瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三好霊順

増田穣三レジメ表紙

今日は増田穣三についてお話しします。
「政治家 + 電力・鉄道の起業家 + 華道家元」でもあった増田穣三をいろいろな面から見ていこうと思います。同時にその背後の明治という時代がどんなものであったのか。かみ砕いて云うと「村にやって明治=近代」というものがどんなものだったのかが見えるような視点で進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。
   さて、増田穣三についてご存じの方は? 私も10年ほど前までは何も知りませんでした。忘れ去
られようとしている存在かもしれません。私が増田穣三と出会は、この銅像です。この銅像が今は、どこにあるかご存じですか?

増田穣三 塩入駅前
              増田穣三像 JR塩入駅前の像は2代目
やってきたのは塩入駅です。駅を見守るように立っています。正面から見てみましょう。着流し姿で右手に扇子を持っています。政治家という威圧感やいばった感じがしません。どこか茶道や華道の師匠というのが私の第一印象でした。台座の正面は「増田穣三翁之碑」とあります。代議士という言葉はどこにもありません。台座下の銅板プレートを見ておきます。

増田穣三像の供出と再建
増田穣三像の台座プレート「銅像再建 昭和三十八年」とある
台座プレートには「銅像再建昭和38年3月」とあります。昭和38(1963)年に再建された2代目の銅像であることが分かります。先代に銅像からの流れを確認しておくと、次のようになります。
昭和12年 増田穣三の銅像建立(七箇村役場前 生前建立) 
昭和14年 増田穣三 高松で死去(82歳) 
昭和18年 銅像供出 
昭和38年 銅像再建。
再建時には、町村合併で七箇村役場はなくなっていました。そこで、塩入駅前に再建されたようです。 その時に鋳型は原鋳造に残されていたものが使われます。この銅像は2代目で、最初のものは戦前に役場前に建てられたことを押さえておきます。

増田穣三 碑文一面
             増田穣三像の台座碑文(冒頭部意訳) 
台座を見てみます。周囲3面には、増田穣三の経歴・業績がびっしりと刻まれています。最初の部分を上に意訳しておきます。ここからは次のような事が分かります。
①春日の増田伝次郎の長男。 
②明治維新を10歳で迎えた。
人間は「時代の子」なので、どんな時代に自己形成をしてきたかが大きな意味を持ちます。例えば1945年の敗戦を何歳に迎えたかによって「学徒動員世代」「戦後焼け跡世代」「戦争を知らない子どもたち世代」と価値観や考え方に大きな違いがありました。同じように明治維新を何歳で迎えたかがポイントになります。ちなみに大久保諶之丞は20歳前後、増田穣三や景山甚右衛門は10歳前後です。そのため小学校がまだありません。増田穣三が近代的な学校教育ではなく儒学などの江戸時代の教養の中で育ったことを押さえておきます。
増田穣三が教えを受けた人達を見ておきましょう。
A 日柳三州は燕石の息子 のちに大阪府の教育行政の役人として活躍。
B 黒木啓吾は、吉野の大宮神社の宮司さんで、髙松藩の藩校教授
三人ともに、このあたりでは有名な文人たちです。その下で「和漢の学」をおさめたとあります。私が注目するのは。⑤丹波法橋のもとで華道をならい。池元を継承し、多くの門下生を育てたことです。これについては後で触れるとして、これくらいの予備知識をもってフィールドワークにいきましょう。
まず春日の生家を訪れてみます。

春日神社

塩入駅から県道四号塩入線を塩入温泉方面にのぼっていくと春日神社があります。春日神社は、尾野瀬神社や、福良見集落の白鳥神社、久保集落の久保神社を摂社としていた時期あります。ここからは春日がこのあたりで最も早く開かれた地帯で、七箇村の中心地だったことがうかがえます。さらにのぼっていくと・・・
春日の増田家の本家と分家
増田穣三と増田一良の生家(まんのう町春日)

造田に抜ける農免道路を越えてさらに南下すると田んぼの中に大きな屋敷が2つ見えて来ます。左側が、戦前に長きに渡って七箇村村長や県会議員を努めた増田一良の家で、こちらが本家です。そして右側が、その分家の増田穣三の屋敷で、こちらが分家です。ふたりは従兄弟同士で、年は一回り違いますが兄弟のように仲が良くて、一良はいろいろな面で穣三を助けています。
 増田家は「阿讃の峰を越えてやってきた阿波出身」と言い伝えられています。増田家が阿波との関係が深い浄土真宗興正寺派の有力寺院の財田の法光寺門徒であることも、「阿波出身」を裏付ける材料の1 つです。増田家のルーツを見ておきましょう。

仲南町史には次のように記します。

増田穣三生家と尾野瀬神社

1856年は、増田穣三の生まれる2年前のことになります。曾祖父の増田伝左衛門は、拝殿を寄進するだけの財力をもっていたこと、それが林業によるものだったことを押さえておきます。
現在、増田穣三の家として残っているのは、穣三が本家と同規模で新築したものです。もともとは、塩入街道沿いにあって、穣三が若い頃には呉服商や酒造業も営んでいて、「春日正宗」という日本酒を販売もしていたこと、呉服の仕入れに京都に出向いていたことなどが仲南町史には記されています。
増田一族の系譜を見ておきます。

増田穣三系図2

先ほど見た尾野瀬神社に拝殿を寄進したのが穣三から見て曾祖父の伝左衛門。伝左エ門の子が伝蔵(祖父)になります。伝蔵は4人の男の子がいました。長男の伝四郎が本家(東増田家)、次男が伝次郎(西増田家)、三男が鳶次郎(下増田家)です。しかし、長男には子どもがなかったので、後に末弟の4男伝吾を養子とします。結果的には、四男傳吾が本家を継ぐことになります。
 次に伝蔵の孫たちを見ておきましょう。伝次郎の子が穣三・蔦次郎の子が米三郎、傳吾の子が一郎です。彼らは従兄弟同士で穣三が一番上になります。そして、増田穣三を筆頭に、米三郎・一良が村長・県会議員として活躍するようになります。これを見ると戦前の七箇村長は、第2代村長が譲三、第4・8代が正一 、第6・9代が一良と「春日の増田家3人の従兄弟たち」が、長きにわたってその座を占めていたいたことが分かります。どうしてこんなことができたのでしょうか。
それは後で見ることにして、増田一族の財政基盤を見ておきましょう。

大正初めの仲多度郡長者番付

仲多度郡史に載っている大正初めの仲多度郡の大正時代の長者番付です。
NO1は、多度津の塩田家
NO9が、景山甚右衛門まで、「多度津の七福神」と呼ばれた多度津に資産家がトップテンを占めます。商売だけでなく、この時期になると不在地主として広大な農地を所有していたことが分かります。この人達については、後で触れます。
NO10が金刀比羅宮の宮司の琴丘さんです。以下は、まんのう町の地主だけを拾ってあります。
NO18の三原氏は、大庄屋で三原監督の家です。
NO36が帆山の大西家です。
NO38に増田一良の名前が見えます。これが先ほど見た増田家の本家になります。所有する山林のひろさです。ここからも増田家本家が山林に基盤を置く資産家であったことが裏付けられます。
NO48が三男が分家した下増田家です。
この資産に対して、地租3%がかけられます。仲多度で一番多く税金を払っていたのは塩田家ということになります。ここには増田穣三の家は出てきません。しかし、仲南町史によると酒の鋳造所で独自銘柄の酒を販売していたこと、呉服屋を営んでいて若いときの増田穣三が京都に着物の仕入れに行っていたことなどが書かれているので、手広く商いを行っていたことが分かります。
増田穣三はどんな青年時代を送ったのでしょうか。先ほど見た銅像の台座には「華道の家元を若くして継承した」とありました。

それを裏付ける碑文が宮田の法然堂(西光寺)の境内に立っています。
宮田の法然堂
法然堂(西光寺) まんのう町宮田
法然さんが讃岐に流されたときにここまでやって来たと伝わるので、法然堂と地元では呼ばれています。
園田如松斉の碑文 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑 (まんのう町宮田の法然堂)
その境内にある石碑です。「園田翁之碑」とあります。これが園田如松斉のことです。内容を意訳して見ておきましょう。ここには次のように記されています。
①丹波からやってきた廻国の僧侶(放浪僧)で法然寺に住み着いて再興に尽くしたこと
②晩年は生間の庵で未生流生け花を教えたこと 
③その結果、600人近くの門弟を抱えるようになったこと。
④その高弟が増田穣三で、若くして華道の家元の座を譲られたこと。
明治16年に亡くなっていますから、穣三が26歳の時になります。それから7年後の七回忌の明治23年4月に、この碑は建てられています。裏面を見ておきましょう。

園田如松斉の碑文 裏面 法然堂
園田如松斉(丹波法橋)の石碑裏面

碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいます。その先頭にくるのが増田秋峰(穣三)です。これは穣三が、園田如松斉の後継者であることを裏付けています。穣三の次に田岡泰とあります。この人は穣三の幼なじみで、この年に初代七箇村町長となる人物です。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順です。以下、細川・泉・近石・山内など、十郷や七箇の有力者の名前が並びます。
わたしが不思議なのは、どうして若い増田穣三が選ばれたかです。
門下にはもっと年長者もいたはずです。しかし、園田如松斉は若い増田穣三を選んだのです。死に際の枕元に増田穣三を呼んで、奥義を伝えたと伝えられます。これは増田穣三の人間的な魅力や人間性を見込んでのことだったのでしょう。それが華道家元として多くの人達と接し、鍛錬する中で磨かれていったとしておきます。若い頃からただの呉服屋や蔵元のお坊ちゃんを越えた存在で、一目置かれていたと私は考えています。 
これは未生流家元の秋峰(増田穣三)が出した免許状です。

増田穣三の華道免許状 尾﨑清甫宛

「当流の口授者なり」とあり、明治24年12月の年季が入っています。穣三28歳の時のものになります。家元になって翌年のものです。伝授者として最後に名前が記される尾﨑伝次は、佐文の住人で、穣三の次の家元となる人物です。また、佐文綾子踊りについての貴重な史料を残した人物でもあります。尾﨑家には未生流の作品が写真として残っています。それを見ておきましょう。
 
未生流の作品 尾﨑清甫
                未生流の作品(尾﨑清甫蔵)
作品を見ると大きな松が一本真ん中に生けられいます。このように大きな作品が特徴だったようです。こんな花材が手に入るのは山村だからの強みでしょう。金毘羅の旅館の依頼で伝次は旅館の玄関をこのような作品で荘厳して好評だったようです。当時は生け花や作法は、裕福な家の男たちの社交場でした。女性が多くなるのは女学校で、茶道や華道が必須科目になって以後のことです。
増田穣三・尾﨑清甫
未生流華道の流れ
 いずれに20代の穣三は未生流一門を束ね、指導していく立場にありました。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながります。そして後の政治家としての素養ともなったと私は考えています。
園田如松斉の七回忌に追悼碑が建てられた年は、初めて七箇村会が開かれた年でもあります。
増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出されています。政治家としてスタートの歳になります。次に、その模様を史料で見ていくことにします。

七箇村村会議事録
七箇村村会議事録 明治23年(まんのう町仲南支所蔵)
増田穣三が法然堂に師匠の石碑を建てた明治23年は、新しい村が生まれ、初めての村の選挙が行われた年でもありました。この史料は仲南支所に残されたい七箇村の村会議事録です。ここに明治23年の年号があります。前年に大日本帝国憲法が施行され、各村々に村議会が開設されることになった年です。右側が香川県知から七箇村村会議長の増田傳吾(増田家の本家)への認可状です。「田岡泰を村長として認可ス」とあります。議長の増田傳吾は、増田家の本家当主で穣三の叔父にあたります。それでは議員や村長がどのように選ばれたのかを見ておきましょう。

明治の村会議員選挙のシステム

①選挙権が与えられたのは、2円の税金納付者です。農民なら2㌶程度の田甫をもっていないと納められません。つまり普通の農民には参政権がありません。②さらに選挙人を差別化します。たくさん税金を納めている選挙人たちを1級、残りを2級に差別化します。その分け方は、納税総額の半分を納めている上位選挙人が議員定数の半分を選出できました。多度津だと上位9人で税金の半分を納めていました。そのため9人で議員の半分を選びます。のこりをその他大勢の2級選挙人が選ぶということになります。そのために大口納税者の増田一族は、親族の近石氏などを含めると過半数の6名を送り込めたのです。そして、村長は議員の互選です。こうして増田一族の中から村長や助役が選ばれます。さらに、村長や助役は名誉職(ボランテア)で、給料が一般職員よりも安かったのでだれでも立候補できるものでもありませんでした。議会録を見ておきましょう。

七箇村村長選出結果報告書
七箇村の村長選挙報告書(明治23年)
県への村長選挙の報告書です。田岡泰11点と増田喜代太郎(穣三)1点とあります。ふたりは幼なじみで同級生で、未生流門下の高弟同士です。年齢は二人ともに33歳です。続いて助役選挙の結果です。ここでも増田穣三は4票を得ています。次期の村長候補であったことがうかがえます。明治維新の面白さは、年寄りが自信を失って道を若い人達に譲ったこと。そのために若い人達によって国造りが担われていくことです。地方議会でも、50・40歳台の人達が道を譲って、30代の若者を村長に選んでいます。
 今までの所を年表で整理して起きます。

増田穣三経歴

①維新に増田穣三13歳・景山甚右衛門16歳、同世代にあたること。近代の学校教育を受けていない世代になること。
②20歳台は酒倉と呉服屋の若旦那、華道の家元
③30代前半からに村会議員
④37歳で助役をしながら、電力会社設立へ
⑤42歳で村長と県会議員を兼職
こうしてみるとつまり、42歳の時には村長と県会議員を兼務し、44歳の時には、電力会社の社長も務めていたことになります。当時の増田穣三が担っていた課題を見ておきましょう。

増田穣三・村長・県会議員・社長

七箇村村長としては、丸亀三好線の開通が大きな課題でした。これは現在の県道4号線で、阿波昼間から男山・東山峠・塩入・切通・琴平までの里道開通です。
明治32(1899)年3月15日の日付の増田穣三宛の書簡が残っています。

11師団からの礼状2増田穣三.jpg2

宛先は七箇村長増田穣三殿で、送り主は善通寺歩兵第二十二旅団長小島政利とあります。内容を見ると
「新練兵場の地ならしすは、目下の急務である。貴村人民の内60名の助力を頂いた結果・・・」スムーズに完成したことに感謝する内容です。練兵場は、現在のこどもと大人の病院と農事試験場に作られましたが、その整地作業に七箇村から60人のボランテイアを出した事への礼状です。日露戦争前に急速に進められた整備に周辺の村々からも奉仕作業が提供されていたことが分かります。

次に県会議員としての働きぶりを見ておきましょう。

増田穣三評
讃岐人物評論の増田穣三評(意訳)
当時の香川県の政治経済面で活躍中の人物を紹介したものです。(読み上げながら下の解釈を同時に行う。)どんな風に表されているのか見ておきましょう。
①夜の金毘羅界隈で名の知れた存在、浄瑠璃がうまい 
②村長兼務で県会議員の参事会員になっている
③調停斡旋役に徹して、
④時には切り崩し工作のために買収工作なども担当し
⑤堀家虎造の下で存在感を見せていること。
また、「香川新報」も「県会議員評判録」では次のように記します。

「議場外では如才ない人で多芸多能。だが、議場では、沈黙しがちな議員のなかでも1、2を争っている」

ここでも議場における寡黙さが強調されています。しかし、明治36年11月に政友会香川支部から多くの議員達が脱会し、香川倶楽部を結成に動いた「政変」の際にも、堀家虎造代議士の下で実働部隊として動いたのは増田穣三や白川友一だったようです。それが「寡黙ながら西讃の頭目」と評されたのでしょう。この「論功行賞」として、翌年の県会議長や景山甚右衛門や堀家虎造引退後の衆議院議員ポストが射程範囲に入ってくるではないかと私は考えています。
 大久保諶之丞のような名言や大言壮語はない。議場では静かなもので、夜の料亭で根回しを充分に積んで周到に進めておくというやり方がうかがえます。その際にお花の師匠としての客あしらい・接待方法は役だったはずです。粋でいなせな姿が見えてきます。
今回は、生育歴とお花の師匠・政治家の側面を紹介しました。次回に実業家としての増田穣三をみていくことにします。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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まんのう町佐文に伝わる如松流華道

増田穣三法然堂碑文.J2PG
園田翁顕彰碑(西光寺)
 増田穣三が宮田の西光寺(法然堂)の住職園田氏実(法号波法橋、流号如松斉)から華道を学び、若くしてその継承者になったことは前述した。代議士を引退した後の穣三は「家元」として「活花指導に専念した」と伝えられている。どんな活動が行われていたのだろうか、そしてその後の流派は、どうなっているのだろうか。今も譲三が家元であった「如松流」を掲げる華道の流れが佐文にあると聞いて訪ねてみた。
琴平方面から観音寺方面に国道377号を2㎞ほど行くと国重要民俗文化財「綾子踊りの里」として知られる佐文盆地が広がる。
 旧土佐伊予街道が金比羅さんに向けて、その中央を通っている。その旧街道沿いにある尾﨑家の玄関には、3代にわたる華道師範の「看板」が掲げられている。これを見て、最初に私が気づいたのは「未生流」ではなく嵯峨流とともに「如松流」という流派を名乗っていることだ。如松とはもちろん法然堂の住職であった如松斉のことである。つまり、未生流から独立し新たに如松斉がおこした「新流派」を継承しているのだ。
尾﨑清甫2
尾﨑清甫(傳次)
一番左が尾﨑傳次(号清甫)のものである。
彼は明治3年3月29日生まれで、増田穣三よりも13歳年下になる。傳次が生まれた翌年明治4年に如松斉は法然堂を出て、生間の庵に隠居して華道に専念する。その庵に多くの者が通い如松斉から未生流の流れをくむ華道を学んだ。
 幕藩体制の身分制度社会の下では、いろいろな事が禁令として定められていた。例えば丸亀藩では、百姓が家に花や木を植え育てることも
「百姓が米作りに専念することに差し障りがある」

と禁止していた。明治を迎え、花を育てることも活花を楽しむこともできる世の中がやってきた。時代の新しい流れ「新流行」が、ここでは活花であったのかもしれない。
如松斉から手ほどきを受けた高弟の中に、佐文の法照寺5代住職三好霊順がいる。

増田穣三法然堂碑文
三好霊順の名前が発起人のなかにある
如松斉の顕彰碑裏面の発起人一覧の中に増田穣三、田岡泰に続いて3番目に彼の名前は刻まれている。霊順は、如松斉から学んだ立華を、自分の寺のある佐文の地で住民達に広げていった。 
 その際に今の私たちの感覚と違うのは、華道を学びに来たのが男達であったことだ。農作業等が終えた男達が寺に集まり、自分たちが集めてきた花や木を花材に花を生けた。「華道」のために男達が集まり、そこから新たな文化が芽生えていく様子が垣間見える。丹波からやって来た如松斉の華道は、こうしてこの地の人たちに受けいれられていった。
P1250693

 尾﨑清甫も若いときから法照寺に通い霊順から手ほどきを受けた。
そして、入門免許を明治24年12月に21歳で得ている。その際の入門免許状には「秋峰」つまり増田穣三の名と印が押されている。

尾﨑清甫華道免許状

 この前年には、如松斉の七回忌に宮田の法然堂境内に慰霊碑が建てられている。この免状からは、穣三が未生流から独立し「如松流」の第2代家元として活動していたことが分かる。

尾﨑傳次は、その後も熱心に如松流の華道の習得に努めた。

そして、増田穣三が代議士を引退後には直接に様々な教えを学んだ。
 尾﨑家には、清甫が残した手書きの「立華覚書き」が残されている。その中には、師である増田穣三の活けた作品を写生したものも含まれているかもしれない。
 孫に当たる尾﨑クミさんの話によると、祖父の清甫が座敷に閉じこもり半紙を広げ何枚も立華の写生を行っていた姿が記憶にあるという。
 また、如松流の創始者である如松斉が住職を務めた「法然堂の市」の際には、門下生がその成果を発表する華道展が毎年開かれていた。そこには増田穣三の門下生達の作品が多く展示された。

尾﨑清甫 華道作品

 その準備等を取り仕切ったのが尾﨑傳次ではなかったのか。そして次第に、譲三の信頼を得て門下生の中でも「高弟」に当たる地位と役割を果たしていくようになる。

 尾﨑清甫はその後も精進を続け、大正9(1920)年には、華道香川司所の地方幹事兼評議員に就任する。
さらに大正15年3月に師範免許(59歳)を、続いて昭和6年7月に准目代(64歳)、最後に昭和12年6月には会頭指南役の免状を、「家元如松斉秋峰」(穣三)から授かっている。
昭和12年というと増田穣三の最晩年にあたり、翌年には銅像が建立される時期である。「如松斉流」の第3代家元を、譲三は誰に譲ろうとしていたのかも気に掛かるところである。
 傳次は戦中の昭和18年8月9日に73歳で亡くなる。
その前年2月に、長男である沢太(号湖山)に未生流師範を授けられている。沢太は小さい頃から父傳次より如松流の手ほどきを受けていたというから、代替わりという意味合いもあったのかもしれない。
 その後、沢太は戦後の昭和24年9月には荘厳華教匠、昭和25年10月には嵯峨流師範と未生流以外の免状を得て、昭和27年には香川司所評議員、33年には地方幹事に就任し、未生流のみならず香川の華道界のために尽力した。
 戦後、農村では食糧増産のために熱気ある時代が訪れ、青年団や婦人会活動などの「新農村文化活動」が芽生えてくる。そんな中で、再び男達が花を活けることを楽しみ出す。自分の花器をしつらえ山から切り出してきた木や庭から摘んできた花を活ける。その輪の中の中心で指導を行ったのが尾﨑沢太であった。沢太は青年団に招かれ若い青年達に活花の手ほどきを行ったという。
増田穣三・尾﨑清甫

 考えてみれば、幕末に丹波からやって来た法然堂の住職がもたらした未生流華道の流れが、増田穣三を経て、尾﨑家に伝わり、佐文の地に広がり、今も受け継がれている。「如松流」の看板が掲げられていると言うことは、様々な意味があることに改めて考えさせれた。

増田穣三がどんな教育を受けたのかを見てみましょう。

 穣三の生まれは安政元年(1855年)。
安政の大獄間際で幕末に向けて時代が激流化していく時期だ。金比羅山のお膝元である天領榎井では、日柳燕石が博徒の親分としてブイブイ言わせ、後には高杉晋作などの尊皇の志士たちが琴平の地を活発に行き交う時期に当たる。

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三舟の父 日柳燕石

 こんな時に幼年期を過ごした穣三が師事した人物については「日柳三舟 中村三蕉 黒木啓吾等に従うて和漢の学を修め」と3名挙げられている。
まず師事したのは、琴平の日柳三舟 (くさなぎ さんしゅう)
 三舟は天領榎井(現琴平町)の日柳燕石の長男で、穣三より19歳年上にあたる。幕末、父燕石は、倉敷代官所の追手から高杉晋作を逃がした罪で4年間の獄中生活を高松で送っていた。明治維新になると新政府により出獄を許され、官軍の書記官的な役割で従軍し、鳥羽伏見の戦いに参加し、その後越後の柏崎で病死する。その期間、三舟は父を投獄者に持つ身として、医院を閉めて榎井で塾を開いたようだ。そこへ幼い日の穣三が通っていたことになる。

 父燕石の死後、三舟は伝手を頼って大阪に出て行く。その後、栄達の道を歩み大阪府学務課長を務め、大阪師範学校長に就任。さらに盲唖学校愛育社を創設し、国定教科書の原型を作るなど教育面で活躍する。

 三舟については、増田本家の総領で穣三の従兄弟に当たる増田一良が次のような回顧文を残している。 

従兄弟の増田穣三氏が若い頃に、呉服商を営んでおり、わが妹の婚衣の呉服仕込みのために京都に同行したことがある。その際の帰路、穣三氏が幼年期に師事した大阪の日柳三船先生を訪問するのに同行した。三船先生は那珂郡榎井村の出身で維新の勤王家として知られた日柳燕石先生の長男である。当時は、大阪府参事官を勤め大阪に在住であった。
 いろいろな話をしている内に、先生がかつて吾家に立ち寄ったことがあることが分かった。吾屋敷にそびえる巨木の榎に話が及び、記念に「古翠軒」という家の号を書き下された。今、わが家の居室に掲げられている大きな額がそれである。
 この回顧資料からは増田家本家には榎木の巨木が邸内にそびえ立ち、周辺からの目印になっていたこと。それが戦後の昭和38年に、風もないのに倒れたことが記されている。続いて、妹の婚礼衣装の買付の京都からの帰路に、大阪参事官を務めていた日柳三舟に会いに行き歓待を受け、自宅の榎の巨木にちなんで「古翠軒」という家の号を揮毫してもらったことが回顧されている。
 この回顧分から増田穣三が日柳三舟に師事していたことが裏付けられる。
穣三は幼い足で、春日から堀切峠を抜けて神野村を通って榎井にある三舟の下へ8キロの道のりを通っていたのだ。この道は10年後には、山下谷次が琴平神宮の明道黌で学ぶために通った道でもある。そして、この「通学路」は、後に穣三が村長として「里道改修」に取組み、現在の県道「丸亀ー三好線」に格上げされ、東山峠から阿波へとつながる県道に「昇格」していく。それは、まだまだ先のことである。

次に師事したのが丸亀の中村三蕉である 

 1817年(文化14年)生まれで明治維新を50歳前後で迎えた丸亀藩士である。上京し昌平校で学び、藩主の侍講、藩校正明館教授を勤めるなど丸亀藩で学問上の指導的な位置にあった人物である。維新後は小・中学校でも教壇に立ち、明治27年8月27日に78歳で死去している。増田穣三は、琴平の日柳三舟に学んだ後に丸亀まで通い、中村三蕉の下でさらに漢学・儒学・漢詩創作などの素養を深めたのだろう。

三人目が高松の黒木啓吾である。

  この人物については、現在のところ資料が見当たらない。推察としては、まんのう町吉野の大宮神社の社家である黒木家につながる人物ではないかと思う。黒木家は江戸時代から続く漢学者の家系で、幕末期の日柳燕石らに学んだ黒木茂矩が高松藩藩校・講道館学寮教授、教部省の神道教導職、金刀比羅宮の禰宜(ねぎ)を務めるなど、この時期の讃岐の国学神学をリードした人物である。明治初期の廃物運動の中讃地区での中心人物でもある。増田穣三の幼なじみで初代の七箇村村長となる田岡泰や財田の大久保諶之丞の弟彦三郎も高松在住の黒本茂矩のもとで学んだとある。しかし、黒木啓吾について不明で今後の課題である。

増田穣三が学んだ「学問」とは、どんなものだったのか?

 明治維新の前と後を考える場合、政治的には「維新」と言う不連続面に光を当てて語られることが多い。しかし、農村部では生活・文化様式や価値観においては、江戸時代とあまり変化はない。「明治維新」が目に見える形で地方にまでやってくるのは、鉄道が敷かれ蒸気機関車が琴平まで通い出したり、旧丸亀中学本館のような西洋風の公共建築物が姿を見せるもっと後のことだ。農村部では、着ているものも、食べるものも、家も変わりなく江戸と明治初期は続いており、連続面の方が多い。
 例えば、増田一良の母親の出里である羽床の宮武家は、反骨のジャーナリスト宮武外骨を世に送り出している。その外骨が明治初期に東京遊学の際に、大地主である父親が求めたのは「将来の地主層としてのつきあいに必要な漢詩・儒学・華道・茶道を身につけて帰ってくること」であったという。英語を学び洋学を身につけよという発想は、いまだない。また、この時代はには学制も整備されておらず、帝国大学もなく教育による「立身出世」という社会システムも未整備だった。田舎においては江戸時代の価値観からまだ大きく変化はしていない。
 そのため地主達の師弟教育は、従来通りの「和漢の学」が中心だった。穣三も漢学・儒学に加えて漢詩、書道、華道という農村部の名望家にとって必須教養とされるものを学んだのは自然なことだった。

 若き日の増田穣三が最も惹かれたのは何だったのか。

 穣三の顕彰碑には、次のような部分がある。
「如松斉丹波法橋の門を叩いて立花挿花の菖奥を究め、終に斯流の家元を継承し夥多の門下生を出すに至れり」という部分だ。
  華道に打ち込み、家元を継承し多くの門下生を持ったという。つまり、若き日の彼は、政治家としてよりも華道の師匠として、人生を出発させたようだ。その経緯を見ていきたい。  

未生流華道の師 園田如松斉について 

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まんのう町宮田の西光寺(法然堂)の園田如松斉の石碑
 増田穣三の華道の師匠に当たる園田如松斉の碑文が宮田の西光寺(法然堂)に残っていると聞いて行ってみた。琴平から国道32号を南に2㎞程南下すると樅ノ木峠への傾斜がきつくなる。その国道から200㍍ほど西側に西光寺はある。法然が流刑となった際に、この地までやって来たとされ地元では法然堂と呼ばれている。

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園田如松斉の顕彰碑(まんのう町宮田 法然堂)
 その境内の本堂の前に園田如松斉の顕彰碑は建てられていた。碑文内容は仲南町誌に掲載されている。意訳すると次のようになる。 
如松斉は丹波の国、園田市左衛門の二男である。
悟譽蓬山和尚と称し、浄土宗西山派の僧侶で文久2年宮田の西光寺の第17世住職となり堂塔の修繕などを行いその功績著しかった。
 明治4年2月10日、生間の豊島家の持庵に移住して本尊薬師如来の奉祭にあたった。生花を好み未生流の師範として遠近から集り来る者が多く、自庵で教授するばかりか各地方に招かれて出張指導した。その結果、広く那珂郡南部一帯に普及発展して門弟は六百余名に達した。
明治16年2月17日死去、享年76歳。
春日の増田秋峰(穣三)は、その高弟で皆伝を許された。
明治23年4月増田穣三らによって、西光寺境内にこの碑が建てられた。
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 碑文裏側には、建立発起人の名前が並んでいるが、その先頭にあるのは増田秋峰(穣三)である。その次には、穣三の幼なじみの田岡泰の名がある。3番目は佐文の法照寺5代住職三好霊順である。
  この碑文が建てられたのは明治22年、如松斉没後7回忌の年に当たる。この年、初めて七箇村会が開かれ、増田穣三も田岡泰も議員に共に33歳で選出される。そして、議員互選で村長に選ばれたのは田岡泰であった。 

この碑文の発起人の筆頭に増田穣三の名前があると言うことは、どういうことを意味するのか。

それは、年若い穣三が如松斉亡き後の門下を束ね指導し、その実績を背景に名実共に後継者となっていたことが推察される。

未生流(みしょう)華道とは、どんな流派だったのか。

  未生流は、文化文政時代に未生齋一甫(通称:山村山碩(さんせき)によって創流され、大坂を中心に幕末から明治にかけて広がった華道の新しい流だという。
 その目指すものは、陰陽五行説・老荘思想・仏教の宗教的観念を根本的思想おき、挿花を通じ自己の悟りを開くという精神的に極めて高い境地を目指した。また、直角二等辺三角形に役枝を配する明快な花形に込められた理論と哲学は、新しく「華道」と呼ぶにふさわしい道を開こうとするもので、明治という新しい時代にマッチした教えだと受けいれられた。

未生流を、中讃地域に最初に持ち込んだのが如松斉だった。

そういう意味では如松斉は、西讃地域の華道の新潮流の先頭にいた人物と言えよう。その流れの中に若き増田穣三は飛び込んでいき、若き後継者に成長していく。幼年期に身につけた儒学・漢学・漢詩の素養を花を活けるという手段で一つの世界を表現し、作り上げていくという作為がピッタリと来たのかもしれない。

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未生流(みしょう)華道の作品

なぜ園田如松斉の後を、若い穣三が継ぐことになったのか?

仲南町誌(584P)には、晩年の如松斉が穣三に対して、強い思い入れを持っていたことを伝える次のような記述がある。
「園田如松斉は病伏中も若き高弟増田穣三に対して、腹の上に花台を置いて指導し皆伝を許可。」とあり、
 死を目前にその腹の上に花台を置いて、臨終の際まで指導を行い経験の少ない穣三に皆伝を許可したと伝えられる。
 穣三顕彰碑文には「(園田如松斉の)家元を継承し、夥多の門下生を出すに至れり」と刻まれている。後継者候補として、彼よりも年上で経験豊富な人物は何人もいたと思われるが穣三が選ばれたのはどうしてか? それは、若き穣三の中に、多くの門下生をまとめ上げ、指導していく寛容力や人間的な魅力があると如松斉は見抜いたのではないか。
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秋峰とは増田穣三の号 佐文の尾﨑伝次に出された免状 

 いずれにせよ27歳で後継者となった穣三は一門を束ね、指導していく責務を果たしていく。それが新たな人間関係を結んだり接待術・交流・交渉力などを養うことにつながり、後の政治家としての素養ともなる。
  この時期の周囲の穣三に対してのイメージは、「増田家分家の若旦那」「未生流華道の先生」「歌舞伎芝居の浄瑠璃太夫」という所ではなかったか。
 

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