瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三代物語

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                牟礼町の神櫛王墓
前回に続いて牟礼町文化財協会総会で、お話ししたことをアップします。牟礼の神櫛王墓です。私は宮内庁管理の王墓が、白峰寺の崇徳上皇陵以外にあるのを、10年前までは知りませんでした。どうして、牟礼に神櫛王の王墓があるのかが気になって調べてみると出会ったのが「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号」です。今からお話しすることは、この論文を参考にしています。
讃岐府史の神櫛王記述
17世紀後半の讃岐府史 神櫛王についての記述は赤色のみ
江戸時代の初め頃、元禄年間に神櫛王については、どんなことが書かれていたのか見ておきます。讃岐府史は17世紀後半、初代の高松藩主松平頼重の時代に刊行された所で、讃岐の人物や陵墓などが記されています。神櫛王については「讃岐国造の祖、景行天皇の孫」だけです。押さえおきたいのは、この時点では、古代の紀記の内容と変化はないことです。陵墓についても何も書かれていません。それでは神櫛王が、東讃に定住したと最初に書いたのは誰なのでしょうか?

1櫛梨神社3233
神櫛王伝説は綾氏系図から分かれて、15世紀初頭に成立した宥範縁起に取り込まれていることが近年に分かってきました。宥範は琴平の櫛梨出身で、高松の無量寿院で学び、全国各地で修行を重ね、中世善通寺中興の祖とされる高僧です。そこに神櫛王伝説がとりこまれていきます。そこでは、上表のように凱旋地などが坂出福江から高松の無量寿院周辺に書き換えられていきます。つまり、神櫛王が高松周辺に定住したという物語になります。これを受けて「神櫛王=高松周辺定住説」が拡がるようになります。

南海治乱記と南海通記

この普及に大きな役割を果たしたのが香西成資(しげすけ)です。
彼は滅亡した一族の香西氏の顕彰のために南海治乱記を記します。その増補版が南海通記になります。彼は後に軍学者として黒田藩に招かれ大きな邸宅を与えられます。この2冊が発刊され人々の目に留まるようになるのは18世紀になってからです。『南海治乱記』は、神櫛王ついて何も触れられていません。神櫛王は、南海治乱記の増補版である南海通記に次のように登場します。

 南海通記の神櫛王記述
 南海通記の神櫛王記述

何があたらしく加えのか押さえておきます。
南海通記の神櫛王記述追加分

ここには①神櫛王が屋島浦で政務を執った ②神内・三谷・十河の三家は神櫛王の子孫であることがあらたに加えられています。南海通記は、軍記ものとしても面白く、読み継がれていきます。そして讃岐の戦国時代を語る際の定番となります。戦後に作られた市町村史も中世戦国時代については、この南海通記に基づいてかかれているものが多いようです。南海通記に記されることで、神櫛王=東讃定住説の知名度はぐーんと上がります。この時点では、神櫛王=鵜足郡定住説と屋島説の2つの説が競合するようになります。しかし、その墓については何も触れていません。

それでは神櫛王が屋島に定住したという根拠はなんなのでしょうか。
南海通記の神櫛王東讃定住根拠

①最初に見たように、日本書紀に神櫛王が讃岐に定住し、最初の国造となったこと
②続日本記に讃岐氏が国造であったと主張していること、そうならば讃岐の国造の始祖は神櫛王であるので、讃岐公は神櫛王の子孫であること
③その子孫が武士団化しのが神内・三谷・十河の三氏であること。神櫛王は東讃に定住し、その子孫を拡げ、その子孫が実際にいるという運びです。
これは筋書きとしては、無理があるようです。しかし、考証学や史料検討方法が確立するまでは、それが事実かどうかチェックのしようがありませんでした。イッタモン・書いた者の勝ちというのが実態でした。南海通記でプラスされた2つの内容が事実として後世に伝えられることになります。南海通記はベストセラーだけに後世への影響力が大きかったのです。

そして18世紀後半になると神櫛王の王墓が牟礼にあるする本が現れます。
三代物語の神櫛王
三代物語の神櫛王記述
①この本は増田休竟によって、南海通記公刊から約半世紀後に書かれた地誌です。②内容は郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。③彼の家は祖母・祖父・自分・兄と三代が、見聞してきた記録を残していました。そのうち重要なものを数百件集めて三巻となしたと巻頭に書かれています。ただこの本は、それまでの書物に書かれていなかったことが既成事実のように突然に紛れ込んできます。例えば、「実は崇徳上皇は暗殺された」という崇徳上皇暗殺説」などが始めて登場するのもこの本です。そのため取扱に注意が必要な資料と研究者は考えています。その中で神櫛王墓に関する記載を見ておきましょう。三木郡の所で次のように記されています。

三代物語の神櫛墓記述

①王墓牟礼にあり 
②神櫛王が山田郡高松郷(古高松)に住んだ
③そこで亡くなったので王墓に葬ったので王墓がある
と記されています。そして小さな文字で注記があります。拡大して見ると「青墓・大墓」とも呼ばれるが、もともとは王墓で、それが青墓に転じたとわざわざ説明しています。つまり、牟礼の共同墓地である青墓が、王墓であるというのです。視点を変えて逆読みすると、当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。さらに追加して、この書では青墓が神櫛王の王墓とします。
 王墓が青墓だったことは、現在は松井谷墓地に移されたお地蔵さんからも裏付けられます。
 このお地蔵さんに会いに行ってきました。
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牟礼町松井谷墓地の六地蔵
石匠の里公園の近くにある松井谷墓地の上側の駐車場の手間に六地蔵が並んでいます。その奥に佇んでいるのが青墓(現神櫛王墓)にあった地蔵さまのようです。近づいてみます。P1240501
神櫛王墓にあった青墓地蔵
背面を見てみます。
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青墓地蔵背面
願主同村最勝寺堅周」は読み取れますが、後はよく分かりません。史料によると次のように刻まれているようです。
青墓の地蔵さま
青墓地蔵背面の文章
宝永2年とありますので今から約320年あまり前に、牟礼村の人々が「青墓地蔵尊」を奉納した。願主は最勝寺堅周だったと記されています。ここからは現在の王墓が、300年ほど前は村民の墓地だったことが裏付けられます。この青墓地蔵さん以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机も地蔵さんの手前にあります。以上から神櫛王王墓は、江戸時代には共同墓地で、青墓と呼ばれていたことを押さえておきます。

さらに60年ほど時代が進んだ19世紀始めに書かれた全讃史を見ておきましょう。
全讃史の神櫛王


①仲山城山(じょうざん)が書いた全讃史です。15冊にもなる大冊です②この中には神櫛王について、屋島に舘を構えた、これが牟礼だとします。③陵墓については牟礼の王墓とします。ここまでは出版された書物に学び、そこに書かれていることを継承しています。そして、さらに新しい説を加えていきます。彼が注目したのは青墓に並ぶ石造物の中の二つの立石でした。それを見てみましょう。

三代物語の神櫛王墓2
仲山城山の神櫛王墓の立石図

このころになると個人の墓石が死後に立てられるようになります。青墓にも19世紀になると立石の墓石が立てられるようになったようです。その中でも大きくて目立つ立石が2つありました。それに中山城山は注目します。そして二つの立石の図を載せています。よく見るとこの立石には星座が刻み込まれています。修験者の愛宕大明神信仰によくみられるものです。牟礼は五剣山のお膝元です。五剣山は修験者や山伏にとって聖地で、全国から多くの修験者たちがやっきて修行し、中には定住するものも出てきます。その中には、ここにとどまり八栗寺の子院を形成し、周辺の村々への布教活動を行うものもいたはずです。それは、志度寺や白峰寺、三豊の八栗寺と同じです。この立石も修験者の活動の痕跡と研究者は考えています。
 さて図を見ると「王墓 牟礼村にあり」とあります。そして①大王墓 高さ五尺7寸 北面 神櫛王墓」、②北極星が描かれた小さい方が「小王墓、その孫(すめほれのみこと)の墓」と記します。
全讃史の神櫛王記述を整理して起きます。
三代物語の神櫛王墓認識


最後に江戸時代における神櫛王墓記述の到達点を見ておきましょう。幕末になると絵図が入った「名勝図会」というのが、全国各地で作られるようになります。讃岐では嘉永六年(1853)に全一五巻の讃岐国名勝図会が出されます。巻三に三木郡牟礼村の項があります。絵図では五剣山と八栗寺がセットで描かれています。
讃岐国名勝図会の牟礼
五剣山と八栗寺(讃岐国名勝図会)
その中に神櫛王の王墓について次のように記されます。
讃岐国名勝図会の神櫛王墓

讃岐国名勝図会の記述内容は、今までに見てきた神櫛王の記述の総決算・完成形のような内容になっています。①前半部分は『三代物語」を下敷きに、山田郡に大墓があるとされます。②そして後半部は、神櫛王が景行天皇の皇子で、母はいかわひめで、讃岐国造と記されます。これは日本書紀の記述に立ち戻っています。そして、ふたつある墓うちのひとつは、武鼓王(たけかいこう)としている点がこの書の独自性のようです。讃岐国名勝図会の作者が、先行する地誌や歴史書を参考にしながらこれを書いたことがうかがえます。こうして、幕末には「神櫛王墓=牟礼説」が定着し、王墓は牟礼にあるというのが、世間では一般的になっていきます。そして、神櫛王墓=坂出説を凌駕するようになっていたことを押さえておきます。
 それでは、共同墓地だった青墓は、いつどのようにして陵墓へと改修整理されたのでしょうか。それは、明治維新を迎える中で起こった高松藩の危機が背景にあったようです。それはまた次回に・・

神櫛王墓整備後
青墓改修後の神櫛王墓の絵図(牟礼町史より)

 参考文献
  「大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号


神櫛(かんぐし)王墓 : 四国観光スポットblog

 天皇・皇后や皇子などの墳墓である「陵墓」は全国で894基あるそうです。香川県にあるのは崇徳天皇の白峯陵だけとおもっていたのですが、もうひとつあるようです。それが神櫛王墓のようです。崇徳天皇は保元・平治の乱での讃岐流配や怨霊のトップスターとして有名で、その陵についても西行の『山家集』や上田秋成の『雨月物語』などに出てきますので知名度は高いようです。
 これに対して神櫛王は、どうでしょうか。ほとんどのひとが知らないのではないでしょうか。
神櫛王墓 | 眩暈の森
『日本書紀』には第21代の天皇の景行天皇の皇子の一人として「神櫛皇子」と記されています。また讃岐国造の始祖とされていますが、その事績などの記録が全くありません。そのため彼が讃岐の古代史を語るときに登場することはほとんどないようです。
 陵墓に指定されている神櫛王の墓とされるものは、高松市北東部の高松町と牟礼町の町境にあります。
全長約175㍍の小さな山全体が墓とされ、北・東部には濠状の窪みがめぐり、頂部に四角錐状に石が積まれています。ここはもともとは「大墓」と呼ばれていました。それが明治になって、手を入れられ「神櫛王墓」とされます。
どうして、ここが神櫛王の墓になったのでしょうか?
讃岐の食文化ゎ日本一ィィィィッ!:【古高松学】その7 ♢「神櫛王墓 ...

古代の史料において神櫛王がどのように記されているかを、見ておきましょう。
 神櫛王(神櫛皇子・神櫛別命・神櫛命、死後は讃留霊王)は、景行天皇の皇子とされ『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』などにその名が見えます。『古事記』と『日本書紀』とでは母も、始祖伝承も次のように異なります
①『日本書紀』は讃岐国造の始祖
②『古事記』では木国及び宇陀の酒部の祖
 讃岐国造に関しては、『先代旧事本紀』「国造本紀」には軽嶋豊明朝御世(=応神天皇(景行天皇の二代後)の時代に、神櫛王の三世孫である須売保礼命を定めたとあります。
 古代の天皇等の陵墓に関しては、『延喜式』「諸陵寮」に神武天皇から光孝天皇までの歴代天皇・皇后等の陵七十三基、皇子・皇女等の墓四十七基が記されていますが、この中に神櫛王の墓は出てきません
 紀記の神櫛王について確認しておくと次のようになります
①紀記の両者の記述内容に大きな違いがあること
②書かれているのは「系譜」で、治績は一切ない
③墓についての記述もなし
 神櫛王の父とされる景行天皇は『古事記』・『日本書紀』では十二代天皇となっています。十代は初めて国を治めた天皇として書かれている崇神天皇で、十六代は中国の史書に見える倭の五王の「讃」とされる仁徳天皇です。
讃岐国造から考察 ① | コラクのブログ

景行天皇は、この二人の間の四世紀中頃の人物ということになります。彼の崩御干支は『古事記』・『日本書紀』に書かれてはいません。さらに「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という和風謐号は、後世に作られた可能性が高いことから、現在の古代史研究では実在が疑問視されている人物のようです。父が実在しなかったとなると、皇子である神櫛王もいなかった可能性も出てきます。また、この時代の陵墓なら大型の前方後円墳が想定されますが、ここからは埴輪などの遺物は一切見つかっていません。この丘は古墳ではないようです。
 神櫛王について触れている古代の関係史料を、確認しておきましょう。
①『日本書紀』景行天皇四年二月甲子条
 次妃五十河媛、神櫛皇子・稲背入彦皇子を生めり。其の兄神櫛皇子は、是讃岐国造の始祖なり。
②『古事記』景行天皇条
 吉備臣等の祖、若建吉備津日子の女、名は針間之伊那毘能大郎女を娶して、生ませる御子、櫛角別王、(中略)、次に神櫛王、(中略)其れより余の七十七王は、悉に国国の国造、亦和気、及稲置、県主に別け賜ひき。(中略)、次に神櫛王は・・・
③『先代旧事本紀』「国造本紀」
 讃岐国造 軽嶋豊明朝御世、景行帝見神櫛王の三世孫須売保礼命を国造に定め賜う。
④『先代旧事本紀』「天皇本紀」景行天皇条
次妃五十河媛神櫛皇子を生めり。次稲背入彦皇子。(中略)
  神櫛別命悶四。稲背人彦命。(中略)
  五十河彦命諸叶心。(中略)櫛見皇命詣。
⑤『新撰姓氏録』和泉国皇別
 酒部公 讃岐公と同じき祖。神櫛別命の後なり。
⑥『新撰姓氏録』右京皇別下 
 讃岐公 大兄彦忍代別天皇の皇子、五十香彦命船勁の後なり。続日本紀に合えり。
⑦『続日本後紀』承和三年(八三六)三月戊午条
 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直、右少史兼明法博士同姓永成等合わせて廿八姻、公を改めて朝臣を賜ふ。永直は是れ讃岐国寒川郡の人なり。今、山田郡の人、外従七位上同姓全雄等の二姻と、本居を改め、右京三条二坊に貫附す。永直等の遠祖は景行天皇第十の皇子、神櫛命なり。
⑧『日本三代実録』貞観六年(八六四)八月条
 右京の人、散位従五位上讃岐朝臣高作、右大史正六位上讃岐朝臣時雄、右衛門少志正六位上讃岐朝臣時人等に姓を和気朝臣と賜ふ。其の先は景行天皇の皇子神櫛命より出づるなり。

神櫛王について触れている平安時代までの史料は以上です。ここからは神櫛王について記されているのはその系譜だけで、具体的活動や墓については、なにも書かれていないことが分かります。
 ところが江戸時代になると、彼の住んでいたところやその墓の場所まで記した歴史書が出てきます。
今度は近世の資料を順番に見ていきましょう。

6 讃岐国大日記
『讃岐国大日記』
 慶安四年(1651)までのことを編年体形式で記した讃岐の歴史書で、石清尾八幡宮祠宮である友安盛員によって承応元年(1652)に書かれたものです。この書は、多くの写本が伝わっていて、『香川叢書』第二にも載せられています。
 また、これとは別に歴博に五冊の写本が保管・所蔵されているようです。これらについては資料番号を用いて「歴博914号本」、「歴博915号本」「歴博916号本」、「歴博617号本」、「歴博27号本」と便宜的に呼ばれているようです。
 これらの記された神櫛王に関する事項は次のようになります
①叢書本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。讃留霊公五代孫日向王阿野北条阿野南条郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡」
②歴博九一四号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
③歴博九一五号本 景行天皇条
 同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
④歴博九二(号本 景行天皇条
 日本紀曰、神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。此皇子、讃岐国造之始祖也。
⑤歴博五一七号本 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行天皇、母五十河媛也。皇子、讃岐国造之始祖也。日本紀日、讃留霊公五代孫日向王阿野北條阿野南條郡境国府依令居住給、彼両郡号綾郡卜云云。

ここまでの5冊は、神櫛王に関する記述が景行天皇条のみで、シンプルで、記述内容に大きな変化はありません。内容が変わってくるのは次からです。
⑥歴博二十七号本
 景行天皇条
  同帝神櫛皇子、父景行帝、母五十媛。此皇子、讃岐造之始祖也。大系図景行帝妃五十媛、生神櫛皇子稲背人彦皇子。其兄神櫛皇子、是讃造始祖。弟稲背入彦皇子播磨国別始祖。
  讃岐公系図
 是ヨリ絶諸家ノ譜中、而不分明。後ノ人考侯ツ。山田、三木、寒川、改公賜朝臣家廿八畑其大後家尚多。植田、三谷、十河、一姻別同。
 仁明天皇条
 同帝承和三年三月十九日(中略)
永直等遠祖景行天王十七皇子神櫛命見続日本紀神櫛王被封讃岐造、止住山田郡。陵在牟礼高松間謂王墓(後略)
⑥の歴博27号本には仁明天皇条も加えられ、神櫛王の子孫や墓の位置まで加筆されています。時代が下るにつれて、記事が加えられるのは、何らかの意図があってのことです。この本は加筆が進んだ「異本」とも呼べるものです。しかし、神櫛王墓についての世間の見方がどう変化してきたかを見る上では、注目される資料です。

なんでも鑑定団では、「箱書きが大事だ」とよく言われます。古書もその伝来が問題になります。
これら諸本の「伝来」を、研究者は次のように確認します。
①の「歴博914号本」は高松藩松平家の伝来で、書写年代は分かりませんが「考信閣文庫」という押印があります。考信閣は第九代高松藩主松平頼恕が、天保六年(1835)に梶原藍渠の『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要紀』)の正確を期すために西の丸に建設した建物で、翌年正月には「考信閣文庫」という銅印が作られたようです。その印が押されているので、この書が高松藩で保管されていたことが分かります。伝来のはっきりした信頼がおける書物です。
②の「歴博915号本」も高松松平家の伝来で、表紙に「中山城山書入本」と記された付札があり巻末に城山の践文があります。中山城山は『全讃史』を著した人です。彼が持っていた本のようです。
④の「歴博916号本」は本奥書に、本文と同筆で「承応元年仲春日 石清尾神主 従五位下藤原盛員謹書 讃岐国大日記巻終」と記され、奥書は本文とは異筆で「享和二年中山氏隆助写之」とあります。中山氏隆助については分かりませんが、享和二年(1802)に書写された本のようです。
⑤の「歴博517号本」は奥書がなく、年代は分かりません。
そして、問題の⑥の「歴博27号本」です。この奥書には
「寛政六寅龍集 晩冬三日書畢 美作屋清兵衛」
とあります。この美作屋清兵衛については何も分かりません。伝来がはっきりしない怪しいと思われる本になります。

 次に、これらの書物の記述内容を見てみましょう。
 歴博27号本の奥書を史実とするならば、本書ができた承応元年(1652)以後、美作屋清兵衛によって寛政六年(1794)に書写されるまでの約140年間の間に、大幅な加筆がなされたと推定できます。この間には、いくつもの地誌・歴史書が作られています。
それらと比較すると
①景行天皇条の記載は『南海通記』からの引用
②仁明天皇条の内容は「三代物語」『翁堰夜話』の引用
して「美作屋清兵衛」が加筆したと研究者は考えているようです。南海通記の影響力やおそるべし!です

 歴博27号本のもつ意義は、その内容よりはむしろ、神櫛王に関する認識が18世紀末には、このような形として定着しつつあったことを示していることにあるのかもしれません。
讃岐府志 2巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
2 『讃陽箸筆録(讃岐府志)』
 この書は延宝・天和年間(1673)頃に、高松藩儒臣七條宗貞によって讃岐の歴史・人物・陵墓などについて書かれたものです、神櫛王については
「神櫛、為国造祖、或曰、景行之皇孫」
と記載されているのみで、陵墓の項には何も触れられていません。
Amazon.co.jp: 南海通記eBook: 香西成資, 竹田定直: Kindleストア

4 『南海治乱記』 ・ 『南海通記』
 両書とも香西成資によって著された四国を中心とした軍記物です。『南海治乱記』は、成資が幼少の頃から聞き知った話を歴史的に配列し、寛文三年(1663)に執筆したもので、刊行は半世紀後の正徳四年(1714)になります。
 一方『南海通記』は『南海治乱記』の巻初に、四国における歴史や系譜など三巻を加えるとともに、他巻も増補し、宝永二年(1704))に一応完成しますが、白峰寺に奉納されたのは15年後の享保四年(1719)になります。
 最初に書かれた『南海治乱記』には、神櫛王は出てきませんが、後になって加筆された『南海通記』には巻之二の旧姓考に「讃岐山田郡神櫛王記」という一項が入れられ、次のように神櫛王を登場させています。
日本書紀曰、景行天皇、妃五十河媛生神櫛皇子稲背入彦皇子。其兄神櫛皇子是讃岐国造之始祖也。弟稲背入彦皇子是播磨別之始祖也。
  6 神櫛王系図

  上のような系図を入れて、次のように解説します。
神櫛王は讃岐国山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まり、その後讃岐ノ君と称したと世に伝えられているが、成務天皇四年に国郡に長を立て、県邑に首を置くとあることから、この時に神櫛王は山田郡に封ぜられ、政務を執ったのである。
 『続日本後紀』承和三年の記事に見えるとおり讃岐公永直・永成ら二十八個が神櫛王の子孫である。そして山田郡植田郷は地勢堅固で土地は豊かであるから、一姻はここに居を定めて代々住み、その後裔が分かれて神内、三谷・十河の三家となったのである。 

この『南海通記』の記載から、戦国時代から江戸時代にかけて神内、三谷、十河の三氏がその始祖を神櫛王と称していたことがわかります。山田郡に封ぜられ屋島の浦に止まったという伝承も、この三氏の祖先伝承として語られていたものを、成資が聞き取り『南海通記』に書き込んだようです。
 
しかし、ここでも神櫛王の墓については、何も出てきません。
『南海治乱記』巻十二「阿讃考」及び『南海通記』巻十五「阿讃考三」の「元親自阿州来讃州記」に次の記述があります。
 高松ノ東二大陵アリ 何ノ王ノ陵卜云コトヲ知ラズ
其傍二佐藤継信ヲ葬リタル塚アリ
 そばにあるという佐藤継信の墓は、現在では高松市屋島東町と高松市牟礼町(神櫛王墓の南東50㍍)の二ケ所にありますが、前者は寛永二十年(1643)に松平頼重が新たに造らせたもので、後者も現在地の西に接する平田池の位置にあったとされているようです。池と神櫛王墓は隣接していますから、ここに出てくる大陵が現在の神櫛王墓の丘陵を指すようです。
 この記述は、長曾我部元親が天正十一年(1583)讃岐を攻めた際に、法橋という僧侶が元親に屋島近辺の説明をしたものです。ここからは、戦国時代末期には、地元では王の墓という意識はあったものの、その被葬者が誰であるのかは分かっていなかったことがうかがえます。そして、この逸話がそのまま採録されています。成資が『南海治乱記』を書いた時にも、被葬者は未定であったのです。被葬者が神櫛王という伝承があれば、必ず書いたはずです。
6 神櫛王三代物語jpg

 『三代物語』『翁嘔夜話』
 この書は、神櫛王墓について最初に書かれたものです。『三代物語』は増田休竟によって明和五年(1768)にできた地誌で、郡ごとに神社・名所等についてその歴史・由来などが書かれています。著述の経緯については、増田休意、増田正宅(休意の父)、菊池武信(休意の祖父)の三代が、見聞してきたもののうち重要なものを数百件集めて三巻となしたという断りがあります。
 一方、『翁嘔夜話』は、休意の弟である菊池武賢が延享二年(1745)に完成させたものです。内容は讃岐の地誌で『三代物語』と重なる所が多いようですが、古代から高松藩五代藩主までの歴史が加わっている点が大きな違いです。著述の経緯については、休意の父が書き記し、休意もまた父の意思を継ぎ記録を続けてきました。ある日休意は、弟の菊池武賢のところに今までの記録類を持ち込み校合するように依頼し、武賢は断れずに引き受け完成させ、これに休意が『翁躯夜話』と名付けたというものです。しかし、この本にはそれまで書かれていなかったことが、あたかも古くから云われてきたように紛れ込まされていることが多いのです。要注意の資料です。

6神櫛王4

 その中で神櫛王墓に関する記載は「歴代国司郡司村主田令」の条に次のような内容があります。
①神櫛王が郡司として山田郡を治めたこと、
②その墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と呼ばれていること
が簡潔に書かれています。
 神櫛王が山田郡に居住したということが記されたのは『南海通記』に初めてでした。それが広まっていったようで、さらに「発展」してこの書では牟礼の王墓が神櫛王のものとされるようになります。
わざわざ「青墓・大墓」は王墓の転誂だとわざわざ説明しています。王の墓であることを改めて強調する効果をねらったようにも見えます。ここからは、この古墳が当時は青墓と呼ばれていたことが分かります。
 
 現在の神櫛王墓は、かつて地元の人たちの墓地だったようです。
ここにあったという石仏が高松市牟礼町松井谷墓地に移されています。その石地蔵の背面には次のように刻まれています。
   宝永二(1705年)乙酉
   施主牟礼村信心男女
   奉造立青墓地蔵尊
         願主同村最勝寺堅周
  七月二四日
 この石仏は、神櫛王墓の丘陵から明治期の修復時にここに移転されたものです。これ以外にも元禄十六年(1703)の年号が刻まれた花崗岩製の野机もあります。ここからは現在の神櫛王墓の丘陵が江戸時代には村民の墓地として利用されていたことを示しています。
 
6 讃岐廻遊記
 この本は讃岐の名所旧跡を紹介したもので、進藤政重によって寛政十一年(1799)に発行されていますが神櫛王墓についてはなにも触れていません。

7 讃岐志
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)を著した梶原藍渠が、その編集の傍ら文化・文政年間の十九世紀初め頃に著述した讃岐の地誌です。ここには三木郡の陵墓の項に次のように記されます。
  王墓 在牟礼村神櫛王墓也 有大楠樹

 すでに牟礼の王墓が神櫛王の墓ということが一般に広まっていたようです。「有大楠樹」と大きな樟があったことを報告していますので、作者自ら訪れたようです。信頼性があります。
全讃史 標註国訳(復刻讃岐叢書 1)(中山 城山 / 青井 常太郎 校訂国 ...
8『全讃史』
 中山城山によって天保二年(1832)に編まれ、天保十一年(1840)に改訂された讃岐の歴史書で、全一二巻の大著です。神櫛王については巻二の「人物志上」、墳墓については巻十の「古家志」に次のような記述があります。
 ①人物志上「讃岐国造世紀」
 景行帝更に神櫛王に命じて、其政を検せしめたり。国造本紀に云く、軽島の豊明の朝の御世に、景行帝の児神櫛王三世の孫、須責保疆命に国造を定め賜へり。蓋し讃岐の国造此より始るか。殖田氏の譜を閲するに、曰く人王十二代景行帝第十七の皇子神櫛命を山田郡に封じ、屋島の下に止ると。蓋し今の牟礼の墟を云ふ。(中略)神櫛王蔓じ給ひ此を牟礼に葬りまつる。今の王墓是なり。
 ②古家志
  王墓 津村の東に在り。二つの立石あり。一は則ち高五尺七寸、一は則ち高四尺三寸。皆北面して面に星辰の象を刻せり。或人云ふ。是れ蓋し神櫛王の墓なりと。伝えて言う。昔、此の墓、鳴動して己まざりき。安部清明之を符して止みき。其の言う所の符とは、蓋し星象を刻せるなり。而も何者か櫛王たるを知ざらん。城山逸民因って之を考えるに、書記に日く、景行天皇は八十余子ましまして、日本武尊、稚足彦天皇を除く外の七十余子は、皆国郡に封ぜられて、各々其の国に如くと。

 又云ふ。神櫛皇子は、其れ讃岐国造の始祖なりと。国造本紀に云う。軽島豊明の朝心昌の御世、景行帝の児神櫛王三世孫を讃岐国造に定め給ふと。公家大日記に云う。神櫛王及び稲背入彦は釆を山田郡に食み、屋島の下に止ると。然らば則ち大なる者は神櫛王の墓にして、小なる者は須売保礼命の墓なり。

この特徴は、今までの地誌・歴史書に較べると墓の内容が具体的になっている点です。星辰の象を刻んだ立石が二基あることに注目し、それぞれの被葬者の比定を試みています。そして、大きい立石を神櫛王の墓としています。

6 神櫛王墓石?jpg
 作者の城山はこの書とは別に「全讃聞見録」も書いていますが、そこには、神櫛王墓の二基の立石の上図を残しています。この立石を誰がいつ、どのように据えたのかは分かりません。墳墓に墓標を置くことが一般化するのは江戸時代になってからで、明治初期に丘陵全域が神櫛王墓として修造される直前までは、丘陵は墓地として利用され多くの墓石が林立していたことは先ほど述べた通りです。この二石は、それらの中でも大きく目立つものだったののかもしれません。
 ここからは中山城山に、古墳の概念がなかったことがうかがえます。「墓=墓石」なのです。
それが当時の讃岐人の「王墓」に対する認識だったようです。
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9 讃岐国名勝図会
 『帝王編年之一国史』(後の『歴朝要記』)や『讃岐志』を著した梶原藍渠とその子藍水によって編まれた地誌で、嘉永六年(1853)に完成します。全一五巻の巻三の三木郡牟礼村の項に神櫛王について次のように記されます。
王墓 同所、往来の傍ら岡にあり。相伝ふ、神櫛王山田郡を治めたまひ、この郡に崩じここに葬りしゆゑ王墓とはいえり。往古、牟礼・高松の村民、五月五日この地にて飛棟相撃、これを印人撃といふ、けだし戦場の遺事ならん、今は絶えたり。
 神櫛王は、景行天皇の皇子、母は五十河媛、讃岐国造なり。寒川・三木・山田諸郡に苗裔多し。植田・神内・十河氏はその裔なり。今王の墓といへる物二基あり。おもふに一基は武鼓王を祭りしならん。
 右の王墓の説明の前半部分は『翁嘔夜話』三木郡条、後半の神櫛王の系譜部分は同書の山田郡を参考にしたようです。王の墓が二基あると言うのは『全讃史』の解釈を踏襲しています。二基のうち一基の被葬者を、武鼓王としている点がこの書の独自性です。
 ちなみに、崇徳暗殺説を最初に出しているのもこの本です。

 神櫛王墓が作り出された過程と背景
 以上のように讃岐近世の地誌・歴史書を見てみると、『翁躯夜話』が神櫛王墓に触れた最初のもので、これ以後「牟礼の王墓」が神櫛王の墓とされ、地誌・歴史書に広がっていく過程を見てきました。それを研究者は次のように整理しています。
   「第一期」(17世紀まで)
神櫛王について地誌・歴史書に取り上げられているが、その内容は古代の史料の範囲内である。後
に神櫛王墓となる丘陵は地元では王の墓であるという見方はあるが、それが神櫛王とは結びついていない段階。
   【第二期】(18世紀初め)
 神櫛王が山田郡を治めたということが広まり始めた段階です。この時期には神内、三谷・十河の三族において、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られ、これを香西成資が『南海通記』に採録し、神櫛王が山田郡を治めたということが讃岐の歴史の一部となっていきます。しかし、墳墓についてはまだ特定されていない段階で、後に神櫛王墓となる丘陵は村民の墓地として利用されていました。
  「第三期」(18世紀半ばに墓が特定される段階)
『翁嘔夜話』が初めて「墓は三木郡牟礼郷にあり王墓と俗称される」と記し、18世紀末には『讃岐国大日記』の写本にこのことが書き加えられ、それ以後も「讃岐志」などで取り上げられ広がっていく段階です。
   「第四期」(19世紀前半の時期)
 『全讃史』において墓地の中にある二つ墓石が注目され、大きい方が神櫛王の墓とされます。

 以上のような過程を経て、地元の人たちが立石を神櫛王の墓と語り伝えるようになったようです。しかし、そうなっても藩の記録や地誌・歴史書を見る限り神櫛王墓が特別な扱いを受けた様子は見られません。村民の墓地の中に、神櫛王の墓石はあり、村民の墓石と並び立っていたようです。

 ところで香川県のもう一つの陵墓である白峯陵は、高松藩においては初代藩主頼重が手を入れ修築します。五代藩主頼恭は、600年忌にあたり宝暦十三年(1763)にも修繕され、石灯寵一対が奉納されています。これを神櫛王墓と比べると、対照的に見えます。
 高松松平家は、水戸徳川家の分家であり水戸本家の学風、思想を継承しているとされます。水戸一族の家訓である「天朝に忠ならしむる」という尊王思想を受け継いたはずです。しかし当時の尊王思想は、天皇に対する崇拝の念であって、皇子・皇女にまでは及んでいなかったようです。それが高松藩の神櫛王墓の扱いからうかがえます。

 神櫛王墓は、皇子の墓としては最も早い時期に修造の決定が政府によって行われています。明治政府は、明治四年二月に太政官布告を出し、后妃・皇子・皇女の調査を始めます。それより前の明治2年に、神櫛王墓は新政府に修理伺いを出して、明治3年9月には工事が終わっているのです。この早さは、異様に見えます。どうして、こんなに早かったのでしょうか・

 江戸時代の陵墓の探索・修復は、天皇陵を主な対象として何度か行われていました。そして安政期には調査の精密度が増し、文久期には内容・規模が大幅に拡充され、一定の形式が整えられていきます。
 明治四年の布告は、江戸時代の「実績」を踏まえたものだったようです。その調査には「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などの6項目についての報告が求められています。これらに携わったのは、讃岐の神仏分離政策の大本締めとして活躍した多和神社の神主・松岡調であったことは以前お話ししました。彼は、東讃の神社全てを訪ねて、その祭神などをチェックし、仏教色の強い祭神を本殿から排除する作業を行っています。これらの作業は彼にとっては「讃岐宗教史」を学ぶフィルドワークの機会となり、彼の学問的な知見を飛躍的に向上させることになります。
 その後、松岡調は金毘羅宮の禰宜として、そこに琴平に神道の香川県惣社の指導者として、明治の宗教政策を指導していく立場に立ちます。当時の彼の手元にも、神櫛王墓の扱いについての公文書は回ってきたはずです。それへの対応をどうするかを決定する立場にあったのが彼だと私は考えています。あるいは、政府の調査を見越して神櫛王墓の修造を行わせたのも彼かもしれません。
 松岡調は、神櫛王墓のことをよく知っていたはずです。私たちが今までに見てきた資料も古文書を集めを趣味としていた彼の手元にはあったでしょう。新政府が求めた6つの調査項目である「石碑・石塔・位牌の存在や古文書・古器や古老の言い伝え」などは、彼ならすぐに書けたはずです。
 つまり江戸時代に積み上げられ集積された神櫛王墓の情報と松岡調の存在が神櫛王墓修造の決定を早めた要因のひとつだったのではないでしょうか。
 

  以上、高松方面での神櫛王伝説とその墓について見てきました。
全体をまとめたおきます
①紀記には、神櫛王は系譜だけが書かれ、悪魚退治やその墓などについては書かれていない。
②中世になって綾氏が神櫛王(讃留霊王)を、始祖とする「綾氏系譜」が作られる。
③ここに初めて「悪魚伝説」が登場し、綾氏に繋がる武士団の顕彰物語として広がる。
④高松方面では、神内、三谷・十河の三族が、神櫛王を始祖とする祖先系譜が作られる
⑤香西成資の『南海通記』にも採録されし、神櫛王伝説が広がる
⑦江戸時代後半になると牟礼の丘陵墓地が神櫛王墓とされるようになる。こうして出来上がった神櫛王墓は、明治になるといち早く王墓に指定され宮内庁の管理下に置かれることになる。
⑧並んでいた墓石や石仏は、王墓エリアから取り除かれる
⑨戦前には皇国史観の元で讃岐始祖「神櫛王」の墓として、歴史教育などでも必ず取り上げられるようになる
⑩戦後の皇国史観排除によって、神櫛王の比重は低下し、彼が歴史的に取り上げられることはなくなった。そのため神櫛王が何者であるのか、王墓がどこにあるのかも触れられることはなくなった。

参考文献 大山真充 近世における神櫛王墓 香川県歴史博物館調査研究報告 第2号

讃岐の古代豪族9ー1 讃留霊王の悪魚退治説話が、どのように生まれてきたのか

崇徳天皇(すとくてんのう)とは - コトバンク

瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の 
           われても末に あわむとぞ思ふ
 この歌は「小倉百人一首」の一首で、今は渓谷の瀬が大きな岩によって分け隔てられている。しかし、引き裂かれた二人も未来には会えるときがきっと来ると歌った恋歌と言われます。この歌の作者こそが、後に大魔王と称されるようになる崇徳院なのです。
この落差はどうして生まれたのでしょうか?
 中世になると、強い怨念を持って死んだ者が天狗になるという考え方が生まれて来ます。
仏教の悪魔的存在の魔縁も、怨霊の化した天狗と見なされるようになります。『保元物語』(鎌倉初期)によると、崇徳院は怨念の為に、経文に血で呪文を記し、生きながら天狗となったといいます。日本の怨霊を語る際に、トップバッター的な存在が崇徳上皇なのです。彼は
「日本内乱を司る荒ぶるる禍御魂」
「天下大乱を画する天狗評定の主催者」
「本邦の魔を統べる大魔王」
というキャッチフレーズで語り継がれていくことになります
E2 天狗になった天皇. - 日本の伝説 異界展
 いったい彼に何が起きたというのでしょう。
 崇徳院は、父の鳥羽上皇から疎まれ不遇の時を過ごします。というのも母は鳥羽院の皇后璋子ですが、伝説では実は崇徳院は鳥羽院の子ではなく、待賢門院と白河院との子で、そのため鳥羽院は彼を「叔父子」と呼んだとされます。
鳥羽上皇と崇徳天皇の対立 | 日本の歴史 解説音声つき
このようなことから崇徳院は、異母弟である後白河天皇との対立し、保元の乱を起こします。そして敗北し、讃岐に流されるのです。せめて、自らが写した経典だけでも都へ帰して欲しいと大乗経を都へと送るのですが、後白河方によって突き返されてしまうのです。
 それもそのはず、崇徳院は、五部大乗経を血書で写経していたのです。
 崇徳院からすれば心底からのお詫びをしめしたものだったのかもしれませんが、宮廷では恐れ怪しみます。五部大乗経の写経は絶大な功力があるとされ、本職の僧侶でさえ一部でも読破すれば、満貫の難解長大な経典といわれ、五部全て写経すれば願うこと適わざることなきとされる霊験現かなお経だったようです。
 これは何かの呪いではないかと疑われたのは当然といえば当然でしょう。
「後世のためにと書きたてまつる大乗経の敷地をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、われ生きても無益なり」
と絶望した崇徳院は髪も爪も切らず、生きながら凄まじき姿へと変貌します。そして、崇徳上皇は
「日本国の大魔縁となり、皇(すめらぎ)を取って民となし、民を皇となさん」

と、舌の先を食いちぎり、その血を以て大乗経に呪詛の誓文を記して海に沈めたたのです。
 その様子を『源平盛衰記』は
柿の御衣の煤けたるに、長頭巾を巻きて、大乗経の奥に御誓状を遊ばして、千尋の底に沈め給う。 その後は御爪をも切らせ給わず、御髪も剃らせたまわで、御姿を窶し悪念に沈み給いけるこそおそろしけれ」
と記し、『保元物語』は
「生きながら天狗の姿にならせたもうをあさましき」
と表現します。
悲劇の崇徳上皇 - さわやか易(別館)
天狗になった崇徳上皇

ちなみに、後には後白河院の病気や平清盛の死についても、崇徳院の祟りのせいだと京の人々には信じられるようになります。祟りを怖れた後白河院や平氏は、讃岐院と呼んでいた崇徳上皇に「崇徳院」の名を贈ったり、慰霊のための寺(頓証寺、後白河上皇)を建立したり、陵へ参拝するなど、崇徳院の御霊を鎮めるために様々な行為を行っています。これも菅原道真の御怨霊対策の時と同じです。
崇徳院のTwitterイラスト検索結果。
崇徳上皇

 長寛2年(1164年)崇徳院は九年の流亡の後に崩じます。
 『源平盛衰記』によればその葬儀の際に、柩から血が溢れ出し、柩が置かれた石を真赤に染めたといいます。その場所には「血の宮」の地名が残されます。朝廷側の検視を受けるため御遺体を八十場の泉に約20日間にわたって浸したともいいます。上皇の死因は軍記物語にも『白峯寺縁起』にも記されていません
これに対して「上皇暗殺説」がいつの時代からか語られるようになります。崇徳上皇の死の原因を暗殺とするものです。
まず、崇徳上皇と関連のある坂出市の松山地域の歴史を編んだ『綾・松山史』を見てみましょう。そこには次のように記されています。
「暗殺説は『讃州府誌』という書物にあり、上皇の悲運の最後を綴った数少ない史伝とし、人間的な悲劇性から生まれた庶民伝承
としています。
しかし、本当に庶民の間で伝え受け継がれてきた話なのでしょうか。
出典とする『讃州府誌』は、大正四年(1915)に刊行された史書で、暗殺場面を次のように記します。
『讃州府志』 御崩御   
院ノ御崩御ニ付テハ記スダニモ恐レ多キ事ドモナルガ、本書原本ノ記スル所二依バ長寛二年八月二十六日二條帝陰ニ讃ノ士人三木近安(保)ナル者ニ命シ戕(しょう)セシム 時ニ近安驄馬(そうば=青馬)ニ乗リ紫手綱ヲ取テ鼓ヲ襲フ 院知リ玉ヒ急ニ之ヲ避ケ路ノ傍ノ大柳樹ノ穴ニ匿レ玉フ 近安之ヲ探シ索メ執テ之ヲ害シ奉リ遂ニ崩ス 御年四十六 是ニ因テ三木姓ノ者、驄馬紫衣ノ者、白峯ヘ上ルヲ得スト云フ
暗殺については「本書原本ノ記スル所二依バ」と前書きがあります。つまり讃州府志は江戸時代の『夜話』の内容を、ほぼそのまま書き写したもので、フィルドワークなどを行って伝承を採録したものではないようです。その「原書」とは「翁のう夜話」(以下夜話)という江戸時代の延享2年(1745)に出された讃岐の地誌・史書です。これを高松松平家の伝来本で、該当箇所を読み下すと次のようになります。
長寛二年八月二十六日帝二条院陰に讃之士人三木某者に勅して讃岐院を栽せしむ。三木氏騎馬に騎りて鼓岡を襲う。讃岐院急に之を避く。その路の傍に柳樹あり。大きさ合抱にしてその後ろは朽ちて孔をなし僅かに以って身を容れるべし。廼ちその中に匿れ気をふさぎ息もせず。三木氏これを索むに甚だ務め遂に執らえてこれを害す

 讃州府誌の内容と、ほとんど変わりません。
確かに暗殺説の「原典」は夜話のようです。内容を見てみると、暗殺者の名前や日時などが非常に具体的に記述されています。上皇が逃げた先が大きな柳のむくろであったことも記されています。しかし、あまりにもリアルで具体的すぎるのです。戦記物のノリで脚色されたことがうかがえる史料です。また、その根拠とした史料も示されていません。語り伝えられてきた事とも書かれていません。仮に口承なり、伝承なりの史料が伝わっていたら『夜話』以前の史書・地誌等で触れられておかしくないのですが、それも見当たりません。
夜話を書いたのは?
 『夜話』の著者は菊池武賢で、父の増田正宅の見聞録を武賢の兄である増田休意が増補し、その記録をもとに武賢がまとめ直したものです。兄の休意が別にまとめた『三代物語』にも、これとほぼ同じ文章が載せられています。そして両書から約百年後の『全讃史』にも同じ内容が掲載されますが、その内容には全くといっていいほど差がないのです。これは「伝承」としては不自然です。
 また、菊池兄弟の著した『夜話』や『三代物語』には、それ以前の讃岐の地誌・歴史書に見られない事項が、根拠なく史実かのように記述されていることが多々あるようです。そのため崇徳上皇の暗殺話も、両書で形が整えられたと推測されます。このように「暗殺説」は、江戸時代中期の憶説で「創作」されたものと研究者は指摘します。
ところが江戸中期に創作された「暗殺説」が世間に広がる時がやってきます。
 日清日露戦争後、日本は皇国史観による忠君愛国にもとづく歴史教育が本格化する一方、王政に関係するものを顕彰するようになります。そのような中で大正2年(1913)の「名蹟名勝天然紀念物保存法」が制定されます。
 崇徳上皇の顕彰運動と讃州府誌発行や柳田碑文建立の前後を年表にしてみましょう。
大正2年 崇徳上皇750年忌祭。近隣市町村長が出席し盛大に開催
大正4年「讃州府誌」刊行 「夜話」を引用し「上皇暗殺説」を記載
大正8年 史蹟名勝天然紀念物保存法制定。崇徳上皇関連地が指定候補になる
大正8年 八十場の泉の横に県社白峰宮碑
大正9年 白峰寺参道入口に白峰宮殯殿遺蹟碑建立
大正9年 高屋神社に御棺基石碑建立
大正10年「柳田」碑建立
大正11年 昭和天皇が摂政として讃岐を訪れ、白峯陵を参拝
このように大正時代には、崇徳上皇への崇敬や顕彰の動きが高揚して行くのです。例えば、上皇の行在所は江戸末期までは、八十場の崇徳天皇社とされていました。
白峰宮(明ノ宮) (香川県坂出市西庄町 神社 / 神社・寺) - グルコミ
八十場の崇徳天皇社
しかし、崇徳上皇の顕彰運動が高まる府中村では、鼓岡神社を上皇行在所の場所として社、鳥居などを整えていきます。

「府中は讃岐国府があった雄所ある地だ。加えて「崇徳さん」が住まわれていたとなれば、恐れ多くも有難いことだ」

という願い共に「地域興し」の狙いもあったようです。
有力者も行政も支援する官民一体の運動の結果、いつの間にか「鼓岡」行在所説が世間に認知されていくようになります。そして江戸末期まで広く認識されていた「明の宮」天皇社=行在所の伝承は「変化」していくことになります。
鼓岡神社 - 香川県坂出市 - 八百万のかみのやしろ巡り
  さて、年表の最後に出てきた「柳田」碑とは何でしょうか。
この碑はJR予讃線の線路脇にあります。私が最初にこの碑と出会ったのは国府周辺を散策していたときでした。説明板がないために、最初は何の碑なのかは分かりませんでした。ネットで検索する内に坂出市の観光パンフレットに、写真入で「上皇の暗殺場所」と説明されているのに出会いました。「夜話」の中に、上皇が危険を察して逃げ出した際に柳の大木があった所で、この中に隠れていたところ見つかったとされる所です。つまり「暗殺現場」ということになるのでしょうか。それを記すために建立された碑文が「柳田」碑なのです。
  
 高揚する顕彰運動の中で、高松高等女学校教官などを務めた赤松景福は、
大正五年に次のように言っています。
(香川新報「鼓岡霊蹟顕彰誌」・「府中史蹟」)。
讃岐の史跡を語るならばまず府中村の史跡を探討すべきである。将来学生が修学旅行でここを訪れるのは学問に大いに資するところがあるが、施設がなくては益がない。まずは石標・石碑などの置き、訪問者によくわかるように便利を図ることが差し当たりのことである」

と暗殺場所への石碑設置の必要性について力説します。こうして5年後に「柳田」碑は設置されます。
 石碑などは、それが設置されるとそれにまつわる話が視覚化され、場所の固定化が進みます。そしてそれが「遺跡」と混同されてしまう恐れも出てきます。それは百年後の我々が郷土の歴史像を形作っていく際の「反面教師」にはなるかも知れませんがプラスとはなりません。石碑の設置やその後の利用に際しては充分な配慮が必要な所以です。
最後に、現在の史書は「上皇暗殺説」に対して、どのように向き合い、どんな記述をしているのかを見ておくことにしましょう。
戦後に出された『府中村史』では、暗殺については
「推測想像した話で、根本史料に出ていない」とさらりと退け、柳田という地名については「崇徳天皇が身を隠し遊ばれた大きな柳があったというので柳田と称する」

と記すのみです。『香川県史2 中世』では、

「崇徳上皇の讃岐配流についてはほとんど伝承あるいは伝説に類するものであって、正しい史実を確定するのは難しい」

として、暗殺説はもとより多くを記述していません。
 「歴史は事実に即して叙述される」のは当然です。しかし、史料がなくて史実が分からない部分については語れないことになり「空白」ばかりとなります。その結果、謎の3世紀、空白の世紀、邪馬台国の卑弥呼探しのように、いくつも「憶説」が生まれ飛び交うことになります。そして、年月が経つと「上皇暗殺説」ように伝承や伝説として安易に処理されることにもなります。

 「地域史の叙述に当たっては、空白をそのままにしておくのではなく、諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢も必要」

と研究者は振り返っています。上皇暗殺説は、江戸時代に仕込まれた種が、大正時代に無批判に取り上げられ、石碑となりました。「諸説を検証し、その結果を記しておく姿勢」がなかった結果、現代にまた「再生」されつつある説なのかもしれません

参考文献 大山真充 伝説と地方研究 香川歴史学会編香川歴史紀行所収

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