安芸の宮島(一遍上人絵伝)
一遍は、正応元年(1288)12月、伊予三島社(現大山祗神社)に参詣します。前年の弘安十年(1287)春に天王寺を出発して播磨の教信寺、書写山円教寺、備中の軽部の里、備後の一宮、安芸の厳島神社を経て四国に渡った最後の遊行の途中でした。一遍は河野氏出身ですが、その河野氏が信仰していたのが三島社です。今回は、伊予三島社が一遍上人絵伝の詞書にどのように書かれているのかを見ていくことにします。テキストは「山内一譲 『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」です。まず、詞書の前半部を見ておきましょう。
① 正応元年(1288)、 一遍は安芸の厳島神社から伊予に渡り、菅生の岩屋への巡礼、繁多寺での三日間の参籠を経たのち、12月16日に三島社に参詣した。② 三島の神の「垂跡の濫腸」を尋ねると、文武天皇の大宝3年3月23日に跡を垂れたという。それ以降、五百余年を過ぎ八十余代の天皇の御代を守ってきた。③一遍の始祖越智無窮は、当社の氏人であり、幼いころから老境にいたるまで朝廷に仕えて武勇を事とし、我が家にあっては「九品の浄行」をつとめとした。その念仏往生の様子は往生伝に記されている。④一遍の祖父通信は、神の精気をうけて三島社の氏人となった人物で、参詣のたびに神体を拝した。⑤一遍は、「遁世修行」の道に出た身ではあるけれども、三島の神の垂跡の徳をあおぎ、読経念仏を捧げて島を去った。
これが詞書に書かれていることです。この中には、三島社の縁起を取り入れて記された部分があると研究者は指摘します。その部分を見ておきましょう。
まず②の、文武天皇の大宝三年二月二十三日に三島の神が垂迹したのが三島社の創始であるとする記述です。この記述は「伊予三島社縁起」に、次のように記されています。
「同(文武)三年癸卯初宮作在之、大山積明神卜申也、鳴」
これを取り入れたものです。研究者が注目するのは、その際に詞書がわざわざ「依一説」と注記を加えていることです。ここからは、次のような諸説があったことを作者は知っていたことがうかがえます。
①「臼杵本」の大宝元年開創説 「文武天皇御時大宝元年并大明神御社改」で、
②「予章記」(長福寺本)の大宝二年説
此時(大宝二年)奇瑞有テ三嶋大明神造営アリ、(中略)
大宝二年妊文武天皇御尋二付テ、当社ノ深秘ヲ奏達有ル間勅号ヲ被成、正一位大山積大明神卜額二被銘之」
このように三島神社の起源については諸説があった中で、詞書はわざわざ「依一説」と注記しているのです。これは作者の聖戒が、漫然と三島社の縁起を取り入れて記述したのではなく、異説のあることを知った上で、それらを検討したうえでこの説を取り上げたことを示していると研究者は考えています。そうだとすると詞書の構想を練る聖戒の傍らには、いろいろな異説を記したメモがあったのかもしれません。
もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。
もうひとつここで注意しておきたいのは、「三嶋大明神・大山積大明神」と記されていることです。
大権現・大明神は、修験者(社僧)によって管理運営されていたことを示します。
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。話を元に戻します。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
神仏習合時代、神宮寺の最盛期には二十四坊があったと伝えられます。
『大三島詣で』は、その二十四坊の名を、次のように記します。
泉楽坊・本覚坊・西之坊・北之坊・大善坊・宝蔵坊・東円坊・瀧本坊・尺蔵坊・東之坊・中之坊・円光坊・新泉坊・上臺坊・山乗坊・光林坊・乗蔵坊・西光坊・宝積坊・安楽坊・大谷坊・地福坊・通蔵坊・南光坊
『本縁』は、天正五年(1577)には「検校東円坊、院主法積坊、上大坊、地福坊」の四坊しか残っていなかったと記します。南北朝から戦国期に多くの坊が廃絶したようです。ここが修験者たちの拠点で、伊予三島社は神仏混淆時代には、社僧の管理下にあったことを押さえておきます。
聖戒が詞書を記すにあたって参考にしたのは、三島社の縁起ばかりではないようです。
③に記された一遍の先祖・越智益男についての伝承などもそうです。越智益男は、河野氏の家譜や系図では、河野氏の祖とされる伊予皇子の17代の孫とされる人物です。この人物についての詞書は次のように記します。
聖(一遍)の嚢祖越智益窮は、当社(三島社)の氏人なり。幼稚の年より、衰老の日にいたるまて朝廷につかえては三略の武勇を事とし、私門にかへりては九品の浄業(念仏阿弥陀信者)をつとめとす。鬚髪をそらされとも、法名をつき十成をうけき。ついに臨終正念にして往生をとけ、音楽そらに聞こえて尊卑にはにあつまる。かるかゆへに名を往生伝にあらはし、誉を子孫の家におよほす‥
意訳変換しておくと
一遍)の始祖・越智益窮は、三島社の氏人である。幼年時代から、年老いるまで朝廷につかえ武勇を誉れとした。また私的には九品の浄業(念仏阿弥陀信者)であり、剃髪はしなかったが、法名を持ち、十成を受けた。臨終正念して往生をとげた際には、天から迎えの仏たちがやって来て音楽が聞こえ、尊卑大勢に見送られた。そのため彼の名前は往生伝にも載せられている。今もその誉は子孫の家に及んでいる。
整理すると次の通りです。
①三島神社の氏子であったこと
②優れた武人であったこと
③同時に、九品の浄業を勤める熱心な念仏信者であったこと
④念仏信者として往生伝に名前が載っていること
④の往生伝とは「日本往生極楽記」のことで、10世紀後半に養滋保胤が著したものです。この中の越智益窮の項には詞書とよく似た、次のようなフレーズが出てきます。
「費髪を剃らずして早く十戒をうけて」(極楽記)→ 「費髪をそらざれども、法名をつき十成をうけき一(詞書)、
「村里の人、音楽あるをききて」(一極楽記一)→ 音楽そらにきこえて尊卑にはにあつまる」(詞書)
ここからも聖戒が「日本往生極楽記」を、そばにおいて引用しながら詞書の執筆を進めていたことがうかがえます。
もうひとつは一遍の祖父通信に関する記述です。これも河野氏に伝えられた伝承が取り入れられています。


河野通信は、源平争乱時には平家の優勢な瀬戸内海にありながら、いちはやく早く源氏方に味方して兵を挙げ、源氏の西国支配に大きく貢献します。その戦功によって、伊予での支配体制を固めます。ところが承久の乱では、京方に味方して奥州に流されていまいます。そこで、祖父通信は無念の死を迎えます。
祖父の墓参りに奥州を訪ねたシーンが一遍聖絵の中にも載せられていることは以前にお話ししました。
祖父・河野通信の墓参り 奥州江刺郡(一遍上人絵伝)
幼いころの一遍と、祖父通信との間にどのような交流があったのかは分かりません。一遍や聖戒の時代になると、一族の中の偉大な祖父として語られるようになっていたようです。それが一遍を遠く奥州江刺郡にまで墓参りに訪ねる原動力となっていたのでしょう。 通信に関する記述は長いものではありませんが、興味深い内容があると研究者は指摘します。
例えば、「祖父通信は、神の精気をうけて、しかもその氏人となれり」などという記述です。これは「予章記」などの河野家伝承を受けたものです。その伝承について「予章記」は、次のように記します。
通信の父通清は、その母が三島大明神の化身である大蛇によって身ごもって誕生した。そのため通清は、「其形常ノ人二勝テ容顔微妙ニシテ御長八尺、御面卜両脇二鱗ノ如ナル物アリ、小シ賜テ背溝無也」
「その躰は常人よりも大きく、身長八尺(240㎝)、顔と両脇には鱗のようなものがあった。
「予章記」の家伝では、母親が三島大明神に通じて誕生したのは通信の父通清となっています。ところが「聖絵」では通信自身に変更されています。これには2つの説が考えれます
①「聖絵」が通信と通清を混同した②鎌倉期には『聖絵』の記すような家伝があって、それが戦国期になると「予章記」に見られるような形に変化していった
本当はどうであったのは分かりませんが、聖戒が河野氏に関する詳しい知識を持っていて、それを取り入れたことは間違いないことを押さえておきます。
このように詞書の前半部を見て分かることを整理して起きます。
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲 『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
関連記事
①聖成が三島社の縁起や、河野氏の家伝を積極的に取り入れて詞書を作成したこと
②その際の聖成の執筆態度は、伝聞情報をもとに思いつくままに記すことはしていないこと。
③関連するメモや文献をおいて、それを参照しながら筆を進めるという、かなり考証的な態度であったこと
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「山内一譲 『一遍聖絵』と伊予三島社 四国中世史研究NO12 2013年」
関連記事





















































































