瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三好長慶

「細川両家記」によると、江口合戦に際し、阿波・讃岐勢は三好長慶を支持したと記します。しかし、阿波の細川氏之・三好実休が畿内に軍事遠征することなかったようです。三好長慶が求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除でした。そのため四国からは長慶の下剋上ではなく、京兆家の内紛として中立を維持したとも考えられます。

三好長慶の挙兵
三好長慶の挙兵 
江口合戦後の讃岐国人の動きを見ることで、彼らの行動原理や四国情勢を読み取りましょう。まず阿波三好氏の讃岐支配の拠点となったという十河氏を押さえておきます。

十河氏の細川氏支配体制へ

十河氏2

しかし、これらの動きは南海通記など近世になって書かれた軍記ものによって、組み立ててられた者です。ちなみに一存が史料に最初に登場するのは1540(天文9)年です。その時には「三好孫次郎(長慶)弟」「十河孫六郎」と記されています。三好氏から讃岐の十河家に養子に入って以後のことです。そのため十河一存は、十河家当主として盤石な体制を当初から持っていた、そして細川晴元ー三好長慶ー十河一存という臣下関係の中にいたと私は思っていたのですが、どうもそうではないようです。
  【史料1】細川晴元書状「服部玄三氏所蔵文書」
去月二十七日十河城事、十河孫六郎(一存)令乱入当番者共討捕之即令在城由、注進到来言語道断次第候、十河儀者依有背下知子細、以前成敗儀申出候処、剰如此動不及足非候、所詮退治事、成下知上者安富筑後守相談可抽忠節候、猶茨木伊賀守(長隆)可申候也、謹言
八月廿八日              (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
  意訳変換しておくと
昨月27日の十河城のことについて、十河孫六郎(一存)が私の下知を無視して、十河城に乱入し当番の者を討捕えて占領したことが、注進された。これは言語道断の次第である。十河一存は主君の命令に叛いたいた謀反人で退治すべきである。そこで安富筑後守と相談して、十河一存討伐に忠節を尽くすように命じる。、なお茨木伊賀守(長隆)には、このことは伝えておく謹言
八月廿八日           (細川)晴元(花押)
殖田次郎左衛門尉とのヘ
ここには次のような事が記されています。
①1541(天文10)年8月頃に、十河一存が晴元の下知に背いて十河城を奪ったこと
②これに対して晴元は一存成敗のために、讃岐国人殖田氏に対し、安富筑後守と相談して、これを討つように求めていること。
一存が十河城を不当に奪収しようとしているということは、それまで十河城は十河一存のものではなかったことになります。また、後の晴元陣営に一存に敵対する十河一族がでてきます。ここからは一存は十河氏の当主としては盤石な体制ではなかったことがうかがえます。十河一存が、足下を固めていくためには讃岐守護家である京兆家の支持・保護を得る必要がありました。そのための十河一存のとった動きを追いかけます。
  【史料2】細川晴元書状「大東急記念文庫所蔵文書」
就出張儀、其本働之儀申越候之処、得其意候由、先以神妙候、恩賞事、以別紙本知申会候、急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
八月十八日          晴元(花押)
十河民部人夫殿
意訳変換しておくと
この度の出張(遠征)について、その働きが誠に見事で神妙なものだったので、恩賞を別紙の通り与える。急度可及行事肝要候、猶波々伯部伯(元継)者守可申候、恐々謹言、
天文17(1549)年8月18日 
            (細川)晴元(花押)
十河民部人夫(一存)殿
1549(天文17)年8月頃から主君晴元と兄長慶が対立するようになります。このような情勢下で、十河一存は細川晴元に味方し、「本知」を恩賞として認められていることがこの史料からは分かります。ところが、一存は翌年6月までには兄長慶に合流しています。
つまり、細川晴元方だったのに、兄三好長慶が担いだ細川氏綱方へ転じたのです。

細川晴元・三好氏分国図1548年
細川晴元と三好長慶の勢力図(1548年)
①次弟・三好実休率いる阿波三好は江口の戦いには参戦しなかった。
②十河一存は細川晴元側にいたが、長慶が氏綱方と結んだのを契機に氏綱方へ転じた。
ということになります。その背景を研究者は次のように考えています。当初の三好長慶が細川晴元に求めていたのは三好宗三・宗潤父子の排除だけで、晴元打倒ではありませんでした。ところが晴元が瓦林春信を重用するなど敵対的態度をとったので、晴元に代わる京兆家当主として氏綱を擁立するようになります。その背景には、当初は晴元と長慶は和解するものと思って、一存は晴元に味方しますが、長慶が細川氏綱を擁立するようになると、氏綱による十河城の「本知」安堵が可能となります。それを見て一存は晴元の下から離脱し、兄長慶を味方することになったというのです。
 こうして一存は躊躇する兄長慶に対し、晴元攻撃を強く主張するようになります。それは晴元が新たに十河氏の対抗当主を擁立しないうちに決着を付けたいという思惑が一存にあったからかもしれません。その後の一存は、氏綱配下で京都近郊で活動します。ここからは十河一存が京兆家被官の地位を維持していることが分かります。

三好長慶の勢力図3

東讃岐守護代家の安富氏の動きを見ておきましょう。
まず、細川晴元と安富氏の当主・又三郎との関係です。
【史料3】細川晴元吉状写「六車家文書」
為当国調差下十河左介(盛重)候之処、別而依人魂其方儀無別儀事喜悦候、弥各相談忠節肝要候、乃摂州表之儀過半属本意行専用候、猶波々伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)可申候、恐々謹言、
四月二十二日           (細川)晴元(花押影)
安富又二郎殿
意訳変換しておくと
当国(讃岐)へ派遣した十河左介(盛重)と、懇意であることを知って喜悦している。ついては、ふたりで相談して忠節を励むことが肝要である。なお摂州については過半が我が方に帰属ししたので、伯部伯者人道(元継)・田井源介入道(長次)に統治を申しつけた、恐々謹言、
四月二十二日                  晴元(花押影)
安富又二郎殿
晴元は讃岐へ派遣した十河盛重と安富又三郎が懇意であることを喜び、相談の上で忠節を求めています。ここからは軍記ものにあるように、安富氏が三好方と争ったことは確認できません。1557(弘治3)年12月に、晴元は十河又四郎を通じて東讃岐の寒河氏の帰順を図っていますが、これはうまくいかなかったようです。細川晴元の支配下にあった東讃岐の勢力が三好方に靡き始めるのは、この頃からのことのようです。
西讃岐守護代家の香川之景も細川晴元の支配下にあったことを見ておきましょう。
  【史料4】細川晴元書状「尊経閣文庫所収文書」
就年始之儀、太刀一腰到来候、令悦喜候、猶波々伯部伯(元継)者守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日            (細川)晴元(花押)
香川弾正忠殿
意訳変換しておくと
年始の儀で、太刀一腰をいただき歓んでいる。なお波々伯部伯(元継)は守呼申候、恐々謹言、
二月廿九日                   晴元(花押)
香川弾正忠(之景)殿
香川之景が細川晴元に年始に太刀を送った、その返書です。両者が音信を通じていたことが分かります。
次の史料は、香川之景が晴元の讃岐計略を担っていたことを示します。
  【史料5】細川晴元書状「保阪潤治氏所蔵文書」
其国之体様無心元之処、無別儀段喜入候、弥香川弾正忠(之景)与相談、無落度様二調略肝要候、猶石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             晴元(花押)
奈良千法師丸殿
意訳変換しておくと
讃岐国については変化もなく、合戦や災害などの別儀もないことを喜入る。領地経営や調略については香川弾正忠(之景)と相談して落度のないように進めることが要候である。なお石津修理進可申候、謹言、
卯月十二日             細川晴元(花押)
奈良千法師丸殿
奈良氏は聖通寺城主とされますが史料が少なく、謎の多い武士集団です。その奈良氏に対して、細川晴元が「別儀」がないことを喜び、香川之景との相談の上で「調略」をすすめることを求めています。香川之景は西讃岐守護代家として西讃岐の晴元方のリーダーでした。以上のように、香川之景は積極的に晴元と連絡を取りながら反三好活動を行っていたことがうかがえます。
このような中で1553(天文22)年6月に細川氏之(持隆)が三好実休と十河一存に殺害されます。
なぜ氏之が殺害されたのか、その原因や背景がよく分かりません。「細川両家記」では、十河一存の「しわざ」とされ、「昔阿波物語」でも見性寺に逃亡した氏之を一存が切腹させたと記します。ここからは、一存が中心となって氏之殺害したことがうかがえます。この背景には、讃岐情勢が関係していると研究者は考えています。多度津の香川之景は氏之の息がかかった人物で、晴元は之景を通じて氏之との関係調整を図っていました。しかし、氏之が晴元派となってしまえば、守護代家が晴元と結んでいる讃岐に加え、阿波も晴元派となります。そうなると、晴元を裏切ったことで十河氏当主の地位を確立した一存は排除される恐れが出てきます。一存には四国での晴元派の勢力拡大を阻止するという政治的目的がありました。これが氏之を殺害する大きな動機だと研究者は考えています。

三好長慶の戦い

 江口合戦を契機に三好長慶と細川晴元は、断続的に争いますが、長慶が擁立した細川氏綱が讃岐支配を進めた文書はありません。
讃岐では今まで見てきたように、守護代の香川氏や安富氏を傘下に置いて、細川晴元の力が及んでいました。そして、三好氏の讚岐への勢力拡大を傍観していたわけではないようです。といって、讃岐勢が三好氏を積極的に妨害した形跡も見当たりません。もちろん、晴元支援のため畿内に軍事遠征しているわけもありません。阿波勢も1545(天文14)年、三好長慶が播磨の別所氏攻めを行うまでは援軍を渡海させていません。そういう意味では、阿波勢と讃岐勢は互いに牽制しあっていたのかもしれません。

1558(永禄元)年、三好長慶と足利義輝・細川晴元は争います。そして長慶は義輝と和睦し、和睦を受けいれない晴元は出奔します。こうした中で四国情勢にも変化が出てきます。三好実休が率いる軍勢は永禄元年まで「阿波衆」「阿州衆」と呼ばれていました。それが永禄3年以降には「四国勢」と表記されるようになります。この変化は讃岐の国人たちが三好氏の軍事動員に従うようになったことを意味するようです。永禄後期には讃岐の香西又五郎と阿波勢が同一の軍事行動をとって、備前侵攻を行っています。阿波と讃岐の軍勢が一体化が進んでいます。つまり、三好支配下に、讃岐武将達が組織化されていくのです。
 その中で香川氏は反三好の旗印を下ろしません。
それに対する三好軍の対香川氏戦略を年表化しておきます
1559(永禄2)年 瀬戸内海の勢力を巻き込んで香川氏包囲網形成し、香川氏の本拠地・天霧城攻撃
1563(永禄6)年 天霧城からの香川氏の退城
1564(永禄7)年 これ以降、篠原長房の禁制が出回る
1565(永禄8)年 この年を最後に香川氏の讃岐での動き消滅
1568(永禄11)年 備中の細川通童の近辺に香川氏が亡命中
ここからは、西讃岐は篠原長房の支配下に入ったと研究者は考えています。
Amazon.co.jp: 戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書) : 和三郎, 若松: Japanese Books

三好支配時期の讃岐に残る禁制は、全て篠原長房・長重父子の発給です。

三好氏当主によるものは一通もありません。ここからは篠原父子の禁制が残る西讃岐は、香川氏亡命後は篠原氏が直接管轄するようになったことが分かります。一方、宇多津の西光寺に残る禁制では長房・長重ともに禁制の処罰文言を「可被処」のように、自身ではなく上位権力による処罰を想定しています。ここからは宇多津は三好氏の直轄地で、篠原氏が代官として統治していたことがうかがえます。ここでは、この時期の篠原氏は西讃岐に広範な支配権をもっていたことを押さえておきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
「嶋中佳輝  細川・三好権力の讃岐支配   四国中世史研究17号(2023年)」

前回は堺における本門法華宗と三好長慶の連携を見てきました。今回は兵庫(神戸)と尼崎について見ていきたいと思います。             
 三好氏の兵庫津把握の戦略は?
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兵庫湊と畿内・淡路
兵庫津は14世紀後半の応仁の乱で焼失し,それ以後は繁栄する堺にその座を譲り衰退したと考えられてきました。しかし,元亀元年(1570)になっても,摂津神領政所今西氏が兵庫南関での運上徴収を興福寺に申し入れるなど,その港湾機能は維持されていたことが分かってきました。そんな兵庫港へ日隆は布教拠点である久遠寺を開きます。そして、三好長慶は、堺での手法と同じく本門法華派のお寺を通じて、兵庫港を自分の影響下に置いていこうとするのです。

023-d11-l兵庫津 西海航路図巻
兵庫湊 

兵庫津の正直屋の屋号を持つ有力商人である棰井氏の『棰井文書』の中で最も古い史料が天文九年(1540)の三好長慶から下された判物です。
所々買徳の地の事,相違なく領知せしむべきもの也,よって状くだんのごとし,
天文九ま二月廿七日 範長
           (長慶)(花押)
棰井甚左衛門尉殿
 長慶の父の元長が顕本寺で自害に追い込まれた後,三好氏はいったん阿波に撤退します
そしてその後に,畿内に復帰した長慶は,それまでの堺ではなく西宮の北に位置する越水城に本拠をおきます。そこで,父が堺を影響下に置いたように、長慶は兵庫津を影響下に置くことを目指します。長慶は、越水城に入った天文八年(1539)の翌年に,兵庫港の棰井氏に対して「所々買徳の地」を安堵し,保護を与えます。
風待ちの津 兵庫
 さらに長慶は棰井甚左衛門尉について次のような文書を下します。
「範長(長慶)御目を懸けられ候間,自然用の儀候はば,御馳走肝要に候」
これは,細川氏被官である庄丹後守から甚左衛門尉が買徳した土地に対する催促を停止し,棰井氏に対して保護・特権を与えています。そこには兵庫津から主家である細川氏の影響力を排除していく姿勢がうかがえます。
 また安宅冬康が播磨東部で軍事行動を起こした際には,長慶は棰井氏に「蔵」を免許し、徳政免除の特権を与えています。この背景には、棰井氏が三好氏の軍需物資を取り扱うようになっていたことがあるようです。
 さらに時代が下がると、棰井氏は,天正11年(1583)段階で,兵庫津内において22石五斗の土地を羽柴秀吉より安堵されます。兵庫津内の棰井氏のこうした土地集積は「郷衆」の反発・確執を生み,永禄10年(1567)頃,三好氏が出した徳政をめぐり相論となります。
 兵庫津内の土地をめぐる対立ですから,「郷衆」は棰井氏と同様な有力商人の集まりで兵庫津の自治組織と思われます。この際に、棰井氏は三好氏から徳政免除を確認してもらい,他の「郷衆」に対する優位を獲得しています。このように,棰井氏は三好氏の保護を背景に,兵庫津内での地位を固めていったことがうかがえます。逆に言うと、三好氏の兵庫港支配の先兵となったのが棰井氏であり久遠寺であったともいえます。
r117_img4久遠寺
日隆により開山された神戸の久遠寺
文禄三年(1594),兵庫津では,岡方・北浜・南浜という三つの自治組織があったようです。棰井氏は、その一つ岡方の名主を近世を通じて独占し、自治組織を主導する存在とになっていきます。
日隆の伝記の中には、棰井氏は次のように記されています。
本能寺・本興寺開祖日隆大聖人略縁趣(日憲)
大上人(日隆)は(尼崎の)本興寺居たまへて 是より弘法を西国ひろめんとほっしたまへて まづ兵庫の津(神戸)に行せたもふて町宿をもとめたもふ 
処宿の宅主あしらい鄭重也 翌日わかれをつげて曰く 予深くなんじが厚志をかんずるゆへに此物を預る但 風呂鋪也 他日我かえりきたるまでつつしんで防護せよと  (中略)

(讃岐・宇多津での布教を終えて兵庫港に帰ってきたときに)
享徳二酉年大上人(日隆) 尼崎へ帰らせたもふ また御かえりがけ兵庫旅宿したもふて亭主御たいめん遊はされし所 亭主大きによろこび先達御預居しもの取出し大上人へ差出 大上人笑はせたもふて亭主まことに正直の人也 今よりして正直やと致べくよし仰ければ 難有請受申てけて、ここにおいて大きに宗義をとなへ一寺建立ある すなわち久遠寺坊舎十二宇
 ここには日隆が尼崎の本興寺を基点に瀬戸内海布教に出発した際に、兵庫港に立ち寄り宿に立ち寄ったことが記されます。宿の主人の丁寧な対応に、布教活動から帰ってくるまで預かって欲しいと風呂敷包みを主人に預けます。
   そして、吉備・讃岐への布教活動を終えて兵庫港に帰ってきます。その際に、風呂敷を預けた宿に立ち寄ると、主人は大いに喜んで預けた風呂敷を取り出し日隆に差し出します。日隆は笑いながら「亭主は本当に正直者だ。今後は宿名を正直屋としなさい」と告げます。亭主は日隆に帰依して、久遠寺の建立の際には、大きな働きをします。
この伝記に登場する正直屋の主人が棰井氏なのです。このため棰井氏の節分儀礼では,日隆が棰井氏の邸宅に寄宿して,久遠寺を日隆門流に改宗させたことにちなんだ行事が行なわれていたようです。棰井氏と久遠寺は非常に強い関係を持っていたのです。
uj97854774_日隆

久遠寺を開山した日隆
また、久遠寺の僧快玉は
松永久秀の主人である三好長慶を招いて摂津滝山城で行った連歌会(「滝山千句」)に出席しています。彼は、摂津国人の池田氏や芦屋神主範与,堺の等恵・玄哉とともに当時の三好政権の基盤の一人であったといわれます。快玉は天文23年(1554)から永禄4年(1561)の「飯盛千句」まで連歌会に出席しています。このように長慶と久遠寺の快玉も、非常に密接な関係にあったことがうかがえます。
   ここからは兵庫津において三好氏は,自治組織を主導していた棰井氏を,都市特権と法華宗寺院のふたつの側面から掌握し,兵庫津を影響下におこうとしたようです。
 尼崎の本興寺と三好長慶
仮製地形図尼崎明治18年②
日隆門流には,京都の本能寺にならぶのもう一つの本山が尼崎にありました。
本興寺です。
当時の尼崎は,大覚寺,貴布祢社,本興寺,長遠寺,真宗の大物道場,尼崎城などいくつもの核をもち,寺社門前ごとに独自の都市領域を形成していた多核的な都市であったと研究者は云います。
chuusei32-05sty中世の尼崎

 戦国期に本興寺を核として集まった住民の構成を示す史料として,元亀2年(1571)の「本興寺門前百姓等起請文」があります。
これは当時,織田信長と本願寺・三好三人衆方の戦闘が激化する中で,本興寺の東西南北四つの門前の住人が,本興寺に対して奉公を誓い連署したものです。
この史料で,住人の出身地を示すと思われる屋号に注目して見てみましょう。
尼崎内部の他町に出自をもつものとして「たつミ屋」(辰巳町),尼崎の近郊では「別所」「水堂」「なにはや」(難波)があります。また,大阪湾岸の菟原郡東部の「なた屋」(灘)や,尼崎のすぐ東側を流れる猪名川上流の国「丹波」もみられます。さらに武庫川上流の浄土真宗系寺内町の「小浜や」(小浜)を出身とする商人もいます。
 つまり門前町の住民レベルでは,法華宗信者だけでなく,宗派を超えた人々が混住していたようです。これは戦国期の尼崎は,門流の本山として瀬戸内海や南海道の末寺からの流通の終着点であると同時に,尼崎周辺部や摂津国内陸部を貫く猪名川,武庫川などの河川を介する地域流通の中心地でもあったことを示します。

このような尼崎において,三好氏の勢力が浸透してくると,本興寺が寺内を形成する動きを示します。これに対して対立する一向宗の大物惣道場の僧侶の危機感を表す記録が『天文日記』の天文21年(1552)2月6日条にあります。
【史料4】35)
尼崎内大物惣道場の事,先年新儀の条破却すといえども,尼崎日蓮衆本興寺として,彼の尼崎惣社の地に寺内を構え,家数これを立つ,福貴せしむべき造意すでに相調え,鍬を初めしむ,安宅渡海せしむにおいて,彼の日蓮共これを取立つべきの段,
必然の由候間,自然日蓮党取立て候はば手始になり候,此方道場の事これを取建べきの趣,中務,了誓を以て,大物長衆之を申聞く。

 大物長衆とは、尼崎において本願寺の末寺である大物の惣道場のことです。これが破壊された一方で,法華宗の本興寺は、尼崎惣社の地に寺内を構え,相当の家数が建ち並び、住民が増えていること。そうした本興寺の寺内化の動きが,兵庫津と同じように安宅冬康の軍事行動と連動して,三好氏に日蓮党(法華宗)が取り立てられる状況を非常に危惧し,本願寺証如に連絡しています。
201211231552340d1【中世都市・尼崎推定略図:藤本原図】
 
ここでは注意しておきたいのは,本興寺が荒地を新たに開発して寺内を建立しようとしたのではないことです。「彼の尼崎惣社の地に寺内を構え」とあるように惣社貴布祢社の地を寺内化しようとしているのです。
chuusei32-03貴船神社
弘治2年(1556)この危惧が現実のものとなります。
三好長慶 (1)
三好長慶
 惣社の内に形成された「貴布祢屋敷」を「門前寺内」として本興寺に寄進し,「本興寺門前寺内貴布祢屋敷」となったエリアに、三好長慶が禁制を発給したのです。これによって,狼藉禁止,葥銭・兵粮米・諸課役の免除,徳政・国質・所質などの免除などが特権として与えられます。そして「当津衆家を立つ事」が禁じられるのです。これは,尼崎内の他地区の者が本興寺に断りなく家を建てることを禁止したことを意味します。つまりは,実質的に貴布祢屋敷における本興寺の領主的権限を認めるものです。これを契機にして、本興寺は三好長慶との交渉によってさまざまな権限を得ていくことになります。そしてついには、尼崎全体を統合する地縁的共同体である尼崎惣中と,事実上の売買契約を取り結ぶに至るのです。
【史料5】38)
尼崎惣中借銭已下につき,万迷惑の儀,無心を申し候処,代物参万疋御合力に預かり候,御返報として,貴布祢の宮屋敷ならびに中間田畠等,永代御知行として進め置く処,実正明白也,但し社内は,東より西へ弐拾弐間二尺,南より北へ拾弐間,此分は往古相替わらず,永代尼崎の物也,四至の事,東は土井を限る,南は法光寺岸宮の東の道より限る,東南は堀を限る,西北は土井を限ると申し候也,よって後日の状くだんのごとし,
 番所司 宗玖(花押)
弘治二年四月三日 宗幸(花押)
 助兵衛尉 家重(花押)
本興寺 監物丞参 長清(花押)
 新兵衛尉 長秀(花押)
 内容から番所司の二名は尼崎惣中の年寄衆でしょう。
彼らは尼崎惣中が借銭によって困窮しているので,本興寺に無心したところ,三万疋の合力を得たので,そのお返しとして「貴布祢の宮屋敷」だけでなく「中間田畠」を本興寺に永代知行として遣わすとしています。
 ここからは本興寺が尼崎惣中に対して三万疋の資金援助をしたことで,経済的影響力を獲得したことが分かります。こうして惣社の地が本興寺により寺内化されていくことに拍車をかけることになります。
住民の宗教的・精神的な紐帯である貴布祢社を寺内化することは、本興寺の地位を高め尼崎全体に対して,経済的影響を及ぼすことを可能にしていく道であったはずです。 
【尼崎城下町絵図・江戸初期:藤本原図】

三好長慶以前に摂津を支配した細川高国は尼崎城を築き,尼崎を掌握しようとしました。
しかし,研究者によると尼崎城は尼崎の中でも周縁の地にしか築造することができず、都市全体に対する有効な支配拠点にはなりえなかったといいます。これに対して三好氏は,単に都市核の一つとして本興寺を押さえようとしたのではなく,本興寺を通じて貴布祢社,惣中に影響力を行使し,ひいては都市尼崎全体に対する支配をめざすという戦略だったようです。
71jpg 三好長慶の京都制圧

 寺内の建立を通じて惣中の把握をめざす支配方式は,
 三好氏が衰退した後,摂津国を支配した織田信長配下の荒木村重も踏襲しています。
信長や村重は,長慶と同じように尼崎において法華宗長遠寺の寺内立てを援助します。その過程で村重は「尼崎惣中」を長遠寺普請に動員して、定書を発給しています。その第一条には
「御神事祭礼の事,是に付き,貴布祢宮,氏寺・長洲両社諸軄進退の事」
と定められ,長遠寺の縁起には
「長洲貴船大明神社宮地神職当寺兼帯の事,往古より定むる所也,茲れにより毎載(歳カ)正月七日祭礼神事,当山よりこれを執行しおわんぬ」
と記載されています。
村重はに,貴布祢社と,尼崎の後背地にあたる長洲御厨の長洲社の神事祭例と神職を兼帯させ別当寺として機能させることで,尼崎全体を支配しようとしたようです。
 信長・村重段階では,法華宗寺院を通じた都市支配がよりいっそうはっきりと現れてきます。
6f61b_長生寺
尼崎の長遠寺

 三好氏権力が法華宗寺院,特に日隆門流を媒介として大阪湾岸の港町を支配していた様子をたどってきました。兵庫や尼崎の港湾都市では,法華宗寺院自体やその門徒商人が,都市共同体に影響力を行使できる立場に立っていました。そのため三好長慶は本門法華宗をつうじて流通ネットワークだけでなく,都市共同体まで影響下におくことができるようになったことが分かりました。

 三好長慶と結びついた日隆門流の本興寺は,弘治三年(一五五七),後奈良天皇から綸旨を獲得して勅願寺となり,日隆には上人号が追贈されます。このころが三好長慶と日隆門流の結びつきが最盛期を迎えた頃でした。
images (2)堺幕府 堺県 上方散策
 永禄3年(1560),三好氏は河内・大和へ勢力を拡大します
この時,南河内に攻め入ったのが三好長慶の弟で阿波を支配していた三好実休(之虎)です。実休は日隆門流とは別に,堺の油屋常言の子である頂妙寺の日珖に帰依します。実休とその一族,阿波国人などは日珖より法華門徒になっていて信仰面の上で強い結びつきがありました。
永禄四年(一五六一)、河内・畠山氏攻めに従軍した日珖は占領した高屋城下において,追放された畠山高政の館を下げ渡されます。「高屋寺内造立の事,畠山殿の屋形なり」とあるように,畠山氏の館を、高屋寺としてして寺内を建立します。
また堺において,実休は屋敷を,油屋常言は伽藍を寄進して,妙国寺を建立します。
三好実休
三好長慶の弟 実休
油屋伊達氏は,堺の会合衆の一人で、ここでも都市共同体を主導する有力商人,法華宗寺内の建立,三好氏との結びつきが見られます。
 永禄七年(一五六四),いわゆる「永禄の規約」が結ばれます。
当時、三好長慶と関係を構築した日隆門流を代表とする勝劣派と,松永久秀を壇越とし,これと教義上対立する本国寺を代表とする一致派の争いがありました。これを三好実休を中心に阿波国人に受法した日珖が仲を取り持つ形で和睦させたものです。
 こうして永禄年間になると,日隆門流だけでなく,法華宗全体と三好氏が結びついていくようになります。これは,三好氏が,大阪湾の港湾都市を基盤として,京都をめぐって幕府と対立していた状況から,畿内全体へその活動を拡大させていったためと研究者は指摘します。
 同時に三好氏は、「法華宗から脱却」していく動きも見せ始めます。
(前欠)土手方曲事たるべき候,堅く異見を加えられ,無事肝要の事,尚松永弾正忠申さるべき候,恐々謹言,七月四日 長慶(花押)
堺南庄中
 永禄三年以前に,三好長慶から堺南庄中に宛てた書状です。内容は、堺の町を防備するための堀について、指示したものです。堺は環濠によって北・東・南を取り囲まれた都市になりますが,「土手」とはそうした環濠に対応した防御施設と堤防を兼ねたものと考えられます。 堺の環濠が史料上に初めて見えるのは永禄五年(1562)のことです。そこから一向一揆が市中にまで攻め込んだ天文の一向一揆以後に、整備が進んだとと考えられています。長慶はこうした堺をとりまく土手の整備の不行き届きに対して,堺南庄中より意見して「無事」を図るように命じているのです。三好氏は都市防衛や治水という都市民全体の問題を管掌して,堺南庄中という都市共同体そのものに文書を発給する立場にあったことを示しています。
miyoshinagayos三好長慶
 当時は城下町や寺内町の多くが惣構を持っていました。その背景には,経済流通の活性化,安定的な大規模市場への欲求が,農村とは異なる性格の強化を都市に求めていったため都市領域の設定がおこなわれたと考えられます。また,都市民が武家権力に対して生命・財産保護の期待を持つようになります。惣構の築造という都市の安全にかかわって堺南惣中へ命令をくだす三好氏は,堺の都市民の欲求を吸い上げる公権力の姿と見て取れます。そして、それを背景に,支配者として堺に臨む姿を示したのかもしれません。
  さらにフロイス『日本史』の永禄9年(1566)の記事によると,「高貴な武士で堺奉行であり大いなる権能を有するゴノスケ殿」が堺にいたと記されます。これは三好氏によって,被官の加地権介久勝が堺奉行に任命され,堺に在住していたことを示すものです。
 こうした港湾都市の後背地をおさえるため,堺南庄は安宅氏,堺五ヶ庄は十河一存,兵庫下庄は三好三人衆の一人である三好長逸と,四国出身の三好氏の有力一族の所領がそれぞれ設定されていました。
長慶ゆかりのち

 三好氏の衰退後は,織田信長が大阪湾の港湾都市の前に現れます。
信長は豪商の今井宗久を堺五ヶ庄の代官に任じ,松井友閑を堺奉行として派遣し、堺の直轄化を図ろうとします。信長のこうした動きは,権力として惣構の問題を管掌し,代官を配置した三好氏の支配を、さらに一歩進めたものとも言えます
 三好氏と日隆門流との言わば「私的な」結びつきは,弘治年間に最盛期を迎えます。
しかし,同時に法華宗の寺院や外護商人を通じた都市支配から,武家が地縁的な都市共同体を直接支配の対象にしたあり方へ移していく動きが見られるようになるのです。
miyoshinagayoshi03三好長慶

本門法華宗と三好長慶との関係についてまとめておきましょう。
 室町期,大阪湾岸の港湾都市では,有力商人によって法華宗,とりわけ日隆門流の寺院が造られていきます。この日隆門流内部の人・物の動きは,大阪湾から京都へ求心的に集まる全国的な流通ネットワークの一端を担っていました。さらに戦国期になると日隆門流の商人や寺院は,こうした富を背景に,都市の地縁的共同体の中心的な地位に位置するようになっていきます。
  四国から畿内に勢力を伸ばそうとしていた三好氏にとって,その足がかりになる大阪湾における流通を支配することは最重要課題のひとつでした。しかし,一武家権力の力量でそうした流通や,流通の結節点となっている都市を支配することは力不足で,一般の戦国大名に見られるような城下町建設による流通把握というスタイルには進めませんでした。
 こうした中で,三好氏が採用した対港湾都市戦略は「用心棒」的な存在として,都市に接するのではなく,法華宗寺院を仲立ちとした支配を進めます。法華宗の寺院や有力檀徒を通じて,都市共同体への影響力を獲得し,都市や流通ネットワークを掌握しようとしたのです。
 やがて三好氏はこうした法華宗を媒介とした支配から脱却し,都市共同体に直接文書を発給するようになります。こうした三好氏の大阪湾支配のあり方は,織豊政権の港湾都市の支配の先行モデルとなったのです。

参考文献 
天 野 忠 幸 日隆の法華宗と三好長慶   法華宗を媒介に       都市文化研究 4号 2004年

   
15世紀の半ばに讃岐・宇多津に日隆によって本妙寺が開山される過程を前回は追って見ました。
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宇多津の本妙寺山門前の日隆
今回は、15世紀の大阪湾沿岸の港をめぐる情勢を見ていきたいと思います。その際の視点が日隆と三好長慶です。
 尼崎の本興寺を拠点に日隆は、大阪湾や瀬戸内海の港湾都市への伝導を開始します。彼によって開山されたものだけでも兵庫港(神戸)の久遠寺、備中の本隆寺、宇多津の本妙寺が挙げられます。
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        日隆が開山した宇多津の本妙寺
  日隆が築いた本門法華宗のネットワークを見ておきましょう。
 法華宗は、都市商工業者や武家領主がなどの裕福な信者が強い連帯意識を持った門徒集団を作り上げていました。もともとは関東を中心に布教されていましたが,室町時代には京都へも進出します。
 日蓮死後、ちょうど百年後に生まれた日隆は日蓮の生まれ変わりとも称されます。彼は法華教の大改革を行い、宗派拡大のエネルギーを生み出します。その布教先を、東瀬戸内海や南海路へと求めます。
utadu_01宇足津全圖
讃岐の宇多津湊と本妙寺

日隆の布教により寺院が建立された場所と、その後の発展の様子を見ていきましょう。
大阪湾岸では,材木の集積地であった尼崎,奈良の外港としての堺,勘合貿易の出発地である兵庫津などが挙げられます。また四国の細川氏の守護所である宇多津などにも自ら出向いて布教活動を行い本妙寺を開きます。日隆の布教によって法華宗信者となった港町の都市商工業者の特色は,武家領主と結びついている点だとされます。

宇多津 本妙寺
 宇多津の本妙寺
 京都にあった法華宗各門流の本山の本国寺,妙顕寺,本能寺などの周辺には信者が集住していました。例えば、本国寺の場合には遅くとも天文元年(1532)までには要害化が進み,「数千人の宗徒」が住む「寺内」が形成されていたようです。そしてこれを、織田信長は「洛中城郭」として利用しています。
 さらには,日隆は京都の本能寺と尼崎の本興寺を「両本山」とします。15世紀後半につくられた本能寺の「当門流尽未来際法度」では,全国の末寺の住持職に対して本山への参詣を義務づけています。
本能寺が鉄砲伝来に果たした役割は?
京都本能寺
 
 本能寺は、明智光秀のクーデターで信長の最期となった寺として有名です。この時に焼き払われます。その後も、度々火災に見舞われたため、本能寺の「能」の旁がカタカナのヒの字を二つ重ねるのを避けて、火が去るようにと「去」の字に似せた異体字を使用しています。それでも同寺には、幾たびかの火災の難を逃れた多くの貴重な史料が残されています。その『本能寺史料』中世編に次のような細川晴元書状があります。
  「 本能寺         晴元」
種子嶋(鉄砲)鍼放馳走候而、此方へ到来、誠令悦喜候、
彼嶋へも以書状申候、可御届候、猶古津修理進可申候、恐々謹言
  四月十八日        晴元(花押)
   本能寺
 これは細川晴元の本能寺宛ての鉄砲献上に対する礼状です。
 年号は入っていませんが、晴元は天文一八年(1549)、摂津国江口の戦いで部下の三好長慶に敗れ、京都から近江へ逃げるのが6月のことですから、それ以前の発給とされます。鉄砲が種子島に伝来するのは、『鉄畑記』によれば、天文13年8月のことで、翌年に銃筒をネジで塞ぐ技術を習得し、量産化が開始されるのは早くもその翌14年のこととされます。そして、その種子島から足利将軍家に鉄砲が献上されたのが天文15年です。この文書の年代は、足利将軍家と相前後して細川氏にも鉄砲が送られた、あるいはこの鉄砲自体が将軍への献上品だった可能性もあると研究者は見ているようです。どちらにしてもこの文書の年代は天文15年4月のことでしょう。

鉄砲

 ここで確認しておきたいのは、種子島銃(鉄砲)をはるばる種子島から京都へ、そして晴元の下へ持参し、さらに晴元からの礼状を種子島まで届けたのは誰かということです。かつては「鉄砲献上」は、堺の商人によって行われたとされてきました。しかし、この文書から分かることは当時の種子島領主であった種子島時尭より本能寺を経由して晴元の下へ送られていることです。
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 当時の種子島は、領主の種子島氏をはじめ島民らも法華宗に帰依し「皆法華」が実現していました。種子島では15世紀半ばに日隆に学んだ日典によって法華宗義が広まります。本能寺と両本山である尼崎の本興寺から本門法華宗派の僧が伝教のために種子島や屋久島にやって来たのです。それは、同時代のイエズス会の宣教師にも似た姿です。この時代に法華僧侶達は海上ネットワークを通じて種子島と本山である本能寺を活発に行き来していたのです。その人とモノの流れの中に、鉄砲も含まれたようです。
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 本能寺の変で焼け落ちた伽藍再建に、日隆門流はすぐに動き始めます。
その際の勧進記録である「本能寺本堂勧進帳」が残っています。そこからは末寺がある種子島,堺,備前,河内の三井,越前,備後,駿河の沼津といった地域で勧進が行われていることが分かります。ここでも瀬戸内海や南海路の種子島の末寺から,本山である京都の本能寺,尼崎の本興寺に向かって,カネと人とモノが流れ込んでいたのです。そのようなネットワークの拠点のひとつが宇多津の本妙寺であったのです。15世紀半ばに開山された本妙寺が急速に時勢を伸ばしていくのは、このような流れの中にあったことも要因のひとつでしょう。

本能寺

 こうした本門法華宗の末寺から本山に向けた人やモノの流れに目を向けるようになったのが細川氏や三好氏です。
室町幕府の管領であった細川高国は,永正一七年(1520),近江六角氏との戦争に際して兵庫津の大船を徴発し、大永六年(1526)には尼崎城を築城しています。ここには都市支配や軍事動員を目指す動きが見えます。また,細川晴元は阿波の国人である三好元長の支持を受けて,港湾都市である堺を事実上の政権所在地とし、いわゆる「堺幕府」を樹立します。
 この背景には,先ほど鉄砲伝来の際に述べたように日隆門流の京都や堺の本山への人や物の流れの利用価値を認め、法華宗を通じての流通システムを握ろうとする考えがあったと思われます。
 
一方、四国を本拠とする三好長慶は,畿内支配をめざします。
三好長慶
細川氏・三好氏を東瀬戸内海から大阪湾地域を支配した権力として「環大阪湾政権」と考える研究者もいます。その際の最重要戦略のひとつが大阪湾の港湾都市(堺・兵庫津・尼崎)を、どのようにして影響下に置くかでした。これらの港湾都市は,首都京都を背景に瀬戸内海を通じて東アジア経済につながる国際港の役割も担っており、人とモノとカネが行き来する最重要拠点でもあったわけです。
 その際に三好長慶が採った政策が法華宗との連携だったようです。
彼は法華教信者でもあり、堺や尼崎に進出してきた日隆の寺院の保護者となります。そして、有力な門徒商人と結びつき,法華宗寺内町の建設を援助し特権を与えます。彼らはその保護を背景に「都市共同体内」で基盤を確立していきます。長慶は法華宗の寺院や門徒を通じて、港湾都市への影響力を強め、流通機能を握ろうとしたようです。

三好氏は大坂湾の港湾都市への影響力をどのようにして高めたのでしょうか?
法華宗 顕本寺
   堺の顕本寺 宇多津の本妙寺と前後して日隆により開山
まず、堺を見てみましょう。
日隆は、宇多津に本妙寺を開いたのに前後して、宝徳3年(1451年)に堺にもやって来て有力な商人を信者とします。そして木屋と餝屋と称する豪商の自宅を法華堂としてたのが顕本寺の始まりとされます。当初の開口神社に近い甲斐町山ノロにあったこの寺は「南西国末寺頭」と呼ばれ、西国布教の拠点として機能するようになります。ここでも法華教門徒の商人達や海運業者のネットワークを利用しながら西国布教が進められていきます。その成果のひとつが先述した屋久島の「皆法華」化となって現れます。
  三好長慶の父・元長は一向一揆に敗れ,この顕本寺で自害します。
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長慶の父元長は、顕本寺で自害した

天文元年(1532)のことです。後を継いだ三好長慶は「臥薪嘗胆」の末に、父を死に追いやった主君を京都から追放していきます。その過程で、長慶の本門法華宗の寺院に対する戦略が見えてきます。
20_02Web版『堺大観』写真集―顕本寺境内 三好海雲(元長)の
       長慶の父元長の墓も顕本寺にあります
例えば、次の史料は長慶が顕本寺に下した文書です
当寺(顕本寺)の儀, 開運(三好元長)位牌所として寄宿の事,長慶・之虎これを免許せられば,冬康においても別して信心の条,聊かも相違あるべからざるものなり,よって状くだんのごとし,
天文廿四二月二日 冬康(花押)
堺南庄顕本寺
 父元長の自害の場となった由緒によって顕本寺を位牌所として,軍勢の寄宿免許という特権を与えています。さらに弘治二年(1556)には,元長の二十五回忌法要が行われますが、三好氏の本拠地である阿波でなく,この寺で行われます。
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こうして顕本寺は、三好氏の檀那寺として地位を固めるとともに、三好=本門法華宗の連携強化が進められていきます。
 先ほど顕本寺は,宝徳二年(1450)に木屋某と餝屋某が自宅を寄進することによって建立されたと述べました。当時の堺は尼崎と同様に、重要商品の一つが材木で、阿波から畿内への主要な商品でした。材木を取り扱う「木屋」という姓は、阿波との経済的な結びつきをうかがわせます。阿波を本拠とする三好氏も,こうした経済的なつながりを背景に顕本寺との関係を強めた行ったようです。
 『天文日記』によると,天文七年(1538),「堺南北十人のきゃくしゅ(客衆)」「渡唐の儀相催す衆」の一人として木屋宗観があげられます。木屋は会合衆の構成員で、顕本寺は会合衆の結集核である開口神社の西南隣に位置して,会合衆に対しても影響力をもっていたようです。こうして阿波から畿内への材木流通を通じて、顕本寺を仲立ちとして法華宗と阿波の三好氏を結びつけ,また顕本寺を通じて三好氏は堺の会合衆とも関係をとり結んでいったのではないかと研究者は考えているようです。
三好氏が一族の祭祀や宗教的示威行為の場を,本拠地である阿波勝瑞から堺に移したのは、国際港湾都市堺への影響力を強めるためであったかもしれません。しかし、それだけではなく、信長や謙信などの諸大名がやって来る堺での三好氏の勢威を広く示すデモンストレーションという面もあったでしょう。
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  布教活動と交易活動を考えるための手がかりとして、当時のポルトガルやスペインの東アジア貿易におけるイエズス会の果たした役割を考えて見ましょう。
 知らない土地への布教という宗教的な情熱を抱き、パリ大学などで当時の最先端の技術と知識を身につけた若き宣教師達。彼らは国営の船でアジア各地の布教拠点に運ばれ、布教活動を行うと同時に報告書を作成します。その中には、その土地の情勢や交易品・交易ルートなども含まれます。これは商業活動にとっては最重要の情報でした。これらを宣教師は本国にもたらしました。「宣教師がやって来た後に、商人がやって来る」と言われた所以です。つまり、宗教的な伝道者と交易活動者は連携していたのです。そして、本門法華宗の僧侶と商人・海運業者にも同じことが指摘できます。
 同時に、戦国大名がキリシタン大名になっていく理由の一つにポルトガル船を領地内の港に呼び入れて交易活動を行い経済的な利益を上げるという意図があったとされます。同じように日隆が瀬戸内海に開いた法華宗寺院はカトリックの教会と同じく布教拠点であると同時に、交易従事者のネットワーク拠点でもあり情報と安全をもたらしてくれる施設としても機能したはずです。

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 このような拠点があってこそ、瀬戸内海を舞台とする海上交易は可能となったでしょう。そして種子島、そして南シナ海を越えて琉球へと、そのエリアを拡大させて行けたのです。
 このような本門法華宗の海上交易ネットワークの形成は、宇多津にはどんな影響を与えるのでしょうか。
本妙寺というネット拠点が日隆によって新設されたことで宇多津の港湾機能は大きく発展したはずです。まずは、寄港する船の数や交易相手の港などの増加につながったはずです。例えば、それまでなかった種子島との交易船が立ち寄ることが増えたかもしれません。それは、古代に、カトリックの司教座が置かれた都市が発展して行ったのと同じように、周辺の湾岸都市とは違った人とモノの流通をもたらすことにつながったのではないでしょうか。
15世紀半ばに、本妙寺が宇多津に開山されたことは、経済的には本門法華宗の海上交易ネットワークに参加する権利を与えられただとも言えます。その同盟都市の一員として宇多津は、さらなる進化を遂げていくことになるのです。

参考文献 日隆の法華宗と三好長慶   法華宗を媒介に      天 野 忠 幸 都市文化研究 4号 2004年

  
  
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安楽寺山門(赤門)美馬市
 徳島県の美馬市郡里は、吉野川北岸の河岸段丘の上に早くから開けた所です。
古墳時代には、吉野川の綠岩を積み重ねた横穴石室を持つ国指定の「段の塚山」古墳。そして、その系譜を引く首長によって造営されたと思われる郡里廃寺跡(国指定)の遺跡をたどることが出来ます。
 その段丘の先端に地元人たちから「赤門寺」と親しみを込めて呼ばれているお寺があります。安楽寺です。この寺は元々は天台宗寺院としてとして開かれました。宝治元年時代のものとされる天台宗寺院の守護神「山王権現」の小祠が、境内の西北隅に残されています。

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安楽寺の赤門
真宗に改宗されるのは、東国から落ちのびてきた元武士たちの手によります。
その経緯は、1247年(宝治元年)に、上総(千葉県)の守護・千葉常隆の孫彦太郎が、対立していた幕府の執権北条時頼と争い敗れます。彦太郎は討ち手を逃れて、上総の真仏上人(親鸞聖人の高弟)のもとで出家します。そして、阿波守護であった縁族(大おじ広常の女婿)の小笠原長清を頼って阿波にやってきてます。その後、安楽寺を任された際に、真宗寺院に転宗したようです。長清の子長房から梵鐘と寺領100貫文が寄進されます。15世紀になると、蓮如上人の本願寺の傘下に入り、美馬を中心に信徒を拡大し、吉野川の上流へ教線を拡大させます。

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安楽寺の親鸞像
安楽寺火災後に、讃岐に「亡命」し宝光寺を建てた背景は?

ところが、永正12年(1515)に寺の危機が訪れます。寺の歴史には次のように記されています。
永正十二年(1515)の火災で郡里を離れ麻植郡瀬詰村(吉野川市山川町)に移り、さらに讃岐 三豊郡財田(香川県三豊市)に転じて宝光寺を建てた。」
 ただの火災だけならその地に復興するのが普通です。なぜ伝来地に再建しなかったのか。瀬詰村(麻植郡山川町瀬詰安楽寺)に移り、なおその後に讃岐山脈の山向こうの讃岐財田へ移動しなければならなかったのか?
伝来の場所を離れたのは、そうせざるえない事情があったからではないでしょうか。ただの火災でなく、周辺武士団による焼き討ち追放ではなかったのでしょうか。
2013年11月 : 四国観光スポットblog
三豊市財田 宝光寺(安楽寺の亡命先だった)

後の安堵状の内容からすると、諸権利を巡ってこの地を管轄する武士団との間に対立があった事がうかがえます。あるいは、高越山や箸蔵寺を拠点とする真言系の修験道集団等からの真宗への宗教的・経済的な迫害があったのかもしれません。それに対して、安楽寺の取った方策が「逃散」的な「一時退避」行動ではなかったと私は考えています。
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安楽寺本堂と親鸞・蓮如像
 その際に、寺だけが「移動」したのではないでしょう。
一向門徒の性格からして、多くの信徒も寺と共に「逃散」したはずです。寺をあげての大規模な逃散。この時代は、平和な江戸時代と異なり、土地は余剰気味で労働力が不足した時代です。安楽寺の取った逃散という実力行使は、領主にとっては大きな打撃となったはずです。


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安楽寺山門と松
なぜ、讃岐山脈の向こうの山里に避難したのか。

私は、そこにすでに有力信徒がいたからと考えています。
背景には、阿波から讃岐への「人口流出」があります。讃岐側のソラの集落は、阿波からの人たちによって開かれました。そして時代と共に、山沿いや、その裾野への開墾・開発事業を進め「阿波コロニー」を形成していきます。
 そこへ、故郷阿波から真宗宣教師団が亡命して来て、新たな寺院を開いたのです。箸蔵街道の讃岐側の入口になる財田側の登口に位置する荒戸に「亡命避難センター」としての「宝光寺」が建立されます。その設立の経過からこの寺は、阿讃両国に信徒を抱える寺となります。

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安楽寺本堂の屋根瓦
本寺興正寺の斡旋で美馬への帰郷成功

 同時に、安楽寺は本寺の興正寺を通じて阿波領主である三好氏への斡旋・調定を依頼する政治工作を行います。その結果、5年後の永正十七年(1520)に、三好千熊丸(元長または 長慶)の召還状が出され、郡里に帰住することができました。それが安楽寺に残る「三好千熊丸諸役免許状」と題された文書です。
興正寺殿被仰子細候、然上者早々還住候て、如前々可有堪忍候、諸公事等之儀、指世中候、若違乱申方候ハゝ、則可有注進候、可加成敗候、恐々謹言‐、
永正十七年十二月十八日                                  三好千熊九
郡里安楽寺
意訳変換しておくと
興正寺殿からの口添えがあり、安楽寺の還住を許可する。還住した際には、従来通りの諸役を免除する。もし、違乱するものがあれば、ただちに成敗を加える
郡里への帰還の許可と、諸役を免除すると記されています。
三好氏は阿波国の三好郡に住み、三好郡、美馬郡、板野郡を支配した一族です。帰還許可状を与えた千熊丸は、三好長慶かその父のことだといわれています。長慶は、のちに室町幕府の十三代将軍足利義輝を京都から追放して、畿内と四国を制圧した戦国武将です。安楽寺は領主三好氏から課役を免ぜられていたことになります。三好氏の庇護下で地元の武士団の圧迫から寺領等を守ろうとしています。

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安楽寺の屋根
この免許状は、興正寺の口添えがあって発給されたものです。

 ここでもうひとつの注目しておきたいのは文頭の「興正寺殿からの口添えがあった」という部分です。永正十七年の興正寺の住持は蓮秀上人ですので「興正寺殿」は蓮秀のことでしょう。免許状の発給のルートとしては
財田亡命中の安楽寺から興正寺の蓮秀に口添えの依頼 → 
蓮秀上人による三好千熊丸に安楽寺のことの取りなし → 
その申し入れを受けての三好千熊丸による免許状発布
という筋立てが考えられます。ここから、安楽寺の存亡に係わる危機に対して、安楽寺は本寺である興正寺を頼り、本寺の興正寺は末寺の安楽寺を保護していることが分かります。
 それとともに、三好氏が蓮秀の申し入れを聞きいれていることから、興正寺の社会的な地位と政治力をうかがい知ることも出来ます。同時に、安楽寺も地域社会に力をもつ存在だからこそ、三好氏も免許状を与えているのでしょう。力のない小さな道場なら、領主は免許状など与えません。
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安楽寺
「讃岐亡命」から5年後に、興正寺の斡旋で寺領安堵という条件を勝ち取っています。「三好千熊丸諸役免許状」は、安楽寺にとっては勝利宣言書でもありました。だからこそ、この文書を安楽寺は大切に保存してきたのです。 

郡里復帰後の安楽寺の使命は?  讃岐への真宗伝道

 郡里の地へ復帰し、寺の復興を進める一方、安楽寺の進むべき方向が見えてきます。それは、讃岐への真宗布教という使命です。5年間の讃岐への「逃散」と帰還という危機をくぐり抜け、信者や僧侶の団結心や宗教的情熱は高まったはずです。
 そして「亡命政権」中に讃岐財田の異郷の地で暮らし、寺の指導者達は多くのことを学んだはずです。「亡命中」の宝光寺で、教宣拡大活動をを行う一方、その地の情報や人脈も得ました。それを糧に讃岐への布教活動が本格化します。
  浄土真宗の中讃地域での寺院数が十四世紀からはじまり、十六世紀に入って急増するのは、そんな背景があるからだと私は考えています。
「徳島県 三頭越」の画像検索結果
三頭越
安楽寺から讃岐への布教ルートは、どうだったのでしょうか。
ひとつは、現在、三頭トンネルが抜けている三頭越から旧琴南へ。
2つ目は、二本杉越(樫の休み場越え)を越えて旧仲南の塩入へ、
3つめが箸蔵から二軒茶屋を越えて財田へのルートが考えられます。
 このルート沿いの讃岐側の山沿いには、勝浦の長善寺や財田の宝光寺など、真宗興正寺派の有力寺院がいまもあります。これらの寺院を前線基地にして、さらに土器川や金倉川、財田側の下流に向かって教線を伸ばして行ったようです。
DSC00879現在の長楽寺
長善寺(まんのう町勝浦)かつては安楽寺の末寺だった 

 こうして、戦国時代の末期から江戸時代にかけて安楽寺の末寺は、まんのう町から丸亀平野へとひろがります。江戸時代中期には安楽寺の支配に属する寺は、阿波21、讃岐50、伊予5、土佐8の合計84ヶ寺に達し、四国最大の末寺を持つ真宗寺院へと発展していくのです。
四国真宗伝播 寛永3年安楽寺末寺分布
安楽寺末寺の分布図(寛永3(1626)年)

上の分布図から分かることは
①阿波は吉野川流域沿いに集中しており、東部海岸地域や南部の山岳地帯には末寺はない。
②土佐の末寺は、浦戸湾沿岸に集中している。
③讃岐の末寺が最も多く、髙松・丸亀・三豊平野に集中している。
④伊予は、讃岐に接する東予地域に2寺あるだけである。
少し推察しておくと
①については、経済的な中心地域である吉野川流域が、新参者としてやってきた真宗にとっては、最も門徒を獲得しやすかったエリアであったことが考えられます。吉野川よりも南部は、高越山を拠点とする忌部修験道(真言宗)が根強く、浸透が拒まれた可能性があります。
 阿波東部の海岸線の港も、中世は熊野からやって来た修験系真言勢力が根強かった地域です。また、このエリアには堺を拠点に本願寺の末寺が開かれていきます。安楽寺にとっては、阿波では吉野川流域しかテリトリーにできなかったようです。
②の浦戸湾一帯に道場を開いたのは、太平洋ルートで教線ラインを上してきた本願寺でした。それが伸び悩んだのを、安楽寺が末寺に繰り入れたようです。
③④については、以前にお話ししましたので省略します。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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