阿波忌部氏と麁服
阿波忌部氏と大嘗祭の麁服(荒妙)との関係

 前回は、中世の阿波忌部氏と大嘗祭との関係を見てきました。阿波忌部氏が姿を消すと、その氏神であった忌部神社も、鎌倉時代までには姿を消してしまったようです。そして、江戸時代になると、それがどこにあったのか分からなくなってしまいます。今回は、どのようにして忌部神社が復活したのか、それがどのような争論を生み出したのかを見ていくことにします。テキストは「丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ」です。

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種穂忌部神社(山川町川田)

 姿を消していた忌部神社が最初に復活するのは、山川町の川田です。
江戸時代前期に高越寺が忌部神(天日鷲神)を奉るようになったのです。高越山は、霊山として中世以来の修験の山として信仰され、高越寺を中心とする社僧(修験者)たちが先達に率いられた登山参拝者を多数集めるようになっていたことは以前にお話ししました。こうした中で周辺の神社も、高越寺の修験者たちが管理運営していたようです。そんな中で17世紀末の元禄年間に高越寺の住職が、忌部神(天日鷲神)を祀るようになります。

天日鷲神

『日本書紀』には、天日鷲神について次のように記されています。

神代上第七段 一書第三
 粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿
意訳変換しておくと
 粟国(阿波国)の忌部の遠祖である天日鷲が
木綿ゆうを作った。

ここには天の岩戸にまつわる話のなかで、天日鷲が木綿(ゆう)を供えたとあります。「ゆう」とは、綿花から作られる木綿ではありません。木綿が登場するのは江戸時代になってからで、「ゆう」とはちがいます。ここに出てくる木綿(ゆう)は、楮の木の皮を剥いで蒸した後に、水にさらして白色にした繊維から織られた布のことです。そして木綿(ゆう)は神事に用いられ重要な役割を果たす布でもあるようです。
 天日鷲神は、天照大神が天の岩屋戸に隠れた際に、木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされています。その子孫は荒妙や麻の栽培を仕事とし、麻植神(おえのかみ)とも呼ばれました。ここからは忌部神には2つの顔があったことが分かります。
A 忌部神=阿波忌部氏の祖先神
B 天日鷲神=木綿で祈祷用の和幣(にぎて)を作ったとされる麻植神 

高越山の麓の川田は、近世になって和紙の生産地となり、18世紀初めには急速に発展をとげます。
16世紀末になり、細川氏・三好氏が減亡し、近世大名として蜂須賀氏が阿波に入ってきます。そんな中で平野部における藍生産はさらに発展していくことはよく知られています。同じように、近世麻植郡山間部では吉野川沿いの川田を中心に和紙生産が大きく発展します。宝永三年(1706)に徳島藩は、麻植・美馬・三好諸郡の山間部の庄屋に触書をだして和紙を藩の専売にすることを通達しています。ここからは18世紀初頭には、和紙生産が古野川流域の山間部の村々に広がっていたことが分かります。こうして、和紙の生産・集積・輸送など和紙産業の拠点が形成されていきます。
阿波藩の和紙専売制の管理下では、次のような役割分担がありました。
A 貞光は三野郡山間部の和紙集積地
B 山崎は種子山など麻植群山間部の和紙集積地
集められた和紙に藩は税金をかけて出荷販売しました。この2カ所は美馬郡・麻植郡の和紙の集散地でした。そして川田は、和紙生産の先進地です。山崎や貞光は、この時期に和紙の集積地として、賑わうようになっていたことを押さえておきます。
この経済的な活況と高越山で天日鷲神(忌部神)が復活するのが同時期であることに研究者が注目します。
『古語拾遺』の中には、和紙の起源を天日鷲神に求める説が記されていました。また、木綿(ゆう)は「楮(こうぞ)の木の皮」から作られるとされていました。楮は和紙の原料でもありました。ここからは、高越寺の住職が川田の和紙生産者を、新たに高越山の信者として組織するために紙祖としての天日鷲神を導入したのではないかと研究者は推測します。和紙産業のギルド神として、天日鷲神を新たにお迎えしたとしておきます。これを高越寺の社僧(修験者・山伏)たちが広めていきます。こうして天日鷲神への信仰は和紙生産・販売の中心地であった麻値郡・美馬郡に急速に広がっていきます。すると、天日鷲神(忌部神)を祭る神社の本社を名乗る寺社がいくつもで出来ます。こうして、古代の忌部神社が、どこにあったのかをめぐる紛争が起きます。1740年頃には、次の三社が忌部本社であると主張するようになります。
A 美馬郡貞光
B 麻植郡川田
C 麻植郡山崎

吉野川沿いの美馬郡貞光や麻植郡山崎(吉野川市山川町山崎)は、生産された和紙の集積地として発展します。川田で忌部神社本社が復活されると「忌部神社は我社なり」と、貞光と山崎の神社も名乗りを上げます。研究者が注目するのは、争論に参加していた貞光・川田・山崎の三カ所は和紙の生産・販売の拠点でもあったことです。そこには、紙祖としての天日鷲神の本社(忌部神社)の地位を獲得することで和紙の生産・販売をめぐっての優位性を確保しようとする思惑があったと研究者は指摘します。
 三社の争いに対して、阿波藩は川田の種穂社が本社と認め、貞光と山崎の神主は追放ということで決着させます。こうして政治的には川田の種穂神社が藩から忌部神社のお墨付きをもらったことになります。
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                 種穂忌部神社(山川町川田)
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                  種穂忌部神社の説明版
(もともとは多那穂大権現と称したと記されるので山伏によって開かれた神社だったことがうかがえる。)
 この論争の中で、各神社は自己の主帳を正当化するために根拠のない伝承を持ちだしたり、古代文献をねじまげる解釈をしたり、さらには裏づけになる遺品を偽造したりして、事実とはかけはなれた「由緒書」の世界を作りあげています。自分たちにとって都合のよい「あるべき歴史」の作りあげです。近世後半になると、プロの偽書制作者が現れ、依頼者の求めに応じて偽書が大量に作成される時代になっていたは以前に「椿井文書」でお話ししました。
18世紀という時代の麻値郡について、まとめておきます。
①和紙の生産地としては川田が中心であったが、山間部の三木が新興の生産地として発展していた。
②さらに山崎や美馬郡の貞光も和紙集散地として発展していた。
③これらの和紙産業の地は、和紙の先祖神である忌部神信仰を持つようになり、和紙の生産・販売をめぐっての地域間の対立が生まれていた
④地域間の経済対立を背景に、「あるべき地域の歴史」をめぐって忌部神社本社論争を生みだした。

この時の江戸時代後半(18世紀末)の忌部本社の所在地論争の争点を見ておきましょう。
A 永井精古の西麻植村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)説
古代阿波国全体の郡郷配置を、最初に論じた上で、忌部神社は、古代の麻植郡忌部郷の平野部にあったことを主張。その上に立って、忌部郷は麻植郡東部の平野地帯だったとし、西麻値村広堂(吉野川市鴨島町西麻植)に比定
B 多田直清の鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)説
吉野川下流域南岸の麻植郡・名西郡の古代以来の景観復元を現地調査を行った上で、忌部郷と忌部神社を麻植郡東部の平野地帯に求め、鴨島村宮地(吉野川市鴨島町鴨島)に比定。
A永井・B多田の説の前提条件としては
①古代の郷は律令国家が班田制を実施している水田が拡がる平野部にあったこと
②水田のない山間部には、古代の郷は置かれなかったこと、忌部神社も山間部にはないこと
これが忌部神社を平野地帯の鴨島地域に比定した前提条件でした。
C 野口年長の山川町山崎説
 野口年長は古代からさまざまな文献を駆使して阿波の歴史を広い側面からとらえようとした人です。 その見地から、古代忌部郷が山崎にあったとして神社も山川町山崎に比定。山の世界が発達するのは中世以後のことで、古代の忌部郷をみる際には山の世界を組み入れないこと。
野口の論は、忌部問題について押さえなければならない条件を明確にしていること、その条件も現在の歴史学の水準からみても妥当なものだと研究者は評します。しかし、文献史料がなく、位置確定にはいたらず、古代忌部社をめぐっての結論は出ませんでした。

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山崎の忌部神社
明治維新前後に忌部神社論争に関わったのが、久富憲明と生島繁高です。
D 久富の山崎神社説 
 古代忌部郷を麻植郡山間部(種野山)を中心に広がっている郷とし、古代忌部神社を山崎の忌部社に比定。
E 生島の川田種穂神社説 
 古代忌部郷を種野山を中心に比定し、古代忌部社は川田の種穂神社に比定
江戸時代の3人が比定地を平野部にしていたのに、明治のふたりは古代忌部郷を山間部に比定しています。それまでの古代忌部郷・忌部神社は平野部に限定して比定しなければならないという大原則を無視する論が明治になると出されるようになったのはどうしてなのでしょうか?                  

その背景には、種野山の三木家文書の強い影響があったようです。 
種野山は、水田はありませんが多くの山の産物を生み出す社会で、京都の冷泉家が地頭職を持ち、貴重な史料が数多く残されていました。その意味では、三木文書は中世の種野山という山の世界のあり方をしめす、全国的にみてもすぐれた中世文書と研究者は評します。しかし、この文書には18世紀後半になって三木家の先祖が南北朝期にさかのぼる古代忌部氏の系譜を引く在地領主であったことをしめすために偽作文書が混入されていると研究者は指摘します。その経緯を見ておきます。
18世紀後半になると麻植山間部の三木村が川田を追う新興の和紙生産地として成長をとげるようになります。
三木村は中世には三木名と呼ばれ、その中心に座るのが三木家でした。ところが忌部神の本社をめぐる争いがあった頃には、三木本家は衰退していたようです。それに代わって18世紀後半には分家が三代にわたって三木村庄屋役に就きます。この間に三木村は和紙の生産地として大きな発展をとげていきます。さらに三木家の分家は明治維新まで和紙の生産・販売を手がけ、販路を大阪までに拡げ大きな富を築き、本家の三木家を凌駕していくようになります。
寛政期(18世紀末)の文書に、三木家の由緒を紹介したものがあります。

三木家文書表紙

当時、三木家本家は当主と嫡男が他界したため、後継者を親戚の天田家から養子として迎えることになりました。この際に、三木家の女性たちと天田家当主・天田武之丞が、三木家の再興のために由緒に関する複数の文書を作成し、郡代等への提出書類の根拠(説明資料)としています。当時の三木家本家はたいへん苦しい状況にありました。かつては「阿波忌部」の末裔として、また「阿波山岳武士」として威風を誇っていました。ところが18世紀の終わりごろに土地取引に絡む不正事件の監督責任を問われた三木家は、庄屋役とともに身分的諸権利(小家とも夫役免除、藩主御目見等)を失います。その結果、三木家は経済的にも打撃を受け、それに当主の他界・嫡男の早世などが重なり、苦しい状況に追い込まれます。この苦境から三木家を立て直すために、三木家の女性たちは、親戚で庄屋役を引き継いだ天田家から恒太を跡取り養子として迎え、庄屋・天田武之丞を後見人とします。三木家由緒に関する文書は、郡代など諸役人に再興への助力を願い出るための重要な歴史的根拠でした。そこで三木村の庄屋武之丞は本家の三木家救済のために、それまであった文書に新規偽作文書をつけ加えて文書の再編成します。そのねらいは、三木家が忌部の系譜を引く南北朝期以来の伝統をもつ家であることを証明することにありました。こうして、三木家が阿波忌部氏の末裔であることを示す書類が何通か紛れ込んだと研究者は指摘します。その例を見ておきましょう。まず本物とされる太政官符です。

この文書は従来は、次のように説明されてきました。
三木家麁服古文書で最も古いものは、1260年の亀山天皇大嘗祭である。麁服(あらたえ)は、南北朝動乱で調進が中断されるまで、代替りの都度神祇官より太政官へ宣旨し、太政官より太政官符・官宣旨が阿波国司に対して発せられ、国司はそれぞれの写しをもって殿人三木忌部氏に麁服を依頼した。

ここで確認しておきたいのは、これらの文書は本物ではなく京から阿波国司に送られてきた太政官符の写しであることです。


三木文書の鎌倉末期文保二年(1218)九月廿六日の大政官符


               三木家文書 文保二年(1218)
九月廿六日の大政官符
大嘗祭における荒妙御衣の進上を阿波国司に命じていて、中央から従五位下の斎部(忌部)宿禰親能と神部二人が派遣されています。しかし、阿波忌部氏か荒妙を貢進したことは書かれていません。また、三木氏もここには出てきません。ここからは分かるのは、次の4点です。
①大嘗祭の麁服(荒妙)貢進は、鎌倉末期までは形式的には続いていたこと。
②中央の斎部(忌部)氏が使いとして登場しているので。この時期まで存続していたこと
③ここには、阿波忌部氏も三木氏も登場しないこと
④この太政官符の写しが残っているのは三木家であること。(阿波忌部氏の本貫は平地部の忌部郷)
逆に見ると平安時代末までには、阿波忌部と麁服貢進の関係は失われていたことになります。それに代わって作成を担当するようになったのが三木氏ということです。だから太政官符が三木家に大切に保管されてきたのです。そして、この文書からは「三木氏=阿波忌部氏の末裔」であることは証明できません。そこで新たに作られたのが次の文書群だと研究者は指摘します。

三木家文書 偽文書
            近世に作成され偽書とされる中世文書
く正慶元年(1332年)にいただいた太政官符案。光厳天皇の大嘗会に関するもの
 下す   勅使御殿人三木右近胤
右 彼の右近胤においては、往古より勅使御殿人として課役を致す之上は、向後更に長老等の濫妨を致すべからざる之由、御勅使殿仰せ下され被候也。乃て執建件のごとし、
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
  勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
意訳変換しておくと
  勅使御殿人の三木右近胤に次の通り下す
右近胤は、古くより勅使御殿人として課役(麁服貢進)を果たしてきた。今後も長老等がその職務の遂行を妨害しないように、(京の)御勅使殿より仰せ下された。執建件のごとし。
正慶元年(1332年)12月1日  御代官(花押) 
 勅使神祇権少副(しょうふ)斎部(花押)
ここには勅使神祇権少副である中央の斎部(忌部)氏勅使御殿人」の三木右近胤(三木家)に対して課役(麁服)を貢納するために身分保障していることが記されています。先ほど見たように太政官符には三木氏は登場しません。これがあって、はじめて「三木氏=斎部氏の子孫」が証明されます。しかし、この文書には次のような疑問点があるようです。
①「勅使御殿人」「長老」と云う用語は中世に使われたものではなく、近世の和紙生産者ギルドの長として使われたものであること
②14世紀初めには、「勅使神祇権少副の斎部」氏は姿を消していたこと
③書いているのが地元の「御代官」で、それを認めているのが中央の忌部氏というおかしな形式で、
太政官符よりは、格がはるかに下がること。
④三木家の職務遂行を妨害する勢力があったこと

三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
三木家文書に偽書が紛れ込んだ経緯
偽書が作成される経緯については、「丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017)」に詳しく記されていますので、そちらを御覧ください。

江戸時代には家の先祖や村の歴史を美化するために由緒書などを偽作することは当たり前のように行われていました。
Amazon.co.jp: 椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書 (2584)) : 馬部 隆弘: 本

延喜式内社をめぐる争論などでは、自社を有利にするための偽文書が組織的に行われ、そのプロもいたことは「椿井偽文書」で明らかにされています。偽文書によって、自分の所の神社が有利になるのなら「やったもん勝ち」でした。考証学が発達していない時代には、それが見抜けなかったのです。自社が延喜式内社の争論などでは、後になっても偽作であると見抜けないままになっていることが数多くあります。戦後に書かれた市町村史などは、史料考証をきちんと行わず従来の説がそのまま転用され、それが今も「定説化」していることが散見します。こうして幕末から明治にかけては、三木文書に偽作文書が混入されていることが分からないままに、真実の中世文書とみなされ重視されるようになっていきます。久富・生島の論も、その延長線上にあると研究者は指摘します。
以上をまとめておくと
①古代の麁服(あらたえ)貢納は、律令行政システムの「神祇官(中央の忌部(斎部)氏 → 阿波国衙 → 麻植郡衙 → 阿波忌部」という指示ルートで動いていた
②しかし、中世になると中央忌部氏が衰退して新たに神祇官に就いた氏族は、阿波に直接使者を派遣して麁服を確保するようになる。
③その際に、麁服制作に当たったのは古代の阿波忌部氏ではなく、山間部の種野山の三木家であった
④三木家にはこの時の太政官符が残されているが、これは三木家が阿波忌部氏の子孫であることを証明するものではなかった
⑤そこで江戸時代後半に三木家が危機的な状況に陥ったのを救うために、三木家が古代忌部氏の末裔であることを阿波藩に討ったえでることになった時に、「三木家=古代忌部氏の末裔」を証明するいくつかの偽文書が紛れ込まされた。
⑥それが後に、「三木家=古代忌部氏」となり一般に拡がった。
阿波忌部氏年表

明治維新を迎えると、明治政府は復古政策のもと『延喜式』に記された古代式内社の復活を目指します。
その結果、阿波でもどこにあるかわからなくなっていた式内社忌部神社の所在地決定が求められます。それに対応することになったのが名東県の役人としてに出仕していた小杉𥁕邨です。彼は式内忌部社を麻植郡山崎の忌部社に決定します。これに対して美馬郡貞光から異論がだされ論争となります。
 これは十八世紀半ばに起こっていた忌部神社の本社所在地をめぐる論争の再燃です。藩の決定が「政権交替」で「ちゃぶ台返し」で、再燃するという図式です。ただ、前回の論争で忌部本社と藩に認定された川田は、今回の論争に加わっていません。山崎と貞光の争いになります。結果は山崎は敗れ、貞光に忌部社は移座されることになります。ところがその後、貞光側の内紛もあり、結局は「中立地帯」の徳島市に移座されることになります。
この論争で小杉は、三木家文書の忌部関係文書を根拠にして、古代忌部郷を種野山という山間部を中心に広がるとしました。つまり「忌部神社=山崎説」です。政治的な決着では、この説は否定されたのですが学問的には、この説はその後の研究者達に受けいれられていき、定説として定着します。これに対して、幕末の野口の原則であった「忌部郷・忌部神社は条里制が施行されていた平地にある」を無視したもので、「学問的には成りたたない論になっている」と研究者は指摘します。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
丸山 幸彦 忌部大社はどこにあったのか 江戸時代の人々の模索  講座麻植を学ぶ
丸山幸彦 近世において再編された中世三木家文書 四国中世史研究14号 2017年
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