瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三好千熊丸諸役免許状

真宗興正派 2024年6月28日講演
安楽寺(美馬市郡里)
吉野川の河岸段丘の上にあるのが安楽寺です。周辺には安楽寺の隠居寺がいくつかあり寺町と呼ばれています。中世には、門徒集団が寺内町を形成していたと研究者は考えています。後が三頭山で、あの山の向こうは美合・勝浦になります。峠越の道を通じて阿讃の交流拠点となった地点です。

 手前は、今は水田地帯になっていますが、近世以前は吉野川の氾濫原で、寺の下まで川船がやってきていて川港があったようです。つまり、川港を押さえていたことになります。河川交易と街道の交わるところが交通の要衝となり、戦略地点になるのは今も昔も変わりません。そこに建てられたのが安楽寺です。ここに16世紀には「寺内」が姿を現したと研究者は考えています。

安楽寺


安楽寺の三門です。赤いので「赤門寺」と呼ばれています。江戸時代には、四国中の100近い末寺から僧侶を目指す若者がやって来て修行にはげんだようです。ここで学び鍛えられた若き僧侶達が讃岐布教のためにやってきたことが考えられます。安楽寺は「学問寺」であると同時に、讃岐へ布教センターであったようです。末寺を数多く抱えていたので、このような建築物を建立する財政基盤があったことがうかがえます。

安楽寺2
安楽寺境内に立つ親鸞・蓮如像

八間の本堂の庭先には、親鸞と蓮如の二人の像が立っています。この寺には安楽寺文書とよばれる膨大な量の文書が残っています。それを整理し、公刊したのがこの寺の前々代の住職です。

安楽寺 千葉乗隆
安楽寺の千葉乗隆氏
先々代の住職・千葉乗隆(じょうりゅう)氏です。彼は若いときに自分のお寺にある文書を整理・発行します。その後、龍谷大学から招かれ教授から学部長、最後には学長を数年務めています。作家の五木寛之氏が在学したときにあたるようです。整理された史料と研究成果から安楽寺の讃岐への教線拡大が見えてくるようになりました。千葉乗隆の明らかにした成果を見ていくことにします。まず安楽寺の由来を見ておきましょう。

安楽寺 開基由緒
安楽寺由来
ここからは次のようなことが分かります。
①真宗改宗者は、東国から落ちのびてきた千葉氏で、もともとは上総守護だったこと
②上総の親鸞聖人の高弟の下で出家したこと
③その後、一族を頼って阿波にやってきて、安楽寺をまかされます。
④住職となって天台宗だった安楽寺を浄土真宗に改宗します。
その時期は、13世紀後半の鎌倉時代の 非常に早い時期だとします。ここで注意しておきたいのは、前回見た常光寺の由来との食違いです。常光寺の由来には「佛光寺からやってきた門弟が安楽寺と常光寺を開いた」とありました。しかし、安楽寺の由緒の中には常光寺も仏国寺(興正寺)も出てきません。ここからは常光寺由来の信頼性が大きく揺らぐことになります。最近の研究者の中には、常光寺自体が、もともとは安楽寺の末寺であったと考える人もいるようです。そのことは、後にして先に進みます。

 安楽寺の寺史の中で最も大きな事件は、讃岐の財田への「逃散・亡命事件です。

安楽寺財田亡命

 寺の歴史には次のように記されています。永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田に転じて宝光寺を建てた。これを深読みすると、次のような疑問が浮かんできます。ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。その疑問と解く鍵を与えてくれるのが次の文書です。

安楽寺免許状 三好長慶
三好千熊丸諸役免許状(安楽寺文書)

三好千熊丸諸役免許状と呼ばれている文書です。下側が免許状、上側が添え状です。これが安楽寺文書の中で一番古いものです。同時に四国の浄土真宗の中で、最も古い根本史料になるようです。読み下しておきます。
文書を見る場合に、最初に見るのは、「いつ、誰が誰に宛てたものであるか」です。財田への逃散から5年後の1520年に出された免許状で、 出しているのは「三好千熊丸」  宛先は、郡里の安楽寺です。

 興正寺殿より子細仰せつけられ候。しかる上は、早々に還住候て、前々の如く堪忍あるべく候。諸公事等の儀、指世申し候。若し違乱申し方そうらわば、すなわち注進あるべし。成敗加えるべし。

意訳します。

安楽寺免許状2

三好氏は阿波国の三好郡を拠点に、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して畿内と四国を制圧します。信長に魁けて天下人になったとされる戦国武将です。安楽寺はその三好氏から課役を免ぜられ保護が与えらたことになります。
 短い文章ですが、重要な文章なのでもう少し詳しく見ておきます。

安楽寺免許状3


この免許状が出されるまでには、次のような経過があったことが考えられます。
①まず財田亡命中の安楽寺から興正寺への口添えの依頼 
②興正寺の蓮秀上人による三好千熊丸への取りなし
③その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
 という筋立てが考えられます。ここからは安楽寺は、自分の危機に対して興正寺を頼っています。そして興正寺は安楽寺を保護していることが分かります。本願寺を頼っているのではないことを押さえておきます。

 三好氏の支配下での布教活動の自由は、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えることを意味します。安楽寺が讃岐方面に多くの道場を開く時期と、三好氏の讃岐進出は重なります。

安楽寺免許状の意義

 先ほど見たように興正寺と安楽寺は、三好氏を動かすだけの力があったことがうかがえます。⑥のように「課税・信仰を認めるので、もどってこい」と三好氏に言わしめています。その「力」とは何だったのでしょうか? それは安楽寺が、信徒集団を結集させ社会的な勢力を持つようになっていたからだと私は考えています。具体的には「寺内」の形成です。

寺内町
富田林の寺内町
この時期の真宗寺院は寺内町を形成します。そこには多様な信徒があつまり住み、宗教共同体を形成します。その最初の中核集団は農民達ではなく、「ワタリ」と呼ばれる運輸労働者だったとされます。そういう視点で安楽寺の置かれていた美馬郡里の地を見てみると、次のような立地条件が見えて来ます。
①吉野川水運の拠点で、多くの川船頭達がいたこと
②東西に鳴門と伊予を結ぶ撫養街道が伸びていたこと
③阿讃山脈の峠越の街道がいくつも伸びていたこと
ここに結集する船頭や馬借などの「ワタリ」衆を、安楽寺は信徒集団に組み入れていたと私は考えています。
 周囲の真言系の修験者勢力や在地武士集団の焼き討ちにあって財田に亡命してきたのは、僧侶達だけではなかったはずです。数多くの信徒達も寺と共に「逃散・亡命」し、財田にやってきたのではないでしょうか。それを保護した勢力があったはずですが、今はよく分かりません。
  財田の地は、JR財田駅の下の山里の静かな集落で、寶光寺の大きな建物が迎えてくれます。ここはかつては、仏石越や箸蔵方面への街道があって、阿讃の人とモノが行き交う拠点だったことは以前にお話ししました。中世から仁尾商人たちは、詫間の塩と土佐や阿波の茶の交易を行っていました。そんな交易活動に門徒の馬借達は携わったのかも知れません。

安楽寺の財田亡命

安楽寺の讃岐への布教活動の開始は、財田からの帰還後だと私は考えています。つまり1520年代以後のことです。これは永世の錯乱後の讃岐の動乱開始、三好氏の讃岐侵攻、真言勢力の後退とも一致します。

どうして、安楽寺は讃岐にターゲットを絞ったのでしょうか?

安楽寺末寺分布図 四国


江戸時代初期の安楽寺の末寺分布を地図に落としたものです。

①土佐は、本願寺が堺商人と結んで中村の一条氏と結びつきをつよめます。そのため、土佐への航路沿いの港に真宗のお寺が開かれていきます。それを安楽寺が後に引き継ぎます。つまり、土佐の末寺は江戸時代になってからのものです。

②伊予については、戦国時代は河野氏が禅宗を保護しますので真宗は伊予や島嶼部には入り込めませんでした。また、島嶼部には三島神社などの密教系勢力の縄張りで入り込めません。真宗王国が築かれたのは安芸になります。
③阿波を見ると吉野川沿岸部を中心に分布していることが分かります。これを見ても安楽寺が吉野川水運に深く関わっていたことがうかがえます。しかし、その南部や海岸地方には安楽寺の末寺は見当たりません。どうしてでしょうか。これは、高越山や箸蔵寺に代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。これを悟った安楽寺は、阿讃の山脈を越えた讃岐に布教地をもとめていくことになります。

讃岐の末寺分布を拡大して見ておきましょう。

安楽寺末寺分布図 讃岐


讃岐の部分を拡大します。

①集中地帯は髙松・丸亀・三豊平野です。

②大川郡や坂出・三野平野や小豆島・塩飽の島嶼部では、ほぼ空白地帯。

この背景には、それぞれのエリアに大きな勢力を持つ修験者・聖集団がいたことが挙げられます。例えば大川郡は大内の水主神社と別当寺の与田寺、坂出は白峰寺、三野には弥谷寺があります。真言密教系の寺院で、多くの修験者や聖を抱えていた寺院です。真言密教系の勢力の強いところには、教線がなかなか伸ばせなかったようです。そうだとすれば、丸亀平野の南部は対抗勢力(真言系山伏)が弱かったことになります。善通寺があるのに、どうしてなのでしょうか。これについては以前にお話ししたように、善通寺は16世紀後半に戦乱で焼け落ち一時的に退転していたようです。
 こうして安楽寺の布教対象地は讃岐、その中でも髙松・丸亀・三豊平野に絞り込まれていくことになります。安楽寺で鍛えられた僧侶達は、讃岐山脈を越えて山間の村々での布教活動を展開します。それは、三好氏が讃岐に勢力を伸ばす時期と一致するのは、さきほど見た通りです。安楽寺の讃岐へ教線拡大を裏付けるお寺を見ておきましょう。

東山峠の阿波側の男山にある徳泉寺です。
この寺も安楽寺末寺です。寺の由来が三好町誌には次のように紹介されています。


男山の徳泉寺
徳泉寺(男山)


ここからは安楽寺の教線が峠を越えて讃岐に向かって伸びていく様子がうかがえます。注目しておきたいのは、教順の祖先は、讃岐の宇足郡山田の城主後藤氏正だったことです。それが瀧の宮の城主蔵人に敗れ、この地に隠れ住みます。そのひ孫が、開いたのが徳泉寺になります。そういう意味では、讃岐からの落武者氏正の子孫によって開かれた寺です。ここでは安楽寺からのやってきた僧侶が開基者ではないことをここでは押さえておきます。安楽寺からの僧侶は、布教活動を行い道場を開き信徒を増やします。しかし、寺院を建立するには、資金が必要です。そのため帰農した元武士などが寺院の開基者になることが多いようです。まんのう町には、長尾氏一族の末裔とする寺院が多いのもそんな背景があるようです。
安楽寺の僧が布教のために越えた阿讃の峠は?

安楽寺の僧が越えた阿讃の峠
阿讃の峠

安楽寺の僧侶達は、どの峠を越えて讃岐に入ってきたかを見ておきましょう。各藩は幕府に提出するために国図を作るようになります。阿波蜂須賀藩で作られた阿波国図です。吉野川が東から西に、その北側に讃岐山脈が走ります。大川山がここです。雲辺寺がここになります。赤線が阿讃を結ぶ峠道です。そこにはいくつもの峠があったことが分かります。安楽寺のある郡里がここになります。
 相栗峠⑪を越えると塩江の奥の湯温泉、内場ダムを経て、郷東川沿いに髙松平野に抜けます。
三頭越えが整備されるのは、江戸時代末です。それまでは⑨の立石越や⑧の真鈴越えが利用されていました。真鈴越を超えると勝浦の長善寺があります。⑦石仏越や猪ノ鼻を越えると財田におりてきます。
そこにある寶光寺から見ておきましょう。

寶光寺4

 寶光寺(財田上)

寶光寺は、さきほど見たように安楽寺が逃散して亡命してきた時に設立された寺だと安楽寺文書は記します。しかし、寶光寺では安楽寺が亡命してくる前から寶光寺は開かれていたとします。

寶光寺 財田

開基は「安芸宮島の佐伯を名のる社僧」とします。そのため山号は厳島山です。当時の神仏混淆時代の宮島の社僧(修験者)が廻国し開いたということになります。そうすると寶光寺が安楽寺の亡命を受けいれたということになります。讃岐亡命時代の安楽寺は、僧侶だけがやってきたのではなく、信徒集団もやってきて「寺内町」的なものを形成していたと私は考えています。

先ほども見たように財田への「逃散」時代は、布教のための「下調べと現地実習」の役割を果たしたと云えます。そういう意味では、この財田の寶光寺は、安楽寺の讃岐布教のスタート地点だったといえます。

寶光寺2

寶光寺
寶光寺は今は山の中になりますが、鉄道が開通する近代以前には阿讃交流の拠点地でした。財田川沿いに下れば三豊各地につながります。この寺を拠点に三豊平野に安楽寺の教線は伸びていったというのが私の仮説です。 それを地図で見ておきます。

 

安楽寺末寺 三豊平野


安楽寺の三豊方面への教線拡大ルートをたどってみます。
拠点となるのが①財田駅前の寶光寺 その隠居寺だった正善寺、和光中学校の近くの品福寺などは寶光寺の末寺になります。宝光寺末に品福寺、正善寺、善教寺、最勝寺などがあり、阿讃の交易路の要衝を押さえる位置にあります。三好氏の進出ルートと重なるのかも知れません。②山本や豊中の中流域には末寺はありません。流岡には、善教寺と西蓮寺、坂本には仏証寺・光明寺、柞田には善正寺があります。。注意しておきたいのは、観音寺の市街にはないことです。観音寺の町中の商人層は禅宗や真言信仰が強かったことは以前にお話ししました。そのためこの時期には浄土真宗は入り込むことができなかったようです。

安楽寺の拠点寺院

ここからは寶光寺を拠点に、三豊平野に安楽寺の教線ルートが伸びたことがうかがえます。その方向は山から海へです。

今回はここまでとします。次回は安楽寺の丸亀方面への動きを見ていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

  まんのう町の「ことなみ道の駅」から県境の三頭トンネルを抜けて、つづら折りの国道438号を下りていったところが美馬町郡里(こおさと)です。「郡里」は、古代の「美馬王国」があったところとされ、後に三野郡の郡衙が置かれていたとされます。そのため「郡里」という地名が残ったようです。「道の駅みまの家」の南側には、古代寺院の郡里廃寺跡が発掘調査されていて、以前に紹介しました。

郡里廃寺跡 クチコミ・アクセス・営業時間|吉野川・阿波・脇町【フォートラベル】
郡里廃寺跡

この附近は讃岐山脈からの谷川が運んできた扇状地の上に位置し、水の便がよく古くから開けていきた所です。美馬より西の吉野川流域は、古代から讃岐産の塩が運び込まれていきました。その塩の道の阿波側の受け取り拠点でもあった美馬は、丸亀平野の古代勢力と「文化+産業+商業」などで密接な交流をおこなています。例えば、まんのう町の弘安寺跡から出土した白鳳期の古代瓦と同笵の瓦が郡里廃寺から見つかっています。讃岐山脈の北と南では、峠を越えた交流が鉄道や国道が整備されるまで続きました。

美馬市探訪 ⑥ 郡里廃寺跡 願勝寺 | 福山だより
郡里廃寺跡南側の寺町の伽藍群

 郡里廃寺の南側には、寺町とよばれるエリアがあって大きな伽藍がいくつも建っています。
それも地方では珍しい大型の伽藍群です。最初、このエリアを訪れた時には、どうしてこんな大きな寺が密集しているのだろうかと不思議に思いました。今回は郡里寺町に、大きなお寺が集まっている理由を見ていくことにします。その際に「想像・妄想力」を膨らましますので「小説的内容」となるかもしれません。
 地域社会と真宗 千葉乗隆著作集(千葉乗隆) / 光輪社 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

テキストは、千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」です。千葉氏は、郡里の安楽寺の住職を務める一方で、龍谷大学学長もつとめた真宗研究家でもあります。彼が自分の寺の「安楽寺文書」を整理し、郡里村の寺院形成史として書いたのがこの論文になります。
安楽寺3
河岸台地の上にある安楽寺と寺町の伽藍群
 寺町は扇状地である吉野川の河岸段丘の上に位置します。
安楽寺の南側は、今は水田が拡がりますが、かつては吉野川の氾濫原で川船の港があったようです。平田船の寄港地として栄える川港の管理センターとして寺は機能していたことが考えられます。
 この寺町台地に中世にあった寺は、真宗の安楽寺と真言宗の願勝寺の2つです。
寺町 - 願勝寺 - 【美馬市】観光サイト
願勝寺
願勝寺は、真言系修験者の寺院で阿波と讃岐の国境上にある大滝山の修験者たちの拠点として、大きな力を持っていたようです。天正年間(1575頃)の日蓮宗と真言宗の衝突である阿波法幸騒動の時には、真言宗側のリーダーとして活躍したとする文書が残されています。願勝寺は、阿波の真言宗修験者たちのの有力拠点だったことを押さえておきます。

安楽寺歴史1
安楽寺の寺歴
 安楽寺は、上総の千葉氏が阿波に亡命して開いたとされます。
千葉氏は鎌倉幕府内で北条氏との権力争いに敗れて、親族の阿波守護を頼って亡命してきた寺伝には記されています。上総で真宗に改宗していた千葉氏は、天台宗の寺を与えられ、それを真宗に換えて住職となったというのです。とすれば安楽寺は、かつては、天台宗の寺院だったということになります。それを裏付けるのが境内の西北隅に今も残る宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠です。中世には、天台・真言のお寺がひとつずつ、ここに立っていたことを押さえておきます。
 その内の天台宗寺院が千葉氏によって、真宗に改宗されます。
寺伝には千葉氏は、阿波亡命前に、親鸞の高弟の下で真宗門徒になっていたとしますので、もともとは真宗興正派ではなかったようです。そして、南無阿弥陀仏を唱える信者を増やして行くことになります。

安楽寺末寺分布図 讃岐・阿波拡大版
安楽寺の末寺分表

 安楽寺の末寺分布図を見ると、阿波では吉野川流域に限定されていること、吉野川よりも南の地域には、ほとんど末寺はないことが分かります。ここからは、当時の安楽寺が吉野川の河川交通に関わる集団を門徒化して、彼らよって各地に道場が開かれ、寺院に発展していったことが推測できます。
宝壷山 願勝寺 « 宝壷山 願勝寺|わお!ひろば|「わお!マップ」ワクワク、イキイキ、情報ガイド

念仏道場が吉野川沿いの川港を中心に広がっていくのを、願勝寺の真言系修験者たちは、どのような目で見ていたのでしょうか。
親鸞や蓮如が、比叡山の山法師たちから受けた迫害を思い出します。安楽寺のそばには真言系修験者の拠点・願勝寺があるのです。このふたつの新旧寺院が、初めから友好的関係だったとは思えません。願勝寺を拠点とする修験者たちは、後に阿波法華騒動を引き起こしている集団なのです。黙って見ていたとは、とてもおもえません。ある日、徒党を組んで安楽寺を襲い、焼き討ちしたのではないでしょうか?
  寺の歴史には次のように記されています。

永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」

 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜいままでの所に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか? その原因のひとつとして願勝寺との対立があったと私は考えています。

安楽寺文書
「三好千熊丸諸役免許状」(安楽寺)
  安楽寺の危機を救ったのが興正寺でした。
それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」には次のように記します。(意訳)
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える

この免許状の要点を挙げると
①「興正寺殿からの口添えがあり」とあり、調停工作を行ったのは興正寺であること
②内容は「帰還許可+諸役免除+安全保障」を三好氏が安楽寺に保証するものであること。
③「違乱するものがあれば、ただちに私が成敗を加える」からは、安楽寺に危害を加える集団がいたことを暗示する
この「免許状」は、安楽寺にとっては大きな意味を持ちます。拡大解釈すると安楽寺は、三好氏支配下における「布教活動の自由」を得たことになります。吉野川流域はもちろんのこと、三好氏が讃岐へ侵攻し、そこを支配するようになると、そこでの布教も三好氏の保護下で行えると云うことになります。安楽寺が讃岐と吉野川流域に数多くの末寺を、もつのはこの時期に安楽寺によって、数多くの念仏道場が開かれたからだと私は考えています。
 そして、安楽寺は調停を行ってくれた興正寺の門下に入っていったと私は考えています。
それまでの安楽寺の本寺については、本願寺か仏国寺のどちらかだと思います。安楽寺文書には、この時期の住職が仏国寺門主から得度を受けているので、その門下にあったことも考えられます。どちらにしても、最初から興正寺に属していたのではないような気がします。
 こうして、三好氏の讃岐支配の拡大と歩調を合わせるように安楽寺の教線ラインは伸びていきます。
まんのう町への具体的な教線ラインは、三頭・真鈴峠を越えて、勝浦の長善寺、長炭の尊光寺というラインが考えられます。このライン上のソラの集落に念仏道場が開かれ、安楽寺から念仏僧侶が通ってきます。それらの道場が統合されて、惣道場へと発展します。それが本願寺の東西分裂にともなう教勢拡大競争の一環として、所属寺院の数を増やすことが求められるようになります。その結果、西本願寺は惣道場に寺号を与え、寺院に昇格させていくのです。そのため讃岐の真宗寺院では、この時期に寺号を得て、木仏が下付された所が多いことは、以前にお話ししました。少し、話が当初の予定から逸れていったようです。もとに戻って、郡里にある真宗寺院を見ていくことにします。
近世末から寺町には、次のように安楽寺の子院が開かれていきます。
文禄 4年(1595)常念寺が安楽寺の子院として建立
慶長14年(1609) 西教寺が安楽寺の子院として建立
延宝年間(1675) 林照寺が西教寺の末寺として創立、
     賢念寺・立光寺・専行寺が安楽寺の寺中として創建
こうして郡里村には、真言宗1か寺、浄上真宗7か寺、合計8か寺の寺院が建ち並ぶことになり、現在の寺町の原型が出来上がります。

 安楽寺が讃岐各地に末寺を開き、周辺には子院を分立できた背後には、大きな門徒集団があったこと、そして門徒集団の中心は安楽寺周辺に置かれていたことが推測できます。どちらにしても、江戸時代になって宗門改制度による宗旨判別が行われるまでには、郡里にはかなりの真宗門徒が集中していたはずです。それは寺内町的なものを形作っていたかもしれません。郡里村の真宗門徒が、全住民の7割を占めるというというのは、その門徒集団の存在が背景にあったと研究者は考えています。
宗門改めの際に、郡里村の村人は宗旨人別をどのように決めたのでしょうか。つまり、どの家がどの寺につくのかをどう決めたのかを見ていくことにします。

寺町 - 常念寺 - 【美馬市】観光サイト
安楽寺から分院された常念寺(美馬市郡里)
「安楽寺文書」には、次のように記します。

常念寺、先年、安楽寺檀徒は六百軒を配分致し、安永六年檀家別帳作成願を出し、同八年七月廿一日御聞届になる」

意訳変換しておくと
「先年、常念寺に安楽寺檀徒の内の六百軒を配分した。安永六年に檀家別帳作成願を提出し、同八年七月廿一日に許可された」

ここからは、常念寺は安永八年(1779)に安楽寺から檀家六百軒を分与されたことが分かります。先ほど見たように、安楽寺の子院として常念寺が分院されたのは、文禄4年(1595)のことでした。それから200年余りは無檀家の寺中あつかいだったことが分かります。
美馬町寺町の林照寺菊花展 - にし阿波暮らし「四国徳島の西の方」
林照寺
西教寺の末寺として創建された林照寺も当初は無檀家で西教寺の寺中として勤務していたようです。それが西教寺より檀家を分与されています。その西教寺が檀家を持ったのは安楽寺より8年おくれた寛文7年(1667)のことです。檀家の分布状態等から人為的分割の跡がはっきりとみえるので、安楽寺から分割されたものと千葉乗隆氏は考えています。以上を整理すると次のようになります。
①真宗門徒の多い集落は安楽寺へ、願勝寺に関係深い人の多い集落は願勝寺へというように、集落毎に安楽寺か願勝寺に分かれた。
②その後、安楽寺の子院が創建されると、その都度門徒は西教・常念・林照の各寺に分割された
こうして、岡の上に安楽寺を中心とする真宗の寺院数ヶ寺が姿を見せるようになったようです。
 以上を整理しておくと
①もともと中世の郡里には、願勝寺(真言宗)と安楽寺(天台宗)があった。
②願勝寺は、真言系修験者の拠点寺院で多くの山伏たちに影響力を持ち、大滝山を聖地としていた。
③安楽寺はもともとは、天台宗であったが上総からの亡命武士・千葉氏が真宗に改宗した。
④安楽寺の布教活動は、周辺の真言修験者の反発を受け、一時は讃岐の財田に亡命した。
⑤それを救ったのが興正寺で、三好氏との間を調停し、安楽寺の郡里帰還を実現させた。
⑥三好氏からの「布教の自由」を得た安楽寺は、その後教線ラインを讃岐に伸ばし、念仏道場をソラの集落に開いていく。
⑦念仏道場は、その後真宗興正派の寺院へ発展し、安楽寺は数多くの末寺を讃岐に持つことになった。
⑧数多くの末寺からの奉納金などの経済基盤を背景に伽藍整備を行う一方、子院をいくつも周辺に建立した。
⑨その結果、安楽寺の周りには大きな伽藍を持つ子院が姿を現し、寺町と呼ばれるようになった。
⑩子院は、創建の際に門徒を檀家として安楽寺から分割された
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
         千葉乗隆 近世の一農山村における宗教―阿波国美馬郡郡里村 地域社会と真宗421P 千葉乗隆著作集第2巻」
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讃岐への真宗興正派の教線拡大は、三木の常光寺と阿波の安楽寺によって担われていたことが従来から云われてきました。前回はこれに対して、ふたつの寺の由緒を比較して、次のような点を指摘しました。
①常光寺と安楽寺は、興正寺(旧仏光寺)から派遣された2人の僧侶によって同時期に開かれた寺ではないこと
②安楽寺はもともとは、興正派でなく本願寺末であったこと
③両寺の開基年代が1368年というのは、時代背景などから考えると早すぎる年代であること。
安楽寺3
安楽寺(美馬市郡里:吉野川の河岸段丘上にある)

それでは安楽寺の讃岐布教の開始は、いつ頃だったのでしょうか。
16世紀初頭になると阿波では、守護細川氏に代わって三好氏が実権を握る「下克上」が進んで行きます。美馬郡里周辺でも三好氏の勢力が及んできます。そのような中で、大きな危機が安楽寺を襲います。
そのことについて寺史には「火災で郡里を離れ、讃岐財田に転じて宝光寺を建てた」と、そっけなく記すだけです。しかし、火災にあっただけなら再建は、もとの場所に行うのが自然です。どうしてわざわざ阿讃山脈を越えて、讃岐財田までやってきたのでしょうか。

安楽寺讃岐亡命事件

それを解く鍵は、安楽寺文書の中でもっとも古い「三好千熊丸諸役免許状」にあります。
従①興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世申候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言
      三好千熊丸
永正十七年十二月十八日              
郡里 安楽寺
意訳変換しておくと

①興正寺正寺殿からの口添えがあり、②安楽寺の還住を許可する。還住した際には、③諸役を免除する。もし、④違乱するものがあれば、ただちに(私が)が成敗を加える

三好千熊丸(長慶?)から郡里の安楽寺に和えられた書状です。日付は1520年12月ですから、亡命先の讃岐の財田に届けられたことになります。ちなみに、四国における真宗寺院関係の史料では、一番古いものになるようです。これより古いものは見つかっていません。ここからは四国への真宗布教は、本願寺に蓮如が登場した後のことであることがうかがえます。
三好長慶

 三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。

もう少し深く、三好千熊丸諸役免許状を見ておきます。
和解書というのは、騒動原因となった諸要因を取り除くことが主眼になります。ここからは③④が「亡命」の原因であったのかがうかがえます。 
③賦役・課税をめぐる対立
④高越山など真言勢力の圧迫 
親鸞・蓮如が比叡山の僧兵達から攻撃を受けたのと同じようなことが、阿波でも生じていた。これに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な一時退避行動ではなかったと私は考えています。
②の「特権を認めるからもどってこい」というのは、裏返すと安楽寺なしでは困る状態に郡里がなっている。安楽寺の存在の大きさを示しているようです。
もうひとつ注目しておきたいのは、書状の最初に出てくる①の興正寺の果たした役割です。
この時代の興正寺門主は2代目の蓮秀で、蓮如の意を汲んで西国への布教活動を積極的に進めた人物です。彼が三好氏と安楽寺の調停を行っています。ある意味、蓮秀は安楽寺にとっては、危機を救ってくれた救世主とも云えます。これを機に、安楽寺は本願寺から興正寺末へ転じたのではないでしょうか。
     
   財田亡命で安楽寺が得たもの何か?
①危機の中での集団生活で、団結心や宗教的情熱の高揚
②布教活動のノウハウと讃岐の情報・人脈
③寺を挙げての「讃岐偵察活動」でもあった
④興正寺蓮秀の教線拡大に対する強い願い
⑤讃岐への本格的布教活動開始=1520年以後
財田亡命は結果的には、目的意識をはぐくみための合宿活動であり、讃岐布教のための「集団偵察活動」になったようです。その結果、次に進むべき道がみえてきます。
④そこに、働きかけてきたのが興正寺蓮秀です。彼の教線拡大に対する強い願い。それに応えるだけの能力や組織を讃岐財田から帰還後の安楽寺は持っていました。それは、1520年以後のことになります。そして、それは三好氏の讃岐侵攻と重なります。
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「南海通記」で、讃岐への三好氏の侵攻を要約すると次のようになります。
1507年 細川家の派閥抗争で養子澄之による正元暗殺で、細川家の内紛開始。「讃岐守護代香川・安富等は、澄之方として討死」とあり、讃岐守護の澄之方についた香西・香川・安富家の本家は断絶滅亡。以後、讃岐で活躍するのは、これらの分家。一方、阿波では、勝利した細川澄元派を押した三好氏が台頭。
1523年 東讃長尾荘をめぐって寒川氏と守護代安富氏・山田郡十河氏が対立開始。これに乗じて、三好長慶の弟三好義賢(実休)が十河氏と結んで讃岐に進出し、実休の弟一存が十河氏を相続。こうして三好氏は、東讃に拠点を確保。
1543年には、安富・寒川・香西氏も三好氏に服従。16世紀半ば頃には、東讃は三好氏の支配体制下へ組み込まれた。
 そして、三好氏は丸亀平野へ進出開始。雨霧城攻防戦の末に、香川氏を駆逐し、三好氏による讃岐支配体制が完成。讃岐の国人たちは、服従した三好長慶の軍に加わり、畿内を転戦。その時に東讃軍を率いたのは十河氏、西讃軍を率いたのは三好氏の重臣篠原長房。
以上からは次のような事が分かります
①細川氏の内紛によって、阿波では三好長慶が実権を握ったこと。
②三好氏は十河氏などと組んで、16世紀半ばまでには東讃を押さえたこと
③16世紀後半になると丸亀平野に進出し、西長尾城の長尾氏などを配下に組み入れたこと
④そして天霧城の香川氏と攻防を展開したこと
  先ほど見たように「三好千熊丸諸役免許状」によって、三好氏から安楽寺が免税・保護特権を得たのが1520年でした。その時期は、三好氏の讃岐侵攻と重なります。また侵攻ルートと安楽寺の教線伸張ルートも重なります。ここからは、安楽寺の讃岐への布教は三好氏の保護を受けて行われていたことが考えられます。三好氏の勢力下になったエリアに、安楽寺の布教僧侶がやってきて道場を開く。それを三好氏は保護する。そんな光景が見えてきます。

安楽寺末寺17世紀

約百年後の1626年の安楽寺の阿波・讃岐の末寺分布図です。
百年間で、これだけの末寺を増やして行ったことになります。ここからは何が見えてくるでしょうか?
①阿波の末寺は、吉野川沿岸部のみです。吉野川の南側や東の海岸部にはありません。どうしてでしょうか。これは、高越山など代表される真言系修験者達の縄張りが強固だったためと私は考えています。阿波の山間部は山伏等による民間信仰(お堂・庚申信仰)などの民衆教導がしっかり根付いていた世界でした。そのため新参の安楽寺が入り込む余地はなかったのでしょう。
②小豆島や塩飽などの島々、東讃にはほとんどない。
③東讃地域も少ない。大水主神社=与田寺の存在
④高松・丸亀・三野平野に多いようです。
これらの方面への教線拡大には、どんなルートが使われ、どのような寺が拠点となったのでしょうか。それは、また次回に

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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