瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:タデ場

  前回は庄内八浦を、ひとつの集団として丸亀藩は捉えていたことを見ました。その中で、幕末には粟島には何軒もの廻船問屋が姿をみせ、対岸の箱浦にも勝間屋(森家)が松前藩と活発な交易活動を行って、富を集積していたことを押さえました。今回は、志々島の「伊勢屋(上田家)」を見ていくことにします。
粟島】香川県の隠れた名観光地!釣りスポットだけじゃない | ARINKO LOG

角川の日本地名大辞典からは、志々島について次のような情報が得られます。
①詫間郷に属す庄内村が幕末に、志々島を含め大浜浦・生里浦・箱,南・積浦・栗島・香田浦・家浦の諸村に分村された。
②村高は、旧領_59石余
③耕地は畑17町8反余。屋敷3反余、
④戸数133・人口673(男329・女334)
⑤漁舟50
⑥泉は水之浦泉
⑦神社は八幡神社・大山祗大明神・十握明神ほか祠6
⑧寺院は利益院(山崎藩時代に京都大覚寺の末寺として創建)
⑨魚業の島として栄え、寛政11年には荘内浦・粟島でナマコ120斤が中国に輸出(詫間町誌)
ここからは幕末には、この狭い島に673人も住んでいて、漁場と廻船に従事していたことが分かります。ただ、廻船に使われた持ち船などは記録には出てきません。

『瀬戸内海 志々島の話』には、伊勢屋(上田家)のことが次のように記されています。(要約)
「志々のいせやか、いせやの志々か」と唄われた。その屋号の由来は、伊勢の大夫の定宿となっていたために「伊勢屋」と呼ばれた。以下の当主が船持ち、船問屋や志々島の組頭として活動した。
享和期頃  上田善八
文政期     勘蔵
嘉永期     森蔵
志々島の廻船問屋の活動を裏付けるのが八幡神社の拝殿内に貼付されている木札で、次のようなことが分かります。
①「奉納随神寄付」(文政12(1829)年)に、大坂雑魚場(雑喉場)の天満屋、尼埼西町の網屋からの寄付奉納が、志々島の花屋、新屋などが引請世話人となって行われた。
②「明神丸」「幸丸」など廻船の船持ちの名前、伊勢屋勘蔵の名前、島の若連中の名前も見え、志々島の廻船問屋が大阪方面とつながっていたこと
①からは、志々島の魚が大阪雑魚場に届けられていたこと、その取引を通じて大阪の網屋とも親密な関係にあったこと、②からは志々島にも廻船問屋が何軒かあり、持ち船も持っていたことが分かります。

伊勢屋の「御客船御祝儀帳」から志々島に来港した廻船を一覧表にしたのが下表です。
志々島廻船来港数一覧
志々島に到着した廻船は、世話料として伊勢屋に「御祝儀」を届けています。それを年次別化すると一番多かったのが嘉永5(1852)の33艘です。幕末から明治にかけての30年間で239艘がやってきています。
 廻船を船籍地別に見ると、摂津の「灘目浦」地区の各湊が98で最も多く、日向・播磨・肥後・伊予などと続きます。こうしてみると瀬戸内海を東西に航行する各地の船が志々島に立ち寄っています。その中には、「因州御手船」「伯州御手船」などもあり、各藩の海上交通の拠点ともなっていたことが分かります。
 また、停泊するのは一泊だけではなく、次のような表現も見えます

「三日、四日逗留」、「死人御座候二付世話料二被下」

来島の「祝儀」の中に葬儀料が含まれています。航行中に亡くなった乗組員の葬儀まで世話しています。

ここで研究者が注目するのは、「たて草代(船を爛でる経費)」や、修理等に使用する「輪木」代金を支払っていることです。
船タデでについては、多度津と櫃石島にタデ場があったことは以前にお話ししました。

多度津港の船タデ場
多度津湛甫に見える船タデと、その背後の造船所(讃岐国名勝図会)
多度津港 船タデ場拡大図
多度津湛甫のタデ場と造船所の拡大図(讃岐国名勝図会)
大型船を潮の干満を利用して浜に引き上げ、輪本をかませ固定して船底を焼いている様子が描かれています。勢いよく立ち上る煙りも見えます。その背後では、船が作られているようです。周囲には用材が数多く並べられています。これは造船所のようです。ここからは、多くの船大工や船職人たちが働いていたことが見てとれます。
 タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。
しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。御手洗が「おじょろぶね」として栄えたのも、タデ場と色街がセットだったからだったようです。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町の繁栄のためには「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。つまり、木造船のメンテナンスに不可欠なタデ場が志々島にはあったことが、廻船を呼び込む要因のひとつだったのです。

本島の塩飽勤番所に残された文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録(坂出市史より引用)です。
与島船タデ場 利用船一覧
ここからは、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かります。
これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。そてして、船タデ経費として次のような項目が請求されています。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用
つまり、船タデには周辺の島々から大量の茅が燃料として持ち込まれていたこと、それを集積運搬する専業船乗りたちもいたことが史料からは分かります。備讃瀬戸には、次の3港にタデ場あったようです。
塩飽の与島
多度津(金毘羅大権現参拝の拠点)
庄内八浦の志々島
志々島にも周囲の島々から船タデ用の茅が大量に運ばれていたはずです。
春に大阪を出た廻船の船頭は、瀬戸内海を出て日本海に入る前にどこかの港で船タデを行って、船底を綺麗にして、船の最高の能力が出せるように準備います。廻船がタデ場のある港にやってくるのは、レースの前に必ずコックピットで整備を行うレーシングカーと同じようなものであったのかもしれません。しかし、志々島のタデ場がどこにあったかは、分からないようです。

志々島は広い漁場を持ち、漁業でも活気を呈していました。
「西讃海陸予答」には次のように記されています。

「此島(志々島)漁事を業とし船待を専とす。水有回船掛りよし。爛(タデ)場所を好み競て寄る。」

ここからは、志々島は、漁業の他に廻船稼ぎが盛んであること、さらに諸国の廻船が立ち寄ることができやすい場所であること、その吸引力のひとつが、廻船航行に不可欠な「爛場(船たで場)」があったことだと指摘します。
 
「庄内八浦」の漁業について、藩の生魚運上徹底の周知文書から研究者が作成したのが次の表です。
庄内八浦 船方運上者

 この史料は、元文元年(1736)10月27日、庄内組大庄屋辻佐右衛門(大浜浦庄屋)に、丸亀藩の代官水野理右衛門・福田定右衛門が奉行衆からの生魚運上徹底を伝えたものです。その後、11月7日、大庄屋が浦方へ読み聞かせを行い、それに対して組内の漁人・生船持・組頭が連判しています。ここからは網方運上を納める漁人が62人、生船を持って運搬している者が8人いたことが分かります。研究者が注目するのは、運上銀の吟味を「問屋藤六」(魚問屋)が行っていることです。浦での魚問屋の占める重要性を研究者は指摘します。

『瀬戸内海 志々島の話』は、志々島の漁業について次のように記します。(要約)

①明治初年までは広範な漁場を一手にして、島は鯛シバリ網の本拠地となり、近在から多くの出稼ぎ者も集まって「金のなる島」と称された。当時この島だけで7~8統のシバリ網元があり、ひとつ80人程度の人手を要するので、この漁だけで五~六百人の人員を必要としたのである。

 また、明治2年の文書(原史料は不明)には次のように記します。

「当嶋(志々島)は漸く高五拾九石九斗六升余之処、家数百五拾軒、人数七百五拾余人相住、迪茂農業一派にては渡世成り難く、旧来漁業専一に相稼ぎ、上は真島上より下は香田浦和田門磯辺迄の網代にお為て四季共繰網、蝶網、打瀬小職に至る迄何等子細屯御坐無く相稼ぎ、御加子、役の者勿論御菜代米物諸運上向滞り無く上納仕り」

意訳変換しておくと
志々島は石高60石足らずで、家数は150軒、750人あまりが住む、農業だけでは渡世できないので、古くから漁業に進出し、東は真島上より、西は香田浦和田門磯辺までを網代としての権利を持って、四季に渡って、繰網、蝶網、打瀬小職までの漁獲方法を駆使して操業しています。加子(水夫)役の者はもちろん、菜代米などの運上も滞りなく上納している」
ここからは次のようなことが分かります。
①石高が少ないが家数や人口は多く、多くは漁業や廻船の乗組員として生計を立てていること
②操業区域として、土器川河口の真島から香田浦かけての広域的な漁業権が藩により与えられており、特に鰭や鯛の宝庫であった
③島の漁業が「繰網、蝶網、打瀬網、小職」であったこと
 この漁場獲得については、江戸時代末期に、丸亀藩の財政逼迫の際に、志々島の「伊勢屋」に借り入れの申し込みがあったときに、「伊勢屋」当主は「藩へお金をお貸しすることはできません。御用金として上納させていただきます」と多額の金子を献納した。その報償としての意味合いがあると伝えられています。

次に、魚運上を記録した249件を分析して、志々島の漁業の特色を研究者は次のように記します。
①漁獲された魚種、それらの搬送方法と搬送先が分かる
②漁獲高は、大蛸・鯛・飯蛸の順
③搬送は地船が多くを占め、対岸の備前や遠く淡路などへも送られていること
④その半分を占める「魚種不明」のものは、地船が51件と最も多く、東瀬戸内海各地に搬送
 以上からは、志々島の漁業は単に讃岐一円に留まることなく、東瀬戸内海という広い範囲に流通していたことが分かります。それは、遠隔地からの出買よりも、地船の活動で可能となったと言えます。その地船の動きは、志々島や庄内浦の役所が把握していたのは、先ほど見たとおりです。こうして見ると、「庄内八浦」というまとまりの中で、各浦の漁業が展開していたことが改めて分かります。
  以上をまとめておくと
①志々島は、特権的な広域魚漁場をもって、多くの網元が操業していた
②大型網による操業は、多くの人手を必要としたため志々島に多くの漁師が集住するようになった
③同時に、西隣の粟島の廻船問屋と同じように大坂商人たちとつながり、交易活動を展開した。
④志々島が諸国の廻船を惹きつける吸引力となったのが、粟島湾の良港と志々島のタデ場であった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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多度津港 船タデ場拡大図
       多度津港の船タデ場(金毘羅参詣名所図会4巻1846年)

 以前に「塩飽水軍は存在しなかった、存在したのは塩飽廻船だった」と記しました。そして、塩飽の強みのひとつに、造船と船舶維持管理能力の高さを挙げました。具体的な船舶メンテナンス力のひとつとして紹介したのが船タデ場の存在でした。しかし、具体的な史料がないために、発掘調査が行われている福山市の鞆の浦の船タデ場の紹介で済ませ、塩飽のタデ場は紹介することが出来ませんでした。昨年末に出された「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」を読んでいると与島にあった船タデ場が史料を用いて詳しく紹介されていました。今回は、これをテキストに与島の港と船タデ場を見ていきたいと思います。

どんな舟が与島に立ち寄ったのでしょうか?
与島港寄港船一覧

坂出市史は、上のような廻船の与島寄港表を載せています。
右側の表は、寄港した58艘を船籍の多い順に並べたものです。
上位を見ると阿波13艘、日向7艘、尾張7艘などと続き、東は越後・丹後の日本海側、伊豆・駿河・遠江の太平洋側、西は筑前、薩摩まで全国の舟が立ち寄っていることが分かります。全国廻船ネットワークのひとつの拠点港だったことがうかがえます。 
 左の表は与島に寄港した船が、次に目指す行き先を示します。
142と圧倒的に多いのが丸亀です。次に、喩伽山参りで栄えた備前田ノロ湊が25件です。ここからは与島港が西廻り海運、備讃の南北交流などの拠点港としての機能を果たしていたことがうかがえます。しかし、周辺には塩飽本島があります。本島が海の備讃瀬戸ハイウエーのSAの役割を果たしていたはずです。どうして、その隣の与島に、廻船が寄港したのでしょうか。

その答えは、与島に「タデ場」があったからだと坂出市史は指摘します。
 船たで場については、以前にお話ししたので、簡単に記します。
廻船は、杉(弁甲材)・松・欅・樫・楠などで造られていたので、早ければ3ヶ月もすると、船喰虫によって穴をあけられることが多かったようです。これは世界共通で、どの地域でもフナクイムシ対策が取られてきました。船喰虫、海藻、貝殻など除去する方法は、船を浜・陸にあげて、船底を茅や柴など(「たで草」という)で燻蒸することでした。これを「たでる」といい、その場所を「たで場」「船たで場」と呼んだようです。

 与島のたで場を見ておきましょう。 
与島タデ場跡 造船所前 

与島の「たで場」は与島のバス停「造船所跡」、辻岡造船所の付近の地名で「たてば」といわれている場所にあったようです。
坂出市史は、次のような外部史料でタデ場の存在を確認していきます。
1番目は、「摂州神戸浦孫一郎船 浦証文」(文化二年11月3日付)には次のように記します。
「今般九州肥前大村上総之介様大坂御米積方被仰付、(中略)
去月十二日大坂出帆仕、同十五日讃州四(与)嶋二罷ドリ、元船タデ、同十六日彼地出帆云々」(金指正三前掲章日)
意訳変換しておくと
この度、九州肥前大村藩の大坂御米の輸送を仰せつかり、(中略) 去月十二日大坂へ向けて出帆し、同十五日讃州与島に寄港し、船タデを行った後に、同十六日に与島を出帆云々」

ここには、肥前の大村藩の米を積み込んで、大阪に向けて就航した後で、「船タデ」のために「四(よ)嶋」に立ち寄ったことが記されています。

タデ場 鞆の浦2
鞆のタデ場跡遺跡(福山市)

2番目は、備後福山鞆の浦の史料「乍恐本願上国上之覚」です。
この史料は、文政六(1823)年から始まった鞆の港湾整備の一環として、千石積以上の大船も利用できるような焚(タデ)場の修復を、鞆の浦の居問屋仲間が願いでたものです。
然ル処近年は追々廻船も殊之外大キニ相成り、はん木入レ気遣なく、居場所は三、四艘計ニ□□、元来御当所之評判は大船十艘宛は□□焚船致し申事ハ、旅人も先年より之評判無□承知致し、大船多入津致申時は居問屋共一統甚込申候、古来は塩飽・与島無御座候処、中古より居場所気付段々普請致し繁昌仕候へとも、塩飽・与島其外備前内焚場より汐頭・汐尻共ニ□□惟二さし引格別之違御座候故…」

意訳変換しておくと
近年になって廻船が大型化し、船タデ場に入れる船は三、四艘ほどになっています。もともとは鞆の浦の船タデ場は、大船十艘は船タデが行える能力があると云われていました。大船が数多く入港した時には、船タデを依頼されても引き受けることが出来ずに、対応に苦慮しています。
 古来は塩飽・与島に船タデ場はありませんでした。そのため鞆の船タデ場が独占的立場で繁盛していました。ところが中古よりタデ場が、塩飽与島やその他の備前の港にもできています。そのため鞆の浦もその地位を揺るがされています。
 ここからは、古来は塩飽与島に船タデ場はなく、鞆の浦が繁昌していたこと、それが与島や備前に新興の焚場が作られ、鞆の浦の脅威となっていることが分かります。与島の船タデ場は、鞆の浦からも脅威と見られるほどの能力や技術・サービス力を持っていたとしておきましょう。
3番目が、小豆島苗生の三社丸の史料(寛政十年「三社丸宝帳」本下家文書)です。
ここにも塩飽・与島が出てきます。三社丸は、小豆島の特産品(素麺・塩)を積んで瀬戸内海から九州各地の各湊で売り、その地の特産品を購入して別の湊で売って、その差額が船主の収益となる買積船でした。小豆島の廻船の得意とする運行パターンです。その中に与島との関係を示す次のような領収書が残っています。
塩飽与嶋
六月二十四日
一 銀二匁六分   輪木  
一 同四匁                茅代
一 同四匁      はません(浜占)
                          宿料
〆拾匁六分
    壱百弐文替
又 六分六厘   めせん
〆 壱拾壱匁弐分六厘
船タデ入用
一 百六十文                しぶ弐升   
一 百もん                  酒代       
一 三分六厘                笠直シ
一 百もん                  なすひ代   
一 五十五もん              御神酒代   
〆九六
四匁六分八厘 ○
合十五匁九分四厘
七月弐拾日
内銭弐拾匁支出
残四匁壱分六厘
取スミ、
八月十二日
この史料からは、船タデ経費として次のような項目が請求されていることが分かります。
①船を浜に揚げて輪木をかませ固定する費用
②船タデ用に燃やすの茅の費用
③浜の占拠料である浜銭
④与島での宿代
⑤この時は防腐・防水剤としての渋の費用

4番目は、引田廻船の史料(年末詳「覚」人本家文書)です。
一 三匁九分  輪木
一 六拾五匁 
一 四匁       宿代
〆 七十二匁弐朱九分
差引       内金 壱匁弐朱   
右の通り請取申候、以上、
よしま 久太夫(塩飽与嶋浦中タデ場)(印)
六月十六日
三宝丸 御船頭様
この史料からは、大内郡馬宿浦の三宝丸は、輪木・茅・宿代の合計72匁9分を与島の年寄の久太夫に払っています。同時に、与島の久太夫が船タデ場を「塩飽与嶋浦中タデ場」を管理していたことが分かります。この人物がタデ場の所有者で経営者と、思えますがそうではないようです。それは後に、見ていくことにして・・・
今度は、本島の塩飽勤番所に残された史料を見ていきます。
文政二(1819)年の「たで場諸払本帳」は、与島のタデ場を1年間に利用した594艘の廻船の記録です。
与島船タデ場 利用船一覧

タデ場の記録としては、全国的にも珍しく貴重な史料のようです。坂出市史は、その重要性を次のように指摘します。
第一に、与島のたで場に寄った廻船の船籍が分かること。
廻船船籍一覧表 24は、船籍地が分かる廻船318艘の一覧表です。これを見ると、日向41、阿波31、比井27、日高17、神戸14などが上位グループになりますが、その範囲は日本全国に及ぶことが分かります。
第二は、船タデの作業工程と、費用が分かります。
与島タデ場 輪木・茅代一覧
上表からは、船タデ作業の各項目や材料費が分かります。
①船タデ作業の時に船を固定する「輪木」代
②船底部を燻蒸する材料の茅代
③船を浜揚げして輪木なしでたでる平生の場合の費用
この表をみると、一番多かったのは輪木代が三匁四分~三匁九分で486件です。茅代は輪木代つまり廻船の大きさによって最大80匁です。輪木を使わない平生(ひらすえ)は、49件で茅代のみとなっています。この史料の最後には次のように記されています。
「惣合 二〇貫三九七匁一分五一厘 内十三貫二五四匁一分
茅買入高引 残七貫一四匁五厘
卯十二月二十一日浦勘定二入済 船数大小五九二艘」

ここからは、一年間の利用船が592艘で、その売上高が約20貫で、支出が茅代約13貫、差し引き7貫あまりが収益となっていたことが分かります。坂出市史は、次のように指摘します。
「収益は多くはないように見えるがより重要なことは、その収支が浦社会で完結されていたことである」

 全ての収益が地元に落とされるしくみで、地域経済に貢献する施設だったのです。

 船タデで使われる茅(草)は、どのように手に入れていたのでしょうか
私は周辺の潟湖などの湿地に生える茅などを使っていたのかと思っていましたが、そうではないようです。幕末期には尾州廻船が茅を摘んで入港していることが史料から分かるようです。また、慶応2(1866)年10月、坂出浦の川口屋松兵衛は「金壱両三歩」で大量のたで草を荷受けしています。このたで草が与島に供給された可能性があります。どちらにしても船タデ用の茅は、島外から買い入れていたようです。その費用が年間銀13貫になったということなのでしょう。
与島船タデ場 茅購入先一覧

表26は、与島でのたで草の人手先リストです           
買入先が分かる所を見てみると、「タルミ=亀水」「小予シ満= 小与島」「小豆し満= 小豆島」など周辺の島々や港の名前が並びます。買入量が多いのは、圧倒的に小豆島です。小豆島の船の中には、島で刈られた茅を大量に積んで与島に運んでいたものがいたようです。中世には、讃岐の船は塩を運んでいたと云われます。確かに塩が主な輸送品なのですが、東讃からは薪なども畿内に相当な量が運ばれていたことを以前にみました。また。江戸時代には、製塩用の塩木や石炭を専門に運ぶ船を活動していました。船タデ場で使う茅なども船で運ぶ方が流通コストが安かったのでしょう。まさに「ドアtoドア」ならぬ「港から港へ」という感覚かも知れません。
 どのくらいの量の茅が買い入れられていたのでしょうか?
表からは163958把が買い入れられ、その費用が14貫746匁5厘だったことが分かります。史料冊子裏面に「岡崎氏」とあります。ここからは与島のたで場経営が与島庄屋の岡崎氏の判断で行われ、塩飽勤番所に報告されたようです。

与島のたで場は、どのように管理・運営されていたのでしょうか。
私は、経営者と職人たちの専門業者が船タデ作業を行っていたのかと思っていました。ところがそうではないようです。与島のたで場については、浦社会全体がその運営に関わり、地域に収益をもたらしていたようです。
そのため船タデ場の管理・運営をめぐって浦役人と浦方衆との間で利害対立が生まれ、「差縫(さしもつ)れ」となり、控訴事件に発展したことがあるようです。坂出市史は文政四(1831)年に起こった「たで場差縫れ一件」を紹介しています。この一件について「御用留」は、与島年寄りの善兵衛からの書状を次のように記します。
一 文政四巳たで場差配の儀、争論に及び、私差配仕り来たり候場所、三月浦方の者横領二引き取り指配仕り候に付き、御奉行所へ御訴訟申し上げ、追々御札しの上、御理解おおせられ」

意訳変換しておくと
一 文政四巳(1831年)のたで場差配について、争論(訴訟事件)となりました。これについては、私(善兵衛)が差配してきた場所を、三月に浦方衆が力尽くで差し押さえた経緯がありますので、御奉行所へ訴訟いたしました。よろしくお取りはからいをお願いします

 この裁断のための取り調べは、管轄官庁のある大坂で行われたようです。そこで支配管轄の大坂奉行所役人から下された内容を岡崎氏は次のように記します。。

安藤御氏様・寺内様・田中様御立合にて丸尾氏並拙者御呼出し上被仰候は、たで場諸費用之儀対談相済候迄、論中の儀ハ前々の通り算用可致旨被仰候
たで場差配として浦方談之上、善兵衛指出有之処、善兵衛引負銀有之候共、其方へ拘り候儀ハ無之、浦方の者引受差配可致旨被仰候、
浦役人罷上り候諸入用の儀、其方申分尤二て候得共、浦役人之儀ハ浦方惣代之事二候間、浦方談之通り割人半方ハ指出可申旨被仰候、
右の通り被仰、且又御利解等も有之候二付、難有承知仕、引取申候、
意訳変換しておくと
安藤様・寺内様・田中様の立合のもとに、丸尾氏と拙者(岡崎氏)が呼び出され以下のように伝えられた。
第1に、たで場諸経費については、これまで通りの運用方法で行うこと
第2に、たで場差配(管理運営)は浦方衆と相談の上で行うこと、確かに、タデ場には善兵衛の私有物や資金が入っているが、タデ場は浦役人の善兵衛の私有物ではない。「浦方之者」全体で管理・運営すること。
第3は、浦役人の大坂へ上る諸経費について、その費用の半分は、たで場の収支に含まれる
以上の申し渡しをありがたく受け止め、引き取った。

ここからは、タデ場が浦役人の個人私有ではなく、浦全体のものであり、その管理運営にあたっては合議制を原則とすることを、幕府役人は求めています。たで場の差配は、浦役人(年寄)をリーダーとして、浦方全体の者が引き請けて運営されていたことが分かります。浦社会にとっては、地域所有の「修繕ドック」を、共同経営しているようなものです。そして、これが浦社会を潤したのです。

与島の「たで場」の共同管理を示す史料(「御用留」岡崎家文書)を見ておきましょう。
一 同三日、たで場居船弐艘浮不申二付、汐引之節浮支度として浦方居合不残罷出候、‥(後略)…

意訳変換しておくと
 同三日、たで場に引き上げられている2艘の船について、汐が引いた干潮に浮支度をするので、浦方に居合わせた者は残らず参加すること、‥(後略)…

ここからは次のようなことが分かります。
①与島の「たで場」は、2艘以上の廻船が収容できる施設であったこと
②島民全員が、タデ場作業に参加していたこと

もうひとつ幕末の摂州神戸の網屋吉兵衛が役所に、提出したタデ場設置願書には、次のように記されています。
「播州の海岸には船たで場がなく、諸廻船がたでる場合は讃州多度津か備後辺り(鞆?)まで行かねばなりません。そのため利便性向上のために当港へのタデ場設置を願いでます。これは、村内の小船持、浜稼のもの、また百姓はたで柴・茅等で収入が得られ、村方としても利益になります。建設が決まれば冥加銀を上納します」

 ここからは次のようなことが分かります。
①播州周辺には、適当な船タデ場がなく、播州船が多度津や備後の港にあるタデ場を利用していたこと
②タデ場が浦の住人だけでなく、周辺の農民にも利益をもたらす施設であったこと
ここでは②のタデ場が「浦」社会全体の運営によって成立していたことと、それが地域に利益をもたらしていたことを押さえておきます。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  「坂出市史近世編 下 第三節 海運を支えた与島   22P」
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廻船式目の研究(住田正一) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

坂出市史に「廻船式目」のことが紹介されています。
廻船式目とは、「海の憲法」ともいえる海事法規で、海上運送における慣習法をまとめたものです。全国には60冊ほどが伝わっているようですが、奥書の年紀は貞応二(1123)で共通しているので、鎌倉時代前期には成立していたとされます。
  廻船式目には、海難・盗難・積荷損害などの事故への対応法が書かれています。
それが時の権力者から承認を得ながら、何度かの改変・追加などを経て室町時代後半期には、全国的に一定の共通理解と法的拘束力がもたれるようになっていきます。つまり中世以来「廻船式目」に定められた条項が遵守され、海事紛争の根拠法とされていたのです。「海の憲法」とも云われる由縁です。

 塩飽には、2つの廻船式目が伝来していたようです。そして、それらを書き写したものが各浦々の人名の家には残っています。その背景を坂出市史は、次のように指摘します。
①海路を遠国まで航海する大型廻船を所有していたこと
②諸国の廻船が海上交易のために寄港したこと
③その際に塩飽海域で海難事故・事件に巻き込まれた場合の対応法を知っておく必要があったこと。
そして、与島に伝わる船法度(廻船式目)を紹介しています。
これは塩飽寛政改革で新年寄に選任された与島岡崎家の当主次郎左衛門が、塩飽に伝わる「廻船式目」を種本にして、新たに書き写したものと研究者は考えているようです。これを見ていくことにしましょう。

タデ場 廻船式目 
 廻船式目
第1条は、難破船に関する事項です。
① 「一  寄船・流舟(難破船)は、その在所の神社・仏寺修理をなすべきこと、もしその船に乗る者おいては、舟主進退なすべきこと」

沖で難破した船が流れ着いたときの処置方が記されています。難破船は、誰の物か分からないので、近隣集落で船を解体して、寺社修理に充てることができたようです。乗組員がいれば、船主の進退を仰ぐとあります。通例では、当該乗組員の判断によると記すものが多いようです。
 第二条は「港に係留中の船が破損したり、積荷が濡れた時」のことです。
②湊(港)において繋ぎ船損ないしたる時は。その所より濡れたる物を干し、船頭に渡すべきなり。そのため帆別・碇役し湊を買たる(人港に際し支払う諸税)は、国主たりとも違乱あるべからざる事」

船を湊に係留中に、船が損傷したり、荷を濡らした場合は、現場で乾して船頭に渡せとあります。そのため、全ての権限は、船頭にあり、帆別・碇役などの津料(関税等)を支払った場合、荷物の取引に関して、その所の国主といえども勝手はできないとあります。港に係留された船の保全は、港管理者に責任があったことが分かります。
  第三条は、「(係留中の)大風時の係船の事」についてです。
③ 「一  繋ぎ船あまたこれありて大風ならば、その村よりも加勢をつかまつるは、まず風上なる船に加勢する事もつともなり。いかに風上の舟、綱碇ありといえども、風上の船流れかからば諸々の船繋ぎ止むるべからず、もし風上の舟おのれと綱を切り、風下の船に流れかかり二艘ともに損いならば、風下の船より最も風上の舟に存分これあるべき事」

 多くの船が係留されているときに強風が吹いたときには、まず風上の船に加勢せよとあります。どんなに風下の船が綱碇をしているといっても風上の船が流れてくれば全ての船をつなぎ止める事はできません。もし、風上の船の綱が切れて風下の船に流れかかり、両方とも破損したなら風下の船から風上の船に賠償させる権利(存分)があるというのです。
 「その村よりも加勢」とあるので、湊のある村では海難救助や災害防止のための出動が相互扶助として確立していたことがうかがえます。それを指揮する庄屋たちは、この慣習法を知っていないと、対応を誤ることになります。勤番所に置かれていた廻船式目を、真剣に書き写すリーダーたちの姿が浮かんできます。
   第6条は、船の盗難に関する事です。
⑥舟を盗まれ、本は賊船に取られ、北国の舟は西国にこれあり、西国の舟は北国にこれありといえども、この船を買取り廻船をすべからざる事、もし、荷物を積廻す船はこれあるにおいては、船主見合いにこの舟を取返し、船頭も迷惑たるべき事、かわりに付たる沙汰はたとい親子の間にて深々たるべき事

船が盗まれることもあったようです。盗まれた船と分かった時には、日本中のどこにあっても持ち主に返却すること、その船が何回も転売されていて所有権は無効となる。また、盗船の雇われ船頭も盗船であることを知らなくても免責にならない。

このように海難事故や船をめぐる事件についての対応のために、中世にはこんな慣習法ができていたこと自体が驚きです。しかも、瀬戸内海というエリアだけでなく日本列島全体で遵守されていたというのですから。逆に考えると、海上交易(廻船)活動が広範囲に鎌倉時代には行われていたことにもなります。

千石船

さて、今回私が一番気になったのが、次の第7・8条です。 第7条は、「借船」に関する規定です。
⑦ 「借舟をし、もし、その舟損したるといえども、借りて弁えざるべき事、但し、舟床をすめす舟主の分別無き所を押さえて出船し、その舟損したる時は借り手の弁えにたるベき事」
船のレンタルとその運用について、荷主などが契約して借船を運航する場合、船の損害は、船主が責任を負います。また、荷主が、船主に対して契約料を未払いや無断出港した場合などは、借り手の責任となったようです。
 塩飽廻船は、古来より前払いの運賃積みで運行されてきました。その根拠となったのがこの項目だと研究者は考えているようです。
第8条は、船虫喰についてです。
 私は「船虫喰」とは、海岸でゴキブリのように這い回るフナムシと思っていました。フナムシとフナムシクイはまったく別種のようです。
タデ場 フナクイムシ3
フナムシクイの着床
フナクイムシは水中の船木に穴を開けてそこに住みつき、船材を穴だらけにしてしまいます。世界中の木造船が苦しめられてきた船の天敵です。ウキで検索すると、次のように記されています。
「フナクイムシ(船喰虫)は、フナクイムシ科 (Teredinidae) に属する二枚貝類の総称。ムシとついているが、実際は貝の仲間である。英語ではshipworm、ドイツ語ではSchiffsbohrmuschelnあるいはPfahlwurmer、フランス語ではtaret commun、台湾では船蛆蛤と呼ばれる」

  これを放置しておくと船底は穴だらけになって浸水してきます。船の耐久年数も縮めます。
タデ場 フナクイムシ1

この対応策としてとられたのが船タデです。ウキは、次のように記します。
 
船をタデ場に揚げ、藁・苫などを燃やして船底を熱し、船板中の船食虫を殺すとともにしみ込んだ水分を取り去ること。船の保ちをよくし、船足を軽くするために行なう。「牛島諸事覚」

火を燃やす作業所を「焚場」(たで場)と呼んだと云います
タデ場 フナクイムシ2
木材に巣くったフナクイムシの一種
それでは廻船式目に船虫食いが登場する第8条を見てみましょう

⑧ 「一  借船をし、その船虫喰いたる時は、借り手損たるべき事、但し、舟付きこれあるにおいては借り手気遣及ばざる事、借り手油断においては弁えあるべき事」

意訳変換しておくと

船をレンタルして運航していた際に、メンテナンス不備で虫食いの被害で損害を与えたときには、借手の責任となる。ただし、専門のメンテナンス水夫が同乗の場合は、この限りではない。レンタル側のお雇い船頭が油断して虫食いが発生した場合も、同様に責任がある。

 先ほど見たように廻船の虫食いは、深刻な場合は廃船になることもあります。そのためには普段からの注意と、定期的な整備が必要でした。「舟付きこれあるにおいては」とあるのので、メンテナンス専用の水夫が同乗する場合もあったようです。

条文に明記されているのですから、船タデを定期的に行い廻船を良好な状態で維持管理し、長持ちさせることは、廻船関係者にとっては常識であったことが分かります。また、船底に付着する海藻や貝類も船足を遅くする元凶なので、これを取り除く作業も同時に行われました。
 それでは船タデ作業は、どこで行われたのでしょうか?
   備讃瀬戸を挟んだ備後の鞆の浦からはタデ場遺構が確認されています。調査報告書は次のように述べています。
タデ場 鞆の浦2
石畳を敷いたようにみえるタデ場跡(鞆の浦)

①石敷され,一辺が50~100cm程度の上面が平坦な板状の石材で作られている。
②その範囲は約23×13m。石材の一部には,石を割ったときの跡(矢穴痕)が残る。
③岩盤は,自然の岩盤とは異なり,全体的にほぼ平坦であり人工的に削平したもの
④平坦に削平された岩盤と,石敷や石列の設置で,全体として平坦な「場」ができあがっている。
タデ場 鞆の浦1

また文書にも、タデ場を裏付ける次のような文書があるようです。
・文政10年(1827年)の河内屋文書には,時代と共に船の規模が大きくなり,焚場が狭くなってきたため,敷石したり岩・石を削平して浜全体で大船10艘の焚船ができるようにしたこと

この記述は、先ほど見た遺構の「石敷・石列・加工の可能性のある岩盤」と一致します。
・近世の鞆の町並みを記録した2枚の絵図面〔元禄~宝永年間(1688~1710年)沼名前神社蔵及び文化年間(1804~1817年)と推定されるもの・〕には両方とも,同じ場所に“焚場”あるいは“タデ場”の記載があること。

このタデ場(焚場)は大正時代の始めまでは、多くの船に利用されていたようです。当時は、千石船が50杯/月、300~500石の船が130杯/月も利用する瀬戸内では、最大級の焚場のひとつだったようです。江戸時代の港町に、タデ場が残っている所は今ではほとんどありません。潮が引くと石畳造りのタデ場が現れます。

kaisenn廻船5

 以前にお話ししましたが、タクマラカン砂漠のオアシスはキャラバン隊を惹きつけるために、娯楽施設やサービス施設などの集客施設を競い合うように整備します。瀬戸の港町もただの風待ち・潮待ち湊から、船乗り相手の花街や、芝居小屋などを設置し廻船入港を誘います。船乗りたちにとって入港するかどうかの決め手のひとつがタデ場の有無でした。船タデは定期的にやらないと、船に損害を与え船頭は賠償責任を問われることもあったことは廻船式目で見たとおりです。また、船底に着いたフジツボやカキなどの貝殻や海藻なども落とさないと船足が遅くなり、船の能力を充分に発揮できなくなります。日本海へ出て行く北前船の船頭にとって、船を万全な状態にしておきたかったはずです。
 船頭に人気があった船タデ場のひとつが、鞆にあったことはみてきました。ところが、鞆の船タデ場の管理者たちがライバルししていたのが塩飽与島のタデ場です。わざわざ与島のタデ場を取り上げて、自分たちのタデ場の方が古くからあり、処理能力や腕もよく、経費も安いと記します(鞆浦河内屋文書)。ここからは、鞆と与島は、どちらもタデ場発祥の地として競い合っていたことがうかがえます。同時に、近世瀬戸内の同業者の間では、船タデの由来・由緒が共有されていたことも分かります。ちなみに与島の小地名に「たてば」というところがあるようです。これは、もともとは「タデ場」のあったところなのでしょう。

1 塩飽諸島

瀬戸内海の干満差は、船タデ場に適していたようです。
瀬戸内海の平均干満差は約3~4mで、一日に2回干満があります。ちなみに東北から日本海方面では、千満差は、30㎝しかないそうです。また九州の有明海などは、干満差が6mを超えます。このため日本海岸では、船の下に入ることも出来ません。一方有明浜などでは磯や浜に船台を設けても、高すぎて船底に届きません。干満差3mというのは、作業にはちょうどいいようです。

坂出市史を参考に、船タデの作業開始を時間順に並べて見ましょう。
①満潮時にタデ場に廻船を入渠させる。
②船台用の丸太(輪木)を船底に差し入れ組み立てる。
③干潮とともに廻船は船台に載り、船底が現れる。
④船底のフジツボや海藻などを削ぎ取りる
⑤タデ草などの燃材を燃やして船底表層を焦がす。
⑥船食虫が巣喰っていたり、船材が含水している場合もあるので、防虫・防除作業や槙肌(皮)を使って船材の継ぎ目や合わせ日に埋め込む。
⑦同時に、漏水(アカの道)対策や補修なども行う。

タデ場での作業は、通常は「満潮―干潮―満潮」の1サイクルで終了です。しかし、船底の状態によつては2、3回繰り返すこともあったようです。この間船乗りたちは、船宿で女を揚げてドンチャン騒ぎです。御手洗の船宿の記録からは、船タデ作業が長引いているという口実で、長逗留する廻船もあったことが分かります。「好きなおなごのおる港に、長い間おりたい」というのが水夫たちの人情です。
 船の整備・補修技術や造船技術も高く、船タデ場もあり、馴染みの女もいる、そんな港町は自然と廻船が集まって繁盛するようになります。そのためには港町は「経営努力」と船乗りたちへのサービスは怠ることができません。近世後期の港町の繁栄と整備は、このようなベクトルの力で実現したものだと私は考えています。
タデ場 鞆の浦3
近世の造船所
  「塩飽水軍」は存在しなかった、あったのは「塩飽廻船」と前回に記しました。
塩飽衆は、武力装置としての水軍力よりも、航海術を駆使し、人やモノを各地に海上輸送することを得意にしていたのです。加えて塩飽の廻船の強みは、船舶を維持管理する能力の高さではないかと坂出市史は指摘します。そのひとつが塩飽のタデ場であったのではないでしょうか。塩飽のタデ場は鞆の浦と同じように諸国の廻船関係者から高い評価を得て、大型廻船の出入りが絶えなかったのです。それは、塩飽に安定した収入源と、船大工たちの雇用の場を作り出していました。塩飽繁栄のささえのひとつでした。

最後に現役のタデ場を見ておきましょう。
タデ場 鞆の浦4

鞆の浦の港の中の光景です。漁船には今も木造船が残っています。雁木を利用して、船を揚げて「タデ場」として利用しています。
タデ場 鞆の浦5

木造船時代は、どの漁村でも船タデが行われていました。
丸太のコロで木造船を浜に引き上げ、船底に付着している海藻や貝類をかき落とし、松葉や杉葉やススキをタデ草(船タデの燃料)として燃やし船底を焼きます。その際、船の船霊さまは船タデをすると熱いのでしばらく船から離れていただく儀式をします。タデ草を動かす棒の事をタデ棒と呼びます。船タデが終わるとタデ棒で船底を3回叩きます。それは離れてもらっていた船霊さまに船タデが終了したことを知らせ、船にお帰りいただく合図だったと伝わります。ちなみに鞆の浦では、タデ草の代わりにバーナーで燻っていました。現代版の「タデ草」です。形を変えて、漁村ではタデ場が残っているようです。
 
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献   坂出市史 中世編  塩飽廻船と廻船式目 123P



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