瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:七箇念仏踊り

まんのう町山脇
まんのう町山脇
まんのう町の山脇は、JR土讃線の財田駅の東側に拡がる盆地で、ここには念仏踊りが伝えられています。この念仏踊りがどんな系譜のものだったのかを今回は見ていくことにします。テキストは、「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」です。

最初に滝宮念仏踊りをめぐる動きについて、次のように押さえておきます。
①江戸時代を通じて滝宮では「滝宮神社(牛頭天王社)+天満宮+龍燈院滝宮寺」が神仏混淆的な宗教センターを形成し、龍燈寺の社僧が管理運営を行ってきた。
②その布教活動として社僧(修験者)が、蘇民将来のお札などを配布するとともに、祖先供養のために念仏踊りを村々に伝えた。
③社僧達は「芸能運搬者」として、念仏踊りを村々に伝えた。
④村々は連合して踊組を組織し、夏越しの供養に風流盆踊りを惣社に奉納するようになった。
⑤その踊りは牛頭天王信仰と菅原道真の天神信仰の中心でもあった滝宮にも奉納されるようになった。
滝宮への奉納を行っていたのは、次のような踊組でした。
A北条組念仏踊り(坂出市)
B滝宮組念仏踊り(綾歌町)
C坂本組念仏踊り(丸亀市)
D七箇村組念仏踊り(琴平町+まんのう町)
E南鴨組念仏踊り(生駒藩騒動後、讃岐の東西分離後には停止)
これらの地域は、滝宮牛頭天王社の信仰エリアであったことになります。
 さて山脇集落に話を戻します。山脇はこのうちのDの七箇村組に所属していたことが資料から分かります。それがどうして、「山脇念仏踊」を踊り出したのでしょうか?

大正時代に書かれた「念仏踊り略縁起」には、次のように記されています。
抑此の念仏踊は日本念佛の元祖法然上人の始め給ひしものなり。上人御年七十五歳の御時、流罪の御身となりて建永二年二月二十六日護岐の国塩飽の地頭駿河権守高階保速の方に御着。それより日を経て善通寺並に金昆羅権現へ御参詣の働り南の方を眺め給へば紫の雲のたなびく所あり。定めて有縁の霊地ならんと即ち宮田の西光寺へ歩を運ばせ給ひ御滞留。寒くとも袂に入れよ西の風弥陀の国より吹くと思へばと御詠ありて日夜衆生に念仏を動め給へ共其の頃一般の人心信仰の念薄く念仏を唱ふるもの砂かりき。然るに不思議なるかな上人念仏御修業の御徳にて岸石に泉を得給ひ、或は庭前の松に夜な夜な明星天下りて影向し給へり。又其の年夏照り打続き草木将に枯死せんとするに至りて上人日く念仏を唱ふれば必ず雨降るべしと。それより南方山脇と云ふ在所へ歩を運び給ひ、丘上に衆人を集め手踊りに念仏を合し盛に踊らしめたるに忽ち雨降りければ、人々生還の思ひをなして喜悦すること一方ならず。それより念仏踊りと称して後生に永く伝へられ、封建の昔は非常なる格式を与へられ遠く滝宮に至りて踊るを例とせられ、史実に残る西七ケ村の念仏踊り乃ち之れなり。
上人の衆人を集め給ひし丘山は山脇より阿波の国東山に超ゆる街道の畔の南に轟瀧眼下に上讃本線さぬき財田駅更に西方は遠く遂灘眺望絶佳の地にて法然上人をまつる廣場通称念仏場乃ちこの由緒
を樽へる踊り磯祥の地なり。時うつり世は変りて明治の文化開けて幾星霜全く村人より忘れられ
んとせしが、大正の末期古老有志相諮りて比の曲緒ある念仏躍を復活し、上人の御徳を偲ぶことを得たり。では謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませぅ。合掌
  意訳変換しておくと
そもそも、この念仏踊は日本念佛の元祖法然上人が始めたものである。上人75歳の時に、讃岐流罪となって、建永2年2月26日に護岐国塩飽の地頭である駿河権守高階保速の方に到着した。その後に、善通寺や金昆羅権現へ参詣した際に、南方を眺めていると紫の雲のたなびく所が見えた。これは有縁の霊地だろうと、宮田の西光寺(法然堂)までやってきて留まった。
その時の御詠が
寒くとも袂に入れよ西の風 弥陀の国より吹くと思へば
こうして日夜、衆生に念仏を勧めた。しかし、その頃の人々は信仰の念が薄く、念仏を唱ふるものも少なかった。ところが不思議なことに、上人の念仏修業の徳によって、岸石から泉が湧き、庭前の松に夜な夜な明星が天下りて影向したりした。また、その夏は旱魃で草木が枯れ、作物も育たない有様であった。そこで上人は「念仏を唱えれば必ず雨降るべし」と云い。宮田の南方の山脇まで歩を進め、丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。するとたちまち雨が降り、人々生き返る思いと喜悦した。以後、これを念仏踊りと称して後生に永く伝へることにした。
 江戸時代には、高い格式を与えられ滝宮にも奉納されたと伝えられる。史実に残る西七ケ村の念仏踊りがそれである。
上人が衆人を集めた丘山は、山脇から阿波の国東山に続く街道沿いの岡で、南に轟(とどろき)滝、西には土讃本線さぬき財田駅、さらに遠く燧灘まで見える眺望絶佳の地である。この丘が法然上人をまつる廣場(通称念仏場)であり、この由緒を伝える踊り発祥の地である。時は移り、世は変わってこのことは村人から忘れ去られようとしている。そこで大正の末期、古老有志で相談し、由緒ある念仏踊りを復活し、上人の御徳を偲ぶこととした。謹んで念仏の音頭に合せ一踊り踊らせて載きませう。合掌
以上を要約しておくと
①讃岐に流刑となった法然は紫の雲のたなびくのを見て宮田の法然堂(西光寺)に留まった。
②夏の旱魃に法然は山脇の丘の上に衆人を集めて、手踊りに念仏を合わせて踊らせた。
③するとたちまち雨が降り、これを念仏踊りと称して後生伝へた。
④これが七箇村念仏踊りの起源で、滝宮へも奉納された格式高い念仏踊りである。
⑤忘れ去られようとしていた念仏踊りを大正末年に復活させ、法然上人を偲ぶことにした。
宮田の法然堂
まんのう町宮田の法然堂(西光寺)
ここでは山脇念仏踊は、法然上人によって始められたことが強調されています。ちなみに雨乞い踊りの由来に登場する伝播者を振り返っておくと、次のようになります。
A 滝宮念仏踊  菅原道真の雨乞成就に感謝して
B 佐文綾子踊  弘法大師が綾子に伝授
C 山脇念仏踊  法然上人
この「伝書」には、念仏踊りの踊り方や下知役の踊り方などの指南書的な内容になっています。大正末年には、昭和9・14年に匹敵する大旱魃が襲ってきました。そのため県などでも為す術がなくて、市町村に雨乞踊りの復活を通達を出しています。こうして何十年ぶりかに復活した雨乞い踊りを残すための踊り方指南書や、持ち物製作手順や由緒書きなどが新たに書かれます。佐文の尾﨑清甫が最初に綾子踊に関する記録を残すのも大正時代のことでした。ここでは、各地で雨乞い踊復活運動が起こり、新たな記録が残されたことを押さえておきます。

この伝書には「法然が山脇で念仏踊りを始めた。」
「念仏踊りの発祥の地が山脇だ。」、
そして山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊に「発展」したのだとされていました。これを検証しておきます。
まず、七箇村組念仏踊りのメンバーを見ると、「旧仲南町 + 旧満濃町の岸の上・真野・吉野 + 旧天領(五条・榎井・苗田・西山」など、数多くの村々の連合体だったことが次の表からは分かります。
滝宮念仏踊諸役人定入目割符指引帳

その中で、山脇村に対しても役割や動員人数が割り当てられています。山脇は西七箇村に属しますが、構成メンバーの一員にしか過ぎません。ここからは、山脇念仏踊りが七箇村組念仏踊りに成長・発展したとは云えないようです。それよりも踊られなくなった七箇念仏踊りを、山脇だけで復活させたと見た方が良さそうです。

諏訪大明神滝宮念仏踊 那珂郡南組

   諏訪大明神(真野諏訪神社)に奉納された七箇村組念仏踊

どうして七箇念仏踊りは、踊られなくなったのでしょうか? 
①滝宮牛頭天王社の龍燈寺が廃仏毀釈運動の中で廃寺となり、滝宮念仏踊りの主催者がいなくなった
②七箇念仏踊自体が「天領+丸亀藩+高松藩」領の寄せ集め集団で内紛が絶えなかったこと
以上の理由から七箇念仏踊りは、空中分解してしまいます。そのような中で、西七箇村の最も西で、三豊郡境に接する山脇集落では、自分たちだけで念仏踊りを復活させようとしたのだと研究者は考えています。これは佐文の綾子踊も同じような歩みを辿ります。佐文の場合は、いろいろな騒動を組内で起こし、主要な役割を失っていきます。そのため佐文単独で風流踊系の綾子踊りを導入していたようです。どちらにしても、山脇と佐文という七箇村組の「西方辺境」の二つの集落が、自分たちだけで雨乞踊りを復活させようとしたのです。

龍燈院・滝宮神社
 滝宮神社(滝宮牛頭天皇社)と天満宮を管理していたのは龍燈院

まんのう町民具館(旧仲南北小学校)の展示室には、山脇念仏踊の鉦がひとつ保存されています。
鉦の縁に「西七ケ村、山脇、香川景親」と彫り込まれています。この鉦の他にも、山脇にはこれと同じ鉦を保管する家が10軒ほどあると聞きます。この鉦からは次のような事が分かります。
①鉦の中側には「池下氏」と墨書があるが、年代がないのでいつのものかは分からない
②鉦の外側に紐をつける耳があり、経の糸を織としてそれに持ち手をつけてある。
③形や大きさは、坂本念仏踊のものと同じもの
なお、七箇念仏踊の「鉦打」は、60人。そのうち山脇が属する西七ケ村には21人が割り当てられています。

以上をまとめておきます
①大正時代に書かれた山脇念仏踊りの由来には、讃岐に流刑となった法然が、旱魃の年に山脇の丘の上に衆人を集めて、念仏踊りを踊らせたと書かれている
②それが山脇念仏踊の始まりで、これが後世に七箇村念仏踊りとして、滝宮へも奉納されるようになったとする。
③しかし、史料的には山脇は七箇念仏踊りの一員に過ぎず、中心的な役割を果たしていたわけではない。
④明治に七箇村組念仏踊が解体した中で、大正期の大旱魃の際に山脇が単独で念仏踊りを復活させたものが現在に継承されていると研究者は考えている。
どちらにしても、明治以後に踊られなくなり、忘れ去られようとしていた讃岐各地の雨乞い踊りが一時的に蘇るのが、大正の大旱魃期でした。県が市町村に、雨乞踊りや祈願の復活実施を指示したのが、そのきっかけです。その結果、多くの村々で雨乞い踊りが復活します。それは山脇や佐文でも同じでした。その際に、きちんとした資料や由来書を残したところが現在にまで継承されているように私には思えます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「山脇念仏踊り  讃岐雨乞踊調査報告書(1979年)67P」
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佐文綾子踊りについて、いろいろな資料を集めています。分からないことは数多くあるのですが、佐文綾子に先行する那珂郡七箇念仏踊りが、どうして滝宮への踊り込みをしなくなったのかについてを、明らかにしてくれる資料が私の手元にはありません。資料がないままに以前には、次のように推察しました。
①七箇念仏踊りは、高松藩・丸亀藩・満濃池領(天領)の村々の構成体で、運営をめぐる意見対立が深刻化していた。
②天領の村々の庄屋たちは、運営を巡って脱退や会費支払い拒否も見せていた。
③そのような中で、明治維新の神仏分離で滝宮念仏踊りの運営主体である龍燈院(滝宮神社の別当寺)の院主が還俗した。
④そのため龍燈寺は廃寺となり、滝宮念仏踊りの運営主体がなくなり、自然消滅してしまった。
⑤その結果、滝宮念仏踊りは開催されなくなった。

阿野郡の郷
阿野郡の郷
それではその後の滝宮念仏踊りの復興は、どのように進んだのでしょうか。
今回は、明治になって踊られなくなっていた坂本念仏踊りがどのように復活していくのかを見ていくことにします。テキストは 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774Pです。

坂本村史(坂本村村史編纂委員会 編集・発行) / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

明治初期の坂本念仏踊の復興について、『坂本村史』は次のように記します。(要約)
 明治2年(1869)2月、念仏踊復興のために、滝宮神宮社務・綾川巌の名で香川県参政へ願い出たが、何の連絡もなかった。明治11年(1878)七月になって、阿野郡人民総代泉川広次郎・川田猪一郎、県社天満神社祠掌田岡種重の二人が連署して、愛媛県令岩村高俊あて願書提出したところ、7月29日付で、次のような許可文書がくだされた。
書面頂出ノ趣聞届候条不取締無之様注意可致事 但シ最寄警察分署へ届出ズベシ
愛暖県高松支守
  意訳変換しておくと
提出された復興願いの書面について、聞届けるので、取締対象にならぬように注意して実施すること。但し、最寄警察分署へ実施届出を提出すること
愛媛県高松支守
当時は、香川県はなくなっていたので高松支所からの許可願となっています。
滝宮念仏踊り3 坂本組
坂本念仏踊り

これを受けて、次のような正式の許可願が提出されます。
滝宮県社天満神社及同所滝宮神社神事踏歌ノ儀、該社並組合村中、流例ノ神社之依テ執行御願滝宮踏歌神事ノ儀ハ予テ先般該社神官並鵜足部阿野部給代連署フ以テ願出御指令相成り則本年ハ右神事鵜足部順年二付任吉例来ル二十三日滝宮両社二於テ執行仕り来り候儀二付本年ハ東坂元村亀山神社真時村下坂神社川原村日吉神社西坂元村坂本神社ノ四社二於テ執行仕度就テハ祭器ノ内刀、護刀両器械フモ神事瀾内二於テ相用度此段奉願候 以上
明治十一年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記願出之儀許可相成度最モ指掛候儀二付至急御指令相成度奥印仕候也
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長 寺 島 文五郎
十小区長 横 田   稔
副小区長 伊 藤 知 機
意訳変換しておくと
滝宮県社天満神社と滝宮神社神事である「踏歌(念仏踊り)」について、該当する神社や組合村々は、神事復活について、各社の神官代表、ならびに鵜足郡・阿野郡の代表者が連署して、許可申請を提出いたしました所、許可をいただきました。つきましては実施に向けた動きを進めていきますが、本年の神事は鵜足郡の担当で、日程は古来通り、23日に滝宮両社で執り行う予定です。その事前奉納を、次の4社で行います。東坂元村の亀山神社、真時村の下坂神社、川原村の日吉神社、西坂元村の坂本神社。なお、その際に祭器の内、刀、護刀についての取扱については、神事のために使用するものであることを申し添えます。 以上
明治11年八月
組合村第五大区
第 八小区 鵜足部東小川村
第 九小区 同部東坂元村、真時村、川原村
第 十小区 同郡西坂元村、西小川村、西二村、東二村
第十一小区 同郡川津村
人民総代
鵜足郡東坂元村
同 郡川原村
同 郡真時村
同 郡西坂元村
愛媛県令 岩村高俊殿

前記の祭礼復活許可をいただいた件について、至急御指令を下されるようにお願いいたします。
第五大区九小区長 東 条 友五郎
副小区長     寺 島 文五郎
十小区長     横 田   稔
副小区長     伊 藤 知 機
ここからは次のようなことが分かります。
①滝宮念仏踊りが「踏歌」と表現されていること。このあたりにも廃仏毀釈の影響からか、当局を刺激しないように、仏教的な「念仏踊り」という表現でなく、「踏歌」としたのかもしれません。
②滝宮両社への奉納以前に、事前に地元神社への奉納許可と、その日程を伝えています。
これに対し、次のような回答が下されています。
書面願出之趣祭典ニアラズシテ神社二於テ賑之儀ハ難聞届候事但八幡神社踏歌神事ハ祭典二際シ古例ナルフ以テ差許候儀二有之且自今如此願ハ受持神官連署スベキ儀卜可相心事
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁
意訳変換しておくと
 各神社での事前の踊り奉納について、神社における祭典(レクレーション)であれば、許可しがたいが、八幡神社の踏歌神事で、古例なものであることを以て許可する。これより、この種の許可願は受持神官と連署で提出すること
明治十一年八月十三日
愛媛県高松支庁

   神社の祭礼復活についても、いちいちお上(政府)の許可を求めています。許可する新政府の地方役人も尊大な印象を受けますが、これは一昔前の江戸時代の流儀でした。それが抜けきっていないことが伝わってきます。
丸亀市坂本
       現在の丸亀市飯山町西坂本 
東坂本
東坂本
こうして念仏踊復興の動きは、鵜足郡の坂本村を中心に始まり、明治11(1878)年8月23日、亀山神社・下坂神社・日吉神社・坂元神社の四社で維新後最初の念仏踊りが奉納されたことを押さえておきます。

飯山町坂本神社
坂本神社(丸亀市飯山町)

ところが復活から約20年後の明治32年(1899)の念仏踊が踊られる年に台風のため中止となり、その後しばらく中断されます。
この背景については、飯山町誌は何も記しません。
大正2年(1913)に大干魃に見舞われ、中の宮で雨乞念仏踊奉納
これを機に、再び復興機運が盛り上がったようで、以後は、大正3、6、9、12年と3年毎に行われています。ところが、その後は小作争議のため中断します。それが復活するのは、昭和天皇御即位の大典記念事業の時です。そして昭和4年(雨乞いのため)、7年、10年に奉納されています。以後の動きを年表化します。
昭和13(1938)年、日中戦争のため中止
昭和14(1938)年、大早魅のため雨乞念仏踊
昭和16(1941)年、紀元2600百年記念として滝宮両神社で実施し、以後戦中は中断、
昭和27(1952)年 組合立中学校落成記念として実施
戦後は昭和28、31、34年と3年毎に奉納されてきましたが、以後は中止となりました。背景には、町村合併、経費問題、大所帯をとりまとめていくことの難しさ、宮座制の運営をめぐる問題などがあり、昭和34(1959)年の奉納を最後に途絶えます。
 復活の機運が高まってきたのは、1970年代の滝宮念仏踊りや佐文綾子踊りの国無形文化財指定に向けた動きです。
昭和48(1973)年秋、四国新聞社による「讃岐の秋まつり」に坂本念仏踊が有志で略式参加
昭和49(1974)年 飯山中学校落成記念行事に出演。
昭和55(1980)年 飯山町文化祭に特別出場
このような中で、坂本念仏踊りへの誇りと関心が高まり、後世に伝えてゆく必要があるという声が生まれてきます。こうした動きを受けて、昭和56(1981)夏に、保存会設置が決まります。
 坂本念仏踊保存会規約を挙げておきます。
第一条 木会は坂木念仏踊保存会と称し、事務所を飯山町教育委員会内に置く。
第二条 本会はこの地方に往古より伝わる郷土芸能坂本念仏踊を民俗無形文化財として後世に残し伝えてゆくことを目的とし、 一般町民により組織する。
第二条 本会に下記役員を置き任期は三年とする。
会 長 一名  副会長 二名
会計一名 監事二名
世話人 若千名
第四条 本会に顧問若千名を置く。
第五条 本会は毎年役員会を開き、下記要項により協議の上実施する。
一 日 時  八月下旬の日曜1日間
一 町内各神社に奉納
第1年目 亀山神社、下坂神社、東小川八幡神社
第2年目 三谷神社、坂元神社、八坂神社
第3年目 滝宮神社、滝宮天満宮、日吉神社
ここからは、保存会規約によって次の神社に奉納することになっていることが分かります。
東坂元 亀山神社  三谷神社
川  原 日吉神社
西坂元 坂元神社  王子神社
真  時 下坂神社
東小川 八幡神社
下法軍寺 八坂神社
滝  宮     滝宮神社  天満神社
亀山神社の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|15万件以上の神社仏閣情報掲載
亀山神社(丸亀市飯山町)から仰ぐ飯野山
しかし、実際に3年間やってみて、経費や負担面を考慮して、1984年からは、次のように改められたと飯山町誌には記されています。
①滝宮両神社には、寅、巳、申、亥の年に3年毎に奉納
②滝宮から帰って、町内の二神社を年回りに奉納する
こうして見ると坂本念仏踊りには、次の4度の中断期があったことが分かります。
①幕末~明治11(1878)年まで
②明治32年(1899)~大正2年(1913)まで
③昭和16(1941)年~昭和27(1952)年まで
④昭和34(1959)年~昭和56(1981)年
その都度乗り越えてきていますが、その原動力となったのは、次のふたつが考えられます。
A 雨乞い祈願のため
B 天皇即位・起源2600祭・中学校新築などのイヴェント参加
Aについては、高松藩へ提出した坂本念仏踊りの起源については「菅原道真の雨乞成就への感謝のために踊る」と記されていて、この踊りがもとともは、自らの力で雨を降らせる雨乞祈願の踊りではなかったことは以前にお話ししました。それが近代になると、「雨乞祈願」のための踊りと強く認識されるようになったことがうかがえます。度々、襲ってくる旱魃に対して、近代の人達は雨乞い踊りをおどるようになったのです。

4344102-55郷照寺
宇多津の郷照寺 唯一の時宗札所(讃岐国名勝図会)

最後に念仏踊りの起源について、私が考えていることを記しておきます
 坂本念仏踊りは、中世の郷社に奉納されていた風流踊りです。それが、江戸時代の「村切り」で、近世の村々が作られ、村社が姿を現すと、夏祭りの祭礼に盆踊りや風流踊りとして奉納されるようになります。現在の滝宮念仏踊りの由緒の中には、法然の念仏踊りに起源を説くものがありますが、これは後世の附会です。法然と踊り念仏は、関係がありません。
①踊り念仏は、空也によって開始されたこと
②踊り念仏は、その後一遍の時衆教団によって爆発的な広がりをみせたこと
③そのため高野山を拠点にする聖たちが、ほぼ時宗化(念仏聖化)した時期があること
④その時期に、全国展開する高野聖たちが阿弥陀浄土信仰(念仏信仰)や踊り念仏を拡げたこと
⑤讃岐でその拠点となったのが、白峰寺や弥谷寺などの修験者や聖達の別院や子院であったこと
⑥中世においてもっとも栄えていた宇多津にも、いろいろな修験者や聖達が集まってきた。
⑥彼らを受けいれ、踊り念仏聖の拠点となったのが郷照寺。この寺は今も四国霊場唯一の時宗寺院
⑧この寺が、中讃地区で踊り念仏を拡げた拠点
⑨坂本郷は飯野山の南側で、大束川流域の宇多津のヒンターランドになり、郷照寺の時宗たちの活動エリアでもあった
⑩彼らの中には、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の別当寺・龍燈院に仕える修験者や聖達もいた。
⑪彼らは3つのお札(蘇民将来・苗代・田んぼの水口)の配布のために、村々に入り込み、有力者と親密になる。
⑫そんな中で、郷社の夏祭りのプロデュースを依頼され、そこに当時、瀬戸内海の港町で踊られていた風流踊りを盆踊りとして導入する。
⑬中世の聖や山伏たちは、村祭りのプロデューサーでもあり、「民俗芸能伝播者」でもあった。

高野聖は宗教者としてだけでなく、芸能プロデュースや説話運搬者 の役割を果たしていたと、五来重氏は次のように指摘します。
(高野聖は)門付の願人となったばかりでなく、村々の踊念仏の世話役や教師となって、踊念仏を伝播したのである。これが太鼓踊や花笠踊、あるいは棒振踊などの風流踊念仏のコンダクターで道化役をする新発意(しんほち)、なまってシンボウになる。これが道心坊とも道念坊ともよばれたのは、高野聖が高野道心とよばれたこととも一致する。
聖たちは、村祭りのプロデュースやコーデイネイター役を果たしていたというのです。風流系念仏踊りは、高野聖たちの手によって各地に根付いていったと研究者は考えています。

P1240664
一遍時宗の踊り念仏(淡路の踊屋:一遍上人絵伝)

 どちらにしても、滝宮牛頭天王社(滝宮神社)の社僧達が村々に伝えたのは、時宗系の踊り念仏でした。それが、各郷社で祖先慰霊の盆踊りとして、夏祭りに踊られ、7月25日には滝宮に踊り込まれていたようです。
龍燈院・滝宮神社
滝宮神社(牛頭天皇)の別当寺龍燈院

 戦国時代に中断していた滝宮への踊り込みを復活させたのは、高松藩初代藩主の松平頼重です。その際に、松平頼重は幕府への配慮として、遊戯的な盆踊りや、レクレーション化した風流踊りに、「雨乞い踊り」という名目をつけて、再開を認めました。そのため公的には、「雨乞い踊り」とされますが、踊っている当事者たちに「雨乞い」の認識がなかったことは、以前にお話ししました。雨乞いのために踊るという認識がでてくるのは、幕末から近代になってからのことです。
      最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

念仏踊り 八坂神社と下坂神社 : おじょもの山のぼり ohara98jp@gmail.com

参考文献 明治に初期における坂本念仏踊りの復興 飯山町誌774P
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