インドのヒンズー教では、次の神々を三大神として信仰しています。
ブラフマー 創造ヴィシュヌ 維持シヴァ 破壊
仏教は、ヒンズー教で信仰されていた神々を数多く取り込みます。三大神の中でも、ブラフマーとシヴァは、仏教にとり入れられ、ブラフマーは梵天になり、シヴァは大自在天・青頚観音・摩臨首羅・大黒天に「権化」します。
シヴァ神が恐ろしい戦闘神になる時には、三面六腎で全身に灰を塗り、黒い色になります。大黒天のことをマハーカーラとも云いますが、マハーは「大」、カーラは黒の意味のようです。
①戦闘モードの忿怒の三面六腎大黒天②福神モードで袋を持った一面二臀大黒天
密教の胎蔵界曼荼羅には、三面六臀大黒天が描かれています。
大黒天は、胎蔵界曼茶羅では外金剛部中の左方第三位にいます。


大黒天(マハーカーラ)
そこでは①「全身黒色で忿怒怒相をしていて、火髪を逆立てた三面六腎像」=忿怒の戦闘モード」のお姿で描かれています。その姿を見ておきましょう。
①右第一手は、剣を握って膝の上に置き、左第一手は一手は剣の先端を持ちます。②右第二手は合掌した人間の頭髪を握ってぶらさげ、左第二手は白羊の角を握ってぶらさげます。③左右の第三手は象の生皮を背後に掲げます。首には髑髏を貫いたネックレスをかけ、腕には毒蛇を巻いて腕輪としています。体には人間の死灰をを塗り、黒色になっています。

これが怒りモードの大黒天のようです。大黒天の怒りの姿は余り見ることがないので、これが大黒天と云われてもすぐには信じられない姿です。これも「権化」としておきましょう。
しかし、インドのマハーカーラ神は、あまり見かけることのない神で、ヒンドゥー教のなかではそれほどポピュラーな存在ではなかったようです。それがどうして、日本にやってくると大黒天として、大人気をよんだのでしょうか。それはマハーカーラ神が日本で、独自の進化発展・変身をしていったからのようです。
日本の大黒天には、次の四種の姿があるようです。
日本の大黒天には、次の四種の姿があるようです。
①忿怒相としての大黒②天台系寺院に見られる武神の装束を身につけ、左手に宝棒、右手に金袋を持つ像③袋を背負った立像④「三面大黒」で、正面が大黒天、脇の二面が毘沙門天と弁財天
①②も大黒天として日本に入ってきましたが庶民に信仰されることはありませんでした。庶民から信仰されるようになったのは③です。そして、その後に④が生まれてくると云う流れになるようです。
マハーカーラ神からの変容については、弥永信美氏が次のように述べています。
誰にも知られ、親しまれている大黒天が、古来、日本の密教では恐ろしい像容をもって描かれていることを知っている人は、それほど多くはないかもしれない。たとえば、もっとも普及した現図胎蔵曼荼羅の図像では、大黒天は摩訶迦羅という名で知られ、三面六臂、前の二手では剣を横たえ、、右に小さな人間を髪つかんで持ち、左に山羊の角をつかみ、後ろの二手は、左右で象の皮を被るように広げている。曼荼羅の数々の忿怒相の諸尊のなかでも、これほど恐ろしい形相の尊像は多くはない。「おめでた尽し」の福の神・大黒天が、一方ではこの恐るべき忿怒の形相の摩訶迦羅天と「同じ神」であるとは、いったいどうしたことなのだろう。(略)つまり大黒天とは、本来、ヒンドゥー教のシヴァ神の眷属であったのが仏教の守護神とされ、さらに厨房の神から日本では福の神として信仰されるようになった、というふうに要約することができるだろう。弥永信美『大黒天変相』74-76P
インドの大黒天(マハーカーラ)
求法のためにインドに赴いた義浄の「南海寄帰内法伝」には、大黒天について次のように記します。
求法のためにインドに赴いた義浄の「南海寄帰内法伝」には、大黒天について次のように記します。
西方の諸大寺処にはみな食厨の柱側に於て、或は大庫の門前に在りて木を彫りて形を表す、或は二尺三尺にして神王の状を為す。坐して金嚢を把(と)り、却(かえ)って小状に鋸し、一脚を地に垂る。毎に油を将(も)って拭ひ、黒色を形と為す。(中略)淮北には復た先に無しと雖も、江南には多く置く処あり。求むれば効験あり、神道虚に非ず。
ここからは次のようなことが分かります。
①インドの諸大寺では食厨の柱や大庫の入口に高さ二尺(約60㎝)~三尺(約90㎝)の二臀大黒天の本像を安置していていたこと、
②その木像は片手に金嚢を握り、小さな台の上に片足を垂らして座っていること。
③人々は供養のため、油でそれらの木像を拭うので、黒く光っている。
④中国の江南地方では、よく二腎大黒天を祀っているが、淮北地方では全く祀っていない
大黒天のルーツは、ヒンドゥー教の破壊神シヴァの化身・破壊と戦闘を司る神マハーカーラでした。
戦闘色の強い忿怒の神で、その名前の意味は「偉大なる暗黒」です。「黒」の文字が「大黒天」につながっているようです。しかし、私たちの大黒天のイメージは、財福の神として、温和な姿の大黑さまです。ここに出てくる大黒天とマハーカーラはイメージが違います。それがどんな風に繋がっていたのでしょうか?


長谷寺の大黒天 片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っている。
平安時代になると、日本でも大黒天信仰が広がります。
最澄・円仁・円珍などの入唐した天台の高僧が、大黒天を請来します。最澄は大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置します。最澄が請来して延暦寺の食厨に安置した大黒天は、インドで義浄が見たものと同じもので、片手に金嚢を握り、片足を垂らして小さな台の上に座っています。
①左 『伝神憧記』の大きな袋を背負って立つ一面二臀大黒天
②中央『南海奇帰内法伝』の小さな金嚢を持ち、片足を垂らして座る一面二腎大黒天、
③右 胎蔵界曼茶羅の忿怒相をした三面六臀大黒天
③→②→①の順に「進化」していくようです。
真ん中の大黒天の嚢を強調して生まれたのが、左側の大黒天のようです。嚢を強調した結果、小さな金嚢は大袋になります。大きな袋を背負うために大黒天は立ち姿になります。
最澄が入唐した時、中国ではインド伝来の②の大黒天が盛んに信仰されていました。そのため最澄は②の大黒天を請来して、延暦寺の食厨に安置したと研究者は推測します。①や③の大黒天は、その後に円仁や円珍が請来したのでしょう。③の大黒天が伝えられると、③の大黒天が②の大黒天に取って代わり、②の大黒天は衰退し、現在ではお姿を見ることはなくなりました。②の大黒天は室町末期に勝軍大黒天に生まれ変わり、信仰を集めますが、それまでは鳴かず飛ばずでした。
この大黒天像は左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握っています。


この二つの大黒天像は、観世音寺のものより新しく、鎌倉時代前期のものです。しかし、これを大黒天といわれても「????」です。何かが足りないのです。それは、打ち出の小槌と米俵と、温和な笑顔でしょう。それは、後で見ることにして・・。

松尾寺の大黒天
奈良県矢田松尾寺や奈良県興福寺南円堂脇納経所にも、観世青寺のものに似た大黒天像があって、左手で大きな袋を背負い、右手は拳を握るスタイルです。
興福寺の大黒天
この二つの大黒天像は、観世音寺のものより新しく、鎌倉時代前期のものです。しかし、これを大黒天といわれても「????」です。何かが足りないのです。それは、打ち出の小槌と米俵と、温和な笑顔でしょう。それは、後で見ることにして・・。

打ち出の小槌を持ち、俵の上に立つ大黒天
この大黒天が神話に出てくる大国主命と混交します。
『古事記』上巻の「大国主神と菟と鰐の条」には、次のように記されています。(要約)
大国主神とその兄弟の八十神は、因幡の八上比売に求婚するため、因幡の国に出掛けたが、大国主神には大きな袋を背負わせて、従者として連れていった。途中の海岸で隠岐島から鰐(鮫)を欺いて本土に渡った菟が、本土の寸前で欺いたことがばれて鰐に皮をはがれて泣いているのに出会い、八十神は出鱈目の治療法を教えた。しかし、大国主神は正しい治療法を教えて菟を救った。八上比売は八十神の求婚を断り、大国主神を夫とした。
ここからは、大きな袋を背負った大国主神と大きな袋を背負った大黒天とが混交して、同一視されるようになったことがうかがえます。
③の大黒天に打出の小槌と俵が与えられるのは鎌倉時代の後期になってからです。
日本独自の、打出の小槌を持ち、大きな袋を背負って、俵の上に乗る大黒天の登場です。佐和隆研『日本密教 その展開と美術』(NHKブックス323P、昭和41年)323Pには、次のように記されています。
「版画で仏像をあらわしたものをもって、それをお守りにするということは天台、真言両系統で行なわれていた。そのお守りは「九重のお守り」と言って、それぞれの系統の修験者、ひじりたちが本山から受け取って地方に持ちまわって、売り歩いたものである。このお守りの起源がいつごろまで遡りうるものか、文献的には明らかでないが、鎌倉時代末期ごろにはあったと推定されている。このお守りは、諸種の種子曼茶羅を中心としたものをはじめとして、日本人の信仰の対象になっている、多くの諸尊の姿をならべたものなど、種々の系統のものがある。この最古の例は金沢文庫所蔵の一本で、鎌倉時代末期ごろと推定されている。」
九重守りに印刷された仏たち
林温「荼枳尼天曼荼羅について 仏教芸術』二一七号、毎日新聞社発行、1994年)には、「九重のお守り」について、次のように記されています。(要約)
奈良県西大寺蔵の木造文殊菩薩騎獅像内に納入された九重のお守りには、「弘安八年(1285)二月信聖」という記がある。この九重のお守りは、諸種の曼茶羅・真言・図像などを列挙したもので、図像だけでも六十三種が印刷されている。釈迦や観音といった伝続的な仏尊の他に、日本で変貌した日本独自の仏像も登場する。例えば、十五童子を眷属として従えた弁才天(宇賀弁才天)、白狐の上に乗った天女子・赤女子・黒女子・帝釈使者の四天を従えて剣と宝珠を持った女神が辰狐の上に乗る荼枳尼天(だきにてん)、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天などが印刷されてている。神奈川県称名寺蔵木造弥勒菩薩像内に、右に良く似た九重のお守りが納められていた。称名寺の九重のお守りには西大寺の九重のお守りにない地蔵十三や晋賢十羅刹女があり、西大寺の九重のお守にはある天形星が称名寺の九重のお守りにないとか、西大寺の九重のお守りの聖天は人間の男女が抱き合うものであるのに対して称名寺の九重のお守りの聖天は象頭人身の男女が抱き合うものであるといった、若干の違いは存在するけれども、基本的には両者は合致するものである。称名寺の方が西大寺よりもいくらか古く、弥勒菩薩像内に、納入されたその他の多くの品とともに弘安八年(一二七八)頃のものと思われる。
ここからは、鎌倉時代後期には九重のお守りの尊像の一つとして、打出の小槌と大きな袋を持って俵の上に乗る大黒天が、印刷されていたことが分かります。
鎌倉時代の大黒天は、左で大きな袋を背負い、右手は拳を握っていました。
このような大黒天に打出の小槌と俵を与えることで、日本独自の打出の小槌を持ち、大きな袋を背負い、俵の上に乗る大黒天が生まれたようです。興福寺走湯や河内大黒寺の大黒天彫像は、左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、俵の上に乗っている姿です。その姿から鎌倉時代後期のものとされます。鎌倉中期から後期の初めにかけての頃に誕生した日本独自の大黒天は、最初は九重のお守りにとり入れられ、それがやがて彫像とされるようになったようです。
このような大黒天に打出の小槌と俵を与えることで、日本独自の打出の小槌を持ち、大きな袋を背負い、俵の上に乗る大黒天が生まれたようです。興福寺走湯や河内大黒寺の大黒天彫像は、左手で大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、俵の上に乗っている姿です。その姿から鎌倉時代後期のものとされます。鎌倉中期から後期の初めにかけての頃に誕生した日本独自の大黒天は、最初は九重のお守りにとり入れられ、それがやがて彫像とされるようになったようです。
以上をまとめておくと
①大黒天はシバ神の化身として仏教の守護神にに取り入れられ、軍神・戦闘神、富貴福禄の神として祭られるようになった。
②中国では特に「富貴福禄」の部分に焦点が当てられ信者が増えた。
③日本に伝わってきた大黒天も「富貴福禄」が信仰の中心で、軍神・戦闘神の部分は弱まった。
④大黒天の持っていた財貨を入れる小さな嚢は大袋になり、大きな袋を背負うために大黒天は立つ姿になった。
⑤鎌倉中期になると、大きな袋を背負う大黒天は、打出の小槌を持ち俵の上に立つ姿へと変化していく。
⑥鎌倉時代末期頃には「九重のお守り」に、大きな袋を背負い、打出の小槌を持ち、俵の上に乗った大黒天が印刷されるようになり、広範に知名度を上げていく。
⑦知名度が上がった大黒天は、大きな袋を背負った大国主神と名前も似ているので混交し、同一視されるようになった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「羽床正明 金刀比羅富蔵大黒天像について ことひら61 平成18年」です。







