瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:一遍の大山祇神社参拝

  
大山祇神社 1
伊予三島社(大山祇神社)の海から参道 一遍上人絵伝
今回は一遍が参拝した当時の伊予三島神社(大山祇神社)の景観を見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。絵図を見る前に、史料で、鎌倉期の三島社の焼失と造営について押さえておくことにします。
研究者がまとめた以下の表を見ておきましょう。

中世の大山祇神社の焼失と再建表
大山祇神社の焼失と造営

大山祇神社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)に所蔵されている「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」には、次のように記されています。
A 建保五年(1217)の火災で「三嶋社屋」が焼失
B 貞応二年(1323)の火災で「御宝殿以下贄館 并神主殿政所、地頭殿政所、并神官荷宿等惣数四十余宇」が焼失
Aでは、当時は「三嶋社」とよばれていたこと、大山祇神社という社名は近代以後のものであることを押さえておきます。
Bには焼失した建物が列挙されています。その中に「地頭殿政所」があります。ここからは、南北朝の時期には、地頭の拠点として政治的な機能を持っていたことがうかがえます。ちなみに焼失した建物が再建されたかどうかは「臼杵本」は、何も触れていません。
  次に南北朝期にまとめられた「伊予三島縁起」を見ておきましょう。
この書は、天孫降臨から始めて推古朝における三島大明神の「雨降」、それ以降の社殿の造営、世上のできごとなどを年代順に記した縁起です。最終記事は、元亨二年(1322)の社殿焼亡の記事です。末尾には次のように記されています。

「自大宝元年至永和四年六百七十八年、於三嶋社壇一七日参籠之時菅大夫殿所持本書写畢」

A 宝暦四年(1754)の奥書を持つ「一島宮御鎮座本縁」は、神社伝来の古文書や記録に依拠しながら元禄四年(1691)までの社殿造営、神官任免、宝物管理などについて整理したものです。鎌倉時代の記事については、「臼杵本」や伝来の古文書を参照しながら書いた部分もありますが、典拠を示さない部分もあります。
「御鎮座本縁」は、建保・貞応の火災については「臼杵本」に基づいて記述されています。ここで注目したいのは、造営については次のような独自記事を記していることです。
A弘安三年(1280)の条
「建保・貞応の焼失以後に仮殿を建てていたが、この年分国中の造営米を以て社殿を造営すべしとする鎌倉殿の仰せがあった
正応元年(1288)の条
この年4月にそれまで仮殿であった宝殿、諸末社の造営が悉く調った、
正応元年といえば、まさに一遍が参詣した年に当たります。「御鎮座本縁」の記事が本当だとすると、一遍参詣の直前に社殿造営を終えていたことになります。しかし、5百年後の記事をそのまま信用するわけにはいきませんが。
研究者は、その他の造営についての同時代史料や信憑性の高い史料を、次のように挙げます。
A 建長七年(1255)4月22日付 修造雑事同時勘文。
これは陰陽師賀茂在盛が上津宮・下津宮・諸山社等の修造の日を「澤申」して三島社に伝えたものです。ここからは上記諸社が同年六月に上棟される予定になっていることが分かります。焼亡から30年が経過していますが、この頃本格的な再建が始まったことがうかがえます。
B 「帝王編年記」の永仁二年(1294)の記事で、7月30日の条。
「伊与国三嶋社造営日時定」、
C 十一月二十八日の条に「日時定也、伊与三島社御正外可被渡正殿」
詳しいことは分かりませんが、「御正然」を正殿に移すこと記されています。ここからは、造営がある程度進んでいることが推測できます。
D 正安四年(1302)2月28日付の三島社あて官宣旨。
同年四月に「当社十六王子御然」を新造の正殿に移すことを命じたものです。これについて解説を加えた「御鎮座本縁」は、浦戸大明神など一六の本社を本社境内の「長棟」に遷宮させたと解釈します。しかし、これは室町期に境内の一角に「長棟一(現十七神社)」を設けて、そこに諸山積社と十六王子社を併せ祀ったことを念頭に置いたものです、宣旨中にある「正殿」とは、しばしば宝殿、大宮などと表記される本殿にあたるものと研究者は考えています。この官宣旨からは、正安四年の時点で本殿が完成していたことが分かります。
ただ、この時点ですべての社殿の造営は、まだ完了してはいなかったようです。
応長二年(1312)3月に、国衙の目代・惣大判官代や三島社の大祝が連名で、一国平均役として造営段米を施行すべきことを国内の各荘郷に命じています。つまり、造営資金のための徴税を行っているのです。ということは、この時点では完成していなかったことになります。
 また正和五年(1316)8月には、清長という人物が三島社の鳥居造営のために「布反、銭百貫文」等を寄進しています。同時進行で、鳥居など周辺整備も進められていたようです。
以上を次のように整理して起きます
①鎌倉時代の三島社再建は、建長7年ころには始った。
②長い年月をかけながら正安4年には「正殿」が完成し
③応長二年以降に何年かして造営を終えたと
これらを一遍の参拝時期とすり合わせてみます。
①一遍が三島社に参詣した正応元年や「聖絵』が完成した正安元年は、ちょうど再建の途上にあった
②正安四年に「正殿」への十六王子の遷宮が行われているので「聖絵」の制作時というのは、本殿等主要な社殿は完成に近づき、付属の諸施設の造営に取り掛かる時期になる
このような点を押させた上で、一遍上人絵伝の伊予三島社の絵図を見ていくことにします。
まず、「三島社古絵図」で俯瞰的にレイアウトを押さえておきます。
三島社古絵図
三島社古絵図
①入江の奥まで海が入り込んできている。
②港の砂浜に鳥居が建ている。
③神域から流れ出した小川が、参道に並んで海に伸びている。
④鳥居から松林の中を真っ直ぐに参道が延びている
⑤神域の中に何本もの巨樹(神木)が描かれている
⑥背後に3つの山が描かれている。
上の三島社古絵図と比較しながら、今度は一遍上人絵伝を見ていくことにします。

大山祇神社1
伊予三島社(一遍上人絵伝) 海に面する参道と鳥居

この絵図を見るとまず気がつくのは、門前にまで海が迫り、上陸するとすぐ大きな鳥居があることです。船でやってきた参拝者は、船を砂浜に乗り、鳥居をくぐって参道を歩き始めることになります。これは現在の景観とはかけ離れているかのように思えます。現在の神社は海辺からはかなり離れているからです。今は港に上陸した人々は、門前町の街並みを500mほど進んでから神社の人口に達します。しかし、この門前町の一帯が、「新地」と呼ばれています。港からの門前町は近世の開発地なのです。地形復元すると、中世には参道の入口まで波が寄せていたようです。実際、室町期の古絵図でも参道入口の鳥居まで海が迫っている状況が描かれていることが確認できます。これらのことを考えれば、『聖絵』は当時の海と社地の関係を比較的正確に描いていると研究者は考えています。
次に川を見ておきましょう。
『聖絵』は、背後の山から流れだした小川が本殿の傍を通って参道沿いに、そのまま海にそそいでいる姿を描いています。この川の流れは古絵図も同じです。そして、いまも明治川(御手洗川)と呼ばれる小川が同じところを流れています。この川の流れについても「聖絵』は当時の景観をほぼ正確に描いていることが分かります。

大山祇神社2 巨樹

 境内景観で目をひくものに、参道終点の一本の巨木です。樹種は分かりません。枝を大きく張り、青々とした葉を茂らせています。大山祗神社境内の巨木といえば、参道の広場の奥にそびえる楠の巨本です。高さ16m、根回り約20mで、神木としてあがめられています。境内の各所には、ほかにもこの神木に準じるような巨木が数多く繁茂しています。この巨木の位置については、現在のものが小川の内側にあるのに対して、『聖絵』では外側になっているという「ずれ」はあります。しかし、『聖絵』が境内の数ある巨木のうちの一本を描いたと研究者は推測します。

次に本殿の背後に描かれた山の姿を見ておきましょう。

伊予三島神社

①そびえ立つ二つの岩山
②岩山の中腹には横雲
③手前には少し低い、樹木の茂った丸みを帯びた木の茂った山
しかし、実際にはこのような岩山や丸みを帯びた山はありません。描かれた山の姿は、実際の姿とはかなりちがいます。ここには絵師によってデフオルメが加えられていると研究者は指摘します。その絵師の意図については、研究者の意見は次のように分かれています。
A 黒田日出男氏の説

背後にそそり立つ岩山が、大通智勝仏が大明神となって現れた聖なる山。それは描かれているたなびく奇妙な雲によって裏付けられる。(瑞兆の雲がかかる山は霊山)

B 砂川博氏の説
一遍にとって最も重要な場所(聖なる場所)である天王寺や熊野の場面にはそのような雲は描かれていない。ここに描かれたたなびく雲を特別な雲と見るのは行き過ぎではないか

C 水野僚子氏の説
ここに描かれた屹立した岩山は現実には存在しない山で、それは神仏の宿る山として描かれている。岩山を聖なる山と見る見方は黒田氏と同じであるが、それが現実には存在しないものを描きこんだとする点で黒田氏と異なる。屹立した山と樹林におおわれた丸みのある山は、両方とも御神体として描かれた山の表現。
 ちなみに地元の人達は、奥の一番高い山を鷲ヶ頭山と呼んでいます。この山は古く神野山とも呼ばれたと伝えられます。これらの山は三島社背後の実在の山々を描いたもので、それを屹立した山としてデフォルメして描いたのは、その聖なる山としての性格を強調するためとしておきます。


次に、建物・回廊などを見ておきましょう。

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伊予三島神社の回廊と楼門の屋根は痛みが激しい(一遍上人絵伝)
研究者が注目するのは、破損が目立つ回廊や楼門の屋根です。どうして、絵師は荒れ呆てた状態で描いたのでしょうか。黒田氏は、『国史大辞典』(大山祗神社の項、是沢恭三氏執筆)を参考に、次のように述べています。
伊予一宮の破損状況については「国史大辞典』の「大山祗神社」の記述がある。それによれば、社殿は1217(建保五)年と1322(貞応元)年に焼亡した。1255(建長七)年、幕府は、宝殿以下諸末社を国中平均段米をもって造営すべきことを下知し、1288(正応元)年には悉く造営がなったとある。とすれば、ここに描かれている大三島社の有様は、造営前ないし途中の状況を示していることになる。

 これに対して、先にも述べた造営の時間的経過は以下の通りでした。
①建長七年(1255)頃に造営が始まり、
②正安四年(1303)には本殿が完成し、
③応長二年(1313)以降、何年かして造営を終えた

以上からはこの場面は、本殿や拝殿については完成が近付き、楼門や回廊についてはまだ改修の手が及んでいなかった時期の情報に基づいて絵師が描いたものと研究者は考えています。
 「大三島社」が荒廃した姿で描枯れている理由を、聖戒が氏神である「大三島社」の荒廃を描くことで、都の貴族に改修の必要性を訴えるためという説もあります。しかし、三島社など諸国一宮の造営は各国の国街の責任で行うのが当時の原則でした。現に三島社でも、荘郷ごとに造営段米が課されています。
三島社の場面で研究者が注目する三つ目のポイントは、社殿の構造です。

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伊予三島社の社殿(一遍上人絵伝)

『一遍上人絵伝』は、手前に、檜皮葺、切妻造で、横に細長い(梁間四間 × 桁行十一間、中央に向拝)拝殿を描き、その奥に檜皮葺、入母屋造の本殿が描かれています。このような社殿の全体的な印象は、応永34年(1427)の再建とされる現在の社殿のよく似ています。現在も横に細長い拝殿(梁間四間×桁行七間)と、その背後の本殿という組合せです。

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大山祇神社の社殿と拝殿
しかし、本殿の構造は、『聖絵』のものと、現在のものは大きく違っています。現在の本殿は、梁間三間、桁行三間で切妻構造の三間社流造です。(古絵図も同じ)。
このような本殿の構造の違いを、どう理解すればいいのでしょうか?
ひとつは、応永の再建時にそれまでとは異なった構造で再建したと考えられます。これについて『大三島町誌(大山祗神社編)』は、焼失した本殿の再建にあたっては特別な事由がない限り、焼失前の様式を踏襲するのが普通で、『聖絵』の入母屋造の本殿は、作者の思い違いであろうとしています。
また建築史家の藤井恵介氏は、神社の屋根の古典的な形式は切妻であって、それが後世に入母屋に改造されることはあるが、それが逆に創建時に入母屋であったものがのちに切妻造に変更されるとは例がないとします。三島社の本殿の場合も、古くは入母屋屋根を持ち、後世の建替えで流造となったとはまず考えられないとしています。
 以上から藤井氏は、『聖絵』の三島社について、建築群としては正しく認識されていたかもしれないが、本殿の屋根が入母屋造に描かれたことは正確ではないとします。とすると、自然景観や社殿の配置などについては比較的正確ですが、本殿の構造など細部になると正確ではなく、他の寺社に多くみられる類型的な描き方をしていると研究者は考えています。別の言い方をすると、絵師が三島社の全体像についてはかなり正確な情報を持っていても、必ずしも実際に見て実景を書いたわけではないことがうかがえます。これは一遍上人絵伝の全体についても云えるようです。一遍上人絵伝に書かれている山や建物をそのまま信じることには、無理があることを押さえておきます。
絵詞に三島社の全体像についての情報をもたらしたのは、一遍の縁者として同社をたびたび訪れたことがあったであろう聖戒が第1候補に挙げられます。以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の三島社の表現は、自然景観や社殿の配置については比較的正確に描いている
②一方、本殿の構造などの細部は、他の寺社に見られる類型的な描き方で描かれている
③また、回廊や楼門が著しく破損した状態で描かれているのは、 一遍の参詣や『聖絵』制作時期が、社殿造営の途中にあたっていたからである
④絵詞に三島社の全体像についての情報をもたらしたのは聖戒であった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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DSC03562宮島厳島神社の鳥居
安芸の宮島(一遍上人絵伝)

一遍は、正応元年(1288)12月、伊予三島社(現大山祗神社)に参詣します。前年の弘安十年(1287)春に天王寺を出発して播磨の教信寺、書写山円教寺、備中の軽部の里、備後の一宮、安芸の厳島神社を経て四国に渡った最後の遊行の途中でした。一遍は河野氏出身ですが、その河野氏が信仰していたのが三島社です。今回は、伊予三島社が一遍上人絵伝の詞書にどのように書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。まず、詞書の前半部を見ておきましょう。
① 正応元年(1288)、 一遍は安芸の厳島神社から伊予に渡り、菅生の岩屋への巡礼、繁多寺での三日間の参籠を経たのち、12月16日に三島社に参詣した。
② 三島の神の「垂跡の濫腸」を尋ねると、文武天皇の大宝3年3月23日に跡を垂れたという。それ以降、五百余年を過ぎ八十余代の天皇の御代を守ってきた。
③一遍の始祖越智無窮は、当社の氏人であり、幼いころから老境にいたるまで朝廷に仕えて武勇を事とし、我が家にあっては「九品の浄行」をつとめとした。その念仏往生の様子は往生伝に記されている。
④一遍の祖父通信は、神の精気をうけて三島社の氏人となった人物で、参詣のたびに神体を拝した。
⑤一遍は、「遁世修行」の道に出た身ではあるけれども、三島の神の垂跡の徳をあおぎ、読経念仏を捧げて島を去った。
これが詞書に書かれていることです。この中には、三島社の縁起を取り入れて記された部分があると研究者は指摘します。その部分を見ておきましょう。
まず②の、文武天皇の大宝三年二月二十三日に三島の神が垂迹したのが三島社の創始であるとする記述です。この記述は「伊予三島社縁起」に、次のように記されています。

「同(文武)三年癸卯初宮作在之、大山積明神卜申也、鳴」

これを取り入れたものです。研究者が注目するのは、その際に詞書がわざわざ「依一説」と注記を加えていることです。ここからは、次のような諸説があったことを作者は知っていたことがうかがえます。
①「臼杵本」の大宝元年開創説 「文武天皇御時大宝元年并大明神御社改」で、
②「予章記」(長福寺本)の大宝二年説

此時(大宝二年)奇瑞有テ三嶋大明神造営アリ、(中略)
大宝二年妊文武天皇御尋二付テ、当社ノ深秘ヲ奏達有ル間勅号ヲ被成、正一位大山積大明神卜額二被銘之」

このように三島神社の起源については諸説があった中で、詞書はわざわざ「依一説」と注記しているのです。これは作者の聖戒が、漫然と三島社の縁起を取り入れて記述したのではなく、異説のあることを知った上で、それらを検討したうえでこの説を取り上げたことを示していると研究者は考えています。そうだとすると詞書の構想を練る聖戒の傍らには、いろいろな異説を記したメモがあったのかもしれません。
 もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。   
大権現・大明神は、修験者(社僧)によって管理運営されていたことを示します。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。
話を元に戻します。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
③に記された一遍の先祖・越智益男についての伝承などもそうです。越智益男は、河野氏の家譜や系図では、河野氏の祖とされる伊予皇子の17代の孫とされる人物です。この人物についての詞書は次のように記します。
聖(一遍)の嚢祖越智益窮は、当社(三島社)の氏人なり。幼稚の年より、衰老の日にいたるまて朝廷につかえては三略の武勇を事とし、私門にかへりては九品の浄業(念仏阿弥陀信者)をつとめとす。鬚髪をそらされとも、法名をつき十成をうけき。ついに臨終正念にして往生をとけ、音楽そらに聞こえて尊卑にはにあつまる。かるかゆへに名を往生伝にあらはし、誉を子孫の家におよほす‥

意訳変換しておくと
一遍)の始祖・越智益窮は、三島社の氏人である。幼年時代から、年老いるまで朝廷につかえ武勇を誉れとした。また私的には九品の浄業(念仏阿弥陀信者)であり、剃髪はしなかったが、法名を持ち、十成を受けた。臨終正念して往生をとげた際には、天から迎えの仏たちがやって来て音楽が聞こえ、尊卑大勢に見送られた。そのため彼の名前は往生伝にも載せられている。今もその誉は子孫の家に及んでいる。

整理すると次の通りです。
①三島神社の氏子であったこと
②優れた武人であったこと
③同時に、九品の浄業を勤める熱心な念仏信者であったこと
④念仏信者として往生伝に名前が載っていること

④の往生伝とは「日本往生極楽記」のことで、10世紀後半に養滋保胤が著したものです。この中の越智益窮の項には詞書とよく似た、次のようなフレーズが出てきます。

「費髪を剃らずして早く十戒をうけて」(極楽記)
 → 「費髪をそらざれども、法名をつき十成をうけき一(詞書)、
「村里の人、音楽あるをききて」(一極楽記一) 
 → 音楽そらにきこえて尊卑にはにあつまる」(詞書)
ここからも聖戒が「日本往生極楽記」を、そばにおいて引用しながら詞書の執筆を進めていたことがうかがえます。
もうひとつは一遍の祖父通信に関する記述です。これも河野氏に伝えられた伝承が取り入れられています。
一遍 河野家系図

河野通信は、源平争乱時には平家の優勢な瀬戸内海にありながら、いちはやく早く源氏方に味方して兵を挙げ、源氏の西国支配に大きく貢献します。その戦功によって、伊予での支配体制を固めます。ところが承久の乱では、京方に味方して奥州に流されていまいます。そこで、祖父通信は無念の死を迎えます。
祖父の墓参りに奥州を訪ねたシーンが一遍聖絵の中にも載せられていることは以前にお話ししました。

祖父河野通信の墓
祖父・河野通信の墓参り 奥州江刺郡(一遍上人絵伝)
幼いころの一遍と、祖父通信との間にどのような交流があったのかは分かりません。一遍や聖戒の時代になると、一族の中の偉大な祖父として語られるようになっていたようです。それが一遍を遠く奥州江刺郡にまで墓参りに訪ねる原動力となっていたのでしょう。
 通信に関する記述は長いものではありませんが、興味深い内容があると研究者は指摘します。
例えば、「祖父通信は、神の精気をうけて、しかもその氏人となれり」などという記述です。これは「予章記」などの河野家伝承を受けたものです。その伝承について「予章記」は、次のように記します。

通信の父通清は、その母が三島大明神の化身である大蛇によって身ごもって誕生した。そのため通清は、「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、小シ賜テ
背溝無也」

「その躰は常人よりも大きく、身長八尺(240㎝)、顔と両脇には鱗のようなものがあった。

「予章記」の家伝では、母親が三島大明神に通じて誕生したのは通信の父通清となっています。ところが「聖絵」では通信自身に変更されています。これには2つの説が考えれます
①「聖絵」が通信と通清を混同した
②鎌倉期には『聖絵』の記すような家伝があって、それが戦国期になると「予章記」に見られるような形に変化していった
本当はどうであったのは分かりませんが、聖戒が河野氏に関する詳しい知識を持っていて、それを取り入れたことは間違いないことを押さえておきます。
このように詞書の前半部を見て分かることを整理して起きます。
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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