瀬戸の島から

金毘羅大権現や善通寺・満濃池など讃岐の歴史について、読んだ本や論文を読書メモ代わりにアップして「書庫」代わりにしています。その際に心がけているのは、できるだけ「史料」や「絵図」を提示することです。時間と興味のある方はお立ち寄りください。

タグ:三角寺

三角寺の調査報告書(2022年)の中には、葬送関係の版木が4点紹介されています。曳覆(ひきおおい)曼荼羅図・敷曼荼羅図・死人枕幡図など葬送時に用いられるものの版木です。曳覆曼荼羅は死者の上に掛ける曼荼羅、敷曼荼羅は死者の下に敷く曼荼羅で、どちらも死者を送るときに使われたものです。版木があると言うことは、それを三角寺で摺って「販売」していたことになります。これらの版木を、今回は見ていくことにします。
三角寺 敷曼荼羅
三角寺の「敷曼曼荼羅図」
三角寺の「敷曼曼荼羅図」(版木58表而、図4)には、左側にその使い方が次のように記されています。
「棺の底にこれを敷き、その上に土砂を入れ、その上に亡者を入れ、又その上に土砂をかけ、その上に曳き覆いをひくべし。土砂は光明真言百遍となえて入るべし。但し授り申さぬ人はとなえ申まじき事。」

意訳変換しておくと
まず棺の底に敷曼荼羅を敷き、土砂をかけ、死者を納め、またその上に土砂をかけて曳覆曼荼羅で覆うこと。土砂は、光明真言を百回唱えながら入れること。ただし、加持祈祷を受けていない人は、唱えないこと。

使用手順を整理しておきます。
①棺の底に敷曼荼羅を敷き、土砂をかける。
②死者を納め、その上にまた土砂をかけて、曳覆曼荼羅で覆う
③この時に用いる土砂は、光明真言を百回により加持祈祷されたものをかける。
④ただし、加持祈祷を受けていない人は、唱えないこと。
ここからは、底に敷くものと、死者に上からかけるふたつの曼荼羅が必要だったことが分かります。その曼荼羅の版木が残されていることになります。
三角寺 曳覆高野秘密曼荼羅
曳覆高野秘密曼荼羅図(三角寺)
上からかける曳覆曼荼羅図(版木59)は、五輪塔形の中にいろいろな真言が記されています。
これらの真言で死者を成仏させることを願ったようです。死者とともに火葬されるものなので、遺品は残りません。しかし、版木が全国で20例ほど見つかっています。真言の種類や記す箇所・方向などで、様々な種類に分類できるようです。三角寺版では、火輪部に大威徳心中心呪・不動明王小呪・決定往生浄土真言・馬頭観青真言が記されています。このスタイルの曼荼羅図は、あまりないと研究者は指摘します。このような曳覆曼荼羅が後に経帷子(死装束)に変化していきます。
一魁斎 正敏@浮世絵スキー&狼の護符マニア on Twitter:  "「季刊・銀花/第36号」の御札特集に滋賀県・石山寺さんの版で良く似たものが「曳覆五輪塔」(正確には五輪塔形曳覆曼荼羅)の名称で掲載されていますが、亡者の棺の中に入れて覆うのに用いるそうです。…  "
大宝寺の五輪塔形曳覆曼荼羅

五輪塔形曳覆曼荼羅の版木からは、何が分かるのでしょうか?
 
版木のデザインは、密教と阿弥陀信仰が融合してキリークが加わり、さらに大日如来の三味形としての五輪塔と一体化します。そして、五輪が五体を表す形になったようです。それが鎌倉時代末の事だとされます。
五輪塔形曳覆曼荼羅版木(広島県の指定文化財)/広島県府中市
青目寺(広島県府中市)

 葬儀用の曼荼羅版木が、三角寺に残されていることからはどんなこと考えられるのを最後にまとめておきます。
①死霊に対する鎮魂意識が広がった中世に、滅罪供養に積極的に取り組んだのは高野の時宗系念仏聖(高野聖)であった。
②高野聖は、阿弥陀・念仏信仰のもとに極楽浄土への道を示し、そのためのアイテムとして引導袈裟を「販売」するようになる。
④江戸幕府の禁令によって高野山を追放された念仏聖先は、定着先を探して地方にやってくる。
⑤その受け入れ先となったのが、荒廃していた四国霊場や、滅罪供養のお堂などであった。
⑥葬儀用の曳覆曼荼羅(引導袈裟)などの版木が残っている寺院は、高野聖が定着し滅罪寺院の機能を果たしていたことがうかがえる。
つまり、多くの宗教者(修験者・聖・六十六部など)を周辺に抱え込んでいた寺院と言うことになります

  最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
参考文献
「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(103P)版木 ⑤葬儀関係」


四国遍路のユネスコ登録に向けての準備作業の一環として、霊場の調査が行われ、その報告書が次々と発行されています。2022年1月に愛媛県教育委員会から発行された三角寺の調査報告書を見ていて目に留まったものがあります。それがこの写真です。
三角寺 大般若経箱横側
三角寺の大般若経経箱
黒い漆の箱の横に金書で書かれた内容からは、 この箱が正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが分かります。京極高澄を、グーグルで検索すると次のように出てきます。

「京極高澄(高通)は多度津藩の初代藩主。丸亀藩2代藩主高豊の子として高或が生まれる前年の元禄4年(1691)に生まれたが、正室との間の子であった高或が世継となった。しかし高豊が元禄7年に没するとその遺言により高澄には1万石が分知されて多度津藩が成立した。」
 香川県の多度津町観光協会
多度津藩の殿様

京極高登とは、多度津藩初代藩主京極高通(1691-1743)のことののようです。箱の正面を見てみましょう。

三角寺 大般若経正面

  箱の正面には「六百」と金書された引き出しが4つ。左側面には「大般若経 六百巷」と見えます。そして、上面には京極家の家紋である四つ目結があるようです。
この箱には大般若経が入れられていたようです。
『大投若経』は、正式には『大般若波羅蜜多経』で、唐代玄実の訳出で、全600巻にもなるものです。三角寺の蔵本は、全600巻の内557巻が現存します。5巻をひとまとめにして、ひとつの引き出しに25巻ずつ収められています。引き出しは4段あるので、1箱に百巻を収めることになります。全600巻ですので、箱は6つあります。「六百」と書かれているので、最後の500巻代の経が納められています。
祈り込め、大般若経の転読 山形・立石寺で法要|モバイルやましん
大般若経転読のようす

どこで作られたものなのでしょうか?
一番最後の巻第六百には、次のように記されています。

三角寺大般若経 巻末
寛文十(庚戊)仲冬吉日
中野氏是心板行
板木細工人
藤井六左衛門
彫り職人と摺り職人の名前が記され、この大般若経が寛文10年(1670)の仲冬(12月)に摺られたことが記されています。それでは表装を行ったのは誰なのでしょうか?

三角寺大般若経 巻末印

 巻末には黒印が押されています。拡大して見ると次のように読めます。
「御用所大経師 降屋内匠謹刊」

大経師(だいきょうじ)を辞書で調べると、次のように書かれています。
 「  もと朝廷御用の職人で、経巻および巻物などを表装する表具師の長。奈良の歴道である幸徳井・賀茂両氏より新暦を受けて大経師暦を発行する権利を与えられたもの」

 朝廷御用の職人で江戸初期は浜岡家が大経師でしたが、貞享元年(1684)頃に断絶し、その後に大経師となったのが降屋内匠のようです。その名前がここにあります。

三角寺 大般若経大経師
大経師
以上から、三角寺の『大般若経』は、寛文10年(1670)に摺られていた摺刷を、大経師である降屋内匠が表装したものであることが分かります。
 同じ版木で摺られた「大般若経」が滋賀県野洲市の浄満寺にもあるようです。
滋賀県野洲市 浄満寺大般若経
    浄満寺の大般若経(野洲市『広報やす 2011年』8月1号参照)
一番最後の巻末には、次のように記されています。
寛文十庚戌仲冬吉日
中野氏是心板行
版木細工人藤井六左衛門」
先ほど見た三角寺と同じ版木で刷られたことが分かります。
しかし、大経師の降屋内匠の印はありません。

三角寺大般若経巻頭
三角寺大般若経1巻 表紙見返しの貼紙
今度は大般若経の一番最初の巻を見てみましょう。
巻の表紙見返の貼紙には、次のように墨書されています。

楠公筆 京極壱岐守 高澄 
大般経(二十箱二而 六箱)六百巻 
奉寄附 本ムシナシ極上々物也 類ナシ 
正徳六丙中歳 正月十日 
金昆羅大権現宝前

 ここからは改めて三角寺の大般若経は、正徳6年(1716)に京極高登が金比羅大権現に寄進したものであることが確認できます。
今までの所を年代別に並べておきます。
1670(寛文10)年 大般若経版木の摺刷
1691(元禄 4)年 京極高通(登)誕生(丸亀藩2代藩主高豊の子)
1694(元禄 7)年 4歳で多度津藩主に
1711(正徳 元)年 京極高通が藩主として政務開始
1716(正徳 6)年 京極高通(登)が金比羅大権現に寄進
1735(享保20)年 長男・高慶に藩主の座を譲り隠居
1743(寛保 3)年 江戸藩邸で病没した。享年53。
この年表を見ると京極高通が実質的な政務を執り始めたのが1711年(20歳)の時になります。そして、その5年後に大般若経は金毘羅大権現(現金刀比羅宮)に奉納されたことになります。新しい藩の門出と、その創立者としての決意を、大般若経奉納という形で示す。そのためには、格式ある専門家やに大経師に作成を依頼する。そのような流れ中で作られたのが、この大般若経のようです。

金毘羅に寄進されたものが、どうして三角寺にあるのでしょうか?
 これについては搬入経過を示す史料がないので、よく分からないようです。
三角寺大般若経内側

ただ、巻156-160、巻476480、巻481-485、巻486-490、巻491-495の各峡の内側に「三角寺現侶 賢海完英代」と上のように墨書されています。大般若経がもたらされたときの三角寺の住持は賢海だったことが分かります。

巻1表紙見返を見てみましょう。
三角寺大般若経巻頭2

墨抹された部分には、次のように記されているようです。
発起願主
嘉永元(1848)戊中六月□□□
宇摩郡津根村八日市
近藤豊治隆重三男
完英貳十有六」

そしてその横に
「本院(三角寺)現住法印権大僧都賢海

と記します。ここに出てくる完英と賢海は同人物であることが分かっています。ここからは、当時の住職は賢海で、嘉永元年(1848)年には賢海と呼ばれ26歳であったことが分かります。棟札などからは嘉永年間には、弘宝が住持で、賢海はまだ住持ではなかったことが分かります。
  どちらにしても『大般若経』転入には、当時の住持である弘宝か、次の住持となる賢海が関係していたことがうかがえます。さらに研究者は「賢海が三角寺の住持になった後、「大投若経」巻第一の署名を再び書き直した」と推察します。以上から、「この頃(嘉永年間)に大般若経が三角寺へ持ち込まれたのではないか」とします。

  しかし、これについては私は次のような疑問を覚えます。
幕藩期において、多度津藩主が金毘羅大権現(金光院)に奉納した大般若経を、断りなく他所へ譲り渡すと言うことが許されるのでしょうか。これがもし発覚すれば大問題となるはずです。私は、大般若経が三角寺にもたらされたのは、明治の神仏分離の廃仏毀釈運動の中でのことではないかと推測します。

明治の金刀比羅宮を巡る状況を見ておきましょう。
神仏分離令を受けて、金毘羅大権現が金刀比羅宮へと権現から神社へと「変身」します。そして、権現関係の仏像や仏画は撤去され、「裏谷の倉」の一階と二階に保管されます。それが明治5(1872)年になると、神道教館設置のための資金調達のためにオークションにかけられることになります。これを差配したのが禰宜の松岡調であることは以前にお話ししました。
讃岐の神仏分離7 「神社取調」の立役者・松岡調は、どんなひと? : 瀬戸の島から
松岡調

彼の日記である『年々日記』明治五年七月十日条には、次のように記されています。(意訳)

7月10日 明日11日から始まる競売準備のために、書院のなげしに仏画などをかけて、おおよその価格を推定し係の者に記入させた。百以上の仏画があり、古新大小さまざまである。中には、智証大師作の「草の血不動」、中将卿の「草の三尊の弥陀」、弘法大師の「草の千体大黒」、明兆の「草の揚柳観音」などもあり、すぐれたものも多い。数が多過ぎて、目を休める閑もないほどであった。 

7月18日 裏谷の蔵にあった仏像の中で、商人が買いそうなものを抜き出して、問題のないものを選んで売りに出した。数多くの商人が、競い合って買う様子がおもしろい。

7月19日 昨日と同じように、次々と入札が進められ、残っていた仏像はほとんど売れた。誕生院(善通寺)の僧侶がやってきて、両界曼荼羅図を金20両で買っていった(以下略)

7月21日 御守処のセリの日である、今日も商人が集い来て、罵しり合うように大声で「入札」を行う。刀、槍、鎧の類が金30両で売れた。昨日、県庁へ書出し残しておくtことにしたもの以外を売りに出した。百幅を越える絵画を180両で売り、大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。今日で、神庫にあったものは、おおかた売り払った。

ここからは入札が順調に進み「出品」されていたものに次々と、買い手が付いて行ったことが分かります。数多くの仏像や仏画・聖教などが競売にかけられて、周辺の寺院に引き取られていったのです。
 その中に気になる記述があります。7月21日の「大般若経(大箱六百巻)を35両で売った。」です。
これが三角寺の大般若経だと私は考えています。競売が行われたのは明治5(1872)年7月です。経路は分かりませんが、それ以後に三角寺にもたらされたようです。
以上をまとめておきます
①三角寺には、多度津藩初代藩主が金毘羅大権現に奉納した大般若経がある。
②この大般若経は、京の大経師・降屋内匠に表装を依頼し、漆塗りの6つの箱に収められたもので、殿様の奉納物らしい仕立てになっている。
③入手経路についてはよく分からないが、神仏分離後に金刀比羅宮が行った仏像・仏画などの競売の際に流出したものが、何らかの経路を経て三角寺にもたらされたことが考えられる。
④金毘羅大権現から競売を通じて流出した仏像・仏画は、膨大なものがあり、善通寺など周辺の有力寺院はそれを買い求めたことが松岡調の日記からは分かる。

最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
 「四国八十八箇所霊場詳細調査報告書 第六十五番札所三角寺 三角寺奥の院 2022年 愛媛県教育委員会」の「(139P)聖教 大般若経」
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四国霊場の三角寺と、その奥院とされる仙龍寺建立の母胎になったのは、熊野行者であることは以前に次のようにお話ししました。
①阿波に入った熊野行者は吉野川を遡り、旧新宮村の熊野神社を拠点とする。
②さらに吉野川支流の銅山川を遡り、仙龍寺を行場として開く
③そして、三角寺を拠点に妻鳥(めんどり)修験者集団を形成し、瀬戸内海側に進出していく。
これらの動きを史料で補強しておきます。

P1190594
熊野神社(旧新宮村)

①の旧新宮村の熊野神社は「四国第一大霊験権現」とされ、四国の熊野信仰第一の霊場として栄えました。旧新宮村の熊野神社は縁起によると、大同2年(807)に紀伊国新宮から勧請されたと伝えます。熊野信仰拡大の拠点と考えられる神社です。
新宮の熊野神宮に残された棟札を見ておきましょう。
永禄5年(1562) 「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵」、
慶長15年(1610)「大阿閣梨三角寺□処」、
元禄2年(1689) 「遷宮導師三角寺阿閣梨倉典」
宝永7年(1710) 「遷宮導師三角寺権大僧都法印盛弘」
延享3年(1746) 「遷宮導師三角寺大阿閣梨瑞真」
天明2年(1782) 「遷宮導師三角寺現住弘弁」
天明6年(1786)「遷宮導師三角寺現主一如」
文化14年(1817)「三角寺当職一如」
文政7年(1824)「遷宮導師三角寺上人重如」
嘉永2年(1849)「遷宮師三角寺法印権大僧都円心」
熊野神社の棟札には、遷宮導師として三角寺住持の名前があります。
  遷宮とは、新築や修理の際に一時的に神社の本殿などご神体を移すことで、その導師をつとめるのは最高責任者です。ここからは神仏分離以前には、新宮熊野神社は三角寺の社僧の管理下に置かれ、社僧(修験者)達によって運営されていたことが分かります。近世の旧新宮村や阿波西部の三好郡の社寺も山川村も同じような状況にあったことが推測できます。これは、多度津の道隆寺が多度津から荘内半島、そして塩飽に至る寺社の遷宮導師を務め、備讃瀬戸エリアを自己の影響下に置いていたのと同じような光景です。三角寺は「四国第一大霊験権現」である新宮の熊野神社を管理下に置くことで、広い宗教的なネットワークや信者を持っていたことがうかがえます。
P1190589
熊野神社(旧新宮村)
『熊野那智大社文書』の「潮崎稜威主文書」永正2年(1505)3月20日には、次のように記されています。
「熊野先達は妻鳥三角寺、法花寺、檀那は地下一族」

「米良文書」にも「熊野先達には妻鳥三角寺、法花寺」と記されています。ここからは、三角寺は熊野信仰の先達をつとめたいたことが分かります。

1三角寺 文殊菩薩 胎内名

近年、三角寺の文殊菩薩騎獅子像の胎内から墨書が発見されたことは以前にお話ししました。
この像は、文禄2(1593)年に三角寺住僧の乗慶が施主となり、薩摩出身の仏師が制作したものです。研究者が注目するのは、この墨書の中に「四国辺路之供養」の文字があることです。ここからは、かつて熊野先達として活動していた妻鳥三角寺の修験者たちが16世紀後半には「四国辺路」を行っていたことが分かります。かつての熊野先達を務めていた修験者が、巡礼先を「四国辺路」へと換えながら山岳修行を続けている姿が見えてきます。そのような修験者たちが三角寺周辺には数多くいて、彼らが旧新宮村から山川村周辺の熊野信仰エリアを影響下に置いていたということになります。

今日の本題に入ります。
三角寺の由来となった「三角」とは、何を表しているのでしょうか?
 三角寺の縁起は、次のように伝えます。

弘法大師が巡錫、本尊十一面観音と不動明王像を彫刻し、更に境内に三角の護摩壇を築き、21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念して降伏護摩の秘法を修行。三角の池はその遺跡で、寺号を三角寺と称するようになった

 修験道や密教では、護摩祈祷を行います。普通は四角に護摩壇は組まれます。これは「国家の安泰と万民の福祉を祈念」するためのものです。ところが、弘法大師はここでは「三角の護摩壇」を築いています。これは、呪誼や降伏など、悪いものを鎮め、封じ込めるときのもので、特別な護摩壇です。

三角寺 三角護摩壇
護摩壇各種
何を封じ込めるために空海は三角護摩壇を築いたのでしょうか。『四国偏礼霊場記』の三角寺の挿絵を見てみましょう。

三角寺 四国遍礼霊場記
『四国偏礼霊場記』の三角寺
 
三角寺背後に竜玉山(龍王山)があります。龍王山と言えば「善女龍王」の龍の住む山です。龍はすなわち水神です。水源神として龍王がまつられ、その本地を十一面観音とします。龍王は荒れやすく「取扱注意」の神なので、これを鎮めるための三角の護摩壇が作られた。その結果、水を与え、農耕を護る水神(龍)となったという信仰がもともとあったのでしょう。これが弘法大師と結びついて、この縁起ができたと研究者は考えています。
 そうすると三角寺の縁起には、弘法大師が悪い龍を退治・降参させて、農民のために水を出しましょうと約束させたという処が脱落していることになります。それを補って考えるべきだと研究者は言うのです。
三角寺 三角護摩壇2
三角寺 三角池の碑文

 『四国偏礼霊場記』の挿絵をもう一度見てみましょう。本堂の前に「三角嶋」があります。これが三角の護摩壇に由来するようです。しかし、現在はここには龍王ではなくて、弁天さんを祀られています。現在の三角寺の弁天さんからは、龍(水神)につながるものは見えて来ません。
1三角寺の護摩壇跡
三角池に祀られた弁天(三角寺)

  それでは龍神信仰は、どこに行ったのでしょうか?
龍王山の向こう側にあるのが仙龍寺になります。

仙龍寺 三角寺奥の院
仙龍寺
遍路記でもっとも古い澄禅の「四国辺路日記」(承応2年(1653)で、三角寺と仙龍寺を見ておきましょう。
此三角寺ハ与州第一ノ大坂大難所ナリ。三十余町上り漸行至ル。
三角寺 本堂東向、本尊十一面観音。前庭ノ紅葉無類ノ名木也じ寺主ハ四十斗ノイ曽也。是ヨリ奥院ヘハ大山ヲ越テ行事五十町ナリ。堂ノ前ヲ通テ坂ヲ上ル。辺路修行者ノ中ニモ此奥院へ参詣スルハ希也卜云ガ、誠二人ノ可通道ニテハ無シ。只所々二草結ビノ在ヲ道ノ知ベニシテ山坂ヲタドリ上ル。峠二至テ又深谷ノ底エツルベ下二下、小石マチリノ赤地。鳥モカケリ難キ巌石ノ間ヨリ枯木トモ生出タルハ、桂景二於テハ中々難述筆舌。木ノ枝二取付テ下ル事二十余町ニシテ谷底ニ至ル。扱、奥院ハ渓水ノ流タル石上ニ二間四面ノ御影堂東向二在り。大師十八歳ノ時此山デト踏分ケサセ玉テ、寺像ヲ彫刻シ玉ヒテ安置シ玉フト也。又北ノ方二岩ノ洞二鎮守権現ノホコラ在。又堂ノ内陣二御所持ノ鈴在り、同硯有り、皆宝物也。寺モ巌上ニカケ作り也。乗念卜云本結切ノ禅門住持ス。昔ヨリケ様ノ無知無能ノ道心者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハー日モ堪忍不成卜也。其夜爰に二宿ス。以上、伊予象国分十六ケ所ノ札成就ス。
  意訳変換しておくと
三角寺は伊予第一の長い坂が続く大難所である。ゆっくりと30町ほど登っていくと到着する。
三角寺の本堂は東向で、本尊は十一面観音。前庭の紅葉は無類の名木である。寺主は四十歳ほどの僧侶である。ここから奥院は大山を越えて50町である。堂の前を通って。坂を上がって行く。辺路修行者の中でも、奥院へ参詣する者はあまりいないという。そのためか人が通るような道ではない。ただ所々に草結びの印があり、これを道しるべの代わりとして山坂をたどり登る。峠からは今度は深し谷底へ釣瓶落としのように下って行く。小石混じりの赤土の道、鳥も留まらないような巌石の間から枯木が生出ている様は桂景ではあるが、下って行くには難渋である。
 木の枝に取付て下っていくこと20余町で谷底に至る。奥院は渓流の石上二間四面の御影堂が東向に建っている。こここには弘法大師が18歳の時に、やって来て自像を彫刻したものが安置されている。また北方の岩の洞には、鎮守権現の祠がある。又堂の内陣には、弘法大師が所持した鈴や硯もあり、すべて宝物となっている。
 寺は、巌上に建つ懸崖造りである。ここには乗念という本結切の禅門僧が住持している。昔ながらの無知無能の道心者のようで、「六字ノ念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は、堪忍ならず」と、言って憚らず、阿弥陀念仏信仰に敵意をむき出しにしている。その夜は、ここに宿泊した。以上で伊予国分十六ケ所の札所を成就した。

ここからは次のようなことが分かります。
①17世紀中頃には、三角寺から仙龍寺への参道を歩く「辺路者」は少なく、道は荒れていた。
②弘法大師の自像・鈴・硯などが安置され、早い時期から弘法大師伝説が伝わっていたこと。
③御影堂は「石上の二間四面」で、伽藍は小規模なものであったこと
④住持は禅宗僧侶が一人であり、念仏信仰に敵意を持っていたこと
⑤伽藍全体は小さく、住持も一人で、この時期の仙龍寺は衰退していたこと
ちなみに作者の澄禅は、高野山の念仏聖で各札所では念仏を唱えていたことは以前にお話ししました。「念仏禁止令」を広言する仙龍寺の禅宗僧侶を苦々しく思っていたことがうかがえます。
三角寺奥院 仙龍寺 松浦武四郎
仙龍寺 

 ここからは奥院が辺路修行の霊場で、修行者は仙人堂で滝行や窟寵りをしていたことが分かります。そして、仙龍寺には弘法大師伝説が早くから伝えられていました。そして仙龍寺の経営者達は、最初に見たように熊野行者であった妻鳥修験者たちです。彼らは時代が下ると、仙龍寺までは遠く険しいので、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本尊十一面観音を下ろします。これが三角寺へと発展していくようです。
 こうして生まれた三角寺には最初は、「三角嶋」が作られ空海による龍王封じ込め伝説が語られたのかも知れません。しかし、もともとは仙龍寺を舞台とした伝説のために三角寺では根付かなかったようです。三角嶋は、いまでは善女龍王にかわって弁天さま祀られていることは前述したとおりです。
三角寺 奥の院仙龍寺
仙龍寺 
一方、行場の方も仙人堂を仙龍寺として独立します。
そして、谷川の岩壁の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化します。仙龍寺の大師は、今は作大師として米作の神となっているのは、水源信仰の「変化形」のひとつと研究者は考えています。

以上をまとめておくと
①吉野川の支流銅山川一帯には、古くから熊野行者が入り込み新宮の熊野神社を拠点に活動を展開した。
②銅山川上流の行場に開かれて仙龍寺には水神信仰があり、それが弘法大師伝説を通じて龍神信仰と結びついた。
③そのため仙龍寺には、弘法大師が三角の護摩壇で龍神を封じ込めたという言い伝えが生まれた。
④その後、本寺が仙龍寺から里に下ろされ、三角寺と名付けられたが、龍神を封じ込めた三角護摩壇という言い伝えは、伝わらなかった。
⑤そのため現在の三角寺には「三角嶋」はあるが、そこには龍神でなく弁天が祀られている。
参考文献
三角寺調査報告書 愛媛県教育委員会2022年

 
三角寺(65番)さんかくじ | マイカーお遍路

 四国八十八ヶ所霊場第六十五番札所の三角寺(四国中央市)の文殊菩薩騎獅像には、胎内に「四国辺路」の言葉があるようです。この像は文禄二年(1592)造立なので、早い時期の四国辺路の字句になります。この像が造られた時期の三角寺や四国辺路を研究者は、どのように考えているのでしょうか見ていくことにします。テキストは「武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程所収」  です
1三角寺 文殊菩薩 胎内名

文殊菩薩像について、研究者は次のように報告します。
本像は獅子に来る文殊菩薩像、いわゆる騎獅文殊像で、像高八〇・センチメートル、獅子の高さ六八・二センチメートル、体長八八・四センチメートルである。まず像容をみると、頭部に宝冠(欠失)を戴き、右手を前に出し、何か(剣か)を握るようにし、左手も前に出して同じく何か(経巻か)を執るように造られ、右足を上に結珈践坐する。

三角寺 文殊菩薩騎獅子像
文殊菩薩騎像(三角寺)
上半身には条錦を着け、下半身には裳をまとうが、条錦を右肩に懸けており、着衣法は通例とは異なる

三角寺 文殊菩薩坐像の獅子像
騎獅文殊像の獅子像(三角寺)
獅子は四肢を伸ばし立つ。口を開け、大きく両日を見開き、頭部にはたて髪が表されている。文殊苦薩像の構造をみると、体部は前後に矧ぎ合わせ、これに両層から先を矧ぎつけるが、両手とも肘の部分で矧ぐ。頭部は差し首とし、面部の前面部を別材で矧ぎつけ限や日を彫る。膝前は横に一材としている。獅子は胴部、前脚部、後脚部、頭部の四つに大きく分けられる。
研究者は、文殊菩薩像・獅子ともに造形的にはあまりすぐれたものとはいえず、着衣法にも問題点があることなどから地元で造られた像とします。そして、専門の仏師の手によるものではなく、修験者などによって彫られたものと考えているようです。しかし、お宝は胎内から見つかりました。

三角寺 文殊菩薩騎 体内jpg
騎獅文殊像の胎内銘文

次に胎内から見つかった銘文を見てみましょう。
                              
丈殊像の胸部内側と膝部の底部に、次のような墨書を研究者は見つけます。
蓮花木三阿已巳さ□□名主城大夫
かすがい十六妻鳥の下彦―郎子の年
             同二親タメ
四国辺路之供養二如此山里諸旦那那勧進 殊辺路衆勤め候
(梵字)南無大聖文殊師利菩薩施主本願三角寺住仙乗慶(花押)    四十六歳申年
先師勢恵法印 道香妙法二親タメ也 此佐字始正月十六日来九月一日成就也。仏子者生国九州薩摩意乗院 其以後四国与州宇摩之郡東口法花寺
おの本                                佐意(花押)
  意訳変換しておくと
この像が造られたのは四国辺路の供養のためである。造立に当たっては、この里山(三角寺周辺地域?)の諸旦那が勧進した、特に辺路衆が関与した。施主本願は、 三角寺の僧である乗慶(四十六歳)で、先師の勢恵法印、道香妙法二親のためであり、正月に始めて9月1日に成就した。仏師は薩摩の意乗院の出身で、その後に伊予国宇摩郡東口の法花寺に住した佐意である。

ここからは次のようなことが分かります。
①この騎獅文殊像が四国辺路供養のために作れたこと
②寄進者は三角寺周辺の檀那たちで、辺路衆(修験者)が勧進活動を
行った。
③施主は三角寺住持の乗慶で、その師である勢恵と道香に奉納するものであった。
④仏師は最初は薩摩の意乗院で、その後は法花寺の佐意が引き継いだ。
③の「勢恵」は、新宮村の熊野神社の永禄5年(1562)の棟札(『新宮村誌』歴史・行政編1998年)に「遷宮阿閣梨三角寺住持勢恵修之」とみえます。ここからは、三角寺住持が新宮熊野神社の遷宮の導師を勤めていたことが分かります。銅山川流域では熊野信仰と三角寺が深い関わりを持っていたことを研究者は指摘します。

仏師の佐意が住持を勤めた法花寺は、現在はないようです。
しかし、三角寺の東麓ある浄土真宗東本願寺の西向山法花院正善寺の縁起には、次のようなことが記されています。

当寺開来之儀は、日向国延岡領、右近殿御内、山川刑部大輔五郎左工門国秀と申す者、永禄年中当地へ罷越し候節、同人檀檀寺の永蔵坊と中す者、秘仏を負い四州霊場順拝の発心にて、五郎左エ門と同道にて、自然当地に住居と相成り候て、右永蔵坊儀始めて当寺を取立て申候儀に御座候申し伝へ云々。

これを先ほどの胎内墨書と比べて見ると、次の点がよく似ていることに気づきます。
①仏師の佐意の出身地が「薩摩と日向」、建立した寺院が「法花院と法花寺」のちがいはありますが、
②三角寺に近いことや、四国辺路のことが書かれていて内容が似通っている
三角寺 文殊菩薩騎 体内墨書jpg

胎内銘の残り部分を見ておきましょう
阿巳代官六介  同寿延御取持日那     丑年四十一 如房
同奥院慶祐住持                同お宮六歳子年
同弟子中納・同少納吾五郎大夫
本願三角寺住呂    為現善安穏後生善処也
文禄二季 九月一日仏子佐意   六十二歳辰之年
ここには、奥院の住持慶祐や、その下には弟子の中納言・少納言が登場します。ここに出てくる奥院というのは、仙龍寺のことです。
以前にもお話したように、この仙龍寺は本来の行場に近く、古くから弘法人師の信仰がみられる所です。承応二年(1653)の澄禅『四国辺路日記』のなかにも詳しく記されていて、札所寺院ではありませんでしたが、四国辺路にとっては特に重要な寺であったようです。そのためか澄禅もわざわざここを訪れています。そして、ここでは念仏を唱えることはまかりならんと、山伏の住持から威圧されたことを記しています。ここからは澄禅が訪れた頃には、仙龍寺では他の霊場に先駆けて、「脱念仏運動」が展開していた気配が感じられます。

四国別格13番 仙龍寺

 仙龍寺の本尊である弘法人師像は、南北朝時代~室町時代にまで迎るものとされ、弘法大師が自ら彫刻したと伝えるにふさわしい像と研究者は指摘します。また弟子の名前として出てくる中納言・少納言という呼称も、いかにも山伏(修験者)らしい雰囲気です。仙龍寺が里の妻鳥修験集団の拠点であったことがうかがえます。
最後に文禄二年(1593)九月一日、仏子(師)佐意、六十三歳とあります。ここからは、この像が文禄二年の戦国時代末期に作られたことが分かります。秀吉が天下を統一し、朝鮮半島に兵を送り込んでいた時代になります。
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「四国辺路」という言葉が最初に出てくるのは鎌倉時代になってからです。

先例としては弘安年間(1278~)の醍醐寺文書や正応四年(1291)神奈川県八菅神社の碑伝があります。
室町時代後期になると次のような例が出てきます。
永正十年(1513) 讃岐国分寺の本尊落書
大永五年(1525) 伊予浄土寺の本尊厨子落書き
永禄十年(1567) 伊予石手寺の落書き
天正十九年(1591)土佐佐久礼の辺路成就碑
以上のように中世にまで遡れる「四国辺路」の例は、多くはありません。三角寺の文殊菩薩騎獅像は、これらに続くものになるようです。

 澄禅『四国辺路日記』の三角寺の項には、文殊菩薩騎獅像について何も記されていません。
しかし、澄禅より三十数年後の元禄二年(1689)刊の真念『四国遍礼霊場記」には
「もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢、竜王等種々の宮堂相並ぶときこへたり」

とあるので、かつては三角寺に文殊堂があったようです。この像は、その文殊堂に安置されていたことになります。では、どうして文殊菩薩は祀られたのかを研究者は考えます。今のところは、それを解く鍵は見つかっていないようです。ただ、この像が造られた16世紀後半は、秀吉の天下から家康の天下へとおおきく世の中が変わっていく時代です。そのようななかで、四国辺路もプロが行う修行的な辺路から、アマチュアが参加する遍路への転換期でした。「説経苅萱」「高野の巻」のように、四国辺路に関する縁起が作られ、功徳が説かれ始めた頃です。このような中での新たな取り組みの一環だったのではないかと研究者は考えているようです。
Ο χρήστης 奈良国立博物館 Nara National Museum, Japan στο Twitter:  "【忍性展】重要文化財「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」般若寺のご本尊に期間限定でお出ましいただきました!後醍醐天皇の護持僧、文観の発願による文殊像です。展示は8/11まで。  #鎌倉 #奈良 #仏像 ...
「文殊菩薩騎獅像(般若寺蔵)」重要文化財
いままで信仰してきた神や仏に変わって、新しい時代の神仏の登場が待ち望まれるようになります。それは、讃岐の金比羅(琴平)を、とりまく状況と変わらなかったのかも知れません。新たな「流行(はやり)神」の創出という庶民の期待に応じて、宥雅は金毘羅神を創造しました。それは当時の四国辺路をとりまく僧侶や修験者(山伏)の共通課題だったのかもしれません。
 世の中が安定してくる元禄時代になると、庶民が四国遍路にやって来るようになえいます。三角寺の文殊菩薩騎獅像がつくられるのは、その前史に位置づけられるようです。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
  参考文献 武田和昭  愛媛三角寺蔵文殊菩薩蔵胎内銘  四国辺路の形成過程

  小豆島霊場の真言宗のお寺では、今でも日常的に護摩祈祷を行っています。そこで用いられるのは四角い護摩壇です。ところが三角の護摩壇もあったようです。これは特別なもので、悪霊や邪悪なものを鎮めてしまう時に用いられたようです。その三角の護摩壇が寺の名前になっているのが三角寺のようです。どんな悪霊を鎮めたのでしょうか?
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四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

意訳変換しておくと
①この寺の本尊は十一面観音で、大きさは長六尺二寸。大師の御作で、60年毎の甲子の年に開帳する。
②今は弥勒堂があり、これにちなんで慈尊院と云うのだろうと思い当たる。
③もともとは阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂が並んでいたという。
④社の前に池があり、その中の嶋に大きな老杉がある。弘法大師も、この池から龍王が出て行くのを見たという。
⑤庚嶺は、もろこしの梅の名所となっている。ここももともと、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

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ここからは次のような事が分かります。
①②については、弥勒菩薩は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことになります。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているようです。この「お寺のもともとの本尊は弥勒菩薩だったのが、後から十一面観音を移して本尊としたと研究者は考えているようです。
③には、阿弥陀堂がありますので、ここが熊野系の念仏聖の拠点だったようです。周辺に真言念仏の信者達がいたことがうかがえます。
④社前の池で弘法大師は三角護摩壇で祈祷を行い、龍王を追い出した。ここから三角寺と称したのだと解釈しています。
三角形の護摩壇の跡 三角の池 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー
雨沢龍王

 ③に挙げられる緒堂の中の「雨沢龍王」を見ておきましょう。
これは龍王山の龍王です。これを調伏するために三角の護摩壇がありました。「社の前に池あり」の「社」とは、雨沢龍王の社伝を指します。その前に池があったようです。今は、龍王ではなくて、島の中に弁天さんが祀られています。かつては善女龍王を祀っていた社が、庶民の信仰変化を受けて弁天さんに取って代わられているのと同じ現象です。今は龍王は、奥の院の仙龍寺でまつっているようです。
③には「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、由来には
「龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた」

とされています。つまり、弘法大師がここで龍王を調伏した。それがこの池に設けられた三角護摩壇だということになります。しかし、三角寺の縁起には、悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

三角寺(四国第六十五番)の情報| 御朱印集めに 神社・お寺検索No.1/神社がいいね・お寺がいいね|13万件以上の神社仏閣情報掲載
三角形の護摩壇跡 今は池になっています

 この寺の起源は龍王の水源信仰にあるようです。
龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための三角護摩が焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができているようです。旱魃に苦しむときには里の人々は、三角寺の僧侶(修験者)に護摩祈祷を依頼したのでしょう。
四国中央巡り7】オススメ!幽玄の世界『奥の院 仙龍寺』 : 【エヒメン】愛媛県男子の諸々
奥の院 仙龍寺

  それでは、その水源はどこにあるのでしょうか。
三角寺周辺には、それらしきところが見当たりません。
それは龍王山の反対側の山向こうの谷にあります。そこには龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。これが三角寺の奥の院でした。仙龍寺は何故か、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。
 実は昔の奥の院は、現在の仙龍寺のもっと上にあったようです。旧奥の院跡としておきましょう。これが仙龍寺と三角寺の共通の奥の院になります。そこが水源信仰の聖地だったようで、その水源神として祀られていたのが雨沢龍王です。その本地仏は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王になります。龍王は荒れやすい神です。それを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと研究者は考えているようです。 四国・愛媛】龍が棲む山 仙龍寺 | 備忘録

今度は三角寺の奥の院仙龍寺の歴史を見てみましょう
①里人は里から望める龍王山を龍の住む霊山として崇めた
②そこに弘法大師(熊野系修験者)がやってきて龍王を調伏した
③そして旧奥の院に、水源神として雨沢龍王やその本地物・十一面観音が祀られた。
④旧奥の院の下流の行場には、多くの行者が滝行や窟寵りをするために訪れるようになった
⑤そこに仙人堂を建てられ、仙龍寺として独立し、後には舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化した
⑥仙龍寺の大師は「作大師」として米作の神とされるのは、旧奥社以来の水源信仰を受けているから。
 この仙龍寺や宿坊の運営に関わったのが地元の「めんどり先達」と呼ばれる熊野先達たちでした。彼らは旦那を熊野詣でに誘引すると同時に、仙龍寺やその宿坊の「広報活動」を展開したようです。仙龍寺の信者達が中国地方や九州からもやって来ていたのは、そのような背景があるからだと私は考えています。

澄禅の「四国辺路日記」には、65番三角寺の奥之院仙龍寺での出来事を、次のように記します。

昔ヨリケ様ノ(中略)者住持スルニ、六字ノ念仏ヲモ直二申ス者ハ一日モ堪忍成ラズト也。共夜爰に二宿ス。以上伊予国分二十六ケ所ノ札成就ス。

意訳変換すると
昔から住み着いた住持が言うには、六字の念仏(南無阿弥陀仏)を唱える者は堪忍できないという。その夜は、ここに泊まる。以上で伊予国二十六ヶ寺が成就した。

ここからは、次のようなことが分かります。
①仙龍寺の住持が、念仏信仰者に対して激しい嫌悪感を示していること。
②それに対して、澄禅は厳しく批判していること。ここから彼自身は念仏信者であったこと
③澄禅以外にも遍路の中には「南無阿弥陀仏」を唱える者が多くいたこと
④しかし、17世紀後半の仙龍寺では念仏排斥運動が起こっていたこと
⑤一方、三角寺には阿弥陀堂が建立され、念仏信仰が保持されていたこと
この時期に修験者たちの間には、念仏排斥運動が起きていたのかもしれません。
1三角寺~仙龍寺 遍路地図

三角寺は、いつ、どのように姿を見せたのでしょうか
中世の辺路修行者は、行場で修行するために霊場を廻っていました。しかし、近世の遍路はアマチュアで辺路修行は行わず、納経と朱印が目的化します。彼らにとって険しく不便な山の上の札所に行く必要はないのです。そのため札所寺院は、遍路の便を図って里に下りてくるようになります。
 仙龍寺が札所では、平石山を超して遍路はやって来なければなりません。仙龍寺には、瀬戸内側の平石山の北麓に、弥勒菩薩を本尊とする末寺の慈尊院がありました。ここを新しい札所にすることにします。こうして、雨沢龍王の本地仏であった十一面観音は旧奥の院から慈尊院に下ろされて本尊とします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られたり、雨沢龍王などのお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から「里下り」したお寺さんなのです。ところが、後に仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、現在では関係が断ち切られているようです。その原因は、三角寺が弘法大師信仰に転換してから起きたようです。それはまた別の機会にして・・。
65番札所 三角寺遍路トレッキング - さぬき 里山 自然探訪&トレッキング

三角寺に残された古い仏像を見てみましょう
①本尊は平安時代前期、十世紀前半の十一面観音立像で、四国内でも屈指の古像
②毘沙門天立像は足下に地天が置かれた兜跛毘沙門で、平安時代後期十一世紀の制作
③不動明王も平安時代末期12世紀の古像
④本堂には平安時代後期11世紀の聖観音菩薩立像
⑤別の御堂には、朽ち果てた尊名不明の大きな像(平安時代後期以前)
 ここには、平安時代後期の仏達がそろっています。
以上からある研究者は三角寺を、次のように高く評価します
「四国霊場の中でも、屈指の古い歴史を誇り、特筆すべき重要な寺院」

現在の本尊とされている①の「十世紀前半の十一面観音立像」ですから、同じ時期には三角寺も現在地に建立されたものと私は考えていました。ところがそうともいえないことは、先述したとおりです。近世になって三角寺が旧奥の院から里下りしてきたときに、移されたもののようです。残念ですが三角寺には古代・中世の史料がないので、詳しい寺歴が分かりません。その姿が見えてくるのは16世紀末期になってからです。

三角寺 本堂 - 四国中央市、三角寺の写真 - トリップアドバイザー

 本堂内に安置されている騎獅文殊像には胎内銘が記されます。それを要約すると、次のようになります。
①文殊像の造立には四国辺路の供養のため、里山(三角寺周辺)の諸旦那や辺路衆が参加した
②施主は三角寺の乗慶、仏師は薩摩出身で、法花寺に住した佐意
③三角寺奥院(仙龍寺)の慶祐と、その弟子も助力して
④文禄二年(1593)に造立された
 これに関連して三角寺の麓にある東本願寺末の正善寺の縁起は、次のように伝えます
⑤日向国出身の山川刑部大輔五郎左工門国秀が、永禄年間(1558~70)中に当地に来た。
⑥そして、この土地の永蔵坊とともにふたりで秘仏を背負い四国霊場を巡拝した
⑦やがてこの地に住み着いき、水蔵坊が正善寺を開いた
ここに登場する五郎左工門国秀や永蔵坊は、廻国聖か山伏のような修行者だと研究者は考えているようです。二人は秘仏を背負って「四国辺路修行」を行っています。これがすぐに②の胎内銘の法花寺の仏師佐意と直結するものではないかもしれません。
しかし、次のような事は分かります。
①この文殊苦薩像は四国辺路衆が関与したこと
②三角寺奥院(仙龍寺)には、中納言や少納言と名乗る僧がいたこと
③仏師が九州薩摩から移り住んだ山伏か廻国聖とみられる人物であったこと
ここからは戦国時代頃の三角寺も、廻国性の強い修験者や聖達を受けいれやすい雰囲気に包まれた寺院であったようです。
その後、寛文十三(1673)に本堂(観青堂)が建立されます。
その棟札からは、次のような事が分かります。
①発起人は山伏の「滝宮宝性院先住権大僧都法印大越家宥栄」と「奥之院の道正」です。
②本願は「滝宮宝性院権大僧都宥園と奥之院の道珍」
③勧進は「四国万人講信濃国の宗清」
④導師は地蔵院(萩原寺)の真尊上人
 このうちで①の「大越家」は当山派で大峰入峰三十六度の僧に与えられる位階で、出世法印に次ぐ2番目の高い位になるようです。宥栄は当山派に属する修験者たちの指導者であり、本山の醍醐寺や吉野の寺寺へ足繁く通っていたことが分かります。江戸時代初期の三角寺や奥の院には、それ以前にも増して山伏や勧進聖のような人物が数多くいたようです。
 気になるのは③の「四国万人講信濃国の宗清」です。四国万人講とは、どんな組織で、活動内容はどんなことをしていたのでしょうか。四国辺路をする人々に勧進を行っていたのかもしれません。これらの人物は、三角寺住持の支配下で勧進など、さまざまな宗教活動していたのでしょう。それが本堂再建(創建?)の原動力になっていたはずです。そして、ここには藩主の寄進や保護はみられません。

④の導師を勤めているのが萩原寺(観音寺市)の真尊上人であることも抑えておきたい点です。
萩原寺は、雲辺寺の本寺にも当たります。ここからは、三角寺は萩原寺を通じて雲辺寺とも深いつながりがあったことがうかがえます。高野山の真言密教系の僧侶のつながりがあるようです。もちろん彼らは弘法大師信仰の持ち主で、その信仰拡大のために尽力する立場の人たちです。
次いで貞享四(1687)年には、弥勒堂が建されます。
これは、四国における弘法大師入定信仰の拡がりを示すものだと研究者は考えているようです。弘法大師入定信仰と「同行二人」信仰は、深いつながりがあることは以前にお話ししました。
このように江戸時代初期前後の三角寺は「弘法大師信仰+念仏信仰+修験道」が混ざり合った宗教空間であったようです。
現在の四国霊場の形成史を研究する人たちは、霊場の起源を熊野信仰に求めようとしています。
霊場の多くが熊野権現を鎮守としていることから、霊場の開山は熊野行者によって行われたと考えるのです。その後に、若き日の空海のような沙門たちや、行者達がやってきて、行場として賑わい、そこに庵ができてお寺へと成長して行くという物語になります。
 その寺院は、ときどきの流行の仏教信仰に刻印されます。高野系の念仏僧によって、阿弥陀信仰の拠点になったり、弘法大師信仰が高まるとそれを受けいれたり、同時に弥勒信仰を受けいれたりしていきます。そのため霊場に伝わる仏教思想は重層的です。いろいろな痕跡を見せてくれます。三角寺も、雨乞い信仰=龍神信仰、熊野信仰、阿弥陀信仰、弘法大師信仰、弥勒信仰などの痕跡がお堂や残された仏像から見えてきます。

三角寺に残る熊野信仰の痕跡を見てみましょう
熊野に残る「熊野那智人社文書」には、次のような伊予の旦那売券があります。
永代うり渡□旦那之事芋
合八貫九百文
右彼旦那ハいせの国高野之宮成寺円弟引、
同いよのめんとり先達 
同法華寺、何も地下一族ニ 依有用々
永代八貫九百文二廓之坊へうり渡申処実正也(後略)
永正二年三月二十日        山城
廓坊                      助能(花押)
「伊与国もれ分先達之事」
一、めんとり先達三角寺法花寺の坊
一後略)
意訳変換しておくと
熊野先達の旦那権利について、八貫九百文で永代売り渡すことについて
伊勢国高野の宮成寺円弟が保持していた伊予の旦那権を、伊予のめんとり(妻鳥)先達の三ヶ寺と法華寺に永代譲渡する。以後は、地下(じけ)によって旦那権を管理する
この永代権を八貫九百文で廓之坊へ譲渡する(後略)
ここからは次のような事が分かります。
①永正二年(1505)三月二十日に伊勢の先達から伊予のめんどり先達が伊予の旦那権を購入したこと
②「めんとり先達三角寺法花寺の坊」とあるので、めんとり(妻鳥)先達と総称される中に、三角寺と法花寺も含まれていること
③したがって三角寺や法花寺の寺中に、熊野先達として活動した人物がいたこと。
以上からは、16世紀初頭から戦国時代にかけて、 三角寺周辺の旦那達が、これらの先達に率いられて熊野に参詣していたことがうかがえます。そして本堂に安置される四国辺路供養の文殊菩薩像に銘文にある三角寺と法花寺とは、このニケ寺になると研究者は考えているようです。
  このように三角寺周辺には「めんどり先達」とよばれる熊野修験者集団が活発な活動を行っていたことが分かります。

最後に、三角寺周辺の熊野行者はどのようなルートでやって来たのでしょうか。
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新宮の熊野神社(四国中央市)

   伊予の古い勧請事例は大同二年(807)勧請と伝えられる旧新宮村の熊野神社です。東伊予の熊野信仰は、阿波から吉野川沿いに伝えられ、その支流である銅山川沿いの新宮村の熊野神社を拠点に愛媛県内に入ってきたと研究者は考えているようです。その意味で新宮の熊野神社は、宇摩地方の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたようです。そのため次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
四国霊場の三角寺やその奥社の仙龍寺は、熊野行者の行場が里下りしたお寺のようです。 
参考文献
武田和昭 四国辺路の形成過程 第二章 四国辺路と阿弥陀・念仏信仰

  三角寺-三角の護摩壇と龍
 
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 呪誼で、悪いものを鎮めてしまう壇が三角の護摩壇です。これが三角であることをご記憶いただきたいとかもいます。三角寺の発祥については、『四国偏礼霊場記』の挿絵を見ないと、その理由がわかりません。 

なぜ三角かなのか?

龍王山の反対側に奥の院があって、龍がいるということから、現在は仙龍寺という名前になっています。ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。
 さて、その龍のことですが、三角寺の縁起には悪い龍を弘法大師が追い詰めたら降参して、農民のために水を出しましょうと約束したということが脱落しています。

 御詠歌は、「おそろしや三つの角にも入るならば 心をまろく慈悲を念ぜよ」です。「三つの角」は三角寺という意味です。三角の中に入ったら恐ろしいから、角が立たないように心をまろくして、人に慈悲を施すように念じなさいということです。ただ、古い時代は「慈悲を念ぜよ」が「弥陀をたのめよ」となっていたようです。
 縁起は、聖武天皇の勅願で行基菩薩の開基、弘仁六年(八一五)だと書いています。高野山を開いたのが弘仁七年ですから、それより古いということでしょうか。
 弘法大師がここにやってきて、十一面観音と不動明王を作ったと書いていますが、不動さんは奥の院でまつっていました。ここに出てくる十一面観音が、三角寺の現在の本尊の十一面観音です。
 
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『四国偏礼霊場記』は三角寺の歴史について、次のように書いています。
此寺本尊十一面観音、長六尺二寸、`大師の御作、甲子の年に当て開帳す。今弥勒堂を存ず。慈尊院の名思ひあはす。もと阿弥陀堂、文殊堂、護摩堂、雨沢龍王等、種々の宮堂相並ぶときこえたり。社の前、池あり。嶋に数囲の老杉あり。大師の時、此池より龍王出て、大師御覧ぜしとなん。庚嶺はもろこしの梅の名所也。此所も本、梅おほかりしによつて此名を得るにや。

「甲子の年に当て開帳す」とあるので、六十年に一度、開帳したようです。
 弥勒堂があるということについて、三角寺には弥勒堂と弥勒仏があって、分離するときにすでにあった弥勒を本尊とするお寺に十一面観音を移して本尊にし、三角の修法壇があったので三角寺と称したのだと解釈しています。もとあったのは弥勒を本尊とするお寺だと考えないといけません。そこに下りてきて、三角寺ができました。
 弥勒という仏様は慈悲の仏だといわれているので「慈尊」は弥勒のことです。それで慈尊院という名前がおもい合わされると、『四国偏礼霊場記』は書いているわけです。 
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 雨沢龍王は龍王山の龍王です。

これを調伏するための三角の護摩壇がありました。いろいろなお宮やお堂が並んでいるという評判であると書いています。雨沢龍王の神の前に池がありました。いまは龍王ではなくて、島の中に弁天さんをまつっています。龍王は奥の院の仙龍寺でまつっています。
 「大師御覧ぜしとなん」と書いていますが、見ただけではない、龍を追い出した、あるいは調伏して水を出すことを誓わせた、ということを補って考えてください。
 いまは山号の庚嶺山の「庚」という字を「由」と変えています。しかし、『四国偏礼霊場記』は痩せた嶺の山だと解釈して、「庚嶺はもろこしの梅の名所也」といっています。幽霊山と書いたものがあるのは、庚嶺山をなまって「ユウレイ」といっていたのを幽霊と書いてしまったのだとおもいます。
 つまり、ここに出現した龍王を調伏したという話から、本寺はもとの奥の院にあって、水源信仰があったことが推定されます。龍はすなわち水神です。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地を十一面観音としたけれども、龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩作焚かれて、その結果、水を与え、農耕を護る水神となったという信仰がもとになって、縁起ができたわけです。
  
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ところが、弘法大師信仰に転換してから、このお寺の奥の院は二分されました。

  現在の三角寺の奥の院は、龍王山の反対側にあって龍がいるということから仙龍寺という名前になっています。仙龍寺は、四国霊場全体の総奥の院とも称しています。しかし、現在の仙龍寺のもっと上には奥の院址があります。ここがもともとは仙龍寺と三角寺の共通の奥の院でした。共通の奥の院には、水源信仰があったことが推定されます。水源神として雨沢龍王がまつられ、その本地は十一面観音でした。雨沢龍王は龍王山の龍王です。けれども龍王は荒れやすい神なので、これを鎮めるための護摩が焚かれて、いつしかそれが水を与え、農耕を護る水神へと姿を変え今に伝わる縁起ができたと考えられます。


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旧奥の院がもとの辺路修行の霊場で、行場はもっと下の現在の仙龍寺辺りにあり、そこまで行者は滝行や窟寵りをしていました。
  そして次第に、行場も仙人堂を建て仙龍寺として独立して、さらに谷川の上に舞台造りの十八間の回廊を建てて宿坊化していきます。いま仙龍寺の大師は作大師として米作の神となっているのは、旧奥社以来の水源信仰があったからです。
時代が下ると、平石山の嶺を越えてくる遍路の便を図って、北側山麓の弥勒菩薩をまつる末寺の慈尊院へ本地仏十一面観音を下ろします。そして、龍王を調伏するための三角の護摩壇が作られいろいろなお宮やお堂が並ぶようになります。こうして、今までの慈尊院が三角寺と呼ばれるようになります。
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つまり、仙龍寺も三角寺も旧奥の院から独立し、里下りしたお寺さんなのです。
ところが、仙龍寺と三角寺が仲たがいをして、奥の院と里寺との関係を断ち切ってしまいました。


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