瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

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大山祇神社 1
伊予三島社(大山祇神社)の海から参道 一遍上人絵伝
今回は一遍が参拝した当時の伊予三島神社(大山祇神社)の景観を見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。絵図を見る前に、史料で、鎌倉期の三島社の焼失と造営について押さえておくことにします。
研究者がまとめた以下の表を見ておきましょう。

中世の大山祇神社の焼失と再建表
大山祇神社の焼失と造営

大山祇神社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)に所蔵されている「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」には、次のように記されています。
A 建保五年(1217)の火災で「三嶋社屋」が焼失
B 貞応二年(1323)の火災で「御宝殿以下贄館 并神主殿政所、地頭殿政所、并神官荷宿等惣数四十余宇」が焼失
Aでは、当時は「三嶋社」とよばれていたこと、大山祇神社という社名は近代以後のものであることを押さえておきます。
Bには焼失した建物が列挙されています。その中に「地頭殿政所」があります。ここからは、南北朝の時期には、地頭の拠点として政治的な機能を持っていたことがうかがえます。ちなみに焼失した建物が再建されたかどうかは「臼杵本」は、何も触れていません。
  次に南北朝期にまとめられた「伊予三島縁起」を見ておきましょう。
この書は、天孫降臨から始めて推古朝における三島大明神の「雨降」、それ以降の社殿の造営、世上のできごとなどを年代順に記した縁起です。最終記事は、元亨二年(1322)の社殿焼亡の記事です。末尾には次のように記されています。

「自大宝元年至永和四年六百七十八年、於三嶋社壇一七日参籠之時菅大夫殿所持本書写畢」

A 宝暦四年(1754)の奥書を持つ「一島宮御鎮座本縁」は、神社伝来の古文書や記録に依拠しながら元禄四年(1691)までの社殿造営、神官任免、宝物管理などについて整理したものです。鎌倉時代の記事については、「臼杵本」や伝来の古文書を参照しながら書いた部分もありますが、典拠を示さない部分もあります。
「御鎮座本縁」は、建保・貞応の火災については「臼杵本」に基づいて記述されています。ここで注目したいのは、造営については次のような独自記事を記していることです。
A弘安三年(1280)の条
「建保・貞応の焼失以後に仮殿を建てていたが、この年分国中の造営米を以て社殿を造営すべしとする鎌倉殿の仰せがあった
正応元年(1288)の条
この年4月にそれまで仮殿であった宝殿、諸末社の造営が悉く調った、
正応元年といえば、まさに一遍が参詣した年に当たります。「御鎮座本縁」の記事が本当だとすると、一遍参詣の直前に社殿造営を終えていたことになります。しかし、5百年後の記事をそのまま信用するわけにはいきませんが。
研究者は、その他の造営についての同時代史料や信憑性の高い史料を、次のように挙げます。
A 建長七年(1255)4月22日付 修造雑事同時勘文。
これは陰陽師賀茂在盛が上津宮・下津宮・諸山社等の修造の日を「澤申」して三島社に伝えたものです。ここからは上記諸社が同年六月に上棟される予定になっていることが分かります。焼亡から30年が経過していますが、この頃本格的な再建が始まったことがうかがえます。
B 「帝王編年記」の永仁二年(1294)の記事で、7月30日の条。
「伊与国三嶋社造営日時定」、
C 十一月二十八日の条に「日時定也、伊与三島社御正外可被渡正殿」
詳しいことは分かりませんが、「御正然」を正殿に移すこと記されています。ここからは、造営がある程度進んでいることが推測できます。
D 正安四年(1302)2月28日付の三島社あて官宣旨。
同年四月に「当社十六王子御然」を新造の正殿に移すことを命じたものです。これについて解説を加えた「御鎮座本縁」は、浦戸大明神など一六の本社を本社境内の「長棟」に遷宮させたと解釈します。しかし、これは室町期に境内の一角に「長棟一(現十七神社)」を設けて、そこに諸山積社と十六王子社を併せ祀ったことを念頭に置いたものです、宣旨中にある「正殿」とは、しばしば宝殿、大宮などと表記される本殿にあたるものと研究者は考えています。この官宣旨からは、正安四年の時点で本殿が完成していたことが分かります。
ただ、この時点ですべての社殿の造営は、まだ完了してはいなかったようです。
応長二年(1312)3月に、国衙の目代・惣大判官代や三島社の大祝が連名で、一国平均役として造営段米を施行すべきことを国内の各荘郷に命じています。つまり、造営資金のための徴税を行っているのです。ということは、この時点では完成していなかったことになります。
 また正和五年(1316)8月には、清長という人物が三島社の鳥居造営のために「布反、銭百貫文」等を寄進しています。同時進行で、鳥居など周辺整備も進められていたようです。
以上を次のように整理して起きます
①鎌倉時代の三島社再建は、建長7年ころには始った。
②長い年月をかけながら正安4年には「正殿」が完成し
③応長二年以降に何年かして造営を終えたと
これらを一遍の参拝時期とすり合わせてみます。
①一遍が三島社に参詣した正応元年や「聖絵』が完成した正安元年は、ちょうど再建の途上にあった
②正安四年に「正殿」への十六王子の遷宮が行われているので「聖絵」の制作時というのは、本殿等主要な社殿は完成に近づき、付属の諸施設の造営に取り掛かる時期になる
このような点を押させた上で、一遍上人絵伝の伊予三島社の絵図を見ていくことにします。
まず、「三島社古絵図」で俯瞰的にレイアウトを押さえておきます。
三島社古絵図
三島社古絵図
①入江の奥まで海が入り込んできている。
②港の砂浜に鳥居が建ている。
③神域から流れ出した小川が、参道に並んで海に伸びている。
④鳥居から松林の中を真っ直ぐに参道が延びている
⑤神域の中に何本もの巨樹(神木)が描かれている
⑥背後に3つの山が描かれている。
上の三島社古絵図と比較しながら、今度は一遍上人絵伝を見ていくことにします。

大山祇神社1
伊予三島社(一遍上人絵伝) 海に面する参道と鳥居

この絵図を見るとまず気がつくのは、門前にまで海が迫り、上陸するとすぐ大きな鳥居があることです。船でやってきた参拝者は、船を砂浜に乗り、鳥居をくぐって参道を歩き始めることになります。これは現在の景観とはかけ離れているかのように思えます。現在の神社は海辺からはかなり離れているからです。今は港に上陸した人々は、門前町の街並みを500mほど進んでから神社の人口に達します。しかし、この門前町の一帯が、「新地」と呼ばれています。港からの門前町は近世の開発地なのです。地形復元すると、中世には参道の入口まで波が寄せていたようです。実際、室町期の古絵図でも参道入口の鳥居まで海が迫っている状況が描かれていることが確認できます。これらのことを考えれば、『聖絵』は当時の海と社地の関係を比較的正確に描いていると研究者は考えています。
次に川を見ておきましょう。
『聖絵』は、背後の山から流れだした小川が本殿の傍を通って参道沿いに、そのまま海にそそいでいる姿を描いています。この川の流れは古絵図も同じです。そして、いまも明治川(御手洗川)と呼ばれる小川が同じところを流れています。この川の流れについても「聖絵』は当時の景観をほぼ正確に描いていることが分かります。

大山祇神社2 巨樹

 境内景観で目をひくものに、参道終点の一本の巨木です。樹種は分かりません。枝を大きく張り、青々とした葉を茂らせています。大山祗神社境内の巨木といえば、参道の広場の奥にそびえる楠の巨本です。高さ16m、根回り約20mで、神木としてあがめられています。境内の各所には、ほかにもこの神木に準じるような巨木が数多く繁茂しています。この巨木の位置については、現在のものが小川の内側にあるのに対して、『聖絵』では外側になっているという「ずれ」はあります。しかし、『聖絵』が境内の数ある巨木のうちの一本を描いたと研究者は推測します。

次に本殿の背後に描かれた山の姿を見ておきましょう。

伊予三島神社

①そびえ立つ二つの岩山
②岩山の中腹には横雲
③手前には少し低い、樹木の茂った丸みを帯びた木の茂った山
しかし、実際にはこのような岩山や丸みを帯びた山はありません。描かれた山の姿は、実際の姿とはかなりちがいます。ここには絵師によってデフオルメが加えられていると研究者は指摘します。その絵師の意図については、研究者の意見は次のように分かれています。
A 黒田日出男氏の説

背後にそそり立つ岩山が、大通智勝仏が大明神となって現れた聖なる山。それは描かれているたなびく奇妙な雲によって裏付けられる。(瑞兆の雲がかかる山は霊山)

B 砂川博氏の説
一遍にとって最も重要な場所(聖なる場所)である天王寺や熊野の場面にはそのような雲は描かれていない。ここに描かれたたなびく雲を特別な雲と見るのは行き過ぎではないか

C 水野僚子氏の説
ここに描かれた屹立した岩山は現実には存在しない山で、それは神仏の宿る山として描かれている。岩山を聖なる山と見る見方は黒田氏と同じであるが、それが現実には存在しないものを描きこんだとする点で黒田氏と異なる。屹立した山と樹林におおわれた丸みのある山は、両方とも御神体として描かれた山の表現。
 ちなみに地元の人達は、奥の一番高い山を鷲ヶ頭山と呼んでいます。この山は古く神野山とも呼ばれたと伝えられます。これらの山は三島社背後の実在の山々を描いたもので、それを屹立した山としてデフォルメして描いたのは、その聖なる山としての性格を強調するためとしておきます。


次に、建物・回廊などを見ておきましょう。

P1240650
伊予三島神社の回廊と楼門の屋根は痛みが激しい(一遍上人絵伝)
研究者が注目するのは、破損が目立つ回廊や楼門の屋根です。どうして、絵師は荒れ呆てた状態で描いたのでしょうか。黒田氏は、『国史大辞典』(大山祗神社の項、是沢恭三氏執筆)を参考に、次のように述べています。
伊予一宮の破損状況については「国史大辞典』の「大山祗神社」の記述がある。それによれば、社殿は1217(建保五)年と1322(貞応元)年に焼亡した。1255(建長七)年、幕府は、宝殿以下諸末社を国中平均段米をもって造営すべきことを下知し、1288(正応元)年には悉く造営がなったとある。とすれば、ここに描かれている大三島社の有様は、造営前ないし途中の状況を示していることになる。

 これに対して、先にも述べた造営の時間的経過は以下の通りでした。
①建長七年(1255)頃に造営が始まり、
②正安四年(1303)には本殿が完成し、
③応長二年(1313)以降、何年かして造営を終えた

以上からはこの場面は、本殿や拝殿については完成が近付き、楼門や回廊についてはまだ改修の手が及んでいなかった時期の情報に基づいて絵師が描いたものと研究者は考えています。
 「大三島社」が荒廃した姿で描枯れている理由を、聖戒が氏神である「大三島社」の荒廃を描くことで、都の貴族に改修の必要性を訴えるためという説もあります。しかし、三島社など諸国一宮の造営は各国の国街の責任で行うのが当時の原則でした。現に三島社でも、荘郷ごとに造営段米が課されています。
三島社の場面で研究者が注目する三つ目のポイントは、社殿の構造です。

P1240655
伊予三島社の社殿(一遍上人絵伝)

『一遍上人絵伝』は、手前に、檜皮葺、切妻造で、横に細長い(梁間四間 × 桁行十一間、中央に向拝)拝殿を描き、その奥に檜皮葺、入母屋造の本殿が描かれています。このような社殿の全体的な印象は、応永34年(1427)の再建とされる現在の社殿のよく似ています。現在も横に細長い拝殿(梁間四間×桁行七間)と、その背後の本殿という組合せです。

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大山祇神社の社殿と拝殿
しかし、本殿の構造は、『聖絵』のものと、現在のものは大きく違っています。現在の本殿は、梁間三間、桁行三間で切妻構造の三間社流造です。(古絵図も同じ)。
このような本殿の構造の違いを、どう理解すればいいのでしょうか?
ひとつは、応永の再建時にそれまでとは異なった構造で再建したと考えられます。これについて『大三島町誌(大山祗神社編)』は、焼失した本殿の再建にあたっては特別な事由がない限り、焼失前の様式を踏襲するのが普通で、『聖絵』の入母屋造の本殿は、作者の思い違いであろうとしています。
また建築史家の藤井恵介氏は、神社の屋根の古典的な形式は切妻であって、それが後世に入母屋に改造されることはあるが、それが逆に創建時に入母屋であったものがのちに切妻造に変更されるとは例がないとします。三島社の本殿の場合も、古くは入母屋屋根を持ち、後世の建替えで流造となったとはまず考えられないとしています。
 以上から藤井氏は、『聖絵』の三島社について、建築群としては正しく認識されていたかもしれないが、本殿の屋根が入母屋造に描かれたことは正確ではないとします。とすると、自然景観や社殿の配置などについては比較的正確ですが、本殿の構造など細部になると正確ではなく、他の寺社に多くみられる類型的な描き方をしていると研究者は考えています。別の言い方をすると、絵師が三島社の全体像についてはかなり正確な情報を持っていても、必ずしも実際に見て実景を書いたわけではないことがうかがえます。これは一遍上人絵伝の全体についても云えるようです。一遍上人絵伝に書かれている山や建物をそのまま信じることには、無理があることを押さえておきます。
絵詞に三島社の全体像についての情報をもたらしたのは、一遍の縁者として同社をたびたび訪れたことがあったであろう聖戒が第1候補に挙げられます。以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の三島社の表現は、自然景観や社殿の配置については比較的正確に描いている
②一方、本殿の構造などの細部は、他の寺社に見られる類型的な描き方で描かれている
③また、回廊や楼門が著しく破損した状態で描かれているのは、 一遍の参詣や『聖絵』制作時期が、社殿造営の途中にあたっていたからである
④絵詞に三島社の全体像についての情報をもたらしたのは聖戒であった
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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前回は、一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)の詞書の前半部は、先祖越智氏のことや祖父河野通信とのかかわりなどが書かれていることを見ました。今回は、その後半を見ていくことにします。テキスト「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。
大山祇神社 (伊予三島神社)
一遍上人絵伝 伊予三島社(現大山祇神社)
後半部を要約したものを見ておきましょう。
⑥一遍が大三島を去ったあと、正応二年正月24日に供僧長観の夢の中に大明神が現われて次のように述べた。
「昔、書写の上人(性空)が参詣して(不殺生のために)鹿の贄を止めさせた。今、一遍上人が参詣して桜会の日に大行道にたちて大念仏を申し上げる。この所で衆生を済度させようとするのである。これに合力しない輩は後悔するであろう」

⑦その月の27日には地頭(代)の平忠康も神のお告げを受けた。神の詞は大略同じで、ほかにも夢想を受けた者が多くいた。
⑧そこで、2月5日に聖(一遍)を「召請」申し上げたところ、聖は6日に再び三島社に参詣し、9日には桜会が行われた。その大行道の最中に聖は、大明神が出現された山を見上げて、何の必要があって一遍をお招きになったのかと思案したが、贄をとどめるためであると思いあたった。
⑨正月と11月の魚鳥の供えをとどめることなど、人々の夢想に示されたことが多くあった。それについて何も聞いていないのに聖の言葉は一つも違いがなかった。人々は次のように語った。

「昔永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。それ以来恒例の贄をとどめ、仏経供養を行ってきた。いままた霊夢のお告げがあって昔にかわらず感応の趣があらたかです。」

⑩そこで参詣した神官や国中の「頭人」等二七人が夢のお告げや聖の教えに従って制文を書き、連判を加えて記録した。

ここで有力者の夢の中にでてくる性空とは何者なのでしょうか? 
 
性空 書写山
性空
『ウィキペディア(Wikipedia)』には、次のように記します。
性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や肥前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列。
早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があった。
1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった。
性空について整理しておくと、次の通りです。
①はじめ比叡山に登って天台教学を学んだが、それにあきたらず、
②日向国霧島山や筑前日背振山に籠り、「山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者」で
③播磨国の書写山円教寺を開いた山林修験者

霧島にある 性空上人の像と墓: ジオパークくろちゃんのブログ
霧島の性空像 山林修行者の姿

詞書後半には「永観二年に叡山の堪延と性空上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。」とあり、性空が三島社に参詣したと書かれています。

しかし、「性空上人伝」や「一乗妙行悉地菩薩性空上人伝」などには、三島神社に立ち寄ったことは書かれていません。ただ、円教寺の縁起や「播磨国飾磨郡円教寺縁起等事」には、筑前国背振山で修行をした後に書写山に帰る途中で伊予国に立ち寄ったこと、書写山で二、三年を過ごした後、もう一度伊予国へ赴いたことが記されています。どちらが本当か分かりませんが、伊予国との縁が全くなかったわけではないようです。三島社の側では、著名な参詣人の一人として性空の名を記録にとどめています。
 このように詞書の後半は、人々の夢想を借りる形で、性空らによる贄の停止が語られます。これをうけて一遍が再び贄を停止するという話が、桜会などの祭礼とからめて語られています。

伊予三島社に性空が登場してくる話は、どのようにしてできあがったのでしょうか?。
またそれは何を意味しているのであろうか。
実は、詞書の性空の話も、三島社の縁起を取り込んで書かれたものであること研究者は指摘します。
 
 伊予三島神社の根本史料としては、三島社の末社にあたる臼杵三島神社(愛媛県内子町)の「臼杵本三島神社記録」(「臼杵本」と略記)が挙げられます。

内子町臼杵 三島神社 | 何処へ行くんだ! 土佐瑞山
臼杵三島神社(愛媛県内子町)

この冒頭に「伊予国臼杵谷」、「伊予国寒水山三島大明神御垂跡」とあることからもわかるように、もともとは臼杵三島神社の縁起として書き始められています。それが二条目以降は本社三島社の緑起・記録に替わります。内容は年代ごとに本家・領家・地頭・神主の変遷を簡略に記した記事が大部分です。そのほかにも、性空や能因の参詣、社殿の焼失や造営などについても記述しており、領主の変遷を中心にしながら三島社にかかわるできことをまとめた縁起・記録です。
 末尾には、「芋時正和五年□月廿八日三嶋殿御人之時以其御本写畢」と記されています。ここから正和五年(1316)に三島社の「御本」を写したものであることが分かります。内容的にも、正和五年の書写として矛盾はないことから、三島社に伝えられていた縁起・記録を鎌倉末期に写したものと研究者は判断します。もちろん縁起・記録なので問題はありますが、少なくとも鎌倉期の記述については、かなり信憑性が高いとされます。
  「臼杵本」には、性空のことが次のように記されています。
円融院御時永観二年岬二月廿二日、播摩国書写山性空上人詣□堪延阿闇梨講師不殺生戒経誦□七日内第三日有神感云、随喜々々、随云□殺可依之、供僧妙尊并社司等国方就披露申、被止生贄之供、引替仏経供養、桜会井二季御祭仏経供養自是始ル
意訳変換しておくと
  円融院の永観二年二月廿二日、播摩国の書写山性空上人と叡山の堪延上人が一緒に参詣して、七日間説教し、不殺生戒を授けられた。その時に、御宝殿が鳴動して『随喜、随云不殺』と唱える音があった。そこで参詣した社僧や神官や国中の「頭人」は相談して、恒例の贄を止めて、仏経供養を行うことにした。これが桜会や御祭仏経供養の始まりである。

  また、「三島社縁起」にも、次のように記されています。
永観二年二月廿一日、書写聖(性)空上人堪然大徳相共、毎日之生贄鹿一頭被申止、同和尚請講四巻経給剋、自天稲種雨下、取其種令耕作、至当代無断続、毎年二月九日、号桜会御神事、四月十一日祭魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

意訳変換しておくと
永観二年二月廿一日、書写山の聖(性)空上人と叡山の堪然大徳がともに当社にやってきて、生贄に鹿一頭を捧げているのを止めるように申し入れた。生け贄にかわって仏講を開き仏典四巻を読経した。すると天から稲の種子が降り、その種を植えて耕作するようになった。これを祝って毎年二月九日に行われる神事を桜会と呼んでいる。4月11日の魚鳥懸給、玉澄和尚奉請、致精誠御祈祷在之

二つを比べて、研究者は次のように考えています。
①表現に違いはあるが、内容はほぼ同じで、もともとは同じ内容の原伝承があること。
②それを異なった形でそれぞれ筆録したのが「臼杵本」や「縁起」であること。
③「聖絵」の詞書も同じようにその原伝承を取り入れつつ書かれたもの

ここで研究者が注目するのは、「臼杵本」と詞書の間にも同じ文言があることです。
それは「臼杵本」の「随喜々々、随云□殺」と、詞書の「随喜、随云不殺」です。ここにも聖戒が縁起や伝承を取り入れる際に、単に神社で耳にしたことを書くのではなく、「臼杵本」など典拠となるものとそばに置いて執筆を進めていたことがうかがえます。聖戒は、縁起だけを題材にして詞書をまとめ上げたのもなさそうです。
もうひとつ研究者が注目するのは、詞書に供僧長観、地頭(代)平忠康などの人物固有名詞が登場してくることです。この二人は何者なのでしょうか?
供僧長観の名は他の史料で確認することはできませんが、三島社の供僧の例としてはいくつかの記述があります。最も古い者は「臼杵本」の中に、永観二年(984)、性空の参詣のとき贄の停止を行った人物として出てくる供僧妙尊です。近世の「御鎮座本縁」は、妙尊は神主為澄の二男で、社辺に一寺を建てて、それがのちの東円坊となり、妙尊が供僧の初めである、と解説を加えています。この時代から三島神社では神仏混淆が始まったことがうかがえます。

 また「臼杵本」は、保延二年(1136)6月に「大宮」を造営したときの供僧が勝鑑で、「院主」と「検校」を兼帯したと記します。そして「御鎮座本縁」は、供僧妙尊と勝鑑が社の傍らに「神供寺」、大通智勝仏等をまつる「仏供寺」を建立し、それ以後上官社家の二男を供僧とするようになったと述べています。 これらを見ると10~12世紀ころの三島社では、神仏習合が進み、供僧が置かれたことがうかがえます。同時に近世三島社では、東円坊や神宮寺など神社に付属する堂舎の起源をこれに求めていたことが分かります。
 その後、一遍参詣の直前の弘安九年(1286)2月に、悲田院領伊予国井於、同船山、角村等での三島社神人の妨を停止させる旨の某御教書が三島庄の神官・供僧等あてに出されています。ここからは東寺の三島社神人たちが、周辺地域で紛争を起こしていたことが分かります。逆に見ると、この頃になると供僧は神官たちは社領の経営に関与して「俗人化」していたことになります。詞書に見える長観も、このような流れのなかに位置づけることができる人物ということになります。
次に、神の「示現」をうけたとされる地頭代平忠康についても見ておきましょう。
まず、地頭代平忠康はどこの地頭なのかということです。これは宣陽門院領三島庄だと研究者は判断します。「臼杵本」は建久二年(1191)に「宣陽門女院、後白河院乙姫宮」が三島庄の本家となったと記します。これは同年十月の長講堂目録のなかに三島庄が含まれていることによって裏付けられます。
 また年未詳ですが、鎌倉期の伊予の荘園の面積を列挙したと思われる伊予国内宮役夫工米未済注文には、「三嶋御領嶋々八十九町一反小」とあります。これが三島庄だと研究者は考えています。これらの島々はのちに三島七島などと呼ばれるようになります。三島社自体も、そのような荘園支配の対象となっていたことを押さえておきます。多くの有力寺社が神社と社領が一体となって荘園化し、皇室や権門によって領知されるという形態が三島社でも見られるのです。
三島庄の地頭について「臼杵本」は、次のように記します。
建久八年四月四日三嶋地頭始御補任 北条四郎嗣相模守御事也、御代官藤七盛房下着上下廿九人
ここには建久八年(1197)に北条義時(鎌倉幕府の第2代執権)が最初の地頭となり、代官藤七盛房がやってきたと記します。建久八年といえば、義時は25歳で、時政の子として幕府内での存在感を大きくしていたころです。この記述を、そのまま信じることはできません。
「臼杵本」には次のような記述もあります。

正治二年 地頭改大夫志人道殿息進士信平代官□云有慶下着。

3年後の正治二年(1200)に地頭が大夫志入道殿息進士信平に改められ、やはり地頭代がやってきたというのです。ここに登場する大夫志入道は、この頃『吾妻鏡』に、「大夫属入道」とか「大夫属入道善信」などと記される初代の門注所執事三善康信である可能性があると研究者は指摘します。三善康信については

 「京都の下級文人貴族・三善氏の生まれで、叔母が頼朝の乳母であった縁から、流人時代の頼朝に、頻繁に使者を送り京都の情勢を伝えていました。以仁王(もちひとおう)の敗走と源氏追討の命令が出ていることを頼朝に伝えたのも康信で、奥州に逃げるよう助言しています。鎌倉に下向してからは、頼朝のもと、京都でのキャリアを生かし、文書作成などの実務や寺社関係の職務に携わります。さらに訴訟機関の問注所が設置されると、初代の執事(長官)に就任し、鎌倉幕府の組織の整備に貢献しました。承久の乱が起こると、京都へ進撃することを提案した大江広元を後押しし、勝利に貢献しました。」


三善氏と三島社とのかかわりについては、「予章記」に次のように記します。

三嶋七嶋社務職等ハ全ク他ノ競望不可有事ナレトモ、京都ョリ善家ノ者ヲ進止セラルヽ事、誠無念ノ次第也、善三嶋卜云ハ飯尾末葉也、

意訳変換しておくと
  (伊予)三嶋七嶋社務職等は、領地関係に含まれないはずなのに、京都から三善家の者がやってきて管理することになった。誠に無念の次第である、善家の者と云うのは飯尾氏の末葉である、

ここからは、次のような情報が得られます。
①河野通信から三島社の社務職が没収されたこと
②京都より善家の者が派遣されて三島七島の社務職を握ったこと
③善家の者とは飯尾の末葉である
②について、「予章記」が成立した戦国になると三善氏と三島社の関係は、このように説明されていたのかもしれません。こうして見ると、三善康信の子・信平が地頭職を持っていて、その代官が現地にやってきていた可能性は高いと研究者は考えています。
以上から、平忠康が大三島とその周辺地域を荘域とする宣陽門院領三島庄の地頭代としてやってきていたと研究者は判断します。
 「臼杵本」によると、貞応二年壬午正月一日に火災が発生した際、宝殿以下の建物といっしょに「地頭殿政所」も類焼したと記します。ここからは、地頭が三島社の社殿の一角に政所を設けて、支配拠点としていたことがうかがえます。もう少し、突っ込んで云うと、三島社自体が地頭の支配拠点となっていたということです。このような例は、中世の寺社ではよくあることは以前に善通寺の例でお話ししました。
詞書後半の物語に出てくる「桜会」について見ておきましょう。
この神事の開始については、次のように説明されていました
A 「臼杵本」は、永観二年に性空と堪延が参詣して鹿の贄を止めさせた際に、それにかわって仏経供養としての桜会を始めた
B 「縁起」は、その時に天から稲の種子が降り、それを以て耕作したこと、毎年二月九日に祭礼が行われていた。
この桜会についてはかつては、「縁起」の記述を参考にして、京都紫野の今宮神社で行われる「やすらい祭り」と同じで、豊作を祈り、同時に疫病退散を析る神事であったとされてきました。 しかし、近年発見された文政十三年(1830)成立の今宮神社の社家記録には、次のように記されています。

四月桜会之御祭礼八日より十五日迄、寺社家参詣仕、神前江献新茶、御祈祷相勤、寺家ハ経陀羅尼読誦法楽仕候、同十五日より二十三日迄本地仏(大通智勝仏)開帳寺社家出合申候
意訳変換しておくと
  四月の桜会の御祭礼は八日より十五日迄、寺社家が参詣し、神前に新茶を奉納し、祈祷相勤、社僧は経陀羅尼を読誦し法楽を奉納する。同十五日より二十三日まで本地仏(大通智勝仏)の開帳に寺社両家が立ち会う。

ここには、日時は『聖絵』や「縁起」の記す2月9日から4月にかわっていますが、「寺社家」出仕の祭礼がおこなわれています。そこでは神前への献茶、法楽のための読経、本地仏大通智勝仏の開帳が行われていたことが分かります。
 あらゆるいのちを大切にする不殺生という願いが、性空と一遍を結ぶ糸として見えて来ます。性空と一遍とが霊的に通い合っている、深い関係を伝えたかったとしておきます。

大通智勝仏
伊予三島神社の本地仏大通智勝仏
以上からは、研究者は次のように判断します。
①供僧長観や地頭代平忠康は、実在の人物であり三島社や三島庄の歴史の中にきちんと位置付けられること。
②桜会も聖戒が実際に見聞した祭礼であったこと
③ 詞書後半は、三島社での聖戒の実際の体験と、縁起・記録類に残されていた性空の参詣伝承を結び付けて新しい物語を作ろうとしたもの
それでは聖戒は、わざわざ性空と一遍を結びつけるような物語を伊予三島社の場面に挿入したのでしょうか。
それは、聖戒が生前の一遍が性空に対して熱い思慕の念を持っていたことをよく知っていたからだと研究者は考えています。一遍の性空に対する思いは、性空が開いた書写山円教寺に前年に参詣したときの記事からうかがえます。それを詞書は次のように記します。

DSC03542書写山圓教寺
書写山圓教寺(一遍上人絵伝)

弘安十年(1287)の春に円教寺を訪れたとき、 一遍は本尊を拝見することを望んだが、寺僧は「久住練行の常住僧」のほかは例がないとしてこれを拒んだ。そこで一遍は、本尊の意向を仰ぎたいと四句の偶文と一首の歌を棒げた。すると本尊が受け入れたのであろうか、寺僧の許しが出て本尊を拝することができた。また一遍は、「上人の仏法修行の霊徳、ことはもおよひかたし、諸国遊行の思いて、たヽ当山巡礼にあり」と述べて一夜行法して、翌朝去って行った。

ここからは、書写山参詣に対する一遍の思いがひとかたならぬものであったことがうかがえます。人跡未踏の深山幽谷をめぐりながら修行を重ね、ついに書写山で悟りを開いた性空の生涯と自らの遊行の生涯を重ね合わせるところがあったのもしれません.
また兵庫観音堂での臨終の直前に、 一遍が所持の書籍等を自ら焼き捨てたことはよく知られています。
その前に持っていた経典の少々を渡したのも書写山の寺僧でした。ここにも性空と書写山に対する思いが込められていたのかもしれません。.
 このような一遍の想いをよく知っていた聖戒は、一遍が三島社参詣しただけでは終わらすことができなかったのでしょう。性空と伊予三島社との関係、具体的には桜会の起源を通じての性空と一遍の結びつきだったとしておきます。
以上を整理しておきます。
①一遍上人絵伝の伊予三島社(現大山祇神社)参拝場面の詞書後半には、性空が桜会を始めたことが記される
②性空は比叡山で修行した後に、九州の霧島などで山岳修行を行い、播州書写山を開いた。
③一遍は性空に対して、強い尊敬の念を抱いていた。
④それを知っていた聖戒は、性空が伊予三島社にやってきて鹿の生け贄を奉納することを止めさせたエピソードを挿入した。
⑤そこに登場する僧侶や地頭は、実在性の高い人物で、当時の三島社の置かれた状況が見えてくる。⑥例えば、地頭としてやってきた平忠康は、三島社の境内に地頭舘を置いた。
⑦ここからは三島社自体が荘園支配の対象となっていて、皇室や権門によって領知されていたことことが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
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DSC03562宮島厳島神社の鳥居
安芸の宮島(一遍上人絵伝)

一遍は、正応元年(1288)12月、伊予三島社(現大山祗神社)に参詣します。前年の弘安十年(1287)春に天王寺を出発して播磨の教信寺、書写山円教寺、備中の軽部の里、備後の一宮、安芸の厳島神社を経て四国に渡った最後の遊行の途中でした。一遍は河野氏出身ですが、その河野氏が信仰していたのが三島社です。今回は、伊予三島社が一遍上人絵伝の詞書にどのように書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。まず、詞書の前半部を見ておきましょう。
① 正応元年(1288)、 一遍は安芸の厳島神社から伊予に渡り、菅生の岩屋への巡礼、繁多寺での三日間の参籠を経たのち、12月16日に三島社に参詣した。
② 三島の神の「垂跡の濫腸」を尋ねると、文武天皇の大宝3年3月23日に跡を垂れたという。それ以降、五百余年を過ぎ八十余代の天皇の御代を守ってきた。
③一遍の始祖越智無窮は、当社の氏人であり、幼いころから老境にいたるまで朝廷に仕えて武勇を事とし、我が家にあっては「九品の浄行」をつとめとした。その念仏往生の様子は往生伝に記されている。
④一遍の祖父通信は、神の精気をうけて三島社の氏人となった人物で、参詣のたびに神体を拝した。
⑤一遍は、「遁世修行」の道に出た身ではあるけれども、三島の神の垂跡の徳をあおぎ、読経念仏を捧げて島を去った。
これが詞書に書かれていることです。この中には、三島社の縁起を取り入れて記された部分があると研究者は指摘します。その部分を見ておきましょう。
まず②の、文武天皇の大宝三年二月二十三日に三島の神が垂迹したのが三島社の創始であるとする記述です。この記述は「伊予三島社縁起」に、次のように記されています。

「同(文武)三年癸卯初宮作在之、大山積明神卜申也、鳴」

これを取り入れたものです。研究者が注目するのは、その際に詞書がわざわざ「依一説」と注記を加えていることです。ここからは、次のような諸説があったことを作者は知っていたことがうかがえます。
①「臼杵本」の大宝元年開創説 「文武天皇御時大宝元年并大明神御社改」で、
②「予章記」(長福寺本)の大宝二年説

此時(大宝二年)奇瑞有テ三嶋大明神造営アリ、(中略)
大宝二年妊文武天皇御尋二付テ、当社ノ深秘ヲ奏達有ル間勅号ヲ被成、正一位大山積大明神卜額二被銘之」

このように三島神社の起源については諸説があった中で、詞書はわざわざ「依一説」と注記しているのです。これは作者の聖戒が、漫然と三島社の縁起を取り入れて記述したのではなく、異説のあることを知った上で、それらを検討したうえでこの説を取り上げたことを示していると研究者は考えています。そうだとすると詞書の構想を練る聖戒の傍らには、いろいろな異説を記したメモがあったのかもしれません。
 もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。   
大権現・大明神は、修験者(社僧)によって管理運営されていたことを示します。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。

泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
 
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。
話を元に戻します。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
③に記された一遍の先祖・越智益男についての伝承などもそうです。越智益男は、河野氏の家譜や系図では、河野氏の祖とされる伊予皇子の17代の孫とされる人物です。この人物についての詞書は次のように記します。
聖(一遍)の嚢祖越智益窮は、当社(三島社)の氏人なり。幼稚の年より、衰老の日にいたるまて朝廷につかえては三略の武勇を事とし、私門にかへりては九品の浄業(念仏阿弥陀信者)をつとめとす。鬚髪をそらされとも、法名をつき十成をうけき。ついに臨終正念にして往生をとけ、音楽そらに聞こえて尊卑にはにあつまる。かるかゆへに名を往生伝にあらはし、誉を子孫の家におよほす‥

意訳変換しておくと
一遍)の始祖・越智益窮は、三島社の氏人である。幼年時代から、年老いるまで朝廷につかえ武勇を誉れとした。また私的には九品の浄業(念仏阿弥陀信者)であり、剃髪はしなかったが、法名を持ち、十成を受けた。臨終正念して往生をとげた際には、天から迎えの仏たちがやって来て音楽が聞こえ、尊卑大勢に見送られた。そのため彼の名前は往生伝にも載せられている。今もその誉は子孫の家に及んでいる。

整理すると次の通りです。
①三島神社の氏子であったこと
②優れた武人であったこと
③同時に、九品の浄業を勤める熱心な念仏信者であったこと
④念仏信者として往生伝に名前が載っていること

④の往生伝とは「日本往生極楽記」のことで、10世紀後半に養滋保胤が著したものです。この中の越智益窮の項には詞書とよく似た、次のようなフレーズが出てきます。

「費髪を剃らずして早く十戒をうけて」(極楽記)
 → 「費髪をそらざれども、法名をつき十成をうけき一(詞書)、
「村里の人、音楽あるをききて」(一極楽記一) 
 → 音楽そらにきこえて尊卑にはにあつまる」(詞書)
ここからも聖戒が「日本往生極楽記」を、そばにおいて引用しながら詞書の執筆を進めていたことがうかがえます。
もうひとつは一遍の祖父通信に関する記述です。これも河野氏に伝えられた伝承が取り入れられています。
一遍 河野家系図

河野通信は、源平争乱時には平家の優勢な瀬戸内海にありながら、いちはやく早く源氏方に味方して兵を挙げ、源氏の西国支配に大きく貢献します。その戦功によって、伊予での支配体制を固めます。ところが承久の乱では、京方に味方して奥州に流されていまいます。そこで、祖父通信は無念の死を迎えます。
祖父の墓参りに奥州を訪ねたシーンが一遍聖絵の中にも載せられていることは以前にお話ししました。

祖父河野通信の墓
祖父・河野通信の墓参り 奥州江刺郡(一遍上人絵伝)
幼いころの一遍と、祖父通信との間にどのような交流があったのかは分かりません。一遍や聖戒の時代になると、一族の中の偉大な祖父として語られるようになっていたようです。それが一遍を遠く奥州江刺郡にまで墓参りに訪ねる原動力となっていたのでしょう。
 通信に関する記述は長いものではありませんが、興味深い内容があると研究者は指摘します。
例えば、「祖父通信は、神の精気をうけて、しかもその氏人となれり」などという記述です。これは「予章記」などの河野家伝承を受けたものです。その伝承について「予章記」は、次のように記します。

通信の父通清は、その母が三島大明神の化身である大蛇によって身ごもって誕生した。そのため通清は、「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、小シ賜テ
背溝無也」

「その躰は常人よりも大きく、身長八尺(240㎝)、顔と両脇には鱗のようなものがあった。

「予章記」の家伝では、母親が三島大明神に通じて誕生したのは通信の父通清となっています。ところが「聖絵」では通信自身に変更されています。これには2つの説が考えれます
①「聖絵」が通信と通清を混同した
②鎌倉期には『聖絵』の記すような家伝があって、それが戦国期になると「予章記」に見られるような形に変化していった
本当はどうであったのは分かりませんが、聖戒が河野氏に関する詳しい知識を持っていて、それを取り入れたことは間違いないことを押さえておきます。
このように詞書の前半部を見て分かることを整理して起きます。
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲  『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
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前回の最後に、備前福岡の市が、山陽道と吉井川の水上交通の交わる地点に立地していたこと。しかし、そこに架かる橋は現在の視点から見れば「粗末な板橋」だったことを見ました。今回は、福岡の市にならぶ「店」をめぐって見ようと思います。テキストは「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」です。

福岡1
一遍上人聖絵「福岡の市」
 この場面では、追いかけてきた①吉備津彦神社の宮司の子息(武人姿)が黒い僧服を着た一遍に、②切りつけようとするシーンが真ん中に描かれています。その周囲を驚いた人達が取り囲み、成り行きを見守っています。その周囲に、5つの黒屋根が建っています。よく見ると茅葺屋根2棟・板葺屋根3棟です。一遍のことは、以前に見ましたので、今回は、この小屋でどんな商いが行われているのかを、時計回りに順番に見ていくことにします。

福岡 一遍受難と反物屋
      福岡の市 一遍に斬りかかろうとする武士
市の中央では「一遍受難劇」が起きようとしているのですが、その背後では、いつもどおりの商いが行われ、誰も事件には目を向けようともしていないように見えます。
上部の反物屋と履き物の小屋を見てみましょう。
福岡 反物屋
福岡の市 反物屋
①言葉巧みに往来まで出て、色目づかいまでして商品を押し付けている売り子
②売り子から反物を買って、銭を払おうとしている男
③座り込んで、反物を手にとって値踏みしている女
④紐で通したサシと呼ぶ銭を数えている女店主
ここで目に付くのは、女性達の多さと元気さです。この店では、ほぼ全員が女性です。生き生きとした表情で、声が聞こえて来そうな気がします。市全体が賑わいで満ちていたことがうかがえます。
 並べられている反物をよく見ると、丸く巻いたものと、やや平たく巻いた2種類があります。これが丸巻反物と平巻反物で、現在に続くものです。また、着物は売ってはいません。反物を買って、それを自分で縫って着物にしていたようです。時代が下ると、これが呉服屋へと展開していくのでしょう。
 この場面で歴史教科書が必ず触れるのが、銭が使われていることです。
お寿司の一貫は? Part.2 | 雑学のソムリエ
当時の日本では通貨は発行されていませんでした。古代の律令時代に国作りの一環として古代貨幣が造られたことはあります。しかし、それが一般化することはなく姿を消し、そのままになっていました。流通経済が未熟で、貨幣が必要とされなかったのです。銭が流通するようになるのは日宋貿易が始まって以後です。それも宋の銅銭を「輸入」し、そのまま国内で使用します。商品経済が始まったばかりの経済規模は、それで十分だったのでしょう。面白いのは、いろいろな金額を刻印した宋銭が入ってきますが、日本ではどれもが全て一文銭として扱われていたようです。この場面でも、女主人は銭を鹿の革の銭指しに通しているようです。
ここで研究者が注目するのが、②の反物を女性から買っている男です。
足半ばきの男
「足半(あしなが)」履きの船頭?
この男は紐を通した銭と引き換えに、反物を受け取ろうとしています。彼の履物を見てください。よく見ると足全体をカバーせずに、前半分だけしか底がついていない草履です。これを「足半(あしなが)」と呼ぶようです。これは滑りにくく、河船頭達が履いていたようです。つまり、男は、吉井川を上下する高瀬舟の船頭と推測できます。さらに想像を膨らませると、この船頭は、次のような役割を担っていたことが考えられます。
①田舎の者に頼まれ反物を仕入れて持って帰ったり、
②田舎から市場へ反物を持ち込み、委託販売を依頼したり
③田舎の人達から依頼されたものを、市で仕入れて持ち帰る便利屋の役割
彼が買い込んだ上物反物が、女房へのプレゼントである確立は低いと研究者は考えているようです。
建物の左端⑤の人物の前には高下駄が置かれています。反物屋とは、別の履き物屋のように見えます。
福岡 下駄や

 その左側に座り込んだ男は、手に草履を持って、店の女と何やら話しています。この男が履くには似つかわしくないような草履です。この草履は、男が委託販売用に売りに来たと研究者は考えています。当時は、職人が大量に生産するような体制ではなく、家で夜なべに作ったわずかなものを店に並べる程度だったようです。ちなみに、この絵には60人余りの人物が登場しますが、ワラジ、高下駄、つっかけ、草履、そして裸足と履き物はさまざまです。
次の草葺小屋には、俵を積んだ米屋と、魚屋が見えます。
福岡 米屋・魚屋

①青い着物を着た女が魚屋の店先に座り込んでいます。前には空の擂鉢風のものを持参しているので、魚を注文しているようです。よく見ると手元には風呂敷包みのようなものを持っているので、すでに1つの買い物を済ませて、次に魚を買いに来たのかもしれません。その女性客が魚を料理している男を見ています。③男は右手に細い包丁を持って切り込んでいますが、女が何やら話しかけているようにも見えます。「そこのところをもう少し大きく切って頂戴な」とか「もうちょっとまけとき」とでも言っているのでしょうか。
 ②使われているまな板は脚付きの立派なものです。大きさは1m以上はありそうです。まな板の魚は、尻尾がベロッとせず、ピッと細く上下に伸びているので、川魚ではなく海魚だそうです。
⑤女の向こうには上半身裸の男が、吊した魚の重さでしなった棹を担いで出かけています。魚の行商でしょうか。④魚屋の奥の天井には、山鳥と同時に干しダコが吊り下げられています。これは倉敷市下津井の名産・大干しダコとそっくりです。この時代に、その原型はできていて、売られていたことが分かります。
⑥手前の米屋では、米俵が積まれて上半身裸の男が枡を持って米を量り売りしているようです。

福岡 米屋
 福岡の市 米屋
当時の一升枡なのでしょうか。現代の一升枡と比べると、高さ寸法が低いように思えます。これが豊臣秀吉によって、枡制が変更される以前の一升枡の大きさだと研究者は指摘します。秀吉は天下統一後に「升制度量衡改定」で、1升枡の容積を大きくします。これは、入ってくる米の取り分を増やす「増税」になります。
 また、⑧米俵が積まれているので、当時は戦前までと同じで俵詰で流通していたことが分かります。客が持ってきた米袋に枡で量り売りしています。その左側では、口をゆがめた男が順番を待っているようです。
 福岡の市のシーンには、馬の背に俵を載せて運ぶ姿が、2ヶ所で描かれています。これも戦前までは、各地で見られた光景だったようです。今では、紙袋に変わってしまいました。
中段右の板葺小屋を見ておきましょう。

福岡 居酒屋
福岡の市 居酒屋?

 ①足が不自由で歩けないために地車に乗った男が物乞いをしています。②それに応対する店屋の主人らしき男がいます。物乞いする人間がやってきているので、食べ物屋でしょうか。店屋の主人は血色も良く満ち足りてふくよかに、しかも綿入れのような温かそうな着物を着けて手は袖の中に入れて描かれています。物乞いをする男は、素足で上半身裸のように見えます。この対比は、冷酷なほどリアルです。救われなければならない人たちを生んだ社会に、敢えて目を向けさせようとしているようにも思えてきます。
 ここには、③流しの琵琶奏者もいて、昭和の居酒屋と流しのギターの関係と同じです。小屋の中には、④女性が何人かたむろしています。客なのでしょうか、店の人なのでしょうか・・よくわかりません。小屋の右端には、⑤大甕が3個並べられています。ここにはお酒が入っているようです。客に提供する居酒屋としたら、つまみ的なものもあったはずです。そういう目で見ると、四角っぽいやや厚みのある短冊状のものがかすかに見えます。冬の食べ物で想像すると、吉備では切り餅や凍り餅が候補に挙がるようです。
 小屋の左手隅には、⑥面のようなものをぶら下げて売っている男が描かれています。街道をいく旅人のお土産なのでしょうか? よく分かりません。

  最後に広場の下側にある2つの小屋を見ておきましょう。
福岡 大壺・高瀬舟
大壺と高瀬舟

右側の板葺小屋には壁がありません。その下には、大きな壺がいくつも転がっています。先ほどの「居酒屋」も壺のように立てて並べてなくて、まさに転がっているという感じです。これを大壺が商品として売られていると、研究者は考えています。この辺りで、大壺と言えば備前焼です。この壺が登場することで、醤油や漬け物などの食文化が拡大していきます。生活にはなくてはならない必需品です。

小屋の下の「川港」には、高瀬舟が到着して、船頭が何かを抱えて下船しています。
そういえば、魚屋の魚は海の魚でした。河口から高瀬舟で運ばれてきたのかもしれません。また、反物屋で女から反物を買っていた船頭の船が、ここに舫われているのかも知れません。どちらにして、福岡の市が山陽道と吉井川水運の交叉点に開けた定期市であったことが、ここからは見えてきます。

その左手の茅葺小屋は壁があって、何を商っているのかよく分かりません。
しかし、左端に一部、商品らしきものが見えます。 福岡の市では、刀剣類は売られていないとされてきました。刀剣は店先に並べて売るようなものではなく、注文生産だと思われていたからです。しかし、研究者が注目するのは、下段左端の小屋左端の店先に置かれている棒状のものです。これだけでは刀剣だとは云えません。

P1250367
福岡の市 武士が一遍に帰依して剃髪する場面

 裏付け史料になるのが剃髪場面です。ここに描かれている短刀には折り紙のようなものが一緒に添えています。これと同じものが、先ほど見た店の台にも描かれていることを研究者は指摘します。確かに、鞘の色や描き方もまったく同じです。ここからは、刀も商品として市で売られていた可能性が出てきます。
 
 一遍が福岡の市を訪れた季節は、いつなのでしょうか。
落葉した梢、ススキと紅葉した秋草が残って、遠景に雪山を描いているので初冬のようです。しかし、登場人物を見ると上半身が裸の男達が何人もいました。当時の人達は薄着だったのでしょうか? よく分かりません。
 一遍受難事件の発生した時刻は、何時頃なのでしょうか?
 研究者が注目するのは、絵巻の左上の松などの樹木です。その上部の方がぼかされて表現されて、上部が薄く霞むように途切れていると指摘します。これは夕方黄昏時の「昏くらいとばり」が降るように迫ってきていることの表現のようです。一遍上人が危機迫るこの大事件に遭遇しながらも、逆に相手を折伏してし、剃髪が行われたのは夕方近い頃であるとしておきます。

最後に中世の市は、毎日開かれていたわけではありません。期日を決めての定期市だったと教科書には書かれています。それでは、市が立っていない時の様子はどんな様子だったのでしょうか?
それを最後に見ておきます。

備前福岡の市の後に、京を経てやってきた信濃国佐久郡の伴野の市の光景です
P1240533信濃佐久郡伴野の市
信濃国佐久郡の伴野の市
道をはさんだ両側に六棟の茅葺小屋が建っています。附近には家のありません。向こう側の小屋にはカラスが下りてきて餌をあさっています。犬たちの喧嘩に、乞食も目覚めたようです。
こちら側の小屋には一遍一行が座っています。ここで一夜を過ごしたようです。そして、背後には、癩病患者や乞食達の姿も見えます。
 「あら、西の空に五色の雲が・・・」という声で、時衆たちは両手を合わせて礼拝します。そして、瑞雲に歓喜したと詞書は記します。

P1240534

 この絵からは、市が建たない時は閑散としていたこと。そこは乞食たちの野宿するところでもあったこと。そんな場所を使いながら、一遍たちの廻国の旅は続けられていたことが分かります。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    「臼井洋輔「福岡の市」解析 文化財情報学研究 第7号」
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富士川の船橋2
富士川の船橋(一遍上人絵伝)
前回は富士川の船橋と渡船を見ました。それを次のように、まとめました
①東海道は鎌倉幕府の管理下で、川を渡るための設備が整えられていたこと
②川はこの世とあの世の境に横たわる境界(マージナル)とも意識されていたこと。
DSC03302三島社神池と朱橋
     三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
②については、当時の寺社の伽藍配置を見ると、本堂や拝殿の前に神池を配して、それを橋で渡るという趣向がとられていたところがあったことが分かります。それでは、中世の橋とは、どんなものだったのでしょうか。今回は、それを一遍上人絵伝で見ていくことにします。テキストは 藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)です。

犀川渡河風景
 信濃・犀川の渡河風景
ここには、信濃・善光寺参りの際の犀川の川越え場面が描かれています。
荷駄を担いで岸沿いにやって来た男が渡岸場所をもとめて立ち迷っているようです。その前には、乱杭が何本も打たれて、氾濫に備えているようです。こちら側に洪水から護るべき土地があるようです。手前側では、米俵を馬の背ではこぶ男がいます。迷った末に、ここから川の中に馬を飛び込ませています。米俵は濡れても大丈夫なのでしょうか?
 この絵からは、川には橋もないところがあったことが分かります。ある意味では、渡河は命懸けの行為だったともいえます。里人にとっては、このような危険を冒してまでして犀川を渡ることは少なかったはずです。命懸けで、渡河しなければならなかったのは旅人・商人・廻国修験者たちだったが多かったようです。しかし、一遍上人絵伝には、ほとんどの河には橋が描かれています。

  奥州の祖父墓参からの帰路に渡った常陸国の橋です。
DSC03286
常陸の橋
 雪景色が一遍の前途に拡がります。うねりながら流れる川の手前に、雪化粧された橋が架かっています。  この橋について『絵巻物による日本常民生活絵事』は、次のように記します。
 この絵図に見るような田舎道にもりっぱな欄干のついた橋が架かっているのは、街道筋のためであろうか。この橋は常陸(茨城県)にあった。(中略)
京都付近の橋のように堂々とした欄干も橋脚も持っていない。しかし、一応欄干はついており、橋板もしかれている。橋はわずかだが上部に反っている。これは他の大きな木橋にも共通している。橋そのものは、擬宝珠ももっておらず、また橋脚なども細く小さく街道沿いの橋としては貧弱といえるが、絵巻の中に出てくる地方の橋の中では、技術的に高いものといえる。
   ここでは京都付近の橋と比較して「街道沿いの橋としては貧弱」とします。それでは、京都付近の橋を見ておきましょう。一遍上人絵伝には、賀茂川にかかる四条大橋が描かれています。それを比較のために見ておきましょう。
 
四条大橋
四条大橋(一遍上人絵伝)
 橋の下には賀茂川が勢いよく流れています。橋の上は、霧が深く立ちこめ牛車を隠すほどです。車輪のとどろかせる音だけが聞こえてくるようです。その背後には、板屋や菜田が見えます。このあたりが上賀茂になるのでしょうか。
 橋の左(西)側に目を移すと霧が晴れて、京の街並みが見えています。見えて来たのが四条大通で、朱塗りの鳥居が祇園社の西大門になるようです。橋の下では、服を脱いで馬を洗っている男達がいます。賀茂川は、馬を洗うところでもあったようです。このような立派な橋は、京都にしかなかったようです。
 橋の構造を見ると確かに「堂々とした欄干と橋脚」「擬宝珠」を持ち「技術的に高く」、しかも美しい橋です。それでは、京都の橋のすべてが四条大橋のように立派だったのでしょうか。

堀川に架かっていた七条橋を見てみましょう。
P1250357
 京の堀川と橋
京の市屋道場(踊屋)の賑やかな踊り念仏の次に描かれるシーンです。 踊屋の周囲の賑わいの離れた所には、ここでも乞食達の小屋が建ち並んでいます。その向こうに流れるのが堀川です。上流から流されてきた木材筏が木場に着けられようとしています。

P1250358
 堀川に架かる七条橋
 ここで研究者が注目するのが堀川に架かる木橋です。この橋が七条橋になるようです。先ほど見た賀茂川の四条大橋に比べるとはるかに粗末です。京の橋すべてが四条大橋のようにきらびやかなものではなかったことを、ここでは押さえておきます。  
 同時に「粗末な橋」と低評価することも出来ないのではないかと研究者は、次のような点を指摘します。それは、大きな筏がこの下を通過していることです。そうすると、この筏が通過できる規模と大きさと橋脚の高さを持っていたことになります。ここには絵巻のマイナス・デフォルメがあると研究者は考えているようです。実際には堀川の川幅はもう少し広いので、橋も長かったはずだと言うのです。つまり、この橋は実際には、もう少し長く高い橋であったが絵図上では、短く低く書かれているということになります。一遍上人絵伝の橋を、そのままの姿として信じることはできないようです。書かれているよりも大型で長かった可能性があることを押さえておきます。
  四条大橋や宇治橋や瀬戸橋は、今で言えば瀬戸大橋やレインボーブリッジのようなものです。政治的な建築モニュメントの役割も果たしていました。これらの橋と常陸の橋を、同列に並べて比べるのは、視点が間違っていると研究者は指摘します。比較すべきは、当時の地方の主要街道や一般街道に、どんな橋が架かっていたかだとします。
  それでは、地方にかけられていた橋を見ていくことにします。
一遍が石清水八幡参拝後に逗留した淀の上野の里です。

P1240609上野の踊屋と卒塔婆238P
上野の街道と踊屋(一遍上人絵伝)

上野の里をうねうねと通る街道が描かれています。街道沿いの大きな柳の木の下に茶屋があり、その傍らには何本もの祖先供養のための高卒塔婆が立てられています。その向こうでは、踊屋が建てられ、時衆によって念仏踊りが踊られています。それを多くの人々が見守っています。上野の里での踊りも、祖先供養の一環として、里人に依頼されて踊られたという説は以前にお話ししました。
手前の街道を見ると、道行く人も多く、茶店や井戸などの施設も見えます。ここが主要な街道のであることがうかがえます。
 左手中央に、小さな川が流れています。そこに設けられているのが木橋です。
上野の板橋
上野の板橋
縦3枚×横2枚の板橋が、2つの橋脚の上に渡された「粗末」な橋に見えます。しかし、これを先ほど見た堀川の七条橋と比べて見るとどうでしょうか。構造的には同じです。そして、一遍上人絵伝の橋の絵には「マイナス・デフォルメ」がある、という指摘を加味してみると、この上野の橋は案外大きかったのではないかとも思えてきます。橋の上を、赤子を背負った菅笠の女房が橋を渡っています。人や馬は通過できたでしょうが、荷馬車は無理です。ここからは、地方の街道には、「投下資本」が少なくてすむので、こんな板橋が一般的だったことが推測できます。今度は奥州の主要道に架かる橋を見ていくことにします。
 
弘安3(1280)年、 一遍の祖父・河野通信(奥州江刺)の墓参りのシーンです。  
DSC03277江刺郡の祖父道信の墓参

墳墓の手前に白川関からの道が続いています。商人の往来が描かれ、詞書には次のように記されています。

魚人商客の路をともなふ、知音にあらざれども かたらひをまじえ・・」

ここからは、人々が数多く行き交う街道であったことがうかがえます。この街道は「奥大道」かその「脇往還」のようです。この街道の先に架かっている橋がこれです。

奥州江刺墓参の橋
奥州江刺の街道に架かる橋(一遍上人絵伝)
 これだけ見ると、寒村の小道の板橋のようにしか見えません。しかし、これが主要街道に架かる橋だったのです。市女笠の女が胸に赤ん坊抱いて渡ろうとしています。前を行く従者が檜唐櫃(ひかんびつ)を前後に振り分けて担いでいます。そして稲穂が見える田んぼの中に小川が流れ、そこに板橋が架かっています。ここでも川には何本もの杭が打ち込まれています。

「一遍上人絵伝』の中で有名な場面といえば、備前国福岡の市です。教科書の挿絵にも登場する場面です。最初にストーリーを確認しておきます。

備前国藤井の政所で、吉備津宮神主の子息の妻が一遍に帰依して出家します。それを知った子息は怒りに震えながら一遍を追いかけ、福岡の市で遭遇します。そして斬りかかろうとしますが、一遍の気迫に押され、彼自身も帰依して剃髪した

福岡の市の場面に出てくる橋を見ておきましょう。
福岡1
①騎馬で追いかけてくるのが吉備津宮神主の子息で、従者が歩行で従います。この道が山陽道。
②市の手前に一筋の川が流れています。これが吉井川で、木橋が架かっています。
ここからは福岡の市が東西に走る山陽道と、南北に流れる吉井川交わる地点に設けられた交通の要衝に立地していたことが分かります。絵には、吉井川に係留された2艘の川船が見えます。水上交通と市が深くつながっていたことを示す貴重な史料ともなっています。それでは山陽道にかけられた橋を改めて見ておきましょう。

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丸木の上に板橋が乗せられた構造で、橋脚もありません。山陽道の最重要商業拠点に架けられた橋にしてこれなのです。京都の四条大橋には比べようもありません。 こうしてみると、中世の地方の街道には「粗末」な橋しか架かっていなかったことが見えてきます。

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書写山(姫路)の参拝道の橋

その「粗末」な板橋こそが各地を結ぶ重要な役割を果たしていたことになります。
中世の人達にとって、四条大橋や瀬田橋は瀬戸大橋かベイブリッジのようなもので、滅多に見ることのない橋のモニュメントであり「観光名所」だったのかもしれません。そして、普通に橋と言えば板橋で、それが各地の主要街道に架かっていたことがうかがえます。そういう意味では、最初に見た常陸の橋は、地方では、堂々とした橋で特別な橋であったことになります。この事実を受け止めた上で、認識を次のように改める必要があるようです。
①絵巻の中の街道には、「粗末」で大した技術もなく、見栄えのしない橋しか出てこない。
②しかし、ほとんどの街道の川には橋が架けられていて、川をジャブジャブと渡る姿は少ない。
③技術や見栄え以上に、必要な所には粗末ながらも橋が架けられていたという事実に注目すべきである。
④「粗末な橋」が、一遍一行を始め人々の旅を支える重要な役割を果たしていた。

   最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  藤原良章 絵巻の中の橋 帝京大学山梨文化財研究所研究報告第8集(1997年)
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一遍上人絵伝には、川を渡るシーンがいくつか出てきます。今回はその中の富士川の様子を見ていくことにします。テキストは「 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」です。

富士川と富士
場面 鯵坂(あじさか)入道の富士川の渡しで入水往生
場所:東海道の富士川河畔
時節:弘安五年(1282)の夏
巻六を開いていくと、姿を現すのが富士山です。このような形で広大や原野の中に富士山が描かれたものとしては、はじめてのものになるようです。そして蛇行しながら流れる富士川が出てきます。この部分を拡大すると。

富士川の渡し
富士川の渡し(一遍上人絵伝巻6) 

この場面は、詞書には次のように記されています。

  武蔵国に鯵坂(あじ)入道という武士がいた。遁世して時衆に入ることを望んだが、一遍は許さなかった。そこで往生の用心をよくよく問いただそうとして、一遍一行を待ち受けた。その途中で、富士川にさしかかった時に、入道は入水を決意し、馬にくくりつけてあった縄を自分の腰に縛りつけた。そして、一方を下人に持たせて私は今から入水自殺する。せめて引接(念仏する人の臨終に阿弥陀仏が来迎し、極楽に導くこと)を頼む。と言い残すやいなや川に飛び込んだ。下人たちはあっけにとられ、為す術もなかった。急いで、縄を引き上げようとしたが、急流でそれも適わず引き上げたときには、すでに事切れて、めでたく往上の本懐を遂げた。

富士川の入水
鯵坂入道の詞書

武蔵国にあじさか(鰺坂)の人道と申もの、遁世して、時衆にいるべきまし申けれども、ゆるされなかりけれは、住生の用によくよく、たつねうけ給て、浦原にてまちたてまつらんとていてけるが、富士川のはたにたちより、馬にさしたる縄をときて腰につけて「なんちらつゐに引接の讃をい‐‐□べし ソ」とひければ、下人「こはいかなる事ぞ・・・」

富士川 船橋
鰺坂入道の入水と船橋
ここまでやってきて鯵坂入道は、突然に入水往生します。 
①船橋の上流で、富士川に沈み、合掌して横顔を見せているのが墨染姿の鯵坂入道
②その上流で、河畔に坐り、綱を握っている二人が供人。
③沈んだ鯵坂入道の腰には、綱が付けられ、供人の一人がしっかりと握っています。
 しばらくして供人が綱を引き上げると、鯵坂入道の姿は「合掌少しも乱れず」と詞書には記されています。鯵坂入道の極楽往生が暗示されています。
 富士川は急流で、細かい波紋が段々に描かれて、流れの速さを表現しています。そのためすぐには引き上げられなかったのでしょう。また、死体回収のために腰綱をつけたのでしょう。

 ここで研究者が注目するのは、その下流に架かっている橋です。

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富士川の船橋

普通の橋とは、様子がちがいます。
①画面左側に、二本の杭
②画面右側に、円筒形に編まれた竹籠に石を詰めた蛇籠が二つ
その間が二本の太い綱で結ばれています。その綱で舟を繋ぎ舟橋にしています。舟は5艘描かれています。実際は水量によって川幅は変化するので、増水で川幅が拡がったときには何十艘もつながれていたこともあるようです。
舟は上流に舳先(へさき)を向け、舟の向きと直交させるように大きな板を敷いて固定しています。その上に舟と同じ向きに狭い板が敷き並べられているようです。
よく見ると、綱は右側の蛇籠まで長くなっています。これは水害対策だと研究者は指摘します。
水嵩が増して流れが速くなると、固定されたままでは引きちぎられてしまします。それを防ぐために、大水の際には蛇籠に巻いた綱がほどけ、舟橋は吹流しのように川に流される状態になります。杭で綱が固定されているので、流れ去ることはありません。水が引けば、長い綱を何人かで引っ張って元に戻します。こんな船橋が中世の東海道には出現していたことを押さえておきます。
 舟橋より下流には渡舟が描かれています。
富士川の渡し

船頭が二人で、船の前後で流れに棹をさしています。乗舟客は三人で、いずれも折烏帽子を被っているので、一遍一行ではないようです。小ぶりな舟で、舳先は左岸に向いていて、その方向の岸に坐る男がいます。この男も渡舟従事者と研究者は推測します。
渡し船の両岸には二段に渡って民家が描かれています。

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上段の民家は屋根だけしか見えませんが、その下側は、建物内部もわかります。研究者が注目するのは、民家に人影が見えないことです。これは、どうしてなのでしょうか?。

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富士川河原の民家(拡大)
それはこの民家が、大水で川止めになった時の宿泊用や避難用の施設だからだと研究者は推測します。鎌倉幕府によって、東海道は整備されていきます。この民家は、その一環として整備された宿泊施設や舟番屋だったというのです。そうだとすれば、渡舟可能なときには、人がいないのもうなづけます。

どうして入水往生の場面に、ここが選ばれたのでしょうか
橋や舟は、こちらの岸から彼岸に渡されます。こちら側はこの世、彼岸はあの世になります。橋や舟を描くことで、鯵坂入道のあの世への往生、極楽往生を暗示していると研究者は推測します。

DSC03302三島社神池と朱橋
三島神社前の神池にかかる朱橋(一遍上人絵伝)
 上図の構図はまさに現世と彼岸の間を隔てる池や川です。そこにかけられた橋は浄土への道と言うことになるようです。

最後に、ここに書かれた富士山を見ておきましょう。

P1250338富士

裾野や富士川流域、周辺の山々が、霞の技法を使って描かれています。「古代中世の絵巻のなかで、もっとも雄大な富士山の風景」と研究者は評します。そして、こうした構図が採用されたことに、大きな意味があると指摘します。入水往生という視点に縛られずに、舟橋や渡舟に目を遣るとその時代の風俗がしっかりと描かれていることが分かります。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献「 倉田実 絵巻で見る 平安時代の暮らし」
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信州の善光寺から帰った後のことを一遍聖絵は、次のように伝えます。

同年秋のころ、予州窪寺といふところに青苔緑羅の幽地をうちはらひ、松門柴戸の閑室をかまへ、東壁にこの二河の本尊をかけ、交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す。四儀(行住坐臥)の勤行さはりなく、三とせの春秋をおくりむかへ給ふ。彼の時、己心領解(独自のさとり)の法門とて、七言の頌(漢詩)をつくりて、本尊のかたはらのかきにかけたまへり。

ここからは、次のようなことが分かります。
①信州善光寺から帰った一遍は、文永八年(1271)の秋、窪寺(松山市窪野町北谷)に庵を構えた。
②「閑室」の東壁に、信州善光寺で書き写した「二河白道図」を本尊としてかけた。
③人々と交わることなく、 一人でもつぱら念仏を称える修行を行った。 
④四儀(行住坐臥)の勤行を、3年間行った。
⑤「十一不二頌」を作り、これを本尊である「二河白道図」の横にかけた。
一遍 窪寺1

窪寺は現在の四国霊場浄瑠璃寺の直ぐ近くにあったようです。その寺は今はなく、そこには石碑だけが残っています。ここはいまは彼岸花が有名で秋のシーズンには多くの人が訪れています。岩屋寺からの歩き遍路が、彼岸花に埋まった遍路道の坂を落ちていく姿は絵になります。
 一遍の父通広は、浮穴郡拝志郷別府(現重信町)の別府荘に所領があり「別所殿」とも呼ばれていたと云います。その別府荘の重信川を挟んだ対岸に窪寺はあります。
③には「交衆をとゞめてひとり経行し、万事をなげすてゝ、もはら称名す」とありますが、世俗とのなにかしらのつながりを私は感じてしまいます。
⑤の「十一不二頌」とは何でしょうか?
 一遍独自の安心の境地を表す文字だったようです。同時に「二河白道図」を頌(褒め歌)でもあった次のような語句だったようです。
「十劫正覚衆生界」
十劫という遥か昔に、法蔵菩薩が正しいさとりを得て阿弥陀仏になったのは、すべての人々を救い、極楽浄上に往生させるという本願を成就したからである。
「一念往生弥陀国」
人々は一度「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生することができる。
「十一不二証無生」
十劫の昔に、法蔵菩薩がさとりを得て阿弥陀仏となったことと、今、人々が一度「南無阿弥陀仏」と称えて極楽浄土に往生することとは、時間を超越して同時であり、このことは生死を超えたさとりの世界を表している。
「国界平等坐大会」
一度の念仏によって、阿弥陀仏の極楽浄土とこの世は同じ(平等)になり、この世にあっても、人々は阿弥陀仏が教えを説く大会に坐ることができる。

こうして一遍は文永十年(1273)25歳のとき、「十一不二頌」に示される「己心領解(独自のさとり)の法門」に達します。そして、窪寺の閑室を後に、さらに石槌山系の奥深く分け入り、そこから岩屋寺(菅生の岩屋:愛媛県久万高原町)に向います。

一遍 窪寺2

一遍が称名念仏に専念した窪寺念仏堂跡には、次のような碑が建っています。
 身をすつる すつる心を すてつれば
 おもいなき世に すみそめの袖
                一遍
この句は、1280年(弘安3年)奥州の江刺の郡(岩手県北上市)に、一遍の祖父河野道信のお墓参りをしたときに詠んだといわれるものです。河野通信は、承久の乱(1221年)で破れ、奥州平泉に流されて亡くなっていました。その時の供来讃歌です。

なぜ 一遍は修行の場として「菅生の岩屋」を選んだのでしょうか?
それは、一遍が空海を崇敬していたからでしょう。そのために「弘法人師練行の古跡」である岩屋寺を選んだと私は考えています。  
「一遍聖絵」巻 2 の一遍が岩屋寺の前身である菅生の岩屋に参籠した時の詞書に次のように記します。

「其所に又一の堂舎あり、高野(弘法)大師御作の不動尊を安置したてまつる、すなはち(弘法)大師練行の古跡、瑜伽薫修の炉壇ならびに御作の影像すがたをかへずして此地になをのこれり」

ここから弘法大師の菅生の岩屋参籠の伝承は鎌倉時代後期までに成立していたことが分かります。

  しかし研究者が指摘するのは、弘法大師の伝承は 1 つの堂舎(不動堂)の由来に関わって付属的に述べあものにすぎないという天です。「一遍聖絵」には菅生の岩屋は「観音影現の霊地、仙人練行の古跡なり」とも記します。ここからは、この岩屋の聖地性は「観音霊場であり、仙人練行の古跡」で、弘法大師信仰によって語られるものではなかったというのです。ところが近世になると、承応 2 年(1653)の澄禅『四国遍路日記』に岩屋寺の逼割岩の由来が「昔大師此山ヲ開キ玉フ時仙人出テ、我ハ此山ノ主也、ソツジニハ難開ト云」と記されるように、聖地としての性格が弘法大師信仰に「接ぎ木」されてに変容していきます。

菅生の岩屋に入ったのは七月、聖戒の助けを得て、翌年早々まで約半年間ここで修行し、本尊不動のもとで正覚を得ることができたいいます。 『一遍聖絵』の「菅生の岩屋」の記述のうち、後半の「仙人練行の古跡」は岩屋寺の縁起になっています。
そこには菅生の岩屋と桜にまつわる縁起も記されています。
  この御堂に廂をさしそへたりけるほどに、炎上の事ありけるに、本堂はやけずして、後の廂ばかり焼けにけり。其の後、又、回禄あり。同舎ことごとく灰燼となるに、本尊ならびに三種宝物はともにとびいで給ひて、まへなる桜の木にのぼり給へり。又、次に炎上ありけるに、本尊は又とびいで給ひて、同木にまします。御堂は焼けにけり。三種宝物は灰燼の中にのこりて、やけたる物とも見えず。鐘・錫杖のひびき、昔にかはる事なかりけり。此の桜木は、本尊出現し給ひし時の朽木の、ふたたび生え出て枝さし花さける木なり。されば、仏法最初の伽藍、霊験希有の本尊なり。
意訳しておくと 
 この洞窟の御堂に廂(ひさし)を指して木造建物にしたところ何度も火災にあった。しかし、本堂は燃えず、廂は焼失してしまった。その後、修復したが、今度はことごとく灰燼となった。それでも、本尊や三種宝物は洞窟から飛び出して、前の桜の木に登って難を避けた。
 又、次に炎が上があった時も、本尊は桜の木にとびのいて難を避けたが御堂は焼けた。三種宝物は灰燼から出てきたが、焼けたようには見えなかった。鐘・錫杖の響きは、昔に変わることがなかった。この桜木は、本尊が現れたときに古木が枯れたものが、ふたたび生え出て枝を伸ばし花を咲かせるようになったものである。まさに、霊験あらたかな本尊といえよう。
 
ここからは、岩屋の神木は桜だということがうかがえます。
前回に時衆と桜の関係について触れ、浄土教の広まりと同じように、桜も広く親しみのあるものになっていくことを次のようにお話ししました。
①桜が『古今和歌集』の季語や枕詞に使われるようになり、西行は、臨終の際、桜の歌を詠んでいること。
②役行者を始祖にした修験道は、桜を神木とするようになること
③源信の『往生要集』に基づいた浄土教が絵画化され、生死の象徴としての桜が描かれるようになること
④社寺参詣曼荼羅を布教に用いて、高野聖が全国各地を遊行し、浄土教を庶民に伝えた。
 こうして、桜はあの世とこの世をつなぐ神仏の象徴になっていきます。この由来は、桜のシンボライズ化が岩屋寺にも浸透していたことをうかがわせます。
ここにやってきていた修行者達は、どんな人たちだったのでしょうか。
まず挙げられるのは、熊野や吉野のプロの修験者たちです。また、一遍のように空海を慕う高野山の念仏聖たちも多かったはずです。例えば西行も高野の念仏聖でいわゆる「高野聖(こうやのひじり)」です。彼は崇徳上皇の慰霊のために讃岐を訪れたと云われますが、その後は善通寺の五岳の我拝師山に庵を構えて、3年間の修行を行っています。そして、空海が「捨身」した行場に通っています。ここからは、当時の念仏聖たちも修験行を行っていたことが分かります。言い方を変えると念仏聖達は、阿弥陀信仰や浄土信仰を持つと同時に真言密教の実践者であり修験者だったのです。現在の私たちからすると、南無阿弥陀仏と修験者たちは、別物と分けて考えてしまいますが、それは非歴史的な見方のようです。それが当時の高野山の「流行」だったのです。高野山自体が浄土信仰の拠点となっていたようです。
 もう一度確認しておきたいのは、ここにやって来ているのはプロの修験者たちであるということです。
  いまのお遍路さんのように、勤行して、お札をおさめて、朱印をもらって、去っていくというスタイルではありません。行場で何日間も修行を行うのです。あるときには行場から行場へと渡りながら周囲の行場を「辺路」したりもしています。この修行はひとりではできません。それを支える付き人が必要なのです。空海も付き人を従えての修行だった研究者は考えているようです。一遍も聖戒の支援を受けながら行場に入って行きます。

 菅生の岩屋の右から見ていきましょう
岩屋寺 仙人堂

右側には洞窟の②仙人堂と①不動堂(本堂)が断崖を背景に描かれています。修験者は小さな不動明王を守護神として、肌身離さず持ち歩いていました。行場では不動さまを目に見えるところに安置して、荒行を行ったとも云われます。そのため行場から発展した霊場の本尊は不動明王というのが相場のようです。この行場も修験者たちによって開かれたのでしょう。不動堂の上に、投入堂のように岩にはめ込まれたように建っているのが仙人堂です。ここは仙人窟という大きな洞窟の外側にお堂が作られています。中国敦煌の莫高窟の岩窟寺院のような構造です。不動堂と仙人堂は、はしごで結ばれているようです。

 この仙人堂の由来を 一遍絵図は、次のように記します。

 「仙人は又土佐国の女人なり。観音の効験をあふぎて、この巌窟にこもり、五障の女身を厭離して一乗妙典を読誦しけるが、法華三昧成就して飛行自在の依身をえたり。或時は普賢・文殊来現し、或時は地蔵・弥勒影護し給しによりて、彼影現尊にしたがひて、をのをの其所の名をあらはせり。又、四十九院の岩屋あり、父母のために極楽を現じ給へる跡あり、三十三所の霊崛あり、斗藪の行者霊験をいのる砌なり。」

意訳しておくと
 仙人は土佐国の女人である。観音の効験あると聞いてこの巌窟に寵り、五障のある女身を捨てて、経典を読誦し修行に励み、法華三昧を成就して、自由に飛行することができるようになった。その仙人を普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っている。又、ここにはその他にも四十九院の岩屋あり、父母が極楽を現した跡が残っている。33ケ霊窟は修験者がの行場である。

ここからは次のようなことが分かります。
①法華経を読誦して、法華経の行が完成させ、飛行術を身につけた女人の仙人がいた。
②仙人をす普賢・文殊・地蔵・弥勒が守っているのが仙人堂であった
③四十九院は父母が極楽浄土へ渡ることを祈る阿弥陀信仰の霊場であった
④三十三霊場は修験者の行場であった
このように、岩壁全体が霊地としてひとつの世界を形成していたようです。

岩屋寺 金剛界岩壁
 
「一遍聖絵」の詞書には三十三ケ所の霊岨」について、「仙人利生の為に遺骨を止め給ふ」とあります。ここからは、仙人が自分の遺骨を人々が礼拝して功徳が得られるようにと願ったことがわかります。そこから少し上がったところに仙人入定窟という洞窟があります。
 これらの窟がある岩峰は金剛界とされていたようです。ここは岩壁で仙人窟以外にも阿弥陀窟や「四十九院の岩屋」「三十三所の霊嘱」と呼ばれる多くの窟が掘られ、当時は窟だらけの岩壁だったようで、よく見ていくと窟と窟をつなぐ道(はしご)があったと研究者は考えているようです。これを命がけで登っていって、三十三所にまつられている観音様と四十九院にまつられている兜率天を拝みながら山をめぐる修行(行道)が行われていたようです。

さて、それではこの絵図の景観は現在のどこに当たるのでしょうか?
 まず全体図を上空から見ておきましょう。

岩屋寺 菅生の岩屋上空図
岩屋寺の金剛界と不動堂
絵図の②不動堂は①金剛界と呼ばれる岩壁の一番下に建っています。現在の岩屋寺の伽藍もその周辺にあります。そして、この岩壁に多くの窟が開かれていたことになります。その左側の岩稜が胎蔵界とされていたようです。
岩屋寺 不動堂
岩屋寺の不動堂
  下から見上げるとこんな景観になります。長年の風雨で窟そのものが崩れたりしていて、明瞭なものは少なくなっていますが、多くの窟がならんでいたことは写真からもうかがえます。
不動堂は、いまでも岩壁の下に建っています。
一遍絵図と同じ場所です。上の方には、目玉のように開けられて窟が2つ見えます。私は、あれが仙人窟かとおもったのですが、そうではないようです。それではどこにあるのでしょう?
 不動堂の奥にはしごが見えます。これを登ってたところが仙人窟のようです。 一遍絵図は、デフォルメがあるようです。

岩屋寺 不動堂3

 現在の不動堂から仙人窟へ続くはしごです。このはしごは自由に登れますので仙人窟へ上がることは出来ます。
一遍絵図を拡大して、もういちど見てみましょう。

岩屋寺 不動堂2

不動堂の中には二人の僧侶がいます。その顔付きから、手前が一遍、その向こうが聖戒のようです。机上に経典らしきものが置かれています。詞書には 一遍が聖戒に「経教を亀鏡(ききょう)として真宗の口決(くけつ)をさづけた」とありますので、その場面のようです。絵師は、聖戒の書いた詞書の内容を踏まえた上で作画していることが分かります。不動堂と、仙人となった土佐の女人像を安置する仙人堂との間には、道はありません。仙人は空を飛べるから必要がないのでしょうか。そんなことはありません。長い梯子がかけられています。そこを上っている人がいます。前の人が振り返って後の人を気遣っているようです。これが聖戒で、後が一遍のようです。一つの画面の中に同じ人物が何度も登場します。「巻物忍法!異時同図の術」です。ちがう時間の出来事が同一場面に収められています。

  菅生岩屋は観音菩薩と仙人の霊山で、空海も修行に訪れたといわれる人気の霊山でした。そして、空海伝説が高野山から広がり出すと、修験者や念仏聖達もこの地を聖なる修行地として目指すようになったようです。そこに、 一遍も身を投じたのです。

    最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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