美合の炭焼き窯(まんのう町教育委員会提供)
まんのう町アーカイブス写真の中に、炭焼きを記録したものがあります。今回は、美合でどのようにして炭焼きが行われていたのかを見ていくことにします。テキストは、琴南町誌855Pです。美合産の木炭の立地条件として、琴南町誌588Pは、次のように記します。
①自然森林が多く、木炭の原木が豊富であること、②山間僻地で他の産業があまり盛んでなく、労働力が豊かであること
木炭の生産スタイルは、どんなものだったのかを見ておきましょう。
木炭の生産は、山請け親方が山持ちから一山いくらかで請け、人夫を雇って炭窯を造り炭を焼きました。人夫は、一窯当たり2・3人で、山に宿泊して焼きます。白炭で二週間、黒炭で10日ぐらいかかります。出荷は、山から二俵ずつ肩に担いで小出しして林道まで出します。その後、猫車に載せて道路まで運びだします。販売は家庭用は、坂出・琴平・高松方面に仲介人が売りさばきました。工業用とか、大量に出荷する場合は、森林組合を通じて出荷しました。単位価格は、 一俵400~500円程度でした。
次にどのようにして木炭が作られたのかを見ていくことにします。木炭の生産は、山請け親方が山持ちから一山いくらかで請け、人夫を雇って炭窯を造り炭を焼きました。人夫は、一窯当たり2・3人で、山に宿泊して焼きます。白炭で二週間、黒炭で10日ぐらいかかります。出荷は、山から二俵ずつ肩に担いで小出しして林道まで出します。その後、猫車に載せて道路まで運びだします。販売は家庭用は、坂出・琴平・高松方面に仲介人が売りさばきました。工業用とか、大量に出荷する場合は、森林組合を通じて出荷しました。単位価格は、 一俵400~500円程度でした。
①まず初めに炭焼き窯を造ります。炭焼き窯の土は赤土が一番とされました。そのため赤土がなければ遠いところまで赤土を掘りに行きます。赤土は粘土質で、粘りがあって火にあってもなかなかひび割れしません。

④横壁ができると木材を積み込みます。最初の時は天井がありません。
ツベハリ(天井はり)
⑤一番難しいのはツベハリで、ツベというのは炭焼き窯の天井のことです。この時には何人もの人に加勢に来てもらいます。天井が落ちないように、ニガリを混ぜた土を使って何度も何度もヨコバイでたたきます。⑥出来あがると「ツベハリの祝い」をします。それはツベ(天井)とヒジリに御神酒・イリコを供えての宴会です。
炭焼き窯には、住吉さまや弘法大師が祀られていたようです。弘法大師が祀られる由縁は、次のように伝えられています。
昔は、窯の後ろに煙出しの穴がなく、炭がうまく焼けなかった。それを弘法大師がやって来て穴をつくることを教えてくれた。それからうまく焼けるようになった。
出来た初めの窯はアラガマ(新窯?)と呼びます。アラガマの炭は悪いが、三度目からはよい炭が焼けるといいます。炭焼き窯の大きさは、高さ十尺、奥行き七、八尺のものが多かったようです。
いよいよ点火です
燃焼室に燃えやすい小枝などを入れておき、別の場所でおこした火を投入します。燃焼が確認できたら、薪を次々と投入していく。この時点で、投入口を石、レンガなどで狭める。
炭化の始まり窯の中が一定温度になれば、炭材が熱分解して炭化が始まる。煙突口から白い煙が勢いよく立ち昇る。炭化の進行窯内では、天井の方から窯底へと炭化が進行していく。炭化の速度は、煙突口(煙道口)の開口面積で調整する。最初は開いているが、炭化が進むにつれ徐々に塞いで最後には閉めてしまう。炭焼きする木は、樫・ほうそ・くぬぎ・くるまみずきなどで、あとは雑木です。
窯が家から離れていると、焼き上がった炭を入れておく納屋のほかに、ネゴヤ(寝小屋)なども造らなければなりません。寝小屋について、琴南町誌は次のように記します。
ネゴヤ(寝小屋)に寝泊まりして炭が焼き上がるのを待つことになる。構造は掘っ立てで、萱葺き、周りは萱で囲った。幅一尺半か二尺ぐらいの入口を入ると、そこは土間になっていて、オイエにはムシロを敷いてある。大きさは、横が一間で縦が一間半ぐらいのものが多い。入った奥には、 一間半四方ぐらいの大きさの炉を切ってあるが、天井の桟から竿をつるしてある。ここで煮炊きをする。布団は大抵の場合、隅に積み重ねてある。板で簡単な棚をつくって、箱膳・茶碗。小さい米缶などを置いてある。炭を焼くのに二、三日もかかるし、煙の色で焼き具合を見なければならないので、寝泊まりしているわけである。
窯に火を入れてから二日ぐらいは焚き、炭になってからは密閉して三日ぐらいおいて熱をさましてから口をあけてかき出す。


これは黒炭の場合ですが、白炭(シロズミ)の場合はまだ赤く焼けているのをエブリで引き出します。そしてアクの中へ埋めます。白炭の方が値段もいいし、堅くて重宝がられますが、造るのも手間がかかります。火が付いたままで引き出すので高温です。そのため木綿の布を何度も何度も継ぎ足してつくったドンザを着て、顔も頭も布で覆います。その上に、水を用意して体に水を振りかけながらの作業でした。
白炭と黒炭については、次のように記します。
白炭はシロスミウバメガシ・アラカシ・ナラ・ホオなどの樹木を 1,000度以上の高温で焼いた硬質の炭のこと。火付きは良くないが、一酸化酸素の発生の少なく火持ちの良いので料亭などで良く使われています。炭の密度が高いので、叩くと金属のような音がします。白炭という名称は、焼きあがった炭に灰と土を混ぜた消し粉をかけて消化するために表面に灰が付着して白っぽくなることからこの名称になっています。ウバメガシの木を原料とする備長炭は白炭の代表格。黒炭とは、白炭の技術を基礎に日本独自の工夫で完成した炭焼き技術で、低温(約700度)で焼いた軟質な炭です。消火は、釜を完全に密閉してゆっくり消火させます。白炭より軟らかく火付きが良く、立ち消えしないために昔から重用されてきました。炭材になるのは、ナラ・クヌギ・コナラ・ミズナラ・マツなど。
かつては炭問屋は皆野と明神にありました。炭が出来るとそこまで持って行ったようです。炭俵は、女たちが農閑期や夜なべに作っていました。炭焼きは一か月に二ハイのペースで焼いていました。一パイで50俵ぐらい生産できます。
上表を見ると、日中戦争開始後に第一次急増期があり、太平洋戦争に突入すると燃料不足から木炭需要が激増していることが分かります。それが戦後には落ち着き、プロパンガスなどが普及するようになるころから急減していきます。琴南町勢要覧には、1955年の3207俵が、1964年には1809俵へとほぼ半減、そして11年後の1977年の『町勢要覧』には、木炭の記述はなくなっています。この間に、木炭生産は姿を消して行ったことが分かります。急速な需要変動で、生活を根底から揺さぶられた人達の困惑があったはずです。この表からは次のような情報が読み取れます。
①1955年以後、10年で木炭生産が1/4に激減したこと
②代わって、灯油・電気・都市ガスの需要が高まったこと
③1960年代の「家庭燃料革命」で、木炭は家庭から姿を消したこと。
④琴南の木炭生産も1970年代には、終焉を迎えたこと
木炭需要が多かった頃は、麦をまいてから後の晩秋から冬にかけて炭を焼く煙が琴南の山々に見られたと云います。
農繁期の副業として、いい稼ぎになったようです。木炭は琴南の代表的な産物で、最盛期は戦後(昭和25(1950)年ごろで、香川県全消費量の1/3にあたる15万俵を美合産が占めていました。
農繁期の副業として、いい稼ぎになったようです。木炭は琴南の代表的な産物で、最盛期は戦後(昭和25(1950)年ごろで、香川県全消費量の1/3にあたる15万俵を美合産が占めていました。
香川県の木炭生産の推移表
上表を見ると、日中戦争開始後に第一次急増期があり、太平洋戦争に突入すると燃料不足から木炭需要が激増していることが分かります。それが戦後には落ち着き、プロパンガスなどが普及するようになるころから急減していきます。琴南町勢要覧には、1955年の3207俵が、1964年には1809俵へとほぼ半減、そして11年後の1977年の『町勢要覧』には、木炭の記述はなくなっています。この間に、木炭生産は姿を消して行ったことが分かります。急速な需要変動で、生活を根底から揺さぶられた人達の困惑があったはずです。
①1955年以後、10年で木炭生産が1/4に激減したこと
②代わって、灯油・電気・都市ガスの需要が高まったこと
③1960年代の「家庭燃料革命」で、木炭は家庭から姿を消したこと。
④琴南の木炭生産も1970年代には、終焉を迎えたこと
炭焼きは姿を消しましたが、炭焼きにまつわる話は今に伝わっています。次のような話が琴南町誌には載せられています。
①初めての窯のときは、必ず入口にチョウナを立て掛けておく。チョウナには三本の筋を掘ってあるので、 マモノが来ても眼三つの妖怪がいるといって、魔よけになるのだという。
②ネゴヤにねずみがやって来たら、お福さんが来たといって喜ぶという。
③家から出掛けに、箸が折れたとか、茶碗が割れたとか、鎌の柄が折れたとか、女房がぐずぐず言ったりしたら、その日は山へは行かない。
④ネゴヤで寝ていると、何物かがやって来て小屋を揺すったとか、向こうの山が燃えたが朝起きてみると何のなかったといったふうな、怪異の話は多い。
⑤来るはずもないのに、夜更けてから我が家で飼っている猫がやって来たという話もある。猫は魔性のものだから、七谷を越えてやってきたのかもしれない。
炭焼き仕事は、山中での仕事なので縁起をかつぐことが多かったといいます。それらを伝える写真資料がまんのう町教育委員会にあることを報告しておきます。⑤来るはずもないのに、夜更けてから我が家で飼っている猫がやって来たという話もある。猫は魔性のものだから、七谷を越えてやってきたのかもしれない。
香川県史14巻民俗583Pに、美合で行われていた炭焼きについての聞取り調査報告が載せられていました。長くなりますが載せておきます。
炭に焼く木を決定するバンドウニンは、何年バエの木が何町歩あるから炭は何貫焼けると計算する。目の確かなバンドウニンは狂いがないが、バンドウする人が未熟だと損をする。25年バエ、30年バエと木の育ちぐあいで決定した。決まると、山がオリタ、スミ山に渡した、山をオロスなどと言う。ノサン(共有林)は炭焼きにオロス。共有林は、一戸前のブ(持ち分)がそれぞれ違い、ブにしたがって利益も割る。ブは家によって、半戸ブンとか三戸ブンとかを持っている。ブを持っていないと、利益の配分にはあずかれない。また、ジバイ(個人所有の山)をオロスこともある。個人の山の収益はもちろん山持ちが握る。
スミ山は木が多い。木はモトギリにする。モトギリにしておくと、後から芽が出て木が茂る。旧暦の3月3日を過ぎると、モトギリをしてはならない。芽が出なくなるおそれがあるので禁じた。切ってから10年もたつと、また炭が焼けるように木が育つ。
炭焼きにする木は多種類である。
ホウソ・フクロタ・カシ・ナラ・モミジ・クルマミズキ・カワラサシチシの木・リョウブ・クヌギなどでクヌギは歩どまりがいい木、ホウの木の皮は印刷用アルミ版のみがきとしていた。また、塗りものの研ぎとして使用する上等の炭が焼けた。反対に、クリの木は炭には焼けずになってしまう。ウルシの木は炭にすると軟らかいときらわれた。外に、竹炭を焼いたこともある。竹は3年目には切ることができるので自家用の孟宗竹で焼いていた。
ホウソ・フクロタ・カシ・ナラ・モミジ・クルマミズキ・カワラサシチシの木・リョウブ・クヌギなどでクヌギは歩どまりがいい木、ホウの木の皮は印刷用アルミ版のみがきとしていた。また、塗りものの研ぎとして使用する上等の炭が焼けた。反対に、クリの木は炭には焼けずになってしまう。ウルシの木は炭にすると軟らかいときらわれた。外に、竹炭を焼いたこともある。竹は3年目には切ることができるので自家用の孟宗竹で焼いていた。
松の木は鍛冶屋、刀鍛冶の炭としてフイゴ炭と呼ばれた。松は、火力が強くて鉱物の精錬には欠せないものだった。鍛冶屋と呼ばれた松災は、鉄や刀を鍛えるとき炭素と鉄とが結合していい刀物になる。刀の切れ味の秘密は災にあると言い、鍛治屋炭はよく売れた。
炭木の木その他を切ると、東にして運ぶ。山のナルイところはいいが、イシワラや谷を避けて木を集める。
炭木はドエにかけたりドウマンにして運び出す。584P
ドウマンというのは、モトギリした木をカズラで固く束ねることで、それを山の上から転がり落とす。簡単といえば簡単だが、途中で東が崩れたり、見当違いの方へ落ちたのでは困る。目的の場所へきちんと転がり落ちるように工夫する。ドエにかけるというのも共通の方法である。
いい山、ジフクがいい山とは、日あたりがよくて谷が小さく、スミ木のよさはもちろんのこと、木出しにも適したところで、こういう山が喜ばれる。
木を切るのは、大体二日で切り終る。一窯に焼けるスミ木を二日で切るということになっていた。
炭焼きはヤキコがあたる。ヤキコは美合在住の人たちで、炭焼きにやとわれてヤキブ(日当)をもらう。炭焼専門なので、木灰にしないで上手に焼き、能率があがった。
炭焼きの方法には、テントウ焼炭、ロテン焼がある。材料は松の木、60㎝くらいの長さに松の木を切りそろえ、太さも大体同じようなものを選ぶのは小皿のように中央を少し深くする。太い松の木は割っておくこともある。これらを二段三段と積み重ねる。上へは松葉をかぶせて、土を置く。火気が外へ出るのを防ぎながら、盛りあがった中央に出しの穴をあける。火は下からつける。煙が出はじめると最初は黒い煙、だんだん白くなり、薄青く煙の色が変化する。煙の色の変化にともなって、においも変わってくる。
煙の色の変化により、煙の出る穴を少しずつ小さくする。これを、シメルと呼ぶ。火がついてから一昼夜置き、空気穴も、煙穴もふさいで火を消す。消したはずの火がおきるときもあるので、水の用意も怠らない。こうして鍛冶屋が焼きあがる。
炭焼窯をつく土は、赤土がもっともよい。粘土質の赤土があるところはいいのだが、ガラ山などは客土を必要とする。ガラガラ山では炭が灰になってしまうし、オンジ土もあまりよくない。
床も粘土で固め、周りへ石を置く。石と石とのすき間がないよう粘土でふさぐ。炭木は一メートルくらいに切りそろえたものを窯のかたちにたて並べる。炭木を並べた上へ、小枝をかぶせ、さらに薬を敷く。そして、土をおおうわけだが、上手にしないとツベが抜けてしまう。窯のツベハリには手慣れた人が三、四人も加勢に来て共同でハッてもらう。このツベとは天井のことで、赤土を置いてはヨコバイでたたきつける。また、天井の土にはにがりを混ぜた土を使うとひび割れしない。にがりは塩を籠の中に入れ下へ桶をすえて取ったものを使った。
窯のツベハリは一日仕事で、しっかりシメておかないとツベが抜けてしまうとしっかり土を固めた。そして夜、カメのツベハリまつりをする。炭窯うったらお客をするとも言い、窯のてっぺんとヒジリに御神酒とにぼしかめざしを供えた。
むかし、炭窯には煙突がなかったが、弘法大師がこられて、窯の後ろへ穴をあけてくれた。それから炭がうまく焼けるようになったという。だから、炭焼窯の火は大切にし、魚などは焼いてはならない。もし焼くと、小屋が焼けてしまうし山火事にもなるという。
窯に火を入れてから一昼夜、窯の大きさにもよるが、大体、二日焚きくゆらして三日、火を消してからさら三日ほど置いて熱をさます。煙の色は、はじめはホケが出て白くなり、青白く、青くと変化する。煙が薄紫色になると、炭は焼きあがる。炭木は上からになってゆくが、煙突から出る煙に混じって水分も出るので、煙の色を見ていると炭の焼け具合がわかる。
黒は、焼きあがると火口をふさいで窯の中で火を消す。だが、白は真っ赤に焼けたものを取り出し、アク(アク灰)のなかへ埋めこんで消火する。白炭はちんちんと鳴るので堅とも呼ばれ、高価だった。だが、生木の割合は白より黒炭のほうが率がよかった。
炭を出すときは、焚き口の奥にある障子を壊して出す。そして、すぐに生木をつめかえておく。これをヌキカエとも言う。ヌキカエて炭木をたてておかなければ、窯がくずれやすいからである。すぐ火を入れない場合には、窯の天井へ薬束などを置き、おおいをして保護していた。炭焼窯は二、三年くらい使い、後はそのままにし炭木のある山へ移って行く。
炭焼きは、一か月で二杯焼くという。窯の大きさにもよるが、大体一杯で50俵計100俵を焼いていた。
炭木にする雑木林が相当広くないと炭焼窯はつけなかった。なお、大正時代になり炭焼窯は大幅に改良された。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
琴南町誌 588P
まんのう町教育委員会アーカイブ写真 美合の炭焼き














