瀬戸の島から

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タグ:一つ山古墳

    
津田古墳群 うのべ山・けぼ
津田古墳群 鵜部半島の3つの古墳

津田湾の鵜部半島は、古代は島でした。その島に3つの古墳があります。その造営順は、うのべ山古墳→ 一つ山古墳 → けぼ山古墳となります。今回は、臨海エリアで最後の古墳となるけぼ古墳を見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
けぼ古墳(4期)と一つ山古墳(3期)
けぼ山古墳は、鵜部山から西に延びた尾根上にあり、北側は海蝕崖になって瀬戸内海に落ちています。古墳は前方部を東側(平野側)に向けた前方後円墳です。この古墳の250m東には、前回にみた一つ山古墳(円墳)があります。けぼ山古墳の谷を隔てた南側の尾根は、今は削られて平坦になっていますが、かつてはここにも古墳があったようです。けぼ山古墳からは、平野方面の眺望は開けていませんが、北側は小豆島、東は淡路島方面への海を望むことができます。一つ山古墳とけぼ山は、畿内や紀伊から瀬戸内海南航路をやってくる古代の交易船が最初に目にした古墳になります。けぼ山古墳の先行研究史を見ておきましょう。

けぼ山古墳5
けぼ山古墳の最初の記録は明治時代中期頃の松司調氏『新撰讃岐国風土記』です。その中に「鵜部塚」として次のように紹介されています。
頂上に大石で1間~2間の範囲で囲んだ場所があり、その中に白粉石で細長く円形に造った物を上下に合わせているのを埋めている。これを石棺と見ています。
大正11年(1922)の大内盬谷氏『津田と鶴羽の遺蹟及遺物』には、次のように記します。
大正11年(1922)以前に発掘され、鋼鏡、鉄刀、勾玉、7尺ほどの人骨が出土したこと、細長い円形の石棺があったこと、板石・栗石・土器片が散在していたこと

先ほど見た「新撰讃岐国風土記」の記録から松岡調などによって明治中期頃に発掘された可能性があるようです。
聞き取り調査によると、その後、昭和9(1934)に地元の住民の連絡で岩城三郎氏らが墳頂部の調査を行ったようです。その時には、方形の蓋が並んで見られ、石をいくつかはずした段階で元に戻したこと、蓋石の下は空洞になり、竪穴式石室と刳抜型石棺が見えたと伝えられます。
昭和10年(1935)、寺田貞次氏は「讃岐における後円墳」で、けぼ山古墳を前方後円墳としています。
昭和34年(1959)の『津田町史』には、昭和15年頃に主体部が掘り出されて、4枚の蓋石が投げ出されていると記します。
昭和40年(1965)六車恵一氏は「津田湾をめぐる4、5世紀ごろの謎」で、けぼ山古墳の墳丘の特徴を次のように指摘します。
①前方部と後円部の高さの差がなく出現期の前期古墳ではないこと
②墳丘裾部に葺石、埴輪があること、
③埴輪は墳頂部にもあること
1976年、藤田憲司氏は「讃岐(香川県)の石棺」で、次のように記します。
①石棺の蓋がとがって家のようであったという言い伝えを紹介し、岡山県鶴山丸山古墳のような特殊な家形の石棺であった可能性
②蓋石に縄掛突起の加工があることから鶴川丸山古墳との類似点
③岩崎山4号墳に続く古墳であること
1983年、真鍋昌宏氏は『香川の前期古墳」で次のように記します。
①蓋石の縄掛突起は奈良県新庄天神山古墳、宮山古墳に例があるので5世紀のもの
②墳形・施設・遺物などを考慮すれば5世紀前半代のもの
1990年、国木健司氏は「富田古墳発掘調査報告書』で、けぼ古墳について次のように記します。
①後円部に尾根から墳丘を切り離す区画溝が見られること
②後円部が正円であること
③二段築成であること
これらの諸特徴から讃岐色の強いそれまでの古墳にはない「墳丘築成上の技術的革新」が見られることを指摘します。
2003年、蔵本晋司氏は「四国北東部地域の前半期古墳における石材利用についての基礎的研究」で、次のように記します。
古墳の表面に安山岩類の板状石材の散乱が確認される古墳の一つがけぼ山古墳である。埋葬施設の構築材、とくに板石積み竪穴式石椰に伴なう可能性の高い。

以上が研究史です。
 今回の調査で刳抜型石棺の発見された基檀が解体され、次のような情報を得られたようです。
基檀を解体していくと、基檀内から石仏の台石が2段出てきました。ここからは基檀は、明治12・13年(1879・1880)の石仏安置から一定期間を経た後に増築されたことが分かります。石仏の前に位置している礼拝石には一部基壇の石積が重なっています。その礼拝石の下から十銭が出てきました。十銭は錫製で昭和19年(1944)の年号があります。つまり、昭和19年以降の大平洋戦争終戦前後に基檀は造られたことになります。
基檀に使用されている石材は安山岩の板石で、埋葬施設の竪穴式石室の石材を転用しているようです。そのため埋葬施設、刳抜型石棺が破壊され、その一部が基檀として利用され、破壊された石棺片の一部が石仏横に安置されたと研究者は考えています。そして今も墳頂部の凝灰岩製蓋石の下には石棺片がいくつか埋まっているようです。
 後円部の墳頂部平坦面は直径12mに復元できます。ここには過去の記録では4枚の蓋石があったとされています。現在、観察できるのは3枚です。ただし、残り1枚も露出した蓋石に隣接していることが確認できます。石材は火山で採石される凝灰岩(火山石)です。
南端の蓋石(蓋石1と呼ぶ)は完全にずらされた状況で少し離れて南側に位置し、南端から2枚目の蓋石(蓋石2と呼ぶ)もずらされているようです。3枚目の蓋石(蓋石3)は盗掘孔に対して直交して位置します。
次に個別に蓋石を見ておきましょう。報告書には次のように記されています。(要約)
けぼ山古墳 口縁部と蓋石

けぼ山古墳の後円部と蓋石 
蓋石1
幅0、9m・長さ1、72m・厚さ0、24mの長方形。両端に縄掛突起を造り出す。縄掛突起は中軸線からずらしており、両端部で対角線上に設けている。縄掛突起は端部の剥離が顕著なため、本来の形態、法量はよくわからない。現状では幅28㎝、厚さ26㎝、突出高13~15㎝の楕円形を呈し、2つの縄掛突起は同形。付け根から先端部にかけて少し広がっている。蓋石との接合部は両端で若千異なっている。西側の縄掛突起は、上側が蓋石上面から一段下がって縄掛突起がのびるのに対して、下側は蓋石下面からそのまま縄掛突帯に至り外方に広がっている。東側の縄掛突起は蓋石の上面、下面ともに段をもって整形されている。表面は破砕痕や落書きが顕著に見られ、蓋石製作時の工具痕はよく分からない。また、赤色顔料の塗布は外面に一部可能性のあるものがあるが、ほとんど確認することができない。

けぼ山古墳 蓋石
蓋石2
西側端部の一部が露出し、幅0、8m以上。北側長辺より25㎝内側に縄掛突起が見られる。蓋石1と同じ法量とすると、縄掛突起は中軸線より横にずらして造り出している。縄掛突起は幅30㎝です。厚さ、突出高は土中のためよく分からない。蓋石1に類似した構造のようで、赤色顔料は塗布されていない。
蓋石3
両端部は土中のため不明。幅0、9m、長さ1、5m以上、厚さ0、25~0、29m。蓋石1ほぼ同じ規模。両端部が土中のため縄掛突起は観察できない。赤色顔料の塗布は認められない。
蓋石4
全て土中であり、観察できない。
けぼ山古墳の刳抜型石棺
けぼ山古墳刳抜型石棺

刳抜型石棺片は3片出ています。報告書には次のように記されています。
3片ともに火山で採石される凝灰岩。小口部の破片1片と側面部で接合関係にある2片がある。小口部の破片は小口部が傾斜し、また、刳り込みの上端幅が狭いことから棺蓋と判断される。刳り込みは下端部からゆるやかに立ち上がり天丼部中央が最も高くなっている。中央部は側面肩から24㎝内側で、ここを軸として復元すると、刳り込み幅48㎝。深さ19㎝、石棺幅は77㎝に復元される。

刳抜型石棺片は3片出ています。3片ともに火山で採石される凝灰岩です。これらはパズルのように組み合わせることができるようです。

けぼ山古墳のまとめ (調査報告書103P)
①全長55mの前方後円墳で津田古墳群の中では岩崎山4号墳とともに最大級の古墳
②岩崎山4号墳と比較して前方部の発達が見られ、形としては富田茶臼山古墳に近い。
③時期的には埴輪の特徴から津田古墳群の中でも新しい段階に位置づけることができる
④刳抜型石棺の形態からは前期、前期後半の築造年代が推測される。
そういう意味では、次に現れる富田茶臼山との関係を検討する上で重要な古墳であると研究者は考えています。
畿内的特徴の多い富田茶臼山古墳に対して、けぼ山古墳は葺石・構造・埴輪に畿内的特徴とは異なる点を研究者は次のように指摘します。
①葺石構造は、拳大の石材を墳丘裾部に礫敷きしている可能性がある。
②埴輪は壺形埴輪を墳丘に並べるという特異な様相を見せる。
③円筒埴輪は破片が1点出土したのみで形象埴輪は出土しなかった。
このようにけぼ山古墳には、独特の墳丘施設が見られます。これは九州や讃岐など、畿内地域以外の地域間の交流があったことを研究者は考えています。一方、墳丘に多量に利用されている小礫は先行する一つ山古墳、赤山古墳にも見られる特徴です。一方で岩崎山4号墳、龍王山古墳では見られません。これをどう考えればいいのでしょうか。津田古墳群の中での津田地域と鶴羽地域の地域性のちがいととらえることができそうです。
津田湾 古墳変遷図
 
津田古墳群 変遷図3
津田古墳群変遷表

このような上に立って広い視点で4期の津田古墳群を見ておきましょう。
①4期には、羽立エリアに岩崎山4号、鶴羽エリアにけぼ山古墳が現れ、ふたつの地域に首長が並び立っていた。
②しかし、その首長墓は従来の讃岐在来色からは大きく脱したもので、首長たちの権力基盤や交流ネットワークに大きな変化があったことがうかがえる
③従来は、この変化を「瀬戸内海南岸ルート押さえるために畿内から派遣された軍事指導者達の痕跡」で説明されてきた。
④5期になると、鶴場エリアでは古墳造営がストップする。羽立エリアでも前方後円墳は消える。
⑤そして、突然内陸部に富田茶臼山古墳が現れる。
⑥これは津田湾だけでなく、内陸部も含めた政治統合が畿内勢力によって進められた結果だと説明される。
⑦そして畿内勢力は、髙松平野の東の奥から次第に中央部に勢力を拡げて、髙松の峰山勢力を飲み込んでいく。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」
関連記事


 
津田古墳群周辺図4
津田古墳群の分布地図
津田湾 古墳変遷図
③鶴羽エリアの古墳築造順は
「うのべ山古墳 → 川東古墳 → 赤山古墳 → 一つ山古墳 → けぼ山古墳」

津田古墳群変遷1
津田古墳群の変遷

前回は津田古墳群・臨海エリアの鶴羽地区で、最初に現れたのがうのべ山古墳で、それに続いて赤山古墳が登場することを見ました。今回は、これらに続いて現れる一つ山古墳について見ていくことにします。テキストは「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。
津田古墳群 うのべ山・けぼ

一つ山古墳は、鵜部半島東側の独立した丘陵頂部にある円墳です。古代には陸から離れた島で、潮待ちのための船が立ち寄っていたことがうかがえます。津田湾に入ってくる船からはよく見える位置にあります。また、墳丘からは北に小豆島、東に淡路島が見え、被葬者が瀬戸内海のネットワークに関わっていたことがうかがえます。

津田古墳群 一つ山・けぼ古墳
①墳形は円墳で最高所の標高は32m
②丘稜には一つ山古墳が単独で築造されている
一つ山古墳3 津田古墳群
一つ山古墳墳丘復元図

一つ山古墳は、20年前の2004年の調査までは、あまり注目されてこなかった古墳のようです。

最初の記録は、約百年前の大正11年(1922)発行の大内盤谷氏『津田と鶴羽の量蹟及遺物』です。そこには、二十四輩さんを墳頂に安置したときに、石棺に朱づめにした人骨や、約15cmの鏡や太刀が出土したことが記されています。二十四輩さんは、明治7年(1874)に設置されているので、この時が一つ山古墳は発見されたことになります。出土遺物は津田分署に引き取られたとされますが、現存はしていないようです。大内氏自身が現地を訪れた時は、石仏以外は何もなく土器も採集できなかったと記します。
昭和元年(1926)の『津田町史』には、一つ山古墳については何も記していません。戦後の昭和34(1959)年刊行の『津Ш町史』には、明治年間に発掘されたこと、その時に石棺材も連ばれたことが記されています。
昭和40年(1965)、六車恵一氏は「讃岐津田湾をめぐる四、五世紀ごろの謎」で、直径20m、高さ3mの円墳と紹介し、墳丘裾に海岸の砂利を葺石にして使用していると指摘します。こうしてみると、明治7年(1874)の発見以降、一つ山古墳は発掘調査がされていないことが分かります。

調査報告書は、一つ山古墳の墳形の特徴を次のように記します。(56P)
①墳形は南北直径27m、東西直径25mのやや楕円形を呈する円墳。
②円墳ではあるが、規模は60m級の前方後円墳の後円部直径に相当する
③墳丘裾部を水平に揃え、丁寧に段築のテラスを造作し、テラス面に小礫を敷く工法けぼ山古墳に共通
④葺石に基底石に大型石を置き上位の葺石を傾斜面に直交してさしこむように積んでいく工法は岩崎山4号墳、青龍王山古墳と共通
以上から一つ山古墳は円墳ですが、首長墳の一つとして研究者は考えています。

明治初期に盗掘された際に破壊された刳抜型石棺の一部は周辺に投げ捨てられていたようです。それを埋め戻したものが盗掘孔内の埋土からて出てきました。
一つ山古墳石棺 津田古墳群
一つ山古墳の石棺(津田古墳群)
調査報告書は、刳抜型石棺について次のように記します。
刳抜型石棺は安山岩集中地点の南に棺蓋が横になった状態で検出(石棺1と呼称する)され、北側にも部材が確認できる(石棺2と呼称する)。現在のところ、この2片が比較的形状のわかる個体で、他に破砕片が数点観察される。石棺1の両端はトレンチ外に延びていたが平成23年(2011)の亀裂によって縄掛突起が露出し小口面の形状が明らかとなった。石棺高が低く、赤山古墳2号石棺蓋に比較的類似することから棺蓋として記述を進める。幅52cm、高さ29cmである。長さは途中で欠損しており、140cm分が残存している。平面形は長方形で片方に向かって広がる形態ではなく、高さもほぼ同値である。
一つ山古墳石棺2 津田古墳群
一つ山古墳の刳抜型石棺
ここからは次のようなことが分かります。
一番大きい部位は長さ140cmの火山産凝灰岩で、石棺1が棺蓋であること。赤山古墳2号石棺とよく似ていて、同時代に造られたことが考えられること。
津田碗古墳群 埴輪編年表2

葺石の構造は基底に大型大の石をさしこんでいます。
讃岐の従来工法は、石垣状に組む手法です。ここでも外部の技法が導入されています。墳丘には壺形埴輪が並べられていました。そのスタイルは先行するうのべ山古墳のものとは、おおきく違っています。うのべ山古墳の埴輪は、広口壺で讃岐の在地性の強いものでした。ところが一つ山古墳の埴輪はタタキなどが見られない粗雑な作りです。
 一つ山古墳よりも一段階古いとされるのが前回見た赤山古墳です。
赤山古墳は前方後円墳で円筒埴輪が出てきます。ところが一つ山古墳からは、円筒埴輪が出てきません。ここからは、被葬者の身分や墳丘形によって、.採用される埴輪の種類が決められていたことが考えられます。墳丘や埋葬品によって、被葬者の格差に対応していたことになります。
津田碗古墳群編年表1
津田古墳群変遷図
一つ山古墳の調査結果を、調査報告書は次のようにまとめています。
刳抜型石棺は、津田古墳群では前方後円墳の首長墓からだけ出てくるので、この古墳の被葬者が準首長的な存在であったことがうかがえます。前方後円墳ではありませんが首長墳の一つと研究者は位置づけます。また、刳抜型石棺は赤山古墳2号石棺と共通点が多いようです。特に小口部が上端に向って傾斜する構造は、これまで赤山古墳だけに見られる特徴で、九州の刳抜型石棺の系譜上にあるもとされます。赤山古墳や一つ山古墳の初期の津田古墳群の首長たちが、九州勢力とのネットワークも持っていたことがうかがえます。同時に、三豊の丸山古墳や青塚古墳には、わざわざ九州から運ばれた石棺が使用されてます。この時期の讃岐の首長達は畿内だけでなく、瀬戸内海・九州・朝鮮半島とのさまざまなネットワークで結ばれていたことが裏付けられます。

最後に研究者が注目するのは、立地条件です。
海から見える小高い山上にある津田古墳群の中で最も東にあるのが一つ山古墳になります。つまり、畿内方面からやって来る航海者が最初に目にする古墳になります。一つ山古墳のもつ存在意義は重要であったと研究者は推測します。
東瀬戸内海の拠点港としての津田古墳群
東瀬戸内海の南航路の拠点としての津田古墳群
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「津田古墳群調査報告書 2013年 さぬき市埋蔵物調査報告書第11集」です。

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