時宗の開祖・一遍は民衆の間に念仏を勧めて、北は東北地方から南は九州南部まで遊行の旅を続けました。そのため「遊行上人」とも呼ばれます。しかし、あるときまでは一遍は自分の行動に確信が持てなかったようです。それが大きく変化するのが熊野本宮で、熊野権現から夢告をうけたことでした。
一遍死後、約50年後の正安元年(1299)に、弟子の聖戒が作成したと伝えられる「一遍聖絵」巻二には、次のように記されています。
熊野川を下る一遍
一遍死後、約50年後の正安元年(1299)に、弟子の聖戒が作成したと伝えられる「一遍聖絵」巻二には、次のように記されています。
熊野本宮(一遍上人絵伝)
文永十一年のなつ、高野山過て熊野へ参詣し給ふ。(略)本宮證誠殿の御前にして願意を祈請し目をとぢていまだまどろまざるに、御殿の御所をおしひらきて、白髪なる山臥の長頭巾かけて出給ふ。長床には山臥三百人ばかり首を地につけて礼敬したてまつる。この時権現にておはしましけるよと思給て、信仰しいりておはしけるに、かの山臥聖のまへにあゆみより給ての給はく、融通念仏すゝめらるゝぞ、御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず、阿弥陀仏と心定するところ也。(略)大権(現)の神託をさづかりし後、いょ/ヽ他力本願の深意を領解せりとかたり給き。
意訳変換しておくと
文永11年(1174)の夏、高野山から熊野へと参詣した。(略)熊野本宮證誠殿の御前で、願意を祈願した後、目を閉じて眠ろうとした。すると御殿の御所を押し開いて、長頭巾かけた白髪の山伏(熊野権現の権化)が現れた。長床には、山伏が三百人ばかり首を地につけて礼敬している。これが権現だと気づいて、お参りしていると、その山伏が一遍の雨に歩み寄ってきて、次のように云った。「融通念仏を勧めることに、なんの迷いがあろうか。すべての衆生の往生は、阿弥陀仏のみを信じることにある。信じる信じない、穢れている清いに関わらずお札を配るべし。(略)目を開いた一遍の周りには、百人をこえる子ども達が、その念仏を受けたい、札をいただきたいと口々に云いながら集まってきた。一遍が名号を唱えながら札を渡すと子ども達は消えていった。(中略)熊野大権現の神託を授かった後、いよいろ他力本願の深意を理解したと一遍はおっしゃった。
證誠殿の前に白装束の山伏(熊野権現)の姿が現れています。その前にひざまずくのが一遍です。その右手には、熊野権現の教えに従って、子ども達にお札を配る一遍の姿が描かれています。左から右への時間経過があります。巻物には、時間経過が無視して一場面に描かれています。今の漫画の既成概念を外して見ていく必要があります。
高野山も熊野も、この時代には山岳霊場のメッカでした。
当時の本宮には「長床」という25間もの拝殿があり、そこに集まる「長床衆」と呼ばれる熊野行者たちによって管理運営されていたことは以前にお話ししました。
また、熊野三山の本地仏は次の通りでした。
熊野三所権現本地仏坐像 藤白神社(海南市)権現堂
阿弥陀如来坐像(本宮・中央)・薬師如来坐像(那智・右)・千手観音坐像(新宮・左)
熊野本宮の本地仏は阿弥陀如来とされていました。熊野は山中他界と海上他界の二つの信仰が融合した霊地です。そのため死者の霊魂の行く国(場所)、「死者の国・熊野」とされてきました。そして、熊野本宮の本地仏は、阿弥陀如来とされます。 一遍が熊野に詣でたのは、宇佐八幡宮や石清水八幡宮の八幡神の夢告という神秘説もあります。しかし、熊野に群集する道者に賦算する目的、高野聖を媒介とする法灯国師覚心の引導があったことが要因と研究者は推測します。
其年信濃国佐久郡伴野の市庭の在家にして歳末の別時のとき、紫雲はじめてたち侍りけり。仰をどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給けり。(略)同国小田切の里或は武士の屋形にて聖をどりはじめ給けるに、道俗おほくあつまりて結縁あまたかりければ、次第に相続して一期の行儀と成れり。
意訳変換しておくと
その年に、信濃国佐久郡伴野の市庭の在家で、歳末の別時のときに、紫雲が立ち上った。踊り念仏は空也上人が市屋や京の四条の辻で始めた。(略)信濃国小田切の武士の屋形で、一遍が踊り始めると、道俗が数多くが集まってきて結縁が結ばれたので、以後は恒例の行事となった。
ここからは、小田切の武士の舘で別れの際に庭先で踊った所、人々の信心を集めるにの有効だとされるようになったこと、以後は、踊り念仏を民衆教化の手段として、機会あるごとに各地で踊るようになったことが記されています。
五来重氏は、踊り念仏からいろいろな民俗去能が発生した過程を、詳しく述べています。
大森恵子氏も『念仏芸能と御霊信仰』で、御霊を鎮魂する目的で踊られた民俗芸能の原形は、空也に始まり、一遍に受け継がれた踊り念仏にあると指摘します。空也は「阿弥陀聖」とも呼ばれ、念仏を唱えながら三昧で死者供養を行ったと伝えられます。空也聖たちも、死者供養のために踊り念仏を行い、一遍も空也と同じように念仏(融運念仏)を詠唱し、踊り念仏を踊ったのです。そのことで崇りやすい御霊を供養し、災害や戦いの恐怖から民衆を救おうとします。当時の御霊は、あらゆる災いを引き起こして、その崇りを引き起こすとされていたのです。その「悪霊退散」「御霊供養」のために踊り念仏は踊れられた研究者は考えています。
大森恵子氏も『念仏芸能と御霊信仰』で、御霊を鎮魂する目的で踊られた民俗芸能の原形は、空也に始まり、一遍に受け継がれた踊り念仏にあると指摘します。空也は「阿弥陀聖」とも呼ばれ、念仏を唱えながら三昧で死者供養を行ったと伝えられます。空也聖たちも、死者供養のために踊り念仏を行い、一遍も空也と同じように念仏(融運念仏)を詠唱し、踊り念仏を踊ったのです。そのことで崇りやすい御霊を供養し、災害や戦いの恐怖から民衆を救おうとします。当時の御霊は、あらゆる災いを引き起こして、その崇りを引き起こすとされていたのです。その「悪霊退散」「御霊供養」のために踊り念仏は踊れられた研究者は考えています。
当時の最大の社会的事件は元寇でした。
これにどう向き合うのかと云うことが、宗教者にも求められたはずです。多数の戦死者を出し、元軍の襲来に人々が恐怖を感じた年に、一遍は熊野で神託を受けて悟りを開いています。それは、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生ができるという教えです。その先に国家安康もあるとします。阿弥陀信仰は、仏や菩薩を信じれば死後(来世)に仏たちのいる浄土に生まれ代わることができると信じるものです。これは死者供養と、深く結びついています。
これにどう向き合うのかと云うことが、宗教者にも求められたはずです。多数の戦死者を出し、元軍の襲来に人々が恐怖を感じた年に、一遍は熊野で神託を受けて悟りを開いています。それは、熊野権現の本地仏である阿弥陀如来を信じて、「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽往生ができるという教えです。その先に国家安康もあるとします。阿弥陀信仰は、仏や菩薩を信じれば死後(来世)に仏たちのいる浄土に生まれ代わることができると信じるものです。これは死者供養と、深く結びついています。
熊野本宮の本地仏と同じように、八幡神の本地仏も阿弥陀如来でした。そのためか一遍は、頻繁に地方の有力八幡宮を訪れています。
弘安元年(1278) 大隅正八幡宮へ弘安9年(1286) 山城国の石清水八幡宮弘安10年(1287) 播磨国の松原八幡宮
大隅八幡宮(現鹿児島神宮)で受けた神の啓示による歌とされるのが次の歌で、のちの宗門で尊ばれるようになります。
「とことはに南無阿弥陀仏ととなふれば なもあみだぶにむまれこそすれ」(聖絵)
弘安九年冬の頃、八幡宮に参じ給う。大菩薩御託宣文に曰く「往昔出家して法蔵と名づく。名を報身に得て浄土に往す。今娑婆世界中に来たり、則ち念仏の人を護念するを為す」文。同御詠に云く、極楽に参らむと思う心にて、南無阿弥陀仏といふぞ身心因位の悲願、果後の方便、 悉く念仏の衆生の為ならずといふ事なし。然あれば、金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れを汲まむ類は、心を西上の教(へ)に懸けざらむや。
意訳変換しておくと
弘安九年(1286)冬の頃、山城の石清水八幡宮に参拝した。その時の大菩薩御託宣文には、次のように記されていた。「往昔に出家して法蔵と名なのる。報身を得て浄土に往していた。それが今、娑婆世界にやってきて、念仏を唱える人々を護念する」文。そこで一遍は、次のような歌を詠んだ。極楽に行こうとする心で、南無阿弥陀仏を唱える因位の悲願や果後の方便は、すべて念仏衆生のためである。金方刹の月を仰がむ人は、頭を南山の廟に傾け、石清水の流れに身を任せる人は、心を浄土・阿弥陀如来の教へに傾けるであろう。
ここからは、一遍が阿弥陀如来を本地仏とする八幡神に対して、「一体感」とも云うべき心情をもっていたことが分かります。
石清水八幡宮(一遍上人絵伝)
この後、一遍は播磨の松原八幡宮(姫路市白浜町)に詣でています。そこで「別願和讃」を作って、時宗の衆徒にあたえます。このことについて「一遍聖絵」には、次のように記されています。一遍の和讃
「この山(書写山)をいでヽなを国中を巡礼し給。松原とて八幡大菩薩の御垂迹の地のありけるにて、念仏の和讃を作て時衆にあたえたまひけり。身を観ずば水の泡 消えぬる後は人ぞなき
命を思へば月の影 出て入る息にぞ止まらぬ
人天善処の形は 惜しめども皆とどまらず
地獄鬼畜の苦しみは 厭へども又受けやすし
目の辺り言の葉は 聞く声ぞなき
香を嗅ぎ味舐めむる事 ただ暫くの程かし息のの操り絶えぬれば この身に残る効能なし過去遠々の昔より 今日今時に至る迄思(ふ)と思ふ事は皆 叶はねはこそ悲しけれ聖道・浄上の法門を 悟りと悟る人は皆生死の妄念尽きずして 輪廻の業とぞ成(り)にける善悪不二の道理には 叛き果てたる心にて邪正一如と思ひなす 冥の知見ぞ恥づかしき煩悩即ち菩提ぞと 言ひて罪をば作れども生死即ち湿槃とは 聞けども命を惜しむかな自性清浄法身は 如々常住の仏なり迷ひて悟りも無き故に 知(る)も知らぬも益ぞなき万行円備の報身は 理智冥合の仏なり境智二つもなき故に 心念口称に益そなき断悪修善の応身は 随縁治病の仏なり十悪五逆の罪人に 無縁出離の益ぞなき名号酬因の報身は 凡夫出離の仏なり十方衆生の願なれば 人も漏るヽ科ぞなき別願超世の名号は 他力不思議の力にて口に任せて唱ふれは 声に生死の罪消えぬ初めの一念より他に 最後の十念なけれども思(ひ)を重ねて始(め)とし 田賞ひ)の尽くるを終はりとす思(ひ)尺きなむその後に 始め・終はりはなけれども仏も衆生も一つにて 南無阿弥陀仏とを申すべき早く万事を投げ捨てヽ 一心に弥陀を頼みつつ南無阿弥陀仏と息絶ゆる これぞ思ひの限りなる此時極楽世界より 弥陀・観音・大勢至無数恒沙の大聖衆 行者の前に顕現し一時に御手を授けつヽ 来迎引接垂れ給ふ
(略)仏も衆生もひとつにて、南無阿弥陀仏とぞ申べき、はやく万事をなげすてヽ、一心に弥陀をたのみつヽ、南無阿弥陀仏といきたゆる、これぞ思のかざりなる」
ここからは、 一遍が時宗の教義として念仏を唱え、阿弥陀如来を信仰することを説いていたことが分かります。その和讃を考え出したのも八幡宮だったのです。
松原八幡神社(姫路市)
どうして、一遍は八幡神との「混淆」を考えるようになったのでしょうか?
当時の人達の最大の関心事は、元寇でした。元寇が三度あるのではないかという危機感が世の中にはありました。その危機感の中でクローズアップされたのが、八幡信仰です。そのような時代背景の中で、一遍は、八幡信仰も混淆しようとしたと研究者は考えています。
当時の人達の最大の関心事は、元寇でした。元寇が三度あるのではないかという危機感が世の中にはありました。その危機感の中でクローズアップされたのが、八幡信仰です。そのような時代背景の中で、一遍は、八幡信仰も混淆しようとしたと研究者は考えています。
一遍は元軍襲来の恐怖から逃れる手段として、あるいは元寇で戦死した非業の死者の霊(御霊)を供養する目的から、各地の八幡神に参詣したことが推測できます。その際には一遍や時宗聖たちは、詠唱念仏や踊り念仏を八幡神に対して奉納したはずです。そのため一遍の弟子に当たる一向上人も大隅八幡宮から神託を受けたり、宇佐八幡宮で初めて踊り念仏を催したことが『一向上人絵伝』には記されています。
八幡宮に奉納されていた民俗芸能を考察するうえで、 一遍と時宗聖がおよぼした影響を無視して論じることはできないと研究者は指摘します。同時にこの時期には、高野聖も本地仏をとおして、熊野信仰と八幡信仰を融合させながら、念仏を勧めていったことを押さえておきます。
以上をまとめておきます
①神仏混淆下では、熊野本宮や八幡神の本地仏は阿弥陀如来とされた。
②そのため一遍は、熊野本宮で阿弥陀仏から夢告を受け、お札の配布を開始する。
③また、一遍は、各地の八幡神社に参拝している。これも元寇以後の社会不安や戦死者慰霊を本地仏の阿弥陀如来に祈る意味があった。
④一遍にとって、阿弥陀如来を本地仏とする熊野神社や八幡神社に対しては「身内」的な感覚を持っていた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
テキストは「大森恵子 風流太鼓踊りのなかの勧進聖 踊り念仏の風流化と勧進聖153P」です。