瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三好市山城町三名

P1170327
野鹿池山の避難小屋から上名を望む
原付スクーターでの野鹿池山ツーリング報告記の二回目です。
前回は、次のことを押さえました
①阿波西部の吉野川の支流域が古くからの熊野行者の活動領域であり、熊野詣での参拝ルートでもあったこと。
②讃岐の仁尾商人が塩や綿を行商しにやってきて、帰りに茶葉を持ち帰ったこと。つまり、讃岐との間に「塩・綿と茶葉との道」が開かれていたこと。
③その交易活動を熊野修験者たちが支援していたこと。
④そのため密教系修験者間のネットワークが讃岐西部と阿波西部では結ばれていたこと。

さて今回は、「三名士」についてです。この言葉を私は、始めて次の説明版で知りました。

P1170441
妖怪街道にあった説明版
ここには次のようなことが記されています。
①土佐との国境防備のために、山城町の藤川谷川沿いに三人の郷士が配置されたこと
②それが上名・下名・西宇に置かれたので、併せて三名村と呼ばれたこと
③藤川谷川も、上名を治めた藤川氏の名前に由来すること
ナルホドなあと感心する一方で、これだけでは簡略すぎてよく分かりません。帰ってきて調べたことをメモ代わりに残しておきます。参考文献は、「三好郡山城町三名士について    阿波郷土研究発表会紀要第24号」です。

三名士とは、旧三名村(山城町)の次の三氏です。
①下名(しもみよう)村の大黒氏(藩制時代高200石)
②上名(かみみよう)村の藤川氏(高200石)及び
③西宇村の西宇氏(高150石)
山城町三名村
   三名の位置 吉野川沿いに南から①下名→②上名→③西宇 

 三名士は、蜂須賀家政が入国してくる以前からの土豪です。三氏の来歴を史料で見ておきましょう。
①下名の大黒氏は、渡辺源五綱の末流だと称します。
吉野川の土佐との国境に接するのが下名です。ここには南北朝時代の争乱期の建武年中(14世紀中頃)に渡辺武俊が大黒山に来て、大黒源蔵と名乗って細川讃岐守頼春に仕えます。それから約二百年後に、その子孫の武信が天正5年(1577)に、土佐から阿波へ進攻してきた長宗我部元親に服して、先陣となって、田尾城(現・山城町)攻めに加わって戦死をとげています。
②上名の藤川氏は、工藤和泉守祐親が貞和5年(1349)に深間山に来ています。
 藤川氏も南北朝時代に讃岐の細川頼春に仕え、貞治6年(1367)没しています。その子孫の次郎大夫の妻が、勝瑞城主の三好長治の末女であったため、その縁により長の字を賜わって長祐と改め、藤川姓を名乗ります。その子の長盛は、三好長治の命令で、讃岐の西長尾城(まんのう町)を攻略しています。三好氏の有力武将として、讃岐制圧に活躍した人物のようです。
③西宇の西宇氏は、井手刑部以氏が建武年中(1535頃)に西宇山へやって来ます。
これも細川頼春に仕え、西宇氏と改めたとします。その子孫である本家は天正10年(1582)中富川の戦で勇名を馳せ、重清城主大西頼武から武の字を賜わって、武元と改名しています。

  以上から三氏共に南北朝時代に、この地にやって来て讃岐守護の細川頼春に仕えたと聞き取り調査に答えています。しかし、考えて見ると南北朝時代は阿波の山間部は、熊野行者の活動で南朝勢力が強かった所です。そこで北朝の細川頼春に仕えたと云うこと自体が、私にはよく分からないところです。また、この動乱期に何れもが来歴しているのも妙な印象を受けます。もともと、土豪勢力であったとする方が自然な感じがします。
 そのような中で、下名の大黑氏は長宗我部元親の先兵として阿波攻略に働いたことが記されます。他の二氏もこの時期には、土佐軍に服従しなければ生き残れなかったはずです。
戦国時代 中国・四国 諸大名配置図(勢力図) - 戦国未満

 秀吉の四国平定後に長宗我部元親は土佐一国に封じ込められ、阿波には蜂須賀家政が阿波に入国してきます。
蜂須賀氏は四国平定戦で活躍し、長宗我部元親との講和も結んでいます。その功績を認められ戦後の論功行賞で、阿波一国が与えられ、長男家政は父同様、政権下での重要な置を占めることになります。
  一方、土佐の長宗我部元親は、柴田勝家や徳川家康と結び、島津義久を援助するなど、豊臣政権においては「外様」大名扱いされました。土佐の長宗我部は、秀吉にとっては仮想敵国だったのです。これに対して、秀吉子飼いの重要な豊臣大名である讃岐の生駒と阿波の蜂須賀は、瀬戸内海だけでなく士佐を抑える役割も担っていました。そのために、生駒・蜂須賀両藩は対土佐・長宗我部に対する同一ユニットの軍事編成が想定されていたと研究者は考えているようです。
 それを裏付けるように髙松城下町の防衛ラインである寺町は、高松・徳島ともに土佐を向いて形成されていることは以前にお話ししました。また実際に、生駒・蜂須賀連合軍が土佐を攻める軍事演習を行っていたことも紹介されています。
 このような中で蜂須賀氏も、土佐国境周辺の防備をどうするかという課題が出てきます。
そこでだされた方策を、各家成立書」には次のように記します。

 天正14年(1586)三好郡山城谷往来の者共御下知に相隨わざるに付、三名士3名の者へ相鎮め候様仰付られ、罷り起し、方便を以て降参仕らせ、人質等を捕え申し候所、御満足に思召され、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)御加増下し置かれ、御結構の御意の上、猶以て御境目御押として、御鉄炮の者30人三名士へ御指添、猶又急手の節は近山の者共召寄せ下知仕るべく、御隣国異変の節は油断なく御注進申上ぐべき旨仰付られ候。
 年始御礼の儀は3人の内、打代り1人は御押に居残り、2人渭津へ罷出で候様仰付られ、御礼の儀は御居間に於て1人立ち申上候。其時御境目静謐やと御尋ね遊ばされ、猶以て御境目相寄るべき旨の御意、年々御例に罷成候。

意訳変換しておくと
 天正14年(1586)三好郡の山城谷周辺の土豪たちの中には、蜂須賀家の命に従わないものもいた。そこで、有力者な三名士に鎮圧を命じたところ、武力によらずに従えさせ、人質を出すことについても合意した。この処置について、藩主は満足し、山城谷高50石(西宇氏)(黒川名高100石・藤川氏、白川名高50石・大黒氏)を加増し、御境目御押として、鉄炮衆30人の指揮権を三名士へ預け、緊急の場合には近山の者たちを招集し、指揮する権限を与えた。さらに、隣国土佐に不穏な動きがあった場合には、藩主に注進することを命じた。
 年始御礼の儀には、3人の内の1人は地元に居残り、2人が渭津へやってきて、御居間で1人立て、「其時御境目静謐や」と藩主が訊ねると「猶以て御境目相寄るべき旨の御意」と、答えるのが年頭行事となっていた。(各家成立書)

 ここからは、大歩危の土佐国境附近の政務の実権を三名士が藩主から委任されたことが分かります。当時は、九州平定に続く朝鮮出兵が予定されていて、軍事支出の増大が避けられない状態でした。そこで、池田城には家老格を配置しますが、土佐との国境防備のためには新たな負担はかけない。つまり、警備とパトロールに重点を置いた方策をとることにします。そのためには地域の有力土豪を取り立て、そこに自治的な権利や武装権を与えて運用する。いざという時には、土豪層の動員力でゲリラ的な抵抗を行い時間を稼ぐという戦略です。こうして阿波藩は、3氏を召し出して、従来の持掛名(もちがかりみよう)の所領安堵を約束し、高取り武士として所遇することになったようです。
  その任務は、次の通りです
A境目御押御用(さかいめおんおさえごよう・土佐国境警備)
B村内の治安・政務
C吉野川の流木御用
上名の藤川家成立書の3代藤川助兵衛長知の項(寛文元(1661)頃)には次のように記されています。
三名の儀(三名士)は以前より、百姓奉公人に相限らず、譜代家来同断に、不埓の事などこれ有り候節は、手錠・追込・追放など勝手次第に取行い、死罪なども御届申上げず候所、家来大吉盗賊仕り、讃州へ立退き候に付、彼地へ付届け仕り召捕り申候。尤も他国騒がせ候儀故、其節相窺い候所、庭生の者に候故、心の侭に仕る可き旨仰付られ候由、坂崎与兵衛より申し来り、大吉討首に仕り候。右与兵衛書面所持仕り罷在り候。其砌より以後死罪などの儀は、相窺い候様仰付られ候

意訳変換しておくと
三名士については、百姓や奉公人だけに限らず、譜代家来も不埓の事があった時には、手錠・追込・追放など「勝手次第」の措置を取ることができた。死罪なども藩に届けることなく実施できた。例えば、家来の中に盗賊となったものが、讃州へ亡命した時には、追っ手を差し向け召捕ったこともある。この時には、他国にまで騒ぎが広まり、国境防備に隙ができてはならないとの配慮も有り、討首に処せられた。これ以後については、死罪などの処置については、藩に相談するようにとの指導があった。

 三名士は、初めは高取りで、無足諸奉行の待遇でした。
それが次のように時代を経るに従って、待遇が改善されていきます。
明暦2年(1656) 大西城番中村美作近照の失脚によって、長江縫殿助・長坂三郎左ヱ門の支配下へ。
明和3年(1766)  格式が池田士と同格へ
寛政12年(1800) 池田士・三名士とも与士(くみし・平士)へ
 
 三名士から藩主に鷹狩に用いる三名特産の鷂(はいたか)を献上していたことが史料には残っています。
ハイタカの特徴は?生態や分布、鳴き声は? - pepy
鷂(はいたか)
鷂は鷹の一種で、雌は中形で「はいたか」と呼び、鷹狩りに使われる種として人気がありました。慶長年間に初めて鷂を献上したところ、蜂須賀家政よりおほめの書状を頂戴し、以来毎年秋には網懸鷂を献上して、代々の藩主から礼状をいただいています。
網懸鷂のことが三名村史には、次のように記されています。
「三名士の鷹の確保は、藤川氏は上名六呂木(本ドヤ・イソドヤ)その新宅は平のネヅキ、西宇氏は粟山と国見山との2箇所、大黒氏は西祖谷の鶏足山であった」
「タカの捕え方は網懸候鷂(はいたか)と書かれているが、これはおとりを上空から見やすい個所につなぎ、その傍にカスミ網をはるのであって、オトリの鳥が上空を飛ぶタカの目に入ると、タカは急降下し小鳥に襲いかかろうとし、カスミ網にひっかかるのである」
藤川氏所蔵の古文書は、これを裏付けるものです。
NO1は、9月18日(年不詳)で慶長9年(1604)~寛永11年(1634)の隼献上書状(礼状)、
NO2は10月3日(年不詳)で、同年代のものと推定される鷂(はいたか)献上書状(礼状)

  已上
一居到来
令祝着候自愛
不少候尚数川与三
左衛門かたより可申候
   謹言
 9月18日 千松(花押)
  藤川隼人とのへ

  已上
壱居到来 令自愛祝着
不少候猶数川 与三左衛門かたより可申候
 10月3日 千松(花押)
   上名藤川 隼人とのへ

 中世には武家の間でも鷹代わりが行われるようになります。
信長、秀吉、家康はみんな鷹狩が大好きでした。信長が東山はじめ各地で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことは『信長公記』にも書かれています。それが引き続き江戸時代になっても大名たちの間では流行していました。
  鷹狩りには、オオタカ・ハイタカ・ハヤブサが用いられました。その中でも人気があったのがハイタカです。ハイタカは鳩くらいの小型の鷹で、その中で鷹狩りに用いられるのは雌だけだったようです。そのハイタカにも細かいランク分けや優劣があったようです。羽根の色が毛更りして見事なものを、土佐国境近くの山で捕らえられ、しばらく飼育・調教して殿様に献上します。鷹狩りの殿様であれば、これは他の大名との鷹狩りの際に、自慢の種となります。三名からの鷹の献上は、殿様に「特殊贈答品」として喜ばれたのでしょう。あるいはハイタカの飼育・調教を通じて、三名士の関係者が、藩主の近くに仕え、藩主に接近していく姿があったのかもしれません。

 最後に三名士の残した墓碑を見ておくことにします。
三名士の藤川・大黒・西宇の3家は、他に例がないほどの規模と構造の墓碑を造立し続けています。それが今に至るまで整然と管理されているようです。墓碑は、古代の古墳と同じくステイタス・シンボルでもあります。埋葬された人物の権威の象徴であり、権力の誇示でもありました。そういう目で、研究者は三氏の墓碑群を調査報告しています。三氏の墓地はそれぞれ旧屋敷周辺に、下表のように存在するようです。
三名士(さんみようし)について

           三名士の各家の墓石群


 墓は1基ごとに、平な青石を積み重ねて造ったもので、大きさは、1,5m四方、高さ50~80cmの台座に五輪塔や石塔を建てあるものが種です。しかし、台座だけで墓碑のないものも、かなりあるようです。造立されたものが倒壊などによって亡失された記録はないようです。台座だけというのは、阿波のソラの集落には珍しいことではありません。青石の石組み自体が信仰対象で、古い時代には神社の祠や社としても使われていたことは以前にお話ししました。敢えて、名前を表に出さないという考えもあったようです。保存状態は良好で、碑面の剥落もほとんどないと報告されています。
   墓の造立年代を表にしたのが次の表です。

三名士の墓石造立時期

ここからは次のようなことが分かります。
①三名士に任命された後、明治になるまで歴代の当主の墓碑が屋敷周辺に造立し続けられたこと
②大黒家の墓は、明和以降の造立であること。これは大黒山から、吉野川沿岸へ下名に移ったのがこの時期であること
以上を整理しておきます。
①大歩危から野鹿池山への稜線は、阿波と土佐の国境線でその北側は旧三名村とよばれた。
②その由来は、蜂須賀藩が土佐との国境監視などを、土地の有力土豪の三氏(三名)に自治権を与えて任せるという国境防備システムを採用したためである。
③そのため、下名・上名・西宇地域の各土豪が三名士と呼ばれて、蜂須賀家に登用された。
④国境警備のために武装権や警察権などを得た三名は、地元ではある意味、小領主として君臨した。
⑤彼らの屋敷などは残ってはいないが、そこには江戸時代の当主の墓碑が累々と造立され並んでいる。
ここで私が関心が湧いてくるのが、次のような点です
①ひとつは三名士と宗教の関係です。彼らが何宗を信仰し、どんな宗教政策をとっていたのか。
②三名士の館跡がどこにあったのか
①については、このエリアが「塩・綿と茶葉の道」で、讃岐の仁尾と結ばれ、仁尾商人が行商で入ってきた痕跡があることです。それが、三名士の承認や保護を得たために、国外の仁尾商人の営業活動が可能であったのではないかということです。同時に、宗教的には前回見たように修験者たちは、活発に讃岐の寺社との交流を行っていたことがうかがえます。これも「三名士特区」であったから可能ではなかったのかということです。
②については、現地に出向いて見たのですがよく分かりませんでした。今後の課題としておきます。知っている方がいらしたらそのことが書かれている資料をご紹介下さい。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献

P1170283
妖怪街道の子泣き爺

台風通過直後に野鹿野山に原付バイクツーリングをしました。大歩危の遊覧船乗場を過ぎて、藤川谷川に沿って原付を走らせます。台風直後で川にはホワイトウオーター状態で、勢いがあります。本流を流れる川は濁っていますが、支流の藤川谷川に入ると台風直後の増水にもかかわらず透明です。この川沿いの県道272号線は、いまは「妖怪街道」として知名度を上げています。

P1170241
ヤマジチ
街道の最初に登場する看板は「歩危の山爺」です。
この物語は、村に危害を加える妖怪を退治したのは「讃岐からきた山伏」とされています。ここからは、讃岐の山伏がこの附近まで入ってきて行場で修行したり、布教活動を行っていたことがうかがえます。

P1170242

妖怪街道の山向こうの土佐本山町には、神としてまつられた高野聖の次のような記録が残っています。
ヨモン(衛門)四郎トユウ
山ぶし さかたけ(逆竹)ノ ツヱヲツキ
をくをた(奥大田)ゑこし ツヱヲ立置
きのをつにツキ ヘび石に ツカイノ
すがたを のこし
とをのたにゑ きたり
ひじリト祭ハ 右ノ神ナリ
わきに けさころも うめをく
わかれ 下関にあり
きち三トユウナリ
門脇氏わかミヤハチマント祭
ツルイニ ヽンメヲ引キ
八ダイ流尾 清上二すべし
(土佐本山町の民俗 大谷大学民俗学研究会刊、昭和49年)
    宛字が多いようですが 意訳変換しておきましょう。
衛門四郎という山伏が逆竹の杖をついて、奥大田へやって来た。そこに杖を置いて木能津に着いて、蛇石に誓い鏡(形見)を残して 藤の谷へやって来た。
聖が祀ったのは 右ノ神である。
その脇の袈裟や衣も埋めた。分家は下関にある吉三という家である。子孫たちは門脇氏の若宮八幡を祀り、井戸(釣井)に注連縄を引き、八大龍王を清浄して祀ること
 この聖は奥大田というところに逆竹(さかだけ)の杖を立てたり、木能津(きのうづ)の蛇石というところに鏡(形見)をのこして「聖神」を祀ります。やがてこの地の「藤の谷」に来て袈裟と衣を埋めて、これを「聖神」と祀ったと記されています。
 土佐には聖神が多いとされてきました。その聖神は、比叡山王二十一社の一つである聖真子(ひじりまご)社と研究者は考えています。ここからは、本山にやって来た高野聖が自分の形見をのこして、それを聖神として祀ったことが分かります。

本地垂迹資料便覧
聖真子(ひじりまご)

 この衛門四郎という高野聖は、「藤の谷」を開拓して住んでいたようです。かつては、この辺りには焼畑の跡があとが斜面いっぱいに残っていたと云います。その畑の一番上に、袈裟と衣を埋めたというのです。そこには聖神の塚と、門脇氏の先祖をまつる若宮八幡と、十居宅跡の井戸(釣井)が残っているようです。ちなみに四国遍路の祖とされるは衛門三郎です。衛門四郎は、洒落のようにも思えてきます。

本山町付近では、祖先の始祖を若宮八幡や先祖八幡としてまつることが多いようです。
ここでは、若宮八幡は門脇氏一族だけの守護神であるのに対して、聖神は一般人々の信仰対象にもなっていて、出物・腫れ物や子供の夜晴きなどを祈っていたようです。このような聖神は山伏の入定塚や六十六部塚が信仰対象になるのとおなじように、遊行廻国者が誓願をのこして死んだところにまつられます。聖神は庶民の願望をかなえる神として、「はやり神」となり、数年たてばわすれられて路傍の叢祠化としてしまう定めでした。この本山町の聖神も、一片の文書がなければ、どうして祀られていたのかも分からずに忘れ去られる運命でした。
 川崎大師平間寺のように、聖の大師堂が一大霊場に成長して行くような霊は、まれです。
全国にある大師堂の多くが、高野聖の遊行の跡だった研究者は考えています。ただ彼らは記録を残さなかったので、その由来が忘れ去られてしまったのです。全国の多くの熊野社が熊野山伏や熊野比丘尼の遊行の跡であり、多くの神明社が伊勢御師の廻国の跡であるのと同じです。妖怪街道沿いにも、そんな修験者や聖たちの痕跡が数多く見られます。彼らの先達として最初に、この地域に入ってきたのは熊野行者のようです。

熊野行者の吉野川沿いの初期布教ルートとして、次のようなルートが考えられる事は以前にお話ししました。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社を勧進し拠点化
②さらに行場を求めて銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③仙龍寺から里下りして、瀬戸内海側の川之江に三角寺を開き、周辺に定着し「めんどり先達」と呼ばれ、熊野詣でを活発に行った。
④一方、土佐へは北川越や吉野川沿いに土佐に入って豊楽寺を拠点に土佐各地へ
 熊野行者たちは、断崖や瀧などの行場を探して吉野川の支流の山に入り、周辺の里に小さな社やお堂を建立します。そこには彼らが笈の中に入れて背負ってきた薬師さまや観音さまが本尊として祀られることになります。同時に彼らは、ソラの集落の芸能をプロデュースしていきます。盆踊りや雨乞い踊りを伝えて行くのも彼らです。また、今に伝わる昔話の原型を語ったのも彼らとされます。各地に現れた「熊野神社」は、熊野詣での際の道中宿舎の役割も果たし、孤立した宗教施設でなく熊野信仰ネットワークの一拠点として機能します。

P1170275

 熊野行者たちは諸国巡礼を行ったり、熊野先達を通じて、密教系修験者の幅広いネットワークで結ばれていました。例えば、讃岐の与田寺の増吽などの師匠筋から「大般若経の書写」への協力依頼が来ると引き受けています。このように阿波のソラの集落には、真言系修験者(山伏)の活動痕跡が今でも強く残ります。

P1170278
野鹿池の龍神

 話を元に返すと、妖怪街道と呼ばれる藤川谷川流域には、このような妖怪好きの山伏がいたのかも知れません。
彼らは、庚申信仰を広め、庚申講も組織化しています。悪い虫が躰に入らないように、庚申の夜は寝ずに明かします。その時には、いくつも話が語られたはずです。その時に山伏たちは熊野詣でや全国廻国の時に聞いた、面白い話や怖い話も語ったはずです。今に伝えられる昔話に共通の話題があるのは、このような山伏たちの存在があったと研究者は考えているようです。
修験役一覧
近世の村に定住した山伏の業務一覧
今回訪れた妖怪ポイントの中で、一番印象的だった赤子渕を見ておきましょう。
P1170270

車道から旧街道に入っていきます。この街道は青石が河床から丁寧に積み重ねられて、丈夫にできています。ソラの集落に続く道を確保するために、昔の人達が時間をかけて作ったものなのでしょう。同じような石組みが、畠や神社の石垣にも見られます。それが青石なのがこの地域の特色のように思います。五分も登ると瀧が見えてきました。
P1170271
赤子渕
台風直後なので水量も多く、白く輝き迫力があります。

P1170272

滝壺を巻くように道は付けられています。これは難工事だったとおもいます。そこに赤子の像が立ってました。
P1170265

なにかシュールで、おかしみも感じました。瀧は爆音で、大泣き状態です。滝上には橋がかかっています。この山道と橋が完成したときには、この上に続くソラの集落の人達は成就感と嬉しさに満ちあふれて、未來への希望が見えて来たことでしょう。いろいろなことを考えながらしばらく瀧を見ていました。

「赤子渕」が登場する昔話は、いくつもあるようです。
愛媛県城川町の三滝渓谷自然公園内にもアカゴ淵があります。ここでは、つぎのような話が伝えられています。
  
むかしむかし、赤子渕は生活に困り生まれた子を養うことができなくなった親が子を流す秘密の場だった。何人もの赤子が流されたという。その恨みがこの淵の底に集まり真っ赤に染め、夕暮れ時になると赤子の淋しそうな泣き声が淵の底やその周囲から聞こえてくるという。

信州飯田城主の落城物語では、赤子渕が次のように伝えられます。
 天正10年2月(1585)織田信長は、宿敵甲斐の武田氏打倒の軍をついに動かした。飯田城主の坂西氏は、木曽谷へ落ち延びて再起をはかろうと、わずかな手勢と夫人と幼児を伴って城を脱出した。しかし逃げる途中で敵の伏兵に襲われ、家臣の久保田・竹村の2人に幼児延千代を預け息絶えた。延千代を預かった2人は、笠松峠を越して黒川を渡り、山路を南下したが青立ちの沢に迷い込んでしまった。若君延千代は空腹と疲れで虫の息となり、ついに息が絶えてしまった。その後、この辺りでいつも赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった。
「赤子なる淵に散り込む紅つつじ昔語れば なみだ流るる」

    赤子渕に共通するのは、最後のオチが「赤子の泣き声がすると言われ、誰となくここの淵を赤子ヶ淵と呼ぶようになった」という点です。その前のストーリーは各地域でアレンジされて、新たなものに変形されていきます。
P1170399

  藤川谷川流域のソラの集落・ 旧三名村上名(かみみょう)に上がっていきます。
P1170406

  管理されたススキ原が広がります。家の周りに植えられているのは何でしょうか?

P1170426
上名の茶畑
  近づいてみると茶畑です。旧三名村はお茶の産地として有名で、緑の茶場が急斜面を覆います。それが緑に輝いています。

P1170415
山城町上名の平賀神社

  中世の讃岐の仁尾と土佐や西阿波のソラの集落は「塩とお茶の道」で結ばれていたことは以前にお話ししました。
仁尾商人たちは讃岐山脈や四国山地を越えて、土佐や阿波のソラの集落にやってきて、日常的な交易活動を行っていました。詫間・吉津や仁尾は重要な製塩地帯で、そこで生産された塩は、讃岐山脈を越えて、阿波西部や土佐中央の山間部にまで広く移出されていました。その帰りに運ばれてきたの茶です。仁尾で売られた人気商品の碁石茶は、土佐・阿波の山間部から仕入れたものでした。
 食塩は人間が生活するには欠かせない物ですから、必ずどこかから運び込まれていきます。
古代に山深く内陸部に入って行った人たちは、塩を手に入れるために海岸まで下りて来ていたようです。それが後には、海岸から内陸への塩の行商が行われるようになります。丸亀や坂出の塩がまんのう町塩入から三好郡昼間に入り、そこから剣山東麓の落合や名頃まで運ばれていたことは以前にお話ししました。その東の三名では、仁尾商人たちが、塩を行商で土佐の山間部まで入り込み、その引き替えに質の高い茶や碁石茶(餅茶)を仕入れて「仁尾茶」として販売し、大きな利益を上げていたのです。
 山城町三名周辺は、仁尾商人の商業圏であったことになります。
そのために「先達」として、讃岐の山伏が入り込んできていたことも考えられます。取引がうまくいく度に、仁尾商人たちは、山伏たちのお堂になにがしのものを寄進したのかもしれません。

それは、天正2年(1574)11月、土佐国長岡郡豊永郷(高知県長岡郡大豊町)の豊楽寺「御堂」修造の奉加帳に、長宗我部元親とともに仁尾商人の名前があることからも裏付けられます。
豊楽寺奉加帳
豊楽寺御堂奉加帳

最初に「元親」とあり、花押があります。長宗我部元親のことです。
次に元親の家臣の名前が一列続きます。次の列の一番上に小さく「仁尾」とあり、「塩田又市郎」の名前が見えます。

阿讃交流史の拠点となった本山寺を見ておきましょう。
四国霊場で国宝の本堂を持つ本山寺(三豊市)の「古建物調査書」(明治33年(1900)には、本堂の用材は阿波国美馬郡の「西祖父谷」の深淵谷で、弘法大師が自ら伐り出したものであると記します。 空海が自ら切り出したかどうかは別にしても、このようなことが伝えられる背景には、本山寺が財田川の上流域から阿波国へと後背地を広域に伸ばして、阿讃の交易活動を活発に行っていたことをうかがわせるものです。
個人タクシーで行く 四国遍路巡礼の旅 第70番 本山寺 馬頭観世音菩薩 徳島個人中村ジャンボタクシーで行く四国巡礼の遍路巡り 四国36不動 曼荼羅霊場  奥の院
本山寺の本尊は馬頭観音

本山寺は、もともとは牛頭大明神を祀る八坂神社系の修験者が別当を務めるお寺でした。この系統のお寺や神社は、馬借たちのよう牛馬を扱う運輸関係者の信仰を集めていました。本山寺も古くから交通・流通の拠点に位置し、財田川上流や阿波を後背地として、活発な交易活動を展開していたと研究者は考えています。

P1170428
山城町上名の茶畑
「塩とお茶の街道」を、整理しておきます。
①天正二(1574)年の豊楽寺「御堂」修造に際し、長宗我部氏とともに奉加帳に仁尾浦商人塩田氏一族の塩田又市郎の名前が残っている。
②塩田又市郎は、仁尾・詫間の塩や魚介類をもたらし、土佐茶を仕入れるために土佐豊永郷や阿波三名などに頻繁に営業活動のためにやってきていた。
③仁尾商人は、土佐・長岡・吾川郡域や阿波三名などの山村に広く活動していた。
④中世仁尾浦商人の営業圈は讃岐西部-阿波西部-土佐中部の山越えの道の沿線地域に拡がっていた。

今は山城町の茶葉が仁尾に、もたらされることはなくなりました。
しかし、明治半ばまでは「塩と茶の道」は、仁尾と三名村など阿波西部を結び、そこには仁尾商人の活動が見られたようです。それとリンクする形で、ソラの修験者たちと仁尾の覚城寺などは修験道によって結びつけられていたとしておきます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
市村高男    中世港町仁尾の成立と展開   中世讃岐と瀬戸内世界
関連記事


このページのトップヘ