
一遍
弘長三年(1263)、父通広が亡くなり、その知らせが太宰府にいる一遍のもとへ届きます。ときに一遍は25歳でした。これを機に一遍は、師の聖達のもとを辞し、故郷の伊予へ戻ります。家を継いで家族を扶養しなければならなかったためだと云われます。この頃の一遍の生活を『一遍聖絵』は、次のように記します。「或は真門をひらきて勤行をいたし、或は俗塵にまじはりて恩愛をかへりみ」
父がそうであったように、一遍もいわゆる半僧半俗、つまり姿は出家でありながら、妻帯して日常は家族とともに生活していたようです。この時に、子どもも生まれていたようです。
一遍のもっとも正確な伝記でもある『一遍聖絵』の著者聖戒は、一遍が還俗していたころに伊予で生まれた実子だと考える研究者も多いようです。そうだとすると、一遍と聖戒は師弟にして親子になります。江戸時代初めに評判となった歌舞伎「苅萱道心と石童丸」は、 一遍と聖戒をモデルにしたものと評されていたと云います。しかし、教祖を偶像化しようとする教団の時宗史は、妻帯や聖戒実子説を認めません。
「一遍上人絵詞伝」の詞書には、次のように記されています。
親類の中に遺恨をさしはさむ事ありて殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、かたきの太刀をうばひとりて命はたすかりにけり。発心の始、此の事なりけるとや。
意訳変換しておくと
親類の中に遺恨を持つ者が現れ、殺されそうになった。傷は受けながらも、その刀を奪い取り命は助かった。再発心はこの事件がきっかけとなったという。
「一遍上人絵詞伝」には、剃髪で法衣姿の一遍が、刀を抜いた人に追いかけられている絵が描かれます。
一遍上人絵詞伝(追われて逃げる僧服の一遍)
一遍上人絵詞伝(追われて逃げる僧服の一遍)
その絵の部分には、武装し抜刀した四人の武士に追われる一遍が、奪い取った刀を持って逃げているところが描かれています。一遍は僧形で袈裟衣を着ています。刀をとられた武士は一通のすぐうしろにあおむけにひっくり返っています。
親族から遺恨を受けるどんな「何かスキャンダルめいたものを感じます。
『一遍上人年評略』には建治元年(1275)のこととして、次のように記します。
師兄通真死。故師弟通政領家督 親類之中、有謀計而欲押領 其家督者、先欲害於師。師乍被疵、奪取敵刀遁死。敵謀計顕故自殺。於之師感貪欲可長、覚世幻化。故辞古郷´。
意訳変換しておくと
一遍の兄の通真が亡くなり、弟の通政が家督を継ぐことになった。これに対して親類の中には謀議をはかって、その領地を押領しようとするものが現れた。そのためまず 一遍を亡き者にしようとして襲ってきた。一遍は手傷を負いながらも敵の刀を奪って逃げ切った。このことが知れると当事者は自決した。このことを体感した 一遍は、五欲の一つである貪欲の恐るべきことを感じ、人間の世の中が真実の世界でないことを悟って故郷を出る決意をした。
つまり家督争いの結果だと云うのです。これが教団側の「公式見解」となっているようです。しかし、これとは別の「世間の見方」は別にあるようです。
『一遍上人年譜略』の文永10年(1273)の条に、次のように記します。
「親類中有愛二妾者、或時昼寝、二妾髪毛作二小蛇・喰合。師見之、感二恩愛嫉妬可畏
意訳変換しておくと
一遍には親類に愛する妾が二人いた。ある時に昼寝をしているふたりの妾の髪毛が小蛇となって喰いあっているのを見て、嫉妬の深さに恐れ入った。
これについて、教団や多くの研究者は「妄説」として取り合いません。しかし、さきほど紹介した芝居の「苅萱道心石童九」では、 一遍をめぐって二人の女性の髪の毛が蛇と化して喰い合う、すさまじい嫉妬が演じられるシーンで描かれます。実際には、一遍が親類縁者の妻との「不倫」への刃傷沙汰だったと諸伝記からは推測できます。
一遍は、この事件に人間の業と宿命の深淵をのぞき見ておののき、そこから逃げるために再出家の道を選んだというのが後者の研究者の立場のようです。
こうして一遍は文永8年(1271)32歳のころに、聖戒と共に伊予を逃げるようにでます。
「たゞしいま一度師匠に対面のこゝろざしあり」とありますから、た一遍がまず目指したのは、大宰府の師・聖逹のもとです。一遍が聖達を訪ねたのは、再び弟子として仕えるためではなく、聖達に再出家の決心を告げ、できれば今後の求道生活のヒントを与えてもらうためだったようです。そして、ここで聖達は定住する別所聖であり、一遍は遊行聖の生活を目指しすことになります。
そして「 一遍聖絵」には、次のように記されています。
そして「 一遍聖絵」には、次のように記されています。
「文永八年の春、ひじり( 一遍)善光寺に参請し給ふ」
一遍が救いを求めたのは、信州の善光寺如来でした。当時の彼の中では、最も頼りになると思われた仏なのでしょう。
「恩愛を捨てゝ無為に入らむ」(『一遍聖絵』第一)と、善光寺に向けて旅立つことになります。この時に『一遍聖絵』の製作者である聖戒も出家しています。「聖戒」という名前は、聖達から与えられたようです。
『聖絵』巻一第二段、聖戒出家場面です。
最初に全体の構成を見ておきましょう
①一番右手に入母屋のお堂があり、その背後に3つの白く塗られた石造物が目につきます。
②高台で見晴らしの良い場所に建つ板葺き白壁の建物がこのシーンの主舞台です
③高台からは広がる海が見え、雁が群れをなして飛び去っていきます
④ 一遍一行が海沿いに旅立って行きます。
一遍聖絵 伊予国(聖戒の剃髪)
建物の手前と奥では松林の中の山桜が咲いています。ここでも桜が登場し、季節が春であることを告げます。目の前には春の瀬戸内海が広がります。庵の中で出家する聖戒が剃髪を受けているようです。聖戒の後ろの僧は聖戒の頭髪を剃り、前にいる僧は朱色の水瓶を持っています。部屋の奥には掛軸が掛けられています。聖戒の顔は、真っ直ぐに前を向いて海を見つめています。出家の決意が見られます。この庵の中には、一遍の姿はないようです。もしかしたら剃髪しているのがそうなのでしょうか。
『聖絵』は、聖戒が制作したとされます。
そうだとすれば『聖絵』に、自分の出家場面を描かせたとしても不思議ではありません。「聖戒出家」は、一遍の次に出家したのが自分(聖戒)であり、最初の弟子が自分自身であることの主張とも受け止められます。一遍出家の大宰府の場面と同じように、山桜が満開です。しかし、その樹の大きさは控えめのようです。聖戒が一遍の弟子であり息子であることを象徴していると研究者は考えているようです。
そうだとすれば『聖絵』に、自分の出家場面を描かせたとしても不思議ではありません。「聖戒出家」は、一遍の次に出家したのが自分(聖戒)であり、最初の弟子が自分自身であることの主張とも受け止められます。一遍出家の大宰府の場面と同じように、山桜が満開です。しかし、その樹の大きさは控えめのようです。聖戒が一遍の弟子であり息子であることを象徴していると研究者は考えているようです。
その上を雁の群れが左から右へと飛び去って行きます。
この絵で疑問に思うのは、聖戒以外に人物が描かれていることです。しかもこれは尼僧だと云うのです。この後、善光寺から帰った後に、一遍は岩屋寺で禅定修行し、三年後の文永十年(1274)に熊野に参拝します。その時にも、尼僧と子供と従者念仏房の三人を連れています。
詞書の著者の聖戒は、
詞書の著者の聖戒は、
「超一 (尼)、超二(女児)、念仏房、此の三人発心の奇特有りと雖も、繁を恐れて之を略す」
と書くにとどめています。3人の女性の出家の因縁を書いておきたいと思ったようですが「繁を恐れて略す」です。善光寺参拝に同行した尼も、熊野の尼も同一人で、超一と研究者は考えているようです。
「親類の中に( 一遍に)遺恨を挿事有て、殺害せむとしけるに、疵をかうぶりながら、敵の太刀を奪取て命は助(り)にけり」
とあった恋敵の「親類」の妻女が超一だというのです。しかも彼女は尼になっても一遍について、善光寺から熊野ヘまで同行しています。つまり、 一遍は妻と別れ、不倫相手の妻を出家させ同行させていたことになります。このころ 一遍は親鸞とおなじように「聖は半僧半俗で妻をもってよい」と考えていたことが分かります。さて絵図にもどりましょう。
先ほど見た右側の剃髪場面から時間経過があります。
同一画面に異時間場面が同時に描かれるのが巻物の世界です。今のマンガのコマ割りに慣れているものにとっては、最初は違和感を感じます。しかし、巻物はページをめくるものではありません。巻物を開いていくものなので、そこに新しい場面が登場してくるのです。時間経過は右から左で、右に描かれていることは、常に「過去」のことになります。
一遍聖絵 伊予国(一遍出立)同一画面に異時間場面が同時に描かれるのが巻物の世界です。今のマンガのコマ割りに慣れているものにとっては、最初は違和感を感じます。しかし、巻物はページをめくるものではありません。巻物を開いていくものなので、そこに新しい場面が登場してくるのです。時間経過は右から左で、右に描かれていることは、常に「過去」のことになります。
一遍一行の向こうには春の瀬戸内海が茫洋と広がっています。
その砂浜に舟が舫われています。中世の湊とは、「港湾施設」というものは殆どなかったようです。このような遠浅の海岸や砂州背後の潟の浜辺が湊として利用されていたようです。満潮時に舟を砂浜に乗り上げ、干潮時にはそのまま「係留」されるという使用方法でした。
その砂浜に舟が舫われています。中世の湊とは、「港湾施設」というものは殆どなかったようです。このような遠浅の海岸や砂州背後の潟の浜辺が湊として利用されていたようです。満潮時に舟を砂浜に乗り上げ、干潮時にはそのまま「係留」されるという使用方法でした。
一遍聖絵 須磨臨終図(須磨沖を行く交易船)
一遍も太宰府を目指すなら、どこかの湊から舟に乗ったはずです。かつての勢いはないとは云っても、河野家は伯父の下で松山に存続しています。海民たちに顔に聞く河野家の手はずで、便船は確保されていたのかもしれません。当事は、瀬戸内海の湊は交易船のネットワークで結ばれていました。一遍聖絵 一遍臨終場面の三隻の船(須磨)
『聖絵』巻十二第三段の一遍臨終場面の三隻の船は、一遍が西方浄土に向かう三途の川の渡り船を示します。それは「遊行の終着点」を意味しています。この場面に描かれる一隻の船は、 一遍の遊行の出発点であることをシンボライズしたものでもあると研究者は考えているようです。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
長島尚道 一遍 読み解き事典 柏書房