瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三教指帰

   空海が法を求めて唐に渡り、長安青龍寺の恵果和尚からインド直伝の新しい仏教・密教を受法されてから1300以上の年月が経ちました。当時の東シナ海を越えて唐に渡と云うことは、生死をかけた旅で、生きて帰れる保証は何もありません。空海が唐に渡った前年の803(延暦22)年4月16日に難波津を出帆した四隻の遣唐使船は、出港して5日目の21日に、瀬戸内海で暴雨疾風のために破船しています。このときには、明経請添生の大学助教(すけのはかせ)・豊村家長は、波間に消えたと伝えられています。
 空海はそのような危険性を承知の上で、どうして生命を賭してまで遣唐使船に乗ろうとしたのでしょうか?  今回は空海の入唐求法について、従来から疑問とされている点を見ていくことにします。テキストは、「武内孝善 弘法大師 伝承と史実 絵伝を読み解く63P 入唐求法をめぐる諸問題」です。

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舳先で悪霊退散を祈祷する空海
空海の入唐求法についての問題点を、研究者は次のように挙げます。
①入唐の動機・目的はなにか。
②誰の推挙によって入唐できたのかt
③いかなる資格で入唐したのか、
④入唐中に最澄との面識はあったか。
⑤長安における止住先(受入先)はどこであったか。
⑥わが国に持ち帰えった経典・マンダラ・密教法具などの経費の出所はどこか。
⑦帰国時に乗船した高階達成(たかしなとおなり)の船は、どんな役目で唐にやってきた船なのか。
⑧入唐の成果はなにか。空海は入唐してなにをわが国にもたらしたか。

  これらの綱目について、先行研究を簡単に見ておきましょう。
①入唐の動機・目的はなにかについては、次の4点が挙げられます。
A『大日経』の疑義をただすため
B 密教受法のため
C 灌腸授法のため
D 密教の師をもとめて
若き頃に、大滝山や室戸岬で行った求聞持法の修行で体感した神秘体験の世界が、いかなる世界なのかを自分なりに納得したいという探求の延長線上にあったと研究者は指摘します。

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室戸岬での修行(弘法大師行状絵詞)

②誰の推挙によって入唐できたのか
 空海は入唐直前までは、私度僧であったことが近年の研究からは明らかにされています。有力な寺院に属していない空海が留学僧に選ばれるためには、強力な推薦者がいたはずであるという推測に基づく問いです。その候補者としては、従来から次の2人が挙げられています。
A 母方の叔父である阿刀大足が侍講(家庭教師)をしていた伊予親王
B 入唐前の師とみなされてきた勤操(ごんぞう)大徳
しかし、史料的にも状況証拠的にも納得できる説明はされていないようです。

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叔父の阿刀大足から儒学を教わる真魚(空海)(弘法大師行状絵詞)

③どんな資格で、空海は入唐したのか
これについては、空海は「私費の留学僧」の立場だったという説があります。しかし、遣唐使の派遣は国の成信をかけた国家の一大事業です。それに一個人として参加することができるとは考えられないというのが研究者の立場のようです。
 空海は20年という期限を勅命で決められた留学僧でした。しかし、それを破って1年半あまりで帰国してしまいます。『請来目録』のなかで、空海は次のように記します。

「欠期ノ罪、死シテ余リアリト雖モ」

  欠期は、朝廷に対する罪で、身勝手に欠期することは「死シテ余リアリ」と認識していたことが分かります。ここからも空海が長期留学生であったことが裏付けられます。

④入唐中に最澄との面識はあったのか
天台宗を開いた最澄と空海が、同じ遣唐使団にいたことはよく知られています。しかし、乗船した船は違います。
空海 遣唐大使の藤原葛野麻呂(かどのまろ)とともに第1船
最澄 副使の石川道添(みちます)とともに第2船
乗船した船は違いますし、その後の経路も空海は福州から上陸して、長安で密教を学修します。一方の最澄は明州から上陸して、天台山に向かい、円・密・禅・戒の四つの教えを学んでいます。したがって、二人が唐で出逢うことはありませんでした。その後の二人の史料からも、入唐時に出逢った記録は見当たりません。当時の最澄は、天皇の保護を受けて、唐の仏教の教えの総てを買付に行く超有名なバイヤーのような存在です。一方の空海は、得度したばかりの無銘の僧です。最澄は、空海のことを鼻にもかけなかったでしょうし、その存在にすら知らなかったと私は考えています。
⑤長安での空海の受け入れ先は、どこでだったのか。
これについては、空海は入唐前から、止住先をきめ約諾をえていたという説があります。それは、現在のインターネットやSNSなどの発達している時代の人達の見方です。日宋貿易が盛んに行われ、禅宗僧侶が多数、入唐していた時代でも、なかなか中国の情勢を知ることはできませんでした。長安の情勢を知り、連絡し合うことができる状態ではありません。

⑥わが国に持ち帰られた経典・マングラ・密教法具などの経費の出所はどこか。

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空海の持ち帰る絵図や曼荼羅を書写する絵師(弘法大師行状絵詞)

空海は多量の経典を書写させ、密教法具を新しく職人に作らせています。これには多額の資金が必要だったはずです。最澄と違って、長期留学生の空海には、そのような資金はなかったはずです。それをどう調達したかは、私にも興味のあるところです。

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持ち帰る法具を作る技術者(左)や経典を書写する僧侶

 従来は、讃岐の佐伯直氏は、斜陽の一族で経済的には豊かでない一族とされてきました。そうだとすれば『御請来目録』に記された膨大な請来品の経費をどうしたのか。誰かの援助なしには考えがたいとする説が出されます。そして、推薦者のとしても名前があがった伊予親王や勤操が、出資者として取り沙汰されてきました。これに対して、研究者は次のような点を指摘します。
A 請来品の多くは、師の恵果和尚からの贈与とみなされること
B 空海の生家・佐伯直氏も瀬戸内海貿易などで経済力を持っていた一族であったこと。
C 母方の阿刀大足も、淀川水系交易などで同等の経済力を持っていたこと
Bについては、空海の父親・田公は無官位ですが、空海の弟や甥たちは、地方役人にしては高い官位を得ています。これは官位を金で買うことで得たものと考えれます。それだけの経済力が、空海の生家・佐伯直氏にはあったと研究者は考えています。
⑦空海を乗せて還った高階達成の船は、どんな役割を持った船だったのか
高木紳元説 新たに即位した順宗へ祝意を表するために派遣された船
武内孝善説 一時的に行方不明になった延暦の遣唐使船の第四船
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空海の乗った遣唐使船(弘法大師行状絵詞)
⑧空海の成果はなにか。入唐してなにをわが国にもたらしたか。
仏教に関しては、最新の仏教、すなわら密教を体系的に持ち帰ったこと、なかでも不空訳の密教経典を最初に持ち帰ったこと
以上8点です。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

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三教指帰註 巻頭 大谷大学博物館2
三教指帰 (大谷大学)

 空海の入唐までの経歴については、『三教指帰』の序文から次のように語られてきました。
「十五歳で上京し、外舅阿刀大足について漢学を学び、十八歳で大学明経科に入学した。ある時、一沙門から虚空蔵求聞持法を授けられ、(中略)大学を辞して山林修行を行った。
延暦十六年(797)『聾瞽指帰』(のち『三教指帰』と改題)を著して(中略)仏教への出家を宣言した」
  しかし、『三教指帰』に対しては、次のような疑義が出されています。
  『三教指帰』には同じ延暦16年(797)12月1日の日付を持つ『聾瞽指帰』がある。『聾瞽指帰』と『三教指帰』とは序文と巻末の「十韻之詩」等がちがっていて、上記のような序文はない。そのためこの序文は、後に付け加えられたものではないか。つまり、この部分は空海が書いたものではない

『三教指帰』が後世の偽作であるとしても、『三教指帰』が引用したとされている『続日本後紀』承和二年(八三五)三月庚午(廿五日)条には、次のように記されています。
庚午。勅遣下二内舍人一人。弔法師喪。并施中喪料上。後太上天皇有二弔書日。眞言洪匠。密教宗師。邦家憑其護持。動植荷其攝念。豈圖崎磁未逼。無常遽侵。仁舟廢棹。弱喪失歸。嗟呼哀哉。禪關僻在。凶聞晩傳。不能使者奔赴相助茶毘。言之爲恨。悵悼曷已。思忖舊窟。悲凉可料。今者遥寄單書弔之。著録弟子。入室桑門。悽愴奈何。兼以達旨。法師者。讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直。年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。十八遊學槐市。時有沙門。呈示虚空藏聞持法。其經説。若人依法。讀此眞言百万遍。乃得一切教法文義諳記。於是信大聖之誠言。望飛焔於鑽燧。攀躋阿波國大瀧之嶽。觀念土左國室戸之崎。幽谷應聲。明星來レ影。自此慧解日新。下筆成文。世傳。三教論。是信宿間所撰也。在於書法。最得其妙。
 與張芝齊名。見稱草聖。年卅一得度。延暦廿三年入唐留學。遇青龍寺惠果和尚。禀學眞言。其宗旨義味莫不該通。遂懷法寳。歸來本朝。啓秘密之門。弘大日之化。天長元年任少僧都。七年轉大僧都。自有終焉之志。隱居紀伊國金剛峯寺。化去之時年六十三。

これは、835年三月丙寅(廿一日)条の空海卒去記事に続く文章で、空海の卒伝が記されています。『続日本後紀』は、空海が亡くなった後34年目に当たる貞観十八年(869)8月に完成しているので、空海伝の中でも最も早く成立したものの一つになります。『御遺告』や『三教指帰』序文への信頼度が低下する中で、その信頼度を挙げてきた史料になるようです。ここに書かれていることを、見ておきましょう。
①「讃岐國多度郡人。俗姓佐伯直」
 姓は佐伯氏ではなく佐伯直であること。空海の本籍地は讃岐国多度郡と記すも、そこが空海の生地であるとは書かれていない。そして、善通寺も屏風ヶ浦も出てこない。
②「年十五就舅從五位下阿刀宿祢大足。讀習文書。
 15歳で阿刀宿祢大足について、儒教などの学問を始めた。阿刀宿祢大足は、空海の母の兄にあたり、皇太子の家庭教師を務めるほどの学者であったようです。空海が多度郡で生まれたとするなら、15歳の時には平城京の阿刀氏の館に上京していたことになります。
③「十八遊學槐市」 18歳で平城京の大学に入学したこと
④その後の虚空蔵求聞持法を受法したこと

しかし、ここには空海の「15歳での入京」や「大学ドロップアウト」については、なにも触れられてはいません。空海が大学を辞して山林修行の一優婆塞として再出発したというのは、『御遺告』と、それに基づいて作成された多くの空海伝によって語られている説です。『御遺告』については、その名の通り空海の遺言と信じられ、かつてはその内容を疑うことが出来ませんでした。しかし、戦後の研究者が明らかにしてきたのは、『御遺告』の中には後世の「作為」があることです。『御遺告』に書かれていることを、一度疑ってみて空海の生涯を見直そうという動きが研究者の中にはあるようです。

空海の出自等について
卒伝に「讃岐國多度郡人。俗世佐伯直」とあるので、讃岐国多度郡出身であり、佐伯直氏であったことが分かります。また『日本三代実録』貞観三年(861)11月11日辛巳条には、「讃岐國多度郡故佐伯直田公」について「田公是大僧正也」あり、父は佐伯直田公であったと記します。
 
 空海の出自について、現在の研究者たちが根本史料とするのは入唐の直前に作成された延暦24年(805)9月11日付太政官符案です。この平安末期の写本が、大和文華館に収蔵されています。内容は、遣唐使の一員として入唐することになった留学僧空海への課税停止を命じた内容です。これを見てみましょう。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符1
        延暦24年9月11日付 太政官符

大政官符 治部省
 留学僧空海 俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上
 佐伯直道長 戸口同姓真魚
右、去る延暦廿二年四月七日出家し入唐す。
□承知すべし。例に□之を度せよ。符到らば奉行せよ.
□五位下□左少弁藤原貞副 左大史正六位上武生宿而真象
延暦廿四年九月十一日
空海(幼名真魚)の戸籍は「讃岐國多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口眞魚」と記します。
①「讃岐國多度郡方田郷」と国郡名に加えて郷名まで記されていますが「方田郷」については「弘田郷」とするのが有力です。
②「戸主正六位上佐伯直道長」
戸主としては佐伯道長とあります。ここから戸主の道長を空海の父と考える説が、後世にはでてきました。「戸主が父」という後世の先入観から、空海の父を道長と誤解したのです。道長は空海の所属する戸の戸主であったことは確かです。でも父ではないと研究者は考えています。
同じようなことは、空海の親族になる最澄についても云えるようです。
最澄の場合、宝亀11年(780)11月10日付の「近江国府牒」や延暦二年(783)正月20日付の「度牒案」に「戸主正八位下三津首淨足戸口」とあります。しかし、伝記類では父が三津首百枝とあります。最澄も戸長と父親は、別人だったことが分かります。

奈良時代の戸籍と戸口のことを見ておきましょう。
 戸とは戸籍の戸ですが、これを今の戸籍のイメージで見ると分からなくなります。先入観という色眼鏡を一旦外す必要があります。日本国憲法の戸籍は、夫婦単位とその間に生まれた子供が一緒に入ったものです。ところが、この時代は一つの戸に、百人もの人数を含んでいました。なぜこんなことになるのかというと、戸籍と班田収授の法に行き着くようです。
 古代国家の成立を「個別人身支配体制の確立」という視点から捉えると、ひとりひとりの人間を国家が戸籍で管理できる体制の出現と規定できます。それでは、今のように家毎に戸籍台帳を作ったのかというとそうではないようです。現在の小家族・核家族ごとに戸籍を作って、その家に支給する口分田を計算するのは煩雑で、非現実的です。そこで考えられたのが、組内とか縁家とかいう呼び方を持つ集団です。地縁や血縁で固まっているような、お互いに顔見知りの集団をまとめて把握しました。その集団に対して戸籍が作られます。そこには血縁関係のある一族が書き上げられ、一つの戸とされました。それから男が何人、女が何人、何才の人間が何人というぐあいに数え上げ、水田を男はどれだけ、女はどれだけというぐあいに戸毎に口分田が支給されます。
 つまり、口分田は家毎ではなく、一戸(一族)毎にまとめて支給されたわけです。全部で何町何段という形でやってきた土地を、自分たちで分けろということです。そして秋が来て税の取り立ての際には、戸単位に徴税します。戸主と呼ばれる戸長がいて、その人が税を集めました。田舎の納税組合の組合長さんみたいなものでしょうか。戸主が、戸全部の税を集めます。納めることのできない人が出たら、戸主が「今回は、わしが代わりに納めておこう」という感じです。役人にしてみれば、とにかく税が納まればいいし、口分田は戸毎に支給するので仲間内(戸内)で分けてくれたらいいんだというわけです。これで入りと出とが決まります。
 もともと生活の単位、地域の人々の結び付きの単位としての戸というのがあって、その戸単位に、土地を分けたり税を集めたりするシステムです。地方役所としては、一族や地域の人を束ねる役の人が欲しいんで、五十戸そろったら、それで一つの郷とします。郷は音では「ごう」ですが、訓では実際に「さと」と読みます。つまりそれが自分の村だということになります。
 こうして、だんだん人が増えてきて、五十戸ぐらいになったら郷が成立します。その郷名は、代表的な一族の名前を付けたり、その土地で昔から呼ばれている地名が付けたりしたようです。
佐伯直氏の戸主の話にもどります。
この時代の戸主とは戸籍の筆頭者で、戸の最年長者がなるのが普通で、戸口の租・庸・調の責任を負いました。それがここでは佐伯直道長です。彼の戸籍には、彼の兄弟や息子たちの家族が含まれ、総数は百人近くの戸口の名前が並ぶことになります。その中の一人に、空海の父である田公もいたと考えられます。つまり、戸主が空海の父親や祖父であったとは限らないのです。道長は、田公の叔父であった可能性もあります。道長が空海の祖父とは云えないことを押さえておきます。
延暦二十四年九月十一日付の大政官符2
延暦24年9月11日付 太政官符

「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、道長は正六位上の位階を持っています。
これは多度郡の郡司を勤めるには充分すぎるほどです。一方、空海の父田公の位階がありません。正史では「無冠」でした。つまり、田公は郡司を勤められる立場にはなかったことになります。とすると、佐伯直氏は郡司を務める家であっても、空海の田公は、その資格はなかったことになります。戸籍上は戸主佐伯道長に属するけれども、その本流ではなかったことになります。
 1 空海系図52jpg
松原弘宣氏は、佐伯氏の系図を作成し次のような見解を述べます、

「讃岐国の佐伯直氏が多度郡の部領氏族であり空海を出した一族であることはよく知られて」おり、「倭胡連公、是豊雄等之別祖也」とある。ここからは田公系列以外の佐伯直氏がその直系と考えられる。さらに、佐伯直氏は国造の系譜をひいていることと、道長が正六位上の位階を有していることから、道長が佐伯氏の本宗で、多度郡の郡領であった可能性が高い。(中略)
以上の検討より、多度郡の佐伯直氏は、系図に示した佐伯直田公の系列以外に、図六のような系譜が想定され、この系譜が佐伯直氏の本宗で、奈良時代における郡領を出していたと考えられるのである。
  以上をまとめておくと
①空海の戸籍からは本貫が「讃岐國多度郡方田郷」と記され、「方田郷」は「弘田郷(善通寺)」とされてきた。
②「戸主正六位上佐伯直道長」とあるので、戸主は道長であることがわかる。しかし、道長が祖父であるかどうかは分かならい。道長は官位を持ち、郡長も務めた一族の長であると考えられる。
③一方、空海の父田公は無位無冠で郡長を務めた人物とはいえない。ここから「田公ー空海」は、佐伯直氏の本家ではなく、傍系のひとつの血筋と考えられる。
④佐伯家の本家は後に空海氏の後継者となった実恵の生家などが考えられる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献    牧伸行 入唐前の空海 
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