瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三好大橋

大具の渡しと三好大橋.2jpg
大具の渡し 三好大橋の完成と渡り初め(1958年12月6日) 
三好大橋ができる前までは、大具の渡しが人と車を渡していました。その船頭を務めていた人の回顧が池田町史下巻の「町民の歴史」に載っていましたのでアップしておきます。

大具渡し 3
大具渡し跡の説明版
大具の渡しの説明版
上の説明版を整理しておきます。
明治22年(1889)三好新道(R32)の開通で、非営業渡船から営業渡船へ
明治28年(1895)4月に県営となり、船頭には俸給が支給され、運賃無料化。
大正3年(1914)4月1日 岡田式渡船を導入し、大型化し輸送量増大。
昭和33年(1958)三好大橋の完成で廃止
それでは回想を見ていきます。
前略
昭和24(1949)年、大具(おおぐ)渡しの船頭になったんです。(池田町史下巻895P)
大具浜船場は県営になって、池田土木出張所の管理下にありましたが、請負い制度でした。箸蔵小学校の横の茶園清蔵さんが元締めになっていました。正式な職名は船夫だったんでしょうが船頭と言っていました。船頭は四名で、後に五名になりました。常時二名が勤務につき、二名は待機しているわけです。
船は岡田式が一隻と普通の舟が一隻で、人は小さい方の楫取(かんどり)で渡しました。
楫取りは漁の船を渡船に使ったときに言われたんで、渡船は楫取りではなかったが、小舟だったんでそう呼ばれたんです。県営ですから渡し賃は無料でした。昭和25年から請負い制度が廃止になり、県の直営になり、私たちも県職員になりました。今まで元請けからもらっていた賃金も、県から支給される給料になりました。このころ、警察予備隊(のちの自衛隊)に入りたいという気持が強かったんですが、母が年をとっていたので果たせませんでした。

岡田式渡船2
岡田式渡船

岡田式渡船
 岡田式というのは、川の両岸に高い柱を立て、この間をワイヤでつなぎます。
このワイヤに滑車で連絡した、少し細いワイヤを船の舷側前寄りの金具に掛けるようになっています。船は、人間なら定員50人という大きな船になっています。船を少し沖へ押し出すと、流れの力で自然に向う岸へ着くようになっています。岡田式は、昭和2年に、白地と大具で同時にできたそうですが、それまでは、猫車でも荷物を一たん降ろして船に積み、また向う岸で猫車に積まないかなんだんです。ところが岡田式では、大八車・四つ車はもちろん、乗用車、四トン積みのトラックや三論も乗せることができました。三輪は酒積んだまま大丈夫ですが、四トン車の場合は、荷物を積んだままでは無理でした。
大具渡し 1
大具の渡し(岡田式渡船)
 四つ車(大八)に七百才ぐらい原木を積んで、馬一頭乗せて渡すこともあります。この車を乗せるにはコツが要るんです。二人で手木持って、馬車引きは大きな止め持って、船頭が「よっしゃ」と言ったら、両方のタイヤを止めで止めるんです。船はパシャッとあおぐんですが、その後から馬を乗せて、船の平均は馬の位置で調節するんです。失敗して落としこむこともあります。
 四トン車も船の幅より長いんで、乗せるのに技術が要ります。長いあゆみ板を置いて、前車が船の上からはずれて水の上へ出るようにせんと乗らんのです。これを下駄をはかすといいます。
美濃田の渡しと橋の渡り初め
美濃田大橋の開通と渡し
 昭和25年ごろには、手木の三崎が一日十数台ぐらい、乗用車が十台前後というところでした。それでも自動車でも運べる船ということで、高知県や香川県、京阪神方面からも見学に来たもんです。説明役を私がやりました。一時は観光の役も果たしとったんです。
 渡船の寿命は五年ぐらいですが、岡田式の船が最初は8000円でしたが、5年後には、9万円になっていました。そのころのインフレの様子が思い出されます。
 戦争中ですが、無理して乗って牛や人が流れたことがありました。
船はワイヤでつないどるんで流れんのですが、船がずいろに入る(潜水する)と、上に乗っとるものは、人も牛も車も全部とばされてしまうんです。遠足の子供さんを乗せるときや箸蔵祭りのときなどは、定員以上絶対乗せんようにしていました。
青石渡し
青石の渡し
 一番苦しかったことは洪水のときでした。ときには一秒間に15mも水が増してくるんです。それもたいてい夜中です。船を流すまい、小屋や桟橋を流すまいと必死でした。一度桟橋を流しました。後から探しに行ったところ、一八枚のうち六枚が、三野町の太刀野に掛っていて、取ってきたことがあります。洪水や風、雪のときなどは大変ですが、春日のホカホカしたときなど八割履いて、小唄で、のん気にやったもんです。岡田式で力もいりませんので、暖かい天気のときはいいもんです。

 昭和33年、三好大橋ができるのと同時に、大具渡しは廃止になりました。私は、池田財務事務所へ転勤になっていました。昭和51年まで勤務し、いったん退職し、五五年の三月まで、徳島県土木監視員を勤めました。

大具の渡しと三好大橋
         大具の渡し 背後は建設中の三好大橋の橋脚(昭和33(1958)年

白地の私から見た三好大橋

大具渡船場も何回か事故があったようです。徳島毎日新聞は次のように報じています。

大具の渡し 大正の沈没事故

大正12(1923)年5月1日に池田尋常小学校の児童が遠足からの帰途、130名が一遍に乗り込んで転覆事故を起こしています。この時には、引率教員3名が着衣のままで川に飛び込んで、子ども達をすくい上げています。幸いにも一人の溺死者も出さなかったようです。犠牲者を出さなかったのは、箸蔵大権現の「おかげ」と、翌年5月1日には、お礼の遠足を行っています。定員が50名に130名を載せたことになります。これを教訓にして「定員厳守」「安全運転」が徹底されたのでしょう。

大具渡し 2


大具の渡し跡

背後の赤い橋が三好大橋。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史下巻893P 岡田式渡船の船頭
関連記事


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阿波池田の親三好大橋の上流からから出港。
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三好大橋下の落ち込みをなんとか通り抜けて、鉄橋と高速の橋をくぐる。
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吉野川鉄橋を土讃線の普通列車が通過していった。

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昼間の長いザラ瀬抜けると最後に落ち込みがあり、宮下の台地にぶつかり大きく流れを変える。そして正面に見えてくるのが美濃田大橋。
この橋が1960年竣工。上流にあった三好大橋より1年若く「56歳」
ここから長い瀞場が始まる。
プールがなかった1970年頃までは、この付近は川原が広がり遠浅であったので、子供の楽しい水泳場であったようだ。夏休み中は、PTAの監視下で水泳が行われたという。

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「上陸」してみると、こんな石碑が建てられていた。
昼間と辻を結ぶ「辻の渡し」とある。
この渡場について三好町史にはこんな記述がある。
 「明治から大正・昭和の戦後まで、辻地区は面積は狭いが、井内谷・祖谷谷という後背地を有し、特に刻み煙草で繁盛しており、人家が密集し商店が軒を連ねた。特に渡し場上がりの浜地区には、大きな商店や、料理店まであり、その賑やかさは北岸の比でなかった。こうした状況から、北岸から南岸へ渡る人は増加していった。」

 明治四十四年(1912)ごろに、中屋から辻渡船場への道も道路改修が行われた。大正三年(1914)徳島線が池田まで開通し、辻駅が設置されるにいたって、人はいうに及ばず、物資輸送もこの駅が起点となった。北岸の昼間側からの利用者は急増し、特に朝夕の通勤・通学時には非常に混雑した。
 大正十五年現在の町道・昼間中屋線(通称新道)が完成し、同時に南岸は岩場を掘り抜いた道が新設され、北岸も岩盤を削りとり、両岸ともに立派なコンクリートで固めた船着場ができた。
 昭和三十四年、美波田大橋の架橋で廃止となった。船頭さんの逸話、施与米、賃取、昭和二十三年県営化、借耕牛、カンドリ舟、転覆の惨事など、悲喜・哀歓の長い歴史を両岸の岩場に残して、幕を下ろした。
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美濃田大橋から上流をながめた風景。
向こう側(南岸)の井内谷川の流入点とこちら側(北岸)を渡し船は結んでいたという。渡場につながると思われる道路は残っているが、ここが上陸点という地点は分からない。

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 現在では早明浦・池田ダム等による香川用水等への取り込みによるものかこの当たりの吉野川の水位はニメートル以上低くなっているという。地理や風景も大きく変わっている。
 56歳の美濃田大橋が「遠い昔のことだよ」と呟いた気がした。
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吉野川の川船IMG_4161

吉野川はかつて多くの川船が行き来した川。
吉野川を池田からカヌーで出発。その痕跡を探してみました。
まずは、阿波池田の川港跡へ。

諏訪神社下の千五百河原にあった川湊
対象頃の池田の川港 諏訪神社の鳥居に向かって階段が伸びている
船頭達が航海の安全を祈った神社へ長い
石段が残っています。
ここから池田への人と物が荷揚げされ、積み出されていきました。
池田の旧街道もこの港を起点に発展したようです。

阿波池田の川港の灯籠

川船の安全を祈願して建立された灯籠が今も建っています。
ここから出港です。馬10頭分の荷物を満載した川船(平田船)も、出港していきました。

遠賀川の平田船
遠賀川の平田船
穀物・薪炭・足代桐・藍・まゆ・野菜などを積んで徳島まで下り、
帰りは塩や肥料・海産物・日用雑貨品などを運んできました。
下りは3日程度。登りは、風向きのよいときは帆を張り、一週間ほどだったといいます。

遠賀川の船曳

船には船頭の他に丘船頭が乗って艪や櫂の使えない浅瀬に来ると、川へ飛び込んで船を進ませたそうです。

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三好大橋

出港から30分。赤い橋が見えてきました。
三好大橋です。
吉野川に架かる橋としては創生期の鉄橋です。1968年竣工ですからもう50歳になろうとしています。この橋が出来る前は、どうやって川を渡っていたのか?

池田町大具渡し
三好市池田町大具の渡し 1958年三好大橋完成まで運用
この日は梅雨の中休みで真夏日。
蒼い空と白い雲と赤い橋を川が映していました。

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三好大橋の下流、三好高校の下あたりの風景です。
今回の「航行」では一番危険な瀬です。流れや地形は当時と変わっているのかもしれません。でも、ここを平田船で下るのも登るのもたいへんだったと思います。

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一番の難所を過ぎると、鮎師さんの立ち並ぶザラ瀬の向こうにみえてくるのがこの風景。
東みよし町昼間(左側)と三好市井川を結ぶ鉄橋と高速道路がクロスしているように見えます。
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鉄橋は讃岐琴平からの列車に阿波池田に至るため架橋されたもの。
昭和の初めのことです。阿讃のトンネルを抜けてきた蒸気機関車が誇らしげにこの鉄橋を渡って行ったのでしょう。
 この鉄橋のあたりにも、井川と昼間を結ぶ渡船場があったようです。布屋渡と呼ばれていました南岸を通る伊予街道と北岸の撫養街道を結ぶ渡船場として、地域の人たちには大切な渡しでした。

 この渡しの下流に土讃線の鉄橋ができた「影響」を三好町史(775P)は、こんな風に紹介しています。
 この渡しを通っていた人たちの中には、鉄橋に付けられている保線のための側道を歩いたり、自転車を押したりして通る者ができた。もちろん、国鉄当局からは通行を禁止されていたので、当局の者の目を逃れて、秘かに通っていた。


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 高速道路の橋のたもとの風景です。
かつての瀬戸の港のような「雁木」構造のように見えます。
この当たりが昼間の川港だったようです。
今は鮎船の係留場として利用されています。

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下流から昭和初期と平成に登場した2つの橋を振り返ってみました。
ザラ瀬をカヌーは下っていきます。

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ザラ瀬が終わると赤い橋が見えてきました。
美濃田大橋です。
この橋のたもとにも渡場があったようです。その話は次回に・・



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