瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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5 小西行長像5
小西行長
 
以前に秀吉の下で「瀬戸内海の海の青年将校」に任命された小西行長が、その領地となった小豆島に兄のように尊敬する高山右近を見習って「地上における神の国」の建国を目指そうとしていたことをお話ししました。今回は、それを宣教師の立場からもう少し詳しく見ていこうとを思います。
5 堺南蛮貿易

 秀吉は賤ヶ岳の戦いに勝利すると、中国地方と四国への侵攻を同時進行のような形で進めます。その過程で改めて瀬戸内海の重要性を認識したようです。四国や九州を平定し、朝鮮半島への野望を満たすためには、瀬戸内海を生命線としてしっかりと掌握する必要があることを秀吉は、感覚的に分かったように思います。平清盛をはじめ古代からの天下人が、瀬戸内海を掌握し、富を蓄え国を動かしてきたのです。そのために秀吉が行った政策で、讃岐に関係することを3つ挙げるすれば次のようになります。
①村上水軍などの海賊衆の排除と制海権の掌握
②小西行長を、秀吉直属の「海の青年司令官」に任命し、小豆島・室津・牛窓を与える
③瀬戸内海の戦略物資の輸送船団として塩飽を把握するため朱印状を与える。
こうして堺商人の息子・小西行長が「海の青年司令官」として、小豆島にやって来ることになります。行長は高山右近が淡路島の領地で行っていた宗教政策を参考に、小豆島の統治を考えます。それは若くしてキリシタン大名となった行長の理念と理想を実現しようとするものだったのかもしれません。そのために、イエズス会に宣教師の派遣を依頼していたようです。それに応えて、やってきたグレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedesの活動報告が残っています。それを見ていくことにします。
コエリョ
1586(天正14)年春、秀吉は九州平定の前年に、イエズス会に対してキリスト教布教許可を与える決定を行い、その旨を通知します。それを受けてイエズス会日本副管区長ガスパル・コエリョGaspar Coelhoは、長崎から、通訳にルイス・フロイス神父を伴い、他に神父3名修道3名を連れて、布教特許状を得るために大坂城やって来ます。その目的を果たし、天守閣からの眺望を楽しんだ一行は、九州に帰るために、堺にやってきます。その際に、コエリョは「アゴスチニヨ弥九郎殿」(小西行長)から、小豆島(XOdoxima)に神父一人を派遣するように求められます。
6 塩飽と宣教師 ルイス・フロイスnihosi

その辺りのことをフロイスは年次報告で、次のように記しています
                    
 パードレ(コエリョ)が堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前(南)に在って、小豆鴫と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のためニカ所の城を築造することを命じた。行長の最も望むところは、小豆島に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿(宇喜多氏)の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。行長は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは行長の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人(グレゴリオ・デ・セスペデスGregoriode Cespedes神父)をさいた。
 86年7月23三日 堺を発し右のパードレ(セレベデス)を同行して、小豆島(堺より四十レグワ)の前に到る。牛窓と称し、同じくアゴスチニョに隔する町に彼を降ろした。セスペデスは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。
フロイスの報告書からは、セスペデスが小豆島に派遣された経過が分かります。
 行長の願いである「小豆島に聖堂や大きな十字架を建て、住民が皆キリシタンになり「地上の神の国」の実現のために、大坂のセミナリヨ神学校から神父が派遣されることになったこと。それがスペイン人グレゴリオ・デ・セスペデスGregorio de Cespedes神父だったようです。

韓国熊川城の麓にのセスペデス公園のセスペデス像

彼は1577年に来日し、各地で布教活動を行なって、この時点で在日9年目だったようです。小豆島での布教活動後は大坂に帰えり、翌年には細川ガラシアの洗礼にかかわっています。1592年のイエズス会名簿には、有馬教舎所属で
「日本語の懺悔を聴き、日本語をよく解す」

と評価されています。朝鮮出兵時には小西行長の依頼で、九州出身の多くのキリシタン達のために、朝鮮半島に渡って活動を行ってもいます。
関ヶ原の戦い後は、小倉城主となった細川ガラシアの夫細川忠興に保護され、約10年間に渡って、小倉を本拠に布教活動を行います。セスペデスの日本在留は34年間に及ぶようです。小豆島での布教活動は、その中の1ヶ月のことにしか過ぎないようです。

グレゴリオ・デ・セスペデス―スペイン人宣教師が見た朝鮮と文禄・慶長の役 

同行したジアン(GiaoあるいはJiao)修道士について
上智大学H,チースリク師の「臼杵の修練院」(吉川弘文館刊「キリシタン研究第十八輯」所収論文)では、次のように紹介されています。

「ジアン森 日本名「もり(森・Jr.Mori Jiao)」、摂津出身。1569年ごろ生まれ、1581年(1580?)10月にイエズス会に入り、誓願を立ててのち京坂地区に赴任し、1587年に大坂に居た。
 1589年に有家のコレジヨに居り、1592年にオルガンティノ神父と一緒にみやこに行き、1603年にみやこ、1606年に金沢、1607年2月にまた、みやこ下京のレジデンシャに居たが、同年10月の名簿には記入されていないので、そのうちに脱会したらしい。」

 豊後でイルマンとしての何年かの基本的学習を終えた後、出身地の摂津大坂に帰任して間もなく、定評ある日本語の知識表現力を買われて小豆島にセスペデスと共に派遣されたようです。

 コエリョー行は行長の用意した二隻の船に分乗して、堺を出て牛窓に到着します。
岡山牛窓オリーブ園 :: 岡山県牛窓の観光 牛窓オリーブ園/日本オリーブ株式会社
牛窓からの瀬戸内海と小豆島 海の向こうの山並みが小豆島

ここでセスペデス神父と日本人修道士ジアンを降ろしています。牛窓も行長の領地でした。牛窓は瀬戸内海航路のネットワーク拠点として重要な港でした。秀吉の四国平定の際には、多くの人馬や兵船が集結した軍港の役割も果たしていました。牛島の前の前島の丘に立つと、南に小豆島がすぐ近くに見えます。目を凝らせると小豆島の大観音も見えるほどです。その観音さまの足下辺りが屋形崎と呼ばれ、中世に居館があったと伝えられます。牛窓と屋形崎ならば直線で14㎞ほです。かつて道路が整備される以前は、小豆島の北岸の人たちにとって、草壁などの南岸との交流よりも牛窓などの吉備・播磨との交流の方か多かったと云います。近代以前の瀬戸内海は、人々を隔てるものではなく、結びつける役割を果たしていました。船さえあれば、海があればどこにでもいけたのです。小豆島北岸と牛窓は、経済的には一体化していたと考えられます。
 
11 小豆島 牛窓地図

セスペデス神父と日本人修道士ジアンは、その日のうちに牛窓から小豆島に向かう船に乗り込みます。二人を待っていたのは、行長が「小豆島の司令官(代官)に任命したキリシタン貴人」でした。これは河内出身のキリシタン武将で、行長の配下にあったジヨルジ結城弥平次かとする説もありますが、よくは分からないようです。
フロイスの年次報告書には、小豆島に派遣されたセレベデスからの次のような報告書簡が載せられています。
 予(セスペデス)は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。
この島にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆があった。彼等の半数以上は、よく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとおりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモの説教を網けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々に斎座の火を燃やし給ひ、①1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(6㎞)の間に接績していた村々において、②千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって③長さ七ブラサ(15m)を超ゆる立派な十字架をここに建て、④神仏は一つも残さず破壊した。また⑤聖堂を建てるため四十ブラサ(約90m)四方の地所を選んだ。その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この島の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ(4㎞)余りの道を急いで、私が滞在していた村にやって来て、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
ここには、牛窓を出発した船がどこに着いたのか、そして、彼らが布教活動を始めたのはどこなのかについては何も記していません。
まずセスペデスが宣教をおこなった場所についての手がかりを集めてみましょう。
①約六㎞周囲に連続した村々がある。
②1か月で1400人以上がキリシタンとなった。 
  → 島の人口集中地
③キリシタン達が建てた15m以上の十字架がある。
④キリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
⑤聖堂を建てるための約88m平方の土地があり、そこには梨、無果花、蜜柑の樹が多数あって、周囲には樹木が繁茂している。
⑥小西行長の支配の中心地に当り、「城」が築かれていた。
この条件がに当てはまるのは、内海湾に抱かれた苗羽、安田、草壁、西村の村が連続したエリアと研究者は考えているようです。映画「二十四の瞳」で、大石先生が岬の分校までが自転車を走らせた通勤ルートの沿線になります。

5 小西行長 小豆島5
 
延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、小豆島の「転び切支丹類族」の出た地域と数が次のように記されています。
草加部 54人
肥土山村 12人
土庄村  3人
渕崎村  2人
また、草加部の項目には次のようなことも記されています。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。

ここからは小豆島の草壁には18世紀の半ばまで、隠れキリシタンが50人以上もいたこと、さらに、草加部の他に、池田、小海、福田にもキリシタン関係者がいたことが分かります。このような「状況証拠」からすると、草加部村を中心とした地域が小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。

 ④のキリシタン達によって神仏が一つ残らず破壊された。
については、「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」

と記録され、小豆島の小西行長時代に神社仏閣の破壊が徹底して行われたと伝えています。
 小豆島における神社仏閣破壊は小規模なものだったという説もありますが、私は、次の2点から同意はできません。
A高山右近の淡路の領地では、大規模な破壊運動が組織的に展開されていた。
B偶像破壊運動が、新たな宗教活動を展開する側に大きな宗教的なエネルギーをもたらし、急速な 信徒増大をもたらす。それはムハンマドのメッカでの活動や、中国の太平天国の指導者達の活動からも垣間見える。
 偶像破壊という手法を、大坂で布教活動を行っていたセスペデスやジアンは熟知していた。もっと云えばすでに偶像破壊活動を伴う布教活動をすでに行っていた気配があります。「偶像破壊運動」から沸き上がるエネルギーが「1ヶ月で洗礼者1400人」という「成果」となったと私は考えています。

また、天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
「室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけ(安宅)の大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿」

とあります。これは、薩摩島津藩の藩士が見た報告ですが、ここからは小西行長の支配する室津には、大きな安宅船が係留されていたこと、室津でも「南蛮宗が保護され 大明神は廃」される組織的な神社仏閣破壊が行われていたことがうかがえます。

5 小西行長2

⑤の約15mの十字架の設置場所と聖堂建設用地については

片城に近く、海上からよく見える高台にあったことが考えられます。しかし、詳しい場所については分かりません。そして、1年後の九州平定の論功行賞として、行長は肥後南部の24万石の大名に「栄転」
しますので、教会が建設されることはなかったようです。あくまで「建設予定地」でした。
⑥の小西行長が築いたとされる片城については、草聖地区に片城という地名が残っているようです。

  最初私は、小豆島での布教と聞いて何年も苦労しながら信者を増やして行ったのかと思いました。ところが、宣教師の布教活動はわずか1ヶ月のことです。期間が決められていたのかもしれませんが、洗礼を済ませるとすぐに引き上げているのです。残された信者達は、その後どうなったのでしょうか。1ヶ月では、信の信者に成長できていたとは云えません。
5 小西行長 バテレン追放令2

 ところが1年後に秀吉のバテレン追放令が出ると小豆島は、多くの吉利支丹を受けいれた節があります
  それは右近の明石領内のキリシタンたちです。右近は秀吉に屈する道を選ばずに、領地を捨て大名であることを止めます。この一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
 「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」

と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」

だったといいます。
5 高山右近
小豆島土庄の右近像と教会

右近の一族や重臣の中には、小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、バテレン追放令の後の小豆島には
①セスベデスによる1400人の地元改宗者
②明石やその他からの亡命信者
③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことになります。②③は筋金入りのキシリタンに成長しています。これらの人々が核となって、小豆島では信仰が守られていくことになったのではないかと私は考えています。

幕末の小豆島の廻船大神丸 何を積んでどこに航海していたか? : 瀬戸の島から
 
以上をまとめておくと
①四国平定前に秀吉は小豆島・室津を小西行長に与えて、東瀬戸内海の制海権確保の拠点とした
②行長は高山右近を見習って、「地上の神の国」を小豆島につくる理想を持っていた
③そのために二人の宣教師がイエズス会から派遣され、内海湾周辺で布教活動を行った
④それは偶像破壊運動を伴う宗教活動で、1ヶ月で1400人の洗礼者を産み出した。
⑤派遣された宣教師は、わずか1ヶ月で小豆島を去った。
⑥しかし、1年後に伴天連追放令が出されると各地から「亡命者」がやってきて信者集団は拡充した。
⑦そのような中で、小西行長は高山右近を小豆島の地に匿うことになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 近藤春平 讃岐吉利支丹諸考  1996年

5 小西行長1

若き日の小西行長は小豆島や塩飽の領主であったようです。領主として島に「神の王国」を作ろうとし、後には追放された高山右近をこの島に匿ったとイエズス会の宣教師は報告しています。
小西行長と小豆島・直島の関係を探ってみます。
小西行長が秀吉に仕えるまでのことは,よくわかっていません。
一説には,備前・美作(岡山県)を治めていた宇喜多直家に仕えており,直家が羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田信長に降伏した際の連絡役を務めていたといわれています。
その後の行長の出世ぶりを年表で見ておきましょう
天正8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用
天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)で所領を得て
天正10年(1582) 小豆島(香川県)の領主となり
天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有
天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,
天正13年(1585) 四国制圧の後方支援
天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。
天正十五年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護
  年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。
 彼の所領を一万石ほどの「小さな島」と考えるのは大間違いです。
5 瀬戸内海

小豆島や塩飽は海のハイウエーである瀬戸内海のSAサービスエリアであり、ジャンクションでもあったのです。1万石の領土を任されたと云うよりも東瀬戸内海航路の管理・運営を任されたと考えた方がいいと私は思うようになっています。小西行長が秀吉に仕えるようになって4年、何か大きな戦功があったのかといえば「NO」です。本能寺の変の後、明智光秀や柴田勝家との戦いの中に彼の名前は出てきません。同世代の加藤清正や福島正則が「賤ヶ岳の七本槍」と勇名を馳せるのとは対照的です。長宗我部元親への四国遠征の際にも、後方支援で戦略物資を運んでいた輸送船団の若き司令官にしかすぎません。戦績もない青年将校が、戦略的要地の司令官に抜擢されているようです。先ほど触れた加藤清正は、当時は三千石です。戦場に出ず血を流すことのない主計将校、輜重武官として蔑んでいた行長が自分より秀吉の評価が高いことは、清正には愉快ではなかったはずです。
 秀吉はなぜ若い行長を抜擢したのでしょうか
  謎をとく一つの手がかりは、行長の父小西隆佐の存在だと研究者は考えているようです。
 同じ時期に行われた堺のトップ人事について宣教師フロイスは、次のような書簡をインド管区長に送っています。
「堺市においては切支丹にとって大いに悦ぶべきことが起った。同市の領主(奉行)が関白殿の怒りにふれて職を奪われ、奉行が二人おかれるようになった。代った一人は異教徒で、他の一人は隆佐と称し、切支丹の名をジョウチソという人である」(イエズス会『日本年報』)
 このフロイスの書簡のうち「同市の領主が関白殿の怒りにふれ」という部分が、信長以来の堺の代官が秀吉の怒りに触れて罷免され、隆佐が堺の代表者に任命されたと報告しています。この隆佐は行長の父なのです。改めて確認しておくと次のようになります。
  ①父・隆佐が堺の堺奉行
  ②子・行長が、小豆島・塩飽諸島と室津の領主
これには、人使いのうまい秀吉の思惑があったはずです。朝鮮出兵に向けた野望のために、父子二人を一体として使おうとしたのだと研究者は考えているようです。そのために堺と瀬戸内海交易路の戦略拠点である島と港を父子に与えたというのです。今風に云えば、
 父親は通産省の高官に、
 子は瀬戸内海の運輸省と海上保安庁の地元長官に
同時抜擢した人事処遇ということになるのでしょうか。秀吉はやがて行う九州制圧やその後の朝鮮出兵に向けて、軍兵、兵器、兵糧の海上輸送を行う船団の管理運営できるが人物の育成を行っていました。四国遠征では仙石秀久にその役割をやらせてみたのですが、秀吉の目にはかないませんでした。やはり武士や百姓出身の人間には、船や港や交易のことは分からないようです。そこで、抜擢されたのが堺商人の次男・小西行長だったようです。つまり商人出身の侍なのです。
  この時代の行長は、宣教師たちからは「海の司令官」と呼ばれていたようです。
その颯爽とした登場ぶりを史料から見てみましょう
天正13(1585)年の『イエズス会日本年報』
パードレ・フランシスコ・パショが豊後より都に赴く途中にて認めたる書翰
 七月六日「我等は佐賀関Sanganoxequiを出発し、12日に塩飽(Xluaquu)に着いた。途中海賊に會はず、風がなかったため常に櫓で進んだ。塩飽に着いて海の司令長官アゴスチニョ(小西行長)が異教徒である当地の殿に書翰を送り、予が到着した時、室までの船をあたえ、大いに飲待せんことを依頼した由を聞いた。アゴスチニョは、また我等が同地を通過する時に泊る宿の主人に、同じ趣旨の書翰を送った。
 同地には、またアゴスチニョ(行長)の家臣である青年キリシタンが一人居り羽柴筑前殿 (FaxibaChicugendono)(秀吉)の土佐、讃岐、阿波及び伊予の四国に派遣する軍隊を輸送するため、船の準備に塩飽に来た由を語り、アゴスチニョは同地より十レグワの所にて艦隊を待受けてゐる故、もし彼のもとに行かんと欲すれば、その船にて同行すべしと言った。
 予はこの招待に応じ、日比と称する地に着いたとき、未明に到着するはずである故そこにて彼を待つやう伝えられたた。アゴスチニョは果して、翌早朝多数の船を率ゐて到着し、十字架の旗を多数立てた大船に乗り、同所にゐた貴族達に面会することなく、直にわが船に来り、予をその船に移して大いに歓待した。ついで小舟に乗り、手に杖を待って、兵士を乗船せしめ、船を出航せしめたが、甚だ短き時間に沈着に一切を行った。然る後その船に還り、我等か暫く語った後、予に一艘の軽快な船をあたへ、直に堺に向ふため書翰ならびに兵士をあたえた。
ここからは次のようなことが分かります。
①小西行長が「海の司令長官」と宣教師から呼ばれ、室津を拠点としていた
②塩飽は当時は「異教徒の当地の殿」が治めていたこと
③行長の家臣が四国遠征準備のために塩飽にやってきていた
④十字架旗を立てた船団で日比にやってきた小西行長と歓談した
⑤小西行長の準備した快速船で堺に向かった
 行長は室津と小豆島の領国を持つ領主であると同時に,秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として動き,秀吉の命令を伝達するだけでなく,現地の情勢に応じて武将と相談し,秀吉の命令意図を実行できる立場にあった研究者は考えているようです。
 四国遠征直前に、部下を塩飽に派遣し船の動員についての打合せを「塩飽代官」と行わしたり、自ら快速船団を率いてあっちこっちを巡回打合せを行う若き「海の司令官」姿がうかがえます。

  小豆島でのキリスト教布教は、どのように行われていたか?
翌年の1586(天正十四年)に小豆島での布教の様子が次のように報告されています
 パードレが堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前に在って、小豆嶋と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のため2カ所の城を築造することを命じた。彼の最も望むところは、この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。
 この嶋は備前に近く、同所より八郎殿の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。彼は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは右の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人をさいた。
 八六年七月二十三日 堺を発し右のパードレを同行して、かの小豆島(堺より四十レグワ=160㎞)の前に到る。
牛窓と称し同じくアゴスチニョ(行長)に属する町に彼を残した。右のパードレは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。ビセプロビンシヤルのパードレが今居る長門の下関の港に着いた後一ヵ月半を越えざるうちに、大坂より来た書翰の中に、小豆嶋に留ったパードレの書翰があった。その中につぎに這べることが記してあった。
 予は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。同所にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆が集まり、彼等の半数以上はよく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。
 坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとほりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモ(教理問答)の説教を受けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々にに斎座の火を燃やし給ひ、1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(約6㎞)の間に接績してゐた村々において、千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。
 新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架をここに建て、神仏は一つも残さず破壊した。また聖堂を建てるため四十ブラサ(約八八㍍)四方の場所を選んだが、その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この嶋の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。
 一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ余りの道を急いで予が滞在してゐた村に来り、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
当時の行長の国作りのお手本は、先輩キリシタン大名である高山右近でした。
5 高山右近

右近は秀吉からも天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ「神の国の地上での実現」をめざしていました。小西行長は、それを見習って国作りを小豆島で行おうとしていたようです。その一端が、イエズス会の立場から描かれています。
  行長の望むところは「この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんこと」として、どのような布教活動が行われていたかを上記の報告から確認しておきます。
宣教師が派遣されて、布教活動が行われます。
①小豆島の北側対岸の牛窓も行長の所領であったこと
②宣教師に「嶋の司令官であるキリシタンの貴族(=代官)」と同行したのは三箇マソショは結城弥平治ジョルジの両説有り
③場所は分からないが宣教師による布教活動が行われた
③1日目から百人を超ゆる聴衆が集まり、1ケ月で1400人を超える人達が洗礼を受けた
④信者は長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架を建て、神仏は一つも残さず破壊した。
⑤聖堂建設場所が選ばれ、(行長)は瓦葺きの聖堂を建設する予定であった
模範とする高山右近の領地では、2つの相反する宗教政策が行われたことが記録されています。
①右近の領内の寺社記録は「右近が領民にキリスト教への入信強制を行い、さらに 領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。」と入信強制と神仏破壊が行われたと記録します。
②キリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかった。しかし、右近の影響力が大きかったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたとします。
どちらにせよ、急速な入信者の増大は、自然発生的なものではないようです。そして、神仏破壊も行われているようです。こうして、小西行長の領地ではキリスト教の布教が領主の支援を受けて行われ、急速な信者獲得が行われ、その成果を誇示するように大きな十字架も建てられたようです。
さて、このときに宣教師たちがやって来て布教を行い十字架が立てられて場所はどこなのでしょうか

5 小西行長2

まずセスペデスの上陸地の条件は、牛窓との航路があったことです。
牛窓と小豆島との海上航路については、いくつかのルートが考えられます。上陸地の候補地をを、『海潮舟行日記』(文政六年)で探してみましょう。

5 小西行長5
 福田 家百軒    湊廣シ西風ノ外懸り無之、
 草加部 家数八十軒  何風ニモ吉大船何程モ懸ル、
 池田 家百八十四軒 湊内廣シ何肢モ懸ル、
 土庄  家百八十一軒 舟懸り無之浅シ、
 渕崎 家九十五軒  入口西ヨり、湊上々何赦モ懸ル、
 伊木洲江  家百軒  湊悪シ、
 屋形崎 家三十四軒 舟懸り無之、
 小海  家三十六軒 是ヨリ備前ノ牛窓へ三リ、
 大部  家百二十八軒 西風南風懸リ
牛窓に一番近いのは小海です。ここは中世以来の廻船業者が活動する湊で、牛窓との便数も多かったようです。しかし、周辺の人家数や人口が少なすぎます。小豆島の北側にある集落では1400人の人々を集めるのは無理があるようです。
 この布教から約160年後の延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、宗門改の結果、「転び切支丹類族」が新たに見つかった集落を挙げています
草加部村 54人
肥土山村  5人
上庄村に  3人
渕崎村に  2人
そして、草加部の項目には次のような記事があります。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。
 つまり、草加部の他に、池田、小海、福田にも、かつてはキリシタン信者がいた「死失仕り」っていないだけだと記します。単純に考えると、セスペデスの布教活動地はこの四つの村の一つに絞られるのかもしれません。しかし、後にも触れますが秀吉のバテレン禁止令以後、右近の信者たちが小豆島へ「亡命」してきています。その時の神社が隠れ住んだ可能性もありますので確かなことは分かりません
 
セスペデスが布教を行った場所について考えてみましょう。
 ①旧約六キロメートル連続した村々がある。
 ②約一か月間に1400人以上がキリシタンとなった。
 ③十五メートル以上の十字架が建てられた。
 ④キリシタソ達によって神仏が一つ残らず破壊された。
 ⑤聖堂を建てるための約88㍍平方の土地がある
 ⑥行長の支配の中心地に当り、館が築かれていた。
人口面からすれば内海湾に面して苗羽、安田、草壁、西村というような連続した村が続く島で一番の人口密集地帯である草加部村(内海町草壁地区)が有力でしょう。先ほど見た、「転びキリシタン類族」も54人と多く、ここに小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。
天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけの大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿
と書かれ、小西行長による神社仏閣破壊が室津でも行われていたことが分かります。
そして地元の「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」
とあり、この地区で小西行長による神社仏閣の破壊が行われたことを記します。しかし、これらも「状況証拠」で決定打ではありません。あえて想像するなら内海湾を見下ろす草壁の丘の上に大きな白い十字架が建てられた時代があったかもしれないくらいに留めておきます。
以上を整理すると
①秀吉が長宗我部と戦うために四国遠征軍の準備をしている時に、東瀬戸内海の「海の司令官」は小西行長だった
②彼は室津を拠点に、小豆島、塩飽の1万石の若き領主であり、同時に秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として瀬戸内海を動いていた。
③行長は高山右近をお手本に、小豆島を「地上の神の国」とすべく宣教師に布教を依頼
④領主の半ば強制で人々は大量入信し、短期間で1400人の洗礼者を獲得した
⑤そのモニュメントとして大きな十字架を建てた。その場所は内海湾周辺が有力である

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
5 小西行長3

参考文献 遠藤周作 小西行長伝 鉄の首軛(くびき)
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