瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三木家文書

 三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯

中世になると、中央の忌部氏も阿波の忌部氏も姿を消してしまいます。そのため荒妙貢納は、忌部氏以外の人達が担当していたようです。そして、忌部神社がどこにあったかさえも分からなくなります。それが「復活」させたのが三木氏ということになります。それでは、三木氏はどのようにして忌部氏を復活させたのでしょうか。今回は、阿波における「近世の忌部集団」復活のプロセスを見ていくことにします。テキストは、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。

高越山の麓にある麻植郡川田村は、近世から近代にかけて阿波における和紙生産の中心地でした。
『川田邑名跡志」の「川田渓」項には次のように記します。

「川田村二尺長紙を漉キ侍ル事ハ享保五年(1720)子トヤ、弥五右衛門卜云者始テ漉シト也、今ハ数件繁昌シテ阿波尺長ト云国産トハナリ侍り」

意訳変換しておくと
 川田村では二尺の長紙の紙漉きが享保五年(1720)から始まったという。弥五右衛門と云う者が始めて、今は数軒が従事し繁昌している。阿波尺長というブランド品にまで成長した。

ここには川田村が18世紀前期から先進的な和紙生産地になっていたこと、川田村高尾家は弥五右衛門の流れをくむ紙漉人の中心的な家であったことが記されています。

種補忌部神社のある種穂山
種穂(忌部)神社のある種補(たねぼ)山
『川田邑名跡志』巻一 種穂忌部社の由緒書きには次のように記します。
「当社古事伝来 神代昔天日鷲命ヨリ始メテ今ノ神主中川氏、麻穀ヲ製シテ祓清メ年毎二禁庭二献シ奉ル事也、神祇伯白川殿御役所江指上来り候…」、
巻六川井山項に「麻絹名…三木氏荒妙ノ宣旨下ル書アルヲ以考二、昔忌部姓大嘗会ノ年ニアタリ荒
妙ヲ織り進セラルゝノ地ナルヘシ」
意訳変換しておくと
「当社は古事の伝えによると、神代の昔に天日鷲命が始祖で、今の神主である中川氏まで、麻穀をつくって祓清め、年毎に禁庭に奉納してきた。そして京の神祇伯白川殿にも献上してきた。(中略)三木氏に荒妙の奉納を行うように宣旨が下っていることから、忌部氏が大嘗会の年には荒妙を織り、奉納してきたのは、この川田の地に違いない。
この由緒書には高越山鎮座天日鷲(忌部)神を「紙祖」として信仰し、「忌部の頭官衣笠宇内」の末裔であると主張します。ここからは忌部神信仰が川田村の紙漉人集団の中で復活していったことがうかがえます。この背景には、荒妙と紙漉きの類似性があると研究者は推測します。同時に、忌部神の信仰集団は、排他的特権をもつ講組織に組織化されていたようです。『川田邑名跡志』が書かれたのは1780年代ですが、その頃には種野山の忌部氏人が白川家(神祇伯)を通して荒妙を貢進していたという伝承が語られるようになったことを押さえておきます。
 川田村の背後に位置する種野山も18世紀中・後期には和紙生産地として発展していきます。
三ツ木村庄屋を本家の三木家に代わって庄屋職を引き継いだ分家の天田元助(武之丞=三木家の分家)のことが寛政2年(1790)「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、次のように記されています。
尤中村山三ツ木村之義ハ、専紙漉を以助成二仕、女迄モ漉覚へ、家ニ人方紙漉不仕者モ無御座程に、川井之義モ紙漉出候得とも、格植付方義茂少、不出精之姿二付相行着候処、三ツ木之義ハ、庄屋天田元助勝手も相応二仕候者二而、元入銀貸付モ仕、余格之紙ハ相調、紙方二仕候者二而、紙方江指出候故、漉人モ多出来仕、川井之義右様之義モ相調不申、其卜不調法二而、女等ハ右業得仕不中、…木屋平村之義ハ奥山分に御座候得共、土地場広、諸作も生宜故、右仕合相応二相当候者モ相見江候処、是又春冬農業之透ニハ、□紙専漉出、御年貢二上納仕其余ニハ漉不申、

  意訳変換しておくと
中村山の三ツ木村については、紙漉を助成し、女も紙漉きを修得し、家に紙漉をしない者がいないほどにまでなっている。川井村については紙漉を行っているが、植付面積が少なく、出荷量も少ない。それに対して、三ツ木村は、庄屋の天田元助が熱心に指導し、元入銀の貸付も行っている。そのため品質もよく、紙方(紙専売役所)にも評判が高い。そのため販路も開け、紙漉職人も増えた。川井村については、三ツ木村のような状況は見られず、生産も不調で、女たちも紙漉きには参加していない。 … 
木屋平村については、奥山分で土地も広く紙以外の産業が盛んなために、三ツ木村のような紙産業の隆盛は見られない。また冬には雪が積もり春冬は農業ができない。そのため紙漉きは専ら、年貢用で、商品として生産する者はいない。
ここからは次のようなことが分かります。
①18世紀末には三ツ木村が紙産業の中心地となっていたこと
②その背景には、庄屋の天田元助の経営戦略の巧みさがあったこと
③三ツ木村の紙が藩の紙役人に評価されて、大坂でも販路を確保していたこと
 以上からは、天田元助は、和紙生産において三ツ木村を大きく発展させた人物で、藩からも高く評価されていたことが分かります。
 19世紀になると本家の三木恒太(武之丞の子)の子息・多十郎も三ツ木村の余紙(尺長紙)を扱う「余紙調人」を名乗るようになります。近縁に大阪の紙問屋がいるので、種野山奥地における和紙の生産・販売に関して三木家が中心に集団がつくられていたようです。それは川田の紙漉人集団が高越山に結びついていたのと同様に、三木家集団は種穂忌部社と結びつくようになります。

種穂忌部神社
種穂(忌部)神社

明治3年(1870)5月に三木家当主貞太郎(多十郎の子息)は次のように記します。

「私 自往古御衣御殿人与申、歴代天皇太嘗会之御時荒妙之御衣調進罷候、右は天日鷲神社神孫にて官位等蒙御勅許大嘗会之側者、上京仕御用相勤来申候処、中古以来御儀式被□□側より荒妙御衣調進在事、今に中絶罷居申候、御綸旨並太政官符及御下文等数通処持仕居申候、…前□奉申□□□上代御衣御殿人卜被仰付御座候得者、今般御一新二付而者、何卒私共往古之通御衣御殿人二御復古被仰付被為下候者、以後且麻宇且荒妙調進」
  意訳変換しておくと
 私は往古より「御衣御殿人」として、歴代天皇の太嘗会の際には、荒妙の御衣を奉納してきました。これは天日鷲神社の(忌部神)の神孫で官位もいただき、大嘗会の時には、上京し御用を勤めて参りました。しかし、中世以来この御儀式が途絶え、荒妙御衣の奉納も行われなくなっていました。我が家には御綸旨や太政官符・御下文など数通も保存しています。つきましては、古来のしきたり通り御衣御の奉納を申し付けいただけるように願います。今般は王政復古で古来のやり方を取り戻そうとしている御一新の時です。何卒、私共に往古の通りに御衣を貢納することを申しつけ下さい。

ここでは三木家は、古来から忌部神孫として荒妙貢進をおこなってきたが、新政府が引き続きその称号を認めれば今後も麻を献上したいという請願をおこなっています。ここで研究者が注目するのが最初に出てくる「御衣御殿人」です。これは何を指すのでしょうか?
 京の「白川家門人帳」をみると、伯家に入門し許免状を受ける者として、神官以外に百姓・番匠・柚職・木地師・紙漉などがいます。なかでも阿波と摂津では神元講・榊講など集団での入門が多いようです。例えば阿波の場合には、天保3年(1832)5月に「徳嶋神元講発願中手先世話人十二人」として、佐古・矢上・高原・瀬部・六条など城下町と近郊の村の者の名があがっています。この講が何を目的に結成されているのかはよく分かりません。しかし、商人・職人の集団であることは確かなようです。ここからは御衣御殿人集団も三ツ木村の紙漉人と販売に従事する商人で構成され、種穂社のもとに組織されている講集団と研究者は判断します。明治2・3年は神仏分離政策のもとで神社政策が一新されていく時期です。この時期にそれまでの講集団による種穂社を通じての白川伯家への麻・格貢進も終止符がうたれ、新たな対応策が求められるようになります。それが「麻・苧(格)」を直接に天皇家に献上することだったと研究者は考えています。
三木家文書の中の御衣御殿人関係の文書群をまとめたものです。
三木家文書 荒妙御衣奉仕関係文書

この文書群を研究者は、2から22までの上8通と46・47の下2通に分類します。
これらの文書には形式上、次のような問題点があると、研究者は指摘します。
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」
2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわない。
5について差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがある。
11については、下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっていないこと。書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないもので、これも偽書とします。
20の2通の文書はについて、院宣案という端裏書をもっていますが「院宣」の文言はありません。また誰かの令旨や奉書にしても、名前がないのでだれがどこから発したのかも分かりません。さらに、20と21は、筆跡が似ています。
21について、「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、22は「勅使の署名に疑問がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とします。
この六通について、研究者たちは内容についても次のように問題点を指摘します。   
2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとあります。
5・11で四郎男や氏人黒女は御殿人に属する左方長者らが所役をかけるのは不当とします。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。

以上からこの文書群が次の2つを伝えるために作られた偽書であると研究者は指摘します。
A 三木氏が率いる御殿人集団を忌部氏の子孫で古い伝統をもつ集団だとするため
B 13世紀後半から都の忌部長者によって、阿波の忌部氏集団は自立性を保証される特権を持っていたこと

  46の「契約書」を見ておきましょう。これは鎌倉幕府滅亡直前の正慶元年(1332)の文書で、次のように記されています。(意訳))
阿波国御衣御殿人子細事
右の件について衆者が、御代最初御衣殿人(みぞみあらかんど)とされる以上は、御殿人の間で事が起これば、妨害するのではなく、衆中の評定で物事を決めること。例えば、十人の時には、7、8人の賛成で、五人の時には、三人の賛成で決定すること。ただし、盗み、強盗、山賊、海賊、夜討などを起こした際には、互いにかばうことをしてはならない。その他のことについては、相互扶助を旨とすべし。違乱を申すものがあればらは、衆中が集まって評議すること。ついては、一年に2度寄り合いをして評定協議を行うこと。その会合の日時と場所は、2月23日のやまさき(山崎)のいち(市)、9月23日の定期市とする。契約については件の如し
正慶元年(1332)十一月 日
正慶元年(1332)十一月 日
 中橋西信(略押) 北野宗光(略押) 高如安行
 高河原藤次郎大夫 名高河惣五郎大夫 今鞍進十
 藤三郎(略押) 治野法橋(花押) 田方兵衛入道
 赤松藤二郎太夫  永谷吉守  大坂半六
 三木氏村(花押)
 「御衣御殿人」は「みぞみあらかんど」と読み、「御衣」は大嘗祭の色妙服(「荒妙(麁服)御衣」)のことで、これを製作する者が「御殿人」ということになります。ここからは、この文書を作成したのは、中世に阿波忌部の後裔を称した集団と従来はされてきました。しかし、「御衣御殿人」は、近世の紙漉きの生産・販売メンバーの講組織であったことは、先ほど見たとおりです。「御衣御殿人」という言葉は、中世で使われていたかどうか分かりません。
麁服4

13人の連署者のなかに高河原藤次郎大夫と大坂平六がいます。
高河原は吉野川沿いの名東郡の村、大坂は大阪のことでしょう。近世の御殿人集団は、紙漉に従事する者のほかに販売に従事する者をふくんでいました。そのためメンバーの住む場所も、三木村以外に広がっていました。そのメンバーが南北朝期の文書の中に持ち込まれています。つまりこの連署者集団は近世の御殿入集団のメンバー名を、中世の文書の中に挿入していると研究者は考えています。
 さらに内容を見ておきましょう。47の正慶契約状では、集団は毎年二月と九月の二度山崎で市がひらかれるときに寄合を開き評定をおこなうとしています。従来は、南北朝期に忌部一族としての御殿人が山崎の天日鷲神社にあつまり会合を開いていたことをしめすとされてきました。そして、それを取り仕切ったのが高越山の社僧たちで、これによって忌部氏集団は団結を確認していたとされてきました。しかし、よく読むと契約状には山崎に市が立つ日に開かれるとしか書いていません。

P1280383
                                               山崎の忌部神社
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 山崎神社のある山崎村西久保は山間部種野山への入口であるとともに吉野川の船着場にも近い交通の要衝の地です。麻植郡の紙は、紙請取人肝煎の種野山村庄屋明石直衛門の検査を受けることになっていました。近世末にはその紙役所が西久保に置かれており、その役所は20世紀後半まで種野山村旧庄屋私有の家として残っていたようです。
 以上から、契約状にしめされる会合は天日鷲神社とはかかわりなく、西久保の市や紙役所にかかわっての三ツ木村和紙の生産・販売をめぐる会合を反映していたことがうかがえます。つまり、二通の契約状は、近世の紙漉きの講集団の活動を中世の荒妙貢納にまで起源を遡らせようとしたものと研究者は判断します。

三木家文書を、研究者は次の3種類に分類します。 
A 三木家への感状類
B 荒妙御衣奉仕関係文書、
C 種野山関係文書
Aは三木家は種野山の在地領主であったことをしめすために後世に作成された偽書であること。
Bは荒妙貢進にかかわる太政官符など中世からの伝来文書と、阿波で荒妙貢進をおこなう三木氏を中心とする「御殿人」集団にかかわる偽書の混成となっていること。
Cについて在地種野山にかかわる伝来文書が大きな部分しめる。その中に近世に作成された偽書や伝来文書に手直しがされている文書が含まれる。
このうちの伝来文書は、種野山の三木・柏原名という惣村にかかわる中世惣村文書として伝えられてきたものです。天田(三木)家は、この惣村文書群に新規文書の追加や文書の手直しをして文書群の令面的な組みかえをおこなったことになります。その全体が以下の表にしめされた中世三木家文書ということになります。.
三木家文書一覧
最後に再編された中世三木家文書が作られる過程について、まとめておきます。
①峰須賀氏の入部時には天田姓を名乗っていた三木家は、一ツ木村庄屋として存続する
②18世紀中期に三木本家は庄屋役を解任され、分家の天田家が後継者となる
③天田家の元助・惣助・武之丞種野山奥地を新興の和紙生産地として発展さた。
④麻植・美馬郡域で忌部神の「再発見」が人々の歴史意識に大きなうねりを起こした。
⑤庄屋・神官・上層農民層は「地域と家の発見」という動きの中で、系譜造りや由緒書きがが行われるようになった
⑥天田家ももともとあった中世の伝来文書をもとに、新たに偽書を作成した。
⑦その目的は、三木一族が忌部氏の子孫で由緒ある家であることをしめすためであった。
⑧偽書が作られたのは1750~70年代にかけてのことであった。
⑨偽書は、三木家の先祖は南北朝期から戦国期に至る七代にわたる南朝方の在地領主であったことを示すためのものでもあったされた
⑩そのため偽書には、祖谷山高取名主と同じく南朝年号文書を利用された。
再編された中世三木家文書のもう一つの特質は、三木氏を中心に御殿人集団がつくられていたことを強調することです。その背景をまとめておくと
①18世紀になると三ツ木村は天田家を中心に、和紙生産が盛んになり講組織ができた。
②彼らは川田村種穂社の下に「御衣御殿人」として講集団に組織された。
③そして「御殿人集団」は南北朝期にさかのぼる伝統をもち、都の忌部長者の庇護下に荒妙貢進をおこなった集団であると主張するようになった。
④その証拠資料として、新たに偽書が作られた。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)
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 「みつき(三ツ木村)・柏原名主百姓中」宛に出されている「欠年九月二日蜂須賀小六感状」という文書が三木家文書の中にあります。
この文書については、次のように評価されてきました。
①近世初期には蜂須賀小六から三ツ木・柏原の名主・百姓に渡された感状で
②惣村連合としての種野山を構成する惣村の三ツ木柏原名にあてて、天正13年(1585)蜂須賀氏の阿波入部に際して抵抗する勢力の鎮静化の功績を賞したもので
③惣村の惣有文書として位置づけられる。
ここからは、三木家文書の中には、近世初頭の惣村文書があったことが裏付けられます。それが近世半ばになって、多くの偽書が作成されて、その中に紛れ込まされたことになります。それでは、偽書がどんなどんな背景下で、何を目的に作られたのか、それを行った人物は誰なのかを今回は見ていくことにします。テキストは「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。
まず近世に三木家が置かれた状況を、押さえておきます。
天和元年(1681)「乍恐申奉訴訟之事」には、次のように記されています。
「御入国之側、在々為御仕置黒部兵蔵様・久代市兵衛様御廻り被成候節、近村之百姓共右御両人様へしたかい不申候処二私祖父天田兵衛丞。同長左衛門罷出、彼者共しつめ、三つ木村迄御供仕、(中略)
  如先年之刀指申様二被為仰付、井名字之義も御赦免被為成被為下候ハヽ難有可奉存候」
  意訳変換しておくと
(三ツ木村庄屋長左衛門は、先祖の天田兵衛丞が蜂須賀氏の入部の時に挙げた功名について、次のように申し出た。代官の黒部兵蔵様・久代市兵衛様の見廻りの際に、近村の百姓たちが両人様に従わず抵抗しようとしたときに、私の祖父天田兵衛丞と長左衛門は罷り出て、百姓たちを鎮め、三つ木村迄御供仕、…」
という勲功をたてたが、近年無姓になり勲功に見合った待遇をうけていません。ついては、帯刀と天田の姓を名乗ることをお許し願いたい。
代官として黒部・久代の名前が出てくるので、この訴状は最初に見た「天正13年9月の蜂須賀小六の感状」を前提にして書かれているようです。ここからは17世紀末の三木家の置かれた状況として次のような事が分かります。
①戦国末期に三ツ木柏原名にいた三木家の先祖は、三木ではなく天田を名乗っていたこと、
②17世紀後半には無姓であった子孫は、天田姓を名乗ることを申請したこと
③延享4年(1747)に、三ツ木村庄屋長左衛間が庄屋を罷免され、そのあとを分家の元助が引き継ぎ以後惣吉・武之丞と三ツ木村庄屋をつとめたこと。
③については、村内で土地取引に絡む不正事件が起こり、監督責任を問われた三木(天田)家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除,藩主御目見等)を失ったことが他の文書から分かります。その結果、天田(三木)家は経済的にも打撃を受け、またその後に当主の他界・嫡男の早世などが重なり、困難な状況に追い込まれたようです。こうした苦境から三木家を立て直すために、本家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ分家の天田家から恒太を跡取り養子として迎え,庄屋・天田武之丞を後見人としたます。
三ツ木村庄屋を本家に代わって引き継いだ分家の天田家の成長を見ておきましょう。
  阿波では宝永3年(1706)に和紙は藩の専売になります。その中で三ツ木村は和紙生産の模範的な生産地に成長して行きます。寛政2年(1790)「阿波麻植両郡一昨年以来扱手懸御用方申上帳」には、麻植郡山分のうち川井・三ツ木・木屋平などの村々の和紙生産について次のように記します。

尤中村山三ツ木村之義ハ、専紙漉を以助成二仕、女迄モ漉覚へ、家ニ人方紙漉不仕者モ無御座程に、川井之義モ紙漉出候得とも、格植付方義茂少、不出精之姿二付相行着候処、三ツ木之義ハ、庄屋天田元助勝手も相応二仕候者二而、元入銀貸付モ仕、余格之紙ハ相調、紙方二仕候者二而、紙方江指出候故、漉人モ多出来仕、川井之義右様之義モ相調不申、其卜不調法二而、女等ハ右業得仕不中、…木屋平村之義ハ奥山分に御座候得共、土地場広、諸作も生宜故、右仕合相応二相当候者モ相見江候処、是又春冬農業之透ニハ、□紙専漉出、御年貢二上納仕其余ニハ漉不申、

  意訳変換しておくと
中村山の三ツ木村については、紙漉を助成し、女も紙漉きを修得し、家に紙漉をしない者がいないほどにまでなっている。川井村については紙漉を行っているが、植付面積が少なく、出荷量も少ない。それに対して、三ツ木村は、庄屋の天田元助が熱心に指導し、元入銀の貸付も行っている。そのため品質もよく、紙方(紙専売役所)にも評判が高い。そのため販路も開け、紙漉職人も増えた。川井村については、三ツ木村のような状況は見られず、生産も不調で、女たちも紙漉きには参加していない。 … 
木屋平村については、奥山分で土地も広く紙以外の産業が盛んなために、三ツ木村のような紙産業の隆盛は見られない。また冬には雪が積もり春冬は農業ができない。そのため紙漉きは専ら、年貢用で、商品として生産する者はいない。
ここからは次のようなことが分かります。
①18世紀末には三ツ木村が紙産業の中心地となっていたこと
②その背景には、庄屋の天田元助の経営戦略の巧みさがあったこと
③三ツ木村の紙が藩の紙役人に評価されて、大坂でも販路を確保していたこと
 以上からは、天田元助は、和紙生産において三ツ木村を大きく発展させた人物で、経済的指導者であったことが高く評価されています。ちなみにこの天田元助については分家が天田を名乗るのは二代目の惣助からであること、さらに三代目武之水は基助ともいわれていることから、初代の元助ではなく三代目の武之丞基助だと研究者は考えています。三ツ木村は分家三代のもとで和紙生産地として大きく発展をとげ、三代目の武之丞の代には藩役人の注目をも引くようになっていたことを押さえておきます。

藩の信頼を得るようになった天田武之丞は、寛政10年(1798)に「麻殖郡三ツ木村百姓恒太家筋由緒書」を藩に提出します。
一、伊左衛門元祖家筋之儀、忌部佐兵衛尉重村と申、元弘・建武之兵乱之節より宮方エ与力仕、軍忠有之、地領種野山之内三ツ木村近郷領知仕、正平年中之頃より在名ヲ名乗、三木佐兵衛尉重村と申由、元祖より弐代目三木太郎左衛門尉より官途仕、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖之領知相続仕、代々忠切有之候ニ付、綸旨・宣旨被為 下置候、
其後御国御先祖蓬庵様御入国被為 遊候以来、御順国為 御代黒部兵蔵様・久代市兵衛様上山迄御越被成候所、仁宇・大粟之百姓共御両人様エ御随不申、非議之働有之趣ニ付、曾祖父三木兵衛尉倅長左衛門義、小家之者共、又は三ツ木・柏原之百姓共召連、上山村エ走向、非議之族共相鎮、御両人様之御供申、兵衛之宅エ御越被成、夫より川田村迄御見送り申上、西川田村住友五郎右衛門先祖之儀も家筋之者ニ御座候ニ付、彼方ニ而御一宿被成、翌日舟ニ而 御城下迄御見廻り申上候処、段々骨折之段、 御耳ニ相達可申旨被 仰聞、在宿仕候処、御先代様より右様之御書翰被為 仰附候、其節兵衛尉倅長左衛門被為 召出、蓬庵様エ御目見被為 仰附、御意被 仰出候は、先祖より子細有之家筋ニ候得は、自然御陣等之節は、御用可被召出候、依之先祖身居苗字・大小御赦免被為 下置、猶又小家拾八人無役ニ被 仰附、并庄屋役義も相勤可申様被為仰出候、(後略)
  意訳変換しておくと

一、私共の三木家の伊左衛門の家筋の元祖は、忌部佐兵衛尉重村である。元弘・建武の南北朝の兵乱の時には南朝方に仕え、軍忠があり、地領として種野山之内三ツ木村の近郷を領地とした。正平年間から在名三ツ木村から三木佐兵衛尉重村と三木姓を名のるようになった。2代目三木太郎左衛門尉より官途に仕え、太郎左衛門倅帯刀、又左京之進、兵衛尉迄は、先祖の領地を相続した。代々の忠切を認められ、天皇からの綸旨・宣旨もいただいている。
 その後、阿波藩藩祖の蜂須賀小六様が御入国し藩主となられた。国の視察廻遊の際に、代官黒部兵蔵様・久代市兵衛様が三ツ木村に立ち寄られた。その時に、仁宇・大粟の百姓たちが御両人様に従わず、抵抗の構えを見せた。それを見て、曾祖父の三木兵衛尉の倅・長左衛門は、三ツ木・柏原の百姓を引き連れて、上山村へ向かった。そして抵抗する百姓たちを鎮め、御両人様を、兵衛の家にお連れし、川田村まで見送った。西川田村の住友五郎右衛門の先祖も、私共の家筋の者なので、そこに一宿し、翌日に舟で徳島城下まで見送った。(後略)

さらに寛政9年(1797)11月には「麻植郡三ツ木村伊左衛門後家先祖家筋成行書附」を藩に提出します。
この中で零落している三木本家の復興を目指し、自分の子息恒太を養子として送りこんだこと、同時に、三木本家は由緒ある家柄であるので無姓になっているのをあらため、三木姓を名乗ることを認めてほしいと願いでています。武之丞が書いた由緒書と、百年前に庄屋長左衛門が書いている訴状とを比較して見ると、先祖が功績があったとして無姓からの脱却を求めていることでは共通しています。しかし、注意しておきたいのは次のような相違点があることです。
①復活を求めている先祖の姓は天田ではなく三木になっていること。
②家の由緒について、蜂須賀氏入部時点の先祖の功績ににとどまらず、中世にさかのぼる由緒をも強調していること
②について恒太由緒書は、中世にさかのぼる先祖について次のように記します。

一、御綸旨之儀、文応元年・永仁六年・文保二年・延慶二年・嘉暦二年・正慶元年・暦応元年・康永四年・観応二年・応安六年・至徳三年・寛正四年・正平七年方二十二年迄四ヶ度‥永正九年之御綸旨、先祖之者江被下給、数通唯今二捧伝へ居申候、…先祖之儀者、忌部子孫之由二而、忌部宗時入道同佐兵衛尉重村と申候.其後地名ヲ以、三木衛門尉・同左衛門。同九郎兵衛・同帯刀・同太郎左衛門。同左京之進迄七代相続、右之者其後迄、種野山之内領地二而罷在候、…

意訳変換しておくと
一、(各天皇からの)綸旨については、文応元年・永仁六年・文保二年・延慶二年・嘉暦二年・正慶元年・暦応元年・康永四年・観応二年・応安六年・至徳三年・寛正四年・正平七年から22年まで四度‥
永正9年の綸旨は、私の先祖の者が受け、その数通が今も伝えられています。
…私共の先祖については、忌部氏の子孫で、忌部宗時入道・同佐兵衛尉重村と申します。その後は三ツ木村の地名から、三木姓を名乗り、衛門尉・同左衛門。同九郎兵衛・同帯刀・同太郎左衛門。同左京之進まで七代相続しました。これがその後に、種野山の内領地にやってきました。
ここでは、前半では先祖は天皇からの綸旨を給わっているとし、その目録を提示しています。これを  整理したのが表六です。
ゆうっkまkmんう゛ぁkんう゛ぁlkなs

 上表の27・29・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書です。これに対して脇田氏は次のように指摘します。
「この四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要する」

さらに福家氏は、この四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて19通の同種類の南朝年号をもつ御教書(本書)が阿波山間部にもあること、それらが近世になって作成された文書であることを明らかにします。つまり、これらも近世の偽書ということになります。
 32の「後村上天皇論旨」については、研究者は次のように指摘します。

綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はない。百歩譲って、南朝の場合は軍隊動員上ありえたかもしれないとしても、その場合にも相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが普通。三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわない。

48の「後村上天皇論旨」もかって三木家に所蔵されていた綸旨ですが、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまります。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書と研究者は判断します。とすると自分たちの先祖が中世に遡ることを裏付けるために偽書が作られたことになります。
そして後半では、綸旨を与えられている先祖は忌部の子孫であり、南北朝期の忌部重村と鎌倉後期の宗時を結びつけそれを忌部を名乗る初代とし、二代目以降は地名をとって三木を名乗り戦国期に至る七代にわたり種野山内を本拠として続いていたとします。
それを整理したのが表七です。
三木家文書 中世三木家当主一覧
ここに登場する歴代は重村をのぞきすべて後世作成の偽書に基づいてつくられた系譜です。そして、近世初頭には「天田」姓を名乗っていたことは先ほど見たとおりです。

ここで研究者が注目するのは、最初に見た百年前の庄屋長左衛門の訴状とのちがいです。
百年前には蜂須賀小六感状が自分たちの由緒の「根本史料」でした。しかし、これでは無姓からの回復はできませんでした。そこで持ち出したのが中世に遡る「忌部氏子孫の三木氏」という大義名分でした。 これを援用するために持ち出したのが次の編纂物です
①天明8年(1788)の序文を持つ地元の麻植郡で作られた『川田邑名跡志』
②天明2年(1782)の序文をもち徳島城下町で作られている『阿府志』
ここには再編された中世三木家文書が引用されています。これに加えて、新たに作られた偽書で再編された中世三木家文書群と三木家由緒が用意されます。これらを整えたのは、庄屋天田家三代のもとでのことと研究者は考えています。1790年代の武之丞作成由緒書も、それらの偽書を裏付け史料として書かれています。ここでは、天田家本家(三木家)由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠として用意されたものであることを押さえておきます。

新たに作られた「再編中世三木家文書」と三木家由緒は、どんな特質をもつのでしょうか?
①南朝関係・武家関係の三木家への感状を新たに作成したこと
②それにもとづいて蜂須賀氏入部以前の三木(天田)家の先祖は種野山三木名を拠点にしていた在地領主であったことを強調していること
この背景には、次のような動きがありました。
A 1740年代に、美馬郡を中心とした阿波国地誌『阿陽記』が編集された
B 1744年に、祖谷山政所喜多源内が祖谷山と喜多家の歴史を記した延享本『祖谷山蕉記』を編纂
C 1759年に、祖谷山の高取名主八家が自らの家の歴史(由緒)を集成した宝暦本『祖谷山奮記』作成
こうして見ると、18世紀半ばに「地域の歴史」ブームが訪れ、各地域の歴史書が編纂されたことが分かります。ある意味で、これは郷土史ブームの到来を招きます。例えばCの宝暦本では、祖谷山高取名主八家のうち阿佐家と久保家(阿佐家分家)の先祖は平氏の落人間脇中納言国盛の子孫で、有瀬家は阿波守護小笠原氏のもとでの領主であったと記します。そして残りの喜多・小野寺・菅生・西山・徳善諸家の先祖は、南北朝時代に活動する在地領主だとします。それを裏づけるために新たに偽書として作られたのが南北朝年号文書です。これらの文書の背後には、高取名上を中核とした名主(惣村を基盤にする在地小領主)連合による祖谷山支配こそが祖谷山の本来の姿であるという歴史意識がありました。「望ましい姿(当為願望)」を裏づけるために、新たに偽書が作られる時代がやってきたのです。

 近世半ばになると各村には、古文書・古文献だけでなく棟札・鰐口・石仏・供養塔等の金石文をも調査・学習し、それらに基づく由緒書作成を通じて自前の村落史像を作りあげる村人がいたことが各地から報告されています。その結果、つぎのようなことがもたらされたと研究者は指摘します。
村の歴史を書くことによって村役人層は組織化された村落を時間的にも空間的にも把握することになった」。
「それまで文字で示されることがなかった村の歴史が文字によって明確化され,記憶されることになった」
「地域の歴史が作成者の人文学的教養によって位置づけられるようになった」
ここでは、文字に置き換えられた歴史が,従来の口頭で伝承される「歴史」を塗り替え,外部の価値観に影響されていく時代がやってきたことを押さえておきます。
以上を整理して起きます。
三木家文書 三木家の近世


①1585年に蜂須賀小六の入部の際に、抵抗する山岳武士の中で天田(三木)氏は、鎮圧側に加担し、感状を得た。
②1681年に、藩へ天田氏の姓を名乗ることを申請するも不認可。ここからは、三木氏がそれまでは、姓をもっていなかったか、何らかの処罰で姓を失ったことがうかがえる。
③1747年 庄屋の地位を罷免され、替わって分家(天田家)が庄屋継承。本家は衰退化
④ この時期から郷土史ブームが沸き起こり、編纂物が出版。背後に偽書の作成流行
⑤1790年 天田家は和紙生産のパイオニアとして経済的発展。
⑥1798年 天田家は本家を三木姓として復興することを藩に申請
ここからは、③から⑥の間に、三木家文書の中に偽書が紛れ込まされたことが見えて来ます。

Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

 延喜式内社をめぐる争論などでは、自分の住む所にある神社を有利にするための偽文書作成が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されてきたと研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」
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阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係


 三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
         三木家文書への偽書混入

以前に「明治の忌部大社所在説をめぐる争論に大きな影響を与えた三木家文書には近世に作られた偽書がまぎれこんでいた」という文章をアップしました。これに対して、どのように偽書が作られたのか具体的に説明した欲しいというリクエストがありました。そこで今回は、三木文書の中の偽書がどんな方法で作られたのが「偽書作成手法」を見ていくことにします。テキストは「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)」です。
戦前の皇国史観のもとでは、天皇とそれに尽くした忠臣を描くことが歴史叙述の大きな役割でした。
そのため南北朝時代の郷土史では、楠木正成に代表されるように誰が南朝方についた忠臣で、どんな活躍をしたのかが歴史探究の課題となります。そして、阿波の麻植郡種野山や美馬郡祖谷山などでは、次の史料と由緒が大きな影響力を持っていました。
A 種野山の三木文書 
 古代以来、忌部氏の子孫である種野山の住人が大嘗会に際して荒妙貢進をおこなってきたこと
B 種野山や祖谷山の南朝年号がある中世文書
 ここから阿波の山岳武士は、南朝方について活動していたことが分かる
 これらは戦後になっても市町村史などの郷土史を書く際には「根本史料」とされ、これに基づいて阿波の中世史は書かれてきました。そのため次のような歪みが見られるようになったと研究者は指摘します。
C 南北朝期の歴史を南朝方在地領主の活動としてのみとりあげること
D 忌部神信仰が古代から近世まで切れ目なく続くものとしてとりあげられること
今回取り上げるのは種野山とよばれていた麻植郡山間部の三ツ木村(三木村)の三木家に中世文書として伝わる三木家文書です。この文書群は近年まで、文献学的な考証や、その真偽が検討がされないまま「中世文書=根本史料」としてあつかわれてきました。まず、三木家文書への疑問の眼がどのように生まれだしてきたのかを「研究史」として見ておきましょう。

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三木家

①1982年 福尾猛市郎氏が写真と対照させながら三木家全文書の釈文作成
この過程で数点の文書について様式からみて偽作文書の可能性があることを指摘。文書そのものへの批判的検討が必要とします。
②1989年に脇田晴子氏は、この文書群を下記の3群に分類します。
A 種野山の在地関係の文書
B 大嘗会荒妙の御衣奉仕関係の文書
C 支配層からの感状類  イ南朝関係  口細川氏などの武家関係
その上で、「疑問文書」が少なからずあることを指摘します。脇田氏の分析で、三木文書の特質・構成や、偽書がどのように位置づけられているのかが分かるようになります。
③2000年に、福家清司氏は阿波種野山・祖谷山・土佐大忍庄の南朝年号文書について比較検討し、次のような事を明らかにします。
A 為仲奉書など奉書関係は近世に作成された偽書であること、
B 三木家文書中にも為仲奉書など近世に作られた南朝年号文書(偽書)があること
これらの指摘を踏まえた上で。研究者は次のような検証の必要性を唱えます。
①どの部分が中世からの伝来文書であり、どの部分が近世作成の偽書であるのか
②三木家はいつ頃、どのような背景下で伝来文書に後世作成文書をつけ加えたのか
③またその目的は何だったのか
まず、中世三木家文書49通の一覧表を押さえておきます。
三木家文書一覧

三木家への感状類を見ていくことにします。感状文書は南朝関係と武家関係の2つに分類できます。このうち南朝関係を整理したのが上の表二になります。この内で、後世の偽書と研究者が考えているものを挙げていきます。
27・29・30・33は南朝高官の時有・為仲が奉じている奉書です。これに対して脇田氏は次のように指摘します。
「この四通について、誰の仰せかわからず花押も似ており筆跡も類似するなど問題があり検討を要する」

さらに福家氏は、この四通をふくめ祖谷山名主家などに所蔵されている合わせて19通の同種類の南朝年号をもつ御教書(本書)が阿波山間部にもあること、それらが近世になって作成された文書であることを明らかにします。つまり、これらも近世の偽書ということになります。
32の「後村上天皇論旨」については、次のように指摘します。

綸旨が武士にたいして直接下されることは通常はない。百歩譲って、南朝の場合は軍隊動員上ありえたかもしれないとしても、その場合にも相手の身分の低さをおもんばかって充所をかかず文書中に充てた人の名を書きこむのが普通。三木氏クラスの地侍にたいし「三木太郎左衛門尉」の充所は丁寧にすぎるし、また書き止めの「悉以」にたいしてもこの充所はそぐわない。

48の「後村上天皇論旨」もかって三木家に所蔵されていた綸旨ですが、形式は32と同じで脇田氏の指摘がそのままあてはまります。つまり32・48の二通の綸旨も後世作成の文書と研究者は判断します。

武家関係の感状を整理したのが表三です。 .
三木家文書 武家関係

この内の35・39・40については、どれも花押がありますが本物とは思われないと研究者は指摘します。具体的に
35については末尾の「右馬頭」の署名の直下に花押がなく、少し位置がずれていること。
39・40については「官途」が唐突にでてくる点
26は冒頭が「宛行 種野山国衛分三木内在家弐家之事」としながら結びは「所補任之状如件」となっていて、整合性がなくおかしな文書であること
36は「依時之忠、可知行」という知行宛行状としてはあいまいな表現で、正当な伝来文書とできないこと。
そうすると感状類については、武家関係もすべて後世の偽書ということになります。
 次に荒妙御衣奉仕関係文書群については、研究者は次のように2つに分類します。
A 阿波国司に荒妙貢進をおこなうことを命じた文書群
B 荒妙貢進をおこなう御衣御殿人集団についての文書群
これを整理したのが下の表4です。

三木家文書 麁服関係

これについての各研究者の意見は次の通りです。
①福尾氏は24以外は問題はなし。
②脇田氏も全体が文面に難点はなく正文の写しとします。
③福尾氏は「日宣案に二人を連署叙任するのは異例」と疑問投げかけます
④これに対して脇田氏は連署で叙任される例もあり正当な文書とします。
そうすると荒妙貢納の文書群は全体として中世からの伝来文書群で「本物」とみてよいことになります。
次に「御衣御殿人」関係文書を見ていくことにします。

三木家文書 荒妙御衣奉仕関係文書

各研究者の評価は以下の通りです。
2と3は中央の斎部氏長者下文で、2は「書直しがあるなど粗雑な書であることが気がかりである」
3は「前号文書2と同一筆者で粗雑な書風である」
2・3ともに書式として年月日のつぎに宛名はいらないし、3は奉書でないのに奉者があり書式がととのわない。
5について差出人は「神祇少輔」とあるが神祇官の次官は「神祇少副」であり、偽文書の疑いがあるとします。
11については、下文ならば書きだしの「下」の下は宛名になっていなければならないし、また書き止めは「以下」または「可令存知之状如件」であるはずがいづれもそうなっていないこと。書きだしが下文で書き止めが奉書という首尾一貫しないもので、これも偽書とします。

三木家文書 偽文書

21について、福尾氏は「種野山の代官が書いたものと思われる」とし、22は「勅使の署名に疑問がある。種野山の代官重秀が書いたものであろう」とします。
この六通について、研究者たちは内容についても次のように指摘します。   
2・3で御殿人所役をつとめる宗末入道・宗時入道は左右長者にしたがわなくてよいとあります。
5・11で四郎男や氏人黒女は御殿人に属する左方長者らが所役をかけるのは不当とします。
21と22も御殿人三木右近丞にたいし長者らは濫妨をしてはならないとします。
こうしてみると1260年代から1330年代の大嘗祭があった年ごとに阿波忌部長者にたいし御殿人集団を妨害してはならないとする同一内容の命令がくりかえし下されていることになります。これは、不自然で作為的です。この六通は形式面からも内容面からも後世の偽書と研究者は判断します。

20の2通の文書はについて、院宣案という端裏書をもっていますが「院宣」の文言はありません。また誰かの令旨や奉書にしても、名前がないのでだれがどこから発したのかも分かりません。さらに、20と21は、筆跡が似ています。
46と47は、13名の御殿人が連署署名している南北朝期の契約状として著名なものです。
しかし、これは原文書ではありません。近代の写しです。検討してみると、連署者13名の中心となっているのは三木氏村のようです。その名前は文政10年(1837)三木恒大作成の南北朝期から恒太に至る三木家代々を記した『三木氏累祖連綿記』に南北朝期の先祖の一人「三木右近允氏村」としてあらわれるのが初出です。連綿記の三木氏代々のうち中世の部分は表二・表三として整理した後世作成文書を編集しなおして作られています。氏村もこの際に、新たに付け加えられた名前です。これは氏村以外の他の人名もそうです。以上から、この二通の契約状も後世の偽書と研究者は判断します。

 種野山関係文書は、中世種野山にかかわる文書群で20通におよぶものです。
15の冒頭は「麻殖山内三木村番頭百姓等訴申条々下知事」と記します。これについて脇田氏は条々の内容からみて種野山全体が訴えたものとみるのが妥当で、冒頭は「麻殖山番頭百姓等訴申条々」とあるべきものとする。また次の末尾にも問題があると指摘します。15の最大の問題は、代官沙弥の花押だと研究者は指摘します。この花押は16の三木名番頭職補任状の御代官願仏の花押と同じなのです。その上16については下文の場合「下  宛名」となるべき所が「下 三木名番頭職事」となっています。宛名がなく不自然です。具体的には15の冒頭・末尾には作為が加えられており、また16は後世の偽書と研究者は判断します。
41の末尾は、次のように記されています。
…大略注進如件
嘉暦二年三月八日       
沙弥弥意(在起請)
忌部行正(在起請)
忌部吉久(在起請)
但此事者、貞和三年亥歳五月四日政所ョリ……
この文書には種野山全体の在家員数などを書かれていて、15とともに中世種野山の中心的史料です。ところが末尾の三名の署名の位置に不自然さがあります。三名の署名は年月の行とつぎの「但此事…」と記された行との間の余白に押し込められて書かれています。しかも、字体も不揃いです。これは、作成は嘉暦年間の文書ですが、三名の署名は後世に書き加えたためと研究者は推測します。つまり本文は本物、3人の氏名については加筆ということになります。
28・31について、31は友近の譲状で末尾はつぎのようになっています。
正平廿二年二月十二日
九郎兵衛のゆつりしやう
友近(花押)
これも末尾の宛所が不自然だと研究者は指摘します。それは「正平片二年二月十二日」と「九郎兵衛のゆつりしやう」の二行が不自然なのです。後者の「九郎兵衛」は本文と関係がなく、前者の年月日とともに余白に押し込む形で記入されています。同様なことは28にも云えます。28は「とう内」の麦借用状で在地文書ですが末尾の「正平八年十二(月脱)十一日癸巳年とう内(略押)」については、墨の色が本文と違います。字の配置からみても余白部分へ、後世に書き加えられたものと研究者は考えています。そうすると、31・28は本来の文書に正平年号が後世になって書きこまれたと研究者は判断します。
4・6・7の三通は、どれもいづれも下文の形式です。そうだとすると、「下  宛名」となるべきです。ところがすべてに宛名がありません。これでは下文の意味をなしません。
1と4は、正意宛行状案です。1については、出された状況が分からず疑問ありとします。
これら四通に登場する安村(4・6・7)と正意(1・4)について、安村はニロの5に忌部安村として登場する人物です。正意も安村と一緒に登場するので、1・4・6・7の四通も後世に作成された偽書と研究者は判断します。
34では、義興が植渕帯刀尉盛村に名東庄一四条郷領家職を譲るとしています。しかし、名東庄一四条郷はあったかどうか分からない郷名です。さらに「盛村」は表二33「為仲奉南朝感状」の宛先として出てくる三木帯刀丞と同一人物のようです。三木家への感状類と一組になるものとして後世に作成された偽書と研究者は判断します。
 このように中世の者とされてきた三木家文書には、近世になってあらたに書かれた偽書や、年号や名前を後世に加筆したものが数多く含まれていると研究者は指摘します。それでは、何の目的で偽書が書かれたのでしょうか? それを次回は見ていくことにします。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 ―南朝年号文書と御殿人集団 四国中世史研究NO14(2017年)
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阿波からの麁服貢進は、応仁の乱前年から途絶えていました。それが復活するのは20世紀になってからのことです。今回は、復活の経緯を追ってみたいと思います。テキストは「長谷川賢二 阿波忌部の近代 大正天皇即位の大嘗祭をめぐって 講座麻植を学ぶ81P」です。

阿波からの色服貢進が復活するのは、大正4年(1915)の大正の大嘗祭からです。

詳しく解説 中断、朝廷再興、神格化…大嘗祭の長い歴史:朝日新聞デジタル

その経過を見ておきます。色服の「復活」は、天皇家や中央から求められたものではなく、徳島県の「復活運動」によって実現したものでした。明治41年(1908)、皇太子(後の大正天皇)が徳島県へやって来ます。その時に忌部神社宮司の斎藤普春は『阿波志料 践酢大嘗祭御贄考』(私家版、1908年)を著し次のように記します。
「我忌部氏力建国己来二千年間践確大嘗祭ノ御贄ヲ貢進セシ光輝アル歴史ヲ憑拠トシテ」、
「色服及び木綿、そして同書をそろえて皇太子に献上する」
意訳変換しておくと
「わが忌部氏は建国以来二千年間にわたり、大嘗祭の麁服を貢進するという光輝ある歴史を持っている」、
「色服と木綿、そして同書をそろえて皇太子に献上する」
これを県知事に願い出ます。この本の内容は『延喜式』の阿波国からの由加物について解説し、また阿波忌部の色服貢納について歴史的経過をたどりながら詳述したものですが、その願いは末尾にありました。
「践確大嘗祭の御贄を復旧し、併せて忌部氏が偉業を顕彰し給はむこと、必ずしも遠き将来にあらざるべし」

ここには色服貢納の実現が強く打ちだされています。
その支援・協力者が「三木家文書」が伝来する三木家当主・宗治郎でした。

阿波忌部氏 三木宗次郎
三木宗治郎
彼については次のように評されています。

宗治郎は22歳で木頭村役場の助役となり、後に村長へ。そして村長時代には山深かった木頭村から吉野川の町、穴吹の方へ道路を開通させるという大事業を行った。当初は地元の反対にもあったが、それは先見の明もあり、結果的には大正大嘗祭「あらたえ」調進用の紡糸を、その道に初めて入って来た県の自動車によって運ばれることとなった。その後の宗治郎は郡会議員、川島町長を歴任し、地域発展のために汗を描き続けたのである。

宗次郎が運動の中心となり、大正3年(1914)には徳島県知事渡辺勝三郎とともに、即位礼・大嘗祭を所管した大礼使に何度も請願しています。大嘗祭が行われる翌年、三木は『三木由緒』並びに『大嘗祭に阿波忌部奉仕の由来』(いずれも私家版、 1915年)という冊子を作成しています。その中に、三木家とのかかわりの中で色服「復活」を「古典復興」と位置づけ、正当性・正統性を主張し、末尾には次のように記します。

「本年秋冬の交行はせられ給ふ大嘗祭に供神の荒妙御衣は古典を復興し史的縁山ある阿波忌部の後裔をして之を奉仕せしめんことを祈願に禁へさるなり」

意訳変換しておくと
「本年の秋から冬に行われる大嘗祭の荒妙御衣は、古典を復興して史的由縁のある阿波忌部の後裔に麁服奉納をさせていただけることを切に祈願する」

このような誓願運動が功を奏して、大礼使から県知事末松階一郎に対し、「適当な調進者」を指定して阿波国より色服を織上調進するよう通牒が送られてきます。それを受けて徳島県は、次のような通牒を三木宗次郎に伝達しています。

阿波忌部氏 三木宗治郎2
三木宗治郎への麁服調進についての通達

ここには次のように記されています。
麁服(あらたえ)貢進については、別紙の命令に従い行う事 
                  大正4年7月21日 徳島県
三木宗治郎 殿
1 調達する麁服については、麻の晒し布4反 寸法幅9寸 長さ2文9尺(ともに鯨尺)
2 織殿は麻植郡山瀬村大字山崎に新築するので、沐浴し身を清めて行い、9月30日までに織り上げること。
3 これ以外のことについては、徳島県の指示に従うこと
ここからは次のような事が分かります。
大正4年(1915年)7月21日に、徳島県知事より大嘗祭「あらたえ」調進の命令書が三木宗治郎に渡されたこと
②織殿を山崎に設置したのは、徳島県の指示に依ること
これを受けて三木宗治郎を中心に、次のように進められます。
①麻の栽培は、海部郡木頭村北川(那賀郡那賀町木頭)
②7月5日  麻植郡山川町の「山崎忌部神社」境内で、織殿の地鎮祭と起工式が行われた。
③7月11日 山崎村有志(山川町)で忌部崇敬會が設立
④8月初旬  木頭村で麻の刈取り、麻皮剥ぎ、麻晒作業
⑤8月10日 木屋平村「谷口神社」の拝殿で6人の麻績女により紡績作業
⑥9月9日  山崎忌部神社に新築された織殿で「織初式」が挙行。織女には山崎村の6名の少女が選ばれた。
⑦10月15日「織上式」挙行。麁服は唐櫃に納められ、列車で徳島駅へ
⑧徳島市の徳島公園内の千秋閣に安置され、2日間の一般公開
⑨10月18日夜航で上京し、19日に京都の「大宮御所」に供納
⑩11月14日麁服が大嘗宮の悠紀・主基両殿の神座に奉られた
               京都の「大宮御所」に供納される麁服

折り上げが行われた山瀬村では、忌部崇敬会が結成されて、有志によるサポート体制が組織されます。こうして見ると山間部を中心に各地を巻き込んでの「参加型イヴェント」として進められたことが分かります。この作業を通じて、山崎忌部神社は明治時代の忌部神社論争で、忌部神社本社として認められなかった山崎の地が、忌部の聖地として復権を遂げる機会が与えられたことにもなります。

P1280383
山崎の忌部神社

P1280391

 
P1280392
            平成・令和の麁服記念碑が建つ山崎忌部神社

これらの動きを、マスコミは次のように報じます
「古代・中世の由加物や色服の貢納という阿波国が担った役割を、今に復活させる名誉ある大イヴェント」
「県の官民此恩命に対し欣喜して措く所を知らず」
 こうして色服貢納を通じて、皇室と徳島を結ぶ縁、そして阿波忌部を「可視化」する演出が続けられます。これを新聞などのマスコミは、こぞって取り上げます。県民のアイデンテイテイ統合の機能としては、充分な働きをしたことになります。大正天皇の即位は、近代最初の代替わりだったので、このときの大嘗祭は大掛かりで華美な演出がされたようです。柳田國男はこれを次のように記します。

「凡ソ今回ノ大嘗祭ノ如ク莫大ノ経費卜労カヲ給与セラレシヨトハ全ク前代未聞

「阿波忌部と色服(麁服)の復活」の舞台としてふさわしかったとしておきます。

麁服4


大正の大嘗祭への色服調進は、徳島県民に誇りと名誉意識を生み出します。

これが徳島県人の歴史認識に新たな要素を付け加えていくことになります。色服調進が行われた大正4~6年(1915~17)に徳島県知事だった末松階一郎は『御大典記念 阿波藩民政資料』上(徳島県、1916年)の緒言に、次のように記します。
                 徳島県知事だった末松階一郎

「阿波国は上占忌部氏の子孫開拓したる地にして歴史上の起原甚多し」

「阿波国は上古忌部氏の開拓したる地にして歴史上の沿革頗る古く神社仏閣名勝旧跡等の観るべきもの少なからず」

戦前の知事は中央政府が任命権を持ち、末松階一郎も福岡県出身の内務官僚です。ことさらに徳島県に思いがあったわけではなかったかもしれませんが、「御大典」に際会し、色服調進をはじめ、さまざまな文化的行事に関わる中で、自分の業績としての誇りと共に、忌部を強調する歴史観を持つようになったことがうかがえます。大正の大嘗祭は、後世にどんな影響を残したのでしょうか?
大正の大嘗祭の後で、徳島県教育会が作成した『徳島県郷土史』(徳島県教育会、1918)を見ておきましょう。
この書は、小学校の歴史教育のための教師用参考書、中等学校生徒の学習参考書として編纂されたものです。ここでの阿波忌部の位置づけは次のようなものでした。第一章「総説」の冒頭に次のように記します。
「阿波国は、遠く神代の頃より其名の見れたる国にして、神武天皇の御代に、天富命が勅を奉じて 天日鷲命の裔なる忌部の民を率ゐて此国に下り、今の麻植・阿波・美馬三郡を中心として吉野川沿岸の地を拓殖し、麻・穀・粟などを植ゑ給へりと伝ふ。かくて此地方を粟の国といひ、南方は別の一国をなして、長の国」

ここでは阿波忌部の拓殖を「粟の国」の始まりとします。「阿波」と「粟」が通じることから、忌部に阿波史の始まりが見出されています。ただ、『古語拾遺』をはじめとする古代史料には、粟の栽培や「粟の国」についての記述はありません。粟は粟氏の由来です。
第3章「上古の阿波」では忌部について重点的に記されています。
神武天皇の時代のこととして、天日鷲命の子孫である忌部が阿波に入り、「今の麻植・美馬両郡地方を中心とし阿波・板野両郡に及び、吉野川中流沿岸の地を開拓して国産を興せり。阿波の開化が歴史に現はれたるは之を以て始めとす」

忌部神社については「阿波の祖神」とし、粟国造家(粟凡直)を「忌部神の子孫」

ここでは、古代阿波の始まりと発展を忌部に求めた叙述が行われるようになっています。忌部氏が阿波の歴史の原動力とする史観が強調されるようになります。これを研究者は「忌部強調史観」と名付けます。

唐樋に納められた荒妙
                   唐箱に納められた麁服

こうして生まれた「忌部強調史観」は、昭和度大嘗祭(1928年)を経て、より影響力を高めていきます。
太平洋戦争が始まる2年前の昭和14年(1939)に制定された「徳島県民歌」は歌詞には、次のようなフレーズがあります。
陽は匂ふ国 阿波国 
忌部 海人部 名に古る代より
承けつぎてわれらにいたる
この「徳島県民歌」は、郷上史研究者の金澤治が作詞し、国民精神総動員徳島県委員会が制定したものです。ここには「忌部」「海人部」の継承者としての徳島県人という意識が歌われています。先ほど見たように「延喜式』の大嘗祭式の由加物(ゆかもの)の規定に、阿波国では麻殖郡の忌部と那賀郡の潜女(当時は海部部を含む)が、それぞれ貢納品を調達することとされていました。大嘗祭への奉仕を古代以来の徳島県の伝統として誇るという内容になっています。それが当時進められていた「国民精神総動員運動」の一環に沿うものであったと研究者は指摘します。

徳島県の麁服出発式
麁服出発式(令和大嘗祭)
戦後、皇国史観とともに、神話を頼りとした歴史認識は退場し、「忌部強調史観」は衰退します。
『徳島県史』第一巻(1964年)には、次のように記します。
「従来の県史は、いずれも「古語拾遺」を絶対のよりどころとしていた。そのために大きな誤りをおかしていた」

「今まで、 一般に県民から深く信じられていたのは、「忌部氏」のことである。徳島県は神武天皇ころから忌部氏によって開拓せられたものとしていた。(中略)

「古語拾遺」を著したものが、長く後世につたわったがためである。(中略)私たちは、この忌部氏の伝承をそのまま信ずるわけにはいかない」

と批判され、戦前・戦中の歴史観の克服が掲げられています。
ところが、21世紀になって平成・令和と大嘗祭が行われると戦前の忌部強調史観が復活したかのような言説がSNSなどでは見られるようになったと研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 「長谷川賢二 阿波忌部の近代 大正天皇即位の大嘗祭をめぐって 講座麻植を学ぶ81P」
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阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係

 前回は、中世の阿波忌部氏と大嘗祭との関係を見てきました。阿波忌部氏が姿を消すと、その氏神であった忌部神社も、鎌倉時代までには姿を消してしまったようです。そして、江戸時代になると、それがどこにあったのか分からなくなってしまいます。今回は、どのようにして忌部神社が復活したのか、それがどのような争論を生み出したのかを見ていくことにします。テキストは「丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ」です。

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種穂忌部神社(山川町川田)

 姿を消していた忌部神社が最初に復活するのは、山川町の川田です。
江戸時代前期に高越寺が忌部神(天日鷲神)を奉るようになったのです。高越山は、霊山として中世以来の修験の山として信仰され、高越寺を中心とする社僧(修験者)たちが先達に率いられた登山参拝者を多数集めるようになっていたことは以前にお話ししました。こうした中で周辺の神社も、高越寺の修験者たちが管理運営していたようです。そんな中で17世紀末の元禄年間に高越寺の住職が、忌部神(天日鷲神)を祀るようになります。

天日鷲神

『日本書紀』には、天日鷲神について次のように記されています。

神代上第七段 一書第三
 粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿
意訳変換しておくと
 粟国(阿波国)の忌部の遠祖である天日鷲が
木綿ゆうを作った。

ここには天の岩戸にまつわる話のなかで、天日鷲が木綿(ゆう)を供えたとあります。「ゆう」とは、綿花から作られる木綿ではありません。木綿が登場するのは江戸時代になってからで、「ゆう」とはちがいます。ここに出てくる木綿(ゆう)は、楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維から織られた布のことです。そして木綿(ゆう)は神事に用いられ重要な役割を果たす布でもあるようです。
 天日鷲神は、天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされています。その子孫は荒妙や麻の栽培を仕事とし、麻植神(おえのかみ)とも呼ばれました。ここからは忌部神には2つの顔があったことが分かります。
A 忌部神=阿波忌部氏の祖先神
B 天日鷲神=木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされる麻植神 

高越山の麓の川田は、近世になって和紙の生産地となり、18世紀初めには急速に発展をとげます。
16世紀末になり、細川氏・三好氏が減亡し、近世大名として蜂須賀氏が阿波に入ってきます。そんな中で平野部における藍生産はさらに発展していくことはよく知られています。同じように、近世麻植郡山間部では吉野川沿いの川田を中心に和紙生産が大きく発展します。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。こうして、和紙の生産・集積・輸送など和紙産業の拠点が形成されていきます。
阿波藩の和紙専売制の管理下では、次のような役割分担がありました。
A 貞光は三野郡山間部の和紙集積地
B 山崎は種子山など麻植群山間部の和紙集積地
集められた和紙に藩は税金をかけて出荷販売しました。この2カ所は美馬郡・麻植郡の和紙の集散地でした。そして川田は、和紙生産の先進地です。山崎や貞光は、この時期に和紙の集積地として、賑わうようになっていたことを押さえておきます。
この経済的な活況と高越山で天日鷲神(忌部神)が復活するのが同時期であることに研究者が注目します。
『古語拾遺』の中には、和紙の起源を天日鷲神に求める説が記されていました。また、木綿(ゆう)は「楮(こうぞ)の木の皮」から作られるとされていました。楮は和紙の原料でもありました。ここからは、高越寺の住職が川田の和紙生産者を、新たに高越山の信者として組織するために紙祖としての天日鷲神を導入したのではないかと研究者は推測します。和紙産業のギルド神として、天日鷲神を新たにお迎えしたとしておきます。これを高越寺の社僧(修験者・山伏)たちが広めていきます。こうして天日鷲神への信仰は和紙生産・販売の中心地であった麻値郡・美馬郡に急速に広がっていきます。すると、天日鷲神(忌部神)を祭る神社の本社を名乗る寺社がいくつもで出来ます。こうして、古代の忌部神社が、どこにあったのかをめぐる紛争が起きます。1740年頃には、次の三社が忌部本社であると主張するようになります。
A 美馬郡貞光
B 麻植郡川田
C 麻植郡山崎

吉野川沿いの美馬郡貞光や麻植郡山崎(吉野川市山川町山崎)は、生産された和紙の集積地として発展します。川田で忌部神社本社が復活されると「忌部神社は我社なり」と、貞光と山崎の神社も名乗りを上げます。研究者が注目するのは、争論に参加していた貞光・川田・山崎の三カ所は和紙の生産・販売の拠点でもあったことです。そこには、紙祖としての天日鷲神の本社(忌部神社)の地位を獲得することで和紙の生産・販売をめぐっての優位性を確保しようとする思惑があったと研究者は指摘します。
 三社の争いに対して、阿波藩は川田の種穂社が本社と認め、貞光と山崎の神主は追放ということで決着させます。こうして政治的には川田の種穂神社が藩から忌部神社のお墨付きをもらったことになります。
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                 種穂忌部神社(山川町川田)
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                  種穂忌部神社の説明版
(もともとは多那穂大権現と称したと記されるので山伏によって開かれた神社だったことがうかがえる。)
 この論争の中で、各神社は自己の主帳を正当化するために根拠のない伝承を持ちだしたり、古代文献をねじまげる解釈をしたり、さらには裏づけになる遺品を偽造したりして、事実とはかけはなれた「由緒書」の世界を作りあげています。自分たちにとって都合のよい「あるべき歴史」の作りあげです。近世後半になると、プロの偽書制作者が現れ、依頼者の求めに応じて偽書が大量に作成される時代になっていたは以前に「椿井文書」でお話ししました。
18世紀という時代の麻値郡について、まとめておきます。
①和紙の生産地としては川田が中心であったが、山間部の三木が新興の生産地として発展していた。
②さらに山崎や美馬郡の貞光も和紙集散地として発展していた。
③これらの和紙産業の地は、和紙の先祖神である忌部神信仰を持つようになり、和紙の生産・販売をめぐっての地域間の対立が生まれていた
④地域間の経済対立を背景に、「あるべき地域の歴史」をめぐって忌部神社本社論争を生みだした。

この時の江戸時代後半(18世紀末)の忌部本社の所在地論争の争点を見ておきましょう。
A 永井精古の西麻植村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)説
古代阿波国全体の郡郷配置を、最初に論じた上で、忌部神社は、古代の麻植郡忌部郷の平野部にあったことを主張。その上に立って、忌部郷は麻植郡東部の平野地帯だったとし、西麻値村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)に比定
B 多田直清の鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)説
吉野川下流域南岸の麻植郡・名西郡の古代以来の景観復元を現地調査を行った上で、忌部郷と忌部神社を麻植郡東部の平野地帯に求め、鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)に比定。
A永井・B多田の説の前提条件としては
①古代の郷は律令国家が班田制を実施している水田が拡がる平野部にあったこと
②水田のない山間部には、古代の郷は置かれなかったこと、忌部神社も山間部にはないこと
これが忌部神社を平野地帯の鴨島地域に比定した前提条件でした。
C 野口年長の山川町山崎説
 野口年長は古代からさまざまな文献を駆使して阿波の歴史を広い側面からとらえようとした人です。 その見地から、古代忌部郷が山崎にあったとして神社も山川町山崎に比定。山の世界が発達するのは中世以後のことで、古代の忌部郷をみる際には山の世界を組み入れないこと。
野口の論は、忌部問題について押さえなければならない条件を明確にしていること、その条件も現在の歴史学の水準からみても妥当なものだと研究者は評します。しかし、文献史料がなく、位置確定にはいたらず、古代忌部社をめぐっての結論は出ませんでした。

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山崎の忌部神社
明治維新前後に忌部神社論争に関わったのが、久富憲明と生島繁高です。
D 久富の山崎神社説 
 古代忌部郷を麻植郡山間部(種野山)を中心に広がっている郷とし、古代忌部神社を山崎の忌部社に比定。
E 生島の川田種穂神社説 
 古代忌部郷を種野山を中心に比定し、古代忌部社は川田の種穂神社に比定
江戸時代の3人が比定地を平野部にしていたのに、明治のふたりは古代忌部郷を山間部に比定しています。それまでの古代忌部郷・忌部神社は平野部に限定して比定しなければならないという大原則を無視する論が明治になると出されるようになったのはどうしてなのでしょうか?                  

その背景には、種野山の三木家文書の強い影響があったようです。 
種野山は、水田はありませんが多くの山の産物を生み出す社会で、京都の冷泉家が地頭職を持ち、貴重な史料が数多く残されていました。その意味では、三木文書は中世の種野山という山の世界のあり方をしめす、全国的にみてもすぐれた中世文書と研究者は評します。しかし、この文書には18世紀後半になって三木家の先祖が南北朝期にさかのぼる古代忌部氏の系譜を引く在地領主であったことをしめすために偽作文書が混入されていると研究者は指摘します。その経緯を見ておきます。
18世紀後半になると麻植山間部の三木村が川田を追う新興の和紙生産地として成長をとげるようになります。
三木村は中世には三木名と呼ばれ、その中心に座るのが三木家でした。ところが忌部神の本社をめぐる争いがあった頃には、三木本家は衰退していたようです。それに代わって18世紀後半には分家が三代にわたって三木村庄屋役に就きます。この間に三木村は和紙の生産地として大きな発展をとげていきます。さらに三木家の分家は明治維新まで和紙の生産・販売を手がけ、販路を大阪までに拡げ大きな富を築き、本家の三木家を凌駕していくようになります。
寛政期(18世紀末)の文書に、三木家の由緒を紹介したものがあります。

三木家文書表紙

当時、三木家本家は当主と嫡男が他界したため、後継者を親戚の天田家から養子として迎えることになりました。この際に、三木家の女性たちと天田家当主・天田武之丞が、三木家の再興のために由緒に関する複数の文書を作成し、郡代等への提出書類の根拠(説明資料)としています。当時の三木家本家はたいへん苦しい状況にありました。かつては「阿波忌部」の末裔として、また「阿波山岳武士」として威風を誇っていました。ところが18世紀の終わりごろに土地取引に絡む不正事件の監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除、藩主御目見等)を失います。その結果、三木家は経済的にも打撃を受け、それに当主の他界・嫡男の早世などが重なり、苦しい状況に追い込まれます。この苦境から三木家を立て直すために、三木家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ天田家から恒太を跡取り養子として迎え、庄屋・天田武之丞を後見人とします。三木家由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠でした。そこで三木村の庄屋武之丞は本家の三木家救済のために、それまであった文書に新規偽作文書をつけ加えて文書の再編成します。そのねらいは、三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明することにありました。こうして、三木家が阿波忌部氏の末裔であることを示す書類が何通か紛れ込んだと研究者は指摘します。その例を見ておきましょう。まず本物とされる太政官符です。

この文書は従来は、次のように説明されてきました。
三木家麁服古文書で最も古いものは、1260年の亀山天皇大嘗祭である。麁服(あらたえ)は、南北朝動乱で調進が中断されるまで、代替りの都度神祇官より太政官へ宣旨し、太政官より太政官符・官宣旨が阿波国司に対して発せられ、国司はそれぞれの写しをもって殿人三木忌部氏に麁服を依頼した。

ここで確認しておきたいのは、これらの文書は本物ではなく京から阿波国司に送られてきた太政官符の写しであることです。


三木文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符


               三木家文書 文保二年(1218)
九月廿六日の大政官符
大嘗祭における荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央から従五位下の斎部(忌部)宿禰親能と神部二人が派遣されています。しかし、阿波忌部氏か荒妙を貢進したことは書かれていません。また、三木氏もここには出てきません。ここからは分かるのは、次の4点です。
①大嘗祭の麁服(荒妙)貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②中央の斎部(忌部)氏が使いとして登場しているので。この時期まで存続していたこと
③ここには、阿波忌部氏も三木氏も登場しないこと
④この太政官符の写しが残っているのは三木家であること。(阿波忌部氏の本貫は平地部の忌部郷)
逆に見ると平安時代末までには、阿波忌部と麁服貢進の関係は失われていたことになります。それに代わって作成を担当するようになったのが三木氏ということです。だから太政官符が三木家に大切に保管されてきたのです。そして、この文書からは「三木氏=阿波忌部氏の末裔」であることは証明できません。そこで新たに作られたのが次の文書群だと研究者は指摘します。

三木家文書 偽文書
            近世に作成され偽書とされる中世文書
く正慶元年(1332年)にいただいた太政官符案。光厳天皇の大嘗会に関するもの
 下す   勅使御殿人三木右近胤
右 彼の右近胤においては、往古より勅使御殿人として課役を致す之上は、向後更に長老等の濫妨を致すべからざる之由、御勅使殿仰せ下され被候也。乃て執建件のごとし、
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
  勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
意訳変換しておくと
  勅使御殿人の三木右近胤に次の通り下す
右近胤は、古くより勅使御殿人として課役(麁服貢進)を果たしてきた。今後も長老等がその職務の遂行を妨害しないように、(京の)御勅使殿より仰せ下された。執建件のごとし。
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
 勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
ここには勅使神祇権少副である中央の斎部(忌部)氏勅使御殿人」の三木右近胤(三木家)に対して課役(麁服)を貢納するために身分保障していることが記されています。先ほど見たように太政官符には三木氏は登場しません。これがあって、はじめて「三木氏=斎部氏の子孫」が証明されます。しかし、この文書には次のような疑問点があるようです。
①「勅使御殿人」「長老」と云う用語は中世に使われたものではなく、近世の和紙生産者ギルドの長として使われたものであること
②14世紀初めには、「勅使神祇権少副の斎部」氏は姿を消していたこと
③書いているのが地元の「御代官」で、それを認めているのが中央の忌部氏というおかしな形式で、
太政官符よりは、格がはるかに下がること。
④三木家の職務遂行を妨害する勢力があったこと

三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
偽書が作成される経緯については、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017)」に詳しく記されていますので、そちらを御覧ください。

江戸時代には家の先祖や村の歴史を美化するために由緒書などを偽作することは当たり前のように行われていました。
Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

延喜式内社をめぐる争論などでは、自社を有利にするための偽文書が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されるようになっていきます。久富・生島の論も、その延長線上にあると研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①古代の麁服(あらたえ)貢納は、律令行政システムの「神祇官(中央の忌部(斎部)氏 → 阿波国衙 → 麻植郡衙 → 阿波忌部」という指示ルートで動いていた
②しかし、中世になると中央忌部氏が衰退して新たに神祇官に就いた氏族は、阿波に直接使者を派遣して麁服を確保するようになる。
③その際に、麁服制作に当たったのは古代の阿波忌部氏ではなく、山間部の種野山の三木家であった
④三木家にはこの時の太政官符が残されているが、これは三木家が阿波忌部氏の子孫であることを証明するものではなかった
⑤そこで江戸時代後半に三木家が危機的な状況に陥ったのを救うために、三木家が古代忌部氏の末裔であることを阿波藩に討ったえでることになった時に、「三木家=古代忌部氏の末裔」を証明するいくつかの偽文書が紛れ込まされた。
⑥それが後に、「三木家=古代忌部氏」となり一般に拡がった。
阿波忌部氏年表

明治維新を迎えると、明治政府は復古政策のもと『延喜式』に記された古代式内社の復活を目指します。
その結果、阿波でもどこにあるかわからなくなっていた式内社忌部神社の所在地決定が求められます。それに対応することになったのが名東県の役人としてに出仕していた小杉𥁕邨です。彼は式内忌部社を麻植郡山崎の忌部社に決定します。これに対して美馬郡貞光から異論がだされ論争となります。
 これは十八世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃です。藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返し」で、再燃するという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。結果は山崎は敗れ、貞光に忌部社は移座されることになります。ところがその後、貞光側の内紛もあり、結局は「中立地帯」の徳島市に移座されることになります。
この論争で小杉は、三木家文書の忌部関係文書を根拠にして、古代忌部郷を種野山という山間部を中心に広がるとしました。つまり「忌部神社=山崎説」です。政治的な決着では、この説は否定されたのですが学問的には、この説はその後の研究者達に受けいれられていき、定説として定着します。これに対して、幕末の野口の原則であった「忌部郷・忌部神社は条里制が施行されていた平地にある」を無視したもので、「学問的には成りたたない論になっている」と研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017年
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前回は古代の阿波忌部氏についてつぎのようにまとめました。
①阿波忌部氏は、忌部郷だけでなく麻植郡一体に勢力を持っていた
②阿波忌部氏の有力者は、忌部山型ドームを石室に持つ古墳を造営するなど一族意識を持っていた。
③阿波忌部は、大嘗祭に際して中央忌部氏を通じて「荒妙(あらたえ)服」を納めた
④しかし、具体的な内容について記した史料はほどんどなく不明な点が多い。
⑤11世紀になると律令体制が弛緩して、地方の政治体制も不安定になって、朝廷にも力がなくな り大嘗祭も簡略化されていった。
⑥同時に、中央の斎部(忌部)氏や阿波忌部氏も衰退し、その足取りさえつかめなくなる
今回は中世の阿波忌部氏について、次の2点に焦点を当てて見ていきたいと思います。
A「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか
B「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのか
テキストは「福家 清司   中世の忌部氏について 講座麻植を学ぶ35P」です。


最初に研究者が確認するのは「阿波忌部氏」と「中央の斎部氏」は別物だということです。
忌部氏の職務分担表

前回もお話ししたように地方の斎部氏は、もともとは中央の斎部氏の部民的な存在でした。それが職務を通じて結びつきを強め「擬似的血縁関係」を形成して一族意識を持つようになります。両者は、もともとは別物だったのです。それを裏付けるのが、中央「忌部氏」が、延暦22年(803)、貞観11年(869)の2度に渡って朝廷に提出している「忌部」から「斎部」への改姓申請です。「斎部氏」は中央豪族の「忌部氏」です。これに対して地方忌部は「斎部」には改姓していません。つまり「阿波忌部」を「斎部」と表記するのは適当でないと研究者は指摘します。
  従来の中世の阿波忌部氏像を見ていくことにします。
徳島県教育委員会編「阿波の中世文書」(1981年)「三木家文書」の解説には、次のように記されています。
「京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことです。」

「①斎部氏長者の場合は中央氏族の長が地方氏族を統属させていた古代の遺制を南北朝時代にまで残すものであり、神事にかかわることとはいえ、まことに驚嘆すべきことです。」

「袖判化押の主=①斎部氏長者」と見て、この解説は書かれたようです。しかし、この袖判の主を斎部氏長者とする根拠史料はありませんし、斎部氏に氏長者がいたことを示す史料もないと研究者は指摘します。それでは鎌倉時代末期の中央の斎部(忌部)氏の実態はどうだったのでしょうか? それを次の史料で見ておきましょう。
【史料A】『万一記」正安三年(1301)九月十一日条(『古事類苑』官位部六「神祗官 中臣忌部」)

今日被発遣伊勢幣之間也、神祗権大副忌部親顕息女、昨日他界、働親顕父子三人軽服、今一人触機、此外京都無忌部氏之由、伯卿中之、因姦種々沙汰、可被延引之由有沙汰、爰忌部氏沙汰出之由親顕申之、的所被発遣也

  意訳変換しておくと
今日、伊勢斎宮関連の神事に神祗権大副忌部親顕息女が出発する予定であったが、昨日他界した。そのため親顕父子三人は喪に服し、今一人も差し障りがある。この外に京都に忌部氏はいない。伯卿はこのことを伝えて、種々沙汰によって、伊勢への出発を延期するように願い出た。

【史料B】『伯家部類』正安二年八月(『古事類苑』官位部六「神祗官 神部」)

左右京職使正六位上斎部宿而重□、五畿内使正六位上斎部宿而重延、東海道使従五位下斎部宿而□□、北陸道使正六位上斎部宿爾親有、山陽道使従五位下斎部宿爾親経、

史料Aからは、京都市中の斎部氏一族は4人しかいなかったこと、そのため伊勢斎宮関連の神事派遣などの公務にも影響が生じていたことが分かります。同じ年の史料Bには、合計五名の斎部氏の名前が挙がっています。この内、一人目と二人目の「五畿内使正六位上斎部宿而重延」は同一人物のようです。そうすると京都にいた斎部氏の実数は4名になります。これが当時の斎部氏の成人男子全員と研究者は考えています。そうだとすれば先ほど見た「京都の斎部氏には氏姓制時代のままに氏上が氏長ないし氏長者として置かれ、全忌部氏族に対してある種の支配力を行使していたことは驚くべきことです。」という記述は見直しが必要となります。
室町時代の大嘗祭の記録は『親長卿御記』「文正元年自九月大嘗会雑事」の中に膨大な記録として残されています。ところがここには斎部氏の活動は、ほとんど出てきません。そして後世の史料12には次のように記されています。
【史料C】『大嘗会儀式具釈』六(『古事類苑』官位部六「神砥官忌部代」  元文二年(一七三八)

忌部ハ、中臣卜同ジク、神祗官ノ伴部ニテ、幣畠ヲ斑チ、其外ノ神事ニモ関カリ勤ムル者ナリ、必ズ斎部氏ナルガ故二、中古二至リテハ、其職ノ沙汰二及バズ、只斎部氏ノ人ナレバ、忌部ノ役二充用ユ、今ノ世ハ用ユベキ斎部氏ナキガ故二、他氏ノ人ヲ以テ代トス、当日忌部代トシテ出仕セルハ、宣條、神祗大祐紀春清両人ナリ、

  意訳変換しておくと
忌部(斎部)氏は、中臣氏と同じように神祗官の職務を担当し、その外にも神事にも関わっていた氏族であった。ところが中世になると、その職務を担当することがなくなった。今は斎部氏がいなくなったので、他氏がこれに換わって職務を担当している。大嘗祭の当日に忌部代として出仕するのは、宣條、神祗大祐紀春清の両人である

ここからは当時の人には斎部氏が、次のように認識されていたことが分かります。
①忌部氏はもともとは神祇官として朝廷の神事に関わっていた
②それが中世になると神祗官僚としての出番がなくなり姿を消した。
③元文2年(1738)には「斎部氏」絶えて、他の氏族が神事を担当していた
ここでは近世半ば、京都の斎部氏は神事にも関わることなく、氏族としても姿を消していたことを押さえておきます。

鎌倉末期の正慶元年(1322)の大嘗祭を見ておきましょう。
  【史料D】『宮主秘事口伝』正慶元年(1322)。
荒妙和妙御服者、兼日官方催促也、笈正慶大祀之時、号三河国無沙汰不備進、只竹籠許置案、希代之珍事、臨期之違乱也、
ここには「号三河国無沙汰不備進、只竹籠許置案三河国」とあり、三河からの和妙を調達することできなくて、竹籠を置いて儀式を行ったとあります。このように武士の世の中になると朝廷も経済的に行き詰まり、かつての盛時の規模では実施できなくなったことがうかがえます。また、地方からの由加物なども調進ができなくなり、簡素化が進んだことがうかがえます。これは阿波からの荒妙についても同じなようです。

【史料D】『大嘗会本義』元禄2年(1689)(神道大系編纂会編『神道大系二十巻朝儀 祭祀五 践碓大嘗祭』).
凡大嘗会ハ百四代後土御門院文正元年十一月十三日ノ時被行、其後中絶スル事二百廿三年二及ベリ。

「その後、中絶スルこと223年に及んだ」とあるので、大嘗祭が文正元年(1466)の後土御門天皇から貞享四年(1687)の東山天皇まで200年以上も中断していたことが分かります。当然、阿波からの麁服(荒妙)の貢納もこの期間はなかったことになります。

それでは中世の阿波忌部氏の置かれた状況は、どうだったのでしょうか?
まず『仲資王記』の建久五年(1194)五月十二日条裏書き」を見ておきましょう。この史料は明治2年(1870)成立の生島繁高『忌部社考略記』にも引用されているので、古くから知られている史料のようです。。
【史料E】『仲資王記』の建久五年(1194)五月十二日条裏書き」

阿波国忌部久家、還補氏長者下文依官人致貞申状、今日成下了、件忌部者、大祀之時、織進荒妙御衣之氏云々、致貞、度々為彼使存子細是由

意訳変換しておくと

阿波国の忌部久家を、氏長者に任ずるようにとの推薦依頼が神祇官の致貞から出されたので、これを認める認可状を下す。この件については忌部は、大祀(大嘗祭)の時に、荒妙御衣を貢納する氏族であり、神祇官の致貞は、度々阿波に使者を派遣しており、阿波の事情に詳しい。

この史料からは、次のような情報が読み取れます。
①阿波忌部久家が「氏長者」に選任されたこと
②氏長者は官人の申状に基づいて、神祗伯が推薦したこと
③推薦した神祇官は阿波の事情に精通していたこと
氏長者に任命された忌部久家は、阿波忌部氏の統率者だったと研究者は考えています。この忌部久家が氏長者に選任されるためには、官人致貞の推挙に基づいて神祗伯による補任という手続きが必要であったことが分かります。このような手続きを経て、中央の神祗伯が阿波忌部氏の氏長者の選任権を掌握していたことになります。ここからは次のようなシステム変化が見えてきます。
A 古代の律令体制下 阿波忌部 → 麻植郡衙 → 阿波国衙 → 神祇官
B 中世鎌倉時代初期 「氏人」である阿波忌部氏→ 氏長者 → 神祇官人 →神祇官(伯) 

中央の神祗伯が神祗官人や氏長者を介して、「氏人」である阿波忌部氏を統率下に置くシステムができあがっていたことを押さえておきます。同時に神祇官の役職が忌部(忌部)氏ではなくなっています。
同時に鎌倉時代末期までは、阿波忌部氏の痕跡は追いかけられますが、それ以後は史料的には追いかけられないことを押さえておきます。そして、阿波忌部氏と忌部神社の行方は分からなくなるようです。
私は山川町に「山川町忌部」という地名が残っているので、ここが古代の忌部郷だと思っていましたが、どうもそうではないようです。
忌部荘は江戸時代の編纂物である『応仁武鑑』に「忌部庄三百町」と見えるのが唯一の記録です。
 これを受けて沖野氏は忌部荘について、かつて次のように記していました。

「種野山国衛・川島保・高越寺荘及び美馬郡の穴吹荘・八田荘を含んだ広域荘園で、これはもともと忌部神社の社領であったものが、そのまま忌部荘と総称して持賢の私領としたものであるまいか。その理由は次の通り。
美馬郡の穴吹荘・八田荘はこれを麻植領といって、忌部神社の宮司麻植氏の私領として伝領していたことは天文二十一年の三好康長感状に明らか。周辺はすべて皇室領であるから、忌部神社の社領は早くから皇室領に移されていて、忌部神社の宮司の私領のみが美馬郡の穴吹荘・八田荘として伝領せられたと考えられよう。」

ここでは「麻植や美馬などを含む広域荘園があり、それが忌部神社の社領であった」とされています。これが検討されることなく、かつては一般に拡がっていました。しかし、現在の研究者はこれを「今日の荘園研究に照らすと納得し難いもの」と評します。「山川町忌部」は、忌部氏の拠点(本貫地)とされてきましたが、現在の荘園研究の成果の上では、そこには忌部氏の活動は見えてこないことを押さえておきます。
次に三木家文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符を見ておきましょう。

「太政官符 阿波国司…件人差荒妙御衣使発遣如件…」

まず私が疑問に思うのは、太政官符がどうして三木家に残っているのかと云うことです。官府は、中央から国衙に下された命令書です。それが三木家にあるのは不自然です。これは後ほど考えることにして先に進みます。大嘗祭の荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央の忌部氏も派遣されています。ここからは、三木家が荒妙を制作したことは窺えますが、阿波忌部氏が荒妙を貢進したとは書かれていません。三木家と阿波忌部氏をつなぐ線がありません。つまり、阿波忌部氏の姿が見えてこないのです。先ほど見た『仲資王記』建久五年(1194)の記事とあわせ考えると、次のような事が見えて来ます
①大嘗祭の荒妙貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②阿波忌部氏がこの時期まで存続していた可能性があること
③しかし、この時期には阿波忌部は荒妙貢進は行っていなかったこと、
④替わって、三木家が荒妙を制作していたこと
つまり、平安時代末までには阿波忌部と荒妙貢進の関係は失われていたと研究者は考えています。鎌倉末期まではかろうじて続いていた阿波と大嘗祭とのかかわりも、南北朝期以後には大嘗祭時代が行われなくなるので、阿波からの荒妙奉納も姿を消します。
   次に三木氏が担当する以前の麻殖郡現地の氏長者と氏人との関係を見ておきましょう。
【史料F】
左辯官下 阿波国
 応早令織進荒妙御衣事
右権大納言藤原朝臣実泰宣、奉勅大嘗会主基所料、宜仰彼国、依例以忌部氏人、令織備附神祗官之使、早以進上者、国宜承知、依宣行之、会期有限、不得延怠、
永仁六年九月 日   右大史中原朝臣在判
右少排藤原朝臣在判
意訳変換しておくと
阿波の辯官に命じる
 荒妙御衣の作成について、右権大納言の藤原朝臣実泰が命じることは、大嘗会の主基の担当は、先例に従って忌部氏人に命じる、ついては神祗官の使者を阿波に派遣して、この決定を伝えること。会期有限、不得延怠、
永仁六年九月 日   右大史中原朝臣在判
右少排藤原朝臣在判
この文書は、永仁6年(1298)の後伏見天皇の大嘗祭に際に、阿波国に対して「忌部氏人」に、荒妙を織りまいらせしむことを命じた太政官の宣旨の写しです。正式の文書は、在京の阿波守家で保管され、その写しが「阿波国衙 → 麻殖郡衛 → 守護小笠原氏の代官」というルートで交付され、それらの写本が氏長者・氏人(三木家?)にもたらされたと研究者は考えています。三木家文書として今日まで伝来した官宣旨や太政官符は、どれもそうした写本のようです。内容的には朝廷の伝統的様式を踏まえたものであり、十分に信頼できるものと研究者は評します。
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三木家の麁服
今回はこのくらいにして、最初のテーマに従ってまとめておきます。
A「阿波忌部氏」が古代から中世まで一貫して続いていたのかどうか
B「阿波忌部氏の氏役」とされる大嘗祭の荒妙織進についても不変であったのか

①古代の大嘗祭の麁服(荒妙)貢納は「阿波忌部氏 → 麻植郡司 → 阿波国氏 → 神祇官」という律令システムで運ばれていた。
②そんな中で、律令体制の弛緩と共に上記システムは機能しなくなり、中央斎部も阿波忌部も衰退した。
③斎部(忌部)氏が衰退後に神祇官となり大嘗祭を運営することになった氏族は、新たなシステムを作り出す必要性に立たされた。
④規模を縮小し続けられた大嘗祭では、神祇官は阿波に使者を派遣し、麁服制作集団を確保した。
⑤新たに麁服を作ることにになった集団は、古代の忌部氏とはなんら関係のない集団であった。
⑤それも15世紀半ばに大嘗祭自体が中断すると、阿波と麁服制作との関係は途絶えた。
⑥江戸時代になって大嘗祭が復活したときには、麁服を作る集団もなく阿波には制作依頼も来なかった。
⑦こうして、忌部氏とその氏寺である忌部神社の痕跡すら消えて、それがどこだったのかも分からなくなった。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
福家 清司   中世の忌部氏について 講座麻植を学ぶ
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