阿波からの麁服貢進は、応仁の乱前年から途絶えていました。それが復活するのは20世紀になってからのことです。今回は、復活の経緯を追ってみたいと思います。テキストは「長谷川賢二 阿波忌部の近代 大正天皇即位の大嘗祭をめぐって 講座麻植を学ぶ81P」です。

阿波からの色服貢進が復活するのは、大正4年(1915)の大正の大嘗祭からです。

詳しく解説 中断、朝廷再興、神格化…大嘗祭の長い歴史:朝日新聞デジタル

その経過を見ておきます。色服の「復活」は、天皇家や中央から求められたものではなく、徳島県の「復活運動」によって実現したものでした。明治41年(1908)、皇太子(後の大正天皇)が徳島県へやって来ます。その時に忌部神社宮司の斎藤普春は『阿波志料 践酢大嘗祭御贄考』(私家版、1908年)を著し次のように記します。
「我忌部氏力建国己来二千年間践確大嘗祭ノ御贄ヲ貢進セシ光輝アル歴史ヲ憑拠トシテ」、
「色服及び木綿、そして同書をそろえて皇太子に献上する」
意訳変換しておくと
「わが忌部氏は建国以来二千年間にわたり、大嘗祭の麁服を貢進するという光輝ある歴史を持っている」、
「色服と木綿、そして同書をそろえて皇太子に献上する」
これを県知事に願い出ます。この本の内容は『延喜式』の阿波国からの由加物について解説し、また阿波忌部の色服貢納について歴史的経過をたどりながら詳述したものですが、その願いは末尾にありました。
「践確大嘗祭の御贄を復旧し、併せて忌部氏が偉業を顕彰し給はむこと、必ずしも遠き将来にあらざるべし」

ここには色服貢納の実現が強く打ちだされています。
その支援・協力者が「三木家文書」が伝来する三木家当主・宗治郎でした。

阿波忌部氏 三木宗次郎
三木宗治郎
彼については次のように評されています。

宗治郎は22歳で木頭村役場の助役となり、後に村長へ。そして村長時代には山深かった木頭村から吉野川の町、穴吹の方へ道路を開通させるという大事業を行った。当初は地元の反対にもあったが、それは先見の明もあり、結果的には大正大嘗祭「あらたえ」調進用の紡糸を、その道に初めて入って来た県の自動車によって運ばれることとなった。その後の宗治郎は郡会議員、川島町長を歴任し、地域発展のために汗を描き続けたのである。

宗次郎が運動の中心となり、大正3年(1914)には徳島県知事渡辺勝三郎とともに、即位礼・大嘗祭を所管した大礼使に何度も請願しています。大嘗祭が行われる翌年、三木は『三木由緒』並びに『大嘗祭に阿波忌部奉仕の由来』(いずれも私家版、 1915年)という冊子を作成しています。その中に、三木家とのかかわりの中で色服「復活」を「古典復興」と位置づけ、正当性・正統性を主張し、末尾には次のように記します。

「本年秋冬の交行はせられ給ふ大嘗祭に供神の荒妙御衣は古典を復興し史的縁山ある阿波忌部の後裔をして之を奉仕せしめんことを祈願に禁へさるなり」

意訳変換しておくと
「本年の秋から冬に行われる大嘗祭の荒妙御衣は、古典を復興して史的由縁のある阿波忌部の後裔に麁服奉納をさせていただけることを切に祈願する」

このような誓願運動が功を奏して、大礼使から県知事末松階一郎に対し、「適当な調進者」を指定して阿波国より色服を織上調進するよう通牒が送られてきます。それを受けて徳島県は、次のような通牒を三木宗次郎に伝達しています。

阿波忌部氏 三木宗治郎2
三木宗治郎への麁服調進についての通達

ここには次のように記されています。
麁服(あらたえ)貢進については、別紙の命令に従い行う事 
                  大正4年7月21日 徳島県
三木宗治郎 殿
1 調達する麁服については、麻の晒し布4反 寸法幅9寸 長さ2文9尺(ともに鯨尺)
2 織殿は麻植郡山瀬村大字山崎に新築するので、沐浴し身を清めて行い、9月30日までに織り上げること。
3 これ以外のことについては、徳島県の指示に従うこと
ここからは次のような事が分かります。
大正4年(1915年)7月21日に、徳島県知事より大嘗祭「あらたえ」調進の命令書が三木宗治郎に渡されたこと
②織殿を山崎に設置したのは、徳島県の指示に依ること
これを受けて三木宗治郎を中心に、次のように進められます。
①麻の栽培は、海部郡木頭村北川(那賀郡那賀町木頭)
②7月5日  麻植郡山川町の「山崎忌部神社」境内で、織殿の地鎮祭と起工式が行われた。
③7月11日 山崎村有志(山川町)で忌部崇敬會が設立
④8月初旬  木頭村で麻の刈取り、麻皮剥ぎ、麻晒作業
⑤8月10日 木屋平村「谷口神社」の拝殿で6人の麻績女により紡績作業
⑥9月9日  山崎忌部神社に新築された織殿で「織初式」が挙行。織女には山崎村の6名の少女が選ばれた。
⑦10月15日「織上式」挙行。麁服は唐櫃に納められ、列車で徳島駅へ
⑧徳島市の徳島公園内の千秋閣に安置され、2日間の一般公開
⑨10月18日夜航で上京し、19日に京都の「大宮御所」に供納
⑩11月14日麁服が大嘗宮の悠紀・主基両殿の神座に奉られた
               京都の「大宮御所」に供納される麁服

折り上げが行われた山瀬村では、忌部崇敬会が結成されて、有志によるサポート体制が組織されます。こうして見ると山間部を中心に各地を巻き込んでの「参加型イヴェント」として進められたことが分かります。この作業を通じて、山崎忌部神社は明治時代の忌部神社論争で、忌部神社本社として認められなかった山崎の地が、忌部の聖地として復権を遂げる機会が与えられたことにもなります。

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山崎の忌部神社

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            平成・令和の麁服記念碑が建つ山崎忌部神社

これらの動きを、マスコミは次のように報じます
「古代・中世の由加物や色服の貢納という阿波国が担った役割を、今に復活させる名誉ある大イヴェント」
「県の官民此恩命に対し欣喜して措く所を知らず」
 こうして色服貢納を通じて、皇室と徳島を結ぶ縁、そして阿波忌部を「可視化」する演出が続けられます。これを新聞などのマスコミは、こぞって取り上げます。県民のアイデンテイテイ統合の機能としては、充分な働きをしたことになります。大正天皇の即位は、近代最初の代替わりだったので、このときの大嘗祭は大掛かりで華美な演出がされたようです。柳田國男はこれを次のように記します。

「凡ソ今回ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ経費卜労カヲ給与セラレシヨトハ全ク前代未聞

「阿波忌部と色服(麁服)の復活」の舞台としてふさわしかったとしておきます。

麁服4


大正の大嘗祭への色服調進は、徳島県民に誇りと名誉意識を生み出します。

これが徳島県人の歴史認識に新たな要素を付け加えていくことになります。色服調進が行われた大正4~6年(1915~17)に徳島県知事だった末松階一郎は『御大典記念 阿波藩民政資料』上(徳島県、1916年)の緒言に、次のように記します。
                 徳島県知事だった末松階一郎

「阿波国は上占忌部氏の子孫開拓したる地にして歴史上の起原甚多し」

「阿波国は上古忌部氏の開拓したる地にして歴史上の沿革頗る古く神社仏閣名勝旧跡等の観るべきもの少なからず」

戦前の知事は中央政府が任命権を持ち、末松階一郎も福岡県出身の内務官僚です。ことさらに徳島県に思いがあったわけではなかったかもしれませんが、「御大典」に際会し、色服調進をはじめ、さまざまな文化的行事に関わる中で、自分の業績としての誇りと共に、忌部を強調する歴史観を持つようになったことがうかがえます。大正の大嘗祭は、後世にどんな影響を残したのでしょうか?
大正の大嘗祭の後で、徳島県教育会が作成した『徳島県郷土史』(徳島県教育会、1918)を見ておきましょう。
この書は、小学校の歴史教育のための教師用参考書、中等学校生徒の学習参考書として編纂されたものです。ここでの阿波忌部の位置づけは次のようなものでした。第一章「総説」の冒頭に次のように記します。
「阿波国は、遠く神代の頃より其名の見れたる国にして、神武天皇の御代に、天富命が勅を奉じて 天日鷲命の裔なる忌部の民を率ゐて此国に下り、今の麻植・阿波・美馬三郡を中心として吉野川沿岸の地を拓殖し、麻・穀・粟などを植ゑ給へりと伝ふ。かくて此地方を粟の国といひ、南方は別の一国をなして、長の国」

ここでは阿波忌部の拓殖を「粟の国」の始まりとします。「阿波」と「粟」が通じることから、忌部に阿波史の始まりが見出されています。ただ、『古語拾遺』をはじめとする古代史料には、粟の栽培や「粟の国」についての記述はありません。粟は粟氏の由来です。
第3章「上古の阿波」では忌部について重点的に記されています。
神武天皇の時代のこととして、天日鷲命の子孫である忌部が阿波に入り、「今の麻植・美馬両郡地方を中心とし阿波・板野両郡に及び、吉野川中流沿岸の地を開拓して国産を興せり。阿波の開化が歴史に現はれたるは之を以て始めとす」

忌部神社については「阿波の祖神」とし、粟国造家(粟凡直)を「忌部神の子孫」

ここでは、古代阿波の始まりと発展を忌部に求めた叙述が行われるようになっています。忌部氏が阿波の歴史の原動力とする史観が強調されるようになります。これを研究者は「忌部強調史観」と名付けます。

唐樋に納められた荒妙
                   唐箱に納められた麁服

こうして生まれた「忌部強調史観」は、昭和度大嘗祭(1928年)を経て、より影響力を高めていきます。
太平洋戦争が始まる2年前の昭和14年(1939)に制定された「徳島県民歌」は歌詞には、次のようなフレーズがあります。
陽は匂ふ国 阿波国 
忌部 海人部 名に古る代より
承けつぎてわれらにいたる
この「徳島県民歌」は、郷上史研究者の金澤治が作詞し、国民精神総動員徳島県委員会が制定したものです。ここには「忌部」「海人部」の継承者としての徳島県人という意識が歌われています。先ほど見たように「延喜式』の大嘗祭式の由加物(ゆかもの)の規定に、阿波国では麻殖郡の忌部と那賀郡の潜女(当時は海部部を含む)が、それぞれ貢納品を調達することとされていました。大嘗祭への奉仕を古代以来の徳島県の伝統として誇るという内容になっています。それが当時進められていた「国民精神総動員運動」の一環に沿うものであったと研究者は指摘します。

徳島県の麁服出発式
麁服出発式(令和大嘗祭)
戦後、皇国史観とともに、神話を頼りとした歴史認識は退場し、「忌部強調史観」は衰退します。
『徳島県史』第一巻(1964年)には、次のように記します。
「従来の県史は、いずれも「古語拾遺」を絶対のよりどころとしていた。そのために大きな誤りをおかしていた」

「今まで、 一般に県民から深く信じられていたのは、「忌部氏」のことである。徳島県は神武天皇ころから忌部氏によって開拓せられたものとしていた。(中略)

「古語拾遺」を著したものが、長く後世につたわったがためである。(中略)私たちは、この忌部氏の伝承をそのまま信ずるわけにはいかない」

と批判され、戦前・戦中の歴史観の克服が掲げられています。
ところが、21世紀になって平成・令和と大嘗祭が行われると戦前の忌部強調史観が復活したかのような言説がSNSなどでは見られるようになったと研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「長谷川賢二 阿波忌部の近代 大正天皇即位の大嘗祭をめぐって 講座麻植を学ぶ81P」
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