00820
まんのう町勝浦 今は亡き旧長善寺

○お殿様の金毘羅さん御参詣の動員
 天保二年(1831)3月23日の辰の刻、鵜足郡造田村の庄屋西村市太夫は、大庄屋木村甚三郎と宮井清七連署の、山分村々回文を庄屋日帳に書き写して本文と読みあわせてみた。
○以回文申入候。
殿様来る廿六日より同二十八日の内、金毘羅へ御往来共御遠馬にて御参詣被為遊候由、依之御当日御前日共、於栗熊東継更人馬別紙切符の通割紙相回候間、同所より触れ込次第毎々の通、宰領組頭相添御指出可有候。
大抵廿六日中御社参の御様子に相聞候間左様 御心得御取計置可有候。
 一 草履・草軽・馬沓(くつ)並拝駕龍共 明日中に栗熊東馬継所迄 御指越可有候。為其急中入候。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
意訳変換しておくと 

殿様が来る26日から28日に、金毘羅参拝のために髙松街道を馬で往来することになった。ついては当日・前日共に栗熊東に人馬を別紙の通り準備するように伝える。書状を受け取り次第、宰領組の頭は各組に指示をだすこと。
26日中に参拝予定と聞いているので、そのつもりで準備にあたること 御心得御取計置可有候。
 一 草履(ぞうり)・草軽・馬沓(くつ)や駕龍などは 明日中に栗熊東の馬継所まで運び込んでおくこととの御指図があった。急ぎ申し送る。
   三月廿三日         木 村 甚三郎
                 宮 井 清 七
   村々庄屋衆中。
高松の殿様が3日後の26日~28日に金毘羅さんに参拝することになったので前例通り準備をするようにとの内容です。造田村の割当をもう一度確認する。
 O殿様御遠馬の割当 造田村
  御前日、御当日共。
 一、人足三拾四人。
 一、馬弐疋。
 一、草履六足。
 一、草靫六足。
 一、馬沓弐足。
 書き誤がないことを確かめた市太夫は、末尾に連記された長尾村、炭所東村、炭所西村の次の造田村の肩の所に「(合点(がってん)」を入れます。そして辰の刻と書き込んで仮封をし、肝煎の助蔵を呼び寄せて、大急ぎで中通村の庄屋磯太夫の地下清(じげんじょ)の宅まで届けるよう命じた。

刀剣ワールド】馬具の種類と歴史|武具・書画・美術品の基礎知識
馬沓 馬にもわら草履を履かしていた

 三日前になって突然、殿様の金比羅参拝のための人足と馬・草履などを準備せよとの通達です。ここでも送られてきた書状を写し取り、内容確認の上で、次の庄屋宅へ送り届け指しています。

草履六足、草靫六足、馬沓弐足は明日中に栗熊まで持参せよとのことだ。急がなければならない。前日からは、人足34人と馬2頭を引き連れて行かねばならない。誰を連れて行くのか、どの馬を選ぶのか、頭の中で算段を始めていた。

髙松街道に面する鵜足郡南部の長尾村、炭所東村、炭所西村、造田村、中通村は、一つのグループで、
殿様などのVIPが髙松街道を往来するときには、人馬の提供義務がありました。その数も人足34人です。これを引き連れて栗熊まで出向くことになります。

DSC00849
まんのう町福家神社
お殿様の金比羅詣でが終わったと思ったら、今度は御姫様の金毘羅参詣が通知されてきた。
 4月7日付の大庄屋からの回文によると4日後の11日のことだという。回文が届いた翌日には、金毘羅街道に近い村々の庄屋が、お姫様の御小休所に指定された栗熊西村の浪士平尾庄之進宅へ召し出されて、打ち合わせを行った。終わったのは未刻(午後2時頃)を少し回ったころであった。造田村の割当りは次の通りになた。
O御姫様御参詣に付掛りの物 造田村
 一、興炭 壱俵。
 一、薪  貳束。
 一、草履 四足。
 一、草桂 四足。
   右は九日中に指出候事。
 一、人足三拾人、御前日、御当日。
 一、馬 三疋、右同断。
    但しとゆ持参有之様申越候。
 一、外に壱人、掛り物送り人足。
炭や薪はすぐにでも集まるが、人足を三十人出すのは骨が折れる。殿様の金比羅詣での度に、呼び出されるのはなんとかならないものか。今年は、これで二回目だ。
 
DSC00853

4月23日、大庄屋の宮井清七から3月の殿様御遠馬の入目割当(決算書)が届いた。
〇殿様御遠馬の入目割当 造田村
 一、御遠馬入目割当  銀九匁八分。
 一、御社参の入目割当 銀三十四匁五分。
            〆銀四拾四匁三分。
 殿様の参拝にかかる費用を、どうして村々が支払わなければならないのか。昔からの決まりだと云うが、どうも合点がいかない。浮かぬ顔で市太夫は算盤をとって、弾いて見た。高869石の造田村の割り当りが、44匁3分である。藩全体では、大高を21280石と見て、御遠馬の総入目は、十貫弐百六拾目余かかったことになる。四月のお姫様御参詣の造田村の割当は、六十目を超えるのでないかと案じられた。

DSC00855

 市太夫は、造田村の割当りから、人足賃などを差し引いて、尚七匁九分の銀を、組頭の夫右衛門に持たせて。日限ぎりぎりの27日に川原村の宮井清七の宅へ届けさせた。
                   造田村西村文書より
こうしてみると、庄屋には文書・算用能力が欠かせないものであったことがよく分かります。ちなみに、ここに登場する造田村の庄屋西村市太夫はやり手で、義兄の金毘羅の油屋・釘屋太兵衛と組んで水車経営などのいろいろな事業を展開していたことは以前にお話ししました。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 2025/02/11改訂版 
参考文献
 大林英雄 御神徳を仰ぐ人々 こんぴら 昭和60年
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