彼は10歳で母を亡くし、13歳の春に九州大宰府へ仏道修行のために旅立って行きます。『一遍聖絵』には、このあたりのことについて、次のように記されています。
建長三年の春、十三歳にて僧善入とあひ具して鎮西に修行し、太宰府の聖達上人の禅室にのぞみ給ふ。上人学問のためならば浄上の章疏文字よみをしてきたるべきょし示し給によりて、ひとり出て肥前日清水の華台上人の御もとにまうで給き。上人あひ見ていづれの処の人なにのゆへにきたねる。
(中略)さて彼の門下につかへて一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして幼敏ともがらにすぎたり。上人器骨をかゞみ意気を察して、法機のものに侍り、はやく浄教の秘噴をさづけらるべしとて、十六歳の春又聖達上人の御もとにをくりつかはされ給けり。
意訳変換しておくと
建長三年(1251)の春、十三歳になった一遍は、僧・善入に連れられて修行のための鎮西(太宰府)の聖達上人のもとを訪ねた。上人が云うには「学問を学びたいのであるなら浄上の章疏文字に詳しい肥前清水の華台上人の方がよかろう」と華台上人のもとで学ぶように計らってくれた。(中略)一遍は、華台上人の門下で2年間研精修学した。天性聡明にして学ぶ意欲も強いので、上人もそれに応えて、はやく浄教の秘蹟を授けられるようにと、16歳の春には聖達上人の元に送り返した。
ここからは、父の通広(出家して如仏)が一遍に求めていたのは、求道者としての悟りよりも、学僧としての栄達であったことがうかがえます。
一遍が師とした聖達とは、どんな僧だったのでしょうか?
聖達は『浄土法門源流章』に「洛陽西山証空大徳議長門人甚多、並随学ン法」と、証空の弟子名が11名挙げています。その中の四番目に「聖達大徳酌」とあります。ここからは聖達が、証空の有力弟子であって、京都で教えを受けたことが分かります。
証空
まず、聖達の師の証空から見ておきます。証空は治承元年(1177)に加賀権守親季の子として生まれます。そして、有力貴族久我通親(道元の父)に、その才能を見込まれて猶子となります。14歳で法然の弟子となり、専修念仏を学び『選択本願念仏集』撰述の際には重要な役割を果たしています。 後に天台座主を四度も勤めた慈円の傘下に入り、専修念仏を天台宗的な考え方で理論付けようと努力します。さらに慈円の譲りを得て、京都西山の善峰寺住持となったので西山上人と呼ばれ、その流れは西山義(西山派)と云います。
証空の弟子の聖達や華台が、どうして九州にいたのでしょうか?
それは嘉禄三年(1227)の法難が原因と研究者は推測します。
この嘉禄の法難は、承元の法難に続く大弾圧でした。法然はすでに亡く、その弟子たち40名あまりが指名逮捕され、京都の専修念仏者の庵は破壊されます。証空はすでに専修念仏の徒とは縁を切り、天台宗の世界に生きていたのですが、この法難の余波が降りかかってきます。貴族層の弁護もあって、なんとか逮捕を免れることができます。けれども、京都における伝道活動は、制限されるようになります。そのためでしょうか、翌々年には、弟子の浄音・浄勝を伴って関東・奥州への伝道にでかけています。
以上のような背景からは、次のようなことが推測できます。
それは嘉禄三年(1227)の法難が原因と研究者は推測します。
この嘉禄の法難は、承元の法難に続く大弾圧でした。法然はすでに亡く、その弟子たち40名あまりが指名逮捕され、京都の専修念仏者の庵は破壊されます。証空はすでに専修念仏の徒とは縁を切り、天台宗の世界に生きていたのですが、この法難の余波が降りかかってきます。貴族層の弁護もあって、なんとか逮捕を免れることができます。けれども、京都における伝道活動は、制限されるようになります。そのためでしょうか、翌々年には、弟子の浄音・浄勝を伴って関東・奥州への伝道にでかけています。
以上のような背景からは、次のようなことが推測できます。
証空は自己の教学を大成した直後に嘉禄の法難に遭過した。そこで、有力な弟子を法難の余波から守り、かつ教線を広げるため各地へ送った。聖達や華台もその中にあり、特に聖達は九州伝道の核として、大宰府へ遣わされた。こうして聖達と華台は、嘉禄三年(1227)から仁治四年(1243)の間には、九州に「布教亡命」していたと。
聖達と華台は「昔の同朋」で、浄土宗西山義の祖・証空の相弟子でした。
聖達と華台は「昔の同朋」で、浄土宗西山義の祖・証空の相弟子でした。
そして仏教全体や浄土教の知識は、華台の方が広かったようです。それに対して証空によって体系付けられた西山義をより奥深いところで会得していたのは聖達だったのかもしれません。少なくとも華台はそう理解していたからこそ、 一遍を2年で聖達のもとへ送り帰したのでしょう。どちらにしても、一遍は浄土教や浄土宗西山義を、有力な人物から学んだことになるようです。
父広通(如仏)は、後鳥羽上皇に仕えて都にいたころに、西山派証空に教えを受けていたようです。そこで、その弟子の聖達や華台を知っていました。その縁を頼って、一遍を預けたようです。引き受けた聖達は、浄土宗の章疏文字を華台のもとで学ぶことを勧めます。そして、華台のもとで2年間の修学を終えます。その際に、法名も随縁から智真と改めています。
こうして、華台の所から2年ぶりに太宰府の聖達のもとに帰ってきた場面が、『聖絵』巻一第一段のシーンとなります。
最初に全体のレイアウトを見ておきましょう
①周りを高い塀に囲まれた境内と、その中に建つ入母屋造の御堂の空間②境内前(右側)のあばら屋が建つが建つ空間③境内の前を行く騎馬集団④境内背後の桜の下の熊野行者の集団
①の境内の中の一遍から見ていくことにしましょう。
一遍聖絵太宰府帰参 写真クリックで拡大します
御堂を囲むように左右の桜が満開です。遠景にも桜が描かれています。季節は春のようです。奥のお堂に向かって歩く二人の人物が見えます。前を行く黒染衣を着た少年僧が一遍のようです。従う白い衣の人物は、手に文を持っています。華台から聖達への文なのでしょう。華台上人の許で二年を過ごし、学問を修めた一遍が再び聖達の許に戻ってきたシーンです。 お堂の周囲には、高く頑丈そうな築地塀があります。
聖達の保護下で俗世から離れて修行を続ける一遍を象徴するもの
と研究者は考えているようです。
その外には、弓矢や薙刀を持った狩人姿の騎馬集団が通り過ぎていきます。近隣の有力な武将なのでしょうか、主人は立派な白馬に乗っています。従者は主人を気遣うように左を振り向いています。塀の外は動きがあり賑やかです。獲物は持っていないので、これから狩りにでかけるのでしょうか? 彼らが鎧甲を身につければ、そのまま1セットの戦闘騎馬集団に早変わりしそうです。世が世であるなら名門河野家に生まれた一遍も、このような騎馬兵団の一員として伊予の地で、生活を送っていたでしょう。
一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 桜の下の民家)③の画面右側に板家の下層民の集落を見てみましょう。
白い花を付けた山桜の大きな木があります。その下の集落の前には、3人の人物がいます。先頭の傘を持つ尼僧らしき人物が左を振り返り、荷物を担ぐ人物と子供を気遣うようにも見えます。
人物が左方向に振り向くのは、物語の左方向性を強調する手法
桜の右側の板家には、両端の門木にかけた縄の中央に板のお守りを付けた門守が見えます。屋根の破風に的が半分見えています。的は正月の神事で、弓を射って豊作の吉凶を占う行事です。讃岐でも「ももて」として、三豊地方や島嶼部を中心に盛んに行われていました。破風の的は、正月神事の象徴でもあったようです。
弓矢をもつ狩人一行は、破風の的に向かい稲作の吉凶を占う神事の弓矢を象徴していると研究者は考えているようです。また、桜の咲き方で稲の豊作の吉凶を占う神事もあるようです。ここに描かれた的と狩人の間の桜も稲作を象徴し、前の場面の田園風景と結びつくようです。どうやらこの騎馬集団は、狩りに出て殺生を行ってきたのではないようです。
このシーンに狩人一行の描かれた意図については、次のような見解があるようです。
①狩人一行は武家社会を象徴し、一遍がそれと絶縁した決意を表す②狩猟は殺生に向かうことを意味し、修行者の一遍と対照的・対比的な効果を表す③仏道に生きる一遍の「聖なる世界」と「俗の世界」を対照的・対比的にみたうえで、この一行が狩人であることを否定している
一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
④の市女笠に白壺装束の人物集団を見てみましょう
④の市女笠に白壺装束の人物集団を見てみましょう
全体場面に、右と左に大きな桜が描かれます。こちらの桜は画面左側の桜です。その下を3人連れが通りかかるところです。市女笠の白壺装束姿ですので、熊野詣での旅姿のようです。
一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
前を行く従者は大きな荷物を背負っています。しかし、先達もなく女一人の熊野詣でには少し違和感も感じます。しかし、ここに熊野詣姿の旅人が、なぜ描かれたのかを考えると謎も解けてきます。それはこれから一遍の訪れる「熊野権現の神勅の予兆」として描かれていると研究者は考えているようです。
一遍聖絵 太宰府帰讃(拡大部 熊野詣の市女一行)
前を行く従者は大きな荷物を背負っています。しかし、先達もなく女一人の熊野詣でには少し違和感も感じます。しかし、ここに熊野詣姿の旅人が、なぜ描かれたのかを考えると謎も解けてきます。それはこれから一遍の訪れる「熊野権現の神勅の予兆」として描かれていると研究者は考えているようです。
女性の熊野装束姿
この大宰府帰参場面は、手前二本の桜を境に、
①画面右から賤民の空間②殺生の空間③熊野聖地の空間
の3部構成になっているようです。
さらに描かれているアイテムについても研究者は次のように指摘します。
①遠景の桜は、これから一遍の遊行を導く未来②狩人・桜・的・田園風景などは、春の訪れ③三人の人物、狩人一行、熊野道者の三組は、同じ右方向を歩いていながら、異なる意味を持つ
画面右の桜の隣に一本の大きな杉が描かれています。
この杉を起点にして、華台上人をたずねる場面から大宰府帰参場面へ展開する場面転換が行われていると研究者は考えているようです。
どちらにしても私には、山桜が印象に残るシーンでした。
この杉を起点にして、華台上人をたずねる場面から大宰府帰参場面へ展開する場面転換が行われていると研究者は考えているようです。
どちらにしても私には、山桜が印象に残るシーンでした。
なかなか一遍絵図を読み解くのは手強いようです。「記号論」としてみると面白みはありますが・・・。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 佐々木弘美 一遍聖絵に描かれた桜