瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三木郡田中郷

岸の上遺跡 イラスト
鵜足郡の法勲寺と岸の上遺跡(郡衙?)の位置関係
   七世紀後半は、全国各地に氏寺が造営され、急速に仏教が各地に広まっていった時期です。
丸亀平野を見ても、古代寺院が次のように登場してきます。
     寺院名 建立者  郡衙遺跡候補
①鵜足郡 法勲寺  綾氏?    岸の上遺跡(飯山町)
②那珂郡 宝幢寺 不明   郡家周辺(不明)
③多度郡 仲村廃寺(善通寺)佐伯氏         善通寺南遺跡
④三野郡  妙音寺 丸部氏         不明
と、今まで見たこともないような甍を載せた金堂や、天を指す五重塔が姿を見せるようになります。仏教が伝来してから約1世紀を経て、仏教は讃岐でも受けいれられるようになったようです。しかし、この時期の地方寺院は、郡司層を中心とする有力豪族が造営した氏寺で庶民が近づくことも出来なかったようです。

岸の上遺跡 南海道の側溝跡
正倉が何棟も出てきて鵜足郡衙の可能性が高い。はるかには善通寺の五岳が望める
 讃岐の地方豪族は、どんな信仰をベースにして仏教を受けいれたのでしょうか。今回は、地方豪族の仏教受容について、見ていくことにします。
 仏教は、祖先に対する追善供養という形で、この国では受容されました。それは中央の蘇我氏と物部氏の崇仏排仏論争を見るとよく分かります。仏は「蕃神」、すなわち外来神として認識されていたようです。この時点では、仏教の難しい教理は問題にされません。例えば、仏像についてもいろいろな仏像が造られますが、当時の人々が阿弥陀像と薬師像、観音菩薩像のちがいを理解していたかと問われると疑問です。
 このことは仏像だけでなく、寺院においても同じです。戦後の発掘で、わが国最初の寺院である飛鳥寺の塔跡の心礎から出てきたのは、武器・武具・馬具です。これは、古墳の石室から出てくるものと変わりありません。最新の技術を用いて建てられた五重塔は、古墳に代わる埋葬施設として捉えられていたことがうかがえます。
 寺院が祖先信仰と結びついて建立されていることについては、『日本書紀』推古天皇二年(594)二月丙寅朔条に、次のように記されています。
詔二皇太子及大臣丿令興隆三宝是時、諸臣連等各為二君親之恩競造二仏舎丿即是謂寺焉。
  意訳変換すると
皇太子や大臣に三宝(仏像・仏典・僧侶)を敬うように勅が出され、諸臣連たちは基礎祝うように、「君親之恩=祖先供養」のために競うように仏舎を建立した。これが寺院である。

 ここで注目したいのは「諸臣連等」が競って、寺院を造営する目的です。
それは「為二君親之恩」で「祖先供養」のためだというのです。飛鳥での寺院建立も、当時は氏族の祖先信仰に基づいて行われていたことを押さえておきます。
 祖先崇拝のために建立された寺院は、氏寺として子孫が寺を管理し、祈りを捧げることになります。蘇我氏の法興寺に、馬子の子善徳が寺司となっているのは、その例でしょう。同じように『日本霊異記』下巻第二十三話には、大伴氏の寺院建立が次のように記されています。
 大伴連忍勝者 信濃国小県郡嬢里人也 大伴連等 同心其里中作堂 為二氏之寺 忍勝為欲写二大般若経一発願集物一 剃二除鬘髪著二袈裟 受戒修道 常二住彼堂 
 
意訳変換しておくと
 大伴連忍勝は信濃国小県郡嬢里の人である。大伴連一族は、その里に堂を作り氏寺とした。忍勝は大般若経を書写することを発願し、剃髪し袈裟を付け、受戒修道し、常にこの堂に住むようになった。
ここからは、信濃の大伴氏の一族が「氏之寺」を建立し、大伴連忍勝が僧侶となったことが分かります。巨費をかけて作った寺院は、一族の財産でもあります。当然、一族の者が管理することになります。そして、寺院が一族結集の場にもなっていきます。檀越が一族であることは、蘇我氏と法興寺(飛鳥寺)の場合と同じです。
飛鳥と讃岐も、寺院の建立の目的は同じであったと考えられます。
祖先信仰とは、一族の繁栄を祖霊に祈願する信仰でもあります。
当然、その一族の長に当たるものが祀るべき地位にあった方が何かと都合は良かったのでしょう。これらの史料からは、仏像も寺院も、それまでの先祖供養や祖先信仰と深く結びついていることが分かります。そのやり方は、いままでの祖先崇拝に仏教のもつ追善供養という側面を重ね合わせ形で行われたようです。
 古代の豪族層は、どうして祖先信仰を重視したのでしょうか。
 高取正男氏は、このことについて次のように述べます。

「固有信仰の祖型として抽出されている死霊と祖霊の関係とは、死者の霊魂は死んでから一定の期間中はそれぞれの個性を保って近親者に臨むが、一定の期間を過ぎると個性を失ってしまう。そしてその後は漠然とした死者霊の没個性的な習合体としてのいわゆる祖霊に組み込み、その繁栄を保証するものとなる。」

 つまり、地方の豪族達は、自分につながる父や母などの霊を先祖霊に組み込みながら疑似共同体意識を養って、団結のきずな(精神的紐帯)としてきました。そこに、伝統的な神祇信仰ではなく、蕃神の仏教が新たに用いられることになったようです。
 その要因は、いくつか考えられます。その一つはこの国の人々の「外来の新規なものへの好奇心と崇拝」かもしれません。金色に輝く仏像や、甍を載せた朱色の仏教伽藍は宗教モニュメントは、彼らの心を惹きつけるものだったでしょう。弥生時代の先祖が光り輝く青銅器を祭器とし、卑弥呼が鏡を愛したように、白鳳人は仏像を愛したとしておきましょう。仏教にはいままでの日本の神々を越える宗教的な呪術力があると思うのは当然かも知れません。讃岐の豪族の仏教受容も、こんな背景の上にあったと私は考えています。しかし、仏教受容はこれだけが理由ではありません。
1日本霊異記

『日本霊異記』には、地方寺院の建立に関する史料が載っています。ここでは、伊予と讃岐の史料を見ておくことにします。

② 上巻第十七縁には、伊予の越智氏の氏寺建立の経緯が次のように記されています。
伊予国越知郡大領之先祖越智直 当為救百済・ 遣到運之時 唐兵所福 至其唐国・ 我八人同住洲 偉得ニ観音菩薩像・ 信敬尊重 八人同ン心 窃裁二松本・以為二一舟・ 奉謂二其像 安二置舟上 各立二誓願・ 念二彼観音・ 是随西風・ 直来筑紫 朝庭聞之召 間□状 天皇忽衿 令中所レ楽 於ン是越智直言 立郡欲仕 天皇許可 然後建郡造寺 即置二其像・(以下略)

意訳変換しておくと
伊予国越知郡大領の先祖は越智直である。彼は百済救援軍の一員として朝鮮半島に従軍し、敗れて唐軍の捕虜となり、唐に連行された。そこで観音菩薩像に深く帰依するようになった。帰国の際には、その観音像を船上に安置し、無事に帰国できるように誓願し、観音像に念じた。そのためか西風に恵まれ筑紫に着くことができた。これを聞いた朝廷は彼を召して、天皇直々にねぎらった。越智は直言し、新たな郡が欲しいと願うと、天皇はそれを許した。そこで、新郡作り、寺を建て、観音菩薩像を安置した。
  ここからは越知氏の祖先が捕虜となっていた唐から観音菩薩を持って帰国し、新たに郡を作り郡司となり、氏寺を作り観音菩薩を本尊としたことが記されます。これが古代伊予の有力豪族となる越智氏の由来になります。
1田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)

「下巻第二十六縁」には、讃岐三木郡の田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)が登場します。
意訳変換したものを、見てみましょう。
三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺?)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたもの帳消しにしたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取った。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、三木寺や東大寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。しかし、ここからは、仏教が地方の豪族層に浸透している様子がうかがえます。

古代讃岐三木郡

 広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。
ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。
彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。
夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。現在の始覚寺本堂の前に,塔の礎石が残っていて、その上に石塔が据えられています。

整理すると、小屋県主宮手=三木郡の郡司で、その氏寺が三木寺であったと云うのです。そこに嫁いでいったのが広虫女ということになります。
 例えば、善通寺周辺を見ると、付近に郡衛遺跡や有力な古墳(群)があります。
これらを作ったのは空海の祖先である佐伯氏と考えられます。その延長線上に、仲村廃寺や善通寺も建立されたのでしょう。多度郡でも「地方寺院は郡司層を中心とする地方豪族によって建立された」と云えるようです。特に三木寺のように、郡名と同じ名前をもつ「郡名寺院」は、郡司層による建立と考える研究者が多いようです。さらには、郡司の建立した寺院が国分寺に転用された例も報告されています。

四国学院側 条里6条と7条ライン
多度郡衙跡とされる生野本町遺跡

  最近の丸亀平野の発掘調査からも、法勲寺周辺からは、正倉群を伴い鵜足郡の郡衙跡と考えられる岸の上遺跡や、善通寺の南からも多度郡衙跡とされる遺跡が発見されました。ここからも7世紀後半から建立された寺院の建立者が郡司層を中心とする地方豪族であるが分かります。
 郡衛遺跡の近くにある寺院は、「郡衛」と密接な位置関係にあることから、これらの寺院が「評・郡衛」の公の寺(郡寺)としての性格を持っていたとする説も出てきました。しかし、地方寺院が公的な性格を持つかどうかについては意見の相違があるようです。地方寺院の性格を「氏寺」と考えるか「郡寺」と考えるかということになります。
 考古学の立場からは、次のように説明がされているようです。
  「地方豪族にとっては、仏教を受容することは国家との結合を強め、その機構の中でより有利な地位(例えば授位)を得ることが出来たものと想像される。
   本来、在地における祭祀行為の主導権を握るとされる郡司層は、旧来の地縁的・族制的な農耕儀礼的祭祀から脱却し新たな地域内の精神的支配を確立する意味においても、この新来の祭祀の形態の導入に積極的に取り組んだものと思われる」
地方豪族にとって寺院建立は祖先信仰だけにとどまらない次のようなメリットがあったことを指摘しています
①国家との結合を強め、目に見える形でそれを周囲に示すモニュメントになった
②国家への忠誠度を示すリトマス試験紙の役割
③それまでの儀礼祭祀に代わる新たな祭礼リーダーとして、支配権強化にもつながった。
  これは古墳時代に、首長達が新たに前方後円墳儀礼を一斉に取り入
れたことと似ているものがあるのかもしれません。
DSC03655
善通寺の古代の塑像頭部(本尊?)
 こうして見ると佐伯氏が、仲村廃寺を善通寺王国の中心地のすぐ近くに最初は造立したのが、すぐに場所換えて現在の善通寺の位置に移動してくる理由も分かるような気がしてきます。
最後に仲村廃寺から善通寺への「移転」について、私の仮説を記して起きます。
①善通寺王国の首長は、旧練兵場遺跡を拠点に、前方後円墳を有岡の谷に何代にもわたって築き続けた
②律令時代には多度郡司の佐伯氏として、旧練兵場遺跡の東端に仲村廃寺を建立した。
③しかし、これは氏寺的な性格が強く、「郡司」としての機能にはふさわしくなかった。
④それは南海道の設置以前に建立されたため条里制ラインに合致しないものでもあった。
⑤そこで、佐伯氏は条里制に合致した形で「多度郡寺」としてふさわしい寺を現在地に建立した。それが善通寺である。
亡命百済僧の活動

以上、最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
    三船隆之 日本古代地方寺院の成立 306p

「ごうつくで がいな女?」三木郡の古代豪族の妻 広虫女 

空海がまだ讃岐善通寺の地で幼名の真魚と呼ばれていた頃、薬師寺の僧・景戒が仏教説話集『日本霊異記』を編集しています。
1日本霊異記

これは、仏教の説法や布教活動に使う「あんちょこ集」みたいなものですが、
この中には讃岐国を舞台とする「ごうつくで、がいな女」の話が載せられています。話は、ごうつくな女が一度死んだ後に、上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという因果応報の話です。

田中真人広虫女(たなかのまひとひろむしめ)がヒロイン(?) のストーリーを見てみましょう。

三木郡の大領小屋県主宮手の妻である広虫女は、多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。また取り立ても厳しく、人々は困り果て、中には国外に逃亡する人もいた。
 広虫女は七七六年(宝亀七)六月一日に病に倒れ、翌月に夢の中で閻魔大王から白身の罪状を聞いたことを夫や子供たちに語ったのち亡くなった。死後すぐには火葬をせず儀式を執り行っていたところ、広虫女は上半身が牛で下半身が人間の姿でよみがえった。そのさまは大変醜く、多くの野次馬が集まるほどで、家族は恥じるとともに悲しんだ。
 家族は罪を許してもらうため、三木寺(現在の始覚寺と比定)や東大寺に対して寄進を行い、さらに、人々に貸し与えていたものを無効としたという。そのことを讃岐国司や郡司が報告しようとしていると息を引き取ったというストーリーです。
 以上のように、生前の「ごうつく」の罰として上半身が牛の姿でよみがえり、寺への寄進を行うことで罪を許されるという『日本霊異記』では、お決まりの話です。
この時点で、仏教が地方の豪族層に浸透している様子もうかがえます。一方で、『日本霊異記』成立期と近い時代の讃岐国が舞台になっています。そこから当時の讃岐の社会環境が映し出されていると専門家は考えるようです。
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」を参考に、広虫女の周辺を見ていくことにしましょう

広虫女の実家の本拠地とされるのが三木郡田中郷です。

ここは公淵公園の東北部にあたり、阿讃山脈から北に流れる吉田川の扇状地になります。そのため田畑の経営を発展させるためには吉田川や出水の水源開発と、用水路の維持管理が必要になってきます。広虫女の父・田中「真人」氏は、こうした条件をクリアするための経営努力を求められたでしょう。

彼女は、吉田川の下流を拠点とする小屋県主宮手に嫁ぎます。

夫の小屋県の氏寺が「罪を許してもらうために田畑を寄進」した三木寺(現在の始覚寺)と考えられています。この廃寺からは、讃岐国分尼寺と同じ型で作られた瓦が出土し、郡名の「三木」を冠した寺に、ふさわしい寺とされています。
四国の塔跡
三木町始覚寺

 始覚寺は東西、南北ともに1町(約109m)の敷地をもつことが調査から分かってきました。回廊で囲まれた中心域での建物配置は不明ですが、五重塔の心礎はもとの場所から動かされて現在地にあるようです。今は、その上に石塔が載せられています。
始覚寺跡|三木町役場

             始覚寺五重塔の心礎
寺域の向きは、条里制地割とは異なる正方位(真北方向)に設計されていて、条里施工前に建設された可能性があり、白鳳期建立を裏付けます。
また、この寺から出ている八世紀の瓦は、東大寺封戸が置かれた山田郡宮処郷の宝寿寺(前田東・中村遺跡を含む)と同じものがあります。これを三木郡司・小屋県主の東大寺へ寄進の見返りとして、東大寺側が小屋県主の氏寺建立に技術援助・支援した「証拠」と見ることもできます。

夫の小屋県宮手は、始覚寺周辺の井上郷を本拠としていました。

その井上郷の周辺の三木郡の郷名には、井閑・池辺・氷上・田中など、水田と用水源にまつわるものが多いようです。
その地名の由来は井上・井閑は、『和名抄』ではともに「井乃倍」と読み「水路や水源を拓き管理する集団」
池辺は「伊介乃倍」であり、「池を管理する集団」
氷上は樋上すなわち[水路の上流、取水源]と考えられます。
 また、この地域を流れる新川や吉田川は、碁盤の目のような条里型地割に合わせて人工的に付け替えられています。[井]や「樋」で表される水路とは、付け替えられた川のことを示します。川の周辺の伏流水を利用する出水も「井」と呼ばれていました。つまり三木郡の中央部は、洪水を繰り返す川を濯漑用の水路に生まれ変わらせた指導者がいた地域のようです。ここからは、小屋県主氏がこの地区の郡司として、公共事業として「丼の戸」[池の戸]というかたちで労働力を組織化し、低地の開発を進めた姿が浮かび上がってきます。

古代讃岐三木郡

高利貸しは、貧農救済? 

『日本霊異記』の中で、作者は広虫女を次のように非難します
「 多くの財産を持っており、酒の販売や稲籾などの貸与(私出挙=すいこ)を行っていた。貪欲な広虫女は、酒を水で薄め、稲籾などを貸し借りする際に貸すときよりも大きい升を使い、その利息は十倍・百倍にもなった。」

 しかし、当時は「高利貸しとしての私出挙」は、毎年作付ける種籾を利子付きで貸す伝統的な農業経営方式でした。ある意味では、農業経営が十分に行えない貧農を助けるもので、地域支配者としての支援方法でもあり、非難されるものではなかったようです。
寄進のもうひとつのねらいは?
 広虫女の罪をあがなうために
「東大寺へ、牛七〇頭、馬三〇匹、治田二〇町、稲四千束を納めた」

と詳しい記述が出てきます。罰を受け虫女を救うために東大寺へ多くの財を寄進したのです。これが僧侶が説くように「救済」のためだけだったのでしょうか?別の視点で見ると「寄進の目的は、中央とのつながり」作りでもあったのではないでしょうか?

有力寺院への寄進により、自らのステイタスを挙げる地方豪族

 東大寺の造立は、国家の威信をかけた一大プロジェクトで国策です。そのため東大寺に対する地方豪族の寄進も盛んで、広虫女が亡くなった七七六年(宝亀七)頃は、大仏は完成したものの周辺建築物の造営期でした。寄進には、開墾制限に対する対応策の一面もあり、自ら開発した土地の管理権を守るという目的もあったはずです。
 『続日本紀』七七一年(宝亀二)には、同じ讃岐の三野郡の郡司・丸部臣豊球が、私財を貧民のために投じたことで官位を授けられたことが記されています。寄進によって、地方豪族としての自らの地位を高めるという動きが当時はあったのです。その時流に宮手も乗ったとも考えられるのです。これが郡司としての生き残りにつながります。

以上のように、仏教説話の中に「がいな女」の因果応報の話として取り上げられている広虫女は、当時の地方豪族の妻としては相当なやり手であったということは言えるようです。

参考文献
香川県立ミュージアム「讃岐びと 時代を動かす 地方豪族が見た古代世界」

このページのトップヘ