阿波守護家(讃州細川家)から三好氏へと、阿波勢力による讃岐支配がどのようの進められたかを何回かに分けて見てきました。最後に、「阿波勢力による讃岐支配の終焉」への道を見ておきましょう。テキストは「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」です。
三好実休の子・長治の下で阿波・讃岐両国が統治されるようになることは、先に見てきた通りです。しかし、1576(天正4)年11月になると細川真之・一宮成相・伊沢越前守が長治に造反し、長治は横死に追い込まれます。
三好長治の終焉の地
そして阿波三好家は、次のように分裂します①毛利氏と連携する矢野房村や三好越後守らの勝瑞派
②織田氏との連携を志向する一宮・伊沢らの「反勝瑞派」
この対立の中で「勝瑞派」の讃岐への関与を示すのが次の史料です。
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」御身之儀、彼仰合国候間、津郷内加わ五村進候、殿様(三好義竪?)へ之儀随分御収合申、似相地可令馳走候、不可有疎意候、恐々謹言、三好越後守天正五年二月朔 □円(花押)奈良玄春助殿御宿所
意訳変換しておくと
【史料1】三好越後守書状 法勲寺村史所収奈良家文書」御身に、津郷(津之郷)の内の五村を知行に加える。殿様(三好義竪?)への忠節を尽くせば、さらなる加増もありうるので、関係を疎かにせつ仕えること、恐々謹言、三好越後守 □円(花押)天正五年二月朔奈良玄春助殿御宿所
「勝瑞派」に属する三好越後守は天正5年2月に、香川氏と行動を共にしていた聖通寺山城主の奈良氏に知行を宛行っています。同月には香川氏が讃岐での活動を再開していて、勝瑞派一はかつて讃岐から追われた反三好派国人らとの融和・連携を図っていることがうかがえます。これは「勝瑞派」の戦略が反織田信長なので、織田氏にそなえて讃岐方面での有力武将の支持を取り付けるための方策と研究者は考えています。またこの史料からは、三好越後守が「殿様(三好義竪?)」と、奈良氏をつなぐ役割を果たしています。長治に代わる当主が登場していたことがうかがえます。
しかし、反三好勢力の頭目であった香川氏との妥協・復権は、それまで阿波三好家に従っていた香西氏や長尾氏などからの反発を生んだようです。このような中で5月に「勝瑞派」は、伊沢越前守を殺害します。先述したように、伊沢氏は滝宮氏や安富氏などの姻戚関係を持つなど、讃岐国人との関係が深かった人物です。その影響力を削ぐために標的とされたと研究者は考えています。
これに対して伊沢氏と姻戚関係にあった安富氏は「反勝瑞派」の一宮成相との提携を目指して阿波の勝瑞に派兵します。ところが同時期に、毛利氏が丸亀平野に侵入してきます。そして7月に元吉城(琴平町)を確保し、備讃瀬戸通行権を確保します。これは石山合戦中の本願寺への戦略物資の搬入に伴う軍事行動だったことは、以前にお話ししました。
これに対して伊沢氏と姻戚関係にあった安富氏は「反勝瑞派」の一宮成相との提携を目指して阿波の勝瑞に派兵します。ところが同時期に、毛利氏が丸亀平野に侵入してきます。そして7月に元吉城(琴平町)を確保し、備讃瀬戸通行権を確保します。これは石山合戦中の本願寺への戦略物資の搬入に伴う軍事行動だったことは、以前にお話ししました。
丸亀平野中央部の元吉城に打ち込まれた毛利勢力の拠点に対して、安富氏、香西氏、田村氏、長尾氏、三好安芸守ら「讃岐惣国衆(讃岐国人連合軍)」が攻め寄せます。このメンバーを見ると、天霧城攻防戦のメンバーと変わりないことに気がつきます。特に東讃の国人武将が多いようです。私には東讃守護代の安富氏が、どうして元古城攻撃に参加したのかが疑問に感じます。
元吉城
これに対して、研究者は次の2点を挙げます。
①安富氏と伊沢氏は姻戚関係があり同盟関係にあったこと
②「勝瑞派」による香川氏復権許容に伴う知行再編への反発があったこと
元吉合戦で「讃岐惣国衆」は、手痛い敗北を喫します。
そしてその年の11月には毛利氏と和睦が結ばれ、「阿・讃平均」となります。阿波三好家は三好義堅が当主となることで再興され、讃岐も阿波三好家の支配下に戻ります。
細川真之は一時的には「勝瑞派」と提携することもありましたが、三好義堅が当主となると「反勝瑞派」や長宗我部氏と結んでおり、讃岐へ影響を及ぼすことはなかったようです。
そしてその年の11月には毛利氏と和睦が結ばれ、「阿・讃平均」となります。阿波三好家は三好義堅が当主となることで再興され、讃岐も阿波三好家の支配下に戻ります。
三好義堅
細川真之は一時的には「勝瑞派」と提携することもありましたが、三好義堅が当主となると「反勝瑞派」や長宗我部氏と結んでおり、讃岐へ影響を及ぼすことはなかったようです。
【史料2】細川信良書状「尊経閣所蔵文書」今度峻遠路上洛段、誠以無是非候、殊阿・讃事、此刻以才覚可及行旨尤可然候、乃大西跡職事申付候、但調略子細於在之者可申聞候、弥忠節肝要候、尚波々伯部伯者守(広政)可申候、恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
意訳変換しておくと
今度の遠路の上洛については、誠に以って喜ばしいことである。ついてはそれに報いるための恩賞として、大西跡職を与えるものとする。但し、調略の子細については追って知らせるものとするので忠節を務めることが肝要である。詳細は伯部伯者守(広政)が申し伝える。恐々謹言、三月三日 細川信元(花押)香川中務人輔(香川信景)殿
この史料は、1574(天正2)年に京兆家の当主・細川信良が守護代の香川信景に反三好行動を求めたものです。味方につくなら香川氏に「大西跡職」を与えると餌をちらつかせています。大西氏は西阿波の国人ですが、その知行を守護代家の香川氏に与えるというものです。ここからは天正期になっても細川京兆家に讃岐守護家の地位が認められていたことが分かります。つまり阿波三好家は正当な讃岐の公的支配を担うことはできなかったことになります。そこで擁立されたのが十河一存の息子義竪ということになります。この背景には、阿波と讃岐を統合できるのは三好権力であり、讃岐の十河氏を継承していた義堅こそが阿波三好家の当主としてふさわしいと考えられたと研究者は推測します。
【史料3 三好義堅感状「木村家文書」於坂東河原合戦之刻、敵あまた討捕之、自身手柄之段、神妙之至候、猶敵陣無心元候、弥可抽戦功之状如件、八月十九日 (三好)義堅(花押)木村又二郎殿
意訳変換しておくと
坂東河原の合戦において、敵をあまた討捕える手柄をたてたのは誠に神妙なことである。現在は戦陣中なので、戦功については後日改めて通知する。如件(天正6年)八月十九日 (三好)義堅(花押)木村又二郎殿
この史料からは天正6(1578)年かその翌年に、阿波国内の坂東河原の戦いに讃岐国人の由佐氏や木村氏ら讃岐国人を、三好義竪が動員し、戦後に知行を付与していることが分かります。義堅が讃岐の広域支配権を握っていたことがうかがえます。
岩倉城
しかし、その翌年の天正7(1580)年末の岩倉城の合戦で矢野房付や三好越後守ら「勝瑞派」の中核が戦死します。その結果、義堅の権力は不安定化し、義堅は勝瑞城を放棄し十河城に落ちのびることになります。このような阿波の分裂抗争を狙ったように、長宗我部氏の西讃岐侵攻が本格化します。これに対して、天霧城の香川氏は長宗我部氏と結んで、その先兵と讃岐平定を進めます。
その結果、天正8(1581)年中には安富氏が織田氏に属すようになり、十河城の義堅に味方するのは羽床城のみという状況になります。天正9年に、義堅は雑賀衆の協力を得て勝瑞城への帰還を果たします。しかし、その後の讃岐国人は個別に織田氏や長宗我部氏と結びます。こうして阿波三好家による讃岐国支配権は天正8年に失われたと研究者は考えています。
以下、阿波三好氏の讃岐支配についてまとめておきます。
①細川権力下では讃岐は京兆家、阿波は讃州家が守護を務めていて、その権限は分立していた
②讚州家(阿波)の被官が讃岐統治を行う事もあったが、それは京兆家が讃州家の力を頼んだ場合の例外的なものであった。
③ただし、細川晴元時代には阿波・讃岐両国の軍勢が「四国衆」の名の下に編成され、讃州家の氏之が西讃岐支配を後援するなど、讃州家の讃岐への影響が拡大した。
④三好長慶の台頭で江口合戦を機に晴元権力は崩壊に向かうが、讃岐では晴元派が根強く、阿波勢の動きを牽制していた。
⑤しかし、三好氏の力が強まると、東讃岐の国人らは徐々に三好氏に靡いていった。
⑥水禄年間になると三好実休・篠原長房による西讃岐の香川氏攻めが始まった。
⑦香川氏が駆逐されると讃岐は阿波三好好家の領国となり、阿波・讃岐国人に知行給付を行った。
⑧その結果、阿波三好家は讃岐国人を軍事動員や外交起用、讃岐国人に裁許を下すなど統治権を握った。
⑧その結果、阿波三好家は讃岐国人を軍事動員や外交起用、讃岐国人に裁許を下すなど統治権を握った。
ここで注意しておきたいのは、①の細川時代と⑦三好時代では、讃岐への介入度合いが大きくちがうことです。細川権力下では、京兆家の意を受けた奉書と守護代による書下が併存して讃岐が支配されていました。ところが阿波三好家では当主か重臣が文書発給を行っています。これは讃岐が守護権力によらない支配を受けたと研究者は評価します。つまり、「細川権力と三好権力の間では政治主体・手法の断絶が存在した」と云うのです。これと同じ統治体制が、南河内です。南河内も阿波三好家が由緒を持たないながら公的な支配権を握ったようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝 細川・三好権力の讃岐支配 四国中世史研究17号(2023年)」