瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:一遍と聖戒

岩屋寺の行を終えた後の一遍を、聖戒は「詞書」に次のように記しています。
一遍聖絵 詞書伊予出発

「舎宅田園を投げ捨て、恩愛眷属を離れて・」とあるので、父より受け継いだ別府の所領を捨て、一族と縁を切り、すべてを捨て「修行随身」の準備をしたようです。
そして、文永11年(1274)2月8日、「恩愛眷属を離れて」故郷伊予松山を旅立っていきます。
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それが、このシーンになるようです。
絵の構図を見ておきましょう。季節は冬2月です。茅葺き屋根の庇の縁から二人の老女が柱にとりすがっています。じっと悲しみに耐えているようにも見えます。庭先には、婦人と子どもが別離の涙で見送っています。
その視線の先には、黒染めの衣に袈裟をかけた一行が歩み去って行きます。それぞれの人物に注記が付いています。前から、 一遍、超一(妻と推測)・超二(娘と推測)、念仏房(子弟と推測)と振り返る聖戒(一遍の弟?)の5人です。その向こうには、伊予の海が潟湖となって入り組んできています。湿原(水田?)には、白鷺の群れが舞い降りています。
この絵を見ていると、疑問が湧いてきます。その疑問を挙げてみると・・
①見送る側に妻子がいて、見送られる側にも妻子がいる
②出発する家は、誰の家でどこにあったのか
③縁の上で見送る2人の老女と 一遍の関係は?
①については、一遍には二人の妻がいたようです。
その愛憎関係から逃れるために再度の出家をしたとも云われるので、そう理解しておきましょう。一緒に旅立っているのが後から妻になった方なのでしょうか。これも私にとっては謎です。

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 旅に妻子を同行することになったのは、「たっての希望をいれて」と云われます。妻超一房、10歳になった娘超二房、です。時衆では、尼には一房号または房号をつけるのがならわしだったようです。弟聖戒は越智郡桜井まで見送り、その後に内子の願成寺に入ります。

②については、これで一遍の旅立ちを描くシーンは、3度目です。
よく見ると、それぞれ旅立ちの起点となる家が違うように見えます。どういうことなのでしょうか。この家も海辺にあったようですが、周囲の状況がかつて登場した家とは違います。これが実家なのでしょうか。
③については、母なのでしょうか。
 一遍の母については、『一遍上人年譜略』に「母は大江氏」と伝えるだけです。大江氏は鎌倉幕府の有力な御家人で、もとは京都の学問の家系です。一遍の母と伝える女性は、大江季光の娘とも云われます。祖父通信が御家人として鎌倉幕府で重きを成していたときの婚姻関係なのかもしれません。しかし、その母は 一遍が10歳の時に亡くなっています。 一遍には、この時には父も母もいません。

  もうひとつ気になるのは、以前の「太宰府への旅立ち」「再出家」のシーンに比べて、去っているはずの 一遍一行に動きが感じられないのです。立ち止まって何かを待っているように、私には見えます。
  これから 一遍一行が向かうのは、桜井(今治)だったようです。そこへ向かうのなら舟が便利です。一遍は水軍として活躍した河野氏の一族の御曹司です。迎えの舟を待っているのかなとも想像しますが、それでは絵になりません。やはり、ここは去っていく姿なのでしょう。しかし、実際に松山から桜井への行程は、どんなルートをとったのでしょうか。海沿いルートか、舟便なのでしょうが、後者を私は考えています。

伊予桜井里での聖戒との別れを、詞書は次のように記します。

一遍聖絵 詞書聖戒別れ

聖戒が書いた詞書からは次のようなことが分かります
①松山から桜井里まで聖戒も5,6日同行した
②そこで 聖戒は「暇を申し侍りき」と、別れを告げた
③ 一遍は「臨終の時は、必ず巡り会うべし」と誓って、名号を書いて十念を授けた
つまり、このシーンは聖戒との別離シーンになります。

それでは絵師が、この場面をどう描いたのか見ていきましょう
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『聖絵』巻二第、桜井里での聖戒と別れのシーンです。
この場面を、絵師はふたつのシーンに分けて描いています。例の「忍法 同時異場面 分身の術」です。構図は、今までの別離シーンとよく似ています。右側に建物を描き、左側に出発する複数の人物が描かれます。二つの場面が対照的に感じるのは、先ほどの松山が冬で、白鷺の群れの彩りしかありませんでした。しかし、この聖戒との別離シーンは再び、満開の桜が描かれています。
  先ほどの詞書には、「聖戒5,6ケ日送り奉じる」と、ありましたので、桜井にやって来たのは2月中旬だったようです。しかし、別離と旅立ちは桜の季節になったようです。これも不可解です。どうして、2ヶ月近くも桜井里で待つ必要があったのでしょうか?
 考えられるのは、大坂までの船便を待っていたということでしょうか。
この頃の瀬戸内海航路は頻繁にいろいろな舟が行き来していました。熊野水軍は大三島神社との間に、准定期船的な航路も持っていて熊野詣の参拝者を運んでいたようです。讃岐塩飽の客船も博多方面との活発な動きを見せています。塩飽はターミナルのような役割を果たしていて、ここ行けば目的地への船便が見つけられたといいます。
 2月は北西風が強いために瀬戸内海航路は「運休シーズン」でもあったようです。そのため船便待ちのために、ここに留まったたのかもしれません。

もうひとつは、「聖絵」に描かれる一遍の遊行先は、その多くが律宗の活動拠点と重なるという指摘です。
桜井から一遍が向かおうとする四天王寺は、叡尊や忍性が別当に任ぜられた律宗の重要拠点でもありました。また、大隅正八幡宮、大三島神社、美作国一宮など各国一宮への参詣しています。これらは 弘安 7 年に出された諸国国分寺一宮興行令を承けて、叡尊ら西大寺系律宗が再興事業が進めていた寺社でもありました。
 そういう目で見ると、一遍と聖戒の舞台となった伊予国桜井(今治市)も、西大寺系律宗の拠点であった伊予国分寺があります。伊予国分寺と聖戒には、何らかのつながりがありそうです。聖戒はやがて、瀬戸内にお ける律宗の拠点や伊予念仏道場での活動を通して、同族の越智氏出身の凝然をよく知るようになります。そして、それが石清水八幡宮を経て、京都進出への道を開くことになります。そのスタート地点として桜井が舞台として選ばれたのかもしれません。聖戒による「聖絵」の成立は、
①蒙古襲来という社会状況下における「越智河野氏」の出自
②律宗を通した土御門家(宮廷)とのつながり
③一遍と聖戒の律僧的側面
に支えられていたと研究者は考えているようです。

 敢えて「桜」を聖戒が描かせたということも考えられます。
この絵図を書かせたのは聖戒です。何のために抱えたのかを考えるときに今まで見てきた場面から浮かび上がるのは、「聖戒=一遍第1の弟子、そして弟」を正当づける意味合いがあったことがうかがえます。聖なる場面は、「桜」で彩られていました。少女漫画の「花に囲まれたヒロイン」と、同じ記号のように私には思えてきます。聖戒が絵師に、敢えて桜を描かせた説も考えれます。
画面を改めて見ていきましょう
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右側のシーンは、茅葺屋根の古びた建物の中で、聖戒が一遍に別れを告げています。縁では白衣姿の僧が合掌します。これが詞書に描かれた二人のやりとりのシーンなのでしょう。
画面左は時間をおいて、翌朝のことかもしれません。満開の桜の下で一遍一行が左方向に歩きだしています。一方、聖戒は右方向に進みながら、名残を惜しむように振り返り、振り返り、遠ざかっていく一遍一行を見送っています。心と体が、引き離されるような状態かもしれません
「振り向くことで左方向が強調され一遍一行に視点が集中する。一遍と聖戒の間に描かれた小川は別れを表し、過去と未来、物語の展開の分岐点」

と研究者は指摘します。
一遍 伊予桜井 聖戒別離

満開の桜の根元に花びらが散っています。上空には花びらが舞っています。この場面も、桜が別れを象徴し、桜が大きく描かれています。桜井の別れの場面は、一遍と聖戒の物語の終結をあらわすようです。
  そして、 一遍一行は大坂の四天王寺に向かいます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
佐々木弘美 一遍聖絵』に描かれた桜

 岩屋寺 白山権現1
 
   どこの札所か分かるな?
と、若い頃にこの絵を見せられたときには、私には分かりませんでした。当時は四国遍路は一度は済ませていましたが、こんな霊場は見たことありませんでした。最初の霊場巡りは、朱印状を集めることが目的化していたこともあるのでしょうか、思い出せないのです。それもそのはずです。この光景は、普通に札所や遍路道を歩いていては見えてこない風景なのです。それは、行場(奥の院)の光景なのです
岩屋寺 上空写真

  ドローンから撮影した菅生岩屋(岩屋寺)の全貌になります。山中から突き出す三本の岩柱が確かに見えます。ロッククライマーの登攀意欲を刺激しそうな光景です。そう言えばロッククライマーと修験者は、指向が似ているのかもしれません。高く切り立つ峰を見ると登りたくて仕方なくなるようです。
  修験道にとって山は、天上や地下に想定された聖地に到るための入口=関門と考えられていたようです
天上や地下にある聖界と、自分たちが生活する俗界である里の間にあるのが「霊山」というイメージでしょうか。そして、神や仏は霊山の山上の空中や地下にいるということになります。そこに行くためには「入口=関門」を通過しなければなりません。異界への入口と考えられていたのは次のような所でした。
①大空に接し、時には雲によっておおわれる峰
②山頂近くの高い木、岩
③滝などは天界への道(水が流れない断崖絶壁も瀧)
④奈落の底まで通じるかと思われる火口、断崖、
⑤深く遠くつづく鍾乳洞などは地下の入口
山中のこのような場所は、聖域でも俗域でもない、どっちつかずの境界として、おそれられました。このような場所が行場であり、聖域への関門であり、異界への入口だったのです。そのために、そこに祠や像が作られます。そして、半ば人間界に属し、半ば動物の世界に属する境界的性格を持つ鬼、天狗などの怪物、妖怪などが、こうした場所にいるとされました。霊山は、こうしたどっちつかすの怪物が活躍しているおそろしい土地と考えら、人々が立ち入ることのない「不入山(いらず)」だったようです。
 そういう目で、この光景を見るとまさに霊山にふさわしいとこです。①や②がそろっています。そこによじ登り、天界への入口に近づくことが修行になります。ここにやって来た修験者たちは、これらの峰の頂上に置かれた祠を「捨身」し、命がけでめざしたのでしょう。

岩屋寺 白山権現拡大番号入り1

晩秋の空にそびえる三つの岩峰。デフォルメもありますが、こんな風に見えたのでしょう。
一番右が①白山権現を祀る岩峰です。その背後には横跛のように、②白雲がたなびきます。この雲は高野山(第二第四段)や熊野新宮・那智(第三第一段)などでてくるようです。研究者は
「一種の「瑞雲」で、この地が霊地・聖地であること示す指標の一つ」

と指摘します。
そそり立つとなりの岩峰の頂上にも、⑤小さな祠があります。朱塗りの柱と山裾の紅葉とマッチして彩りを添えます。その前に平伏する修験者がいます。
 樹木を見ると、強い風のためでしょうか、一方に変形しているようです。実際に見ないと書けない図柄です。詞書にあるように
「斗薮(煩悩をはらって修行に励むこと)の行者霊験を祈る」

にふさわしい聖地です。
 そこに頂上に向けて③はしごが掛けられています。急な梯子を上る修行は、命がけです。こうした荒行によって、山岳修行者は、飛ぶ鳥を祈り落とすほどの験力を得ると信じられていました。「やいば(すさまじい)の験者」の誕生です。今のアクションゲームで云うと、ダンジョンでボスキャラと戦うことによって、自分のエネルギーを増やして行くようなものかもしれません。
 はしごの下の④白装束の人たちは、伏し拝んでいるようにも見えます。荒行を行う人たちをスーパーマンとして崇めているようにも見えます
聖戒は、 一遍の菅生の岩屋参籠の目的が、「遁世の素意」を祈るところにあったと記します。
「遁世の素意」とは何でしょうか。それは、「衆生を利益せん」という「おもひ」(第一第四段)としておきましょう。そのためには自ら全国各地に足を運ばねばなりません。当然、強靱な体力と胆力が求められます。今で云う足腰と心のトレーニングが必要です。
 こうした修行を繰り返すことで、強靭な体力と「ひじり」としての霊性を得て、「やいばの験者」に己を高めようとしたとしておきましょう。前回にお話しした土佐の女人仙人や空海はその良き先例だったのかもしれません。一遍はこの二人に「結縁」することで「ひじり」としての神秘な霊性に磨きをかけ、遊行に耐え得る強靱な体力と生命力を得た研究者は考えているようです。
岩屋寺 白山権現はしご1

そうだとすれば、梯子を登っているのは 一遍と聖戒ということになります。
聖戒が登場するのは、修験者の修行には「付き人」が必要であったと前回お話しした通りです。詞書にも
「この時、聖戒ばかり随逐したてまつりて、閑伽(水)をくみて閑谷の月をになひ給へば、つま木をたづねて暮山(ぼざん)の雲をひろひなどして行化(ぎょうげ)をたすけたてまつる」

とあります。
もう一度、梯子を上る一遍と聖戒を見てみましょう。

岩屋寺と上黒岩岩陰遺跡 --- 巨石巡礼 |||

その姿や顔付きからすると、前が聖戒、後が一遍のようです。
国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」展に行ってきました。 - 仏像ファン的古寺巡礼

しかし、両者のキャリアの相違からすれば、熟練者の一遍が先になって先導するのが普通なのではと思えてきます。聖戒は一遍の息子とも弟とも甥とも云われています。そして一遍の太宰府再訪につき従い、その後の信州善光寺参籠にも従っています。その時の絵柄は、一遍の後にしたがう姿でした。しかし、ここではなぜか聖戒が先です。穿った見方をするなら、聖戒は師の一遍を語りながら、実はさりげなく自分の立場を視覚的に印象づけようとしていたのかもしれないと思えたりもします。
 研究者の中には、聖戒を「ことさら消極的、控え目」な人柄とする人もいるようですが、そうとばかりには私には思えない所もあります。この絵図の立ち位置は、自身を一遍の念仏思想の伝法、後継者として位置づけているようにも私には見えます。
岩屋寺 白山権現2

   一遍絵図に、異界への入口とされそうな行場が至る所にみえます。行場と行場を結ぶ「行道」があり、修験者たちが「辺路修行」をしていたことがうかがえます。室戸岬のような所では、海岸に烏帽子岩のような岩や洞窟があると、洞窟に寵って岩をぐるぐる回る行をします。その痕跡が海辺の霊場の奥の院には見られます。そのような回遊・周回的な行道がここにもあったようです。
 例えば、真ん中の峰の頂上の社の前には白装束の行者が、平伏して一心に祈っているような姿が見えます。その隣の頂きにも社があります。これにはそれぞれの神が祀られ、そこに毎日祈りを捧げる「千日行」的な行が行われていたと研究者は考えているようです。つまり、「一回お参りしたら、それでお終い」ではないのです。何日も参籠を繰り返す「行道」を行っていたのです。

岩屋寺 白山権現への鍵
白山権現行場への鍵

現在でも納経所に申し出てれば、せりわり禅定への扉の鍵を渡され、白山権現を祀る峰にはお参りすることができるようです。
岩屋寺 白山権現行場入口
 
門の右には「白山妙理大菩薩芹せり割行場」という看板がかかっています。この向こうが芹割です。
岩屋寺 白山権現芹割行場

   押しつぶされそうな狭い抜けて割りを抜けて行きます。まさに異界への入口の光景です。
「岩屋寺開山法華仙人が弘法大師に法力を見せんとして大岩石を割って通った跡」
とも伝えられているようです。

岩屋寺 白山権現鎖場1

   その先にはいくつかの鎖場が続き、最後に梯子がかけれています。
岩屋寺 白山権現行場はしご21

最後の階段は天空の異界に通じるはしごに見えました。
岩屋寺 白山権現社1

階段を登り切ると、白山大権現をお祀りする祠が見えてきます。
岩屋寺 白山権現上空から

一遍聖絵の社は、柱は朱塗りでしたが、今の社は白く輝いています。この白山権現の祠の前に 一遍も平伏し、称名念仏を唱え続けたのでしょう。ここが天界に一番近い入口ということになるのでしょうか。

 一遍のように、自己のために行を行う人たち以外に、他人のために行を行う修験者たちもいたようです。
神仏混淆の時代には、病気を治してほしいと願う者には、神様が薬師に権化して現れます。一つの決まつたかたちでは、民衆のあれこれの要求に応じきれませんので、庶民信仰の仏や神はどんどん変身権化します。豊作にしてほしいと願うと、神様は稲荷として現れ、お金が欲しいといえば恵比寿として現れます。そういう融通無碍なところが、民衆に好まれるようです。ある意味、仏も神も専業化が求められます。
 そういう中から「辺路修行」が生まれて、海のかなたに向かって礼拝すると、要求をなんでもかなえてくれるということになりました。ただし、神が代償に要求する方法は命がけの行なのです。
漁師が恵比寿様をまつるときは、海に入ってたいへんな潔斎をします。海に笹を二本立ててしめ縄を回して、海に入って何べんでも潮を浴びます。それを一週間なり21日間続けて、はじめて神様が願いごとを聞きとどけて、豊漁が実現するのです。
しかし、それは誰もができるわけではありません。そこで登場してくるのが「代理祈願」です。本人に代わって、霊山に行って行を行い願掛けを行うのです。つまり、自分のための修行と同時に、プロの宗教者(修験者)が、霊験のある霊場にはやってきて何十日にもわたる「代理祈願」を行うようになります。
 四国の霊場寺院の由来には、そういう行を専門に行う辺路修行者が行場に、お堂を開き、それがお寺に発展し、さらに里に下った由来をもつ札所がいくつもあります。岩屋寺と大宝寺の関係も奥の院と里寺(本寺)の関係のようです。辺路修行者が命がけで海岸の岩をめぐったり、断崖の峰を歩き、ときには自分の身を犠牲にしたりしたのは、そういう背景があったようです。
「遍路」のもとの言葉が、「辺路」だと研究者は考えるようになっています。
 四国でも紀伊・熊野同じように辺路修行が行われていました。そこに青年時代の空海がやってきて修行を行いました。そういう意味からすると、四国遍路は、弘法大師が歩いたところを歩くのだ、と単純には言えないのかもしれません。むしろ辺路という四国をめぐる古代宗教があって、その辺路を青年空海も歩いたと考えた方がよさそうな気がしてきます。
  一遍から段々離れて行ってしまいました。それだけ、この岩屋が魅力的な所なのだとしておきましょう。菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そこに、 一遍も身を投じたのです。
    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  参考文献 
長島尚道 一遍 読み解き事典 柏書房

一遍 画像
一遍
  弘長三年(1263)、父通広が亡くなり、その知らせが太宰府にいる一遍のもとへ届きます。ときに一遍は25歳でした。これを機に一遍は、師の聖達のもとを辞し、故郷の伊予へ戻ります。家を継いで家族を扶養しなければならなかったためだと云われます。この頃の一遍の生活を『一遍聖絵』は、次のように記します。

「或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ」

父がそうであったように、一遍もいわゆる半僧半俗、つまり姿は出家でありながら、妻帯して日常は家族とともに生活していたようです。この時に、子どもも生まれていたようです。
 一遍のもっとも正確な伝記でもある『一遍聖絵』の著者聖戒は、一遍が還俗していたころに伊予で生まれた実子だと考える研究者も多いようです。そうだとすると、一遍と聖戒は師弟にして親子になります。江戸時代初めに評判となった歌舞伎「苅萱道心と石童丸」は、 一遍と聖戒をモデルにしたものと評されていたと云います。しかし、教祖を偶像化しようとする教団の時宗史は、妻帯や聖戒実子説を認めません。
 一遍は、どうして再び出家したのか?
「一遍上人絵詞伝」の詞書には、次のように記されています。

親類の中に遺恨をさしはさむ事ありて殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、かたきの太刀をうばひとりて命はたすかりにけり。発心の始、此の事なりけるとや。

意訳変換しておくと
 親類の中に遺恨を持つ者が現れ、殺されそうになった。傷は受けながらも、その刀を奪い取り命は助かった。再発心はこの事件がきっかけとなったという。

遊行上人縁起絵1
    一遍上人絵詞伝
 「一遍上人絵詞伝」には、剃髪で法衣姿の一遍が、刀を抜いた人に追いかけられている絵が描かれます。

HPTIMAGE
       一遍上人絵詞伝(追われて逃げる僧服の一遍)
その絵の部分には、武装し抜刀した四人の武士に追われる一遍が、奪い取った刀を持って逃げているところが描かれています。一遍は僧形で袈裟衣を着ています。刀をとられた武士は一通のすぐうしろにあおむけにひっくり返っています。

親族から遺恨を受けるどんな「何かスキャンダルめいたものを感じます。
『一遍上人年評略』には建治元年(1275)のこととして、次のように記します。
師兄通真死。故師弟通政領家督  親類之中、有謀計而欲押領 其家督者、先欲害於師。師乍被疵、奪取敵刀遁死。敵謀計顕故自殺。於之師感貪欲可長、覚世幻化。故辞古郷´。
意訳変換しておくと
 一遍の兄の通真が亡くなり、弟の通政が家督を継ぐことになった。これに対して親類の中には謀議をはかって、その領地を押領しようとするものが現れた。そのためまず 一遍を亡き者にしようとして襲ってきた。一遍は手傷を負いながらも敵の刀を奪って逃げ切った。このことが知れると当事者は自決した。このことを体感した 一遍は、五欲の一つである貪欲の恐るべきことを感じ、人間の世の中が真実の世界でないことを悟って故郷を出る決意をした。
 
つまり家督争いの結果だと云うのです。これが教団側の「公式見解」となっているようです。しかし、これとは別の「世間の見方」は別にあるようです。
『一遍上人年譜略』の文永10年(1273)の条に、次のように記します。
「親類中有愛二妾者、或時昼寝、二妾髪毛作二小蛇・喰合。師見之、感二恩愛嫉妬可畏

  意訳変換しておくと
一遍には親類に愛する妾が二人いた。ある時に昼寝をしているふたりの妾の髪毛が小蛇となって喰いあっているのを見て、嫉妬の深さに恐れ入った。

これについて、教団や多くの研究者は「妄説」として取り合いません。しかし、さきほど紹介した芝居の「苅萱道心石童九」では、 一遍をめぐって二人の女性の髪の毛が蛇と化して喰い合う、すさまじい嫉妬が演じられるシーンで描かれます。実際には、一遍が親類縁者の妻との「不倫」への刃傷沙汰だったと諸伝記からは推測できます。
 一遍は、この事件に人間の業と宿命の深淵をのぞき見ておののき、そこから逃げるために再出家の道を選んだというのが後者の研究者の立場のようです。
 こうして一遍は文永8年(1271)32歳のころに、聖戒と共に伊予を逃げるようにでます。
「たゞしいま一度師匠に対面のこゝろざしあり」とありますから、た一遍がまず目指したのは、大宰府の師・聖逹のもとです。一遍が聖達を訪ねたのは、再び弟子として仕えるためではなく、聖達に再出家の決心を告げ、できれば今後の求道生活のヒントを与えてもらうためだったようです。そして、ここで聖達は定住する別所聖であり、一遍は遊行聖の生活を目指しすことになります。
そして「 一遍聖絵」には、次のように記されています。

「文永八年の春、ひじり( 一遍)善光寺に参請し給ふ」

 一遍が救いを求めたのは、信州の善光寺如来でした。当時の彼の中では、最も頼りになると思われた仏なのでしょう。
「恩愛を捨てゝ無為に入らむ」(『一遍聖絵』第一)と、善光寺に向けて旅立つことになります。この時に『一遍聖絵』の製作者である聖戒も出家しています。「聖戒」という名前は、聖達から与えられたようです。
『聖絵』巻一第二段、聖戒出家場面です。

一遍再出家

最初に全体の構成を見ておきましょう
①一番右手に入母屋のお堂があり、その背後に3つの白く塗られた石造物が目につきます。
②高台で見晴らしの良い場所に建つ板葺き白壁の建物がこのシーンの主舞台です
③高台からは広がる海が見え、雁が群れをなして飛び去っていきます
④ 一遍一行が海沿いに旅立って行きます。

②の高台の建物から見ていきましょう
DSC03137聖戒出家
 一遍聖絵 伊予国(聖戒の剃髪) 
建物の手前と奥では松林の中の山桜が咲いています。ここでも桜が登場し、季節が春であることを告げます。目の前には春の瀬戸内海が広がります。庵の中で出家する聖戒が剃髪を受けているようです。

DSC03139聖戒出家
        一遍聖絵 伊予国(拡大部分 聖戒の剃髪)
聖戒の後ろの僧は聖戒の頭髪を剃り、前にいる僧は朱色の水瓶を持っています。部屋の奥には掛軸が掛けられています。聖戒の顔は、真っ直ぐに前を向いて海を見つめています。出家の決意が見られます。この庵の中には、一遍の姿はないようです。もしかしたら剃髪しているのがそうなのでしょうか。
   『聖絵』は、聖戒が制作したとされます。
そうだとすれば『聖絵』に、自分の出家場面を描かせたとしても不思議ではありません。「聖戒出家」は、一遍の次に出家したのが自分(聖戒)であり、最初の弟子が自分自身であることの主張とも受け止められます。一遍出家の大宰府の場面と同じように、山桜が満開です。しかし、その樹の大きさは控えめのようです。聖戒が一遍の弟子であり息子であることを象徴していると研究者は考えているようです。
画面左では、出家した聖戒とともに一遍一行が歩み去って行きます。
DSC03140
一遍聖絵 伊予国(一遍出立) 
先頭の傘を差す一遍は海を見つめています。
  その上を雁の群れが左から右へと飛び去って行きます。
この絵で疑問に思うのは、聖戒以外に人物が描かれていることです。
しかもこれは尼僧だと云うのです。この後、善光寺から帰った後に、一遍は岩屋寺で禅定修行し、三年後の文永十年(1274)に熊野に参拝します。その時にも、尼僧と子供と従者念仏房の三人を連れています。
 詞書の著者の聖戒は、
「超一 (尼)、超二(女児)、念仏房、此の三人発心の奇特有りと雖も、繁を恐れて之を略す

と書くにとどめています。3人の女性の出家の因縁を書いておきたいと思ったようですが「繁を恐れて略す」です。善光寺参拝に同行した尼も、熊野の尼も同一人で、超一と研究者は考えているようです。

「親類の中に(  一遍に)遺恨を挿事有て、殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、敵の太刀を奪取て命は助(り)にけり」

とあった恋敵の「親類」の妻女が超一だというのです。しかも彼女は尼になっても一遍について、善光寺から熊野ヘまで同行しています。つまり、 一遍は妻と別れ、不倫相手の妻を出家させ同行させていたことになります。このころ 一遍は親鸞とおなじように「聖は半僧半俗で妻をもってよい」と考えていたことが分かります。さて絵図にもどりましょう。
 先ほど見た右側の剃髪場面から時間経過があります。
同一画面に異時間場面が同時に描かれるのが巻物の世界です。今のマンガのコマ割りに慣れているものにとっては、最初は違和感を感じます。しかし、巻物はページをめくるものではありません。巻物を開いていくものなので、そこに新しい場面が登場してくるのです。時間経過は右から左で、右に描かれていることは、常に「過去」のことになります。
DSC03141聖戒出家
        一遍聖絵 伊予国(一遍出立
一遍一行の向こうには春の瀬戸内海が茫洋と広がっています。
その砂浜に舟が舫われています。中世の湊とは、「港湾施設」というものは殆どなかったようです。このような遠浅の海岸や砂州背後の潟の浜辺が湊として利用されていたようです。満潮時に舟を砂浜に乗り上げ、干潮時にはそのまま「係留」されるという使用方法でした。

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 一遍聖絵 須磨臨終図(須磨沖を行く交易船)
  一遍も太宰府を目指すなら、どこかの湊から舟に乗ったはずです。かつての勢いはないとは云っても、河野家は伯父の下で松山に存続しています。海民たちに顔に聞く河野家の手はずで、便船は確保されていたのかもしれません。当事は、瀬戸内海の湊は交易船のネットワークで結ばれていました。
 一遍背後に描かれた一席の舟には、象徴的な意味もあると研究者は考えているようです。

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一遍聖絵 一遍臨終場面の三隻の船(須磨)
『聖絵』巻十二第三段の一遍臨終場面の三隻の船は、一遍が西方浄土に向かう三途の川の渡り船を示します。それは「遊行の終着点」を意味しています。この場面に描かれる一隻の船は、 一遍の遊行の出発点であることをシンボライズしたものでもあると研究者は考えているようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長島尚道  一遍 読み解き事典 柏書房



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