瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三好康長

池田町史 「上・中・下3冊揃(徳島県)」(池田町史編纂委員会編) / エイワ書店 / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 / 日本の古本屋

前回は、長宗我部元親の阿波侵攻を史料で押さえました。今回は、地元の池田町史には白地城の大西覚用の対応・抵抗がどのように書かれているかを見ていくことにします。テキストは「池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡」です。
三好氏系図.4jpg
  三好氏系図 長慶死後は、弟実休(義賢)の息子・長治が継承

三好氏を支えていた三好義賢、長慶が亡くなり、その後を継いだのが長治です。そんな中で元親に阿波進出の口実を与える事件が、阿波の南方と海瑞で同時に持ちあがります。
南方の事件は、元亀2年(1571)のことです。元親の末弟・島弥九郎親益が、病弱のため有馬の湯治に出かけた帰りに、海部郡奈佐の港に風浪をさけて停泊します。これを知った海部城主海部宗寿が、これを攻めて殺してしまいます。この時にちょうど海部城には、元親に滅された土佐安芸氏の遺臣が客分になっていました。彼らが旧主の敵討ちのために、この拳に出たようです。一方、海瑞では元親に討たれた土佐本山氏の一族が長治を頼って来ます。「志」には次のように記します。

「本山式部小輔主従七十三人阿波国へ行き(中略)勝瑞に至れば三好河内守長治大いに悦び、所領を与え一方の大将に定めぬ」

土佐の敗軍である本山氏を身内に招き入れることも、長宗我部元親を刺激します。こうして阿波と土佐の間で戦雲が広がります。ところが、軍記書には次のように記します。

「三好長治愚昧にして策なく「元親本山の遺臣を遣し、阿波に於て小輔を殺す」(「蠹簡集」)

蜂須賀藩時代になって書かれた軍記書は、どれも長治のことを「暴君・無能」と記します。しかし、これは以前にお話したように前政権担当者を悪く言って、現政権担当者を引き立たせようとする暦書の常套手段のひとつです。これをそのまま信じることは出来ません。しかし、長治の代になって三好政権に陰りが見え始めたことは事実です。有能な家臣の篠原長房を攻め殺し、阿波国内の混乱が続く中で、それを見透かしたように土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

長宗我部元親の阿波侵攻1
 天正三年(1575)、島弥九郎の事件を口実に、元親は宍喰に侵入し、海部城を攻めます。
この時に、海部宗寿は三好氏に従軍して讃岐へ出兵中で留守のために、簡単に落城したようです。土佐軍は、海部城を拠点として阿波南方の足がかりとして、由岐城、日和佐城、牟岐城を戦わずして次々と陥していきます。阿波の南方に侵入した長宗我部氏は、同時に阿波の西方への進出も開始します。目標となったのが四国中央にあたり、大西覚用が城主であった白地城です。
大西家系図 池田町史

大西家系図(池田町史)
長宗我部元親と大西覚用の関係はどうだったのでしょうか?
  池田町史は「上名藤川家家記」の内容を、次のように載せています。(意訳)

「藤川助兵衛長定が天神山城において侵入軍を撃退し主将嶋田善兵衛を討ち取り、その後も立川丹後守、佐川兵衛等の侵入軍を退け、その功により大西覚用より、信正、所窪を加増せられた」

ここには藤川氏が土佐軍の侵入を阻止し、その軍功に対して白地城の大西覚用から加増を受けたとします。しかし、実際には土佐軍は戦うことなく調略で、阿波国境の「山岳武士」たちを味方に付けていたことは以前に次のようにお話ししました。
A 阿波国西部の祖谷地方などの「山岳武士」たちを豊楽寺への信仰で組織し味方に引き入れていること。祖谷山衆も天正年間初期には、掌握していたこと。
B  『祖谷山旧記』には、長宗我部元親の指令に応じて祖谷山衆が「さたミつ(貞光)口」へ侵攻していること。
C 天正7(1573)年12月の岩倉城をめぐる攻防戦の際の長宗我部元親の感状に木屋平氏の軍忠を「暦々無比類手柄共候」と賞していること。つまり、木屋平氏が長宗我部元親の傘下で働いていたことを裏付けられます。
 長宗我部元親は土佐国境の祖谷山衆を天正年間の初めには配下に置いていたと研究者は判断します。そうだとすると、阿波と土佐の国境附近では戦闘は行われず、無傷で土佐軍は大歩危・小歩危の難所を、祖谷山衆の手引きで越えたことになります。

 このあたりのことを「元親記」は、次のように記します。

天正四年、元親は大西(白地城周辺の地名)入りの評議をしたが、「大西への道筋は日本一の難所で、力態に越さるる所に之無く(中略)先ず覚用を繰りて見んとて(「元親記」)」、
ちょうど覚用の弟了秀が出家し、土佐国野根の万福寺住職であったので、この了秀を遣わして和議を申込ませた。

しかし、これを史料で確認することはできません。 以前に紹介した長宗我部元親が大西覚用を味方に引き入れるため栗野氏に宛てた書状を見ておきましょう。(意訳)
今までは連絡を行う事ができなかったが、今回初めて書簡を送る。現在の阿波国は、相争い国が乱れた状態にあり、辛労を察する。ついては、これより今後は、別書に誓った通り、御入魂を傾け吾のために働くことを願う。なお、大西方・三好安藝守の和睦仲介について、尽力していることは喜ばしい限りである。重ねて使者を差しだし、双方を我が方に引き入れるように活動していただきたい。また御太刀一腰・馬一疋を進覧いただいたことは、祝儀である。猶委山口上含候可得御意候、恐慢謹言、
十一月廿三日       (長宗我部)元親(花押)
栗野殿人々御中
ここに登場する栗野氏は、「古城記」の三好郡部分に記載されている「栗野殿 十六葉菊三」のことと研究者は考えています。
白地城周辺
白地城の西の粟野屋敷

このように、大西覚用の重臣たちを密に味方に引き入れ、彼らを通じて和睦交渉を進めていたことが分かります。つまり、大西覚用は、家臣団を切り崩された状態にあったことになります。これでは戦えません。
このような情勢を讃岐の香西成資の「南海通記」は、次のように記します。

 阿波国ノコト三好長治政ヲニシ国内ノ諸将威勢と謡ヒ、親族ノ者モ皆離れて長治ニ服せず。故ニ南方が羈縻ニ属す。大西ハ猶以テ土佐二近シ。隣国ノ好ヲ以テ土州二一意シハバ互いの悅之ニ過グベカラズ。今阿州の人心ヲ思フニ大西ニ事アリトモ誰カカッ合スペキヤ。却テ大西ヲラントスル者多カルベシ。コノ程ヲ思量シテ和親ノ約ヲナシ玉ハバムッマジキガ中ニモ猶ムツマジク成テ大西領地モ広マリ繁栄ナルベキコトコノ時ニアリ。

意訳変換しておくと
 阿波国については三好長治の代になって、国内諸将の支持を失い、親族も皆離れて長治に従わなくなった。そのため阿波南方は土佐軍に奪われてしまった。一方、白地城の大西覚用は、土佐国境に近く、長宗我部元親と隣国のよしみもあって、敵対関係はなかった。そこで大西覚用は次のように考えた「白地城が長宗我部元親に攻められても、三好氏が救ってくれることはないだろう。そうだとすると三好氏を捨て長宗我部元親と和睦するほうが、大西の領地も拡大し、繁栄する道につながる」

香西成資の南海通記は、長老の伝聞と阿波や土佐の軍記ものを参考に書かれたものなので、曖昧なことや誤謬も多いことは以前にお話ししました。この部分も阿波の編纂史に頼った記述内容となっています。しかし、当時の情勢をよくつかんでいるように思えます。町史などを記述する立場であれば、こういう記事に頼りたくなるのは当然だと思います。
 大西覚用の立場になって考えて見ると、三好長治の失政のため阿波の政局は混乱し、三好氏内部も二分して争う状況です。阿波南方の海部城は落城しましたが、三好氏はこの奪回に手をかそうとしません。こうした動きを見ると、三好氏に頼ることは危険に思えてきます。そこで頼りとするのが毛利氏と長宗我部元親です。大西覚用が元親と交渉を持つ一方で、中国の毛利氏に文書を送っていたことや、讃岐に独自の利権を持つようになっていたことは以前にお話ししました。こうして、大西覚用は戦わずして長宗我部元親の軍門に降ります。元親記には、大西覚用を味方に引き入れたときの長宗我部元親の反応を次のように記します。

「先此大西(白地城)さへ手に入候へば、阿讃伊予三ヶ国の辻にて何方へ取出すべきも自由なりとて、満足し給ひけり。」

 阿波・讃岐・伊予への進入路となる白地城の大西覚用を味方に付けたことの戦略的な重要性をよく認識しています。元親にとっては「大西覚用を手繰りてみん」という謀略の一環だったのでしょう。

阿波大西氏5

 ところが何があったのかはよくわかりませんが大西覚用は、長宗我部元親をすぐに裏切ります。
その寝返りの理由とされるのが、畿内の三好康長(笑岩)からの書状だとされます。当時畿内では、織田信長が「天下布武」に向けて足固めを行っていました。天下人に近づく信長に従って各地で転戦するようになったのが河内国高屋城主三好康長(笑岩)です。康長(笑岩)は、阿波国内の城持ち衆に、信長の意を汲んだ書簡を送りつけてきます。そこには次のように記されていました。

 来年(天正六年) 我信長公は大軍を挙げて阿波に出陣、土佐方へ奪取所の南方を取返し、阿波を安堵す。ついては阿波国中の城持衆は、力を合せて敵(土佐軍)に抵抗し、その領地を護り、信長軍の来軍に備えよ。

 大西覚用は、この書簡を受けて長宗我部元親を裏切り、三好側に寝返って戦いの準備を始めたとされます。
この決定で困難な立場になったのが人質として元親のもとにあった大西覚用の弟・上野介です。
普通だと切腹です。ところが元親は深謀を発揮して、上野介の一命を助けます。そのことを元親記は次のように記します。

「覚用に捨てられたる人質上野守は已に気遣に及ぶ。元親卿より上野方へ有使。身上心安致すべし。其方に対し毛頭別儀無之助置て上る。其より上野をば家人同前に心易居候へと宣て弓鉄砲を免じ鳥など打遊山せよと宜し也」

意訳変換しておくと

「兄の覚用に捨てられた人質上野守は、切腹を覚悟した。ところが元親卿よりの使者は、身上心安くすべし。その方に対しは何の責めも危害も加えない。これよりは上野を家人同様にあつかうので、そう心易よ。今まで通り、弓・鉄砲で鳥などを狩猟することも許す」

上野介はこの恩義に感激して、元親の西阿進攻に犬馬の労をいとわないことを誓います。そして白地城落城に大きな功績をあげたと軍記ものには詳しく活躍が記されます。そのため上野介はある意味では、英雄譚のように語られることになります。上野介が登場するシーンは、注意する必要があるようです。

天正五年(1577)3月 讃岐で毛利軍が丸亀平野南部の元吉城(櫛梨城)に入り、三好氏の率いる讃岐国衆と元吉合戦が戦われる4ヶ月前のことです。
勝瑞城を出奔して仁宇谷に拠った細川真之を攻めた三好長治が、逆に細川方の急襲で、長原で戦死してしまいます。
 長治戦死という事態を知った長宗我部元親は、このチャンスを見逃しません。上野介を道案内兼参謀として、西阿波に侵攻します。この様子を池田町史で見ておきましょう。

白地城では、年老いた頼武が、戦いに疲れ病弱の身を城内で起き伏していた。城主である頼武の子・大西覚用は、長宗我部軍の侵攻の近いことを知って、勝瑞の三好氏や、畿内の三好軍に援軍を求めた。しかし、勝瑞の三好方は長治の戦死でそれどころではなかった。信長の大軍をたのんで応援にかけつけるはずだった高屋城の三好康長(岩)も信長も、紀伊の雑賀党の鉄砲隊に悩まされて、身動きできない状況だった。

つまり、孤立無援のまま長宗我部元親と戦わなければならないことになります。
大西覚用は、土佐軍への迎撃体制を次のように整えたと池田町史は記します。
①白地域をとりまく城を移築し、有力な武将を配置した
②土佐の正面にあたる山城谷の尾城を移築して、弟大西京進穎信を城主とし、老臣寺野源左衛門を補佐させます。
③白地城をとりまくように大利城(城主大西石見守)、天神山塁、漆川城(城主大西左門衛尉頼光)、中西城(城主東條隠岐守)馬路城、佐野城、さらに三好町の東山城と守りを固めた。
④急を告げる狼煙の道が、三名の茶園の休場→天神山城→根津木越→越の田尾→田尾城→大利城→白地城と整備された。
一方、雲辺寺文書の中には、次のような年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状が残っています。

大西覚用から雲辺寺への借用書
  年紀不明の大西覚用の「馬借用」書状
 馬数入候問四五日逗留候てかり申す可く候 くら(鞍)をきて下さるべく候 態此者参らせ候やがてやがて返し申す可く候 恐々謹言
閏七月十二日             (大西覚用) 覚(花押)
俊崇坊
雲辺寺 
意訳変換しておくと
 荷馬が緊急に必要なので四、五日逗留して借用(徴用)を申しつける。鞍を付けておいてくれれば、配下の者を使わし連れて帰る。馬は後日改めて返還する 恐々謹言
閏七月十二日
                                 (大西覚用)覚(花押)
俊崇坊参
雲辺寺 
ここからは次のような情報が読み取れます。
①日付が閏7月12日とあり、閏年が7月にあったのは天正3(1575)年で、白地落城の二年前
②そのころの大西氏は讃岐へ出兵しているので、そのための荷馬借用を命じるものか
③あるいは、土佐軍侵攻近しというので、そのための準備か
④雲辺寺に馬が何頭も飼育されていたこと
⑤馬の借用依頼文だが、一種の軍事微発ともとれる。
⑥当時の雲辺寺の責任者が「俊崇坊」で、坊連合による寺院運営が行われていたこと
⑦雲辺寺には自衛のために僧兵・軍馬がいて、大西覚用の影響下にあったこと
 この手紙によって馬が借りられたかどうかなどは分かりません。しかし、長宗我部元親との戦いに備えて、大西覚用が戦備を整えている様子がうかがえます。

これに対して、白地城攻略の先兵を命じられたのが大西覚用の弟大西上野介です。
上野助は、国境の豪族や、白地城の一族や武将たちへ開者を放ち、三好家頼むに足らず、元親と和平することこそ大西家を保つ道であると説かせます。そして、一族や家臣団の戦意を削ぎます。
天正5年5月下句、土佐軍は味方に付けていた阿土国境の三名士(藤川大黒西宇三氏)の先導で国境の大難所も容易に通過して、白地山城と言われた田尾城に殺到します。土佐軍は、竹の水筒に、煎麦の粉(オチラシ)を糧食として腰に下げた歴戦の3000人余でした。 

阿波田尾城2 大西覚用
白地山(田尾)城
白地山(田尾)城の戦いについては、阿波や讃岐方の軍記ものである「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」等の軍記ものをまとめて、池田町史は次のように記します。

 第一日目
三千人の土佐軍は、三百人余の城兵が守る田尾城の南方正面から攻撃を開始した。しかし、このことあるを覚悟していた城方は鉄砲を並べ、矢を連ねてこれを防いだ。老いたりとは言え寺野源左衛門の用兵は見事に功を奏し、小城とあなどって攻めかけた土佐軍の戦死する者数を知らず、たちまちの尾根は屍の山を築き、後世まで屍の田尾と呼ばれるようになったほどだった。田尾城から屍の田尾に至る畑の中にも点々と戦死者お残っています。こうして土佐方の第一日目の攻撃は完全に失敗した。

阿波田尾城 大西覚用
阿波田尾城

 第二日目
上野介は、このままだと損害が大きくなるばかりであると考え、手からの夜襲を献策した。田尾城の北側は、険しい谷になっているので、恐らく、守りも手薄であろうと考えたのであるが、それ以上に、夜の戦いであれば、かねて意を通じてある城内の武士が土佐軍に味方して動き易くなるであろうと考えたのであろう。
 その夜、主力は火を並べて、正面からの夜翼の気配を見せ、上野介は五、六十名を引きつれ乾いた熱を手に手に搦手に回った。夜が更けて、正面の恒火も一つずつ消え、物音も静まって夜のしじまがやって来た。城中では第一日の勝利に、土佐軍は夜襲をあきらめたものと警戒を解き土張を枕にまどろむ者もあった。
阿波田尾城3 大西覚用
阿波田尾城

 夜半を過ぎたころ、搦手の上野介の兵士は、乾いた煙に火を放ち、どっとときの声をあげて城内へ殺到した。これに呼応して正面からも一時にかん声をあげて城内へ突入していった。城内では、もう夜はないものと安心していただけに、混乱の樹に達し、内通者の動きも混乱を一層大きくした。
 すっかり戦意を失った城内の兵は、勝手知った暗闇の退路を相川橋に向かって走った。わずかの兵に守られた右京進頼信と寺野源左衛門→相川橋にたどりつき、橋をこわして白地域に向かって退却していった。三千人の土佐軍は、これを追って相川橋方面へ進んだが、暗さは暗し、慣れない山道で、小谷に落ち、崖からころぶ者数を知らずという状況だった。ことに橋のこわされていることを知らない土佐軍が一度に相川橋に押し寄せたため、後から押されて伊川に落ちて溺れる者も多かったという。
 相川橋付近の狭い土地に三千の兵がひしめき、勝ち戦とは言え、土佐軍も一時混乱に陥っていたが、やがて主力を大和川に集結し、右翼を下川に、左翼を馬路付近に集め、白地本城攻撃の陣形をたてなおしていった。

白地城 大西覚用 池田町史
白地城(池田町史)
3日目

 一夜明けると白地城の中は大騒ぎとなった。これほど早く田尾城が落ちるとは思っていなかったのである。頼武は老弱であったので覚用が、さっそく土佐軍を迎えうつ軍議を開いた。ところが、「土佐方と和議を結ぶべし」という意見が出て軍議はまとまらず混乱に陥った。上野介の説得が開者によって広く将兵の間に浸透していたのであろう。
「元親公は決して大西を敵としているのでなく、めざすのは三好氏であり、勝瑞の十川存保である。それに、元親公は、普通であれば当然断罪に処せられているはずの上野介様を大切に扱われ、その上野介様は今度の戦いには参謀格で来ておられる。和議を結んでも決して悪いようにはなるまい。」という和平派の主張は将兵の耳に快く響いたに違いなかった。
 和平派が大勢を占めたため、大西覚用は小数の部下と家族をつれて増川(三好町)の東山城に逃れた。東山城も安住の地でな家族を増川に残し、弟長頼の居城である讃岐の城へ落ちて行ったのである。こうして、土佐軍は白地城を無血占領し、白地の台は元親の将兵が満ち満ちたのである。白地落城が伝わると佐野城も馬路城も、川崎城も戦わずして開城し、思い思いに落ちていった。
 白地城2

以上が「阿波志」・「南海通記」・「四国軍記」「大西譜略」などに書かれていることをまとめたものです。田尾城攻防戦の様子がなどが見てきたように描かれています。しかし、これらは蜂須賀藩の時代になって書かれたもので「反長宗我部元親」「阿波郷土防衛戦」の色彩が強く出ていることは以前にお話ししました。ちなみに土佐側の史料や軍記ものには、白地城に至るまでに抵抗があったことは記されていません。これは讃岐における長宗我部元親の西讃侵攻時と同じです。侵略された側は、我が軍はこれだけの抵抗を行い多くの犠牲者を出したと記します。しかし、それは土佐側の史料には記されていません。実際に激しい抵抗があったのかどうかは分からないと研究者は考えています。それは、後の上野助の行動を見ると分かります。また大西覚用は後に、婚姻関係で結ばれていた讃岐の麻口城の近藤氏のもとに落ちのびていきます。その後は再度、長宗我部元親の下で働くことになるのです。もしここで大西覚用が激しい抵抗をした場合には、二度目の帰順は許されなかったと思います。
 「長宗我部元親の四国平定の際の軍事戦略について、野本亮氏は次のように記します。

急峻な四国山地を一領具足を主力とした数万の軍勢が越えるのはほとんど不可能に近く、武器・弾薬・食料の輸送という面から見ても現実的ではない。阿・讃・予における元親の勝利の陰には、土佐方に内通、もしくは積極的に協力した同盟者の存在が第一であり、彼等の利害関係に乗じる形で契約を結び、兵と物資の支援を受けたと考える方が無理がない」

長宗我部元親の基本戦術は、「兵力温存・長期戦になっても死者の数をできるだけ減らす」「交渉によって味方に付ける」であったことは以前にお話ししました。阿波や讃岐側の軍記ものの記述は、長宗我部元親の戦術に反するものです。
 こうして白地城をはじめ、阿波と伊子、土佐の大西方の城はすべて落城します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
池田町史156P 白地城落城と大西氏滅亡
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 天正7年(1579)から翌年にかけての長宗我部軍の阿波侵攻の経過を史料で追いかけていきます。テキストは「山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年」です。
 この時期になると、土佐軍によって三好軍はじりじりと追い詰められていきます。そのような中で、天正8(1580)年3月に大坂石山本願寺の顕如と織田信長との和睦(勅命講和)が成立し、翌月には顕如が大坂を退去します。この事件は本願寺方を支援していた三好氏に大きな転換点となったようです。次の史料は、天正7年後半頃の阿波をめぐる情勢を伝えるものです。
 阿波平定中の長宗我部元親が羽柴秀吉に宛てた全八カ条からなる書状(写)です。
【史料⑥】(東京大学史料編纂所架蔵「古田文書」)(括弧内は条数を示す)
雖度々令啓達候、向後之儀猶以可得御内証、態以使者申人候、(中略)
一(3)先度従在陣中如令注進候、讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、
一 名東郡一宮之城を取巻候之条、十河・羽床搦手にハ対陣付置、一宮為後巻至阿州馳向候処、此方備まちうけす敵即敗北候、追而可及一戦処、阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計、先謀叛之輩共、或者令誅伐、或令追討、勝瑞一所に責縮、方角要々害・番手等堅固申付、一旦休汗馬候、敵方手成於武篇者手二取見究申間、可御心易候、
一(4)先度之御報に紀州者阿州無競望様二可被仰上之旨、尤大慶存候、既今度彼等謀略之状懸御目候、殊四国行之段御朱印頂戴仕旨、厳重申洩依致蜂起、万一如何様仁被成 御下知候哉と一先戦申加遠慮候、迪之儀詳に被仰上、委曲之御報所仰候、
一(5)阿・讃於平均者、雖為不肖身上西国表御手遣之節者、随分相当之致御馳走、可詢粉骨念願計候、
一(6)三好山城守(康長)近日讃州至(寒川郡)安富館下国必定候、子細口上可申分候、
一(7)淡州野口方(長宗)ノ所来、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被(中略)
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
意訳変換しておくと
度々の報告でありますが、今後のこともありますので使者を立て以下のことを連絡いたします。(中略)
一(3)先日、陣中から注進したように、讃州の十河・羽床両城を攻撃中のことですが、石山本願寺を退城した牢人たちが紀州・淡路の者どもと共に、海を渡ってきて、阿波の勝瑞へ籠城しました。
一 さらに名東郡一宮城を取り囲む勢いです。我々は十河・羽床城攻撃のために(讃岐に)出陣中でしたが、阿波に転進して一宮を取り巻く勢力を敗走させました。それを追ってなお一戦しました。阿州南方には新開道善など雑賀と連携するものがいて、なかなか手強い相手でしたが、これを誅伐・追討することができました。そして勝瑞に迫りましたが、この城は要害化されて、もっとも手強い城なので一旦、兵馬を休め、敵方の様子を窺いながら攻城することにしました。
一(4)先だって報告したように、紀州者が阿波に侵入することがないように仰上いただいているのは大慶の至りです。なお、紀州衆の阿波への侵入事件について、私が四国統一の御朱印を頂戴していることを伝達し、これに従わないことがあれば一戦も辞さないことを申し伝えました。
一(5)阿波と讃岐の大勢は、西国方面の情勢を察して、相当の国衆が帰順しました。
一(6)三好山城守(康長)が近日中に、讃州の(寒川郡)安富館に下国するとのこと、詳しいことについては使者が口上で報告します。
一(7)淡路の野口方(長宗)については、其元馳参被成御許容候由候、此比淡州之儀、如何可被仰付候、御模様候哉承度存候、紀州之儀被押置候者、阿・讃両国即時被及行可相呆候条、於其上者淡州之義、被一中略一
                                                     長宗我部宮内少輔 元親
(天正八年)霜月廿四日
羽柴筑前守(秀吉)殿人々御中
(3)条に「讃州十河・羽床両城取詰而落居半、大坂を逃下牢人共紀州・淡州相催、阿州勝瑞へ被渡及再籠、 一宮之城を取巻候」とあります。長宗我部氏が讃岐の十河・羽床両城を攻囲中に、大坂石山本願寺を退城した「牢人共」が紀州勢・淡路勢とともに、阿波勝瑞に入城に立て籠もり、さらに一宮城を包囲したとあります。この「牢人共」というのは、顕如の大坂退去後も教如(顕如の子)に従って本願寺に籠城・抵抗していた者たちのようです。その勢力が紀伊雑賀衆(門徒衆ヵ)・淡路の反織田勢と合流して阿波勝瑞に入城したというのです。これは、当時三好氏本拠の勝瑞城が織田権力に抵抗する拠点の一つであったためのようです。反信長の旗印が磁場となって、同士たちを引き寄せたとしておきます。

阿波一宮城
阿波一宮城
阿波一宮城5
阿波一宮城
 「牢人共」の攻囲した一宮城は、城主一宮成相が長宗我部方に従属し、三好勢と敵対する関係にありました。この一宮城の攻防戦は、麻植郡内領主の木屋平氏がこの城に籠城していたことが史料から裏付けられます。
 同条(3条)には「阿州南方に在之新開道善と申者をはじめ雑賀之者に「令同心、大都敵心之輩依在之軍利難計」とあります。ここからは、牟岐城主の新開道善らが雑賀衆と連携して、長宗我部氏に抗戦する動きがあったことが分かります。
(6)には、織田信長配下の三好康長が近日中に讃岐の安富氏館へ下向することが記されています。この時期の安富氏は、織田方の東讃岐における拠点であったことは以前にお話ししました。
研究者が注目するのは(4)で、長宗我部元親が「紀州者」の行動について、「謀略」・「蜂起」と表現して、その経緯について説明を求めている点です。これは「牢人共」の行動を、裏で信長が操っているのではないかという疑念が長宗我部元親にあったと研究者は推測します。そのため信長に説明を求めていると云うのです。さらに(7)では「紀州」勢を制圧してくれるならば、「阿・讃両国即時被及行可相果候」とも述べています。
このように天正8年後半は、教如の石山本願寺退出に伴う余波が阿波にも及んでいたことが分かります。具体的には、反信長の旗印のもとに三好勢と雑賀衆(反織田方)が阿波海瑞に集結し、そのベクトルが長宗我部勢への抗戦に向かっていたことを押さえておきます。このような情勢に対応するために長宗我部元親は、織田方に対して紀伊雑賀の制圧と淡路への対応を求めていたのです。
長宗我部元親と明智家の系図
次の史料は、「石谷家文書」に含まれる長宗我部氏関係の史料です。
この史料は、長宗我部氏家臣の中島重房らが明智光秀家臣の斎藤利三・石谷頼辰(利三兄)宛に出した全9ヵ条の書状です。

①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
①中島重房・忠秀書状 天正6年(1578)11月24日
(前略)
一(1)阿州之儀者、来春一行可被差競候、落着之段、兎角大坂・雑賀御手遣之節、可被探果候
一(2)淡州へ之御一勢、於御遠慮者、是非雑賀を被押置候やう之御申成肝要候、勝瑞をハ雑賀者過半相踏候、可被成共御分別候、
一(3)讃岐国之事、勝瑞一着を相願躰に候、当分此方敵心候へ共、至極之無遺恨候、千時中国二被搦、此方と敵筋候、勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候、連々調略子細候間、今一握にて可相下候、
(4)被申入人候 御朱印之事、早速御申請候て可被差下儀、大用に存候、此隣国之儀、誰在之而只今可申請仁有間敷候へ共、とても元親無二御味方に被参事候間、能被人御精、安堵之 御書可被下候、(中略)
(7)(中略)伊予州表之事者、手間入ましき躰候へ共、阿州之儀被懸念第一、淡州・紀州遺恨に付而、与(予)州口之儀成次第之躰二候、 (中略)
十一月廿四日        忠秀(花押)
        (中島)重房(花押)
意訳変換しておくと
(前略)
一(1)阿波のことについては、来春に最終的な軍事行動を起こし、落着する予定です。その際に、雑賀衆への対応が重要になります
一(2)淡路の織田方が、紀州雑賀を押さえておくことが必要です。阿波勝瑞に立て籠もるのは、半分が雑賀者ですので、それへの対応がポイントになります。
一(3)讃岐については、阿波勝瑞が落ちれば、自然と平定は進むと思われます。讃岐衆は、当分は長宗我部方へ敵心を抱くかもしれませんが、遺恨はありません。また中国筋(備中遠征)をめぐって毛利氏とは敵筋になっています。それらから考えて、勝瑞が落ちれば、讃岐のことは如何ようにもなります。連々調略子細候間、一握にて済みましょう。
(4)申請していた「四国平定」の御朱印について、早速に差下しいただけること大用に存じます。元親を織田方の味方に加えていただけることに安堵しています。(中略)
(7)(中略)伊予州方面については、今後も手間がかかりそうそうです。しかし、全体的に見ると、阿波が第1の障害です。特に、淡州・紀州勢の動きが気がかりです。第2に与(予)州という順になります。
(中略)
(天正6年)十一月廿四日        忠秀(花押)
              (中島)重房(花押)
ここには長宗我部氏の阿波と讃岐攻略の見通しが述べられています。その概略は次の通りです。
(1)条に阿波攻略の最後の軍事行動を来春に行うこと
(2)条で三好氏の勝瑞城に雑賀衆が立て籠もっており、織田方に紀州雑賀の制圧を望むこと
(3)条に、讃岐については勝瑞を攻略すれば、その後は容易に攻略できるという見通しを持っていたこと
(4)条に「被申入人候 御朱印之事」「元親無二御味方に被参事候」とあり、信長の朱印状の存在が確認できます。ここからは次のようなことが分かります。
①元親による四国平定の戦いが信長の了解を得て行われていたこと
この時期の長宗我部元親は織田氏に臣従して行動していたこと
元親家臣らが元親と信長の関係が好ましいものと考えていたこと、


徳島県 – KAGAWA GALLERY-歴史館
阿波勝瑞城

この書簡が出された時期については『石谷家文書』の編者は、天正6(1578)年と推定しています。この史料で研究者が注目するのは、史料中に雑賀衆の勝瑞入城や織田方への雑賀衆制圧の要請など、先ほど見た長宗我部元親から秀吉宛の史料⑥とよく似た記述が何箇所かあることです。この時期になると、長宗我部氏の阿波攻勢に対し、三好氏側では雑賀衆などの反織田方勢力と合流して抗戦しようとする動きが出てきます。
 (3)条には「勝瑞澄候ヘハ、讃岐之事ハ如何やうも可輛趣候」とあります。ここからは、讃岐国衆は長宗我部元親に遺恨もなく、抵抗意欲が低く、三好氏が抵抗を止めれば戦うことなく帰順すると考えていたことがうかがえます。以上から長宗我部氏にとっては、三好氏本拠の勝瑞城攻略が阿波・讃岐制圧の最大の目標となっていたことが分かります。その達成のために長宗我部氏は、三好氏と提携して戦う雑賀衆の制圧を期待したと研究者は考えています。

次の史料は、この時期の讃岐・阿波の国内情勢を示す長宗我部側の史料です。阿波攻略を担当した香宗我部親泰から桑名氏(長宗我部氏家臣)に宛てた天正8年の讃岐・阿波の情勢を述べた書状です。
【史料⑧】「香宗我部家文書」
猶以去廿四日 財田よりの御書も相届申候、去廿六日御書昨日三日到着、得其意存候、
一(1)隣国而々儀、悉色立俵相申趣、香中(香川信景)始証人等被相渡、其外之模様条々、無残方相聞申候、是非之儀更難申上候、十河一城之儀も如此候時者、可有如何候哉、家中者心底可被難揃と申事候、
(2)昨日此御書到来、即刻先(一宮)成相ハ乗物にて(那東郡)桑野迄被越候、所労儀もしかじかなく候へとも相進候、
(3)御屋形様(旧阿波守護家細川真之)御進発事、此上者不及用捨事候間、可致御供心得候、常々さへ御いそきの事候間、以外御いらての事候間其覚悟候、兎角無人体見所之儀も如何候へとも左候とてためろふへきニあらす候間、先乗野迄御供いたすへく候、但其方今御一左右可待申覚悟候、
(4)牟岐辺事、此刻調略事候、成相申談相越候、
(5大栗衆手遣事、急度可申遣事、去廿八日太栗衆此方者相加佐那河内不残放火候時者能打入候、恐々謹言、
              (香宗我部)香左       親泰(花押)
十二月四日
桑名殿ヘ
意訳変換しておくと
去る24日に財田からの御書が届き、26日の御書が昨日三日に到着した。その要点を述べておく。
一(1)讃岐隣国の情勢が不安定な中で、香中(香川信景)を始め国衆が人質を出してきた。しかし、その他の情勢は見通しが付かない。十河城についても、いつ落城させられるか見通しがたたない。家中の者たちも、困難な状況だと感じている。
(2)阿波から昨日届いた御書によると、長宗我部方の(一宮)成相が、途中の傷害もなく(那東郡)桑野までやってきたこと
(3)で、「御屋形様(旧阿波守護家細川真之)」の出陣の際には、桑野まで御供をする用意があること
(4)の「牟岐辺事、此刻調略事候」は、牟岐城主新開道善への調略のようで、これに一宮成相とともに当たること
(5条)で、「太粟(名西郡山分)衆」の軍事動員のこと
(1)は讃岐情勢で、香川信景が人質を出して以後、有力国衆も次々と従っているが、抵抗が激しい十河城をいつ墜とせるかは分からないとしています。同時に、讃岐の情報が財田に集められ、そこからまとめて長宗我部元親のもとに送られてきたことがうかがえます。財田は土佐軍の情報収集センターだったのかもしれません。
(3)からは長宗我部元親と「阿波御屋形(守護)」の細川真之が連携していたことが裏付けられます。(4)条は、(1)の「新聞道善と申者をはじめ雑賀之者に令同心」への対応のようです。ここからはこの時期の長宗我部氏は、阿波南方の拠点は桑野(那東郡)であったことが分かります。史料⑧の年次は、内容から見て天正8年と研究者は判断します。

天正9年(1581)になると、織田信長が阿波・讃岐の経略に直接乗り出してきます。

具体的には、阿波三好氏一族の三好康長を阿波攻略の責任者として派遣したことです。京都馬揃の準備を命じた天正9年1月の織田信長朱印状写に「三好山城守(康長)、是ハ阿波へ遣候間、其用意可除候」と記されています。ここからは三好康長が阿波へ派遣される予定であったことが分かります。康長が四国にいつやって来たのかは、一次史料で確認できないようです。軍記ものには同年二月とする記事があります。以後、三好康長を取次として織田信長は、長宗我部氏の外交・軍事を担当した香宗我部親泰に書状を発給するようになります。そのひとつを見ておきましょう。
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候、猶以阿州面事、別而馳走専一候、猶三好(康長)山城守可申候也、謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
意訳変換しておくと
【史料⑨】(「香宗我部家伝証文」)          43P
三好式部少輔について、阿波平定について、別心なく誠意を持って勤めていることは珍重である。よって、阿波方面のことについて馳走を行う。なお今後は、三好(康長)山城守に従うように申し伝える。謹言、
(天正九年)六月十二日           信長(朱印)
香宗我部安芸守(親秦)殿
史料⑨は、信長が長宗我部氏に対し三好式部少輔(美馬郡岩倉城主)を支援して阿波での馳走を伝えたものです。
【史料⑩】(「香宗我部家伝証文」)
爾来不申承候、乃就阿力初表之儀、従信長以朱印被申候、向後別而御入眼可為快然趣、相心得可申す旨候、随而同名式部少輔事、一円若輩ニ候、殊更近年就公心劇、無力之仕立候条、諸事御指南所希候、弥御肝煎於我等可為珍重候、恐々謹言、
(天正九年)六月十四日            康慶(花押)
香宗我部安芸守(親泰)  殿御宿所
史料⑩は三好康慶(康長)の副状で、同族で若輩の式部少輔への「御指南」を依頼した内容です。ふたつの史料は織田信長の対長宗我部氏政策に関わる史料として、これまでは見られてきました。史料の年次比定は諸説ありますが 三好康長の阿波派遣の時期から考えて天正9年と研究者は判断します。
史料⑨については、次の3つの説があります。
A 長宗我部氏に対し、式部少輔を支援して阿波支配を行うよう指示したことは、それまでの信長の長宗我部氏に対する政策変更を意味する
B 阿波で苦戦する長宗我部氏を支援するため、信長は三好康長を派遣して同国を康長と長宗我部氏との共同戦線強化に乗り出した
C 三好康長が長宗我部方の同族式部少輔に目を付け、信長と康長が式部少輔への支援を長宗我部氏に命じることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入しようとした

このふたつの史料をどう評価するかについては、三好式部少輔をどのように捉えるかが問題となります。
「長宗我部元親」が、「岩倉城」城主「三好式部少輔」宛てに発給した書状
天正6年十月の長宗我部元親書状

天正6年十月の長宗我部元親書状(史料④)と併せて考えると、この時期に長宗我部氏が式部少輔と連携していたことは、史料⑨の「三好式部少輔事、此方無別心候、然而於其面被相談候旨、先々相通之段、無異儀候条珍重候」からも裏付けられます。三好式部少輔は、長宗我部方として行動し美馬郡内に一定の支配領域を持っていたことが推測できます。このことから、織田方が三好式部少輔に注目し、その支援を長宗我部氏に命ずることで、長宗我部氏の阿波攻略に介入したとするC説を研究者はとります。
 長宗我部方に属した一宮成相と日和佐氏の間で交わされた文書を見ておきましょう。
日和佐権頭宛の一宮成相書状には「其表御在陣御辛労不及是非候」、「此方諸口無異儀候、可御心易候」とあます。ここからは一宮・日和佐両氏が連携して長宗我部方として軍事行動をしていたことがうかがえます。
  天正9年11月、羽柴秀吉は淡路へ出兵し、織田権力の支配領域を拡大します。
その経過については「信長公記」や(天正9年)11月20日付の羽柴秀吉書状から裏付けられます。この書状には、次のように記します。

淡州之儀十六日七日先勢差遣、十八日二我等令渡海、所々令放火、洲本(津名郡)迄押詰候(中略)
始安宅各令懇望候条、則人質等取置候て召直、野口孫五郎をも本之在所三原之古城普請等申付入置、一国平均五十三日之中二申付」

意訳変換しておくと

淡路については、16・17日に先陣が先勢が出陣し、18日に我等も淡路に渡海し、所々に放火しながら、洲本(津名郡)まで押詰った。(中略)
洲本の安宅氏を降し人質を取って配下に加え、野口孫五郎に三原之古城(志知城)の普請を申付けた。一国平均五十三日之中二申付」

ここからは秀吉が淡路侵攻し、洲本の安宅氏(神五郎)を服属させて、人質を取ったこと。また野口孫五郎(長宗)に「三原之古城」(志知城)の普請を命じたことが分かります。こうして淡路は羽柴勢によって平定され、織田信長のもとに置かれたと研究者は判断します。

淡路 志知城
羽柴秀吉の淡路制圧を踏まえ、織田信長側近(堺代官)の松井友閑が讃岐東部の安富筑後守・同又三郎に発給した書状を見ておきましょう。
【史料⑪】(「東京大学史料編纂所所蔵志岐家旧蔵文書」)
今度淡州之儀、皆相済申候、於様子者不可有其隠候、就其阿・讃之儀、三好山城守(康長)弥被仰付候、其刻御人数一廉被相副、即時二両国不残一着候様二可被仰付候、可被得其意之旨、惟可申届之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
                        宮内卿法印
            友感(花押)
(天正九年)十一月十三日
安富筑後守殿
安富又三郎殿
御宿所
意訳変換しておくと
今度の淡路についての平定戦は総て終了したので、隠す必要はなくなった。ついては阿波・讃岐について、三好山城守(康長)を担当責任人者に命じた。阿讃両国の国衆は残らずに、これに従うことを仰せつかった。(信長様の意向を)申届る之通、 上意候間、其元□  □、尤専用候、猶追々可申候、恐々謹言、
ここでは信長は淡路平定を終えた11月時点で阿波・讃岐両国の攻略を三好康長に仰せ付け、安富氏に
その加勢を命じています。これによって、織田信長は三好康長を阿讃両国経営の責任者とする制圧政策を進めたことが分かります。これは一方では、長宗我部元親の反感を招き、両者の対立が一層高まったことが考えられます。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
山下知之 戦国末期阿波国の政治情勢と阿波三好氏権力 四国中世史研究NO15 2019年
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 前回は16世紀初頭の永世の錯乱後の安富氏の動きを次のように整理しました。
①永世の錯乱後の中で、在京の安富氏は没落し、細川晴元についた国元の安富氏が生き残った。
②晴元時代の安富氏は、畿内に出兵した可能性はあるものの在京することはなく、晴元権力内の意思決定にも関与することはなくなった
③この時期の安富氏は讃岐にあって、宇多津の本妙寺の諸役免除を行うなど港湾都市宇多津の支配権を握っていた
④また細川京兆家が讃岐国人を動員する際のまとめ役を担当するなど、東讃岐守護代としての権益を継承していた
⑤その一方で安富氏の権益下に、阿波の篠原氏の勢力が及んでくるようになった。
⑥同時期に安富氏は細川晴元より、三好長慶の末弟・十河一存を討つ指揮を求められている。
⑦安富氏は江口の戦い後も細川晴元と結んでいたが、讃岐に進出する三好氏勢力への反発が高まった。

今回は細川晴元失脚後の安富氏について見ていくことにします。テキストは「嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号」です。
安富氏は、三好長慶が細川晴元を追放したも晴元側についていたようです。しかし、讃岐東部で三好方と反三好方(晴元方)が軍事衝突したことは史料からは確認できません。時間をかけて、安富氏は三好氏の配下に置かれていったようです。
安富氏が反三好を貫き通すことが出来なかったのはどうしてでしょうか?
考えられることは、安富氏との直接的に利害対立していた十河一存と篠原氏の脅威が取り除かれたことです。十河一存は、弘治年間頃に一存の次男が和泉守護代松浦氏の養子となり、一存も和泉の岸和田城を本拠地とするようになります。つまり、脅威であった十河氏の勢力が東讃から消えたのです。
 もう一方の篠原氏について、以前に次のようにお話ししました。
①天霧城攻防戦の攻め手は、三好実休でなく三好氏の重臣篠原長房であったこと。
②時期は1558年ではなく、1563年であったこと(1558年は三好実休は畿内で転戦中)
③つまり、天霧城を攻め西讃岐守護代家香川氏を追放したのは篠原長房であること。
こうして讃岐西部は篠原長房の支配下に置かれるようになります。そして、篠原氏の管轄エリアが西讃エリアに限定され、東讃にその力を及ぼすことがなくなります。篠原氏の脅威もなくなったのです。こうして「一存の畿内転戦 + 篠原氏の西讃岐進出」=「東讃岐における安富氏との競合の一時凍結」という情勢を産み出したと研究者は推測します。これが安富氏が反三好を貫徹しなかった理由というのです。
次に三好氏の下で安富氏が果たした役割がうかがえる史料を見ておきましょう。
浦上宗景書状写「六車家文書」
猶々、当表任存分候ハヽ、向後対御方別而可遂馳走候、近来依無指題目不申入候、貴国静誰之由珍重候、就中当国之義、字喜多(直家)逆心令露顕、去春以来及矛盾候、手前之儀堅日之条毎々得勝利候、可御意安候、然者□々可預御入魂之旨申入候き、此時之条□□ノ覚と云一廉被不留候、□御賢慮所希候様外見合候、而全可遂一左右候、普伝(日門)上人無御等閑候由、委細可為御伝達候、恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
意訳変換しておくと
「浦上宗景書状写 六車家文書」
こちら備前では、抜かりなく対応をすすめており、近頃は大きな問題もありません。貴国讃岐も平穏に治まっており喜ばしいことです。当国については、字喜多(直家)が逆心を露わにして昨年の春以来、小競り合いが続いています。しかし、これについても我が方が優勢であり、心配をおかけするような情勢ではありません。
   もし、「当表」を任せてもらえれば、こちら(浦上氏)からも「馳走」させていただきます。また、私は普伝(日門)上人と懇意にさせていただいています。その旨を取り次いでいただけるようお願いします。恐々謹言、
五月二十五日              (浦上)宗景(花押影)
安富筑後守殿
まいる御宿所
これは備前の浦上宗景から安富筑後守に宛てられた書状です。年紀がありませんが宇喜多直家が宗景から離反し、春以来交戦しているという状況から、天正3(1575)年と研究者は判断します。

 浦上宗景は元亀年間に三好氏と同盟関係にあり、その支援を受けていたことが史料から分かります。宗景が「馳走」するとする「御方」は三好氏を指すのでしょう。この史料が「三好=浦上同盟」の延長上に位置することが分かります。そこに安富氏の名前が出てきます。安富氏が浦上氏を三好氏に取り次ぐ役割を果たしています。安富氏が重要なポジションにあったことが裏付けられます。

文書の最後に、宗景は「普伝上人=普伝院日門」と親しいことを三好氏に伝えるように依頼しています。
日門は、三好実休などの阿波三好家が帰依した日班と交流がある僧侶で、堺の講会にも参加しています。ここからは、日門も三好氏と交流があったことが推測できます。三好・浦上間の交渉に日門が登場することは法華宗の流通ネットワークが利用されていたことを示す物です。前回見たように港湾都市宇多津の管理権を握っていたのは安富氏でした。そして、特権を与えていた日蓮宗本妙寺は日班が属する法華宗日隆門流の寺院でした。日隆のネットワークの中に宇多津や安富氏が組み込まれていたことがうかがえます。ここでは、安富氏は三好氏に属しながら、三好氏と同盟する周辺勢力との交渉に関係していたことを押さえておきます。

安富氏と三好氏の関係は、もうひとつの史料で見ておきましょう。

【史料七】三好長治書状「志岐家旧蔵文書」
篠原上野介・高畠越後知行棟別儀、被相懸候由候、此方給人方之儀、先々無異儀候間、如有来可被得其意事、肝要候、恐々謹言、
                   彦次郎 (三好) 長治(花押)
十月十七日     
安筑(安富)進之候
この文書も年紀がありませんが「戦国遺文三好氏編」では、天正3年(1575)とします。
三好長治は「篠原上野介・高畠越後知行」の棟別銭がかけられたことについて、こちらからは異議がないので従来通りにするよう安富筑後守に伝えています。筑後守が棟別銭をかけるのを認めたのでしょう。ここに出てくる篠原上野介と高島越後(越後守?)についてはよく分かりません。ただ両人の名字は阿波国人のもので、篠原名字なので、元亀4年(1573)の篠原長房減亡後、篠原氏が讃岐に持っていた権益が安富氏に与えられた可能性があります。どちらにしても、阿波三好家の当主が安富氏に権益を認めている内容です。ここからは両者には主従関係があったことが裏付けられます。

こうして見ると三好長治の時期にも、安富氏は三好氏に従っていたことが分かります。この年・天正元年(1573)には、畿内の三好本宗家が織田氏によって減ぼされます。その結果、2年後には阿波三好家重臣として河内で抵抗していた三好康長(康慶)も織田氏に属服し、その家臣となります。それでもなお安富氏が三好氏に従い続けたことになります。
その理由として、研究者が指摘するのは反三好勢力による香川氏への支援があったことです。
先ほど見たように1563年に天霧城を拠点とする香川氏は、篠原篠原長房によって攻め落とされます。そのため毛利氏を頼って、安芸に亡命中だったようです。その香川氏の讃岐帰国運動を、細川京兆家の当主・信良(晴元の子)は後援し、讃岐国東六郡を宛行っています。信良は実質的な支配力を持っていたわけではないので、この領知宛行は空手形です。しかし、東六郡に勢力を持つ国人たちとっては、香川氏の復帰を後押しする「毛利=細川京兆家=信長」は、仮想敵国と見えます。そのため安富氏ら東讃岐の国人は三好氏に従う以外に選択肢がなかったようです。また以前にお話したように、安富氏は三好氏の重臣・伊沢氏と縁戚関係がありました。こうした関係性が三好氏配下に留まり続けた理由と研究者は考えています。

以上を整理しておきます
①讃岐に侵攻する阿波三好勢力に、当初は安富氏は抵抗したが、最終的には三好氏に属した。
②その背景には、十河一在や篠原長房の脅威がなくなり、安富氏の権益を三好氏が容認したこと。
③三好氏の配下として、畿内や吉備に関わり、利益を得るようになったこと
④その結果、安富氏が三好氏の軍事行動にどう関与したのかはよく分からないが、三好長治が横死するまで三好氏に属し続けた。
⑤香川氏の西讃帰国運動を支援する毛利氏や細川京兆家や信長などは仮想敵国と受け取られた。
⑤そうなると、頼れるのは隣国の三好氏以外に選択肢が無かった。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 嶋中佳輝 戦国期讃岐安富氏の基礎的研究   四国中世史研究16号 2021号

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