瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:一円保絵図

鎌倉時代の荘園は、つぎのふたつの耕地から成り立っていました。
①荘園領主の直営地
②名主の所有地である名田
このふたつの耕作地は、どのように耕作されていたのでしょうか?
これを善通寺一円保を見ながら考えていきたいと思います。
テキストは「善通寺市史第1集 鎌倉時代の善通寺領409P」です。
一円保絵図 寺作と名田

善通寺一円保絵図

一円保絵図については、以前にお話ししましたので説明は省略します。
善通寺一円保 寺作地

一円保絵図 寺家作地

絵図には「寺家作」と記されている所が何カ所もあります。これが①の「領主の直属地」のようです。寺家作地は一箇所に集中しているのではなくいくつかの坪に分散しています。しかし、よく見ると「寺作」があるのは、絵図の左下に集まっています。
一円保絵図 現地比定拡大
一円保絵図を現在の地図に落としてみると、東南隅が①四国学院

このエリアは現在の②農事試験場から③こどもとおとなの病院のあたりで、弥生時代には善通寺王国の中心地であったことが発掘調査から明らかにされています。また、このエリアの首長墓として最初に造営される野田院古墳の埋葬者の拠点も、このあたりにあったと研究者は考えています。それを裏付けるように、7世紀後半に最初の古代寺院である仲村廃寺が建立されるのも⑥の当たりになります。ある意味では、この当たりは善通寺王国の穀倉地帯でもあった所です。
 ところが絵図をよく見ると、出水から導水された用水路は、このエリアまでは伸びてきていません
  水がなければ水田化はできません。研究者が一円保の水田分布状態を坪毎に示したのが次の表です。

一円保絵図 田畑分布図
一円保の水田化率
これを見ると、左下あたりは、用水路は未整備なのに水田化率が高いことがうかがえます。これはどうしてでしょうか?
農事試験場の出水
農事試験場周辺の古代流路と出水 黒い帯が旧流路
現在は農事試験場をぐるりと回り込むように中谷川は流れています。しかし、古代においては、中谷川には、金倉川も流れ込んだこともあり、川筋は幾筋にも分かれて善通寺王国の中央部を流れていたようです。その流れの間の微高地に善通寺王国は成立していました。そのため現在も農事試験場内の北側には、大きな出水が3つほど残されています。

農事試験場 出水
農事試験場内に残る出水

 また、地元の農事試験場北側の農家の人に聞くと、中谷川周辺は湧水が豊富で、田んぼの水は湧水に頼っていたといいます。それを裏付けるように今でもポンプアップした水が灌漑に使われています。以上から、寺作地の集中する農事試験場周辺は、湧水地があり水には困らないエリアであったと私は考えています。つまり、一円保の中で「一等地」だったのではないでしょうか。そのために、寺家作を農事試験場周辺に集中させていたことを、押さえておきます。

開発領主、名主、田堵の違いを分かりやすく教えてください(;´Д`A10世紀... - Yahoo!知恵袋
名主と荘官・下人との関係
寺家作といっても寺僧たちが自分で鍬をふるい種子をまいて耕作していたのではなく、農民たちが請作していました。この寺家作にまじって「利友」、「末弘」、「国包」などと名が記されているのが名田です。絵図にはこのほか「光貞」、「宗光」、「是宗」、「朝順」、「重次」、「国定」、「吉末」のあわせて10の名田がみえます。しかし、西側の曼茶羅寺側の記載が略されているので、これが全部ではないようです。それぞれの名田も一つにまとまってあるのではなく、寺家作田と同じように分散しています。たとえば、「光貞」の名田は五つの坪に分散しています。
敦賀の中世
名主の位置
名主たちは一円保内で、どんな役割りをもっていたのでしょうか?。
前回見た弘安三年の随心院政所下知状には、その始めの方に次のように記されていました。
所領の沙汰人(下級の荘園役人)や百姓の所職名田畠は、本所随心院の支配するところであって、それを私領と称して勝手に売り渡したのであるから、売人、買人とも処罰さるべきである。

名田は名主の所有地であると云いましたが、これによれば名田は名主が自由に売ったり買ったりできるような私領ではないようです。その支配権はあくまで「本所御進止」、即ち荘園領主随心院の手にあったのです。
それでは名主と名田とは、どんな関係にあるのでしょうか?
下知状のなかほどに、次のように記されています。
本所役と言い寺家役と云い公平に存じ憚怠有る可からずの由申す。然らば彼公文職に於ては真恵相違有る可からず。
意訳変換しておくと
公文名田に賦せられた本所役や寺家役も怠りなくつとめると申してていることだから、公文職は真恵に与えることとする。

真恵は本所役ならびに寺家役という負担責任を果すことで、公文職に任ぜられたようです。これは荘官である公文職のことですが、名主についても同じことが云えるようです。つまり名主とは、基本的には一定地域の年貢および公事の納入責任者として荘園領主から任命されるものなのです。名主が納税の責任を負っている田畠が名田ということになります。名主は、彼の名田を、所有している下人などを使って直営耕作するのがふつうです。しかし、名田全体の耕作を行うのではなく、直営地以外は他の農民に請作させています。

第21回日本史講座まとめ①(鎌倉時代の農村) : 山武の世界史

 名主自身が別の名主の名田を請作している場合もあるようです。
そして、名主は名田内の年貢を取り集めて納入し、また名田単位に課せられる夫役を負担します。その責任を果すために、名田を直営したり、他の農民に割り宛てて請作させたり、名田の用水の使用などを管理したりしていたようです。名主の名田所有とは、こうした名田の経営、管理や、名田内の年貢・公事の徴収といった権限が彼の手にあるということで、土地所有権限までは及んでいなかったことを押さえておきます。
ブログ猫間障子

一円保の耕作者には次の3階層の農民たちがいました。
①名主
②名主に所属する下人
③寺家作地や名田を請作する農民=小百姓
③の小百姓は、下人のように直接名主に隷属していませんが、名田請作や年貢徴収などを通じて名主の支配下にありました。名主は、有力農民が領主によって指名される上層身分です。
名田と名主
国司の徴税請負人化と名田・名主の出現

名主は、 どのようにして生まれたのでしょうか
直接それを明らかにする史料はありませんが、研究者は次のように推測します。
①名主は、もともとは国衛領を請作していた請作農民の流れをくむ
②しかし、請作農民たち全てが名主になった訳ではない。
③名主の先祖は、寺領指定地内に住居を持ち、寺に対して在家役を負担していた農民たちの中で、地位を上昇させた者達である。
国司徴税請負人化

一円保の寺領化について、そこに住んでいた農民たちは、どんな態度をとったのでしょうか?  
①平安時代後期になると、在庁官人などの主導する国衙支配が次第に厳しくなった。
②郡や郷は、郡司・郷司の徴税請負で彼らの所領化となり、そこでの課役、夫役の徴収はますます強化され、農民たちにとっては耐え難いものとなった。
③そこで農民たちは圧政から逃れるために、国衙直営地から支配や負担のゆるやかな荘園に逃げ込んで荘民となった。
このような状況が進む中では、一円保となった所に住んでいた農民たちは、これを国衙支配から脱する好機としてとらえたと研究者は推測します。多度津郡司の綾貞方は、在地領主権を進める上で有利と見て、一円寺領化に協力したことを前回は見ました。同じように農民たちも負担の軽減と地位安定を求めて、東寺―荘園領主側に協力的だったと研究者は推測します。
荘園公領制
荘園公領制
 一方荘園領主である随心院も、有力で協力的な農民を名主に任じ、他の農民たちより優越した身分を与え、荘園支配体制を築こうとしたことが考えられます。このようにみてくると、名主は一円保成立の当初からその内に生活してきた農民たちということになります。
 用水配分に関して本寺の随心院に列参して絵図を提出し、自分たちの要求を訴えた百姓たちの中心も彼らであったのかもしれません。一円保には、名主たちを基本的構成員としてまとまり、共同体があったと研究者は考えています。
一円保絵図 中央部

絵図のなかには、次のような荘官の名も見えます。
①東南部三条七里一〇坪のところにある「田ところ(田所)」
②曼荼羅寺の近くの「そうついふくし(惣追捕使)のりやう所」
 荘官には名主のなかでも特に有力なものが任ぜられます。そして名田には年貢や公事の免除や軽減の特権が与えられていました。彼らの中から在地領主に成長して行く者も現れます。

寄進系荘園

 しかし、善通寺の弘安の政所下知状にみる公文の場合には、その名田畠には本所役、寺家役が課せられていて特権をもっていたようにはみえません。また在地領主として発展している様子もありません。それどころか名田畠を売払い、質に入れて没落していく姿が写ります。公文綾貞方とその子孫たちは、 一円保寺領化のなかで在地領主として成長を目指したのかも知れませんが、それはうまくは行かなかったようです。その前に障害となったのが、在地領主権力(公文綾貞方)が強くなることをきらう本所(荘園領主随心院)と一般名主たちの勢力たちだったのかもしれません。田所や惣追捕使などの実態はよく分かりませんが、彼らも同じような状態に低迷していたと研究者は考えています。名田は、名主の所有地ではなく管理地にすぎないことを押さえてきました。

 年貢滞納などの余程のことがなければ、名主の地位を追われることはないし、子孫相伝も認められます。そうすると次第に私領的性格が強くなって、公文覚願のように名田を売ったり質入れしたりするものもでてきます。このような状態が進めば、 一方で名田を失って没落する名主もふえ、他方では名田を買い集め強大になる名主もでてきてきます。名主層の「不均衡発展と階層分化」の進展です。
 鎌倉時代後期以後、この名主層の両極分解と小百姓の自立化によって、荘園支配体制が解体していきます。随心院領一円保では、政所下知状の終りのところでは、次のように記されています。
今自り以後沙汰人百姓等の名田出等自由に任せて他名より買領する事一向停止す可し。違乱の輩に於ては罪科為る可き也。

ここには、名田の買い集めを禁止してあくまでも従来の支配体制を維持しようとしています。これに対して、在地領主への道をめざす有力名主のなかには、それに反対するものも現われてきます。

文書の端裏に永仁二年(1294)に注記がある伏見天皇のだした綸旨には、次のように記されています。
讃岐國善通寺々僧等申す。当寺住人基綱 院宣に違背し佛聖以下を抑留せるの由、聞し食され候間、厳密仰せ下さるの処、猶綸旨に拘わらず弥以って張行すと云々、自由の企太だ然る可からず候。寺内経廻を停止せらる可き欺、計御下知有る可きの由、天氣候所也。此旨を以って洩申さしめ給う可し。乃って執達件の如し。
六月十二日
少納言法印御房
左大排(花押)
意訳変換しておくと
 善通寺の寺僧たちが、善通寺一円保の住人基綱が、仏に捧げるべき年貢を抑留し、ご祈祷を打ち止めていると訴えてきた。基綱の「自由の企て(勝手な振舞)」は許されないので「寺内の経廻(立ち廻り)」禁止し、寺領から追放せよという綸旨を発した。国衙役人は、ただちにこの綸旨を実行するように

綸旨に「当寺住人基綱」とあるので 、基綱は御家人武士ではありません。おそらく新しく台頭してきた一円保内の有力者でしょう。
 買い集めてきた田畠が随心院の命令で半値で取り返され、発展の道を失った不満が年貢の掠奪や勝手な振舞となって現れたのかもしれません。支配者側から見れば、基綱はまさに悪党とよばれるべき存在です。善通寺から綸旨を示された讃岐守護は、兵を差し向けて基綱を領外に追い払ったことでしょう。
   領主と幕府から追い立てられて行き場を失った悪党たちのなかには、山に入って山賊となり、海に入って海賊となるものが多くいました。正和年中(1313~17)に、讃岐の悪党海賊井上五郎左衛門らが数百騎で東寺領伊予国弓削島荘に討ち入り、合戦をしています。基綱もあるいはその仲間のうちにいたかもしれません。
 鎌倉時代の末期には、中小御家人の窮乏、悪党の活動などで社会は不安と不満にあふれ、一方幕府内では、貞時・高時など得宗とよばれる北条氏の家督相続者に権力が集中し、得宗直臣の御内人と有力御家人との対立が深まって権力闘争が渦巻いていました。そして京都では後醍醐天皇が倒幕の計画を着々と進めていたのです。こうして鎌倉時代の荘園秩序は、次の勢力から大きく揺さぶられるようになります。
①地頭など武士領主の押領
②悪党の活動
③年貢減免などの要求をかかげて闘争する農民
終りに一円保における善通・曼奈羅寺の地位を見ておきましょう。
 一円保は本所随心院の支配が荘官・名主にまでおよんでいたのは、見てきた通りです。そのため善通・曼茶羅寺の一円保支配権(荘務権)は限られたものだったと研究者は考えています。領内の用水管理や国衙や他領との折衝などは善通寺が行っていますが、それも本所である随心院の指導下においてのことのようです。
 弘安の政所下知状によると、保の名田には本所役と寺家役の二種の課役が課せられていますが、本所役は随心院、寺家役は善通・曼荼羅寺に納められたようです。この比率は2:1程度だったと研究者は推測します。

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

古代や中世の職人は一か所に定住せず、流浪の民でした。
鎌倉時代から手工業技術の進歩にともない、さまざまな職人が登場するようになります。室町時代になると、技術が一層発達し、社会的分業が進むにつれて、技術の担い手としてさまざまな職人が現れます。その職人の姿を紹介したのが「職人歌合」で、絵画史料として職人たちのいきいきとした姿を私たちに伝えてくれます。

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15世紀に作成された「三十二番職人歌合』では、登場する職人は32種でしたが、室町時代末期の『七十一番職人歌合』では142種にまで増えています。ここからも技術の発展ととともに、社会分業がすすんでいることがうかがえます。

建保職人歌合 鋳物師
 建保職人歌合 鋳物師
 例えば工匠の場合には15世紀後半から、鋳物師は16世紀になると特定地域に定住して営業を行うようになります。それまで遍歴をしていた職人たちが定着化して、職人集団を形成し「産地」となっていきます。そのような中で、讃岐にも職人たちが登場してくるようになります。
そこで史料に出てくる「中世讃岐の職人」たちを追いかけて見ようと思います。今回は絵師を見ていくことにします。
 保元の乱に破れた崇徳上皇が讃岐に流されてくる8年前の宝治2年(1148)2月のことです。弘法大師信仰の高まりを受けて、高野二品親上が善通寺の大師御影の模写を依頼してきます。しかし、讃岐には受戒した浄行の仏師がいないため、京都から仏師鏡明房成祐を招き模写させています。つまり平安末期の讃岐では、絵師がいなかったのです。

建保職人歌合 中世の職業・職人・商人 仏師
建保職人歌合 仏師
 ところが鎌倉時代末期になると、讃岐にも絵師がいたことが史料から分かります。
四国霊場の本山寺の本堂は、昭和28年2月からの解体修理の際に、礎石に次のような墨書銘が書かれていることが発見されました。
「為二世恙地成就同観房 正安二年三月七日」(1300年)

ここから、鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築物であることが分かり、国宝に指定されています。本堂に続いて正和二年(1313)からは仁王門が建立され、そこに二天像が収められます。

イメージ 5
本山寺二天門の二天王像
その像の中の墨書銘には、次のような職人たちの名前が記されています。
①「仏師、当国内大見下総法橋」
②「絵師、善通寺正覚法橋」
①の仏師・下総法橋は大見の住人と記されています。
大見は三野郡下高瀬郷に属し、西遷御家人で日蓮宗本門寺を建立した秋山氏の拠点です。三野湾は、中世には本門寺辺りまで入り込んできていて、その浜では秋山氏によって塩浜が開発され、西浜・東浜では製塩が行われていました。作られた塩は、宇多津や平山(宇多津)・多度津などの輸送船がやってきて畿内に運んでいたことが兵庫北関入船納帳から分かります。三野湾沿岸は、それらの輸送船が行き交う瀬戸内海に開かれたエリアで、外部からも多くの中世仏像がもたらされていることは以前にお話ししました。そのような大見に、仏師・下総法橋がいたことになります。

c_iyataniji弥谷寺全図
弥谷寺
大見の東に位置する天霧山の山中には、山岳寺院として多くの修験者や高野聖等が活動していた弥谷寺があります。弥谷寺は廻国行者や高野聖など活動拠点で、山門周辺には彼ら庵がいくつも点在していたことが絵図から分かります。また、周辺には阿弥陀信仰の拡がりをしめす石造物がいくつかあります。ここを拠点に高野聖たちは、大見への「布教活動」を行っていたようです。そのような高野の聖たちの中に仏師・下総法橋の姿もあったのかもしれないと私は考えています。そして、本山寺などの求めがあれば、仏像を制作していたのでしょう。彼の作った仏像が、まだまだ讃岐のどこかには残されているのかも知れません。

弥谷寺 四国遍礼図絵1800年
弥谷寺(四国遍礼名所図会)

②には「絵師、善通寺正覚法橋」とあります。正覚法橋は善通寺のどこに住んでいたのでしょうか。
そのヒントを与えてくれる史料が善通寺には残されています。
善通寺一円保絵図 1

善通寺一円保絵図 原図
「讃岐国善通寺近傍絵図」で「一円保絵図」と呼ばれています。幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図で、墨で書かれたものです。この絵図は五岳山の山容のタッチとかラインに大和絵風の画法が見て取れると研究者は指摘します。素人の農民が書いたものではないようです。これだけの絵図を書ける絵師が善通寺にはいたのです。それでは誰が描いたのでしょうか。
一円保絵図 全体
善通寺一円保絵図(トレス図)

表紙をあけたところに、次のように記されています。
「徳治二年(1307)丁未十一月 日 当寺百姓烈参(列参)の時これを進(まい)らす」「一円保差図」

差図(指図)とは絵図面のことです。ここからは、この絵図が鎌倉時代末期の徳治二年に、善通寺寺領の農民たちが京都の随心院に「烈参(列参)」した時に提出したものであることがわかります。これは、本山寺の二天王像の彩色を絵師・正覚法橋が行った6年前のことになります。以上を考え合わせると、善通寺が一円保絵図を書かせて、それを百姓たちが京都の本山・随心院への陳情時に持参させた、その一円保絵図を書いた絵師も、正覚法橋であったとことが考えられます。
 一円保の領主である善通寺は、農民の実状がよくわかっていたはずです。絵図の作成ばかりではなく、農民らの上京にも協力したのではないでしょうか。鎌倉後期の一円保では、名主層を中心に、用水争論などで力を合わせる村落結合が形成される時期になります。善通寺は領主であると同時に、その「財源」となる村落を保護支援する役割を果たしていたようです。同時に農民たちの精神的拠りどころにもなっていたのかもしれません。そのために善通寺は、配下の絵師に「一円保絵図」の作成を命じたとしていおきましょう。

史料からは、中世の善通寺には次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。  (数字は、絵図上の場所)
 善通寺については平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあります。現在の赤門前周辺が寺院関係者の住居が集まっていたようです。これに対して、下側(北側)が、百姓の家々ということになります。それを絵図上で拾っていくと、次のような表記があります。

一円保絵図 中央部
善通寺一円保の僧侶の居住地点

寺僧以上が           (地図上の番号と一致)
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」 (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」          (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
 残念ながら「あわのほけう(阿波法橋)」はありますが「絵師・正覚法橋」の表記はないようです。正覚法師は出てきませんが、彼も善通寺の東院周辺に庵を構えて生活していたことが見えてきます。
 僧侶の房の位置から分かることは、位の高い寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいることです。東院からの距離が、僧侶間の身分・階層関係を空間的にも示していると研究者は指摘します。その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性はあります。例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師などの職人が善通寺周辺にいたのです。

善通寺一円保絵図
西院と東院

 現在の善通寺の院房は、東院と西院の間に密集して並んでいます。
これが見慣れた景観なので、昔からそうだったのだろうと私は思っていました。しかし、西院が姿を現し、善通寺の中核を占めるようになるのは中世の後半になってからのことです。中世以前までは東院が中心で、その東側の赤門前に、僧侶たちは生活していたことを一円保絵図は教えてくれます。

   以上をまとめておくと
①平安末期の宝治2年(1148)2月には、善通寺の大師御影の模写のために京都から仏師鏡明房成祐が招かれているので、讃岐には絵師がいなかったこと
②徳治二(1307)年の「善通寺一円保絵図差図」は、大和絵の技法が見られプロの絵師によってかかれていること。
③その6年後1313年に、本山寺の二天王像の彩色を「絵師、善通寺正覚法橋」がおこなっていること
④ここからは鎌倉末期の14世紀初頭の善通寺には絵師がいたこと
⑤絵師は、他の僧侶たちと同じように善通寺東院の東側の赤門周辺で、他の僧侶集団の中で生活していたこと。
⑥同時期に三野の近江には仏師がいたこと。その背景には三野湾の交易と弥谷寺の僧侶集団の形成があったこと。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

     一円保絵図 テキスト
 善通寺一円保絵図
善通寺には、明治40年(1907)に、本寺の京都随心院から持ち帰ったという墨で描かれた絵図があります。「讃岐国善通寺近傍絵図」で一般的には「一円保絵図」と呼ばれています。この絵図のテキストクリニック(史料批判)を行った論文を探していたのですが、なかなか出会えませんでした。

一円保絵図 テキスト2

 先日、何気なくアマゾンで検索すると、郵送代込みで352円なのを見つけてすぐにクリックしました。この本の中に載せられている高橋昌明「地方寺院の中世的展開」をテキストにして善通寺一円保絵図を見ていくことにします。
まず筆者は、この絵図はなぜ、京都の随心院にあったのかを探ります。  絵図裏書に次のように記されているようです。
善通寺□□絵図
徳治二年丁未十一月 日
当寺百姓等烈参の時これを進らす
一円保差図(別筆)
□は虫損
「当寺」とは文脈からいって随心院でしょう。「烈参」は「何事かを請願するとか申し出るとかするために、多くの人が一緒に行くこと」という意味だそうです。善通寺の百姓らが徳治二年(1307)本所の随心院に、なにかを要求するため上洛して、その際にこの絵図を提出したようです。何を要求したのかが、今後の問題となります。 
一円保絵図 原図
善通寺 一円保絵図
絵図は善通寺で作成されたようです。
幅約160㎝、縦約80、横6枚×縦2枚=計12枚の紙を貼りあわせた大きな絵図です。見れば分かるとおり、描かれている内容は左右で二つに区分できそうです。真ん中の太い黒帯が弘田川です。その西側(右)が五岳、東側(左)が条里制で区切られた土地と、その中に善通寺の伽藍と誕生院が見えます。これだけの絵図を書ける「職人」が善通寺にはいたようです。三豊にある中世の仏像には、善通寺の絵師がかかわったことが史料から分かります。絵師や仏師集団が善通寺周辺には存在したようです。
  上の絵図をトレスしたものがつぎの下の図です。

一円保絵図 全体

まず、この絵図で描かれている範囲を確定しておきましょう。
北側(下)からを見ていきましょう。
お寺の南の茶色のエリアが現在の「子どもと大人の医療センター」になります。ここは、弥生時代から古墳時代にかけて善通寺王国のコア的な存在であった所です。しかし、この絵図では、百姓の家が散在するのみです。お寺の周辺に形成された「門前町」に人々は「集住」し、この地区の「重要拠点性」は失われているようです。
 その西、弘田川を越えた所に「ひろ田かしら」という地名が書き込まれています。ここの東西の条里が北側の境界となるようです。ここから北の条里は描かれていません。
  西端を見てみましょう。右下角に「よしわらかしら」が見えます。
現在の吉原のようです。ここにも条里制跡は見られますが、その方位は善通寺周辺の条里制とは、異なっているように見えます。

  善通寺の東側の条里制のラインを見てみましょう。
ここで手がかりになるのは東の端に書かれた「よした」という地名です。現在の吉田でしょうが、ここには条里制跡は描き込まれていません。もちろん、丸亀平野全体に条里制は施行されていますので、敢えて書き込んでないということになります。
 南側は東に「おきのと」と西に「ありを□」から流れ出した水路が境となっています。これより南の条里制は、やはり描かれていません。考えられるのは描かれた部分が、善通寺の一円保に関係するエリアであったということです。それでは、条里制が描かれているのは、現在のどの辺りになるのでしょうか?
  現在の地図に落とすと、下図のようになるようです。
一円保地図1
一円保絵図東部分の現在の範囲
この範囲が善通寺の一円保のエリアだったと考えられます。もう少し拡大して見ましょう。
一円保絵図 現地比定拡大2
一円保絵図の現在のエリア
絵図で描かれている条里制エリアを確認しておきましょう
A 南側①~④のラインは、四国学院図書館から護国神社・中央小学校を西に抜けて行くもので、多度郡条里の6里と7里の境界線になる。
B 東側①~⑥(グランドホテル)のラインは旧多度津街道にあたり、古代においては何らかの境界線だったことがうかがえる。
C 北側ラインは⑤の瓢箪池→仙遊寺(大師遊墓)→宮川うどん→善通寺病院北側へと続く
D 西側は香色山と誕生院の間から、弘田川を越えて五岳の麓まで

   Aの①~④については、四国学院内での発掘調査から道路の側溝跡が見つかり、さらにそれを東に一直線にまっすぐ伸ばした飯山町の岸の上遺跡から出てきた側溝跡とつながることから、このラインが旧南海道だと研究者は考えているようです。つまり、一円保の南側は南海道で区切られていたことになります。
Bの旧多度津・金毘羅街道は、現在も大通りの東側を聖母幼稚園から片原通りまでは残っています。またB・Cは、中谷川の流路とも重なります。この川は、弥生時代から古墳時代に栄えた旧練兵場遺跡の北限でもあった川で、善通寺王国の成立に大きな役割を果たしたことが考えられます。
 ちなみに、佐伯氏が氏寺として最初に建てた仲村廃寺(伝導寺)は、⑥グランドホテルの西側のホームセンターダイキ周辺です。氏寺は、この川に隣接する地点に建立されています。古墳時代から7世紀前半の佐伯氏の拠点は、この付近にあったことを考古学的発掘の成果は教えてくれます。

金倉川 善通寺条里制
那珂郡・多度郡の条里制と南海道(推定)
  また、南海道の南側隣接する⑦からは多度郡の郡衙と推定できる建物群が見つかっています。
ここに建物群が姿を現すのは、7世紀末から8世紀初頭にかけのことで、南海道が東から伸びてきた時期と重なります。南海道を基準として条里制は引かれていきます。佐伯氏が先ほどの仲村廃寺周辺から⑦のエリアに拠点を移したのは、この時期なのでしょう。これに伴い氏寺も仲村廃寺から現在地に移し、条里制に沿う形で移築したことが考えられます。補足説明はこれくらいにして、先に進みましょう。
 
さきほどのトレス図と比べて、研究者は次の点を指摘します。
①絵図の東部と西部では「縮尺」が異なる。西の五岳山側は、東の3倍の縮尺になっている。
  絵図では東部と西部は半分・半分の割合だが、実際には西部の山側の方がその3倍以上の面積 がある。
②「おきのと」と「ありを□」は現在の壱岐湧と柿股湧になる。絵図では、ふたつの出水は一円保のすぐそばにあるように描かれているが距離的なデフォルメがある。実際にはかなりの距離がある。
全体像はこれくらいにして、もう少し詳しく各部分を見ていきましょう。
まず、一円保の範囲と周辺の郷との関係を地図で確認しておきましょう
一円保絵図 周辺との境界
善通寺一円保絵図の範囲
 東側の良田郷と隣接する条里制の部分から見ていきます。

金倉川 10壱岐湧水
善通寺東院と西院
 中央に善通寺伽藍とその東に誕生院があります。よく見ると、伽藍の周辺やその北方(下方)には多くの家屋が描かれています。
 
 集落を見ておきましょう
  建築物は、善通寺の東院や誕生院等を見ると、壁が書かれています。壁が書かれているのが寺院関係で、壁がない屋根だけの建物が民家だと研究者は考えているようです。絵図に描かれた民家を全部数えると132棟になるようです。それをまとまりのよって研究者は次のような7グループに分けています
第1グルーフ 善通寺伽藍を中心としたまとまり 71棟
第2グルーフ 左下隅(北東)のまとまり  5棟
第3グルーフ 善通寺の伽藍の真下(北)で弘田川東岸のまとまり                   11棟
第4グルーフ 中央やや右寄りの上下に連なる大きい山塊の右側のまとまり                   15棟
第5グルーフ 第4グループの右側のまとまり 17棟
第6グルーブ 第5グルーブと山塊をを挟んだ右側のまとまり                   6棟
第7グループ 右下隅(北西)のまとまり     7棟

 家屋が集中しているのは、善通寺伽藍周辺で71あるようです。
半分以上がお寺の周りに集まっていることになります。中世における「善通寺門前町」とも言えそうで、一種の「都市化現象」が進んでいたようです。
 善通寺市立郷土館に展示された「善通寺村絵図」(明治6年頃)には、伽藍の東南に17戸、東に79戸、北東に38戸、北西に53戸、西南に83戸、計270戸があったと記されます。江戸時代は、善通寺周辺に門前町が形成され、それ以外は水田が広がる光景が続いていたようです。
 お寺周辺の家屋は、七里八里の界線を境に上下に分けることができそうです。上は平安後期に、「寺辺に居住するところの三味所司等」(「平安遺文』3290号)とあるので、寺院関係者の住居と「くらのまち(倉の町)」など寺院の関連施設と研究者は考えているようです。
 これに対して、下側(北側)は百姓の家々ということになります。
善通寺の関係者は、僧侶たちと荘官層にわけられます。
荘官では田所の注記だけが見えますが、曼奈羅寺方面には惣追捕使の領所という注記もあります。「随心院文書」からは、善通寺には公文・案主・収納使・田所がいたことが分かります。また別の史料からは、次のような僧侶達がいたことが記されています。
①二人の学頭
②御影堂の六人の三味僧
③金堂・法華堂に所属する18人の供僧
④三堂の預僧3人・承仕1人
このうち②の三味僧や③の供僧は寺僧で、評議とよばれる寺院の内意志決定機関の構成メンバー(衆中)でした。その下には、堂預や承仕などの下級僧侶もいたようです。善通寺の構成メンバーは約30名前後になります。
一円保絵図 中央部

 絵図に記されている僧侶名を階層的に区分してみましょう。
寺僧以上が
「さんまい(三味)」 (7)
「そうしゃう(僧正)」    (8)
「そうつ(僧都)」        (11)
「くないあじゃり(宮内阿闇梨)」  (12)
「三いのりし(三位の律師)」      (14)
「いんしう(院主)」              (15)
「しき□あさ□(式部阿閣梨か)」  (10)
 下級僧が
「あわちとの(淡路殿)」          (1)
「ししう(侍従)」                (9)
「せうに(少弐)」                (16)
「あわのほけう(阿波法橋)」      (17)
(数字は、絵図上の場所)
 これらの僧侶の房の位置から分かることは、寺僧たちの房は伽藍の近くにあり、下級僧の房はその外側に建ち並んでいます。絵図は僧侶間の身分・階層を、空間的にも表現しているようです。

その他にも、堂舎・本尊・仏具の修理・管理のための職人(俗人姿の下部)が、寺の周辺に住んでいた可能性が考えられます。
例えば、鎌倉初期の近江石山寺辺では、大工、工、檜皮(屋根葺き職人)、鍛冶、続松(松明を供給する職人)、壁(壁塗り職人)らがいたことが分かっています(『鎌倉遺文』九〇三号)。絵師や仏師が善通寺周辺にいたことは、仏像の銘文などからも史料的にも分かっているようです。しかし、絵図からはうかがい知れません。

 絵図の下方(北側)の家を見てみましょう。
金倉川 10壱岐湧水

右下の茶色で着色したゾーンは、善通寺病院のエリアになります。そこから東にかけてが現在の農事試験場の敷地にあたります。この地域は、
①善通寺病院周辺が、弥生時代の中核地域
②(20)(21)周辺が、仲村廃寺跡で古墳時代以後の中心地
であることが発掘調査から分かっています。そして、②を中心とするエリアに、名田が密集しているようです。名田らしき注記を挙げると
「光貞」が六ヵ所
「利友」が六ヵ所
「宗光」が五ヵ所
 これを名主だと考えることもできそうです。
名は徴税の単位で、荘内の各耕地(作人の各経営)はいずれかの名に所属させられていたとされます。年貢や課役も作人が直接領主に上納するのではなく、名の責任者である名主がとりまとめて納入させたようです。「光貞」「利友」「宗光」は、その徴税責任者名かもしれません。つまり、名主であったことになります。ちなみに「寺作」は9ヵ所で合計2町9反以上と注記されています。これが善通寺の直轄寺領なのでしょうか。
一円保絵図 北東部

  最後に東部エリアの用水路を見ておきましょう。
 条里制地割上に描かれた真っ直ぐな太線が水路になります。水路を東に遡っていくと「をきどの」「□?のい」と記された部分に至ります。これは出水で、水源を示しているようです。
この湧水は、現在のどこにあたるのでしょうか。
これは、以前にも見たように生野町の壱岐湧と柿股湧になります。
そこからの水路が西に伸びて一番東の条沿いに北上していきます。この条が先ほど見たように、旧多度津街道になります。
条里内の(2)の家屋は、護国神社 (1)は中央小学校あたりになるのでしょう。湧水からの水路は、次の条まで延びています。ここからは、地割の界線にそって灌漑用水路が作られ農業用水を供給していたことが分かります。よく見ると、坪内ヘミミズがはっているような引水を示す描き込みもあります。
 用水路がどこまで伸びているのかを見てみましょう。
それは、農業用水がどこまで供給されていたかです。用水路が伸びているのは、(20)(21)のある坪あたりまでです。それより北(下)には、用水路は描かれていません。
弥生・古墳時代には、多度津街道沿いに旧中谷川が流れていたことが発掘からも分かっています。
旧練兵場遺跡 変遷図1
弥生時代の旧練兵場跡 右側が中谷川


ところが、一円保絵図には中谷川が途中で涸れたように描かれています。これは旧練兵場(現農業試験場や善通寺病院のエリア)に灌漑用水は、届いていなかったということになります。ほんまかいな? というのが正直な感想です。 この絵図をもう一度見ると、用水路は2つの湧水のみに頼っているようです。
 金倉川からの導水水系が描かれてはいません。
 現在は、中谷川は金倉川からの導水が行われています。
一円保絵図 金倉川からの導水
現在の金倉川からの導水路

しかし、中世のこの時点ではそれが出来なかったのかもしれません。中世の権力分立の政治情勢では、荘園を越える大規模な用水はなかなか建設や維持が難しかったようです。建設のための「労働力の組織化」もできなかったのでしょう。例えば、この時期の満濃池は崩壊したまま放置され「池内村」が旧池底に「開拓」されていた状態でした。金倉川の導水路を確保することは難しく、善通寺一円保の用水源は、出水と有岡の池に頼る以外になかったようです。
 こうしてみると善通寺の百姓達が京都の本寺へ「烈参」したのも水に関係することだったのではないかと思えてきます。
今回は、この辺りにしておきましょう。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献


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